集団的自衛権の合憲性の誤解 2


 こちらのページの内容は、下記のページを先にお読みいただくと理解しやすくなると思います。



公明党


平和安全法制 Q&A 公明党


   【Q. 何をするのか】
 「存立危機事態」での「武力の行使」について、「あくまで日本の防衛を万全にして抑止力を高めることが目的です。」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中での「武力の行使」は、たとえ「日本の防衛を万全にして抑止力を高めることが目的」であっても憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)によって違憲となる。
 「自衛隊は憲法9条で海外での武力行使が禁じられています。」との記載があるが、9条が直接的に「海外での武力行使」を禁じているとの記載では、その過程を省略しているものであるため、正確な理解を得る必要がある。政府は「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵は、一般に自衛のための必要最小限度を超えるものであり、憲法上許されない」と説明し、海外での「武力の行使」が憲法上許容されないとしてきたのは、一般に「自衛のための必要最小限度」を超えると考えるからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことを意味する。海外での「武力の行使」が憲法上一般に禁じられるとの基準は、この三要件(旧)の第一要件「我が国に対する急迫不正の侵害があること」、第二要件「これを排除するために他の適当な手段がないこと」、第三要件「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を満たさないと考えることが理由となっているのである。

   【Q. 9条との関係は】
 「A. 専守防衛は不変。もっぱら他国防衛のための集団的自衛権の行使は禁止」とのタイトルがあるが、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言う。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、「専守防衛」の「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」に当てはまらない。また、「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解にも適合しないことから、「憲法の精神に則った」にも該当しない。そのため、「専守防衛」は損なわれており、「不変」との記載は誤りである。「もっぱら他国防衛のための集団的自衛権の行使は禁止」についても、9条の下で『他国防衛』のための「武力の行使」が許容されないことは当然、『自国防衛』であるからと言って必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解に記された規範である「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないため、すべて違憲である。「他国防衛のための集団的自衛権の行使は禁止」としているが、ここに『自国防衛』のための「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」が憲法上許容される余地があるかのように考えている点で誤りである。
 「しかし、外国の武力攻撃によって、日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫不正の事態にどう対処すべきでしょうか。」との記載があるが、この文言は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範について述べた部分から抜き出した文言が使われていると思われるが、そこで記された「外国の武力攻撃」とは、「『わが国に対する』外国の武力攻撃」である。なぜならば、9条は政府が自国都合によって「武力の行使」や戦闘行為に踏み切ることを制約する規定であり、ここに「『わが国に対する』外国の武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれると解するのであれば、結局「わが国」と関係のない他国間の武力攻撃が発生した時点で、「自国の存立」や「自国民の権利」の危険を理由に「武力の行使」や戦闘行為に踏み切ることが可能となってしまうのであって、9条が有する意図を生かすことができなくなり、9条が存在している事実を損ない、法解釈として妥当でなくなるからである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」についての規範である「外国の武力攻撃」は、「『わが国に対する』外国の武力攻撃」を意味するのであり、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。
 「『(自衛の措置は)国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべき』との解釈を示しています。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解を正しく抜き出したものではないため、不備がある。1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。この記事が記している部分だけでは、9条が「武力の行使」を制約する法解釈上の規範があたかも数量的な意味での「必要最小限度」という基準であるかのように誤解を生むものとなっている。この1972年(昭和47年)政府見解の記している「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の部分は、「武力の行使」の三要件で言えば、第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。
 「そのため、9条の下で許容されるのは専守防衛のための武力行使に限定され、それを超える、もっぱら他国を防衛するための武力行使、いわゆるフルサイズの集団的自衛権の行使は許されません。」との記載があるが、「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うが、1972年(昭和47年)政府見解によって『他国防衛』のための「武力の行使」や「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はすべて違憲となる。そのため、論者が許容しようとしている「集団的自衛権」に該当する『自国防衛』のための「武力の行使」についても違憲となり、「専守防衛」を超えることとなる。
 「平和安全法制は、他国の武力攻撃であっても、日本が武力攻撃を受けたと同様の被害が及ぶことが明らかな場合を存立危機事態と定め、自衛の措置を認めました。」との記載があるが、「日本が武力攻撃を受けたと同様の被害が及ぶことが明らかな場合」であっても、未だ「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないのであれば、9条に抵触して違憲となる。ただ、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かについては、「我が国に対する武力攻撃」の「着手」が認められるか否かが判断基準である。「日本が武力攻撃を受けたと同様の被害が及ぶことが明らかな場合」であると政府が主観的に感じて認定するだけで、未だ「我が国に対する武力攻撃」の「着手」が認められないにもかかわらず「武力の行使」が可能となる要件を定めることは違憲となるのである。
 「これは専守防衛の範囲内であり、『憲法違反の集団的自衛権の行使を認めた』との批判は的外れです。」との記載があるが、先ほども述べたように、「存立危機事態」の要件については、1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲となるのであり、「憲法の精神に則っ」ていることを意味する「専守防衛」の定義の範囲には含まれない。「『憲法違反の集団的自衛権の行使を認めた』との批判」は的当たりであり、この記事の内容が的外れである。


憲法は「他国防衛許さず」 衆院法制局法制次長 72年見解の説明(要旨) 2014年6月18日


 「自衛の措置は無制限に認めているのではないと解した上で、自衛権行使は」~「はじめて容認されると述べている。」との記載があるが、正確には誤りである。「自衛権行使は」と記載しているが、これは「自衛の措置」についての規範部分であり、「自衛権行使」を直接述べているものとは異なるからである。

 「その上で第3文は、武力行使を行うことが許されるのは、『わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる』とし、他国防衛に当たる集団的自衛権の行使は許されないという論理的な帰結を示している。」との記載があるが、正確な意味を捉えておく必要がある。『他国防衛』に当たる「集団的自衛権」の行使は許されないとの意味は、「集団的自衛権」に該当すれば『他国防衛』に当たる「武力の行使」となることを意味するのであり、『他国防衛』の「武力の行使」は許されないが『自国防衛』の「武力の行使」は許されると考える反対解釈が可能とする意味を有しない。



党合同会議 高村私案を論議 政府 72年見解の基本は維持 2014年6月20日


 議論過程の内容であるが、参加者の意見などは妥当な批判である。「72年見解の基本的論理は『引き続き維持される』と明言。」との記載があり、これが維持される限りは、ここ言う「高村私案」の第一要件の「他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるおそれがあること」の部分は違憲である。


安全保障法制と公明党の対応 2014年7月6日
安全保障法制と公明党の対応 2014年07月07日


 「自民、公明両党による与党協議会の結果に基づき政府は1日、『自衛の措置』の限界を定めた新たな安全保障法制整備に関する閣議決定を行いました。」との記載があるが、「『自衛の措置』の限界」は1972年(昭和47年)政府見解に記されているように、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」とするところにある。この「外国の武力攻撃」とは、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味するのであり、「存立危機事態」の要件はこれを満たさないため、「『自衛の措置』の限界」を超え、違憲となる。「存立危機事態」の要件があたかも「『自衛の措置』の限界」を示したものであるかのような認識は誤りである。


    【閣議決定で何が決まったのか】

 「『自衛の措置』限界示す」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は既に1972年(昭和47年)政府見解で記された「自衛の措置」の限界を超えており、違憲である。

 「外国防衛が目的の集団的自衛権は認めず」との記載があるが、『他国防衛』の「武力の行使」が憲法上許されないのは当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、「外国防衛が目的の集団的自衛権」に当たる「武力の行使」だけを認めないとしたとしても、「存立危機事態」の要件が合憲であるとの論拠は導かれれない。

 「◎武力行使は自国防衛に限定」との記載があるが、憲法上は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではなく、1972年(昭和47年)見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない限りはすべて違憲である。「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば「自国防衛に限定」したところで、合憲性を裏付けることはできない。

 「◎自衛権発動の要件を厳格化」との記載があるが、「存立危機事態」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないのであるから既に違憲なのであって、その要件を「厳格化」したところで違憲であることには変わりない。

 「◎さらなる解釈拡大はできず」との記載があるが、「拡大解釈」の余地があるか否かにかかわず「存立危機事態」は違憲である。そのため、「さらなる解釈拡大」ができないことを主張しようとも、違憲な要件が合憲となるわけではない。

 「自衛権に関する政府の憲法解釈のベースとなっている1972年見解の考え方を引き継いで、自衛権発動の『新3要件』を定め、武力行使に厳格な歯止めをかけた点にあります。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解を維持しているのであれば、「新3要件」の「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に抵触して違憲となる。そのため、その違憲な「武力の行使」の要件に対して「厳格な歯止め」をかけたとしても、違憲であることは変わらない。あたかも要件に「厳格な歯止め」があれば合憲となるかのように考えているようであるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに規範があるのであり、これを満たさなければ要件が「厳格な歯止め」を有していると主張しても違憲なのである。

 「あくまで自国防衛に限った措置であることも明確にしました。」との記載があるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけでもなく、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば、「自国防衛に限った措置であること」を明確にしたところで合憲になるわけではない。

 「これはいわば、個別的自衛権に匹敵するような事態にのみ発動されるという憲法上の歯止めになっており、外国の防衛それ自体を目的とした集団的自衛権は認めていません。」との記載があるが、たとえ「個別的自衛権に匹敵するような事態」であったとしても「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさなければ「武力の行使」は違憲である。「憲法上の歯止めになっており」との記載があるが、「憲法上の歯止め」とは憲法解釈から導かれる規範のことを言うのであり、それは1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分がそれにあたる。「存立危機事態」の要件はこれを満たさないにもかかわらず、「憲法上の歯止めになっており」との評価することは、憲法解釈から導かれる規範でないものを「憲法上の歯止め」と称している点で誤りである。また、「外国の防衛それ自体を目的とした集団的自衛権は認めていません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では『他国防衛』のための「武力の行使」が違憲となること当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。それにもかかわらず、「外国の防衛それ自体を目的とした集団的自衛権」を認めていないが、それ以外の「武力の行使」がすべて認められるかのような認識を有している点は、誤った認識である。

 「さらに閣議決定には、『(72年見解の)基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない』と明記されており、この基本的な論理を変える解釈の変更は認めていません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称する部分が維持されているのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となる。「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としながらも、1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称する部分が維持されていると主張することは、論理的整合性が存在しない。

 「つまり、今回の決定は、平和主義という憲法の柱を堅持し、憲法第9条の下で認められる自衛の措置の限界を示しています。」との記載があるが、「自衛の措置の限界」は1972年(昭和47年)政府見解に記されており、「存立危機事態」の要件はこの「自衛の措置の限界」を超えていることから、9条に抵触して違憲となる。9条に抵触するということは、9条の規範性を損なっているということであり、9条の理念である「平和主義」は損なわれている。「平和主義という憲法の柱を堅持し」との認識は誤りである。


    【平和主義の原則守った公明党】

 「憲法解釈の基本を継承」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解を継承しているのであれば、「存立危機事態」の要件は違憲となる。

 「今後も『専守防衛』は不変」との記載があるが、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」が不変なのであれば、「憲法の精神に則っ」る必要があることから、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解によって「存立危機事態」の要件は違憲となる。もし「存立危機事態」による「武力の行使」が認められるとするのであれば、それは「専守防衛」の定義に当てはまらないため、「『専守防衛』は不変」との認識は誤りとなる。

 「◎従来解釈との整合性を確保」との記載があるが、従来解釈である1972年(昭和47年)政府見解に「存立危機事態」は当てはまらない。そのため、整合性は確保されておらず、「整合性を確保」との認識は誤りである。もしそれでも「整合性」が確保されていると考えるのであれば、「存立危機事態」の要件は「武力攻撃事態」の要件と内容が重なってしまうこととなり、「武力攻撃事態」に該当する区分とは別にして新たに「存立危機事態」を定めたこと自体が無意味なものとなる。

 「◎『新3要件』の条件厳格に」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解に適合せずに違憲となる要件を「条件厳格に」したところで、合憲となるわけでなはい。

 「これに対して安倍晋三首相は5月15日の記者会見で、外国の防衛自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めることは『これまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない』と明言し、政府として、その考え方を採用しませんでした。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないのであり、すべて違憲である。そのため、「外国の防衛自体を目的とする集団的自衛権の行使」だけでなく、『自国防衛』を目的とする「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」もすべて「これまでの政府の憲法解釈とは論理的に整合しない」のである。もう一つ、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」なのであって、「集団的自衛権」に該当すればもともとすべて「外国の防衛自体を目的とする」「武力の行使」である。この「集団的自衛権」の区分の中に『他国防衛』と『自国防衛』の2つが存在するなどという話は、国際法上存在しないし、1972年(昭和47年)政府見解も『他国防衛』であるか『自国防衛』であるかに「武力の行使」の可否を決する規範を定めたものではないことから、「存立危機事態」での「武力の行使」の合憲性を裏付ける論拠とはならない。

 「その結果、政府の憲法解釈のベースとなっている1972年の政府見解の基本的な論理を、今後も維持することが閣議決定の中に明記されました。」との記載があるが、確かに2014年7月1日閣議決定には1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称している部分を維持していると記載されているが、1972年(昭和47年)政府見解の『基本的な論理』と称している部分を維持しているのであれば、「存立危機事態」の要件はこれに当てはまらない。それにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。しかし、2014年7月1日閣議決定は結論として「存立危機事態」での「武力の行使」が可能であるとしているが、論理的整合性が存在しない。この閣議決定は、解釈手続きを誤ったものである。

 「これにより、あくまで自国防衛に限った措置であることを明確にしました。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」をすることはすべて違憲となる旨を示しているのであり、「自国防衛に限った措置」であるからといって「武力の行使」が許容されるとしているわけではない。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであり、違憲である。


    【「平和の党」の役割果たす “蟻の一穴”論は杞憂にすぎぬ】

〇 静岡県立大学グローバル地域センター 小川和久特任教授

 「公明党が『平和』という立脚点を外さず、憲法との規範性、政府解釈との論理的整合性などを厳格に問い続けてきた結果だ。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は結果として憲法9条の規範性を損なっており、1972年(昭和47年)政府見解との論理的整合性は保たれていない。9条の規範性が損なわれていることにより、憲法前文の「平和主義」の精神も損なわれている。

 「拡大解釈に対する究極の歯止めは、公明党が閣議決定に盛り込ませた専守防衛を貫くことだ。」との記載があるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうのであり、「専守防衛を貫く」と「憲法の精神に則っ」ている必要があるから、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解によって「存立危機事態」の要件は違憲となる。そのため、「存立危機事態」の要件が合憲であることを前提として「拡大解釈」に対する「歯止め」をかけようとしても、「存立危機事態」の要件が既に違憲である。また、憲法上の歯止めは憲法解釈から導かれる1972年(昭和47年)政府見解に示された規範なのであって、「存立危機事態」の要件が「歯止め」となるかのように考えることは誤りである。

 「そもそも軍事力としての自衛隊の構造は、他国に本格的な攻撃を加える能力を欠いたものだ。」との記載があるが、「自衛隊の構造」の根拠となるものが法整備なのであって、その法整備か合法であるか否かを問われているために憲法解釈を行っているのであって、「自衛隊の構造は、他国に本格的な攻撃を加える能力を欠いたもの」という装備や運用上の実力を根拠に合憲であるかのように主張しても、未だ憲法解釈上の規範が示されていない中で結論のみを主張しようとするもので、法解釈上の妥当性を有しない。

 「日米同盟による役割分担もあって、自衛隊の構造は憲法第9条を絵に描いたような専守防衛の姿をしている。」との記載があるが、「自衛隊の構造」の中にある「存立危機事態」での「武力の行使」の要件が憲法第9条に抵触するか否かが問われているにもかかわらず、「自衛隊の構造は憲法第9条を絵に描いたような専守防衛の姿」であるとして「自衛隊の構造」の中にある「存立危機事態」の要件までもが「専守防衛(憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢)」の中に含まれることにより合憲であるかのように説明することは論理的に不可能である。


    【「解釈改憲」は当たらない個別的自衛権を補完、拡充】

〇 劇作家・評論家 山崎正和氏

 「要するに、今回の閣議決定は憲法が許容している『専守防衛』のための個別的自衛権の範囲内だ。その上で、個別的自衛権の今まで欠けていた部分を補完、拡充するものであることから、」との記載があるが、内容を整理する。「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことである。そのため、「専守防衛」の範囲内であるか否かは憲法解釈から導かれる規範によって決せられる。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」というものが「専守防衛」の範囲内であるか否かを決することになる。「存立危機事態」の要件はこの「わが国に対する急迫不正の侵害」の部分を満たさないのであり、憲法上認められないことから「専守防衛」の範囲にも含まれない。国際法上の「個別的自衛権」の区分を用いて説明しようとしているが、国際法上の「個別的自衛権」に該当するからといって憲法上は必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため「憲法が許容している『専守防衛』のための個別的自衛権の範囲内」との意味は、国際法上の「個別的自衛権」に該当する「憲法が許容している」の「武力の行使」の範囲との意味となる。これにより、その後の「個別的自衛権の今まで欠けていた部分を補完、拡充するものである」などと国際法上の「個別的自衛権」の区分で説明を行っても、「憲法が許容している」「武力の行使」の範囲が変わるわけではない。憲法上は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさなければ「武力の行使」は違憲となるのであり、「補完、拡充するもの」などとしてこれを満たさない「武力の行使」を許容しようとしても違憲となる。


    【Q「解釈改憲」なのでは?】

 「憲法の平和主義を守った今回の決定は解釈改憲ではありません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が9条の規範性を損なっている時点で、9条解釈の指針となる前文の「平和主義」の理念も同時に損なわれている。そのため2014年7月1日閣議決定についての「憲法の平和主義を守った」との評価は誤りとなる。

 「今回の閣議決定では、国民の命と平和な暮らしを守るため、自国防衛の場合に限って例外的に武力の行使を認めた憲法第9条の柱は、そのまま堅持されています。」との記載があるが、誤りである。憲法9条の解釈である1972年(昭和47年)政府見解は「自国防衛の場合に限って例外的に武力の行使を認めた」わけではなく、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」に限って「武力の行使」を認めたものである。『自国防衛』と称すれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさずとも「武力の行使」が可能となるかのように考えている点が誤りである。そのため、「そのまま堅持されています。」との認識についても、誤った理解を堅持していることとなり妥当でない。1972年(昭和47年)政府見解が「堅持」されているのであれば、それは「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のである。

 「閣議決定は第9条の枠内で、自国を守るための『自衛の措置』の限界について解釈の見直しをしたにすぎず、解釈改憲ではありません。」との記載があるが、誤った認識である。1972年(昭和47年)政府見解が示した「自衛の措置」の限界は、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。「存立危機事態」の要件はこの「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味する「『我が国に対する』外国の武力攻撃」に当てはまらず、「自衛の措置」の限界を超えるものである。「閣議決定は第9条の枠内で、自国を守るための『自衛の措置』の限界について解釈の見直しをしたにすぎず」との記載があるが、「自衛の措置」の限界を超えており、「第9条の枠内」から逸脱している。

 「しかし、今回の閣議決定では、公明党のリードによって解釈変更の限界が示され、与党協議会の座長を務めた自民党の高村正彦副総裁も『さらに解釈を広げるには憲法改正しかない』と明言しています。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は既に違憲であり、憲法改正が必要となるものである。「存立危機事態」までは合憲であるかのように考えている点で誤った認識である。


    【Q戦争する国になるのでは?】

 「『専守防衛』は堅持され、海外派兵は認めません。『専守防衛』とは、日本の防衛に限ってのみ武力行使が許されるということであり、これは堅持します。」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」の要件が違憲となっていることから、「専守防衛」は堅持されていない。「専守防衛」の定義は「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」であり、「日本の防衛に限ってのみ武力行使が許されるということ」という認識は正確なものではない。

 「外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使は認めていません。」との記載があるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているのであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はすべて違憲である。「外国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使」だけが認められず、それ以外のものはすべて認められるかのような認識は誤りである。

 「安倍晋三首相も1日の記者会見で『海外派兵は一般に許さないという、従来からの原則も全く変わりません』と明言しています。」との記載があるが、海外派兵が許されないとする根拠は政府によれば「一般に自衛のための必要最小限度を超える」という基準に基づくものであり、この「従来からの原則も全く変わりません」というのであれば、「自衛のための必要最小限度」の意味する「武力の行使」の三要件(旧)が全く変わらないこととなる。すると、新3要件を定めたことと基準が競合するため、論理的整合性が保たれていない。

 「与党協議の中で、憲法第9条の枠内で認められる『自衛の措置』の限界を定め、武力行使について厳格な歯止めをかけました。これによって憲法の平和主義を堅持しました。」との記載があるが、「憲法第9条の枠内で認められる『自衛の措置』の限界」は既に1972年(昭和47年)政府見解で示されているのであり、「存立危機事態」の要件が「『自衛の措置』の限界」となるかのような認識は誤りである。また、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解で示されている「『自衛の措置』の限界」を超えているのであり、その「存立危機事態」の要件の中に「厳格な歯止め」をかけたとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たしていないのであれば、結局「『自衛の措置』の限界」の内側に戻るわけでもなく、違憲であることには変わりない。


新たな安全保障と公明党 ポイント解説 2014年9月14日


    【閣議決定の要点は?】

 「自衛の措置の限界示す 他国防衛の集団的自衛権認めず」との記載があるが、「自衛の措置の限界」は1972年(昭和47年)政府見解が既に示しており、これを超えるものはすべて違憲である。2014年7月1日閣議決定によって「自衛の措置の限界」が示されたかのような認識に基づくものであれば誤りである。また、「他国防衛の集団的自衛権認めず」との記載もあるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はすべて『他国防衛』であり、憲法がこれを認めないという意味であれば正しい認識である。しかし、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」の中に『他国防衛』のものと『自国防衛』のものとがあるなどという話に基づき、『他国防衛』の「武力の行使」だけを認めていないかのような認識であれば、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の規範は『他国防衛』か『自国防衛』かに基準を設定したものではないため、誤った認識である。

 「閣議決定の核心は、憲法第9条下で認められる自衛の措置(武力行使)について『新3要件』【別掲】を定め、政府の恣意的な自衛権発動を封じ込めた点にあります。」との記載があるが、「新3要件」の「存立危機事態」については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、「自衛の措置」の限界を超えたものであり、違憲である。そのため、その違憲な「武力行使」の発動要件を設定することで「政府の恣意的な自衛権発動を封じ込めた」などと考えても、そもそもその要件が違憲なのであるから、「政府の恣意的な自衛権発動」(武力の行使)を憲法の枠内に封じ込めることができていないのである。

 「自衛権に関する政府の憲法解釈の基本となっている、1972年見解の考え方も変わっていません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の考え方が変わっていないのであれば、「新3要件」の「存立危機事態」については違憲となると言わなければならないのであり、これが憲法上許容されるかのように主張することは論理矛盾である。

 1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範部分を示して、「『新3要件』はこの論理を守り、憲法第9条の下で認められる自衛の措置の限界を示しています。」と説明しているが、との記載があるが、「新3要件」の「存立危機事態」については1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範部分に当てはまらない。そのため、「この論理を守り」との認識は誤りである。また、「存立危機事態」の要件は「自衛の措置の限界」を超えているのであるから、「新3要件」が「憲法第9条の下で認められる自衛の措置の限界を示し」ているかのような認識も誤りである。

 「あくまで自国防衛に限った措置であることを明確にしたものです。」との記載があるが、9条は1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中で「武力の行使」をすることは違憲となるのであり、たとえ『自国防衛』と称してもそれだけで合憲となるわけではない。「存立危機事態」が『自国防衛』のための「武力の行使」であると主張しようとも、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないものである以上は違憲となることは変わらない。

 「いわば、日本への武力攻撃に匹敵するような事態にのみ武力行使が認められており、外国の防衛それ自体を目的とした、いわゆる集団的自衛権の行使は認めていません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とする規範なのであって、「日本への武力攻撃に匹敵するような事態」であると政府が考えただけで「武力の行使」を可能とすることは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たしていないため違憲である。また、「外国の防衛それ自体を目的とした、いわゆる集団的自衛権の行使は認めていません。」との記載についても、1972年(昭和47年)政府見解が『他国防衛』を目的とする「武力の行使」を認めていないことは当然、『自国防衛』を目的とするからといって必ずしも「武力の行使」を認めているわけでもなく、「日本への武力攻撃に匹敵するような事態」であるというだけで「武力の行使」を行うことは違憲である。


    【公明が果たした役割は?】

 「憲法解釈の基本を守る 専守防衛堅持し、武力行使に歯止め」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解に適合しないのであり、「憲法解釈の基本を守る」ということにはなっていない。また、違憲な要件を定めているのであるから、「憲法に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味する「専守防衛」の定義にも当てはまらず、「専守防衛堅持」ということにもなっていない。さらに、違憲な「武力行使」の要件なのであるから、その要件に「歯止め」と称する文言を加えたとしても、既に違憲であることは変わらないのであるから、合憲性を主張する根拠にはならない。

 「万一、閣議決定の内容を超える武力の行使を認めようとするならば、憲法改正しかありません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解を超えた時点で既に違憲となるのであるから、2014年7月1日閣議決定が定めた「存立危機事態」の要件は既にこれを超えており、憲法改正の必要がある事項である。「存立危機事態」が憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解に照らして合憲であるかのように考えている部分が誤りである。

 「さらに公明党は、自衛権発動の『新3要件』について、『他国』の部分に『我が国と密接な関係にある』との文言を加えて限定。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず違憲であることが前提ではあるが、「我が国と密接な関係にある他国」についても政府の裁量でどの国もこの国に当てはまる余地があるとされており、「限定」の意図を達成できているのか疑問である。ただ、それ以前に「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うことは違憲である。

 「条件の核となる部分を、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される『明白な危険がある場合』とし、当初案の『おそれがある』よりも厳格にして武力の行使に歯止めをかけました。」との記載があるが、「存立危機事態」は1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらず違憲なのであり、当初案の「おそれがある」を「明白な危険がある」と変えたところで、合憲に変わるわけではない。違憲な要件をいくら厳格に歯止めをかけたと主張したところで、違憲であることは変わらないのである。


    【自衛権・自衛隊と憲法9条】

 「政府は自国防衛のための自衛権(個別的自衛権)は認められると解釈してきました。」との記載があるが、政府が1972年(昭和47年)政府見解で主張してきたのは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするものであり、この「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由の区分で言えば「個別的自衛権」に該当するというだけである。そのため、『自国防衛』であるからといって「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない「武力の行使」が憲法上許容されるわけではないし、国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」であるからといって憲法上は必ずしも「武力の行使」が許容されるわけでもない。


防衛指針の見直し  新3要件の下、日米安保を強化 2014年10月13日


 「閣議決定は他国防衛を目的とする武力行使について、憲法第9条によって許されないことを規定している。 」との記載があるが、9条の下で『他国防衛』を目的とする「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』が目的であるからといって必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。

 「従って、改訂後のガイドラインの下でも現在と同様、自衛隊が日本防衛とは無関係に出動し、他国の戦争に巻き込まれることはない。」との記載があるが、9条の下では『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではないのであるから、「日本防衛」と関係があるからといって必ずしも出動が許容されるとは限らない。

 「閣議決定は、憲法第9条の下で許容される自衛の措置(武力行使)の条件として、新3要件を提示した。」との記載があるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の下では、「新3要件」の「存立危機事態」については違憲である。

 「この要件の下では、日本の存立と無関係に、もっぱら他国防衛だけを目的とした集団的自衛権は今後とも行使できない。」との記載があるが、9条の下では『他国防衛』だけを目的とした「武力の行使」が許容されないことは当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。それにもかかわらず、「他国防衛だけを目的とした集団的自衛権は今後とも行使できない。」ことを強調し、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」が可能であるかのように考えている点で誤っている。



安全保障法制整備の方向性Q&A 2015年3月22日


 「閣議決定について、明治学院大学の川上和久教授は『現実を見据えた解決への一歩』と高く評価。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は論理的整合性が存在していない。

 「劇作家・評論家の山崎正和氏も『(憲法が許容する)個別的自衛権の今まで欠けていた部分を補完、拡充するもの』と指摘しています。」との記載があるが、憲法は国際法上の「個別的自衛権」そのものには関与していない。また、国際法上の「個別的自衛権」に該当するからといって必ずしもその「武力の行使」が許容されるわけでもない。国際法上の「個別的自衛権」に該当すれば、国際法上は「個別的自衛権」でしかないのであり、「今まで欠けていた部分」というものは、論者がどう見ているかという認識の問題であり、法学上の話ではない。

 「専守防衛を維持する新3要件など法案に『過不足なく盛り込む』方針」との記載があるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うため、新3要件の「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず違憲であることから、新3要件が「憲法の精神に則った」ものであるとは言えず、「専守防衛」が維持されているとはいえない。

 「政府はこれまで、『海外での武力行使は憲法第9条の下ではできない』と解釈し、昨年の閣議決定でもこの解釈を変えていません。」との記載があるが、政府が「海外での武力行使」が憲法上できないと述べてきたのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」と考えてきたからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、「武力の行使」の三要件(旧)をすべて満たす「武力の行使」の意味である。「海外での武力行使」は一般にこの三要件(旧)を満たさないために9条に抵触して違憲となるとしているのであり、これを新3要件を定めた「昨年の閣議決定でもこの解釈を変えていません。」とするのであれば、2014年7月1日閣議決定においても「海外での武力行使」が許されないとの結論は旧三要件に照らして導かれていることになる。この点、論理的整合性が存在しない。

 「閣議決定は『自衛の措置』発動の厳格な新3要件【別掲】を定め、自衛隊の武力行使は、どこまでも日本が武力攻撃を受けたと同様な事態の場合に限られることを明らかにしました。」との記載があるが、新3要件の「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)の規範によって違憲であり、その違憲な「武力の行使」の発動要件を「厳格」にしたところで、合憲に変わるわけではない。また、「どこまでも日本が武力攻撃を受けたと同様な事態の場合に限られる」との記載があるが、「日本が武力攻撃を受けたと同様な事態」が起きたと政府が判断するだけで「武力の行使」が可能となるのでは、9条が政府の自国都合による恣意的な「武力の行使」を制約する規範として意味を為さないのであって、9条の意味を読み解く憲法解釈として妥当性を失う。1972年(昭和47年)政府見解にも示されているように、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲となるのであり、これを満たさない中で「日本が武力攻撃を受けたと同様な事態」があると政府が認定するだけで「武力の行使」に踏み切れるとする要件を定めることは違憲となる。

 「これは専守防衛の範囲内です。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、「憲法の精神に則っ」ていないことから、「専守防衛」の定義にも含まれない。そのため、「専守防衛の範囲内です。」との認識は誤りである。

 「安倍首相も『他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めるものではない』と国会で明言しています。」との記載があるが、憲法上『他国防衛』のための「武力の行使」が許容されないことは当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、「他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を否定したところで、「存立危機事態」での「武力の行使」の合憲性を説明する根拠にはならない。

 「専守防衛を維持した新3要件と共に、」との記載があるが、新3要件には「存立危機事態」が含まれており、これは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないのであり、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味する「専守防衛」の定義の中に含まれない。「維持した」との認識は誤った認識である。


平和安全法制Q&A 2015年05月17日


 「あくまで海外での武力行使を禁じた憲法9条の下で、どのような貢献ができるかを示すことも大切です。」との記載があるが、9条がどのような過程で海外での「武力の行使」を禁じているのかを正確に認識する必要がある。政府がこれまで「武力行使の目的をもって武装した部隊を他国の領土、領海、領空に派遣するいわゆる海外派兵」が憲法上許されないと考えてきたのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超えるもの」と考えているからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、三要件(旧)を満たす中での「武力の行使」のことを指している。つまり、第一要件「我が国に対する急迫不正の侵害があること」、第二要件「これを排除するために他の適当な手段がないこと」、第三要件「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」のすべてを満たす「武力の行使」である。これを「超える」ことにより、「海外での武力行使」が憲法9条によって禁じられているとの基準が生まれているのであり、憲法9条が直接的に「海外での武力行使」を禁じているとの認識のみでは、正確な基準を導き出すことができないため、注意が必要である。

 「A.憲法9条の下、『専守防衛』の理念を堅持」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しない。そのため、「専守防衛」の定義である「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」の「憲法の精神に則った」の部分に当てはまらず、「専守防衛」の理念が堅持されているとは言えない。

 「日本は憲法9条の下、武力行使は日本防衛のために限るとする『専守防衛』を堅持してきました。」との記載があるが、正確な意味を捉えておく必要がある。まず、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示し、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しているのである。この要件を満たす中での「武力の行使」を「日本防衛のために限る」と認識しているのであれば正しいのであるが、この「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないにもかかわらず、「日本防衛のため」という理由でもって憲法上「武力の行使」が許容されると考えることは誤りである。また、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうため、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解で示された規範を満たさない中で「武力の行使」を行うことは、「憲法の精神に則った」を逸脱するため、「専守防衛」の枠組みから外れることになる。

 「今回の『平和安全法制』の関連法案においても、この『専守防衛』の理念はいささかも変わっていません。」との記載があるが、今回の「平和安全法制」の関連法案の中には、「存立危機事態」の要件が含まれており、これによる「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず違憲であり、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った」に該当せず、「専守防衛」の理念は維持されていない。ただ、「『専守防衛』の理念はいささかも変わっていません。」との文言だけを見れば、「専守防衛」の定義が変わっていないという意味となるから、「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った」の部分も変わっていないことになる。すると、相変わらず1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しない「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲となるとの結論は、「専守防衛」という言葉の定義から考えても変わらないという意味で読むことができる。

 1972年(昭和47年)政府見解について、「すなわち『自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置としてはじめて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力行使』は許される』と示しています。」との記載があるが、正確にはこの文言ではない。1972年(昭和47年)政府見解は、「平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示している。このページの記載は、2014年7月1日閣議決定の文面上で1972年(昭和47年)政府見解の一部分を記す際に出されたものと思われるが、その閣議決定自体が、1972年(昭和47年)政府見解の文言を正確に移したものとなっていないことに注意が必要である。

 「安倍晋三首相は14日の会見で、『自衛隊が、かつての湾岸戦争、イラク戦争のような戦闘に参加することは今後とも決してない』と述べ、専守防衛が揺るぎないことを示しました。」との記載があるが、「専守防衛がゆるぎない」のであれば、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」であることも変わらないとの意味となる。すると、「専守防衛」という観点から見ても、「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲であることにより、「専守防衛」の中に含まれないことになる。「専守防衛が揺るぎない」のであれば、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできない。

 「昨年7月の閣議決定では、公明党が政府のこれまでの憲法9条解釈の根幹を守るよう強く主張した結果、『自衛の措置』発動は自国防衛のためであることを明らかにした新3要件【=下記参照】が定められました。」との記載があるが、新3要件には「存立危機事態」が含まれており、これは「政府のこれまでの憲法9条解釈の根幹」である1972年(昭和47年)政府見解に適合しないため、違憲である。「自衛の措置」発動は、『自国防衛』であるからといって必ずしも憲法上許容されるわけではなく、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を満たすことが必要である。「存立危機事態」については、これの「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分の規範である「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を満たさないためこの規範に適合せず、違憲である。

 新3要件のについて、「厳格な要件を課すことで、他国防衛にならないための厳しい歯止めを掛けました。」との記載があるが、9条の下で『他国防衛』のための「武力の行使」が許容されないことは当然であるが、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。そのため、たとえ『自国防衛』と称し、「厳格な要件」と称するものを課したとしても、1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の規範を満たさなければ、違憲となることには変わりない。

 「横畠裕介内閣法制局長官も国会答弁で、閣議決定が『(他国防衛の権利として)観念される、いわゆる集団的自衛権の行使を認めるものではない』と明言しています。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかない。そのため、「集団的自衛権」の内容を『他国防衛』と『自国防衛』に分けて考えることはできない。また、9条は「武力の行使」の内容を『他国防衛』であるか『自国防衛』であるかによって可否を決しているわけではなく、「(他国防衛の権利として)観念される」ものではないと称しても、そこで行使される「武力の行使」が9条に抵触しないことを示す根拠となるわけではない。横畠裕介内閣法制局長官の国会答弁の誤りについては、当サイト「基本的な論理2」を参照。

