自民党改憲草案については、様々な問題が指摘されています。それについては、他のサイトで多くの批判、法的分析がありますので、そちらを見ていただきたいと思います。


    【参考】自民党憲法草案の条文解説

    【参考】自民党憲法改正案の問題点


 ここでは、「日本のこころ」の改憲草案について、分かる範囲で法的分析を行い、問題点を明らかにできればと思います。

 

日本のこころ 改憲草案 法的分析等

 

(日本のこころ)日本国憲法草案 2017.04.27

(日本のこころ)日本国憲法草案 2017.04.27)




 この改憲草案については、いくつかの現行憲法の難解な文言が整理され、読みやすくなった部分が感じられた。学説から現行憲法では不足していると指摘のある部分も明確となり、文言の漏れを条文化して補った点も見られた。序章では「国のかたち」を設けている点が他党の草案にはない考え方である。これは、韓国憲法の「第1章 総綱」を参考にしたものと思われる。非常によく似ている。日本の歴史もよく勉強されているように感じ、世界平和を願うなど、その精神として一応の志の高さも感じられる。国家緊急権など、非常に大胆な制度も明記しており、国の存立を維持することについて体制を強化する意図も見られる。

 しかし、いくつかの点で、「最高法規」という法秩序を司る法典として堪え得る程の完成度には達していないと感じられる。


 まず、この草案の大きな柱である「国の歴史や伝統、文化など」について、今後もその発展を願うことは自主的なご活動として続けていただきたいと思う。しかし、国の歴史や伝統、文化などが、「法学」「法秩序」「法体系」「法論理」「法典」の対象となるのは、人権保障を実現する際に条文中では明確な記載のない場合に『慣習』などとして考慮される程度に過ぎないものである。それを前面に持ち出すことは科学的で合理的、論理的な法的思考や解釈を阻むものとなりうる。そのため、およそ一般に道理から導かれる法学の対象にはなりえない概念である。そのため、憲法の基本精神に国の歴史や伝統、文化などを組み入れるのは、人類が営んでつくり出してきた『人権保障を実現するため』につくり出した国家という統治の原理を侵すものになりうる。

 

 しかし、「日本国憲法の前文において、『再び戦争の惨禍が起ることのないやうに』などと言う文言があるのは、歴史を憲法に持ち込んでいるのではないか」との指摘をする人もいるものと考えられる。しかし、これは第二次世界大戦や太平洋戦争についての歴史的反省を踏まえたものというよりも、「戦争」という最大の『人権侵害』の実感を受け、「人権保障を確実にしよう」という人々の意志の下に憲法を制定する決意を示したものであり、自虐的な歴史観を憲法に書き込んだとの評価は、法学的な読み方ではない。確かに平和主義などの戦争を否定する文言が多く感じられる点もあるが、よく読めば歴史を法的な領域に組み入れたものではなく、人権侵害の脅威に対抗するために憲法典を制定し、人権保障を実現しようと決意を宣言したものであることを確認できるはずである。そのため、そのような指摘は当たらないと考える。よって、憲法の引き受けるべき「法」の領域に「国の歴史や伝統、文化」を組み入れることは妥当でないと考える。

 

 ただ、国の歴史や伝統、文化などの発展については、是非とも学会等で今後も発表いただき、その方針を各民間機関や観光協会、海外向けのプロモーションなどで発揮していただきたく思う。その歴史を学び、そこに満ち溢れる伝統や文化の素晴らしさたるや、国の発展と人々の生活の豊かな感性を刺激するであろう。今後も『法学の枠外』で、盛んなご活躍を期待したい。 

(日本のこころ)日本国憲法草案 2017.04.27 法的分析等
目次
 前 文
 序 章 日本国のかたち(第一条―第九条)
 第一章 天皇(第十条―第十六条)
 第二章 平和の維持(第十七条)
 第三章 国民の権利及び義務(第十八条―第四十二条)
 第四章 国会(第四十三条―第六十三条)
 第五章 内閣(第六十四条―第七十三条)
 第六章 裁判所(第七十四条―第八十条)
 第七章 財政(第八十一条―第八十六条)
 第八章 地方自治(第八十七条―第八十九条)
 第九章 最高法規(第九十条―第九十二条)
 第十章 改正(第九十三条)

 現行憲法にはないものであるが、この草案では「序章 国のかたち」が追加されている。

 第二章は、現行憲法の「戦争の放棄」から「平和の維持」に変更されている。

 第六章は、現行憲法の「司法」から「裁判所」に変わっている。しかし、国会の担当する「弾劾裁判所」の名称との混乱を防ぐ意図をもう少し検討する必要があると考える。


  この草案の9章「最高法規」と10章「改正」であるが、現行憲法の「第9章 改正」「第10章 最高法規」の順番が変わっている点に注目しておきたい。これは、現行憲法が最高法規の章を改正することは、憲法原理の根本を破壊することとなるため、改正の対象としていないという考え方を変更したものである。現行憲法のこの二つの章の配置順次に関して、これも国民の人権保障を実現しようとする法的価値を壊さないための一つの憲法保障機能として機能していることを知っておくべきだろう。この規定の変更は人権侵害を引き起こす可能性を高めるものである。

前文

 「古来より日本は」などとしている点、日本という国の歴史的連続性を重視たいものと思われる。しかし、戦前の日本は中国や朝鮮半島などにも日本領土を有していたと思われるが、「四海を海に囲まれ、四季が織りなす美しい風土の中で」と続くのはどうなのだろうか。史実を忠実に再現したものにはなっていないように見える。

 「相手を思いやる精神を育んできた」などとあるが、国家存立の『法典』に対して、文化的思考を取り入れるのは法秩序を司る憲法の果たす役割ではないと考える。「法典」に文化的思考を取り入れた場合、裁判所においても成文法、判例、条理、学説、慣習法だけでなく、文化的思考による判断が適用される恐れがある。つまり、裁判所においても、「和の精神」などを取り入れた判決が出される恐れがあり、集団本位な「空気」が優先され、個々人の権利利益を普通の法的判断によって十分に確保することができなくなる恐れが考えられる。 
 「相手を思いやる精神」というものは一見素晴らしいもののように思えてしまうが、それを憲法に書き込むというのは法学の扱う問題ではない。憲法は国民の人権保障を実現するための「法」のメカニズムを規定するものである。それに、「相手を思いやる精神」などというものは、案外他国でも同様なことが言われており、日本にだけ独占的に認められるような珍しいものというわけではない。それらは、対外的にジャパン・ブランドとしてつくり出され、売り出しているものに過ぎないと考える。誰かのプロモーションによってつくられたジャパン・ブランドが、もともと存在していたかのように錯覚するのはやめた方がいいと考える。人権保障という原点に戻って憲法観を考え直した方がいいように思われる。

 現行憲法の前文は人類普遍の政治原理や他国との関係性において日本が存立するとの広い視野から日本の位置づけを行い、また他国民の平和的生存権をも
確認し、各国との平和の維持を決意しているが、この前文は比較的内向的な色彩が強い印象がある。
序章 日本国のかたち   「日本国のかたち」という新たな章を追加している。そもそも憲法とは、国の「法的な形」を示すものであるが、さらに国の形を明示するのはいかなる意図があるのか分かりかねる。憲法典の法的枠組みとしての簡潔な形を乱すような曖昧な章であるようにも見受けられる。前文とこの序章の関係性がよく分からない。前文にまとめられるような内容も多い。なぜ条文化したのかその趣旨が分からない。
 (日本国の象徴)
第一条 
  日本が立憲君主制の国家であるかどうかには、いくつかの学説があり、明確に定まっていない。しかし、ここでは立憲君主国家であることを明言している。しかし、立憲君主制であることをわざわざ宣言することで、どのような意図を持たせているのか知りたいと思う。今のままでもいいのではないだろうか。
 (国民主権)
第二条 
  現行憲法では、天皇について書かれた1条後段の「主権の存する日本国民…(略)」の文言から、国民主権を導き出しているが、この規定は国民主権の規定として独立させたものと思われる。後段は、現行憲法の前文の政治原理を取り入れたものと考えられる。
  (人間の尊厳及び幸福追求権)
第三条 
  現行憲法13条が基になっている規定と思われるが、現行憲法の「個人として尊重される」が「人間の尊厳を保障される。」という文言に変わっている。人間の尊厳は保たれたが、個人として尊重されるわけではないのかもしれない。人間の尊厳というものが何を指しているのか明らかでないため、これ以上はどう読めばいいのか分からない。人権についての総則規定とされるこの条文が、なぜこの「序章」の規定に含まれているのか明確に納得できるものは感じられない。従来通り「国民の権利及び義務」の規定の中にあった方がアクセシビリティ(見やすさ・分かりやすさ・使いやすさ)が高いのではないだろうか。
  (世界平和の実現)
第四条 
  1項の「国是」は前文で示せばよいものであると考える。法を国民の人権保障や権利救済において適用する際、このような文言は邪魔であると考える。「方針」と、人権保障実現のための「法規定」の役割の分担は明確に分けて考えていく必要がある。
  (国の任務及び国民の責務)
第五条 
  2項では国民に対して、公の秩序を維持することを義務付けたものとなる。これに基づいて、様々な法律が制定される可能性がある。例えば、公の秩序を維持するためとして国民警備協力法などが制定されれば、国民は国家によってまちの治安維持業務を徴兵制のように担わされる恐れがある。公の秩序の概念が明らかでなく、結局は国家主義や多数派の意に反する選択を制限される方向に傾き、一人一人の権利が守られなくなる恐れが高い。
  (歴史、伝統及び文化の尊重)
第六条 
 国民に対して歴史、伝統及び文化を尊重するように求める内容となっている。また、文化芸術の振興及び国際交流に努め、豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に貢献することも求めている。これによって、「歴史、伝統及び文化を尊重しない」という思想良心の自由はこの規定によって失われてしまう。国民の「活力ある社会の実現に貢献しない自由」が奪われることになる。「国とはほとんど無関係に生きる権利」なども奪われる。人権保障の機能は格段に落ちている。

 現行憲法では、99条にて「天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。」としている。そのため、その規定を根拠にして「今の総理大臣は憲法を尊重していない。」や「今の防衛大臣も、現行憲法を否定するような考え方の発言をしていた。」などと批判されることがある。
 しかし、「歴史、伝統及び文化」などを国民に尊重するように求めるような文言を法典の中に組み入れた場合、この条文を根拠に、「あの人は歴史、伝統及び文化を尊重していない。非国民だ。」などと国民同士、あるいは国家権力との関係において非難されやすくなると考えられる。
 また、ここでいう伝統及び文化や、文化芸術については、日本の神道や仏教、土着のキリスト教など、他にも様々な宗教的なものが含まれると考えられるが、政教分離原則を曖昧にする恐れがあると考えられる。また、宗教的な教義やしきたりなどを明確に区別する現代法秩序の法的判断枠組みには相いれない考え方であると思われる。 
  (日本国民の要件) 
第七条 
現行憲法の第10条を移動してきたものと思われる。
  (日本国の領土) 
第八条 

