集団的自衛権の合憲性の誤解 1

 



合憲論拠の不備

 「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」について、合憲と考えている論者の論拠を確認し、その内容の不備を明らかにしていきたいと思う。



 下記は、このページの内容である。記事によっては必ずしも合憲と述べているわけではないが、解説を記した。赤字は、安保法制懇のメンバーと重なっている人物である。青字も人物が重なっている。



集団的自衛権の合憲性の誤解 1


百地章 西修 長尾一紘 櫻井よしこ 大石眞 井上武史 篠田英朗 石破茂 高村正彦 三浦瑠麗 佐藤正久 岡崎久彦 葛西敬之 北岡伸一 坂元一哉 佐瀬昌盛 中西寛 細谷雄一 村瀬信也 柳井俊二 鈴木潤 北村晴男 福田博 小林宏晨 香田洋二 小川和久 林彥宏 本間剛 杉山幸一 渡邊亙 平山朝治 鈴木英輔 會津明郎 小森義峯 田上嘉一


集団的自衛権の合憲性の誤解 2  ⇒リンク


公明党 北側一雄 遠山清彦 山口那津男 斉藤鉄夫 漆原良夫 伊佐進一 佐々木さやか  平木大作 大口善徳 河野義博 矢倉克夫 秋元大輔 松田明 竹内行夫 添谷芳秀 浜谷英博 森本敏 森田実 渡部恒雄 田口聡 浅野善治 山下輝男 西川佳秀 棟居快行 東裕 宮家邦彦 長谷川幸洋



集団的自衛権の合憲性の誤解 3  
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自由民主党 礒崎陽輔 岩谷毅 菅義偉 岸田文雄 河野太郎 山本順三 大野敬太郎 平井卓也 木原誠二 務台俊介 齋藤健 赤沢亮正 坂本哲志 西村康稔 中谷元 田村重信 長島昭久 緒方林太郎 上原広 舟槻格致 高橋洋一 中西輝政 山岸純 高橋淳 伊藤哲夫 岡田真理 篠山半太 木村正人 テイジン 屋山太郎 藤田宙靖 複数名 Wikipedia 加藤成一 長谷川豊 その他


集団的自衛権の合憲性の誤解 4
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防衛白書 首相官邸 政府答弁書 内閣官房/内閣法制局 内閣官房 政府高官 読売新聞 山元一 南野森 黒江哲郎 岩本誠吾


安保法制懇の間違い
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(安保法制懇の「報告書」作成メンバー)
岩間陽子 岡崎久彦 葛西敬之 北岡伸一 坂元一哉 佐瀬昌盛 佐藤謙 田中明彦 中西寛 西修 西元徹也 細谷雄一 村瀬信也 柳井俊二



基本的な論理 1
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安倍晋三


基本的な論理 2
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横畠裕介



基本的な論理 3
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中谷元



基本的な論理 4  ⇒リンク


稲田朋美 岩屋毅 岸田文雄 左藤章 高村正彦 北側一雄 古屋圭司 平沢勝栄 國重徹 山下貴司 中谷元 遠山清彦 岡田直樹 北村経夫


 こちらのページの内容は、下記のページを先にお読みいただくと理解しやすくなると思います。





百地章

 集団的自衛権行使の合憲性について、日本大学の百地章が解説しているようなので、内容を見てみよう。


「集団的自衛権行使の合憲性について」 日本大学教授 百地章  (←こちらを下記で解説)

 集団的自衛権の行使について、明確な合憲性の論拠を示している者はほとんどいない。そのため、ここで箇条書きのリストを公開していることは、ありがたい。

 しかし、その内容を詳しく見てみると、やはり、以前から様々な媒体で指摘されているように、論拠の不備が見られる。詳しく解説していこうと思う。


 下記は、「集団的自衛権行使の合憲性について」のリストの箇条書き番号に合わせて内容の妥当性を解説した。照らし合わせながらお読みいただければと思う。

 この合憲性の論拠とされるリストについて、論者の理解の不足部分を指摘する際に、同じような内容が何度も繰り返し出てくることを予めご了承願いたい。ただ、そこをしっかりと理解いただければ、この合憲論者の理解の不十分な部分について明らかとなるはずである。



「集団的自衛権行使の合憲性について」 
 日本大学教授 百 地  章



結論

⇒「集団的自衛権」について「保有は認められる」との記載がある。これは「日本国も国際法上は集団的自衛権を有しているが、日本国憲法上の制約により行使することはできない」との論点に関するものである。まず、「集団的自衛権」という概念は、国際法上の主体(法主体:国家や国際機関)に対して与えられる違法性阻却事由の『権利』の概念である。日本国も国家承認を受けて成立した主権国家である以上、国際法上は「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることは当然である。しかし、この「集団的自衛権を行使する」とは、国家が行った「武力の行使」に対して国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に抵触して国際法上の違法性を問われるところを、国連憲章51条の「自衛権」という『権利』を行使することでその違法性を阻却することを意味するものであり、実質的には国家による「武力の行使」が行われている状態を指すものである。日本国憲法は、この日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われることを制約しており、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たした中においてしか「武力の行使」を行ってはならず、これによって「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことが許されないとされてきたのである。

 「集団的自衛権の『行使』を『限定的に容認』」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』の中には存在しない。そのため、「集団的自衛権」という『権利』を「限定的に容認」という直接的な意味は、あたかも日本国の統治権の『権限』に対する制約である9条の規定が、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約していることを前提としているかのような表現となっており、妥当でない。もともと9条は「集団的自衛権」という『権利』そのものを制約していないのであり、禁じていないものを「容認」することはできず、「限定的に容認」との論理は成り立たない。また、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的なもの」と「限定的でないもの」が存在するかのように考えている部分も誤りである。さらに、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について「限定的」なものと考えているのかもしれないが、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「限定的」と称したところで合憲になるわけではない。そのため、これを満たさない中での「武力の行使」が「限定的」と称しても違憲であることに変わりなく、「容認」されない。2014年7月1日閣議決定の内容は論理的整合性が保たれておらず、これに基づいて「容認」されたとする主張は成り立たない。


⇒ 国連憲章51条には「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」と記載されており、「集団的自衛権」は違法性阻却事由の『権利』であることを示している。この「固有の権利」の文言は、国際法上の主体(法主体)に対して与えられる『権利』であることを示したものであり、この文言を根拠として日本国の統治権の『権限』の中に「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行う『権限』が付与される意味は含まれていない。

 ただ、確かに国際法上、日本国も他国と同様に国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使する『権利』は与えられており、「武力の行使」を行った場合に国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を阻却することは可能である。


国連憲章


2条

1項 この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている


4項 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない

第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。



 しかし、日本国憲法においては、9条の主語である「日本国民」が「放棄」し、「不保持」とし、「否認」した部分については、国家の統治機関に対して行われる「厳粛な信託(前文)」という国民主権原理の過程においてもともと『権限』を授権されていない。これにより、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)は9条に示された部分は初めから『権限』が発生しておらず、9条のような規定を持たない他国と比べて行使されうる潜在的な『権限』の幅が小さい。そのため、国際法上の主体(法主体)に対して「固有の権利」が与えられていたとしても、これが行使されるか否かは、統治権の『権限』の幅に依存することとなる。

 よって、国際法上において日本国が主権国家として「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使する幅を与えられていることは確かであるが、日本国の統治権が「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」の『権限』を行使することができることは当然とは言えない。それは、日本国の統治権の『権限』が、国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」を実施する『権限』を有しているか否かについての問題である。これは、国民から「厳粛な信託(前文)」を受ることによって発生する正当性を有した『権限』が存在するか否かによるものである。


⇒ 9条には「集団的自衛権」を「禁止」したり「制約」したりする明文の規定は存在していないとの記載がある。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、憲法9条が制約しているものが日本国の統治権の『権限』であることから、9条が「集団的自衛権」という概念を直接「禁止」したり、「制約」したりしていないことは当然である。9条は、主語である「日本国民」が国民主権原理の過程で国家に対して「厳粛な信託(前文)」が行われる際に、授権しない『権限』を示す規定なのである。9条は、1項で「国際紛争を解決する手段として」の「戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を、2項前段で「陸海空軍その他の戦力」を、2項後段で「交戦権」を禁じており、日本国の統治権(9条の文言で言えば国権)(三権:立法権・行政権・司法権)の『権限』を直接「禁止」「制約」している。

 

 ただ、「集団的自衛権」が行使されることは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を阻却するために『権利』が行使されることを意味することから、実質的に国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている状態を指す。9条は日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われることを制約していることから、「集団的自衛権の行使」として為される「武力の行使」について、9条が禁じている範囲に該当するか否かが問われることとなる。

 憲法9条が「集団的自衛権の行使」を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定が存在しないとしても、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している以上は、それをもって「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことが明らかであるとは言えない。そのような論旨は、9条が「武力の行使」を制約していることを理解できていないことと、国際法上の『権利』と憲法上の『権力・権限・権能』の違いが理解できていないための誤りである。論理的整合性がなく、意味が通じていない。そのため、「当然」でも、「明らか」でもなく、これをもって日本国が「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」が可能であるとするとする根拠にはならない。


⇒ 砂川事件最高裁判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、砂川事件判決が、日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことを射程に入れた判断であるとの事実はない。日本国も主権国家として国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有するとしても、その国際法上の「自衛権の行使」に該当する国家の統治権の『権限』によって発せられる「必要な措置」は、その国家の憲法上の制約に服することとなる。砂川判決は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げたに留まり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否について何も述べていないため、砂川事件判決を根拠として日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができることにはならない。

⇒ 憲法9条2項が「戦力の不保持」や「交戦権の否認」を定めていることから、その限りで日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)の『権限』が「制限」されるわけであり、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』が制限されるわけではない。この点、国際法上の主体(法主体)に付与される『権利』と、国内法上で憲法によって正当化される『権力・権限・権能』を同一の法体系のものであるかのように読み解いている点で混乱が見られる。

 「『限定的容認』にとどめられた」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという区分は存在しない。そのため、通常の「集団的自衛権」に分類されることとなる。また、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」についても、「限定的」と称するだけで9条の制約を免れることができるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」しか許容しておらず、これを満たさない中での「武力の行使」についてはたとえ「限定的」と称しようとも違憲であり、容認されない。あたかも「容認」されたかのように説明している部分が誤りである。

 9条2項が、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を直接的に制約しているかのような論旨であれば、意味は通じていないため誤りである。また、これは「政府の新見解」が「憲法9条の枠内の変更」であるとの主張に繋がるものではないため、誤りである。「政府の新見解」とは、2014年7月1日閣議決定のことであるが、この2014年7月1日閣議決定の文面は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提としており、その1972年(昭和47年)政府見解に記載された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味していることから、2014年7月1日閣議決定がここに「我が国と密接な関係に対する武力攻撃」の意味も含まれると主張していることは論理的な誤りがある。これにより、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めようとした2014年7月1日閣議決定の内容は法解釈として成り立っておらず、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を逸脱し、9条に抵触して違憲となる。「憲法9条の枠内の変更」とは言えず、論者が「全く問題ないし、憲法には違反しない。」と考えていることは誤りである。




1、 衆院憲法審査会における参考人の見解について


① 

⇒ 参考人の説明について、「なぜ憲法違反なのか、あまり明確な説明がなく、よくわからない」「その説明にも疑問がある」とあるが、それは聞き手であるこのリストの論者者自身が、国際法と憲法の法分野の違いによる切り分けや、『権利』と『権力・権限・権能』の違いを明確に理解できていないことが原因と思われる。できるだけ、法学の大前提となっている事柄を捉え直していただきたい。


② 

⇒ 2014年7月1日の政府見解は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分をそのまま維持していると説明しようとしている。この「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言から、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が導き出されるかどうかが論点である。この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を用いた違憲審査の方法は、「存立危機事態」での「武力の行使」を9条が直接的に制約しているか否かという論点とはやや意味が異なるのである。これは、9条解釈の「芦田修正説」を採用した場合には「存立危機事態」での「武力の行使」が合憲となる可能性も考えられないでもないが(9条1項の制約範囲がいかなるものであるかという論点が前提として存在するが)、現在の政府解釈の前提となっている「芦田修正説」とは異なる解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言からは、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を導き出すことができないことから、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるというものである。この点、このリストの論者は区別できていないと思われる。
 「法的安定性」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると説明することには論理的整合性がなく、論理的整合性がない主張を行うことは「法的安定性」を損なうことによって発生する問題である。
 「外国の軍隊の武力行使との一体化」については、一体化した場合、従来より政府が「武力の行使」を行う場合に課していた「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の制約を超え、9条1項の禁ずる「武力の行使」や2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」、2項後段の禁ずる「交戦権」に抵触することによる違憲の論点である。

 

③ 

⇒ 2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提として維持していると主張している以上は、「従来の政府見解の枠を超える」だけで十分に違憲と判断される理由となる。2014年7月1日閣議決定自体が、憲法の9条解釈の枠組みとして、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしているのであるから、その前提を自ら超え出ていることが、9条に抵触して違憲となるのである。その説明は見当たらないのではなく、論者が2014年7月1日閣議決定で示されている前提が理解できていないものと思われる。また、「芦田修正説」の解釈方法は法解釈として妥当性を欠くことが指摘されており、「芦田修正説」を採用できないとの前提の中で規範を枠付けるとすれば、1972年昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)のように、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が許されるとは考えられず、「存立危機事態」での「武力の行使」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」も憲法の枠を超えると考えられるのである。さらに、9条1項は日本国の統治権の『権限』を制約する憲法規定である。これは現在の「集団的自衛権」という『権利』の概念を定めている国連憲章が改正され、「集団的自衛権」の区分が失われたり、国連憲章そのものが廃止されたとしても効力を有する規定である。このことから、もともと9条1項の制約範囲は国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の区分の存否やその範囲に関係なく独自の制約範囲を有していることを意味する。このことから、日本国の統治権の『権限』を制約する日本国独自の規定である9条が、また、前文が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」、「全世界の国民」の「平和のうちに生存する権利を有することを確認」し、その「平和主義」の理念を具体化した規定である9条が、「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」を許容しているとは到底考えられない。なぜならば、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階では、未だ他国間に紛争が発生しただけであり、この段階で「武力の行使」を行った場合、日本国が他国の紛争に武力介入することになることから9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触するからである。また、他国間の武力紛争に介入するか否かを我が国政府が独自に決定するのであれば、それは前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意」し、その理念を具体化する意味で9条の制約を設けている意義を損なうのであり、9条の制約の意図に明らかに反するからである。さらに、前文が「全世界の国民」の「平和のうちに生存する権利」(平和的生存権)を確認し、保障しようとする趣旨からは、他国間の紛争のどちらかの側に立って「武力の行使」を行うことや、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわず「武力の行使」を行うことは、「全世界の国民」の「平和のうちに生存する権利」を脅かし、あるいは奪うことになるのであり、これを防ごうとした9条が「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」、具体的には「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中での「武力の行使」を許容しているとは到底考えることができないのである。このことから、「従来の政府見解の枠」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を超えるだけでなく、9条の制約そのものを超えることが明らかであることから、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。

 「法的安定性」について、この2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提としており、ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これが「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、政府が「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」がここに含まれると主張していることは、論理的整合性が存在していない。そのため、「法の解釈、適用が客観的であること」を求められる法的安全・法的確実性を損ない、「法的安定性」が損なわれている。法解釈として成り立っていないのである。



 「法的安定性」(法的安全・法的確実性)(参考:ブリタニカ国際大百科事典)

>法による社会秩序がもたらす社会生活の安定という価値

>法それ自体の安定からもたらされる法価値

  1. 法が実定法であること

  2. 法はその法の解釈、適用が客観的であること

  3. その法の実効性があること

 法的安定性は法の目的であり、法が追求すべき正義、衡平などの公示の諸目的を達成するために、まず実現すべき卑近な第一次的な目的とされる。


⇒ (武力行使の一体化について) 

⇒ 9条2項が禁じているのは、日本国憲法によって生まれる日本国の統治権の『権限』であり、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』ではない。また、政府が従来より「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持できるとしていたのは、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)の基準の範囲内の実力組織のことである。この旧三要件の範囲内の実力組織であれば、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」には抵触しないと説明していたのである。また、この「自衛のための必要最小限度」の範囲内であれば、「自衛行動権」の範囲内であるとして、9条2項後段が禁じる「交戦権」とは異なるものであると説明していたのである。確かに、政府は国際法上の「自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「自衛行動権」の行使として「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる旧三要件の範囲内で「武力の行使」を行う場合に、「相手国兵力の殺傷及び破壊等」を行うことは許されると解しており、これは9条に抵触しないと説明されていた。しかし、2014年7月1日閣議決定によって「旧三要件」が「新三要件」に変更されたことにより、この説明は成り立たなくなった。まず、「旧三要件」の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」であるが、これは1972年(昭和47年)政府見解の結論部分の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分と一致するものである。この「武力の行使」の限界の規範を示した部分は、その直前の文の「自衛の措置」の限界を示した規範を受けて確定されたものであるから、「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し」に対応するものである。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の冒頭に記載された「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する中で用いられた文言であることから、「集団的自衛権の行使」を可能とする余地が生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれていない。そのため、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、新三要件の第一要件である「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはない。これにより、新三要件の第一要件の「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため違憲である。また、この違憲な要件を含む「新三要件」を実施するための「実力組織」についても、当然に違憲となる。さらに、「新三要件」の「存立危機事態」の要件は、「他国に対する武力攻撃」に起因する形で「武力の行使」を行うものであり、『他国防衛』の意図・目的を有すると考えることが妥当である。『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する組織が「陸海空軍」とは区別された異なるものと説明することは意味が通じず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。政府は『自国防衛』のためであると説明しようとしているが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、たとえ『自国防衛』の意図・目的であるとしてもそれだけでは「武力の行使」が違憲にならないと説明することはできない。さらに、政府は「存立危機事態」での「武力の行使」が国際法上では「集団的自衛権」が根拠となる場合があると説明している。「集団的自衛権」を得るためには『武力攻撃を受けた他国からの要請』が必要となり、この『他国からの要請』が存在しなければ「集団的自衛権」には認定されないことから、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を実施する場合には、必ず『他国防衛』の意図・目的を含むものということになる。加えて、「新三要件」は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(第一要件・存立危機事態)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であり、これを『他国防衛』の意図・目的がないと説明することはできない。これらのことから、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する実力組織が「陸海空軍」に該当しないとする説明は意味が通じず、9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。他にも、「存立危機事態」の要件が「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を実施するということは、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を実施するものであり、我が国が自国の利益を追求するために「武力の行使」に踏み切ったり、政権への支持率向上や軍需拡大による経済対策などの政権の政治的な事情によって政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する基準を有しないものである。このような「他国に対する武力攻撃」が発生したことに起因してあたかも政府に「武力の行使」に踏み切るか否かを裁量判断として託されることを前提とする基準を定めることは、我が国の受動的な行動ではなく、我が国に対して武力攻撃を実施したわけではない他国に対して我が国の政治的意思を実現するために「武力の行使」を用いることを意味するのであり、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」だけでなく、9条2項後段が禁じた「交戦権」に抵触して違憲となる。

 これにより、9条1項、2項前段、2項後段の下では、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできないし、これを行使する「実力組織」を保持することもできないし、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うこともできない。

 9条が国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を妨げる性質を有していないことはそのとおりであるが、日本国の統治権の『権限』を制約していることにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を実施することはできないのである。論者には国際法上の『権利』と憲法上の『権力・権限・権能」の違いに関して混乱が見られる。


⇒ (特にここで述べることはない。)


⑦ 

⇒ ここで言う「従来の定義」とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分のことであり、2014年7月1日閣議決定の文面がそれ維持していることを前提としているにもかかわらず、結論としてあたかも「存立危機事態」での「武力の行使」が可能となるかのように主張しているところが論理的に無理であり、「踏み越えてしまった」との説明になっているものと思われる。これは、憲法違反の説明として意味が通じているため、論者が「憲法違反の説明になっていない」というのは、この論点を理解できていないことによるものと思われる。




2、集団的自衛権行使の合憲性について

(1) 集団的自衛権とは?

⇒ (ここで特に述べることはない。)

⇒ (ここで特に述べることはない。)

③ 

⇒ 正当防衛が刑法上の主体(法主体)に与えられる違法性阻却事由であることと同様に、国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」も国際法上の主体(法主体:国家や国際機関など)に与えられる違法性阻却事由である。日本国も国家として承認されており、国際法の適用を受ける主体として認められていることから、この違法性阻却事由の『権利』を行使する地位が与えられている。ただ、その『権利』を行使するかどうかについては、国内法である憲法上で発生した統治権がそれを行使する正当な『権限』を有しているかどうか、また、統治権の『権限』を有している場合に政策上行使するかどうかの問題である。9条の「日本国民」が放棄した『権限』については、国民主権原理によって初めて発生する日本国の統治権の『権限』としてもともと発生しておらず、行使することはできないのである。

 刑法で言うならば、刑法上の主体である個人(自然人)の正当防衛の『権利』について、何らかの理由で行使しないことも当然可能である。もし、正当防衛の『権利』を必ず行使しなければならないなどという刑法が立法されたならば、憲法13条の自由権、幸福追求権の侵害、19条の思想良心の自由の侵害などに該当し、違憲立法となる。正当防衛の『権利』に該当する行為をするかどうかは、個人の自由な判断として憲法上保障されているのである。(道路交通法において、運転者に事故時の救護義務が課せられているなどの場合は、自由が制限されうることもあることに注意。)

 民法で言うならば、民法上の主体(自然人・法人)が双務契約を締結した場合に有する「同時履行の抗弁権」などの『権利』を、行使するかしないかは、本人の自由である。

 同じく、国際法上の主体(国家・国際機関など)に付与される「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』を、国家の統治権の『権限』が行使しても行使しなくても全く自由である。ただ、日本国の場合は、憲法9条が統治権の『権限』を制約しているので、統治権の行動の範囲が本来的に限られていることから、結果として国際法で行使可能な『権利』を自国の行動規範によって行使できない場合が存在するということである。



第五章 国家の国際責任

 C 国際的な義務違反を行っても責任が問われない場合

 ある国家による国際法上の義務違反行為であっても、特定の事情があれば、例外的に違法性が阻却される場合がある。これを違法性阻却事由といい、同意、自衛、対抗措置、不可抗力、遭難、緊急避難がある(国家責任条文1部5章。なおユス・コーゲンス(強行規範)に違反した行為については、阻却事由に該当する場合でも、違法性は阻却されない(26条)。また違法性阻却事由を援用した場合でも、違法性を阻却する事由が存在しなくなった場合には、国は義務を遵守しなければならない。

 

[1]同意

(略)


[2]自衛

 条約上も一般国際法上も、国家は自衛権を有している。「国際連合憲章(国連憲章)」においても、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(51条)と定める。国の行為が、適法な自衛権の行使である場合には、違法性が阻却される(国家責任条文21条)。


[3]対抗措置

(略)


[4]不可抗力

(略)


[5]遭難

(略)


[6]緊急避難

(略)

Next 教科書シリーズ 国際法 渡部茂己・喜多義人 編 弘文堂 平成23年5月30日 初版 (下線・太字は筆者)

( 国際法<第3版> (Next教科書シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/1/22 amazon)


⇒ 他人に発生した急迫不正の侵害について、自分自身がそれを正当防衛として攻撃者に抵抗すると、それによって自分も喧嘩に巻き込まれてしまうかもしれないことなどを理由として、正当防衛を行わないことも可能である。正当防衛にあたる行動をするか、しないかについては、憲法上13条の自由権や幸福追求権、19条の思想良心の自由などでその自由が保障されている。

 同じように、国際法上「集団的自衛権」という『権利』を行使する地位が与えられているからと言って、日本国の統治権の『権限』が国際法上の「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」を必ず行わなければならないというものではない。国際法上の「集団的自衛権」に該当する部分の「武力の行使」を日本国の統治権の『権限』が行うかどうかは、その国の統治権の範囲で判断する自由を与えられている性質のものであり、その統治権が憲法によって制約をかけられているとしても、なんら不思議ではない。


⇒ 自分が攻撃されたのか、他人が攻撃されたのかは区別されるものである。また、「集団的自衛権」が認定されるためには『武力攻撃を受けた他国からの要請』が求められており、明確に区別されるものである。

⇒ 法学上は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に該当するかどうかの問題である。そのため、「アメリカに追従して地球の裏側まで行く」のかどうかなど、政策論上の問題は合憲論拠とは関係ない。

 9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠組みは、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」、ここでいう「自国に対する武力攻撃」がなければ「武力の行使」を行ってはならないとするものである。これを満たさない中での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となるのであり、「『自国に対する武力攻撃』とみなせるような場合」などという「みなせる場合」と称するものも、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていないのであれば違憲である。

 「放置すれば日本の存立を危うくするような場合」との部分であるが、これは「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分のことであるが、これに該当するか否かという問題は、もともと何を指しているのか曖昧不明確な概念であり、具体的場合にこれを適用できるか否かを示す基準となるものがないものである。そうなれば、実質的には政府の数量的な感覚(感覚)によって「武力の行使」を行っても良いか否かを判断することになるのであり、この要件の範囲内で「武力の行使」を行うことが9条に抵触しないことを前提としているのであれば、実際には9条に抵触するか否かそのものが政府の主観的な判断によって決せられることになるのである。そうであれば、政府の政治的な事情によってこの要件に適合するか否かの判断や、9条に抵触するかしないかの基準が変わることになり、9条が存在するにもかかわらず、「武力の行使」を発動できるか否かの基準は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した時点で政府の自由裁量行為となることを意味する。このような基準を設定することは、政府の自国都合による「武力の行使」が行われることを制約することができず、9条の趣旨を満たさないものであり、9条の規定が設けられている意図に反する。「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過していないのであり、この中で「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」との状態に該当すると判断しようとしても、もともと曖昧不明確であり、具体的場合にこれを適用できるか否かを識別するための基準が存在しておらず、政府の恣意的な行為を制約する基準となるものが存在しないのであるから、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲である。

 「『必要最小限度の自衛権の行使は可能』としてきた従来の政府答弁」であるが、従来から政府が「必要最小限度」の言葉を用いて説明してきたのは「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と読んでいた三要件(旧)に基づく「武力の行使」のことである。これを国際法上の観点から見ると、「自衛権の行使」として認識できるというものである。「自衛のための必要最小限度」という基準が旧三要件に基づく基準であることから、これを「新三要件」に変更し、「存立危機事態」の要件を加えているのであるから、従来の政府答弁との整合性は保たれていない。論者が「必要最小限度」と認識しているものは、9条の制約があたかも数量的な意味の「必要最小限度」という基準であるかのような前提認識を有しているようであるが、誤りである。


(2)

⇒ ここで論者が示している内容自体には誤りはない。ただ、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」というのは、国際法上の主体(法主体)に対して与えられている国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由の『権利』を示したものである。これは、各国の憲法において成立した統治権に新たな『権限』を付与する意味を持たない。確かに日本国も他国と同様に国際法上の主体(法主体)として国連憲章の適用を受けており、この「集団的自衛権」という『権利』を行使する地位を与えられている。しかし、この国際法上の「固有の権利(自然権とも)」と呼ばれている『権利』を行使するか否かは、憲法によって正当化され、発生している国家の統治権の『権力・権限・権能』によって決せられる。「日本国民」は9条によって統治機関に授権していない部分を定めており、9条に示された部分については、日本国の統治権としてもともと発生していない。そのため、9条に示されている部分はもともと日本国の統治機関は行使することができない。9条に該当する行為であれば日本国の統治機関は行うことができないことから、たとえ国際法上においての「集団的自衛権」という『権利』を行う地位を有しているとしても、行使することはできない。9条に該当する行為であれば、「個別的自衛権」についても同様である。

 論者は9条の規定の意味を国際法を基準にして理解しようと試みているようであるが、法源が異なるし、法分野も異なるし、『権利』と『権力・権限・権能』も異なるため、意味が通じない。それは、国際標準ではなく、単なる理解の混乱である。

⇒ 国際法上の「領土権」と言われるものは、「主権国家の固有の権利である」というところまでの主張は正しい。しかし、それは「憲法に規定がなくても当然に認められる」というところに、理解の混乱が見られる。上記でも指摘したように、国際法上の「固有の権利」とは、国際法上の主体(法主体:国家や国際機関など)に対して与えられる地位である。この地位が与えられたとしても、各国の憲法によって発生する統治権の『権力・権限・権能』の範囲には影響を与えない。つまり、国際法上の主体として国家と認められているのであれば、国際法上の「固有の権利」はすべて認められるのであり、各国の憲法上において、領土に関わる国家の統治権の『権力・権限・権能』を制限する規定がない限りは、その国際法上の『権利』を国際法上フルで主張し、行使することは可能である。

 この点、論者がなぜ国際法上の『権利』を行使する際、国内の憲法上に明記されていなければそれを行使できないと主張する人がいるかのような前提で話を進めようとしているのか理解に苦しむ。誰もそのような前提には立っていないと思われる。この論理は、国際法と憲法の法分野の違いや『権利』と『権力・権限・権能』の違いを理解できていない誤りである。論者自身の理解の不備によって、存在しない敵と戦おうとしているように見える。


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「主権には対内的と対外的の二つの側面がある。対内的には、国家権力が国内において最高絶対のものであること、あるいはそのような性質を有する国家権力そのものを意味する。つまり、国家がその領域内において原則として排他的な自由な統治を行いうる権能をもっていることを示すもので、この場合の主権は統治権とか領域権とか呼ばれるものと等しい。
*香西茂・太寿堂鼎・高林秀雄・山手治之『国際法概説〔第四版〕』(有斐閣、2001年)57頁〔山手治之〕
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憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その2)――「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか 2017年10月18日 (下線・太字は筆者)

 この資料にあるように、「主権」の言葉に「統治権(国家権力そのもの:日本の場合は立法権・行政権・司法権)」とか「領域権」の意味あるのである。つまり、国民主権原理による憲法で立法権・行政権・司法権が授権された時点で、「統治権」が生まれており、それは国家権力そのものであり、「領域権」を持っているのである。これが主権である。その主権は、対内的に他のいかなる権力主体に対して優越しており、対外的にもその国家権力が他のいかなる権力主体からも意思形成において制限されず独立しているのである。


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『主権』

英語sovereigntyの訳語で、政治学国際法学上の概念であるが、相互に若干の差異がある


政治学的には統治権または国権と同義で、国家がその領土およびその領土内のあらゆる集団や個人を支配する最高絶対の権力で、他のいかなる法的制限にも服さないとされる。また国家の最高意思のあり方としての権力をいい、その権力が何に属するかによって国民主権、君主主権、団体主権などとも呼ばれる。


国際法学では、国家の基本権のうち最も重要なもので、最高独立にして絶対の国家権力であり、自衛権・生存権・独立権・領土権などはすべて主権の一側面と考えられる。
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「百科事典マイペディア」より (下線・太字は筆者)

 9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』の発生を制約している。これは、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)が国民から「厳粛な信託(前文)」を得た正当な『権力・権限・権能』を有しているか有していないかの問題である。国際法上の『権利』を有することが、国家に『権力・権限・権能』を発生させる根拠であるかのような認識を前提としている部分は、誤った認識である。


② 

⇒ 「固有の権利」は、国際法上の主体(法主体)に与えられる地位である。国家間で結ばれた条約や国連憲章などの国際法が、各国の統治権に対して『権力・権限・権能』を授権するかのような主張は論理的整合性がなく誤りである。国連憲章51条の「集団的自衛権」についても国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由を示しているだけである。これは各国に『権力・権限・権能』を付与あるいは発生させる意味を持っていない。日本国憲法9条が行使を「禁止」「制約」しているのは、日本国の統治権の『権力・権限・権能』であり、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の概念やそれを行使する国際法上の地位ではない。9条が制約しているのは日本国の統治権の『権力・権限・権能』であり、国際法上の『権利』を制約していない。論者の主張は法分野の切り分けができていないことによる混乱と思われる。


⇒ 9条は、国内の統治権(立法権・行政権・司法権)の『権力・権限・権能』を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定を持っている。その統治権が制約されることによって、国際法上で行使できる『権利』が行使できない(行使する機会がない)場合があるか否かという問題である。そのため、国際法上の『権利』を憲法が直接「禁止」「制約」しなくとも、憲法が国内の統治権の『権力・権限・権能』を制約することによって、国際法上の『権利』が行使できない(行使する機会がない)としても不自然ではない。

 日本国が国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使する地位を与えられていることは、国連憲章51条から明らかである。しかし、この規定は日本国の統治機関に『権力・権限・権能』を付与する意味を有していない。国民主権原理を採用している日本国憲法の下では、日本国の統治機関は国民からの「厳粛な信託(前文)」による授権によって『権力・権限・権能』が発生し、付与されるのであり、その正当性の法源は国民にある。国際法を法源として、日本国の統治権の『権力・権限・権能』が正当付けられるわけではない。

 日本国憲法は9条によって日本国の統治権の『権力・権限・権能』の一部を「禁止」「制約」しており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)を採用する限りは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて禁じられており、国際法上の「集団的自衛権の行使」として行われる「武力の行使」はこれを満たさないため、違憲となる。よって「集団的自衛権」を行使することはできない。論者は「集団的自衛権を『行使』しうることは明らかである。」と主張するが、日本国も国際法上「集団的自衛権」を行使する地位を与えられていることは確かであるが、日本国の統治権が1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によって「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が禁じられているため、「集団的自衛権の行使」は行うことができない(行う機会がない)のであり、論者が「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動できるかのような認識で説明している部分は誤りである。


⇒ 憲法9条は国際法上の『権利』を制約しているのではなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している。そのため、憲法に「集団的自衛権」という『権利』を制約する「明確な禁止規定がない」としても、憲法上に日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する「明確な禁止規定」が存在するのであり、この「武力の行使」が可能な範囲を確定する9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に基づけば「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができないのである。


(3) 

⇒ 砂川事件最高裁判決は、日本国が有する国際法上の「自衛権」という『権利』を9条が否定していないと述べたことはそのとおりである。砂川判決は「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と述べている。しかし、国際法上の『権利』である「自衛権」を有しているとしても、日本国が行うことができる「自衛の措置」については「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げたにとどまり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、これは国際法上の「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行う場合を射程に入れた判決であるとは言えない。論者の砂川判決を根拠にして憲法違反の問題はクリアできているとする主張は妥当でない。


(4)

⇒ 日本国が国連憲章51条の適用を受けることによって、国際法上「集団的自衛権」という『権利』を行使する地位が与えられていることはその通りである。しかし、国際法上の「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるか否かについては、9条解釈によることとなる。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなるため9条に抵触して違憲となる。

 最高裁は、砂川事件判決において「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことを認めたという事実はない。日本国が「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことが憲法上明らかであるとの主張は誤りである。

 「政府の新見解は、何ら問題ない。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしているが、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると主張するのであれば、冒頭の「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする文言と論理的整合性が取れなくなるのであり、意味が通らない。このような主張を行うことは、31条の「適正手続きの保障」の観点からも違憲となる。「何ら問題ない」との主張は誤りである。


(5)

⇒ 9条2項の「戦力不保持」と「交戦権の否認」は、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)を制限しているわけであり、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を直接的に制限する性質を有しない。そのため、9条2項が国際法上の「集団的自衛権」という『権利』に対して直接制約をかけているかのような認識は誤りである。

 「政府の新見解」である2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながら、この「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張することによって、「存立危機事態」での「武力の行使」を9条の下でも許されると結論付けようとするものである。2014年7月1日閣議決定によれば、この「存立危機事態」での「武力の行使」が国際法上「集団的自衛権」を根拠とする場合があると述べているのである。しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「自衛の措置の限界」の規範を示したものであり、冒頭で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明しているのであるから、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはない。そのため、9条の枠を示す1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件が当てはまらないということは、政府の新見解は憲法9条の枠内の変更」とは言えないのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。9条解釈として政府自身が設定している違憲審査基準の枠から逸脱することにより、憲法違反となっているのである。論者の「政府の新見解は憲法9条の枠内の変更であって、全く問題はないし、憲法に違反しない」との主張は誤りである。




3、政府見解の変更について


(1)

⇒ その通りである。

(2)政府見解の変更は許されないのか?

⇒ その通りである。

ⅰ)

⇒ 政府解釈を変更できることは当然であるが、条文の枠内である必要があるし、論理的整合性が保たれていなければならない。そうでなければ、法解釈として成り立たないからである。2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとしながら、ここに当てはまるはずのない「存立危機事態」の要件を定めようとしている点で論理的整合性がないため、法解釈として成り立っていないのである。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。論者は問題となっている論点が理解できていないように思われる。

ⅱ)
⇒ 政府解釈を変更できることは当然である。その政府解釈の論理的整合性が問題となっているわけである。

ⅲ)

⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ (ここで特に述べることはない。)

⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ 安保法制懇の報告書の誤りについては、当サイト「安保法制懇の間違い」のページで解説した。論者は「その報告を受けて、政府見解を変更したものだが、」と説明しているが、2014年7月1日閣議決定の内容はこの安保法制懇の報告書の解釈を採用していないため、その報告を受けた形にはなっていない。

 論者は「『憲法9条の枠内』での変更」と述べているが、2014年7月1日閣議決定の論旨の前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を採用しており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は当てはまらない。この点、2014年7月1日閣議決定の内容は論理的整合性が保たれておらず、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分の枠を逸脱し、9条に抵触して違憲となる。論者は「何ら問題ない」と主張しているが、違憲であるため「問題ない」とは言えない。



(3)

⇒ 「なぜ、憲法の枠内での、正当な手続きを踏んだ『政府見解の変更』が立憲主義の否定になるのか」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると主張しており、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれていると主張していることは論理的整合性がなく、「正当な手続き」とは言えない。「政府見解の変更」が行われること自体は何ら問題がないが、論理的整合性が保たれていない解釈は解釈手続きの適正が確保されていないのであり、31条の「適正手続きの保障」の観点や、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、法治主義、立憲主義、法の支配の理念に反し、違法である。結果として、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠から逸脱するのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。論者は2014年7月1日閣議決定の内容に論理的整合性が保たれていないにもかかわらず、「正当な手続き」と考えている点で誤りであるし、この誤りが「立憲主義の否定」の結果を生んでいることも十分に理解できていないと思われる。


⇒ 2014年7月1日閣議決定が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を前提として採用しているにもかかわらず、その「基本的な論理」からは導き出すことができない「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として容認している点は、論理的整合性が存在しない。31条の「適正手続きの保障」の趣旨に反し、違憲である。また、これにより「存立危機事態」での「武力の行使」も9条に抵触して違憲となる。

 論者は「政府見解の基本的枠組みを変更するような解釈の変更」も問題でないと主張しているようであるが、政府は2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持していると主張しているのであり、この枠組みを変更しているとの立場を採っていない。しかし、政府はこの「基本的な論理」と称している枠組みに当てはまるはずのない「存立危機事態」の要件を結論部分で許容しようとしている点で、論理的整合性がなく、解釈過程における不正・違法が存在するのである。論者は、論者が指摘しようとしている見解が「解釈変更それ自体が許されないものである」と主張しているものとは異なることを理解する必要がある。


⇒ 2014年7月1日閣議決定は、その論旨の前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を採用している。論者は「可能な限り基本的枠組みの変更はすべきではない。」としているが、論点はそこではなく、変更していない「基本的な論理」と称する部分に論理的に適合しない「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として容認しようとしている解釈過程に不正が存在するのである。これが31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、法の支配、立憲主義、法治主義の理念に半紙、違法となるのである。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。

 「国際状況の急激な変化」などを理由として政府見解を変更しようとすることはもちろん可能である。しかし、その前提として2014年7月1日閣議決定は、その論旨の前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしているにもかかわらず、論理的にこの中に当てはまらない「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしている点が、解釈手続き上の不正である。解釈変更自体は可能であっても、その解釈手続きそのものは論理的整合性を有した適正な手続きに基づくものでなければならないのであり、これが保たれていない見解は法解釈として成り立たない。そのため、政策上「政府見解の変更はやむをえない」との認識があったとしても、2014年7月1日閣議決定適法な手続きに則っていない点で違法性があり、解釈変更として認められない。「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となる。


⇒ 「従来の不自然な見解(集団的自衛権は「保持」できるが、「行使」はできない)」との記載があるが、その従来の政府見解は何も不自然ではない。国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していても、憲法9条によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果として、「集団的自衛権の行使」を行うことができない(行う機会がない)ことは矛盾しないし、不自然ではない。論者が「不自然な見解」と感じていることは、この国際法上の『権利』と憲法上の『権力・権限・権能』の違いが理解できていないためである。

 「理にかなっている」との主張もあるが、論者の主張は国際法と憲法の法分野の違いや『権利』と『権限』の違いが整理できていない主張であり、道理に合っていない。



4、砂川事件最高裁判決(昭和34年12月)について

(1)有権解釈と私的解釈

⇒ 基本的にそうである。

(2)

⇒ 砂川判決は、9条について最高裁が正面から判断を下したとは言えない。砂川判決は統治行為論などを用いて法的判断を行っていないからである。


⇒ 砂川判決は、9条が日本国が主権国として持つ固有の自衛権を否定しているわけではないと述べているることは確かであるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるか否かについては何も述べていない。砂川判決は日本国が行うことができる「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げたにとどまるのである。そのため、砂川判決を根拠として国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当する形で日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるとの主張は成り立たない。

⇒ 砂川判決が示した「自衛のための措置」は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。日本国の統治権の『権限』として「武力の行使」ができるか否かについては触れていない。

(3)
⇒ 砂川判決が「自衛権」としか述べていないことは確かであるが、「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)の『権限』とは異なる。砂川判決が国際法上の「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を実施できるか否かについては何も述べていないのであり、論者の「集団的自衛権を射程に入れた判断」との認識には誤りがある。そう見なければならないという主張にも根拠はない。


⇒ 「自衛権」とは国際法上の主体(法主体)に対して与えられる地位であり、これを国際法上有しているとしても、各国の統治権の『権力・権限・権能』の幅には何ら影響を与えない。


⇒ 「わが国が『集団的自衛権』を『行使』することを認めたもの」との記載があるが、日本国も国際法上の主体としての地位を有しているため、「集団的自衛権」を行使することが可能である。しかし、「集団的自衛権」を行使する状態とは、実質的には国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を阻却するために『権利』を行使することであるから、国家の行為として「武力の行使」が行われている状態を指す。日本国の場合は9条が統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないのである。

 日本国が国際法上の『権利』を有しているとしても、その『権利』の行使を憲法上の制約によって行わないことは可能である。また、政府や国会も憲法上で許された『権限』の範囲でしか活動してはならないため、もし「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行う条約を政府が締結し、国会が承認しようとしても、それは既に違憲な国家行為であるため、条約を批准することができない。批准の手続きが行われていても、無効である。さらに、憲法によって成立した国家機関同士が批准することで始めて効力を有する「条約」という法形式は、憲法よりも下位の規定である。そのため、もし「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行う条約を日本国が批准したとしても、憲法上の規定である9条の規定が優越するため、違憲となり、無効となることには変わりない。
 
(4)

⇒ 砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。このことから、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当する形で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を実施することができるか否かについては判断されていない。論者は「武力の行使」を行うことができることを前提とする意味で「同判決は集団的自衛権を射程に入れた判断であり」と説明しているところは誤りである。


⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ 国際法上の「個別的自衛権」であるか、「集団的自衛権」であるかという問題は、国際司法裁判所など国際機関の管轄事項である。そのため、日本国の裁判所が国際法上の概念である「個別的自衛権」に該当するか、または「集団的自衛権」に該当するかは判断することができない。日本の裁判所で担当できるものは、あくまで日本国の統治権の『権限』によって行われる「自衛の措置」についてであり、特に「武力の行使」を行う場合が9条に抵触するか否かが問われることとなる。最高裁が「自衛権」と表現しているものについては、確かに「個別的自衛権」のみをさしているのか、「集団的自衛権」を含めているのかははっきりしない。しかし、これは国際法上の『権利』を日本国も適用を受ける地位を有しており、9条の規定がこの「自衛権」という『権利』の概念を否定するものではないことを示したに過ぎず、この「自衛権」の概念に「個別的自衛権」だけでなく「集団的自衛権」の概念が含まれていたとしても、それだけで直ちに日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を実施することができることにはならない。論者が砂川判決の「自衛権」の文言を根拠として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を実施することができるかのように説明しようとしているところは誤りである。

⇒ 砂川判決で示されている「自衛権」の文言の中に「集団的自衛権」の概念が含まれていようと、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるかについては何も述べていないのであるから、これを根拠に「集団的自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができることにはならない。

 「新三要件」の「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、9条に抵触して違憲である。横畠内閣法制局長官の答弁の誤りについては「基本的な論理 2」で解説した。

 「限定された集団的自衛権の行使」との文言があるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定された集団的自衛権」という区分は存在しない。また、「限定された」と称すれば「武力の行使」が可能であるかのように考えている可能性があるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、たとえ「限定された」と称しようとも、これを満たさないのであれば違憲であることに変わりはない。



5、今後の課題


⇒ 必要なことは、論者がこのリストの合憲論拠の整合性のなさを理解することである。整合性のない論拠をいくら説明しても、合憲性を証明することにはならない。また、政府も2014年7月1日閣議決定以降、論理的整合性のない主張となっているため、説明責任を果たしたところで違憲であることは変わらない。


⇒ 政策上国際法上の「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」を日本国の統治権の『権限』が行う必要性があるとするならば、それは適正な手続きに則って行うべきものである。2014年7月1日閣議決定の論旨は、論理的整合性が保たれておらず、適正な手続きを満たしていない不正・違法が存在する。また、これにより定められた「存立危機事態」での「武力の行使」についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠に当てはまらず、9条に抵触して違憲となる。

⇒ 政策上、国際法上の「集団的自衛権」に該当する日本国の統治権の『権限』として行う「武力の行使」を実施する必要性があるならば、適正な手続きに則って適法に行う必要がある。必要性があるからと言って、適正な手続きを侵し、不正を行うことは違法であり、許されない。そのような不正な手続きに基づく『権限』は無効である。必要性があるならば、適正な手続きに則って適法に行う必要がある。



⇒ 政府の説明がよく分かっていないのは、政府自身もよく分かっていないことによるものである。政府は2014年7月1日閣議決定において解釈の過程に不正を行っており、結論に誤りがある。しっかり説明しても、適正な手続きに則って適法に解釈を行っていない事実は変わらないのであるから、いつまでも違憲のままである。

⇒ 政府解釈の変更について、2014年7月1日閣議決定の「説明文」がきわめて分かりにくいことは、その通りである。ただ、2014年7月1日閣議決定が結論において「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしている部分は、従来の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分との論理的整合性が保たれておらず、解釈手続きに不正が存在する。これにより、解釈手続き自体が違法であり、「存立危機事態」での「武力の行使」についても、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠をはずれ、9条に抵触して違憲となる。国際法および憲法、最高裁判決を踏まえた、大局的な普通の解釈を行うと、違憲となるのである。


⇒ (ここで特に述べることはない。)


 

 

 この「集団的自衛権の行使」の合憲性について述べようとしたリストは、論理が十分に繋がっていない部分が多い。また、国際法と憲法の法分野を切り分けて考えることができていないし、『権利』と『権限』の違いにも混乱が見られる。法解釈として意味が通じておらず、論理的な理由もないことから、合憲性を裏付ける主張とはならない。



〇 上記と同様の論点で、正当性を見出すことができない。


【正論】集団的自衛権の行使に問題なし 日本大学教授・百地章 2015.6.16


 まず、9条解釈には、大きく分けて①「武力行使全面禁止説」、②「武力行使一般禁止説」、③「芦田修正説」が存在している。

 ①の「武力行使全面禁止説」については、自国が攻撃を受けて、国民の権利が侵害されているにもかかわらず、無抵抗を強要することになることから、憲法が人権保障(特に13条)を実現する法であるという観点から妥当な解釈とは言えない。

 ③の「芦田修正説」についても、この見解は2項で「陸海空軍その他の戦力」を禁じた規定が存在している理由自体を損なうこととなるため、妥当な解釈とは言えない。

 よって、政府も②の「武力行使一般禁止説」を採用しているのである。その解釈の基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解である。この見解は、9条の規定が、自国民の利益や自国の都合を理由に政府が恣意的な判断によって「武力行使」に踏み切ることを禁じた趣旨に従って、「(我が国に対する)外国の武力攻撃」という客観的に明白な基準を設定した点で、規範性を有する極めて妥当な結論を導くものである。

 2014年7月1日の閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとしていることから、この違憲審査基準に反する「武力の行使」の要件を設定することは、政府自身の解釈によって違憲となるのである。

 このことから、2014年7月1日の閣議決定の結論として容認しようとしている「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する」武力攻撃が発生したことに起因して「武力の行使」が可能としようとするものであるから、「(我が国に対する)外国の武力攻撃」を規範として設定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という違憲審査基準によって、違憲となるのである。

 「法的安定性」というのは、無理な解釈によって存立危機事態の要件を許容しようとすることは、法という価値が安定的に通用することによって支えられる社会的価値が損なわれてしまうことを示したものと思われ、妥当な意見であると思われる。

 「『憲法9条の枠を超えるから憲法違反』としたわけではない。」との記載があるが、「憲法の枠」を超えるかどうかを判断する基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。「氏の違憲論には疑義がある」とのことであるが、上記③「芦田修正説」は、解釈上の妥当性を欠くために採用しないことが妥当であり、行き着くところ、この審査基準を採用することが妥当であり、違憲となるとの判断なのである。


 「集団的自衛権は国際法上の権利であって」との説明は正しい。しかし、「国際法から見て『集団的自衛権は保持するが行使できない』などといった解釈の生ずる余地はない。」との見解は誤りである。

 まず、『権利』と『権力・権限・権能』の違いを理解することである。国際法上の『権利』は有しているが、憲法上の『権力・権限・権能』は、9条によって制約されているのである。

 国際法上の『権利』を有していても、憲法上の『権力・権限・権能』(統治権・国権)は発動できないということである。

 この論者は、国家の統治権が国民主権原理によって正当付けられていることを理解していないために、国際法上の違法性阻却事由の区分である『権利』を基に国家の統治権を基礎づけようとしている点が誤っている。

 「憲法9条1項2項は、どこを見ても集団的自衛権の『保持』はもちろん『行使』も禁止していない。」とあるが、当然である。なぜならば、集団的自衛権は国際法上の『権利』であって、憲法とは法分野が異なり、正当性の法源も異なるからである。

 この論者は、憲法9条が国際法上の違法性阻却事由としての『権利』に対して直接制約しているかどうかが、論点であるかのように語っているが、論点は9条は国家の統治権をどの程度制約しているかである。

 「国際法上全ての主権国家に認められた『固有の権利』(国連憲章51条)である集団的自衛権を、わが国が保有し行使しうることは当然である」とあるが、この『権利』を行使しうることは当然であるが、国家の統治権が制約されていてるかどうかについては、全く別の議論である。

 「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」との記載があるが、憲法9条は国際法上の『権利』を制約することはなく、日本国内の統治権を制約しているわけである。

 「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であるにもかかわらず、国連憲章51条に記載があれば、国家の統治権に「集団的自衛権」という名前の『権力・権限・権能』が発生すると考えている点が誤りである。

 「わが国が主権国家として集団的自衛権を行使できることは明らかだ。」との記載があるが、国際法上、我が国が「集団的自衛権」という違法性阻却事由を行使できることは明らかであるが、我が国の統治権は9条で制約されているのである。これは、論者が「集団的自衛権」を国家の統治権の一部であるかのように考えているための混乱である。その後に続く記載も、その前提を誤っているために意味が通じていない。



〇 「集団的自衛権の行使」が実質的に「武力の行使」を伴うことを理解していいない。

第99講 「集団的自衛権の行使は合憲」 百地章先生 2015.6.21


    【1ページ目】

 「そのポイントは、他国への攻撃を『自国に対する攻撃とみなして対処する』ことにあります。」との記載があるが、「武力の行使」を実施した場合に「集団的自衛権」の区分によって違法性が阻却されるためには、他国からの『要請』が必要であり、直ちに「自国に対する攻撃とみなして対処する」と言えるものではない。


    【2ページ目】

 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」について、「両者は不可分一体です。」との記載があるが、「集団的自衛権」に関しては、被攻撃国からの『要請』がなければ国際法上違法性は阻却されず、刑法上の「正当防衛」と全く同一に考えることができるわけではない。また、たとえ論者の言うように「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という『権利』が不可分一体と考えたとしても、国家の統治権の『権限』が制約されている基準は変わらない。


    【3ページ目】

 「この点、憲法9条は、集団的自衛権を何ら禁止していませんから、わが国が国際法上、集団的自衛権を『行使』しうるのは当然で、合憲ということになります。」との記載があるが、論者は「集団的自衛権」を行使するということは、実質的に「武力の行使」が行われていることを理解していない。9条はこの「武力の行使」を制約しているのである。9条が「集団的自衛権」という『権利』を禁じているわけではないことは確かであるが、「武力の行使」を制約していることにより、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」ができないのである。


    【4ページ目】

 「したがって、わが国が集団的自衛権を行使できることは国際法および憲法に照らして明らかであり、最高裁も認めていますから、集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、何ら問題ありません。」との記載があるが、誤りである。国際法上日本国も「集団的自衛権」を行使することは可能であるが、憲法上で「武力の行使」が制約されることにより、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行うことはできず、「集団的自衛権」を行使することができないのである。「最高裁も認めていますから」との認識は、日本国も国際法上「自衛権」という違法性阻却事由の適用を受ける地位を有しているとしているだけであり、最高裁は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかについても何も述べていない。「集団的自衛権の行使を認めた政府の新見解は、何ら問題ありません。」との記載があるが、論者の理解が誤っているのであり、「集団的自衛権」に該当する「存立危機事態」での「武力の行使」を認めた2014年7月1日閣議決定は違憲である。


〇 「権利」と「権限」の違いさえ分かれば、これはまったく妥当な論旨できないことが分かる。


急がれる「安保関連法案」の成立~憲法学者の変節と無責任を問う 2015年08月13日

急がれる「安保関連法案」の成立 憲法学者の変節と無責任を問う 2015年9月


 「しかし、ごく常識的なことを述べただけだから、それだけ憲法学界が世間の常識とズレている証拠でもあろう。」との記載があるが、憲法学会は常識的であり、論者が常識からズレているのである。

 論者の言う通り、「自衛権」とは、国際法上の『権利』である。刑法の「正当防衛権」という『権利』で例えることも、それなりに誤った見方ではなく、整合性も一致している。
 ただ、その後、論者が国家の統治権の『権限』と、国際法上の『権利』を同一視している点に誤りがある。刑法で言うと、人が自由意思において自らの『行動』を制約していることは、刑法上の『権利』の区分とは関係ないからである。
 9条は、国家の統治権による『国家行為』を制約しており、これは国際法上の『権利』の区分とは何ら関係ないのである。

 「それゆえ、たとえ憲法に明記されていなくても、わが国が国際法上、集団的自衛権を保有し行使できるのは当然である。」との主張は、当然である。『権利』は、国家承認を受け、国連憲章を締結していれば当然に認められるからである。
 しかし、「ところが、集団的自衛権が国際法上の権利であり、米英各国をはじめ世界中の国々が国連憲章に従ってこの権利を行使していることに気付かない憲法学者がいる。」との主張には、勘違いがある。他国が『権利』の行使をしていることに気づいていない憲法学者など存在しない。むしろ、論者が国際法上の『権利』と、各国の憲法によって正当付けられる統治権の『権限』の違いに気づいていないのである。

 「彼らは、必死になって日本国憲法を眺め、どこにも集団的自衛権の規定が見つけられないため、わが国では集団的自衛権の行使など認められない、と憲法解釈の変更に反対する。」との主張があるが、論者が『権利』と『権限』の違いを認識できていないために、憲法学者の論理を正確につかめていないのである。
 まず、国家の統治権は立法権(41条)・行政権(65条)・司法権(76条1項)が根拠である。しかし、9条で制約を受けている範囲については、行使することができない。この制約を解除する例外的な規定が存在すれば、その国家の統治権の行使は正当化されるが、存在しなければ9条の制約に抵触して違憲である。
 この枠組みの中で、国際法上の「個別的自衛権」にあたる部分については、13条の「国民の権利」の趣旨より正当化できるとの論理が成り立つが、「集団的自衛権」にあたる国家の権限については「国民の権利」とは言えず、行政権の範囲として見ることも不可能であり、明らかに9条に抵触する権限となり違憲ということである。
 この理解ができていない論者は、無知をさらけ出していることになる。
 「わざわざ憲法に集団的自衛権を明記している国など、寡聞にして知らない。」とあるが、当然である。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であり、憲法上の『権限』ではないからである。「集団的自衛権」という名前の国家の統治権は存在しないのである。
 
 「領土権も国際法によって認められた主権国家に固有の権利であるから、憲法に規定があろうがなかろうが、当然認められる。」との記載があるが、当然である。これも、国際法上の『権利』であって、国家の『権限』それ自体ではないのである。論者は「権」の意味に含まれる『権利』と『権限』の違いを区別できていないのである。
 「この点、憲法には明文規定がないから、わが国には領土権は認められず、したがってわが国は領空や領海を侵犯する外国機・外国船を排除することなどできない、と主張する憲法学者はいないであろう。」との主張があるが、当然にいないであろう。しかし、論者は国際法上の『権利』を憲法上の『権限』と同一視している点で誤った前提による主張を繰り返しているのである。

 「しかしながら、日本国憲法の憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を『禁止』したり直接『制約』したりする明文の規定は見当たらない。」との記載があるが、当然である。憲法は国際法とは法分野が違うのであるから、国際法上の『権利』に関して、憲法が「禁止」したり「制約」することはないのである。憲法は、国家の統治権の『権限』を制約しているだけである。

 我が国が国際法上、国連憲章に従って集団的自衛権の『権利』を行使できることは当然であるが、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約を受けているため、その部分の「武力の行使」を行うことができないのである。論者が誤解しているのは、やはり『権利』と『権限』を同一視してしまっている点である。

 「奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。」との記載があるが、誤りである。憲法と国際法の法分野の違いを押さえ、憲法上の論理的な帰結として解釈された妥当な制約である。

 「『憲法の枠を超える』ことの説明が必要である。」との記載があるが、憲法解釈として「武力行使全面禁止説」や「芦田修正説」よりも妥当な基準である「武力行使一般禁止説」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠を超えたならば、「憲法の枠を超える」ことになるのである。この説明が存在しており、「説明はどこにも見当たらない。」との主張は論者が認識できなかったことによるものと思われる。

 「『国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない』などといっている」と批判している点について、国家の統治権の範囲は、その国の構成員が約束事として決めることができるものであり、その権限の範囲は、憲法で定義することができる以上、「個別的自衛権」に当たる権限や「集団的自衛権」にあたる権限でさえ、憲法によって約束事として存在させることも、否定することもできるという意味である。その範囲を決している9条解釈において、「集団的自衛権」にあたる国家の権限が存在せずとも、まったく不自然ではない。



安保法制合憲派の百地章「今の自衛権論議はナンセンスだ!」 2015年9月


    【集団的自衛権は主権国家の権利】

 「集団的自衛権」について、「その上で、日本国憲法がその行使を禁止していたり、わが国が国連に加盟するときに留保した事実はありません。」との記載があるが、日本国憲法は国家の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない「武力の行使」を禁じているのである。これにより、その要件を満たさない「集団的自衛権」という『権利』を行使する意味での「武力の行使」は禁じられるのである。国連に加盟する際に「留保した事実」があるかないかについてであるが、日本国も『権利』それ自体については適用を受ける地位を有しているが、「武力の行使」が制約されるために『権利』の行使ができない場合があるという意味である。論者は国連憲章上の『権利』を有すれば、直ちに日本国の統治権の『権限』が発生すると考えている点で、誤った認識である。

 「憲法学者たちが『憲法をいくら探しても集団的自衛権の規定が出てこない』とバカなことを言っていますが当たり前の話です。」との記載があるが、憲法学者たちは「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を実施する根拠となる規定が存在しないと言っているのであり、「集団的自衛権」という『権利』それ自体が憲法上に存在しないことを述べているわけではない。

 「憲法に集団的自衛権の規定がないからできないという人たちは、わが国は領土権も主張できないのか、という矛盾が生じます。」との記載があるが、論者は「集団的自衛権」を行使するということが実質的に「武力の行使」を伴うのであり、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約していることを理解していない。論者は国際法上の『権利』と、憲法上の『権限』の違いを理解していない。また、論者の認識によれば、日本国の統治権の『権限』が国民主権原理によって裏付けられたものではなくなってしまう。

 「集団的自衛権は国際社会で行使されるものなので、国連憲章にのっとって行動すればいいということです。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、日本国も適用を受ける地位を有している。しかし、「武力の行使」が9条によって制約されるため、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」ができないのである。論者は国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」というものが、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由であることを理解していない。


    【地球の裏側に自衛隊は行かない】

 「反対派の憲法学者たちは国際法の感覚が欠けています。」との記載があるが、論者は国際法と国内法の違いや、『権利』と『権限』の違いを理解していない。また、「反対派の憲法学者」との記載であるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」の「政策上の当否」と、「法律論上の合憲・違憲」は区別して考える必要がある。

 「彼らは違憲の明確な根拠を何も示していません。」との記載があるが、違憲の論点はいくつかのアプローチがあるが、政府自身が利用している1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となることは特に明らかである。

 「憲法違反の理由として『従来の政府見解を大きく変更するもの』といいますが、それだけでは足りず『憲法の枠を超える』ことの説明が必要です。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分に適合しないということは、「憲法の枠を超える」という説明となるのである。また、芦田修正説は解釈上妥当でないと考えられるために政府は1972年(昭和47年)政府見解の形を採用しているのであり、これに違反するということは「憲法の枠を超える」という説明となっている。もし芦田修正説を採用するとしても、芦田修正説を採用したからと言って9条1項の規範は「不戦条約」と同趣旨のものであるから、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を許容しているとは言えない。そのため、芦田修正説を採用したとしても「憲法の枠を超える」こととなるのである。

 「そもそも、個別的自衛権と集団的自衛権を2つに分けていますが、本来は不即不離、不可分一体なものなんです。」との記載があるが、政府は1972年(昭和47年)政府見解において「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところで分けているのであり、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を2つに分けることによって規範を見出しているわけではない。
 「分けること自体がナンセンスなんです。こんな議論をしているのは日本くらいです。」との記載があるが、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を分けて考えて要件を満たしているのかを考えなくては、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となる。そのため、日本に限らず、世界のすべての国は「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の違いを理解して考えている。論者の主張はナンセンスである。

 「(2)平和主義を基本原則とする憲法なので無制限には認められておらず、『国民の生命、自由、及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるような急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためやむを得ない措置』として、初めて容認される」との記載があるが、誤りである。論者の示している部分は、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」から抜き出した一部分である。論者の示している部分に、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が記載されておらず、正確に抜き出したものとはなっていない。
 前文の「平和主義」の理念や、それを具体化である9条の規定は、「自国民の権利」の危機を理由に政府が恣意的に戦闘行為に踏み切ることを制約する趣旨のものである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の文言を論者のように「自国民の権利」の危機を理由とすることだけで「自衛の措置」や「武力の行使」に踏み切ることができる規範を示したものであるかのように解しようとすることは、憲法解釈としての妥当性を有しない。1972年(昭和47年)政府見解は、「自衛の措置」の限界を示した規範部分で「あくまで外国の武力攻撃によつて」と示しているように、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たすことを求めるところに、政府の恣意性を排除する規範が設定されているのである。これは我が国に対する他国の行為であるから、我が国政府の都合が介入する余地がなく、我が国政府の恣意性を排除することができる基準として有効な規範となるからである。

 「そのため、内閣法制局や歴代内閣は「わが国は集団的自衛権を『保有』しているが『行使』できない」という不可解な見解でした。」との記載があるが、国際法上「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることと、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されていることによりその『権利』を行使できない(行使する機会がない)ことは全く矛盾しない。不可解な見解と感じるのは、論者の理解不足である。

 「これは憲法から集団的自衛権を考えるからおかしな話になるのです。」との記載があるが、論者は憲法が「武力の行使」を制約しているが、国際法上の『権利』の区分には何も制限を加えていないことを理解する必要がある。おかしな話をしているのはその違いを理解できていない論者である。

 「ところが内閣法制局は憲法から見て『できる』『できない』の議論をしてきました。スタートからボタンの掛け違いが発生していたわけです。」との記載があるが、内閣法制局は「武力の行使」の範囲を確定することによって、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」ができるかできないかを判定しているだけである。スタートから誤っているのは、国際法上の『権利』と憲法上の『権限』の違いを理解していない論者である。

 「今回の政府見解では集団的自衛権行使を可能にしましたが、極めて限定的です。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという区分は存在しない。また、「限定的」と称したとしても、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲である。


    【砂川判決で違憲派はデタラメな主張】

 論者は「固有の自衛権」が国際法上の『権利』の話であり、「国家固有の機能」が憲法上の『権限』であることの違いを理解していないように見える。


    【日本の防衛にアメリカを巻き込む】

 「集団的自衛権」について「どこの国も持っている権利ですが、わが国はこれまで根拠もなく否定してきた。」との記載があるが、論者は「集団的自衛権」が国際法上の『権利』であることと、9条が「武力の行使」を制約していることの違いを理解できていない。「根拠もなく否定してきた。」との認識は、論者が正確な論理を理解していないだけである。
 「その上で、日本は憲法9条があるので、集団的自衛権には一定の限界があるだけだと説明するべきです。」との記載があるが、論者は9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを制約しているかのように考えている点で誤りである。

 



西修


〇 西修


いちばんよくわかる!憲法第9条 西修 2015/4/8 amazon


(P22)

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 ところが、1954〈昭和29〉年7月に自衛隊が発足し、装備が近代化されると、とても従来の解釈では整合性がとれなくなりました。

 そこで、同年12月21日の衆議院予算委員会で、「自衛のため必要な実力は戦力にあたらない」という解釈に変え、翌日には「自衛のため必要相当な実力は戦力にあたらず」という政府統一見解を出しました。

 そして、1972〈昭和47〉年11月13日にいたり、「必要最小限度の実力は戦力に該当しない」との解釈になったのです。

 こうして、「必要な実力」、「必要相当な実力」、「必要最小限度の実力」というふうに微妙に解釈を変えてきました。なんだか迷路に入り込むような感じになります。

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(リンクは当サイト筆者。ただ、正確に文言が一致いしていない部分がある。)


 上記の最後「微妙に解釈を変えてきました。」との説明があるが、誤りである。政府は1954年(昭和29年)12月以来「自衛のための必要最小限度」を超えるものを「戦力」としている解釈は一貫して変わっていない。


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○政府委員(吉國一郎君) 戦力について、政府の見解を申し上げます。

 戦力とは、広く考えますと、文字どおり、戦う力ということでございます。そのようなことばの意味だけから申せば、一切の実力組織が戦力に当たるといってよいでございましょうが、憲法第九条第二項が保持を禁じている戦力は、右のようなことばの意味どおりの戦力のうちでも、自衛のための必要最小限度を越えるものでございます。それ以下の実力の保持は、同条項によって禁じられてはいないということでございまして、この見解は、年来政府のとっているところでございます

(略)

 ところで、政府は、昭和二十九年十二月以来は、憲法第九条第二項の戦力の定義といたしまして、自衛のため必要な最小限度を越えるものという先ほどの趣旨の答弁を申し上げて、近代戦争遂行能力という言い方をやめております。それは次のような理由によるものでございます。

(略)

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第70回国会 参議院 予算委員会 第5号 昭和47年11月13日


【参考】第75回国会 参議院 予算委員会 第2号 昭和50年3月5日


 論者は「『必要な実力』、『必要相当な実力』、『必要最小限度の実力』」の文言を抜き出し、それらが異なるものであるかのような認識を有しているようであるが、これらはすべて「自衛のための必要最小限度の実力」という三要件(旧)の範囲内の実力のことを指しており、同じものである。

 そのため、これは「微妙に解釈を変えてきました。」というものではなく、解釈は一貫して変わっていない。


 □論者は、砂川判決が統治行為論を採用して法的判断をしなかったことについて下記のように述べている。


(P31)

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 最高裁判所は、この法理をもちだして、日米安保条約の合・違憲性については、判断しませんでしたが、憲法の平和主義は決して「無防備、無抵抗」を定めたものではなく、「自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能として当然のことといわなければならない」と述べたことは、憲法が非武装を定めたものでないということを明示したという点で、大きな意義を有します。

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 上記の内容には誤りがある。なぜならば、憲法の「平和主義」が「無防備、無抵抗」を定めたものでないとしても、論者の言うような「憲法が非武装を定めたものでない」との結論が直ちに導き出されるわけではないからである。