 「公明党の主張により、厳格な新3要件は法文にすべて明記されました。」との記載があるが、公明党が「厳格な新3要件」と評価しようとも、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の規範に適合しない「存立危機事態」の要件が違憲であることには変わりない。

 「A.他国防衛を目的とする集団的自衛権の行使は認めず」との記載があるが、「集団的自衛権」のすべてが『他国防衛』を意味するとの認識であれば、「認めず」との記載は憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解に適合する。しかし、「集団的自衛権」に該当する『他国防衛』を目的とする「武力の行使」は認められないが、「集団的自衛権」に該当する『自国防衛』を目的とする「武力の行使」が認められるかのように論じているのであれば、それは憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解からは導かれないものである。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」について、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないためすべて違憲となるのである。



解説ワイド 平和安全法制 2015年5月20日
解説ワイド 平和安全法制 2015年05月20日


 「日本への直接の武力攻撃ではない存立危機事態でも認めるため、他国防衛にならないよう新3要件を定めた。」との記載があるが、「日本への直接の武力攻撃」がない場合には1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらず、違憲である。そのため、『他国防衛』のにならないように要件を定めたとしても、違憲であることは変わらない。

 「認められない他国防衛」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の下では『他国防衛』は当然、『自国防衛』であるからといって直ちに「武力の行使」が認められるわけではない。そのため、『他国防衛』を否定したとしても、それに該当しなければ「武力の行使」がすべて合憲であるかのように考えることは誤りである。また、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、『他国防衛』の「武力の行使」ということができる。これが認められないとするのであれば、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は行うことができない。

 「平和憲法の下で自衛隊に許される武力行使は、日本防衛のための『自衛の措置』に限られる。これが、これまでの政府の憲法9条解釈の根幹となる考え方だ。」との記載があるが、政府の憲法9条解釈は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにあり、あたかも「日本防衛のための『自衛の措置』に限られる」との規範が示されているかのように説明することは誤りである。

 「そのため『自衛の措置』はどこまでも日本防衛であり、もっぱら他国防衛を目的とするいわゆる集団的自衛権の行使は認められない。」との記載があるが、この文言だけでは「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はすべて『他国防衛』を意味すると考えて、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はすべて不可能であるかのようにも読むことができるが、この記事の論者は「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であっても、『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が可能であるかのように論じようとする前提を有しているため誤りである。たとえ「日本防衛」のためであったとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないのであればすべて違憲となるのであり、『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が合憲となるわけではない。「存立危機事態」の要件は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことができるとするものであり、『自国防衛』と称しようとも違憲である。

 「この『明白な危険』について政府は、国民に対して日本が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況と説明している。」との記載があるが、そもそも「存立危機事態」による「武力の行使」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことができるとするものであり、1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらず違憲なのであるから、その要件の中に「明白な危険」との文言があるとしても、合憲に変わるわけではない。その意味するところが「日本が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」であったとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない場合(『我が国に対する武力攻撃』の『着手』に該当しない場合)はすべて違憲である。

 「このように存立危機事態は『わが国の存立』が脅かされるほどの深刻な事態であり、日本防衛の範囲内である。」との記載があるが、憲法は1972年(昭和47年)政府見解によれば「日本防衛」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではなく、「『わが国の存立』が脅かされるほどの深刻な事態」であることを理由としても、それだけで「武力の行使」が合憲となるわけではない。

 「ただし、武力攻撃事態と違い、いまだ日本への直接の武力攻撃が発生していない段階であるため、『自衛の措置』として武力行使を発動するための判断は厳格にする必要がある。」との記載があるが、「いまだ日本への直接の武力攻撃が発生していない段階」で「武力の行使」を行うことはすべて違憲となるのであり、その違憲な「武力の行使」の発動要件を「厳格」にしたところで、違憲であることは変わらない。「厳格」であれば合憲となるかのように考えている点で誤りである。

 「新3要件は『自衛の措置』が日本防衛に限られることを明確にし、他国防衛にならないための厳格な歯止めとなっている。」との記載があるが、「新3要件」の「存立危機事態」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)から導かれるものではなく違憲であり、「他国防衛にならないための厳格な歯止め」と称する文言を加えても違憲である。また、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であればそれは「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」なのであり、『他国防衛』の意図を含まないものなどあり得ない。それを「他国防衛にならない」と称することも論理的に導かれない。「厳格な歯止め」についても、9条に抵触しない範囲の中で「厳格な歯止め」を設けることは当然必要であるが、9条に抵触する範囲に踏み込んでいるにもかかわらず「厳格な歯止め」を設ければ9条に抵触しないかのように考えている点は誤りである。


新3要件は憲法の枠内 3学者の「違憲表明」に反論 衆院審査会で北側副代表ら 2015年6月12日
新3要件は憲法の枠内 3学者の「違憲表明」に反論 衆院審査会で北側副代表ら 2015年6月12日


 「他国防衛を認めない政府解釈の論理の根幹は変わっておらず違憲ではないと主張した」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「他国防衛を認めない」などする基準によって合憲か違憲かのラインを決しているわけではないため、読み方を誤っている。1972(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かが判断基準となっているのである。

 「他国防衛は認められず」とのタイトルがあるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解が『他国防衛』の「武力の行使」を認めていないことは当然であるが、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が認められるとしているわけでもない。

 「北側副代表は自衛の措置について、他国防衛の集団的自衛権の行使は許されないとした1972年(昭和47年)の政府見解に言及。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているのであり、「他国防衛の集団的自衛権の行使は許されない」が、『自国防衛』の「集団的自衛権の行使」は許されると読もうとすることはできない。この記事の記述では、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」がすべて『他国防衛』であるのか、論者のように「集団的自衛権」の中に『他国防衛』と『自国防衛』の二つの区分が存在するという論理なのか、曖昧な表現を用いており、その実質を追及されにくくする意図が含まれているように思われる。

 「今回の関連法案は他国防衛を認めない自衛の措置の新3要件に基づいているとして、「新3要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつ、それを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものであり、(憲法審査会で憲法学者が述べた)『従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない』などの批判は全く当たらない」と強調した。」との記載があるが、誤りである。まず、「新3要件」の「存立危機事態」の要件については1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に当てはまらず違憲である。そのため違憲な要件を「他国防衛を認めないもの」と称したとしても、その要件が合憲となるわけではない。「新3要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解に論理的に当てはまらない。憲法学者「長谷部恭男」の「従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない」との批判は全く当たらないと主張しているが、「存立危機事態」が1972年(昭和47年)政府見解に当てはまるとする論理的な理由が示されていないにもかかわらず、結論のみを「維持し、」「当てはめて導き出されたもの」「批判は全く当たらない」と述べても合憲性を裏付けるものとは言い得ず、正当化できていない。この論者の主張を用いれば、侵略戦争でさえも同様に「従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつ、それを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたもの」と説明することで合憲化できるかのような主張である。「批判は全く当たらない」と述べれば、それで正当化できていると考えるものだからである。

 「他国の防衛それ自体を目的とするいわゆる集団的自衛権の行使は認められない」との記載があるが、やはり1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているところに基準があるのであり、『他国防衛』であるか否かが基準となっているわけではない。
 「1972年の政府見解の基本的論理は新3要件にしっかりと維持されており、従来の憲法解釈との論理的整合性はある」との記載があるが、「基本的論理」と称する部分に「存立危機事態」が当てはまるとする論理的な理由が示されていないにもかかわらず、「論理的整合性がある」と結論のみを述べれば合憲化するかのように考えている点で誤りである。先ほども述べたが、もしこのように述べるだけで合憲性を説明できるとするのであれば、先制攻撃や侵略戦争についても「従来の憲法解釈との論理的整合性はある」と説明することが可能となってしまうのであり、法解釈として成り立たず、正当化することはできない。


平和安全法制 Q&A 2015年9月1日


 「他国防衛を禁じた憲法解釈の根幹は変えていない」との記載があるが、憲法は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないから、憲法が『他国防衛』のための「武力の行使」のみを禁じているかのように考えることは、もともと誤っている。

 「憲法9条が認めているのは自国防衛のための武力行使であり、他国防衛のための集団的自衛権の行使は禁じています。」との記載があるが、9条は1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない「武力の行使」をすべて禁じているのであり、これを満たさなければたとえ『自国防衛』であったとしても「武力の行使」は認められない。また、『他国防衛』のための「武力の行使」が禁じられていることは当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけでもなく、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないためすべて禁じられている。この記載には、あたかも「集団的自衛権」の中に『他国防衛』の区分と『自国防衛』の区分が存在するかのように論じようとしているが、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』にそのような区分は存在していない。また、『他国防衛』の「武力の行使」であるか、『自国防衛』の「武力の行使」であるかが9条に抵触するか否かを決する境界線であるかのように述べようとする意図も見られるが、9条に抵触するか否かは1972年(昭和47年)政府見解によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かに境界線を引いたものであり、これを満たさなければ『自国防衛』と称しても「武力の行使」は違憲となるのであり、この記事の論旨は正当化根拠にはならない。

 「この政府解釈の論理の根幹は今回の平和安全法制でも一切変更されていません。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解があたかも『他国防衛』か『自国防衛』かによって9条への抵触の有無を決しているかのような誤った認識に基づいて、「論理の根幹は」「一切変更されていません。」と語ったところで、もともと1972年(昭和47年)政府見解は『他国防衛』か『自国防衛』かによって9条への抵触の有無を決しているわけではないのであるから、意味が通じない。1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かに9条への抵触の有無を決する基準があるとする正確な解釈の「論理の根幹」が「一切変更されていません。」ならば、意味は通じる。この世界くな解釈に基づけば「存立危機事態」の要件は、この「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないため、当然に違憲となる。

 「昨年の閣議決定では、もっぱら他国防衛にならないための明確な歯止めとして「自衛の措置」の新3要件を定めました。」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないにもかかわらず「武力の行使」を行ったならば違憲となる。また、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を行うということは、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」を行うことになるのであるから、「他国防衛にならない」などということはあり得ない。さらに、9条は『他国防衛』のための「武力の行使」を許容していないことは当然、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、本来であれば『他国防衛』の意図を必ず含むものとなることが前提ではあるが、この記事が主張する『自国防衛』であることを示す「明確な歯止め」となる要件を定めたとしても、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさなければすべて違憲となるのであり、これを満たさない要件を設けてそれに「明確な歯止め」が存在すると主張しても、9条に抵触しない旨を示したことにはならず、9条に抵触して違憲となることは変わらないのである。加えて、この記事のいう「他国防衛にならないための明確な歯止め」の意味する「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分であるが、具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、これは結局「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で政府の主観的な判断に委ねられるのであり、9条が有する政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を生かした要件であるとは言うことができず、9条の規範性を損なうことから、9条に抵触して違憲である。さらに、「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」というものも、我が国が主体的に判断できるものとは限らず、「我が国と密接な関係にある他国」が「武力攻撃を受けた」とする主張を行えば、直ちに日本政府が「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」を満たすと判断することが可能となり得る。そうなれば、政府が自国都合によって恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを排除する要件として機能しないこととなるのであり、9条の求める趣旨に適合しないこととなる。もう一つ、「存立危機事態」の要件そのものが違憲であることが前提ではあるが、「我が国と密接な関係にある他国」に該当するか否かについても、政府の裁量となっており、9条が「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たさない。(これは、『わが国の国内に駐留している他国の軍隊に対する武力攻撃』が発生した場合に、それは同時に『我が国に対する武力攻撃』と重なることを理由に、我が国による「武力の行使」が可能となる場合などと比べ、『他国』の範囲が無制限となっているとの意味である。『我が国国内に基地を有する他国の我が国国内の基地に対する武力攻撃』が発生した場合に限られているわけではないのである。)

 「自衛隊が武力行使を許されるのは、わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな場合に限られます。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、たとえ「わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな場合」であっても「武力の行使」を行うことはできない。ただ、「わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな場合」だけでは「武力の行使」はできないが、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められた場合は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たすと考えることができ、三要件の他の要件も共に満たすことで「武力の行使」が可能である。区別したいことは、「わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな場合」だけでは「武力の行使」は行うことはできず、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められた場合は、それが「わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が国民に及ぶことが明らかな場合」であるとして「武力の行使」が可能であることである。ここを区別して考えなくては、この記事のように9条の規範性を損なうため注意が必要である。

 「海外での武力行使(いわゆる海外派兵)を禁じた憲法9条の政府解釈は何ら変えていません。」との記載があるか、従来から政府が海外での「武力の行使」が禁じられているとしてきたのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」と考えていたからである。この「自衛のための必要最小限度」とは、「自衛のための必要最小限度の実力」とも呼ばれており、「武力の行使」の三要件(旧)をすべて満たす中での「武力の行使」を意味していた。つまり、「海外での武力行使(いわゆる海外派兵)」が禁じられる理由は、「武力の行使」の三要件(旧)を満たさないことから導かれるものであり、この「憲法9条政府解釈は何ら変えていません。」としているのであれば、それは「存立危機事態」を含む新3要件を定めた後においても、旧三要件を変えていないということになる。こうなると、新3要件を定めた政府解釈と、旧三要件が競合するのであり、意味が通じない。意味不明である。

 「『自衛の措置』の新3要件は、あくまでも自国防衛のために自衛隊による武力行使が許される要件であり、憲法の専守防衛の大原則の枠内です。」との記載があるが、誤りである。新3要件の「存立危機事態」は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず、違憲となる。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った」ものである必要があるから、違憲な「武力の行使」を行う要件が存在している時点で「専守防衛」の定義に当てはまらないからである。「専守防衛の大原則の枠内です。」とは言えない。また、「存立危機事態」での「武力の行使」は、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であり、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」である。このことから、「あくまでも自国防衛のため」と主張しようとも、それは『他国防衛』に付随する『自国防衛』となるのであり、『他国防衛』を含む「武力の行使」を行う実力組織は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。さらに、1972年(昭和47年)政府見解では「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさなければ、たとえ『自国防衛』のための「武力の行使」と称しても違憲となる。

 「この根幹は今後も一切変わりません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件を定めた時点で1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲となるのであり、「この根幹は今後も一切変わりません。」とするのであれば、「存立危機事態」の要件が違憲であると言わなければならないところである。そうでなければ、この記事の主張には論理的整合性が存在しないこととなる。



ここがポイント 平和安全法制 公明党 大阪本部 2015.09.24


 「憲法9条の下で許容される武力行使の限界を『自衛の措置の新3要件』によって定めた改正自衛隊法や、」との記載があるが、「9条の下で許容される武力行使の限界」は、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにあり、「新3要件」の「存立危機事態」についてはこれを満たさないため違憲である。

 「他国防衛の集団的自衛権の行使は認めず」との記載があるが、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、これはすべて『他国防衛』の意図を含むこととなる。そのため、「他国防衛の集団的自衛権の行使は認めず」との意味は、そのままの意味とすれば「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」はすべて行うことができないのであるが、この記事の論者は「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」の中に『他国防衛』と『自国防衛』の2つの区分があるとし、『他国防衛』は認めないが、『自国防衛』の「武力の行使」ならば認められるかのように考えている点で誤りである。

 「存立危機事態はあくまで日本を守る自国防衛、専守防衛の範囲であり、憲法が禁じる"もっぱら他国防衛を目的とした集団的自衛権の行使"にならないよう『自衛の措置の新3要件』(別掲)によって厳しい歯止めが掛かっている。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示しているのであり、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たしていない「武力の行使」はすべて憲法が禁じているのである。そのため、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」の中に、『他国防衛』と『自国防衛』の2つが存在しているかのように説明し、『他国防衛』は憲法が禁じているが、『自国防衛』については憲法が禁じていないかのような主張は、根拠のない説明であり誤りである。「専守防衛の範囲」についても、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことを言うのであり、「存立危機事態」の要件が違憲である時点で「憲法の精神に則った」に適合しておらず、「専守防衛の範囲」とは言えない。



北側一雄

〇 公明党 北側一雄


自衛隊海外派遣へ3原則 与党安保協が中間取りまとめ 「正当性」「民主的統制」「安全確保」が不可欠 北側一雄副代表に聞く 2015年3月21日


 「他国防衛を目的とした武力行使はできないとしてきた政府の憲法第9条の解釈との論理的な整合性を確保するという観点のもと、」との記載があるが、誤りである。まず、「政府の憲法第9条解釈」とは、1972年(昭和47年)政府見解のことであり、この見解は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲となるとする規範を設定したものである。これについては、論者の言う「他国防衛を目的とした武力行使はできない」としているものではない。そのため、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で、あたかも「自国防衛を目的とした武力行使ならば可能ではないか」との考え方で、「存立危機事態」での「武力の行使」が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれると読みことは、論理的に不可能である。

 「この新3要件は、憲法第9条の下で許される自衛の措置の限界を示した重要な要件です。」との記載があるが、誤りである。まず、9条の下で許される「自衛の措置」の限界となっているものは、1972年(昭和47年)政府見解が示した規範の設定である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設定したものである。そのため、あたかも「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「存立危機事態」での「武力の行使」を含む「新3要件」について、「9条の下で許される自衛の措置の限界を示した」などと、9条の下で許容されるかのように突然結論付けている点が誤りである。結論となる理由の不存在は、憲法解釈として正当性を有しないのである。

 「第1要件の『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』とはどのような事態か」についてであるが、曖昧不明確な要件であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるために、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。
 内閣法制局長官が、「国民に、わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な、深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」と答えたところで、その内容は条文化されていない。また、結局その内容であっても、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることを防ぐために機能する規定ではないことは、9条の趣旨にも反して違憲となる。

 「首相は『他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めるものではない』と明確に述べています。」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、国際法上「集団的自衛権」でしかなく、『自国防衛』か『他国防衛』かなどの区分は存在しない。また、「集団的自衛権」は「他国からの要請」によって『権利』が発生するものであるから、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、概念上『他国防衛』を含むものとなる。よって、目的を『自国防衛』と称したところで、実質は『他国防衛を含む自国防衛』でしかないのである。このことより、そもそも『他国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めるものではない』などという言葉の意味自体が論理的に成り立たないのである。


衆院憲法審査会 北側副代表の意見表明(要旨) 2015年6月12日
   【参考】衆議院インターネット中継


   【日米安保の抑止力向上で 紛争の未然防止めざす】

 「国連憲章51条に定める、フルサイズの集団的自衛権の行使を、憲法9条が許容しているとはとても考えられない。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、「集団的自衛権の行使」とは、「武力の行使」である。そして、9条は「武力の行使」を制約する基準となっている。この範囲を明確に示した見解が、1972年(昭和47年)政府見解である。2017年7月1日閣議決定においてもこの「基本的な論理」は維持していると記載されており、その「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。これにより、国際法上の評価でいう「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる日本国の統治権による「武力の行使」を意味するから、この9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。
 ただ、2014年7月1日閣議決定は、他の問題も含んでいる。1972年(昭和47年)政府見解は全体で一貫した意味を示す文章であるため、この一部分を抜き出して「基本的な論理」などと呼称して憲法解釈の論理を変更できる性質のものではない。1972年(昭和47年)政府見解から「基本的な論理」と呼称する部分を抜き出し、結論の当てはめを変えたなどという手続き自体に、瑕疵がある。
 9条は、前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされている。そのため、9条を解釈する際には、前文の「平和主義」の理念を活かした解釈が求められる。前文では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」と述べられており、その趣旨は9条に具体化されている。これにより、9条は、政権への支持率向上や景気の向上などの政治的な事情や国際関係上の政治的な圧力に影響を受けるなどによって政府が恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを制約することを意図する規定であり、もし「武力の行使」を行う場合があるにしても、それら政府の恣意的な都合が入り込む余地のない受動的・客観的に明確な規範性を有した基準が求められることとなる。
 1972年(昭和47年)政府見解はこの趣旨が生かされた解釈であり、「武力の行使」の発動要件に受動的・客観的に明確な規範性の基準として「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合)」を設定したものである。これは、前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨が生かされているし、我が国が『先に攻撃』を行うものではないことから、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄したとの規定にも沿うと考えることができる。また、この「武力の行使」を行う実力組織が2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当するか否かの違憲性に関する規範性の問題であるが、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことによって初めて「武力の行使」が可能となると解するのであれば、「武力の行使」の発動要件が緩和されることによってその実力組織が侵略的行為を行ったり、他国を防衛するための「武力の行使」を行ったり、不必要に過大な「武力の行使」を行ったりすることはできず、「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となるか否かの基準に明確な規範性を持たせることができる。これにより、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすという制約を有する「武力の行使」を行う実力組織であれば、「陸海空軍その他の戦力」に該当しないと解する余地はある。
 しかし、「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」であり、「他国に対する武力攻撃が発生」した段階で、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」ができるとするものである。これは、9条が存在することから求められる、政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規範性を有しておらず、9条解釈として成り立たない要件を設定したものである。また、このような要件を設けることは、9条解釈の指針となる前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨にも適合せず、9条解釈からは導かれないものである。
 このような「武力の行使」の発動要件を政府の恣意性の入る余地のある要件とすることは、政府が「国際紛争を解決する手段として」「武力の行使」を行う可能性を排除することはできず、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄した趣旨に抵触して違憲となる。
 自衛隊法76条1項では、「我が国を防衛するため必要があると認める場合」との記載があることから、『自国防衛』のための「武力の行使」であることを理由として正当化を試みる主張もあるが、9条の下では「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではないため、政府の恣意性の入る余地のある要件でもって「武力の行使」が可能となるとしたこと自体が、9条の規範性を損なうものであるため、9条に抵触して違憲となる。
 また、「武力の行使」を行う実力組織についても、政府の恣意性の入る余地のある「武力の行使」が可能となることによって、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当しないことを明確化する正当化根拠となっていた実力組織の限度を画する制約基準の規範性を損なうこととなる。これにより、その「武力の行使」を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。

 「憲法9条と自衛権の問題について触れた、唯一の最高裁判決だ。憲法9条下で、許容される自衛の措置について、その後、最高裁で判断されることはなかった。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。砂川判決は結論部分で「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」と述べているため明確ではないが、判断の過程の部分で許容している「自衛の措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権による「武力の行使」については、何も述べていない。「自衛の措置」=「武力の行使」というわけではないことを押さえておきたい。


   【9条は「自国防衛」容認 武力攻撃から人権守るため】

 「現在の安全保障環境から見れば、いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を、私どもは共有した。こうした認識の下で、新3要件を提案し、昨年7月の閣議決定に盛り込み、今般の安全保障法制の法案にも明記している。」との記載があるが、9条解釈における正当化根拠とはならないため、新3要件を設定して「存立危機事態」の下で「武力の行使」が可能となるとすることはできず、誤りである。
 1972年(昭和47年)政府見解の文面は、論者の言う「砂川判決と全く同様のこと」の部分である「自衛の措置」の部分(『基本的な論理』と呼称される部分)から、政府がその「自衛の措置」の中に「武力の行使」が含まれると述べる部分へと、段階を追って論理的に構成されている。そのため、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し」の文言は、「武力の行使」について述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて」の文言と対応する関係にある。そのため、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃」の文言は、「わが国に対する」「外国の武力攻撃(急迫不正の侵害)」を意味するものである。
 また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解そのものは、憲法解釈の指針となる前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨を含むのであって、政治的な都合によって政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを防ぐことのできる規範性が求められる中に導かれた解釈である。このことは、1972年(昭和47年)政府見解の文言に含まれた「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という「国民の権利」の危険を理由として「自衛の措置」が可能となるかのように読み解くことは、結局政府の恣意的な判断によって「自衛の措置」や「武力の行使」が行われることを排除することができないため、9条解釈として妥当性を失うこととなる。そのため、1972年(昭和47年)政府見解は「外国の武力攻撃によ」る「急迫、不正の事態」が発生したことに規範を設定したと考えることが憲法解釈の手続きとして妥当である。受動的・客観的に明確な規範であり、前文の平和主義や9条の規定が政府の行為を法の規範によって制約しようとする意図が活かされているからである。
 それにもかかわらず、論者は「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識」によって、新3要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化しようとしている。
 しかし、1972年(昭和47年)政府見解は、文章全体として「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」を満たさない中で行うこととなる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を憲法上許されないものとして排除する論理構成のものである。その「基本的な論理」となる「自衛の措置」の部分だけを抜き出して、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃」の部分に『わが国』の文言がなく、「武力の行使」について述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」の部分に『わが国』の文言があるからといって、この「自衛の措置」と「武力の行使」の発動要件が異なると解することは、1972年(昭和47年)政府見解が憲法解釈として「集団的自衛権」としての「武力の行使」が憲法上許されないとして排除されるという結論に到達するまでに行われる論理の積み重ねという解釈行為の営みそのものを否定することとなる。
 また、1972年(昭和47年)政府見解は、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態(論者の言葉では『国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態』)」に規範を設定しているわけではなく、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」に規範を設定したものである。これは、「自衛の措置」の部分で言えば、「外国の武力攻撃によ」る「急迫、不正の事態」が発生したことにあたる部分である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」である。
 しかし、論者は「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況」であるにもかかわらず、「他国に対する武力攻撃」があったならば、その影響によって「国民の基本的人権が根底から覆される」ことが9条解釈として導かれた1972年(昭和47年)政府見解の規範性であるかのように考えていることは、9条の規定が政府の行為を制約する趣旨を踏まえた基準を設けた解釈とは言うことができず、憲法解釈として妥当性を欠く。また、1972年(昭和47年)政府見解では、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」と記載されており、「外国の武力攻撃」と「急迫、不正の事態」は繋がっている。「外国の武力攻撃」によっても「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」ことがないのであれば「急迫、不正の事態」とは言うことができず「武力の行使」を発動することができない場合も考えられるが、これは単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」ことが「急迫、不正の事態」であるから「武力の行使」の発動が可能となるとする意味ではない。必ず「外国の武力攻撃」が発生している必要がある。先ほども述べたが、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上認められない旨を論理的に導き出すために作成された文章であるから、この「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分と「武力の行使」として述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」は結論に至るまでの一貫した過程の中で用いられた表現であり、同じ意味である。そのため、ここでいう「外国の武力攻撃」の発生とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味するものである。
 論者は、「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を、私どもは共有した。こうした認識の下で、新3要件を提案し、昨年7月の閣議決定に盛り込み、今般の安全保障法制の法案にも明記している。」とのことであるが、たとえ認識を共有したとしても、1972年(昭和47年)政府見解を基にする形では、「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化することはできない。提案された新3要件の「存立危機事態」の要件は違憲であり、2014年7月1日閣議決定の盛り込まれても、安全保障法制に明記されても、違憲であることには変わりないのである。


   【新3要件は72年見解の枠内】

 新3要件の第1要件について、「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」であったとしても、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設定した見解であり、その「基本的な論理」と称する部分についても同様であるため、これを満たさない中で「武力の行使」については、すべて違憲である。「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」からといって「武力の行使」が合憲となるということはない。また、内閣法制局長官の「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」との表現についても、閣議決定や法律として明記されているわけではなく、解釈が変更されることも容易に起こり得る。結局このような「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」という要件は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるため、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となる。また、政府が「自国の存立」や「国民の権利」などを理由としたり、政治的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約した9条の趣旨から求められる政府の恣意性を排する規範性を持つこともなく、9条に抵触して違憲となる。

 第2要件について、「あくまでもわが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除、それ自体を目的とするものではないということを明らかにしている」と語ったところで、1972年(昭和47年)政府見解の規範性である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」について、『自国防衛』であるからといって合憲化されるわけではない。論者は「自国防衛に限られる、他国防衛を目的するものではないということを明確にしている。」と述べるが、1972年(昭和47年)政府見解(『基本的な論理』と称する部分についても同様)の規範性は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けられたものであり、目的が『自国防衛』か『他国防衛』かを基準としているわけではない。『他国防衛』の目的を有する「武力の行使」を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となることは当然であるが、結局『自国防衛』と称することによっても「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことなく「武力の行使」を行うことは1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となるし、その「武力の行使」を行う実力組織についても政府の恣意的な理由によって「武力の行使」が行われる可能性を排除できない組織となるから、2項の「陸海空軍その他の戦力」抵触しない「必要最小限度の実力組織」であるとして正当化するための限度を画する基準の規範性を損なうため、結局2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 第3要件についても、「わが国を防衛するための必要最小限度ということである」と述べたところで、「他国に対する武力攻撃の発生」であるにもかかわらず、『自国防衛』を理由として行う「武力の行使」なのであるから、第1要件の「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」状態が具体的にどのように排除されたことが認定されるのか明確でなく、「武力の行使」の程度・態様が「我が国を防衛するための必要最小限度」であるか否かという限界を定めることができない。これについて、旧三要件においては、「我が国に対する急迫不正の侵害がある」状態を排除した場合には、その時点で「武力の行使」を終了させるという限度を定めることができるが、新3要件の第1要件の「国民の権利が根底から覆される明確な危険がある」か否かを決することは、政府が相手国の態様を総合的に判断するなどという主観的な基準しか存在せず、第2要件の「これを排し、」を満たしたか否かも曖昧不明確である。そのため、結局この第3要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の要件についても、その具体的な限度を画することはできず、政府の主観的な感覚によっていつまでも「武力の行使」を行い続けることができることとなる。論者も述べている通り、「わが国の存立を全うし、国民を守るため」を理由とする「必要最小限度」ということである。これは、旧3要件のように「我が国に対する武力攻撃」を排したことにより、そこで「武力の行使」が留められ、終了するわけではないものである。「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず「武力の行使」に踏み切り、さらに戦争に勝つことを目的として「武力の行使」を継続することができるものとなっているのである。このような要件が設定されていることは、前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」にも反するものである。

 「『従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない』などとの批判があったが、これは全く当たらないと言わざるを得ない。先ほど述べたように、新3要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつそれを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものだ。」との記載があるが、理由がないため誤りである。まず、憲法学者「長谷部恭男」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠内では説明できないとの批判を行っている。それに対して、論者は「基本的な論理」を維持し、当てはめて導き出したと説明している。批判は「『基本的な論理』の枠内では説明できない」であり、論者の応答は「『基本的な論理』を維持して当てはめた」である。論者のような「『基本的な論理』を維持して当てはめた」などとする主張に対して「『基本的な論理』の枠内では説明できない」と批判が行われているにもかかわらず、理由なく「これは全く当たらないといわざるを得ない」などとして結論のみを述べても、何の正当化根拠を示したことにもならないのである。正当化根拠として必要なことは、「『基本的な論理』の枠内で説明のつく理由やその解釈の過程」が求められているのであり、「『基本的な論理』を維持し、当てはめた」などという結論ではないのである。

 「また、新3要件の意味について不明確との批判があったが、新3要件それぞれの意味については、首相、内閣法制局長官が、この1年間、一貫して先のような答弁を繰り返しており、不明確だとは考えていない。」との記載があるが、存立危機事態の要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。そのような要件は、それを運用する際にその要件を適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れることを防ぐことができない。そのような要件では、その要件の認定によって起こされる政府の行為も「武力の行使」であることから、重大な弊害を生ずることとなり得る。たとえ首相、内閣法制局長官が答弁によって独自の基準を示したとしても、その要件の解釈が変更されることも起こり得る。政府に対して規範性を有しない広範な裁量を与えた旨が、31条の適正手続きの保障の趣旨や41条の立法権の趣旨より違憲となる。

 「憲法との適合性をどう図るのか。こうした論議をしなければならないと考える。」との記載があるが、存立危機事態の要件は憲法との適合性を有しておらず、違憲となる。法解釈においては、論理の積み重ねによる議論をしなければならないのである。


   【他国防衛の 集団的自衛権行使は認めず】

 「9条の下で許される自衛の措置について一番最初の最高裁判決が、この砂川判決である。そこでは、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ると言っている。59年の判決なので、当然、45年の国連憲章51条に個別的自衛権または集団的自衛権という言葉があることを分かった上で、個別的自衛権とも言わず集団的自衛権とも言わず今のように表現をしている。」との記載があるが、誤りである。
 まず、砂川判決は「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」として「自衛権」という国際法上の『権利(right)』それ自体は当然に有していることを前提としているのである。しかし、9条のもとで許される「自衛の措置」については、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を示すにとどまっており、日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」が可能か否かは述べていない。そのため、「個別的自衛権または集団的自衛権という言葉があることを分かった上で、」などと、分かっていても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」ができるかどうかについては何も述べていないのであるから、砂川判決の「必要な自衛のための措置を取り得る」という文言の「自衛のための措置」という日本国の行為を、国際法上の「自衛権」という『権利(right)』と同じものを意味すると考えて、「個別的自衛権とも言わず集団的自衛権とも言わず」などとして『権利(right)』の区分を基に、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の正当化を試みても無理である。論者が砂川判決を日本国の統治権の『権限』が「自衛の措置」として「武力の行使」ができるかのように読み解くことは誤りである。

 「いわば集団的自衛権、個別的自衛権という観念ではなくて、また集団的自衛権と言われている観念を排除しているものではないと少なくとも言えるだろうと思う。」との記載であるが、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』の区分である「自衛権」それ自体を排除しているものではないことは確かである。しかし、だからと言って論者が「自衛権」という国際法上の『権利(right)』を有していることによって、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかのように考えている点は誤りである。

 9条の下でどこまで「自衛のための措置」が許されるかについて、論者が「砂川判決はそれを内閣、政府、また国会に委ねたと私は思う。」と述べているが、補足する。砂川判決では、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」については否定していない。「二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、」の文言が存在することから、芦田修正による「自衛のための戦力」の保有が禁じられているかどうかは判断していない。当然、「自衛のための戦力」による「武力の行使」が可能であるかについても判断していない。政府見解である2項の「戦力」に該当しない「自衛のための必要最小限度の実力組織(自衛力)」の考え方や、その「自衛のための必要最小限度の実力組織(自衛力)」による「武力の行使」が可能かどうかについても判断していない。ただ、「侵略戦争」を目的とした「武力の行使」や「侵略戦争のための戦力」を禁じられていることは確かであると思われる。内閣、政府、国会は、砂川判決が示したこの幅の中で、論理的整合性のある解釈を行うことが求められているのである。

 「まず一番最初に出てくるいわゆる集団的自衛権というのは、集団的自衛権のまさしく定義である。この定義は何かと言えば国連憲章51条の集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含むフルサイズの集団的自衛権を、いわゆる集団的自衛権と定義している。以下、あと3回の集団的自衛権も『右の』とか『いわゆる』と言っているわけで、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べていると私は考える。」との認識であるが、誤りであると考える。
 まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利(right)』の概念である。また、国連憲章51条によって初めて明文化された概念であり、その意味するところは必ずしも明らかとはなっていない生まれたばかりの概念なのである。また、「集団的自衛権」という概念は国際法上の概念であることから、日本国政府が勝手に意味を定義したり、解釈を定めたりすることのできる性質のものではない。これにより、政府が国際法の評価として「集団的自衛権の行使」という表現を使うとしても、自らの解釈行為によって意味を定義し、確定することのできるものではないことから、「いわゆる」という文言を使うことになっていると考える。「いわゆる」を言い換えると、「世間一般に言われる」「俗に言う」「よく言う」などを挙げることができる。国際法上の評価として「集団的自衛権の行使」となる概念は、日本国政府の視点から見ると、結局日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味するのであり、この「武力の行使」の発動の在り方を日本国政府の立場から国際法上の言葉を使うならば、「いわゆる(一般によく言う)集団的自衛権」と表現することが妥当となるのである。
 論者は、「この定義は何かと言えば国連憲章51条の集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含むフルサイズの集団的自衛権を、いわゆる集団的自衛権と定義している。」などとして、国際法上の「集団的自衛権」の中に『他国防衛』と『自国防衛』の二つがあり、『他国防衛』を目的としていれば「フルサイズの集団的自衛権」であるかのように論じているが、誤りである。国際法上「集団的自衛権」の区分に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかないのである。国際法上の概念でしかないにもかかわらず、日本政府が『他国防衛』と『自国防衛』の「集団的自衛権」が存在するなどとして、勝手に定義を変更することはできない。
 「以下、あと3回の集団的自衛権も『右の』とか『いわゆる』と言っているわけで、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べていると私は考える。」などと述べている点についても、同様に「集団的自衛権」に該当すれば、国際法上「集団的自衛権」でしかないのであり、「フルサイズ」がどうのこうのという認識自体に誤りがある。「右の」や「いわゆる」についても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の発動の形について、「一般によく言う」国際法上の「集団的自衛権の行使」という表現を使う場合として「いわゆる」の文言を使っているものであり、論者の「フルサイズ」か否かなどと言う認識は通常の解釈の手続きからは到底考えることができないものであり、自らの求める結論に導くために文面上の論理的な意図を曲解しようとする不正な意思を含んだものと認識することが相当と思われる。