  憲法は国のかたちを示すガイドブックや図鑑とは違うものである。憲法は、国の法秩序を取り扱うものである。このような規定は憲法の中には必要ないものと思われる。

  (国旗及び国歌) 
第九条 

  「国旗及び国歌に関する法律(国旗国歌法)」が存在するが、わざわざ憲法に書き込む必要があるのか疑問である。憲法とは、基本的に権力者に対抗して国民の人権保障を実現するために生み出された法典である。そこに、人権保障とは全く関係のない条項を入れることには、人権保障を最大の目的とした法形式とは相いれないものであると考えられる。人権保障を目的とする具体的事件が発生した場合、法律などの法令が裁判所による違憲審査の対象となることもあるが、このような規定は国民の権利救済とは全く関係がなく、余分であると考えられる。人権保障やそれを実現するためにつくられた国家の統治機構の権力関係とは全く関係がない。法律で十分に対応できるものを、憲法中に書き込む必要はないと思われる。

第一章 天皇  
 (天皇の地位)
第十条 

  現在は天皇は象徴としての役割であり、明確に元首とは位置づけられていない。権能も、内閣の助言と承認によるものであり、その行為によって起きた問題も内閣が責任を取る。しかし、天皇を元首とすることで、天皇に国家の責任を負わせる意図があるのではないかと考えられる。

 「常に国民と共にある」という文言を入れたことで、天皇の行動は常に国民に尽くしたものとするように強制力を持たせたと考えられる。天皇の負担は現行憲法よりも重くなると考えられる。

 (皇位の継承)
第十一条 
  現行憲法では、「国会の議決した皇室典範」とあるが、「国会の議決した」が削除されている。天皇の元首化も見られることから、皇室典範が法律より上位の規定であり、国会の議決によらないものになる恐れも考えられる。その意図をここでこれ以上読み解くことができないため、「皇室典範」が法律に含まれる規定としての位置づけと見ているのか明らかにしてもらいたいところだ。
  (天皇の国事行為、公的行為及び内閣の責任)
第十二条 

  現行憲法4条1項の「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」との規定が変更されている。よって、法的な権限は国事に関する行為のみという限定はなくなり、国政に関する権能も有するようになったと考えられる。国事行為と公的行為を行うため、天皇は公的行為の負担を現在よりも大きく背負わなくてはならないものとなる。国政に関する権限も有する可能性が生まれたので、天皇の権限の拡大が明らかになっている。

 現行憲法3条と7条では、天皇の国事行為は「内閣の助言と承認」により行われるが、この規定の1項で「内閣の補佐」によるとしている。また、現行憲法の「国事に関する行為のみを行う」という限定もなくなった。内閣の承認は必要なくなったと考えられるが、行為の限定がないことから、内閣の承認のない天皇の自由な行動や活動に対しても、「内閣が、その責任を負う」ことになる。場合によってはであるが、国家が天皇の私物化につながる恐れも考えられる。

  (天皇の任命権)
第十三条 
 現行憲法では、天皇は内閣総理大臣(内閣)と最高裁長官(裁判所)を任命することになっている。そこに、衆院議長・参院議長(国会)の任命を入れ、天皇が三権の長を任命するものとしたと考えられる。
 一つ疑問であるが、この草案でも採用している一般的な『章』の配置順序でもある「国会」「内閣」「裁判所」の順番ではなく、なぜ「内閣総理大臣(内閣)」「衆院・参院議長(国会)」「最高裁長官(裁判所)」の順番にしたのだろうか。焦って草案を作ったため、そこまで十分な検討を練っていないものと考えられる。 
  (その他の国事行為及び公的行為)
第十四条 
 この草案の非常に面白い点として、現行憲法4条「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」の規定が削除されていることである。この草案の12条にあるように天皇は「内閣の補佐」しか受けないため、国政行為が可能となる。よって、天皇はこの草案の14条3号「衆議院を解散すること。」の規定を内閣の助言と承認(現行憲法3条・7条)なしにいつでも行使可能である。国民が選んだ衆議院議員を、天皇がいつでも解散できることから、天皇と国民の対立構造を招く可能性が高い。また、野党勢力は天皇に衆議院の解散を勧めるような行動を起こす可能性もある。もちろん、天皇はこの草案では国政行為が可能であるために、その行為が天皇の政治利用として非難の対象となる可能性も少ない。 
 そして、天皇に解散権を渡したため、現行憲法で運用されている内閣の「助言と承認(現行憲法3条・7条)」による内閣総理大臣が決定権を持つとされる7条解散を完全に否定したものである。

 五号で「内閣総理大臣の指名に基づき、国務大臣を任命すること。」、六号で「内閣の指名に基づき、法律の定める国家公務員を任命すること。」となっている。現行憲法では「国務大臣及び法律の定めるその他の官吏(国家公務員)の任免(略)…を認証すること。」とされているが、「任免・認証」から「任命」に変わっている。これによって、職務を免じることはできなくなった。
 任命と認証の違いについて、よく理解を深めておきたい。
任命権者 Wikipedia
認証官 Wikipedia

 11号の「恩赦を行うこと」について、内閣の助言と承認の根拠である現行憲法73条7号「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。」が、この草案では削除されている。この草案の72条(内閣の職務)の規定がそれにあたるが、恩赦についての記述は見当たらない。よって、天皇は恩赦についても内閣の助言と承認によらない独自の決定権を持つこととなる。

 その他、やや変更されている点があるので詳細は今後検討できればと思う。

 公的行為が憲法中に書き込まれた。
  (摂政)
第十五条 
 現行憲法5条と同じような規定に見えるが、実は全く違うものである。
 現行憲法5条「皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。」
 この規定の「前条第一項」とは、下記の規定である。
 現行憲法4条1項「天皇は、この憲法の定める国事に関する行為のみを行ひ、国政に関する権能を有しない。」
 しかし、この規定は「(この草案の)第12条第1項の規定を準用する。」となっている。これは、この草案の12条1項「天皇は、内閣の補佐により、この憲法の定める国事行為及び公的行為を行い、内閣が、その責任を負う。」の規定である。
 一見現行憲法と条文の書き方は似ているが、摂政が「国政に関する権能を有しない」という意味の規定を準用していたものが、「内閣の補佐により、(略)内閣が、その責任を負う。」という規定を準用することに変わっているのである。つまり、摂政の国政行為を含む自由な行動の責任を、国民が選んだ国会議員によって選出された総理大臣と国務大臣が負わされるような構図となるのではないだろうか。
 この点、注意して読み解きたい。
  (皇室の経済)
第十六条 
  これは現行憲法88条〔皇室財産及び皇室費用〕の規定が「財政」の章からカットされ、ここに組み入れられたものと考えられる。ただ、文言もいくらか変わっている。現行憲法8条の〔財産授受の制限〕は、法律で定めるのかもしれないが、憲法中からはなくなった。皇室経済法などで対応するのかもしれない。
第二章 平和の維持  現行憲法の第2章「戦争の放棄」の名称を変え、戦争を放棄しない考えを明確にしたと考えられる。
第十七条 

 自衛の措置に関することに触れることは理解できるが、「自衛隊」や「軍」などという個別の組織名を書き込む必要はない。自衛の措置は、突き詰めて考えれば自衛隊や軍だけに限られないからである。海上保安庁や警察組織、消防組織も突き詰めるところ、急迫不正の侵害に対して自衛の措置を行う権限を有している。それを自衛隊や軍だけに認められるかのような規定にする必要はないのではないだろうか。そのため、自衛の措置に関することに触れる場合は考えられるとしても、組織名を憲法中に書き込む必要はないと考える。


 「政治統制の原則」とあるが、あまり一般的な言葉でないように思われる。原則というのは、条文中の文言から導かれるものであり、原則が条文に取り入れられるというのは逆であると考えられる。例えば、民法第1条2項の「権利の行使及び義務の履行は、信義に従い誠実に行わなければならない。」との文言から、「信義誠実の原則」というタイトルが導き出されるであり、「原則」などという言葉を法典中に書き込んだところで、それが指しているものが一体何なのか分からないのである。

 もしかすると文民統制のことを指しているのかもしれないが、解説を見ないとよく分からないと思われる。

 また、そのような「政治」という言葉は、国政全般におよぶ広い意味で使われるれることが多く、「内閣」も政治の中に含まれるとの見方もできる。となると、結局、この記述が言おうとしている「民主制の過程を経た国会の議決」の意味が十分に含まれていないと考えられる。

 「政治統制の原則」などの曖昧な言葉にするのではなく、「国会の議決が必要である」などとしっかり書き込んだ方がマシである。

 第三章 国民の権利及び義務   現行憲法16条17条が削除されていることを予め確認しておきたい。下記の条文である。
 現行憲法16条「何人も、損害の救済、公務員の罷免、法律、命令又は規則の制定、廃止又は改正その他の事項に関し、平穏に請願する権利を有し、何人も、かかる請願をしたためにいかなる差別待遇も受けない。」
 現行憲法17条「何人も、公務員の不法行為により、損害を受けたときは、法律の定めるところにより、国又は公共団体に、その賠償を求めることができる。」
これによって、「平穏に請願する権利」という明文の規定が失われ、国や公共団体に対して賠償を求める権利が法律によって明確に定められるという確約もなくなった。国の立法する法律によって、国に有利な内容での賠償請求しかできなくなる恐れも考えられる。つまり、国民の権利救済の人権保障機能は低下したと考えられる。
 この草案からこのような行政法や民法関連の規定を削除したにもかかわらず、刑事訴訟法関連の規定を残している点がどうも一貫性がないように思われる。草案作成者の意図がどこにあるのか分かりかねる。
  (基本的人権の享有)
第十八条 
  現行憲法の「享有を妨げられない」の文言が、「享有する」となった。「人がもともと持っている人権を妨げられることはない。」との意味であったが、「人がもともと持っている。しかし、他の規定と抵触した場合は、奪われることもある。」との意味にも捉えられ、人権保障は後退したと考えられる。