 砂川判決は憲法の「平和主義」は「無防備、無抵抗」を定めたものではないと示した上で、日本国のとりうる「自衛の措置」の選択肢として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げている。もしこれらの選択肢を採用するとしても、日本国の領域内に他国の軍隊の駐留を許容するとは限らない。そうなれば、日本国そのものは「非武装」となる可能性は考えられる。

 また、他国の軍隊の駐留を許容したとしても、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないし、日本国の統治権の『権限』による「陸海空軍その他の戦力」や「実力組織」を保持することの可否についても何も述べていない。そのことから、日本国の統治権の『権限』によって「陸海空軍その他の戦力」や「実力組織」を保持することについては禁じられている可能性があり、そうであるならば、日本国の統治権は「非武装」であることが求められている可能性がある。

 そのため、砂川判決を根拠として「憲法が非武装を定めたものでないということを明示した」とは言い切ることができない。

 このように、「無防備、無抵抗」を定めたものではないことと、「非武装」を定めたものではないこととは、厳密には異なる概念であることに注意する必要がある。

 論者は「大きな意義を有します。」としているが、論者の理解には誤った部分がある。


(P34)

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 とくに政府解釈は、長年にわたり数多くの質問にさらされ、「これはできる」「あれはできない」と積み重ねてきたために、多くの矛盾が生じ、そしてまた、しっかりした土台の上にまっすぐ立てられてこなかったために、ピサの斜塔のごとく、いつ倒れてもおかしくないところまで来ているように感じられます。

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 上記の記載であるが、政府は一貫して「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を基準として「武力の行使」や実力組織の保持の可否を決しており、矛盾は生じていない。そのため、論者が「しっかりした土台の上にまっすぐ立てられてこなかったために、ピサの斜塔のごとく、いつ倒れてもおかしくないところまで来ているように感じられます。」と感じていることは、論者が誤解していることによって政府解釈を理解できていないだけである。


(P35~36)

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 ここで、本章冒頭に掲げられている憲法第9条をもう一度、読んでみましょう。

 まず主語と述語に注目してください。1項の主語は「日本国民は」で、述語は「放棄する」です。つぎに「放棄」している目的語は何でしょうか。「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」です。それでは、これらを無条件に放棄しているのでしょうか。「国際紛争を解決する手段としては」という条件がつけられています。ここに「国際紛争を解決する手段としては」とは、どんな意味でしょうか。これについては、すでに1928年の『不戦条約』(条文はP48)や1945年の『国連憲章』で明らかになっています。

 すなわち、「他国領土への侵略を目的としたり、政治的独立を阻んだり、国連憲章の目的に反するような手段」(国連憲章2条4項)という意味です。このような手段によって、「戦争や武力による威嚇又は武力の行使をしない」というのが、1項の意味です。

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 との記載がある。また、9条2項について下記のように述べている。


(P37)

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 ここにも、「前項の目的を達するため」という大きな条件が付されています。前項が、「国際紛争を解決する手段」、すなわち「他国領土への侵略を目的としたり、政治的独立を阻んだり、国連憲章の目的に反するような手段」によって、「戦争と武力による威嚇又は武力の行使」を放棄するという意味であることは、先述しました。

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 論者が9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の意味を「他国領土への侵略を目的としたり、政治的独立を阻んだり、国連憲章の目的に反するような手段」と定義している部分は誤りである。

 9条1項は確かに「不戦条約」や「国連憲章2条4項」を参考にしたような文言が見られる。しかし、9条1項はそれらの規定と全く同じものというわけではない。

 また、9条1項は憲法規定であり、「不戦条約」と「国連憲章」は国際法上の規定である。そのため、これらは国内法と国際法で法体系が異なる。

 そのことから、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は、国内法として独立した法的効力を有する中に存在するのであり、ここに「国連憲章の目的に反するような手段」などと国際法上の条約の一つである国連憲章の目的を含ませて読み解くことはできない。

 あたかも憲法上の規定である9条1項の中に国際法上の規定の目的を読み込むような定義を行っている点で誤りである。このような読み方は、日本国憲法の法的効力に対して国際法の干渉を許すこととなり、日本国の独立性を損なうこととなる。


 □論者は、2項後段の「交戦権」の解釈について下記のように述べている。


(P38~39)

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 そこで「国際法上、交戦国に認められている権利」と理解するのが正しいといえます。政府は、「国際法上、交戦国に認められている権利」として、前述したように、「相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける占領行政、中立国船舶の臨検、敵性船舶のだ捕等を行うことを含むものである」と解しますが、他方で憲法は、わが国の「自衛権」の保持を認めていますので、自衛権とは別次元であると理解できます。

 その際、当然、自衛権と交戦権と重なる部分が出てきます。たとえば、自衛権の行使としての「相手国兵力の殺傷及び破壊」がそれにあたります。わが国に対して武力攻撃をしてきた「相手国兵力の殺傷及び破壊」をしなければ、自衛権を行使しないもおなじことになり、元も子もなくなってしまします。

 ただ、行使できるのは、あくまで自衛権ですから、他国を占領し、そこで統治権を行使するのは、自衛権の範囲を超えることになり、許されません。

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 「自衛権と交戦権と重なる部分が出てきます。」との部分であるが、「交戦権」は日本国憲法上の規定であることから、日本国の統治権の『権限』を対象としたものであると考えられ、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」とは直接的な関係がない。そのため、「自衛権」と「交戦権」を並列の関係で示すことは妥当でないと考える。

 「たとえば、自衛権の行使としての『相手国兵力の殺傷及び破壊』がそれにあたります。」との部分であるが、政府は「自衛権の行使」として行われる「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲内の「武力の行使」を行う『権限』は「自衛行動権」と説明しており、これは「交戦権」とは異なるとしている。この点、「自衛行動権」と「交戦権」の区別を示さないと、法解釈の枠組みを正確に理解することができない。

 「ただ、行使できるのは、あくまで自衛権ですから、他国を占領し、そこで統治権を行使するのは、自衛権の範囲を超えることになり、許されません。」との記載があるが、論者は概念を整理できていないと思われる。まず、国際法上の「自衛権」を行使するということは通常「武力の行使」が行われる。この「武力の行使」を行う日本国の統治権の『権限』が9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触するか否かであるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であれば「自衛行動権」の範囲内であるとして「交戦権」には抵触しないとしている。そのため、論者が「自衛権の範囲を超えることになり、許されません。」と述べている部分は誤りであり、「自衛行動権」の範囲を超えると説明する必要がある。


(P57)

 「このケーディスの修正によって、第9条は、自衛のための戦争や自衛のための武力行使が可能になったのです。」としているが、誤りである。

 まず、ケーディスが修正した部分は現行憲法の9条1項にあたる部分である。そのため、この修正によって9条1項が「侵略戦争」を放棄するものに限定され、「自衛戦争」は禁じられていないとしても、現行憲法の9条2項前段、9条2項後段を加えた9条全体で解釈した場合には、「自衛のための戦争」や「自衛のための武力行使」まで禁じられる可能性は残ることとなる。

 そのため、「このケーディスの修正によって、第9条は、自衛のための戦争や自衛のための武力行使が可能になった」と結論付けることはできない。

 他にも、立法時の経緯と、立法された憲法そのものの解釈が完全に一致するわけではない。


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○政府委員(林修三君) 御承知の通り、いわゆる今、八木委員のおっしゃったマッカーサー・ノートというものは、この占領が終ったあとにおいて公けにされた、いわゆる昭和二十一年の初めごろに、マッカーサーが部下に示したと称するものだと思いますが、あの中には、いわゆる自衛のための武力行使も日本は認めないということが書いてあるわけでございます。ところが、それが実際の条文化する過程におきまして、これは御承知の通りに、今の九条一項をごらんになります通りに、いわゆる九条一項は自衛権の行使を否定しておりません。従って九条一項は、自衛のために日本があるいは武力を使うということは否定されてないというのが、この九条一項の解釈としては一般の解釈ございます。そういう意味におきましては、マッカーサー・ノートと今の憲法九条一項とは違っておるわけであります。その違ったいきさつについては、これはいろいろ議論があるわけでございまして、当時、もちろん日本側は、あのマッカーサー・ノートの存在を知らなかったわけでございますし、向うから示された英文のものを日本文に訳して、その日本文をまた英文に訳して持っていった過程において今の形になって、これははからずも、マッカーサー・ノートと変わったものになった。こういうふうに私どもは了解しておりますから、ただいまの憲法の解釈としては、マッカーサー・ノートと違うということだと私は思います。

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第28回国会 参議院 内閣委員会 第34号 昭和33年4月24日


 □論者は、1981年(昭和56年)5月29日の答弁書を取り上げて、下記のように述べている。


(P171)
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 この『答弁書』に関して2点、指摘しておきたい問題があります。ひとつは、政府は「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利」(傍点は筆者)を集団的自衛権の定義としていますが、他の諸条約には、「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」の文言がありません。同盟国に対するいずれかの国に対する武力攻撃を、自動的に締約国全体に対する武力攻撃とみなしています。

 政府の定義ですと、「我が国の安全とは無関係であるにもかかわらず、武力を行使して他国を助ける権利」というような印象を受けます。いかにも内向きで、自己本位的といわざるをえません。

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(この書籍の傍点部分は当サイトでは下線で代用)


 論者は政府が「集団的自衛権」を説明する際に「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、」との表現を用いていることを批判しているが、それは「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の区別を語る上で欠かせない定義だからである。


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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。

 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 このように、「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、」の部分があるかないかは「個別的自衛権」に該当するか「集団的自衛権」に該当するかを区別するために決定的に重要な点となっている。

 論者は、「いかにも内向きで、自己本位的といわざるをえません。」と批判するが、政府は印象に左右されることなく単に法解釈を行っただけである。

 

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○政府特別補佐人(秋山收君) 今御質問の点は、多分、我が国の集団的自衛権、憲法九条を解釈いたします前提としての定義の中に、「自国が直接攻撃されていないにもかかわらず」という文言があると。それに対しまして、NATO条約の五条の最初の部分では、「締約国は、ヨーロッパ又は北アメリカにおける一又は二以上の締約国に対する武力攻撃を全締約国に対する攻撃とみなすことに同意する。」ということとの比較においておっしゃられておられるのだろうと思います。

 それで、この我が国の憲法九条の前提となります定義につきまして、今のような、自国が直接攻撃されていないにもかかわらずという文言を用いておりますのは、憲法九条の下にあっても許容されていると解しております個別的自衛権、すなわち我が国が武力攻撃を受けた場合に取り得る自衛権が集団的自衛権の定義に含まれないことを明確にする趣旨でございます。

 言い換えますと、定義にこのような表現を含まないまま、すなわち自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利とだけ解した上で憲法九条の解釈を考えますと、例えば我が国に対する武力攻撃が発生した場合において、日米安保条約に基づき我が国を防衛するために行動している米軍の艦船等が攻撃を受けたときに、自衛隊がその攻撃を排除することができるのかどうかと。それを排除することまでも集団的自衛権の行使に当たり許されないということにもなりかねないのでありますので、それを明確にするためにこのような定義を用いて考えているのでございます。

 それから、NATO条約につきましては、憲法解釈の前提、失礼いたしました、NATO条約の解釈につきましては、当局として公権的に申し上げる立場にはございませんけれども、やはり憲法解釈の前提として決めた定義の文言と、それから加盟国の権利義務を定めた条約の言わば生の条文の表現ぶりとを直接比較することは適当でない面があるのではないかと考えております。

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第156回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成15年3月14日


(P172)

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 もうひとつ、重要な点は、集団的自衛権を無条件に「必要最小限度の範囲を超えるもの」と把握していることです。

 集団的自衛権にも、「必要最小限度の自衛権の範囲を超えないもの」があるはずです。また、個別的自衛権に、「必要最小限度の自衛権の範囲を超えるもの」もありえます。そのようなことを政府は十分に検討しないまま、集団的自衛権を憲法上いっさい、許されないとしてきました。その線引きをはっきりさせてきませんでした。

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 論者の上記の理解は誤りである。まず、論者の示す「必要最小限度」であるが、政府は通常「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と説明している部分であり、これは三要件(旧)の基準を示す言葉である。「集団的自衛権の行使」については、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うこととなることから、「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えるため許されないと説明されている。

 論者は「集団的自衛権にも、『必要最小限度の自衛権の範囲を超えないもの』があるはずです。」と述べているが、「集団的自衛権の行使」である以上、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものとなることから、「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えることとなる。そのため、「集団的自衛権にも、『必要最小限度の自衛権の範囲を超えないもの』があるはずです。」との理解は誤りであり、そのようなものは存在しない。

 「また、個別的自衛権に、『必要最小限度の自衛権の範囲を超えるもの』もありえます。」との部分であるが、確かに「個別的自衛権の行使」として国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」であるとしても、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となることがある。この文の「必要最小限度」や「自衛権の範囲」との表現は正確な表現とは言えないが、「自衛のための必要最小限度」や「武力の行使の範囲」というように適切な形に改めたならば、文の意味自体は正しいものとなる。

 「そのようなことを政府は十分に検討しないまま、集団的自衛権を憲法上いっさい、許されないとしてきました。その線引きをはっきりさせてきませんでした。」との部分であるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」は違憲であるとしており、「十分に検討」している。また、「その線引き」についても三要件(旧)の基準で「はっきり」している。そのため、「十分に検討しないまま、」や「その線引きをはっきりさせてきませんでした。」との認識は、論者が政府の答弁の意味を理解することができていないだけである。


(P177)

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 政府は集団的自衛権を独自に狭く解釈し、「自衛のための必要最小限度を超える」から、憲法に違反するとの立場をとってきていますが、その線引きは不明確ですし、論理も緻密さも欠いていると断ぜざるをえません。

 政府は、「国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家として当然である」とも答弁していますが(1972〈昭和47〉年10月14日)、わが国は、国際法上、主権国家ではないとでもいうのでしょうか。

 日本国は主権国家であり、日本国憲法は自衛権を認めているのであれば、その自衛権のなかに、国家の自然権というべき個別的自衛権も、集団的自衛権もともに当然認められるというのが、行き着く解釈ではないでしょうか。

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 「政府は集団的自衛権を独自に狭く解釈し、」との部分であるが、「集団的自衛権」は国際法上の概念であり、政府は日本国も「集団的自衛権」は保有しているとしているのであるから、「独自に狭く解釈」しているとの認識は誤りである。

 「『自衛のための必要最小限度を超える』から、憲法に違反するとの立場をとってきていますが、その線引きは不明確ですし、論理も緻密さも欠いていると断ぜざるをえません。」との部分であるが「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を意味しており、「線引き」は明確である。そのため、論者が「その線引きは不明確ですし、論理も緻密さも欠いていると断ぜざるをえません。」と述べている部分は、論者の誤解であると断ぜざるを得ない。

 「政府は、『国際法上、集団的自衛権を有していることは、主権国家として当然である』とも答弁していますが(1972〈昭和47〉年10月14日)、わが国は、国際法上、主権国家ではないとでもいうのでしょうか。」との部分であるが、論者の誤解である。まず、国際法上で主権国家として認められていることから「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有することと、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲が制約されることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない(行う機会がない)ことは何ら矛盾しない。そのため、「わが国は、国際法上、主権国家」であるし、その主権国家として独立した法的効力を有している憲法(国内法)上の規定によって「武力の行使」が制約される結果として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されていないとしても何らおかしくない。論者が「わが国は、国際法上、主権国家ではないとでもいうのでしょうか。」との疑問を有していることは、この過程を理解できていないことによるものである。

 「日本国は主権国家であり、日本国憲法は自衛権を認めているのであれば、その自衛権のなかに、国家の自然権というべき個別的自衛権も、集団的自衛権もともに当然認められるというのが、行き着く解釈ではないでしょうか。」との部分であるが、国際法上において日本国は「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も適用を受ける地位を有しており、国際法上において行使することが当然に認められている。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条によって制約される結果として、「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない場合が存在する。論者はこの過程を理解する必要がある。


(P180)

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 事例は、弾道ミサイルがわが国の上空を横切って米国領のグアム、ハワイに向かうことを想定しています。

 わが国の上空を通過するのだから、我が国の領空・領域への侵犯であり、個別的自衛権、あるいは警察権で対応できるのではないかと考えられるかもしれません。

 けれども、領空の及ぶ範囲は一般ににおおむね100~150キロメートルの上空と理解されており、弾道ミサイルは高度数百キロメートル以上の大気圏外(宇宙空間)を飛行するといわれています。であれば、宇宙空間での撃墜行為は、個別的自衛権でも、まして警察権でもなく、集団的自衛権の範疇と考えなければなりません。

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 「個別的自衛権、あるいは警察権で対応できるのではないか」と「個別的自衛権でも、まして警察権でもなく、集団的自衛権の範疇と考えなければなりません。」との部分であるが、論者の誤った理解に基づく説明である。

 まず、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」については、国際法上の『権利』の概念である。次に「警察権」は、国家の統治権の『権力・権限・権能』の一つである。これらは国際法上の『権利』と、国内法上の国家の統治権の『権力・権限・権能』とで、性質が異なっており、並列の関係にない。

 そのため、並列の関係にあるかのように並べて示すことは適切ではない。


(P184)

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 これらについて、個別的自衛権や警察権で対応が可能であるという見解もありますが、本来、国際社会で集団的自衛権のとされている事例をわが国独自の判断で個別的自衛権や警察権の拡張解釈によって対応することは、国際法違反に問われるおそれがあることを十分に認識しておかなければなりません。

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 「個別的自衛権や警察権で対応が可能であるという見解」と「国際社会で集団的自衛権のとされている事例をわが国独自の判断で個別的自衛権や警察権の拡張解釈によって対応すること」との部分であるが、先ほど説明したように、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」と、国家の統治権の『権力・権限・権能』の一つである「警察権」は性質が異なり、並列の関係にあるかのように説明することはできない。

(P194~195)

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 政府は、これまで、集団的自衛権を認めないのは「論理の積み重ね」であると述べてきました。けれども、政府の解釈は、集団的自衛権を全面的に否定していたわけではありません。

 三つの事例だけを紹介します。

「集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでありますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えているのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たないということは言い過ぎだと考えております。」(岸信介内閣総理大臣、参議院予算委員会、1960〈昭和35〉年3月31

「自国を守るために基地を貸与する、あるいは他国が、密接な関係のある他国がやられた場合にこれに対して経済的援助を与える、そういうものもございましょうし、あるいはさらにこれは学説によりましては、自国を他の国と共同して守るということも集団的自衛権だという説もあるわけでございます。しかし、まあそういうものはさておきまして、こういうものは実は日本の憲法上どれでも私は認められていることだと思うのである」(林修三内閣法制局長官、同委員会、同日

「国際的に集団的自衛権というものは持っていおるが、その集団的自衛権というものは、日本の憲法の第9条において非常に制限されておる、こういうふうに考えておるわけでございます」(赤城宗徳防衛庁長官、衆議院内閣委員会、同年5月16日

 これらのキーワードは、「一切の集団的自衛権を持たないのは言い過ぎ」、「経済的その他の援助を与えるというような集団的自衛権は、認められている」、「制限的な集団的自衛権は持っている」というものです。

 それでは、どんな場合に憲法が禁じる集団的自衛権なのでしょうか。答は簡単。「他国にまで出かけ行って、その国を守ること」です。

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(リンクは当サイト筆者であるが、この書籍と国会会議録とでは、文言がやや異なる部分があることに注意)


 確かにこのような政府答弁を確認することができる。しかし、この政府答弁の意味は、政府自身が下記のように整理している。


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○秋山政府特別補佐人 昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為について、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうものは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたことがございます。

 この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきまして、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございまして、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまして、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませんと述べたにとどまるものと考えております。

 現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着しているものと承知しております。

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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日(発言番号351)

第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日(発言番号353)

第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日(発言番号355)

第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日(発言番号359)

第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日(発言番号417)

 

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政府特別補佐人(津野修君) お答えいたします。

 集団的自衛権の行使とは、他国に対する武力攻撃を実力をもって阻止するということでございますので、この場合における実力をもってとは、武力をもってと同義であるというふうに考えております。したがって、それに当たらない行為については集団的自衛権の問題は生じないというふうに考えております。

(略)

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

政府特別補佐人(津野修君) 先ほどお答えしたこととまた重なりますけれども、集団的自衛権の概念と申しますのは、憲法九条との関係で議論されてきたところでございます。

 政府としては、その集団的自衛権とは、国際法上、先ほど言いましたような、国家は自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を自国が攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利だと、こういうふうに言って、国家による実力の行使に係る概念であるというふうに理解しているわけでございます。したがって、実力の行使にかかわらない行為につきましては集団的自衛権の問題は生じないと。

(略)

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第153回国会 参議院 外交防衛委員会、国土交通委員会、内閣委員会連合審査会 第1号 平成13年10月23日

 

 そのため、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使する場合とは、「武力の行使」(実力の行使)を伴う概念として用いられている。

 しかし、日本国の統治権の『権限』は「武力の行使」を制約していることから、その制約範囲によれば「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない場合があることとなる。


 「それでは、どんな場合に憲法が禁じる集団的自衛権なのでしょうか。答は簡単。『他国にまで出かけ行って、その国を守ること』です。」との部分であるが、誤りである。

 まず、憲法は国際法上の『権利』である「集団的自衛権」そのものを否定する趣旨ではなく、禁じていない。そのため、「憲法が禁じる集団的自衛権」との表現は誤りである。

 次に、「他国にまで出かけ行って、その国を守ること」との部分であるが、誤りである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られており、これを満たさないのであれば、9条に抵触して違憲となる。そのことから、確かに「他国にまで出かけ行って、その国を守ること」のために「武力の行使」を行うことは、三要件(旧)を満たさないため違憲となる。ただ、「集団的自衛権の行使」であれば三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」となることから、「他国にまで出かけ行って、その国を守ること」ではない形の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が存在し、それは9条に抵触しないかのように考えているのであれば誤りである。三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」となるのであれば、すべて9条に抵触して違憲である。


(P194~195)

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 そのようななかでも、国会で答弁したのが、集団的自衛権の全面的否認ではありませんでした。

 それゆえ、その後にとられた集団的自衛権に関する全面的放棄を限定的に容認に戻すことは、立憲主義に反しません。

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 この論者の認識は誤りである。

 先ほども示したように、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由として「集団的自衛権」が行使される場合とは、「武力の行使」を伴うこととなる。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は三要件(旧)の範囲に限られており、「集団的自衛権の行使」とはこの第一要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条の下では許されない。この意味で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は「全面的否認」である。

 論者は「集団的自衛権の全面的否認ではありませんでした。」としているが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については常に「全面的否認」である。

 論者は「全面的否認」ではなかったことを前提として、2014年7月1日閣議決定が「集団的自衛権の行使」を容認しようとしたことについて、「集団的自衛権に関する全面的放棄を限定的に容認に戻すこと」と考えているようであるが、誤った理解である。

 「立憲主義に反しません。」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定以降、政府が「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしていることは、9条に抵触して違憲となることを正当化しようとしているものであることから、「立憲主義」に反することとなる。


(P196)

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 もうひとつ、重要な点は、立憲主義を採用している国家で、集団的自衛権を採用していない国家は、ほぼ皆無だということをつけ加えておきます。

 この問題で、ある社会科学系の学者と議論したことがあります。かれがお定まりの「集団的自衛権に関する解釈変更は立憲主義に反する」というものですから、私がたずねました。「立憲主義国家で、集団的自衛権を採用していない国はどこですか」。かれは絶句しました。

 かれの頭のなかでアメリカ、イギリス、フランス、ドイツなどぐるぐる国を探したのでしょうが、どこも出てこなかったのです。それはそうでしょう。さきほど説明しましたように、集団的自衛権は国連憲章で認められ、集団的自衛権をとり込んだ軍事同盟が張り巡らされているのですから。

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 論者は、国際法と憲法(国内法)の法体系や法的効力の違いを理解していない。

 まず、「集団的自衛権を採用していない国家は、ほぼ皆無だ」との部分を整理する。国際法上において国家承認を受けるなどして国際法上の法主体としての国家として認められているのであれば、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有している。また、国連に加盟しているのであれば「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有することとなる。

 次に、国際法上「集団的自衛権」を行使することができるとしても、その行使に伴う「武力の行使」を行うことができるか否かは、各国の憲法によって正当化される統治権の『権限』の範囲の問題となる。

 論者のこの主張は、国際法上の『権利』としての「集団的自衛権」を国際法上において行使できるか否かと、それに伴う「武力の行使」を行うための国家の統治権の『権限』が憲法上で正当化されているか否かが異なる次元の問題であることを理解できていないものである。


(P212)

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③政府が集団的自衛権の限定的容認に踏み切ったのは、解釈の「是正」である。

④集団的自衛権を認めるにしても、当然に「制約」(歯止め)は付されなければならない。その制約のなかで、総合的視点から、行使するのかどうかを慎重に判断しなければならない。「権利」であって、「義務」ではないことを確認しておき必要がある。

➄今回の政府の解釈の変更は、憲法改正を必要とせず、また立憲主義に反するものではない。

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 「③政府が集団的自衛権の限定的容認に踏み切ったのは、解釈の『是正』である。」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると意味を読み替えようとした不正な手続きが存在する。そのため、「解釈の『是正』」ではなく、解釈手続き上の不正・違法である。

 「④集団的自衛権を認めるにしても、当然に「制約」(歯止め)は付されなければならない。」との部分であるが、9条は国際法上の『権利』の概念である「集団的自衛権」そのものを否定していない。そのため、「集団的自衛権」が認められていないことを前提として「集団的自衛権を認めるにしても」と述べていることは厳密には誤りである。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められるか否かであるが、そもそも「武力の行使」は三要件(旧)の範囲内に限られているのであり、「集団的自衛権」に「『制約』(歯止め)は付されなければならない。」などと、国際法上の『権利』に制約を付すことができるかのように論じようとしている部分が誤りである。9条は国際法上の『権利』を否定する趣旨ではないため、制約を付すような性質のものではない。また、9条は「武力の行使」を制約しているのであり、これによって「武力の行使」は三要件(旧)の範囲に限られることになる。

 「その制約のなかで、総合的視点から、行使するのかどうかを慎重に判断しなければならない。」との部分であるが、「集団的自衛権」そのものに制約を課すかのような論じ方は誤りである。9条が制約しているのは「武力の行使」であり、三要件(旧)の範囲に限られている。この三要件(旧)を満たす場合に、政府が「総合的視点」から「武力の行使」を行うか否かを「慎重に判断」することは可能である。

 「➄今回の政府の解釈の変更は、憲法改正を必要とせず、また立憲主義に反するものではない。」との部分であるが、2014年7月1日閣議決定は、解釈手続き上の不正・違法が存在しており、これによって「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を容認しようとしたことは正当化することはできず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。そのため、「立憲主義に反するもの」であり、これを認めるためには「憲法改正を必要」とするものである。論者が「憲法改正を必要とせず、また立憲主義に反するものではない。」と評価しようとしてる部分は誤りである。


(P222)

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 このような事態にあって、米国の要請があれば、集団的自衛権を行使して、自衛艦が救援に向かうのは憲法違反であるとは考えられません。

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 9条の下では三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」しか認められておらず、これを超えるものについては「憲法違反」となるため行うことはできない。「集団的自衛権の行使」とは、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」となることから、「憲法違反」である。

 論者が「憲法違反であるとは考えられません。」と述べている部分は、憲法違反であるため誤りである。


iza【正論】集団的自衛権は違憲といえるか 駒沢大学名誉教授・西修 2015.6.12

【正論】集団的自衛権は違憲といえるか 駒沢大学名誉教授・西修 2015.6.12

 国連憲章51条が「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を「固有の権利」としている部分について、「自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の概念であり、この国家承認を受けて国際法上の法主体としての地位を獲得し、国連に加盟した場合に、この『権利』の適用を受ける地位を有することとなる。

 

 「『固有の権利』は、国連で公用語とされている仏語でも中国語でも『自然権』と訳されている。人が生まれながらにしてもっている権利が自然権であるように、国家がその存立のために当然に保有している権利が個別的自衛権であり、集団的自衛権なのである。」とあるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「人は生まれながらにしてもっている権利が自然権」との部分について、詳しく検討する。

 憲法上では、「国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。(憲法11条)」とされており、「国民(現在及び将来の国民)」であれば法主体として認められ、「基本的人権」という『権利』を与えられ、享有を妨げられることはないとされている。学説上は「国民」だけでなく、外国人や法人にも性質上可能な限り『権利』の適用を認めることができるとされている。ただ、「人権」は憲法典を定めて国家が形成される以前から人がもともと有している『権利』であるとする「自然権(前国家的権)」とされることがある。

 民法上では、自然人については、「私権の享有は、出生に始まる。(民法3条)」とされており、「出生」によって民法上の主体(法主体)として認められることになる。法人の場合は「法人は、この法律その他の法律の規定によらなければ、成立しない。(民法33条)」とされており、法律によって成立し、法主体として認められることとなる。

 刑法上の主体(法主体)として認められるのは、「自然人」と「法人」である。犯罪行為の主体について、自然人の場合、法文上では通常「者(〇〇した者)」と表現されている(刑法)。

 国際法上の法主体として認められるのは、「国家」と「国際機構」と「個人」を挙げることができる。「国家」については、他国による国家承認を得ることによって、国際法主体となる地位を取得することになる。


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B 国際法主体
  国際法主体(subjects of international law)とは、上述の法主体性が国際法上で認められる存在である。すなわち、国際法の法律関係の当事者となりうるもの、国際法上の権利が付与され、義務が課される主体のことである。国家が積極的、能動的主体であるのに対し、国際機構はその能動性において限定的な主体であり、個人はさらに受動的かつ消極的な主体であるといわれる。フェアドロスによれば、「能動的国際法主体(aktive Volkerrechtssubjekte〔筆者:※〕)」は国際法を直接定立する地位にある主体であり、「受動的国際法主体(passive Volkerrechtssubjekte〔筆者:※〕)はすでに存在する国際法によって権利・義務が与えられる主体である。国際社会における唯一の能動的国際法主体である国家は、その意味からも、典型的国際法主体なのである
 国連をはじめとする国際機構が、その構成要素(メンバー、構成員)である国家から独立して、それ自体が国際法上の権利、義務の主体となりうる能力、すなわち国際法主体性・国際法人格を有することには異論がない。しかし、国家が他国による国家承認を得て、国際法主体たる地位を当然に取得するのに対し、国際機構については国家と同じように設立と同時に国際法主体を当然に有する存在なのか(生得説)、設立条約で認められた時に初めて国際法主体となるのか(設立条約説)について学説の対立がある。多数説は後者である。……(略)……
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 (〔筆者:※〕と記載した部分については、英語ではないアルファベットが用いられている部分があり、スペルが正確に反映できていない。)

 「国家がその存立のために当然に保有している権利が個別的自衛権であり、集団的自衛権なのである。国家がその存立のために当然に保有している権利が個別的自衛権であり、集団的自衛権なのである。」との部分について、国際法上の法主体として認められている「国家」が、「自然権」として有しているとされる『権利』とは、条約などの明文上の規定がなくても国家として認められていることによって当然に有する『権利』の意味であると考えられる。これは、憲法上で規定する「基本的人権」について、憲法によって明文の規定が置かれていなくとも人として認められていることによって当然に享有する『権利』の意味である「自然権(前国家的権利)」と対応する考え方だからである。

 しかし、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という区分は、国連憲章51条によって初めて規定された考え方であり、国連憲章制定前に用いられていた「自衛権」の概念は、国連憲章51条の区分でいえば「個別的自衛権」に該当するものである。そのため、確かに国連憲章51条には「個別的又は集団的自衛の固有の権利」との記載があるが、「集団的自衛権」については国連創設時に新しく考え出された区分であり、国連憲章が定められる以前から国家として承認されているだけで行使することのできる『権利』とは考えられていなかった。その意味で、「自衛権(国連憲章51条でいう『個別的自衛権』」については国連憲章が定められる以前から国家が有する「自然権」の一部であると表現することができるとしても、「集団的自衛権」についても「自然権」の中に含まれると考えることは妥当とは言えない。


 ただ、いくら国際法上において日本国が「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有することを確認しても、憲法9条の下において日本国の統治権の『権力・権限・権能』が「武力の行使」を実施することができるか否かは別問題である。

 例えば、刑法上で「正当防衛(刑法36条)」の適用を受けることのできる場面であったとしても、その人が自身の行動規範によって「人を殴ることはしない」と決めて「非暴力」を貫くことができることと同様に、国際法上で「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の適用を受けることができる場面であったとしても、その国家が政策上「武力の行使」を行わないことができることは当然、憲法上で自国の統治権の『権限』に制約をかけることで「武力の行使」を抑制することは当然に可能である。


 そのため、国際法上国家の「固有の権利」として『権利』が認められたとしても、憲法上で自国の統治権の『権限』に対して制約を設けることで「武力の行使」を制限したとしても全く矛盾することはない。論者は、
国際法上の『権利』のことを、国家の統治権の『権限』と混同している部分がある。「自衛権」という『権利』は、国家の統治権の『権限』による物理的な実力を意味するわけではないことを理解する必要がある。


 「日本国憲法は、自衛権の行使を否定していない。」との記載があるが、確かに憲法9条は国際法上の「自衛権」という『権利』の概念を直接制約する規定ではないため、『権利の行使』そのものを否定しているわけではない。しかし、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使する事態とは、国家によって「武力の行使」が行われた場合に国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって違法性の責任を問われるところを、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』を行使することによって違法性を阻却することを意味する。そのため、「自衛権の行使」には通常「武力の行使」が伴っているのであり、9条はこの日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのである。論者はこのことを区別したうえで「自衛権の行使を否定していない。」と表現しているのか疑問である。


 その後、論者は砂川判決の論旨を持ち出すことによって「日本国憲法は、自衛権の行使を否定していない。」とする趣旨を裏付けようとしているが、論者の持ち出している部分は「自衛のための措置」に関する部分であり、「自衛権」の部分とは異なる。砂川判決が9条が「自衛権」を否定していないと説明しているのは、「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」の部分である。
 砂川判決が9条は「
自衛権」という『権利』を否定したものでないと述べてはいるが、だからと言って、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるかは別問題であり、砂川判決はそれについては何も述べていない。また、砂川判決が示した「自衛のための措置」の内容は「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。


 「政府は、国連加盟に際し、何ら留保を付さなかった。それゆえ、本来、自衛権のなかに個別的自衛権と集団的自衛権をともに入れて解釈すべきだった。」との記載があるが、日本国は国家承認を受けて国際法上の法主体として認められており、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も同様に適用を受ける地位を有している。また、「自衛権のなかに個別的自衛権と集団的自衛権をともに入れて解釈すべき」などという話も、「自衛権」と表現される場合、それは「個別的自衛権」の部分だけを意味するのか、「集団的自衛権」も含むのかという議論であり、「国連加盟に際し、何ら留保を付さなかった」ことと何ら関係がない。


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 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
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衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 論者は『権』の意味の読み間違えていることによって、すべての論旨に混乱が見られる。


 「政府統一解釈は、昭和56年5月29日の『答弁書』」に記載された「我が国を防衛するため必要最小限度」とは、三要件(旧)の基準を意味するのであり、「集団的自衛権を行使すること」による「武力の行使」は「その範囲を超えるもの」ということは、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないという意味である。論者はこの見解が提出された時期がの政治情勢を持ち出し、「論理的な帰結というよりも、政治的な解決という色彩が色濃く反映された結果といえる。」としているが、「我が国を防衛するため必要最小限度」との文言が三要件(旧)の基準を意味することを理解すれば、政治情勢など入り込む余地がないことは極めて明らかである。

 「日本は主権国家であり、憲法上、自衛権の行使が否定されていないのならば、なぜ集団的自衛権の行使が認められないのか。」については、国際法上日本国は国家承認を受けており、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も適用を受ける地位を有している。しかし、憲法上で「武力の行使」が制約される結果、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす場合の「武力の行使(実力行使)」しか認められておらず、この範囲は国際法上の評価概念としては「個別的自衛権」に該当するものであり、「集団的自衛権」については三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」となるため9条に抵触して違憲となり、行使することはできない(行使する機会がない)こととなる。論者の疑問は、これが理解できていないことによるものである。


 「国際法上、主権国家として当然に認められている集団的自衛権の行使を認めないというのは、日本は主権国家ではないというのか。」との記載があるが、日本国が国家承認を受けて国際法上の法主体として認められており、主権国家であるし、「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しており、国際法上ではこれを行使することができることは当然である。しかし、9条は、この『権利』を制約してるわけではないが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、その「武力の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たすことが求められているだけである。「集団的自衛権の行使」が認められないのは、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす「武力の行使(実力行使)」に限られることによる付随的な結論でしかなく、9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の概念を否定しているかのような認識は誤りである。よって、日本国は国際法上の主権国家であるし、日本国の統治権の発生に伴う主権(最高独立性)も保たれている。「主権国家ではないのか」との指摘は論者の誤解によるものである。


 「集団的自衛権の行使は、なぜ憲法上、許される必要最小限度を超えるのか。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない。この第一要件を満たす「武力の行使」に限られる理由は、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解に示されている通りである。何も、9条が「集団的自衛権」という『権利』を否定しているわけでも、この1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権」という『権利』の適用を否定しているわけでもない。1972年(昭和47年)政府見解は、「いわゆる集団的自衛権」と述べている通り、憲法上の用語ではなく、国際法上の用語であることを確認し、この区分にあたる「武力の行使」は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないために、憲法上容認されない旨を述べているだけである。


 「憲法上、許される必要最小限度の集団的自衛権の行使はありうるのではないか』。そんな根本的疑問に十分に答えないまま、何十年も過ぎてきたのが現状だ。」との記載があるが、「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準のことを意味するのであり、「集団的自衛権の行使」はこの第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないため、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が入り込むことはない。


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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
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衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 「そんな根本的疑問に十分に答えないまま、何十年も過ぎてきたのが現状だ。」との部分については、論者がこれを理解できていないことにより疑問を何十年も抱き続けているだけである。また、論者は国際法上の『権利』と、憲法上の国家の統治権による『権限』の違いを理解することで、疑問を解消することができる。


 「政策上の問題である。」との記載もあるが、これは、憲法解釈上の問題であり、法律論である。


 「集団的自衛権を合憲、あるいは少なくとも違憲とはいえないという立場をとる憲法学者は、少なからず存在する」との記載もあるが、その者の論旨は上記の点で誤りである。



西修・駒沢大名誉教授「安保関連法案、明白に憲法の許容範囲」 2015.6.20


  「9条で自衛権の行使は認められている。」との記載があるが、正確に理解する必要がある。まず、9条は「自衛権」という国際法上の『権利』を否定する趣旨の規定ではない。そのため、国際法上において「自衛権の行使」を行うことそのものを否定する趣旨ではない。しかし、国連憲章の下で「自衛権」を行使する場合、それは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分を行使することによって阻却することを意味することから、通常国家による「武力の行使」が行われている。しかし、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。これにより、国際法上は、「自衛権の行使」として「武力の行使」の違法性を問われない場合があるにしても、日本国の統治権の『権限』については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うことは全て違憲となるのである。「自衛権の行使」との表現を用いる場合、そこに「武力の行使」が伴っているのかを正確に理解する必要がある。

 

  「集団的自衛権は個別的自衛権とともに主権国家の持つ固有の権利だ。」との部分であるが、国際法上において国家承認を受けたならば国際法上の法主体として認められ、主権国家としての地位を獲得することになる。そして、国連加盟国であれば、51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』を行使して国連憲章2条4項によって問われる違法性を阻却する地位が与えられることになる。しかし、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、9条の下で日本国の統治権の『権限』が制約されている範囲は何ら変わらないのであり、別問題である。


 「安保関連法案は限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲だ。」との記載があるが、誤りである。

 まず、「限定的な集団的自衛権」との表現であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定的な集団的自衛権」という区分は存在しない。

 次に、「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、その『権利』の範囲は国際司法裁判所の管轄する事項である。

 三つ目に、「集団的自衛権の行使」について、これは「武力の行使」が伴うものであるが、9条は日本国の統治権の『権限』に対して制約を課している。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「憲法の許容範囲」であるか否かについては、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が示している。これよれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲とされている。

 安保関連法案の「存立危機事態」の要件は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないことから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)から逸脱しするものであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。これにより、論者が「明白に憲法の許容範囲だ。」と説明している部分は、違憲であることから、「許容範囲」ではない。


 「集団的自衛権の行使を認めないということは主権国家ではないということなのか。」との記載があるが、国際法上は日本国も「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しており、国際法上においては行使することが認められている。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条によって制約される結果、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことができないというだけである。特に日本国の主権国家としての地位を揺るがすようなことはなく、日本国は当然主権国家である。

 「憲法上、許される必要最小限度の行使は有り得るのではないかという根本的な疑問に十分答えないまま何十年も過ごしてきたのが現状だ。」との記載があるが、従来より政府が用いている「必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味するものである。政府はこの範囲内であれば「武力の行使(実力行使)」は合憲であり、これを超えたならば9条に抵触して違憲となると説明していた。この三要件(旧)には第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在し、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中での「武力の行使」についての国際法上の違法性を阻却するものであることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に含まれない。これにより、論者が「有り得るのではないか」との疑問を抱いているようであるが、あり得ないのである。論者が「根本的な疑問」を「何十年も」かかえているのは、これを理解していないためである。


 「国民の負託を受けている国会は自衛権行使の範囲、態様、歯止め(制約)、承認のありようなどについて審議を尽くすべきだ。」との記載があるが、9条の「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については、もともと日本国の統治機関は国民からの「厳粛な信託(前文)」を受けておらず、『権限』を授権されていない。そのため、9条に示された部分は日本国の統治権の『権限』として発生していないのであり、「国民の負託」を受けていないこととなる。これにより、この9条に示された部分を行使する『権限』を国会は授権されておらず、「自衛権の行使」として「武力の行使」を行うとしても、9条に抵触しないことが求められる。9条の下で行使できる「武力の行使」の「範囲、態様、歯止め(制約)」については、従来より政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を用いている。特にその三要件の第一要件については、9条解釈を示した1972年(昭和47年)政府見解に対応するものである。

 論者は日本国の統治権の『権限』の範囲を、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を持ち出して決しようとしている場合があるが、自国の統治権の『権限』の範囲を確定する憲法解釈において、他国との間で締結することによって初めて効力を有する条約などの国際法の基準を持ち込んで判断しようというのであるから、自国に対する他国の干渉を許すことになるものである。これは、主権国家としての独立性を損なう危険な解釈である。自国の主権を守り通すのであれば、国際法の基準に捉われずに、自国の憲法上で完結する解釈を行う必要がある。

 また、国際法上の『権利』の適用を受けるとしても、それによって国家の統治権の中に『権限』が発生することはないのであり、『権利』と『権力・権限・権能』の違いを理解していない主張となっている。


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国連憲章51条は日本国憲法を上書きするように日本が集団的自衛権を行使できる、ないし行使しなければならないと日本に命じているといった見解は、日本の主権を侵害するものと言わなければならないから失当である。
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山口大学経済学部教授・立山紘毅氏 憲法学者アンケート調査


<理解の補強>

西修氏の無敵の憲法論 これだけいえば足りる! 今日から君も立派な右寄り憲法学者 2015/06/30
西修参考人意見「強弁」の無力 2015年6月24日



長尾一紘
 

〇 「権利」と「権力」を区別できておらず、混乱が見られる。


安保法制とこれからの日本 合憲説の立場から考える 長尾一紘/中央大学名誉教授


 □「日本国憲法は、集団的自衛権を否定してはいない。集団的自衛権の合憲性を確認し、日米の協力関係を強化することは、日本のみならず、東アジア、東南アジアの地域全般の平和と安定のための礎とみることができる。」さの記載があるが、認識に誤りがある。確かに憲法9条は「自衛権」という国際法上の『権利』それ自体を否定していない。そのため、日本国も国際法上の「集団的自衛権」という『権利』それ自体は適用を受ける地位を有している。しかし、「集団的自衛権」を行使するとは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することであるから、実質的に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われるている状態である。しかし、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、この範囲は1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」については全て違憲である。これにより、「集団的自衛権の行使」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条に抵触して違憲となるのである。「集団的自衛権の合憲性を確認し、」とあるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が違憲であることにより、日本国は「集団的自衛権の行使」を行うことができない(行う機会がない)。


 □「国際社会において、集団的自衛権は独立国の固有の権利として認められている。」との記載があるが、その通りである。国家承認を受けて国際法上の法主体として認められ、国連に加盟した場合には、「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのである。それは日本国においても同じである。


 □「個別的自衛権と集団的自衛権は一体のものとされており、これを区別して、集団的自衛権についてその行使を違憲とする議論は、日本だけにみられる特殊な現象だ。」との記載があるが、誤りである。まず「集団的自衛権」は『他国からの要請』に応じる形で初めて『権利』として行使することができるのであり、これがなければ国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違憲となる。そのため、「個別的自衛権」の区分とは明確に区別されており、「一体のもの」とはされていない。また、日本国が従来より「集団的自衛権の行使」が許されないと解釈してきたことは、9条の下で行使できる「武力の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準をすべて満たす範囲に限られていることから、この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権の行使」については行うことができないとしてきたものである。注意したいのは、たとえ「個別的自衛権」として国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」であっても、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たさないのであれば9条に抵触して違憲となるということである。「個別的自衛権」に基づく「武力の行使」であれば全て9条に抵触しないとされているわけではないのである。


 □「むしろ政府も国会も、より正しい憲法解釈をめざして努力することが必要とされる。」との記載があるが、その通りである。そして、2014年7月1日閣議決定においては、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、この「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張する不正がある。これにより、2014年7月1日閣議決定は解釈手続きに違法があり、結果として「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を逸脱することから、9条に抵触して違憲となる。「正しい憲法解釈」とは、1972年(昭和47年)政府見解そのものであり、2014年7月1日閣議決定は「正しい憲法解釈」とは言えない。


 □「集団的自衛権の否定、制限などありうるはずもないのだ。」との記載があるが、国際法上の『権利』を有していても、その行使を各国の憲法上で否定したり、制限することは全くあり得るものであり、「ありうるはずもないのだ。」との主張は誤りである。


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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 □「集団的自衛権の否定は、かぎりなく危険な政策だ。」との記載があるが、9条は「集団的自衛権」という『権利』そのものを否定しているわけではないが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する結果、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」の範囲は行うことができない。これは法律論としての9条解釈であり、政策論上の当否についてはここでは論じない。


 □「日本国憲法は『国際協調主義』をとっている。これによって、国際関係の在り方については、日本だけにしか通用しえない独善的な考えではなく、国際社会の常識に従うべきことが要求されているのだ。」との記載があるが、今回の「集団的自衛権」に関する問題では、国際法上の『権利』であり、『義務』ではない。そのため、「国際社会の常識」としての国際法上の解釈に則ったとしても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果として、その『権利』の行使を控えることは当然に可能であり、「国際社会の常識」にも反しない。これについて、「日本だけにしか通用しえない独善的な考え」とも言えない。日本国憲法が「国際協調主義」を採用していることにも矛盾はない。


 □「そして、独立国が集団的自衛権をもつことは、国際社会においては常識(国際慣習法)とされている。」との記載があるが、主権国家である独立国が国連に加盟しているのであれば「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることはその通りである。しかし、「国際社会においては常識(国際慣習法)」としている部分であるが、誤りであると考えられる。「集団的自衛権」は国連憲章51条によって初めて規定された『権利』であり、国連憲章が制定されるまで「自衛権」と呼ばれていたものは国連憲章51条の区分で言えば「個別的自衛権」に該当するものである。そのため、国連憲章が成立する以前や、国連憲章が廃止された場合にも通用する『権利』として慣習として成り立つかであるが、成り立たないと考えられる。そのため、「集団的自衛権」について「国際慣習法」を法源とすることは誤りと考えられる。


 □「この絶対的平和主義の影響は、現在の集団的自衛権の違憲論者に大きな影響を与えているようだ。」との記載があるが、「集団的自衛権」という『権利』そのものは9条が対象としたものではなく、合憲・違憲の対象ではない。ただ、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に抵触して違憲である。2014年7月1日閣議決定は、解釈手続き上の不正が存在する違法なものである。そのため、これを根拠に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が9条に抵触しないと正当化することはできない。


 □「集団的自衛権を否定するのは、この宮沢憲法学の影響によるものとみることができよう。」との記載があるが、9条は「集団的自衛権」という『権利』そのものを否定しているわけではない。「集団的自衛権の行使」が否定されるのは、9条解釈によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を発動できる場合が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合に限られることから来る付随的な結論にすぎないものである。



  【参考】「ある憲法学者のおつむの変遷」  驚愕の長尾一紘教授の集団的自衛権合憲説 2015年6月10日



〇 「権利」と「権限」の違いを学び直すべきである。


安保関連法案は、結局のところ違憲?合憲? 小林節氏(違憲)、長尾一紘氏(合憲)に聞く 2015/06/27


 「個別的自衛権と集団的自衛権は一体のものであり、コインの表裏の関係にある。」との記載があるが、誤りである。「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は適用される場合の要件が異なり、一体のものではないからである。特に、「集団的自衛権」の場合には『他国からの要請』が必要となり、これを得られていないにもかかわらず国家が「武力の行使」を行った場合、「集団的自衛権」の適用を受けることができず、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して国際法上違法となる。


 「個別的自衛権のみを認め、集団的自衛権の行使を否定するのは、日本だけに見られる現象だ。」との記載があるが、国際法上は日本国は「個別的自衛権」と「集団的自衛権」のどちらも適用を受ける地位を有しており、国際法上はどちらも行使することが可能な状態にある。しかし、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているため「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす「武力の行使」しか行うことはできず、結果として国際法上の区分で言えば「個別的自衛権」には該当するが、「集団的自衛権」のには該当しないという結論になるのである。9条は「集団的自衛権の行使」そのものを否定しているのではなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのである。日本国が「集団的自衛権の行使」を行うことができないことは、「武力の行使」が制約されていることから生まれる付随的な結果でしかないのである。

 

 「もし、集団的自衛権を行使できないというのであれば、世界で日本だけが”異質な国?であるということになる。」との記載があるが、日本国も国際法上は「集団的自衛権」を行使することは許されている。しかし、憲法上で9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているため、「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」を発動できないというだけである。特に通常の法解釈であり、「異質な国」というわけではない。論者の認識に誤りがあるだけである。

 「判決では『わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく』とある。ここでは自衛権を個別的か集団的かで切り分けて考えてはいない。自衛権を認めるということは、集団的自衛権をも認めることを意味する。この判決は日本国憲法が集団的自衛権を否定するものではないことを示している。」との記載があるが、誤りである。

 まず、論者は「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」との判決文の意味を正しく読み取れていない。「自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。この概念は、国家の統治権に『権限』を付与する意味を持っていない。次の文で「個別的か集団的かで切り分けて考えてはいない。」との主張が持ち出されているのは、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることと、9条によって日本国の統治権の『権限』の幅が制約されていることとを混同した主張であり、意味が通じていない。

 次に、「自衛権を認めるということは、集団的自衛権をも認めることを意味する。」との記載があるが、「自衛権」の意味は「個別的自衛権と集団的自衛権」の両方を意味する場合と、「個別的自衛権」のみを意味する場合とがあり、砂川判決の文面からそれを特定することはできない。


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 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。
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衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日

 ただ、日本国が国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』が、「集団的自衛権」に該当する区分の「武力の行使」を行うことができるかどうかは別問題である。憲法9条は、国連憲章51条の「自衛権」という概念を否定するものではないが、日本国の統治権の『権限』を制約しているのである。

 「この判決は日本国憲法が集団的自衛権を否定するものではないことを示している。」との記載があるが、砂川判決が9条は「自衛権」を否定していないと述べていることは確かであるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べておらず、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を砂川判決が否定していないとの説明であれば、論点として登場していないため、否定していないということは事実であるが、これをもって日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことが正当化されるわけではない。もし何も述べていないことを根拠にして「武力の行使」を発動できるとするのであれば、砂川判決が何も述べていない「先に攻撃(先制攻撃)」についても9条の下で可能となってしまうのであり、法解釈として成り立たないのである。


 「また現行の日米安全保障条約には、『両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し』とある。」とあるが、相変わらず、『権利』の適用を受ける地位を有しているが、この条約を根拠にして日本国の統治権に対して『権限』が付与されることにはならない。

 さらに、仮に条約が国家に対して『権限』が付与される意味を持っていたとしても、論者の持ち出す砂川判決は条約についても司法審査しうる可能性を認めており、条約が憲法に適合しない場合には、違憲と判断を下せるとしているのである。よって、条約を根拠にして9条の規範性を超えることができるかのように論じようとすることも、無理である。 



百地章・西修・長尾一紘・浅野善治


 下記は、上記の論拠と重なるサイトである。

【全文】集団的自衛権「合憲派」の西・百地両教授が会見〜①冒頭発言 2015年06月22日
【全文】集団的自衛権「合憲派」の西・百地両教授が会見〜②質疑応答 2015年06月22日

 

 


〇 下記サイトは、合憲論拠としては整合性がない。


なぜか疎外されている 「集団的自衛権は合憲」の憲法学者座談会――長尾一紘×百地章×浅野善治 2015年7月30日


 上記3ページ目で、「日本は国際法上は集団的自衛権を保有する。しかし、憲法上、保有するかどうかという点はパスして、行使は禁止されている、としたのです。もしも学生が、試験でこんな論理破綻の答案を書いたら落第ですよ。」との記述がある。

 しかし、日本は、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有している(保有している)というものであり、これは、国家に付与した『権力・権限・権能』ではない。国家の『権力・権限・権能』は、国民主権を基にした憲法である限りは、国民からの信託によって統治権という『権力・権限・権能』が発生するわけである。

 また、もし国家に『権力・権限・権能』を付与する旨の条約(国際法を批准するとしても、憲法によって発生した統治権によって締結・承認されることで初めて効力を有する条約は、憲法より下記の規定である。これにより、憲法上の強行規定である9条の制約を、条約の批准を基にして上書きして取り払うことは不可能である。


 憲法上、保有するかどうかという点について、パスしたのではない。国際法上の違法性阻却事由としての「集団的自衛権」という『権利』にあたる、国家行為としての「武力の行使」が許容されるかどうかは、憲法がその範囲を確定していることが前提なのである。


 落第しているのは、この論者であると考えられる。論者が疎外されている原因はここにあると思われる。


<理解の補強>

戦争法案の合憲性を主張する憲法学者 百地章、西修、長尾一紘の各氏ら御用学者の活用方法 2015年06月17日 



櫻井よしこ


〇 「権利」と「権限」の違いと「国際法」と「憲法」の優劣とで、二重の誤りが存在する。

「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反の大間違い」 2015.07.11


 「国際間の権利で、国際法上の権利です。」との主張は正しい。「国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。」の主張も正しい。しかし、国際法上の『権利』を有することと、その『権利』に該当する部分を国家の統治権の『権限』として行使できるかどうかは全く別問題である。よって、日本国は「集団的自衛権」という『権利』を有していても、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約されているために、行使できないのである。

 ここで憲法学者「木村草太」の発言について、「若手の憲法学者が日本国憲法のどこにも集団的自衛権があるとは書いていない」と取り上げられているが、「木村草太」の発言は、日本国の統治権として行使できる国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の権限を見つけることができないことを述べているものである。

 ここで、この論者が混乱しているのは、国際法上の「自衛権」という『権利』が、あたかも国家の統治権の『権限』であるかのように勘違いしていることである。また、国際法上の「自衛権」の概念は、国家に統治権の『権限』を付与する意味を持っていない。仮に、「自衛権」が『権利』でなく『権限』であり、国家に統治権を付与する意味を持っていてたとしても、国際法(条約)が憲法に優位することはなく、結局統治権を制約する憲法9条の規定によって制約を受ける。そのため、二重の意味で間違っている。国際法と憲法の関係を知らないからこそ、このような間違った認識を抱いているということになる。憲法学者「木村草太」の発言に誤りはない。

 「国家の領土主権は国際法上の権利であり、わざわざ各国が領土主権を憲法に書かなくても、当然認められる権利だというのだ。」との発言があるが、全くその通りである。憲法に書かれていなくとも、国際法上の領土主権が日本国にあることは当然である。集団的自衛権についても同様である。しかし、ここでもやはり、国際法上の『権利』は当然に有しているのであるが、憲法上で自国の統治権の『権限』を制約していることとは別の問題である。これを混同してしまっている点に、理解の混乱がある。国際法上の領土主権という『権利』を日本国が主張できるのは確かであるが、日本国が自国の憲法で『統治権』を制約しているかどうかは別問題である。

 「ただし、国家は主権を持っていますから、主権を一部制限したり放棄したりすることは、可能です。」との記載があるが、ここで使われている「主権」の意味が『統治権』を意味するのであれば、その通りである。憲法9条は、日本国民の国民主権原理の「厳粛な信託(前文)」によって発生する『統治権』の一部を放棄しているため、行使できない『権限』が存在するのである。その行使できない『権限』の「武力の行使」とは、まさに国際法上の「集団的自衛権」という区分に該当するものであり、憲法上で制約を受けているのである。日本国憲法にその規定は存在するのである。

 「固有の権利」「自然権」という『権利』を有していても、その『権利』を『統治権』として行使できるかどうかは別問題である。「いかなる国にとっても当然の確固たる権利だ」というのは正しいが、相変わらず『権利』と『権限』の意味を間違えているため、この論者の主張は整合性がない。

 「『憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず、集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない』と記す。」の部分についても、日本国憲法は「集団的自衛権」という『権利』を禁止しているわけではなく、「集団的自衛権」という区分にあたる日本国の統治権の『権限』を禁じているのである。

 憲法81条で、法令が「憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所」と記載されているだけである。最高裁判所は、国際法上の『権利』である「自衛権」の存在をみとめたような部分があるが、相変わらず日本国の統治権の『権限』が行使できるかどうかは別問題であり、これについては何も判断しておらず、認めているわけでもない。アンケートで得た憲法学者の判断を持って集団的自衛権を憲法違反だと主張しても、それ自体は憲法違反とはならない。これは、最高裁判所の「終審裁判所」との性質を侵しているわけではないことや、憲法21条によって「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由は、これを保障する。」とされているからである。明らかに合憲である。

 


大石眞


〇 下記のサイトは、明確な合憲論拠を適示しておらず、主張の解像度が低い印象を受ける。


安保法制は、明確に違憲といえない以上は合憲 2016年3月22日


 「限りなく個別的自衛権に近い範疇の話であると思いますし」との話であるが、まず、「個別的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の違法性阻却事由としての『権利』の概念であり、憲法9条が統治権の『権限』を制約していることとは関係がない。憲法上の9条は日本国の統治権の『権限』を制約しており、この範囲内を逸脱した時点で、違憲となるのである。ここに国際法上の違法性阻却事由の区分が関与する余地はない。


 憲法上の9条の制約がいかなるものなのかを示した基準が、1972年(昭和47年)政府解釈である。2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の部分を維持しているとする前提を置いてい。しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に記載された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているため、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれると考えることはどうしてもできない。そのため、2014年7月1日閣議決定以降、政府が「基本的な論理」と称している部分の中に「存立危機事態」の要件が当てはまるとする主張していることは、論理的整合性が保たれない主張となっており、法の支配、立憲主義、法治主義、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「デュー・プロセス・オブ・ロー」の趣旨などに反する。「存立危機事態」の要件は「基本的な論理」と称している部分の枠を逸脱しており、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲となるのである。


 また、「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が発生した時点で、「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」に該当するか否かを政府が判断することによって「武力の行使」を発動できるとするものである。しかし、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」とは具体的にどのような事態を指しているのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。そのため、この要件に該当するか否かは、政府が「該当する」と言えば該当し、「該当しない」と言えば該当しないとすることができてしまうのであって、政府の恣意性的な判断によって「武力の行使」が行われる可能性を排除することができない。このような要件は、9条が「自国民の利益」を実現しようとするその時々の政治判断によって政府が「武力の行使」に踏み切ることや、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとしている趣旨を満たさず、9条の規定の趣旨が汲み取られていないことから、9条の規範性を損うものとなっいる。これにより、「存立危機事態」の要件に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。

 要件が曖昧不明確であることは、41条の立法権の趣旨に抵触して違憲となることも考えられる。


 論者は「野放しに自衛隊を派遣するような話ではないわけですら、それを大転換だと批判したことは不思議です。」としているが、規範性を有しない要件の設定によって政府の恣意性を持った派遣が可能となる点で、大転換と言うことができる。また、内容も違憲なものであるから批判に値することは不思議でない。


 「憲法学者に求められることは、……時代と共に変化する規範を、現実の出来事に適切にあてはめていく」とあるが、憲法学者に求められることは、法に規範性を見出し、現実の需要に合わせて合法的な手段を提示することである。「変化する規範を、現実の出来事に適切にあてはめていく」ことが責任ある解釈者の姿勢なのではなく、「変化する需要に合わせて、合法的な手段を提示する」ことが責任ある解釈者の姿勢である。なぜならば、現実の出来事に規範をあてはめることを目指したならば、後付けの規範設定となり、法による一定の限界を画することで保たれる法治主義を逸脱するからである。


 合法的な手段とは、憲法改正によるしかないことは、多くの憲法学者の指摘するところであり、憲法学者は仕事を果たしていると言える。


 論者が「憲法改正の手続きが定められているのも、〝憲法がすべてお見通し〟というわけではないからです。」と述べてることは、その通りである。しかし、2014年7月1日閣議決定で設けられた「存立危機事態」の要件については、この閣議決定でも解釈の前提として採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分から逸脱するものである。つまり、解釈変更の限界を超えるものであるから、憲法改正が必要な事項なのである。憲法解釈は、合法性の範囲内で行われる必要があり、それを越えた場合は不正・違法であるため、憲法改正によるしか手段はないのである。それが憲法解釈の作法である。


 「明確に禁止規定がない以上は」違憲とは言えないとの主張であるが、9条の解釈で政府自身が採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分から逸脱する要件であれば、政府自身の違憲審査基準に逸脱して違憲となるのである。「明確に禁止規定がない」のではなく、9条という禁止規定を解釈した場合に、明確に違憲となるという話である。


 また、立法府が制定した存立危機事態の条項についても、侵害的な行政活動でありながら、曖昧不明確な要件を設定したものであるから、41条の立法権の趣旨からも違憲と考えられる。「明確に禁止規定がない以上は合憲となる」との判断は妥当でない。

九条の下でも集団的自衛権の行使は容認されているとする憲法学者は割りと多い(大体七名ほど) 2015-06-16



井上武史


九州大学大学院法学研究院准教授・井上武史氏 憲法学者アンケート調査

 「政府は、新たな憲法解釈の『論理的整合性』を強弁するが(違憲説の根拠もこれである)、これが戦略的に誤りであった。」との記載があることから、論者は2014年7月1日閣議決定において、政府が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提として「存立危機事態」の要件を定めたことは、妥当でないと考えているようである。そのため、論者自身も政府自身が設定した「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準によれば、「存立危機事態」の要件は違憲となると考えていると思われる。

 「集団的自衛権の行使許容論(上記)が憲法上可能な主張であることも紹介してほしい。」との記載があることから、論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の違憲審査基準を使わない場合、憲法には「集団的自衛権の行使」を禁ずる趣旨が明確に書かれていないことを理由として、「集団的自衛権の行使」が許容されると解することができると考えているようである。しかし、「集団的自衛権を行使する」ということは、実質的には「武力の行使」が行われているのであり、9条はその「武力の行使」を制約しているのであるから、9条の制約の範囲によっては「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」が禁じられることは当然にあり得る。また、「集団的自衛権の行使」をするということは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」が行われているのであり、それを9条2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」という軍事権とは異なるもの説明することはできない。9条の下で「集団的自衛権行使」としての「武力の行使」を行うことができるとする考えは、9条2項が禁じる軍事権と、それ以外の行政権との間に一定のラインを明確に設定することができなくなるため、9条の規範的意味を喪失させ、9条の規定が存在している意義を無視することになる。この考え方は、9条の規範性を損なうことになることから、法全体の意味を整合的に解釈することを不能にする点で妥当とは言えない。

 「安全保障という高度に政治的で、また、刻々と変転する国際情勢の動きに機敏に対処しなければならない課題を、憲法解釈という枠組みで論じることの是非こそが問われるべき。」との記載があるが、政策論上の当否と法律論上の合法・違法は異なるのであり、どのような政策を行おうとしても「憲法解釈という枠組み」の範囲内で行わなければならない。そのため、「国際情勢の動き」に対処するために現在の「現法解釈という枠組み」を超えようとするのであれば、それは憲法改正の必要がある。

 「『歯止め』については、それを憲法に求めるのではなく、選良である国会議員や首相・大臣の判断をもう少し信用してはどうか」との記載があるが、憲法上の規定として9条が存在しているのであれば、国家の統治権の『権限』は制約されるのであり、「国会議員や首相・大臣の判断」が憲法上の規範(歯止め)を超える形で『権限』を行使することはできない。論者の主張は、9条を憲法規範と見なしていない誤りがある考えられる。



<理解の補強>


中央大学法学部教授・橋本基弘氏 憲法学者アンケート調査

西南学院大学法学部教授・齊藤芳浩氏 憲法学者アンケート調査

安保法案はなぜ違憲なのか? 東北大の2教授に聞く 2015年7月14日



〇 国際法上の『権利』と国家の統治権の『権限』を混同している。

 

井上武史(九州大学大学院) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


 □「日本国憲法を見ると、個別的自衛権と同様に、集団的自衛権の行使についても明確な禁止規定は存在しません。それゆえ、憲法の文言からは、集団的自衛権の行使を明らかに違憲と断定する根拠は見いだせません。」との記載があるが、前提認識に誤りがある。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、「武力の行使」を行うことができる範囲を確定した結果として国際法上の区分でいう「集団的自衛権の行使」となる「武力の行使」を実施できない場合は当然にあり得る。9条が国際法上の概念である「集団的自衛権」を直接的に制約したり、否定したりしなければならないと考えている部分が誤りである。


 □「憲法9条1項を国際法上の用法に従い武力行使禁止原則を掲げたものと解する有力な立場によれば、同項が禁止するのは、国策の手段としての『戦争』および日本が当事国となっている国際紛争についての『武力による威嚇又は武力の行使』であり、自衛のための武力行使は禁止されていない、ということになります。そうすると、憲法解釈によっても、個別的・集団的自衛権の行使が禁止されている、と直ちに結論づけることはできないと思います。」との記載があるが、誤りである。
 まず、9条は日本国憲法上の規定であり、これは国連憲章の効力の有無にかかわらず、日本国内で独立した効力を有する。そのため、日本国憲法は国連憲章が廃止された場合にも同様に効力を持ち続けているのであり、9条が制約していない範囲を確定する解釈において、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の区分を基準に用いることはできない。論者のような混乱を防ぐためには、国連憲章が廃止された場合に、9条が日本国の統治権の『権限』を制約している範囲がどのような形であるかを考えると分かりやすい。国連憲章が存在しない中では「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の区分も存在しないのであり、これを基準として憲法規定である9条の制約範囲を決することはできない。憲法9条の下で日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能な範囲を確定する解釈においては、もっぱら我が国に対する侵害の有無を基準として考えるしかないのであり、「他国に対する武力攻撃」に起因する形で「武力の行使」を発動できる場合を見出す余地はない。論者の言う「自衛のための武力行使」とは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」に限られるのであり、この「自衛のための武力行使」の中に「他国に対する武力攻撃」に起因する形での「武力の行使」が含まれるはずがない。この規範は日本国憲法上の独立した法体系に属するものであるから、たとえ国連憲章が効力を有する場合にも結論は異ならない。そのため、論者が「自衛のための武力行使」の中に国連憲章51条で認められている「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を含めている点は誤りである。


 □「現在の憲法のどこを修正すれば、集団的自衛権行使が認められるようになるのか)」についてであるが、少なくとも前文「平和主義」の理念とそれを具体化した規定である9条を削除した場合には、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を憲法上で制約する規定は存在しなくなることから、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことができるようになる。


 □論者は「集団的自衛権行使および安保法制の合憲違憲の議論と、安保法制への賛否の議論とは別の議論」としている点はその通りである。ただ、論者の見解は「前者の問題」についての限りで答えているとのことであるが、その見解の内容は、9条が「武力の行使」を制約していることによって、結果として国際法上の「集団的自衛権の行使」を行うことができなくなるという解釈過程を正確に理解しておらず、誤っている。


 □政府の姿勢について「『変えた』のに『変わっていない』と強弁する政府の姿勢はわかりにくいだけでなく、国民の不信を募らせる結果にもなっていると思います。」との記載があるが、論者も気づいているようであるが、2014年7月1日閣議決定の内容には、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、その「自衛の措置」の限界の規範として示されている「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると強弁する不正が存在する。これは、解釈手続き上の不正であり、解釈手続き自体が違法なものとなっている。これにより、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠内に当てはまらず、9条に抵触して違憲となる。これは「わかりにくい」や「国民の不信」というレベルの問題ではなく、違法の問題である。