 「第2段落にある集団的自衛権も、まさしくそういうフルサイズの集団的自衛権であり、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っているというふうに私は読めるのではないかと考えている。」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことが憲法上許されないと述べているものであり、「集団的自衛権」が「フルサイズ」であるかなどは焦点となっていない。1972年(昭和47年)政府見解は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行う際は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていることが必要となる旨を述べているだけであり、この見解が意味する「集団的自衛権」の概念が「フルサイズ」であり、それ以外の「集団的自衛権」ならば行使できる可能性があるなどとするところに9条の制約の規範性が導き出されているわけではない。論者は「集団的自衛権」という概念が国際法上の概念であり、それを行使するということは「武力の行使」を意味し、かつ9条が「武力の行使」を制約している規定であるということを理解する必要がある。その上で1972年(昭和47年)政府見解を読み解けば、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」がすべて違憲となるのであり、「集団的自衛権」という国際法上のネーミングがどうのこうのという議論には発展しえないことが分かるはずである。


集団的自衛権の限定行使容認、「憲法第9条」に違反せず 北側一雄・公明党副代表に聞く 2015.06.19


 「国際法上は集団的自衛権と見られる可能性が高い。そういう場合も、きちんと対処できるようにしていく必要があるということで、新3要件の下で限定的な集団的自衛権の行使を容認するとした。」との記載があるが、意味を整理する必要がある。

 まず、国際法と国内法の違いを押さえる必要がある。「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である。国際法上、「集団的自衛権」と見られたとしても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について何か変わるわけではない。そのため、論者が「集団的自衛権と見られる可能性が高い。そいう場合も、きちんと対処できるようにしていく必要がある」などと述べているが、結局これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものでしかないのである。あたかも国際法上の違法性阻却事由を得ていれば、9条が日本国の統治権の『権限』にかけている制約を逃れることができるような前提で話をし、9条の下でも「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」が可能であるかのような前提を持っていること自体に誤りがある。
 また、「限定的な集団的自衛権の行使」という意味であるが、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を示した「集団的自衛権」に該当すれば、それは国際法上「集団的自衛権」でしかない。そのため、「限定的な」などという「集団的自衛権」は存在しない。「集団的自衛権の行使」とは、実質的には「武力の行使」を意味しているにもかかわらず、違法性阻却事由の『権利』の区分に対して「限定的な」などという文言を付けても、9条が「武力の行使」を制約する基準が変わるわけではないのである。論者が「新三要件の下で限定的な集団的自衛権の行使を容認する」という意味は、結局、「新三要件によって『我が国に対する武力攻撃が発生したこと』を満たさない中で『武力の行使』を容認する場合がある」とするものである。国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて、あたかも9条の制約を逃れることができるかのように考えている点で誤りである。結局、その「武力の行使」は9条が制約しており、その範囲を確定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の意味である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。
 論者の言う「新三要件」の「限定的な集団的自衛権の行使」にあたる「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条に抵触して違憲である。


9条改憲、国民の理解が大前提 毎日新聞「デジタル毎日」インタビュー 2018年6月13日


 「そのなかで一番重要だったのは『自衛の措置の限界』は憲法上、どこにあるのかという議論だった。」との記載であるが、それは憲法解釈によって導き出されるものであり、1972年(昭和47年)政府見解が示している。

 「この議論によって、9条のもとで許される自衛の措置(武力の行使)の限界を明確にした。従来の政府見解をふまえて、論理的な整合性を持つ形で明確にした。」との記載があるが、誤りである。あたかも「存立危機事態」での「武力の行使」が9条の下、つまり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれるかのような前提で話を進めているが、論者の言う「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態」での「武力の行使」が含まれると考えることには「論理的な整合性」が保たれていない。「論理的ない整合性を持つ形で明確にした」との認識は、理由なく結論のみを述べようとしている点で、正当化することはできない。結論のみを「論理的な整合性を持つ」や「明確にした」、「ふまえ」たかのように説明したからといって、正当化できるとするのであれば、9条の下でも侵略戦争を「論理的な整合性を持つ」や「明確である」、「ふまえて可能と判断した」などと結論のみを述べて正当化できることとなってしまうからである。結論のみを述べて正当化しようとしている論者の主張は、法解釈という営みそのものを否定するものである。



集団的自衛権行使ゼロでも日米関係安定に貢献 米艦防護では抑止効果 2021/3/27

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 公明党の北側一雄副代表は安保関連法の整備について「あのときやっておいて本当によかった」とも振り返る。

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 上記の記載であるが、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」の要件や、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となる。

 そのため、「あのときやっておい」たことは、違憲である。



【動画】第208回[衆] 憲法審査会 2022/05/12

(【動画】LIVE 🌏 国会中継 憲法審査会 2022/05/12)

 「一番のポイントは、日本が専守防衛を堅持しながら、そして9条の下でどこまでの自衛の措置を認めるのか、この点をですね、限界まで突き詰めたのが、私は平和安全法制であったと、理解をしております。」との発言がある。

 まず、「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」の意味である。そして、ここで使われている「自衛のための必要最小限」とは三要件(旧)のことを指している。

 そのため、「専守防衛を堅持」しているのであれば、三要件(旧)の範囲に限られるのであり、新三要件の第一要件後段「存立危機事態」での「武力の行使」についてはこの範囲を超えているため行うことはできない。

 また、「専守防衛」の説明の中には、「憲法の精神に則った」の文言があり、9条に抵触する場合にはこの「憲法の精神に則った」を満たさないことになる。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、9条に抵触して違憲となる。よって、「憲法の精神に則った」を満たさない。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」を行おうとするのであれば、「専守防衛」が堅持されているとは言えない。

 論者は下の二つの点で矛盾した発言をしていることになる。

◇ 「専守防衛を堅持」しているというのであれば、三要件(旧)の範囲に限られるため、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできない。

◇ 「存立危機事態」での「武力の行使」を行おうとするのであれば、「専守防衛」とは言えないし、9条に抵触して違憲となる。

 結局、「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条の下での「限界」を超えている。


 2014年7月1日閣議決定についての発言もあるが、この閣議決定の内容は論理的整合性が保たれておらず、解釈の過程に不正・違法があり、法的に正当化することはできない。結果として、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、2014年7月1日閣議決定でも採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠に当てはまらず、9条に抵触して違憲となる。 ⇒ 詳しくは、当サイト「集団的自衛権行使の違憲審査」で解説している。

 

 「9条の規範力が無くなったわけではありません。」との発言があるが、その通り、9条の規範力が維持されていることにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。

 

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 そもそも,平和安全法制関連2法は,憲法ではなく,あくまで法律を改正又は制定するものであり,平和安全法制関連2法が憲法に適合しない場合には,平和安全法制関連2法が違憲無効となるにすぎないのであって,平和安全法制関連2法の制定によって,憲法の効力に影響を与える余地はないのであるから,憲法9条が実質的に改正されたということもできない。

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損害賠償請求事件 福島地方裁判所 いわき支部  令和4年2月22日 (PDF

 

 「日本防衛のために活動する米軍が攻撃を受けた際にも、一定の要件の下で、専守防衛の範囲内で自衛隊が米軍を守ることができるようになりました。」との発言がある。

 しかし、「専守防衛」という三要件(旧)の範囲内(自衛のための必要最小限)であれば、平和安全法制ができる以前でも、その範囲内で米軍と連携した「武力の行使」を行うことが可能であったため、平和安全法制ができて初めてそれを行うことができるかのような説明は誤りである。

 新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」での「武力の行使」については、「自衛のための必要最小限」という三要件(旧)の範囲を超えているため「専守防衛」とは言えないし、9条にも抵触して違憲であるから、これを使って「米軍を守ること」はできない。



【動画】第208回[衆] 憲法審査会 2022/05/19

(【動画】国会中継 憲法審査会 2022/05/19)


 「この平和安全法制では、憲法9条の専守防衛の下で、我が国を防衛するために活動する米軍に対し攻撃があった場合には、自衛隊はこれを排除できる、ということをですね、従来の憲法論議の枠内でですね、決めさせていただいたわけでございます。それが新三要件です。」との発言があるが、論理的に成り立たない部分がある。

 

 まず、「憲法9条の専守防衛の下で、」の部分を検討する。

 9条の下では、三要件(旧)を満たす場合でなければ「武力の行使」を行うことが許されないという制約がある。この三要件(旧)の枠のことを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる。そして、この「自衛のための必要最小限度」という文言は、専守防衛の定義の中でも使われている。


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1 専守防衛

専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。

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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版 防衛白書 (下線・太字は筆者)


 つまり、論者が「憲法9条の専守防衛の下で、」としているのであれば、それは三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」に限られることを示しているのであり、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は行うことができない。


 次に「従来の憲法論議の枠内でですね、」との部分であるが、この「従来の憲法論議」とは、論者が提示している2014年7月1日閣議決定の中で用いられている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠のことを指していると思われる。

 しかし、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には、ここには「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言があり、これは第二段落で「集団的自衛権」を行使することは「自衛の措置の限界をこえる」とする説明を受けて定められた「自衛の措置」の限界を示した規範部分であることから、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「集団的自衛権の行使」を可能とする余地が生まれる「我が国に対する武力攻撃」を満たしていない場合が含まれているはずがない。

 そのため「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているのであり、この文言の中に「我が国に対する武力攻撃」を満たさない場合を示した「存立危機事態」の要件が当てはまるはずがない。

 よって、論者は「従来の憲法論議の枠内」と言うが、「枠内」とは言えず、誤りとなる。 ⇒ 詳しくは、当サイト「集団的自衛権行使の違憲審査」で解説している。


 「この平和安全法制では、憲法9条の専守防衛の下で、我が国を防衛するために活動する米軍に対し攻撃があった場合には、自衛隊はこれを排除できる、ということをですね、……(略)……、決めさせていただいたわけでございます。それが新三要件です。」という発言全体を検討する。

 政府は「平和安全法制」を定める以前でも、三要件(旧)の基準を満たす場合であれば、「我が国を防衛するために活動する米軍に対し攻撃があった場合には、自衛隊はこれを排除できる」ことを答弁しており、「平和安全法制」や「新三要件」を定めたことによって初めて「決め」たかのように考えているのであれば誤りである。


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 お尋ねのような事案については、法理としては、仮に、個別具体の事実関係において、お尋ねの「同盟国の軍隊」に対する攻撃が我が国に対する組織的、計画的な武力の行使に当たると認められるならば、いわゆる自衛権発動の三要件を満たす限りにおいて、我が国として自衛権を発動し、我が国を防衛するための行為の一環として実力により当該攻撃を排除することも可能であるが、右のように認めることができない場合であれば、憲法第九条の下においては、そのような場合に我が国として実力をもって当該攻撃を排除することは許されないものと考える。

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政府の憲法解釈変更に関する質問に対する答弁書 平成16年6月18日


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○山本政府参考人 

(略)

 第二の、米軍艦艇の話でございますけれども、これはやはり二つに分かれておりまして、既に我が国に対する武力攻撃が発生した場合におきまして、我が国防衛のために行動している米軍艦船が相手国から攻撃を受けたときには、我が国の自衛権の行使によって対処することが可能でありますし、また、法理としては、個別具体の事実関係におきまして、お尋ねのような、米軍艦船への攻撃が我が国に対する武力攻撃に該当すると認められるならば、我が国として自衛権を発動して実力を行使することによって、当該米軍艦船への攻撃を排撃するということが可能な場合もあります

(略)

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第166回国会 衆議院 安全保障委員会 第9号 平成19年5月15日

 

 このように、三要件(旧)の基準を満たす場合であれば、「米軍」に対する攻撃を「自衛隊」が「排除」することは可能である。

 しかし、「新三要件」や「平和安全法制」で定めようとした「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」については、9条に抵触して違憲となるため、これを用いて「米軍」に対する攻撃を「自衛隊」が「排除」することはできない。


 その他、論者は「平和安全法制」の必要性を説明しようとしている部分があるが、政策論と憲法論(法律論)は別の問題として切り分けて考える必要がある。政策上の必要・不要によって、憲法上の合憲・違憲が変化することはない。

 







遠山清彦

〇 公明党 遠山清彦


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そこで、米軍が日本を守るために活動しているとき、たとえば北朝鮮から攻撃された場合等に限り、あくまでも自国防衛のためだけに集団的自衛権を行使できるようにしました。
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公明・遠山議員が改憲案を自民と調整しない理由を独白「国民投票否決は政治的な影響が出る」 2018.9.30


 「自国防衛のためだけに集団的自衛権を行使できるようにしました」との記載がある。しかし、9条の規定は、「自国防衛」を理由とするからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、「自国防衛」を理由とすることだけでは、自国民の利益や政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が発動される可能性を排除できないからである。そのため、9条解釈には、政治判断によって自国都合による「武力の行使」が行われる可能性を排除できる明確な基準が設定されることを必要とする。


 まず、他国に対する攻撃があった場合、【国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』】にあたる【自国の統治権の『権限』による「武力の行使」】を発動するためには、「他国からの要請」が必要となる。なぜならば、国連憲章2条4項では「武力行使禁止原則」が定められており、これに対して国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するためには、「他国からの要請」が求められているからである。もし「他国からの要請」がない状態で「武力の行使」を行った場合、国連憲章51条の「集団的自衛権」が適用されることはなく、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触して違法となるのである。そのため、「他国からの要請」がなければ、「集団的自衛権」の区分としての「武力の行使」はできない。


 しかし、この「他国からの要請」の有無を基準として、自国の統治権による「武力の行使」を発動できるか否かを決しようとすることは、本質的に9条の下で許容される「武力の行使」の範囲とは因果関係のないものである。


 なぜならば、もし「他国からの要請」がない段階で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるとした場合、その行為は国連憲章51条の「集団的自衛権」に該当せず、国連憲章2条4項の武力行使禁止原則に抵触して国際法上違法となることは当然であるが、9条が「自国防衛」を目的とした「先制攻撃(先に攻撃)」を許容する規範ということになってしまうからである。


 9条の規定が存在する限りは、そこに規範が存在し、統治権の『権限』の範囲を制約することになる。しかし、その9条の下でも「先制攻撃(先に攻撃)」が可能であるかのように規範性を損なった形で読み解いた上で、国際法上の違法性を阻却するための『権利』を得るために必要となる「他国からの要請」という基準に頼る形で自国の統治権の『権限』の範囲を確定する規範を設定しようとすることは、9条の規定が存在する意味から求められる9条それ自体の規範性を意図的に無視するものである。


 これは結局、9条解釈においても、「他国に対する武力攻撃」と「その他国からの要請」という基準を満たしたならば、政治判断によって自国都合の「武力の行使」を許容することとなる基準を設定しようとするものであり、9条解釈が日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する基準として存在することから求められる規範性を損なっているのである。これについて、たとえ「自国防衛」と称する「武力の行使」であったとしても、9条解釈において設定された規範性を踏み越えることが許されるわけではない。

 よって、9条解釈は「自国防衛」であるか否かによって規範性の基準を設定しているわけではないことから、論者のいう「自国防衛のためだけ」の集団的自衛権の行使(存立危機事態での「武力の行使」)であるか否かに関係なく、9条の規範性を損なっていることにより、9条に抵触して違憲となるのである。


 そもそも、「集団的自衛権」とは、「他国からの要請」があった際に、自国に国際法上の『権利』が発生することで成り立つものである。憲法9条とは、自国の統治権の『権限』を制約するものである。この両者は、『権利(right)』と『権限(power)』で性質が異なる。


 「他国からの要請」によって国際法上の違法性阻却事由としての『権利』が発生するからといって、9条に制約を受けた日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではない。

 9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定した基準であり、その規範性を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に設定したものである。ここに、存立危機事態の要件である「我が国と密接な関係にある他国」が含まれることはない。


 もし、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとしたならば、9条が自国民の利益や政府の都合によって「武力の行使」が行われる可能性を排除することのできない規定となってしまい、憲法解釈として妥当でないからである。

 また、記事には「米軍が日本を守るために活動しているとき」との記載もあるが、存立危機事態の要件である「我が国と密接な関係にある他国」とは米軍に限られているものではない。どの国も政治判断によってこの「他国」に入る可能性を有する要件なのである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中には「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃があてはまる余地がないため違憲となることが前提ではあるが、この「他国」という要件も9条の規範性を損なう要件であるため違憲である。


<安保法制>公明党・遠山清彦議員に聞く 集団的自衛権の行使の条件とは? 2015年05月26日


 5ページに「われわれが作った、公明党が特に強く主張して作った新3要件っていうのは、日本ではないほかの国の部隊への攻撃がきっかけなんですが、そのほかの国の部隊に対する攻撃を『きっかけ』として、ほかの国の国民じゃなく、日本国民の生命、命と自由と幸福に暮らす権利が根底から覆される明白な危険があって、ほかに適切な手段がないときは自衛隊がほかの国の部隊に対する攻撃を『きっかけ』に動いていいですよ、と。武力の行使をしてもいいですよということを言ったんです。」

 「これ、普通の集団的自衛権です。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当させて「武力の行使」の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、「他国からの要請」が必要である。そのため、「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「普通の集団的自衛権」や「独自の集団的自衛権」などという区分けは存在しない。「他国からの要請」が必要な「武力の行使」をしている時点で、それは『他国防衛』にあたるのであり、『他国防衛』を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。

 6ページに「新3要件は、わが国と密接な関係にある他国に対する攻撃を『きっかけ』として、かつ、その攻撃によってわれわれ自身が、私自身が危ない目に遭うということが明白なときといってますから、」との記載があるが、そもそも9条の下では、たとえ「自国の存立」や「国民の権利」の危険が存在するからといって、必ずしも「武力の行使」ができるわけではない。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険などを理由として政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定だからである。結局、論者は「他国に対する武力攻撃」をきっかけとして、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」を行おうとしているものであるため、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした趣旨に抵触するため、その「武力の行使」は違憲となる。また、新三要件を持ち出した2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設定したものである。この「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「存立危機事態」の要件にある「他国に対する武力攻撃」は含まれておらず、含ませることもできない。このことから、「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府自身の設定した違憲審査基準によって違憲となる。

 8ページで、「想像の事態ですから、それは法律では新3要件に合えば行ける、合わなければ行けない、以上。終わり、なんです。」との記載がある。論者の言おうとしている「法律論」に合わせて表現するが、「存立危機事態」が存在するかは別として、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合すれば合憲、適合しなければ違憲である。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に論理的に適合しないため、違憲である。以上、終わり、である。

 9ページの自民党に聞けば「新3要件に合えば行けますよ」と答え、公明党に聞けば「新3要件に合わなければ行きません」と答えるとの点であるが、結局、合うか合わないかが焦点であることは確かである。しかし、この「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなる。そのため、31条の適正手続きの趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。

 その後、「ですからそこは厳密に細かく書かせていただいたと思ってますし、」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は一体どのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、9条の下にあるという制約から求められる規範性を確定する要素となるものが存在しないため、9条に抵触して違憲となる。

 6ページあたりの海外派兵については、下記の記述が詳しい。

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・しかし、新三要件における第三要件「必要最小限度の実力行使」は、自衛隊の集団的自衛権行使について、①そのエリアについても、また、②武力行使 の態様についても、何ら論理的な法的制限を課すものではない。これに対 し、個別的自衛権行使の(旧)三要件の場合は、その第三要件「必要最小限度の武力行使」が、日本侵略の排除のためのものであるため、エリアも (相手国の軍隊を領域外に追い出せば足りる)、態様も(相手国の武力攻撃を排撃できるもので足りる)、その両方において、はっきりと論理的な制限が画せるものである。


・つまり、新三要件の集団的自衛権行使は、同盟国に対する他国の武力攻撃を阻止するための武力行使であって、常識で考えて、エリアは一般的に他国の領域か、同盟国の領域となり(エリアは旧三要件と原則がひっくり反る)、また、態様は日本侵略排除と違って何をどこまでやれば「日本国民の 生命等が根底から覆される明白な危険」を排除できるものであるか何の論理的基準もない。特に、態様については、旧三要件とは全く異なり、当初の見込みが外れて「泥沼の戦争となった」というベトナム戦争、イラク戦 争などの海外派兵の幾多の史実が示すとおり、相手の武力攻撃の態様に引き摺られ際限なく拡大・深化し得る、均衡的・相対的というよりは実質的にはむしろ「従属的な概念」となる。
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第五章 集団的自衛権行使の新三要件 ──歯止め無き無限定の武力行使 PDF (P170~171) (下線・太字は筆者)


平和安全法制が立憲主義に反する」という主張に反論する 遠山清彦 2016年11月25日


 「『当時考えられていた、他国防衛を目的とするような集団的自衛権』を念頭に、『いわゆるフルセットの集団的自衛権』を否定しているのです。」との記載があるが、国際法上の『権利』の区分である「集団的自衛権」は、かつても現在も「集団的自衛権」でしかない。「集団的自衛権」の区分に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、『他国防衛』や『自国防衛』などという区分は国際法上存在しないし、「限定的」や「フルセット」などという区分も国際法上存在しない。結局、論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」では認めることのできない「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を行おうとしているものであり、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件に規範を設けた1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に抵触して違憲となる。

 「すなわち、『47年見解』の『基本的な論理』を維持した上で、それを現在の安全保障環境に『あてはめ』た結果、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われる趣旨から求められる政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的な事態の性質面に規範を設定したものと解することが憲法解釈上の前提として妥当であり、この規範性は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。それにより、「現在の安全保障環境」を考えたとしても、9条の規定が意図する規範性が揺らぐわけではない。結果として、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとする「存立危機事態」での「武力の行使」については、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に『あてはめ』ることはできず、違憲となる。

 「『自国防衛を目的とする集団的自衛権』の行使を認めることは、憲法前文や13条の趣旨を踏まえた憲法9条に反するものではない、と位置付けたものなのであります。」との記載もあるが、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』は、「他国からの要請」によって発生するものであり、『他国防衛』を含むものである。それを、国際法上の区分であるにもかかわらず、『自国防衛を目的とする集団的自衛権』などと独自に解釈することは自国の独善主義を排しようとして憲法が国際協調主義を採用している趣旨からも妥当でない。また、「憲法9条に反するものではない、と位置付けたもの」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に論理的に適合しないにもかかわらず、道理もなく「憲法9条に反するものではない」などと結論のみを述べて正当化することはできない。法解釈とは、論理的整合性を積み上げた結果として正当性を有するのであり、結論のみを述べることで正当性が生まれるわけではないのである。

 「国民の生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るかという観点から制定された平和安全法制は、『立憲主義違反』どころか、まさに『立憲主義』を具現化したものと評価されるべきもの、と考えます。」との記載があるが、誤りである。国家は、自国民の「生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るかという観点」から自国の独善主義に陥り、他国に向かって「武力の行使」を行うことが歴史上しばしば繰り返されてきたことは事実である。憲法上に設けられた9条は、まさにそのような政府の行為を制約するために設けられている規定である。そのため、9条の規定の下では、「国民の生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るか」という観点で考えたからと言って、必ずしも「武力の行使」を行うことが正当化されるわけではないのである。論者は、「まさに『立憲主義』を具体化したものと評価されるべきもの」としているが、これこそ、9条が憲法規定として政府の行為を制約しようとした我が国の独善主義に陥った考え方と評価されるべきものである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「憲法違反」であると同時に、政府の行為を制約する「立憲主義」の精神にも違反するものである。



山口那津男


〇 公明党 山口那津男

山口那津男の本音でズバッと 集団的自衛権の行使〜限定的、国民の理解求める〜 2014年7月2日


 「与党協議にあたって、公明党は、政府が長年とってきた憲法解釈をベースにして、」との記載があるが、政府が長年とってきた1972年(昭和47年)政府見解をベースとしているのであれば、その「基本的な論理」と称する部分にある「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味するため、「存立危機事態」での「武力の行使」を行うことはできない。しかし、「存立危機事態」での「武力の行使」が憲法上許容されると結論付けようとしている点は、論理的整合性が存在していない。
 「憲法解釈の歯止めがきちんとかかるように努力してきた。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件に歯止めとなる文言を加えたつもりであっても、「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらず違憲となることは変わらない。論者は「歯止め」以前に違憲とならないことを証明する必要がある。


 「政府が長年守ってきた憲法の柱は『自国(日本)を守るための武力行使のみ許され、他国を守るためだけの武力行使は許されないことである』との規範を明確にした。」との記載があるが、誤った認識である。
 まず、政府が長年守ってきた憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の規範は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との部分にある。これは、「自衛の措置」の規範を説明した部分では、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し」の部分に対応する。これは、たとえ『自国防衛』が目的であったとしても、9条の制約の下では政府の自由な行為によって無制限の「自衛の措置(武力の行使)」が認められるとは解されないことから設けられた規範である。そのため、『他国防衛』のための「武力の行使」、つまり、論者の言う「他国を守るためだけの武力行使」が許されないことは当然であるが、『他国防衛』に付随する『自国防衛』のための「武力の行使」が許されるわけでもないし、『自国防衛』のためであるからといって必ずしも「武力の行使」が許されるわけでもない。「武力の行使」が憲法上許容されるためには、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たす必要があるのである。
 このことから、論者が「政府が長年守ってきた憲法の柱」とする1972年(昭和47年)政府見解に示された規範を、あたかも『自国防衛』か『他国防衛』かという「武力の行使」を実施する際の目的に着目した基準であるかのように解しようとすることは、誤った読み方である。
 論者は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」について説明している部分の「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の文言に、この政府見解の規範が存在していると解そうとしている可能性があるが、そこに規範を見出そうとした場合、結局9条が「自国民の権利」の実現のために政府が『自国防衛』と称して「武力の行使」を行うことを制約する規範として意味を持たなくなってしまうため妥当でない。
 また、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範を示す部分で用いられている「急迫、不正の事態」とは、外国が我が国に対して行う何らかの行動の「急迫性」や「不正性」を判断するものである。もしこの「急迫、不正の事態」の意味を、「我が国」に対するものだけではなく、「我が国と密接な関係にある他国」に対する何らかの行動についても含まれると解しようとしても、その「急迫性」や「不正性」はその「我が国と密接な関係にある他国」が独自の判断として行うものである。そのため、我が国の憲法解釈によって用いられる文言である「急迫、不正の事態」の中に、他国に対して行われた何らかの行動を、我が国が独自にその「急迫性」や「不正性」を認定することによって、「武力の行使」が可能となるとする基準であるかのように考えることは不自然である。そのため、「急迫、不正の事態」の文言は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を意味するのであり、ここに「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれない。
 よって、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」での「武力の行使」を許容する内容は含まれておらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となる。

 「他国への攻撃であっても、自国を守るための武力行使が許される根拠は「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底からくつがえされる『明白な危険』がある」場合とし」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに政府の行為を制約する規範があるのであり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」か否かによって規範が設けられているわけではない。そのため、論者の提示する「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底からくつがえされる『明白な危険』がある」との基準を満たしたからといって、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中では「武力の行使」を行うことはできない。
 「恣意的な判断ができないようにした。」との記載もあるが、論者の提示する「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底からくつがえされる『明白な危険』がある」との要件によっても、未だ「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていないため、1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となることが前提ではあるが、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由、幸福追求の権利が根底からくつがえされる」の文言は、曖昧不明確な要件であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることが考えられるものである。このような要件を定めることは、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や、41条の「立法権」の趣旨に抵触して違憲となると考えられる。また、このような要件は9条の規範性を損なっているため、「恣意的な判断」は可能であり、論者の言う「恣意的な判断ができないようにした。」との認識には根拠がない。


 「いわば個別的自衛権に匹敵するような場合に限定し、『専守防衛』に徹する平和主義を貫くことにした。」との記載があるが、誤りである。
 まず、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって「武力の行使」の可否が決せられるとするところに規範を設定しているものである。よって「個別的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由を持ち出しても、「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」であれば、必ずしも憲法上許容される「武力の行使」であると言い切れるわけではない。そのため、「個別的自衛権」に匹敵しようとも、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないのであれば、憲法上は違憲となるのである。
 また、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいう。「存立危機事態」での「武力の行使」が違憲となるということは、「憲法の精神に則った」の文言を満たさないため、「専守防衛」には当てはまらない。よって論者の言う「『専守防衛』に徹する平和主義を貫くこと」はできておらず、論者の主張は論理的整合性のない主張である。
 「したがって、この憲法の柱を変えたいならば、憲法改正によるほかないこともはっきりさせた。」との記載があるが、「この憲法の柱」の意味が1947年(昭和47年)政府見解を意味するのであれば、それを変えて他の解釈に変更することは妥当でなく、憲法改正の必要があるという意味となる。しかし、論者は「存立危機事態」での「武力の行使」が憲法上許容されると考えているようであるが、これは1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合せず既に違憲であるから、既に憲法改正の必要がある事項である。「存立危機事態」での「武力の行使」に関しては、既に憲法規範を踏み越えてしまっているのである。



山口公明党代表、「憲法の平和主義を堅持」 集団的自衛権で 2014.7.5


 「憲法の平和主義を堅持する結論を導いたと確信している」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲であり、憲法前文の「平和主義」の理念を具体化した規定である9条に抵触するということは、憲法の「平和主義」も損なわれている。「憲法の平和主義を堅持する結論」は導かれておらず、論者の確信は誤解に基づくものである。


安保法制は違憲? 公明党・山口代表「国会や政府が自衛権のあり方を決めていく」 2015年06月12日


 「国民の人権を最も奪うのは、日本に対する武力攻撃だ。それを排除するための必要最小限の自衛力を持つことは許される」との記載があるが、その通りである。


 「他国に対する攻撃がきっかけだったとしても、日本に対する攻撃と同様に、国民に深刻・重大な被害をもたらすものであれば、日本は武力行使で反撃できる」との記載があるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解から導かれる規範ではなく、誤った認識である。
 まず、1972年(昭和47年)政府見解の規範は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところにある。そのため、「他国に対する攻撃」が発生しても、9条の規範を通過していない。
 また、たとえ「日本に対する攻撃と同様に、国民に深刻・重大な被害をもたらすもの」に該当すると考えたとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないのであれば、未だ9条の規範を通過したと解することはできない。なぜならば、9条は自国の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する法規範であり、その政府の行為を制約するために設けられる政府の恣意性の介入する余地のない受動性や客観性を有する規範(外国が我が国に対して行った行動であること)が求められるが、「他国に対する武力攻撃」が発生しても未だ9条の規範を通過していないことは当然、その事態の中で9条の規範が緩められるわけでもなく、「日本に対する攻撃と同様に、国民に深刻・重大な被害をもたらすもの」と政府が認定しさえすれば「武力の行使」が可能となるところに基準を置くことは、9条解釈として成り立たないからである。
 よって、9条の制約の下では「日本に対する攻撃と同様に、国民に深刻・重大な被害をもたらすもの」と判断すれば「武力の行使」が可能となるわけではなく、「日本は武力行使で反撃できる」との結論は導かれず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。



【全文】公明党・山口代表が安全保障法制について会見 2015年06月12日


 「憲法の制約がありますので、いわゆる日本の武力行使は自国の防衛ためにのみ使えるという限界を画すと同時に、もっぱら他国の防衛のために武力を使うことはやらない、ということをはっきりと決めました。」との記載があるが、憲法上の制約の範囲内であることを示すものとなっていないため、合憲性を説明する論理にはなっていない。
 まず、国家が『自国防衛』と称して「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験してきたところであり、9条はそのような理由によって「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定である。そのため、9条の下では目的が『自国防衛』であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。なぜならば、『自国防衛』と考えれば「武力の行使」が可能となるのであれば、そもそも9条が政府の行為を制約する法規範として存在している意味自体が成り立たなくなるからである。
 そのため、憲法上、論者が「他国の防衛のために武力を使うことはやらない」と述べている『他国防衛』の「武力の行使」が許容されないことは当然であるが、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけでもなく、『自国防衛』であることを理由に「武力の行使」が可能となると解しようすることは法解釈として妥当でない。「日本の武力行使は自国の防衛のためにのみ使えるという限界を画す」と説明しているが、そもそも『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではないのであるから、ここに合憲性を示す論拠は存在していない。
 論者は、「自国の防衛のためにのみ使えるという限界を画す」として、あたかも『自国防衛』と称すれば9条の規範に抵触しないとの前提で説明を行い、その限界となる要件を定めたかのように主張しているが、誤った認識である。
 まず、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。
 また、9条の下で許容される「自衛の措置」の限界は憲法解釈によって導き出す必要があるところ、その憲法解釈として示されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分に当てはまらない「存立危機事態」の要件を持ち出して、「限界を画す」などと説明することは、9条解釈の過程からは導かれない結論を論理的整合性なく主張しているものであり、正当化することができない。


 「国民の人権を最も奪う行為が日本に対する武力の攻撃ですから、これを排除するための力は必要であります。」との説明は、その通りである。論者の言う「日本に対する武力の攻撃」とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たすことを意味し、それを排除するための「武力の行使」とは、1972年(昭和47年)政府見解や旧三要件に対応する「武力の行使」を意味するからである。
 この「日本に対する武力の攻撃」に、「存立危機事態」の要件は当てはまらない。


 「個別的自衛権とか集団的自衛権という概念は、国際法で言われる概念でありますが、その集団的自衛権には、日本の国民の人権が台無しになること以外にも、他国をもっぱら守るために武力を使う概念も含まれておりますので、そうした国際法でいう集団的自衛権は日本の憲法は認められない、ということであります。」との記載があるが、誤った部分が存在する。
 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」が国際法上の概念であることはその通りである。
 しかし、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の中に、「日本の国民の人権が台無しになること」と「他国をもっぱら守るために武力を使う」という二つの概念が併存しているとの認識に誤りがある。まず、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」の区分によって「武力の行使」の違法性が国際法上阻却されることになるが、その違法性阻却事由の『権利』の中に、「日本国民の人権が台無しになること」か「他国を専ら守るために武力を使う」かというような区分は存在していない。
 その後、「そうした国際法でいう集団的自衛権は日本の憲法は認められない、ということであります。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」の中身を日本政府が勝手に二つに分けて説明することはできない。
 恐らく論者は「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を『自国防衛』と『他国防衛』の二つに分けようとしているのであると思われるが、9条は「武力の行使」を制約する概念であり、『他国防衛』の「武力の行使」を許容していないことは当然、『自国防衛』であるからといって「武力の行使」が許されるわけでもない。論者は、『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が許容されるかのような前提で話を進めているが、『自国防衛』と称して「武力の行使」に踏み切ることを無制約に認めているわけではないからこそ、9条の規定が存在していることを理解していないように思われる。9条の解釈から導かれる規範は、1972年(昭和47年)政府見解に示されている通り、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」である。