 また、現行憲法97条の人権の本質を示した文言である「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、(略)信託されたものである」との趣旨もこの草案から完全に削除されている。これによって、人権の根拠が失われてしまっている。なぜ人権は「侵すことのできない」ものなのかを示すことができなくなっているからである。つまり、「憲法以前に自然法思想による自然権が存在し、それによって人権概念が生まれており、その人権概念を実現するためにこの憲法が生み出されている。」との趣旨が完全に失われてしまっているのである。よって、この憲法草案の存立根拠も失われている。この草案は法実証主義の単なる機械的な法論理によって人に人権を認めようとしたものであり、この法そのものの存立根拠が完全にないのである。
 この草案作成者は、人権の本質を理解していないと考えられる。法そのもの自体が、そもそも相対的な認識によって生み出された一つの価値観であり、絶対普遍的に適用されるものではないとの前提が失われている。言い換えれば、この草案はこの「法」というものが絶対だとするような一神教的な価値観となっており、この法を信じない人を排除するかのような観念によってつくられているのである。この憲法を作成したのが日本の歴史や伝統、文化を大切にしたいと主張する政党であるならば、日本の神々は多神教的世界観に基づいていることは理解できるだろう。それと同じように、「法」というものも様々な共同体に現れる秩序の一つの形式に過ぎないものであることを理解するべきだろう。
 「法」というものは、「人権保障を実現するためにつくり出す『国』という一つの共同体においては、『法』という秩序の形を採用しましょう。」という考え方に賛同した人が集まってつくっているだけの、一つの相対的な概念なのである。それに賛同する者の意志がつくり出している「法」という一つの観念なのである。そのような思いが自由獲得の努力の成果であり、それを失わせようとする他の価値観や秩序の在り方の侵害から堪え、受け継いできた考え方なのである。そのような「人権」という概念と、それを中心とした「法」という一つの価値観を広めようとする人々の意志こそが、憲法の存立根拠であり、その法の効力の源泉なのである。現行憲法はそのような前提の下に、「法」それ自体を相対的な価値観の一つであるとして価値相対主義の立場でつくられているのである。
 しかし、この草案の人権観は、人権という概念それ自体、法という考え方それ自体が、多様な価値観の中にある一つの価値観であるという前提はなくなっている。人権概念自体がこの法典によって絶対的なものだとするような、一神教的な法認識を国民に押し付けることとなり、多様な価値観や秩序概念を否定するものとなっている。この草案作成者は「日本のこころ」であるが、このままではもはや歴史や伝統、文化に基づいた多神教の価値観や多様な価値観の存在を認めるような寛容の精神もなく、「日本の心」とは言えない部分もあるように思う。
 草案作成者の自己矛盾を防ぐためにも、「法」それ自体が、多様な秩序観念の中の一つであり、絶対的なものではないという前提を考察しなおした方がいいように思う。恐らく宗教的教義と法秩序の観念も区別がついていない。その関係で「歴史や伝統、文化」などの価値観を憲法の中に組み入れようとしているのだと思われる。この大前提を知らないままに人権を扱うのは危険すぎると考える。
  (権利及び自由の尊重及び濫用の禁止)
第十九条 

 現行憲法の12条、13条をミックスしてやや作り替えた文言である。

 「互いにその権利及び自由を尊重しなければならない」との規定が追加されている。これによって、国民の「知らねぇ。俺には関係ねぇ。」というような「無関心・無関係な態度でいる自由」は奪われることになる。現行憲法でも権利濫用をしてはならないとしているが、「無関係・無関心でいる自由」を奪ったり、尊重義務を課すことはない。この点は国民の自由が奪われることになる。本来、それらの権利の尊重と調整については国が取り組むべきものとされている。しかしこの規定はそれを国民にも押し付けているものであると見るのが妥当だろう。

   (法の下の平等)
第二十条 
  「家族、貴族の制度を認めない」ことについて書かれた2項が削除されている。また、3項の「栄典は特権が伴わない」という規定も削除されている。「信条、性別、人種、社会的身分又は門地により、政治的、経済的又は社会的関係」においては差別されないが、栄誉や勲章、その他の栄典の授与によっては差別されるのかもしれない。また、特権を伴う栄典は、現に有する者の一代に限らず、代々に渡ってその特権が認められる可能性がある。さらに、この草案の家族主義的な色彩から見るに、特権は家族に及び、代々受け継がれるものとなる可能性も考えられる。そして、家族間格差や家族間差別も広がる恐れがある。
  (思想及び良心の自由)
第二十一条 
  現行憲法19条の規定と同じである。
  (信教の自由及び政教分離)
第二十二条 
  やや文言が変わったり追加されたりしている。この規定がどのような国と宗教の行為を禁止して、どのような行為を許容しようとしているのか、詳細に分析する必要がある。今後もう少し検討してみたい。

 4項は、現行憲法89条〔公の財産の用途制限〕についての趣旨も含まれていると思われる。
  (学問の自由)
第二十三条 
  「学問の自由」を保障した後に、2項に大学について書くのではなく、そのまま条文中に「大学の自治は尊重しなければならない。」とあることから、学問の自由は大学の活動に限定されているかのような印象を受ける条文となってしまった。これは、自宅学習や自主研究活動、企業による学問を発展させていく活動の自由などは想定されていないように見受けられる。学問のおよそ一切は、「大学」によって排他独占的に活動するかのような印象を拭うことができない。
  (表現の自由)
第二十四条 
  ベースは現行憲法21条の規定である。現行憲法21条1項の「集会、結社」の文言はこの草案の25条に移されている。現行憲法2項後段の「通信の秘密は、これを侵してはならない」の文言は、この草案の26条3項に移されている。
  (集会及び結社の自由)
第二十五条 
  現行憲法では表現の自由に含まれていた「集会、結社」が、個別の条項として取り上げられた。この点は読みやすく整理され、アクセシビリティは向上したのではないかと思われる。恐らく人権保障の質も下がることはない。
  (私生活、個人情報の保護及び通信の秘密)
第二十六条 

  1項、2項は新設の規定である。

 2項で、国は保有する個人情報を適切に保護しなければならないことを示している。現在の法運用でも企業等にも個人情報を保護するような法制があるが、これによって国の場合には違憲審査を含めてた厳しい審査がなされるようになると考えられる。これは人権保障の質を高める可能性が高い。

 3項は現行憲法21条2項の後段を移してきたものである。

  (家族、婚姻及び子の監護)
第二十七条 
  「家族は、相互の信頼と協力により、維持されなければならない。」とあるが、国民に対して信頼を強制するというのは妥当なのであろうか。また、相互の協力も強制されるが、やはり、あまり話し合いも十分にできないような父母を持ってしまった不幸な子供もいると思われるが、そのような様々な家庭の事情をくみ取らずして憲法によって協力を強制するのは良くないと思われる。これは、家族のためであれば、個々人の人権も制約されるとするような過度な家族主義を加速させてしまうことも考えられる。そのような社会に変わってしまった場合、個々人の生き方は家族の単位に大きく影響を受けることから、就職活動などにおいても、家族の職業や家族の事情などを様々に調べられた上での採用不採用の判断がなされるようになるなど、様々な社会的不都合も引き起こす可能性があると考えられる。家族内でのある種の結束が求められることから、家族間格差も感じるような社会になると思われる。
 3項では、現行憲法の「個人の尊厳」という単位が失われ、「人間の尊厳」という言葉に変わっている。よって、「個々人が集まって家族ができる。」という考え方から、「家族の中の個人」とされるような立法も当然に可能となる。個人という単位が失われることで、家族の意向に従わなくてはならい制度がつくられやすくなると思われる。
 現行憲法24条2項の「両性の本質的平等」との記載があるが、これがこの草案の3項では「夫婦の本質的平等」という言葉に変わっている。これは、「男女」がペアであることを意識した規定として考えられたものであると思われる。しかし、「夫婦」という言葉は、「婚姻関係にある男女の一組」を意味する言葉であることから、「夫婦の本質的平等」という記載であると、「山田夫婦と田中夫婦、鈴木夫婦、佐藤夫婦、山本夫婦などが、本質的に平等」という意味になってしまうかもしれない。すると、もしかしたら「両性が本質的に平等でない考え方」による婚姻制度などによる法律ができてしまうかもしれない。例えば、「家庭内では、父親が最終決定権を持つ。」とか、「離婚した際の親権は母親が優先される。」などの法律もできてしまうかもしれない。いや、この草案の2項で「夫婦が同等の権利を有することを基本とする」としているから、そうはならないのかもしれない。ただ、現行憲法では明確にはなっていないが、この草案の3項の文言からすると男性男性、女性女性のペアは排除しているものと考えられる。
 (財産権)
第二十八条 
  現行憲法29条の「財産権は、これを侵してはならない。」の文言から「保障する」の言葉に後退したと思われる。よって、国家の都合によって保障の範囲が決定されてしまう可能性も否定できない。 
 (納税の義務)
第二十九条 
  現行憲法30条の規定と同じである。
 (居住、移転及び職業選択の自由)
第三十条 
  現行憲法22条の規定である。「何人も」が「国民は」になっている以外の変更はない。
 (生存権)
第三十一条 
  現行憲法の「すべて国民は」が「国民は」に変わっている。「全ての生活部面について」が「国民生活のあらゆる分野において」に変わっている。文言は普段使われている日本語の感覚に近くなり、読みやすくなったと思われる。特に人権保障の質が下がる恐れはないと思われる。
 (教育を受ける権利及び義務)
第三十二条 
  国が教育を行うことを明確にしたことから、「国民教育権説」を否定し、「国家教育権説」を採用したものと思われる。すると、教育意図は国に従う生き方を強制する内容が許されることとなる。「国民教育権説」とは、国民が国家とは直接関係しないところで、子供個々人の人格の成長をサポートするような形での教育の関与の考え方であるとされると思われる。しかし、「国家教育権説」を採用したことから、子供は豊かな人間性と創造性を備えた人間になることを国によって強制される。
 現行憲法の言う「教育」とは、普通教育や国家による義務教育だけでなく、英会話スクールや学習塾、書道、水泳、職業訓練、社員教育、生涯学習教育など、あらゆる教育を想定していると考えられる。なぜならば、現行憲法の26条には「すべて国民は、法律の定めるところにより、その能力に応じて、ひとしく教育を受ける権利を有する。」としか書かれていないからである。その上で、2項で「すべて国民は、法律の定めるところにより、その保護する子女に普通教育を受けさせる義務を負ふ。義務教育は、これを無償とする。」として、国による子供向け(子女)の普通教育が存在することが予定され、義務教育においては無償とすることを定めているのである。
 しかし、この草案は、1項の趣旨で、「国は、この憲法の理念に基づいた考え方の下に定義される『豊かな人間性と創造性を備えた人間』となることを目指した教育を実施し、かつ、『伝統の継承、新しい文化の創造』を目指す教育を行う」としている。そのことからこの草案の2項の「等しく教育を受ける権利を有する。」の想定する内容は、1項を受けた意味のものとなると考えられる。つまり、国民には、英会話スクールや学習塾、スポーツ教室などの自由な教育活動で教育を受ける権利は保障されていないと考えられる。
 教育を受ける権利と似たような概念として、「学問の自由」などもあるが、学問は自主的な活動を発展させていくものであると考えられるが、教育というのは、実施主体に参加するという意味合いが強い。学問を自主的に行うまでの知力に至っていない場合もあるため、あらゆる教育を受ける権利が保障されるのではなく、国家による教育しか受ける権利を保障されていないというのはかなりの制限があると思われる。

 4項では、現行憲法の「義務教育は、これを無償とする。」という文言からかなり踏み込んで「必要な授業料、教科書、教材、給食その他すべてを無償としなければならない。」としている。これは、恐らく遠足や修学旅行のカリキュラムなどもすべて無償となると考えられる。ただ、「しなければならない。」としていることから、もし財源がなかった場合に、遠足や修学旅行は中止され、給食も実施されなくなる恐れはある。すると、かえって教育の質が下がり、次の世代はその影響で国家経済も悪くなり、教育の財源がさらに落ち込んでいく負のスパイラルに陥る危険性がある。そういった事情を防ぐため、「無償となるように努めなければならない。」程度の文言にしておき、後は国家財政を考えた政策判断に任せた方がいいのではないかと思われる。
 (環境権)
第三十三条 