集団的自衛権「合憲」学者の論理と倫理 九州大学法学部准教授・井上武史氏 2016年5月17日


   【2ページ目】


 □ここで取り上げる論者の発言ではなく、記事作成者の認識の部分であるが、「私が理解していた学説は、個別的自衛権については憲法13条『個人の尊厳』規定などを足がかりに肯定するが、集団的自衛権は根拠条文がなく、授権規定(憲法が国家機関に権限を認める規定)がない以上認められない、というものだったからだ。」との記載があるが、認識が整理できていない。
 まず、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』の中には存在しない。そのため、一度分けて考える必要がある。
 9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の一切を禁じているように見えるものの、13条の「国民の権利」の趣旨を考えると、無防備・無抵抗を求める規定であるとは解することができないとし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を9条に抵触しない範囲、あるいは9条の制約を13条の「国民の権利」の趣旨によって例外的に解除する形で認めるというものである。
 この9条に抵触しない範囲を確定する解釈では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」しか認められないと考えられる(1972年〔昭和47年〕政府見解も同じ)。
 あるいは、9条の制約を13条の「国民の権利」の趣旨から例外的に会食する解釈によれば、13条の適用される「日本国の領域」に対する直接の武力攻撃が発生した場合での「武力の行使」しか認められない。
 これらの9条解釈の下で行使できる「武力の行使」は、「自国に対する武力攻撃」を満たす中での「武力の行使」であることから、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で表現すれば「個別的自衛権」に該当する。しかし、「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであることから、9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲を超えるものである。これにより、日本国の統治権の『権限』は、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないのである。
 「集団的自衛権は根拠条文がなく」との部分について、「集団的自衛権の行使」が実質的には国家の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置であることを理解する必要がある。「授権規定」についても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を正当化する規定が存在するか否かの問題である。また、「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であり、日本国の統治権の『権限』ではないことを押さえる必要がある。


 □「つまり『集団的自衛権について日本国憲法は触れていないので安保法案は違憲』だと考えていたのだが、井上は『否定も肯定もしていないので違憲とはいえない』というのである。」との記載があるが、9条は「自衛権」という『権利』を否定する規定ではないことは確かである。これは砂川判決でも示されているし、政府解釈でもそのように示されている。しかし、「自衛権の行使」とは通常「武力の行使」が伴っているのであり、9条はこの「武力の行使」を制約する規定である。9条により日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約され、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を実施することは9条に抵触する範囲に該当し、違憲となるのである。論者は「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」が伴うことを理解していないと考えられる。


 □「個別的自衛権や集団的自衛権は国際法によって主権国家に認められた『権利』です。『権限』ではないので、その行使に憲法上の授権規定は必要ありません。」との記載があるが、これはその通り正しいものである。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国家承認を受けて国際法上の法主体として認められた国家に対して与えられる『権利』であり、憲法上で正当化される国家の統治権の『権限』ではないからである。


 □「そうでないと、憲法をもたないイギリスは行使できないことになりますが、実際には行使していますね。」との記載があるが、理解に誤りがある。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国際法上の法主体としての地位を獲得する「国家承認」を受けて国連に加盟しているならば認められる『権利』である。そのことから、「イギリス」が「国家承認」を受けて国連に加盟しているのであれば、当然に行使することのできる地位を有していることになるのであり、「不文憲法」であるか否かは関係がない。


 □「また、上記の違憲説は、国家と国家機関を混同しています。『集団的自衛権を行使できるか』の主語は『日本国』という国家なのであって、国家の一機関である『内閣』ではありません。だから、授権規定の有無はもともと問題になりません。」との記載があるが、論者は国際法上の『権利』と日本国の統治権の『権限』を混同しているため、誤っている。確かに国際法上「集団的自衛権を行使できるか」という主体は国家承認を受けた「日本国」という国家である。しかし、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使できるという意味である。そのため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については関係がない。国際法上の『権利』を国際法上で「行使できるか」、つまり、国際法上で「主張する地位を有するか」という論点に、憲法上で正当化される統治権の『権限』を授権する「授権規定の有無」がもともと関係なく、問題にならないことはその通りである。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果として、「武力の行使」の発動要件や程度・態様が制限され、国際法上の「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことが制限されることは当然にあり得る。論者は「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴い、9条はこの「武力の行使」を制約していることを理解できていない。


 □「9条が集団的自衛権を『国家として』放棄しているかどうかだけが問題で、放棄していないのであれば、あとは国会で行使に必要な法律をつくればよいのです」との記載があるが、9条は「自衛権」を否定する趣旨ではなく、当然「集団的自衛権」という『権利』の概念を否定する規定ではない。そのため、9条は「集団的自衛権を『国家として』放棄している」というわけではないことは確かである。しかし、9条によって「日本国民」が「武力の行使」等を放棄しているため、日本国の統治機関はもともと9条に示された部分の『権限』を有していない。そのため、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、9条のような規定を持たない国家に比べて、発動できる場合や発動した場合の程度・態様が狭いこととなる。これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないとしても何ら矛盾はない。そのため、「集団的自衛権」について論者のように「放棄していないのであれば、あとは国会で行使に必要な法律をつくればよい」との結論には至らない。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に抵触して違憲である。あるいは、「集団的自衛権の行使」については、13条の「国民の権利」の規定が適用される「日本国の領域」に対する武力攻撃が発生していない中で「武力の行使」を行うものであることから、13条によって正当化できる範囲を超えており、結果として9条に抵触して違憲となる。



憲法は平和主義とともに国際協調主義も要請している 井上武史 2016年6月27日


 「なぜなら、集団的自衛権は国際法で認められた権利であり、もともと国家はそれを正当に行使することができるわけですから、あらためて行使を認める根拠を見つける必要などありません。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。「集団的自衛権は国際法で認められた権利であり、もともと国家はそれを正当に行使することができるわけですから」までは正しい。国際法上で国家承認を受けた法主体である国家は、国際法上で『権利』自体を行使することは可能である。しかし、「あらためて行使を認める根拠を見つける必要などありません。」との内容に誤りがある。「行使を認める根拠」であるが、「行使」とは、国家の統治権の『権限』によって行われる措置のことを言う。この国家の統治権の『権限』による措置を国際法の違法性阻却事由としての『権利』である「自衛権」として行使する場合、通常「武力の行使」が行われることとなる。しかし、日本国の場合は、9条の規定が存在し、この9条が日本国の統治権の『権限』を制約しているのである。この制約の範囲を示した見解が、1972年(昭和47年)政府見解であり、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものである。国際法の「集団的自衛権」という『権利』を行使するという区分に該当する「武力の行使」については、この1972年(昭和47年)政府見解で設定された「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから、日本国の統治権の『権限』としては違憲となるため許されず、「武力の行使」ができないということである。結果として、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を認める根拠を見つけられないという意味である。


 論者の誤りは、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を有していることが、直ちに国家の統治権の『権限』の根拠となると考えている点である。国家の統治権の『権限』は、憲法上に定められた『権限』でなければ正当化することはできないことは当然、国民主権原理を採用する国家の場合は、国民の信託(授権)こそが国家の『権限』を行使する際の正当性の根拠なのである。それを無視して国際法上の『権利』を有していることを理由として、憲法規定で制約を受けている『権限』を行使できると解していることは意味が通らない。


 「問題は、集団的自衛権の行使を憲法が禁止しているかどうかですが、実際のところ、憲法の中で、集団的自衛権の行使を明確に禁止している条文は、見当たりません。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権の行使」という表現は国際法上の用語を用いた認識であり、これにあたる国家行為を国内法で表現すれば通常「武力の行使」である。この「武力の行使」を明確に禁じている条文は、9条が存在する。そのため、論者の「禁止している条文は、見当たりません。」という認識は、同一行為が国際法上と国内法上の用語で表現が異なっていることを認知していないことによる誤解である。


    【参考】関西大学法学部・村田尚紀氏 憲法学者アンケート調査

 「憲法9条は『自衛のための武力行使』を禁止していない、というのは有力な学説で、これに基づいて個別的自衛権の行使は正当化されてきました。」との記載があるが、厳密には誤りである。なぜならば、9条の制約を受けている中での「武力の行使」を許容する基準は、1972年(昭和47年)政府見解であり、この基準を超える「武力の行使」に関しては、たとえ「個別的自衛権」の区分として国際法上の違法性が阻却されようとも、違憲であることには変わらないからである。「個別的自衛権」であれば、その「武力の行使」がすべて正当化されるというものではないのである。9条の下で許容される「武力の行使」の範囲は、「個別的自衛権」として国際法上で許容されている「武力の行使」の範囲よりも小さいのである。


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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第094回国会 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日 (下線は筆者)

 「では、なぜ個別的自衛権はよくて、集団的自衛権はいけないのかということになりますが、その明らかな根拠を憲法の中に見いだすことはできません。」との記載があるが、これについては先ほども述べたように、1972年(昭和47年)政府見解によって許容される「武力の行使」を発動するには、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たす必要があり、この要件を満たさない中で行われる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、違憲となるために行使できないということである。よって、「その明らかな根拠を憲法の中に見出すことはできません。」との主張は、論者がこの憲法解釈の過程に関する知識を欠いているためである。「明らかな根拠を憲法の中に見出すことは」できるのであり、論者の認識は誤りである。


 「自衛権を集団的と個別的とで区別し、前者だけを禁止するということを憲法が明確に示していない以上、集団的自衛権の行使が違憲であるとは断定できないのです。」との記載があるが、憲法解釈において、国際法上の基準を用いて「集団的自衛権」と「個別的自衛権」に分けて解釈されているとの事実はない。また、憲法は「武力の行使」を禁止しているのであり、国際法上の「自衛権」という『権利』を禁止しているわけではない。「集団的自衛権の行使が違憲であるとは断定できない」との記載であるが、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていない中で行われる「武力の行使」を禁じている以上は、その要件を満たさない中で行われる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は違憲と断定できるのである。「断定できない」との認識は、憲法解釈の内容を正確に理解していないためである。



 「特に2014年7月の閣議決定で示された新三要件は、かなりの歯止めになったと思います。従来の72年見解(詳細記事)の表現を盛り込んだあたりは、法律論としてたいへん優れたものであったと評価できます。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張されているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在するにもかかわらず、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を可能とする「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として許容するものである。これは、論理的整合性が存在せず、解釈の過程を誤ったものである。これを「法律論としてたいへん優れたもの」と評価する論者は、法学上求められる論理的整合性を無視するものである。「新三要件は、かなりの歯止めになった」との評価であるが、1972年(昭和47年)政府見解とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定し、政府の恣意的な判断によって行われる「武力の行使」に歯止めをかけるものである。それにもかかわらず、新三要件の「存立危機事態」の要件は、「他国に対する武力攻撃」が発生した段階で、その影響が「我が国の存立」や「国民の権利」の危険などという自国の状態を政府が判断することによって「武力の行使」を行うことができるとするものであるから、歯止めにはなっていない。また、9条の趣旨を生かした憲法解釈の基準である1972年(昭和47年)政府見解の枠組みにも当てはまらないものであることは当然、9条が自国の都合によって政府が「武力の行使」を行うことを制約しようとした趣旨から求められる規範性も損なっているものであるから、違憲である。



〇 論点を掴み切れていない誤解がある。


井上武史 Twitter


 憲法で禁止されていること以外は法律で定められるというのは、確かに基本的には常識である。また、確かに国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を憲法上に直接位置づけている国があるかどうかも疑問である。


 しかし、「個別的自衛権」を13条で根拠付ける必要などそもそもないとの考え方であるが、ここには憲法と国際法の法分野の切り分けを理解していないものと思われる。


 まず、「武力の行使」は、国家の統治権の『権限』によって行われる。通常の国家であれば、自国の憲法によって統治権の『権限』に対する制約をかけていないため、統治権の『権限』による「武力の行使」は憲法上では無制限に可能である。


 しかし、国際社会では他国との間で条約を締結し、条約締結国との間で「武力の行使」がなされることを禁じようと試みられているのである。この点、不戦条約や国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって、締結国によって行われる「武力の行使」は一般的に禁止されている。ただ、条約を締結した各国は、不戦条約では明示的ではないが暗黙の了解として「自衛権の行使」は可能であると解されていた。また、国連憲章においても、加盟国には国連憲章51条で「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』を行使できる地位が与えられており、この区分に該当する場合には、加盟国が「自衛の措置」として「武力の行使」を行ったとしても、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を阻却することができる。


 しかし、日本国の場合は、憲法上に9条が存在しており、この規定は日本国の統治権の『権限』を制約しているのである。この9条が制約しているものが何かという解釈は大きく、①「武力行使全面放棄説」、②「武力行使一般放棄説」、③「芦田修正説」に分かれる。


 ここで、解釈の基準となるものは、規定の意図が正確にくみ取られ、論理的整合性や体系的整合性が最も確からしいものを選択することである。なぜならば、論理的整合性や体系的整合性の確からしい解釈は、法的安定性を維持することや、予見可能性を保つことが可能となり、法が社会の中で安定的に通用するという有益性の価値をもたらすことに繋がるからである。


 まず、①の「武力行使全面放棄説」について検討する。まず、前文には全世界の国民が「平和的生存権」を有する趣旨や、日本国民が「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思う。」との趣旨が記載されていることから、当然日本国民が生存することが予定されているのであって、これらの記載と同様に憲法規定として定められている9条の内容が「日本国民」や日本国民からの「厳粛な信託(前文)」を受けることによって成立する日本国の政府(統治権)に対して無防備・無抵抗を求める規定であるとは解することができない。このため、世界各国が「武力の行使」を全面的に放棄することができる程の「国際平和」が実現されることは、憲法前文の「平和主義」の理念や9条1項が「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、」と定めている趣旨からも日本国憲法の目指すところであることに疑いはないが、9条の意味を解釈する際に9条が日本国政府に「自衛の措置」を一切行わないという無防備・無抵抗を求めている趣旨の規定であるとは解することができない。日本国も「自衛の措置」をとることは可能であり、砂川判決の示した事例によれば9条の下でも「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を行うことは許容されると考えられる。ここで、「自衛の措置」の内容として日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるか否かであるが、もし先に挙げた「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」が有効に機能しない場合や、それらが日本国に対する急迫不正の侵害を排除するために十分でない場合に、それでもなお、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を禁じていると解することは、日本国が武力攻撃を受けることによって国民の生命が奪われる事態においても抵抗を許さないとするものであり、人権保障を目的とする憲法の原理から考えて妥当な解釈とは言えないと考える。そのため、9条が日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われることを無制限に認めていると解することはできないけれども、9条が日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」を全面的に禁じる趣旨と解することもできない。よって、9条解釈において「武力行使全面放棄説」を採用することは妥当でないと考えられる。


 次に、③の「芦田修正説」について検討する。これは、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」の文言を「戦争」や「武力の行使」の範囲を限定する意味と解し、その1項の趣旨を9条2項の「前項の目的を達するため」の文言が受けることによって、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」についても9条1項が限定的に放棄した「武力の行使」等を行うことを目的とした「陸海空軍その他の戦力」を指し、それ以外の「陸海空軍その他の戦力」(自衛のための戦力)については保持が可能であるとする解釈である。

 ただ、9条1項で「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」が禁じられているのであれば、当然そのための「陸海空軍その他の戦力」が禁じられることは通常想定されるのであり、敢えて9条2項前段で「陸海空軍その他の戦力」を禁じる規定を定めることで日本国の統治権の『権限』を制約しようとする意図を生かすことができない解釈となる。すると、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」が何を禁じるために設けられているのか分からなくなり、規定の存在意義自体を失わせてしまう点で、整合的な法解釈とは言い難い。

 また、日本国の統治権の『権限』が「陸海空軍その他の戦力」を保持できると解釈するのであれば、日本国憲法の制定(改正)前の大日本帝国憲法から軍事に関する『権限』がカテゴリカルに消去し、さらに9条による制約を加えるという徹底した軍事権限の排除を行った立法意図から見られる法の体系的な整合性を欠くこととなる。


 残るのは、②の「武力行使一般放棄説」である。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を一般に禁じているように見えるが、実際に自国が武力攻撃を受けて国民の生命が奪われるような事態でも無抵抗を強要する規定と解することは、国民の人権を保障を実現しようとする憲法の趣旨(特に13条)に反することとなるため妥当でなく、「武力の行使」が可能な部分があると考える。しかし、だからと言って9条が存在する以上はその規定が禁じようとした国家の行為(権限)が存在すると考えることが妥当であり、それが何かを明らかにし、9条の国家の行為を制約しようとした趣旨を生かした形で解釈するものである。


 この点、9条の趣旨は、「自国民の利益」を実現する動機や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として、政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを禁じた趣旨の規定であると考えられる。そのため、「武力の行使」を発動した場合の合憲・違憲を判定する基準について、政府がその時々の政治判断によって変更できてしまうとする基準であるかのように考えることは、法解釈として妥当性を欠く。このことから、「武力の行使」を合憲的に発動できる場合を見出すとしても、政府の恣意的な判断が入り込む余地のない客観的に明確な基準を設けることが必要となる。


 この政府の恣意的な判断が入り込む余地のない基準を設定する場合、我が国の国内の事情を基準としたり、政府が自国の状態を意図して作出して要件に該当させることが可能となる「自動性(能動性)」を含むものであってはならない。また、具体的に何を意味しているのか通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがないような曖昧不明確な要件として、政府の主観的な判断に頼ることとなる「主観性」が含まれていてはならない。さらに、その基準に該当するか否かを誰もが識別することができる「明確性」を有していなければならない。

 そうでなければ、政府の恣意的な判断の入り込む余地のある要件となってしまい、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを排除しようとした趣旨を満たさず、9条の規範性を損なうとこととなり、9条に抵触して違憲となるからである。

 

 この観点から、「我が国に対する急迫不正の侵害が発生したこと(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に基準を設定することは、我が国に対する外国の行為に基準を設定したものであり、攻撃国の作用によって引き起こされる受動的な出来事であるから、日本国政府の恣意的な判断が入る余地がない。これはある出来事があったかなかったかを容易に判別することができる事態の『性質』面に判定基準を置いたものということができる。その点で、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした趣旨が保たれており、9条の規範性は損なわれていないと考えることができる。

 また、この「我が国に対する急迫不正の侵害」を満たす中で、これを「排除」する目的のための「必要最小限度」の範囲の「武力の行使」であるならば、前文が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、」として政府の恣意によって「武力の行使」が発動されることを禁じようとする趣旨を損なっていないと考えられるし、同じく前文が「全世界の国民」の「平和的生存権」を確認し、日本国がその「全世界の国民」の「平和的生存権」を侵害することがない意思を明確にすることによって「国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。」と宣言している趣旨にも反しないと考えられる。

 さらに、「我が国に対する急迫不正の侵害」を「排除」するための「必要最小限度」の範囲内での「武力の行使」を行うことは、日本国政府が無防備・無抵抗をとるわけではないことから、他国によって行われる日本国への侵害から日本国民の人権保障を最低限守ることができるのであり、人権保障を目的とした憲法の理念(13条の趣旨)にも沿うと考えられる。

 この観点から、「武力行使一般放棄説」を採用して「武力の行使」を発動できる場合を見出す場合に、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすことを基準とすることは、憲法解釈として最も論理的整合性や体系的整合性の高い安定した解釈といえると考えられる。このような憲法解釈上の妥当性から、1972年(昭和47年)政府見解においても「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の規範が設定されている。


 また、2項前段で「陸海空軍その他の戦力」を禁じている以上、「我が国に対する急迫不正の侵害が発生」したとしても、その行動は軍事の権限や軍事組織には当たらない程度の必要最小限度性も要求されると考えられる。


 これに比べて、「他国に対する武力攻撃」に起因して、その『他国からの要請』に応じて「武力の行使」を行うことは、この範囲には含まれるとは考えることができない。②の「武力行使一般放棄説」で9条が「武力の行使」を一般に禁じている趣旨に抵触して違憲となったり、『他国防衛』のための「武力の行使」をする組織については、13条の「国民の権利」の趣旨によって例外性を根拠づけることができないことから、結果として9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるからである。


 「集団的自衛権の行使」として行われる「武力の行使」については、「他国に対する武力攻撃」に起因して行う「武力の行使」であり、その「武力の行使」も「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」となるから、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」である。このことから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行う組織については、2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」の軍事権限に抵触して違憲となる。


 加えて、「存立危機事態」での「武力の行使」については、法解釈上妥当な②の「武力行使一般禁止説」において例外的に「武力の行使」の発動を許容する際に、事態の『性質』面によって政府の恣意性を排除した客観的に明確な基準を設ける必要があるところを、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合のによる恣意的な動機によって「武力の行使」に踏み切ることが可能となってしまう事態の『数量』面に基準を設けたものとなっている。これは、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさず、9条の規範性を損なわせることになるため、9条に抵触して違憲である。


 また、この「存立危機事態」での「武力の行使」を行う組織についても、2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。


参考:「性質」と「数量」の違いについて
「法律違反だが犯罪ではない」が成立する中国 「1円盗んでも罪は罪」の日本人には飲み込みにくい 2018年6月19日

コンビニコーヒー「50円窃盗」で10日間拘束は長すぎか? 2019年02月09日

 

井上武史 Twitter

 厳密には、「憲法が集団的自衛権の行使について立法権を制限しているかどうか」ではなく、「憲法9条が『国際法上の違法性阻却事由としての集団的自衛権(権利)』にあたる国家の権限(統治権:立法権・行政権・司法権)による「武力の行使」を制限しているか」である。

 憲法を法解釈する際、論理的整合性や体系的整合性を考えると、9条は日本国の統治権による「武力の行使」を一定の範囲で制約しており、その制約された「武力の行使」が、国際法上の集団的自衛権という違法性阻却事由として認められる部分と言えるという話である。


 よって、憲法を整合的に法解釈すると、国際法上の集団的自衛権にあたる国家の「武力の行使」を許容する法律を立法することは違憲となることから、立法権も制限しているのである。



井上武史 Twitter


 「通貨発行権」とあるが、これは、国際法上の『権利』とは違うと思われる。また、通貨の発行は、国会の立法した日本銀行法などの法律によって設立される機関によるものと思われる。


 それに比べて、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である。この「集団的自衛権の行使」にあたる国家の行為とは、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」である。ただ、日本国憲法9条は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は違憲とされている。

 日本国も国家承認を受けていることから、国際法上の法主体として認められており、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を国際法上でフルで主張する幅は与えらている。しかし、日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を実行しようとしても、9条が制約となって行使できないのである。


 このことから、「国際法上の『集団的自衛権』が9条で違憲となる」という考えは厳密には誤りであり、「国際法上の『集団的自衛権の行使』としての日本国の統治権の『権限』による『武力の行使』は、9条によって制約を受けるために違憲となる」という表現が正確である。


 論者は「権」という言葉の背景に、国際法上の『権利』を指す場合と、国家の統治権の『権力・権限・権能』を指す場合があることを捉えられていない。また、9条が日本国の統治権の『権限』を制約しているという前提の認識を持てていない。そのため、このような誤解をしているものと思われる。



井上武史 Twitter


 その通りである。論理と証拠を積み重ねる「法の支配」の理念によって、論者の主張は排除されることになる。違憲となる論拠に真摯に耳を傾けるべきである。



篠田英朗


〇 法学上の論点でない情報によって、法学上の論点を正確に抽出することができておらず、多くの混乱が見られる。


9条解釈「通説」と、目的と手段の倒錯 2018年02月26日


 「そこで国際秩序の維持に必要な制度として、集団安全保障と自衛権の二つが、合法化されている(国連憲章7章・51条)。日本国憲法は、本来はこうした国際法規範の考え方にそって理解されるべきものだ。」との記載があるが、国連憲章51条の違法性阻却事由としての『権利』の概念と、国家の統治権の『権力・権限・権能』を制約する9条の規定は、別物である。まず、国連憲章の違法性阻却事由の『権利』の範囲がいかなるものであるかという基準を決するのは、国際司法裁判所の管轄である。9条の規定の制約の基準については、日本国の統治権によって解釈されるものであり、国会、内閣、そして最終的には日本国の裁判所の管轄である。

 「日本国憲法を起草したアメリカ人たち」に関係なく、国際法については国際法の基準で判断し、日本国憲法については日本国の統治権によって判断されるのである。日本国の憲法学会は、その前提を弁えているために、国際法上の基準に従って9条の規定を解釈しようとしないことは当然である。

 学校教育や資格試験などを通じて、この前提を正しく理解させている。論者の理解が、国際法と憲法の法分野の違いについて前提認識が誤っているのである。

 9条の規定は、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である「自衛権」を制約してはいない。日本国の統治権を制約しているだけである。あまりに倒錯しているのは論者の方である。

 自国の統治権の正当性の根拠すら見失い、国際法上の『権利』を絶対化することでしか憲法を語れないようでは、論点を見誤ることになる。

 『権利』と『権限』を取り違えてしまったのだろう。

 「集団的自衛権」に関わる問題に付いて、合憲論者の多くがどうしても『権利』と『権限』を混乱してしまうことは、とても残念である。



小西洋之参議院議員の「篠田はホロコースト否定論者と同じ」説を見て 2018年01月11日


 2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を前提として、「存立危機事態」の要件を導き出したとするものである。

 しかし、もしその前提となっている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に、「存立危機事態」の要件が含まれないのであれば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を違憲審査基準として、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は違憲・無効となるのである。

 この点、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に、「我が国に対する」外国の武力攻撃以外に、「我が国と密接な関係にある他国」を読み取ることは論理的、科学的に不可能であるために、違憲となるとの意味である。

 「1972年の内閣法制局長官に従っていないために違憲」などという評価ではなく、2014年7月1日閣議決定の前提となっている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しない要件(存立危機事態)が含まれているために、違憲なのである。

 これは、文面上明らかであるから、当時の内閣法制局長官に従わなければならないという性質のものではなく、文面上の前提から違憲の結論が導き出されるとするものである。

 その論点を正確に読み取れていないために、あたかも人治主義的な主張がなされているかのように勘違いをしてしまったものと思われる。



〇 砂川判決が条約についても違憲審査できる旨述べていることを押さえていれば、この説は採用できないことが分かる。


憲法学者独裁の憲法裁判所は危険だ 2017年12月01日


 「憲法優位説」について、砂川判決でも条約の違憲審査が可能であることを示していることによっても裏付けられている説である。

 憲法98条2項で条約・国際法規の遵守が定められていたとしても、それは変わらない。

 条約法条約27条が存在していても、そもそも条約法条約自体が条約なのであるから、憲法に優位することはない。また、この条約法条約の言っている「自国の国内法上」とは、法律以下の法令であると思われる。そもそも憲法によって「国家」が定義されるのであるから、「自国の国内法」という「自国」とは、憲法なのである。この「自国」の中に憲法が含まれるとした場合、日本国の主権(統治権+最高独立性)が損なわれる。

 また、条約法条約27条の「条約の不履行を正当化する根拠」に関わる問題に付いて、特に国際法上の違法性阻却事由としての「権利」が関わるとも思えない。


 国会会議録を確認する。

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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 その後の主張も、「自衛権」の概念が国際法上の違法性阻却事由としての『権利』であり、9条が日本国の統治権の発動を制約しているものであるとの前提が理解できていれば、意味が通じていないことが理解できるはずである。



「必要最小限の実力」という概念について 2018年04月03日


 「国際法にそって、『必要性』と『均衡性』による自衛権の制約の規範を、しっかりと受け入れるのが王道である。」との記載があるが、日本国は国際法上の違法性阻却事由である「自衛権」の『必要性』と『均衡性』をしっかりと受け入れている。

 「必要最小限度の実力」とは、憲法解釈上、統治権によって保有できる実力の範囲を示したものである。

 この両者に矛盾抵触はなく、しっかりと受け入れているにもかかわらず、受け入れていないかのような論旨は誤りである。


<理解の補強>


http://konishi-hiroyuki.jp/wp-content/uploads/2014/05/5-20140421182051996.pdf

http://w2.konishi-hiroyuki.jp/wp-content/uploads/2014/05/5-20140421182051996.pdf


〇 論じようとしている内容が掴めていないままに批判を展開しているため、正確な批判に行き着いておらず、論旨が通じない。


長谷部恭男教授の「立憲主義」は、集団的自衛権の違憲性を説明しない 2017年10月26日


 「長谷部教授は、立憲主義の観点からは、集団的自衛権の違憲性を、全く説明しない。」との記載があるが、「立憲主義の観点から集団的自衛権の違憲性を説明」との意味を捉えることができない。なぜならば、立憲主義と、9条の憲法解釈と、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である「集団的自衛権」は、直接的な関係性がないからである。

 また、憲法学者「長谷部恭男」は「集団的自衛権」にあたる国家の統治権の『権限』について、「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきません」と述べており、違憲性の根拠を説明している。


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○長谷部参考人 安保法制というのは多岐にわたっておりますので、その全てという話にはなかなかならないんですが、まずは、集団的自衛権の行使が許されるというその点について、私は憲法違反であるというふうに考えております。従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつきませんし、法的な安定性を大きく揺るがすものであるというふうに考えております。
 それからもう一つ、外国の軍隊の武力行使との一体化に自衛隊の活動がなるのではないのか、私は、その点については、一体化するおそれが極めて強いというふうに考えております。
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第189回国会 衆議院 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 (下線・太字は筆者)


 恐らく、論者はこの意味を正しく読み取れていないと思われる。この「従来の政府見解」とは、1972年(昭和47年)政府見解のことであり、この「基本的な論理」は、2014年7月1日閣議決定の中でも維持されていると主張されているのである。この「基本的な論理」の枠組みを維持する以上は、「集団的自衛権」にあたる国家の統治権の『権限』は、政府自身の違憲審査基準によって違憲となるのである。

 この論者のその後の主張についても、ここを押さえられていないために、全体の意味がはっきりしないものとなってしまっている。

 恐らく、国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」の基準と、憲法上の統治権の『権限』の範囲に関する憲法解釈の基準について、同一視していることによる混乱と思われる。

 安定した憲法解釈のためには客観的に明白な基準を定める必要があり、その基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解で導かれている「(我が国に対する)外国の武力攻撃」であることも十分には認知できていないように思われる。

 この9条解釈の規範を政府が論理的整合性のない形で踏み越えることは、憲法が国家の行為を制約する立憲主義の精神に反することになるのである。


長谷部恭男教授の「憲法学者=知的指導者」論に驚嘆する 2018年04月26日


 憲法学者「長谷部恭男」のアイスクリームの話については、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の部分を、憲法上の制約で国家の統治権の『権限』として行使しないことは何の矛盾もない旨を述べているものである。


金正恩氏は、憲法学者の言うとおりに、まだミサイルを発射するか? 2018年05月01日


 憲法学者「長谷部恭男」のアイスの話は、国際法上の『権利』と国家の統治権の『権限』が異なることを示したものである。

 その中で、「長谷部恭男」は国家の統治権の『権限』を制約している9条解釈は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合していない旨を述べている。説明していないのではなく、説明の意味を理解できていないことによるものと思われる。



長谷部恭男教授の「砂川判決」理解を疑う 2018年05月06日


 まず、日本国憲法9条は、は国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由を禁ずる趣旨のものではない。よって、この国際法上の『権利』は行使できる可能性はある。しかし、9条は日本国の統治権を制約しているのである。

 砂川判決では、国際法上のいかなる「自衛権」の部分にあたる国家の統治権の『権限』を行使できるかどうかについては、説明しておらず、「個別的自衛権」の部分についても、「集団的自衛権」の部分についても、説明はしていない。

 「『憲法優越説』が正しく、憲法が禁止している行為は、条約を根拠に実施することはできないとしても、結局、憲法典(憲法学者ではない)が禁止しているかどうかをあらためて精査するだけのことだ。」との説明があるが、条約が国家の統治権に新たな権限を付与する意味を持っていたとしても、「憲法優位説」によって違憲審査されるわけである。

 「日本国憲法98条2項にしたがって、『日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする』義務を、『憲法優越説』で否定することはできない。」との説明もあるが、憲法とは国家であり、国家の行動は憲法によって制約されるのであるから、日本国は「条約及び確立された国際法規」が憲法に違反していた場合には、締結することはできない。条約を締結する内閣や承認する国会についても、99条にて国務大臣と国会議員に憲法尊重擁護義務が課せられており、憲法に違反する条約を締結することはできない。さらに、締結し、承認してしまえば条約が憲法に優位するとなれば、国家の主権の独立性に関わる問題を発生させ、統治権が外国の法的策略などの干渉を受けることになる。また、条約によって憲法改正を行うなど、内閣の締結と国会の承認のみによって憲法を破壊する可能性を開く解釈も妥当でないことから、98条2項の誠実遵守義務は、憲法に適合するものに限られると解することが妥当である。

 この議論とは別に、相変わらず実際には日本国は国連憲章の『権利』を有しているだけであり、誠実遵守をしたところで、国家の統治権を制約する9条の趣旨と矛盾するところはない。


〇 13条は何も制約をかけていない。むしろ9条の制約を一定程度開くような側面を持つものである。


あらためて木村草太教授の集団的自衛権違憲論に疑問を呈する 2018年04月13日


 「したがって集団的自衛権の違憲性は、違憲性を主張する側に、立証責任があるのである。」とあるが、集団的自衛権とは国際法上の違法性阻却事由としての『権利』であって、それ自体に違憲性は存在しない。問題となっているのは、国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の権限(統治権)による「武力の行使」が、9条に違反して違憲となっているかどうかである。そのため、国際法上で違憲性を主張するわけでもなく、立証責任の問題にも及ばない。

 「ただし、それを除去する措置は、せめて個別的・集団的自衛権行使の範囲内で行うべきだ、という制約は、むしろ憲章51条がかけているのであり、憲法13条がそのような制約をかけているという読解は、とても自明だとは思えない。」との説明があるが、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対して、国連憲章51条の違法性阻却事由としての「自衛権」の範囲を制約しているのは確かであるが、13条が憲法上の統治権に制約をかけているとの趣旨は誤読である。憲法学者「木村草太」の説明は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」とほぼ同じ説と思われ、9条が国家の統治権による「武力の行使」を一般に制約しているが、だからと言って無抵抗を要求することは、13条の国民の権利を最低限守り通すことを求められている国家の義務を放棄することになるから、統治権による「武力の行使」ができる部分が存在することを認める趣旨である。

 これは、9条が統治権に対して制約を課していることによる論旨であり、13条が制約をかけているものではない。また、13条の国民の権利が拡大することによって自国都合の「武力の行使」が行われてしまうことを防ぐために9条の規定が設けられているのであるから、その「武力の行使」が許容される範囲とは、13条の拡大を防ぐことのできる恣意性の入る余地のない客観的に明確な基準が求められるのである。その中で、「我が国に対する」外国の武力攻撃が発生したことに基準を設けることは合理的であり、その範囲を国際法上の違法性阻却事由の区分で表現するならば、おおよそ「個別的自衛権」の部分であり、「集団的自衛権」の部分はこれに含まれないということである。

 「なぜ他の国連加盟国が自明視している自衛権の理解を、日本の憲法学者だけは否定し」とあるが、日本の憲法学者は国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」を何ら否定していない。単なる憲法上で統治権に対して9条が課している制約について論じているだけである。日本だけは「必要最小限度」を制約概念として運用しているのは、憲法上に他国には見られない日本独特の9条の規定が存在しており、統治権を制約しているからである。これは国際法上の違法性阻却事由としての自衛権の区分を制約しているわけではない。憲法学者は、十分に論理的で、憲法典に根拠を見出す精緻な議論を提供していると言える。恐らく論者がそれを読み取ることができなかったものと思われる。

 分かりづらかったのであれば、筆者も憲法学の世界がより分かりやすい世界となっていくことを願いたいと思う。


木村草太教授の学説は憲法学界を代表しているのか 2018年04月15日


 「『軍事権』という概念それ自体が聞いたことがなく、内容も不明だ。」との記載があるが、まず、憲法9条2項で「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」とあるように、軍事に関する権限は保持しないことが明確になっているのである。これに該当するような統治権の行使があれば、9条2項に抵触し違憲であり、これに抵触しなければ、行政権の範囲内ということである。

 「カテゴリカルな軍事権の消去」についても、大日本帝国憲法の軍事規定と日本国憲法を比較すれば明らかであると考える。日本国憲法は、大日本帝国憲法の改正という形をとっていることから、「軍事権のカテゴリカルな削除」も説明が通ると思われる。



三権分立は世界で日本だけ?画期的な日本の憲法学通説 2018年04月17日


 三権分立の考え方に従えば、軍事組織を創設する権能は立法権、運用する機能は行政権にあるだろうことは確かであるが、日本国憲法の場合は、それらを行うことを9条2項の「陸海空軍その他の戦力」の規定が制限し、軍事権限を削除しているのである。

 憲法学者「木村草太」は、「軍事権」=「統帥権」=「第四権」という主張をしているわけではないため、論者の認識は誤りと思われる。


 「木村草太」の記事を確認する。
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 まず、解釈の整合性とは、ある解釈が、憲法の他の条項やその解釈と整合的であることを意味する。例えば、憲法65条は、「行政権は、内閣に属する」と定めるが、この「行政権」に侵略戦争をする権限が含まれるとの解釈は、戦争放棄を規定した憲法9条と整合的でない。国民は、憲法9条の文言から、政府は戦争をしないだろうと予測するはずなので、こうした整合性のない解釈は、国民の予測可能性を大きく裏切るものになる。
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安倍政権の解釈改憲の動きは行使容認の立場から見ても危険だ―『Journalism』5月号から― 2014年05月12日 


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 外国防衛を日本政府に義務付けた規定は、憲法には存在しないと明確に言えます。また、日本国憲法は軍事権を政府に与えていません。73条に内閣の権限が示されていますが、行政権と外交権は付与されているものの、軍事権は与えられていないのです。これは9条の2項で「戦力を持ってはいけない」と規定されているのでその帰結です。
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木村草太氏に聞く 安保法案はなぜ批判されるのか(上) 2015.7.27


木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点(1)集団的自衛権の扱い 2018年05月09日


 憲法学者「木村草太」が述べているのは、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」の中に、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」の部分とは関係なく、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』とは、我が国にに対する武力攻撃が発生した事態であると読み取ることしかできないのであれば、これは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合して合憲であり、その「武力の行使」についても国際法上の「個別的自衛権」の違法性阻却事由の区分に該当するという意味である。(木村草太は9条と13条の趣旨や憲法の体系的な整合性を読み解くことで直接違憲審査しており、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を用いなくとも集団的自衛権に基づく「武力の行使」は違憲と判断しているかもしれない。)


   <参考>

   木村草太氏の「テレビが伝えない憲法の話」その2 by 大西誠司 2016年12月01日


 論者の「しかし『存立危機事態』や『武力攻撃事態等』といった概念は、あくまでも日本の国内法制上の概念である。それらが常に必ず集団的自衛権と個別的自衛権と同じものを指しているわけではない。」との説明は全くその通りである。

 ただ、「木村草太」が述べているのは、「存立危機事態」の要件の中に「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」という、国際法上の「集団的自衛権」にあたる区分が含まれていることと、その後、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』との国際法上の「個別的自衛権」であるかのような部分は、一つの要件の中に重なっている部分があるのではないかとの説明であると思われる。

 重要なのは、「存立危機事態」の要件である『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』の部分が、「我が国に対する武力攻撃が発生した事態」の区分としか読み取ることができないのかどうかである。

 もし、この要件が「我が国に対する武力攻撃が発生した事態」について示したものであるならば、国際法上の「個別的自衛権」の区分であるし、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合して合憲ということである。

 論者の「そもそも憲法にそった説明であれば、まず憲法上の言語を用いて、違憲行為の性格を描写するべきである。そのうえで、国際法上の概念が、その合憲性/違憲性の範囲にどうかかわってくるかを、具体的に論じていくべきだろう。」との説明は、全く正しいものである。その通りである。

 ただ、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分で許容される「武力の行使」の要件は、国際法上の「個別的自衛権」の区分の要件とほぼ同じものであり、簡便な説明として分かりやすく説明した場合、このような説明になるものと思われる。



木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点(2)国際法の軽視 2018年05月11日


 「集団的自衛権の行使を全て禁止するといった方法は、侵略行為への対抗手段を保障して国際法秩序を維持しようとする国際的な努力を無視することに等しい。」との記載があるが、憲法上の努力と、国際法上の努力を分けて考えるべきである。また、両方で努力した方が、二重の縛りがあり、より安全であると思われる。

 憲法学者「木村草太」が述べているのは、9条で原則禁じられている部分の国家活動について、憲法上に明確な例外規定が存在するかどうかである。

 国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の統治権の『権限』を行使する作用については、9条2項の禁ずる軍事的な権限と見なすことが妥当であり、9条の原則禁止に該当する。その原則禁止を解除するかのような憲法上の例外規定が存在するかどうかについて検討したものであり、見つけられないことは、この原則禁止に該当して違憲ということである。

 国際法上の問題についても、『権利』と、憲法9条の制約する国家の統治権の行使としての『権限』とは論点が異なり、矛盾は生じない。

 その後の主張も、9条の原則禁止に対して例外を基礎づける憲法上の規定が存在しない以上、下位の法令はすべて違憲となるということである。このことから、国際法上の「集団的自衛権」にあたる部分の含まれた国家の統治権の『権限』としての「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条の制約に該当し、例外規定もないことから、違憲となるということである。

 執行手続きを定める通常法が存在していても、その法令が違憲であれば、政府はその『権限』を行使することができないのである。

 最後の部分も、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』は、濫用された場合にそれを是正するための仕組みが未発達であり、実効性も十分でないために、自国の憲法上で国家の統治権による「武力の行使」を厳密にコントロールすることには意義があると考える。

 「木村草太」は、何も「国際法上の権利を否定」しているわけではなく、国家の統治権による「武力の行使」の『権限』を制約する方法について述べているだけである。

 また、国際法は『権利』について定めているだけであるから、憲法規定と矛盾することはなく、憲法98条2項には違反しない。


木村草太教授『自衛隊と憲法』の問題点(3)芦田修正説レッテル貼りの虚妄 2018年05月15日


 憲法学者「木村草太」が述べているのは、「芦田修正説」を前提とした場合、大日本帝国憲法で定められていた統帥権や軍の編成権などについて、日本国憲法の内閣の権限を定めた73条に規定が存在しないことは不自然である旨を述べたものと思われる。

 そのため、内閣事務の73条2号で「外交関係を処理すること。」が定められているにも関わらす、軍のコントロールに関わる規定が存在しないことは、「軍事権のカテゴリカルな消去」によるものと考えることが妥当であり、その一貫した意図(コンセプト)を貫いて制定したはずである憲法は、9条2項に関しても、徹底的な軍事権の削除の意味と解釈することが妥当である旨を述べたものと思われる。そのため、「芦田修正説」による軍の保持を前提とする解釈は妥当でないという結論になるのである。

 また、憲法66条2項の文民条項についても、何も軍を保持することを前提として定めているものではなく、「軍事権のカテゴリカルな消去」を徹底する旨であり、9条と合わせて徹底した平和主義を実現しようとするものと解釈することが妥当となるのである。


木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点④「砂川判決」理解のアナクロニズム 2018年05月19日


 砂川判決が否定していないのは、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』である。

 しかし、我が国の統治権の『権限』として、この「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたる部分の「武力の行使」をすることができるかについては、述べていないのである。

 この違いを押さえれば、砂川判決が「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』が合憲であること前提とした判断であるとの論旨は導かれないと理解できると思われる。

 その他、9条解釈において、日本国の統治権が行うことのできる「武力の行使」の範囲について、「我が国に対する武力攻撃が発生」との基準を設けることは、9条が自国都合によって政府が恣意的な判断による「武力の行使」を行うことを防止するための規範として存在する趣旨を生かすことのできる効果的なものと考える。この基準に従って「武力の行使」の許容される範囲を確定し、9条の規定の規範性を保つことは、合理性が認められると考える。



木村草太教授の『自衛隊と憲法』の問題点⑤軍事権学説による戦前の肯定 2018年05月22日


 まず、大日本帝国憲法の「統治権」についてであるが、その内容については別の規定で定められている。大日本帝国憲法4条は、あくまで天皇が統治権を「総攬」している旨を定めているだけである。


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第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
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 大日本帝国憲法において「統治権」とされているものは、具体的には「立法権」「執行(行政)」「司法権」などのことである。


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第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第57条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
2 裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
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 日本国憲法においては、41条「立法権」、65条「行政権」、76条1項「司法権」が定められており、特に『統治権』それ自体が削除されているわけではない。

 また、「統治権」は国王だけが有するものというわけでもなく、日本においても国民が革命により奪取しなければならないものというわけでもない。

 憲法学者は「統治権」について、大きく3つに分かれる「主権」の意味の一つである旨を述べているだけである。


 日本国憲法中では、「統治権」とほぼ同じ意味の、「国権」という用語が使われていることも確認しておこう。

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第9条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

第41条 国会は、国権の最高機関であつて、国の唯一の立法機関である。
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 軍事権限の消去についても、大日本帝国憲法から日本国憲法に改正する過程のことや、通常の憲法で定められている軍事に関する権限が日本国憲法では規定を有さない旨を述べているものである。統治権が消去されることがないことは当然である。統治権が消去された場合、日本国はもはや国家ではなくなる。

 「統帥権」概念がないといえば済む話かどうかについては、大日本帝国憲法11条、12条だけでなく、13条、20条、31条、32条などの軍事に関する規定も削除されている点に注目する必要がある。


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第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制及常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ及諸般ノ条約ヲ締結ス
第20条 日本臣民ハ法律ノ定ムル所ニ従ヒ兵役ノ義務ヲ有ス
第31条 本章ニ掲ケタル条規ハ戦時又ハ国家事変ノ場合ニ於テ天皇大権ノ施行ヲ妨クルコトナシ
第32条 本章ニ掲ケタル条規ハ陸海軍ノ法令又ハ紀律ニ牴触セサルモノニ限リ軍人ニ準行
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 これらが徹底して消去されていることを軍事権限のカテゴリカルな消去という表現以外に良い言葉はあるのだろうか。

 軍事に関する権限が日本国憲法に存在しないことだけでなく、日本国憲法には9条で「陸海空軍その他の戦力」の保持が禁じられているのである。

 これによって、国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の権限が行使される場合、それはどう見ても「軍事権限」に該当し、9条2項で禁じられているものと評価できるというものである。

 現代国際法は、「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由として「自衛権」という『権利』の区分を設けることによって、各国の無制約な「武力の行使」を禁じようと試みられているが、国家の統治権の『権限』を直接制約しているわけではないのである。

 この違いを理解することが困難であったのかもしれないが、やや唖然とするところである。



憲法9条は「集団的自衛権」を認めている 2017年9月8日
憲法9条は「集団的自衛権」を認めている 国際法無視の「トンデモ論」の害悪 2017.9.8


 「しかし憲法典は『自衛権』について語っていない。『自衛権』を定めているのは、国連憲章であり、国際法である。」との主張があるが、まさにその通りである。その通りであるけれども、「自衛権」とは国連憲章上の『権利』である。2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由である。この区分に該当する「武力の行使」を行う主体は、憲法上で定められた統治権(立法権・行政権・司法権)の『権限』である。

 よって、憲法学者は憲法学における「自衛の措置」の許される範囲を統治権の観点から正確に解釈しているだけであり、何も国連憲章の違法性阻却事由としての『権利』について語っているわけではないのである。

 国際法上の『権利』と、憲法上の『権限』の違いが理解できていない人が多いことは、日本社会における不健全な現象の一つであるといえる。

 正当防衛の権利と、正当防衛で使う物理的な有形力の行使をするかどうかは、別の話であるように、国際法上の『権利』と、統治権が「武力の行使」をするかどうかは別の話である。この区別をしないのは、かなり異様な光景である。

 『権利』と『権限』の違いを無意識のうちに混同してしまっていることは残念なことである。

 「国際法の概念は国際法にそって理解する」との主張は、その通りである。ただ、国民主権原理によって正当化される国家の統治権の範囲は、憲法によって制約されるわけであり、それを憲法上の議論として行うことはまっとうである。


自衛隊「必要最小限」の概念はいつできた?国際政治学者が経緯を検証 電子上の国会会議録にあった「欠落」 2018.4.2


 「『必要最小限の実力』などという憲法典に書かれていない意味不明な概念を排し、国際法上の概念である『自衛権』をしっかりと憲法典に位置づけると、話は明快になる。」との記載があるが、「必要最小限度」の概念は、憲法解釈上の概念である。「自衛権」の概念は、国際法上の概念であることは正しい。しかし、国際法上の概念を憲法典に位置づける(書き込む)ことは、主権国家としての独立性に関わる問題と思われる。

 「自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』の概念が、『必要性・均衡性』によって制約されていることは確かであるが、これ自体は各国の憲法典上の国家の権限を直接制約する意味を持っていない。これを逸脱した場合、国際法上の「武力不行使の原則」に違反し、国際法上の責任を問われるというだけである。この判定は、国際司法裁判所の管轄である。

 それに対して、日本国の統治権に対しては、9条解釈によって「必要最小限度」(自衛のための必要最小限度)の制約が定められている。これは、国際法とは別の法分野として独自の縛りをかけるものである。

 まとめると、
①国際法の『権利』は「必要性・均衡性」で制約 ⇒ 国際司法裁判所の管轄
②憲法上の国家の統治権の『権限』は、「必要最小限度」(自衛のための必要最小限度)で制約 ⇒ 日本政府や日本の裁判所の管轄
である。

 日本の憲法学も、「自衛権」が国際法上の概念であることには、気づいている。ただ、国際法上の制約と、憲法上の制約が、別の性質であることも気づいているのである。それに早く気づくことが大切だろう。

 ただ、改憲案9条の2に「必要最小限度」を書き込んだ場合に、現在の憲法解釈上の「必要最小限度」(自衛のための必要最小限度)の意味とは変わってしまうことは確かである。


これでわかる「憲法9条」の本当の論点〜なぜいま「改正」なのか? 解釈が曖昧だとムダが多い 2018.5.3


 「権限の行使にあたっては、自衛権に必要性と均衡性の制約を課す国際法と調和した運用が王道だ。」との記載は正しい。ただ、日本国は平和主義を宣言し、独特の9条の規定を設けた国家であり、他国とは異なる自国独自の制約を課しているのである。

 何も、憲法学者の顔色をうかがいながらではなく、日本独自の制約を憲法上有している以上は、憲法解釈によってその基準が設定されるわけであり、国際法上の制約とは別物である。


日本の憲法学者が分析したがらない「砂川事件の3つの神話」を検証 事態はかなり深刻かもしれない… 2018.8.1


 「自衛権」は国際法上の『権利』であり、日本国が有していることは当然であるが、統治権としての「武力の行使」の権限、「実力組織の保有」の権限は9条によって制約されているのである。ただ、砂川判決は、この日本国の統治権の範囲については何も述べていない。



民進党は"9条"で分裂する必要はなかった 集団的自衛権は「違憲」ではない 2017.10.19


 「それは自衛権を『例外』として認めるという独特の考え方の帰結である。」との記載があるが、謝りである。「自衛権」とは国際法上の概念であり違法性阻却事由としての『権利』である。9条の規定は、憲法上の統治権を制約しているわけであり、この国際法上の『権利』それ自体を制約するものではない。そのため、「自衛権を『例外』として認める」というものではない。

 ただ、9条の武力行使一般禁止に対する『例外』的な「武力の行使(自衛の措置)」については、政府解釈に示されている通りである。

 下記の違いを押さえる必要がある。

◇ 「自衛権」⇒ 国際法上の『権利』
◇ 「自衛の措置」⇒ 国家の統治権の『権限』による「武力の行使」

 そのため、国際法上の「留保」などの論点は存在しない。

 ほとんどの憲法学者は「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の間に、越えられない一線があるというような、国際法上の基準を用いて国家の統治権の行使できる範囲を判断しているわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に示された基準によって判断している。その結果、国際法上の区分でそれらを表現するならば、「個別的自衛権」の部分の国家の権限は行使できるが、「集団的自衛権」の部分の国家の権限は行使できないということである。

 注意したいのは、国家の統治権の行使は、あくまで憲法上の『権限』によって裏付けられるものであるから、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分にあたる国家の『権限』であっても、憲法上の制約を超えるものであれば違憲となり行使できないことである。9条の制約の下では、「個別的自衛権」の範囲であったとしても必ずしも「武力の行使」が許容されるというわけではないのである。

 この解釈は、特に「ガラパゴス」自衛権論といった類のものではない。主権国家として自国の憲法上の制約に従って国家の『権限』の範囲を定めることは当然である。むしろ、自国の憲法上の制約規定の意味解釈を、自国の法体系の中で解釈するのではなく、国際法上の基準を持ち込んで国家の『権限』の範囲を決めようとするこの論者の主張の方が、「ガラパゴス」と言えるのではないだろうか。これは、国際法上の『権利』と、憲法によって定義される国家の統治権の『権限』の違いを理解していない者だけの独特のものである。その結果、国際法や条約による自国の憲法への干渉を許すこととなり、主権(最高独立性)を損なってしまうのである。

 「個別的自衛権と総称される、憲法学者が例外として認める自衛権とは、いったいどんなものなのか。」との記載があるが、憲法学者は「個別的自衛権」という『権利』それ自体を例外化しているわけではないが、国際法上の「個別的自衛権」にあたる国家の権限を9条の武力行使一般禁止に対する例外として許容する解釈とは、1972年(昭和47年)政府見解である。



"ガラパゴス化"する残念な日本の憲法学者 間違っているのは「国際法」か? 2017.9.7


 「憲法学者の方々は、国家の自衛権の発動はそれ自体が公権力の発動であり、自然人の正当防衛のようなものではない、という点を理解しようとしない。」との記載があるが、「国家の自衛権の発動はそれ自体が公権力の発動であり」という部分はは、まあまあ正しい。「国家が国際法上の『自衛権』という『権利』を行使することは、それ自体は『公権力の発動』である」と表現すれば正確である。ただ、9条は「公権力の発動」を制約しているため、国際法上の「自衛権」という『権利』を行使する際にも、その制約の範囲内での「武力の行使」しか行うことができない。


安保法制をめぐる憲法学者の違憲論の検証――『集団的自衛権の思想史――憲法九条と日米安保』は何を論じたのか 篠田英朗 / 国際政治学 2016.10.07


 「憲法学者たちは、自衛権は自分を守るためだけのものなので、個別的自衛権は合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、と論じる。」との記載があるが、そのようには論じていないと思われる。9条の下で、統治権が制約されているため、その範囲を確定する解釈によって、「我が国に対する武力攻撃があった際の武力の行使(国際法上の個別的自衛権)」は合憲であるが、それ以外(以上)については違憲とする結果、国際法上の集団的自衛権の部分は違憲と論じているはずである。

 「それでは憲法典のどこに憲法学者の主張の根拠があるのかというと、どこにもない。」との主張があるが、誤りである。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の幅でしかなく、「武力の行使」を行う際は国家の統治権の根拠を必要とする。その統治権が9条によって制約されている中では、9条解釈によって導き出される範囲の「武力の行使」に限定されるのである。それが通常の憲法学者の主張の根拠である。

 「自衛権行使の合法性は、国際法にのっとって、『必要性と均衡性』で審査すればよい。」との記載であるが、自衛権の行使に対する国際法上の合法性は、国際法上の『必要性・均衡性』で審査することは当然であるが、国家の統治権の行使としての「武力の行使」については、憲法上の9条解釈で審査する必要があるのである。この法分野の違いを押さえる必要がある。

 「そしてひたすら『立憲主義とは国民が政府を制限することだ』と唱え続ける。」との記載があるが、何もこの主張は誤ったものではない。政府の行為のほとんどは、立法府によってつくられた根拠法となる法律を与えられ、権限を授権されるのである。その法律が国民の権利の保障や憲法に定めた基準に沿わない場合には、憲法が政府を制限するのである。これが立憲主義の仕組みである。

 憲法が政府を制限することを強調し、憲法が国民を制限することを強調しないのは、国民を制限するほとんどの規定は法律規定であることとの対比によるものである。論者の「国民主権論の装いをまとった国家法人説」というものが、よく分からない。憲法は人権保障のための法であり、国民主権の多数決原理によっても侵すことのできないものが存在することを前提している。絶対国民主権論の発想法に依拠しているという批判も、そのように主張する者もほとんどいないと思われる。

 「主権者たる国民が自分自身を守るのが真正な自衛権で」という部分も、何を言っているのよく分からない。憲法学者は9条の制約を受けた統治権は、その『権限』を行使できる範囲が限られているという話をしているだけであり、このような主張に何らかの繋がりがあるとも思えない。


石破茂氏は「憲法学通説」を絶対視する必要などまったくない 改憲問題から見えた安倍首相との違い 2018.10.3


 「そこで『戦争』は放棄されているが、自衛権は放棄されない。」との記載がある。しかし、日本国憲法が放棄したのは、国家の統治権の一部である。国連憲章に記載されている「自衛権」という『権利』については、もともと法分野が違うため、日本国憲法内部で議論する対象としていない。そのため、その後に続く「自衛権を放棄してしまうと、~」などという「自衛権」という国際法上の『権利』の概念を基とした議論の進め方自体が、日本国憲法の統治権の範囲を確定するための方法として妥当でない。

 「9条は、戦前の日本の行動を反省し、国際法に沿って行動することを誓っている条項だ。」との記載があるが、9条は日本国の統治権に制約をかけたものであり、国際法の『権利』としての「自衛権」の概念とは性質が異なる。そのため、これを国際法によく似た条文があるからといって、同じものと見ることはできない。また、日本国憲法の前文は国際法に沿って行動することを誓っているのではなく、自国の独善主義を排除し、国際協調主義に立つことを宣明したり、9条に具体化された平和主義の理念を宣明したものである。国際法とは法分野が違うのであるから、国際法に沿って行動することを誓っている条項との結論には飛躍がある。国際協調主義は国際法主義とでもいう考え方とは意味が異なる。

 「9条2項は、こうした国際法を遵守しようとする日本国憲法の条文と、憲法学の通説が、鋭く対峙する劇的な瞬間である。」との記載から始まる「戦争」や「戦力」の意味であるが、それを国際法上の定義に従って日本国憲法の意味を読み解こうとする点で妥当な解釈とは言えない。法学上、法分野が違うのであれば、同じ言葉でも意味が異なることはよくあることである。例えば、民法上と刑法では、同じ「正当防衛」「緊急避難」という言葉であったとしても、概念は異なる。異なる法分野であるにもかかわらず、同一概念として処理してしまおうという試みに誤りがあると考える。

 そのため、「戦争」が現代国際法で違法であったとしても、日本国憲法上で同じ言葉を使っていても、必ずしも概念が同一だとは限らない。

 また、「戦力」を英文の「war potential」と意味を読み解くことで憲法上の概念を確定しようとすることもできない。日本国憲法は日本語が原文であり、英訳は原文を翻訳者が翻訳したものに過ぎず、効力を有していない。そのため、「戦力」を「war potential」と読み解いたところで、翻訳の方法の一つを示したにすぎず、意味を確定したことにはならない。「戦力」は日本語でそのまま「戦力」というものであり、それ以外のものではないのである。また、これを国際法上の概念と切り離し、日本国憲法という法分野の中の問題として意味を読み解こうとすることは、法学上の常識的な解釈方法である。

 

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○政府委員(角田礼次郎君) 憲法の九条の英文として、いわゆる「ウォー・ポテンシャル」ということばがあることは事実でございます。また、そのことばをめぐって、たとえば潜在的戦力とか顕在的戦力というような区分をして九条二項の戦力についての解釈をする説もあることも確かであります。しかし、まあ紋切り型のことを申し上げて恐縮でございますけれども、日本国憲法の正文はあくまで日本語で書かれた「陸海空軍その他の戦力」ということばでございますから、私どもは、「ウォー・ポテンシャル」というような英文自体のそういう経緯といいますか、そういう事実があることは確かでございますけれども、そのこと自体によって解釈をそれほど左右するという考え方はかねてから持っておりません。ただ、申し上げますが、政府の考え方としましては、「陸海空軍」ということばと「その他の戦力」ということばをそれほど厳密に区別して今日まで説明しておりませんで、むしろ、「陸海空軍その他の戦力」ということで、まとめて戦力ということばで理解をする解釈の方法をとっているわけでございます。

(略)

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第71回国会 参議院 内閣委員会 第27号 昭和48年9月13日


 「戦争は一般的に違法なのだから、戦争をする権利などあるはずがない。」との記載があるが、現在の国際法上、戦争が一般に違法とされているだけであり、その戦争一般が違法とされている国際秩序が永遠に保たれるというわけではない。また、現在の世界を占める国家の大半が国連憲章という条約に参加し、その戦争違法化の流れを有する秩序の中を進んでいたとしても、その国際秩序に参加していない国家の中では戦争の違法化が徹底されているとは言えない。

 論者は国連という秩序が世界のすべてを網羅的、包括的に支配しているとの前提認識を持っているようであるが、その認識自体に誤りがあると考えられる。また、国際連合自体も、世界市民によって選挙された代表によって構成されている秩序というわけでもなく、日本国憲法前文のいう「人類普遍の原理」を満たした機関ではない。そのため、日本国憲法は必ずしも国連を中心とした秩序に正当性があるとは考えていない。日本国憲法によって生まれた日本国は、国連に替わる新たな国際秩序が誕生した場合でも、同様に国際協調主義の立場で国家運営が行われる仕組みなのである。

 「戦争は一般に違法なのだから」というのは、国際法の秩序が普遍的なものであることを前提にした論旨であり、現実の普遍的でない国際秩序の構成から考えて妥当な主張とは言えない。そのため、現在の国際法上「交戦権」などという権利が存在しなくとも、日本国憲法上で「交戦権」という概念を定義し、日本国の統治権の行使に関して制約をかけることは何もおかしなものではない。日本国憲法という自国の法分野に関して、国際法という自国以外の秩序との交渉の上に成り立つ流動的な概念を基にして意味を読み解こうとする方法は妥当なものとは言えない。

 国際法上存在しない概念が、日本国憲法に存在してはいけないと考えることに誤りがあると考える。

 「存在していないものを否定しても、現に存在している自衛権の否定にはならない。」とある。これについて、国際法上存在していなくとも日本国憲法上の意味として否認することはできる。また、国際秩序の転換が起き、国際法上も「交戦権」という概念が生まれる場合も考え、日本国憲法で否認しておくことには意味があると考える。国際法上、現に存在している「自衛権」の概念に関わる国家の統治権を否認することもできるし、しないこともできる。しかし、これは日本国憲法上の意味として「交戦権」の概念をどのように解釈するかにかかる問題であって、国際法上の概念の存在や不存在とは関係がない。

 「現代国際法を遵守するといえば足りる」という趣旨であるが、現代国際法が崩壊した場合に備えて、日本国憲法上で自国の統治権に制約をかけることは妥当なものである。あたかも現代の国際法秩序が普遍的であり、その存在を絶対的なもの、あるいは絶対的な正当性を有する機関であることを前提としている点に誤りがある。

 9条2項が国際法の自衛権を否定する条項だとする解釈は、憲法学の学説の一つに過ぎないものである。

 「自衛権」という概念については、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である。これは「公権力の行使の手段のこと」というのは誤りと思われる。正当防衛の概念に合わせて「自衛権」を理解するという点について、『権利』という性質の共通性を考えるならば類似点を見出すことはできると考える。ただ、同一概念として見て良いかといえば、そうではないことは確かである。

 「国家に自然権があるなどという話」について、これは国連憲章の「固有の権利(inherent right)」から来たものと思われる。これは百地章や西修北岡伸一礒崎陽輔鳩山由紀夫釈量子の論旨に見られる。確かに憲法学上の統治権の概念から導かれる考え方として、妥当かどうかは検討する必要がありそうである。現在の国際法の体系においては、国家承認を受けなければ国家として認められない。そのため、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である「自衛権」を得るためにも、国家承認が必要となると思われる。国家の成立と同時に「国家の自然権」を有すると考えるにしても、結局その意味するところは国家承認を得ることによって国家として成立し、国際法上の『権利』を有するだけであると思われる。その『権利』を行使するために必要なことは、国家の統治権の『権限』であり、その『権限』は憲法上の根拠によって正当化されるものである。このことから、国際法の言う「自然権」を有していても、結局9条の下では統治権の『権限』がないということでこの議論は終わると思われる。「自然権があるから国家は自衛権の行使が可能」との主張は『権利』と『権限』の違いを押さえていない誤った議論であると思われる。


【参考】1.日本は「集団的自衛権」を持っている、しかし、使えない、ということについて 2014-12-12
【参考】集団的自衛権は国家の自然権か? 2015年7月11日

【参考】検証『検証・安保法案』(2)―長谷部恭男・大森政輔対談「安保法案が含む憲法上の諸論点」 2015-08-31

【参考】再び国際法から安保関連法案・集団的自衛権を考える 2015-09-16



長谷部恭男教授は、いつから「War Potential」を語り始めたのか 2019年04月11日
長谷部恭男教授は、いつから「War Potential」を語り始めたのか 2019年04月11日 


 まず、「不戦条約」の下でも暗黙に許容されていた「自衛権」の区分とは、国連憲章51条の表現で言えば「個別的自衛権」に該当するものである。「不戦条約」の締結当時、「集団的自衛権」という概念は確立していなかったからである。よって、「不戦条約」の下で許容される「武力の行使」とは、「自国に対する直接の武力攻撃」が発生した場合に限られる。
 9条1項が「不戦条約」と同様の趣旨であるということは、9条1項の制約の下で行使できる「武力の行使」とは、「自国に対する直接の武力攻撃」が発生した場合に限られることとなる。ここに、「他国に対する武力攻撃」が発生した場合で、未だ「自国に対する直接の武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、『他国からの要請』に従って「武力の行使」を行うことは含まれない。結果として、国連憲章51条の示す「集団的自衛権」を行使することはできない。
 このことは、たとえ9条1項の中に国連憲章2条4項の「武力による威嚇又は武力の行使」の文言が含まれていても異なることはない。なぜならば、「武力による威嚇又は武力の行使」の文言が、「不戦条約」と同様の趣旨である9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争」の制約を解除する意味を持たないからである。


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 でもパリ不戦条約自体、当時から自衛権は否定していません。ここで言う自衛権は、個別的自衛権です。集団的自衛権じゃありませんよ(笑)。自分が攻撃を受けた時に反撃するのはあり、というのが当然の常識だったわけです。ケロッグ国務長官も、アメリカ上院の審議でそう明言しています。それを前提に現在の9条を考えれば、個別的自衛権はありだという、歴代の日本政府がずっと主張してきたことは、それなりに根拠のある話です。
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基本からわかる 憲法9条を変えなくていいシンプルな理由 高橋源一郎✕長谷部恭男「憲法対談」#1 2018/8/26


 論者は「9条1項で放棄されている『戦争(war as a sovereign right of the nation)』は、その文言から国際法で不戦条約以降に放棄されている『戦争』のことを指していることは、明らかである。」と述べているが、そこまでは一致している。
 しかし、論者はその後「したがってそこでは自衛権は放棄されていない。」と述べ、あたかも国連憲章51条で新たに加えられた「集団的自衛権」もこの「自衛権」の中に含まれるかのように考えている点が誤りである。
 (論者は後に「その後「私のように日本国憲法における『戦争(war)』『戦力(war potential)』概念を、不戦条約や国連憲章によって代表される国際法規範にそって解釈する私の立場を採用するのであれば、もはや個別的自衛権だけは合憲だが、集団的自衛権は違憲だ、などという国際法に反した主張を維持するのは、著しく困難になるはずだ。」と述べている。)
 9条1項が「不戦条約」と同様の趣旨であるならば、「不戦条約」当時には、「集団的自衛権」の概念が確立しておらず存在しなかったのであるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条1項によって禁じられているのである。9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言は、「武力による威嚇又は武力の行使」にも掛かることも忘れてはならない。


 論者は「その1項の『戦争』の理解に沿って9条2項の『戦力(war potential)』を解釈すべきなのは、その文言から、明らかである。」と述べ、「芦田修正説」の論旨で話を進めている。
 しかし、9条1項が「不戦条約」と同様の趣旨であることを認めるならば、「自国に対する直接の武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うことは9条1項で既に禁じられている。
 これにより、たとえ「芦田修正説」を採用して1項が禁じていない「戦力」の保持が可能であると考えたとしても、1項が「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を禁じている以上、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う「戦力」の保持は禁じられていることになるのである。
 よって、論者の9条1項が「不戦条約」と同趣旨であるとの認識によっても、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」や、その為の実力組織については、9条1項、2項に抵触して違憲となるのである。

 (政府解釈は「芦田修正説」を採用しておらず、たとえ「個別的自衛権」にあたる「武力の行使」であっても、他国の行使できる範囲よりも小さいと述べている。)