 「他国に対する攻撃がきっかけであったとしても、それが日本に対する攻撃と同様に、日本の国民に深刻・重大な被害をもたらすような攻撃であれば日本は武力行使で反撃できるという、極めて限定的な意味での国際法上の集団的自衛権は認められる、という風に今回考えたわけです。」との記載があるが、国際法上の概念と憲法上の概念を分けて整理する。
 前半の「他国に対する攻撃がきっかけであったとしても、それが日本に対する攻撃と同様に、日本の国民に深刻・重大な被害をもたらすような攻撃であれば日本は武力行使で反撃できる」の部分であるが、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過したと解することはできない。それにもかかわらず、「日本に対する攻撃と同様に、日本の国民に深刻・重大な被害をもたらすような攻撃」と政府が認定すれば、「武力の行使」が可能であると考えている点に誤りがある。
 9条は、政府の自国都合による恣意的な「武力の行使」を制約する規範であり、単に「国民に深刻・重大な被害」があるからといって、それだけでは「武力の行使」を許容しているわけではない。ここに9条の規範性を通過する基準となるものは存在しないのである。また、先ほども述べたように、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過したわけではない。たとえ「他国に対する武力攻撃」と「国民に深刻・重大な被害」を組み合わせたとしても、両者の間には必然的な因果関係や切り離すことのできない結合関係があるわけでもなく、9条の規範を通過するとする基準を満たしているわけでもない。そのため、その中で「武力の行使」に踏み切ることは違憲となる。
 後半の「極めて限定的な意味での国際法上の集団的自衛権は認められる」の部分であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないものであり、「限定的な」などという区分は存在しない。「集団的自衛権」とは違法性阻却事由であり、これに該当するか否かによってしか判断基準はないのである。


 「日本の自衛権の行使が許されるのは、他国に加えられた攻撃か自国に加えられた攻撃か、ではなく、その攻撃が日本の国民の権利を根底から覆すことが明白なのかどうかという、客観的な考え方で一貫して捉えられているのが日本政府の考え方です。」との記載があるが、「自衛権」が国際法上の概念であるため、国際法上許される「自衛権」に基づく「武力の行使」と、憲法上許容される「武力の行使」の範囲を別々に説明する必要がある。
 まず、日本国は主権国家であり、国際法上は「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も行使することが許されている。そのため、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を実施しても、違法性が阻却されることとなる。
 ただ、憲法上は、1972年(昭和47年)政府見解によって「武力の行使」の範囲が制約されている。この1972年(昭和47年)政府見解は、論者は否定しているが、論者の言葉を使えば「他国に加えられた攻撃か自国に加えられた攻撃か」によって「武力の行使」の可否が分かれることを示したものである。
 「その攻撃が日本の国民の権利を根底から覆すことが明白なのかどうか」という部分であるが、「日本の国民の権利を根底から覆すことが明白」とは、具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、政府が抽象的な危険や危機感を理由として「武力の行使」に踏み切ることを制約する基準を示すところがない。その要件を「客観的な考え」と述べても、基準となるものがないのであるから、その「客観性」を示す根拠も存在していない。それにもかかわらず、「客観的な考え方で一貫して捉えられている」などと説明することは誤りである。また、「日本政府の考え方です。」として論者の主張でないことを強調しているように見えるが、政府の2014年7月1日閣議決定も論理的整合性が存在していない。論者は政府の考え方を支持するのであれば、2014年7月1日閣議決定に論理的整合性が存在するとする根拠を示す必要がある。

 「このような考え方は論理的に一貫しているものであり、また、これからも変わらないという、という意味で法的にも安定していると思います。」との記載があるが、だんだんと論者が何を根拠に「このような考え方」と示しているのか不明確となっているが、1972年(昭和47年)政府見解の論理は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たすか否かに「武力の行使」の可否を決する基準を見出しているものであり、これと「論理的に一貫している」のであれば、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるため行うことができない。「これからも変わらない」のであれば、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるため行うことができない。「法的に安定している」とする基準は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たすことであるから、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるため行うことができない。もし1972年(昭和47年)政府見解の中に、「存立危機事態」の要件が含まれると主張するのであれば、論理的整合性が存在しておらず、「法的に安定している」とは言えない。


 「これ以上の、他国に対する武力攻撃、他国を防衛する武力攻撃を許すような、いわゆる集団的自衛権をまるごと認めるようなことは今の憲法解釈ではできない、それをやるには憲法改正が必要である、ということも確認をしております。」との記載があるが、誤りである。『他国防衛』の「武力の行使」が憲法上認められないことは当然であるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」に関しては、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たさない中での「武力の行使」であるから、すべて違憲である。「丸ごと認めること」ができないことは当然、「部分的」あるいは「限定的」などと称する「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」に関しても、憲法上できないのである。
 「それをやるには憲法改正が必要である」との記載があるが、既に「存立危機事態」での「武力の行使」に関しても違憲であり、憲法改正が必要である。



 P2で、「新しい要件における、存立危機事態とい言われるものは、大事なところは、"国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合"、というのが要件の核心であります。抽象的な存立の危機ということではありません。いま言ったような明らかな危険がどうやって生じるか、これはいろいろなケースを想定して言えるものではありません。実際に起きてくること、様々なことを総合的に考えなければなりません。」との記載があるが、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」という部分に関しても、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。論者はこれを「抽象的な存立の危機ということとではありません。」と説明しているが、日本政府は「わが国の存立が脅かされ」と「国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される」の部分は表裏の関係にあるとの趣旨を述べており、「抽象的な存立の危機」と区別して論じているわけではない。そのため、論者の主張は「抽象的な存立の危機」を理由とする「武力の行使」ではないことを示すことはできていないし、「抽象的な存立の危機」を理由とする「武力の行使」の発動を排除する要件となっていることを説明することにも繋がっていない。
 通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない要件であるにもかかわらず、論者が「総合的に考えなければなりません。」と説明するということは、結局「抽象的な存立の危機」によって「武力の行使」が行われることを排除できていない。
 論者は「存立危機事態」の要件が9条に抵触しないとする根拠を示すこともできていないが、論者の主張する「歯止め」さえも存在しないということである。


 P2で、「ただ、考える要素として、起きてきたことが、日本が直接武力の攻撃を受けた場合と同様な、深刻かつ重大な被害を被ることが明らかな状況を指していることが明らかでありますので、そういった点から吟味していくことが大切だと思います。」との記載があるが、以前にも述べたが、1972年(昭和47年)政府見解の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」、厳密には「我が国に対する武力攻撃の着手」が認められない段階で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となるのであるから、「日本が直接武力の攻撃を受けた場合と同様な、深刻かつ重大な被害を被ることが明らかな状況」であることを理由に、直ちに「武力の行使」が可能となるとする主張は正当化することができない。


すれ違いの議論卒業せよ 野党は政府の考え前提に 平和安全法制で山口代表 2015年6月18日


 「憲法で許される自衛の措置を説明しており、国際法上の区別から言えば、一部限定的に集団的自衛権で説明できる部分もあるかもしれないと言っているにすぎない」との記載があるが、誤りである。
 憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の規範は、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を意味する。「自国に対する武力攻撃」が発生しているという要件を満たすのであれば、これは国際法上の区分から言えば、「個別的自衛権」に該当する。
 「一部限定的に集団的自衛権で説明できる部分もあるかもしれない」との認識であるが、「個別的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」には該当しない。また、9条は憲法規定であり、たとえ国際法上の「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」であるからといって、必ずしも憲法上でその「武力の行使」が許容されるわけでもない。憲法解釈上の規範は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」の要件を満たすか否かが基準となるからである。もし「集団的自衛権で説明できる部分があるかもしれない」と考えるのであれば、論者は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしてもなお「集団的自衛権」の区分に該当するという国際法上の基準が存在することを証明する必要がある。これは自国の憲法解釈の話ではなく、国際法上の「集団的自衛権」の解釈問題である。
 しかし、憲法上は相変わらず「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たすか否かに規範が設定されているのであり、これを満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。



平和外交の推進力に 山口那津男代表に聞く 2015年9月20日


 「最も大きなものは、憲法9条の下で許される自衛の措置が自国防衛に限られるということです。」との記載があるが、正確な認識ではない。憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解によれば「自衛の措置」の限界は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」であり、「武力の行使」については「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているのであり、「自国防衛に限られる」との基準によって合憲・違憲が決せられているわけではない。
 「自衛隊の武力行使の限界について、2014年7月の閣議決定で『新3要件』を定め、法文上にも明記しました。」との記載があるが、「武力行使の限界」は1972年(昭和47年)政府見解に示されているように「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」であり、「新3要件」の「存立危機事態」の要件がこれを満たさないにもかかわらず、「武力行使の限界」として定めれば、あたかも9条に抵触しないかのように考えている点で誤りである。1972年(昭和47年)政府見解が「武力行使の限界」なのであって、「存立危機事態」の要件そのものが1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないにもかかわらず、「武力行使の限界」となるかのように論じることはできないのである。
 「これにより、自衛の措置が他国防衛を認めず、専守防衛を堅持するための厳格な歯止めが掛けられました。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件の合憲性を裏付ける論拠にはならない。まず、1972年(昭和47年)政府見解の下では『他国防衛』の「武力の行使」が認められないことは当然であるが、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、「自衛の措置が他国防衛を認めず」と説明したところで、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の規範を満たすことを示したことにはならない。次に、「専守防衛を堅持するための厳格な歯止め」であるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうのであり、1972年(昭和47年)政府見解の規範を満たさなければ「憲法の精神に則った」ものとは言えなくなる。「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解に適合せず違憲であることから、「憲法の精神に則った」ものとは言えず、「専守防衛」の定義から逸脱するものである。この違憲な「武力の行使」を行う要件に対して「厳格な歯止め」をしたとしても、1972年(昭和47年)政府見解に適合する旨を示したものでなければ違憲であることは変わらない。


 「新3要件は、従来の政府の基本的な論理を踏まえたものであり、今後もこれが維持されるという意味で法的にも安定しています。」との記載があるが、「新3要件」の「存立危機事態」については、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないのであり、これが「維持される」のであれば「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるため行うことかできない。適合しないものを持ち出して「法的にも安定しています。」と結論のみを述べても、その過程に論理的整合性が存在しないため正当化することはできない。これは、もし「法的に安定しています。」との結論のみを述べるだけで9条への抵触を回避できるとするば、先制攻撃や侵略戦争を行う法律でさえもこれと同様に「従来の政府の基本的な論理を踏まえたものであり、今後もこれが維持されるという意味で法的にも安定しています。」と説明するだけで正当化できてしまうこととなり、9条解釈として妥当でないからである。
 「これ以上の解釈を採るには、憲法を改正しなければいけません。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解に適合せず既に違憲であるから、憲法改正しなければならないものである。「これ以上の解釈を採るには、」などと「存立危機事態」が憲法上許容されるかのような認識には誤りがある。



「政治の安定」自公共通の思い=山口那津男公明党代表 2019年10月05日


 「国民の生命、財産を守るために必要最小限の武力行使しか認めないという一線を守った上で法律をつくりあげた。公明党がきっちり歯止めをかけた。」との記載があるが、違憲でない旨を説明するものとはなっていない。

 まず、1972年(昭和47年)政府見解によれば、「国民の生命、財産を守るため」であるからといって「武力の行使」が許されるとはしていない。「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」としているのである。また、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分についても、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在する。これは「我が国に対する武力攻撃」を意味しており、これを満たさない中で「武力の行使」を行うことは許されていない。論者は「法律をつくりあげた。」とするが、その中の「存立危機事態」の要件は、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を実施するものであるから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)に適合せず、違憲である。
 これにより、論者は「一線を守った上で法律をつくりあげた。」と説明しているが、9条に抵触しないことを示す「一線」(ライン)は守られていない。9条の規範性と関係なく、単に論者が勝手に設定している「一線」を、「守った」と主張しているだけなのである。論者が設定している「一線」は、9条に抵触するか否かを判別するラインとは関係ないのである。
 このことは、「先制攻撃(先に攻撃)にとどめており、侵略戦争ではないという一線は守った。」との主張が為された場合を考えると理解しやすい。この主張は、「先制攻撃(先に攻撃)」が既に違憲であるにもかかわらず、9条に抵触するか否かを判別するラインとは関係のない「侵略戦争ではない」というところに「一線」を引くことによって、「先制攻撃(先に攻撃)」を正当化しようするものである。しかし、これは単に9条に抵触するか否かのラインとは関係のないところに、勝手に「一線」を引いているだけの主張であり、9条に抵触しないことを意味するものではない。
 同様に、論者が「国民の生命、財産を守るために必要最小限の武力行使しか認めないという一線を守った」と主張したところで、9条に抵触しないことを示しているものとは言えないのである。
 また、「きっちり歯止めをかけた。」との主張も、9条に抵触するか否かとは関係しないものである。たとえ何らかの「歯止め」があるとしても、9条に抵触する要件であれば、既に違憲となるのである。「歯止め」と称する部分さえあれば、あたかも9条に抵触しないかのような主張をしているのであれば誤りである。
 先ほどの例と同様に、この主張は「先制攻撃(先に攻撃)」や「侵略戦争」についても「歯止め」さえあれば9条に抵触しないと説明することが可能となる点で、9条に抵触しないことを説明したものとは言えない。


 論者の言う「必要最小限」の意味を特定する必要がある。
 まず、政府が従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたものは、「武力の行使」の三要件(旧)である。この意味に基づいて論者の「必要最小限の武力行使しか認めない」の文を読み解くと、旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力行使しか認めない」ことになる。すると、「存立危機事態」での「武力の行使」の発動は、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないため、「認めない」ことになる。もしこの「一線を守った」と主張しているのであれば、論者は「存立危機事態」での「武力の行使」は発動できないと考えていることになる。
 次に、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味であれば、論者は「国民の生命、財産を守るために」の部分が「武力の行使」の発動要件であると考えていることになる。しかし、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を発動することはすべて違憲である。これを満たさないにもかかわらず、「国民の生命、財産を守るため」を理由とする「武力の行使」を発動することは、当然違憲である。もし「国民の生命、財産を守るため」のみを「武力の行使」の発動要件と考えているならば、それは9条の下で違憲となることは当然、国際法上も「先制攻撃」に該当して違法である。
 三つ目に、論者は9条の制約があたかも数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としていると考えている可能性があるが、9条は政府の自国都合による「武力の行使」を制約する趣旨の規定であり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となった場合、政府の恣意的な行為を制約する規範として妥当性を欠き、9条解釈として成り立たない。
 よって、どの「必要最小限度」の意味を取っても「存立危機事態」の要件が9条に抵触しないことを示したものとは言えない。


 結局、論者の主張は、「存立危機事態」の要件が9条に抵触しないことを説明したことにはなっていない。



斉藤鉄夫

〇 公明党 斉藤鉄夫


公明党幹事長、創価学会員と「ズレ大きくなっているとは感じる」 2019.1.31


 「ただ4年前の安保法制議論では、現憲法の枠内でできる自衛の措置の限界が明確になったので、今後は9条改正の必要がないということで支援者と納得した経緯がある。」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については現憲法の9条の制約の枠を超えており、違憲となるため誤りである。
 9条は「自国の存立」や「国民の権利」などを理由として「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、存立危機事態の要件である「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という事態が起きたからといって、必ずしも他国に向かって「武力の行使」を行うことを許容しているわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験しており、9条は、そのような政府の行為を制約するために設けられている規定だからである。そのため、9条が存在しているにもかかわらず、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が可能となるかのように読み解くことは、憲法解釈としての妥当性を欠くこととなる。9条解釈においては、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を生かした解釈が求められるところ、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」が可能となる要件を定めることは、結局9条が政府の行為を制約するための規範性を損なうこととなるため、憲法解釈を成り立たないものとしてしまうのである。「存立危機事態」の要件は、9条の規定が存在することから求められる規範性を損ない、9条に抵触して違憲となる。
 「自衛の措置の限界が明確になった」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「自衛の措置の限界」は、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に表れているように、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことである。「存立危機事態」での「武力の行使」は、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を可能とするものであり、「自衛の措置の限界」を超えており、違憲である。「明確になった」などと結論のみを述べて正当化しようとしても、法解釈に求められる論理的な過程に誤りがあるため、正当化することはできない。法解釈は論理の積み重ねによって正当性を生み出すものである。結論のみを述べて正当化しようとしても無理である。


 「例えば安保法制では、フルスペックの集団的自衛権の行使という自民党案に対して、現行憲法の範囲内でごく限定された集団的自衛権しか行使できないよう歯止めをかけた。党員や支持者の方々と大変な議論をしながら、現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との記載があるが、誤りである。
 まず、「フルスペックの集団的自衛権の行使」との記載であるが、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である「集団的自衛権」に、「フルスペック」や「限定された」などという区分は存在していない。「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。そのため、「フルスペック」ではなく「限定された」ものであるかのように論じようとしているが、法学上、そのような概念は存在しておらず、論者が勝手にそのように主張しているだけである。
 また、その国際法上の評価として「集団的自衛権の行使」と言われる状態は、実質的には日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味する。論者は「自衛権の行使」や「自衛措置」などという言葉を使っているが、それは「武力の行使」なのである。9条はこの「武力の行使」を制約する規定であり、「集団的自衛権」という概念に「歯止めをかけた」などと論じることも正確な認識ではない。結局論者の主張は、「限定された」ものであると認識すれば、9条の規範性を無視して「武力の行使」を行うことができるとするものである。9条の規範性を無視することは法解釈として正当化することはできないし、「限定され」ていると認識することだけで「武力の行使」が可能となるわけでもない。論者の主張は正当化根拠にはならない。

 「歯止めをかけた」などと成果を強調しても、「存立危機事態」での「武力の行使」については、9条の制約の枠を超えているのであるから、違憲であることには変わりない。
 「現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との記載があるが、「自衛措置の限界」を示す1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この要件を満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」については、「自衛措置の限界」を超えており、違憲である。
 「自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との認識であるが、誤りである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険が発生したからといって、必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。そのため、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」を許容する「存立危機事態」での「武力の行使」については、「自衛措置の限界」を画する規範性を有しておらず、「自衛措置の限界」は「明確」となっていないからである。「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が可能となる要件を設け、9条の制約を画する規範性を損なったことは、一定の規範性を見出して政府の行為を画しようとする憲法解釈という営みそのものを否定するものである。法の支配そのものを否定するものであるから、「存立危機事態」での「武力の行使」の要件は、9条の下での「自衛措置の限界」を超えており、違憲となるのである。
 よって、「存立危機事態」での「武力の行使」が、あたかも「現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置」であるかのように論じることはできず、論者の認識は誤りである。



日曜討論「安倍首相辞任表明 与野党に問う」

自・公・維が安倍政治絶賛 NHK日曜討論 2020年8月31日


 NHK番組「日曜討論」9月30日「安倍政権7年8か月 政策への評価は」のテーマで、9時13分10秒頃より斉藤鉄夫・公明党幹事長が「平和安全法制。これは当初の案を、まあ、公明党と自民党のぎりぎりの議論の中で、えー、憲法9条の解釈の中の、おー、専守防衛に関わる部分という風に限定して、実現して、結果的に日本の抑止力を大いに高めたということも評価していいと思います。」との発言があるが、法解釈としては誤った理解である。

 まず、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠内から逸脱しており、9条に抵触して違憲である。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これは1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明することを受けて使われた「自衛の措置」の限界の規範として示された文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地のある「他国に対する武力攻撃」の意味は含まれておらず、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られているからである。そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味は含まれるはずがなく、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「自衛の措置」の限界の規範を超える。これにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となる。論者が「憲法9条の解釈の中の、」というように、あたかも9条解釈の枠内であるかのように説明している部分が誤りである。

 次に、「専守防衛に部分という風に限定して、」との部分であるが、「専守防衛」の定義は、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」であるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中で日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を実施しようとするものであることから、「専守防衛」の定義の「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分に当てはまらない。また、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲であり、これを満たさない中で「武力の行使」を実施しようとする「存立危機事態」での「武力の行使」は「専守防衛」の定義の「憲法の精神に則った」に該当しない。また、「専守防衛」の定義の「自衛のための必要最小限」とは、従来より政府が三要件(旧)の基準の全てを満たすことを意味していたのであり、この範囲を超える「存立危機事態」での「武力の行使」は「自衛のための必要最小限」とは言えない。これにより、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」は「専守防衛」の範囲内とは言えず、論者が「専守防衛に関わる部分という風に限定して、」と、「専守防衛」の範囲内であるかのように説明しようとしている部分が誤りである。

 「日本の抑止力を大いに高めた」との部分であるが、9条に抵触する形で「武力の行使」を実施することは違憲であるし、それを相手国に対する「抑止力」として活用しようとするのであれば、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力による威嚇」に該当する可能性が考えられる。



漆原良夫


〇 公明党 漆原良夫


各地で終戦記念日街頭演説会 「人間の安全保障」実現へ 山口代表らが強調 核廃絶、国際連携を強化 2014年8月16日


 2014年7月1日閣議決定について「今回認めた自衛の措置は日本防衛が目的であり、他国防衛を目的とする、いわゆる集団的自衛権とは全く違う」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない旨を示したものではない。
 まず、9条の下ではたとえ「日本防衛が目的」と称しても必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような「武力の行使」が行われることを制約するための規定だからである。また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解では「自衛の措置」についても無制約ではないと示しており、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範を示している。これにより、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、たとえ「日本防衛が目的」であったとしても、9条の下では許されない。そのため、論者が「今回認めた自衛の措置は日本防衛が目的であり、」と述べたところで、その新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しないことを示したことにはならない。また、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が全て違憲となることから、これを満たさない新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」については9条に抵触して違憲である。そのため、「今回認めた」という風に、あたかも9条の下で新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が認められる(許される)かのような表現は誤りである。
 次に「他国防衛を目的とする、いわゆる集団的自衛権とは全く違う」との部分であるが、9条の下では『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、たとえ『自国防衛』と称しても必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。1972年(昭和47)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が全て違憲となるのである。そのため、論者が「他国防衛を目的とする、いわゆる集団的自衛権とは全く違う」と述べたとしても、これを基に新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が9条に抵触しない旨を示したことにはならない。


 「安保環境の変化に応じて万一に備えるとともに、憲法9条の精神を生かした」との部分であるが、誤りである。
 先ほども述べたように9条解釈である1972年(昭和47)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」が全て違憲となることから、これを満たさない新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲である。論者は「憲法9条の精神を生かした」として、あたかも新三要件の「存立危機事態」の要件が「憲法9条の精神」を損なっていない、つまり1972年(昭和47年)政府見解の枠内にあり、9条の規範性は損なわれていないかのような認識を有しているようであるが、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」である以上、9条に抵触しており、「憲法9条の精神」は失われている。「憲法9条の精神を生かした」との認識は誤りとなる。


【「NHKスペシャル」の取材を終えて】 漆原良夫 2019年12月12日


 「・ 自衛権には、集団的自衛権と個別的自衛権の二種類があります。日本政府の憲法解釈では、我が国は、個別的自衛権の行使は許されるが、集団的自衛権の行使は許されないとされています(昭和47年政府の統一見解)。」との記載があるが、正確な認識ではない。
 1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との基準を置いているのであって、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の基準に基づいて区別しているわけではない。
 また、9条の下では、たとえ「個別的自衛権」の範囲内の「武力の行使」であったとしても、すべて許容されるというわけでもない。


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○政府委員(真田秀夫君) 普通に自衛権行使の三原則といわれているものにつきましては、先ほども触れておきましたけれども、まず場合といたしましては、わが国に対して外国からの武力攻撃が行なわれたということでございます。第二番目においては、その武力攻撃を防ぐために他に方法がない、武力をもって反撃するよりほかに方法がないという非常に切迫している場合、それが第二の要件でございます。それから第三番目の要件といたしましては、かくして発動される武力行使は、外国からの武力攻撃を防止する必要最小限度に限るということでございます。
 それから韓国についての、韓国条項についての御質問でございますが、これはわが国の自衛権行使の三要件とは関係がございませんで、いま申しましたように、わが国に対する武力攻撃があった場合に日本の個別的自衛権は限定された態様で発動できるというだけのことでございますから、韓国に対する脅威が、危害がありましても、これは直ちにわが国の自衛権が発動することになるとは毛頭考えておりません。
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第68回国会 参議院 内閣委員会 第11号 昭和47年5月12日


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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日


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○大森政府委員 集団的自衛権に当たるから認められないとか、集団的自衛権に当たらないのだから認められるという、集団的自衛権を核にした議論がよくなされるわけでございますけれども、我が国の問題に関する限りは、やはり集団的自衛権の概念を解するのではなくて、我が国を防衛するために必要最小限度の行動に当たるかどうかということが基準になるはずでございます。
 したがいまして、冒頭にも申し上げましたとおり、憲法九条は、国際紛争を解決する手段としては武力による威嚇または武力の行使等を禁止しているけれども、我が国を防衛するために必要最小限度の実力行動は禁止していない。したがって、問題となる行為が我が国を防衛するために必要最小限度の行為であるかどうかということによって事が決せられるべきであるというふうに考える次第でございます。(岡田委員「持っているけれども行使できないというのは」と呼ぶ)国際法上は集団的自衛権を主権国家であるから保有しているのである、これは国際法上そのように解せられておりますから、従前も政府の答弁としてもそのように答弁してきているわけでございますが、やはりそれに対しまして、我が国は最高法規としての憲法によりまして、我が国の行動を縛っているわけでございます、言葉は悪いかもしれませんが。
 したがいまして、憲法九条によって、武力による威嚇または武力の行使に当たることはいたしません、やってはいけませんと。したがって、行動の面で縛っているわけでございますから、集団的自衛権の行使というのはその観点から認められない。国際法上は保有していると言えても、その行使は憲法で禁止されているんだということは、何らおかしいことでないということは従前から反論しているわけでございます。
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第142回国会 衆議院 予算委員会 第27号 平成10年3月18日


 「その区別は、武力行使の目的によって区別されます。即ち、集団的自衛権は、『他国の防衛』を目的とした武力行使であり、個別的自衛権は『自国の防衛』を目的とした武力行使です。」との記載があるが、前提認識に誤りがある。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の法的な区別は国際法上の違法性阻却事由の要件を満たすか否かによって判別されるわけであり、「武力行使の目的」が『他国の防衛』か『自国の防衛』かによって区別されているわけではない。


   【参考】集団的自衛権 Wikipedia


 また、9条の下では「武力行使の目的」が『自国の防衛』であったとしても、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。これは、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の恣意的な「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はこのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定だからである。『自国の防衛』と称するだけで「武力の行使」が可能となるのでは、9条が政府の恣意的な動機による「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たさない。9条の下で『自国の防衛』を目的とする「武力の行使」が可能であるかのように論じようとする前提認識が誤りである。


 「平和安全法制における武力行使は『わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合に、これを排除するために必要最小限度で行われる実力行使です。」との記載があるが、正確ではない。
 2014年7月1日閣議決定で設けられた新三要件の「存立危機事態」や、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」の要件は「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」である。
 これは「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行う性質のものであり、論者の抜き出している「『わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合に、これを排除するために必要最小限度で行われる実力行使」という部分だけでは不足である。
 また、論者は「『わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合」であれば「武力の行使」を行っても良いのではないかとの前提認識を有しているようであるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲である。そのため、これを満たさないのであればたとえ政府が「『わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』場合」であると認定しても、それだけで「武力の行使」を行うことができることにはならない。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、9条の下では自国の危機を政府の主観的な判断に基づいて認定するだけで「武力の行使」を行うことができるような要件を定めることはできないからである。


 「従って、平和安全法制における武力行使は、『自国防衛』のための実力行使であり、『他国防衛』を目的とした集団的自衛権による実力行使ではないことは、明白です。」との記載があるが、誤りである。
 先ほども述べたように、「存立危機事態」での「武力の行使」とは、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を行う性質であることから、『他国の防衛』の意図・目的を有する「武力の行使」である。そのため、論者が「『自国防衛』のための実力行使であり、」と認識している部分は誤りである。
 また、「『他国防衛』を目的とした集団的自衛権による実力行使ではないことは、明白です。」との部分についても、「集団的自衛権の行使」とは「自国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うものであるから、これを『他国防衛』の意図・目的がないということはできない。
 さらに、そもそも9条の下では『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、たとえ『自国防衛』のための「武力の行使」であっても全て許容されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は、たとえ『自国防衛』を称しても違憲である。そのため、論者が「平和安全法制における武力行使」を「『他国防衛』を目的とした集団的自衛権による実力行使ではない」と主張し、それを「『自国防衛』のための実力行使」と呼んだとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさないのであれば、すべて違憲である。
 そのため、あたかも論者の言う「平和安全法制における武力行使」が9条に抵触しないかのように前提で論じようとしている部分が誤りである。


 「・ 平和憲法9条は、『わが国が、よその国を侵略する事はしない。しかし、よその国から侵略された場合には、わが国を守るために必要最小限度の実力行使をする事は許るされる』と言う立場です。」との記載があるが、認識を整理する。
 「よその国から侵略された場合」の部分であるが、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」に対応するものである。
 「わが国を守るために必要最小限度」の部分であるが、従来より政府が用いている表現では「我が国を防衛するため必要最小限度」とされており、これは三要件(旧)を意味する。
 このように、この論者の認識に基づいて判断すれば、9条の下では三要件(旧)の範囲での「武力の行使」が許されているだけであり、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して許されないこととなる。
 論者は「平和安全法制における武力行使」として新三要件の「存立危機事態」を含むものを前述では許容しながら、ここでは9条の下では旧三要件の範囲内での「武力の行使」しか許されないと表現していることとなり、矛盾が見られる。


 「・ 平和安全法制における武力行使は、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段が無いときに、必要最小限度の実力行使として許容されたものです。従って、あくまでも『自国防衛』を目的とした個別的自衛権の範囲内であり、『他国防衛』を目的とした集団的自衛権ではありません。」との記載があるが、9条に抵触しない旨を示した物とは言えない。
 9条の下では「わが国の存立を全うし、国民を守るため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」が許されるわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲であり、「わが国の存立を全うし、国民を守るため」を目的としても、これを満たさないのであれば違憲であることに変わりはない。
 「許容されたものです。」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は許容されないのであり、「平和安全法制における武力行使」の「存立危機事態」での「武力の行使」については9条に抵触して許容されない。許容されるかのように論じている部分が誤りである。
 「あくまでも『自国防衛』を目的とした個別的自衛権の範囲内であり、」との部分について、政府は「存立危機事態」での「武力の行使」について「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うものであると説明しており、論者の言う「個別的自衛権の範囲内」とは言えない。
 「『他国防衛』を目的とした集団的自衛権ではありません。」との記載があるが、9条の下では『他国防衛』のための「武力の行使」が許されないことは当然、『自国防衛』のための「武力の行使」であるからと言って必ずしも許されるわけではない。そのため、『他国防衛』を目的としていないことを説明しても、未だ9条に抵触しない旨を説明したことにはならないことを押さえる必要がある。



伊佐進一

〇 公明党 伊佐進一


シリーズ 平和安全法制① 「砂川事件」(専門レベル:高) 2015.06.16


 「『砂川判決』は、自分を守るために必要な措置は否定していません。『集団的自衛権』についても、自分を守るために必要なら、否定しないといっているだけで、『集団的自衛権』が必要だとは、まったく言っていないのです。」との記載があるが、正確には誤りである。砂川判決は、日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」について何も述べておらず、「『集団的自衛権』についても、自分を守るために必要なら、否定しないといっているだけ」という表現に見られる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を「自分を守るために必要なら、否定しない」などと言ってはいないからである。


 1972年(昭和47年)政府見解について、「この『根拠』に基づけば、他人を守るという、いわゆる本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』は、やっぱり認められませんでした。ただ、自分を守るために必要なことを突きつめれば、一部、『集団的自衛権』が入った。これが結論だったんです。」との記載があるが、認識に誤りがある。

 まず、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」を行使するためには、「他国からの要請」が必要となる。この「他国からの要請」がない中で「武力の行使」を行えば、国際法上の違法性阻却事由を得ることができず、国際法上違法となるからである。結果として、「他国からの要請」の有無を基準として違法性阻却事由に該当するかが決せられる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う場合、『他国防衛』の意味を含むこととなるのである。そのため、「いわゆる本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』は、やっぱり認められませんでした。ただ、自分を守るために必要なことを突きつめれば、一部、『集団的自衛権』が入った。」との表現に見られる、「本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』」と「自分を守るために必要な…『集団的自衛権』」などという区分は存在していない。国際法上、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。論者は結局、「自分を守るために必要なことを突き詰めれば」、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を行おうとする主張をしているのである。

 しかし、1972年(昭和47年)政府見解は、政府が自国都合の恣意的な判断によって「武力の行使」を行うことを禁ずる前文平和主義を背景とした9条の趣旨を生かした憲法解釈であり、その「基本的な論理」に見られる「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、政府の恣意性の入る余地のない「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味すると考えることが妥当である。よって、論者が「自分を守るために必要なことを突けき詰めれば、一部、『集団的自衛権』が入った。」などとして「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないために違憲となる。論者の言う「この『根拠』に基づけば」違憲となるのである。

 もしこの1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」以外の武力攻撃が入ると考えるとすると、我が国と関係のない武力攻撃が世界のどこかで発生した場合であっても「我が国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」に踏み切れるとすることとなってしまい、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が「国民の権利」を実現するために必要であれば「武力の行使」を行うことを許容する憲法解釈ということとなってしまい妥当でない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」以外の武力攻撃が含まれると読むことは、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が、9条の規定が存在していることから求められる一定の規範を見出すことのできない解釈となり、9条の規定を無効化(空文化)することとなり、憲法解釈として成り立たないものとしてしまうものである。このことからも、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。



シリーズ 平和安全法制③ 「ホルムズ海峡には行けるか?」(専門レベル:中) 2015.06.18


 「今回の法案では、きわめて限定的に『集団的自衛権』の一部を認めました。」との表現があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、日本国の統治権の『権限』とは区別して考える必要がある。「きわめて限定的に『集団的自衛権』の一部を認めました。」とあるが、憲法は『権利』を禁じているわけではないし、認めるとか認めないとかそのような話にならないため、「限定的」という言葉も意味を為さないのである。


 「今回の法案でも、こうした友達を守るための『集団的自衛権』は、認めません。どういう場合なら認めるかというと、あくまで、『自分を守る』という目的があるときだけなんです。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」という区分に、『友達を守る(他国防衛)』や『自分を守る(自国防衛)』などの区分は存在していない。そのため、「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないのである。また、国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るためには、「他国からの要請」が必要となるため、「他国からの要請」の有無によって違法性が阻却されるかが決させれる「集団的自衛権」としての「武力の行使」については、必ず『友達を守る(他国防衛)』の意味を含むものである。論者の言う『自分を守る(自国防衛)』という目的があるときだけ「武力の行使」をするということは、結局「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で『自分を守る(自国防衛)』という目的のために「武力の行使」をするというだけを意味しているのであり、9条の規定に抵触して違憲となる。
 論者が「日本という国の存立、国そのものが危機となるような、国民の皆さんの命や、自由や、日々の幸せな生活が、根っこから失われるようなとき。」とは、存立危機事態の要件である「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を指しているが、9条は自国の危機を理由として「武力の行使」をすることを必ずしも許容しているものではない。「こんな大変な事態なら」などと言って、政府が自国の都合で「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定として設けられたものだからである。この9条の趣旨を解釈した結果、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触してい違憲としているのである。論者が自国の危機を理由として「武力の行使」を行おうとする論旨は、9条の規範に抵触して違憲となるのである。

 「火事」の事例に例えようとすることであるが、武力攻撃とは相手国が存在する事例であり、「火事」という災害とは性質が異なる。災害は災害派遣で対応するべきものであり、この例えは「武力の行使」という実質を覆い隠そうとするものである。憲法の「平和主義」と「火事」は関係がないのである。



佐々木さやか

〇 公明党 佐々木さやか


安全保障に関する閣議決定 ―集団的自衛権について①― 2014.7.7


 「9条は、我が国の自衛の措置としてやむを得ない場合にしか武力の行使を認めていません。」との記載があるが、正確なものではない。9条が許容している「武力の行使」の範囲を示したものは、1972年(昭和47年)政府見解である。この見解は、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される。」とするものである。