 学説で広く認知され始めている「環境権」の規定だと思われる。ここでの環境権の意味は、自然環境のみを意味しており、住宅環境や騒音問題、社会環境等については対象とされていないようである。


 1項で、国民は、良好な自然環境の保全に努める義務を負うことが明記された。このような義務規定や禁止規定にあたるものは、法律で対応するべきであると考える。憲法は国民の人権保障を確実にするためにつくられた法である。それをこのように国民に義務付けるというのは、国会が法律をつくる立法権との分離ができていない。憲法と国会の立法による法律とを混同したまま憲法草案を作成するために、このように国民の義務を増やしてしまうのである。このように国民に義務を押し付ける姿勢は、国民の人権保障を実現するべきところを、国の傲りを助長すると考えられる。国民に頼らず、「国が率先して行う」という高い志を持って憲法を制定せずして、国民の幸せな生活を実現することはできないはずである。


 2項は国に立法や行政などに環境や生態系に配慮した法律や処分をするように促すものとなる。

 (勤労の権利及び義務)
第三十四条 
  ベースは現行憲法27条である。
 2項は現行憲法28条を移してきたものである。これはまとめると確かに見やすくなって混乱はなくなり、読みやすくなったと思われる。現行憲法の「団結する権利及び団体交渉その他の団体行動をする権利」との文言が、「団結権、団体交渉権及び団体行動権」となった。この名称変更は読みやすくなっただけであり、実質的な人権保障の質は下がらないと思われる。
 (裁判を受ける権利)
第三十五条 

現行憲法32条の「何人も、裁判所において裁判を受ける権利を奪はれない。」と現行憲法37条の「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」をミックスした規定であると考えられる。

  現行憲法32条の「裁判を受ける権利を奪われない」から、「裁判を受ける権利を有する」に変わった。これも「人にもともと裁判を受ける権利がある状態から、奪われることはない。」という概念が、「この憲法によって、裁判を受ける権利を有するようにした。」との概念に変わってしまう可能性がある。すると、憲法中の他の規定と競合するなどの事態が起きた際に、「権利は奪われない。」という状態であったものが、「一応権利を有しているが、他の規定が優先されることもある。」との弱い状態に変わってしまう。裁判を受ける権利は後退するものと考えられる。


 現行憲法37条の「すべて刑事事件においては、被告人は、公平な裁判所の迅速な公開裁判を受ける権利を有する。」との規定が変更されていることから、被告人に対する直接的な「公開裁判」を受ける権利はなくなった。この草案の「第6章 司法」の章の80条で一応公開の法廷に対する規定は存在するが、「被告人の権利」であったものが、「制度的保障」に格下げされたことを意味する。よって、間接的に人権が保障されるにすぎず、規定の競合や解釈の変遷によって公開裁判を受ける権利は薄れていく可能性が考えられる。

 (適正な手続)
第三十六条 

 刑事訴訟関連規定群のいくらかがこの条文にまとめられたものと思われる。その点は確かに現行憲法よりは整理され、分類も分かりやすくなったものと思われる。
 現行憲法のこれらの刑事訴訟手続き関連の規定はすべて「何人も」であるが、この草案では「国民は」に変わっている。この草案の42条で「外国人は、その性質上、日本国民にのみ認められるものを除き、この憲法で保障する権利及び自由を享有する。」とあることから、「何人も」を「国民」と置き換えた部分を補っているものと考えられる。しかし、この条文の8項では、「国民は」ではなく、「何人も」のままとなっている。その点から考えると、外国人への保障は8項以外の規定については、現行憲法よりも権利保障が弱まったと見るのが妥当だろう。



 1項は、現行憲法31条「何人も、法律の定める手続によらなければ、その生命若しくは自由を奪はれ、又はその他の刑罰を科せられない。」を持ってきたものであると思われる。「適正な要件及び手続」と変更されていることから、適正さが向上したと思われる。国会によってつくられた適正でない不合理な法律はこの規定によって裁判所による違憲審査が促される可能性が高くなると考えられる。この点は人権保障の質は上がると考えられる。

 2項、3項は、現行憲法39条の「何人も、実行の時に適法であつた行為又は既に無罪とされた行為については、刑事上の責任を問はれない。又、同一の犯罪について、重ねて刑事上の責任を問はれない。」の規定を分割して規定したものと思われる。分割することで分かりやすくなったと思われる。


 4項では、現行憲法33条の「何人も、現行犯として逮捕される場合を除いては、権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状によらなければ、逮捕されない。」の「権限を有する司法官憲が発し、且つ理由となつてゐる犯罪を明示する令状」が、「正当な令状」に変わっている。令状の性質を法律にゆだねたことになると考えられる。国会で法律があいまい不明確なまま立法されてしまった場合などは、司法官憲(基本的に裁判所)が発したものではなく、理由となっている犯罪を明示していない令状によって逮捕される可能性も否定できなくなった。国会の立法によって正当な令状と認められたならば、裁判所の司法権に基づいた令状ではなく、行政権が自ら発した令状によって逮捕される可能性も考えられる。

 5項では、現行憲法34条の「何人も、理由を直ちに告げられ、且つ、直ちに弁護人に依頼する権利を与へられなければ、抑留又は拘禁されない。又、何人も、正当な理由がなければ、拘禁されず、要求があれば、その理由は、直ちに本人及びその弁護人の出席する公開の法廷で示されなければならない。」の後段が削除されている。

 6項では、現行憲法35条の「何人も、その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利は、第三十三条の場合を除いては、正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状がなければ、侵されない。
2 捜索又は押収は、権限を有する司法官憲が発する各別の令状により、これを行ふ。」
の規定からやや変更されている。「その住居、書類及び所持品について、侵入、捜索及び押収を受けることのない権利」という明確な権利としての用語は失われたが、比較的整理されて読みやすい条文になったと思われる。「正当な理由に基いて発せられ、且つ捜索する場所及び押収する物を明示する令状」も「正当な令状」と省略された。ただ、「正当な令状」というものが法律による規定となるため、国会の立法によって曖昧な規定が含まれていたりすることによって、「正当な理由か定かでなかったり、捜査する場所や押収する物を明示していない令状」によって住居への侵入並びに書類及び所持品の捜索及び押収を受ける恐れは高まってしまうことになる。

 また、現行憲法のこの2項は削除されている。この2項と同様に、この草案の4項の基となっている現行憲法33条に含まれている「権限を有する司法官憲」の文言も削除されている。そのことから、正当な令状というものが、「司法府の裁判所」に限らず、立法府や行政府による令状も許される恐れがある。三権分立による行政権限の拡大を防ぐ機能が、現行憲法の文言よりも弱まったと読むこともできるだろう。国会の野党勢力は、国会の多数派議員(与党)によって成り立っている内閣(行政権)によって令状(逮捕状)が発せられ、政治的に抹殺される恐れが考えられる。そうなると、民主制の確保に必要な言論の自由も実現されなくなってしまうのである。(国会議員には不逮捕特権があるが、何も国会議員に限らず、野党勢力の人々を片っ端から逮捕することも可能となり得る。)こういった問題を防ぐために、現行憲法では裁判所や裁判官の独立は強く確保されており、逮捕する際は「司法官憲」による令状が必要となるのである。しかし、この草案ではそれらの想定がなされていないのである。

 7項では、現行憲法37条3項の「刑事被告人は、いかなる場合にも、資格を有する弁護人を依頼することができる。被告人が自らこれを依頼することができないときは、国でこれを附する。」の規定が変更されている。これによって、資格を有しない弁護人を国によって付与される可能性が生まれることになると考えられる。弁護人といっても、必ずしも有資格者とは限らないからである。

 8項は、現行憲法38条の「何人も、自己に不利益な供述を強要されない。
2 強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白は、これを証拠とすることができない。
3 何人も、自己に不利益な唯一の証拠が本人の自白である場合には、有罪とされ、又は刑罰を科せられない。」との規定の、2項の部分の文言がかなり省略されている。つまり、正当な方法は、立法に託され、国会で立法が行われた場合は、「強制、拷問若しくは脅迫による自白又は不当に長く抑留若しくは拘禁された後の自白」も許容される可能性が否定できなくなった。

 9項は、現行憲法36条の「公務員による拷問及び残虐な刑罰は、絶対にこれを禁ずる。」を持ってきたものと思われる。「絶対に」という強調表現が失われたことから、拷問や残虐な刑罰が必要性に応じて部分的に解禁される可能性も否定できない。立法によってはテロリストに対する拷問などを行うことを想定しているのかもしれないが、もちろん制度上は他の国民への扱いも同様の水準となる。

 

「全ての指と性器を切り取り…」 ウクライナ「強制収容所」で行われる凄絶な拷問の実態 2022年05月10日


 10項は現行憲法18条「何人も、いかなる奴隷的拘束も受けない。又、犯罪に因る処罰の場合を除いては、その意に反する苦役に服させられない。」が移されたものと思われる。奴隷的拘束を禁止する趣旨は完全になくなった。苦役には服されないが、奴隷的拘束を受ける可能性は明確に否定されなくなった。奴隷的拘束が行われる事態とは、国家によるものに限られなかったはずである。国民の強者が、弱者をいじめて奴隷的拘束を強いるようなことも、この国内法秩序では禁止されていたはずである。身体の自由や、行動範囲などを逐一把握されたりもせず、個人としての活動を制限されて強制労働に従事させられることもなかったはずである。この規定がなくなったことで、人権保障を強く実現しようとする趣旨は失われたと思われる。他の人権規定で対応するのかもしれないが、どの規定で対応するのだろうか。※


私人間効力
 Wikipedia


 現行憲法37条2項の「刑事被告人は、すべての証人に対して審問する機会を充分に与へられ、又、公費で自己のために強制的手続により証人を求める権利を有する。」が削除されている。証人を求める権利は憲法規定には存在しなくなってしまった。公費も出ないし、強制手続きもできないようだが、本当に大丈夫だろうか。それでいいのだろうか。

 (刑事補償)

第三十七条 

 現行憲法40条の「何人も」から「国民は」に変わっている。

 現行憲法の「無罪の裁判を受けたときは、」の文言が「裁判の結果無罪となったときは、」に変わっている。一見表現が分かりやすくなったようにも思われる。ただ、現行憲法のこの文言の趣旨は、「裁判の結果たとえ有罪となってしまっても、冤罪の場合もあるかもしれない」との謙虚な姿勢が含まれていると思われる。「無罪なのに裁判を受けてしまうことがあったならば、補償を求めることができる」という、無罪性の事実を尊重しているとも読み取れるのである。そこを、あくまでも「裁判の結果無罪となった場合」というように限定したならば、「無罪となれば補償をもらえる」とのイメージが先行し、法益侵害の事実関係よりも「裁判で勝つこと」を優先させるような意識を促すことになる。これは、「裁判の結果無罪となったが、本当は犯人だった。」という事態や、「真犯人が別にいるのに、有罪になってしまった。」というような冤罪の事態に正しく向き合う姿勢が見られない文言になってしまう。「無罪の裁判」というのは、分かりづらい表現ではあるが、その言葉の趣旨をくみ取っていくべきであろう。