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○政府委員(佐藤達夫君) 
(略)
国際紛争の問題でありまして、第九条の第一項においては、お言葉にありましたように、国際紛争解決の手段としては武力行使等を許さない、その趣旨はこれはずつと前から政府として考えておりますところは、他国との間に相互の主張の間に齟齬を生じた、意見が一致しないというような場合に、業をにやして実力を振りかざして自分の意思を貫くために武力を用いる、そういうことをここで言つておるのであつて、日本の国に対して直接の侵害が加えられたというような場合に、これに対応する自衛権というものは決して否定しておらないということを申しておるのであります。その趣旨は、私は今のお言葉にも出て来ましたように、恐らく突如として敵が日本に攻め込んで来るということはむしろ例外の場面であつて、何か初めにいざこざがあつて、そうしてそのいざこざのあげくに向うから手を出して攻め込んで来るという場合に、これが常識上普通の場合だ。いざこざがあつて向うから手を出して攻め込んで来た場合に、一体日本がそれを迎え撃つということが国際紛争解決の手段として武力行使になるかどうかと申しますと、それはならないと考えるべきであろうと思います。即ちいざこざが前にあろうとなかろうとこちらから手を出すのは、これは無論解決のための武力行使になりますけれども、いざこざがあつて、そうして向うのほうから攻め込んで来た場合、これを甘んじて受けなければならんということは、結局言い換えれば自衛権というものは放棄した形になるわけです。自衛権というものがあります以上は、自分の国の生存を守るだけの必要な対応手段は、これは勿論許される。即ちその場合は国際紛争解決の手段としての武力行使ではないんであつて、国の生存そのものを守るための武力行使でありますから、それは当然自衛権の発動として許されるだろう、かように考えておるのであります。
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第19回国会 参議院 法務委員会 第35号 昭和29年5月13日


 論者のいう憲法学通説のことは、国際法上の「自衛権(個別的自衛権)」にあたる「武力の行使」さえも否定している立場のことのようである。確かにそのような主張をする者もいるが、長谷部恭男は明確に否定しているところである。
 ただ、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が否定されたとしても、砂川判決で示されているような「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」という手段をも否定している主張であるかどうかはさらに別の問題である。


 論者は「2項で不保持が宣言されている『戦力(war potential)』には、1項で禁止されていない自衛権の行使の手段は、含まれない。それが最も論理的な解釈である。」と述べている。しかし、1項で禁止されていない「武力の行使」のすべてが可能であると考えるか否かは議論がある。


◇ 1項で禁じていない「武力の行使」を行う「戦力」を保持できるとする説(芦田修正説)

  ⇒ 1項で禁じていない「武力の行使」はすべて可能


◇ 1項で禁じていない「武力の行使」を行う場合でも、保持できるのは「戦力」に抵触しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の範囲に限られるとする説(政府解釈)

  ⇒ 1項で禁じていない「武力の行使」の範囲 + 「自衛のための必要最小限度の実力(組織)(自衛力)」を超えない範囲の「武力の行使」 の両方を満たすならば可能


 「芦田修正説」については、そもそも「陸海空軍その他の戦力」を禁ずる2項前段の規定そのものが必要なくなるとする有力な主張によって排除され、「政府解釈」に至るのである。


 論者は「しかし長谷部教授は、自分の主張が篠田と重なるところがある、などということは、絶対に認めないだろう。」との認識のようである。筆者から見れば、合致しているところもあるが、合致していないところもあるというのが正確な認識であると思われる。



長谷部恭男の解釈
◇ 9条1項   「不戦条約の文言」と「同じ趣旨の条文」+「禁止の対象を武力による威嚇と武力の行使へと文言上も明確に拡大」
◇ 9条2項前段 「『決闘』としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるもの」
◇ 9条2項後段 「紛争解決の手段として戦争に訴える権利(正当原因)はおよそ存在しない、という趣旨」


 自衛隊が「戦力」にあたるか否かは述べていない。当たるとしても、違憲になるか否かは述べていない。


 「かりに自衛隊が、9条2項にいう『戦力』にあたるのだとしよう。となると、自衛隊を組織し、維持することは憲法違反なのか、というのが、次の語用論上の問題である。いいかえると、9条の『解釈』の問題となる。」その10 陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない 2017/10/23


 長谷部恭男は「芦田修正説」を採用するべきかについても述べていない。



 「しかしまだ『歴代の政府』と『総司令部』の解釈がそれだ」との認識には誤りがある。「総司令部(GHQ)」の用意した草案に「war powtential」という用語が記載されてていただけであり、「総司令部」は何も法解釈を行っていない。「『総司令部』の解釈がそれだ」ということにはならない。


 論者は「かえって今度は、日本政府の『戦力』『交戦権』の理解はおかしい、と言い始めた。つまり『war potential』として『戦力』を解釈しない日本政府はダメな憲法解釈をしており、したがってこの点では内閣法制局の有権解釈も否定されなければならず、『war potential』として『戦力』を解釈する自分は優れている、ということを示唆するようになった。」との認識のようであるが誤解していると思われる。

 長谷部恭男は「交戦権」について「交戦国に認められる諸権利の否定ではなく、紛争解決の手段として戦争に訴える権利(正当原因)はおよそ存在しない、という趣旨に受け取る方が筋が通るであろう。」(論者提示の資料:長谷部恭男「解説」岩波文庫『日本国憲法[2019年]所収、171頁。)と述べているが、「戦力」については政府解釈が誤っているとは述べていない。
 政府が「戦力」を「戦争遂行能力」であると解釈していることについては否定していないのである。これが「英訳」と「総司令部が用意した草案」の「war potential」と対応することも述べており、「『war potential』として『戦力』を解釈しない日本政府はダメな憲法解釈をしており」などとは述べていない。
 2019年1月になっても「戦力」を「『決闘』としての戦争を遂行する能力の保持を禁ずるもの」としているのであるから、「戦争遂行能力」であることは変わっていない。
 そのため、論者の言う「長谷部教授の憲法9条理解は、変化し続けているのである。」とは思われないし、「『war potential』として『戦力』を解釈する自分は優れている、ということを示唆するようになった。」とも思われない。


□ 長谷部恭男の示す歴代政府解釈
2項前段の「戦力」は「戦争遂行能力」の意味
  ↑ 英訳の「war potential」に対応している
     ↑ 総司令部の用意した草案と同じ


□ 歴代政府解釈の経緯
総司令部の用意した草案に「war potential」の文言 ⇒ 日本国憲法の制定で9条2項前段に「戦力」の文言 ⇒ 「戦力」の英訳は「war potential」 ⇒ 「戦力」は歴代政府解釈によると「戦争遂行能力」の意味



 「ちなみに2017年10月の長谷部教授の言説は、問題を含んでいる。」として、問題点を挙げようとしているが、論者の指摘は問題を含んでいる。

① 長谷部恭男は「『総司令部』の『war potential』の理解と同じだ」とは述べていない。「対応する」と述べているだけである。
② 長谷部恭男は「日本政府が『war potential』を参照して解釈を行ったとは述べていない。「対応する理解である」と述べているだけである。
③ 「『総司令部』のように国際法にそった9条解釈を施した」との記載があるが、「総司令部」は草案を提示しただけで9条解釈をしていない。そのため、「『総司令部』のように」などと「総司令部」が「war potential」を国際法に沿うように意図していたとする事実がない。


 この調子だと、論者は長谷部恭男の記述を丁寧に理解しようとする態度がないのではないか?という疑惑が深まるばかりである。


   【参考】ストローマン Wikipedia





G20開幕とベルサイユ条約100周年 2019年06月28日


 論者のいう「憲法学者」とは、具体的に誰のことを指しているのだろうか。そのような主張を展開している人をあまり見かけないように思われる。何かの運動論に依拠する主張の一部を「憲法学者」との枠組みに分類して見てしまっているように思われる部分がある。


今あらためて言う。集団的自衛権は、合憲である。 2019年06月30日
今あらためて言う。集団的自衛権は、合憲である。 2019年06月30日

今あらためて言う。集団的自衛権は、合憲である 2019年06月30日

いま改めて言う、集団的自衛権は合憲である 2019-07-12


 「憲法学者たちこそが、実は集団的自衛権は違憲だという議論に法的根拠がないことを知りながら、イデオロギー的な感情のおもむくままに、『首相による憲法学者に対するクーデター』の糾弾を行い続けていたのだ。」との記載があるが、憲法は直接国際法上の概念である「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』に対して制約を課しているわけではない。しかし、「集団的自衛権」が行使される状態とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使するという意味であるから、実質的に「武力の行使」が行われている状態である。憲法9条は「武力の行使」に制約をかけている規定であり、この制約の範囲は1972年(昭和47年)政府見解で明らかにされている。
 この見解は、「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示しており、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」を行うことをすべて違憲とするものである。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、結果として国際法上の表現を使えば「集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」との結論が導かれるのである。
 この論理的過程をもう一度冷静に考え直してみてほしいと思う。
 「集団的自衛権違憲論に法的根拠はなかった。」との記載があるが、以上の過程により、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」が違憲となる論理に法的根拠は存在するのである。



石破氏の一部憲法学者への絶対忠誠心をいぶかる 2019年07月16日
石破氏の一部憲法学者への絶対忠誠心をいぶかる 2019年07月16日

石破氏の一部憲法学者への絶対忠誠心をいぶかる 2019年07月16日


 「2014年安保法制懇談会の議論」については、当サイト「安保法制懇の間違い」で解説している。

 9条1項、2項の関係については、恐らく「井上武史」の下記のP4~5の説明に重なる部分と思われる。


   【参考】「憲法論議の視点」(3) 第9条 青井未帆・学習院大学教授 井上武史・九州大学准教授 2018年3月12日


 ただ、政府は1項の中に2項の要請を入れたり、2項の解釈の中に1項の要請を入れるのか否かなどという話はしていない。政府は従来より1項、2項前段、2項後段のすべてについて、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の実力行使やそのための実力の保持は許容されるが、それを超えるものは違憲となると説明している。ここで取り上げられている「井上武史」も、上記資料P5で、「この政府の見解、これは内閣法制局が生み 出した見解ですけれども、これ自体は、合理的な解釈だと考えることができると思っております。」と述べている。また、憲法は「武力の行使」を制約しているのであり、1項と「武力の行使」の『権限』の範囲については関係があるが、1項と国際法上の「自衛権」という『権利』それ自体とは直接関係しない。さらに、1項と2項は制約の対象や範囲が異なるのであり、それが矛盾しているというわけでもない。

 「国際法遵守を求めているはずの9条の全体が、」との記載があるが、9条は国際法の遵守を求めている規定というわけではない。憲法と国際法は別の法体系であり、法源も異なる。そのため、「国際法の遵守を求めているはず」との認識は、9条が憲法規定であることの背景を理解していないものである。

 「2項によって1項の意味を変える」との記載があるが、2項は2項の制約範囲であるし、1項は1項の制約範囲である。特に「2項によって1項の意味を変える」との論理が採用されているとも思えない。「一部の憲法学者」との記載があるが、具体的に誰のどの説のことを言っているのだろうか。

 「9条1項までもが、なんと国際法に反した意味を持つなどと説明されてしまうのだから。」との記載があるが、やはり9条1項は9条1項の制約範囲であり、2項は2項の制約範囲であり、それぞれ独立していると考える。それによって、9条全体の中では日本国が行使できる「武力の行使」の範囲が国際法上の「自衛権」として許容されている「武力の行使」の幅よりも狭くなることは考えられるが、9条1項の意味が改変されているわけではないし、国際法とは法体系が異なるのであるから制約範囲が異なっても「反した意味」と問題視する必要もない。



まず憲法学者を議論に引きずり出すべきではないのか 2019年07月28日
まず憲法学者を議論に引きずり出すべきではないのか 2019年07月28日

まず憲法学者を議論に引きずり出すべきではないのか 2019年07月28日


 「1項の意味を、2項を読んでから、修正するという奇妙な『ちゃぶ台返し』の解釈論である。」との記載があるが、これは通常「遂行不能説(2項全面放棄説)」と呼ばれるものと思われる。特に2項が1項の意味を「修正」しているとは思われないが、よく似た規定について適用範囲が競合することは一般に認められていることであり、特に不自然ではない。例として下記を挙げる。


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第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。
第20条 信教の自由は、何人に対してもこれを保障する。

(略)

第23条 学問の自由は、これを保障する。
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第8条 皇室財産を譲り渡し、又は皇室が、財産を譲り受け、若しくは賜与することは、国会の議決に基かなければならない。
第88条 すべて皇室財産は、国に属する。すべて皇室の費用は、予算に計上して国会の議決を経なければならない。

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第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである
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 この事例とは逆であるが、憲法22条の「何人も、公共の福祉に反しない限り、居住、移転及び職業選択の自由を有する。」の文言には「職業選択の自由」しか記載されていないが、「憲法学上の通説は職業選択の自由には職業を行う自由(営業の自由)を含む(Wikipedia)」と考えており、「職業選択の自由」だけでなく「職業を行う自由」も保障されていると解されている。規定の射程を描き出す中で様々な文言が用いられることは普通であり、論者が「ちゃぶ台返し」と考えることを理由に1項を削除しても構わないかといえば、やはり1項を残した方が意味の明確性が高いため妥当と思われる。日本国憲法は大日本帝国憲法に比べて大幅に人権規定が増やされているが、これも意味をより明確にするためであると考えられる。9条についても同様の意図に基づいて複数の用語が用いられていても特に不思議ではない。
 「1項で否定されたのは、国際法で違法の『戦争(war)』のことである。そこには自衛権は含まれていない。」との記載があるが、9条が放棄し、否定しているのは「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」である。これは憲法上の規定であるから、国際法を拠り所として「国際法で違法の『戦争(war)』のこと」と考えることはできない。憲法は国際法である国連憲章などが廃止されたとしても、変わりなく効力を持ち続けるのである。国際法上の用例を参考とすることは可能でも、国際法上の枠組みを根拠とすることは憲法解釈としての妥当性を有しない。「自衛権」について、そもそも憲法9条1項は国際法上の「自衛権」の概念を否定していない。「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を否定しているだけである。
 「2項で不保持が宣言されている『戦争潜在力(war potential)』も、1項と綺麗につながっているために、自衛権行使の手段は含まれていない。」との記載があるが、概念を整理する必要がある。「自衛権行使」とは国際法上の用語であり、国連憲章2条4項の下では「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由を行使することである。これにより、通常「自衛権行使」が為されるということは、国家による「武力の行使」が行われている状態を指す。この「武力の行使」を行う「手段」が2項の「戦力」にあたるか否かであるが、「戦力」に該当して違憲と言う者もいれば、政府見解のように「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であるから違憲でないとする場合もある。また、この「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」による活動は、国際法上では「武力の行使」に該当するが、国内法上では刑法上の正当防衛に基づく「実力行使」であり、憲法の禁ずる「武力の行使」とは異なるとする考え方もある。もう一つ、「1項と綺麗につながっているために、」との部分であるが、それは「芦田修正説」と呼ばれる解釈方法である。この解釈方法は、1項で禁じていない「武力の行使」のための「戦力」を保持することができるとするものであるが、この解釈方法はいくつかの点で整合的な法解釈とは言い難い。例えば、1項で禁じていない「武力の行使」のための「戦力」を保持できると解釈するのであれば、2項がなくても同様の解釈に行き着くのであり、敢えて「戦力」を禁じているという2項の存在意義が失われること。日本国憲法は大日本帝国憲法から軍事に関する権限をカテゴリカルに消去しており、憲法体系の中に「戦力」の保持を具体的に想定していないこと。「戦力」を保持できると考える場合、前文の徹底した「平和主義」の理念と整合しないこと。日本国憲法は戦争の惨禍から生まれた憲法であり、「平和主義」の理念から「戦争」や「武力の行使」に関する事柄は禁じられているか、あるいは極めて抑制的な形に留める必要があると考えることが妥当であること。などを挙げることができる。これにより、「1項と綺麗につながっている」と考えて「芦田修正説」の読み方をすることは整合的な解釈とは言えない。
 「自衛戦争」との文言であるが、「自衛」を目的として「戦争」という手段に踏み切ることは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような国家の行為を制約するための規定であることから、9条が「自衛戦争」そのものを禁じていないと考えることは妥当な解釈とは言えない。論者は国際法上の「自衛権の行使」を「自衛戦争」と同一概念と考えているようであるが、憲法学はこの両者を区別していることが多い。また、政府は日本国は「一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。(第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日)」と述べており、9条の下で日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の幅は、国際法上において「自衛権の行使」として違法性が阻却される「武力の行使」の幅よりも狭いとしている。この解釈により、政府も9条は「自衛戦争」を許容していないと考えているようである。

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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日

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 自衛戦争というのは、国際法上確立した概念があるものではございませんが、したがいまして、法的な概念ではなく、一般的な概念として、国家が自己を防衛するために行う戦争を指すものと考えております。
 それで、このような戦争一般でございますが、交戦権を当然に伴うものであるとされておりますが、ここに言う交戦権、あるいはこれは憲法九条の交戦権も同じでございますが、単に戦いを交える権利という意味ではございませんで、伝統的な戦時国際法における交戦国が国際法上有する種々の権利の総称でありまして、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける占領行政、それから中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕などを行うことを含むものを指すものというふうに従来からお答えしてきているところでございます。
 自衛戦争の際の交戦権というのも、自衛戦争におけるこのような意味の交戦権というふうに考えています。このような交戦権は、憲法九条二項で認めないものと書かれているところでございます。
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第145回国会 参議院 外交・防衛委員会 第5号 平成11年3月15日


 「自衛戦争」の文言について、「そんなものを理由にして国際法上の自衛権を否定するというのは、完全に破綻した議論である。」との記載があるが、9条は国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由を否定する規定ではない。日本国の統治権の『権限』による「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」などを否定する規定である。完全に破綻した議論を行っているのは論者である。
 「交戦権」について、「存在しないものを『認めない』と宣言しても、国際法上の権利で失うものは何もない。」との記載があるが、この文のそのままの意味としてはその通りである。ただ、政府は「交戦権」を「伝統的な戦時国際法における交戦国が国際法上有する種々の権利の総称でありまして、相手国兵力の殺傷及び破壊、相手国の領土の占領、そこにおける占領行政、それから中立国船舶の臨検、敵性船舶の拿捕などを行うことを含むものを指す(上記:平成11年3月15日)」と説明し、存在していると考えているようである。政府見解が「交戦権」を国際法上の『権利』と考えている点については、当サイトも整合性が怪しいと考えている。
 「『交戦権』否認は、不戦条約体制から逸脱した太平洋戦争中の大日本帝国憲法の『統帥権』概念などを根拠にした大日本帝国特有のイデオロギーの否定である。」との記載があるが、「イデオロギーの否定」であるかは別として、憲法上の規定であることから日本国の統治権の『権限』を制約する規定と考えることが妥当な解釈と考えられ、「大日本帝国憲法」の下で正当化され、行使されてきた戦争遂行に関する『権限』を指すと思われる。
 「自衛権の放棄とは何も関係がない。」との記載があるが、これについては「交戦権」の否認が記載された2項は憲法規定であることから、日本国の統治権の『権限』に対する制約と考えることが妥当と思われ、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「自衛権」という概念とは確かに何の関係もないと思われる。政府解釈は「交戦権」について「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」と説明し、『権利』の文言を用いているが、日本国の統治権の『権限』と考えることが妥当であると思われる。



日韓対立は「国際法vs.歴史認識」日本国内の対立も 2019年08月04日
日韓対立は国際法vs.歴史認識、日本国内の対立も 2019年08月04日

日韓対立は国際法vs.歴史認識、日本国内の対立も 2019年08月04日


 まず、この記事は下記の部分に誤りがある。
 「たとえば弁護士でもある立憲民主党の枝野幸男代表は言う。『国が自衛権を行使できる限界を曖昧にしたまま、憲法9条に自衛隊を明記すべきではありません』。」
 しかし、「国が自衛権を行使できる限界を曖昧にしたまま、憲法9条に自衛隊を明記するべきではありません。」と述べているのは、国民民主党である。「立憲民主党の枝野幸男代表」の主張とは異なるのである。


   【参考】いつまで「改憲勢力」なんて言葉を使うのか 「何をもって...」枝野氏も困惑 2019/8/3

   【参考】国民民主党 政策INDEX 2019


 よって、「特にひどいのが、国際法を全く勉強しないまま法律の専門家となった司法試験受験組の『法律家』たちである。」として、「弁護士でもある立憲民主党の枝野幸男代表」を批判しようとしているが、もともと誤った認識に基づくものであるから、批判になっていない。同様に、「弁護士」などの「法律の専門家」を批判しようとしても、これも批判になっていない。論者はこの点を学び直すべきである。
 「しかし自衛権は、国際法の概念である。」との認識はその通りである。日本国憲法に「自衛権」に関する記述が存在しないこともその通りである。

 しかし、「『限界が曖昧だ』などと言っている暇があったら、国際法を勉強し、自衛権は国際法においてしっかりと制約されていることを、学び直すべきだ。」との記載は、正確な理解を有していないと思われる。まず、国際法上の「自衛権」を行使する場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由として機能する『権利』を行使することであるから、通常「武力の行使」が行われている状態である。憲法9条は「自衛権の行使」を直接的に制約しているわけではないが、「武力の行使」を制約する規定である。これにより、日本国の行う「自衛権の行使」は、その9条によって制約された「武力の行使」の発動要件や程度・態様に沿ったものとなる。「自衛権」が国際法上でしっかりと制約されていたとしても、9条は「武力の行使」をしっかりと制約しているのであり、この両者に矛盾抵触はない。
 「他国と同じように国際法の制約に服することこそが、自衛権を明確に運用していくための唯一の方法である。」との記載があるが、日本国も他国と同様に「自衛権」そのものの適用を受ける地位を有しているし、実際に「自衛権」を運用する際も、他国と同様の基準である。しかし、「武力の行使」が憲法9条によって制約されており、ここは他国とは異なる基準である。
 「理由は単純だ。自衛権は国際法の概念であり、日本国憲法に自衛権を規定した条文はないからである。」との記載があるが、「自衛権」が国際法上の概念であり、日本国憲法に規定すべき概念ではないため、憲法上に規定がないことは当然である。しかし、日本国憲法は「武力の行使」を制約する規定を有している。
 「『憲法学者の支配』を唱える姿勢こそが、憲法解釈を曖昧にしてしまう弊害の元凶である。」との記載があるが、法解釈は学問上の最も整合性の高い共通認識に基づいて行われるのであり、「憲法学者」という人の支配によって為されるかのような認識は誤りである。また、法学の追求とは「人の支配」のような人為的な側面を極限までそぎ落として法の中に規則性や基準となるものを見出していく作業なのであって、もし法解釈において「人の支配」のような側面が浮き出てくることがあれば、それが非難されるべきことは当然である。しかし、今回の事例では論者の主張には誤りがあり、多くの「憲法学者」の方が整合性の高い主張となっている。憲法解釈も「曖昧」にはなっていない。
 「国際法の支配を拒絶」との記載があるが、国際法は国際法の法分野として「支配」されており、憲法は国内法の法分野として「支配」されている。特に、「拒絶」してはいない。「憲法学者による支配」ではなく、通常の「法の支配」である。論者は単に国際法と国内法の法分野の違いを理解していないだけであり、それをあたかも「憲法学者による支配」と誤解していると思われる。
 「一方的に憲法学優位を唱えて国際法を拒絶する自作自演の演出」との記載もあるが、やはり「国際法を拒絶」してはいない。また、「集団的自衛権」の事例では国際法上の『権利』であって『義務』とは異なることから、国際法と憲法に矛盾抵触はなく、憲法優位説とも直接的には関係しない。
 国際法は存在していないなどと誰も述べていないと思われる。



日韓関係を見て、「護憲的改憲」の国際法軽視を心配する 2019年08月15日


 「『八月革命』説にもとづいて憲法学者が自由自在に国際法概念を無視してみせるのも、似たようなものだ。」との記載があるが、八月革命説の当否については議論があるが、国際社会や国際法には主権者(最高決定権を有する者)がおらず、主権者に基づいて成立する統治権(国家権力)も存在せず、主権(最高独立性)も存在しない。それにもかかわらず、国際法が憲法よりも上位の法秩序と考えているところに誤りがある。もし国際法に主権者がおり、そこに統治権が存在し、最高独立性が確立しているならば、それは国家である。国家と国家の武力による紛争を戦争と呼ぶが、国際法の秩序が国家となれば、戦争と称しているものは国内紛争となる。国際法には主権者(最高決定権を有する者)がいないにもかかわらず、憲法に優越する法秩序と考えている点に誤りがある。

 「驚くべきことに、21世紀の今日においても、日本の憲法学者の基本書に『統治権』の概念が登場する。しかしその法的根拠が説明されることは、決してない。」との記載があるが、「統治権」は「統治権力」とも称され、「国家権力」とほぼ同義である。「国家権力」は「国権」と同じ意味であり、日本国憲法9条1項と41条に登場する。


◇ 統治権(大日本帝国憲法4条) = 統治権力 ≒ 国家権力 = 国権(日本国憲法9条1項と41条)


 「『統治権』は、大日本帝国憲法の概念である。」との記載があるが、確かに大日本帝国憲法4条に出てくる概念であるが、その意味自体は大日本帝国憲法に限らず、日本国憲法においても、世界中の国々においても、国家権力そのものを説明する際に用いられる用語である。

 統治権について「国際的には、全く通用しないガラパゴスな『信念』である。」との記載があるが、国家権力の存在しない国家は存在せず、国際的にも全く通用する概念である。統治権(国家権力)が存在しないとの『信念』は、無政府主義の思想と考えられる。
 「憲法学者は、『交戦権』が否認されているので、日本は自衛権を行使することができない、などと主張する。」との記載があるが、憲法学者であるかは別として、確かにそのような主張をする立場は見られる。ただこれは、①憲法上の「交戦権」を国際法上の『権利』と見なし、国際法上の「自衛権」の概念を直接制約すると考えるものなのか、②憲法上の「交戦権」を国内法上の統治権の『権限』と見なし、国内法上の統治権の『権限』を制約する結果として、国際法上の「自衛権の行使」が制約されている、あるいは不可能となると考えているのか、明らかにすべき主張である。当サイトも①の主張については整合性が怪しいと考えている。
 「憲法学者は、『交戦権』が否認されているので、日本は自衛権を行使することができない、などと主張する。」との記載があるが、どの憲法学者の説を指しているのか明らかでないが、先ほども①で述べたように「交戦権」を国際法上の『権利』と考えて、国際法上の『権利』である「自衛権」を直接制約するために「自衛権を行使することができない」となるのか、②で述べたように「交戦権」を日本国の統治権の『権限』を制約する規定と見なして、「交戦権」の行使が制約される結果、「武力の行使」を行うことができないために国際法上の「自衛権の行使」を行う機会がないと考えるのかを明らかにするべき主張である。当サイトは9条2項後段の「交戦権」は日本国の統治権の『権限』に対する制約であると考えており、主に1項で禁じた「武力の行使」以外の「宣戦布告」や戦後の「講和条約」などを行おうとする権能、相手国領土の占領する権能などを対象としたものと考えている。この結果、国際法上「自衛権の行使」として「武力の行使」に付随するいくつかの権能を適法に行使することが可能であったとしても、日本国はその「自衛権の行使」として許容されている幅よりも行使できる権能は狭くなると考えられる。

 「憲法学者の議論は、国際法上の概念である自衛権を否定する議論としては、全く的外れなのである。」との記載があるが、確かに「交戦権」を国際法上の『権利』であると解し、9条2項後段の「交戦権」の文言が直接的に国際法上の「自衛権」の概念を否定していると考える説には整合性がないと考える。先ほども示した①の考え方である。

 「真珠湾攻撃後の日本において、『交戦権』なるものを肯定する気運が高まった。だが国際法には根拠がない。そこで大日本帝国憲法における『統治権』や『統帥権』のような謎の概念に訴えて、国際的な『交戦権』の根拠とする、という倒錯を、信夫は犯してしまった。」との記載があるが、誤った前提認識が存在する。まず、通常、統治権(国家権力)は国民の人権を侵害する行為など憲法上で制約が示されているもの以外は、無制限に行使することが可能である。そのため、ほとんどの国家は、その統治権(国家権力)の中に現在でも「交戦権」と呼ばれる『権力・権限・権能』を有している。これは、憲法上に「警察権」という文言は登場しないが、統治権(国家権力)の中に「警察権」が含まれていることと同様である。もし「警察権」を否定する規定が憲法中に存在するならば、統治権(国家権力)の中に「警察権」が存在しないこととなるが、日本国憲法の中にそのような規定はないため、現在「警察権」は行使されている。

 

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○高辻政府委員 結論から先に申し上げますと、私はそうではないと思います。アメリカは憲法九条二項のような規定があるということを私は承知しておりませんので、アメリカ合衆国には交戦権というものがあると思います。日本では、交戦権は九条二項で否認されておりますから、むろんございません。したがって、自衛権の行使としての限界を持った、その行動の限度内にとどまる。だから、アメリカと同じように——まあかりにアメリカ合衆国が、お説のようにそういう事態になって、そうして交戦権の行使としてとことんまで行動をするというようなことは、日本ではそれと同じようにはできないという、自衛権に基づく行動としての制約がございます。そこが違うと思います。

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第48回国会 衆議院 予算委員会 第17号 昭和40年3月2日


次に、「国際法には根拠がない。」の部分であるが、「交戦権」は日本国の統治権(国家権力)の『権限』として想定しているものであると考えられるから、国際法が根拠になることはない。そのため、国際法が根拠にならないことは当然である。「交戦権」を国際法上の『権利』と考えた場合であるが、国際法において戦争遂行の『権利』は遥か以前においては許容されていたようである。ただ、戦争違法化の流れとともに、徐々に禁じられてきている。三つ目に、「大日本帝国憲法における『統治権』や『統帥権』のような謎の概念に訴えて、」との記載があるが、先ほども述べたように通常「統治権」(国家権力)の中に「統帥権」や「交戦権」は含まれているのであり、憲法上で禁じられていないのであれば「謎の概念に訴え」る必要もなく行使することが可能である。四つ目に、「国際的な『交戦権』の根拠とする」との記載であるが、意味がよく分からない。日本国の統治権の『権限』を「交戦権」として行使すれば、その根拠は統治権である。「国際的な」の意味が正確に掴めない。

 「自国の憲法を理由にして、国際法では認められていない行動を正当化しようとするガラパゴスな発想であった。」との記載があるが、前提認識に誤りがある。先ほども述べたように他国は通常9条2項後段の「交戦権の否認」のような規定を有していないのであり、現在でもその統治権(国家権力)の中に「交戦権」にあたる『権限』を潜在的に有している。統治権の『権限』そのものとしては「正当化」されているのである。それを行使するか否かは、他国との外交関係やパワーバランス、国際関係、国際法上の制裁措置などによる圧力、国際法上の戦争違法化の合意を履行する意思などに託されており、しばらく発動されていない場合があるというだけのことである。また、大日本帝国憲法においても「自国の憲法を理由にして、国際法では認められていない行動を正当化しようと」していたわけではない。憲法上の「統治権」や「統帥権」は国内法上の『権限』の存否の問題であり、国際法とは関係ないのである。よって、「ガラパゴスな発想」との記載についても、もともとそのような発想が存在していない。

 「『交戦権』否認条項が、今度は国際法における自衛権を否定する日本の憲法学者に利用されてしまった。」との記載であるが、先ほど述べた①の立場には整合性がないと考えられる。②の立場であれば、意味は通る。
 「国際貿易のルールや、国際人道法の原則なども、すべて日本国憲法で制約するべきなのだろうか。」との記載があるが、日本国の統治権の『権限』が行う「国際貿易」に関する措置や「国際人道法」に関する措置の仕方について、日本国憲法上で制約を行うことは可能である。しかし、日本国が自国の憲法上に何らかの定めを置くことで、国際社会において通用している国際法そのものを改変することは当然できない。日本国が勝手にそう主張しているだけということになり、日本国内では通用しても、国際社会では通用しないからである。
 「自衛権」に関する制約を憲法で定めるべきかについては、自国の憲法上で「自衛権」そのものを制約することはできないと考える。「自衛権の行使」、正確に言えば「自衛権の行使」を行う際の国家の統治権の『権限』(通常『武力の行使』)を制約することは可能である。突き詰めて議論するならば、この違いを正確に理解する必要がある。

 論者は「『自衛権に制約』をかける」の文言を国際法と憲法との違いを挙げて批判するが、論者は下記で「国際法上の概念である『自衛権』をしっかりと憲法典に位置づけると、話は明快になる。」と述べており、国際法と憲法の違いを理解していない主張が見られる。論者は自身の主張に対しても批判していると考えていいのだろうか。

   【参考】自衛隊「必要最小限」の概念はいつできた?国際政治学者が経緯を検証 2018.4.2



石破茂


〇 自由民主党 石破茂


【安全保障法制整備推進本部】 第2回 集団的自衛権について(石破 茂 本部長) 2014年04月07日

【安全保障法制整備推進本部】 第2回 集団的自衛権について(石破 茂 本部長)


 【憲法との関係】の項目にて、9条の文言のどこから「個別的自衛権は良くて、集団的自衛権は駄目」というのがロジカルに導き出されるのであろうかという部分がある。


 まず、9条は国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を制約しているわけではない。9条の対象は日本国の統治権の『権限』であり、具体的には「自衛の措置」としての「武力の行使」に制約をかけているのである。よって、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』に対して制約をかけているような議論は、法分野の切り分けが理解できていないものである。


 そして、「集団的自衛権」について、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の文言から駄目なのか、9条2項後段の「国の交戦権は、これを認めない。」の文言から駄目なのか、という話が持ち出されているが、「集団的自衛権の行使」とは『他国からの要請』に応じて「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行うことになるから、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」である。しかし、日本国の統治権の『権限』によって『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を行う場合、それを行使する組織を「陸海空軍その他の戦力」に当たらない範囲のものと説明することはできず、2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるという論点である。論者には、この点に盲点がある。


 また、従来より政府解釈は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を設定し、「武力の行使」の範囲を定めていた。これを満たす中での「武力の行使」については、9条1項の禁じる「武力の行使」には抵触せず、これを実施する組織についても、9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」には抵触せず、この範囲の『権限』については、9条2項後段の禁じる「交戦権」には抵触しないとしていた。

 「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準は、9条に抵触しないことを明確に区別する基準として設定されたものであり、これに基づくものは、9条1項に抵触しない「自衛のための必要最小限度」の「武力の行使(実力行使)」、9条2項前段に抵触しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」、9条2項後段に抵触しない「自衛行動権」と解されている。

 

 この「自衛のための必要最小限度」の中には、第一要件で「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件がある。これを満たした中で「武力の行使」を行うと、国連憲章51条の「個別的自衛権」に該当して違法性が阻却されることになる。


 しかし、国連憲章51条の「集団的自衛権の行使」として国家の統治権の『権限』が「武力の行使」を行う場合、「自国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を行うものである。ただ、日本国の場合は、9条の制約が存在しており、9条に抵触しないためには「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす必要があることから、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を実施することは三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であり、9条に抵触して違憲となる。


 論者は、憲法9条が、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由を制約しているかのように考えている点に誤りがある。

 また、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行う場合、それは『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を行うことになるのであり、それを実施する組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。



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 集団的自衛権は「必要最小限度を超えるから憲法上、行使できない」と政府は言ってきました。平和安全法制(安全保障関連法)において、そこから大きな一歩を踏み出したと言うのですが、「存立危機事態」の認定は自国を守るための個別的自衛権の行使に近い範囲にとどまっており、法的にはそれほど大きな変更はないと私は思っています。
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国民と語り合いたい「アジア版NATO」 石破茂・元地方創生担当相 2018年7月21日


 上記について、従来より政府が「必要最小限度」の文言を用いる場合、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)の基準の全てを意味する場合と、三要件(旧)の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味する場合がある。

 今回の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の全てを指す意味で用いられているものである。

 また、この「自衛のための必要最小限度」の三要件(旧)の第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件があり、これは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」(『基本的な論理』と称している部分の『あくまで外国の武力攻撃によつて』の部分も同様)と同じものである。

 そのため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「必要最小限度を超える」という理由は、「自衛のための必要最小限度」の三要件(旧)の第一要件を満たさないことによるものである。また、これは同時に、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の示した規範を超えることを意味するのである。


【正しい法認識】
憲法解釈の1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の規範(『自衛のための必要最小限度』と同様)を超える ⇒ 結論:国際法上の「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことはできない


【正しい法認識から導くもの】
憲法解釈の1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の規範(『自衛のための必要最小限度』と同様) ⇒ 結論:国際法上の「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」であっても、「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えるものは行うことができない


 それを、あたかも国際法上の「集団的自衛権」や「個別的自衛権」を基準として、「個別的自衛権の行使に近い範囲にとどまって」いるから合憲となるかのように論じることは誤りである。日本国の統治権の『権限』は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)を逸脱するものであれば、直ちに違憲となるのである。ここに、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という基準が入り込む余地はない。「存立危機事態」の要件は、違憲か合憲かのラインを踏み越えているかどうかに関わるものであるから、法的に大きな変更があると評価することができる。


【間違った法認識】
憲法解釈の1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の規範(『自衛のための必要最小限度』と同様)を超える ⇒ 結論:国際法上の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできない ⇒ では、国際法上の「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」ならば行うことができると考える〔誤った認識〕 ⇒ 「個別的自衛権の行使」として「武力の行使」ならばすべて合憲である〔誤った認識〕 ⇒ 「存立危機事態」の要件も「個別的自衛権」に近い範囲であり法的にはそれほど大きな変更はない〔誤った認識〕


 日本国の統治権の『権限』は、憲法の範囲でしか行使することが許されておらず、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の規範(『自衛のための必要最小限度』も同様)の制約を超えた『権限』を行使することはできない。それを、あたかも国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を用いて、この範囲であるならば、日本国の統治権の『権限』が行使できるかのように話を進めている点に誤りがある。


 日本国の統治権の『権限』を発動することによる「武力の行使」は、国民主権原理によって正当化される『権限』の一つである。国民からの授権こそが、国家の『権限』の正当性の基盤となるものである。それを、国連憲章という他国との間で締結した条約に示された違法性阻却事由の『権利』の区分を根拠として、日本国の統治権の『権限』の発動を正当化しようとする主張は、国民主権原理を踏み越えるものであり、正当性を有していない。


 このような主張は、もし「国連憲章」が改正され、国際法上で「侵略戦争」が合法化された場合に、憲法9条の規定も「侵略戦争」を合法化しているかのように論じることとなってしまう。その理由は、国連憲章で正当化しているからである。


 国際法を基準として憲法上の解釈基準を決する議論は、まったくおかしなものである。他国の締結している条約等を基準として自国の憲法解釈を行うという、主権を国際法に譲渡したかのような憲法解釈は、主権国家としての独立性をなしていない。自国の法体系の完結性を損ない、国際法を基準として憲法9条の解釈を歪めることは、他国からの圧力に屈するような法解釈であり、自国の独立性を損なうため危険である。



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 「集団的自衛権行使不可」は憲法上の要請ではなくあくまで政策判断だったというのが私の考えですが、従来の「必要最小限度論」に立ったうえで「必要最小限度」の範囲が変わった、と解することも可能です。
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2月22日など 2020年2月21日


との記載があるが、前提認識を整理する必要がある。
 まず、「従来の『必要最小限度論』」であるが、これは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味するものである。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の基準は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)で示された規範と同じものである。1972年(昭和47年)政府見解の第二段落では、「集団的自衛権の行使」は「自衛の措置の限界をこえる」と説明しており、これが「平和主義」を前提とした9条の下での「自衛の措置」の限界である。1972年(昭和47年)政府見解の下では、「武力の行使」を発動要件をこれ以上の範囲に広げることはできない。

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○国務大臣(田中直紀君) お答えいたします。
 集団的自衛権が国内法上認められない理由についての御質問ですが、集団的自衛権とは、国際法上、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止することが正当化される権利と解されております。
 政府としては、集団的自衛権の行使は、自衛のために必要最小限の範囲を超えているため、すなわち、我が国に対する武力攻撃の発生との要件が満たされないため、憲法を含め国内法上許されないと解してきているところでございます。
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第180回国会 参議院 予算委員会 第14号 平成24年3月26日
   【動画】平成24年3月26日 参院予算委・宇都隆史【専守防衛と集団的自衛権】 2012/03/26

 また、下記答弁でも「自衛のための必要最小限度」とは数量的な概念ではないと述べており、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのような認識は否定されている。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 


 また、「『必要最小限度』の範囲が変わった、と解すること」についてであるが、このように9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えるのであれば、もともと政府が裁量判断によって「武力の行使」が9条に抵触して違憲となるか否かを変更できることとなり、9条の規範性を損なうこととなる。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規範であるため、9条の制約を数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えることは、9条が政府の行為を法規範によって制約しようとする趣旨を満たさないため、法解釈として成り立たない。
 さらに、「『必要最小限度』の範囲が変わった、と解すること」ができることが前提なのであれば、「『必要最小限度』の範囲が変わった、と解すること」によって、実質的に「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行う要件を定めたとしても「『必要最小限度』の範囲」に含まれると主張することも同様に可能となってしまう。そうなれば、そもそも9条が存在していないことと同様、あるいは9条を「努力義務」の規定と解するものであり、法解釈として妥当でない。


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小林節(慶應義塾大学名誉教授・憲法学)
(略)
それから、これも山口先生のお話と重なりますけれども、必要最小限というのは、これは安全弁のように言われますけれども、これは「必要」から入る以上、言葉の性質からいってね、「必要です」といって入ったら、始まっちゃうんですね。始まったら関係者は無限の安心感を持つまで、「まだいて」「まだいて」「まだいて」「だって必要を感じるから」という社会で、最小限なんて歯止め、なくなっちゃうんですよね。

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杉田敦
(略)
先ほど来指摘されているように、現在、推進派の方々は、「必要最小限」というレトリックを使ってなんとか突破しようとしているようですが、この必要最小限という言葉は、戦争のやり方に関する基準(「交戦法規」)であって、戦争や武力行使をやるかどうかの基準(「開戦法規」)ではない。ここのところを意図的にごまかして、いざ集団的自衛権を認めても、めったに手は振り上げませんよという印象操作をしている。
この「必要最小限」というのは歯止めにはなりません。結局、歯止めなどは一切なく、すべて政治家の判断にお任せということになってしまいます。
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2014年6月9日立憲デモクラシーの会緊急記者会見

 「自衛のための必要最小限度」の意味については、当サイト「自衛のための必要最小限度」で解説している。


 「あくまで政策判断だったというのが私の考え」の部分について、従来より政府は「政策論」ではなく、「法律論」であるとしている。


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○説明員(吉國一郎君) 政策論として申し上げているわけではなくて、第九条の解釈として自衛のため必要な措置をとり得るという説明のしかた——先ほど何回も申し上げましたが、その論理では、わが国の国土が侵されて、その結果国民の生命、自由及び幸福追求に関する権利が侵されるということがないようにする、そのないようにするというのは非常に手前の段階で、昔の自衛権なり生命線なんていう説明は、そういう説明でございましたけれども、いまの憲法で考えられておりますような自衛というのは最小限度の問題でございまして、いよいよ日本が侵されるという段階になって初めて自衛のための自衛権が発動できるという、自衛のための措置がとり得るということでございますので、かりにわが国と緊密な関係にある国があったとして、その国が侵略をされたとしても、まだわが国に対する侵略は生じていない、わが国に対する侵略が発生して初めて自衛のための措置をとり得るのだということからいたしまして、集団的自衛のための行動はとれないと、これは私ども政治論として申し上げているわけでなくて、憲法第九条の法律的な憲法的な解釈として考えておるわけでございます。
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○説明員(吉國一郎君) 私が密接と申し上げました、密接ということばを使って申し上げたつもりでございますのは、たとえわが国と非常に密接な関係がある国があったとしても、その国に対する攻撃があったからといって、日本の自衛権を発動することはできないという意味で、密接のことばを使ったわけでございまして、いま水口委員の仰せられますように、わが国と安全保障上と申しますか、国家の防衛上緊密な関係にあるその国が攻められることは、日本の国が攻められると同じだというような意味の考え方はしておりません
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○説明員(吉國一郎君) 国際法上の観念としての集団的自衛権、集団的自衛のための行動というようなものの説明として、A国とB国との関係が一定の緊密な関係にあって、そのA国とB国が共同防衛のための取りきめをして、そうしてA国なりB国なりが攻められた場合に、今度は逆にB国なりA国なりが自国が攻撃されたと同様として武力を行使する、その侵略に対して。そういう説明は、国際法上の問題としてはいま水口委員の仰せられましたとおりだろうと思います。ただ日本は、わが国は憲法第九条の戦争放棄の規定によって、他国の防衛までをやるということは、どうしても憲法九条をいかに読んでも読み切れないということ、平たく申せばそういうことだろうと思います。憲法九条は戦争放棄の規定ではございますけれども、その規定から言って、先ほど来何回も同じような答弁を繰り返して恐縮でございますけれども、わが国が侵略をされてわが国民の生命、自由及び幸福追求の権利が侵されるというときに、この自国を防衛するために必要な措置をとるというのは、憲法九条でかろうじて認められる自衛のための行動だということでございまして、他国の侵略を自国に対する侵略と同じように考えて、それに対して、その他国が侵略されたのに対して、その侵略を排除するための措置をとるというところは、憲法第九条では容認してはおらないという考え方でございます。

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 ○説明員(吉國一郎君) 私の、これはお答えと申し上げるより釈明みたいなものでございますが、平和条約の五条のC項でございますか、と安保条約の前文、日ソ共同宣言で、わが国が自衛権を持っているということは確認をしております。その自衛権には、形容詞がついておりまして、個別的及び集団的自衛の固有の権利があるということで、条約上うたわれておりますが、これは国際法上の問題として、日本が自衛権を持っている、その自衛権というのは個別的及び集団的なものであるということを国際法上うたったわけでございまして、憲法上こういう権利の行使については、また別途措置をしなければならない。憲法ではわが国はいわば集団的自衛の権利の行使について、自己抑制をしていると申しますか、日本国の国内法として憲法第九条の規定が容認しているのは、個別的自衛権の発動としての自衛行動だけだということが私どもの考え方で、これは政策論として申し上げているわけではなくて、法律論として、その法律論の由来は先ほど同じような答弁を何回も申し上げましたが、あのような説明で、わが国が侵略された場合に、わが国の国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためにその侵略排除するための措置をとるというのが自衛行動だという考え方で、その結果として、集団的自衛のための行動は憲法の認めるところではないという法律論として説明をしているつもりでございます。━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日

 これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことは、「憲法上の要請」であり、「政策判断」ではない。また、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味するのであり、もともと数量的な意味を有していないことから、この中身が三要件(旧)を満たさないものに変わることはない。


【動画】【ひろゆきvs石破茂】中国は覇権取るのか?日本滅ぼす正体【尖閣・台湾・アフガニスタン】|Re:Hack 2021/08/29


 このように論者が明確に答えられなくなっている部分であるが、「存立危機事態」の要件は、曖昧不明確な内容であり、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを防ぐ基準となるものを有しておらず、そのこと自体が、9条の規範性を損なっていることとなる。

 よって、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。

 日本国は「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を行うことはできないし、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」についても行うことはできない。


 一時的な民意としての世論の支持が得られたとしても、9条に抵触する行動を行うことは違憲となる。



【動画】第208回[衆] 憲法審査会 2022/05/12

(【動画】LIVE 🌏 国会中継 憲法審査会 2022/05/12)

 「必要最小限度」の言葉であるが、従来より政府が「必要最小限度」の言葉を使うときには、三要件(旧)のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる場合と、三要件(旧)の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を指している場合がある。

 「自衛のための必要最小限度」のことであれば、三要件(旧)の範囲であるから、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という範囲を指す。これは、相手国が北朝鮮であれ、ロシアであれ、中国であれ、この範囲は変わらない。これは数量的な概念ではないから、相手国がどの国であれ同じである。


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○秋山政府特別補佐人
(略)

 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかいうのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したことこの場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません

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 三要件(旧)の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であれば、これは「武力の行使」(実力行使)の程度・態様を指すものである。これは、警察官職務執行法1条2項と同様の意味である。

 

警察官職務執行法

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(この法律の目的)

第一条 この法律は、警察官が警察法(昭和二十九年法律第百六十二号)に規定する個人の生命、身体及び財産の保護、犯罪の予防、公安の維持並びに他の法令の執行等の職権職務を忠実に遂行するために、必要な手段を定めることを目的とする。

2 この法律に規定する手段は、前項の目的のため必要な最小の限度において用いるべきものであつて、いやしくもその濫用にわたるようなことがあつてはならない。

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 目的は「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」ことであり、この目的を達成するために「必要最小限度(第三要件)」の手段を用いることができるということである。

 これも、相手国が北朝鮮であれ、ロシアであれ、中国であれ、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という目的を達成するための「必要最小限度(第三要件)」の手段を用いるというだけのことであるから、相手国によって変わるというものではない。


 「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)については量的な概念ではない。


 注意:「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の規模、言い換えれば、三要件(旧)の「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という目的を「必要最小限度(第三要件)」の手段で達成する際に必要な実力組織の規模(人員の数や保有する兵器など)については、量的な概念といえる。(人員は10人で足りるか、20人の方がいいか。ジャベリン10個で足りるか、20個の方がいいか等)これは、政府解釈では「その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断され」るとしている。
 しかし、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲そのものは「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という枠に限られており、これは量的な概念ではない。また、兵器の内容が「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という目的を達成するための範囲を超えるものであれば、その兵器を保有することは直ちに許されないとしている。(大陸間弾道ミサイル(ICBM)や長距離戦略爆撃機、攻撃型空母などを保有することは、『我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)』を『排除する(第二要件)』という目的の範囲を超えるため質的に許されない。)

 

 これに対して、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」については「武力の行使」(実力行使)の程度・態様のことであるから、量的な概念といえる。しかし、これを「おかしなこと」というのであれば、警察官職務執行法1条2項の「必要な最小の限度において用いるべきもの」の文言についても改正するつもりがあるのだろうか。日本国の法体系では、侵害的な性質を持つ行政活動については大抵の場合、必要最小限度となっている。


 もう一つ、9条の下に「自衛のための必要最小限度」という枠があるわけではなく、9条の下で可能な「武力の行使」は三要件(旧)の範囲に限られており、この三要件(旧)の枠のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるだけである。この点を間違えないようにしなければ、あたかも9条の制約が数量的なものだけであるかのような誤解が生まれるため注意が必要である。三要件(旧)のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるだけである。



やるべきは憲法改正ではなく、経済成長だ 2018年08月21日

 






高村正彦 三浦瑠麗 その他


〇 自由民主党 高村正彦

【安全保障法制整備推進本部】 第1回 集団的自衛権について(高村正彦 副総裁) 2014年03月31日

【安全保障法制整備推進本部】 第1回 集団的自衛権について(高村正彦 副総裁)

■1430~党安全保障整備推進本部の初会合/901 松本純 2014年3月31日)


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この日は高村正彦副総裁が集団的自衛権のあり方について講演しました。高村副総裁は「自国の存立に必要な自衛措置は認められる」とした砂川事件の最高裁判決を引き合いに、「政府はこの法理に基づいて必要最小限度の自衛権はあると言っているが、集団的自衛権はできない、個別的自衛権はできるというのは大分論理の飛躍がある」と指摘。「自国の存立を全うするために必要なことには、集団的自衛権の範疇に入るものもあるということを検討すべきだ」と述べました。
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 との記載があるが、「必要最小限度の自衛権」との意味が通じないため誤りである。
 まず、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国が国際法上の法主体として認められていることから、この『権利』の適用を受ける地位を有していることは当然である。その意味で、「自衛権はある」との部分はその通りである。
 次に、「必要最小限度」の文言であるが、政府が「必要最小限度」の文言を用いる場合、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味している場合と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を意味している場合がある。今回の事例は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の全てを満たす意味で用いられており、これに基づく「武力の行使」は日本国の統治権の『権限』によって行われるものである。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 論者が、「必要最小限度の自衛権」と表現している部分について、詳細に表現すると「日本国の統治権の『権限』による「自衛のための必要最小限度」の国際法上の「自衛権」という『権利』はある」ということになるが、「『権限』の『権利』はある」という意味になるため、意味が通じない。
 また、「自衛のための必要最小限度」の基準は、「武力の行使の三要件(自衛権行使の三要件)」と言われているものであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行う場合の基準である。しかし、砂川判決は「アメリカ合衆国軍隊の駐留」について問われた判決であり、ここで示された「自衛のための措置」の内容についても「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げたにとどまり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、砂川判決の「法理に基づいて」「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」を伴う措置を根拠づけることはできない。また、政府が砂川判決と「軌を一にする」と述べているのは、「自衛のための措置」の部分だけである。「武力の行使」については、直接的に「軌を一にする」としているわけではないのである。論者はこの点を正確に理解していない。


 「集団的自衛権はできない、個別的自衛権はできるというのは大分論理の飛躍がある」との部分であるが、論者が政府解釈を正しく理解していないことによる誤解である。
 論者が用いている「必要最小限度」とは先ほど述べたように「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味するのであり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないとされているのは、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないことが理由である。
 論者は政府があたかも国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「集団的自衛権」と「個別的自衛権」に基づいて「武力の行使」の可否を決しているかのような前提認識があると思われるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす「武力の行使」は行うことができるが、これを満たさない「武力の行使」は行うことができないとしているだけである。政府が従来より結論として「個別的自衛権」を行使することができるが、「集団的自衛権」は行使することができないとしてきたのは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすか満たさないかを決した後に現れる付随的な結果に過ぎないものである。この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」については、たとえ「個別的自衛権の行使」として国際法上の違法性が阻却されるとしても、日本国の統治権の『権限』によっては行使できないのである。
 これにより、「論理の飛躍」はなく、論者が誤解しているだけであると思われる。


 「自国の存立を全うするために必要なことには、集団的自衛権の範疇に入るものもあるということを検討すべきだ」との部分であるが、正確には意味を読み取ることができない。「自国の存立を全うするために必要なことには」『権利』の範囲に入るものがあると発言していることになるが、『権利』は国際法上の違法性阻却事由の概念であり、『権利』の中には何も入らない。政策論上「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行う必要があると述べているのかもしれないが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の下では、「集団的自衛権の行使」が「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであることから、三要件(旧)の第一要件を満たさないことにより行うことはできない。


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最高裁判所は自衛権について、1959年の有名な砂川事件判決において、個別的とか集団的とか区別をしないで、自衛権については、国の平和と安全を維持し、国の存立を全うするための措置は当然とり得る。そしてその前提として、固有の権利として自衛権というものは当然持っているとも言っているわけであります。
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 との記載があるが、砂川判決を正確に理解する必要がある。
 砂川判決は、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」として日本国の「自衛権」が9条によって否定されていないとしていることは確かである。
 次に砂川判決は「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べていることも確かである。しかし、砂川判決がこの「自衛の措置」として挙げているのは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていない。
 論者は「自衛権については、……措置は当然とり得る。」と表現しているが、「自衛権」は『権利』の概念であり、措置は統治権の『権力・権限・権能』の概念であることから、この両者を混同したまま用いるべきではない。


 □「言葉を代えれば、この法理を超えた解釈はできない、この法理の中であればこういうことだとなります。」との記載があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであり、この砂川判決を根拠として「武力の行使」を伴う措置を正当化することはできない。砂川判決を挙げて「この法理の中」というのであれば、日本国がとることのできる「自衛の措置」は、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」に限られることとなる。


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この法理に基づいて、必要最小限度の自衛権はあると言っております。「必要」と「必要最小限度」は随分違うように響きますが、現実にはあまり差はないのだろうと思います。必要な措置をとり得るということの裏を返せば必要な措置以外はとり得ないわけでありますから、必要最小限度といってもそれと大差はないと言ってもいいかと私は思っております。
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 との記載があるが、先ほど冒頭で解説したように、「必要最小限度の自衛権」の文言は意味が通じない。
 「『必要』と『必要最小限度』は随分違うように響きますが、現実にはあまり差はないのだろうと思います。」との記載があるが、政府が用いている「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)に基づく基準を意味しており、論者が「必要」と「必要最小限度」の文言の違いを比べたところで、9条の制約範囲を描き出すことはできない。
 砂川判決の「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」の部分から「必要な措置」との文言を抜き出しているようであるが、砂川判決が示した「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」とは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていない。そのため、砂川判決の「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」の文言を根拠として、砂川判決が「武力の行使」を伴う措置を正当化しているかのように考えているのであれば誤りである。


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ただ、必要最小限度の措置といったところで、集団的自衛権はできません、個別的自衛権はできます、というのは大分論理の飛躍があると思います。多分、内閣法制局は、集団的自衛権の行使はできないと言った時に、集団的自衛権の典型的な対応を思い浮かべて言ったのだろうと思います。
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 との記載があるが、ここで用いられている「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」の意味であり、三要件(旧)の基準を指す。これを満たした中での「武力の行使」については、国際法上の違法性阻却事由の区分でいえば「個別的自衛権の行使」に該当する。
 しかし、「集団的自衛権の行使」については、この三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であることから、日本国の統治権の『権限』によっては行使することができないのである。ここに「論理の飛躍」はなく、通常の法解釈である。
 「集団的自衛権の典型的な対応を思い浮かべて言ったのだろう」との記載があるが、政府解釈は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすか満たさないかに基準を置いているわけであり、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の区分に該当するか否かによって「集団的自衛権の行使はできない」と言っているわけではない。


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アメリカがどこかの国に攻められた時、日本の自衛隊がアメリカまで行って、アメリカを守るという自衛権は、我が国の存立を全うするために必要、あるいは必要最小限とはとても言えないし、アメリカもそのようなことは期待していないので、それはできませんよと言ったのであればそれは正しいのですが、集団的自衛権全ての行使ができないと言ったとしたら、それは大いに行き過ぎであると思います。
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 との記載があるが、「集団的自衛権の行使」がどのような態様であるかに関係なく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすものは可能であり、満たさないものは不可能である。論者は「必要最小限度」の言葉の意味を数量的な意味で考えているようであるが、そのような考え方は政府答弁でも否定されている。


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○秋山政府特別補佐人 
(略)
 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません

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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 「集団的自衛権全ての行使ができないと言ったとしたら、それは大いに行き過ぎであると思います。」との記載があるが、誤りである。
 「集団的自衛権の行使」とは「自国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであり、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の第一要件を満たさない。そのことから、日本国の統治権の『権限』によって「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を発動することは、全てできないのである。これは法解釈上の規範であるから、論者が「大いに行き過ぎ」との政策論上の評価をしたところで、基準は揺るがない。


 □「例えば、集団的自衛権の範疇に属するもので、我が国の存立を全うするために、必要最小限度のものにはどのようなものがあるか。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うものであるから、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たさない。そのため、論者の言う「必要最小限度」という「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の中から「集団的自衛権の行使」を行うことができる場合を見出すことはできない。「集団的自衛権の範疇に属するもので、」などという話には、論理的整合性はない。「どのようなものがあるか。」と論じようとしているが、どのようなものもない。


 □「そうだとすると、その時にアメリカの艦船を守る日本の武力行使、これは今までの定義からいえば集団的自衛権と言わざるを得ないですが、これも必要最小限度のものにあたるのではないのかというのが私の私見であります。」との記載があるが、誤りである。「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味するのであり、数量的な概念ではない。そのため、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことはできないのであり、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味する基準の下で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことのできる場合を見出すことはできない。


 □「安保法制懇は、これだけでなく4類型とか、あるいは新たな類型も検討していると思いますが、これらが全て必要最小限度にあたるかどうかは、」との記載があるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすのであれば「武力の行使」は可能であり、満たさないのであれば不可能である。


 □「ですから、我が国の存立を全うするために必要なこと、あるいは内閣法制局の言葉で言えば、必要最小限度のことには、集団的自衛権の範疇に入るものもあるよと。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権の行使」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであり、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない。そのため、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)」の下では「集団的自衛権の行使」を行うことはできない。「範疇に入るもの」は存在しない。


 □「日本の国の存立を全うするために必要最小限度でないと思っているのですか、あるいは必要最小限度であったとしても、集団的自衛権と名前が付いていればそれは駄目だと仰っているのかよくわからないので、」との記載があるが、「必要最小限度」の意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の全てを満たすことを意味しているのであって、論者の考えるような数量的な概念ではない。
 また、「集団的自衛権と名前が付いていればそれは駄目だと仰っているのかよくわからない」との記載については、国際法上において「集団的自衛権の行使」が「自国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うことになる概念である以上は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たさない中での「武力の行使」となるため、全て行使することはできないのである。


 □国際法上、集団的自衛権は有しているのに、憲法上行使できないのはおかしい、という人の主張を、まっとうな法律論として納得できるものではないとしている点や、その後の「自衛権」は国家の「自然権」であるとの主張を試みる者を、その「自然権」がどこまでの範囲であるのかが問われていることを説明している点は正当な議論である。


 □「少なくとも我が国の憲法の番人である最高裁判所は、憲法9条2項にも関わらず、必要な措置は取り得る、反対解釈すれば、必要でない措置はとり得ないということを言っているわけですから、」との記載があるが、認識に誤りがある。
 砂川判決が「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置」の例として挙げているのは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。
 また、砂川判決が述べているのは、9条2項前段が禁じている「陸海空軍その他の戦力」とは、「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しない」と述べているだけであり、これは「自衛のための措置」として「他国に安全保障を求めること」を採用した場合の「アメリカ合衆国軍隊の駐留」が9条2項に反しないことを意味するものに過ぎない。そのため、砂川判決は「自衛のための措置」として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行う場合については何も述べていないのであるから、この場面で砂川判決の「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうる」の文言を取り上げて、砂川判決が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置を許容しているかのような前提で論じることは誤りである。
 また、この文の前より続く「自衛権」が「自然権」であるかについてであるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、これが国際法上「自然権」であったとしても、なかったとしても、憲法上で定義される日本国の統治権の『権力・権限・権能』の範囲に何ら影響を与えない。


 □「国の存立を全うするために必要なときは、必要最小限度の集団的自衛権ならできると。どこまでが憲法解釈かというと、例えば、内閣法制局の必要最小限度のものまでできるというのが憲法解釈です。」との記載があるが、誤りである。
 「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味しており、日本国の統治権の『権限』はその第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うことができない。そのため、「集団的自衛権の行使」はこの第一要件を満たさない中での「武力の行使」を行うものであるから、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中には入らない。これにより、「必要最小限度の集団的自衛権ならできる」との主張には論理的整合性がない。
 内閣法制局の「必要最小限度のものまでできる」との記載は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内ならばできるという意味である。


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集団的自衛権はそれに当たらないというのは、それは憲法解釈に基づく当てはめの問題なのです。だから根本の必要なものはできる、必要最小限度のものはできるというのは憲法解釈、それに基づいて当てはめて、十把一絡げに集団的自衛権には当たりませんねと言ったのを、いやいや集団的自衛権の対応にも色々あって、当たらないものもあれば当たるものもあるというのは、実質的には当てはめの違いだけであって、実体的には憲法解釈の変更ともいえないようなものであるから、こういうものは許されるのであると私の方から述べたところ、当時の安倍前総理大臣は、高村さんの考え方は分かり易いですね、根っこから認める時は憲法改正ですね、必要最小限度のものだけ認める時は解釈変更でもいいということですねと言われたので、そういうことですと答えたのですが、私はその時びっくりしました。
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 との記載があるが、「必要最小限度のものはできるというのは憲法解釈、それに基づいて当てはめて、十把一絡げに集団的自衛権には当たりませんねと言ったのを、いやいや集団的自衛権の対応にも色々あって、当たらないものもあれば当たるものもあるというのは、実質的には当てはめの違いだけであって、」との部分について誤りである。
 まず、「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)のことであるが、これに基づけば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲となるため行うことはできない。「集団的自衛権の行使」についてはこれを満たさない中での「武力の行使」を行おうとするものであるから、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準に基づけば「十把一絡げ」に全て行うことができない。ここに「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「集団的自衛権の行使」を当てはめることはできないのであり、「当たるものもある」と考えている部分は誤りである。

 「実体的には憲法解釈の変更ともいえないようなものであるから、」との部分であるが、論者の用いようとしている意味とは異なるが、確かにこのような論理的整合性のない考え方に基づく主張は、適正な手続きが求められる「憲法解釈」とは言うことができず、「憲法解釈の変更ともいえない」ことになる。
 「こういうものは許されるのであると私の方から述べたところ、」との部分であるが、誤った理解に基づくものである。
 安倍前総理大臣が「必要最小限度のものだけ認める時は解釈変更でもいいということですね」と述べたとする部分についても、論者の誤解が伝わっただけであり、理解は誤りである。「集団的自衛権」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行使されるものであるから、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内で説明することはできない。


 □「必要最小限度の範囲であれば解釈変更してもよいという意味ですよという説明をしたら、」との記載があるが、「必要最小限度」の意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味するのであり、この範囲内の「解釈変更」となると、この基準よりもさらに狭い範囲の「武力の行使」に限るものにするということになる。確かにその意味であれば、「解釈変更」することは可能である。
 しかし、この論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのような誤解に基づく主張となっているため、誤りである。もし9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものなのであれば、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとすることができない基準となってしまうため、法解釈として成り立たなくなる。政府も下記のように述べており、「必要最小限度」の文言について「数量的な概念」ではないとしている。


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○秋山政府特別補佐人 
(略)
 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません

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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 □「実質的な解釈改憲ではないし、あてはめの問題に過ぎない。」との記載があるが、論者は「必要最小限度」の意味を誤解しているため、この誤解した基準に「あてはめ」ようとしても、法解釈としてもともと誤っている。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであるから、第一要件で「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めている「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中には当てはまらない。


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これが認められれば、憲法9条2項がないことになるという人がいますが、アメリカに行ってアメリカを守ることやイラクに行ってアメリカとともに戦うことは必要最小限度ではないでしょうから、必要最小限度というのは、我が国の存立を全うするための必要最小限度でありますから、憲法9条の存在意義が全くなくなったということにはならないわけであります。
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 との記載があるが、「必要最小限度というのは、我が国の存立を全うするための必要最小限度でありますから、」との部分が誤りである。「必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の意味であり、「アメリカに行ってアメリカを守ることやイラクに行ってアメリカとともに戦うこと」を行うことができないことは当然、これを満たさないのであれば、「我が国の存立を全うするための」を称する「武力の行使」であっても行うことはできない。
 「憲法9条の存在意義が全くなくなったということにはならない」との部分について、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を超える「武力の行使」については、9条に抵触して違憲である。9条の存在意義が全くなくなったか否かにかかわらず、9条に抵触する「武力の行使」については違憲となるため、日本国の統治権の『権限』が行うことはできない。
 順番が前後するが、「これが認められれば、憲法9条2項がないことになるという人がいますが、」との部分について、「集団的自衛権の行使」とは『他国からの要請』に応じて「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行うものであり、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」となる。そのため、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を行う組織を「陸海空軍その他の戦力」とは異なるものと説明することはできず、9条2項の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる論点である。


 □「私は国の存立を守る必要な自衛権の行使、あるいは必要最小限度のと申し上げましたが、それに具体的に何が当たるのか、当たらないのか、という当てはめが極めて重要であります。」との記載があるが、「必要最小限度のと申し上げましたが、それに具体的に何が当たるのか、当たらないのか」について、「自衛のための必要最小限度」に当たるものとは、下記の三要件のとおりである。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 一方、高村氏は、個別的であれ、集団的であれ、必要最小限度の自衛権は認められると主張する。彼が用いる「必要最小限度」とは、従来の政府見解で、自衛のための実力もしくは自衛力の量的・質的能力の限度を画するために用いられて来た相対的な概念としてのそれであり、自衛権行使の限界を画する三要件中の「必要最小限度」ではない。しかる彼は、その相対的概念としての「必要最小限度」を、自衛権行使の三要件中の「必要最小限度」であるかのように転化し、しかも他の二要件をオミットしてしまった。かくして彼は、個別的であれ、集団的であれ、必要最小限度の自衛権の行使は認められるという従来の政府見解とは似て非なる結論を導き出したのである。このデマゴギー的手法をよくよく理解 していただきたい。
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砂川事件最高裁判決によって 集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す 深草徹 PDF



集団的自衛権 早期の与党合意に意欲 自民党・高村正彦副総裁 2014年05月15日


 □「高村氏は講演で、『日本の平和と安全を維持し、国の存立を全うするための必要最小限のものとして、集団的自衛権を行使できるのではないか』と持論の限定容認論を展開した。」との記載があるが、誤った認識である。従来より政府が「必要最小限度」の文言を用いるとき、それは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味する場合と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を意味する場合とがある。この事例では「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)のことを指すものであるから、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」しか行うことができないものである。「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであるから、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を根拠とすることはできない。論者は「必要最小限度」という基準が数量的な概念であるかのように考えているようであるが、政府解釈では「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすことを意味するものであるから、誤った認識である。