 この見解の中の「やむを得ない措置」だけを引き出して、「やむを得ない場合」にしか「武力の行使」を認めていないことが9条の制約であると見なし、そうであるならばと、その後「自国防衛のためにしか武力を行使できません。」との理由で9条の枠内であり合憲であるかのように論じている点は誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解で容認される「武力の行使」は、「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民を守るためのやむを得ない措置」なのであり、「あくまで外国の武力攻撃」と記載されている「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「自国防衛のため」に「やむを得ない場合」ならば「武力の行使」も合憲となるというわけではないのである。ここがポイントである。


 「ですから、集団的自衛権も自国防衛のためにやむを得ない限りでしか認めていません。 」との記載があるが、論旨が通じない。

 まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である。そのため、この文章は「『権利』を認めない」と主張していることになるが、9条は「武力の行使」を制約する規定なのであり、国際法上の『権利』を認めていないわけではないのである。

 次に、「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』の概念であり、その『権利』に『自国防衛』や『他国防衛』などという区分は存在しない。

 第三に、国際法上「集団的自衛権」を行使するにあたっては、「他国からの要請」が必要である。「他国からの要請」がなければ、国連憲章の「武力行使禁止原則」に違反して国際法上違法となるからである。このことから、「他国からの要請」がない段階では「集団的自衛権」という区分によって違法性が阻却されないのであるから、「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は、必然的に「他国からの要請」の有無に頼って『権利』の発生の有無が確定するものであるから、『他国防衛』を含むことになるのである。そのため、論者の主張しようとしている『自国防衛』だけを意味する「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」などというものは存在していない。『自国防衛』と称しようとも、それは『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないのである。


   【参考】リメンバー9・19 ・・・違憲立法が強行採決された日を忘れない! 2015年9月28日

 第四に、「集団的自衛権の行使」と称しようとも、その行使は国家の統治権の『権限』による「武力の行使」である。その「武力の行使」は、9条が制約をかけている。注意して考えるべきところは、9条はたとえ『自国防衛』と称するからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないことである。なぜならば、9条は、自国の政治的な都合や国民の権利の実現などを理由として、政府が恣意的な理由でもって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定だからである。これは、9条が前文の平和主義の理念を具体化した規定であり、その前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」と記載されていることからも裏付けることができる。このことから、9条を解釈する際には、政府の恣意的な都合による「武力の行使」を制約するだけの規範性が求められる。これにより、『自国防衛』であるからといって、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条解釈として妥当でないのである。9条の規定が存在するにもかかわらず、論者は「自国防衛のためにやむを得ない限り」との主張でもって、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」を行おうとするものであるから、9条に抵触して違憲となるのである。


 「そのようなことは、自国防衛の枠を超え、」との記載があるが、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているものではないのであるから、論者が勝手に『自国防衛』であれば9条の枠内であるかのように考えていることに誤りがある。
 「9条の専守防衛、」との記載もあるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解から導き出された防衛の姿勢を「専守防衛」といっているのであり、「集団的自衛権」にあたる「存立危機事態」での「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の枠組みから逸脱しており、「専守防衛」にも反する。論者は「存立危機事態」での「武力の行使」が「専守防衛」の中にあると考えているようであるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は、「専守防衛」の定義である「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」にも当てはまらない。「専守防衛」ではないのである。
 「平和主義の考え方」との記載もあるが、先ほども述べたように、「存立危機事態」での「武力の行使」を許容することは、9条解釈において前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」の趣旨から求められる政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範性を損なうものであり、9条に抵触して違憲となる。9条の規範性を損なったことは、9条解釈において指針となる前文の平和主義の精神も同時に損なわれることとなるため、「平和主義の考え方」にも反するものである。


 「9条の考え方の根本はそのまま」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」は、9条の考え方の根本から導かれる1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から逸脱するものであり、「そのまま」とは言えない。
 また、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に、「存立危機事態」の要件に含まれている「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、2014年7月1日閣議決定が、「存立危機事態」での「武力の行使」を結論として容認する趣旨は、論理的整合性を欠いている。これは、法解釈の過程を誤ったものであるから、「好き勝手に変えた」わけであり、それを否定する論者も「好き勝手に」解釈しているということになる。内容が違憲なのであるから、それを容認しようとすることを「解釈改憲」と表現されることは意味の通るものである。
 「これ以上のことをやるのであれば憲法改正が必要」との主張であるが、既に9条の規範性が損なわれているのであるから、「これ以上」の「武力の行使」であるか否かというものは、政府の主観的な判断によって行使するか否かを判定するだけのものとなっており、裁量判断に任されているのである。9条の規範性が損なわれた時点で、「これ以上」という意味は、「他国に対する武力攻撃が発生」していない段階での「武力の行使」についてはさすがにできないといっているだけであり、「我が国と密接な関係ある他国に対する武力攻撃が発生」した段階では、政府の裁量判断による「武力の行使」となることを否定することにはならないのである。
 「集団的自衛権を拡大するようなことはできません。」との記載であるが、「集団的自衛権」は相変わらず国際法上の『権利』であり、拡大するとかしないとか、そういうものではない。国際法上の「集団的自衛権」の行使にあたる「存立危機事態」での「武力の行使」については、他国に対する武力攻撃が発生した段階で政府の総合的な判断という恣意的な理由が入り込む余地のある要件であるから、「拡大するようなこと」ができるわけであり、認識に誤りがある。もしかすると、論者が「国際法上の『集団的自衛権』という『権利』の区分が拡大する」などという意味で主張している可能性も考えられるが、「集団的自衛権」は国際法上の概念であり、日本政府が勝手に定義を変更できるものではない。


「平和の党」公明党が果たした役割 ―集団的自衛権について②― 2014.7.7


 「他国を守る目的の集団的自衛権を許さなかったことです。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を行使するためには、「他国からの要請」が必要である。もし「他国からの要請」がない中で「武力の行使」を行えば、国際法上は先制攻撃となり、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触して違法となる。そのため、「他国からの要請」がなければ、違法性阻却事由としての『権利』が発生しないのであるから、「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。このことから必然的に、「他国からの要請」が必要となる「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」を行うことは、「他国を守る目的」を含むこととなるのである。論者は「他国を守る目的の集団的自衛権を許さなかった」と主張し、『自国防衛』の「集団的自衛権」なるもののみを許容しているかのように説明しているが、「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」であれば、必然的に「他国を守る目的」を含むのである。論者が『自国防衛』と『他国防衛』を恣意的に切り分けているだけであるから、結局「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、違憲となるために行使できないのである。

 「公明党は、今回の閣議決定で、平和主義を守り抜きました。」との記載があるが、9条は前文の平和主義の理念を具体化した規定であり、「存立危機事態」での「武力の行使」を容認した2014年7月1日閣議決定は、9条の規範性を損なうものであるから、「平和主義」の理念が守られていないということである。「守り抜きました」との主張は、9条の規範性を損なっていることを理解していないものである。


   【参考】第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF

    (第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF)


 武力行使の新三要件について「あいまいな要件では、集団的自衛権の範囲が広がってしまう恐れがあります。」との記載がある。まず、「集団的自衛権」の区分にあたれば、国際法上は「集団的自衛権」でしかないのであり、広がるとか広がらないとかいう概念ではない。
 「存立危機事態」の要件についても、あいまいな要件であるため事実に反する。
①「わが国と密接な関係にある他国」について、いかなる国が該当するのか分からずあいまいである。
②「これにより」との内容であるが、その後に続く要件との関連性は政府が主観的に判断するものであり、あいまいである。
③「わが国の存立が脅かされ、」とは、一体どのような事態を指しているのか理解することができず、あいまいである。
④「国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される」ような事態とは、いかなる状態を指しているのか理解することができず、あいまいである。
⑤「明白な危険」について、「明白」でありながらも、「危険」という害悪発生の可能性に留まる状態を指す用語を重ねているため、結局、明白な害悪発生の可能性というものは、あいまいである。これは、客観的な基準は存在せず、条文を適用する者がどのような感覚を持っているかに依存するものであるから、あいまいである。
 このようなあいまいな文言で構成される「存立危機事態」の要件は、運用する際に適用する政府機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるものである。
 「厳格なものにした」との評価も、あいまいである以上は「厳格」になっているとはいえない。


   【参考】「明白な危険の判断基準は?」 自衛隊の武力行使 2015/05/26

   【参考】今週にも「強行採決」か?!・・・維新案の十分な審議を求める 2015年7月13日


9条は自衛の措置認める 自国防衛でない武力行使するには 「憲法改正が必要」 首相が明言 「戦争には巻き込まれず」と答弁も 佐々木さやか 
2015年8月22日


 この記事で論者が訴え、主張していることは正しい。「政府の憲法解釈と論理的整合性が維持され、法的安定性が保たれること」は重要であるし、「昭和47年(1972年)見解の根幹部分」を今後とも維持されなければならないとの主張も、9条解釈から導かれる妥当なものである。

 しかし、安倍首相の明言している「昨年7月1日の閣議決定は憲法9条が許容する自衛の措置の限界を示したものである」との答弁は事実に反している。論者も上記で指摘している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を示しており、2014年7月1日閣議決定で容認しようとした「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で行われる「存立危機事態」での「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に含まれないからである。



平木大作


〇 公明党 平木大作


平和安全法制②『ずれたままの憲法論議』 2015.7.25


 「フルサイズの集団的自衛権行使の議論として考えれば、現行憲法下で許されないとは、これまで公明党が主張してきたことそのものであり、私も何の違和感もありません。」との記載であるが、「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の違法性阻却事由の『権利』である。
 この違法性阻却事由の『権利』を行使するということは、実質的にはこの『権利』に該当する要件に基づいて「武力の行使」を実施するということである。そのため、「集団的自衛権」に該当するならば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「フルサイズ」か否かなどという区分は国際法上存在していない。
 憲法上は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が9条の制約を超えるか否かによって統制されているだけであり、国際法上の「自衛権」という『権利』の区分が制約されているわけではない。
 「但し、本法案について議論するのであれば、フルサイズの集団的自衛権を論じても、全く意味がありません。」との記載があるが、そもそも「フルサイズ」の「集団的自衛権」と、「フルサイズ」でない集団的自衛権」などという区分が存在していない以上、論者が「フルサイズ」の「集団的自衛権」とは違うことを述べても全く意味がない。
 「この法案で提起するのは、他国に対する武力攻撃を起点としながらも、その目的は自国防衛に限定した自衛権行使のあり方であり、まさに個別と集団が交わる領域の日本の安全保障です。」との記載があるが、「自衛権行使のあり方」とは、まさに「武力の行使」の在り方である。論者は、「自衛権の行使」という国際法上の違法性阻却事由の区分を用いることで、その実質が「武力の行使」である旨を覆い隠しているように見受けられる。
 しかし、「武力の行使」は9条によって制約されている。論者の主張の実質は、「他国に対する武力攻撃を起点」とする「武力の行使」について、『自国防衛』と称すれば憲法上許容されるかのように論じているが、誤りである。
 まず、9条は『自国防衛』であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容していない。なぜならば、国家が『自国防衛』を称して「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような政府の自国都合による「武力の行使」を制約するために設けられた規定だからである。
 「他国に対する武力攻撃」が発生したからといって、未だ9条が政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する法規範を通過したわけではなく、『自国防衛』と称する「武力の行使」が許容されるわけではないのである。


 「いずれも、本法案について述べているようでいて、実は集団的自衛権そのものの合憲性を議論してしまっていることにお気づきでしょうか。」との記載があるが、論者は「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を『自国防衛』と『他国防衛』に切り分ける議論に意味がないことにお気づきだろうか。 


 「その意味で、個別的自衛権と集団的自衛権のどちらかに分別して合憲・違憲を論じる、二元論に固執してきた憲法学会の議論は、実際に両者を切り分けるのが困難になってきた昨今の安全保障環境の変化に、全く対応できていないと言わざるをえません。」との記載があるが、憲法学会や1972年(昭和47年)政府見解は、「個別的自衛権と集団的自衛権のどちらかに分割して合憲・違憲論じる、二元論」を採用しているわけではない。憲法上「個別的自衛権の行使」が許容される場合があり、「集団的自衛権の行使」が許容されないとする結論は、1972年(昭和47年)政府見解のように、9条解釈によって導き出される規範が、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことから来る付随的なものである。「わが国に対する急迫、不正の侵害」の有無に論点があるのであり、「個別的自衛権と集団的自衛権のどちらかに分別して合憲・違憲」を論じているわけではないのである。論者は憲法学会の議論に全く対応できていないと言わざるをえない。

 「安全保障をめぐる憲法論議がずれてしまっているのは、」との記載があるが、論者がずれてしまっていることが理由である。



平和安全法制④『法的安定性こそ生命線(後編)』 2015.8.15


「全面行使を退け、あくまで自国防衛を目的とした場合に限定したのは、『法的安定性(論理的整合性)』を重視したために他なりません。」との記載があるが、9条の下では『自国防衛』と称したからといって必ずしも「武力の行使」が正当化されるわけではないし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分と論理的整合性は存在しない点で正当化根拠にはならない。


 「公明党が、昨年から続く議論の中で最も心を砕いてきた『法的安定性(論理的整合性)』は、まさに本法制の生命線。」との認識は、まさにその通りである。論理的整合性は憲法解釈の生命線、法の支配、立憲主義、法治主義における生命線である。


 「その結論は、『いわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない』というものでした。」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解の憲法解釈上の結論は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」である。「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」との部分は、憲法解釈上可能な「武力の行使」の範囲が確定することによって付随的に導き出される論点であり、9条解釈によって9条の規定が直接的に「集団的自衛権」という『権利』を制約しているわけではないのである。


 「平和安全法制においては、この結論部分の解釈を変更して、いわゆる『新3要件』に合致した場合、自国防衛を目的とした集団的自衛権に限り、行使できるとしました。」との記載があるが、ここがまさに、論者の言う「論理的整合性」の「生命線」であるが、論理的整合性は存在しないため、結論として『新3要件』の「存立危機事態」を導き出すことはできない。また、「自国防衛を目的とした集団的自衛権に限り、行使できるとしました。」とあるが、9条の下では『自国防衛』と称するからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。
 「他国防衛を目的とした“フルスペックの”集団的自衛権については、今後も行使できないとした点は注意が必要です。」との記載があるが、「集団的自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、「フルスペック」の「集団的自衛権」と「フルスペックでない」「集団的自衛権」が存在するかのような認識を有していること自体が誤りである。また、『他国防衛』の「武力の行使」が憲法上許容されないことは確かであるが、『自国防衛』と称すれば「武力の行使」が許容されるわけでもないため、論者の主張は正当化理由は含まれていない。


 1972年(昭和47年)政府見解の憲法解釈上許容される「自衛の措置」の規範に「a)外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処するものであること。」が含まれていることはその通りである。しかし、「外国の武力攻撃によつて」の部分とは、「我が国に対する武力攻撃」を意味する。
 論者は、「あえてここに書きませんが、自衛権行使のための『新3要件』が、これら3つの要件と何ら矛盾しないことが、おわかり頂けると思います。」との認識であるが、あえて書かないことは、論理矛盾を覆い隠そうとしているものと考えられる。そのため、あえてここで『新3要件』の「存立危機事態」の要件を書くこととする。「存立危機事態」の要件は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」というものである。この「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」というものは、1972年(昭和47年)政府見解の「a)外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処するものであること。」の部分にはあてはまらない。明らかに矛盾するのである。
 なぜならば、「外国の武力攻撃によつて」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という結論に至るまでの憲法解釈の過程で示された規範部分であり、ここに「他国に対する武力攻撃」が含まれる場合、1972年(昭和47年)政府見解そのものが政府の恣意的な都合によって行われる「武力の行使」を排除することを意図する9条の規定の規範性を示したものではなくなってしまい、憲法解釈として成り立たなくなるからである。

 また、1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権」の意味を「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化されるという地位」と示している。最後の部分でも「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権」と説明し、その上でこれを行使することを否定する構成となっている。このことから、1972年(昭和47年)政府見解とは、「自国が直接攻撃されていないにかかわらず」や「他国に加えられた武力攻撃を阻止すること」という論点が圧倒的に重要なものとして取り上げられた中で、憲法解釈上の規範として「a)外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処するものであること。」の部分と比較する形で基準が示されているのである。もしこの憲法解釈上の規範としての「外国の武力攻撃によつて」の文言に、「我が国に対する武力攻撃」ではなく、「他国に対する武力攻撃」が含まれるとした場合、1972年(昭和47年)政府見解そのものを憲法解釈として成り立たないものであったこととなってしまうのである。

 これらのことから、1972年(昭和47年)政府見解と『新3要件』の「存立危機事態」が論理矛盾することがおわかり頂けるものと思う。

 「『法的安定性(論理的整合性)』がしっかりと担保されているのです。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解に示された論理構成と矛盾しているのであるから、論理的整合性は全く担保されていない。


 「結論部分において、個別か集団かといった二分法で議論するしかなかった訳ですが、急速に軍事技術が高度化する現代において、この二分法自体が意味を失いつつあります。」との記載であるが、もともと「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を二分法で議論しているわけではないため、二分法による解釈自体がもともと存在しないのであるから、「意味を失いつつあります。」以前に、意味は通じていないし、存在していない。


 今回の解釈変更は違憲である。政策論上の必要性があるのであれば、適正な手続きに則る必要があり、憲法改正の必要がある。



大口善徳


〇 公明党 大口善徳


集団的自衛権について読売新聞のインタビューを受ける 大口よしのり通信(号外) 2014年 PDF


 「憲法上許されている、自国防衛のための自衛の措置の範囲を若干、広げた。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。1972年(昭和47年)政府見解で許容されている「自衛の措置」の範囲とは、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。この規範は「自衛の措置」の内容として「武力の行使」を選択する場合にも同様であるから、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されている。1972年(昭和47年)政府見解の規範は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かであるから、論者のように『自国防衛』であれば「自衛の措置」としての「武力の行使」が許されるかのような認識は誤りである。また、「憲法上許されている、自国防衛のための自衛の措置の範囲を若干、広げた。」との認識で正当化することができるのであれば、「憲法上許されている、自国防衛のための自衛の措置の範囲を若干、広げ」ることによって「侵略戦争」も可能とすることに繋がるのであり、論者は広げることのできない規範を「広げた。」と主張して正当化しようとしている点で法解釈を誤っている。

 「それが日本への武力攻撃の端緒、着手と判断されるかどうか紙一重のケースなどに対応できるようにした。」との記載があるが、合憲性を裏付ける主張とはなっていない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「武力の行使」を行うには「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があるのであり、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』がなければこれを満たさないのである。たとえ「紙一重」と称しようとも、これを満たさないにもかかわらず「武力の行使」を行うことは違憲である。

 「国際法上の集団的自衛権が意味する他国防衛を目的とした攻撃が認められたのではなく、専守防衛は変わらない」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「武力の行使」を行った場合、「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するのであれば、攻撃を受けた他国からの『要請』が必要である。これがなければ国際法上違法となる。また、「集団的自衛権」とは「他国に対する武力攻撃」を排除するために「武力の行使」を行うものであるから、『他国防衛』を目的とした「武力の行使」である。これを「集団的自衛権」に該当するにもかかわらず、「他国防衛を目的とした攻撃が認められたのではなく」と否定することは論理矛盾である。また、もし『他国防衛』の意図を含まないのであれば、そもそも「集団的自衛権」にも該当しないこととなるから、違法な「先制攻撃」である。国際法上は『他国防衛』の意図を含むが、憲法上は『自国防衛』であると考えているのかもしれないが、憲法上は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解に示されているように「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところが規範である。これを満たさないにもかかわらず、『自国防衛』を目的としていると称すれば「武力の行使」が可能であるかのように考えているならば誤った認識である。さらに、「専守防衛」の定義は、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうが、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解に適合しないことから、「憲法の精神に則った」を満たさず、「専守防衛」は損なわれている。「専守防衛は変わらない」との認識は誤りである。

 「今回の解釈は、同盟強化と抑止力を高めるのにつながっていく」との記載があるが、政策論上の必要性の適否は法学上の問題でないため論じないが、「今回の解釈」である2014年7月1日閣議決定には手続き上の不正があり、「存立危機事態」の要件については違憲である。

 「あくまで自国防衛のための自衛の措置だという枠にははめた。」との記載があるが、論者の言う「自国防衛のための自衛の措置」の枠にはめたつもりであっても、憲法上はそのような基準によって枠組みを定めているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「自衛の措置」の限界、つまり、枠は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」であり、この「外国の武力攻撃」とは、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味する。「存立危機事態」の要件がこれを満たさない以上、違憲であり、論者の言う「自国防衛のため」であろうと違憲である。

 「公明党が広すぎると主張し『明白な危険がある場合』まで限定した。」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば違憲なのであり、これを満たさないにもかかわらず要件の中に「明白な危険がある場合」との文言を加えたならば9条に抵触しないと考えていることが誤りである。「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない要件によって「限定」しても、違憲であることは変わらないのである。

 「解釈の限界を示したことで、これ以上の拡大は憲法改正が必要だという歯止めをかけた」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない時点で既に憲法から導き出される「解釈の限界」を超えている。そのため、「これ以上の拡大は」と、「存立危機事態」の要件が憲法の枠内であるかのように論じることは誤りであり、既に憲法改正が必要なものである。違憲な要件で「歯止めをかけた」と主張しても、違憲であることには変わりない。論者の論理では、「侵略戦争」でさえ「歯止めをかけた」ならば、9条に抵触しないかのように論じることができてしまうものであり、法解釈として妥当でない。憲法の枠内にあることを示すことができていないのである。

 「判断基準は明確じゃなきゃいけない。衆院予算委員会で、内閣法制局がきちんと答弁をし、基準を明確にすることになる」との記載があるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば違憲となることが前提であるが、「存立危機事態」の要件に適合するか否かを行政権に白紙委任している趣旨が、41条の立法権の趣旨や31条の「適正手続きの保障」の趣旨から違憲となると考えられる。また、このような何が「存立危機事態」に該当するのか分からないということ自体が、9条の規範性を損なったものとして違憲となる。

 「新見解と72年の政府見解とは論理的整合性がある。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容は1972年(昭和47年)政府見解を維持していると主張しているが、「存立危機事態」の要件はこれに当てはまらず、「論理的整合性」は存在しない。

 「憲法上許される自衛の措置のエッセンスを継承し、その中に今回の自衛の措置も収めた。」との記載があるが、「エッセンス」の意味するところが明らかでないが、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)が維持されているのであれば、「存立危機事態」については違憲となる。

 「そのことで憲法9条の解釈に歯止めがかかる」との記載があるが、「憲法9条の解釈」とは、「武力行使全面放棄説」や「芦田修正説」のルートが別にあるが、それに「歯止めがかかる」という意味と受け取れる点で意味がよく分からない。もしかすると1972年(昭和47年)政府見解の中に示された規範が揺らぐことに歯止めがかかるかのように論じているのかもしれないが、1972年(昭和47年)政府見解の規範は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすことを指しているのであり、この基準が揺らぐことはない。この規範は数量的なものではないから、既に歯止めとなっている。これを満たさない「存立危機事態」の要件を持ち出して「歯止めがかかる」と主張しているのであれば、1972年(昭和47年)政府見解で記された規範をあたかも数量的な規範であるかのように考えてしまっている部分が誤りである。9条は政府の自国都合による恣意的な「武力の行使」を制約する規定であり、その規範が数量的な概念であるとすれば、9条が政府の行為を制約する趣旨を満たさないこととなるため、9条が存在する事実を損なうことになるから、憲法解釈として成り立たないのである。



河野義博


〇 公明党 河野義博


公明党が守り抜いた「憲法の平和主義」 2014年7月4日


 「平和の党である公明党51人の衆参国会議員が一致団結し『憲法の平和主義を守り』そして『武力行使の拡大に明確な歯止めをかける』ことができました。」との記載があるが、誤りである。まず、「憲法の平和主義」とは前文にその理念が記載されている。9条はこの「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされており、9条に抵触する国家行為が行われた場合には前文の「平和主義」の理念も同時に損なわれることとなる。「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないものであり、9条に抵触して違憲となる。これにより、「憲法の平和主義」は損なわれたのであり、「憲法の平和主義を守り」との認識は誤りである。また、「『武力行使の拡大に明確な歯止めをかける』ことができました。」の部分であるが、「存立危機事態」は違憲なのであり、違憲な要件によって「歯止め」をかけたところで9条への抵触する事実は変わらないのである。

 「また、解釈によって憲法の柱を変えてしまう解釈改憲にあたる『全面的な集団的自衛権の行使容認を阻止』し、専守防衛を守り抜きました。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は既に違憲であり、憲法の枠内から逸脱している。「全面的な集団的自衛権の行使容認を阻止」について、「集団的自衛権の行使」とは実質的に「武力の行使」が行われるものであるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、「全面的」か「限定的」であるかによって「武力の行使」の可否を決しているわけではない。そのため、「全面的な集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を阻止したところで、「存立危機事態」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない要件であることには変わりなく、違憲であることも変わらない。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうが、「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しないため、「憲法の精神に則った」に当てはまらない。そのため、「専守防衛を守り抜きました。」との説明は誤りとなる。

 「『閣議決定で集団的自衛権を容認』との報道がありますが、一般的に理解されている『外国の防衛それ自体を目的とする、いわゆる集団的自衛権』は今後も認められません。」との記載があるが、誤った認識である。「集団的自衛権」に該当すればそれは国際法上は「集団的自衛権」でしかなく、「一般的に理解されている」ものと、そうでないものが存在するかのような認識は誤りである。また、「集団的自衛権」によって国際法上の「武力不行使の原則」による違法性を阻却するためには、武力攻撃を受けた他国からの『要請』が必要となる。そのため、『要請』を得ないと行使できない『権利』であるにもかかわらず、その『権利行使』を『他国防衛』の意図がないと説明することは論理的整合性がない。また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の下では「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであり、これを満たさないにもかかわらず、「外国の防衛それ自体を目的とする」「武力の行使」でなければ「武力の行使」が許されると考えている部分に誤りがある。

 「したがって、戦闘目的で海外派兵することはありません!」との記載があるが、論拠を整理する必要がある。従来より海外派兵が憲法上許されないとされてきたのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」との論理によるものである。この「自衛のための必要最小限度」とは、三要件(旧)を満たす「武力の行使」のことである。つまり、「自衛のための必要最小限度を超える」とは、三要件(旧)を超えることを意味していたのである。そのため、新三要件に変更し、「存立危機事態」の要件が加わっているにもかかわらず、「戦闘目的で海外派兵することはありません!」と認識するのであれば、その論拠は旧三要件に基づいて「海外派兵することはありません!」との認識に至っているものである。論者の論拠は新三要件と旧三要件が競合する関係にあり、意味不明となっている。もし、新三要件の「存立危機事態」の要件が「海外派兵」することがないとする根拠になるはずであるとの主張であっても、「存立危機事態」の要件は「他国に対する武力攻撃」に起因する「武力の行使」を認めるものであり、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」を行うことになるから、「海外派兵」が否定されるとする論理は含まれていない。論者の主張には根拠がないのである。

 「一方、今回の閣議決定では、『自衛隊と共に日本の防衛活動を行っている外国軍』への武力攻撃により、『日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白は危険がある』と客観的・合理的に判断されたならば、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がない場合に限って自衛権を行使できる(反撃できる)、と定めています。」との記載があるが、「存立危機事態」の合憲性を裏付ける主張とはなっていない。まず、「日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白は危険がある」であるが、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがない。そのため、そのような基準について「客観的・合理的に判断」したとしても、もともと基準となる要素が存在しないのであるから、「客観性・合理性」の観念を用いてもその適否を判定できないのである。このような曖昧不明確な要件を定めたことは、41条の立法権の趣旨や31条の「適正手続きの保障」の趣旨から違憲となると考えられる。また、9条の規範性を損なわせるものでもあるため、9条に抵触して違憲となる。

 「すなわち、自国防衛のための他国防衛を、従来の個別的自衛権に匹敵するものととらえ、極めて限定的に容認することとしました。」との記載があるが、「自国防衛のための他国防衛」と論者が認めている通り、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は『他国防衛』の意図を含むのである。これにより、『他国防衛』の意図を含む「武力の行使」を行う組織の実態は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。「従来の個別的自衛権に匹敵するものととらえ、」との記載であるが、「個別的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分と憲法上の限界は異なるのであり、「個別的自衛権に匹敵」したとしても、憲法上許容される規範が変化するわけではない。また、「極めて限定的に容認することとしました。」との部分についても、「極めて限定的」であっても1972年(昭和47年)政府見解によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであればすべて違憲であり、容認することはできないのである。論者の主張に基づけば、「極めて限定的に」「侵略戦争」を容認することも可能となってしまい、憲法解釈として成り立たない。

 「また、『これ以上の武力行使を認めようとするならば憲法改正しかない』と確認し憲法上許される武力行使の範囲の限界が初めて明確になったことは意義深いと考えます。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は既に違憲であり、憲法改正する必要がある事項である。また、「憲法上許される武力行使の範囲の限界」は、1972年(昭和47年)政府見解に記されている通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」であり、「初めて明確になった」との認識は誤っているし、「存立危機事態」の要件が憲法上の限界であるかのように論じることも誤りである。

 「明確な歯止めを二重、三重にかけさせる結果となりました。」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)で求められる「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないため既に違憲であり、この要件の中に「明確な歯止め」と称する文言を加えたところで、違憲なものが合憲に変わるわけではない。また、「存立危機事態」の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」の部分は、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがなく、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずることが考えられ、「明確な歯止め」となるものは存在しない。

 「これは『公明党が連立与党にいればこその成果』であり、」との記載があるが、法解釈上は成果の有無とは関係なく違憲となる。


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 「公明党が明確に歯止めをかけ、憲法の規範性を確保し、かつ従来の政府の憲法解釈との論理的整合性を保った内容に収束させたものです。」との記載があるが、誤りである。まず、また「憲法の規範性」とは、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の規範である。「存立危機事態」の要件はこれを満たさないものであるから、「憲法の規範性」は確保されておらず、9条に抵触して違憲である。「明確な歯止め」と称する部分についても、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがない。これにより、「歯止め」の機能を果たしているとはいえない。ただ、「歯止め」以前に、「存立危機事態」の要件は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであり、これを満たさないのであれば「歯止め」があろうとなかろうと違憲である。「かつ従来の政府の憲法解釈との論理的整合性を保った内容に収束させた」との記載であるが、従来の1972年(昭和47年)政府見解に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらない。そのため、「論理的整合性を保った内容」との認識は誤りである。

 「1. 外国の防衛それ自体を目的とした『いわゆる集団的自衛権』は今後も行使しない:」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当すれば、それは「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるため、すべて『他国防衛』が含まれることとなる。そのため、すべての「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」を今後も行使しないのであれば意味は通るのであるが、論者は『自国防衛』と称すれば「武力の行使」も可能となるかのように考え、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」をも行おうとする論調に繋がっていく部分が誤りである。

 「従って『いわゆる集団的自衛権』は行使できないとの立場を貫いており、今後もこの立場は変わりません。」との部分について、「いわゆる集団的自衛権」と、そうでない「集団的自衛権」があるかのように論じようとしているように思われるが、「集団的自衛権」にそのような2つの区分が存在するわけではないため誤った認識に基づく論調である。

 「なお、安倍総理も記者会見で『外国の防衛自体を目的とする武力の行使は今後とも行わない』と明言しています。」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であれば、それは「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、『他国防衛』の意図を含むこととなる。そのため、「外国の防衛自体を目的とする武力の行使は今後とも行わない」との主張には論理的整合性がない。もしかすると、「外国の防衛自体を目的とする」の「目的」が何であるかで憲法上の合憲・違憲の判断が分かれるとの認識に基づく主張である可能性が考えられるが、1972年(昭和47年)政府見解は「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」として「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かに判断基準を置いているのであるから、これを満たさないのであればたとえ『自国防衛』を「目的」としても違憲である。この主張には「存立危機事態」の要件が違憲でないことを示す論拠は存在しない。

 「2. 今回の閣議決定は、憲法下で認められる『自衛のための武力行使の限界』である:」との記載であるが、憲法下で認められる「自衛のための武力行使の限界」は、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」であり、2014年7月1日閣議決定で設けられた「存立危機事態」での「武力の行使」についてはこの限界を超えており、憲法下で認められない。

 「他国への武力攻撃が発生した場合にも、『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』と客観的・合理的に判断される場合がありうると判断し、『我が国と密接な関係にある他国(=日本防衛のために、現に活動している他国)』に対して武力行使が行われた場合には、自国防衛を目的とした他国防衛を可能としました。」との記載があるが、誤りである。まず、「我が国と密接な関係にある他国」は、「日本防衛のために、現に活動している他国」に限定されているとする政府の説明はない。また、「日本防衛のために、現に活動している他国」に対する武力攻撃が発生しても、それによって「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすわけでもなく、「武力の行使」は認められない。「自国防衛を目的とした他国防衛」についても『他国防衛』のための「武力の行使」は9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるし、1972年(昭和47年)政府見解の下では『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許されるわけでもなく、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば違憲である。「『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』と客観的・合理敵に判断される場合」の部分についても、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがない。そのため、このような文言を「客観的・合理的」に当てはまるかを判断することは不可能であり、基準となる要素が存在しないのであるから、結局当てはまるか否かそのものが、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れることとなる。また、恣意に流れたかどうかを判別できないこと自体が、41条の立法権の趣旨や31条の「適正手続きの保障」の趣旨から違憲となる。このような曖昧不明確な要件では、政府が自国都合によって恣意的な「武力の行使」に踏み切ることを制約する9条の趣旨を満たしておらず、9条の規範性を損なうこととなるから、9条に抵触して違憲である。

 「●『自国防衛のための他国防衛』は、新三要件全てに該当しなければ我が国は武力行使できない、つまり自国防衛に限定した武力行使であり、憲法第9条の規範を守り、専守防衛を貫くことに変更はありません。」との記載があるが、意味不明である。「自国防衛のための他国防衛」とあるのであるから、それは『他国防衛』の意図を含んでおり、「自国防衛に限定した武力行使」とは言えない。また、9条の下では『他国防衛』のための「武力の行使」は当然であるが、『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」が許されるわけでもなく、「自国防衛に限定した武力行使」と称しても「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たしていなければすべて違憲である。「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たしていないのであるから、9条の規範を満たしていないのであり、「憲法第9条の規範を守り、」との認識は誤りである。また、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうのであり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解に当てはまらない時点で「憲法の精神に則った」を満たしておらず、「専守防衛」とは言えない。そのため、「専守防衛を貫くことに変更はありません。」との認識も誤りである。

 「●なお、今回の閣議決定において」の部分の2014年7月1日閣議決定の文言は、当サイトの別のところで解説しているためここでは解説しない。

 「●今回の憲法解釈が憲法第9条の下で許容される自衛のための武力行使の限界を示したこととなり、これ以上の武力行使を認めようとするならば憲法改正しかない、ということが明確に確認され、憲法上許される武力行使の範囲の限界が初めて明確化されました。」との記載があるが、誤りである。「憲法上許される武力行使の範囲の限界」は1972年(昭和47年)政府見解で既に示されているのであり、「初めて明確化されました。」との認識は誤りである。また、「憲法第9条の下で許容される自衛のための武力行使の限界」は、1972年(昭和47年)政府見解に記されている通りであり、「存立危機事態」の要件はこれに当てはまらず、違憲である。そのため、論者のいう「今回の憲法解釈」である2014年7月1日閣議決定で設けた「存立危機事態」の要件は既に違憲であり、「存立危機事態」を認めようとするならば憲法改正を行う必要がある。「これ以上の武力行使を認めようとするならば」と説明であるが、既に「存立危機事態」の要件は違憲であるから、合憲であるかのような前提で論じようとすることは誤りである。



矢倉克夫

〇 公明党 矢倉克夫


 憲法解釈に、国際法上の基準を持ち込んで論じようとする点で誤りである。


安全保障法制と憲法整合性 矢倉克夫 2015-06-20


 「その意味で、これは憲法価値を実現するためのものであり、憲法破壊行為では決してありません。」との記載があるが、9条は、13条のような国民の権利や利益を理由として、政府が自国都合の武力行使に踏み切ることを防ぐために設けられた規定である。13条に見られる自国民の利益を最優先とすることは、自国の独善主義に陥り、他国を犠牲とする考え方を助長するからである。この趣旨は、前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」という国際協調主義の立場によっても裏付けられる。
 このことから、9条の下で許容される武力行使の範囲があるとしても、その範囲を確定するには、9条の政府が自国都合の武力行使を行うことを禁じた趣旨を損なうことのない極めて明確な基準が求められる。