 (犯罪被害者の権利)
第三十八条 

 新設の規定である。ただ、現在も法律で一定のレベルで既に保護されているのではないかと思われる。

 どの程度の犯罪によって保護を受けられるようにするのか明らかでないので、どの程度のものを想定しているのかは分からない。法律によるとしていることから、国にとっては厳しい規定であるとは思われるが、例えば、名誉棄損や業務妨害罪などの被害者であっても、国からの保護を受けられるのだろうか。保護とは、金銭補償のことをいうのだろうか。カウンセリングも含まれるということだろうか。この規定を新設する意図をもう少し検討してみたい。

 (参政権)
第三十九条 
  ベースは現行憲法15条である。
 現行憲法1項の「公務員を選定し、及びこれを罷免することは、国民固有の権利である。」の文言は、「国民は、政治活動の権利及び自由を有し、公務員を選定し、及びこれを罷免する権利を有する。」と変更されている。恐らく、この変更によって人権保障の質は下がらない。現行憲法では表現の自由に含まれるとされる「政治活動の権利及び自由」が明確に追加されことは、人権保障にとっても好ましいと考えられる。
 (公務員の労働基本権の制限)
第四十条 

  新設された規定である。

 国家公務員法などの規定では、公務員の政治的行為を禁止するものがある。この規定は、それらの規定に対して「違憲の疑いがある」とする指摘を抑止するものであると考えられる。ただ、現在の法制度の運用とそれほど変わるものではないと思われる。

 (政党)
第四十一条 

  新設された規定である。

 この草案25条の「結社の自由」と重複してしまう部分がある。どうするのだろうか。

 (外国人の権利及び自由)
第四十二条 

  外国人の人権については、従来より判例によって「性質上、日本国民のみに認められるものを除き保障が及ぶ」などとされてきた。その趣旨を明確にしたものと考えられる。

 この規定によって、現行憲法中の「何人も」「国民は」「すべて国民は」などの明確には区別できない主語をある程度の範囲で統一した効果があるものと考えられる。その点は分かりやすくなったかもしれない。

 判例では、外国人の人権と同様に、「法人」の人権も性質上可能な限り保障されるとされているはずである。しかし、その点についてこの草案ではなぜ触れられていないのか疑問である。この草案は、41条で政党条項も入れられているため、「法人」の人権享有主体性も記載するべきであると考える。

日本国憲法における外国人の人権に関する学説

 

※ この草案の36条10項に関連する「奴隷的拘束」について、判例の解説を確認する。


(百里基地訴訟最高裁判決)

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 三 憲法の諸規定は、憲法の性質上、原則として私法上の行為に直接の適用がないとしてもすべての憲法規範がそうであるとはいえず、その規定のうちには私人間で行われた私法上の行為であつても直接に拘束を及ぼすものがあると考えてよい。例えば、奴隷的拘束を受けない自由(一八条前段)や勤労者の基本権(二八条)は、それらの規定に反する私的な行為は民法九〇条の公序違反としてその効力を否定する考え方もとれなくはないが、むしろ現代社会においては人を奴隷的拘束におく私人間の契約や、勤労者の団結権などの基本権を違法に制限する私的な行為は、直接に憲法に反すると判断してよいと思われる。

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不動産所有権確認、所有権取得登記抹消請求本訴、同反訴、不動産所有権確認、停止条件付所有権移転仮登記抹消登記請求本訴、同反訴及び当事者参加 最高裁判所第三小法廷 平成元年6月20日 (PDF

 

 第四章 国会

 現行憲法63条では、内閣総理大事その他の国務大臣は、「答弁又は説明のため出席を求められたときは、出席しなければならない。」という答弁・説明義務があるが、それが削除されている。
 総理大臣と大臣の説明責任は完全に損なわれると考えられる。出席義務もない。

 この草案の92条では、内閣総理大臣は「国家緊急権」も備えているのにもかかわらず、国会に対する答弁・説明義務がなく、出席する必要もないというのはあまりにずさんではないだろうか。草案起草者の方の、何かのミスでしょうか。

 この草案65条の「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う」という意味もほとんど意味をなさないようなものである。

  (立法権及び両院制)
第四十三条 

 現行憲法の「国会は、国権の最高機関であって」などとする政治的美称説などを排除し、他の二権と揃えるために「立法権は、国会に属する。」としたものと考えられる。この点は分かりやすくなっており、憲法を学習する初学者にも優しいものとなると考えられる。

 ただ、「唯一の立法機関」という文言は削除されていることから、国会が他の立法権限を排除する「唯一の立法機関」ではなくなった可能性はある。つまり、内閣や裁判所による政令や省令、裁判所規則などよりも強い、立法に等しい法令を立法する権限を持たせてしまう可能性は現在よりも高まってしまう可能性が考えられるかもしれない。

 地方自治の条例を立法権と見るかどうかについてもこの規定の文言と整合性が出てくると思うが、もう少し検討を重ねた方が良いものと思われる。

 もう少し検討してみたい。 

  (両議院の組織)
第四十四条 
 
  (議員及び選挙人の資格)
第四十五条 
 
 (議員の任期)
第四十六条 
 
 (選挙に関する事項)
第四十七条 

 1項は現行憲法47条と同じである。


 2項は現行憲法にはないものである。

 (議員の兼職の禁止)
第四十八条 
  現行憲法48条と同じである。これについて、「何人も」を「国民は」に変更していない点から見ても、「何人は」を「国民は」に変更した規定は、国民以外の者に対する権利保障を低下させたと見ることが妥当であると考える。
  (議員の歳費)
第四十九条  
  現行憲法49条と同じである。★
  (議員の不逮捕特権)
第五十条 
  現行憲法50条の規定とほぼ同じである。「除いては、」が「除き、」になったぐらいである。★
  (議員の発言等の免責)
第五十一条 

  現行憲法51条と同じである。「問はれない。」が「問われない。」と歴史的仮名遣いが改められたぐらいである。★



⇒★★★
 この草案の49条「歳費特権」、50条「不逮捕特権」、51条「免責特権」であるが、一つの条文にまとめて1項、2項、3項にしてしまってもいいと思う。中途半端に現行憲法の形式を残しているため、この草案の完成度の低さがやや見受けられる。新しい条文を提案しよう。このような感じである。


(議員の特権)
第〇条 両議院の議員は、法律の定めるところにより、国庫から相当額の歳費を受ける。
2 両議院の議員は、議院で行った演説、討論又は表決について、院外で責任を問われない。
3 両議院の議員は、法律の定める場合を除き、国会の会期中逮捕されず、会期前に逮捕された議員は、その議院の要求があれば、会期中これを釈放しなければならない。


 これでアクセシビリティも高まったと思う。

  (通常国会及び臨時国会)
第五十二条 
  この規定は、現行憲法の52条53条をセットにしたものと思われる。やや文言も変更している。

<現行憲法>
〔常会〕
第52条 国会の常会は、毎年一回これを召集する。
〔臨時会〕
第53条 内閣は、国会の臨時会の召集を決定することができる。いづれかの議院の総議員の四分の一以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。

 2項は新設である。

 3項は、現行憲法の「総議員の4分の1」から「3分の1」とし、臨時国会を野党側が要求しづらくなり、国会を開きづらくなると考えられる。こうなると、政府の説明責任などは疎かになりやすく、国民の人権保障を求める機会が損なわれると考えられる。
 ただ、「要求があった日から二十日以内に臨時国会を召集しなければならない。」との規定があることから、内閣が現行憲法53条を無視する可能性は低くなるようにも思われる。しかし、現行憲法を通常の法論理で読めば、「直ちに招集を決定しなければならない」と読むのが普通であり、この規定を無視するような内閣が存在した場合、20日以内と期限を区切ったところで、罰則や総辞職の制裁がない限りは、内閣が「特別な事情により…」などと言って結局この規定を無視する可能性も考えられる。内閣の招集決定に対して実質的な効力が向上するかどうかは不明である。
 (衆議院の解散等)
第五十三条 
 
 (議員の資格審査)
第五十四条 
  現行憲法55条前段の「両議院は、各々その議員の資格に関する争訟を裁判する。」とやや文言が変わっている。実質的なことは恐らく変わらないと思われる。後段は現行憲法の「但し」が「ただし」に変わっているが他は同じである。
 (定足数及び表決)
第五十五条 
  この草案の第92条「国家緊急権」の国会承認についてもこの条文が適用されると考えられる。そもそも国家緊急権を規定するべきかという議論が前提ではあるが、国家緊急権は非常に強い権限であるため、「衆議院、参議院のどちらかで承認を得られなかったときは、直ちに解除される。」などの既定を置いた方がまだ抑制的に働くものとなり良いのではないかと考える。
 (会議及び会議録の公開)
第五十六条 
 1項は、現行憲法57条1項と同じである。

 2項は、現行憲法57条2項の「これを公表し、且つ一般に頒布しなければならない。」が、「これを公開しなければならない。」に変わっている。
 3項は、現行憲法57条3項の「要求があれば」の文言が、「要求があったときは」に変わっている。
 (役員の選任並びに議院規則及び懲罰)
第五十七条 
 現行憲法58条とほぼ同じである。文言がやや変わっている点もあるが、実質的な意味は変わらないと思われる。
 (法律案の議決及び衆議院の優越)
第五十八条 

 5分の3以上の多数というのは、3分の2以上の多数というハードルよりは下がっている。

 (予算案に関する衆議院の優越)
第五十九条 
  現行憲法60条とほぼ同じである。現行憲法の「予算」が「予算案」になっている。また、2項が、現行憲法では「予算について、」となっているが、「前項の予算について、」と変わったぐらいである。
  (条約の承認に関する衆議院の優越)
第六十条 
 
  (参議院の優越
第六十一条 
  公務員の任命に関して両議院に同意を求めた新設の規定である。
 参議院の優越を設けているようだが、それ以前に、衆参共に不同意の議決をした場合、公務員は任命できないのだろうか。役職なしになってしまう事態も想定される。それでいいのだろうか。「国会休会中の期間を除いて三十日以内に、」などとあるが、30日間も公務員が任命できない事態とは、異常事態であると考える。これでいいのか疑問である。
  (議院の国政調査権)
第六十二条 
  現行憲法62条の規定と同じである。
 (裁判官訴追委員会及び弾劾裁判所)
第六十三条 
 現行憲法64条の規定から大きく変わっている。
 現行法では罷免の訴追を行う訴追委員会は、衆参から10名ずつ議員で組織される、この規定によって、裁判官訴追委員会は衆議院議員で組織されることとなる。また、現行法では弾劾裁判所も衆参から7名ずつの裁判員で組織されるが、この規定によって、参議院議員で組織されることになる。
 第五章 内閣  
  (行政権)
第六十四条 