 □「憲法9条2項の規定にもかかわらず、前文の平和的生存権、13条の幸福追求権から、自衛権を全く認めないことはあり得ない。日本の平和と安全を維持し、国の存立を全うする必要最小限度の自衛権はある。これが政府解釈の法理、法の理屈だ。」との記載があるが、正確には誤りである。
 「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、9条はこの概念を直接的に制約するものではない。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」等を制約しているのである。そのため、「憲法9条2項の規定にもかかわらず、前文の平和的生存権、13条の幸福追求権」などと、9条の規定や憲法上の人権に関する規定を挙げて「自衛権を全く認めないことはあり得ない。」と関連性があるかのように論ずることは誤りである。政府もそのようには解釈していない。
 「必要最小限度の自衛権」の文言についても、日本国の統治権の『権限』による「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準と、国際法上の『権利』である「自衛権」を組み合わせており、意味が通じていない。
 「これが政府の法理、法の理屈だ。」とあるが、上記のように誤っている。


 □「内閣法制局がこの法理をあてはめて、必要最小限度だから個別的自衛権は行使できるが集団的自衛権は行使できないと言ってしまったのは論理的必然性がなく、言い過ぎだったと思う。」との記載があるが、内閣法制局の解釈は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲の「武力の行使」は国際法上「個別的自衛権の行使」に該当するが、「集団的自衛権の行使」はこの「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内では説明することができないため、行使できないとするものである。これは「論理的必然性」があり、「言い過ぎ」というものではない。むしろ、論者が9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように誤解している中で「集団的自衛権の行使」を許容しようとしていることは、「論理必然性」がないものである。


 □「集団的自衛権にはいろんな形態がある。典型的な意味の集団的自衛権は必要最小限度のものではないと言うのなら、正しかったと思う。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念であり、この要件に適合すれば「武力不行使の原則」による違法性が阻却されるだけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否や行使する場合の幅には何ら影響を与えない。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であれば合憲であり、それを超えるものは9条に抵触して違憲であるという基準があるだけである。また、「典型的な意味での集団的自衛権」とそうでないものがあるかのように論じようとしているが、「集団的自衛権」に該当するものは「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で「武力の行使」を発動することになるのであり、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えることから全て違憲である。これは1947年(昭和47年)政府見解によっても裏付けられている。


 □「これは、国の平和と安全、国の存立を全うするための必要最小限度のものではないからできない。」との記載があるが、ここで「できない」とされる理由は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えることが基準となるのであり、あたかも「国の平和と安全、国の存立を全うするための」という「武力の行使」の目的に当てはまるか否かという論者が勝手に持ち出している基準に当てはまるか否かが審査されているかのような認識は誤りである。9条の下では『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」が違憲となることは当然、たとえ『自国防衛』のための「武力の行使」であったとしても必ずしも合憲になるわけではないのである。目的が『自国防衛』であったとしても、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を全て満たす必要があるのである。


 □「日本の国の存立を全うする必要最小限のものとして、集団的自衛権を行使できるのではないか。」との記載がるが、先ほども述べたように、「日本の国の存立を全うする」という目的であっても9条の下では必ずしも「武力の行使」が許されるわけではないのであり、9条に抵触しないためには「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を全て満たす必要がある。この第一要件には「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」があり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから、9条に抵触して違憲となる。「行使できるのではないか。」とあるが、行使することはできない。


 □「自衛権についてのただ一つの最高裁判決が砂川判決だ。判決は、「国の平和と安全を維持し、国の存立を全うするために」、『必要な措置は取りうる』と言っている。個別的自衛権と集団的自衛権は区別していない。」との記載があるが、誤っている。まず、「自衛権」とは国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』である。しかし、「必要な自衛の措置」とは、日本国の統治権を行使することで行う『権限』のことである。この両者は、明確に性質が異なる。論者はこの「自衛権」と「自衛のための措置」を混同しているため、論理が成り立っていない。
 そのため、日本国も「自衛権」を有し、たとえ砂川判決が「自衛権」について「個別的自衛権」と「集団的自衛権」に区別していないとしても、国際法上の『権利』を有していたとしても、日本国の国家行為は憲法上で正当化することのできる『権限』しか行使できないのである。国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の区分を持ち出して、それを日本国の統治権の『権限』が発生しているかのように考えることは不可能である。日本国に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という名前の統治権は存在しない。憲法解釈の統治権の範囲を確定する作業に、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて判断しようとすることがそもそも誤りである。
 また、砂川判決が「自衛のための措置」として示したものは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、これを根拠にして「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を実施できるかのように論じることは誤りである。


 □「政府解釈は、その法理をそのまま引いている。」との記載もあるが、誤りである。政府は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」の文言は、砂川判決の「自衛のための措置」と「軌を一にする」としているが、「武力の行使」については政府独自の見解である。また、論者は「自衛権」と「自衛のための措置」を区別できていないが、政府解釈は区別されている。


 □「ただし、政府解釈は、『必要最小限度だから、個別的自衛権は行使できますが、集団的自衛権は一切行使できません』と付け加えた。」との記載があるが、「付け加えた」かどうかは別として、その通りである。従来より政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であれば「武力の行使」は可能であり、この範囲を超えたものは不可能と解している。これが国際法上の評価として「個別的自衛権の行使」には当てはまるが、「集団的自衛権の行使」には当てはまらず、日本国が「集団的自衛権」を行使することは一切できないという結論に至るのである。


 □「憲法の番人である最高裁が示す法理の範囲内なら、内閣は憲法解釈をすることはできる。」との記載があるが、確かにその通りであるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであり、「武力の行使」を伴う措置について砂川判決が示した範囲内であるかのように論じることはできない。


 □「砂川判決も、必要最小限度のことが集団的自衛権にあります、ということまでは言っていない。今の国際情勢の中で、必要最小限度のものがあるかどうかということは、別に検証しなければいけない。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。確かに「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準は政府が用いている解釈であり、裁判所の砂川判決が示したわけではない。しかし、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準は、第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」があり、「集団的自衛権」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うことによって行使されるものであるから、「自衛のための必要最小限度」の中に「集団的自衛権にあります」と説明することはできない。その後、「必要最小限度のものがあるかどうか」との記載があるが、三要件(旧)を満たせば合憲、満たさないのであれば違憲であり、それ以外のものではない。これは法規範であるから、国際情勢の変化によっても揺らぐことはない。


 □「一方、公明党も、必要最小限度のものがあっても、集団的自衛権と名前が付いたらダメだとまでは考えていないのではないか。」との記載があるが、「集団的自衛権」の区分に該当するものは「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであり、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の中には存在しない。「必要最小限度のものがあっても」などと、存在するかのように論じることは誤りである。


 □「国の存立を全うするために最低限の集団的自衛権を認めることが、日中関係を進めるうえで阻害になるなどということは、あるはずがない。」との記載があるが、日本国も国際法上の法主体として国家承認を受けていることから、「集団的自衛権」の適用を受ける地位を認められている。そのため、認められていないことを前提として「集団的自衛権を認めることが」と論じているのであれば誤りである。「最低限の集団的自衛権」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「最低限」とそうでないものが存在するかのように論じているのであれば誤りである。さらに、「最低限」と称すれば「武力の行使」を行っても9条の制約を免れられるとの認識に基づいているのであれば、それも誤りである。9条の下で「武力の行使」を行う場合には、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を全て満たす必要がある。


 □「高村副総裁は講演の中で、安倍首相がもともと高村氏と同じ限定容認論を支持する考えだったことを明らかにした。数年前に首相と限定容認論について意見交換し、理解を得ていたという。」との記載があるが、「集団的自衛権」の中に「限定」とそうでないものがあるかのように考えているのであれば誤りである。また、9条の下では「限定」と称したからと言って「武力の行使」が正当化されるわけではない。「武力の行使」を行う場合には「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を全て満たす必要がある。「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであるから、三要件(旧)の範囲内とは言えず、9条に抵触して違憲となる。



研究会「集団的自衛権を考える」6  高村正彦 自民党副総裁 2014年05月16日

【動画】高村正彦 自民党副総裁 2014.5.16


 (7:59)より「必要最小限度だから個別的自衛権はいいけれども、集団的自衛権は一切合切すべて駄目だよと言っちゃったのがやっぱり言い過ぎだと思いますね、言い過ぎだと思いますね。」との発言があるが、誤りである。まず、「必要最小限度」という文言は、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」の程度・態様として使われている言葉である。「武力の行使」の三要件ではこれを受けて第三要件の「武力の行使」の程度・態様の基準となっている。政府が「必要最小限度」という文言を使う局面で、1972年(昭和47年)政府見解そのものを指すことがあるが、これは第一要件としての「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たした中で行われる「武力の行使」について述べているものであるから、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」はこの「武力の行使」の発動要件を満たさない中で行う「武力の行使」であるから、一切すべて駄目ということになる。論者は「必要最小限度」という文言を『数量』的な概念として考えているが、『数量』的な概念としての「必要最小限度」という文言は、三要件の「武力の行使」の程度・態様を意味するのであり、認識に誤りがある。政府が「必要最小限度」という文言を使う場合があるにしても、それは『数量』ではなく『性質』としての「武力の行使」の発動要件を意味しているため、混乱しているのである。よって、「言い過ぎ」ということもなく、論理的に当然である。


 (8:11)から「内閣法制局の人っていうのは、一応法律の専門家ですよね。一応なんていっちゃいけない。法律の専門家ですよ。だけど安全保障の専門家じゃないんですよ。だから、安全保障の専門家じゃない人は、集団的自衛権と名がついたら一切合切、十把一絡げ全部駄目だよ、というあてはめをしちゃったというところが、論理必然性がないし、行き過ぎだったと、私は思います。集団的自衛権の中にもいわゆる典型的な集団的自衛権、日本の自衛隊がアメリカ行ってアメリカがキューバにから攻められたら、アメリカ軍となって、一緒になってキューバと戦う、そんなのは、日本の平和と安全を維持し国の存立を全うするために必要最小限で、どう考えたっていえませんからね、そんなのできないですよ。だから、安全保障の専門家でない内閣法制局の人が、典型的な集団的自衛権を思い浮かべて、集団的自衛権は駄目だよと言っちゃったことがそんなに攻めるつもりはないです。集団的自衛権っていうのは、いろんな形態があるので、十把一絡げに駄目だといっちゃったのは言い過ぎだと。だから私は、日本の平和と安全を維持し、国の存立を全うするために必要最小限度の自衛権は許されると、自衛権は許される、その法理の部分は正しいし、これは維持しなければならないと思っています。ただ当てはめの部分、すべての集団的自衛権が駄目だよということは、これは言い過ぎですから、現在の安全保障環境の中で、日本の平和と安全を維持し、国の存立を全うするために必要な自衛権の中で、集団的自衛権と名がつくものがあれば、それは認めるのはごくごく当然だと、こういう風に思っております。」との発言があるが、複数個所の認識の誤りがあるため、意味が通じていない。
 1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権という名がついたら一切合切、十把一絡げ全部駄目」といっているのではなく、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことを全部駄目と言っているものである。それを、論者は「集団的自衛権と名がついたら」などと、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で説明しようとしている点で、誤った認識である。1972年(昭和47年)政府見解が国際法上の評価として表現を使い、「いわゆる集団的自衛権の行使」が許されないとの結論に至っているのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」として、日本国の統治権の『権限』が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて禁じられていることから現れる付随的なものである。これは、「集団的自衛権」を禁じているのではなく、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことを禁じているものである。論者は結論の部分から逆算して考えて、「論理必然性がないし、行き過ぎだった」と認識しているが、論者が「集団的自衛権」が国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であることを理解し、9条が「武力の行使」に対して制約を課す規範であることを理解すれば、論理必然的であり、行き過ぎでもないことが明らかとなる。
 「集団的自衛権」の中に、「典型的な集団的自衛権」とそうでないものがあるかのように論じているが、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかない。そのため、勝手に国際法上「典型的な集団的自衛権」とそうでないものがあるかのように論じているが、そのようなものは存在していない。「集団的自衛権」を行使するということは、実質的には「武力の行使」を伴うことを意味しており、9条はこの「武力の行使」を制約している。この制約基準は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示しているように、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行う場合には「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを必要とするものである。論者は9条の制約があたかも『数量』的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように論じている点が、誤った認識である。この「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の基準は9条解釈の名で政府の恣意性を排除するための基準として設けられたものであり、『数量』的なものではないことから、安全保障環境の変化によって変わるわけではない。そのため、安全保障の専門家でなくとも、法律の専門家であれば結論を導き出すことができるものである。
 「必要最小限度の自衛権は許される」と発言があるが、「自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を意味する概念であり、「許される」などと、「自衛権」の概念が9条の制約対象であるかのように論じることは誤りである。「自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されるか否かであるが、その「武力の行使」は9条によって制約されている。「必要最小限度」の意味についてであるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準に基づいて「武力の行使」の可否を決していたのであり、この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)を満たさない中での「武力の行使」はすべて9条に抵触して違憲である。これは、1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としている部分と対応する部分である。論者はあたかも9条の制約が『数量』的な意味での「必要最小限度」というものに基準を置いているかのように考えている可能性があるが、そのように考えるならば結局は政府が「必要最小限度」であると主張すればその時点で「武力の行使」が可能となってしまうことを前提とするものとなるのであり、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たさなくなるため法解釈として妥当でない。また、そのような要件は9条の規範性を保つための基準となるものを有しておらず、9条の規範性を損なわせることとなることから、法解釈として妥当性を有しておらず、9条に抵触して違憲となる。
 「必要最小限度の自衛権は許されると、自衛権は許される、その法理の部分は正しいし」と発言しているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の法理であり、「自衛権」とは異なる。論者はこの点も混乱している。
 「当てはめの部分」との発言もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られており、それ以外の武力攻撃が当てはまる余地はない。そのため、この部分「他国に対する武力攻撃」が含まれることを前提として「存立危機事態」の要件を定めることはできず、「存立危機事態」での「武力の行使」は「自衛の措置」の限界を超えて9条に抵触して違憲となる。


 (15:35)からの政府解釈も砂川判決を引っ張ってきているとの主張であるが、砂川判決が認めている「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。この「自衛のための措置」が発動される条件に付いて、政府は1972年(昭和47年)政府見解の中で、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と述べている。そして、政府がこの「自衛のための措置」として日本国の統治権の『権限』によって発動される「武力の行使」を選択する場合においても、この条件を満たす必要があるため、その政府見解の中で「そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と述べているのである。これは、「『自衛のための措置』の条件」⇒「『自衛のための措置』として『武力の行使』を行う際の条件」という論理展開によるものであるから、論理必然的なものである。


 (16:21)より「砂川判決に比べて余計なこと付け加えちゃったのが、『必要最小限度だから個別的自衛権はいいけど、集団的自衛権は駄目ですよ』と、こう言ってしまった、これは論理必然性がない。まあ、典型的な意味での集団的自衛権は駄目ですよというのはよく分かります、その通りだと思います。」との発言もあるが、論者が1972年(昭和47年)政府見解の論理を理解できていないだけであり、誤りである。政府見解は「自衛のための措置」を発動する条件を提示し、その後にその「自衛のための措置」として「武力の行使」を選択する際にもその条件を満たす必要がある旨を述べたものである。よって、「自衛のための措置」として提示されている「あくまで外国の武力攻撃によって」の意味である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲となるのであるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこの要件を満たさないことから違憲となる。これは論理必然性がある。「典型的な意味での集団的自衛権」などと言っているが、国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「典型的な意味」かそうでないかなどという議論は、国際法上存在しない。論者が勝手に「集団的自衛権」の概念を分割して語っているだけである。結局論者は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさなくとも、自国の危険を理由に「武力の行使」を行うことを正当化しようとしているだけであり、そのような「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


 (27:15)より「要するに、今の安全保障環境において、国の平和と安全を維持し、国の存立を全うするために必要最小限度のものが、集団的自衛権の中にあるかどうかっていう話になるんですよね。」との発言があるが、誤りである。まず、9条が制約しているのは「武力の行使」であって、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』ではない。そのため、9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているかのような話は意味が通じない。次に、「必要最小限度のものが」などと、あたかも「必要最小限度」という言葉が9条の制約の基準であるかのように述べているが、1972年(昭和47年)政府見解で用いられている「必要最小限度」とは、「武力の行使」の程度・態様の意味であり、三要件では第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。これは「武力の行使」の発動要件を意味しているわけではない。「必要最小限度」という文言が、あたかも9条の制約基準となっており、「武力の行使」の発動要件を決しているかのような前提で話を進めている認識自体に誤りがある。


アジア調査会講演会 平和安全法制について 平成28年4月6日


 「憲法9条2項にもかかわらず憲法前文には平和的生存権が規定されている。それを合わせ読めば、日本の平和と安全を維持し、国の存立を全うするための必要な自衛の措置を取り得ることは、国家固有の権能として当然である。平和的生存権を合わせ読めば憲法9条2項をその言葉通り読んではならない。あるいは読む必要はない。こういうことを言っているのが砂川判決です。」との記載があるが誤りである。
 砂川判決が「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。」と述べ、その「自衛のための措置」として許容しているのは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能かどうかは述べていない。また、砂川判決は「平和的生存権を合わせ読めば憲法9条2項をその言葉通り読んではならない。あるいは読む必要はない。」などとは述べていない。砂川判決は、「同条項(注:9条2項)がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」と述べただけである。

 砂川判決が触れた「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』であって、国の統治権の『権限』ではない。国際法上の『権利』を有していても、国家の統治権の『権限』が存在しなければ行使できないことは当然であり、砂川判決が日本国も「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を有していると述べていることから、国家の統治権の『権限』が存在するかのように説明することは誤りである。憲法学者などとの議論についても、この論点を押さえていないため、話がかみ合っていないだけである。
 先ほどと同じ論点であるが、「国民の平和的生存権のため、それを持ってきて憲法9条2項の文言をそのまま読んではいけない、そのまま読む必要はないということを言っているわけです。」との記載があるが、砂川判決が述べたのは、外国軍隊は2項の戦力に当たらないと述べただけであり、論者の理解は根拠のない話である。
 「当時の安全保障環境で言えば、個別的自衛権があれば集団的自衛権は必要なかったでしょう。」との記載があるが、相変わらず「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の区分であり、必要とか必要でないとかそのような議論の対象にはなっていない。日本国も『権利』それ自体は有しているのである。
 「ですから法理の部分はそのまま維持して、当てはめの部分を今の安全保障環境に合うように変えたのです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか否かで「自衛の措置」の発動要件を設定しているものである。そのため、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」については、この法理に当てはめることはできない。論理的に当てはまらないものを「当てはまる」などと結論のみを述べても、解釈の過程が適正でないため、不可能である。法論理として正当化することはできないのである。
 「この法理の当てはめということを言い出したのは、もしかしたら私が初めてかもしれませんが、一般的に『法理』と『当てはめ』は使われるのです。この問題について『法理』と『当てはめ』という言葉を使ったのは私が最初かもしれません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態」での「武力の行使」は論理的に当てはまらない。論者が初めて用いたのであれば、解釈の過程を誤った最初の人物ということになる。
 「最高裁大法廷の15人一致の理論を今の安全保障環境に当てはめただけ。」との記載があるが、砂川判決が認めた「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないのである。それにもかかわらず、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について、砂川判決が述べているかのように説明をすることは誤りである。
 「従前の政府見解を法理と当てはめを分解して法理の部分を現在の安全保障環境に当てはめるという言い方をしたのが強いていえば理論かなと。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、1972年(昭和47年)政府見解は、一体として意味を形成しているものであるため、分解するという作業自体が適切な方法ではない。また、分解された「自衛のための措置」の部分についても、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。それにもかかわらず、この要件を満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」がこの中に当てはまるかのように述べることは、論理必然性がない。「強いいえば理論かなと。」との記載もあるが、論理的整合性がないため、理論ではなく単なる不正である。結論のみを述べて正当化しようとしても、論理的整合性がなければ法解釈として正当性を有することはないのである。
 「集団的自衛権も一部やる。」との記載があるが、「集団的自衛権」は『権利』である。それを行使することは、「武力の行使」を意味する。結局論者は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で、「武力の行使」を行うことを宣言しているだけであり、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に抵触して違憲となる。


【動画】【CafeSta】「みんなで考えよう憲法改正のコト」解説:高村正彦 憲法改正推進本部最高顧問 司会:有村治子 憲法改正推進本部副本部長 2019.1.23


 18:12より「先般の平和安全法制でもって、集団的自衛権の中でも我が国を防衛するための集団的自衛権と、他国防衛ための集団的自衛権とがあると、我が国防衛のための集団的自衛権は許されるというのが集団的自衛権の限定容認ですね。これが、国会の大多数の賛成で成立して、今、少なくとも国の法律では集団的自衛権は限定的には容認されると、行使も限定的に容認されると、こういうことになっています。」との発言があるが、誤りがある。
 まず、国際法上の「集団的自衛権」は、違法性阻却事由の『権利』である。この「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、国際法上「限定的」などという区分は存在しない。
 次に、「集団的自衛権の行使」とは一般に「武力の行使」を意味する。9条はその「武力の行使」を制約しているのである。論者はあたかも9条が「集団的自衛権」という『権利』を制約しているかのように論じ、「限定的」であれば許容されるかのように考えているが、9条が「武力の行使」を制約している基準は変わらないのである。「集団的自衛権の行使」の実質が「武力の行使」を意味していることを理解しないままに論じている点が誤りである。
 さらに、『自国防衛』の「集団的自衛権」、『他国防衛』の「集団的自衛権」という議論であるが、国際法上の「武力不行使原則」に対する違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要である。この『他国からの要請』がなければ、国際法上の「武力不行使原則」に抵触して違法となるため、「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。この『他国からの要請』を必要とする「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行おうとしているにもかかわらず、『他国防衛』の意味が含まれないかのような説明は、論理必然性がない。加えて、9条は、『自国防衛』であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。『自国防衛』と称して政府が「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような「武力の行使」が行われることを制約するために存在する規定だからである。『自国防衛』であることを理由として「武力の行使」が許されるかのように論じているが、正当化根拠にはならない。
 9条に抵触する「武力の行使」は違憲無効であり、行使することはできない。
 その後、「これで日米同盟は保っている」との趣旨の発言があるが、結局、それは『他国防衛』を行うことで同盟を維持しているとのことであるから、『他国防衛』を意味する「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行っていることになるのであり、論者の発言は矛盾している。


高村氏 野党は「現実的平和主義」に戻るべき 安保法制4年 2020.3.28
高村氏 野党は「現実的平和主義」に戻るべき 安保法制4年 2020.3.28


 □「安保法制を作っていたから、集団的自衛権の限定的な容認であっても、米国が本当に守ってほしいところは守れるようになった。」との記載があるが、認識に誤りがある。
 まず、「集団的自衛権の限定的な容認」との部分であるが、日本国は国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有しているのであり、国際法上は「集団的自衛権の行使」を行うことが可能である。ここで論者が「集団的自衛権の限定的な容認」との表現しているものに関しては、正確には「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を「限定的」と称する範囲で行おうとするものである。しかし、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定であり、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これを満たさない中では、たとえ論者のように「限定的」と称しようとも違憲であることに変わりはない。論者は「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分の表現を用いているが、この表現ではこの『権利』が行使される場合とは実質的に「武力の行使」が行われることとなるという事実を覆い隠すこととなるため注意が必要である。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」をすべて違憲としていることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は許されない。これを満たさないのであれば、たとえ「限定的」と称してもその「武力の行使」が容認される余地はない。論者が「容認」されるかのように論じている部分が誤りである。

 次に、「米国が本当に守ってほしいところは守れるようになった。」との部分であるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」であり、『他国防衛』のための「武力の行使」ということができる。『他国防衛』のための「武力の行使」を実施する組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」とは異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。


 □「『本当に守ってほしいところ』とは、例えば日本周辺で日本の平和と安全に重要な影響を及ぼすような事態が起こっているときに、米艦船がどこかの国に攻撃されるようなケースだ。」との記載があるが、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行うことは、『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」である。『他国防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」を実施する組織の実態を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。「本当に守ってほしいところ」との部分についても、『他国防衛』のための「武力の行使」を実施する組織の実態は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
 他にも、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」に踏み切ることは、他国の間で発生した「武力紛争」に対して我が国の意思で武力介入を行うこととなる。このような形で「武力の行使」を行うことは、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」や、9条2項後段の「交戦権」に抵触して違憲となる。


 □「北朝鮮も『日本に手を出せば米国にたたき潰される』という現実を、最大の抑止力として受け止めている。北朝鮮のような現実的脅威がある中で、安保法制をやった価値は大きい。」との記載があるが、これは「日本に手を出せば」という場合であるため、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合であり、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行った場合、その「武力の行使」が国際法上は日本国の「個別的自衛権の行使」として違法性が阻却される部分である。そして、その「米国にたたき潰される」の部分は、米国が日本国からの『要請』を受けて「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行った場合についてである。論者はその後「安保法制をやった価値は大きい。」と評価しているが、この「日本に手を出せば米国にたたき潰される」場合とは、日本国の「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」と米国の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を組み合わせる形であり、2015年の安保法制の成立以前の法整備においても可能なものである。そのため、論者の持ち出す「日本に手を出せば米国にたたき潰される」という事例については、2015年に安保法制を立法する必要のなかった部分である。


【参考】第58回国会 参議院 予算委員会 第8号 昭和43年3月27日


 □「世の中では、個別的自衛権=自衛、集団的自衛権=他衛、とすっきり割り切れると思っている人もいるが、国際的定義からいって『自国防衛のための集団的自衛権』は当然ある。」との記載があるが、誤った認識である。
 国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の適用を受けるためには、『他国からの要請』が不可欠である。そのため、この『他国からの要請』を得ることによって初めて適法に行使できる『権利』の区分に基づく「武力の行使」が『他国防衛』の意図・目的を含まないと考えることはできない。
 また、論者の考える「自国防衛のための集団的自衛権」との部分であるが、たとえその「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」に『自国防衛』の意図・目的が含まれているとしても、「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るためには『他国からの要請』が不可欠の要件となっている以上、その中で行われる「武力の行使」の実質は『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないものである。そのため、「集団的自衛権」の区分の違法性阻却事由を得ようとしているにもかかわらず、純粋な『自国防衛』だけのものが存在するかのように考えている点で誤りである。
 また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、9条の下では『自国防衛』の意図・目的を有するからといって、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、たとえ『自国防衛』を称してもこれを満たしていないのであれば違憲であることに変わりはない。論者は「自国防衛のための集団的自衛権」との表現を用いている点で、『自国防衛』のための「武力の行使」であるならば9条に抵触しないのではないかと考えているようであるが、9条の下では『自国防衛』であるとしても必ずしも「武力の行使」が許容されているわけでもないため、「自国防衛のための集団的自衛権」と称するものに基づく「武力の行使」が9条に抵触しない旨を示したことにはならない。
 さらに、論者は「個別的自衛権=自衛、集団的自衛権=他衛、とすっきり割り切れると思っている人もいるが、」と論じている部分であるが、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定であり、この「武力の行使」の可否は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって判断されている。憲法9条に抵触するか否かについては、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に当てはまるか否かによって判断されているわけではない。そのため、「個別的自衛権=自衛、集団的自衛権=他衛、とすっきり割り切れると思っている人もいるが、」という話を持ち出し、あたかも国際法上の区分に該当するか否かという基準がそのまま9条に抵触する「武力の行使」であるか否かが決せされているかのような認識は誤りである。たとえ国際法上の「個別的自衛権の行使」として許容される「武力の行使」であったとしても、9条に抵触する「武力の行使」も存在するのである。


 □「これが、集団的自衛権の『限定容認』だ。」との記載があるが、国際法上は日本国は「集団的自衛権」を完全な形で行使することが許されている。また、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「限定」などという区分は存在しない。さらに、「集団的自衛権」を行使する場合とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使する場合を意味するのであり、実質的には国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている状態である。9条は「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを制約する規定ではないが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、これを満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、9条に抵触して違憲となる。
 論者は「限定容認」との表現を用いているが、国際法上の「集団的自衛権」という概念に「限定」のものとそうでないものがあるかのような認識であれば誤りであるし、9条の下では「限定」と称したからといって「武力の行使」が許容されるわけでもない。そのため、「限定容認」というように「限定」と称する「武力の行使」が「容認」されるかのように論じている部分が誤りである。


 □「自国防衛のためだから、中南米の某国と戦う米軍を助けたり、米軍とともにイスラム国(IS)と戦ったり出来ない。」との記載があるが、9条の下では「米軍を助けたり」という『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許されているわけではない。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、『自国防衛』と称するだけで「武力の行使」が可能となるのであれば、この9条の趣旨を満たさないからである。論者が「自国防衛のためだから」と表現している部分について、「自国防衛のため」の「武力の行使」であればあたかも9条に抵触しないかのような前提で論じている部分が誤りである。


 □論者の認識の中にある「空想的平和主義」と「現実的平和主義」との分類であるが、政治的に「空想的平和主義」や「現実的平和主義」という主義主張を行うことは可能であるが、憲法上の「平和主義」とは異なるものである。憲法上の「平和主義」は前文に記載されており、9条はその理念を具体化した規定であるとされている。
 論者は「空想的平和主義」や「現実的平和主義」と分類して特定の立場を批判しようとしているが、憲法上の前文「平和主義」の理念とそれを具体化した9条に抵触する場合には直ちに違憲となるのであり、論者の独自の見解に基づく独自の「平和主義」の思想を理由として憲法規範を覆すことができるわけではない。
 「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」については、前文の「平和主義」の理念を具体化した規定である9条に抵触して違憲であり、9条に違反する要件を定めることは9条の趣旨が現実に具体化されていないことを意味することから、同時に憲法前文の「平和主義」の理念を損なうものとなる。


   【参考】集団的自衛権行使を限定的に認める安全保障関連 Yahoo知恵袋 2020/3/28


〇 高村正彦 三浦瑠麗 その他


ガラパゴスの論理とグローバルスタンダード 高村正彦 三浦瑠麗 (担当編集者) 2017/02/24


 「『自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとり得ることは、国家固有の権能の行使』とし、『国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認している』と記しています。つまり、集団的自衛権は最高裁が認めている。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 まず、ここで言う「必要な自衛の措置」や「国家固有の権能」というのは、日本国の統治権の行使による『権限』の部分である。
 国連憲章の「個別的および集団的自衛の固有の権利」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』である。
 最高裁判所が否定していないのは、国際法上の『権利』を有していることであり、日本国の統治権が行使しうる『権限』の範囲については何も述べていないのである。

 「必要な自衛のための措置」の内容が時代によって変わるとしても、それは法の規範性の中に合法的な方法で行わなければならない。そのため、憲法解釈の形では法の規範性を維持することができない場合には、憲法改正を行うことしか手段はない。
 「必要な自衛のための措置」の内容をその時代の統治を担う政治家が一生懸命考えたとしても、その形を実現するためには、法の範囲内で合法的に行う必要がある。
 「必要な自衛のための措置」が国際法上の集団的自衛権の区分にあたるのであれば、9条2項が維持された憲法下の解釈では規範性を維持する限界を超えるものとなるため、憲法改正を行う必要がある。


 この記事の中の、「『集団的自衛権は国連加盟国に与えられた権利であるが、その権利を主権国家の判断で行使を制限するのはおかしくない』と切り返したりする。」との内容は、全く妥当である。その通りである。筋が通っている。
 しかし、それに比べて先に述べた砂川判決が国際法上の「自衛権」を認めていることによって、自国の統治権の9条の制約の範囲が変わるわけでもない。そのことから、「必要な自衛のための措置」の範囲は、9条の制約の下で行わなくてはならない。
 砂川判決が国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる国家の統治権による「武力の行使」を承認している事実はないことから、9条の制約は規範性を有する解釈を保たなくてはならない。
 この9条の制約の規範とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」なのであるから、この範囲を逸脱し、9条の規範性を損ねる「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。



〇 国際政治学 三浦瑠麗

安保法制について(1) 三浦瑠麗 2015年05月02日


 「上記の第1要件から明らかなとおり、今般の新3要件では、自国(=日本)の『存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』が必要ですから、行使の要件は個別的自衛権の発想に近くなります。」との記載があるが、我が国に対する武力攻撃が発生していない段階では、個別的自衛権に該当するかしないかにかかわらず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないため、違憲である。


安保法制(4)―不思議の国の潮目を読む 三浦瑠麗 2015年06月13日


 「ある意味、憲法学者が懸念するとおりなのだけれど、自衛と他衛は分けられなくなってしまったし、脅威は地理的に定義することも難しくなったのです。」との記載があるが、かといって法に定められた規範を乗り越えるのであれば、それは違法と評価せざるを得ない。その規範を外したいのであれば、憲法改正を行う必要がある。このことにこそ、法律家が重視する厳密さのある意見なのであり、憲法学者もそう述べている。

 「人間性に反するルールは、結局だれも守らなくなり、ルールそのものの信頼性を損なうからです。」との主張は、全くその通りである。だからこそ、憲法保障の手段として、「憲法改正」という道が開かれているのである。憲法改正という手段をとらず、法の規範性を損なう形で法律によって権限を設けることは、違憲となるのである。

 「仲間を見捨てることは、軍人のモラールに反するでしょうし、人間性に反するということもできるでしょう。」との判断を行うのであれば、憲法改正を行うべきである。憲法規範を踏み越えるのであれば、違憲であることは何も変わらないのである。「法律家は現実の世界に敏感でならなければならない」との主張があるが、かといって違法なことを法律家が判断することはできず、合法的な手段は憲法改正である。法律家もそれを指摘している以上、法律家としての役割は果たしている。

 ただ、もう一つ法律家としての役割で話さなければならないことは、9条の改正は他の条文よりも改正限界説が強く存在していることである。また、前文の平和主義との連動もある。日本国というアイデンティティに関わる問題であるから、9条の憲法改正それ自体もなかなか難しい。


日米同盟の信頼性が向上 自衛隊の海外派遣 最大の〝歯止め〟は国会 国際政治学者 三浦瑠麗 2015年9月19日


 「公明党との協議の中で憲法の専守防衛の精神に基づいて抑制がかけられた。」との記載があるが、憲法の枠を超えているのであるから、憲法の精神に則った防衛戦略の姿勢を意味する「専守防衛」の枠も超えている。抑制があろうとなかろうと、違憲である。
 「安全保障論議を法律論だけに押し込めて語ってはいけないと思う。」との認識であるが、政策論と法律論を分けて語るべきであり、政策論を進めるにあたっても法律論に従った合法的な手段を選択しなければならない。あたかも、政策論と法律論が等価的に対立しているかのような構図で語ろうとしているが、政策論に応じて、合法か否かを決するのが法律論なのであり、それを踏み越えれば直ちに違法である。政策論を進めるにあたって、合法性を欠いた手段であるならば、正当性を有しないのである。
 この法律論は、憲法という長期的な視野からの国民意思として制定された法の枠組みなのであるから、一時期の国民意思にしか裏付けられていない一時期の政治勢力が踏み越えてはいけないのである。それは、国民意思に反するのであり、正当性を有しないのである。
 論者は、一時期の政治勢力としての正当性を主張しているだけであり、憲法が長期的な視野から見た国民意思であるという現実を十分に踏まえておらず、法の支配の必要性を理解していない。


<理解の補強>


【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(3)】――ネッシーは本当にいるのか? 木村草太 首都大学東京教授(憲法学) 2014年10月30日

永田秀樹(関西学院大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日



佐藤正久

〇 自由民主党 佐藤正久


1972年政府見解の論理的飛躍 佐藤正久 2014-06-15


 1972年(昭和47年)政府見解のこのブログでいう「法理❶」と「法理❷」について説明する。

 まず、「法理❶」で、9条の下でも、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」とし、「自衛の措置」が可能な部分を見出せるとするものである。

 次に「法理❷」は、それでも9条の下では「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」ことから、「自衛の措置」の限界の規範として「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。」の枠組みが示されている。

 論者は、「段落④は、憲法は自衛のための措置を無制限に認めているわけではなく、13条で言う国民の権利を根底から覆される事態に対処するために、必要最小限の自衛の措置にとどまるべきとする法理を述べている。(これを法理❷とする)」と考えているようであるが、誤りである。論者の示す「法理❷」の部分は、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、「自衛の措置」をとる場合にはこれを満たすことが求められており、論者のように「国民の権利を根底から覆される事態に対処するため」という理由だけで「自衛の措置」をとることができるわけではないからである。また、「必要最小限度」という文言についても、論者はあたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えているようであるが、誤りである。この「必要最小限度」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解に「右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきもの」を抜き出しているものと思われるが、この「右の事態」として示されているのは「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」のことである。そのため、数量的な意味での「必要最小限度」という基準を満たすことによって「自衛の措置」をとることができるのではなく、「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」を「排除するため」の「必要最小限度」という、「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様を意味する言葉である。そのため、論者のように政府が数量的に「必要最小限度」と認定するだけで「自衛の措置」をとることができるとする基準となっているわけではない。

 また、ここで「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があるが、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。なぜならば、これは1972年(昭和47年)政府見解の冒頭で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明しており、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言はその「自衛の措置」の限界を示した規範部分の文言であることから、「集団的自衛権の行使」を可能とする「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているはずがないからである。他にも、もし「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれているとすると、「我が国と密接な関係にある他国」だけでなく、「我が国と密接な関係にない他国」や「我が国と全く関係のない他国」を読み込むことが可能となってしまい、結果としてどの国に対する武力攻撃であっても、自国の「国民の権利」が損なわれるという抽象的な危機感を理由として「自衛の措置(武力の行使)」を行うことができるようになってしまい、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることを制約した趣旨を満たさず、1972年(昭和47年)政府見解が9条解釈として成り立たなくなるからである。

 これにより、この1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界を示した規範を維持しているのであれば、「我が国に対する武力攻撃」を満たす中においてしか「自衛の措置」を発動することはできない。


 論者は「即ち、法理❶と法理❷で、個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、国の存立や国民の生存、自由、幸福追求権の確保の為には、必要最小限の実力行使は認められているとする法理を述べている。」と述べているが、誤りである。

 まず、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章51条に示されている『権利』の概念であるが、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由である。そのため、日本国が国際法上の法主体として認められていることから、この『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権力・権限・権能』の幅は9条に制約された範囲に限られる。その9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に示された「自衛の措置」の限界の規範には、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、日本国の統治権の『権限』がこれを満たさない中で「自衛の措置」をとることは9条に抵触するため行うことができない。論者は、これを満たさないにもかかわらず「国の存立や国民の生存、自由、幸福追求権の確保の為」であれば「自衛の措置」を行うことができるかのように考えているようであるが、1972年(昭和47年)政府見解はそのような規範ではない。また、「必要最小限度」についても、数量的な意味ではなく、「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様を意味するものであるから、論者の考えるように数量的な意味で「必要最小限度」と認定すれば「自衛の措置」を発動できるとするものではない。そのため「法理を述べている。」との部分は、論者の考えるような法理が述べられてるわけではないため、誤りである。

 もう一度ポイントとして押さえておきたいのは、1972年(昭和47年)政府見解が日本国の統治権の『権限』による「自衛の措置」の限界の規範を示している部分には、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の基準は関係ないことである。

 日本国の統治権の『権限』による「自衛の措置(武力の行使)」が発動された場合、日本国憲法9条の下で許されるものであるか否かを判断し、その「自衛の措置(武力の行使)」が違憲となるか否かを法的審査するのは日本国の裁判所の管轄である。しかし、国連加盟国が「武力の行使」を発動した場合にその「武力の行使」が国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に区分に該当するか否かや、その発動した「武力の行使」の内容が「必要性・均衡性」に合致しているか否かという判断するのは、国際司法裁判所の管轄である。

 自国の憲法解釈の中に国連憲章の基準を用いて解釈することは、自国の憲法に対する他国の干渉を許すことになるから、国家の主権(最高独立性)を脅かすことになる。

 そのため、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に、国連憲章上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に当てはまるか否かを基準とする「自国に対する武力攻撃」や「自国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」などという区分が含まれているはずがないのである。日本国憲法9条は、国連憲章51条から「集団的自衛権」の区分が削除されたり、国連憲章そのものが廃止されたとても、同じく効力を持ち続けるのであり、その範囲を決する基準の中に、国連憲章の違法性阻却事由の区分に当てはまるか否かを決するための基準が入り込む余地はないのである。

 よって、9条は、自国の政治的な背景によって「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が恣意的な判断によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であることから、その9条解釈の1972年(昭和47年)政府解釈の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、政府の恣意性を排除することのできる極めて客観的な基準として設けられたものと解することしかできない。そのため、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていると理解することが妥当である。

 もしこの「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が、「我が国に対する武力攻撃」に限られず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を読み込むことができるとの主張を許容したならば、それは「我が国と密接な関係にない他国に対する武力攻撃」など、その範囲は無限定となる。そうなると、9条が「自国民の利益」を実現しようとするなど政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁じた趣旨を満たさず、9条が存在している意義を保つために求められる9条の規範性を損なわせることになる。したがって、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃を持ち込むことは、論理的整合性や体系的整合性を保つことによって導かれる憲法解釈の論理的帰結によって示された規範の一線を意図的に踏み越える不正と断ぜざるを得ない。

 2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると主張しているが、そこに示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「我が国に対する武力攻撃」だけでなく、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれるとして「存立危機事態」の要件を導くことができるとしている点は、解釈の手続きを誤ったものである。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府自身の採用している1972年(昭和47年)政府見解という違憲審査基準に当てはまらず、結果として9条に抵触して違憲となる。

 このことから、1972年(昭和47年)政府見解の下では、「他国に対する武力攻撃」が「自国の存立」や「国民の権利」を侵害する事態を想定し、それに対応する新たな「武力の行使」の区分を認めようとすることは不可能である。もし1972年(昭和47年)政府解釈を取りやめ、「芦田修正説」に解釈変更するにしても、「芦田修正説」の見解は9条2項の存在している意義に合致しないものであり、憲法解釈として妥当とは言えない。

 政策の当否は別として、「他国に対する武力攻撃」が「自国の存立」や「国民の権利」を侵害する事態を想定し、それに対応する「武力の行使」の区分を容認したいのであれば、9条を改正することしか合法的な手段は存在していない。


 「段落⑤は、法理ではなく当てはめであるが、いきなり、必要最小限の実力行使は、わが国に対する急迫不正の侵害に対処する場合に限定としており、ここに論理の飛躍がある。」との記載があるが、誤りである。まず、「必要最小限度」は数量的な概念ではない。「必要最小限度」は「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止(や)むを得ない措置としてはじめて容認されるもの」を満たした後に、それを「排除するため」の発動された「自衛の措置」の程度・態様を意味するものである。そして「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、論者の言う「段落➄」の部分で「武力の行使」の限界の規範を示すところで「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示すことは「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に対応するものであり、論理的整合性がある。論者は「ここに論理の飛躍がある」としているが、論者が「必要最小限度」の意味を数量的な概念であると考える誤りがあり、この誤解に基づいて「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という規範が示されているかのように考えているために「飛躍」しているように誤った認識を有しているだけである。1972年(昭和47年)政府見解そのものは、まったく「飛躍」しておらず、論理的整合性が保たれている。

 加えて、この論者の記事のタイトル「1972年政府見解の論理的飛躍」と書かれているが、1972年(昭和47年)政府解釈の中に、論理的飛躍は存在しない。論理が飛躍しているのは、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃」の文言の中に、国連憲章の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の基準を持ち込もうとしたこの論者の方である。


 「当時は、他国に対する攻撃が我が国の存立や国民の権利を侵害する事態は考えられなかったかもしれないが、そのような事態があれば、法理❶、法理❷からすれば、必要最小限の自衛の措置も可能となる。」との記載があるが、繰り返しになるが「必要最小限度」の文言は数量的な概念ではない。また、1972年(昭和47年)政府見解が示している「自衛の措置」の限界の規範は「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、「他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、論者の言う「法理❶、法理❷」の部分からは「他国に対する武力攻撃」に起因する「自衛の措置」を行う余地はないのであり、これを維持した中において「存立危機事態」の要件を導き出すことはできない。

 「存立危機事態」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠組みは当てはまらず、結果として9条に抵触して違憲となる。


ヒゲの隊長「国民の関心は、安全保障より厚生労働分野」集団的自衛権の正しい理解を訴える 2015年7月9日


 「砂川判決というのは最高裁判所が『自衛のための措置というのは、憲法9条の範囲内だ』というのに一番最初に出した判決が、この砂川判決なんです。」との説明があるが、内容を整理する必要がある。まず、砂川判決が9条の下で許されるとした『自衛のための措置』というのは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかについては判断していないのである。

 その砂川判決が判断していない日本国の統治権の『権限』による『自衛の措置」としての「武力の行使」について、政府は1972年(昭和47年)政府見解を出し、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲を確定したわけである。

 「必要最小限度の武力の行使というのは、環境を考えたら上限が個別的自衛権ですよね、というふうにそこあてはめたんです。」との説明があるが、誤りである。
 まず、「個別的自衛権」というのは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。そのため、9条が日本国の統治権の『権限』の範囲を制約する趣旨とは意味が異なるものであるから、日本国の統治権の『権限』が行う「武力の行使」について、「上限が個別的自衛権」との説明は誤りである。

 次に、「必要最小限度の武力の行使というのは」との説明であるが、政府が「必要最小限度」との言葉を用いる場合、二通りの可能性がある。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━   ←  旧三要件の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ←  「武力の行使」の程度・態様の意味
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ここで論者が述べている「必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の意味である。この第一要件は、1972年(昭和47年)政府見解と対応する。そのため、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす「武力の行使」しか合憲とはならないのである。それにもかかわらず、その後に続く話の中で「必要最小限度の上限」が変わり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない「武力の行使」が可能となるかのように論じることは、論理的整合性がない。


 「やはり個別的自衛権だけでは守れない場合があると。」との説明があるが、9条の制約は、たとえ「個別的自衛権」という国際法上の違法性が阻却される範囲であったとしても、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「個別的自衛権」の範囲であれば、9条の下でも「武力の行使」が許容されるとし、上限も「個別的自衛権」の範囲にあると考えることは誤りである。9条の下で許容される「武力の行使」の範囲は、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する憲法解釈によって行われる必要があり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分は関係がないからである。

 「限定的に集団的自衛権を認めないといけない場合があるということで」との記載があるが、そもそも国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」に該当すれば、国際法上は「集団的自衛権」でしかない。そのため、「限定的」などという文言は、国際法上は存在しない概念である。また、「集団的自衛権の行使」とは、実質的には日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」なのであるから、論点は「武力の行使」が9条の制約を超えるか超えないかだけである。それにもかかわらず、国際法上の『権利』の区分を用いて、「限定的」と表現し、9条の下で許容される日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」の範囲が伸縮するかのように説明しようとしている試みが誤りである。


 「『集団的自衛権の一部は必要最小限の中ですね』というふうに今回政府が解釈したわけです。」との説明があるが、内容の整合性がないため誤りである。

 まず、「集団的自衛権」という『権利』の一部が、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味する「必要最小限度」の中であるという説明であるが、『権利』と『権限』の違いを押さえていないために意味が通じていない。

 また、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲となるため不可能である。そのため、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を意味する「必要最小限度」の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で「武力の行使」を行うことになる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は含まれない。よって、論者の主張しようとしている「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が違憲であることには変わりないのである。


 「一番もともとの政府の見解の出発点。まさに、それが合憲か違憲か、これを決める最高裁判所の判決が、この砂川判決なんです。」との説明があるが、誤りである。砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べておらず、判断していないし、政府見解となっている1972年(昭和47年)政府見解についても、合憲か違憲かなどということを判断したものではないのである。そもそも、砂川判決は、1959年(昭和34年)12月16日のものであり、1972年(昭和47年)政府見解よりも早い時期に下された判決である。

 「安倍総理は根拠のひとつとして砂川判決というものを用いて説明し、砂川判決と我々政府の見解というのは、考え方は同じなんですよということを説明しています。」との説明があるが、そもそも砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については判断しておらず、何も述べていないのであるから、これを根拠に「考え方は同じ」と考え、「合憲か違憲か」を決めるかのように主張することは誤りである。


 「こういう過去の判例をもとに議論をつみあげて、そして外的な環境が変わったので、この必要最小限の範囲も考え直さないといけないということですね。」との説明があるが、誤りである。まず、砂川判決は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については判断していない。次に、ここで述べられている「必要最小限度」についてであるが、これは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす中での日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲のことである。そのため、「過去の判例を基にして議論を積み上げて」などと、あたかも砂川判決が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を合憲としているかのように説明することは誤りであるし、「必要最小限度」の意味が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準であるにもかかわらず、「環境が変わった」ことを理由に第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が解釈が可能となるかのように論じることは誤りである。


 「先ほどあった砂川判決で、自衛のための措置は、憲法の許容範囲内で我々はやってますから。」との説明があるが、論旨の意味は通じていない。

 まず、砂川判決が許容している『自衛のための措置』とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。

 次に、「憲法の許容範囲内」であるか否かを決しているのは、1972年(昭和47年)政府見解である。これは9条の規範性を保った解釈として「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした中での「武力の行使」については合憲と解する余地があるが、これを満たさない中での「武力の行使」については違憲とするものである。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」については、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるから、違憲である。

 論者はあたかも砂川判決が憲法の許容範囲を確定し、「存立危機事態」での「武力の行使」についてもその範囲内であるかのように述べているが、憲法の許容範囲を確定しているのは砂川判決ではなく、1972年(昭和47年)政府見解であるし、その1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の範囲内に「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれることはないため、二重の誤りが存在する。

 「砂川判決にもとづいて我々は解釈をしたということだと思います。」との説明があるが、相変わらず砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については判断していないのであるから、「砂川判決にもとづいて我々は解釈をした」という認識は、誤りである。


 「今回、我々が国会に提出をしている集団的自衛権は、フルサイズの集団的自衛権ではなくて、まさにそのまま放置をしていたら、日本国民の命が守れないというときに限定をした集団的自衛権。つまり、目的が自衛なんです。」との説明があるが、誤りである。

 まず、国際法上の『権利』である「集団的自衛権」にあたれば、それは国際法上「集団的自衛権」でしかない。その『権利』の区分に、「フルサイズ」や「限定」などいう概念は存在しないのである。また、「集団的自衛権」という『権利』を行使するにあたっては、実質的には日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味する。しかし、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う場合、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得るためには、「他国からの要請」が必要となる。「他国からの要請」がない段階で「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項に該当し、国際法上違法となるからである。もし「他国からの要請」がない場合、国際法上は「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。よって、「他国からの要請」が必要である「集団的自衛権」という『権利』を行使する「武力の行使」を行うことは、『他国防衛』の意味が含まれているのであり、論者が「目的が自衛」と説明しようが、『他国防衛に付随する自衛』でしかないのである。

 そのことから、論者の「自分の国のためだけ。他を守る他衛じゃない。今回は自衛のための集団的自衛権。」との主張は、成り立たない。「他国防衛ではなく、目的は自国防衛」との説明も、誤りである。

 「他国を守るのは、それは手段であって目的ではない。」との説明があるが、他国を守ることを目的とした実力組織の保有は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。また、9条は目的が『自国防衛』であったとしても、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。『自国防衛』と称して政府が国民の利益や政治的な判断で「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定が、9条だからである。

 そもそも、「それは手段であって目的ではない」との理由で正当化を試みているが、9条は「武力の行使」や「戦力」という『手段』を制約する趣旨の規定である。目的が『自国防衛』だからといって、その手段として「武力の行使」を行ったり「戦力」を保有することを禁じる趣旨の規定なのである。よって、論者の正当化根拠は、むしろ違憲性を明らかにするものである。


   【参考】攻撃意思を推測し行使と首相 集団的自衛権、参院特別委で 2015年7月28日


 その後、「限定的な集団的自衛権」との文言が出てくるが、国際法上の概念である「集団的自衛権」という『権利』に、「限定的」などというものは存在しない。その実質は「武力の行使」である。日本国の統治権の『権限』は、9条の制約を超える「武力の行使」を行うことはできないのであるから、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」では説明のできない「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。



岡崎久彦

〇 国際法上の『権利』と憲法上の『権限』の違いを理解しておらず、法分野も同一視しており誤りである。

岡崎久彦 強大中国にいかに立ち向かうか 2014年09月22日


 「問題は、その後、政府が『その権利はあるけれども、その行使は許されない』という非論理的な答弁をしてしまったことにある。」との記載があるが、誤りである。政府は国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』は有しているけれども、その区分にあたる国家の統治権の『権限』による「武力の行使」は9条によって制約を受けているために行うことができないという意味である。何も非論理的でもなく、論者が『権利』の「権」と『権限』の「権」を同一視してしまったことによる誤りである。

 「権利がある以上それを行使できるのは当然である。」との記載があるが、国際法上行使しても違法性が阻却される可能性は確かに日本国も有している。しかし、9条によって国家の統治権を制約されている日本国の場合は、『権限』として行使しない、あるいはできない場合があっても当然である。

 「ただ、それは権利であって義務ではない。もとより、その権利を行使して鉄砲を一発撃つということは往々にして一国の命運に関する場合がある。したがって、その権利を行使するかどうかは、その都度政府が慎重の上にも慎重に考えて、行使の適否を決めるというのが当然、というよりも、人類の常識で考えて、ほかに考え方のありえようもない結論である。」との記載があるが、それは、国家の統治権を制約する9条の規定を持たない国の場合である。
 日本国憲法では9条の規定が存在しており、国家の『権限』はその範囲に制約されているため、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を有しているからと言って、国際法を根拠に国家の統治権の『権限』が新たに与えられるわけでもなく(もしそう考えた場合、国の権限の正当性が国民主権の信託によって裏付けられたものではない)、国家の『権限』として行使できない場合があるのである。



【正論】岡崎久彦氏 今一度、集団自衛権の論議ただす 2014.3.6


 「そして、最高裁の砂川判決は、日本が固有の自衛権を有することを認め、その故に自衛隊を合憲と認めている。」との記載があるが、誤りである。砂川判決は、9条が「自衛権」を否定ないとしていることは確かであるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。また、自衛隊の合憲性など判断しておらず、「その故に」という言葉も、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることと、国家が統治権の『権限』を有していることは別物なので、論理が通じていない。

 よって、その後に続く「日本の社会の良識はこれに対する法的な決着を既に与えているのである。」との主張も誤りである。

 「日本は国連憲章を憲法上の手続きに従って批准している。だからその規定は国内法と同じ権威がある。」との記載があるが、国内法と同じ権威があったとしても、条約(国連憲章を含む)が憲法に優越することはない。また、国際法上で『権利』の適用を受ける地位を有することを確認しても、相変わらず国家の統治権の『権限』の有無とは別問題である。なぜならば、国家の統治権の『権限』は、国民主権原理を採用している国では国民からの信託によって授権されることで正当化されるものであり、国際法を法源としていないからである。

 「固有の権利」の意味についてであるが、これは国家が国家承認を得ることで国際法上の法主体となった場合に、その「固有の権利」が国際法上において認められるものである。そのため、国家の「固有の権利」の適用を受ける地位を有したからと言って、国家の統治権の『権限』の存否や幅については、その国の憲法上で許容された『権限』の範囲に限られるのである。

 「ただ、憲法前文の平和主義の精神に則(のっと)ると、その行使には制限を加えるべきであり、それは集団的と個別的自衛権の間に線を引くべきだというのが、従来の法制局の解釈である。」との記載があるが、誤りである。従来の政府解釈として1972(昭和47年)政府見解を挙げることができるが、これは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに線を引いたものである。よって、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の区分である「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の間に線を引いているわけではない。つまり、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の範囲であっても、1972年(昭和47年)政府見解に示された「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであれば、その「武力の行使」は違憲となるのである。これは9条解釈によるものであり、「前文の平和主義の精神に則ると、その行使には制限を加えるべきであり」の言葉も、厳密には誤りである。


 刑法上の「正当防衛」に例える話も、「正当防衛」が可能であったとしても、自分ルールで「人を殴ること」を制約することとは可能であるため、別問題である。同様に、国際法上の「自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、それを行使する場合の「武力の行使」を自国の憲法上での制約することはあり得るのであり、別問題である。

 その後の主張も、国際法とは法分野が異なるため、憲法解釈において国際法上の基準である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分を持ち出すことがそもそも誤りである。

 「『権利はあるけれど行使できない』などという小理屈」との記載があるが、『権利(Right)』と『権力・権限・権能(Power)』の違いを認識していない者の勘違いでしかない。



葛西敬之

〇 「権利(Right)」と「権力・権限・権能(Power)」の違いが理解できているのか、説明責任を果たすべきである。


【「改革」あれこれ】JR東海会長・葛西敬之 消極的な説明責任の罠 2013.5.13


 「集団的自衛権の存在を認めつつその行使を認めないという彼らの解釈論は、憲法の大前提を無視し、視野を条文の字義と過去の解釈に限定しているだけであり、説明責任の回避に他ならない。」との記載があるが、誤りである。まず、日本国は国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』の適用を受ける地位を有しているが、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約を受けているため、「武力の行使」の範囲が限られるとするものであり、ここの矛盾は存在しない。
 これを理解するにあたって必要なのは、『権利(Right)』と『権力・権限・権能(Power)』の違いを押さえることである。これが憲法の大前提を押さえた普通の解釈である。何も説明責任を回避しているわけでもなく、歴代政府もずっとそのように述べている。
 単に、論者がこの違いを理解できていないだけである。

 「陸相のかたくなさと内閣法制局の9条解釈は思考停止という点で性格を一にし、原子力規制委員会の判定と連合艦隊司令長官の言動は責任転嫁という点において類似する。」との記載があるが、論者の9条解釈は不勉強と勘違いによるものであり、この批判は当たらない。

 この論者は、責任転嫁や説明責任を主張するが、自らが『権利(Right)』と『権力・権限・権能(Power)』の違いを理解できていないことによる政策責任に対して、どう説明責任を果たすのだろうか。



北岡伸一

〇 「権利」と「権限」を同一視しており、論者の理論が誤っている。

日本は「集団的自衛権」を行使すべきか?~北岡伸一(安防懇座長)VS柳澤協二(元防衛官僚) 2013年11月29日


 「日本政府の《日本は国際法上、集団的自衛権を有しているが、憲法上行使することができない》とする解釈が『あまりに不自然な制約となっている』と強く批判したうえで、『日本が集団的自衛権を行使できないせいで、日米は1つのチームとして動けない』と危機感をあらわにした。 」との記載があるが、国際法上の『権利』である「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることと、憲法で正当付けられる国家の統治権の『権限』として行使できるかどうかは別問題であるため、不自然な制約というわけではなく、当然の解釈である。

 「国連憲章やサンフランシスコ平和条約が認めるように、日本も集団的自衛権を行使できるはずだ、とした。 」との記載があるが、国際法上のにおいて「集団的自衛権」という『権利』の区分の適用を受ける地位を有しており、国際法上においてこれを行使できる可能性があることは全くその通りである。しかし、「集団的自衛権」が行使される状態とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することであるから、実質的には国家による「武力の行使」が行われている状態を意味する。憲法9条はこの日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているために、結果として「集団的自衛権の行使」を行うことができない(行う機会がない)のである。

 「これまでの政府解釈を『理論上も実際上も間違っている』と批判していた。 」との記載があるが、これまでの政府解釈は理論上も矛盾はなく正確なものであり、実際上も正しいものである。


激論!「集団的自衛権」 安保法制懇・北岡伸一座長代理VS青木理・中村雅俊・吉田照美 【いま日本は】 2014年5月21日


 「あと9条2項についても、憲法が出来た頃は吉田首相はじめ政府は一切の軍隊はダメと言っていたが、1954年になって主権国家である以上必要最小限の軍事力を持ち、行使するのは憲法に適うという判断をして、59年砂川判決でも支持されている。」との記載があるが、誤りがある。政府は現在でも2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」は全て保持できないと解しており、「自衛隊」はこれに当たらない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であると説明している。そのため、現在「軍隊」や「軍事力」を有するかのような認識は誤りである。また、「必要最小限」の文言であるが、政府が説明しているのは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の「武力の行使(実力行使)」を行うことができると解しており、そのための実力組織を「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と呼んでいる。

 「砂川判決でも支持されている。」との部分であるが、砂川判決は「アメリカ合衆国軍隊の駐留」について問われたものであり、日本国の統治権の『権限』が指揮権・管理権を有する「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」である「自衛隊」の適否については一切判断されていない。それにもかかわらず、砂川判決が支持しているかのように説明していることは誤りである。(当サイト『砂川判決を読む』)

 

 「72年になって必要最小限というのは個別的自衛権だけで集団的自衛権は入らないと明確に言った。」との記載があるが、「必要最小限」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準に基づく「武力の行使」は第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」があるため、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分としては「個別的自衛権」には該当するが、「集団的自衛権」に該当することはないとする論理によるものである。

 論者が「72年になって必要最小限というのは」と表現している部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解の文面に記載された「必要最少限度」の文言については、「自衛の措置」を発動した場合の程度・態様の意味であり、三要件で言えば第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。この点、1972年(昭和47年)政府見解を正しく読み解けているのか疑問がある。

 「そこでとても大事なことは必要最小限は誰が決めるのか。そもそも法律の上で個別的自衛権・集団的自衛権と線を引くのは間違っていると思う。」との発言があるようであるが、誤った認識である。「必要最小限」について、従来より政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準によって「武力の行使(実力行使)」を行うことができるか否かを決していた。そのため、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」との間に線を引いて判断していたかのような認識は誤りである。9条の下では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を実施する際には、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たせば合憲、満たさないものは違憲と判断されているのである。この三要件(旧)を満たす「武力の行使」は、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分でいえば「個別的自衛権」に該当するが、「集団的自衛権」には該当しないとの結論が導かれているだけである。


 「我々は理論的にも72年解釈が最初からおかしいと思っている。」との発言があるようであるが、理論的に誤っているのは、国際法上の『権利』と、憲法によって正当付けられる国家の統治権の『権力・権限・権能』の違いが理解できていない論者の方である。



憲法 解釈変更を問う 安保法制懇座長代理・北岡伸一さん 2014年4月22日


 「憲法9条が許容する『必要最小限度の自衛権の行使』に集団的自衛権が含まれないという解釈は間違っている。」との記載があるが、誤りである。「必要最小限度の自衛権の行使」の部分について、政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす中で行われる「武力の行使(実力行使)」が、国際法上の評価概念として「自衛権の行使」となるとしているものである。この「自衛のための必要最小限度」という基準は三要件(旧)を意味しており、この第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在することから、「集団的自衛権の行使」とはこれを満たさない中での「武力の行使」を行うものであるから、「自衛のための必要最小限度」の中に含まれないとしているものである。これは、論理的整合性があり、この解釈は間違っていない。論者の「解釈は間違っている。」との主張は、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えることによる間違いである。もし9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているのであれば、政府が必要と考えたならば全てこの中に当てはまると主張することができてしまうのであり、9条が「自国民の利益」の実現や、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約した趣旨を満たさないため、法解釈として成り立たない。


 「世界に、個別的か集団的かと自衛権について議論している国はない。」との記載があるが、誤りである。他国においても、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分自体は意識して運用している。なぜならば、「自国に対する武力攻撃」が発生した場合の「武力の行使」は「個別的自衛権」に該当して違法性が阻却されるが、「自国に対する武力攻撃」が発生しておらず、『他国からの要請』も得られていない中で「武力の行使」を行った場合、「集団的自衛権」の違法性阻却事由にも該当しないため、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に該当して違法となるからである。

 もう一つ、9条の下にある日本国の統治権の『権限』は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たすか否かで「武力の行使」の可否を決しているのであり、国際法上の「個別的自衛権」か「集団的自衛権」の間に線を引いてこれに適合するか否かによって「武力の行使」の可否を決しているわけではない。9条が制約しているのは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念ではないからである。


 「世界中の国は集団的自衛権を認めている。それで軍国主義になった国はあるだろうか。軍国主義と集団的自衛権、安全保障の問題は関係ない。」との記載があるが、日本国も国家承認を受けて国際法上の法主体として認められていることから、「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有している。そのため、日本も国際法上「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることは認めている。ただ、9条に抵触する「武力の行使」については、それが国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当しようが「集団的自衛権」の区分に該当しようが関係なく違憲であり、日本国の統治権の『権限』によって行使することはできない。論者の持ち出す「集団的自衛権」という国際法上の『権利』と、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の範囲の問題は関係ないのである。


北岡伸一・安保法制懇(「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」)座長代理 インタビュー全文 2014年4月30日


 1981年の答弁書の「自衛権の行使は我が国を防衛するために必要最小限度の範囲に止めるべきで、集団的自衛権はその範囲を超えるため許されない」の文言に対して、論者は「何故、必要最小限を超えるかは書かれていませんね?」と問いかけ、その後「なぜ超えるかということは、書いていない。その考察はされていないんですよ。」との発言があるが、認識に誤りがある。

 まず、1981年の答弁書は、論者が「遡れば72年にもっと同じようなことを言っているので、その解釈は72年以後なんですよね。」と言っている通り、1972年(昭和47年)政府見解を述べているものである。これらの答弁書が答えている「必要最小限度」の意味は、1972年(昭和47年)政府見解そのものを指しているものである。この1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に9条解釈の規範性を設定しているものであり、この要件を満たさない中で行われる「武力の行使」については、違憲となる旨を述べているものである。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

○秋山政府特別補佐人 

(略)

 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 


 よって、1982年の答弁書にて「なぜ必要最小限度を超えるか」について書かれていなくも、その「必要最小限度」とは、1972年(昭和47年)政府見解そのものを指すのであるから、この見解から導かれる要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。


 論者は、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する51条の「自衛権」について、「もう一つは自衛なんですよね。自衛の時に必要最小限、守るために武力行使するのはこれだけはしてもいいよ、ということになっているんですよ。」と説明しているが、誤りが存在する。

 国連憲章51条の「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』については、「必要性・均衡性」で制約されているものである。これを9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解そのものを指す「必要最小限度」の概念と同一視して議論を進めている点が誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」についての制約を示したものであり、国連憲章51条の違法性阻却事由の『権利』の制約とは異なるのである。


 その後、国際法上の「自衛権」について、「これ、そもそも必要最小限なんですよ。」との説明があるが、「必要最小限」ではなく、「必要性・均衡性」である。憲法上の9条の制約と、国際法上の制約を同一視した誤った論旨である。

 「集団的自衛権」という『権利』の行使としての「武力の行使」について、論者は「必要最小限の中になぜ入らないのかと。」と問いかけ、「それで集団的自衛権は必要最小限の中に入りませんというのは、理論的に、証明不可能です。」と主張している。しかし、論者の言う「必要最小限」の意味は、1972年(昭和47年)政府見解それ自体を指す意味である。この1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものであり、国際法上の「集団的自衛権」という区分にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないものであるから、結果として「武力の行使」を行うことができないとするものである。

 論者が使っている「必要最小限」の意味が、1972年(昭和47年)政府見解そのものを指しているということを正確に理解すれば、「集団的自衛権は必要最小限の中に入りませんというのは、理論的に、証明」が可能である。論者が「理論的に、証明不可能」という考えを持っているのは、「必要最小限」の意味を正確に理解していないためである。


 砂川判決について、論者が「個別は良いけど集団はだめという観念も無かったですよ。」と説明している点は、正しい。判決内容にそのような内容も存在しない。


「積極的平和主義」に転換する日本の安全保障政策 北岡伸一 2014.02.05


 「憲法制定当初の1946年には、政府はいかなる戦力も一切持たないという立場であった。しかし1950年に近隣で朝鮮戦争が勃発し、1951年にサンフランシスコ平和条約が締結され、1952年に日本が独立を回復することになると、一切の戦力を放棄するという立場を変更せざるを得なくなった。そこで、1954年に政府は、主権国家として最小限度の軍事力を持つのは当然のことであり、9条2項は最小限度の戦力の保持は禁じていない、という解釈を打ち出した。この解釈は最高裁判所で否定されていないから、確定した解釈となっている。」との記載があるが、誤りがある。

 まず、「憲法制定当初の1946年には、政府はいかなる戦力も一切持たないという立場であった。」と、「一切の戦力を放棄するという立場を変更せざるを得なくなった。」との部分について、政府は従来から現在まで9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」の保持はできないという立場を維持しており、これに当たらない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」については保持が可能であると解している。そのため、「立場を変更」と、9条の規範について解釈変更がなされたかのような認識は誤りである。

 つぎに、「最小限度の軍事力」の表現であるが、政府は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」は9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」には該当しないと説明しており、「軍事力」とはしていないため、誤りである。同様に、「9条2項は最小限度の戦力の保持は禁じていない」の部分についても、政府は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」は全て禁じられており、それに抵触しない範囲の「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」しか保持できないとしているため、「戦力の保持」を禁じていないとする表見は誤りである。そのような解釈は打ち出されていない。