 この9条の趣旨から1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する外国の武力攻撃」という受動的かつ客観的な事態の性質面に基準を設けた点で妥当な解釈と解することができる。


 しかし、存立危機事態の要件は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から導き出すことのできないものであり、違憲となる。
 また、存立危機事態の要件についても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」という、一体どのような事態を指しているのか曖昧不明確な文言である。これは、9条の規定が存在する理由から求められる政府が自国の都合によって武力行使に踏み切ることを禁ずる趣旨を損なうものである。よって、9条に抵触して違憲となる。(曖昧不明確な文言は、31条の適正手続きの保障の観点や、41条の立法権の趣旨からも違憲となる。)


 「ですので、今、議論すべきことは、政府による昨年7月の閣議決定が、72年見解をはじめとする政府自身の従来見解と論理的、安定的に整合しているかである、であると整理出来ます。」との記載について、全くその通りである。その論点をしっかりと検討しなくてならない。


 まず、砂川判決は我が国が国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』を有していることを認めているが、我が国の憲法上で国民主権によって正当化される国家の統治権の『権限』によって行うことのできる「自衛の措置(武力の行使)」の範囲については何も述べていない。
 「砂川判決は閣議決定を『許容』している(つまり『認めている』ではなく『禁止してない』)とは述べますが、砂川判決から直接、今回の閣議決定が導かれると考えているわけではありません。」との記載があるが、自衛権という国際法上の『権利』を禁止していないことと、我が国の統治権の『権限』として行使できるかは全く別の論点である。そのため、「批判は誤解に基づくもの」というよりも、それ以前に砂川判決が持ち出されること自体に論点を掴み切れていない誤解があるということである。


 「いわば『個別的自衛権に匹敵するほどの集団的自衛権』といっていいものです。」との記載があるが、国際法上の違法性阻却事由である「自衛権」の区分は、それが「個別的自衛権」であろうと、「集団的自衛権」であろうと、9条が我が国の統治権を制約する基準とは全く関係がない。わが国の憲法上の9条解釈としての1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しない「武力の行使」であれば、直ちに違憲である。注意したいのは、この「基本的な論理」に適合しなければ、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分であったとしても、その「武力の行使」は違憲なのである。そのことから、「個別的自衛権に匹敵するほどの集団的自衛権」であろうとも、国際法上の基準は憲法上の統治権の範囲を制約する9条解釈においては全く関係なく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しない「武力の行使」であれば違憲である。論者は、憲法上の9条解釈において、国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」という国際司法裁判所の管轄事項を、我が国の憲法上の9条解釈に持ち込んで正当化しようとしている点で誤りである。


 「そのような場合を念頭に、今回、昨年の閣議決定により厳格な新三要件のもと『個別的自衛権に匹敵するほどの集団的自衛権』を許容したものです。」との記載があるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由の区分の基準を、自国の憲法上の9条解釈の基準として持ち込み、個別的自衛権であれば(あるいは個別的自衛権に匹敵すれば)その「武力の行使」は合憲であると考えていること自体に誤りがある。
 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」とは、日本国の統治権の『権限』によって行使できる「自衛の措置(武力の行使)」の範囲を確定したものである。この日本国の統治権の『権限』の範囲を確定した結果、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』として行使しうる区分である「集団的自衛権」の範囲については、行使できない旨を示したものである。重ねて押さえておきたいのは、国際法上の「個別的自衛権」の区分であったとしても、統治権の『権限』の範囲を制約する9条の下では、「武力の行使」ができない場合が存在することである。国際法上の「個別的自衛権」の区分であるからといって、必ずしも日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が合憲となるわけではないのである。


 「この72年見解の基本的な枠とは何かを厳密に議論しないまま、閣議決定および安全保障法制は『72年見解の基本的な枠を外れるから違憲だ』とすることは、すこし議論として雑だと思います。」との記載がある。しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠組みは、自国民の権利利益を拡大する理由で政府の恣意的な武力行使が行われることを防ぐために設けられている9条の趣旨を損なうことのない、「我が国に対する外国の武力攻撃」という受動的・客観的な基準をを設定したところに、規範性の核心がある。この9条の趣旨を損なうことのない規範性の設定は、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という自国の主観的な認識によって適用範囲を拡大させることが可能となる要件では代替できない性質を有している。
 このことから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に示された「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃」だけでなく、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」を含むとは考えることができず、存立危機事態の要件は「基本的な論理」の枠を外れた違憲なものと評価せざるを得ない。存立危機事態の要件の中に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という文言が含まれていたとしても、この文言のみによっては9条の趣旨を損なうことのない規範を設定したものとはいうことができず、結果として9条に抵触して違憲となる。これは、議論として雑なものではなく、通常の法解釈である。



秋元大輔

〇 創価大学平和問題研究所 秋元大輔

公明党の平和主義と「集団的自衛権」行使容認論 創価大学平和問題研究所 秋元大輔 PDF


 P23で「憲法第9条に抵触すると考えられていた『集団的自衛権行使』を、『限定的』に容認したのである。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。国際法上の「集団的自衛権」の概念に「限定的」などという区分は存在しない。また、「限定的」と称すれば9条の下でも「武力の行使」が可能となるかのような認識なのかもしれないが、それは憲法解釈に基づいた論理ではないため正当化することができない。

 P33で、旧三要件を出し、「これらの条件から導き出されるのが、『一般的な』集団的自衛権の行使は、現行憲法では認められない、という結論であり、これが従来の政府見解であった。」との記載がある。ここでは、「『一般的な」集団的自衛権の行使」と、「一般的」でない「集団的自衛権の行使」があるかのように論じようとしているが、「集団的自衛権の行使」とは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであり、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であればすべて違憲である。

 P34で、「『新三要件』の憲法上の論理性を立証している(首相官邸2014)。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称しているところに適合する旨を論理的に立証しているものではなく、手続きに不正が存在する。そのため、「存立危機事態」は1972年(昭和47年)政府見解という違憲審査基準によって違憲となる。

 P35で、「それでは、閣議決定において公明党が果たした役割とは何であったのか。それは、自衛措置の限界を示し、『他国防衛』のための集団的自衛権行使に、明確な『歯止め』をかけたことである。そして、この『歯止め』も公明党の『反戦平和主義』の規範的影響力の結果であるといえよう。」との記載があるが、合憲性を裏付ける主張とはなっていない。まず、「自衛措置の限界」とは、1972年(昭和47年)政府見解に示された「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」という部分である。この「外国の武力攻撃」とは、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」である。「自衛の措置」の中身として「武力の行使」を選択した場合についても、同様に、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範となることが明らかにされていることからも明らかである。この「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさなければ「自衛措置の限界」を逸脱するのであり、『他国防衛』であれ『自国防衛』であれ違憲となるのである。そのため、論者が「『他国防衛』のための集団的自衛権行使に、明確な『歯止め』をかけたことである。」と「『他国防衛』のための集団的自衛権行使」だけに「歯止め」をかけるとする要件を加えたとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないのであれば違憲となることは変わらない。

 P35~36で、「安倍総理は、『一般的な』集団的自衛権行使の可能性を排除したが、閣議決定がなされた7月1日の記者会見においても、改めて、他国防衛のための集団的自衛権行使を次のように否定した。」「海外派兵は許されないという、従来からの原則も全く変わりありません。」「日本国憲法が許すのは、『わが国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置』だけだ。外国の防衛自体を目的とする武力行使は行わない(公明党氏編纂委員会2014:315)。」との記載があるが、意味の整合性を読み解く必要がある。まず、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」であれば、それは「集団的自衛権」でしかない。そのため、「一般的な」「集団的自衛権」と「一般的」でない「集団的自衛権」の2つがあるかのような認識は誤りである。また、憲法上は1972年(昭和47年)政府見解によって、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない「武力の行使」はすべて違憲となるのであるから、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を行う可能性はすべて排除されることととなる。「改めて、他国防衛のための集団的自衛権行使を次のように否定した。」として『他国防衛』であるか否かが基準であるかのように論じているが、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かを基準にしているのであるから認識に誤りがある。「海外派兵は許されないという、従来からの原則も全く変わりありません。」との部分であるが、従来から「海外派兵」が許されないとしてきたのは、「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」からである。この「自衛のための必要最小限度」とは、「武力の行使」の三要件(旧)をすべて満たすことを意味していたのであり、この「従来からの原則も全く変わりありません。」とするのであれば、それは新三要件を定めた2014年7月1日閣議決定の後においても、未だ旧三要件を使って「海外派兵」の可否を判断していることになる。これでは新三要件を定めた意味と矛盾するのであり、論理的整合性は存在しない。「日本国憲法が許すのは、『わが国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置』だけだ。」との部分についても、日本国憲法が許すのは1972年(昭和47年)政府見解によって「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示されているのであり、「わが国の存立を全うし、国民を守るための自衛の措置」であるか否かが基準であるかのような認識には誤りがある。「外国の防衛自体を目的とする武力行使は行わない」の部分であるが、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、「外国の防衛自体を目的とする武力の行使」であるということになる。そのため、「存立危機事態」の要件を定め、国際法上の「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」を行おうとしているにもかかわらず、「外国の防衛自体を目的とする武力行使は行わない」との説明は虚偽となる。「存立危機事態」での「武力の行使」について『自国防衛』であると主張しようとも、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かに基準があることを示したものであり、これを満たさないにもかかわらず『自国防衛』であることを理由として「武力の行使」が可能であるかのように考えていること自体が誤りである。

 P36で、「すなわち、連立政権のパートナーである公明党が、与党内部から厳格な『歯止め』をかけることによって、他国防衛を目的とした『一般的な』集団的自衛権行使が、現行憲法上、許されないことが改めて確認されたのである。」との記載があるが、認識に誤りがある。「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」とは、「他国に対する武力攻撃」を排除するための「武力の行使」であるから、「集団的自衛権」に該当すればすべて「他国防衛を目的」とするものとなる。そのため、論者のように「『一般的な』集団的自衛権行使」とそうでない「集団的自衛権行使」が存在するかのような話には根拠がない。また、「集団的自衛権」に該当すれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解で記された規範に抵触して違憲となる。これにより、「『一般的な』集団的自衛権行使が、現行憲法上、許されないこと」を否定したところで、論者のいう「一般的」でない「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」もすべて違憲であることには変わりない。「与党内部から厳格な『歯止め』をかけることによって」との説明もあるが、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないのであれば、1972年(昭和47年)政府見解によってすべて違憲となるのであり、これを満たさない「存立危機事態」の要件に「歯止め」と称する文言を加えたところで、「存立危機事態」の要件が合憲に変わるわけではない。

 P36で、「集団的自衛権の『全面行使』が否定され、個別的自衛権行使の合憲性が確認されるかたちとなった7・1閣議決定には、」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当すればそれは「集団的自衛権」でしかなく、「全面行使」や「限定行使」などという区分は存在しない。また、「武力の行使」の規範は1972年(昭和47年)政府見解に記されている通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」のであるから、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」はこれを満たさないためすべて違憲となる。「個別的自衛権行使の合憲性が確認されるかたちとなった」との記載があるが、憲法上は国際法上の「個別的自衛権」に該当するからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、「個別的自衛権自衛権行使の合憲性が確認されるかたち」の中であっても、「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」がすべて合憲となるかのような認識であれば誤りである。

 P37で、「実際に、閣議決定にも『(72年見解の)基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない』と限定されており、従来の政府見解との論理的整合性を保った内容であると考えられている(公明党史編纂委員会2014:315)。」との記載があるが、確かに2014年7月1日閣議決定には「(72年見解の)基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない」との趣旨が記載されているが、この閣議決定の結論部分で「存立危機事態」がこの中に含まれるとしている部分には論理的整合性が存在しておらず、誤りがある。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分が維持されているのであれば「存立危機事態」の要件は違憲となるのである。

 P37で、「歴代政府見解は『個別的自衛権』行使のみの合憲性を主張してきたが、7・1閣議決定における『集団的自衛権』行使は、従来の個別的自衛権と重なり合う部分であり、さらに、阪田雅裕・元内閣法制局長官が指摘するように、新3要件は、従来の政府見解の『延長線上』にあり、論理的一貫性も保たれている(秋元2014b:219)。」との記載があるが、整理する必要がある。まず、歴代政府は「『個別的自衛権』行使のみ合憲性を主張してきた」との部分であるが、これは「個別的自衛権」に該当すれば必ず「武力の行使」が合憲となるとの認識に基づくものではない。憲法上許容される「武力の行使」は三要件(旧)を満たす必要があり、この三要件を満たす「武力の行使」が国際法上の区分て言えば「個別的自衛権」に該当するというだけである。そのため、「7・1閣議決定における『集団的自衛権』行使は、従来の個別的自衛権と重なり合う部分であり」との部分であるが、旧三要件から新三要件に変更した時点で「従来」とは異なるものとなっている。新三要件という「従来」と異なる要件によって「武力の行使」をしようとするのであるから、「従来」と「重なり合う部分」と認識することは妥当でない。ただ、2014年7月1日閣議決定の1972年(昭和47年)政府見解を指して「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」と説明している部分が確かに維持されているのであれば、「存立危機事態」の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たすとしか読めないこととなる。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」に規範を設定した解釈だからである。この部分が確かに維持されているとする論理に限って見れば、「従来」と「重なり合う」こととなる。ただ、これは2014年7月1日閣議決定において「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件と「存立危機事態」の要件を分けて記載していることや、政府のその他の答弁から考えると、2014年7月1日閣議決定において1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が維持されているとは言えない。2014年7月1日閣議決定は論理的整合性が保たれていないのである。この視点からみると、「従来の政府見解の『延長線上』」(『延長線上』』とは、『枠内』との意味で使われていると思われる)とは言えず、論理的一貫性は保たれていない。

 P38で、「佐藤優氏(元外務省主席分析官)によると、7・1閣議決定の内容は、『従来の個別的自衛権や自衛隊がもつ警察権で対応できる事柄を、集団的自衛権としてまとめ直したもの』として結論付けられる(佐藤2014:31)。」との記載があるが、これは、2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解を指して「この基本的な論理は、憲法第9条の下では今後とも維持されなければならない。」としている部分が確かに維持されている場合のことである。つまり、1972年(昭和47年)政府見解が確かに維持されているのであれば、1972年(昭和47年)政府見解は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」に規範を設けたものであることから、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たすことを意味するとしか読めないはずであるとの認識に基づく場合である。この読み方であれば、国際法上の評価としての「従来の個別的自衛権」の行使とされていたものや、憲法上で許容される「自衛隊がもつ警察権で対応できる事柄」を、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、」を加えたことで、「集団的自衛権としてまとめ直したもの」と評価することもできるかもしれないとするものである。ただ、この読み方にはいくつかの問題がある。まず、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」しか意味しないのであれば、それは従来の解釈のままでで対応できる事柄であるから、2014年7月1日閣議決定によって新たに「存立危機事態」の要件を加えようとしている事実と矛盾する。2014年7月1日閣議決定そのものに論理的整合性がないものであるため、これをどこまで整合性的に読み解けるかという問題が前提としてあるのだが、新たな要件を加えているにもかかわらず、それが従来と全く変わらないとするものであれば、2014年7月1日閣議決定そのものをする必要がなかったこととなる。また、他の政府答弁では「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることは明らかとなっており、2014年7月1日閣議決定そのものに論理的整合性がなく「適正手続きの保障」の趣旨から違法となることが前提ではあるが、これら一連の流れから見ても「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさないと考えられる。他にも、そもそも「存立危機事態」の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は曖昧不明確であり、このような要件では9条が政府の行為を制約しようとした意図を達することができないのであり、9条の規範性を損なうものである。そのことから、この部分が従来の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たすものであるのか曖昧不明確であるという事実により違憲となり、この要件に基づく「武力の行使」は「集団的自衛権としてまとめなおしたもの」であるか否か以前に憲法上行使できないこととなる。

 P38で、「例えば、在日米軍基地への攻撃に対して、自衛隊が反撃する場合、日本の領域を守るための『個別的自衛権の行使』としても米軍を守るための『集団的自衛権の行使』としても、国際法上、両方の解釈が成り立つ、という議論である(同条:31-32)。」との部分については、国際法上の区分の話であり、憲法上の規範の話ではないため、これを根拠に「武力の行使」が合憲であるかを確定することはできない。「個別的自衛権」に該当すれば合憲となるというわけではないことを押さえて理解するべきである。

 P38で、「従来の政府見解において合憲とされている『個別的自衛権』行使と重なり合う部分を『集団的自衛権』行使としてまとめてあるため、従来の政府見解と7・1閣議決定の整合性は、論理上、保たれていることになる。」との記載があるが、国際法上の「個別的自衛権」に該当するか、「集団的自衛権」に該当するかの話と、1972年(昭和47年)政府見解の中に2014年7月1日閣議決定で加えられた「存立危機事態」の要件が論理的に当てはまるかの論点は別のものである。そのため、2014年7月1日閣議決定において「存立危機事態」での「武力の行使」を指して「国際法上では集団的自衛権が根拠となる場合がある。」と述べている部分について、「『個別的自衛権』行使と重なり合う部分を『集団的自衛権』行使としてまとめてある」ことを意味するとしても、1972年(昭和47年)政府見解に「存立危機事態」の要件が当てはまることを示す根拠となるわけではない。また、国際法上は「個別的自衛権」を適用するのか「集団的自衛権」を適用するのかは二者択一であり、日本国内の米軍基地への攻撃について学説上の概念が競合することはあっても、実務上は「個別的自衛権」を適用する事例と思われる。そのため、「存立危機事態」の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味するか否かが、「従来の政府見解と7・1閣議決定の整合性」が「論理上、保たれている」か否かを決することとなるのであり、2014年7月1日閣議決定において「存立危機事態」の要件を「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(武力攻撃事態)」と分けていることや、政府の他の答弁が「存立危機事態」は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることを前提としていることから、「整合性は、理論上、保たれて」いないことになる。論者の認識は誤りである。


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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
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衆議院議員伊藤英成君提出内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成十五年七月十五日

 P40で、「さらに、「公明党としては、集団的自衛権の限定容認ではなくて、いわば個別的自衛権に匹敵するような場合に限定し、『専守防衛』に徹する平和主義を貫いた」として、「他国防衛」のための「一般的な」集団的自衛権が現行憲法上は行使できないことを再び確認している(同条:242、傍線部は引用者)。」との記載があるが、整理する必要がある。まず、「集団的自衛権」に「一般的な」ものとそうでないものがあるかのような認識は誤りである。国際法上そのような区分は存在しない。「集団的自衛権」の中に『他国防衛』のものとそうでないものの2つが存在するかのような論じ方も、存在しないものを論じようとするものであり誤りである。また、この中に『他国防衛』のための「武力の行使」は憲法上許されないが、そうでないものであれば許されるかのように考えているのであれば、それも誤りである。1972年(昭和47年)政府見解によれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところに規範があるのであり、これを満たさない「武力の行使」はたとえ『自国防衛』と称しようとも違憲である。「いわば個別的自衛権に匹敵するような場合に限定し」との記載があるが、国際法上の「個別的自衛権」に該当しようとも、これを満たさなければすべて違憲であることには変わりない。「『専守防衛』に徹する平和主義を貫いた」との部分についても、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいうのであり、違憲である「存立危機事態」の要件を定めた時点で「専守防衛」の定義である「憲法の精神に則った」を満たさないことから、「『専守防衛』に徹する平和主義」は貫かれていない。

 P40で、「一般的に、『集団的自衛権』の行使には、自衛のための必要最小限度の『武力行使』が伴う。」との記載があるが、誤りである。従来から「自衛のための必要最小限度」と称していたのは旧三要件をすべて満たす「武力の行使」のことであり、「自衛のための必要最小限度の『武力行使』」であれば、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があることから、国際法上の「集団的自衛権」の区分には該当しないのである。そのため、「自衛のための必要最小限度の『武力行使』」であれば、「『集団的自衛権』の行使」とはならないため、「『集団的自衛権』の行使には、自衛のための必要最小限度の『武力行使』」は伴わないのである。

 P40で、「7・1閣議決定は、戦後日本政治史における大転換であるかのように誤解・曲解されたが、『専守防衛』のための『自衛権』行使という『現実平和主義』は変化しておらず、むしろ公明党の『反戦平和主義』の影響によって、自衛権行使の『新3要件』には厳格な歯止めがかけられた。」との記載があるが、誤りがある。「専守防衛」とは、「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」をいうのであり、1972年(昭和47年)政府見解に適合しない「存立危機事態」の要件は「憲法の精神に則った」を満たさない。そのため、「専守防衛」が変化していないのであれば、「存立危機事態」の要件は憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解によって違憲となるし、「存立危機事態」での「武力の行使」を可能としようとするのであれば、「専守防衛」は損なわれているため変化していることとなる。この「存立危機事態」の要件の中に「厳格な歯止め」と称する文言を加えたとしても、1972年(昭和47年)政府見解によって示された「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の規範を満たさないのであれば、すべて違憲である。「厳格な歯止め」があれば合憲となるかのように論じようとしているが、憲法解釈上は「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たすか否かが基準であるため、合憲性を裏付ける根拠とはなっていない。

 P40で、「結党以来、公明党は一貫して『平和主義』を堅持しており、7・1閣議決定の際にも、『歯止め』をかけることで、日本国憲法の『平和主義』を守り通した。」との記載があるが、誤りがある。公明党の「平和主義」については法学上の論点ではないため論じないが、日本国憲法の「平和主義」は前文に記載されており、9条がその理念を具現化した規定であるとされている。そのため、2014年7月1日閣議決定において、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称する部分も同様)に適合しない「存立危機事態」の要件を定めたこととは、9条の規範性を損なっており、同時に憲法前文の「平和主義」の理念も損なわれている。1972年(昭和47年)政府見解に記された「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の規範を満たさない要件であれば、すべて違憲となるのであるから、これを満たさない「存立危機事態」の要件にいくら「歯止め」と称する文言を加えたとしても、違憲であることは変わらない。「日本国憲法の『平和主義』」は守り通されているとは言えないのである。



松田明


〇 ライター 松田明


自公連立政権7年目④――平和安全法制の舞台裏 松田明 2019年1月10日


   【「政府見解を超えていない」】


 9条解釈の9条と13条の関係を説明しようとする中に、国連憲章の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の区分が持ち出されているが、これは憲法解釈とは異なるため区別して考える必要がある。国連加盟国に対して『権利(right)』が認められていることと、各国の統治権の『権力・権限・権能(power)』の範囲は別問題だからである。
 論者は、1972年(昭和47年)政府見解の末尾の「他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。」の部分を持ち出して、1972年(昭和47年)政府見解の必要最小限度の範囲であるかのように説明しようとしているが、誤りである。
 1972年(昭和47年)政府見解の示した「最小限度の範囲」とは、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」という部分にある(ここで論者の言う『最小限度の範囲』とは、『武力の行使』の三要件の第三要件の意味ではないことに注意)。そのため、憲法9条が国際法上の『権利(right)』である「集団的自衛権」という概念それ自体を直接制約しているかのような認識は誤りである。
 また、国際法上の「集団的自衛権」という概念には、「フルスペック」の「集団的自衛権」と「フルスペックでない」「集団的自衛権」があるかのように論じているが、誤りである。
 「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。
 論者は国際法上の「集団的自衛権」の区分によって違法性が阻却される部分を最大限に活用した「武力の行使」をフルスペックと呼び、そうでない「武力の行使」と区別しようとしているのかもしれないが、9条はその「武力の行使」を制約する規定であり、その9条の制約の下でも許容される「武力の行使」の範囲を示したものが、1972年(昭和47年)政府見解の「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分である。
 よって、国際法上の「集団的自衛権」の区分によって違法性が阻却される部分を最大限に活用した「武力の行使」が憲法上許容されないことは当然であるが、結局「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」は、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」の要件を満たさないのであり、これによってすべての「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は否定されているのである。
 論者は「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」の内容を「フルスペックのもの」と「フルスペックでないもの」に分けて、「フルスペックでないもの」に該当する「武力の行使」があたかも9条に抵触しないかのように説明しようと試みているようであるが、9条の制約の下で許容される「武力の行使」が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範が示されている以上は、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」はすべて違憲である。
 論者は1972年(昭和47年)政府見解を読み誤っている。


 「2014年7月1日の『閣議決定』は、この1972年の内容をきちんと引用し、」との記載があるが、誤りである。
 2014年7月1日閣議は、1972年(昭和47年)政府見解に存在した「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、」と、「しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、」の文言を切り捨ててしまっているからである。
 また、1972年(昭和47年)政府見解の示した「自衛の措置」の規範部分である「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」を、「武力の行使」についてだけの規範であるかのように説明している点も、内容の正確性を欠くものとなっている。
 さらに、1972年(昭和47年)政府見解は、「その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と示されていたものが、2014年7月1日閣議決定においては「そのための必要最小限度」と表現されている。これは、1972年(昭和47年)政府見解においては、「自衛の措置」の程度・内容が「必要最小限度」である旨を示したもの(『武力の行使』の三要件でいう第三要件の『必要最小限度』に対応するもの)であったが、2014年7月1日閣議決定においては、あたかも「必要最小限度」と認定すれば9条に抵触しないとするところに規範があるかのように誤解しやすい表現となっているのである。
 そのため、論者の「きちんと引用し」の認識は正確なものではない。


   【参考】第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF

    (第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF)


 政府が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると説明しているが、誤りである。
 なぜならば、政府は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言について「『外国の武力攻撃』については、我が国に対する武力攻撃に限定されているものではないと解される。」と説明しているからである。


   【参考】昭和四十七年政府見解の中の「外国の武力攻撃」の文言の理解に関する質問主意書 平成31年2月22日


 もし、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分に「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとした場合、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が、政府が自国の危機や『自国防衛』と称して恣意的に「自衛の措置(武力の行使)」に踏み切ることを排除するための規範を示したものとは言えなくなってしまい、9条解釈としての妥当性を失ってしまうこととなるのである。
 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持しているのであれば、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(我が国に対する急迫不正の侵害があること)」を満たさなければ、「武力の行使」を行うことができないのであり、「存立危機事態」による「武力の行使」を許容しようとすることは論理的整合性が存在しない。

 「新3要件を定め、『できること』『できないこと』を一層明確にしたのが、この閣議決定だった。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称する部分を維持しているのであれば、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲であり、『できないこと』に該当する。それにもかかわらず、新3要件を定めて「存立危機事態」での「武力の行使」を『できること』に含ませようとしている点は、一層明確化などというものではなく、違憲である事実を踏み倒そうとする意思によるものと考えざるを得ない。1972年(昭和47年)政府見解に論理的に適合しているとする論拠は示されていないからである。


   【答弁を変えた安倍首相】

 「与党協議を通して従来の政府見解を出ないものにしたばかりか、」との記載があるが、誤りである。「存立危機事態」での「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解に論理的に含まれないからである。


 「新たに新3要件の縛りをかけて、自衛隊の運用をさらに厳格にした。」との記載があるが、誤りである。

 まず、新3要件の「存立危機事態」での「武力の行使」の場合を確認する。


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「武力の行使」の新三要件の「存立危機事態」の場合
◯ わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 新3要件の第一要件の「存立危機事態」は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した段階(これは未だ9条の規範性を通過していない)で、「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」に該当するか否か政府が判断するものである。しかし、「わが国の存立が脅かされ」や「国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される」との文言は、通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがない。これに対して「明白な危険」という言葉を加えたとしても、そもそも害悪発生の可能性に留まるし、その害悪の内容も具体的に特定されていないのであるから、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずることが考えられる。このような曖昧不明確な要件を定めたことは、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の立法権の趣旨に抵触して違憲となると考えられる。また、このような曖昧不明確な要件によって「武力の行使」を可能とすることは、9条の規範性を損なったものであり9条に抵触して違憲となる。
 第二要件については、この第一要件で示された「自国の存立」や「国民の権利」の危険という主観的な感覚を「排除」することが示されているが、政府の主観的な感覚が「排除」されるまで「武力の行使」が可能となるものである。これは、旧三要件の「我が国に対する急迫不正の侵害(旧第一要件」が「排除(旧第二要件)」された段階で「武力の行使」を止めなければならないとするものよりも内容が緩められている。
 第三要件についても、旧三要件の場合は、「我が国に対する急迫不正の侵害(旧第一要件)」が「排除(旧第二要件)」されたならば、それ以上は「必要最小限度(第三要件)」を超えるとする規範性を有するものであったが、新三要件の第三要件は、「存立危機事態(第一要件)」の「自国の存立」や「国民の権利」の危険という主観的感覚が「排除(第二要件)」されるまでは「必要最小限度(第三要件)」を超えないと判断することができるのであるから、「武力の行使」を政府の主観によって際限なく行うことができ、規範性を有しないのである。
 よって、旧三要件よりも規範が緩められている事実を考えれば、論者の「自衛隊の運用をさらに厳格にした。」との認識は事実に反する。

 


竹内行夫

〇 元外務事務次官 竹内行夫


集団的自衛権論議の行方について 2815 2014年7月22日


 「憲法9条の下で許される自衛の措置を強め、国の安全を守る抑止力を高めるものです。」との主張があるが、誤りである。「新聞社の報道」や「抑止力」という政策上の論点については別として、法学上は9条の下で許される「自衛の措置」とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に示された範囲であり、これは「『我が国に対する』武力攻撃が発生」した場合について述べたものである。よって、国際的な環境が変化したとしても、この規範が変わることはない。2014年7月1日閣議決定の「存立危機事態」での「武力の行使」は、「『我が国に対する』武力攻撃が発生」した場合ではないため、それによる「武力の行使」は、この「基本的な論理」に含まれることはなく、9条の下で許される範囲を超えている。


 「集団的自衛権」は国際法上の概念であり、国連憲章で明記されていることは正しい。これについて、「他国防衛説」と「自国防衛説」を取り上げているが、これは国際法上の『権利』の区分の学説であり、憲法上の日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する9条解釈とは関係がない。


 国際法上、国家承認を受けた国家に固有の権利として集団的自衛権の行使が許容されることは確かである。その行使の濫用を防止するため、攻撃された国による支援の『要請』が必要とされていることも確かである。


 ただ、ここで「従来の政府解釈は他国防衛説であったとみられます。」と述べている論点は誤りである。なぜならば、ここで取り上げられている政府の説明は、憲法上の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲について述べているものであり、国際法上の『権利』の区分の説明をしているものではないからである。


 政府の「集団的自衛権の行使は許されない」との説明は、単に9条解釈を行って統治権の『権限』の範囲を確定した結果、国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができない旨を述べているだけである。ここで基準となっているのは、9条の憲法解釈であり、国際法上の『権利』の区分を基準として結論が生み出されているわけではないのである。


 また、「自衛のため、必要最小限度の武力行使」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を示したものである。この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」については、1972年(昭和47年)政府解釈が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示している部分に対応する。ここで述べられているのは、これを満たす場合に初めて発動できる「武力の行使」のことである。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 「他国を助けるというような意味の武力の行使」は、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲を超えるため、許されないのである。これにより、結果として国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は行うことができないとなるのである。


 「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を指しているのであり、数量的な概念ではない。そのため、『自国防衛』や「自衛のため」、「我が国を防衛するため」であるならば、「必要最小限度」と見なし、「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生していなくとも「武力の行使」を行うことができるとする結論を導こうとすることはできない。


 日米安全保障条約5条は、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」との文言が書かれている。これは、日本国が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことにより設けられた文言である。


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第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 外務省


 また、先ほども述べたように、「集団的自衛権」という『権利』の概念が「他国防衛説」であろうと「自国防衛説」であろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する9条解釈には影響がない。さらに、条約が憲法に反しているならば、その条約は違憲審査によって違憲となるのであり、条約を根拠に憲法解釈を確定させようとする試みも誤った解釈方法である。


 「今回は9条の理念を守り、許される範囲内で解釈の変更をしたのであって、」との説明があるが、誤りである。まず、9条の理念を守った1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」と称している部分の枠内では、「存立危機事態」での「武力の行使」が許容されることはない。そのため、「許される範囲内で解釈の変更をした」との結論を述べようとした点が誤りである。


 「他国防衛説だけ引っ張って『米国の戦争に巻き込まれる』と主張するのは不正確で、」との主張があるが、詳しく検討する必要がある。


 まず、「集団的自衛権」という『権利』は、『他国からの要請』が必要である。なぜならば、『他国からの 要請』がないまま「武力の行使」を行った場合、国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分に該当しないため違法性が阻却されることはなく、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に抵触して国際法上違法となるからである。このことから必然的に、「集団的自衛権」を行使する形で「武力の行使」を行うことは、「他国を守る」という意味を含むのであり、「他国防衛説」に該当する。『他国からの要請』を必要とする「集団的自衛権」という概念では、もともと「個別的自衛権」のような純粋な意味に該当する『自国防衛』というものは存在しないのである。ここで区分されている「自国防衛説」というものは、『他国防衛に付随する自国防衛』の概念であり、『他国からの要請』を必要とする「集団的自衛権」の中に純粋な「自国防衛」だけが存在するとの考え方は存在しえない。


 『武力攻撃を受けた他国からの要請』がない段階で「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法な「先制攻撃」となる。そのため、もともと「集団的自衛権」を「自国防衛説」と考えることで「武力の行使」を行おうとしても、『他国からの要請』が得られていなければ国際法上違法となるため、行うことができない。『他国からの要請』を得られていないのであれば、「武力の行使」は踏みとどまらなければならないのである。それにもかかわらず、論者の「自国防衛説」の考え方による「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」であれば、『他国防衛』の意味が含まれない「武力の行使」が存在するかのように読み解き、あたかも9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の中に当てはまって合憲となると解しようとすることは誤りである。


 そもそも、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」と称している部分の枠組みの中に、国際法上の区分の枠組みを持ち込んで説明しようとする試みも、法体系の違いを区別していないことによる誤った理解である。憲法解釈は日本国の政府や日本国の裁判所の管轄事項であり、国際法上の解釈は国際司法裁判所の管轄事項である。


 さらに、憲法解釈の中において『自国防衛』のための「武力の行使」であることを主張しようにも、9条は『自国防衛』と称して政府が政治的事情などを背景とした恣意的な判断によって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを防ぐために設けられた規定であることから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が「あくまで外国の武力攻撃によつて」という文言を用いて「我が国に対する武力攻撃」が発生したことを満たすことを求めているような、政府の政治的な都合や恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを防ぐことのできる受動的・客観的に明白な規範を設定しなければ違憲となる。憲法解釈においても、『自国防衛』の意図・目的であることを主張するだけでは、その「武力の行使」が合憲となるわけではないのである。そのため、論者の主張は誤りである。


 「閣議決定で認められたのは、9条の制約を踏まえたわが国独特の抑制された集団的自衛権であると思う。」との説明があるが、誤りである。9条の制約とは、1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範であり、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」を意味していることから、この中にこれを満たさない「存立危機事態」での「武力の行使」が当てはまることはない。また、「わが国独自の抑制された集団的自衛権」との説明もあるが、国際法上の「集団的自衛権」の概念を、「わが国が独自」に設定することはできない。これは国際司法裁判所の管轄であり、日本政府が勝手に定義することはできないからである。


 「自国防衛説に切り替えた上で、更に現実の『明白な危険』という国際法にはない強い限定を加えた。」との説明もあるが、誤りである。国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の概念が「自国防衛説」であろうとなかろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する憲法解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」と称している部分の枠組みに影響を与えることはない。また、「存立危機事態」の要件に含まれる『明白な危険』という文言も、曖昧不明確な概念であり、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われる可能性を排除できないものである。これは、9条解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」と称している部分に適合しないことは当然、政府の政治的な都合などによって自国都合の恣意的な「武力の行使」が行われることを防ごうとする9条の規定が存在している意味を損なうものであり、9条に抵触して違憲である。