 現行憲法の65条と文言は同じである。
 しかし、内容は大きく異なる点がある。特に、この草案の17条の「軍」の指揮権は内閣総理大臣に属している。また、92条の国家緊急権の「緊急かつ必要な措置」を講ずる権限も内閣総理大臣に属している。これは、内閣に属する行政権とは異なると思われる。この点を注意して読み解く必要があるだろう。(現在運用されている自衛隊は、内閣の指揮下にある行政機関です。)


参考 『自衛隊法

第二章 指揮監督
(内閣総理大臣の指揮監督権)
第七条  内閣総理大臣は、内閣を代表して自衛隊の最高の指揮監督権を有する。

  (内閣の組織及び国会に対する連帯責任)
第六十五条 

 3項に、「法律の定める国家公務員は、日本国籍のみを有する者に限る」との文言がある。現在、国立大学の教員として外国人の就任は認められているが、この規定に抵触する可能性がある。もっぱら専門的・技術的な分野においてスタッフとしての職務に従事するや教育業務など、統治作用に関わる程度の弱い職務においては、外国人の公務員も許容した方が国益に沿うのではないだろうか。国際的な視野も広がり、国の安全保障を維持する政策に広い視野や強力な刺激を与えてくれる外国人もいるものと思われる。


 4項の内閣の連帯責任は、質疑や質問、国政調査権、衆議院の内閣不信任決議などで追及されるものであるが、この草案では、現行憲法63条の総理大臣とその他の大臣の国会での「答弁・説明義務」が削除されていることから、連帯責任は弱められると考えられる。

  (内閣総理大臣の指名)
第六十六条 

 現行憲法67条の「内閣総理大臣は、国会議員の中から国会の議決で、これを指名する。」から、「衆議院議員の中から」というように範囲を限定した。内閣総理大臣は内閣総理大臣の有するとされる解散権との関係で、衆議院議員から選ばれるのが通例である。しかし、この規定は参議院議員の内閣総理大臣が誕生する可能性を明確に排除したものである。内閣総理大臣が欠けた時や、戦時中に大臣が相当数失われた場合など、参議院議員の内閣総理大臣が選出される可能性も残しておいた方がいいのではないだろうか。軍隊を保持しようとするこの草案の作成者としては、危機管理能力が十分でないように見受けられる。


 2項は現行憲法の「異なつた」が、現代仮名遣いの「異なった」に変わったこと以外は全く同じ規定である。

  (国務大臣の指名及び罷免)
第六十七条 
 現行憲法は、68条で「内閣総理大臣は、国務大臣を任命する。」となっている。その点、この草案では「国務大臣を指名する。」となっている。この草案の14条とも重なっているので、チェックしておきたい。
 2項は現行憲法は68条と同じである。
  (内閣の不信任)
第六十八条 
 この草案の12条では、天皇は「内閣の補佐」を受けるとされている。そして、国事行為として衆議院の解散権を有している。これは、現行憲法で運用されている内閣の「助言と承認(現行憲法7条)」による内閣総理大臣が決定権を持つとされる7条解散を否定したものである。よって、衆議院の解散は、「天皇の解散権行使(この草案14条3号)」とこの規定の「内閣不信任決議の解散(68条)」となる。
  (内閣の総辞職)
第六十九条 
 現行憲法70条とほぼ同じである。
 「衆議院議員総選挙」が、「衆議院議員の総選挙」に変わったこと、「召集があつた」が「召集があった」に変わったことだけである。
  (総辞職後の内閣)
第七十条 

 現行憲法71条とほぼ同じである。
 「あらたに」が「新たに」へと、「任命されるまで引き続きその職務を行ふ」が、「任命されるまでの間、引き続き、その職務を行う」へと変わったぐらいである。


 現行憲法でも同じ規定であるため、この草案だけの問題ではないが、この規定を普通に読めば、現行憲法の7条解散は想定されていないようにも読める。改めて自主憲法を制定することを提案する政党であるならば、この点についてもどうするのかより明確にするべきであると考える。

  (内閣総理大臣の職務)
第七十一条 

 1項は現行憲法の72条と同じである。
 2項は新設である。この規定によって、「内閣総理大臣が欠けたときに準ずる場合に関する法律」が制定されるものと思われる。内容は法律に委ねられるが、「内閣総理大臣があらかじめ指定する国務大臣」とあることから、国会議員でない内閣総理大臣の誕生もあり得るのかもしれない。なぜならば、この草案の67条1項の規定より、国務大臣の過半数が国会議員であればいいということになっているからである。国会議員でない内閣総理大臣が臨時に誕生した場合、その絶大な権限(軍の指揮権や国家緊急権の緊急かつ必要な措置などを含む)をほぼ民間人に任せることにもなる。議院内閣制としての、この草案65条4項の「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。」の規定も無意味なものとなりうるのではないか。


 いや、内閣法9条に同じような条文を見つけたが、わざわざこれを憲法に書き込む必要はあるのだろうか。憲法規定と法律規定の線引きをどのように考えているのか明確にしてほしいところである。


 内閣法

 9条「内閣総理大臣に事故のあるとき、又は内閣総理大臣が欠けたときは、その予め指定する国務大臣が、臨時に、内閣総理大臣の職務を行う。 」

 10条「主任の国務大臣に事故のあるとき、又は主任の国務大臣が欠けたときは、内閣総理大臣又はその指定する国務大臣が、臨時に、その主任の国務大臣の職務を行う。」


 これを見ると、現行の内閣法も不安な内容である。これでいいのだろうか。

  (内閣の職務)
第七十二条 

 3号で「国会の承認を得なければならない。」とあるが、現行憲法の53条「いづれかの議院の総議員の4分の1以上の要求があれば、内閣は、その召集を決定しなければならない。」の規定を無視している内閣が存在するため、同じ「なければならない。」という文言では、この規定も無視される可能性が高い。現行憲法の73条「但し、事前に、時宣によつては事後に、国会の承認を経ることを必要とする。」の「必要とする。」の文言の方が、条約締結の効力の有無を明確にできると思われる。「なければならない」の文言へと変更することは内閣の憲法無視を助長しかねないのでお勧めしない。


 現行憲法の73条5号の「予算を作成して国会に提出すること。」から、「憲法改正案、法律案及び予算案を作成して国会に提出すること。」に変わっている。行政権である内閣が憲法改正案を提案することを明確にしている。これは、国民のつくった憲法によって規定されている行政権が、その憲法を乗り越えて改正しようとするものである。行政権の独裁を招く憲法原理の基本からは通常許すべきでない方法である。国民がそこまで内閣を信頼し得るのか疑問もある。


 現行憲法の73条6号の「罰則を設けることができない。」の規定が削除されて変更されている。「義務を課し、権利を制限することができない。」とあることから、罰則についてもここに含まれているのかもしれないが、解釈の余地を残している。これは、行政による処分を受ける側の国民目線としては人権保障の観点で安心できるものではない。


 現行憲法73条7号の「大赦、特赦、減刑、刑の執行の免除及び復権を決定すること。」が削除されている。この草案では、「内閣の助言と承認(現行憲法3条・7条)」の規定も変更されて「内閣の補佐(この草案12条1項)」となっていることから、天皇はこの草案の11号の「恩赦を行うこと」について、内閣の決定によらない独自の決定権を持つこととなる。

 (国務大臣の特権)
第七十三条 
 現行憲法75条とほぼ同じであるが、やや表現が変わっている。
 現行憲法75条「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。但し、これがため、訴追の権利は、害されない。」
 第六章 裁判所   現行憲法の「司法」の文言が、「裁判所」に改められた。「司法」という言葉は、「立法」「行政」に対応する言葉であるため、この草案では「国会」「内閣」に合わせて「裁判所」に変更したものと考えられる。これによって、現行憲法55条の議員内での国会議員の「資格争訟裁判」の規定も改められ、「資格についての議決」の意味に変わっていると思われる。しかし、この草案の63条では、裁判官に関する「弾劾裁判所」については、「裁判所」の用語を使っており、やや整合性がない。
  (司法権の独立)
第七十四条 

  1項は、現行憲法76条の「すべて司法権は」との文言が「司法権は」に変わっている。また、現行憲法76条2項は削除されている。これによって、特別裁判所は設置することができるようになり、行政機関も終審として裁判を行うことができるようになったと思われる。この草案92条の国家緊急権との関係で、行政機関による一方的な終審の裁判判決も下される恐れが高まったと思われる。

 この草案の2項は新設である。司法権の独立が現行憲法よりも明確になったと思われる。


 3項は、現行憲法76条3項の「すべて裁判官は、その良心に従ひ独立してその職権を行ひ、この憲法及び法律にのみ拘束される。」から変更されている。これによって、司法権は独立しているが、それぞれの裁判官同士については、独立していないことが明確となった。つまり、裁判所内部では特定の事件に対して他の裁判官からの圧力が行使されることも考えられる。また、憲法及び法律に従えばいいだけであり、厳格に拘束されるような趣旨はなくなった。規範機能が緩まった印象を拭うことはできない。

  (最高裁判所の規則制定権)
第七十五条 
 
  (裁判官の資格及び身分保障)
第七十六条 
 
  (最高裁判所の裁判官)
第七十七条 
  裁判官の報酬については、78条2項の規定と重なるため、新たな条文を追加して一条に収めた方が良いと考えられる。現行憲法でも重複しているが、この点はもっとアクセシビリティを改善できると考える。
  (下級裁判所の裁判官)
第七十八条 
  裁判官の報酬については、77条4項の規定と重なるため、新たな条文を追加して一条に収めた方が良いと考えられる。現行憲法でも重複しているが、この点はもっとアクセシビリティを改善できると考える。
  (最高裁判所による法令審査権及び合憲性審査)
第七十九条 
 最高裁判所の中に『憲法裁判部』を設置している。そして、「具体的な訴訟事件において」とあることから、憲法判断については付随的違憲審査制を採用していると考えられる。他党の案では、憲法裁判所を設置し、いくつかの条件を揃えれば抽象的事件も審査できる抽象的違憲審査制をとったものもあるが、そうではないようだ。
 6項にて、最高裁判所が憲法に違反すると判断した場合、条約、法律、命令、規則、条例及び処分は効力を有しないとされる。よって、条約と憲法の関係について憲法優位説を採用していることを明確にしている。また、当該法令は直ちに無効となることから、裁判所に消極的立法作用を認めたことを明確にしている。この点、「具体的な事件」を解決することのみを専門としている裁判所の性質から、「具体的な事件が起きた場合には、裁判所による消極的立法作用も行われる」とするものとなる。これは、具体的事件に対して法令の違憲を宣言して適用を排除し、その法令の改廃は国会の立法措置を待つという現在の姿勢から大きく変わるものとなる。こうなると、「違憲ではあるが、無効ではない。」とする事情判決を一切出せなくなってしまう。すると、「違憲ではあるが、取消すと著しく公益を害する(公共の福祉に適合しない)事情がある場合」であっても、直ちに無効となる。選挙での一票の格差の問題を抱えたまま違憲判決が下れば、選挙は無効となることから、その後開かれた国会や、その議事手続きでつくられたすべての法律は直ちに無効となる。これは、重大な問題を引き起こすと考えられる。 
  (裁判の公開)
第八十条 
 現行憲法82条に当たる規定である。1項と2項の両規定で、現行憲法の「対審」が「口頭弁論及び公判手続」に変わっている。また、現行憲法の「虞がある」が、「おそれがある」に変わっている。現行憲法の「但し」が、「ただし」に変わっている。