 「最高裁判所で否定されていないから」との部分について、確かに最高裁判所で否定されているわけではないが、法的判断がなされたこともない。そのため、最高裁判所が許容していると判断できるわけでもないことを押さえる必要がある。


 「同時に、政府は『最小限度』を強調するあまり、個別的自衛権の行使はよいが、集団的自衛権の行使は不可能という憲法解釈を主張してきた。つまり、日本が侵略されれば防衛する権利はあるが、他国が侵略された場合は、これを助けることはできないということである。」との説明があるが、認識を整理する必要がある。

 まず、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。そのため、「個別的自衛権の行使はよいが、集団的自衛権の行使は不可能」という枠組みは、9条の下でも「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす「武力の行使」は可能であると解することができ、その第一要件の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす「武力の行使」であるか否かを決することの結果として副次的に現れる区別でしかないものである。そのため、たとえ国際法上の「個別的自衛権」にあたる「武力の行使」であっても、9条の制約を超える部分(『自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を超える部分)については、日本国の統治権の『権限』において行使することはできないのである。「個別的自衛権」として国際法上の違法性が阻却されるからといって必ずしもその区分の「武力の行使」が許容されるとする趣旨ではないことを押さえる必要がある。

 また、「日本が侵略されれ場防衛する権利はあるが、他国が侵略された場合は、これを助けることはできないということである。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。日本国は、国家承認を受けており、主権国家として国際法上の『権利』自体は、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も有している。そのため、「他国が侵略された場合は、これを助けること」についても、国際法上の『権利』自体は有しているのである。しかし、9条が日本国の統治権の『権限』を制約しているため、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」ができないことから、結果として「集団的自衛権」という『権利』の行使にあたる「武力の行使」を行うことができない(機会がない)という結論に至るのである。論者が、「奇妙としか言いようのない解釈をしてきたのである。」と評価する背景には、論者自身か『権利』と『権限』の違いを理解していないことによるものである。


 「日本が集団的自衛権を有することは、国連憲章51条でも、サンフランシスコ平和条約でも、旧・新日米安保条約(1951年、1960年)でも明記されているにもかかわらず、そうした奇妙としか言いようのない解釈をしてきたのである。」との記載があるが、論者の認識が誤っている。「集団的自衛権」とは国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であり、この適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条によって制約されていることに何らの影響を与えない。そのため、この両者に矛盾抵触はなく、「奇妙」な解釈ではなく、正当な手続きに則った解釈である。


 「でも当時、今から43年前に周辺環境を考えた場合、必要最小限度の武力の行使というのは、環境を考えたら上限が個別的自衛権ですよね、というふうにそこあてはめたんです。」との記載があるが、誤りである。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす「武力の行使」は、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念でいえば「個別的自衛権」に該当するというだけである。「環境を考えたら」などと、環境が入り込む余地はなく、法学上の要件の論理的整合性を突き詰める結果によって導かれるものである。「あてはめたんです。」との説明もあるが、ここで用いられている「必要最小限度」の基準は数量的な概念ではないため、これを変更すれば「あてはめ」を行えるものが出てくるという性質のものではないし、日本国の統治権の『権限』の範囲を決している「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分の「個別的自衛権」を「あてはめ」ることのできる性質も有しない。この両者は別々の法体系に属するし、その『権利』と『権限』で法的性質も異なる。

 「自衛権の定義を、奇妙にねじ曲げてしまった結果、実際上も数々の不都合な事態が生じている。」との説明があるが、「自衛権」は国際法上の概念であり、日本政府は「奇妙にねじ曲げて」いるという事実はない。また、国際法と国内法では法体系が違うのであるから、日本政府が国際法上の定義を「ねじ曲げ」ようとしても、日本が勝手にそう主張しているだけということになる。論者が「ねじ曲げ」と認識している背景には、論者自身が国際法と国内法の法体系の違いと、『権利』と『権限』の違いを理解しておらず、それらを同一視する誤解があるためである。ねじ曲がっているのは論者の理解である。


 「憲法9条1項は、国際紛争の解決のための武力行使を禁じている。だが、その場合の国際紛争とは、ケロッグ・ブリアン条約(不戦条約)に由来する、日本と他国との紛争を指すものである。」との記載があるが、おおよそその通りである。憲法9条1項の文言は「不戦条約」を参考としたものと考えられている。砂川判決の「裁判官奥野健一、同高橋潔の意見」にもその趣旨が記載されている。そして、その「不戦条約」締結当時、暗黙の了解として許容されていた「自衛権」の幅とは、国連憲章51条の区分でいえば「個別的自衛権」であり、「集団的自衛権」は含まれていない。「不戦条約」の締結当時、未だ「集団的自衛権」という概念は存在しなかったからである。そのため、「不戦条約」の下で許容された「自衛権」に基づいて行使できる「武力の行使」とは、「自国に対する武力攻撃」が発生した場合に、それに反撃する形での「武力の行使」に限られる。論者も、「日本と他国との紛争を指すものである。」と表現している部分は、その通りである。

 そして、9条1項は日本国憲法上の規定であり、国連憲章など国際法とは独立した法体系に属する規定であり、国連憲章が廃止されたしてもその法的効力は変わらないものである。このことから、9条1項の下で行使できる「武力の行使」の形は「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生した場合に、それを「排除する」ための「武力の行使」に限られることとなる。このことから、「不戦条約」と同様の趣旨を有する9条1項の下では、国連憲章51条の「集団的自衛権」に基づく形での「武力の行使」は許されておらず、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条1項に抵触して違憲となるのである。


 「次に問題なのは、集団的自衛権は個別的自衛権を越えるものであって、行使は許されないという内閣法制局の解釈についてである。」との記載があるが、誤りである。従来の内閣法制局は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすか否かによって「武力の行使(実力行使)」の可否を決していたのであり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の区分に従って「武力の行使(実力行使)」の可否を決していたわけではない。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす「武力の行使(実力行使)」であるか否かを切り分けた結果、国際法上の区分で表現すれば「集団的自衛権の行使」にあたる「武力の行使」を行うことができないとしているだけである。「集団的自衛権は個別的自衛権を超えるものであって」との説明はなされていない。


 「このように、集団的自衛権の一部は、法制局の言う『必要最小限度』のうちに含まれるというのが、憲法上の解釈を変えようとしているもう一つのポイントである。」との説明があるが、認識に誤りがある。法制局の言っている「必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準である。そのため、三要件(旧)を満たさない中で「武力の行使」を行うことは全て違憲であり、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」をすることはこの第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないことから、違憲との結論が導かれるのである。論者は、「必要最小限度」との文言だけを取り上げ、その「必要最小限度」の意味するところが「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)であることを知らず、あたかも9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように考えて、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」もここに含ませることができるかのように考えているのである。内閣法制局の提示している「必要最小限度」の意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味していることから、論者の認識は誤りである。

 もう一つ、「集団的自衛権の一部は」との説明であるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、『権利』が一部がどうのこうのと主張しようとも、日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではない。日本国の統治権の『権限』の範囲を確定した憲法解釈として1972年(昭和47年)政府見解があるが、これは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たした中での「武力の行使」は合憲となる余地があるが、これを満たさない中での「武力の行使」は全て違憲とするものである。国際法上『他国からの要請』に応じる形で得ることのできる「集団的自衛権」という『権利』を行使する形での「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないものであるため、1972年(昭和47年)政府見解が示している規範に当てはまらず、9条に抵触して違憲となるのである。


 「個別的自衛権の行使は合憲とされているが、」との記載があるが、厳密には誤りである。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」については、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の『権利』の区分として国際法上の違法性が阻却されるとしても、憲法9条に抵触して違憲となるのであり、国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当すれば「武力の行使」が全て合憲となるかのような認識は誤りである。


 「1954年になされた憲法解釈の変更、つまり『戦力不保持』から『必要最小限度の保持は可能』に転じたことと比べれば、集団的自衛権を我が国にも認めることは、ささやかな解釈変更に過ぎない。」との記載があるが、政府は今でも9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」の保持はできないと解しており、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」については、これに当たらない範囲のものと解している。そのため。9条解釈が変更されたわけではないと考えられる。「転じた」の部分について、あたかも政府が「陸海空軍その他の戦力」の保持を認めている部分があるかのように表現していることは誤りである。また、「集団的自衛権を我が国にも認める」の表現であるが、日本国は国家承認を受けており、国際法上の法主体として認められていることから、もともと「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有している。そのため、「集団的自衛権」という『権利』の適用が認められていないことを前提として「認めること」と表現しているのであれば誤りである。

 また、2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしているが、その「自衛の措置」の限界の規範を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も含まれると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは、文面上の論理的整合性が保たれておらず、解釈手続き上の不正が存在する。これにより、「集団的自衛権の行使」として「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠組みを超える「武力の行使」であり、結果として9条に抵触して違憲となる。手続き上の不正が存在することから「ささやかな解釈変更に過ぎない。」との評価は妥当でなく、行政裁量を逸脱した違法なものとなっている。



国家防衛の理想と現実 集団的自衛権で何を守る
 2014年5月9日

国家防衛の理想と現実 集団的自衛権で何を守る 2014年5月9日)


 日本は自衛権を持つが、「しかし、日本は行使できませんという解釈がきたので、そもそもちょっと変ではないかというのはあるわけですね」との記載であるが、まったく変ではない。なぜならば、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国が国際法上のこの『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、9条が日本国の統治権の『権限』を制約していることにより、その『権利』の行使を行わない場合は当然にあり得るからである。論者は国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることによって日本国の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生すると考えている点で誤りである。


 「そんなの常識で主権国家たるもの自衛権をもっているのは当たり前だと、そんなこと書く必要はない。」と、憲法に「自衛権」という国際法上の『権利』を書き込む必要がないと示しているが、その通りである。「自衛権」は国際法上の『権利』でしかなく、国家の統治権の『権限』とは性質が異なるからである。「それが1954年の解釈変更ですよ。」との記載があるが、9条の規範について解釈変更はされていない。


 「必要最低限の軍隊をもって、行使してよろしいと1954年に解釈を変えたんですよ。」との記載であるが、「軍隊」というのは誤りである。「軍隊」そのものとなると、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となるため、政府は「自衛隊」を2項前段の「陸海空軍その他の戦力」ではないとしており、「軍隊」ではないとしているからである。そのため、「1954年に解釈を超えた」との記載もあるが、現在まで「陸海空軍その他の戦力」を保持できないとする政府解釈は変わっていない。


 「その9条2項の解釈、自衛隊も一切の軍備はダメだというところから1954年の必要最低限の軍備を持っていいというのはジャンプです。正しいジャンプだと思います。」との記載もあるが、現在でも9条2項の「陸海空軍その他の戦力」は禁じられており、「軍備はダメ」という解釈は維持されている。「必要最小限」との部分であるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たす「武力の行使」を実施する実力組織のことであり、それを政府は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と呼んでいる。これは「陸海空軍その他の戦力」ではないとしているため、「軍備」との表現は誤りとなる。

 「集団的自衛権の行使」に関し、「それに比べれば今度の必要最小限の中に集団も入りますよというのは大した変化ではないんです」との記載があるが、誤りである。まず整理しておかないといけないことは、「必要最小限度」の意味である。政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準に基づいて、「武力の行使」と実力組織の限度を画していた。そして、この「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準であるから、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中においてしか「武力の行使」を行うことができない。「集団的自衛権の行使」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で『他国からの要請』に応じて「武力の行使」を行うものであり、この第一要件を満たさない。そのため、「自衛のための必要最小限度」という基準の中に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は論理的に入らない。「集団も入りますよ」との認識は誤りである。


 「何が必要最小限かというのは憲法学者ないしは法制官僚が決めることですかね。これは安全保障の専門家が議論して決めることなので、それを法律的に線を引くということ自体間違っていると思うんですよ」との記載があるが、認識に間違いがある。まず、法の規定が存在する限りは、そこに一定の規範が存在すると考える営みが、法という秩序を採用して社会を構成していこうとする法治主義の国家の在り方である。この法解釈によって引かれる線と、その法解釈の中で何ができるのかを考えることは性質が異なる。法解釈によって引かれた線を越えたいというのであれば、それは法改正を行う必要があるのであって、線を踏み越えることは違法というべきものである。安全保障の専門家であるからといって、法によって引かれた線を超えることは、違法となるのである。論者は違法行為を行おうとしている点で、法という営みによって作用する国家の秩序を否定する認識を有している。また、「内閣法制局長官経験者」は法律論として線引きの話をしているのであって、それで国を守れるかなどとという問題について「分かりません」というのは「法律家」としての立場としては当然である。もし国を守れないとの事情が明らかとなった場合には、憲法改正というの合法的な手段をとる必要があることを理解しているわけであり、論者のような法の規定によって引かれている線を違法に越えようとする考え方とは異なるのである。

 論者は「誤った解釈を正せばいいんですよ」と述べているが、1972年(昭和47年)政府見解によって引かれている線がどのようなものなのか正確に理解していないことによる誤った認識によるものである。1972年(昭和47年)政府見解そのものは、法律論としては意味が通っており、9条の趣旨が生かされた解釈という意味で妥当ということができる。誤った解釈とは、上記に挙げてきた論者の認識であり、これを正す必要がある。


「外交と安全保障」に安倍内閣が残したレガシー 「安保法制」「戦後70年談話」「FOIP」という成果 北岡伸一 2021/03/11


(4ページ目)


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 その提言は、日本国憲法9条2項は必要最小限度の自衛力までも禁止はしていないという1954年解釈と、これを支持した1959年最高裁判所の判決に基づき、現代においては集団的自衛権の部分的行使は必要最小限度のうちに入ると考えるべきであって、集団的自衛権行使を不可とした1972年法制局解釈を修正すべきだとした。

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 「日本国憲法9条2項は必要最小限度の自衛力までも禁止はしていないという1954年解釈と、これを支持した1959年最高裁判所の判決に基づき、」との記載があるが、誤りである。

 1959年の砂川事件最高裁判決は、米軍の駐留について問われた事件であり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)の保持の可否については何も述べていない。そのため、「日本国憲法9条2項は必要最小限度の自衛力までも禁止はしていないという1954年解釈」を「1959年最高裁判所の判決」(砂川事件最高裁判決)が支持したなどという事実は存在しない。

 ここでの論者の主張は、「報告書」の中の「再度政府の解釈を振り返れば、前述のとおり、政府は、1946年の制憲議会の際に吉田総理答弁において自衛戦争も放棄したと明言していたにもかかわらず、1954年以来、国家・国民を守るために必要最小限度の自衛力の保持は主権国家の固有の権利であるという解釈を打ち出した。この解釈は最高裁判所でも否定されていない。」の部分を抜き出そうとしているものと考えられる。

 しかし、この「報告書」の中でさえ「この解釈は最高裁判所でも否定されていない。」と表現するにとどめているにもかかわらず、論者は「これを支持した1959年最高裁判所の判決に基づき、」というように、最高裁判所が政府解釈を支持した事実が存在するかのように説明している点で誤りである。

 また、「報告書」の「この解釈は最高裁判所でも否定されていない。」との表現についても誤解を生みやすい表現であり、適切ではない。この表現は、あたかも「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持の可否が問われる事件が存在し、その結果否定さなかったかのような印象をもたらすものとなっている。しかし、正確には最高裁判所で日本国の統治権の『権限』によって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持することの可否が問われた事件が存在しないだけである。そのため、最高裁判所が「支持した」という事実は当然ないし、暗黙に許容していると判断できるような事案もない。

 もう一つ、「国家・国民を守るために必要最小限度の自衛力の保持は主権国家の固有の権利である」との部分であるが、日本国の統治権の『権限』によって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持することができるか否かと、国家承認を受けることによって国際法上の法主体としての地位である「主権国家」として認められていることから生まれる国際法上の「固有の権利」の問題は、憲法と国際法とで法分野が異なり、法的効力は連動する関係にない。この説明の仕方はこの点に混乱が見られることに注意する必要がある。

 「報告書」の論拠の不備については、詳しくは当サイト「安保法制懇の間違い」で解説している。


 「現代においては集団的自衛権の部分的行使は必要最小限度のうちに入ると考えるべきであって、集団的自衛権行使を不可とした1972年法制局解釈を修正すべきだとした。」との部分であるが、誤りがある。

 まず、政府が従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは、三要件(旧)の基準のことを意味する。そのため、この「自衛のための必要最小限度」の意味の中には三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」という基準が存在する。

 しかし、「集団的自衛権の行使」とは、これを満たさない中での「武力の行使」を意味することから、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が含まれるとの主張は、論理的に成り立たない。これは、論者の言うように「部分的行使」と称するものであったとしても、「集団的自衛権の行使」に該当する以上は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」となることから、その「武力の行使」が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の中に「入ると考える」ことは論理的に不可能である。

 そのため、「現代においては集団的自衛権の部分的行使は必要最小限度のうちに入ると考えるべきであって、」との主張は、論理的に成り立たない。また、論理的な問題は過去も「現代」も将来も結論は異ならないため、「現代においては」などと言葉を加えても、正当化できるとする余地はない。


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■2015年安保法制の成立と海外の反応


 これに対し政府は、日本周辺における米軍などとの共同活動について、集団的自衛権の行使は可能と判断したが、憲法9条1項に関する懇談会の提言については受け入れず、これを7月の閣議決定とした。

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 上記の「政府は、……集団的自衛権の行使は可能と判断したが、……これを7月の閣議決定とした。」の部分について、2014年7月1日閣議決定が「集団的自衛権の行使」としての新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」を容認しようとしていることについては、前提として掲げている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分と論理的整合性が保たれておらず、解釈手続き上の不正・違法が存在する。また、結果として「集団的自衛権の行使」としての新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については9条に抵触して違憲となる。


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 しかし、日本の憲法学者の多数派の議論はきわめて特異なものであることには留意が必要である。そもそも憲法は国家の運用のルールであり、国家が国際競争の中で活動することを前提としているのにもかかわらず、日本の憲法学者は国際法や国際政治にほとんど関心を持たず、ただ成文憲法に合致しているかどうかだけを判断するのである。

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 上記で、論者は「日本の憲法学者の多数派の議論はきわめて特異なものである」や「日本の憲法学者は国際法や国際政治にほとんど関心を持たず、ただ成文憲法に合致しているかどうかだけを判断するのである。」と述べている。

 しかし、憲法学者に限らず、法学者とは基本的に成文法(実定法)に合致しているか否かだけを判断することによって、適法・違法を論じることが仕事である。論者が「憲法学者の多数派の議論」に対して「きわめて特異」というような違和感を持っていることは、法学者の役割を理解していないか、法学者に法学者以外の役割を担わせようとする誤った期待があるように思われる。

 論者の「そもそも憲法は国家の運用のルールであり、」の部分は正しい認識である。ただ、その「国家運用のルール」として憲法9条が定められているのであるから、国家はその規定の下で適法な行為しか行ってはならない。

 「国家が国際競争の中で活動すること」の部分についても、その「国際競争」は「国家の運用のルール」である憲法の規定の枠内で行う必要がある。

 「日本の憲法学者は国際法や国際政治にほとんど関心を持たず、」の部分については、憲法学者である以上は憲法の専門家であり、国際法や国際政治について語ることは少ないと思われる。また、国際法と国内法である憲法では法体系が異なっており、法的効力は連動する関係にない。そのため、「国際法」を正しく理解し、国際法上「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことができる場合があるとしても、憲法9条の下ではその「武力の行使」が制約されることは当然にあり得る。憲法学者が「国際法や国際政治」に関心を持っているとしても、憲法解釈の内容が揺らぐことはなく、憲法解釈の結論が異なることはない。



<理解の補強>

集団的自衛権を考える 北岡伸一批判 PDF
集団的自衛権を考える 深草徹 PDF)



坂元一哉

〇 大阪大学大学院教授 坂元一哉


 「自衛のための措置」と「自衛権」を区別して考えず、同一視している点で誤りである。

iza【正論】集団的自衛権の本質突く議論を 大阪大学大学院教授・坂元一哉 2015.7.8 
【正論】集団的自衛権の本質突く議論を 大阪大学大学院教授・坂元一哉 2015.7.8


 「国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だと思う。『自衛のための措置』とはもちろん自国を守るための措置のことだが、個別的自衛権も集団的自衛権も、どちらも自国を守るための措置として、国家に認められた国際法上の権利だからである。」との記載があるが、国際法上の『権利』と、国家の『権限』の意味を誤解した論旨である。
 『自衛のための措置』とは自国を守るための措置であることは確かであるが、この『措置』それ自体と、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の区分とは関係ないからである。「自衛のための措置」と「自衛権」の違いを理解せず、同一視した点で誤りである。


【世界のかたち、日本のかたち】大阪大教授・坂元一哉 集団的自衛権に誤解あり 2013.9.30


 「というのも、米艦防護なら米艦防護についてまず議論すべきは、そのための実力行使が憲法上可能かどうかである。国際法上可能かどうか、たとえば個別的自衛権で説明できるかどうかではないのである。」との記載があるが、これ自体は正しい。まず、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合すれば合憲であり、適合しなければ違憲である。ここに国際法上の区分は関係ないことは確かである。

 「もし憲法上可能なら、国際法上の説明は、集団的自衛権の行使でした方が無理がないだろう。政府はいまも、わが国は、国際法上は集団的自衛権を保有している、すなわち行使できるといっている。個別的自衛権にこだわる必要はない。」との記載があるが、誤りである。
 国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を有していても、憲法9条によって国家の統治権を制約されている日本国は、国家の『権限』として行使することはできないのである。「すなわち行使できるといっている。」との記載があるが、国家の『権限』として、「集団的自衛権」という『権利』の区分にあたる「武力の行使」は行うことができないのである。

 その後、憲法上の議論と国際法上の議論を分けて考えないと議論は混乱するとの主張は全くその通りであるが、論者は『権利』と『権限』の違いを分けて考えることができていないので、論旨が混乱している。

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○坂元参考人 お答えします。

 柳井座長そして北岡副座長、それぞれ海外勤務あるいは海外出張のため、私がかわってお答えいたします。

 この法制懇の報告書の中には、これまでの政府の考え方に従って、我が国が自衛のための必要最小限度の実力行使ができる、その実力行使の中に集団的自衛権の一部の行使も含まれる、そういうふうな判断をいたしました。

 もちろん、もう一つ別の、あるべき憲法解釈ということも出しておりますけれども、我々は、今、小沢委員の御質問にお答えするとしたら、限定容認論が現実的だろうというふうに考えていると言っていいんじゃないかと思います。

 それでよろしいですか。

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第186回国会 衆議院 予算委員会 第16号 平成26年5月28日


 「我が国が自衛のための必要最小限度の実力行使ができる、その実力行使の中に集団的自衛権の一部の行使も含まれる、そういうふうな判断をいたしました。」との部分は、論理的な誤りである。

 まず、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものは三要件(旧)の基準を意味しており、ここには第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」が存在する。

 国際法上の「集団的自衛権の行使」とは、「自国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであることから、三要件(旧)を満たさない。

 これにより、三要件(旧)を意味する「自衛のための必要最小限度」という枠の中に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は当てはまらない。

 論者は「集団的自衛権の一部の行使も含まれる」と説明しているが、三要件(旧)を満たさないものはすべて憲法9条に抵触して違憲であり、「一部」であれ「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできない。



憲法解釈の整合性維持 安保法制 識者に聞く 日米同盟強化、抑止力高める 大阪大学教授 坂元一哉氏 2014年8月5日


 「これまでの解釈の基本的な論理は維持されており、部分的な修正が加えられたに過ぎないからだ。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は論理的整合性がないため、これを「部分的な修正」として法解釈上許容できるかのように考えている点が誤りである。まず、「これまでの解釈」である1972年(昭和47年)政府見解は全体で一貫した内容を有する文章であり、その一部分を抜き出すという作業自体が、妥当とは言えないのであるが、仮にその一部分を抜き出したとしても、その文章全体が有していた意味を上書きする形で別の意味を付加することが許容されるということはない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「『我が国に対する』武力攻撃」を意味するにもかかわらず、ここに「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれると主張することはできない。論理的に不可能であるにもかかわらず「基本的な論理は維持されており」と維持されているかのように説明することは解釈手続きの適正を損なっており、違法である。そのため、「部分的な修正」ではなく、単なる不正である。「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないことによって違憲となる。

 「そもそも平和を守ることができなければ、憲法を守ることができず、憲法の平和主義を守ることもできない。」との記載があるが、誤った認識である。憲法の「平和主義」とは前文に記載された「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し」「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の部分である(答弁書)。論者は「平和を守ることができなければ、憲法を守ることができず、」と主張しているが、論者のいう「平和を守る」の意味と、憲法の「平和主義」は異なる。そのため、「憲法を守る」ための活動についても、憲法の「平和主義」の理念に則った形で行わなければならないのであり、論者のいう「平和を守る」という認識によって、憲法の「平和主義」の理念やその理念を具体化した憲法規範を踏み越えることができるわけではない。論者の独自の「平和を守る」との認識によって、憲法の「平和主義」の理念とそれに基づく憲法規範を超える活動が許されるとの考え方を採用している部分が法治主義を逸脱すため、誤った認識である。

 「その意味で、平和を守る抑止力を高めるためであっても、解釈の見直しは一切だめ、というような『護憲』は本当に護憲なのか疑ってしまう。」との記載があるが、たとえ「平和を守る」との目的であっても、それが憲法の「平和主義」の理念やそれを具体化した規定に違反するのであれば、違憲・違法となる。「平和を守る」との理由のみによって、憲法上の規範を踏み越えることが正当化されるわけではないのである。また、憲法解釈は論理的整合性が求められるのであり、「解釈の見直し」の可能性は考えられるとしても、論理的整合性を損なう形で解釈することまで許されるわけではない。

 「むしろ従来の憲法解釈と論理的整合性が維持される合理的な範囲内で解釈を見直し、憲法を改正せずに、日本の安全をよりよく確保する工夫をするのが本当の護憲の道ではないか。」との記載があるが、この「従来の憲法解釈と論理的整合性が維持される合理的な範囲内で解釈を見直」すことができることに関しては、その通りである。しかし、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の文言の意味を不正に読み替えた部分が存在し、「従来の憲法解釈と論理的整合性が維持される合理的な範囲内」を逸脱している。そのため、「適正手続きの保障」の観点から違法である。

 「憲法の平和主義を堅持しつつ、現実的な対応を行ったことを高く評価したい。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に適合しないため、9条に抵触して違憲である。9条は憲法の前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされており、「存立危機事態」の要件が9条に抵触するということは、これを定めた時点で「平和主義」の理念が実現されていないことを意味する。そのため、憲法の「平和主義」は堅持されているとは言えない。「憲法の平和主義を堅持しつつ」との認識は誤りである。「現実的な対応」という部分についても、違憲な要件を定めることはできないのであり、国家権力の行使して「対応」する場合は合法的な手段に限られる。非合法な手段を「現実的な対応」などと評価することで憲法論(法律論)上で正当化できるわけではないのである。

 「だが海外派兵、つまり自衛隊が他国の領土、領海、領空に出て行って武力を行使することはない。」との記載があるが、従来「海外派兵」が憲法上許されないとされてきのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」との基準に基づくものである。この「自衛のための必要最小限度」とは、「武力の行使」の三要件(旧)を意味するものである。この旧三要件を超える「武力の行使」を行うことができないことから、一般に「海外派兵」が行われることがないとしてきたのである。しかし、新三要件の「存立危機事態」を設けたことは、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」を行うことになるから、従来のように「我が国に対する急迫不正の侵害があること(旧:第一要件)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」とは異なっており、「海外派兵」が禁じられているとする基準となるものは存在しない。もし「海外派兵」が従来と同じ基準によって禁じられていると考えるのであれば、それは新三要件を定めた後においても、旧三要件に基づいて判断しているということになり、新三要件と旧三要件が競合することとなる。

 「集団的自衛権」について「他国の防衛にかかわるが、目的はあくまで自国の防衛。」との記載があるが、日本国が『他国防衛』のための「武力の行使」を行った時点で、9条に抵触して違憲となる。「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」に該当させるためには『他国からの要請』が必要であり、この『他国からの要請』に基づいて「武力の行使」を発動することは、『他国防衛』のための「武力の行使」となる。よって、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は違憲である。また、9条は「自国の防衛」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しておらず、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たしていないため、違憲である。

 「自衛権行使の新3要件には、行使の目的として『我が国の存立を全うし、国民を守るために』と明記されている。武力行使の範囲が、際限なく広がるというような話では全然ない。」との記載があるが、「我が国の存立を全うし、国民を守るために」などという自国の状態を認定するだけで「武力の行使」に踏み切ることができる状態であることは、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を禁じようとした趣旨を満たさないため、9条に抵触して違憲となる。また、このような要件は具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずる恐れがある。このような要件を定めたことは、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。「武力行使の範囲が、際限なく広がるというような話では全然ない。」とする根拠はなく、「際限なく広がる」こととなり得るために9条に抵触して違憲である。


9月15日 坂元一哉(公述人 大阪大学 大学院 法学研究科 教授)の意見陳述(全文) 参議院『平和安全特別委員会・中央公聴会』 2015-09-15


 「といいますのも、政府が、今度の安全保障関連法案と、新しい武力行使3要件で可能になるとする武力行使。国際法でいえば、集団的自衛権の行使に当たる武力行使は、あくまで、砂川判決にいう、〔国の存立を全うするための自衛のための措置〕としての武力行使、それも〔必要最小限の武力行使〕だからであります。」との記載があるが、誤りである。
 存立危機事態の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」にあてはまるはずがないからである。「必要最小限度」であるとの評価も、この中に当てはまらない以上は無理である。
 砂川判決は、「自衛のための措置」の中に日本国の統治権の『権限』を行使する「自衛の措置(武力の行使)」が含まれると示したものではない。また、その結果、国際法上の「集団的自衛権」の区分の日本国の「武力の行使」を許容しているかどうかも判断していない。


新時代の日米同盟と地政学 坂元一哉 PDF


 P72に「政府は、憲法は自衛のための必要最小限の実力行使を禁じていない、だから自衛隊は合憲だ。また日本は主権国家だから集団的自衛権を当然保有する。そうしっかりいっておきながら、ただ個別的自衛権の行使はできるが、集団的自衛権の行使はまったくできない、とわかりにくいことをいってきたわけです。いったいどうしたらそういう話になるのでしょうか。 憲法のどこを読んでも、その根拠は見当たりません。」との記載がある。
 憲法のどこを読んでも、集団的自衛権の行使は全くできないと書いてある根拠が見当たらないというが、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の結果、国内法上の「武力の行使」の可能な『権限』の幅が決せられているので、結果として国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由『権利』の行使にあたる「武力の行使」ができないという意味である。

 その後、「国際法を誤解し、安全保障の常識を無視した、どう考えても根拠薄弱なことをいい続けたのです。」との記載があるが、この論者が国際法上の『権利』と憲法上の『権限』の違いを誤解し、法分野や法解釈の常識を無視した根拠薄弱な論旨を展開しているだけである。


平和主義は「無防備」ではない 集団的自衛権の本質突く議論を 坂元一哉(大阪大学大学院教授)


 砂川判決が認めている「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、何も述べていないのである。このことから、論者が「国の『存立を全うする』ための、『自衛のための措置』としての武力行使、それも必要最小限の武力行使」を砂川判決が認めているかのように説明することは誤りである。「それが『他衛』になるからといって、」との記載があるが、『他国防衛』を行う実力組織の保持は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。この論者の論旨は、政府が自衛隊を『必要最小限度』の実力であるために合憲と解釈している解釈そのものに抵触することとなるものである。

 「国際法上の集団的自衛権の意味を誤解した議論だと思う。『自衛のための措置』とはもちろん自国を守るための措置のことだが、個別的自衛権も集団的自衛権も、どちらも自国を守るための措置として、国家に認められた国際法上の権利だからである。」との記載があるが、論者の認識に誤りがある。まず、『自衛のための措置』とは、日本国の統治権の『権限』が行う措置のことを言う。これは、必ずしも「武力の行使」を意味しない。砂川判決が認めている「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」についても、この措置の中に含まれる。それとは別に、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」というものは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を意味する概念である。この『権利』が国際法上認められようとも、日本国の統治権の『権限』が措置を行わない、あるいは行うことができないとしても、全く矛盾はないのである。

 論者が「米国にとって日本防衛は『自衛のための措置』ではないのか。」との問い欠けをしているが、まず9条が制約しているのは「武力の行使」であり、『自衛のための措置』の形が「武力の行使」となると制約を受けるという規定なのである。よって、論者が「集団的自衛権の行使」について「『自衛のための措置』ではないのか」などと疑問を有しても、9条が「武力の行使」を制約している範囲が変わるわけではないため、論点がズレている。

 論者は「集団的自衛権の本質は『自衛のための措置』としての他国防衛なのである。」と説明しているが、『他国防衛』としての「武力の行使」を行う組織については、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。論者は国際法上の「集団的自衛権」に該当する日本国の統治権の『権限』による「存立危機事態」での「武力の行使」については、『他国防衛』の性質を有していると説明していることとなる。よって、その「存立危機事態」での「武力の行使」を行う組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となることが明らかである。


<理解の補強>

坂元一哉公述人の憲法論は政治的弁舌の類だ 2015-09-17

 

 

佐瀬昌盛

 

集団的自衛権―論争のために 佐瀬昌盛 2001/5/1 amazon

集団的自衛権―論争のために (PHP新書) (試し読み)


 下記の点を理解すると、この書籍の内容が論理的に誤っていることが分かる。

 

◇ 「自衛権」が国際法上の『権利』の概念であること

◇ 国際法上「自衛権」の適用を受ける地位を有していても、日本国の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生するわけではないこと

◇ 国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」が国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であること

◇ 「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴うこと

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国際法上の概念である「自衛権」という『権利』そのものを直接的に否定しているわけではないこと

◇ 国際法と憲法は法分野が異なり、法的効力は連動関係にないこと

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国連憲章が廃止され、国際法から「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分が消失したとしても、変わらず日本国の統治権の『権力・権限・権能』を制約し続けること

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」を制約している規定であること

◇ 国際法を遵守したところで、国際法は国家の統治権に『権力・権限・権能』を付与する意味を持っておらず、国家の統治権は憲法上で正当化されている範囲に限られること

 また、日本国が主権国家として国際法上の『権利』である「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、9条の下では「武力の行使」を行う場合には「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲に限られる。

 「集団的自衛権の行使」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条の下では許されないこととなる。

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○大森政府委員 集団的自衛権に当たるから認められないとか、集団的自衛権に当たらないのだから認められるという、集団的自衛権を核にした議論がよくなされるわけでございますけれども、我が国の問題に関する限りは、やはり集団的自衛権の概念を解するのではなくて、我が国を防衛するために必要最小限度の行動に当たるかどうかということが基準になるはずでございます。
 したがいまして、冒頭にも申し上げましたとおり、憲法九条は、国際紛争を解決する手段としては武力による威嚇または武力の行使等を禁止しているけれども、我が国を防衛するために必要最小限度の実力行動は禁止していない。したがって、問題となる行為が我が国を防衛するために必要最小限度の行為であるかどうかということによって事が決せられるべきであるというふうに考える次第でございます。(岡田委員「持っているけれども行使できないというのは」と呼ぶ)国際法上は集団的自衛権を主権国家であるから保有しているのである、これは国際法上そのように解せられておりますから、従前も政府の答弁としてもそのように答弁してきているわけでございますが、やはりそれに対しまして、我が国は最高法規としての憲法によりまして、我が国の行動を縛っているわけでございます、言葉は悪いかもしれませんが。
 したがいまして、憲法九条によって、武力による威嚇または武力の行使に当たることはいたしません、やってはいけませんと。したがって、行動の面で縛っているわけでございますから、集団的自衛権の行使というのはその観点から認められない。国際法上は保有していると言えても、その行使は憲法で禁止されているんだということは、何らおかしいことでないということは従前から反論しているわけでございます。
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第142回国会 衆議院 予算委員会 第27号 平成10年3月18日
 (ここで説明されている『我が国を防衛するため必要最小限度』の意味については、当サイト『自衛のための必要最小限度』で解説している。)


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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
(略)

 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。

 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日

 論者はこの点を理解できていないため、誤っている。


いちばんよくわかる集団的自衛権 佐瀬昌盛 2014/8/12 amazon


 一通り目を通したが、この書籍は国際法上の「集団的自衛権」の概念と9条解釈の関係について、ほぼ全面的に誤っている。「集団的自衛権」が違法性阻却事由の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』ではないことを理解できていないからである。また、「必要最小限度」についても、論者は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を指していることを理解できていないため、あたかも数量的な概念であるかのように誤解している。

 当サイトをお読みの方であれば、この書籍の間違いをすぐに見抜くことができるはずである。

 タイトルは「いちばんよくわかる集団的自衛権」であるが、最初から最後まで一貫して間違っているため、読者は全く分からないだろう。


講師/佐瀬 昌盛 防衛大学校名誉教授 2015年1月13日

 「わが国で集団的自衛権への理解が混乱したのは、1981年の『集団的自衛権は国際法上保有するが、憲法上行使は許されない』という内閣法制局による誤った解釈が発端で、一部メディアの不勉強と世論の誤導がそれに拍車をかけた。」との記載があるが、内閣法制局は誤っておらず、論者は不勉強により誤った理解をしている。 

 「集団的自衛権」を国際法上の『権利(Right)』として有していることと、憲法上の国家の『権力(Power)』として有しているかは別問題である。何も矛盾しておらず、論者がこの違いを理解していないだけである。 

 「他国にとっては自明の理であり、理解する必要のないことだからだ。」との記載があるが、その通りである。他国には9条のような国家の統治権力(Power)を制約する規定がないからである。この9条の規定は、国際法上の『権利(Right)』を制約しているわけではないことを押さえておくべきである。 

 「有権者の97%は集団的自衛権について正しく理解していない」との記載もあるが、この論者は『権利(Right)』と『権限・権力(Power)』の違いを100%理解していないと断言できる。 

 「集団自衛権を他国が自明の権利と考え、制約なく認めようとしているのに対し、わが国は、受け入れ以前にどこまで受け入れられるかの議論で止まってしまっている」との記載もあるが、上記でも述べたように、9条は国際法上の『権利(Right)』を制約しているわけではなく、国家の『権限・権力(Power)』を制約しているのである。この論者の主張する「どこまで受け入れられれかの議論」など、そもそも存在せず、論者の誤解の中だけに生まれた混乱である。 

 


安保法制整備は戦後三大決断の一つ
 2015.06.26


 動画の(33:58)より【81年政府見解が間違っている】というタイトルで、「こういった国々にですね、ちゃんと、聞いたらですね、集団的自衛権を保有しているか、それは行使可能かと、聞きますとね、それは私全部調べたんです。そしたらですね、全部の国が、その、持っているということを言うわけです、集団的自衛権持っている。ただしですね、スイスがそれを使うか使わないかは別ですよ、ね、で、それを使った瞬間にですね、スイスは中立国でなくなるわけですよ。それから例えば、インドをはじめとするかつて非同盟諸国というのが非常に元気な…がありました。非同盟諸国なんかはですね、この国連憲章第51条に歌われているこの権利はですね、絶対に断念できないと。それを非同盟諸国の宣言として出してるわけですよ。そういう例から言いますとね、そういう中立国だとか非同盟諸国だとかが、持っている、まあ、使うか使わないかは別として、それを持っている。それを行使は可能かどうか、許されるかどうか、それは許される。ただし、それを使うかどうかは別だという、そういう態度を持っている、いますから、それに照らして、81年のあの、政府見解、政府見解といっても内閣法制局の作ったものですけれどもね、それは誤りだと断言しているんですけどね。」との発言があるが、論者の誤った認識に基づいて誤りだと断言しようとしている。

 論者の持ち出している話は、国際法上で主権国家が「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることと、政策論上、あるいは憲法上で「集団的自衛権」を行使する形で「武力の行使」を行うかどうかは別の問題であることを正しく述べている。話の内容そのものは誤っていない。しかし、論者が81年政府見解を誤りであると断言しようとしている点が誤りである。

 


〇 国連憲章よりも下位に日本国憲法を位置づけている点で、憲法が国民主権原理によって正当化されるという法源の在り方を理解していない。 


【正論】今こそ憲法改正 集団的自衛権は国際法の原則だ 防衛大学校名誉教授・佐瀬昌盛 2016.4.22 


 「ただ、その中間部分をいくら精読しても、これまで『許されない』とされてきたものが、一転、たとえ限定的ではあるにしても、なぜ『許される』ことになったのか、私には理解できない。まるで一種の手品を見るような思いである。」との主張があるが、まさにその通りである。 
 「私の考えは、今回の安保法制をめぐる議論の中で展開された政府見解とは違う。が、富士登山に4ルートがあっても山頂に立つという共通目標があるのにも似て、その差異を甘受する。」との記載があるが、そこは法の論理に従って正しい判断を行うべきであり、甘受するべきではない。 
 国連憲章が日本国憲法よりも早く制定されたからと言って、日本国は国家として主権(最高独立性)を有しており、国連憲章とは別の法体系である。そのため、国連憲章と似通っていたからと言って、国連憲章が「主」で、日本国憲法が「従」にあたるわけではない。国連憲章も「条約」の一つであり、憲法に優位することもない。 


 また、国連憲章51条で「個別的又は集団的自衛の固有の権利」が認められたとしても、国家の『権限』の根拠は各国の憲法によって正当付けられるものであるから、この『権利』の区分の『権限』を行使できるかは日本国憲法上の問題である。よって、今までの「わが国は集団的自衛権を『国際法上は保有するが、憲法上その行使は許されない』としてきたこと」は当然であり、最初から誤っているのはこの論者であると断定せざるを得ない。



中西寛

〇 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分が、国際法上の区分でしかなく、憲法解釈とは直接的な関係がないことを理解していない。


iza【正論】大国間戦争を回避する集団防衛 京都大学大学院教授・中西寛 2015.7.3
【正論】大国間戦争を回避する集団防衛 京都大学大学院教授・中西寛 2015.7.3


 「憲法学者の違憲論では『個別的自衛権が憲法下で認められる最大限である』といった表現を目にする。しかし、個別的自衛権が集団的自衛権に比べて当然により安全であるとか、軍事的強度が低いと考えることは論理的でない。」との記載があるが、法律論としては安全性など関係なく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の基準が行き着く妥当な解釈であり、その結果国際法上の「個別的自衛権」の部分は行使できるものがあるが、「集団的自衛権」の部分は不可能ということである。非常に論理的であり、ここに矛盾はない。


(にっぽんの現在地)国の安全を守るには 国際政治学者・中西寛さん


 「そもそも個別的自衛権は認めるが、集団的自衛権は認めない、という解釈に一種のごまかしがあったと思います。」との記載があるが、この解釈の前提を理解していれば誤魔化しなど存在しない。まず、憲法解釈において、「個別的自衛権」か「集団的自衛権」かという国際法上の区分は関係ない。憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合すれば合憲、適合しなければ違憲である。それが、日本国の統治権の『権限』の範囲なのである。その結果、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」の区分は合憲のものが存在し、「集団的自衛権」に関しては違憲となるという結論である。ここに矛盾は存在しない。



細谷雄一

集団的自衛権の行使容認に関する閣議決定 2014年07月02日


 □「京都大学の大石真教授の憲法学の教科書でも記されていますが、日本国憲法にはどこにも、『集団的自衛権の行使を禁ずる』とは書かれていません。もしもそのように書かれていたら、当然ながら憲法改正をしなければなりません。禁じられていないのに、なぜ憲法の条文を改正する必要があるのか。」との記載があるが、認識に混乱がある。確かに日本国憲法には「集団的自衛権」という国際法上の『権利』それ自体を禁じる規定はない。しかし、9条によって「武力の行使」は制約されており、その「武力の行使」の制約範囲によっては「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない場合があるとしても何らおかしくない。そのため9条によって「武力の行使」が制約されているにもかかわらず、あたかも国際法上の『権利』である「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることを根拠として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が正当化することができるかのように考えている部分が誤りである。「禁じられていないのに、」との認識についても、9条によって「武力の行使」が禁じられることによって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことから、「集団的自衛権の行使」を行う機会がないのであって、9条によって単に「集団的自衛権」という『権利』が禁じられていないことのみによって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が可能であると論じようとしている部分に誤りがある。


 □「それでは、誰が禁止したのか。それは内閣法制局です。内閣法制局は、司法府ではなく、行政府の助言機関です。もしも司法府である最高裁が、集団的自衛権を禁ずる判決を出していたら、立憲主義の精神からもそれは憲法改正が必要となるかもしれませんが、最高裁は一度も集団的自衛権を禁ずる判決を出していません。」との記載があるが、認識を整理する。まず、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うことであるために禁じられているのであるが、これは憲法解釈上の規範であることから「内閣法制局」という機関が政治判断として「禁止した」かのような認識を有しているのであれば誤りである。最高裁判所が「集団的自衛権を禁ずる判決を出していません。」として司法府が「集団的自衛権」を禁ずる判決を出していないとしても、そもそも「集団的自衛権」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行った事例が裁判所で法的審査された事例が存在しないのであって、法的審査されたにもかかわらず「集団的自衛権」という『権利』を禁ずる判決や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を禁ずる判決が出されなかったかのような認識を有しているのであれば誤りである。そのため、司法府によって「集団的自衛権を禁ずる判決」が出されていないことを理由として日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことが許容されるかのように論じようとしているのであれば誤りである。また、行政府も有権解釈を行うことができ、その解釈には論理的整合性や体系的整合性を保つことが求められている。司法府によって法的審査がなされていないからといって行政府によって論的整合性や体系的整合性を無視する形で新たな規範を定めることが許されるわけではないのであり、司法府によって「集団的自衛権を禁ずる判決」が出されていないとしても、それを理由に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことが正当化できるわけでもない。


 □「1959年の砂川判決は、周知の通り、日本の自衛権行使を認める判決を出しました。そこでは、集団と個別とを分けていません。集団的自衛権の行使を容認したわけではありませんが、禁止したわけでもありません。」との記載があるが、認識に誤りがある。まず、砂川判決は日本国も主権国家として「自衛権」の適用を受ける地位を有していることを確認してはいるが、「自衛権の行使」として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるか否かについては何も述べていない。砂川判決が許容した「自衛の措置」とは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。そのため、「自衛権」の内容を「集団と個別とを分けてい」ないとしても、そもそも日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないのであるから、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての機能する国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当する形で「武力の行使」を行うことができるか否かについては何も述べられていないのである。また、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の区分であり、この『権利』の適用を受ける地位を有するとしても日本国の統治権の中に「武力の行使」を行うための『権力・権限・権能』が発生するわけではない。そのため、砂川判決のいう「自衛権」という『権利』の内容が「集団と個別とを分けてい」ないとしても、9条の下にある日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるか否かには何ら影響を与えない。そのため、「集団と個別とを分けてい」ないことを理由として日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるかのように論じることは誤りである。「集団的自衛権の行使を容認したわけではありませんが、禁止したわけでもありません。」との記載があるが、そもそも日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができるか否かについては何も述べていないのであるら、判決の論点ではないという意味ではその通りである。しかし、「禁止したわけ」ではないことを理由として何も述べていない部分を根拠として「武力の行使」ができると考えるのであれば、砂川判決が何も述べていない「先に攻撃(先制攻撃)」についても9条の下にありながら同様に正当化することができてしまうのであり、法解釈としては成り立たない。


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内閣法制局が集団的自衛権を禁ずる解釈を確立していくのは、1972年からです。これには理由があります。1966年に佐藤栄作政権で、予算を早期に妥結するためにも野党社会党と国対政治で妥協する必要があり、与党自民党は自衛隊の海外派兵を禁ずる提案をすることで、社会党の合意を得ます。このあたりは、立命館大学の村上友章さんの論文で詳しく書かれています。つまりは、内閣法制局が1972年以降に集団的自衛権の行使の禁止の解釈をつくる直接的な動機は、与野党の国対政治という政局的理由と、ベトナム戦争への参戦を恐れる世論の空気への配慮と、革新勢力の伸張という政界の動きへの符号などにもるものです。政局的、世論の動きを配慮してつくられた1970年代の内閣法制局の解釈を、その後40年以上死守することと、立憲主義を守ることは関連はありません。単なる行政府の一機関であるのにもかかわらず、あたかも自らが内閣総理大臣や最高裁長官を優越する地位にあるかと誤解をしている元内閣法制局長官の横柄さが、あまりにも目に余ります。
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 との記載があるが、誤った認識である。「内閣法制局が集団的自衛権を禁ずる解釈を確立していく」との記載があるが、9条は国際法上の『権利』の区分である「集団的自衛権」という概念そのものを禁ずるものではない。9条は「武力の行使」を制約する規定である。そのため、9条が「集団的自衛権」という『権利』を禁じているかのように説明している部分は誤りである。
 また、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに規範を設定しており、「集団的自衛権の行使は、憲法上許されない」との結論が導き出されていることは「集団的自衛権の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることによるものである。この1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範は、「自衛の措置」の限界の規範に基づいて導き出された規範であり、その「自衛の措置」の限界は憲法解釈によって導き出されたものである。そのため、論者の「政局的、世論の動きを配慮してつくられた」との認識は誤りである。
 「1970年代の内閣法制局の解釈を、その後40年以上死守することと、立憲主義を守ることは関連はありません。」との部分があるが、確かに憲法解釈は変更される余地があるが、その変更される新たな解釈は論理的整合性や体系的整合性、法的安定性などが保たれた解釈である必要がある。これを逸脱した場合には「立憲主義」に違反することとなる。2014年7月1日閣議決定の内容はこれらを満たさないことから「立憲主義」に違反するものである。
 「単なる行政府の一機関であるのにもかかわらず、あたかも自らが内閣総理大臣や最高裁長官を優越する地位にあるかと誤解をしている元内閣法制局長官の横柄さが、あまりにも目に余ります。」との記載があるが、「内閣法制局」に限らず、「内閣総理大臣」や「最高裁長官」も憲法上の規定に拘束されているのであり、法解釈によって導かれる規範を踏み越えることはできない。論者は「あたかも自らが内閣総理大臣や最高裁長官を優越する地位にあるかと誤解をしている元内閣法制局長官の横柄さが、あまりにも目に余ります。」との記載があるが、「元内閣法制局長官」は法解釈に基づいた結論を述べているだけであり、政治的主張とは異なることから、「内閣総理大臣や最高裁長官を優越する地位にあるかと誤解をしている」わけではない。「あまりにも目に余ります。」との部分であるが、法解釈を行っているだけであり、それを目に余ると評価する論者は法の支配、立憲主義、法治主義を逸脱することを推奨する主張となっている。


 □「ましてや、内閣法制局は過去一度も、政府が憲法解釈の変更をできないと語ったことはありませんし、実際に何度も政府の憲法解釈は変更されてきました。現在の長官も、慎重に検討をして、合理的な理由がある場合は、憲法解釈の変更が可能だと述べています。なぜ、憲法解釈の変更が可能だと述べる現在の長官の言葉に耳を傾けずに、絶対に変えてはいけないと述べる元長官の判断を優先するのか。」との記載があるが、憲法解釈は論理的整合性や体系的整合性、法的安定性などが保たれた中において行われなければならないのであり、これを満たさない見解を結論を述べるだけで正当化することができるとする性質を有しない。そのため、憲法解釈を変更することができる余地はあるものの、その手続きに不正や違法があれば、変更しようとした解釈の内容は無効となる。2014年7月1日閣議決定の内容には、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」も当てはまると主張して「存立危機事態」の要件を定めようとする解釈手続き上の不正・違法がある。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとした結論は正当化することができず、9条に抵触して違憲・無効となる。「合理的な理由がある場合は、憲法解釈の変更が可能」であることは当然であるが、解釈手続き上の不正・違法が存在すれば憲法解釈は変更できないのである。


 □「やや長くなりましたが、今回の政府の決定は、与党協議における公明党の強い要望をかなりのんで、相当程度に抑制的な内容となっており、本来の集団的自衛権の行使が想定する範囲の1割程度の範囲での行使容認にしか過ぎません。」との記載があるが、誤りである。まず、「相当程度に抑制的な内容」との部分であるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。これにより、論者が「相当程度に抑制的な内容」と評価したところで、9条に抵触している事実は終わらない。また、「本来の集団的自衛権の行使」との部分であるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の区分であり、これに該当すれば「集団的自衛権」でしかない。そのため、「本来の集団的自衛権」とそうでないものが存在するかのように考えている部分が誤りである。また、「1割程度の範囲」との評価であるが、9条に抵触する「武力の行使」については、「1割程度の範囲」であれ何であれ違憲であることは変わりないのであり、国際法上の違法性阻却事由に該当するや、その区分の「1割程度の範囲」であることを理由としても9条に抵触する「武力の行使」を合憲にすることはできない。


 □「政府が今回の決定で行っているのは、きわめて限定的で抑制的な部分容認です。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさないのであれば「きわめて限定的で抑制的」と称したとしても違憲であることに変わりはない。「きわめて限定的で抑制的」であれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が合憲となるのではないかと考えている部分が誤りである。このような主張に基づけば、同様に「きわめて限定的で抑制的」な「先に攻撃(先制攻撃)」や「きわめて限定的で抑制的」な「侵略戦争」を行ったとしても9条に抵触しないと主張することができてしまうのであり、法解釈として成り立たない。


 □「すべての安全保障活動を、『個別的自衛権』か『それ以外か』に強引に二分してしまったために、そのような奇妙な論理と国際的に非常識な解釈が成立したのです。」との記載があるが、誤りである。従来より政府は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」であるか否かに線を引いていたのであり、国際法上の区分である「『個別的自衛権』か『それ以外か』」に線を引いていたわけではない。
 論者の「そのような奇妙な論理と国際的に非常識な解釈が成立した」との部分についても、政府は「『個別的自衛権』か『それ以外か』」に二分していたわけではないし、政府の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに線を引いていたことは「奇妙な論理」ではない。また、従来の政府解釈は国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していたとしても、それを行使する『権力・権限・権能』を憲法上で制約することは可能であり、国際法上も常識的な解釈に基づいている。そのため、「国際的に非常識な解釈が成立した」との認識も誤りである。


 □「平和主義の精神は、今後も日本の安全保障の根幹に位置づけられるはずですし、そうするべきです。」との記載があるが、誤った認識である。9条は前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされている。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に当てはまらず9条に抵触して違憲であることから、「存立危機事態」での「武力の行使」を定めようとしたことは9条の精神が実現されていないこととなる。9条の精神が実現されていないということは前文の「平和主義」の理念が実現されていないこととなるのであり、前文の「平和主義」の理念は損なわれていることとなる。論者は「平和主義の精神は、今後も日本の安全保障の根幹に位置づけられるはず」と考えているようであるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については9条に抵触することから、前文の「平和主義」の理念と両立しない。前文の「平和主義」の理念が「存立危機事態」での「武力の行使」を定めた後においても成り立つかのように論じようとしている部分が誤りである。


 □「72年以降の硬直的な内閣法制局の憲法解釈を変更することで、上記のような場面で、より人道的な、そして国際協調主義的な対応が可能となるのです。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定においても1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると説明されているのであり、この「基本的な論理」と称している部分の「憲法解釈」が「変更」されているかのような認識で論じているのであれば誤りである。また、2014年7月1日閣議決定が結論において「存立危機事態」での「武力の行使」を定めようとしている部分についても、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、9条に抵触して違憲である。


 □「はたして憲法に記されている国際協調主義の精神、苦しんでいる他国を支援するという倫理は、死んでしまったのでしょうか。」との記載があるが、「憲法に記されている国際協調主義の精神」とは、もちろん「憲法」に違反しない形で実現しなければならないのであり、「苦しんでいる他国を支援する」としても、それは「憲法」に違反しない形で実現しなければならない。「苦しんでいる他国を支援する」ことを考えるとしても、9条に抵触する形で「武力の行使」を行うことができないことに変わりはない。

   【参考】【集団的自衛権】細谷雄一論文批判 2014年07月04日


政府の閣議決定について:補足 2014年07月05日


 □「集団的自衛権の行使容認に反対して、それを食い止めようとしている方々はよく閣議決定文書を読み頂きたいのですが、きわめて個別的自衛権にちかいかたちで集団的自衛権の問題が触れられています。」との記載があるが、9条をよくお読みいただきたいのであるが、9条は「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているわけではなく「武力の行使」を制約している規定であり、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさないのであれば「きわめて個別的自衛権にちかいかたち」の「武力の行使」であったとしても違憲であることに変わりはない。
 「集団的自衛権の行使容認に反対して、それを食い止めようとしている方々」の中には政策論上「食い止めようとしている」者と、法律論上違憲となるために「食い止めようとしている者」がいると考えられる。ただ、当サイトはあくまで法律論上「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許容されるか否か述べているだけであり、政策論上の当否については論じない。


 □「仮に集団的自衛権の行使が憲法上できないとしても、内閣法制局が禁じている集団的自衛権の中核的概念としての他国の防衛のための武力の行使と、武力行使を伴わない後方支援は分けて考えるべきです。」との記載があるが、9条解釈を行った結果として「内閣法制局が禁じている」のは、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であり、「集団的自衛権の中核的概念」であるか否かなどという議論は関係がない。また、「他国の防衛のための武力の行使」を行うための組織については9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。「武力行使を伴わない後方支援」については、「武力の行使」と一体化する場合は違憲となる。


 □「1960年頃には内閣法制局は、集団的自衛権のなかには、『行使可能なもの』と『行使不可能なもの』があると考えていました。つまり、『行使可能』な集団的自衛権があるという立場でした。」との記載があるが、下記により「現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着している」ことにより、「実力の行使」を伴う意味での「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は否定されている。


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○秋山政府特別補佐人 昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為について、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうものは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたことがございます。
 この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきまして、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございまして、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまして、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませんと述べたにとどまるものと考えております。
 現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着しているものと承知しております。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 □「そして、1972年には、『行使不可能なもの』としての集団的自衛権は、憲法上行使できない、と明言しました。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解が否定しているのは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であり、「集団的自衛権の行使」とはこれを満たさない中での「武力の行使」を行うこととなるために憲法上許されないとされているものである。論者は「集団的自衛権」の中に『行使不可能なもの』とそうでないものがあるかのように考えているが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、日本国は国家承認を受けており国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることから、「集団的自衛権」という『権利』そのものは国際法上においては行使することが許されているため、『行使不可能なもの』とそうでないものが存在するかのような認識は誤りである。9条が制約しているのは「武力の行使」であり、国際法上の『権利』ではないのである。


 □「ところがその後、集団的自衛権のなかには『行使可能なもの』はない、と見解を統一するように解釈を変更し、さらには『行使不可能なもの』としての集団的自衛権の範囲を徐々に徐々に、拡大していったのです。」との記載があるが、国際法上においては日本国も「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであり、国際法上は「集団的自衛権」は『行使可能なもの』しか存在しない。しかし、9条の下で「武力の行使」が制約される結果として、憲法上は「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないだけである。1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を発動できる余地はない。


 □「内閣法制局元長官は、いくつか『ウソ』をついています。戦後一貫して、集団的自衛権は全面的に禁止されてきたと最近は発言される元長官がいらっしゃりますが、上記の説明でおわかりのように、戦後何度も内閣法制局は、解釈を変更してきました。」との記載があるが、誤りである。日本国は国家承認を受けていることにより国際法上は「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているが、憲法9条の下では「武力の行使」が制約されており、これにより「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができない。この論理は常に一貫しており、「戦後何度も内閣法制局は、解釈を変更してきました。」との事実はない。そのため、「内閣法制局元長官は、いくつか『ウソ』をついています。」との認識は誤りであり、論者の認識が『ウソ』である。


 □「ところでなぜ、集団的自衛権をめぐる政府解釈は、変更されてきたのか。なぜ、集団的自衛権の行使として禁止される範囲が、拡大してきたのか。これは、前回の投稿でも書いておりますが、きわめて政治的要素、政局的要素が強かったからです。」との記載があるが、9条の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は常に違憲とされており、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については常に否定されている。そのため、常に論理は一貫しており、「集団的自衛権の行使として禁止される範囲が、拡大してきた」との事実はない。また、これは法律論(憲法論)としての法解釈であるから、「きわめて政治的要素、政局的要素が強かった」との事実もない。


 □「つまりは、内閣法制局は、集団的自衛権に関する重要な解釈を決定する際に、国際法の常識に余り基づかず、国内法的な論理を優先して奇妙な、国際的には通用しない論理を構築する傾向が強いのです。」との記載があるが、論者の認識は「集団的自衛権」が国際法上の『権利』の概念であり、9条が「武力の行使」を制約している規定であることを理解していない誤りである。内閣法制局は従来より9条の下で「武力の行使」が制約される結果として国際法上の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことかできないとしており、これは「国内法的な論理」による制約が存在することにより「国際法の常識」としての『権利』の行使の可否を判断しているだけであり、通常の法解釈である。また、「国内的な論理を優先して」との部分についても、国家が国際法上ある『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、各国の憲法によってその行使を制約することは何ら問題ないのであり、「国内的な論理を優先して」などと、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることを理由に「国内的な論理」が打ち消されるかのように考えている部分が誤りである。さらに「奇妙な、国際的には通用しない論理を構築する傾向が強い」との部分であるが、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していても、国内法上でその『権利』の行使を制約する規定を整備しても何ら問題はないのであり、これは奇妙でもないし、国際法上完全に通用する論理である。「奇妙な、国際的には通用しない論理を構築する傾向が強い」ことは、国際法上の『権利』と憲法上の『権力・権限・権能』の違いが理解できていない論者の方である。



戦後70年談話報告書に学ぶ平和主義の歩み 2015年08月07日


(記事3ページ目)
 「存立危機事態」での「武力の行使」について、「よりいっそう厳格な憲法第9条に基づいた要件が課されている。」との記載があるが、誤りである。まず、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれるとは論理的に読むことができないからである。よって、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件自体が9条の制約の枠内ではないのであるから、「憲法第9条に基づいた要件」とはいうことができないのである。


 「オーストラリアへの武力攻撃が日本国民の生命や自由を根底から覆すような事態でなければ、憲法解釈上日本は援助ができないのだ。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 まず、憲法9条2項では「陸海空軍その他の戦力」を禁じている。このことから、『他国防衛』を行う実力組織を有することは、まさに「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。よって論者が「日本国民の生命や自由を根底から覆すような事態でなければ、援助ができないのだ。」と説明しているが、そもそも、他国を「援助」するための「武力の行使」を行う組織は、2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となるのである。「存立危機事態」での「武力の行使」の条項は、9条に抵触して違憲となる。
 次に、他国への武力攻撃が、「日本国民の生命や自由を根底から覆すような事態(『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』ような事態)」であれば「武力の行使」ができるとする説明であるが、相当因果関係を判定するための基準を示すものがなく、結局他国に起きている武力攻撃を理由として「自国の存立の危機」や「国民の権利の危険」などを理由として「武力の行使」を許容するものである。9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを禁じた趣旨に抵触して違憲となる。このような「自国の存立の危機」や「国民の権利の危険」などを理由とする「武力の行使」が許されないとする考え方は、論者がこの記事の冒頭(記事1ページ目)で紹介している「報告書」の中にも、「報告書では、戦争は『自存自衛の名の下に行われた』とはっきりと書かれており、『その自存自衛の内容、方向は間違っていた』と述べた上で、…」などと触れられているはずである。論者も気づいている通り、9条は『自存自衛の名の下に』「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨なのである。そのため、9条の下では、たとえ他国に対する武力攻撃が発生し、その他国から援助の要請があったとしても、『自存自衛の名の下に』「武力の行使」を行うことはできないのである。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は、他国に対する武力攻撃の発生を契機にして、結局「自国の存立の危機」や「国民の権利の危険」などという『自存自衛の名の下に』「武力の行使」を行うことを可能とするものであるから、9条の趣旨に抵触して違憲となるのである。
 加えて、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』という要件についても曖昧不明確なものである。『我が国の存立が脅かされ』ている事態とは、一体どのような状態を示しているのが理解することができない。『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される』とはどのような状態を示しているのか理解することができない。『明白な危険がある』との文言であるが、「明白」とは言いながらも「危険」という「害悪発生の可能性」に留まる言葉を用いており、結局『明白な害悪発生の可能性』を示すものであり、その可能性を条文を適用する運用者が主観的な判断で行うこととなる曖昧なものである。このような曖昧不明確な条文は、31条の適正手続きの保障の趣旨や41条の立法権の趣旨より違憲である。また、「武力の行使」の発動要件に関わる規定が曖昧不明確であることは、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合に当該事態がその適用を受けるものかどうかの判断を可能ならしめるような基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるものであるから、政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する9条の趣旨に反して違憲となる。


(記事4ページ目)
 論者が「日本がもしも武力を行使する必要があるとすれば、それはわが国が侵略されたときであり、国民の生命を守るためであり、国際社会において平和を回復しようとするときであろう。」との説明をしているが、その通りである。論者の言う「我が国が侵略されたとき」とは、まさに9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解から導き出された三要件(旧三要件)の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害がある」を意味するからである。


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「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害がある
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 論者が「日本国憲法第9条は、侵略戦争や、国策の手段としての戦争を、明瞭に否定している。」や「戦後70年に築き上げた平和主義の精神」に「自信を持つべきではないだろうか。」と述べている通り、戦後70年間築き上げた平和主義の精神から導き出される9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の制約の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害がある」とき、つまり論者の言う「わが国が侵略されたとき」でなければ、「武力の行使」はできないのである。論者は、その「戦後70年間気づき上げた平和主義の精神」に「自信を持つべき」と述べているが、論者自身は2014年7月1日閣議決定やその後の安保法制の法律改正で設けられた「存立危機事態」での「武力の行使」を支持している点で、矛盾したことを述べている。

 


安保法施行で日本は「専守防衛を転換」したのか 細谷雄一 2016年03月29日


 この記事は、定義を知らないままに説明しているため、全体的にズレている。

 「ところが、1981年以降は、政府見解として内閣法制局は、集団的自衛権を『保有』はしているが、『行使』はできない、というきわめて分かりにくく、矛盾をはらんだ論理を示すようになった。」との記載があるが、矛盾はなく、誤りである。国際法上の『権利』を有していても、国内法の憲法上で『権限』がないため行使できないということである。

 「もしも、集団的自衛権という『権利の行使』が憲法上認められないというならば、そもそも日米安保条約を違憲として、廃棄することを主張しなければならない。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』である。その「集団的自衛権の行使」とは、通常「武力の行使」を意味する。日本国の統治権の『権限』は、9条によってこの「武力の行使」が制約されているのである。結果として、「集団的自衛権」という『権利』を行使することにあたる「武力の行使」については、9条で制約を受けているために行うことはできず、「集団的自衛権という『権利の行使』が憲法上認められない」という結果となるのである。

 日米安保条約については、日米安保条約5条で「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と記載されており、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」行うものであることを確認していることから、日本国が「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができなくとも、特に問題はない。また、条約など国際法は、『権利』を有しても、主権を有する各国の統治権の『権限』を与えることはない。なぜならば、国民主権原理を有する国では、国民からの信託が『権力・権限』の源であり、条約によって『権力・権限』が発生するわけではないからである。
 このことから、日米安全保障条約を違憲として廃棄する必要はない。


 国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の区分である「自衛権」の話をした後に、「したがって、日本が『専守防衛』の理念を転換したわけではないことを理解する必要がある。」との説明をしているが、誤りである。まず、専守防衛の定義であるが、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢(平成30年版 防衛白書)」をいう。この姿勢は、憲法9条の制約の中で行われるために生まれているものである。そのため、「専守防衛」は日本独自の概念であり、憲法9条によって制約を受けているために採用されている防衛戦略の姿勢であるにもかかわらず、論者は国際法上の『権利』の区分を用いて「専守防衛」を説明しようとしている点で誤った認識を有している。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略」なのである。国際法上の違法性阻却事由としての『権利』のに則った防衛戦略というわけではないのである。

 そのため、憲法上の制約を逸脱すれば、「『専守防衛』の理念転換した」ことになるのであり、これを否定する論者の認識は前提となっている定義を理解していないことによるものである。

 「集団的自衛権も『自衛』である以上は、『専守防衛』の方針が大きく転換したわけではないからだ。」との記載があるが、繰り返すが、「専守防衛」であるためには、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略」である必要があり、9条の制約から逸脱する「存立危機事態」での「武力の行使」を設けた時点で、「専守防衛」とは言えないのである。