 「これらの要件が満たされないのに米国からの圧力で参戦するようなことはあり得ない。」との説明もあるが、誤りである。「存立危機事態」での「武力の行使」の発動は、「いかなる事態が存立危機事態に該当するかについては、政府が全ての情報を総合して客観的、合理的に判断することとなる」とされている。そのため、この中には政府の政治的な事情を含みうるものであり、当然に米国からの圧力というものも、意思決定者の中で意識されようがされまいが影響を与えうるものとなっているのである。9条はこのような自国の政治的な都合などによって「武力の行使」が行われることを排除するために設けられた規定なのであるから、9条の規定が存在している意味から求められる政府の恣意性を排除するだけの基準となるものを有していない「存立危機事態」の要件は、9条の規範性を損なっており、9条に抵触して違憲となる。論者の「米国からの圧力で参戦するようなことはあり得ない」との主張については、9条の規範性が損なわれている時点で、意思決定者の裁量判断となるのであるから、法律論上は「あり得る」話である。論者の「あり得ない」との認識は本人のスタンスの問題であり、法律論上の見解とは言えない。



添谷芳秀

〇 慶応大教授 添谷芳秀


集団的自衛権論議の行方について 2815 2014年7月22日

 「集団的自衛権に関しては『憲法第9条の下で許容される自衛の措置』として、個別的自衛権と集団的自衛権の区別をなくしたことがポイントだ。」との説明があるが、厳密には誤りである。まず、9条解釈は憲法解釈であり、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という枠組みとは関係がない。そのため、従来から9条解釈において「個別的自衛権」や「集団的自衛権」との枠組みで線引きをしていたわけではない。9条解釈は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に示されており、これに当てはまる「武力の行使」は合憲であり、当てはまらなければ違憲である。国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」が違憲と評価されているのは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しないことによって導き出されていた結論である。注意したいのは、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分の「武力の行使」であったとしても、憲法の9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないのであれば違憲となり、行使できないことである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲は、憲法解釈によって確定されるわけであり、国際法上の線引きとは関係がないからである。ただ、2014年7月1日閣議決定は、結論として「存立危機事態」での「武力の行使」を許容しようとするものであり、これが国際法上の区分では「集団的自衛権」にあたり、従来の「個別的自衛権」の範囲を超えていることは確かである。この「存立危機事態」での「武力の行使」は、2014年7月1日閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、政府自身の違憲審査基準によって違憲である。



浜谷英博


〇 三重中京大学 浜谷英博


浜谷英博三重中京大名誉教授 「政府案は間違いなく合憲」 2015.8.25


 「しかし憲法があって国家があるわけではなく、国家と国民があってこその憲法です。」との説明があるが、厳密には誤りである。なぜならば、憲法がなければ国家は成立しておらず、そこには「一定の地域」と「一定の地域の人々」が存在するだけであり、憲法が制定されていないのであれば未だ「国家」や「国民」という概念が成立していないからである。よって、厳密な意味では、「憲法があって国家がある」ということが正しいのであり、論者がこれを否定することには誤りがある。


 「しかも、政府案は集団的自衛権の行使に関して自衛措置に限るという厳しい条件を課しています。間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており、合憲です。」との説明があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である。それを行使するということは、日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」を意味する。論者が「集団的自衛権の行使に関して自衛措置に限る」としていることを正確に表現すれば、「集団的自衛権という『権利』の区分にあたる日本国の統治権の『権限』における『武力の行使』に関して自衛の措置に限る」という意味である。


 しかし、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『武力攻撃を受けた他国からの要請』が必要である。『他国からの要請』がない段階で「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則(武力行使禁止原則)」に該当して国際法上違法となるからである。このことから、「集団的自衛権」という『権利』を行使する意味での日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」には、『他国からの要請』が必要となる。この『他国からの要請』が必要となる「武力の行使」は、必然的に『他国防衛』の意味を含む「武力の行使」となる。よって、「政府案は…自衛措置に限るという厳しい条件を課しています。」としているが、『他国からの要請』が必要である「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うにあたって、「自衛措置に限る」などということはあり得ず、存在しない概念を主張しているのである。もともと意味が通じないのであるから、論者の主張は誤りである。


 「間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており、合憲です。」との主張があるが、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないものであるから、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しておらず違憲である。「間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており」と主張することは、誤りである。



 「ただ、その措置が、国際法上は集団的自衛権の行使に該当する行動が含まれるため、集団的自衛権の限定容認として説明し、同時に個別的自衛権の際限ない拡大につながるとの懸念も払拭しているのです。」との説明があるが誤りである。


 先ほども述べたように、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を行使するにあたっては、『他国からの要請』が必要である。『他国からの要請』がないなかで、「武力の行使」を行っても国際法上の違法性阻却事由を受けられず、2条4項の「武力不行使の原則」に該当して違法となるからである。必然的に、「集団的自衛権」という『権利』の行使にあたっては、『他国防衛』という意味を含むものであり、「集団的自衛権の限定容認」という日本の政治が独自に主張する概念は存在しない。そもそも、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「集団的自衛権」という概念に該当すれば、それは国際法上「集団的自衛権」でしかない。そのため、「限定容認」などという説明は、存在しないものを主張しようとしているものである。「集団的自衛権」という『権利』の行使とは、国家の統治権の『権限』における「武力の行使」を意味するわけであり、「集団的自衛権」の中に、「限定」か「限定でない」かなどという区分は存在しないのである。この「武力の行使」を制約する基準は、憲法解釈によって決せられるものであり、国際法上の『権利』の基準は関係がない。日本国の統治権の『権限』に制約をかけている9条の下では、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした中での「武力の行使」は合憲となり得るが、それを満たさない中で行われる「武力の行使」については違憲となるというだけである。


 9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の基準を維持する限りは、「その措置が、国際法上は集団的自衛権の行使に該当する行動が含まれる」ということはない。また、「集団的自衛権の限定容認として説明」することも誤りである。「同時に個別的自衛権の際限ない拡大につながるとの懸念も払しょくしている」との説明があるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか満たさないかによって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるか否かが決せられるのであるから、際限ない拡大につながるわけではない。むしろ、論者の主張する「集団的自衛権の限定容認」との主張であるが、この実質は1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない中で「武力の行使」を許容しようとするものであるから、規範性を損ない、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分に関係なく、「武力の行使」を際限なく拡大させるものである。「懸念も払拭している」との説明は誤りであり、むしろ日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の「際限ない拡大につながるとの懸念」を増大させるものである。


識者が語る「平和安全法制」 新3要件で厳しい歯止め 「違憲」批判は当たらず 浜谷英博 2015年6月24日


 「日本の自衛隊に許される武力行使は、日本にとっての自衛措置に限られる。これが今まで政府がとってきた見解だ。」との説明があるが、誤りである。なぜならば、9条が設けられている趣旨は、「日本にとっての自衛措置」との理由のみで自国の独善主義に陥り、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを禁ずる趣旨の規定だからである。この9条の趣旨を生かして憲法解釈を行ったものが、1972年(昭和47年)政府見解である。この1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を違憲とするものである。それは、たとえ「日本にとっての自衛措置」との理由であっても、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を違憲とするものである。「存立危機事態」での「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であり、憲法の枠内ではなく、違憲である。

 よって、論者の「法律が定める内容も、あくまで日本にとっての自衛措置であることが新三要件で明確に示されており、憲法の枠組みを逸脱していない。」との説明も、新三要件の中に「存立危機事態」が含まれていることから、憲法の枠組みを逸脱しているため、誤りである。


 「もっぱら他国防衛を目的としたフル規格の集団的自衛権は行使できないよう歯止めをかけている」との主張があるが、認識に誤りがある。まず、「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使するという意味である。この実質は、国家の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」である。この「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うためには、国際法上『他国からの要請』が必要である。それがなければ、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得られず、違法となってしまうからである。もしこの『他国からの要請』がなければ、違法性が阻却されることはなく違法となるのであるから、「武力の行使」は踏みとどまらなければならないのである。このことから必然的に『他国からの要請』がある時点で、その「武力の行使」は『他国防衛』を含むこととなる。結局、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うのであれば、それは結局『他国防衛』を含むのであり、論者の言う「他国防衛を目的としたフル規格の集団的自衛権は行使できないよう歯止めをかけている」との主張は、論理的に成り立たないのである。


公明が一貫してリード 2015年9月19日


 「自衛の措置(武力行使)の新3要件は、従来の政府の憲法9条解釈の基本的論理を守るよう求めた公明党の主張に基づく。」との説明があるが、誤りである。新3要件の「存立危機事態」の下で行われる「武力の行使」は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠内では説明がつかないからである。よって、新3要件は「従来の政府の憲法9条解釈の基本的論理」は守られていないものである。


 これにより、1972年(昭和47年)政府見解に基づいて形成されてきた「専守防衛」の姿勢についても、1972年(昭和47年)政府見解の枠組みから逸脱する「存立危機事態」での「武力の行使」を許容したことで損なわれている。「専守防衛堅持された」との説明は誤りである。



 「国民の権利が『根底から覆される明白な危険がある』自国防衛の場合に限って自衛権の発動を認めるもので、他国防衛を目的とした集団的自衛権の行使を許していない。」との説明があるが、説明文としては情報が不足している。


 まず、前半「国民の権利が『根底から覆される明白な危険がある』自国防衛の場合に限って自衛権の発動を認める」との説明であるが、9条の制約の下では、『自国防衛』と称するからといって、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の基準である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の規範を満たさない中で行われる「武力の行使」は、たとえ『自国防衛』と称しようとも違憲である。


 次に、後半の「他国防衛を目的とした集団的自衛権の行使を許していない。」について、この説明のみを見れば、正しい主張である。国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という区分にあたる「武力の行使」を行うには、『他国からの要請』が必要であり、必然的にその「武力の行使」は『他国防衛』を目的とする意味が含まれる概念だからである。しかし、論者の言う、『自国防衛』に限る「集団的自衛権」の行使というものは、結局、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる、「他国に対する武力攻撃が発生したこと」を契機とする『自国防衛』と称する「武力の行使」である。これは、9条が『自国防衛』と称して政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を損なっており、違憲となる。

 「自衛措置であることが新三要件で明確に示されており、憲法の枠組みを逸脱していない」との主張であるが、9条は『自国防衛』と称する「自衛措置」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨ではないのであるから、「存立危機事態」での「武力の行使」を許容する新三要件は、憲法の枠組みを逸脱している。論者の主張は論拠がないため、誤りである。


森本敏

〇 拓殖大学総長・元防衛相 森本敏


安保環境の変化に適切に対応 公明がバランス良い法体系に貢献 拓殖大学総長・元防衛相 森本敏 2015年6月10日

安保環境変化に適切対応 拓殖大学特任教授元防衛相 森本敏 2015年6月10日


 「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約を強く主張し、実現させる役割を果たした。」との記載があるが、誤りである。まず、憲法9条は、『自国防衛』であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容しているものではない。なぜならば、自国民の利益や政治的な都合によって政府が「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」を制約するために9条の規定が設けられているからである。次に、国際法上「武力の行使」を行う場合に、「集団的自衛権」の区分の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、『他国からの要請』が必要である。この『他国からの要請』の有無によって、「武力の行使」が国際法上合法となるか否かが決せられるのであるから、必然的にその「武力の行使」は『他国防衛』を意味することとなる。よって、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、「日本の自衛のための武力行使に限る」との主張は、論理的に成り立たない。「日本の自衛のため」と称したところで、結局、『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないのである。さらに1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃」を意味している。よって、これを満たさない中で行われる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、憲法解釈の範囲に収まっていない。論者が「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』」としたところで、それは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした『自国防衛』の「武力の行使」を意味するのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」という「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、それは憲法解釈の範囲に収まっておらず、違憲なのであるから、「実現させる役割を果たした。」との認識は論理矛盾である。「「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約」が「実現」したならば、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は不可能である。逆に、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を可能としたならば、「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約」は実現していないのである。
 この論者は、アメリカが攻撃を受ける場合に日本が迎撃しないと「それは同盟関係ではない」と発言しており、結局『他国防衛』の意図・目的を含むことは明らかである。

   【参考】「それは同盟関係でない」 Twitter

 「『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約を強く主張し、実現させる役割を果たした。」との記載についても、矛盾した発言である。
 「公明党が与党協議などで示した制約が、平和安全法制の法体系をバランスの良いものにしたのであり、現在の法制は従来の憲法解釈の枠を超えるものではないと思う。」との記載があるが、「バランスの良い」も悪いもなく違憲である。「憲法解釈の枠を超えるものではないと思う。」との記載についても、枠を超えるものである。何か、論拠の不備を覆い隠そうとして、「バランスの良い」や「実現させる役割を果たした」「複数の制約要因を設けることができた」などと法律論でない話を持ち出していることはないだろうか。相変わらず、法律論上の正当化論拠にはならない。


森本敏 元防衛相 「沖縄から考える」④ 2015.6.17 (57:15より『武力の行使』の三要件の話)


 (1:02:38)より「同盟っていうものが維持できない、同盟が維持できないことの方がむしろ」と発言している。同盟を維持するための『他国防衛』であることは明らかである。このような『他国防衛』を行う組織を「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲である。また、9条の規定はこのような国際関係や政治的な事情によって政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であることから、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲である。

 (1:04:40)より国会の承認について説明しているが、国会の事前承認や事後承認があったとしても、「存立危機事態」での「武力の行使」そのものが9条に抵触して違憲なのであるから、国会の承認も違憲無効となるため、正当化根拠にはならない。

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 「存立危機事態」における武力行使や「国際平和共同対処事態」における支援活動につき、「国会の事前承認」がうたわれ、あたかもそれが歯止めとなるかのように与党内で宣伝されているが、政府による違憲な行為(集団的自衛権の行使)について、それに承認を与えるような権限は国会に憲法上与えられておらず、国会が事前に承認すること自体が違憲であるといわざるを得ないし、国会の事前承認によって違憲な政府の行為から違憲性が取り除かれるわけではない。
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右崎正博(独協大学法科大学院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日


<理解の補強>


玉川徹 「集団的自衛権でミサイルを迎撃したら日本は自動参戦になる!」森本氏「排除するだけですが…」→ 玉川氏「…」(※動画あり) 2017-08-15


森田実

〇 政治評論家 森田実


9条の精神を生かす 公明の尽力で「専守防衛」へ歯止めかかる 政治評論家 森田実 2015年6月30日

 「平和安全法制は憲法の枠内の法整備であり、」との記載があるが、「存立危機事態」での「武力の行使」については、憲法の枠外であり違憲である。
 「私は公明党の平和主義を信ずる。」との主張であるが、公明党の平和主義を信じたところで、「存立危機事態」での「武力の行使」については憲法上の平和主義とその理念を具体化した9条の規定に抵触し、違憲である。公明党の平和主義と、憲法上の平和主義を混同して議論してはいけない。
 「公明党の努力で集団的自衛権が厳しく制約され、専守防衛が貫かれたことを評価すべきだ。」との記載があるが、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解によって枠づけられた「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中での「武力の行使」を行うものである。これにより、「集団的自衛権(としての『武力の行使』)が厳しく制約され」たところで、違憲であることには変わらないのである。これにより、憲法に違反するのであるから、憲法の精神に則った防衛戦略を意味する「専守防衛」の枠からも必然的に逸脱しており、「貫かれた」との評価は誤りである。


渡部恒雄

〇 東京財団上席研究員 渡部恒雄


憲法9条の精神 公明主張で「専守防衛」の理念堅持 東京財団上席研究員 渡部恒雄 2015年5月25日


 「全ての法律が『専守防衛以上のことはしない』という憲法9条の精神に貫かれている。」との記載があるが、誤りである。まず、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味する。「存立危機事態」での「武力の行使」は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しないものであるから、違憲である。よって、「憲法の精神に則っ」ていない「武力の行使」が含まれた法律が存在することから、「すべての法律が『専守防衛以上のことはしない』という憲法9条の精神に貫かれている。」との主張は成り立たない。
 「日本と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生したときに国民を守るために、ちょうど良いバランスを持つものになった。」との記載があるが、憲法解釈は、「バランス」などという何者かの感覚的な認識によって正当化されるわけではないので、妥当な論旨ではない。
 「今回はあくまで専守防衛を堅持したものだ。」との記載であるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味しており、憲法違反の法律規定が存在する以上は「堅持」されていないのである。


田口聡

〇 公明党 秋田県議会議員 田口聡


「平和安全法制」について PDF

「平和安全法制」について


   【 72 年見解における自衛権 】
 「憲法には自衛権についての記述はなく、」とあるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であるため、憲法上に記述はなくて当然である。憲法上で必要なのは、国家の統治権の『権限』であり、国際法上の『権利』ではないからである。


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また、仮に自衛隊ではなく、自衛権という言葉を書き込むにしたところで、9条2項を維持したうえで自衛権を書き込むところで、自衛権というのは国際法上の観念でありますから、国内法の憲法でいくら主張しても、「そう主張している」というだけの話です。国際法上、黒か白かということは、国際法的な観点から判断されるわけでありますので、非常に据わりの悪いところで議論をしているのだろうなと思います。
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「憲法論議の視点」 第9条 青井未帆・学習院大学教授 井上武史・九州大学准教授 2018年3月12日 (下線・太字は筆者) (P12)


 「72年解釈では、憲法9条と憲法前文『平和的生存権』、憲法13条の『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』から、憲法は自衛権を否定していないことを導き出している。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」と述べており、9条や前文、13条は関係なく、主権国家である以上当然に有していると述べているのである。
 9条と前文、13条が関わる論点は、国権の発動としての「自衛の措置」のことである。この記載は、国際法上の『権利(right)』である「自衛権」と、統治権の『権限(power)』である「自衛の措置」を取り違えている点で間違っているのである。
 1972年(昭和47年)政府見解について、「見解の締めくくりには、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない』としている。 」と記載し、新3要件を示した後に「とあるように、『わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した』事態だけでは武力による自衛権行使は出来ないとなっており、歴代政府が積み重ねてきた憲法解釈は保たれている。」との記載があるが、誤りである。
 まず、1972年(昭和47年)政府見解は、集団的自衛権の行使としての「武力の行使」を禁じる論理として『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする』などという文言によって正当化しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解では、「自衛のための措置」の範囲を「あくまで外国の武力攻撃によって」を満たしていることが必要であり、「自衛のための措置」として「武力行使(武力の行使)」という手段を選択する場合にも、同様に「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことが導かれるとしているのである。このことから、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、この「我が国に対する急迫、不正の侵害」が発生していない中で行われる「武力の行使」であるから、憲法上許されないと述べているのである。論者はあたかも『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする』などという「集団的自衛権」の性質を補足した文言を持ち出し、それが「武力の行使」の基準となっていると読み間違え、反対解釈によって「武力の行使」を正当化できる部分を見出せると考えてしまっている点で誤りである。
 次に、「『わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した』事態だけでは武力による自衛権行使は出来ないとなっており」との説明であるが、「存立危機事態」の要件は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した時点で、後は「これにより」とその影響があるか、「我が国の存立が脅かされ」ているかどうか、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」かどうかを政府が総合判断するとするものである。しかし、これらの要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなり得るものである。9条は政府が政治的事情や国民の権利利益の実現のために自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であるから、このような要件を設定したこと自体が9条の趣旨に抵触して違憲となる。また、曖昧不明確な要件を設定したことは、41条の立法権の趣旨より違憲となる。
 「歴代政府が積み重ねてきた憲法解釈は保たれている」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、「あくまで外国の武力攻撃によって」と示し、「武力の行使」を発動することは、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことを示したものである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであり、「歴代政府が積み上げてきた憲法解釈」では許容されず、違憲となる。よって、「憲法解釈」が保たれているるとは評価することができない。
 「明白な危険」についてであるが、これらの判断を行うとも、結局それらの要件も適用者の恣意性に流れる恐れのあるものであり、実際に恣意に流れているか否かを客観的かつ合理的な基準で判別することができないものである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となることとは別の論点ではあるが、結局「明白な危険」についてもあいまいなものであり、9条の憲法解釈において求められる規範性を損なっているために違憲である。
 「第3要件で『必要最小限度の実力を行使』となっているが、それは『わが国を防衛するための必要最小限度』ということであり、極めて個別的自衛権に近く、」との記載があるが、複数個所の誤りがある。まず、第3要件の「必要最小限度」の意味であるが、これは三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」という「武力の行使」の程度・態様の意味である。それにもかかわらず、「極めて個別的自衛権に近く」などと、国際法上において「個別的自衛権」という『権利』が発生する場合の「自国に対する武力攻撃」という三要件で表現すれば第一要件に該当する「武力の行使」の発動要件の話に飛んでいる。この三要件の第3要件の「必要最小限度」の意味と、「個別的自衛権」の『権利』が発生する場合の第一要件とは意味が異なる。また、「わが国を防衛するための必要最小限度」についても、政府が従来より「我が国を防衛するため必要最小限度」と呼んでいたのは三要件(旧)の全てを指すものであり、第3要件の「必要最小限度」の意味とは異なる。これらを混同している点で誤りである。また、「個別的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、9条が制約しているものは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」である。これらは『権利』と『権限』で性質が異なることに加え、制約の基準もそれぞれ異なるものであるから、「極めて個別的自衛権に近」かろうが遠かろうが、9条が「武力の行使」を行う『権限』を制約している基準に変化はないのである。「存立危機事態」での「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解という「これまで歴代政府」が「積み重ねてきた憲法解釈」に適合しないものであるため、違憲となる。結果として、「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使も合憲となる」との見解を採る余地は存在せず、「これまで歴代政府」が「積み重ねてきた憲法解釈に反して」いることになるのである。

 


浅野善治

〇 大東文化大学法科大学 浅野善治


政策と立法~集団的自衛権の行使と憲法を題材として~ 浅野善治 2016年9月10日


 「これまでの政府の憲法解釈との整合性を保つため、『集団的自衛権は全面的には認めない』『武力行使ができるのは、我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合に限られる』という点を踏まえなければなりません。」との記載があるが、誤りである。これまでの政府解釈である1972年(昭和47年)政府見解には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範を設定したものである。


 そのため、どこからともなく『集団的自衛権は全面的には認めない』や『武力行使ができるのは、我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合に限られる』などという基準が現れていることが、これまでの政府解釈と整合するものではなく誤りである。


 また、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、『集団的自衛権は全面的には認めない』などという、国際法上の『権利』か全面であるとかないとか、そういう論点は9条の下で行使できる国家の統治権の『権限』による「武力の行使」とは関係がないのである。9条解釈という憲法事項に、国際法上の基準を持ち込もうとした点で誤りである。


 さらに、憲法が前文の「平和主義」の理念を具体化した規定として9条を設けている趣旨は、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることや、政治的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約することにある。このことから、いくら「我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合」が発生しようとも、9条は必ずしも「武力の行使」を行って他国に攻撃を与えることを許容するものではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由としたり、「自国民の利益」を実現する動機によって「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験するところであり、そのような政府の行為を禁ずるために9条の規定が設けられているからである。


 よって、9条解釈においては、日本国政府の恣意性を排除することのできる明確な規範を設定することが必要となる。これは、もしその規範を曖昧にしてしまえば、実質的に9条は政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約する規定として機能しなくなり、9条の規定が存立している意味を損ない、憲法解釈として妥当ではなくなってしまうからである。


 1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は、受動的・客観的に明確な「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」に規範を設定しており、我が国政府の恣意が入り込む余地のない受動性や、出来事の有無を誰もが判別できるという客観性や明確性を有する基準となっている。そのことから、先ほど述べた9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約する意図が考慮されており、憲法解釈として妥当であると考えることができる。


 しかし、論者がここで主張している「我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合」という基準は、結局、政府が「自国の状態」を主観的に判断することによってこれに該当するか否かを認定するものとなっている。このような基準に基づいて「武力の行使」を発動できるとするのであれば、結局、「武力の行使」が可能であるか否かは、政府がその事態(自国の状態)をどのように認定するかに委ねられていることとなる。そうなれば当然、政府が「国民の権利利益」を実現や、その時々の政治的な都合、国際関係上の他国からの圧力などを勘案することによってその事態に該当すると認定し、「武力の行使」を行うことが排除されていないこととなる。これは、実際に政府の自国都合の動機によって「武力の行使」が行われているのか、そうでないのかを客観的に識別するための基準となるものがないということであり、9条が政府の自国都合による「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たす規範となるもの有していない。未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「武力の行使」に踏み切るかどうかをその法を適用する者の自由な判断に任せるものであるから、政府の主観的な判断に委ねることとなるのである。


 9条は、まさにこのような政府の自国都合による「武力の行使」を禁ずる趣旨の規定であるから、「我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合」などという理由だけで「武力の行使」を行うことができるとする要件を定めることは9条に抵触して違憲となる。


 もちろん、「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合に、その武力攻撃によっても『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』がない場合には「武力の行使」を行うことができないが、その場合にさらに『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合』にのみ「武力の行使」を可能とするのであれば合憲と解する余地がある。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした後でさらに限定をかけるものであり、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを排除するための基準となる規範を通過した後に、さらに「武力の行使」を制約する趣旨のものだからである。



 「国際情勢の変化や科学技術の進展に伴い日本の国際情勢の危機は非常に変わってきています。」との記載があるが、国際情勢が変化したからと言って、1972年(昭和47年)政府見解の中に含まれる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けられた規範が変わるわけではない。もしこの規範を取り除きたいのであれば、憲法改正によるしか合法的な手段はない。論者の論理によれば、9条の下でも「国際情勢の危機」の変化を理由として「先に攻撃(先制攻撃)」を行うことが許されることとなってしまう点で、憲法解釈における規範の変化を訴える論理としては合理性がない。



 「すると、他国に対する武力攻撃がなされた場合であっても『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が生ずる事態』が想定できるのではないか。そのときに、政府が全く行動しないのか。政府として具体的にそういう事態が起こりうると判断しているにもかかわらず、何ら対策を講じなくてよいというのはあまりに無責任ではないか、とするならば、適切な対処について法定しておく必要があります。」との記載がある。しかし、結局これは「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で、「我が国の存立」や「国民の権利」を実現するために「武力の行使」を行うとするものであるから、自国都合によって「武力の行使」を行うものであり、「先に攻撃(先制攻撃)」である。論者は9条の下で、「先に攻撃(先制攻撃)」を行おうとする主張を行っているものであり、「平和主義」を掲げる日本国憲法の下では到底容認できる論旨ではない。明らかに違憲である。これは、たとえ国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使する条件を満たしているとしても、9条の下では「先に攻撃(先制攻撃)」を行うものである。国際法上の違法性阻却事由を得ることによって国際法上の違法性が阻却されたとしても、9条はこのような「武力の行使」を禁じているため、9条に抵触して違憲であることは変わらないのである。


 「果たして法律そのものが違憲なのか、法律は合憲だとしても運用上に問題が有るのか、それとも政策の当否の問題なのか。」との記載がある。この答えは、①「存立危機事態」での「武力の行使」を定めた法律は違憲である、②法律は違憲であり運用上も違憲である、③政策の当否については法律論としては判断しない、である。



大東文化大学大学院法務研究科教授・浅野善治氏 憲法学者アンケート


 □「まず、自衛権の問題ですが、今回の安全保障法制は、いわゆる集団的自衛権の行使の全てを容認したものではなく、国家の存立危機という事態に対処する自衛権の行使の範囲を整理して法定したものと理解すべきです。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の概念であり、「集団的自衛権の行使」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味するから、実質的には「武力の行使」が行われている状態である。そのため、「いわゆる集団的自衛権の行使の全てを容認したものではなく」と、国際法上の『権利』の概念が「全て」であろうと、「一部」であろうと、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している趣旨は変わらない。そのため、論者が「集団的自衛権の行使」や「自衛権の行使の範囲」と表現しようとも、実質的には「武力の行使」の範囲の問題であり、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している範囲がいかなるものであるかが問題となるものである。国際法上の評価概念である「自衛権の行使」という文言を用い、その実質が「武力の行使」であることを覆い隠すこととなる表現には注意する必要がある。


 □「あたかも憲法解釈を変更して集団的自衛権の行使を容認したかのように捉えられていますが、今回の措置は、これまでの憲法解釈を変更したものではないと考えています。」との記載があるが、誤りである。「これまでの憲法解釈」とは、従来より9条の下では「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)の基準を超える「武力の行使」は全て違憲とされており、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこれを超えることを理由に許されないとされてきた。この三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」については、1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と結論付けている部分に対応するものである。「これまでの憲法解釈」がこの「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに合憲・違憲を見分ける基準を置いており、それにより「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が許されないとしていたのであるから、2014年7月1日閣議決定がこの基準を変更し、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるように変更しようとしていることは、「これまでの憲法解釈」を変更しようとしたものということができる。
 論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとする政府の主張に基づき、この「基本的な論理」と称している部分の規範が変更されていないことを理由に「これまでの憲法解釈を変更したものではない」と考えている可能性があるが、誤った認識である。まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界を示した規範部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明していることを受けた記載された文言であり、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。そのため、この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の中に「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」の意味が含まれるはずがなく、「存立危機事態」の要件はこの「自衛の措置」の限界の規範の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。もし「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範が維持されているのであれば、2014年7月1日閣議決定が結論部分で定めようとしている「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるし、逆に「存立危機事態」での「武力の行使」を定めようとするのであれば、「基本的な論理」と称している部分の規範は損なわれていることとなる。この点は論理的整合性が保たれていないため、どちらかの場合しか存在しない。ただ、法解釈とは論理的整合性の積み重ねの過程によって初めて正当性が生まれるものであり、結論のみを述べるだけで正当化できる性質を有していない。そのため、9条解釈の過程である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の正確な解釈によって、結論部分で「存立危機事態」の要件を定めようとしている論旨を正当化することはできず、「存立危機事態」の要件は違憲・無効となる。これにより、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。
 「これまでの憲法解釈を変更したものではないと考えています。」との部分であるが、正確に考えると、2014年7月1日閣議決定が結論において「存立危機事態」の要件を定めようとしていることは、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超えるものであるため9条に抵触して違憲・無効であり、その意味で「憲法解釈を変更したものではない」と表現できる場合は考えられる。憲法98条には「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と記載されており、9条の規定に反する「国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」からである。つまり、「無効」という意味で、「これまでの憲法解釈を変更したものではない」という意味である。


 □「これまでも憲法は、国家の平和と独立が脅かされる事態における必要最小限度での武力の行使は、憲法上積極的に規定されていないが自衛権の行使として制限されていないと解釈してきています。」との記載があるが、誤りである。
 憲法解釈について、まず砂川判決では「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」として「わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと」と述べ、その具体的手段としては「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げている。砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。
 次に、政府解釈では1972年(昭和47年)政府見解があるが、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない」としながらも、「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」と解し、その限界を「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」と定めている。さらに、この「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選択する場合にも、「自衛の措置」の限界の規範に拘束されるため、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と結論付けている。
 この政府解釈の枠組みは、論者の示すように単に「国家の平和と独立が脅かされる事態における必要最小限度での武力の行使」を許容しているものではない。「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすことを求めるものである。
 「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような政府の行為を制約するために設けられた規定である。そのため、論者のように単に「国家の平和と独立が脅かされる事態」であれば「武力の行使」が可能であると考えることは、9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさないため法解釈として成り立たない。
 これまでの政府見解は論者の言うように「国家の平和と独立が脅かされる事態における必要最小限度での武力の行使」を許容しているというわけではないため、論者が「解釈してきています。」と説明していることは誤りである。
 「武力の行使は、……自衛権の行使として制限されていない」との文面であるが、国際法上の「自衛権の行使」に該当しても、9条の下で許容される「武力の行使」であるか否かは国際法と憲法とで法体系が異なり、憲法規定である9条の制約を国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念を用いることで、国際法上の違法性だけでなく憲法上の違憲性をも阻却しようとしている点で論じ方として適切ではない。


 □「だからこそ、9条1項があっても国家には自衛権がありその行使は許されるとされ、9条2項があっても自衛のための最小限度実力は戦力にあたらないとされています。」との記載があるが、誤りである。たしかに砂川判決では、「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べているため、9条が国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を制約するものではないことはその通りである。しかし、「その行使」となると、通常「武力の行使」が行われる状態を意味するのであり、この「武力の行使」を行うためには国家の統治権の『権力・権限・権能』の裏付けが必要となる。しかし、日本国の場合は9条で「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分について国民主権原理の「厳粛な信託(前文)」の過程でもともと授権されておらず、『権力・権限・権能』が発生していない。そのため、国際法上「自衛権の行使」が許容されているとしても、憲法上の『権力・権限・権能』が存在しないことによって行使できない(行使する機会がない)場合がある。論者の説明では、あたかも国際法上「自衛権」の適用を受ける地位を有していることを根拠として日本国の統治権の『権力・権限・権能』が発生しているかのように論じている部分があるため、誤りである。また、「自衛のための必要最小限度の実力」についても、国際法上の「自衛権」という『権利』を根拠として保持できるようになるわけではなく、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない範囲の統治権(通常は行政権)の『権限』を根拠として保持されているものである。


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従来の政府解釈では、自衛権の行使が容認される場合として「個別的自衛権の行使」の場合であり、「集団的自衛権の行使」は憲法上容認されていないとしてきました。これは、自衛権の行使は、「外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認される」と説明してきたからです。
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との記載があるが、やや誤りがある。
 「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との規範は、日本国の統治権の『権限』が行う「自衛の措置」の限界として示された規範であり、論者の言う国際法上の「自衛権の行使」という表現は正確ではない。また、この「自衛の措置」の限界の規範と「自衛の措置」の選択肢として「武力の行使」を選択した場合の「武力の行使」の限界の規範は同じものであるため、敢えて言うまでもないが、従来より政府が解釈していた論を忠実に表現すれば、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」との規範より「個別的自衛権の行使」としての「武力の行使」は容認されているが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は容認されないとされてきたものである。
 もう一つ、論者が抜き出している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の規範である「外国の武力攻撃によって」とは、「我が国に対する武力攻撃」の意味である。これは、1972年(昭和47年)政府見解が第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明するとしていることを受けたものであり、ここに「集団的自衛権の行使」が可能となる「他国に対する武力攻撃」が含まれるとすると、「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」とする部分と論理矛盾が生じ、法解釈文章として成り立たなくなるからである。