 

 第七章 財政

  現行憲法91条の「内閣は、国会及び国民に対し、定期に、少くとも毎年一回、国の財政状況について報告しなければならない。」との規定が削除された。よって、内閣は国会及び国民に対して財政状況を報告する義務はなくなった。国民も、この規定に基づいて内閣に対して財政の報告を求める権利を奪われたと見るのが妥当であると思われる。国の機密事項が増え、説明責任がおろそかになると思われる。


 現行憲法89条の「公金その他の公の財産は、宗教上の組織若しくは団体の使用、便益若しくは維持のため、又は公の支配に属しない慈善、教育若しくは博愛の事業に対し、これを支出し、又はその利用に供してはならない。」の規定は削除されている。ただ、この草案22条4項に、社会的儀礼又は習俗的行為の範囲を越えないものについて、宗教的な活動に対して財政的支援を行ってはならない旨の規定は存在している。

  (財政の基本原則)
第八十一条 
  現行憲法83条の「国の財政を処理する権限は、国会の議決に基いて、これを行使しなければならない。」との文言からやや抽象度の高い表現に変更されている。現行憲法の「国の財政を処理する権限」というのは、現行憲法65条「行政権は、内閣に属する。」、76条「すべて司法権は、最高裁判所及び(略)下級裁判所に属する。」に対応するものと思われるが、この草案では「国の財政は、」というように権限であることが分かりにくくなっている。また、「処理しなければならない。」との表現に変わり、財政に対する「権限行使」のイメージから、「財政処理」のイメージへと降格したと思われる。この草案作成者は、財政が一つの大きな権限を有しているというような感覚はないと思われる。
  (租税法律主義)
第八十二条 

  現行憲法84条の「あらたに租税を課し、又は現行の租税を変更するには、法律又は法律の定める条件によることを必要とする。」との規定からやや変更されている。「あらたに」が「新たに」と漢字になった。「法律の定める条件」という規定がなくなったため、税制の細かい事項についても法律による規定を必要とするようになった。この点、行政府への委任立法が難しくなったため、税制の民主的統制は強化されたと考えられる。ただ、行政による法律の範囲内で規定を変更する柔軟性は下がったと思われる。柔軟な社会事情の変化を法律の範囲内で反映することができるのか疑問である。


 この草案の89条の、地方自治体の条例による租税についても想定した文言に変更した方がいいのではないかと思う。現行憲法でも明確に想定されていないが、せっかく改正案をつくるのであれば、他の規定に抵触するような条文は改善したい。考えられるものとしては、「法律によることを必要とする。」ではなく、「議会による法律や条例によることを必要とする」にしたり、「新たに租税を課し」ではなく、「新たに国の租税を課し、」などとすると抵触を修正できると思われる。

  (国費の支出及び国の債務負担)
第八十三条 
  現行憲法85条のそのままである。
  (予算案)
第八十四条 

  1項は現行憲法86条の「予算」が「予算案」に変わっている。「その審議を受け議決を経なければならない。」の文言が、「その議決を経なければならない。」に変わっている。審議の過程を大切にする印象が薄れ、議決だけを求めるような内容となった。これは、予算案の良し悪しを詳しく調査・検討する姿勢が減少したと思われる。

 2項は、暫定予算制度が憲法中に設けられた。現行憲法においても、当初予算または暫定予算が年度開始前までに議会の承認を得られずに成立しなかった場合は想定されていない。せっかくこの規定を設けるのであれば、その事態も想定した規定を設けた方がいいのではないだろうか。

 3項は、補正予算制度が憲法中に設けられた。財政法29条に似たような規定がある。これを憲法中に書き込むということにどのような意味があるのか、今後も検討していきたい。


財政法 条文

 4項は、新設の規定である。この規定の意味するところは何か、もう少し検討してみたい。

  (予備費)
第八十五条 

  現行憲法87条とほぼ同じである。2項であるが現行憲法の「すべて予備費の支出」という文言が、「予備費の支出」となっている。特に問題はないと考える。

  (決算の承認及び会計検査院)
第八十六条 
  現行憲法90条1項の「これを国会に提出しなければならない。」との文言が、「これを参議院に提出し、その承認を得なければならない。」に変わっている。これは、参議院の権限を強化し、衆議院の一方的な優越を改め対等な権限にすることを意図したというよりも、衆議院の権限を奪ったと見ることが妥当であると考えられる。よって、衆参のダブルチェックがなくなるため、財政は比較的容易に議決されることになる。内閣の権限拡大を狙ったものと考えられる。国民の税金を監督する機能も弱まり、国民の人権保障の質も下がったと見ることができる。

 2項は新設規定である。

 3項は、改善内容を国会に報告するだけでよいということになる。

 4項は現行憲法90条2項と同じである。
 第八章 地方自治  
  (地方自治の基本原理) 
第八十七条 
 4項で地方自治の種類は都道府県及び市町村とすると定めたことから、普通地方公共団体ではない特別地方公共団体の特別区「東京23区」の存在はどう扱うのか気になるところだ。 
  (地方自治体の議会、その選挙)
第八十八条 
  2項で、高度な意思決定を有しない役職であっても、地方公務員であればすべて日本国国籍を有する者に限定された。
 3項でも、首長や議会議員、地方公務員を選挙するのも、日本国籍を有する地方自治体の住民に限られた。現在の判例の論理では、「地方自治は住民の生活に密接に関わる問題であるため、外国人に選挙権を与えることを一概に禁止しているわけではない」などとされている。この論理を否定したものであると考えられる。
 4項についても上記と同様である。
 (地方自治体の権能)
第八十九条 

  2項について、現行憲法84条は租税を課すのは法律によると定めているが、学説等では議会による民主制の過程を経ている条例でも租税を課すことが認められている。それを追認した規定であると考えられる。

 ただ、この草案の82条の租税"法律"主義の趣旨との抵触を避けるように整備しなおすべきであると考える。

 第九章 最高法規

  最高法規の章から現行憲法の97条の文言が削除されている。これによって、「基本的人権を保障するために憲法が存在している」という趣旨の実質的最高法規性が損なわれたと考えるのが妥当である。よって、この草案は、「最高法規であるがゆえに最高法規である。」との形式的最高法規性の宣言を国民に押し付けるものであり、現行憲法の「国民の実質的な人権を守るための法典であるが故に、最高法規である。」との意味が失われている。これは、人権の性質について、「人は生まれながらに人権を持っている。」という自然権思想を採用したものではなく、法実証主義の人権を採用したものであると考えられる。法実証主義の憲法は、ドイツのヒトラーの時代の法典解釈の方法である。この方法は、人権保障の実現よりも法文そのままの意味を優先する機械的な法解釈とその適用や執行が行われたために大量虐殺が起きるなど、大失敗に終わった経験がある。それをまた繰り返すかのような法実証主義の最高法規の規定は、人権保障にとって極めて危険であると考える。

 現行憲法の97条と11条後段の重複を防ぐために削除したとの意見もあるかもしれないが、「最高法規」は総則的な規定であるため、削除するならば、97条ではなく、11条後段を削除するべきである。現行憲法では、97条の人権と憲法に関する総則的規定を受けて、「国民の権利及び義務」の章が規定されているのである。総則を削除して各論を残すというのは、人権保障機能を低下させる改正に他ならない。非常に危険である。現行憲法の97条を残して、11条後段を削除するならば重複を防ぐ意図は理解できる。

 

 現行憲法の97条が観念的で特異な条文であり、煩わしいように感じてしまうかもしれないが、この観念的な文言こそが法認識の大前提であり、全法体系の効力の源泉であるという重要な役割を再認識した方が良いと考える。この草案の作成者には、一度「法哲学」の専門書を読んで学んでもらいたい。条文の技術的整合性や簡潔性だけでは法の効力は不完全であることを学ぶことができるはずである。

  (憲法の最高法規性)
第九十条 
  現行憲法には明確に書かれていない「規則」「条例」、「処分」、「地方自治体の行為」が加えらている。しかし、現行憲法に記載のある「詔勅」は削除されている。つまり、天皇の意志を表示する「詔勅」は最高法規に反していても効力を有することになると考えられる。皇室典範も国会の議決によるものであるか定かでなくなったことから、天皇の権限拡大が明らかである。
  (憲法尊重擁護義務)
第九十一条 

 国民に憲法尊重義務が課せられたことから、「憲法なんて紙くずだ」などの言論が弾圧される恐れがある。「憲法を尊重しない」という思想良心の自由はこの規定によって奪われてしまうと考えられる。現行憲法の、「たとえ憲法が嫌いな人であっても、その人の人権をも保障する。」という価値相対主義の寛容の精神は完全に失われてしまう。憲法の批判をしたならば、非国民であると政治権力や国家権力から非難される可能性も出てくる。憲法批判のしづらい国家となってしまい、国民は憲法改正の問題提起さえ不能となる恐れがある。

 日本国憲法の12条では、「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と規定している。国民は人権を保持することで憲法を制定し、それによって政府という統治機関を設置し、それらの者に憲法を守るように規定したのである。国民には「憲法遵守」ではなく、既に「人権保持」を義務付けているため、これで足りるはずである。