 「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を行使する際の条件を述べた後に、「このような措置を『専守防衛』ではなく、世界中で武力の行使が可能となるかのように説明をして、『専守防衛を転換』と論じることは、適切な表現とはいえない。」との記載があるが、相変わらず「専守防衛」の定義を知らない論者は、誤った論理を展開している。
 「日本はこれからも引き続き、『専守防衛』に徹するであろうし、」との記載があるが、「専守防衛」が「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略」である必要がある以上、これを逸脱している「存立危機事態」での「武力の行使」を有する時点で、「専守防衛」に徹してはいないことになる。
 「犠牲国からの援助の要請を無視して、日本が平和国家としてより高い道徳に立っているように自慢することは、偽善であり欺瞞である。」などの記載もあるが、そもそも国家の統治権の『権限』は、憲法上の制約を超えて活動することはできない。そのため、要請を拒否しても、国家の統治権の『権限』が制約されている以上当然のものである。論者の論理は、国際法と国内法の法体系の違いを理解しておらず、憲法というルールよりも、他国からの要請に応えることを重視し、憲法違反の活動を行おうとする姿勢が含まれている。


 記事中の「大石眞」の論拠については、「大石眞」の項目にて解説した。
 記事中の「藤田宙靖」の論拠については、「藤田宙靖」の項目にて解説した。

 「冷静で、バランスの取れた広い視野から行うことが重要であり、また国際情勢や現実の安全保障環境を深く理解した上で、どのようにして国際社会の平和がよりよいかたちで確保されるのかを考えて欲しい。」との記載があるが、国際情勢の現実の安全保障環境を深く理解することは当然必要なことではあるし、国際社会の平和がよりよいかたちで確保されるのかを考えることも重要であるが、論者には定義に基づいた正確な知識を押さえ、国際法と国内法の法体系の違いや『権利』と『権限』の違いなどの基礎的な事項を理解し、冷静でバランスの取れた広い視野から考察してほしいものである。

 

安保論争 (ちくま新書)  細谷雄一 2016/7/5 amazon


(P38~39)

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 それでは、国連憲章二条四項で掲げられて、現在国際社会で定着しつつある武力不行使原則と、憲法九条一項で掲げられている戦争放棄の理念を、どのように整合させたらよいのか。その二つの理念の間にはどのような共通点が見られ、どのような違いが見られるのか。また、国連憲章四二条で掲げられている集団安全保障措置に、日本はどのように向き合うべきか。自衛隊法七六条における防衛出動の要件と、国連憲章五一条における自衛権行使の要件と、どのようにこの二つを関連づけて整合させるべきか。

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との記載がある。

 国連憲章の「武力不行使の原則」と憲法9条1項について、「どのように整合させたらよいのか。」との部分であるが、国連憲章は加盟国に対して禁じたものであり、憲法9条1項は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約である。これらは別の法体系に属するものであり、矛盾抵触はないため、「どのように整合させたらよいのか。」などと法的に「整合」させる必要そのものがない。

 「国連憲章四二条で掲げられている集団安全保障措置に、日本はどのように向き合うべきか。」との部分であるが、憲法9条の下で日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は三要件(旧)の基準の範囲内でしか許されていないため、「国連憲章四二条で掲げられている集団安全保障措置」についても、これを超えるものについては行使することができない。

 「自衛隊法七六条における防衛出動の要件と、国連憲章五一条における自衛権行使の要件と、どのようにこの二つを関連づけて整合させるべきか。」との部分であるが、国連憲章51条の「自衛権」は国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であり、自衛隊法76条の防衛出動による88条の「武力の行使」は日本国の統治権の『権限』による措置のことである。これらは国際法と国内法で別々の法体系に属しており、相互に矛盾抵触はない。そのため、「この二つを関連づけて整合させるべきか。」などと、関連付ける必要もないし、整合させる必要もない。


(P163)

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というのも、集団的自衛権の行使に関して全面禁止という見解を政府が確立したのは、一九八一年五月二九日がはじめてのことであって、それ以後の展開のみを見ていてはこの問題の本質を見誤ってしまうからだ。そこに至る過程がいかなるものであって、どのような理由でそうした政府解釈が生まれたのかをみることは、意味のあることであろう。

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との記載があるが、誤りである。

 「集団的自衛権の行使に関して全面禁止という見解を政府が確立したのは、一九八一年五月二九日がはじめてのことであって、」との部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解においても「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は認められないとの見解が出されており、「一九八一年五月二九日がはじめて」とは言えない。

 また、論者は(P179~180)で「そのような動きの末に、一九七二年に内閣法制局は、『我が憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない』と、はじめて集団的自衛権の行使が憲法上許されないと明確に説明する政府見解を示した。」と述べている。論者は「はじめて」述べたのは「一九七二年」と考えているのか、「一九八十年五月二九日」と考えているのか、どちらなのだろうか。論者の中でも整理されていないようである。


(P163)

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 集団的自衛権をめぐる政府の解釈は、戦後政治の中で翻弄され、漂流してきた。というのも、そもそも日本国憲法九条では、集団的自衛権の行使が可能かどうかは、明文上は示唆されていないからだ。したがって、内閣法制局は集団的自衛権の行使が可能か否かについて、その立場が微妙に揺れ動いてきた。

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との記載があるが、誤りがある。

 「集団的自衛権をめぐる政府の解釈は、戦後政治の中で翻弄され、漂流してきた。」との部分について、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲を超える「武力の行使」はすべて違憲であるとしており、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこれを満たさないことから、常に違憲であるとされている。そのため、「政府の解釈は、戦後政治の中で翻弄され、漂流してきた。」との認識は妥当でない。

 「そもそも日本国憲法九条では、集団的自衛権の行使が可能かどうかは、明文上は示唆されていないからだ。」との記載があるが、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由として国連憲章51条の「集団的自衛権」を行使するということは、「武力の行使」を伴うこととなり、日本国憲法9条はその日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。そのため、「明文上は示唆されていない」との部分については、「集団的自衛権の行使」が通常「武力の行使」を伴うことを理解できていれば、示されているということができる。

 「内閣法制局は集団的自衛権の行使が可能か否かについて、その立場が微妙に揺れ動いてきた。」との部分であるが、政府は2014年7月1日閣議決定までは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」は全て違憲であるとしており、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については常に違憲であると一貫して述べている。そのため、「その立場が微妙に揺れ動いてきた。」との認識は誤りである。


(P170~171)

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 自衛権の行使のための条件が明確なかたちで国会に示されたのは、一九五四年のことである。ここで下田武三外務省条約局長は、国会答弁において、「国際法上自衛権を行使し得るのは、急迫した危害が国家に加えられるということ、そして危害除去に必要な限度でなければ行使しえないということ、またその危害を除去するために他にとる手段がないということ、この三つの条件が必要」だと論じた。

 これを受けて佐藤達夫法制局長官は、これを自衛のための「三条件」とした。すなわち、「他に方法がない」、「急迫不正の危害があること」、「必要最小限の措置」という三つの条件があってはじめて、日本政府は自衛権を行使できるとしたのである。ここではじめて、「必要最小限の措置」という自衛権の条件が提示される。本来下田局長は、国際法における一般理解である自衛権行使における「均衡性」の原則を指摘したに過ぎないのだが、おそらくそれを拡大解釈して佐藤長官は「必要最小限」という言葉に置き換えたのだろう。

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との記載があるが、誤りである。

 まず、国際法上の「自衛権」という『権利』を行使できる場合の要件(条件)と、憲法9条の下で行使できる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の三要件(旧)の基準は、国際法と国内法で法体系が異なる。

 国際法上の「自衛権」の要件を満たせば、「武力の行使」に対する国際法上の違法性が阻却される。


━━━━【自衛権を発動できる場合の要件】━━━━━

◇ 外国から加えられた侵害が急迫不正である(違法性)

◇ 防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ない(必要性)

◇ 自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、つり合いがとれていなければならないという(均衡性)

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 「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たせば、「武力の行使」は憲法9条に抵触しないこととなる。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること

〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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 これらは別々の法体系の問題であり、論者の言うように、「自衛権行使における『均衡性』の原則」を「『必要最小限』という言葉に置き換えた」などという事実はない。

 国際法上の問題と、国内法上の問題が別の問題であることを理解するためには、下記の答弁が分かりやすい。


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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。

 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。

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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日 (下線は筆者)


(P171)

 「それでは、この段階では、集団的自衛権の行使は禁止されていたのだろうか。必ずしもそうとはいえない。というのも、この時期には、集団的自衛権が多義的に捉えられており、行使可能なものとそうでないものに二分されていたからだ。」

 との文から(P173)までの説明については、下記の通りである。


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○政府委員(林修三君) これはいろいろの内容として考えられるわけでございますが、たとえば現在の安保条約におきまして、米国に対して施設区域を提供いたしております。あるいは米国と他の国、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合にこれを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。

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第34回国会 参議院 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日


 しかし、ここでも述べているように、「米国に対して施設区域を提供」や「他国に基地を貸して、」の場合、「米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと」を「集団的自衛権」と呼ぶのであれば、「そういうものはもちろん日本として持っている」と言っているだけである。

 これは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対して国連憲章51条の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を行使する形で、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われる場合のことを意味するものではない。

 また、上記の「林修三内閣法制局長官」の答弁は、下記の平成16年の答弁で意味が補正されている。

 

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○秋山政府特別補佐人 昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為について、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうものは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたことがございます。

 この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきまして、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございまして、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまして、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませんと述べたにとどまるものと考えております。

 現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着しているものと承知しております。

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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 そのため、「米国に対して施設区域を提供」や「他国に基地を貸して、」の場合、「米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと」を「集団的自衛権」と呼ぶのであれば、それは憲法上可能であると述べているだけであり、日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」を伴う形で「集団的自衛権の行使」を行うことができると述べているものではない。

 論者の「この時期には、集団的自衛権が多義的に捉えられており、行使可能なものとそうでないものに二分されていたからだ。」との部分については、「米国に対して施設区域を提供」や「他国に基地を貸して、」の場合、「米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと」についてと、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴うものについてが二分されていたと考えることができる。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴うものが「二分されていた」という事実は存在しないことに注意が必要である。


 論者は(P172)で、「『いろいろある』集団的自衛権の行使のかたちとして、『他国防衛』は憲法上認められないという解釈が、ここで確立していく。」や、(P172~173)で、「つまり、一九五〇年代末から一九六〇年代にかけての法制局は、集団的自衛権行使の全面禁止論ではなく部分的容認論をとっており、日本国憲法が禁止しているのはあくまでも『他国防衛』だという論理だったのである。」としているが、誤りである。

 「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を意味するから、これが行使される場合には通常「武力の行使」が行われていることになる。そして、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、9条の下では三要件(旧)の基準を満たすことが求められる。これは、『他国防衛』であるか否かによって憲法上認められるか否かが決められているのではなく、三要件(旧)の基準、その中でも、特に第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって決められているものである。

 そのため、論者が「集団的自衛権の行使」(としての『武力の行使』)について「『他国防衛』は憲法上認められないという解釈が、ここで確立していく。」や、「部分的容認論をとっており、日本国憲法が禁止しているのはあくまでも『他国防衛』だという論理だった」と述べている部分は誤りである。


(P175)

 「その回答として、内閣法制局は、武力行使を伴う場合であっても、自衛隊がPKOに参加することは憲法上問題ないという立場であった。」との記載があるが、誤りと考えられる。

 内閣法制局は、PKOについて「武力の行使」は認められないとしている。

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○大出政府委員

(略)

 我が国が海外におきましていわゆるPKOの業務、活動に参画をしていくという場合に、武力の行使というものをすることは認められていない、これははっきりいたしておるところであります。他方、先ほど申し上げましたように、国際平和協力法におきましては二十四条というところで、例えば二十四条三項について言いますと、自衛官につきましては、一定の場合に自分たちを守るために武器の使用をすることができる、非常に厳格な要件のもとにおいて認められておる、こういう全体の枠組みになっておるわけであります。

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第126回国会 衆議院 予算委員会 第25号 平成5年5月25日


(P177)

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 自衛隊の憲法上の合法性と安全保障上の必要性を国民に説明して受け入れてもらうためにも、政府は次第に自衛隊の目的を個別的自衛権の行使に限定して、自衛隊の海外派兵の禁止を規定する憲法解釈を確立していく。佐藤栄作政権は、野党である社会党との妥協により予算成立を早期に達成するためにも、憲法上、自衛隊法改正による海外派兵はできないという立場を明らかにした。この佐藤政権の決断が、後の政府解釈を拘束していく。

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との記載があるが、誤りである。

 自衛隊の「海外派兵」が一般に許されないことは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えるからである。これは9条解釈として法律論上で導かれたものであるから、政治的な事情が関与したかのような説明となっていることは誤りである。

 

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○船田国務大臣

(略)

  わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。昨年私が答弁したのは、普通の場合、つまり他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らないだろうという趣旨で申したのであります。この点防衛庁長官と答弁に食い違いはないものと思います。

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第24回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 昭和31年2月29日


 また、「政府は次第に自衛隊の目的を個別的自衛権の行使に限定して、」の部分であるが、政府は常に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」は違憲であるとしているため、「次第に自衛隊の目的を」などと、変化しているかのような説明は誤りである。

 また、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準は国際法上で認められている「個別的自衛権の行使」の範囲よりも狭いため、「個別的自衛権」の範囲であるからと言って「武力の行使」がすべて認められているかのような説明は厳密には誤りである。


(P177)

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 その後確立する集団的自衛権の行使禁止の論理は、あくまでもベトナム戦争への日本の参戦や、第二次朝鮮戦争の可能性が国会で議論される中で、政治的および政局的な理由から自衛隊を海外に派兵しないという確約を示す目的で、これ以降に浸透していく。

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との記載があるが、誤りである。

 先ほども述べたように、「集団的自衛権の行使」が禁じられ、「海外派兵」が一般に許されないとされているのは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超えるからである。これは憲法解釈上の基準であるから、「政治的および政局的な理由」ではない。


(P179)

 「すなわち、政治的妥協として内閣法制局は、国民に幅広く受け入れ可能なコンセンサスとなるような政府見解をつくることを求めて、自衛隊と日米同盟を国民が受け入れるための前提条件として、『海外派兵はしない』という論理を政治的な理由からも生み出したのである。」との記載があるが誤りである。

 「『海外派兵はしない』という論理」の部分についてであるが、憲法を解釈した結果として法律論上で「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超えるか否かによって一般に「海外派兵」は許されないとの結論が導き出されるのであり、政治的、政策論上の理由によるものではない。

 そのため、「自衛隊と日米同盟を国民が受け入れるための前提条件として、」や、「政治的妥協として」、「政治的な理由からも生み出した」という認識は誤りである。


(P179~180)

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 そのような動きの末に、一九七二年に内閣法制局は、「我が憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、我が国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであって、したがって、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない」と、はじめて集団的自衛権の行使が憲法上許されないと明確に説明する政府見解を示した。これは、従来見られたような「憲法前文の国際協調主義の精神」を大幅に後退させて、個別的自衛権のみに厳しく限定するような、ナショナリズムに基づく論理でもあった。

 ここでは、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置」としてならば自衛権の発動が認められるとしており、そうだとすれば、それを敷衍して解釈することでその目的のためであれば集団的自衛権の行使にあたるものであっても憲法上認められるという論理が可能となる。二〇一四年の閣議決定が立脚したのは、一九七二年の政府見解のこの部分の憲法解釈である。

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との記載があるが、誤りがある。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解は三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が9条に抵触して違憲となることから、これを満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権の行使」は許されないと示しているだけである。この三要件(旧)の基準はこれ以前から示されており、あたかも「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」がこれ以前は行使できる可能性があったかのように説明している部分が誤りである。


 「これは、従来見られたような『憲法前文の国際協調主義の精神』を大幅に後退させて、個別的自衛権のみに厳しく限定するような、ナショナリズムに基づく論理でもあった。」との記載があるが、誤った認識である。

 論者は国連憲章が「個別的自衛権」や「集団的自衛権」、「集団安全保障」による「武力の行使」を積極的に行おうとするものと考え、憲法前文の「国際協調主義」がその「武力の行使」を支持しているかのような前提認識に基づき、「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないとの見解を「『憲法前文の国際協調主義の精神』を大幅に後退させて」と評価しているようである。

 しかし、国連憲章は2条4項で「武力不行使の原則」を定めており、「武力の行使」を禁じている。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」、「集団安全保障」による「武力の行使」については、その例外的に許容される措置であり、加盟国に対して積極的に行使しなければならないことを求めるものとはなっていない。また、憲法前文の「国際協調主義」とは、必ずしも国連憲章やその国際連合の機関を指すわけではない。そのため、論者は国連憲章に対する認識を誤っているし、憲法前文の「国際協調主義」に対する認識も誤っている。

 さらに、「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないことは、憲法解釈によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は三要件(旧)の基準を満たす場合にしか許されていないことによる付随的な結論である。これは法律論上の解釈であるから、「ナショナリズムに基づく論理でもあった。」との認識は誤りである。

 もう一つ、論者は「個別的自衛権のみに厳しく限定するような、」と説明しようとしているが、三要件(旧)の基準に基づく「武力の行使」は、国際法上の「個別的自衛権の行使」として許容される「武力の行使」の幅よりも狭いものである。そのため、日本国の統治権の『権限』による三要件(旧)の基準に基づく「武力の行使」は、「個別的自衛権」として許容される範囲より狭いことを押さえる必要がある。


 1972年(昭和47年)政府見解について、「ここでは、『国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置』としてならば自衛権の発動が認められるとしており、」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解が「自衛の措置」の限界の規範として示したものは、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃」を満たすことを求めている。そのため、論者のように「『国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置』としてならば自衛権の発動」としての「武力の行使」が認められるかのような説明とはなっていない。また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)を理由として政府が自国都合の「武力の行使」の踏み切ることを制約するための規定であり、単に「『国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置』と考えるからと言って「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、論者の説明は1972年(昭和47年)政府見解を正確に引用していない点で誤っているし、9条そのものの趣旨にも反する考え方であり、誤りである。


 「そうだとすれば、それを敷衍して解釈することでその目的のためであれば集団的自衛権の行使にあたるものであっても憲法上認められるという論理が可能となる。」との部分であるが、誤りである。

 9条の下では「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由とするだけで「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、「『国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置』」を理由とするだけで「武力の行使」を行うことができることにはならない。

 また、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を示した部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在しており、単に「『国民の生命、自由及び幸福追求の権利を守るためのやむを得ない措置』」であれば「自衛の措置」を許容しているわけでもないため、1972年(昭和47年)政府見解を正しく引用せずに、その一部分を抜き出して都合のいいように解釈しようとしてる点でも誤りである。

 そのため、論者の「その目的のためであれば集団的自衛権の行使にあたるものであっても憲法上認められるという論理が可能となる。」との認識は、誤った前提認識に基づく主張であり、そのような論理は可能とならない。


 「二〇一四年の閣議決定が立脚したのは、一九七二年の政府見解のこの部分の憲法解釈である。」との部分については、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれることを前提として「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化しようとする解釈手続き上の不正・違法が存在する。

 そのため、2014年7月1日閣議決定が結論部分で正当化しようとしている「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。


(P180)

 「このように集団的自衛権の行使が違憲だと判断される大きな理由は、ベトナム戦争や勃発が懸念される第二次朝鮮戦争への自衛隊の派遣の可能性が強く批判されたことによる政局的なものであった。それによって、自衛隊の海外派兵を断念する結果につながった。」との記載があるが、誤りである。

 憲法9条の下では「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲に限られ、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることにより許されないとされているだけである。これは法律論上の話であり、政策的なものではない。そのため、論者が「政局的なものであった。」と述べている部分は誤りである。

 「自衛隊の海外派兵」については、一般に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えることによって憲法上許されないとされており、「政局的」な理由によって「断念」しているとの事実はない。


(P181)

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 その論理的帰結として、一九八一年の集団的自衛権行使の全面禁止論が誕生する。

 一九八一年五月に内閣法制局は、それまでのような集団的自衛権に関する玉虫色の判断を回避して、集団的自衛権の全面禁止という憲法解釈へとシフトした。これが決定的な転機となり、これ以降三〇年を超えて集団的自衛権の行使ができないという政府解釈をとり続けてきた。

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との記載があるが、誤りである。

 まず、「その論理的帰結として、一九八一年の集団的自衛権行使の全面禁止論が誕生する。」の部分であるが、1972年(昭和47年)政府見解においても既に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は否定されており、「一九八一年」に「誕生」したわけではない。政府はそれ以前にも三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」は行うことができないと述べている。あたかも「一九八一年」にはじめて禁じられたかのような説明となっていることは誤りである。

 「それまでのような集団的自衛権に関する玉虫色の判断を回避して、集団的自衛権の全面禁止という憲法解釈へとシフトした。」との部分についても、「武力の行使」を伴う意味での「集団的自衛権の行使」については常に否定されており、「玉虫色」との表現は誤りである。そのため、もともと三要件(旧)の基準が示されている時点で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は否定されており、「集団的自衛権の全面禁止という憲法解釈へとシフトした。」などと、後に変更されたかのような認識は誤りである。

 

 「これが決定的な転機となり、これ以降三〇年を超えて集団的自衛権の行使ができないという政府解釈をとり続けてきた。」との部分についても、三要件(旧)の基準が示されている時点で、それを超える「武力の行使」は行うことができないのであり、「一九八一年」の時点を「これが決定的な転機となり、」や「これ以降三〇年を超えて」などという風にはいえない。


(P182)

 「したがって、それまでは集団的自衛権の部分的禁止論であったのが、海外派兵をおそれる国会での野党の批判や、国民世論の懸念を解消するために、よりいっそう抑制的な政府解釈を生み出して、自衛隊の活動を封じ込める必要があるという認識を、政府見解を通じてつくり出してきたのだ。」との記載があるが、誤りである。

 まず、「それまでは集団的自衛権の部分的禁止論であったのが、」との部分であるが、憲法9条の下では三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」についてはすべて禁じられており、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、常に全面的に禁じられている。そのため、「それまでは集団的自衛権の部分的禁止論であった」との認識は誤りである。

 次に「海外派兵をおそれる国会での野党の批判や、国民世論の懸念を解消するために、よりいっそう抑制的な政府解釈を生み出して、自衛隊の活動を封じ込める必要があるという認識を、政府見解を通じてつくり出してきたのだ。」との部分であるが、「海外派兵」は一般に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超えることにより許されないとされているのであり、このような政局的な理由によって基準がつくられたわけではない。論者の認識は誤りである。


(P183)

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 それは、一九六〇年以降見られてきたような集団的自衛権の部分的容認論とは一線を画する新しい政府見解であり、内閣法制局は部分的容認論から全面禁止論へと、それまでの集団的自衛権をめぐる憲法解釈を静かに変えていってしまったのだ。

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との記載があるが、誤りである。

 「一九六〇年以降見られてきたような集団的自衛権の部分的容認論」との部分であるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については常に禁じられており、「部分的容認論」など存在していない。そのため、「新しい政府見解であり」とも言えない。常に「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は三要件(旧)の基準を超えることによって許されないとされている。

 「内閣法制局は部分的容認論から全面禁止論へと、それまでの集団的自衛権をめぐる憲法解釈を静かに変えていってしまった」との部分についても、もともと「部分的容認論」は存在しないし、憲法解釈も変わっていないことから、「静かに変えていってしまった」との認識は誤りである。


(P252)

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 ここで誤解してはならないのは、この国連憲章の条文に基づいて、これまで内閣法制局もまた、日本は集団的自衛権を保有するという政府見解を示してきたことだ。したがって、日本では「戦後一貫して集団的自衛権が認められていない」と論じることは、誤りである。日本国政府は内閣法制局の見解に基づいて、戦後一貫して集団的自衛権を保有することを容認してきたのだ。ところが、一九八一年以降は、政府見解として内閣法制局は、集団的自衛権を「保有」はしているが、「行使」はできない、というきわめて分かりにくく、矛盾をはらんだ論理を示すようになった。

 まず何よりも、戦後日本国政府は一度たりとも、集団的自衛権の保有が認められないとは論じていないという事実を解する必要がある。でなければ、そもそも日米安保条約自体が、違憲となってしまうのだ。

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 「日本は集団的自衛権を保有するという政府見解」であるが、これは日本国が国際法上の法主体である国家として認められていることから、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有することを示しているだけである。これを根拠として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるわけではない。

 「日本国政府は内閣法制局の見解に基づいて、戦後一貫して集団的自衛権を保有することを容認してきたのだ。」との部分についても、国際法上「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有することを示しているだけである。

 「ところが、一九八一年以降は、政府見解として内閣法制局は、集団的自衛権を『保有』はしているが、 『行使』はできない、というきわめて分かりにくく、矛盾をはらんだ論理を示すようになった。」との部分であるが、これは国際法上「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有するが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、憲法9条によって「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られ、結果として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないという意味である。論者は「矛盾をはらんだ論理」というが、法学的には何ら矛盾を生じていない。

 論者は、「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴うことについて、下記のように述べている。

(P168)  (下線は筆者)

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 このように、当初は、安全保障理事会についての討議のなかで、地域的機構による紛争処理の必要性が指摘されていたが、最終的な文言では「地域的機構」ではなくて、より抽象的な「集団的自衛権」というかたちで、加盟国による武力行使が例外的に許容されるものとして個別的自衛権と並べられた。

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 このように、論者は「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴う概念であることを認めている。そして、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。これを理解すれば、憲法9条によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されることによって、国際法上の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されないことは当然に導かれるのであり、何ら矛盾している部分はないことを理解できるはずである。

 「集団的自衛権の保有が認められないとは論じていないという事実を解する必要がある。」との部分についても、日本国は国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有することを示しているだけであり、これを根拠として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置としての「集団的自衛権の行使」を行うことができることにはならない。

 「でなければ、そもそも日米安保条約自体が、違憲となってしまうのだ。」との部分であるが、誤りである。日米安全保障条約はアメリカ合衆国の行使する「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」と、日本国の「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」を組み合わせて対応することを定めたものである。これが機能する場合においても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られる。このことから、日本国が国際法上の「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことを前提とした条約ではない。そのため、日米安保条約が日本国による「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことを前提とした条約であるかのような認識に基づいて、その条約が「違憲となってしまう」か否かが問われる場合があるかのような説明となっていることは誤りである。


(P255)

 「したがって、日本が『専守防衛』の理念を転換したわけではないことを理解する必要がある。」との記載があるが、誤りである。

 「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいう。

 「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、「専守防衛」の「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分を満たさない。

 また、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは三要件(旧)の基準のことであり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこの範囲を超えており、「専守防衛」の「その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限る」の部分を満たさない。

 これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことは、「専守防衛」の範囲を超えており、「日本が『専守防衛』の理念を転換したわけではない」との説明は誤りである。


(P255)

 「というのも、集団的自衛権も『自衛』である以上は、『専守防衛』の方針が大きく転換したわけではないからだ。」との記載があるが、誤りである。

 「専守防衛」の意味は先ほど示した通りであり、これを超える場合は「専守防衛」とは言えない。これは「自衛」であるか否かを基準とするものではないから、論者のように「集団的自衛権」の意味が「自衛」であると考えるか否かに左右されない。

 そのため、「『専守防衛』の方針が大きく転換したわけではない」との認識は誤りである。


(P256)

 集団的自衛権について、「言い換えれば、そのような要請がない限りは、日本が一方的に武力行使することは認められていないという事実を、まず理解する必要がある。」との記載があるが、論者は憲法9条の下では武力攻撃を受けた他国からの『要請』があろうとなかろうと、三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」を行うことができないことを理解する必要がある。

 また、三要件(旧)の基準を超えた時点で「専守防衛」を逸脱することになるから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「専守防衛」の中に含まれると説明することはできない。

 

 



村瀬信也


〇 憲法解釈の「自衛のための必要最小限度」の基準と、国際法上の「必要性・均衡性」の基準を同一視している点に誤りがある。


集団的自衛権の行使に憲法改正の必要なし 『月刊Wedge』 村瀬信也 2014年7月


    項目① 【 ━ 】


 □「権利を『保有』するが『行使』できないという『蟻地獄』的な解釈が定着した集団的自衛権。」との記載があるが、意味を十分に理解できていないことによる誤解である。
 まず、「権利を『保有』するが『行使』できない」の部分であるが、従来より政府が説明してきたのは国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していても、憲法上で日本国の統治権の『権限』が制約されているため、国際法上の『権利』の行使ができないというものである。これを論者は「『蟻地獄』的な解釈」としているが、国際法と憲法では法体系が異なることや、『権利』を有すれば国家の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生すると考えているところに誤解があることにより意味を正しく読み取れていないからである。


 □「憲法9条に自衛権に関する明文規定がない以上、新たな憲法解釈の表明により権利の行使は可能になる。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 「自衛権」という概念は、国際法上の違法性阻却事由の概念である。9条に「自衛権」に関する明文規定がないことは、9条の規定が憲法規定であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を書き込むことは妥当でないことによる。そのため、9条に「自衛権」に関する明文の規定はなくて当然である。
 また、日本国は国家承認を受けており、国際法上の法主体としての地位を有している。国連にも加盟していることから、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」をどちらも行使することが可能である。憲法9条もこの「自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念を制約する趣旨の規定ではない。そのため、国際法上の『権利の行使』それ自体は、今までの「憲法解釈」で可能であり、あたかも「新たな憲法解釈の表明」によらなければ国際法上の『権利の行使』それ自体が禁じられているかのような認識は誤りである。ただ、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、この範囲によって「武力の行使」を行うことができず、結果的に国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由である「自衛権」という『権利』を行使することができない(行使する機会がない)ことはあり得る。
 「新たな憲法解釈の表明により権利の行使は可能になる。」とあるが、まず、新たな憲法解釈が行われうる可能性は当然にあるのであるが、その際に変化するのは国家の統治権の『権限』により行われる「武力の行使」の幅である。ここで述べられている「権利の行使」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の行使のことであり、日本国の統治権の『権限』の行使しうる幅とは直接的な関係がない。


 □「憲法と集団的自衛権をめぐる従来の解釈論争は、歴代の政府・内閣法制局が、その場凌ぎの答弁を重ね、従前の答弁との辻褄合わせに終始してきたため、その見解は今や『蟻地獄』の様相を呈している。」との記載があるが、従来の政府解釈が「集団的自衛権の行使」を許されないとしてきたことは、国際法と憲法では法体系が異なることや、国際法上の『権利』と憲法が正当化する統治権の『権力・権限・権能』の違いを理解しているものであり、「その場凌ぎの答弁」ではないし、「従前の答弁との辻褄合わせに終始」したものでもない。論者はそれを「『蟻地獄』の様相を呈している。」と評価しているが、単に論者がこれらの前提を押さえておらず、内容が理解できていないだけである。


 □「今、われわれに必要なことは、この『蟻地獄』から脱却して、虚心坦懐に憲法9条を読み返すことである。」との記載があるが、論者に必要なことは、国際法と憲法では法体系が異なることや、国際法上の『権利』と憲法が正当化する統治権の『権力・権限・権能』が異なるものであることを理解し、論者の認識の「『蟻地獄』から脱却」することである。「虚心坦懐に憲法9条を読み返す」としても、論者の認識に誤りがあることが明らかとなるだけである。


 □「読者がその内容を、色眼鏡なしで、検討して下さることを切に望むものである。」との主張には、大賛成である。論者の主張の中に誤解がないかを検討し、正当性を吟味する必要がある。


 □「この懇談会の正式名称(安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会)が示す通り、そこでの検討の中心は法律論であり、政治論ではない。法律論については、何よりも冷静な議論が必要とされるのである。」との記載があるが、安保法制懇の内容の不備については、当サイト「安保法制懇の間違い」のページで解説した。法律論として整合性がなく、解釈として成り立っていないことが明らかとなっている。論者は「政治論ではない」と強調しようとしているが、法律論上の整合性がないため、単なる政治論となっている。


 □「憲法9条には、自衛権に関する明文規定はない。」との記載があるが、その通りである。日本国憲法は近代立憲主義に基づく憲法であり、その内容は主に「権利章典」と「統治機構」で構成されており、統治権の『権力・権限・権能』について定めた規定は存在するが、国際法上の法主体に対して与えられる『権利』である「自衛権」については何も記載していないからである。また、9条は日本国の統治権の『権限』を制約する規定であり、国際法上の『権利』を制約する規定ではなく、「自衛権」そのものを制約しているわけではない。


 □「日本は、国連憲章の当事国であり、その51条に規定される『固有の個別的および集団的自衛の権利』を保有することには異論がない。」との記載があるが、日本国が国連加盟国として、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の適用を受ける地位を有することは当サイトも異論はない。


 □「国際法上、ある権利を『保有』しているのであれば、これを『行使』することが認められるのは言うまでもなく、保有しているが行使できないという説明には、誰しも戸惑いを隠せない。」との記載があるが、誤りがある。
 国際法上、ある『権利』の適用を受ける地位を有しているのであれば、これを国際法上において「行使」することが認められるのは確かである。
 しかし、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、その区分に該当する日本国の統治権の『権限』を行使できないことは当然にあり得ることである。論者も事例を挙げて述べている通りである。
 日本国の場合、条約上「集団的自衛権」という『権利』が制約されていないことは確かである。また、憲法上でも「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約する規定がないことは確かである。
 しかし、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲とされている。
 これにより、国際法上の「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、その「武力の行使」が9条に抵触して違憲となり、行うことができないのである。これにより、結果として「武力の行使」が発動されないため、「集団的自衛権の行使」も許されない(行う機会がない)との結論に至るのである。
 論者が「戸惑いを隠せない。」との認識であることは、「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴うものであることと、9条が「武力の行使」を制約していることを十分に理解していないためである。
 論者が「保有しているが行使できない」という説明を理解できていないのは、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していれば、国家の統治権の中に『権限』が生まれると考えている誤解がある。国家の統治権の『権力・権限・権能』は、国民主権原理を採用している憲法では、国民からの信託による授権によって発生するのであり、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有することによって発生するわけではないのである。


 □「日本の場合、集団的自衛権について、これを制約する条約上の義務はなく、憲法上も、これを禁止する規定はない。」との記載があるが、日本国が批准している条約の中に「集団的自衛権」という『権利』を直接制約する規定がなく、日本国憲法の中に「集団的自衛権」という『権利』を禁止する規定がないとしても、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している。この「武力の行使」が制約されることによって、結果として「集団的自衛権の行使」として行われる「武力の行使」を行うことができず、「集団的自衛権の行使」が禁じられる(行う機会がない)としても何の矛盾もない。


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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 □「内閣法制局は、憲法『解釈』上、その行使は認められないとしてきたが、憲法から内在的に引き出される解釈論的根拠は何も示されていない。」との記載があるが、誤りである。
 内閣法制局は、憲法の論理的整合性や体系的整合性を維持した解釈によって、1972年(昭和47年)政府見解を引き出し、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を導いたわけであり、「憲法から内在的に引き出される解釈的根拠」は示されている。
 まず、国連加盟国が「武力の行使」を行った場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって違法性を問われることになる。しかし、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の区分に該当する場合は、この違法性を阻却することができる。また、「集団的自衛権」の性質は、「他国に対する武力攻撃が発生したこと」に起因して、その他国を防衛するために行われた「武力の行使」の違法性を阻却するための『権利』である。
 このことから、「集団的自衛権の行使」が行われる状態とは、実質的に「我が国に対する武力攻撃」が発生していない中で行われる「武力の行使」が行われていることを意味する。
 しかし、日本国の統治権の『権限』は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中においてしか「武力の行使」を行うことができない。
 これにより、日本国の統治権の『権限』は、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできないのである。
 これが、「憲法から内在的に引き出される解釈論的根拠」である。

 □「法制局によれば、集団的自衛権の行使は、『必要最小限度』を超えるものだからというが、論理が倒錯している。」との記載があるが、従来より政府が「必要最小限度」の用いて「集団的自衛権の行使」が許されないとしてきたのは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超えるからである。「集団的自衛権の行使」とは、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うものであることから、「自衛のための必要最小限度」を超えるとしてきたのである。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 特に論理は倒錯しておらず、論者がこれを理解していないだけである。


 □「『必要最小限度』というのは自衛権行使一般について国際法上『必要性・均衡性』が要件となるということであって個別的自衛権であれ、集団的自衛権であれ、その行使は『必要最小限度』でなければならない。」との記載があるが、誤りである。
 まず、最初の「必要最小限度」については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味するものであり、これは憲法解釈上導き出された日本独自の基準である。これをあたかも国際法上の「自衛権の行使」に求められる「必要性・均衡性」という基準と同一視することはできない。
 分かりやすく説明すると、「自衛のための必要最小限度」の判断は日本国の裁判所の管轄であり、「必要性・均衡性」については、国際司法裁判所の管轄である。もともと憲法と国際法では法分野が異なり、法源も異なるため、基準もそれぞれ独自のものである。それにもにもかかわらず、この論者はこれらを同一視して考えている点で誤りである。

 次に「その行使は『必要最小限度』でなければならない。」の部分であるが、おそらく論者が言おうとしているものは三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」を発動した場合の程度・態様の意味である。論者は、「必要最小限度」が異なる次元で用いられていることを正確に理解しておらず、混乱が見られる。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━   ←  旧三要件の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ←  「武力の行使」の程度・態様の意味
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 □「集団的自衛権の行使だけが必然的に『必要最小限度』を超えるということではない。」とあるが、誤りである。「集団的自衛権の行使」は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行うものであることから、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないため、三要件(旧)を意味する「自衛のための必要最小限度」という基準を超えるのである。これは必然的である。


 □「逆に、『必要最小限度』の範囲であれば、個別的自衛権の場合と同様、集団的自衛権の行使は許容される、ということである。」との記載があるが、誤りである。
 まず、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」については、たとえ「個別的自衛権」として国際法上の違法性が阻却される場合であっても、憲法上では違憲である。「集団的自衛権」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行われた「武力の行使」の違法性を阻却する『権利』であり、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない。そのため、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲の中に「集団的自衛権の行使」の区分の「武力の行使」が入り込むことはなく、「『必要最小限度』の範囲であれば、」などと入り込む余地があるかのように考えている部分が誤りである。
 論者は、9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えているようであるが、従来より政府が用いている「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味するものであるから、数量的な概念ではない。


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○秋山政府特別補佐人 
(略)
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 また、もし9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準であるとすると、政府が「必要最小限度」と考えればいつでも「武力の行使」が可能となるのであって、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさず、9条の規範性を損なうこととなる。9条の制約が数量的な意味での「必要最小限度」であるとの考え方は、法解釈として成り立たない。

 
    項目② 【自衛権行使の容認判断は政策的な問題】


 □「集団的自衛権の行使を禁止する条約も憲法規定もなく、憲法解釈からもそれが内在的に根拠付けられないとするならば、これまで集団的自衛権の行使を認めてこなかったのは、政策的観点からそうしてきたものと言わざるを得ない。」との記載があるが、誤りである。
 まず、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使することを禁ずる条約は確かに批准していないと思われる。しかし、憲法規定としては9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、その9条解釈である1972年(昭和47)年政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を全て違憲としており、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は9条に抵触して違憲となり、禁じられていることになる。そのため「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を禁じる「憲法規定」が存在するため、「憲法規定もなく」との記載はこの過程を理解していない誤りである。
 「憲法解釈からもそれが内在的に根拠付けられないとするならば、」との記載があるが、先ほども述べたように、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているため、内在的に根拠付けられていることとなる。
 「政策的観点からそうしてきたものと言わざるを得ない。」との記載もあるが、これは憲法論(法律論・憲法解釈)としての制約であるから、憲法上禁じられていないことを前提として政策的観点から行わなかったかのように考えることは誤りである。


 □「したがって、今日、行使容認に踏み切るかどうかは、基本的には政策的な問題である。」との記載があるが、先ほども述べたように憲法解釈によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲が決せられ、それによって「集団的自衛権の行使」の範囲に該当する「武力の行使」は行うことができないとされているのであり、「容認に踏み切る」ことはできない。「政策的な問題である。」との記載があるが、憲法論(法律論)上の問題であり、誤りである。もし政策的に必要とされるのであれば、合法的な手段としては憲法改正を行う必要がある。


 □「実際、報告書も指摘する通り、日本政府は、自衛権について数次の政策変更を行ってきた。」との記載があるが、「自衛権」という『権利』そのものについて、日本政府は解釈変更を行っていないし、政策変更としても行っていない。


 □「1946年の制憲議会における吉田茂首相答弁では一切の自衛権を放棄するとしていた。これは当時日本が占領下にあって主権を制限されていたから、当然と言えば当然のことであった。日本が主権を回復した後の54年には、自衛権は主権国家として固有の権利であるとして従来の立場を変更した。」との記載があるが、誤りである。吉田茂の発言は「自衛戦争」を否定する趣旨と解される。


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1946年(昭和21年)
 6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号) 


 7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
 「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります」
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)


 以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)

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 □「政府は政策論と憲法解釈論を混在させたまま、81年の政府『答弁書』に引き継がれて、集団的自衛の権利は『保有』するが『行使』できないとする、何とも不自然・不可思議な政府解釈として定着するのである。」との記載があるが、誤った理解である。
 まず、「集団的自衛権」とは国連憲章51条に記載された国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である。これを行使することは、「武力の行使」にかけられる違法性を阻却することを意味するため、実質的には国家による「武力の行使」が行われている状態である。
 憲法9条はこの「武力の行使」を制約する規定であり、たとえ国際法上「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果として、「集団的自衛権の行使」を行うことができないとしても「不自然・不可思議」ではない。論者がこの過程を理解できていないことによって「不自然・不可思議」に感じているだけである。
 これは9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している旨の「憲法解釈論」であるから、「政策論」と混在させているわけではなく、論者が「政府は政策論と憲法解釈論を混在させたまま」としている部分は誤りである。
 論者の認識の誤りは、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していれば、国家の統治権の『権限』が発生すると考えていることである。国民主権原理を採用している憲法では、国民からの「信託」という授権によって統治権の『権限』が発生するのであり、国際法上の『権利』が法源となることはない。国連憲章においても「固有の権利を害するものではない。」との趣旨で記載されているだけであり、国家の統治権に対して『権限』を付与する意味を持っていない。また、もし国家の統治権に対して『権限』を付与する条約を締結したとしても、砂川判決が示すように、日本国の裁判所の有する司法権の81条の違憲審査権は、条約についても違憲審査が可能であるため、憲法9条に抵触する『権限』は行使することができるようになるわけではない。
 日本国憲法の場合は、9条の「日本国民」が放棄し、否認し、不保持としたために統治権の中に授権されておらず、もともと発生していない部分が存在する。その、統治権として発生している『権限』と、発生していない部分の境界線を示したものが、9条解釈である1972年(昭和47)年政府見解である。これは「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を全て違憲とするものであり、これを満たさないのであれば、日本国の統治権の『権限』として「武力の行使」を行うことができないのである。


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 なお、国連憲章51条は、加盟国の自衛の権利を「害するものではない」という消極的な表現になっており、武力攻撃が発生した場合に自衛権を発動することが加盟国の義務だとは述べていない。加えて、国連憲章(=国際法)上、国家の権利として否定されていないからといって、そのことが直ちに各国において自衛権を発動することが認められる法的根拠となるわけでもない。自衛権の発動が法的に可能かどうかは、その国の政府の組織・権限や国民の権利義務を定めている憲法=最高法規、すなわち国内法次第だからである。日本の場合、憲法が「国際紛争を解決する手段」としての戦争(武力の行使、武力による威嚇を含む)を放棄するとし、「戦力」の不保持、交戦権の否認を定めている以上、少なくとも集団的自衛権については、行使が認められないことに疑問の余地は無い。
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宮井清暢(富山大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


    項目③ 【個別的自衛権「拡張」論の陥穽】


 □「日本の自衛艦が攻撃を受けていない段階で、個別的自衛権の下に反撃すれば、『必要最小限度』の範囲をはるかに超えて、これはもう立派な国際法違反である。」との記載があるが、国際法の区分と、憲法解釈の基準を混同させた主張であり、論旨の意味が通じていない。
 まず、「必要最小限度」の意味であるが、政府は従来より「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を用いて「武力の行使」の可否を決していた。この三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行えば、確かに「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えることとなる。これは、9条に抵触して違憲である。
 しかし、国際法違反であるかどうかは、国際法上の基準に照らして考える必要がある。「個別的自衛権の下に反撃すれば、」とあるが、「自国に対する武力攻撃」が発生していないのであれば、「個別的自衛権」には該当しない。「集団的自衛権」にも該当しないのであれば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して国際法上違法となる。


 □「日本国政府は、『日本に対する攻撃はなかったが、個別的自衛権を行使した』と安保理に報告することになる。」との記載があるが、国連憲章51条に従って、安全保障理事会に報告しなければならないことは確かであるが、「他国に対する武力攻撃」が発生した場合に、『他国からの要請』に従って「武力の行使」を行ったのであれば、「集団的自衛権」に該当するだけであり、「個別的自衛権」として報告したかどうかという問題ではない。「他国に対する武力攻撃」が発生しても、その『他国からの要請』がないまま「武力の行使」をした場合、「集団的自衛権」には該当せず、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に違反して違法となる。また、他国に対しても、自国に対しても武力攻撃がないにもかかわらず「武力の行使」した場合も、同様に国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に違反し、違法となる、というだけである。


    項目④ 【国内法の対抗力・抑止力】


 □「集団的自衛権の行使を認めるか否かは、憲法9条の解釈に関わる問題であり、9条が自衛権について何ら明文規定を置いていない以上、憲法改正の必要はもとよりない。」との記載があるが、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのであり、「自衛権」を否定する規定がないとしても、「武力の行使」を行うことができる範囲が決せられる結果として、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことは当然にあり得る。そのため、9条解釈において1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行うことを違憲としており、他の9条解釈の方法を見出すことができないのであれば、やはり「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことは、憲法改正の必要がある。そのため「憲法改正の必要はもとよりない。」との認識は誤りである。論者は、「集団的自衛権の行使」が実質的に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴うことを理解できていない。


 □「日本政府は戦後これまでの間に数次の憲法解釈の変更を行ってきたのであるから、それにならって新たな解釈を打ち出せば良い。」との記載があるが、先ほど吉田茂の発言で見たように、日本国政府は9条に関しての憲法解釈については、2014年7月1日閣議決定まで実質的な解釈変更を行っていない。「数字の憲法解釈の変更」について、9条に関するものと考えているのであれば、十分な理解ではない。



柳井俊二


安保法制の意義と課題 元外務事務次官/元駐米大使/国際海洋法裁判所判事 柳井俊二 2016年1月 PDF


 P2で、「従来の政府解釈は、わが国は国際法上集団的衛権を有しているが、憲法第9条はその行使を許さず、個別的自衛権の行使しか認めておらず、また、武力行使を伴う国連の集団安全保障への参加も禁じているというものである。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 論者は、従来政府が日本国も集団的自衛権を有しているが、行使することが許されないとの説明の意味を理解できていないからである。
 まず、「集団的自衛権を有している」の意味は、国際法上日本国も主権国家として「集団的自衛権」という『権利』の区分の適用を受ける地位を有しているという意味である。また、「集団的自衛権」とは『権利(right)』を意味し、日本国の統治権の『権力・権限・権能(power)』ではない。そのため、国際法上他国と同様に「集団的自衛権」という『権利(right)』を行使して「武力の行使」の違法性を阻却する地位を有しているとしても、「武力の行使」を実施できるかどうかは憲法上で正当化される『権限(power)』の問題である。9条は日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」を制約しているのであり、その「武力の行使」が制約される結果として、「集団的自衛権の行使」が許されないとの結論となるのである。
 論者の9条が直接「集団的自衛権」という『権利(right)を制約しているかのような認識は誤りである。また、9条が「武力の行使」を制約していることは、「集団的自衛権の行使」だけでなく、「個別的自衛権の行使」にも及んでいる。そのため、日本国は「個別的自衛権」に基づく「武力の行使」であっても、他国が国際法上適法に行使できる「武力の行使」よりも狭い範囲に限られるのである。


 P2で、「集団的自衛権の行使および国連の集団安全保障への参加を認めるように憲法解釈を変更すべきであり、かつ、変更には憲法改正は必要なく、政府が適切な形で新しい解釈を明らかにすることで可能である旨提言した。」との記載があるが、憲法解釈上「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、不可能であるため、憲法改正の必要がないとする認識は誤りである。
 9条1項は「不戦条約」と同様の趣旨であり、この「不戦条約」の下で行使できる「自衛権」の範囲は、現在の国連憲章の区分で言えば「個別的自衛権」にあたるものである。よって、「自国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「武力の行使」を行うことは、9条1項に抵触して違憲となるのである。

  P3で、「1972年以降は、個別的自衛権の行使は許されるが、集団的自衛権の行使は許されないとの解釈に固まっていった経緯を述べ」との記載があるが、厳密には誤りである。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解とは、9条の下で許容される「武力の行使」は、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」旨述べたものであり、「個別的自衛権」の区分であれば必ずしも「武力の行使」が許されるとの認識とは異なるからである。日本国の場合は憲法上の制約によって、他国が「個別的自衛権」の区分によって適法に「武力の行使」を行う幅よりも狭い範囲の「武力の行使」に限られるのである。

 P3で、「同報告書は、また、1959年の最高裁砂川判決は憲法9条が自衛権を否定しておらず、わが国の固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権を区別せず、したがって集団的自衛権の行使を禁じていないことも示している。」との記載があるが、誤った認識である。
 砂川判決は、9条が「自衛権」という国際法上の『権利(right)』を否定するものではない旨を述べていることは確かである。
 しかし、「わが国固有の自衛権について集団的自衛権と個別的自衛権を区別せず」などと、国際法上有する日本国の『権利(right)』を区別していないことと、憲法上で正当化される統治権の『権限(power)』の有無は論点が異なる。
 そのため、「集団的自衛権の行使を禁じていないことも示している。」との認識には、「集団的自衛権の行使」というものが、実質的に「武力の行使」が行われる状態であり、9条が日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」を制約していることを理解していない誤りが存在する。
 論者は、「自衛権」の【権】の文字が『権利(right)』を意味しており、『権力・権限・権能(power)』とは異なることを理解していないのである。


 P4で、「個別的自衛権の行使のみを認めるという従来の政府憲法解釈を超えて、限定的にせよ集団的自衛権の行使を認めて、………としたのは、画期的な前進である。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を認めたことは、9条に違反して違憲である。論者は「画期的な前進」との認識であるが、法律論上は違憲であるとの評価は免れられない。


 P5で、「今回成立した新安保法制に対しては、国会審議においても、マスコミなどの主張においても、種々の誤解、曲解または意図的に的外れな反論が多かった。」との記載があるが、論者は国際法と国内法の法体系の違い、『権利(right)』と『権限(power)』の違い、憲法解釈の内容について、種々の誤解、曲解が存在する。
 政策論上の必要性と、法律上の問題は切り分けて考えなければならないが、論者は法律論上誤った認識を有している。


 P5で、「新安保法制が成立し、厳しい国際関係の中にあってわが国を守るため、ようやく現実的な法的基盤構築の第一歩を踏み出したが、」との記載があるが、論者の誤った認識は、「法的基盤」を破壊するものである。「国民の十分な理解が得られているとは言い難い。」との記述もあるが、論者自身が十分に理解しているとは言い難い。
 「新安保法制の真の意味を多くの国民に理解してもらうために、いっそうの啓発活動が必要である。」との認識には、全く同感である。「新安保法制の真の意味」を理解した場合、違憲であることは明らかである。



鈴木潤①

〇 この議論も、国際法と国内法の法分野の違いと、用語の違いを区別できていないために誤解がある。

[鈴木潤]【集団的自衛権の行使は合憲である!その1】~砂川判決を踏まえて~ 2015/7/3


 国連憲章51条の「固有の権利」は、各国が国家樹立の際に生まれた統治権が行使しうる範囲の権利のことを言う。日本国も「集団的自衛権」の保有を『国際法(国連憲章)』上において主張できることは確かである。しかし、日本国の場合、国家樹立(憲法制定)の過程において、国民主権原理により、9条の「日本国民」が「放棄」「不保持」「否認」したものについては、国家の統治権としてもともと発生していない。


 よって、「集団的自衛権」を憲法で禁止しているのではなく、日本国の国家の統治権の発生を9条によって制限しているのである。国際法上の集団的自衛権を禁止しなくても、国内法上の国家の統治権を制限しているのであれば、統治権による「武力の行使」ができない部分があるのであるから、国際法上の「集団的自衛権」にあたる権利を行使することもできないのである。つまり、国際法上「保有している」が、国内法で統治権を制限しているために、結果として国際法上も行使する機会がないということである(国際法上においては、行使した場合に違法性が阻却されるポテンシャルは確保されている。)。


 この論者は、思考の前提に誤りがある。まず、「集団的自衛権」の禁止の根拠として候補になるのが憲法9条であるかのように論じているが、9条は国際法を制限するためにつくられているわけではない。9条は、国家の統治権の発生を制限しているわけである。


 最高裁は、国家固有の権能がどこまでの範囲であるのかを述べてはいない。まず、9条で放棄されている部分に関しては、国民主権原理によって信託されていないため、日本国の統治権としてもともと発生していない。この、発生した統治権と、発生していない統治権を区別する明確な基準を、最高裁は示していない。よって、「国家固有の権能」がどこまでの範囲なのかは、明らかにされていないのである。


 各国が国連憲章51条上において「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を2条4項の武力の行使原則禁止に対する違法性阻却事由として主張することができることは確かであるが、この規定は各国の統治権に権限を付与する意味を持っていない。なぜならば、各国の統治権は、各国の憲法によって正当化される権限だからである。日本国においては、国民主権原理であるから、国民から信託された権限しか正当性を有しておらず、国家の統治権として行使することはできないのである。

 


[鈴木潤]【集団的自衛権の行使は合憲である!その2】~砂川判決を踏まえて~ 2015/7/3


 政府案が国際法上の「個別的自衛権」であるのかという論じ方に問題がある。まず、大前提として、「武力の行使」は、日本国の統治権によって行われるのである。この場面で、国際法の用語は全く関係がない。


 日本国の統治権によって「武力の行使」が行われた際に、日本国は国連憲章の加盟国であるため、国連憲章2条4項の武力行使原則禁止に該当する違法性を帯びるのである。しかし、その「武力の行使」が、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当した場合、その違法性は阻却され、国連憲章上の責任を免れることができるのである。


 よって、「武力の行使」が国際法上の「個別的自衛権」であるかというのは、国際法上の違法性阻却事由としてしか意味を持たない議論である。議論となっているのは、9条が日本国の統治権による「武力の行使」をどこまで許容しているのかの問題である。「個別的自衛権」であるかどうかという問題ではないのである。


 この点、政府は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」において、9条が日本国の統治権を制約してる部分について、明らかに「我が国に対する武力攻撃」を基準として設定しているにもかかわらず、その論理から逸脱した形で、「他国への武力攻撃」に起因する「武力の行使」を許容している点が、9条に抵触して違憲となるのである。


 また、9条は、自国民の利益や自国の都合によって国家の統治権が「武力の行使」に踏み切ることを禁ずるために存在する規定であるから、「我が国に対する武力攻撃」という事態の客観的な性質に基準を定めず、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」などという事態の主観的な数量に基準を設定することも、9条の規範性を損なうものであり、9条に抵触して違憲となるのである。


 9条という規定の規範性は、「我が国に対する脅威」だけで、政治判断による武力の行使が可能となるような基準を設定することを許容していないから、存立危機事態の要件は違憲となるのである。


 この点の論点は、「個別的自衛権の拡張」などという、国際法上の違法性阻却事由の議論を持ち出したところで、国家の統治権に対する制約がどの範囲かを説明したものではなく、議論の前提として成り立つものではない。


 国内法と国際法の法分野の切り分けができておらず、国家の「統治権」と、国際法の「違法性阻却事由としての権利」の違いも明確に認識できていないための混乱した論理である。


 砂川判決なども、その前提がなければ正しく読み解くこともできていない。論者の主張は的外れと言える。


鈴木潤②

〇 砂川判決の論旨を読み誤っているため、最後まで論旨の整合性がとれていない。


[鈴木潤]【集団的自衛権の行使は合憲である!その1】~砂川判決を踏まえて~ 2015/7/3


 「そもそも集団的自衛権は、国際法上、個別的自衛権と共に、各国に『固有の権利』(国連憲章51条)とされていて、わが国にも当たり前に認められているものです。」との説明は正しい。「国際法上、当たり前に認められている権利について、国内法で制限をかけるのであれば、国内法の中にはっきりとその根拠がなければなりません。」との説明も正しい。しかし、「集団的自衛権の行使が禁止される国内法上の根拠」とは、まさに9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に示されているところである。この政府見解を覆すことのできる「集団的自衛権の行使が認められることの国内法上の根拠」が存在しないのであれば、やはり1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の規範性は妥当であり、集団的自衛権にあたる国家の権限は違憲となるのである。

 「集団的自衛権」が国際法上の『権利』であることは正しいが、国際法で「集団的自衛権」がどのように位置づけられているかと、日本国の憲法上で国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』が行使できるかどうかは別問題である。

 我が国の国内法(憲法)では、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由としての『権利』区分を扱っておらず、単に自国の統治権の幅について扱っているだけである。

 最高裁の「固有の自衛権は何ら否定されていない」とは、国際法上の『権利』について述べたものであり、日本国の統治権の『権限』について示したものではない。

 「自衛権」の中に、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という『権利』の両方が含まれていたとしても、国家の『権限・権能・権力』がその『権利』を行使できるかは別問題である。

 この論者は、「自衛権」「固有の自衛権」などの『権利』の意味と、「自衛の措置」「自衛のための措置」「国家固有の権能」「武力の行使」などの『権限』の意味を区別できていない点で誤った認識である。

 最高裁は、自国の統治権による自衛の措置(武力の行使)の範囲については何も述べていないことから、その範囲が国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分にあたるかどうかも述べていない。そのため、判断していない問題について、最高裁が判断したかのように考えることは誤りであり、どちらも許容しているとの説も採用できない。また、日本国の統治権として行使できる自衛の措置の範囲について説明していないことを理由に、国際法上の制約が当然に日本国の憲法の解釈の中に含まれているかのように論じることは、国際法と憲法との法分野の切り分けを理解していないための誤りである。この考え方を採用すると、国際法が侵略戦争を合法化した場合、自国の憲法上の9条解釈においても国際法上の基準に従って合法化されると読むことになるからである。

 そのため、最高裁が何も述べていないということは、9条解釈における自衛の措置の制約は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」による規範性が判断枠組みとなるのである。



[鈴木潤]【集団的自衛権の行使は合憲である!その2】~砂川判決を踏まえて~ 2015/7/3


 最高裁判所は、国際法上の「個別的自衛権」という『権利』にあたる国家の『権限』を認めたわけでもない。

 その後の論旨も、「個別的自衛権」という名前の国家の統治権が存在するかのような論旨であり、意味が通じない。

 「個別的自衛権の拡張」との表現であるが、「個別的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の区分であり、国際法上の枠組みが「拡張」することはない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から逸脱した時点で、直ちに違憲である。ここに国際法上の違法性阻却事由である「自衛権」の区分が持ち出されることがそもそも誤りである。砂川判決によっては、何もサポートされていない。

 国家の「武力の行使」が行われた際に、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」で違法性が問われるが、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』に該当すれば、国連憲章上の違法性を免れるというものである。たとえ国連憲章上の違法性が阻却されたとしても、日本法の管轄である日本の裁判所によって憲法9条解釈の中で違法性が阻却されるかどうかは別問題である。

 国際法上の集団的自衛権が、「攻撃を受けた他国を守ること自体を目的としている」のであるから、政府案が「我が国を守ることを目的にしている」「武力の行使」を行った場合、国際法上の違法性を問われかねないものである。先制攻撃に該当する恐があるからである。

 また、「他国への攻撃」であるにもかかわらず、「わが国を守ることを目的」としているのであれば、相当因果関係の認められない「武力の行使」である。9条は、このような政府の自国都合による恣意的な判断によって「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨の規定であることから、明らかに違憲である。

 「個別的自衛権の延長上にある考え方」との記載があるが、9条は、このように自国の都合でもって「武力の行使」が行われる幅を広げ、国家が自国都合の「武力の行使」を行おうとすることを禁ずる趣旨の規定であることから、「個別的自衛権」にあたる国家の権限を延長することは、歯止めが効かなくなり、9条の規範性を踏み越えることとなる。よって、9条に抵触して違憲となる。

 よって、「我が国に対する武力攻撃」という規範性を延長し、「我が国に対する脅威」や「恐れ」「危険」などをこの中に含めようとすることは、不可能である。

 砂川判決は日本国の統治権の行使による「自衛の措置(武力の行使)」の範囲については何も述べておらず、何もサポートしていない。

 それよりも、ここで述べられている「政府案」である「存立危機事態」の要件は、2014年7月1日閣議決定の中でも前提として採用されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を逸脱し、政府自身の違憲審査基準によって違憲である。

 国際法上の『権利』と、日本国の統治権の『権限』が区別できていない点で、この論者の主張は的外れと言える。

<理解の補強>


現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない 南野森 九州大学法学部教授 2014/3/7



北村晴男

〇 9条が禁じているのは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」であって、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』ではない。


北村晴男が憲法改正を語る 2017年09月25日

 論者は「独立国家であれば日本も集団的自衛権を行使できないはずはありません。」と主張するが、もちろん国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」を行使しても、国際法上は違法性が阻却される。しかし、9条は日本国の統治権の『権限』を制約しており、この制約を超える「武力の行使」については、たとえ国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」にあたろうがあたるまいが違憲である。


 砂川判決が認めたのは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」であり、日本国の統治権の『権限』として「武力の行使」を行うことができるかについては述べていない。また、砂川判決は、「自衛権」という国際法上の『権利』を有していることを認めていることは確かであるが、日本国の統治権の『権限』が「自衛のための措置」として「武力の行使」を行うことができるかについてはやはり述べていない。


 そのため、論者の主張する「集団的自衛権の行使」、つまり日本国の統治権の『権限』が行う国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」が、砂川判決に照らして9条に違反するものではないとの考え方は論理的に導き出されるものではない。



福田博

〇 国連憲章と憲法に矛盾抵触がないことを理解していない。


集団的自衛権は現憲法でも問題なし(上) 福田博


 「我が国は、1956年に国連に加入しているが、加入に当たり、これらの規定になんらの留保も付しておらず、たとえば国連が執るべきことある安全保障上の義務を国内法の規定を理由に拒否するといったことはできない。」との記載があるが、これを根拠に「集団的自衛権」にあたる国家の権限を日本国が行使できることにはならない。まず、国連憲章の51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』である。9条は憲法上の規定であり、国家の統治権の『権限』を制約しているのである。この両者に矛盾抵触はなく、国連に加入しているからといって国家の統治権に制約をかけた9条の規定が無効化されるわけではない。また、砂川判決が示すように、条約も違憲審査が可能であることから、国連憲章も憲法に違反した場合は違憲となり、その効力は停止される。これは留保を付けずに国連に加盟していても同じである。さらに、「集団的自衛権」とは国際法上の『義務』ではない。よって、国内法の規定を理由に拒否することができないとの原則があったとしても、日本国の統治権が「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行わなかったとしても全く関係がない。


 「内閣法制局の意見はあくまでも行政の意見であり、憲法に違反するかどうかを審査し判断するのは裁判所だ。違憲審査権が司法にあることは憲法に明文で書いてある。そういうところをどこかで間違えて、憲法を変更しなくてはならないといった議論にしてしまった。」との記載があるが、正確な内容ではない。まず、憲法81条に最高裁判所は違憲審査を行う終審裁判所であると定められているが、それ以外の政府機関が各々違憲審査を行い、違憲を発表することは可能である。例えば、国会であっても、自ら違憲性が明らかに認められる法律を作ることを躊躇するべきように、他の機関でも違憲審査が可能なのである。あくまで最高裁判所が違憲審査の終審裁判所としての機能を与えられているだけであり、他の機関が違憲審査を行うことには何の問題もない。行政機関や会計検査院が違憲審査することも可能である。



集団的自衛権は現憲法でも問題なし(下) 福田博


 「そんな今の状況を考えれば、憲法9条が集団的自衛権の行使を制限していないことをはっきりさせておくことは重要だ。」との記載があるが、論者の認識にそもそも誤りがある。まず、9条は国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を制限しているわけではない。日本国の国家の統治権の『権限』を制約しているのである。この制約の範囲とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」として示されている部分である。この「基本的な論理」から国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』としての「武力の行使」を行うことを導き出すことは論理的に不可能である。これによって、国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができないというだけである。


集団的自衛権を論じる。裕 2016年03月15日


 記事の後半の福田博の主張を検討する。

 「『集団的自衛権は別に憲法9条に関係ない』として、憲法で何ら否定されていないと言い切っている。」との記載があるが、その通りである。日本国憲法9条は、国権(統治権)の『権限』による「戦争」「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じているのであり、国際法上の「自衛権」という『権利』については何ら否定していないのである。9条は、その国際法上の『権利』の行使にあたる「武力の行使」を禁じているのであるから、「集団的自衛権」という『権利』それ自体は何ら否定しておらず、関係がないのである。

 その後、「憲法9条は戦争をすることを禁止している、しかし、自衛権は否定されない」との記載があるが、まあまあその通りである。ただ、9条は戦争だけでなく、「武力の行使」を禁止していることを忘れてはならない。

 「国連憲章も認める集団的自衛権の行使を憲法が禁止している、という従来の法制局流の解釈は、冷戦終結後に変えておくべきだったとの立場だ。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、国連憲章が「集団的自衛権」という『権利』の行使を認めていても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合以外は禁じられているのである。そのため、必然的に「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」を国家の統治権の『権限』において行うことは違憲となるためにできず、結果として国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の行使が不可能ということである。

 そのため、従来の政府見解である1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権の行使」を禁じたというよりも、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」を禁じているのであり、国連憲章が「集団的自衛権」を認めているからと言って9条の制約の範囲が変わるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解は、憲法の論理的整合性や体系的整合性の考慮された上で引かれた確立された規範性を有しており、「変えておくべきだった」との考えがあっても、整合性の十分でない芦田修正説を採ることは憲法解釈として妥当性を欠く。このことから「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、解釈変更でなく、憲法改正によるしか手段はない。



小林宏晨

〇 日本大学名誉教授 小林宏晨


砂川判決 自衛措置に「集団」「個別」なし 小林宏晨 2015/8/21

砂川判決 自衛措置に「集団」「個別」なし 小林宏晨  2015/8/21


 「この『自衛の措置』の中で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別を行わずに、『国家固有の権能』つまり自然権であるしている。」との記載があるが、誤った前提認識がある。
 まず、「この『自衛の措置』の中で、個別的自衛権と集団的自衛権の区別を行わずに、」の部分であるが、「自衛の措置」とは日本国の統治権の『権限』が行う措置のことであり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国連憲章51条に記載された国際法上の違法性阻却事由の『権利』のことである。そのため、この両者には因果関係がなく、「自衛の措置」という『権限』の中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』が含まれているかのような認識は誤りである。また、砂川判決は「自衛権」に触れており、確かに「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区別を行っているわけではないが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という概念が国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』のであることから国家の統治権の『権限』による「武力の行使」と密接な関係を有している概念であるとしても、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、砂川判決が「自衛権」の文言に触れていることを理由として日本国が統治権の『権限』を行使して「武力の行使」を行うことができるかのように論じることは誤りである。

 次に、「国家固有の権能」とは、日本国の場合は国民主権原理を採用しているため、国民から信託された統治権の『権力・権限・権能』のことである。日本国の場合は、立法権・行政権・司法権の三権に分かれているものである。しかし、9条によって「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については、この「国家固有の権能」としてもともと発生していない。そのため、いくら「国家固有の権能」を語ろうと、9条の「日本国民」が放棄した部分に該当する「武力の行使」については、日本国の「国家固有の権能」の中には含まれていない。

 三つ目に「『国家固有の権能』つまり自然権であるしている。」との部分であるが、「国家固有の『権利』」が「国家の自然権」と同じであるとする議論は存在するものの、「国家固有の『権能』」という 『権力・権限・権能』が「自然権」という『権利』の概念と同じであるとする議論は存在しない。そのため、「国家固有の権能」との文言を国家の「自然権」と同じものであるかのように論じることは誤りと思われる。

 四つ目に、国家の「自然権」との表現であるが、「自然権」とは『権利』の概念である。これは国際法上の『権利』であることから、日本国が主権国家であることから他国と同様にこの『権利』の適用を受ける地位を有していたとしても、日本国の統治権の『権限』の範囲は国民から「厳粛な信託(前文)」を受けて授権された範囲に限られるのであり、これを根拠として日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるとすることはできない。日本国が国家の「自然権」の適用を受ける地位を有していたとしても、その「自然権」を行使しうる統治権の『権限』の行動範囲が、日本国はもともと他国と比べて小さいのである。


 「集団的自衛権の限定的適用は、その意味で不可欠であり、決して違憲ではない。」との記載があるが、誤りである。

 国際法上「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかなく、「限定的適用」などという区分は存在しない。
 日本国は国連憲章2条1項において、主権平等の原則の適用を受けるため、他国と同様に違法性阻却事由としての「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しており、それを行使することができる。しかし、日本国の統治権の中に「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うための『権力・権限・権能』が存在するか否かは、9条の制約範囲がいかなるものであるかという論点である。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない「武力の行使」は全て違憲である。「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。

 主権国家である以上、憲法によって国家の『権力・権限・権能』が発生するのであり、国際法の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の区分が、国家に対して『権力・権限・権能』を発生させるわけではない。恐らく、この論者は、日本国を国民主権原理を基盤として国家権力が発生しているという大前提を理解していない。そのため、「自衛権」などの文言に見られる「権」という文言の背景に含まれている、『権利』の意味と、『権力・権限・権能』の意味を区別できていないのである。合憲論拠としては意味が通じていない。



比較憲法学・憲法変遷論から見た憲法改正の視点 ―基本法制定による解釈改憲 小林宏晨 2016年5月11日


   【<梗概> はじめに】

 「日本が国際法上この権利を有するのみならず,憲法上もこの権利を適用できるとする閣議決定にまでも到達した。」との記載があるが、日本国が国際法上「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることは確かであるが、憲法上は「武力の行使」が制約される結果、この『権利』を行使する行為である「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行うことはできない。また、2014年7月1日閣議決定は、解釈手続きに不正が存在し、論理的整合性が保たれていないため「適正手続きの保障」の観点から違法なものである。


   【1.武力の一般的禁止義務及びその例外】
 「国連加盟国の個別的及び集団的自衛権が『固有の権利』(inherent right)もしくは『自然権』(droit naturel)と記述されている事実である。」との記載があるが、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているからといって、国家がそれを行使する『権力・権限・権能』を有しているかは別の話である。

 「その第二は,個別的・集団的自衛権が国連憲章第51条規定で初めて創設されたのではなく,既にそれ以前に一般国際法によって確立している事実である。」との記載があるが、「集団的自衛権」は国連憲章51条で初めて明文化されたものであり、概念が確立していなかったものである。そのため、一般国際法によって確立していたとの認識は事実というほどに確立した概念とは言えないと思われる。

 「つまり国連憲章第51条は,一般国際法によってすでに確立している権利を確認しているに過ぎない。そうでなければ,例えば,スイスはこの権利を持たず,武力攻撃の対象となった場合でも,他国に支援を求めることさえできないことになる。台湾も同様の立場に置かれることになる。」との記載があるが、相変わらず国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の区分の適用を受ける地位を有しているとしても、自国の憲法上で統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されているのであれば、国際法上の『権利』を行使できない(行使する機会がない)ことはありうる。また、国連加盟国でなければ2条4項の「武力不行使の原則」の適用はないため、法的な責任を問われることはないし、違法性阻却事由である51条の「自衛権」という『権利』の区分も関係ないと思われる。ただ、法的な責任はなくとも、国連非加盟国が国連加盟国に対して「武力の行使」を行った場合、国連の集団安全保障によって反撃されると思われる。


   【3.集団的自衛権 (3)集団的自衛権の法源】

 「筆者の観点からしても,集団的自衛権は,個別的自衛権と異なって国連憲章第51条によって初めて創設されたのではなく,既に国連憲章以前に確立していた主権国家の自然権(固有の権利)が,憲章第51条によって確認されたに過ぎないのだ。」との記載があるが、たとえそうであったとしても、憲法上の『権力・権限・権能』の範囲は憲法によって確定するものである。


   【Ⅳ. 基本法制定を通した解釈改憲の方向付け】
 「既に指摘したように,今般の閣議決定による新たな政府解釈は,集団的自衛権の適用可能性を限定的に容認することによって,慣習一般国際法と国連憲章に近づいた。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は解釈手続きに不正があり、「適正手続きの保障」の観点から違法である。また、「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分にも適合せず、違憲である。論者は「集団的自衛権の適用可能性を限定的に容認」と記載しているが、国際法上は日本国も「集団的自衛権」という違法性阻却事由の適用を受ける地位を有しているのであり、「適用可能性」は完全なものである。そのため「適用可能性を限定的に容認」との認識は誤りである。ただ、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」については、違憲となることから行使することはできない。これは、「限定的」と称しても「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たさない中での「武力の行使」であるから、9条に抵触して違憲となる。



香田洋二


〇 「法の支配」「立憲主義」「法治主義」を無視しようとしているもので、正当性を議論する前提にない。


今こそ問う!「集団的自衛権」(2) -10の本質的論点について香田洋二氏に聞く- 


 まず、憲法前文の平和的生存権と13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の趣旨をくみ取って、日本国が自衛の措置の権限を有しているとする1972年(昭和47年)政府見解の論旨は妥当である。ただ、間違えてはいけないのは、この趣旨をくみ取って「自衛の措置」をする主体は、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)である。13条権限というような国の『権限』が存在するわけではないことを押さえておこう。


 次に、国連憲章は条約であり、憲法によって生まれた統治権を持つ「内閣の締結」と「国会の承認」によって批准されるものであり、憲法より下位の法令となる。よって、国連憲章を根拠に、日本国が「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』を行使することができるとする議論は、条約を上位法として憲法解釈の根拠とするものであるから、論理が通じていない。


 第三に、自衛隊の存在が合憲であるからと言って、論理的な帰結として「集団的自衛権」を行使することも合憲と考えるのが当然ということにはならない。9条は、日本国の統治権の『権限』を制約しており、この制約の下での「実力組織」や「武力の行使」は許容されるが、その制約から逸脱するものは、違憲となるのである。


 「自衛隊の存在が違憲であるか」というのは、その組織の実態や行使する権限が「違憲であるのか」というものである。したがって、国際法上の「集団的自衛権」にあたる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が違憲であるが、国際法上の「個別的自衛権」にあたる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が合憲であることは当然にあり得る。


 この論者は「論理的な帰結」というが、まず、論理の設定が誤っているために、その帰結に繋がっていない。


 世界のパワーバランスは、政策論上の話であるため、法学上の正当性とは別である。政策論上の需要に応じて、「集団的自衛権」にあたる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使むを行いたいのであれば、法学上の正当性を有した形で行わなければ、違憲となるのである。


 「ところが自衛隊や集団的自衛権の問題になると、『こうすればうまくいく』との現実を脇に置いて、純粋な法理論だけの観点から、『こんなものは存在してはいけない』と主張する人々がいるのです。」との主張もある。


 しかし、まず、国家の統治権の『権限』は、憲法によって信託されている範囲でしか行使することはできない。なぜならば、そのような国家の行為は、人権を侵害したり、戦争を引き起こして自国民や他国民を犠牲にしたりする危険があるからである。歴史的に、そのような危険を回避するために、「法の支配」「立憲主義」「法治主義」が採用されているわけである。

 この国家の統治権に授権されている『権限』の範囲を超えて、国家の主観的な判断による「こうすればうまくいく」という現実の需要にあわせて勝手な行動をすることが許されるのであれば、それは法治主義を逸脱する違法な行為である。この論者は、この大前提を無視している点で「法の支配」「立憲主義」「法治主義」に対する脅威である。


 このような国家の都合によって、「武力の行使」が行われることを防ぐために9条の制約が憲法によって規定されているのであるから、正当性のある法理論を追求しなければならないことは当然である。これを無視しようとすることは、不正・違法なものである。


 現実の需要に合わせて国家の行使できる『権限』の範囲を変更したいのであれば、「違法でない方法」によって行わなければならない。この点、国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』を設けたいのであれば、「憲法改正」を行う必要がある。


 それをしないで国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の『権限』を付与したり、行使したりすることは、違憲・違法と言わざるを得ないのである。



小川和久

平和安全法制は、国民を守り、国際平和支援で世界に貢献 静岡県立大学グローバル地域センター特任教授/軍事アナリスト 小川和久


 「集団的自衛権についても、日本国憲法、日米安全保障条約、国連憲章との整合性から見て憲法に反しないことがわかります。日本の安全保障の前提をなしているのは最高法規である日本国憲法です。憲法に抵触する条約は結べませんし、国連加盟も認められません。ですから、憲法は日米安保条約と国連憲章のいずれの条文をも否定していません。憲法に違反していないからこそ、国連憲章(第51条)で集団的自衛権を明記している国連に加盟し、集団的自衛権を前提とした日米同盟も維持してきたのです。このことからも集団的自衛権が憲法違反でないことは明確にわかるはずなのですが、日本的な議論に終始してしまい、このような視点で議論が行われなかったことが不思議でなりません。」との記載があるが、二つの誤りが存在する。


 まず、日本国憲法が最高法規であるという認識は正しい。この最高法規である憲法に違反する「条約」は締結できないことも基本的には正しい。そのため、「条約」が憲法に反していることがあらかじめ分かっている場合は基本的に締結することはできない。ただ、もし内閣が締結(73条3項)し、国会が承認(61条)してしまったとしても、憲法に反していることが裁判所の違憲審査(憲法81条)によって明らかになった場合には、無効化されることとなる。砂川判決においても、裁判所は条約についても違憲審査することが可能である旨が述べられている。
 このことから、論者が「日米安全保障条約」や「国連憲章」の中に「集団的自衛権」の概念が含まれていることを理由として、「集団的自衛権」が「憲法違反でないことは明確に分かる」と述べることは、裁判所が「日米安全保障条約」や「国連憲章」についても違憲審査が可能であることを理解すれば、正当化根拠にはならないのである。


 次に、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。この『権利』を行使する際、各国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われこととなる。しかし、日本国の場合は9条の規定が存在しており、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されているのである。この制約の範囲を確定した憲法解釈が1972年(昭和47年)政府見解である。これにより、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」については、日本国は行使できないのであるから、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で行われる「集団的自衛権」としての「武力の行使」については行使できないということである。論者は、『権利』があれば、あたかも国家に『権限』が発生しているかのように論じている点で誤りである。「日本的な議論に終始してしまい、このような視点で議論が行われなかったことが不思議でなりません。」との記載があるが、まさに国家の統治権の『権限』は日本国憲法によって定められている事項であり、国際法上の『権利』を有することとは関係がないのである。これは「日本的な議論」として日本独自の議論をしなければならないところであり、論者が「不思議でなりません。」と感じていることは、国際法上の『権利』と国家の統治権の『権限』の違いを理解していないことによるものである。

 この誤報ともいえる認識を、論者は訂正するのだろうか。


   【参考】小川和久 GoHoo
   【参考】「訂正記事」こそ信頼を生む 今こそ「歴史の記録者」の自覚を 2014年11月21日


 「『間違いを認めたか。ならば信用できる』と思う人のほうが、はるかに多いはずです」との記載があるが、論者はどうなのだろうか。


急変する国際環境に対応 日本の抑止力は格段に増す 静岡県立大学グローバル地域センター特任教授 小川和久


 「政府は国連憲章と日米安保条約が認める集団的自衛権について、1972年には『行使せず』と政策判断した。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、法律論としての判断であり、政策判断ではないからである。
 「国際環境が変わったいま、保有する権利を限定的に行使すると政策判断したわけで、憲法上問題はない。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上の「自衛権」という『権利』を有することは確かであるが、その行使とは「武力の行使」を意味する。これを「限定的に行使」というのは、結局、「限定」と名乗る「武力の行使」でしかないのである。9条はこの「武力の行使」を制約している規範であり、1972年(昭和47年)政府見解という法律論としての規範によって、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことを違憲としているのである。これにより、「政策判断したわけで」との認識はあやまりであり、法律論として違憲となるのであるから、憲法上問題は"ある"のである。論者の認識は、法学上の論点に対する理解不足である。
 また、憲法前文についてであるが、「武力の行使」によらない世界平和を実現することを誇り高く歌っているものであり、「武力の行使」や「戦力の保持」を前提とした世界平和の実現を主張する論者は、前文を読み誤っている。
 「米国の要請は断れない」との議論であるが、それ以前に憲法上「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が違憲となるのであるから、「武力の行使」を可能とする時点で違憲であり、要請の有無にかかわらず、行使することはできないのである。



林彥宏

〇 「権利」を有していても、「権限」がなければ行使できないことを理解していない。

安全保障に関する日本国憲法上の自衛権の限界と今後の展望 林彥宏
安全保障に関する日本国憲法上の自衛権の限界と今後の展望 林彥宏 FC2

林彥宏


  【 1. はじめに】
 「憲法をはじめ自衛隊法・国際平和協力法等、安全保障関連の国内法の解釈に当たっては、『国際法協調の解釈[ii]』が要請されている。」との記載がある。ただ、注意したい点は、日本国は主権国家であり、「国際協調主義」ではあっても「国際法主義」とでもいうものを採用しているわけではないことである。国際法と国内法を一元的に解さなくてはならないとの要請ではないことを予め押さえておく必要がある。


  < 2. 集団的自衛権の行使>

  【2.1. 集団的自衛権の「保有」と「行使」】

 「問題の核心は、集団的自衛権行使の制限が、法的判断のレベルか(憲法解釈説)、それとも政策的判断のレベルか(政策説)という点である。」との記載があるが、特にそのような問題は発生していないため、誤りである。
 まず、「集団的自衛権の行使」とは、実質的には「武力の行使」を意味するものである。この「武力の行使」は、9条が制約しているのである。この9条が制約している「武力の行使」の範囲を確定した憲法解釈が1972年(昭和47年)政府見解である。
 論者は、「集団的自衛権行使」である「武力の行使」の制限が、①法的判断のレベルか(憲法解釈説)、②政策的判断のレベルか(政策説)との問題提起をしているが、9条が「武力の行使」を制約しているのであるから、その制約を確定する作業は「憲法解釈」なのであり、①の法的判断のレベル(憲法解釈説)としか言いようがない。


 「この文章でも、結局、日本国は集団的自衛権を『保有』しており、したがってこれを行使しないのは『政策的に』抑制しているにすぎないとする見解と、その行政は『憲法上』認められないことを強調する立場とを、曖昧なまま混交させているのである。」との記載があるが、特に「あいまいなまま混交させている」ものではないため、論者の認識に誤りがある。なぜならば、まず、「集団的自衛権」とは国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念である。この『権利』を保有していることは、主権国家として当然である。そして、この「集団的自衛権」という『権利』を行使するということは、つまり、国家の行為によって行われる「武力の行使」を意味するのであり、この「武力の行使」を9条によって制約されている日本国の統治権は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「集団的自衛権」としての「武力の行使」については、行使できないとするものである。これは、通常の憲法解釈であるから『憲法上』認められないのであり、『憲法上』認められないということは、日本国の統治権の『権限』として保有しないのである。これは、統治権の『権限』として有していることを前提に『政策的に』制限するとの考え方とは異なるものであり、論者が「『政策的に』抑制しているにすぎないとする見解」と「曖昧なまま混交させている」などという評価には誤解がある。
 そのため、その後「1981年『答弁書[vi]』においても、同様に、この憲法解釈説と政策説が並存している。」との記載があるが、そのような説が併存しているわけではない。

 「筆者は、『憲法解釈説』では集団的自衛権の制限をとらえる根拠には乏しく、やはり『政策説』が妥当と考える。」との記載があるが、誤りである。まず、9条は「武力の行使」を制約する規定であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているわけではない。そのため、論者は「根拠には乏しく」と評価しているが、そもそも9条は「集団的自衛権」という『権利』を制約しているわけではないのであるから、当然といえば当然である。ただ、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を制約する基準は、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解である。この1972年(昭和47年)政府見解が、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を違憲としているのであるから、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるため、当然に違憲となるのである。この「根拠」は明白である。よって、そもそも憲法解釈によって「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行う統治権の『権限』が存在しないため、「『権限』を有するが、行使しない」との考え方が成立しないのであるから、『政策説』なるものは成り立たない。

 「何故ならば、憲法第9条は自衛権については何ら規定しておらず、個別自衛権についてはこれを容認し、集団的自衛権についてはその保有を認めつつ行使を認めないという点について、少なくとも規定上からは何らその根拠を見いだすことはできないからである。内閣法制局もその根拠を全く示していない[vii]。」との記載があるが、やはり誤りである。9条が制約しているのは日本国の統治権の『権限』であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「自衛権」を制約しているわけではない。そもそも国際法と国内法では法体系が違うのであるから、国内法である9条に国際法上の「自衛権」の概念を規定する必要がない。また、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」についても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否が決せられた結果として、その「武力の行使」が国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当するか否かという国際法上の評価が下されるだけである。そのため、たとえ「個別的自衛権」の区分により国際法上違法性が阻却される「武力の行使」であっても、9条に抵触する「武力の行使」は違憲となるのである。さらに、国際法上『権利』を有することと、国内法上『権限』が存在しないために行使できないということは矛盾するものではない。「規定上からは何らその根拠を見出すことはできない」との認識についても、論者がこれらの前提を理解していないために、根拠となっているものを理解できていないことによるものである。
 その後、「やはり『政策的に』これを抑制しているものと考えざるを得ない。」との主張も、誤った認識から導き出された誤った結論である。


 国際法上の『権利』について、「単にその権利を、政策として、放棄ないし停止しているにすぎない。」とし、集団的自衛権が行使できないことについても同様であると考えているようであるが、誤りである。国際法上の『権利』を有していても、9条によって日本国の統治権の『権限』が制約されているため、行使できないのである。『権限』が存在することを前提として、『権利』の行使を政策として抑制していることとは意味が違うのである。

 「第9条には、個別的自衛権はもとより、集団的自衛権についても、これを禁止するという規定はない。」との記載があるが、当然である。9条は「武力の行使」を制約する規定であり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を禁じているわけではないからである。その後の論旨についても、当然、日本湖は条約上も憲法上も「集団的自衛権」という『権利』を放棄しているわけではない。「武力の行使」を原則放棄しているのである。

 「集団的自衛権を保有するか否かが争われているのであれば、それはもとより『憲法解釈』の問題となるが、その権利『保有する』ということが前提として受け入れられているのであれば、それを『行使』するか否かは、あくまでも『政策』レベルの問題として存在しているものと考えるべきであろう。」との記載があるが、誤りである。論者は国際法上の『権利(right)』を有していれば、あたかも国家の統治権の『権限(power)』が発生しているとの前提で話をしているが、『権利』を有していても、『権限』を有しているとは限らないのである。日本国の統治権の『権限』は、国民主権原理によって国民からの「信託」によって発生するものであれが、日本国民は9条によって「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」をしているため、その部分の『権限』は国家の統治権としてもともと発生していないのである。よって、国民からの「信託」のない『権限』については、国家は有していないため、行使できないのである。これにより、権利を『保有する』ならば、『行使』するか否かは『政策』レベルの問題と考えるべきという論者の説は、『権利(right)』と『権限(power)』の違いを理解していない誤った見解である。

 「従来の政策を見直すことに…憲法上の問題はないというべきである[viii]。」との記載であるが、誤りである。まず、従来の憲法解釈を変更する場合、憲法の枠内で行われる解釈であれば、もちろん憲法上の問題はない。しかし、憲法の枠を超えるような結論を導き出すことは、憲法違反となるため違法であり、問題があるというべきものである。2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しているが、この「基本的な論理」の中に「存立危機事態」での「武力の行使」の要件があてはまるとすることは論理的に不可能である。そのため、憲法の枠を超えており、違憲・違法・無効となるのである。


  【 2.1.1. 憲法学説と政府解釈の狭間】
 「日本国憲法自体は、自衛権については、特に触れてない。」との記載であるが、繰り返しになるが、「自衛権」とは国際法上の概念であり、憲法上に書き込む必要がない。触れていなくて当然である。
 また、9条は「自衛権」それ自体を放棄する趣旨ではないため、ここでの(a)説は妥当である。ただ、ここに書かれている「『自衛権』(個別的自衛権)」のように、「個別的自衛権」に限定しているとの根拠は憲法上存在しない。(b)説については、9条は「自衛権」それ自体を放棄しているわけではないため、妥当でない。
 その後の砂川事件判決についてであるが、押さえておきたいのは、砂川判決は日本国も「自衛権」を有していることは認めているが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかについては何も述べていないことである。


 「村瀬信也」の説についてであるが、「村瀬信也」の項目で詳しく記載した。やはり、9条が制約しているのは「自衛権」という国際法上の『権利』ではなく、「武力の行使」を制約していることと、9条解釈によって「武力の行使」が可能か否かを確定したものが1972年(昭和47年)政府見解であることを理解すれば、「日本国は集団的自衛権を行使できない」との結論に根拠が存在することを確認できる。そのため、「村瀬信也」の認識も誤りである。「内閣法制局」もこの論理によって根拠を示しており、「『行使』の禁止は政策上の者に過ぎない」との主張はこの論理を理解できていないことによるものである。

 「大石眞」についても、「大石眞」の項目に記載した。

 「防衛法制専門家から、『我が国は憲法上、集団的自衛権を有するか』という『最も重要、かつ根源的な性格』を持つ問いに対する吟味を内閣法制局はしていない、」との記載もあるが、「集団的自衛権」が国際法上の『権利』の概念であり、9条が日本国の統治権の『権限』を制約していることの違いが理解できているのであれば、特に問題とはならない。「吟味を内閣法制局はしていない」との記載があるが、従来の内閣法制局はしっかりと吟味しているため、単に「防衛法制専門家」が理解できていないだけである。

 「芦部信喜」の「憲法(書籍)」についてであるが、確かに「自衛権」が国際法上の『権利』の概念であり、日本国の統治権の『権限』とは同一視できない点についてここまで詳細に整理していないため、分かりにくいものとなっている。ただ、全体の論旨は誤っていない。

 「山内敏弘」については、憲法に「集団的自衛権」を否認する否定が見当たらないことを「わざわざ規定するまでもないからである」としている点はその通りである。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』の概念だからである。「集団的自衛権の違憲性について十分な説明をしないのは」との記載であるが、「集団的自衛権」そのものは『権利』であって、9条が制約していない限りは合憲違憲の判定対象とならないのであるから当然である。

 「他方、政府解釈は第9条の規範内容や積極的意義への言及を欠いたまま、」との記載があるが、政府は1972年(昭和47年)政府見解にて9条の規範の内容を示しており、「言及を欠い」ているとの指摘は妥当でない。論者の「政府解釈は根拠薄弱である」との認識も、1972年(昭和47年)政府見解を正しく読み取ることができていないだけである。


 出典の[iv]に出てくる「本間剛」についてであるが、「本間剛」の項目で記載した。



本間剛

〇 法学上の論点は少なく、「権利」と「権限」の違いも押さえられていない。


「集団的自衛権に関する現行政府解釈の成立経緯とその影響」 東京大学法学政治学研究科 本間剛 2002年3月


 国会答弁を相当になぞっているが、その中でやり取りされている法学上の論点はほとんど抽出できておらず、法学上の論点としての内容は薄い。


   【はじめに-問題の所在】
 「行使できない権利と言う論理矛盾もさることながら、我が国の安保政策の根幹である日米安全保障条約はそもそも集団的自衛権の行使として締結されていると考えるのが常識であろう。」との記載があるが、誤りである。国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を有していることと、国民主権によって正当化される憲法上の統治権の『権限』が制約されることは何ら矛盾しないからである。また、日米安全保障条約5条では、「各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」と記載があるように、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」行われる性質上、集団的自衛権の行使にあたる日本国の統治権による「武力の行使」が制約されていることはなんら矛盾することではなく、「常識であろう」との結論には至らない。


   【(ウ)サンフランシスコ講和条約審議 時代背景】
 国際法上の『権利』を有していることをないが内外に宣言したとしても、憲法によって発せられる国家の統治権の『権限』において、その『権利』の区分の「武力の行使」が行えるかどうかは別問題である。


   【集団的自衛権を一般的に禁止するに至った経緯】
 「しかし憲法に反するものを条約で確認してきた経緯と、『行使できない権利』という矛盾は問題として残ることになった。」との記載があるが、やはり条約は憲法に反しておらず、『権利』を有していても『権限』として行使できないことは矛盾していない。

 その他、すべて読んでも法学上の論点は薄い。その上に『権利』と『権限』の違いが押さえられていないことから、内容の信頼性も薄い。


【書評】『ほんとうの憲法 戦後日本憲法学批判』篠田英朗著(ちくま新書、2017年)  評者:本間剛(東京大学大学院法学政治学研究科博士課程)


 「憲法と国際法の関係を整理する中で、自衛権を憲法問題として『横取り』したと指摘する。」との書評もあるが、この書籍の間違いと思われる。「自衛権」は国際法上の概念であり、「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』の区分である。これは、憲法上の統治権の『権限』の範囲を確定する9条解釈とは直接関係なく、憲法学者は「自衛権」を横取りしたわけではなく、憲法上の統治権の『権限』の範囲について述べているだけである。


 「本書は憲法に対する誤解を正し、」との書評もあるが、この書籍も書評の論者も同時に同様の点で誤った認識を有しているため、憲法に対する誤解を正すのではなく、誤解を抱き続けていると思われる。



杉山幸一


〇 「国際法上の用語」と「国内法上の用語」が整理されていないため、混乱が見られる。


日本における集団的自衛権について─ 国家の危機管理としての自衛権 ─  杉山幸一 八戸学院学術情報リポジトリ

日本における集団的自衛権について─ 国家の危機管理としての自衛権 ─  杉山幸一 PDF


 いつも同じ論点であるが、まず、国際法上の「集団的自衛権」と言っているものは『権利』の概念である。この『権利』を行使する形で日本国の統治機関が統治権の『権力・権限・権能』を行使して行う行動は「武力の行使」である。国民主権原理の過程を経ることによって成立した日本国の統治機関の有する統治権は、立法府がつくった法律に従って、行政府が「武力の行使」を行うこととなる。この日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条の下で許されるか否かと、「武力の行使」を行った場合に国際法上の「自衛権」という『権利』の区分に該当して違法性が阻却されるか否かは別問題である。


◇ 国際法上の用語:「自衛権」 ← 国際法上の『権利』の意味。
◇ 国内法上の用語:「武力の行使」 ← 物理的な実力行使を指す。国家の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為(平成14年2月5日)」


 憲法9条は日本国民が日本国の統治機関に統治権の『権限』として授権(信託)しない部分を示し、「武力の行使」等を制約したものであり、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の概念を直接的に否定しているものではない。


 日本国が「集団的自衛権を行使できるかどうか」という問題は、国際法上では「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているため、国際法上は行使することが可能である。

 しかし、「集団的自衛権の行使」を行うことは、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使するということであるから、実質的に「武力の行使」を伴うこととなる。憲法9条は日本国の統治機関が有する統治権の『権限』を制約しており、この9条の制約範囲によっては「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない場合があり得ることとなる。

 この点、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を国際法上において主張することができるか否かと、憲法9条の下で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」行使できるか否かの問題を切り分ける必要がある。


 論者は、あたかも国際法上の『権利』であるはずの「集団的自衛権」というものを、日本国の統治機関が物理的な実力として行使しているかのような認識で論じていると思われる。そのため、まず、法の正当性を論じるにあたって、論点がズレている。

 この違いは刑法で説明するとよく分かる。


【刑法】
人を殴った。 ⇒ しかし、刑法上「正当防衛」が認定され、違法性が阻却された。

(人を殴った時点で、暴行罪の構成要件には該当するが、違法性が阻却されたのである。)


【国際法】
「武力の行使」をした。 ⇒ しかし、国際法上「個別的(集団的)自衛権」が認定され、違法性が阻却された。

(『武力の行使』をした時点で、国連憲章2条4項の『武力不行使の原則』に抵触して違法となるが、51条の『自衛権』の適用を受けて違法性が阻却されたのである。)


 9条が制約しているのは「自衛権」という『権利』の概念ではない。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」である。この対応関係に準じて論じると、刑法の「正当防衛」で違法性が阻却されるかどうかという部分を制約しているのではなく、『人を殴る』ことそのものを制約しているのである。


 この点、9条が「集団的自衛権」という『権利』を制約しているかどうかを論じようとする論じ方が、そもそも誤りである。これによって、正確な論点を示すことができておらず、論旨が不明確となり、結論を正しく導くような道筋がつくられていない。



「憲法秩序の保障」 杉山幸一 2022-09-15


 国際法上の「自衛権」と、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を区別できていない部分があり、誤っている。

 憲法上で問題となるのは「武力の行使」が9条に抵触するか否かであり、国際法上の『権利』としての「集団的自衛権」とは直接的な関係はない。

 国際法上の評価でいう「集団的自衛権の行使」が行われた場合には、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」の違法性阻却事由が行使されたことを意味することから、実質的に「武力の行使」が行われていることになる。

 そのため、「集団的自衛権の行使」が行われているのであれば、「武力の行使」が行われていることになる。

 憲法9条に抵触するかどうかは、この「武力の行使」に対する制約であって、「集団的自衛権」かどうかではない。

 この点の整理がされておらず、混乱が見られる。

 その他、当サイトで他の論者に対して指摘しているものと同様の論点で誤っている。



渡邊亙

〇 「憲法」と「国際法」の法分野の切り分けを理解できず、国家の統治権の根拠さえも見失っている。


憲法適合性の概念と集団的自衛権 比較法的検討を交えて 渡邊亙 名城大学 PDF

(66-1・2-415)

 □「集団的自衛権をめぐる議論の論点は、 ある憲法規定との積極的な抵触はないものの、 同時に根拠も見出すことができない国家活動が憲法上、 認められるのか否か、 その根拠は何かというところに存在するのである。」との説明があるが、問題の設定が誤っている。

 まず、「集団的自衛権」とは国際法上の法主体である国家に与えられる違法性阻却事由の『権利』の概念である。日本国も国際法上で国家承認を得て国家としての地位を認められている以上は、この『権利』の適用を受ける地位を有している。9条はこの『権利』そのものを否定する趣旨の規定ではない。その意味で、「集団的自衛権」という『権利』そのものが「ある憲法規定との積極的な抵触はない」との部分は正しい。

 しかし、「同時に根拠も見出すことができない国家活動が憲法上、 認められるのか否か、 その根拠は何か」という部分であるが、「集団的自衛権」を行使することは、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味することから、通常、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている。

 憲法9条は、この日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定である。

 9条は、「自国民の利益」を実現することや、「自国の存立」や「国民の権利」の危機などを理由として政府(国権)が自国都合の「戦争」や「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定である。

 そのことから、9条の下で「武力の行使」を行うことができるとする場合を見出す解釈を採用するとしても、その「武力の行使」の発動要件には政府の恣意性に歯止めをかけることのできる基準を設定することによって、9条の規範性を維持することが求められる。

 そこで引かれた線が、1972年(昭和47年)政府見解である。この見解は、上記の点が押さえられた妥当性の高い安定した解釈である。

 この1972年(昭和47年)政府見解の示した基準を満たす形での「武力の行使」であれば、「根拠」を「見出す」ことができる「国家活動」としての「武力の行使」として合憲のものとして「認められる」のであり、これを満たさない「武力の行使」であれば、「根拠」を「見出すことができない国家活動」として違憲のものとして認められないのである。

 この日本国の統治権の『権限』によって行使された「武力の行使」が、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する同51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の違法性阻却事由に該当するかどうかは、これとは別の問題である。

 この論文は、あたかも国連憲章上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているのであれば、日本国が統治権の中に「武力の行使」を行うための『権限』が発生するかのような前提で論じているが、誤った認識である。

(66-1・2-416)

 論者は政府答弁の「憲法第9条の下において許容されている自衛権の行使は、 我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、 集団的自衛権を行使することは、 その範囲を超えるものであつて、 憲法上許されないと考えている」との意味を読み間違えている。

 「9条の下において許容される自衛権の行使」の「自衛権の行使」とは、一般に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態のことを指す。これは、41条の立法権によってつくられた法律の根拠従う形で行われる、65条の行政権に基づく「武力の行使」である。この「武力の行使」が「我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものである」と解されているわけである。この「我が国を防衛するため必要最小限度」は、三要件(旧)を意味している。

 「集団的自衛権」というものは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を示す概念である。国際法上の「集団的自衛権の行使」という表現を国内法上の用語に置き換えたならば、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態である。この政府答弁は、その「武力の行使」が「その範囲を超える」という説明となっているのである。

 よって、日本国が「集団的自衛権」という名前の統治権の『権限』を有しているかのように語る論理は、違法性阻却事由としての国際法上の『権利』を、国家の統治権の『権限』の一部と考えてしまっている点で誤った認識である。

 そのため、「本稿の用語でいえば、 集団的自衛権の行使は、 憲法の優位に反するものではなく、 その違憲性は、 憲法の根拠がない点に求められているということができよう。 」という結論は、この前提を理解できていないことによる誤りである。

 「武力の行使」を行う際の憲法上の根拠は、41条の立法権によってつくられた法律と、その法律に従った65条の行政権である。「武力の行使」を行うための根拠は存在しているが、その「武力の行使」の範囲を制約しているのが9条の規定なのである。

 国際法上の「集団的自衛権」という『権利』は、国家の統治権の『権限』に基づいて行われた「武力の行使」が国際法において違法性が阻却されるかどうかにかかる問題でしかなく、憲法上に根拠を求めようとする発想自体が成り立たない認識である。

(66-1・2-417)

 「この説明によれば、 政府が『自衛の措置』 の根拠を国家の保護義務に求めていることは明らかであろう。」との説明がある。

 確かに、13条は「国民の権利」を保障することを国に義務付けている点で、論者の「国家の保護義務」とでもいう目的は定められている。ただ、「自衛の措置」として行われるものは「武力の行使」であり、41条の「立法権」によってつくられた法律の根拠に基づく形で行われる、65条の「行政権」による活動である。

 この13条のいう『目的』を達成するとしても、憲法上の他の規定に抵触しない『手段』を採用して行わなければならない。この点、41条の「立法権」や65条の「行政権」を9条が同時に制約しているのであり、この9条に抵触しない範囲で「国家の保護義務」とでもいう活動を行わなければならない。

(66-1・2- 417)

 「ここで確認したいのは、 国家の保護義務が及ぶ範囲では、 そもそも憲法に根拠のない自衛権のうち個別的自衛権が認められるが、 集団的自衛権にはこの理が及ばないというのが政府見解の骨子である、 という点である。」との記載がある。

 まず「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、「憲法に根拠のない」ことは当然である。

 「個別的自衛権が認められるが、 集団的自衛権にはこの理が及ばない」の部分であるが、日本国も国家承認を受けて国際法上の法主体である国家として認められており、国連にも加盟していることから、国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方の適用を受ける地位を有している。

 しかし、日本国憲法9条は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であるとしている。「集団的自衛権の行使」がこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、結論として憲法上「集団的自衛権の行使」は認められないとしているのである。

 論者は「個別的自衛権が認められるが、 集団的自衛権にはこの理が及ばない」としているが、憲法上は国際法上の概念である「個別的自衛権」であるか「集団的自衛権」であるかによって「武力の行使」の可否を決しているわけではないし、たとえ「個別的自衛権の行使」として国際法上の違法性阻却事由を得られる形での「武力の行使」であっても、憲法9条に抵触して違憲となる「武力の行使」の形もあり得る点で、政府見解を正確に理解したものではない。


 「その事理が、集団的自衛権の行使が自衛のための『必要最少限度』の実力の行使に当たらないためと表現されていることも、 上記の説明から明らかであろう。」との記載があるが、誤った理解である。

 1972年(昭和47年)政府見解の「その措置は右の事態を排除するためにとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。 」の部分は、「自衛の措置」の程度・態様を示す意味であり、「武力の行使」の三要件で言えば、第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。

 論者は「自衛のための」を付け加えて「自衛のための『必要最少限度』」としているが、政府が「自衛のための必要最小限度」という文言を用いる場合は、三要件(旧)をすべて満たす範囲のことを指しており、三要件の第三要件を指すものとは異なる。

 そして、政府が「集団的自衛権の行使」が「自衛のための必要最小限度」の「実力の行使」に「当たらない」と表現する場合とは、この「集団的自衛権の行使」が三要件(旧)を満たさない場合の「武力の行使」となること意味しており、論者が1972年(昭和47年)政府見解から抜き出す「必要最少限度」の文言は、「自衛の措置」の程度・態様を意味しており、この両者は異なるものである。

 論者は「上記の説明から明らかであろう。」としているが、論者の説明は誤った内容であり、「明らか」とは言えない。

 

(66-1・2- 419)

 「さて、 このように見てくると、 今回の法改正は一律に集団的自衛権の行使を解禁するものではないが、 かといって、 ①の後段 (下線部) に示されているように従来の個別的自衛権の枠内にも収まらないという意味で、 かなり独特な性質をもったものであることが分かる。 」との記載があるが、誤った前提認識がある。

 まず、「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の『権利』を行使することを意味するのであり、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかない。そのため、「一律に集団的自衛権の行使を解禁するものではないが、 」などと、「集団的自衛権」の区分に該当する形で「武力の行使」を行うにもかかわらず、「集団的自衛権の行使」でないかのような、あるいは「集団的自衛権」の一部分であるかのような議論は成り立たない。国家が「武力の行使」を行い、それが「集団的自衛権」の区分に該当するのであれば、「集団的自衛権」でしかないのである。

 「かなり独特な性質をもったものである」との部分であるが、単に国際法上は「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であり、国内法上は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」(違憲である)であるというだけであり、「独特な性質」などというものではない。そのように見えてしまっている背景には、国際法と国内法の法体系を切り分けて考えることができていない混乱によるものである。

(66-1・2-428)

 □「すなわち、 憲法適合性の概念は、 憲法規定との抵触を禁じる『憲法の優位』と憲法規定の根拠を要求する『憲法の留保』の原則から構成されるが、 集団的自衛権の行使の合憲性は、 後者の原則とのかかわりで問題とされるべきものである。 」との記載があるが、意味を整理する。

 まず、論者のいう「憲法の優位」とは、国際法の条約や国内法の法律に対して憲法の効力が優位にあることを意味していると思われるが、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』の範囲が変化することはなく、ここに矛盾・抵触は存在しないため、「憲法の優位」が登場することはない。

 次に、論者の言う「憲法の留保」であるが、憲法上の根拠規定の有無を示したものと考えられる。これについては、国際法上で言う「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴う措置であり、憲法9条が日本国の統治権の『権限』によるこの「武力の行使」を制約しているこを理解すれば、「集団的自衛権の行使」の可否が憲法上の根拠を有しない場合があり得る。

 憲法と「集団的自衛権の行使」の「かかわり」であるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中での「武力の行使」であるから、違憲となる。つまり、憲法上に根拠を有していないということである。


 「近代的立憲主義の観点からは、 憲法上の根拠をもたない国家活動は、 国民の自由を侵害する場合には違憲となるが、 国民の生命や財産を保護する場合には、 国家の存在理由から導かれる保護義務の発動として合憲とみる余地がある。」との記載がある。

 まず、「憲法上の根拠を持たない国家活動」という感覚がそもそも誤りである。

 国家の活動は、その国の憲法によって正当化される統治権によるものである。いずれの国家の活動も統治権によるものである。日本国の場合は、三権分立を採用しているため、「立法権(41条)」、「行政権(65条)」、「司法権76条1項)」のいずれかに属する。

 「国民の自由を侵害する場合には違憲となるが」の部分であるが、もちろん憲法上で定められた国民の人権を侵害すれば違憲となる。 ただ、その国家活動も、統治権(立法権・行政権・司法権)によるものである。

  国際法上の評価でいう「自衛権の行使」を行うとしても、それは国内法上は「立法権(41条)」よってつくらた法律に従う形で、「行政権(65条)」による「武力の行使」を行うことを意味する。

 国家の活動であれば、このいずれかの統治権に属する行動なのであり、これに属しない活動は私人(自然人や会社などの法人)による活動であり、「国家活動」ではない。

 ただ、その統治権を行使するとしても、憲法上で禁じられているために「憲法上の根拠を持たない国家活動」となるものは存在する。

 これは、論者の言うように漠然と「国民の自由を侵害する場合」か「国民の生命や財産を保護する場合」かによって決せられているわけではなく、憲法上で禁じられているか否か(立法裁量の限界を逸脱するか否か)によって決せられている。憲法上の明文の規定に反するか否かや、人権規定に属する問題であれば、「公共の福祉」によって正当化できるか否かによって決せられることとなる。

 国家の統治権の『権限』の根拠と、国家の活動が人権規定に抵触して違憲となることは別の議論である。この論者は、近代憲法の2つの構成要素である「権利章典」と「統治機構」の関係を理解できていないと思われる。
 「国民の生命や財産を保護する場合には、国家の存在理由から導かれる保護義務の発動として合憲と見る余地がある。」とあるが、この考え方も誤りである。

 まず、国家の統治権の『権力・権限・権能』は国民からの「厳粛な信託(前文第一段)」によって正当化される。日本国の場合は、「立法権(41条)」、「行政権(65条)」、「司法権(76条1項)」の三権で構成されている。

 この統治権の『権力・権限・権能』による活動は、「人権規定」や「統治規定」に抵触しないのであれば、基本的にすべて合憲である。「国民…を保護する場合は、…合憲と見る余地がある。」などというものではない。

 ただ、注意したいのは、9条で日本国民が「放棄」し、「不保持」とし、「否認」した部分については、もともと統治権として発生していないことである。この国家の統治権としてもともと発生していない部分と、国民から信託を受けて国家の統治権として『権力・権限・権能』が発生しているかどうかを決しているのが、1972年(昭和47年)政府見解である。

 ここに、あたかも国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠に、国家の統治権の中にこれを行使するための『権力・権限・権能』が発生するかのような誤った話や、「国民…を保護する場合は、…合憲と見る余地がある。」などという話を持ち出すことは、意味が通じないのである。


 □「今回の法改正は、 やや趣旨が不明な部分もあるが、 政府見解によれば、 国家の保護義務を履行するために集団的自衛権を認めたという独特な性質をもっているといえる。」との記載があるが、論者の言う「国家の保護義務」という『目的』ものを履行するとしても、その『手段』は憲法に抵触しない範囲で行わなければならない。9条は国家の統治権の『権限』を制約する規定であり、その『手段』を統制している。

 論者のように「国家の保護義務を履行するため」という『目的』のみを根拠として憲法上の制約を無視することができるのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行ったとしても、「国家の保護義務を履行するため」として正当化できてしまうのであり、法解釈として成り立たない。

 よって、「集団的自衛権を認めたという独特な性質をもっている」などという結論を導き出すことはできず、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことは違憲であり、認めることはできない。

 

(66-1・2- 429)

 □「本稿で示した国家の保護義務という観点からは、 この結論は日本国憲法、 とくに9条の下でも、 その範囲を異にするにせよ認められる余地があろう。」との記載があるが、誤りである。

 論者の言う「国家の保護義務」という『目的』を達成するとしても、その『手段』は憲法に抵触しない形で行わなければならない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「集団的自衛権の行使」はこれを満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条に抵触して違憲である。



平山朝治

〇 「権利(right)」と「権力(power)」の意味を混同している。
 
集団的自衛権を巡る憲法論争の再検討(ver. C1) ─内閣法制局ファシズムの終焉─ 筑波大学人文社会系  平山朝治 2015年9月10日 PDF


 この論文は、国際法上の『権利(right)』である「集団的自衛権(right of collective self-defense)」と、憲法上の統治権の『権限・権力・権能(power)』の「権」の意味を混同しているため、最初から意味が通じない。

 憲法学者「木村草太」の説を批判しているようであるが、この『権利(right)』と『権力(power)』の違いが分からないまま話が進んでいるため、まったく論点が掴めていない。そのまま批判を続けることは、論者の混乱を晒すことにしかならい。

 P7に「憲法第97条第2項」という文字が出てくるが、日本国憲法97条に2項は存在せず、誤りである。98条2項のことを言いたいのだろうか。

 その後、「第91条第2項」との記載もあるが、91条にも2項は存在しない。

 この論者は、「誰が何を言ったか、どういう態度をとったか」という部分ばかりに気をとられ、その内側でどのような法論理の考え方が交わされているのかを十分に掴むことができていない。そのため、あたかも法論理の正確さではなく、対象となっている人物の独断であるかのような印象に捉われ、そのまま自説の正当性の主張へと持ち込もうとしている。
 しかし、法学は人物ではなく、法の理論によって正当化が行われるものである。そこを正確に見ないままに、結論として法論理の正当性を問う姿勢は、法を十分に理解することができていないことによるものである。



日本国憲法と集団的自衛権に関するメモ 平山朝治 筑波大学リポジトリ 2015 


 ④について、論者は「必要最小限度」の意味が異なる次元で利用されていることを理解していない。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━   ←  旧三要件の全てを指す意味
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ←  「武力の行使」の程度・態様の意味
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 ⑤について、「④を踏襲」とあるが、ここで使われている「自衛のための必要最小限度」とは、「武力の行使の旧三要件(自衛権行使の三要件)」の第一要件を含むもののことである。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないために「自衛のための必要最小限度」を超えるとの判断が導かれているのである。

 「⑥が⑤と違うのは、現在の安全保障環境への考慮だけに由来し、憲法解釈そのものはそれ以前と一貫していると読める。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定には、解釈手続きに不正が存在し、「適正手続きの保障」の観点から違法である。そのため、「憲法解釈そのものはそれ以前と一貫していると読める。」との認識は、論理的整合性の不備を理解していないものであり、妥当な認識とは言えない。その後の主張も、「必要最小限度」の意味を理解していないものと思われる。

 「⑥に対する批判には、直前の政府解釈を絶対化し(あるいはbetterとし)、新解釈は違憲とする(より穏健には、解釈改憲は不適当とする)ものが多い。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定においても、1972年(昭和47年)政府見解は維持していると説明しているのである。直近の政府解釈は、2014年7月1日閣議決定そのものが採用しているのであるから、これを「絶対化」「better」としているのは2014年7月1日閣議決定である。

 「政府解釈変更違憲論は、直前の政府解釈と憲法そのものとを混同している。」との記載があるが、論者は2014年7月1日閣議決定を読み直すべきである。

 「その欠点から免れるべく、自衛目的に固有の制約を求めて、個別的自衛権に限定しようという着想が出てきたのではなかろうか。」との記載があるが、誤りである。9条は日本国の統治権の『権限』に対する制約であり、「個別的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の区分を基にして制約基準が導き出されるわけではないからである。



鈴木英輔
 

〇 「集団的自衛権」という名前の国家の統治権は存在していないことを理解していない。


集団的自衛権の行使は合憲である---マニラから安倍首相と高村副総裁への後方支援 2015-06-17
集団的自衛権の行使は合憲である 鈴木英輔


 「日本国憲法第9条条を何回読み返しても、『自衛権』という言葉は見つからないのです。それどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、『自衛権』という言葉に言及しているものは何ら存在しないのです。」との記載があるが、当然である。「自衛権」は国際法上の概念であり、憲法とは法分野が違うからである。

 付け加えると、「自衛権」とは、「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての『権利』である。この『権利』の行使にあたる国家の行為とは、憲法上は統治権(立法権・行政権・司法権)によって行使される「武力の行使」である。

 「どうして『自衛権はあるけど、自衛のための武力行使は違憲である』といわれていたのが、どうして実力部隊を設けることが違憲ではないことになったのでしょうか。」との記載があるが、「自衛権」という国際法上の『権利』と、「武力の行使」という憲法上の統治権か発せられる『権限』とは、別のものである。実力部隊の設置に関しても、統治権によるものであり、相変わらず「自衛権」とは直接関係はない。


 「前提が誤っておれば、必然的にその結論は間違っているのです。」という記載があるが、まさにこの論者自身のことである。

 まず、国連憲章で明記されていても、国連憲章は条約の一つであり、憲法優位説によって違憲審査が可能である。よって、国連憲章の中に憲法に違反している条項が確認された場合には、日本国内での効力は憲法によって否定されてるのである。

 また、「集団的自衛権」についても、国連憲章2条4項の武力行使原則禁止に対する違法性阻却事由としての権利であり、日本国がこの権利を有していることは当然であるが、憲法によって定義づけられる日本国の統治権がこの区分に該当する「武力の行使」を行うことができるかは別の議論である。なぜならば、国家の権限は国民主権原理によって裏付けられるものであり、9条によって国民からの信託がなされておらず、否定されている権限は統治権として行使できないからである。

 「集団的自衛権」を国家の統治権の一部と考えている点や、国連憲章を締結することで国家の統治権に権限が付与されると考えている点で誤りである。

 その前提が誤っておれば、必然的にその後の主張も意味が通らず、結論は間違っている。

 刑法上の違法性阻却事由を持ち出している点についても、その「他人の権利を防衛するため、やむを得ずした行為」をするかどうかは、その人の肉体的な行動によるものである。刑法上の『権利』と、人の『行為』は違うのである。

 これを国際法上の違法性阻却事由として説明すると、「他国を防衛するための武力の行使」をするかどうかは、日本国の憲法上の統治権によるものである。この統治権が9条によって制約されているため、その「武力の行使」ができないというだけである。国際法上の『権利』と、国家の『権限』は違うのである。

 


〇 前提認識が誤っていることにより、正当な解釈が敵視されている。前提認識の誤りに気づけば、敵視している政府解釈が実は妥当なものであることが理解できるだろう。


内閣法制局の「集団的自衛権」に関する解釈を超えて : 日米安全保障体制の再検討へ 鈴木英輔 関西学院大学リポジトリ


 P34に「日本国憲法第9条には、『自衛権』への言及はどこにもないどころか、憲法のいかなる条文をいくら精査しても、『自衛権』という言葉は存在しないのです。」との記載があるが、「自衛権」が国際法上の概念である以上、日本国憲法に規定がなくて当然である。「自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の区分に該当する国家の権限は、日本国の場合は41条の立法権によってつくられた法律に従って行う、65条の行政権による自衛の措置(武力の行使)である。


 P31で、「フランシスコ講和条約第5条」で日本国に「連合憲章第51条に掲げる個別的又は集団的自衛の固有の権利」が認められたとしても、相変わらずこれは国際法上の『権利』であって、国家の統治権に権限を付与する意味を持っていない。もし条約の中に国家の統治権に対して新たな権限を付与する意味が含まれていたとしても、条約優位説を採用しなければ、憲法上の制約を乗り越えることはできない。日本国の裁判所は、砂川判決にて条約についても司法審査できる旨を述べており、憲法優位説を採用している。これらの二重の意味で誤っている。

 「国際法上の『自衛権』を日本が主権国家として保持することを講和条約の締結によって確認された」ことは確かであるが、『権利』が確認されても、国家の統治権の『権限』が設けられる意味を持っていないのである。


 P35で、「そして、その適正な自衛権行使の条件は『必要性』と『均衡性』原則を満たすことにより憲章第2条第4項で本来禁止されている『武力の行使』を執ったとしても、その違法性が阻却されるわけです。」との内容は正しい。

 それに続いて、「それと同じ論理が憲法第9条の解釈にも適用されているわけです。」との記述があるが、誤りである。なぜならば、9条は憲法規定であり、国際法とは法源が異なるからである。憲法は主権(最高決定権)を持つ国民による国民主権原理によってその正当性が裏付けられて成立しており、その国民主権原理によって信託を受けた統治機関に主権(統治権)が発生し、その統治権に付随して主権(最高独立性)が発生するのである。そのため、憲法秩序には、国家の主権(最高独立性)が存在することから、他国からの干渉や、国際法の基準によって、自国の憲法解釈が歪められることはあってはならないことである。もし、他国からの干渉や、国際法の基準に従って憲法解釈を決せなければならないのであれば、国家の独立性を損なうこととなるからである。

 この点、9条の規定が不戦条約や国連憲章2条4項に類似していたとしても、それを国際法の「必要性・均衡性」などの基準にあてはめることが当然との解釈は成り立たない。


 論者もP36で「ましてや国際社会には、『世界統一政府』などという中央集権的統治機構も、国際法違反国に対して第三者的な客観的判断を下す公権力と強制力を備えた超国家的国際組織も存在していないのです。」と認めている通り、国際法は国家の統治機関同士によって締結された条約であり、たとえ国連憲章による国際機関であっても、国民主権原理という正当性の基盤に裏付けられた機関ではないのである。

 そのため、国家の独立性が保たれることが大切であり、日本国の統治権の行使についても、自国の憲法解釈の基準に従って判断するべきものである。そのため、国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」にあたる国家行為としての「武力の行使」の発動が可能な部分は、国際法の基準ではなく、日本独自の憲法解釈で行うのである。


 P39で、「換言すれば、『戦争』も『武力による威嚇又は武力の行使』も、いづれも主権の行使という意味での『国権の発動』によるものであって、いずれも誰が攻撃を始めたかという問題を別にすれば、結果的には『国際紛争を解決する手段』であることは否定できないのです。にも拘らず、自衛権の発動を認めるということは、違法性を阻却する事由を満たしていると見なされるからです。その判断こそ、自衛権の行使の合法性は国際法に基づいて解決されるべきものであるからです。」との記載がいるが、多重に認識のズレがある。


 まず、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」の文言は、侵略戦争や侵略的な武力の行使を禁ずるものであると解釈されることが多い。政府解釈もその趣旨であると思われる。「にも拘わらず、自衛権の発動を認めるということは」とあるが、国際法上の「自衛権」の区分にあたる国家行為は、「自衛の措置(武力の行使)」である。「違法性を阻却する事由を満たしているとみなされているからです。」とあるが、国際法上の違法性が阻却される区分と、憲法上の9条に抵触しない国家の統治権の部分とは、別である。「その判断こそ、自衛権の行使の合法性は国際法に基づいて解決されるべものであるから」とあるが、誤りである。まず、統治権の行使については、憲法上の9条の制約がある。次に、国際法(国連憲章2条4項)の制約を超えるためには、51条の違法性阻却事由を確認する必要がある。これは、異なった法分野であるため、二重の制約がかかっているのである。他国の場合は、憲法上に9条のような規定を持っていないため、国連加盟国であれば、国際法上の制約しか存在していないため、一重の制約である。この点、日本国は他国と異なっていることを理解する必要がある。


 P40で、「国際法上の自衛権に基づく『武力による威嚇又は武力の行使』が違法性阻却事由を満たすことで容認されていることは明らかです。」とあるが、当然、日本国は国連憲章51条の「自衛権」を行使する『権利』を有している。しかし、9条の下でも、この『権利』を有していることは間違いないが、9条の下で、国際法上の「自衛権」にあたる国家の統治権としての「自衛の措置(武力の行使)」が発動できるかどうかは、別の議論である。


 P41で、「ここに政府統一見解の最初の欺瞞があります。『行使できない』というと、集団的自衛権を保持しているが、自らの意思でその権利を使わないことを決定したという響きがあります。」との記載がある。これは、あたかも間違った解釈のように論じようとしているが、その通り正しい説明について述べたものである。「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を保有しているが、その区分の「武力の行使」を国家の統治権として『行使できない』のである。まったく正しい説明であるが、論者の認識に誤りがあるため、論じようとしている方向性が誤っている。


 P43で、「政府の『集団的自衛権』の定義が混乱しているのは、この『自国対外国』の二元論では『個』が『全体』の『一部』であり『一部』の利益が『全体』の利益を構成しており、その逆も同じであるということが認識されていないからです。」との説明があるが、この論者の「集団的自衛権」に対する認識が誤っているために、政府の定義が混乱しているかのように感じているだけである。まず、国家の統治権の制約を国際法上の違法性阻却事由としての権利で説明しようとている点が誤りである。そのため、「個」が「全体」などという議論が発生する余地はない。統治権に対する制約は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」であり、その中にあれば合憲、それを越えれば違憲である。この中で行使された「武力の行使」が、国際法上「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当し、国際法上の違法性が阻却されるかどうかは、国際司法裁判所で判断される別の問題である。よって、その後の主張も意味が通じていない。


 P46に、「日本が集団的自衛権を『保持している』ということは、自己同一認識を拡大した『集団的自己』を認識し持つことに他ならないのです。」とあるが、一向に集団的自衛権とは、国際法上の『権利』であって、自国の憲法によって発せられる統治権に『権限』を付与する意味を持たない。そのため、「自己同一認識の拡大」などという認識区分の議論が沸き出てくると考えている思考自体が、誤った認識から広がる独自の世界観である。そのため、「内閣法制局の解釈の最大の矛盾が存在している」との指摘は当たらず、論者の前提認識の誤りが最大の問題である。


 その後、「そしてその拡大された自己を防衛する権利こそが集団的自衛権なのです。」とあるが、国際法上の『権利』を、国家に対して『権限』を付与すると読み誤り、さらに砂川判決でも示された「憲法優位説」を「条約優位説」に変更しない限りは、この論旨は採用できない。


空回りする論争を終らせるために 鈴木英輔 2013年11月29日


 日本国が国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることと、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については論点が異なることを理解していないため誤りてある。

 政府統一見解の「集団的自衛権」の定義を出した後に、「この定義では、主権国家として日本も集団的自衛権を保持しているように見せかけていますが、実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法は集団的自衛権の存在を認めていないのです。」との記載があるが、日本国も主権国家として国際法上「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであり、定義は誤っていない。「実際は内閣法制局の解釈によると、日本の憲法は集団的自衛権の存在を認めていないのです。」との記載について、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない限りは発動できないことにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」ができないというだけである。『権利』を行使することそれ自体は国際法上では可能でも、憲法上で「武力の行使」が制約されているのである。論者は「集団的自衛権」というものが日本国の統治権の『権限』であると考えている点や、国際法上で正当化されれば各国の統治権の『権限』が発生すると考えている点に誤りがある。『権』の意味の背景が区別できていないのである。
 この文のタイトルは「空回りする論争を終らせるために」であるが、空回りしているのは論者である。




日米安全保障条約
 

〇 下記のサイトは、論拠に看過できない誤りがある。


平和安全法制は、国民を守り、国際平和支援で世界に貢献 小川和久 2016年3月18日

 憲法に抵触する条約を結ぶことができないことはその通りである。しかし、憲法が日米安保条約と国連憲章のいずれの条文も否定していないことを根拠として、日本国が国際法上の集団的自衛権にあたる国家の権限としての「武力の行使」等を行うことができるかどうかは、別の議論である。

 まず、たとえ日米安保条約や国連憲章であっても、憲法に反する事実が発見されたならば、その条約は違憲となる。

 また、日米安保条約は、5条で「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」とされている通り、「自国の憲法上の規定及び手続に従」うことが前提であるから、この条約は日本国が集団的自衛権にあたる国家の権限を発動させることを前提として批准されているとの指摘は誤りである。

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第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 外務省


日米安全保障条約(主要規定の解説) PDF (これは3条について)

 (日米安全保障条約(主要規定の解説)

日米安全保障条約(主要規定の解説)  外務省 (3条の解説を確認)

2014/1/6 〔過去のページ:日米安全保障条約(主要規定の解説)  外務省〕
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第3条
(略)
 ただし、我が国の場合には、「相互援助」といっても、集団的自衛権の行使を禁じている憲法の範囲内のものに限られることを明確にするために、「憲法上の規定に従うことを条件」としている。
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  ↓  ↓  ↓ (2014年7月1日閣議決定に伴い変更されている) ↓  ↓  ↓
2014/7/26
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第3条
(略)
 ただし、我が国の場合には、「相互援助」といっても、憲法の範囲内のものに限られることを明確にするために、「憲法上の規定に従うことを条件」としている。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 さらに、国連憲章51条は、「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」とされており、国家に権限を付与する意味ではなく、違法性阻却事由である。加えて、「固有の権利」とは、各国の憲法によって発生する統治権の権限を意味していることから、その統治権の範囲を9条で制約されている日本国は、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を前提としているとの指摘は誤りである。



〇 この論文も、法学上の論点が非常にぼやけたものとなっており、内容の解像度が低い。


憲法第九条と集団的自衛権 會津明郎 PDF

憲法第九条と集団的自衛権 會津明郎 PDF)


 まず、日本国の統治機関に属している統治権の『権力・権限・権能』は、国民主権により国民からの「厳粛な信託(前文)」の過程を経て授権されることによって成立する。ただ、9条には「日本国民は、…放棄する。…保持しない。…認めない。」と記されており、「日本国民」が統治機関に対して授権しない部分が示されている。

 この「授権されている部分」と「授権されていない部分」の境界線を解釈によって確定したものが、1972年(昭和47年)政府見解である。

 この基準によって、日本国の統治機関が「日本国民から授権されている正当・適法な権限による国家行為」と、「日本国民から授権されていない不正・違法な国家行為」が区別されることとなる。この日本国の統治権の『権限』による国家行為としての「武力の行使」を行うことについて、合憲・違憲の論点となっているのである。

 この日本国の統治権の『権限』による国家行為としての「武力の行使」が、国際法上で国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となるところを国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の『権利』を主張して違法性が阻却されるかどうかは、別の問題である。

 そのため、論者が9条の規定が国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』を直接的に制約しているかのような前提で論じていると思われる部分は、前提認識に誤りがある。



 次に、日米安保条約について、条約の規定が憲法に反している事実が発見されたならば、もちろん違憲な条約となる。これは、たとえ国連憲章であっても同じである。論者は日米安保条約に言及しなくてはならないはずであるとの認識を有しているが、憲法に違反する条約は国内的には無効となるため、条約を根拠として日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を正当化することはできない。

 また、「集団的自衛権」とは『権利』であり、『義務』ではない。そのため、この『権利』の適用を受ける地位を有していたとしても、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行わなければならないという『義務』はない。

 さらに、「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、これを根拠として日本国の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生することはない。そのため、「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していたとしても、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」ができるか否かは別問題であり、関係がない。

 そのため、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が違憲である旨を説明する際に、日米安保条約に言及する必要はなく、言及しなくて当然である。


 もう一つ、日米安保条約は、5条で「自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。」とされている通り、「自国の憲法上の規定及び手続に従」うことが前提であるから、この条約は日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を発動させることを前提として批准されているかのように論じることも誤りである。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 外務省


日米安全保障条約(主要規定の解説) PDF (これは3条について)

 (日米安全保障条約(主要規定の解説) PDF)


 憲法66条2項に「内閣総理大臣その他の国務大臣は、文民でなければならない。」の規定であるが、これは禁止規定である。9条2項前段のように、「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」のように、政府の行為を禁じる趣旨の規定である。

 これは、大日本帝国憲法からの改正過程での軍事権限のカテゴリカルな消去に加え、削除に終わらせず、9条で強く禁じた趣旨に重なるものである。つまり、「戦力を保持しない。」という禁止に加え、「大臣は文民でなければならない。」として、その趣旨を徹底するものである。これは、軍人を許容することを前提としてつくられたというよりも、「陸海空軍その他の戦力」を保持しないのであるから、軍人が存在するはずもなく、9条2項の趣旨に重ねて、徹底的な軍事権の禁止を指すものと解することが妥当であると思われる。

  


〇 日米安保条約の重要な文言を敢えて(中略)にする姿勢はいかがなものだろうか。


「集団的自衛権の行使」合憲の法理 小森義峯 2002年12月 PDF


 P9で、示している日米安保条約の中には、「『自国の憲法上の規定及び手続に従つて』共通の危険に対処するように行動する」との記載がある。この論文上では、(中略)として記載されていない部分であ。ここにこそ、問題の本質がある。


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第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 外務省


 これに従って、米軍は「集団的自衛権」にあたる権限を行使することができるが、日本国は、「自国の憲法上の規定及び手続に従って」との文言にもあるように、9条によって制約を受けた統治権の範囲でのみ行動ができるのである。これが国際法上は「個別的自衛権」の区分なのである。

 特にこの解釈や運用には無理があるわけでもなく、矛盾もなく、整合性も保たれている。

 「芦田修正」説は、2項が存在している意味それ自体を損なう解釈であり、憲法体系全体の中で軍事権限が消去されている趣旨から考えても、妥当な解釈とは言えない。



〇 日米安全保障条約をよく読めば、日本国の統治権が「集団的自衛権」にあたる権限を想定していなくともおかしくないことが分かる。


日米安保を維持しつつ集団的自衛権を否定することは非現実的である 田上嘉一 2018/6/5


 「政府は、『集団的自衛権は保持しているが憲法上行使することができない』といいつつも、実際には戦後一貫して集団的自衛権を行使し続けているというわけです。 」との記載があるが、誤りである。

 日本国は国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を有しているが、日本国の統治権としては9条の制約があるため、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は行使できないのである。

 日米安全保障条約5条においても、「自国の憲法上の規定及び手続に従って」との文言が存在しており、日本国の統治権は「集団的自衛権」にあたる部分を行使することは想定されていない。米国の統治権(軍事権限)の行使によって、米軍が「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことが想定されているのみである。

 そのため、立憲的改憲の具体的に提示される改憲案の内容が妥当かどうかは別として、日本国の統治権が「個別的自衛権」にあたる部分のみの「武力の行使」に限定したとしても、日米安全保障条約に抵触することにはならず、条約を破棄する必要もない。


追記(二回目の分析)

 日米安保条約の条文を指して「これは、どうみても軍事同盟であり、集団的自衛権の行使に該当するものです。」との記載があるが、誤りである。国連憲章51条の「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である。国家が「武力の行使」を行った場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法性を問われることになるが、国連憲章51条に記された「個別的自衛権」か「集団的自衛権」の区分に該当した場合には違法性を阻却できる『権利』である。そのため、国家が軍事同盟を締結したところで、「武力の行使」が行われなければ国際法上の違法性を問われることがないし、違法性が問われていないのであれば、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』が持ち出されることもないのである。

 「集団的自衛権とは、戦闘行為に参加することだけではなく、交戦国の一方に基地や資金を提供することもまたその枠組みの範疇なのです。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」とは「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、「武力の行使」がなければその『権利』を行使する機会がないからである。


   【参考】違法性阻却事由(国際法) Wikipedia


 政府解釈も、従来より日本国は憲法上「集団的自衛権の行使を禁じている」としていたのであり、論者の主張は国際法上の基準とも、政府の解釈とも異なった主張を展開するものとなっている。


2014/1/6 〔過去のページ:日米安全保障条約(主要規定の解説)  外務省〕
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第3条
(略)
 ただし、我が国の場合には、「相互援助」といっても、集団的自衛権の行使を禁じている憲法の範囲内のものに限られることを明確にするために、「憲法上の規定に従うことを条件」としている。
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 「これらももちろん集団的自衛権の行使です。」との記載があるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われた事例ではなく、国連憲章51条の「集団的自衛権の行使」には該当しない。また、国連憲章51条の「集団的自衛権」に該当するためには、武力攻撃を受けた他国からの『要請』が必要となるが、この事例はその『要請』に基づいて日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われたわけでもない。

 「これらの行為が集団的自衛権にあたらないというのは、国際社会では到底通用するものではありません。」との記載があるが、国際法上は「集団的自衛権にあたらない」ということで「通用する」と思われる。「集団的自衛権」に該当すれば、国連憲章51条の「この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。」との規定に従って、安全保障理事会に報告しなければならない。しかし、正式に「集団的自衛権」と認定された事実はあるのだろうか。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていないのであれば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に該当しないのであるから、「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』が持ち出される事例ではないと考えられる。

 「政府は、『集団的自衛権は保持しているが憲法上行使することができない』といいつつも、実際には戦後一貫して集団的自衛権を行使し続けているというわけです。」との記載があるが、誤りである。日本国も「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の適用を受ける地位を有していることは確かであるが、これを行使するということは、実質的に「武力の行使」が行われているのであり、この「武力の行使」を9条が制約していることにより、憲法上行使できないとの結論が導かれているのである。「実際には戦後一貫して集団的自衛権を行使し続けているというわけです。」との部分について、論者は「集団的自衛権」の意味を正確に理解できていないための誤った認識と思われる。

 「このように見ていくと2015年に制定された安保法制によって集団的自衛権が認められるようになりましたが、」との記載があるが、混乱が見られる。まず、日本国も「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の適用を受ける地位を有しているため、「集団的自衛権」自体は認めているのである。しかし、これを行使するということは「武力の行使」が行われることになるのであり、これを9条が制約する結果、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は認められないこととなっているのである。「2015年に制定された安保法制」の中に含まれている「存立危機事態」の要件についは、1972年(昭和47年)政府見解に論理的に当てはまらないものであり、違憲である。



<理解の補強>

 

第19回国会 衆議院 外務委員会 第20号 昭和29年3月19日

第61回国会 参議院 予算委員会 第21号 昭和44年3月31日
第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日
 (発言番号107)

第69回国会 参議院 決算委員会 閉会後第5号 昭和47年9月14日 (発言番号130)

第84回国会 衆議院 内閣委員会 第22号 昭和53年6月6日

6.日米安全保障条約第3条 ──米国のため集団的自衛権行使をしなくてよいと明文で締結 PDF

 (6.日米安全保障条約第3条 ──米国のため集団的自衛権行使をしなくてよいと明文で締結 PDF)

日米安全保障条約と集団的自衛権行使との関係に関する質問主意書 (質問主意書と答弁書の両方)

集団的自衛権を行使しなくとも日米同盟が崩壊などしない理由 2014/5/18

“日米安保条約は集団的自衛権を容認している”と主張する論者は条約5条の「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」の記載には触れない 2015/06/26

「個別的はよくてなぜ集団的はだめなのか」→自国を守るための武力行使は容認するが他国を守るための武力行使は容認しないってことでしょ 2016/05/03





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