  (国家緊急権)
第九十二条 
 緊急事態宣言が発令された際、内閣総理大臣に権限が一極集中するが、これは内閣の閣議による必要もないものである。よって、この草案の65条4項の「内閣は、行政権の行使について、国会に対し連帯して責任を負う。」の規定も及ばない可能性がある。
 「緊急かつ必要な措置を講ずることができる(7項)」とあるが、その範囲は限定されていない。さらに、この国家緊急権が「最高法規」の章にあることから、「裁判所の違憲審査」も全く及ばないと考えられる。内閣総理大臣の単独の権限であることから、そもそも内閣に属するとされる「行政権」でない可能性がある。どんな理由付けであっても、総理大臣が国家緊急事態を宣言してしまえば途端にどのような措置を講ずることもできるようになってしまう。
 国民の生命及び財産を保護するという理由さえあれば、メディアや記者の取材を拒否し、情報公開をせず、表現の自由を侵し、言論封殺することも可能であると考えられる。すると、国民の知る権利はなくなり、民主制の過程が正常に機能しなくなるため、国会による事後統制も効かなくなってしまう。
 さらに、5項にて「法律の定めるところにより、その宣言が効力を有する期間に限り、両議院の議員の任期を延長することができる。」としている。総理大臣の権限は限定されておらず、最高法規の章にあることから超法規的なものとなるため、そもそも「法律の定めるところにより、(略)議員の任期延長」とはなっているものの、総理大臣がその法律を失効させる恐れも考えられる。最高法規とはそのレベルのものである。まさにルイ14世の「朕は国家なり」の状態であると考えられる。絶対主義王政である。もし議員の任期が延長されたならば、現状追認で保身を図る議員も増えると考えられる。
 この状態に対する国会の承認は、衆参の過半数で決せされる。また、衆議院で承認され、参議院で否決された場合、衆議院で再び5分の3以上の多数という比較的少ないハードルで国会の承認が行われてしまう。議院内閣制をとる日本では、国会の最大政党の党首が総理大臣に任命されることが通例であるため、国会の承認は極めて容易に得られるものと考えられる。すると、少数政党の言論が封殺されるなど、首相の権限を最大政党が後押しするために国会承認の強行を乱発する事態も考えられる。
 国家緊急権は非常に強い権限であるため、「衆議院、参議院のどちらかで承認されなかったときは、直ちに解除される。」などの既定を置いた方がまだ良いものと考えられる。
 7項の「真に必要な限度」というのは非常に恣意的な判断にならざるを得ないと考える。「総理大臣にとっては真に必要であるが、国民にとっては真に必要とはいえない」ということもありうるからである。
 国民の人権保障は総理大臣の恣意的な権限行使によって侵害される可能性が極めて高い。「我が国の存立並びに憲法の基本秩序及び国民の基本的権利の維持のため」であれば、身体活動の自由を奪われたり、生命権を侵害される恐れも規定に際限はない。国家による強制販売や税金として財産を強制徴収される恐れもある。国民は国によるそれらの人権侵害に対して抵抗する権利もこの規定との競合によって奪われてしまうと考えられる。
 国家緊急事態で行われた措置によって失われた国民の財産や損害等を、後に国家が補償する規定も存在していない。国家の原状回復義務もない。
 また、7項と8項を分けて記載する必要があるのか分からない。まとめて一文で書けるものであると考えられる。
  第十章 改正  
 第九十三条 

  現行憲法の3分の2以上という硬性憲法のハードルが5分の3へと下がっている。比較的少ない多数勢力であっても、少数派の人権を侵害するような憲法改正を発議することを容易にしたとも読める。たとえ少数派であったとしても、多数派の意志や決定からその者の人権保障を守り抜こうとする立憲主義や硬性憲法の精神は損なわれると考えられる。

 現行憲法96条2項の「国民の名で」の文言が削除されており、国民主権原理による憲法改正であることを明確に示す文言が失われている点で問題性が感じられる。天皇の権力拡大の傾向がここにも現れている。


その他の分析

〇 「歴史や伝統、文化」などを憲法の条文中に書き込もうとする発想は、法とその他の学問を区別できていないことから生まれていると考えられる。法の効力の源泉には、歴史や伝統、文化などは必要ないことは誰もがイメージできると思う。例えば、憲法の下につくられた法律である「民法」であるが、民法の債権関係の取引に歴史や伝統、文化などは必要ない。そこに必要なものは、取引を実現するための法の効力だけである。その法の効力の源泉は、個々人の権利である。その権利とはつまり、「人権」から導かれるものである。取引において、その民法中の権利が満たされなかった際、裁判所がその者の「人権を保障するため」に法を使うのである。

 しかし、憲法の中に歴史や伝統、文化などを入れたならば、その下につくられる民法などの法律も当然に歴史や伝統、文化などを基につくられていくことになる。そうなると、裁判判決においても、権利救済や人権保障のためではなく、「歴史や伝統、文化のため」に法の効力が保障されるようなことになりうる。これはどうも違うのではないだろうか。
 この草案の立法者にはまず、『法』の学問領域と、その他の学問領域の区別をしていただきたいと思う。そして、「歴史や伝統、文化」などというものは、人権保障とは別の分野として、地域文化や観光、海外向けの広告などで政策として、あるいは企業の経営方針として発揮していただきたいと思う。

 また、憲法と政治政策の理念をしっかりと区別できるようになった方がいいのではないかと思われる。憲法は人権保障を基にした法制度について規定し、歴史や伝統、文化などについてはそれぞれの政党の掲げる政治政策で理念を掲げればいいのである。この点を混ぜてしまっているために、法制度の根幹を揺るがす改憲草案になってしまったものと思われる。


〇 法学の分野に、歴史や伝統、文化などの概念を導入することは、「法的正当性」を失わせる原因になる。新しい憲法をつくり出す上でも、この「法的正当性」にもう少し敏感になって考えていくべきだと思われる。


〇 多くの点で国民の人権保障の質が下がったように見える。特に、現行憲法の「最高法規」の章に含まれていた97条が削除されたのは大きな問題があると考える。人権保障のための法典であるという憲法の実質的最高法規としての根拠が失われたからである。どうしても重複を防ぎたいならば、97条ではなく11条後段の重複部分を削除した方がまだ国民の人権保障を法的に確実にすることができたはずである。これらの点を十分に改善したならば、国民に受け入れられやすくなる可能性はある。



現行憲法の「実質的最高法規性」と「形式的最高法規性」


〇 現行憲法の【総則規定】【人権規定】【統治規定】という法の体系が損なわれた点は全体を把握しづらくなった。条文の意図や分類を整理しなおし、法の体系美を整えるべきであると考える。現行憲法においても、体系美は十分には整備されていないが、ここを改めていかないと現行憲法を越える価値を生み出すことはできないと考える。

〇 「軍の保持」と「国家緊急権」がセットで使われるだろうということを確認しておくべきだろう。論争が多そうな点である。これらは、セットで「内閣」の章に配置しなおすべきではないだろうか。中途半端に現行憲法の体系を引き継いだために、内閣の権限があちこちの章にばらばらと配置されており、アクセシビリティも低い。これは国民が憲法を学習する際、非常に分かりづらい体系となっている。現行憲法の部分改正ではなく、「自主憲法制定」を掲げる政党であるならば、憲法そのものの体系をゼロから考え直した方が良いと思われる。

 例えば、「最高法規」の章と「日本国のかたち(この規定が必要であるかは別として)」の章を合体せさせる。「(国家緊急権)」の条文と「平和の維持」の章をセットにして、「内閣」の章の中に組み入れる。「天皇」の章を「国民の権利及び義務」の章と「国会」の章の間に入れる。すると、「立法(衆議院・参議院議長)」「行政(内閣総理大臣)」「司法(最高裁長官)」の三権の任命権者(この草案の13条〔天皇の任命権〕)である「天皇」の位置付けが明確となる。憲法の体系も美しく整備され、国民が憲法を学習する際も分かりやすくなるだろう。


〇 最高裁判所の中に『憲法裁判部』を設置し、付随的違憲審査制を採用している点は、『憲法裁判所』を通常裁判所の外に設置し、さらに抽象的違憲審査制も可能とする日本維新の会の改憲案とは性質の異なるものである。この草案のこの点を確認しておきたい。


〇 いくつかの条文で、アクセシビリティが高まり、読みやすく分かりやすくなった点が見られた。これは、国民が憲法を理解する上でも非常に重要な点であると考える。他党の草案もこの点は見習うべきであると考える。ただ、条文の文言が国民の人権保障を疎かにするかどうかには敏感になって調整していくべきところである。その点が押さえられていれば、アクセシビリティを高める提案は成功するものと思われる。



〇 下記の文言は、心理学の「ダブルバインド」に当たる。国民を混乱に陥れ、問題点の多いものである。国民が統合失調症的な行動パターンを示すようになるとも考えられる。

 

① 第一指令


(思想及び良心の自由)
第二十一条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない


② 第二指令


(歴史、伝統及び文化の尊重)
第六条 国民は、日本の歴史、伝統及び文化を尊重しつつ、文化芸術の振興及び国際交流に努め、豊かな国民生活及び活力ある社会の実現に貢献する。


(権利及び自由の尊重及び濫用の禁止)
第十九条 この憲法が保障する権利及び自由は、公共の福祉に反しない限り、立法その他国政の上で、最大限尊重される。
2 国民は、この憲法が保障する権利及び自由を、濫用してはならないのであって、不断の努力によってこれを保持し、互いにその権利及び自由を尊重しなければならない


(学問の自由)
第二十三条 学問の自由は、これを保障する。大学の自治は、これを尊重しなければならない


(憲法尊重擁護義務)
第九十一条 国民は、この憲法を尊重しなければならない
2 国務大臣、国会議員、裁判官その他全ての公務員は、この憲法を擁護する義務を負う。


 このような両立できない指令が出されていると、国民はどちらに従って行動すればいいのか分からなくなる。このように他者を行動不能に陥らせるような文言は、「モラルハラスメント」である。


〇 気になった点として国民の義務がかなり増えていることが挙げられる。会社経営でも同じだと思うが、お客さんに対していろいろ要求する会社は、評判も良くないし、それほど良い会社ではないと思われる。国民に対して義務を課すよりも、「国民の方々の中には、憲法を理解していない人もいるでしょう。しかし、それでも私たち国に集う者たちは、あなた方の人権を保障します。」というような、寛容で神様のような温かい志をもって国を運営していくような憲法にした方が良いのではないかと思われる。国民の義務を増やそうというのは、やはりこの草案を作成した者の傲りがあるのではないかとも感じられる。義務規定を増やそうとする意識には、「国民が自分の思うように動いてくれない」というような怒りにも似た気持があるのだと思われる。しかし、それは国民にとって価値ある社会を提供できていない自分たちの責任なのではないかという風に、自らの自覚を改めなおすべきではないだろうか。たとえ国民が何もしてくれなくとも、その人たちの人権を守り続けることを決意するような謙虚さが求められるように思う。義務規定で国家の力を行使するよりも、国民が自然にそうしたくなるような社会環境をつくることを、自らの中に決意していくことが大切ではないだろうか。

 現行憲法は、社会に無数にある様々な共同体の中でも「国」という共同体に期待し、集い、努めようとする者が、自らの自主的な思いによって人々の人権保障や幸せな生活を実現することを決意するような価値相対主義の立場でつくられている。その決意のない人には何も求めなかった。そういう姿勢こそが、成功する「国家」という企画をつくり出していく力になるのではないだろうか。

 ただ、この文章を書いている私自身も、この草案作成者にその意見を押し付けることはしたくない。もしそうしてしまったならば、それはやはり私自身の傲りになるからだ。そのため、この草案を批判的に批評し、指摘をしている私自身の傲りから、砕いていきたいと思う。当サイトをご覧いただきありがとうございます。見ていただける方がいるからこそ、当サイトは成り立っております。大変ありがとうございます。当サイトは、お読みいただいている方に、何か義務を課すものではありません。一つの考え方としてご覧いただければ幸いです。私自身が、より良い国家運営がなされる憲法を提案できますように努めてまいります。ありがとうございました。

 

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