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この説明は、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」は、これまでの国際情勢や科学技術の状況においては、「わが国に対し外国の武力攻撃がなされた場合」つまり個別的自衛権の発動の場合以外には想定できない、ということを前提にしています。しかし、憲法上自衛権の行使として許されるかどうかを理念的に問題とする場合には、「わが国に対し外国の武力攻撃がなされた」かどうかという地理的、物理的な具体的な要素が問題となるのではなく、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」かどうかという実質的な要素が問題とされるべきです。
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 「個別的自衛権の発動の場合」や「憲法上自衛権の行使として許されるかどうか」との文言があるが、これは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念を用いており、それが「武力の行使」であることを覆い隠すこととなっているため、「武力の行使」に置き換えて考える必要がある。
 すると、論者は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」との理由によって「武力の行使」を発動できるはずであると主張しているだけである。しかし、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ったことは歴史上幾度も経験しており、9条はそのような「武力の行使」を制約するための規定である。そのため、単に政府が「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という自国の状態を認定するだけで「武力の行使」が可能であると考えるのであれば、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を満たしておらず、9条の規範性が損なわれることとなり、法解釈として成り立たなくなる。論者は「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」を「実質的な要素」としているが、確かに「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」が発生し、要件上で9条の規範性を通過していたとしても、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」が生じていない場合においては、政府は「実質的な要素」が侵害されていないことを理由に政策判断として「武力の行使」を行わないとすることは可能であると考えられる。しかし、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを排除するために設定されている基準を満たさない中において、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という「実質的な要素」の侵害を理由として「武力の行使」に踏み切ることができるとするのであれば、それは9条が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たしていないのであり、政府の恣意性が入り込む余地が排除できない中における「武力の行使」となるから、9条に抵触すると考えなければならないものである。そうでなければ、9条が存在する意義そのものが失われることとなり、規定の存在を前提としてそれらの趣旨を生かして整合的に解釈を行おうとする法解釈という営みそのものが成り立たなくなるからである。論者のように「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という「実質的な要素」と称するもののみを理由として、その外苑を「受動性」や「客観性」、「明確性」のある枠組みを設定して限界を画することをしないのであれば、それは結局9条が存在しない場合において政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」に踏み切ることができる状態と変わりなく、9条が政府の行為を制約しようとする規範性を有した法規範として扱わないものであり、妥当でない。
 法の支配、立憲主義、法治主義において、特に刑事法の分野においては、当事者がどのような思想を抱いていようとも、また権力を行使することによってある行為を取り締まる立場の者がどのような思想を抱いていたとしても、あらかじめ国民主権を背景とした国民の合意によって法の規範を定め、対象となる行為の外形を客観的に判断することによって規定の適用の可否を決することにより、当事者に一定の行為を抑制させ、また同時に権力の不当な行使を制約しようとすることとなる。
 同様に、9条の規範は国民主権に基づく憲法規定であり、統治権を行使する者がどのような思想を抱いていようとも、あらかじめ合意された規範に従って権力を行使することを求めるものであり、その者の主観的判断によって恣意的な権力行使が行われることを制約しようとするものである。
 このことから、たとえ「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態」という「実質的な要素」と称するものを理由としても、その「実質的な要素」の侵害があるかないかの外形を客観的に判断できる基準となるものが求められる。単に「実質的な要素」の侵害を主張するだけでは、それの侵害を認定する者の主観的判断に流れることを抑止できないか、あるいは主観的判断に流れているのか否かを判別できないものとするのであり、およそ法規範とは呼ぶことができず、9条の制約の趣旨を満たすものとは言えない。
 刑法上において「保護法益」を守るために行為の外形を構成要件として定めるのであり、「保護法益」の侵害やその危険そのものがあることを理由にして構成要件が定められていない中で取り締まりを行うことができるのであれば、それは権力者の恣意によって自由に対象者の罪を作出することができることとなり、法の支配や法治主義の理念そのものが損なわれる事態となる。
 同様に、「実質的な要素」の侵害を名乗るだけでその行為の外形の枠組みを示さないのであれば、権力者の恣意によって自由に「実質的な要素」の侵害を理由としていつでも「武力の行使」に踏み切れることとなるのであり、それらを制約しようとした9条の規定の背景にある法の支配や立憲主義、法治主義の理念そのものが損なわれることとなる。
 論者の「実質的な要素」との主張は、法解釈として成り立たない。

 

 中国の立法の例を参考に考える。


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正式名称「中華人民共和国香港特別行政区維持国家安全法」の最大の特徴は、基本法23条に基づく「国家安全条例」と同じように、拡大解釈ができる、いかようにでも解釈できる……と、どんな表現でも構わないが、権力側が犯罪の線引きができる点だ。

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権力側が犯罪を線引きできる「香港国家安全維持法」は、外国人にも適用 2020.07.09


 □「近年のわが国を巡る国際情勢の変化や科学技術の進展などにより、『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態』は個別的自衛権の行使の場合に限られない状況となっています。」との記載があるが、「個別的自衛権の行使の場合に限られない状況」の表現は国際法上の『権利』の概念であるため、「武力の行使」に置き換えて考える必要がある。そうなれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす「武力の行使」の場合に限られない状況ということになる。しかし、これは単に論者は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」を行う必要があると述べているだけであり、相手国との間では日本国が先に「武力の行使」に踏み切るものとなるため、9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となる。また、このような「武力の行使」は2項後段が禁じる「交戦権」に抵触して違憲となる。それらを行使する組織についても、2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。
 論者は「個別的自衛権の行使」という表現を用いることで、あたかも国際法上で違法性が阻却される正当性を強調しているようである。しかし、そもそも国連憲章が廃止されたり、改正された場合には「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分も失われ得るものであり、もともと法体系が異なる日本国憲法は国連憲章の改廃に左右されずに独立した効力を有している。国際法上の違法性阻却事由の『権利』を得たからと言って、憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している範囲が変わるわけではない。「個別的自衛権の行使」という違法性が阻却される区分の用語を用いることであたかも正当性があるかのように主張しようとしているのかもしれないが、実質的には単なる「武力の行使」が行われている状態であることを押さえる必要がある。9条の論点は、その「武力の行使」をいかなる場合に発動できるか否かに集約されている。


 □「そこでこうした実質的な要素から自衛権の行使が容認される場合を整理したのが今回の安全保障法制だといえます。」との記載があるが、先ほども述べたように「実質的な要素」のみを理由としてその外形を枠づける規範が存在しないのであるから、法規範として成り立っておらず、9条解釈として妥当でない。それにより、「実質的な要素」を理由として行われる「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となる。「自衛権の行使が容認される場合」との記載もあるが、単に「実質的な要素」を理由として「武力の行使」を行おうとしているだけである。「容認される場合」と、9条の下で「容認される」かのような前提で話を進めているが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規定であり、「実質的な要素」を理由とする「武力の行使」は政府の恣意性が入る余地を排除できていないのであり、9条の趣旨に反し、9条に抵触して違憲となるため、「容認」されない。「容認される場合を整理した」と述べるだけで9条の制約を免れることができるのであれば、実質的に「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」であっても同様に「容認される場合を整理した」と述べるだけで可能となってしまうのであり、法解釈として適切ではない。法解釈の過程において、「容認される場合」などと既に「容認される」という結論を持ち出して説明しようとしている点が誤りである。法解釈とは結論に至るまでの過程(プロセス)の積み重ねによって正当化されるのであり、結論を述べるだけで正当化できるわけではないのである。


 □「以上のような観点からは、今回の措置は憲法解釈を変更するものではなく、従来の憲法解釈を維持しつつ、この解釈による具体的事象へのあてはめを整理し、十全な自衛権行使のための整備を行ったものだということになります。」との記載があるが、誤りである。
 まず、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持していると主張するのであれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られていることから、ここに「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。それにより、「存立危機事態」での「武力の行使」は「基本的な論理」と称している部分の枠を超え、9条に抵触して違憲となる。
 「この解釈による具体的事象への当てはめを整理し、」とあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分は「自衛の措置」の限界の規範が示されいるものであり、1972年(昭和47年)政府見解の論理展開は、この「自衛の措置」の限界の規範の中に「武力の行使」を当てはめるとしても同様の規範に拘束されることとなる旨が記載されたものである。これは文面上の論理展開であるから、「近年のわが国を巡る国際情勢の変化や科学技術の進展など」という事象が当てはまるという性質を有していない。そのため、「具体的な事象への当てはめ」などという事象が当てはまる性質を有していない。
 「十全な自衛権行使のための整備を行ったもの」との記載もあるが、「十全」と称する「武力の行使」の整備を行ったというだけである。「存立危機事態」の要件は1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠の中に当てはまらず、「存立危機事態」での「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。


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憲法はその対象とする国家社会が存在するからこそ存在意義があります。その国家社会が存在しなくなれば、その憲法が定める憲法秩序を維持することもできなくなります。国家の存立が脅かされる事態に対し、国家を守るために真に必要な措置であれば、それは憲法秩序を守るために必要な措置でもあり、憲法がそのような措置を認めない(違憲)とすることは自己矛盾であり、あり得ないことということになります。
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 「憲法はその対象とする国家社会が存在するからこそ存在意義があります。」との主張であるが、政策的な必要性があれば憲法改正によって行うしか合法的な手段はないのであり、「存在意義」などという抽象的で主観的な観念によって予め合意された規範を踏み越えることは、違法と言わざるを得ない。
 「国家を守るために真に必要な措置」との記載があるが、国家権力の行為は憲法によって予め決められた範囲でしか権力行使を許されていないのであり、その範囲で措置を行う必要がある。何が「真に必要な措置」であるかは、個々人の感じ方の中において様々であり、憲法によって国家権力の行使を信託された国民の代表者が「真に必要な措置」を理由に憲法上の規範や法律上の規範を踏み越える形で権力を行使することは、違憲・違法となる。「真に必要な措置」であることを理由として憲法上の規範や法律上の規範を踏み越えても違憲・違法とならないとの論理は、刑法上では「正当行為」や「正当防衛」、「緊急避難」などの違法性阻却事由として認められる場合や、「国家緊急権」の行使として超法規的な措置を行った場合に、裁判所の司法審査の過程においてその違法性が阻却されるとするものである。それにもかかわらず、予め定められた憲法上の規範の枠を超える形で「行政権」や「立法権」が行使され、閣議決定や法律が作られ、それに基づいた措置を行うということは、「真に必要な措置」であるとの主観的な判断によっても正当化されるものではない。
 「憲法秩序を守るために必要な措置」との部分であるが、これは「憲法保障」の論点であるが、論者のように憲法上の規定を踏み越える形で法律を立法したり、措置を行ったりすることは、「憲法保障」という意味での「憲法秩序を守るために必要な措置」として、81条の「違憲審査制」、98条の「憲法の最高法規性の宣言」、99条の「公務員等の憲法尊重擁護義務」によって排除されることとなる。超法規的憲法保障としての国民による「抵抗権」も考えられる。「憲法秩序を守るために必要な措置」の一つとして学問上「国家緊急権」として正当化される場合が考えられるとしても、これは事後的保障手段であることから今回のように憲法規範を踏み越える形で予め閣議決定や法律を作ることはできないし、「国家緊急権」の行使として国家権力が行った措置の違法性の有無は事後的に裁判所で審査される中において判断されることとなるのであり、閣議決定や法律の立法によって正当化できる性質を有しない。
 「憲法がそのような措置を認めない(違憲)とすることは自己矛盾であり、あり得ないこと」との記載があるが、政策上の必要性があるのであれば、それは憲法改正によって行う必要があるのであり、憲法を踏み越える形で下位の法令を定めることはできない。憲法が「憲法に違反する下位の法令」を認めることは、憲法が最高法規であるとの位置を占めることができなくなるため、自己矛盾であり、あり得ないことである。「そのような措置」が刑法上の違法性阻却事由に該当する場合など、裁判所の司法審査の中で違法性が阻却される場合があるとしても、法令そのものを憲法に違反する形で定めることは法の支配、立憲主義、法治主義、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、31条の「適正手続きの保障」の趣旨、「デュー・プロセス・オブ・ロー」の趣旨などに反し、違憲・違法となる。
 「その国家社会が存在しなくなれば、その憲法が定める憲法秩序を維持することもできなくなります。国家の存立が脅かされる事態に対し、国家を守るために真に必要な措置であれば、それは憲法秩序を守るために必要な措置でもあり、憲法がそのような措置を認めない(違憲)とすることは自己矛盾であり、あり得ないこと」という全体の論旨であるが、歴史上「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合による「武力の行使」に踏み切ることは幾度も経験しており、9条はそのような「武力の行使」を制約するために設けられた規定であることから、「国家の存立が脅かされる事態」などという主張によって9条の規範を踏み越えることが直ちに正当化されることはなく、9条の規範性を損なうことにより9条に抵触して違憲となる。もし9条の下でも「国家の存立が脅かされる事態」などという抽象的な事態を認定するだけで「武力の行使」ができるとするのであれば、「先に攻撃(先制攻撃)」や「侵略戦争」を行っても同様に「国家の存立が脅かされる事態」を主張することで9条に抵触しないとすることができるのであり、法解釈として成り立たない。


 □「今回の安全保障法制についても、真に国家の存立を守るために必要な範囲に留まっている限りにおいては、違憲ではないと考えます。」との記載があるが誤った認識である。従来より「真に国家の存立を守るために必要な範囲に留まっている限り」であるか否かの基準を「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに設定しており、この基準によって政府の自由な行為を制約する意図を生かすことで9条の規範性を保っていたのである。しかし、その基準を踏み越える形で、「国家の存立が脅かされる事態」などという抽象的な危機感を理由として「武力の行使」を行うことが許されるとするのであれば、実質的には政府の行為の限界を客観的な基準によって画するものは存在しないこととなる。そうなれば、「国家の存立が脅かされる事態」と政府が主観的に判断することのみによって「武力の行使」に踏み切ることができるのであり、9条が政府の行為を法規範によって制約しようとした趣旨が生かされず、9条の規範性が損なわれたこととなる。「真に国家の存立を守るために必要な範囲に留まっている限り」であるか否かを枠づける客観的な規範を設けることなく、「真に国家の存立を守るために必要な範囲に留まっている限り」を理由として憲法に違反しないとの主張は、憲法規定との矛盾抵触の限界を枠づけない主張であり、憲法規定の規範性を損なうために違憲となる。


 □「しかし、どのようなものが真に国家の存立を守るために必要な措置かという点は法文上からは必ずしも明確に読み取れるわけではありません。誰がどのような基準で判断すべきか、その限界はどのようなものか、その判断を誤った場合にはどのような措置が取られるべきか、国会で十分に議論し明確にしておくことが重要なのではないかと考えます。」との記載があるが、おおよそその通りである。
 「存立危機事態」の要件は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という文言があり、「真に国家の存立を守るために必要な措置かという点」を「法文上からは必ずしも明確に読み取れるわけでは」ない。そのため、「誰がどのような基準で判断すべきか、その限界はどのようなものか、」を識別するための基準が存在しないことから、すでに9条の規範性を損なうものであり、違憲となるものである。「その判断を誤った場合にはどのような措置が取られるべきか、」との部分についても、もともと曖昧不明確な要件であるから、「その判断を誤った場合」であるか否かを識別するための基準を示すところがなく、そのような要件に従って「武力の行使」を行うこと自体が、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした9条の趣旨を損なっており、9条に抵触して違憲となる。
 「国会で十分に議論し明確にしておくことが重要なのではないか」との部分について、法律の内容が曖昧不明確な要件であることは、41条の立法権の趣旨や31条の「適正手続きの保障」の趣旨より既に違憲と見なす必要があるものであり、「国会で十分に議論し明確に」したところで、そこで示された明確な基準が法律の規定となっていないのであれば違憲となることは変わらない。なぜならば、法律規定としていないのであれば、「適法・違法」の判断によって政府の行為を制約できないのであり、その実質は「当・不当」という政策判断となってしまうからである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として国家が政策の手段として「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨であり、このような政策論上の「当・不当」の判断によって「武力の行使」に踏み切ることができる状態にあることそのものが9条1項の禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」に抵触して違憲となるのである。「国会で十分に議論し明確にしておく」としても、その議論によって立法される法律の内容の規範が政府の行為を制約する意図を果たす十分に明確なものであることが求められるのであり、法律の内容の規範の意味が曖昧不明確なものとなっているのであれば、それ自体で9条の趣旨に反して違憲である。


 □「自衛権の行使の限界、平和への貢献活動の限界について憲法9条から一義的に明確にすることは困難ではないかと思います。」との記載があるが、確かに9条解釈にはいくつかのルートがあり、そのどのルートを選択するかによって限界は変化しうると考えられるものである。しかし、9条の文言から一義的に明確な規範を見出せない場合には、法解釈によって9条の趣旨を生かす形で規範を設定する必要があるのであり、その際に9条の趣旨を損なうような規範を設けることは、その時点で9条に抵触すると考えなければならないものである。なぜならば、そのように解しなければ9条が存在する意義そのものを損ない、法の支配、立憲主義、法治主義の理念に基づく法解釈の手続きとして妥当性を失うからである。9条の文言から一義的に明確な規範を見出せないとしても、それを理由として曖昧不明確な要件を設定することで国家権力の行使できる範囲を画する基準を曖昧なものにすることが許されるわけではない。「憲法9条から一義的に明確にすることは困難ではないか」という疑問を理由として曖昧不明確な要件に基づく「武力の行使」が正当化されるとする主張は法解釈として成り立たず、その「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


   【参考】テレ朝「報道ステーション」で安保法制を合憲とした浅野善治大東文化大教授 ~ 意味不明な憲法論議 2015-06-18


<参考>


浅野善治(大東文化大学大学院) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日



山下輝男

〇 山下輝男


平和安全法制論議に異議あり!(憲法違反問題に関連して) 山下輝男 2015年 6月29日


   【3 憲法違反との指摘に対する首相の反論】
 「安倍晋三首相は、6月26日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、」として述べられている砂川判決のは、「自衛のための措置」として「武力の行使」が可能であるか否かについては何も述べていない。砂川判決が認めている「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。「裁判官河村大助の補足意見」では、「永世中立主義を採用」の方法が挙げられているが、やはり「武力の行使」については述べていない。
 政府がこの「自衛のための措置」の中に「武力の行使」が含まれると解釈しているのは、1972年(昭和47年)政府見解である。
 よって、砂川判決にいう「自衛のための措置(自衛の措置)」の中に、集団的自衛権の限定容認が合憲である根拠執り得る」などという主張は、判断されていない以上根拠とならないのであるから、誤りである。また、ここにいう「集団的自衛権」の行使の意味は、結局「武力の行使」を意味するのである。この「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(急迫不正の侵害)」の要件を満たさない中で行わる「自衛のための措置」としての「武力の行使」を排除しているのであるから、この要件を満たさない「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は違憲となり、行使することはできない。
 これにより、「(砂川)判決の範囲内だ」との主張に根拠はなく、判決の内容を読み誤ったものである。また、憲法解釈を最終的に確定する権能を有する機関が最高裁判所であることは確かであるが、有権解釈としては合憲性を担保せねばならず、行政権が解釈を行う際にも正確な論拠に基づく必要があり、解釈の過程を誤ってはならない。そのため、論拠を最高裁判所に丸投げするかのような主張は、行政権としての解釈を放棄する姿勢が表れていると考えられ、自説を正当化することはできない。


   【4 幾つかの論点】
(1) 「国連憲章も対日平和条約も疑いなく集団的自衛権を認めている」との記載であるが、当然である。国際法上の『権利』である「集団的自衛権」については、日本も有しているのである。「国家固有の自然権」との考え方も、国際社会から国家承認を受けて国家として成立していれば、「集団的自衛権」がその中に入るかどうかは議論のある所であるが、少なくとも「個別的自衛権」としての「自衛権」という『権利』については当然に有することとなると考えられる。
 しかし、論点はその国際法上「自衛権」を行使する際に行われる活動は「武力の行使」である。9条は、この「武力の行使」を行う日本国の統治権の『権限』を制約しているのである。
 「国家固有の自然権とも云うべきものを禁じるということが果たして現実的なのか、あり得ることなのか?」との記載があるが、9条は国際法上の『権利』を禁じているわけではなく、国内法上の統治権の『権限』を制約しているものであるから、誤った認識からくる誤解である。
 「国連加盟国のうち、国連憲章で認められた自衛権を、個別的とか集団的とか区別している国はほとんどない。」との記載であるが、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別しなければ、国際法上の違法性阻却事由を得ることができず、「武力不行使原則(国連憲章2条4項)」に抵触して違憲となる。そのため、どの国連加盟国も「個別的自衛権」や「集団的自衛権」については区別している。ただ、論者の言いたいであろう「武力の行使」を憲法上で制約している国家というのは、ほとんどないということは確かである。多くの国は、「武力の行使」を行う『権限』については制約がないため、統治権としては無制限だからである。

(2) 9条について、「集団的自衛権を禁するとの文言はない。」との記載であるが、当然である。「集団的自衛権」とは国際法上の「武力不行使原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であり、憲法上に書き込んでも、国際法上の効力は生まれないからである。憲法が制約しているのは「武力の行使」の『権限』であり、「自衛権」という『権利』ではないのである。
 憲法9条について、「自衛権を放棄したとは明言していない。」との説明であるが、その通りである。「自衛権」という『権利』については、有しているのである。しかし、その後、「従って、自衛権を行使するための組織としての自衛隊は合憲であるということにもなる。」との説明をしている点は誤りである。なぜならば、「自衛権を行使」するためには、国家の統治権の『権限』が必要であり、実質的には「武力の行使」を意味する。この「武力の行使」の『権限』を制約されているのであるから、『権利』を有していることをもって、直ちに『権限』を有することとはならず、直接敵に自衛隊が合憲であるとの結論には至らないからである。
 砂川判決は「自衛権」を持つことを示したが、それを行使する際の「自衛のための措置」としては「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を許容しているだけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないのである。

(3) 「我が国が自衛権を有することを認めた画期的な判決であり、それが個別とか集団的とか区分もしていないことから、今般の集団的自衛権の行使容認の有力な根拠足り得ると考えるべき」との主張であるが、相変わらず「自衛権」を有しても、『権限』がなければ国家行為ができないのである。よって、「集団的自衛権の行使容認の有力な根拠」とはならない。

(4) 「如何なる自衛の措置を取るかは、…政策判断であると云える。」との記載であるが、その「政策判断」は合法的な範囲内で行う必要がある。そのため、法解釈として違憲となる「自衛の措置」を執ることを政策判断として行うのであれば、それは憲法改正によるしかない。
 「いかなる措置を取るかは国家・国民が決めるべきこと」との記載もあるが、憲法は長期的な視野を持った国民の意思が定めた法である。この制約は「国民が決めるべきこと」として設けられているのであるから、一時期の民意の多数派によって、勝手に憲法の制約を超えていいわけではない。一時期の民意の多数派のみを正当化根拠とする論旨は、そもそも憲法を制定して国家を形成し、法の支配を実現しようという営みそのものを否定する暴挙である。

(5) 「必要最小限度という意味は、安全保障環境との関係で変化するものである。」との記載があるが、誤りである。まず、論者は「自衛権の行使」が一般に「武力の行使」を伴うことを捉えることができていない。9条の下で行使可能な「武力の行使」の幅は、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分の基準によっては左右されない。
 政府が従来より「必要最小限度」という言葉を使って説明していたものは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を意味する。この三要件(旧)の第一要件は、1972年(昭和47年)政府見解が「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と示している部分と対応するものである。これは法規範であることから、「安全保障環境の変化」によって変わるわけではない。
 「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かに線を引いたものであるから、「情勢が変化」してもそれに応じて変わるわけではない。
 「現下の情勢に対応するには集団的自衛権行使にまで踏み切らざるを得ない。」との記載があるが、政策論として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、法律論としては憲法改正を必要とする。
 「本来は解釈の問題ではなく国策選択の問題である筈だ。政府も苦しいのだろう。」との説明であるが、「国策選択」として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行おうとするのであれば、合法的なやり方として憲法改正が必要である。


   【5 終わりに】
 「常識的な判断こそ重視されるべきである。」との記載があるが、法律論上の常識としては、違憲に行き着くからこそ、多くの憲法学者は違憲と指摘しているのである。論者の常識の基準はどこを軸にしているのかを明らかにし、それを実現する合法的な方法を探ることが「常識」としての共通項となるはずである。このプロセスを怠ると、違憲違法となるからである。


西川佳秀

〇 東洋大学教授・平和政策研究所上席客員研究員 西川佳秀


日本の安全保障政策を考える―基本政策の理解と論点整理・再考― 東洋大学教授・平和政策研究所上席客員研究員 西川佳秀 2019年1月23日


   【はじめに】

   【1.日本国憲法の解釈と自衛隊】

 「自衛権の発動要件」との文言が出てくるが、この中で使われている「自衛権」の文言には注意が必要である。従来政府は「自衛権発動の要件」と表現してきたが、この「自衛権」という用語は国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である。「不戦条約」や国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって「武力の行使」が禁じられている中で、違法性が阻却される「武力の行使」のことを「自衛権の発動」と呼んでいたのである。その「自衛権」という『権利』が行使される状態とは、実質的には、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われているのである。その「武力の行使」が行われている状態を、国際法の違法性阻却事由の区分で「自衛権の発動」と表現していたのである。
 しかし、憲法9条が「武力の行使」を制約する趣旨を理解する際に、憲法とは法体系が異なる国際法上の違法性阻却事由の概念が持ち出されることは、混乱を招くことがあるため、注意が必要である。
 この記事でも、この「自衛権」の概念を不明確な理解のままに用いているため、法的な正当性を描き出すことができていない点が見受けられる。詳しく確認していこう。


      (1)自衛権の容認と発動要件

 「第9条は2つの項で構成されており、それぞれ第1項が戦争放棄を、第2項が戦力の不保持を規定している。」との記載があるが、情報が不足している。2項の後段では「交戦権の否認」を規定していることを忘れないようにしたい。
 主権国家が国際法上の「自衛権」を持つことは確かであり、日本国も「自衛権」を有する。しかし、「日本国憲法はその発動に一定の制限を設けているというのが政府の立場である。」というのは、やや理解が不十分である。従来政府は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の発動について、国際法上の「自衛権」の概念を用いて「自衛権発動」と呼んでいたため、あたかも9条が「自衛権」という国際法上の概念を制約しているかのような誤解を生んでいるが、これは誤った理解である。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのであり、国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を制約しているわけではないのである。「日本国憲法はその発動に一定の制限を設けている」との理解は、憲法9条が「武力の行使」を制約することから付随的に現れた認識でしかないのである。この点の理解が不十分なままだと、法的な正当性を描き出すことができなくなるため、十分に注意したい。


         ①第1項の解釈

 「第1項に関する最大の争点は、放棄を定めている『戦争』に自国防衛のための武力行使が含まれるか否かということである。」との議論の設定があるが、この議論の設定は、9条1項の下で「武力の行使」ができる部分を見出した時に、「それは『自国防衛のための武力行使』であるから合憲なのだ」との認識を意図的に導き、あたかも2014年7月1日閣議決定によって設けられた「存立危機事態での武力の行使(集団的自衛権の行使に該当するもの)」の目的が『自国防衛』であるために、9条1項に抵触しないかのような結論を生み出そうとしている部分が感じられるため、注意が必要である。9条1項の解釈によって「武力の行使」が可能な部分が見いだせるとしても、それは「『自国防衛』であるか否か」がそのまま合憲・違憲の判断基準となるわけではないのである。この点に法解釈として論理の甘さが存在する。
 「政府の解釈によれば、『国権』を『発動』するとは国の権利として利益を追求すること、すなわち国益を追求することを意味する。」との記載があるが、出典を示していただきたい。『国権』を『発動』するとは、日本国の統治権の行使を意味するのであり、「国の権利として利益を追求すること」「国益を追求すること」などという認識は直接導かれないものである。政府の解釈がそのように示しているかのように記載しているが、正確なものであるのか疑わしい。
 「そのため、国際法を範とする政府としては日本も集団的自衛権を保持することに不自然さはない。また、近年中国との間に抱える尖閣諸島問題や北朝鮮のミサイル問題などに対応するため自衛隊と米軍の連携強化が不可欠となっている。そのため、第二次安倍政権により憲法解釈が変更され、憲法上集団的自衛権も一部行使可能となった。」との記載があるが、曖昧で法論理としては耐え得る内容ではない。まず、国際法上の「集団的自衛権」という概念は日本国にも適用されることが前提であり、9条においても『権利』そのものは禁じられていない。そのため、日本国も「集団的自衛権」を有するのである。「保持することに不自然さはない。」との認識は、正しいものである。しかし、法学上の論理の話で、なぜ「中国」や「北朝鮮」との間の問題が持ち出されているのか意味が分からない。政策論上の必要性と、法律上(法学上)の正当性の有無は論点が別である。政策上の必要性があるならば、それは法律上の正当性を有する合法的な形で行わなければならないのであり、政策上の必要性があるからと言って、法律上の合法・違法が変化するわけではないのである。「そのため、第二次安倍政権により憲法解釈が変更され、憲法上集団的自衛権も一部行使可能となった。」との認識があるが、今まで9条1項の法解釈の議論を持ち出すなどしていたにもかかわらず、この9条1項の下で「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能かどうかという議論が持ち出されず、「可能となった。」などと過去形で表現することで、あたかも憲法上合憲であるかのような結論に導くことは、法解釈として成り立っていない。過去形で表現したならば違憲のものが合憲化するわけではないのである。法解釈として成り立っていないのである。違憲審査にはいくつかのアプローチがあるが、2014年7月1日閣議決定は、その閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解によって、違憲となる。「集団的自衛権の一部行使」との表現であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部」や「全部」などという概念は国際法上存在しない。また、国際法上の評価である「自衛権の行使」の意味は、実質的に国家の統治権による「武力の行使」であり、「一部」などと称したところで、「武力の行使」でしかないのである。この「武力の行使」は9条が制約しているのであるから、9条に抵触するものは違憲、抵触しないものは合憲との基準が存在するだけである。「集団的自衛権」の「一部」であるから合憲となり得る余地があるかのような議論に持ち込もうとするような表現には注意が必要である。
 「このように、政府の解釈によれば我が国は個別的自衛権と一部の集団的自衛権を有し、憲法上自衛のために武力を行使することが可能となっている。」との記載があるが、この内容自体は正しい。日本国も「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものは有しているし、憲法上の制約の中であれば、「武力を行使することが可能」であるからである。しかし、この意味するところが「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能であるかのように表現しようとしているのであれば、それは誤りである。2014年7月1日閣議決定は論理的整合性がなく、法律上の正当性を導き出すことができていないため、「存立危機事態」での「武力の行使」は違憲となるからである。


         ②第2項の解釈
 2項解釈の話で、「政府の解釈では、『前項の目的』とは第1項が禁じている国際問題における武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」との記載があるが、出典を示されたい。砂川判決では「戦力」を保持しない理由は1項の「侵略戦争」を放棄する趣旨から来たものである旨を述べているが、政府は「第1項が禁じている国際問題における武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」などとは述べていないと思われる。また、この説明の「武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」の部分は、「1項の禁じた侵略戦争のための戦力は保持できないが、自衛戦争のための戦力は保持できる。」との芦田修正説に繋がる論理を含んでいるものである。しかし、政府は芦田修正説を採用していないのであるから、このような1項と関連付けて「戦力」説明することは政府解釈とは異なると思われる。
 その後、「一方、自衛のための必要最小限度の武力は第2項が禁止する戦力にあたらず、自衛隊は合憲と解釈されている。」との記載もあるが、何も「一方、」ではなく、政府は「自衛のための必要最小限度の実力」を保有できるとしている。注意したいのは、この「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の内容については、「自衛のための必要最小限度」である必要があり、この意味するところは、旧三要件を満たした中で「武力の行使」を行う際に利用される実力(組織)であることである。この旧三要件を満たした中での「武力の行使」を行う組織であれば、9条2項の「戦力」にも該当しないととの基準によって制約されていたのである。ただ、2014年7月1日閣議決定後において、政府は新三要件を設けたが、この説明は論理破綻していくことになる。


         ③自衛権発動の3要件

 「表1-2」の内容は誤っている。

 表の上部に「集団的自衛権なし」「集団的自衛権あり」との記載があるが、国際法上日本国は「集団的自衛権」という『権利』そのものは有しているのである。よって、日本国に主権が存在する以上、国連憲章の適用においては常に「集団的自衛権あり」である。「なし」との表記は正確ではない。
 また、「集団的自衛権にあたる武力の行使がなし」「集団的自衛権にあたる武力の行使があり」との表現ならば正しい。この点も、誤解を招かないためには省略した表現をするべきではない。


 旧三要件は、下記である。この要件はむやみに省略して表現するべできない。
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① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
衆議院議員森清君提出憲法第九条の解釈に関する質問に対する答弁書 昭和60年9月27日


 新三要件は、下記である。

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・わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
・これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
憲法と自衛権 防衛省・自衛隊


 また、この「表1-2」において横軸「条件1」・縦軸「集団的自衛権あり」に該当する新三要件の第一要件であるが、内容が誤っている。まず、新三要件は「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」と「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」の二つのパーツで構成されている。そのため、この「表1-2」のように「『我が国』、または『我が国と密接な関係にある他国』」などという区分けがされているわけではない。
 この意味するところを理解するためには、「存立危機事態」の定義を押さえる必要がある。


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(定義)
第二条 この法律(第一号に掲げる用語にあっては、第四号及び第八号ハ(1)を除く。)において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。
二 武力攻撃事態 武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいう。
三 武力攻撃予測事態 武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう。
四 存立危機事態 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。
(以下略)
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武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律


 2014年7月1日閣議決定の中でも、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、」との表現を用いており、新三要件の第一要件のパーツの区分けがこの記事の「表1-2」とは異なることが理解できる。


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こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について 国家安全保障会議決定  閣議決定 平成26年7月1日


 この「表1-2」では、「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」に対しても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明確な危険があること」が入り込んでいるが、誤りなのである。

 また、この表の横軸「条件2」・縦軸「集団的自衛権あり」については、「他に適当な手段なし」との記載があるが、誤りである。新三要件の第二要件とは「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」である。この要件は、正確に示す必要がある。省略したり、書き換えては駄目である。

 「武力行使が自衛権の行使と認められるためには3つの要件を満たす必要がある。」との記載があるが、誤りである。「自衛権の行使」とは国際法上の評価概念であり、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する「自衛権」という違法性阻却事由に該当することを認められるかどうかは、国際法上の「必要性・均衡性」の基準を満たす必要があるのであり、「3つの要件」という憲法上の制約からくるの三要件の基準とは関係がないからである。従来、政府自身もこの点は正確に区別して論じていなかったため、学習者を混乱させている点であるが、「自衛権の行使」という国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」の基準と、憲法9条の下で許容される「武力の行使」の基準は別物である。憲法9条の下で許容される「武力の行使」については、国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」を「自衛権の行使」という『権利』から表現する適格な言葉が存在しないことを理解する必要がある。9条の下で許容される日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について、以前「自衛行動権」という言葉が使われていた時期があったが、どうやらあまり浸透しなかったようである。「自衛の措置」という言葉についても、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」も含む概念であるため、必ずしも「武力の行使」そのものと正確に一致するわけではない。
 「第一の要件は、我が国に対して急迫不正の侵略があり、国家の存立と国民の生命・自由・幸福追求権に深刻な危険が及ぶ状況が発生していることである。」との記載があるが、正確には誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解においては、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との表現があるため、確かに「外国の武力攻撃によつて」我が国に対して「急迫、不正の事態」があり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という状況が発生している必要があることを示している。しかし、第一要件は旧三要件においては「我が国に対する急迫不正の侵害があること」であり、新三要件においては「わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」である。要件は正確に記載する必要がある。
 「第二次安倍政権によって集団的自衛権が合憲とされたことにともない、我が国と密接な関係がある他国への侵略があった場合も発動要件をみたすこととなった。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものは、日本国はもともと有しているのであり、憲法9条も否定していない。つまり、「集団的自衛権」という『権利』そのものは、憲法上で矛盾抵触がないのであるから、合憲違憲という話にならないのであるが、敢えていうならば合憲である。もともと合憲なのである。第二次安倍政権の2014年7月1日閣議決定で示されたのは、「存立危機事態」での「武力の行使」を可能とすることである。これが、国際法上では「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」である旨が示されたのである。しかし、この「存立危機事態」での「武力の行使」については、政府自身が2014年7月1日閣議決定の中で前提として用いている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。
 「第二の要件は武力行使以外に侵略を退ける手段がないことである。」との記載があるが、旧三要件についてはおおよそ正しいが、新三要件にについては誤りである。旧三要件は、「これを排除するために他の適当な手段がないこと」であり、新三要件は「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」である。
 「第三の要件」のそのものの意味については特に間違いはない。

 「この第三の要件は自衛隊の存在に法的根拠を与えるものであるが、同時にその権限と行動に制約を課すものでもある。」との記載があるが、誤りである。まず、従来政府は自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と分類し、その「自衛のための必要最小限度の実力の行使」とは、旧三要件を満たすことを意味していた。つまり、旧三要件の第一要件、第二要件、第三要件のすべてを満たすことによって、「武力の行使」の発動や態様が画されており、そのための「実力組織」であれば2項の「戦力」に抵触しないとしていたのである。論者は「第三の要件は自衛隊の存在に法的根拠を与えるもの」と認識しているが、「自衛隊の存在に法的根拠を与え」ていたのは、旧三要件の第一要件、第二要件、第三要件のすべてである。第三要件のみが「自衛隊の存在に法的根拠を与えるもの」との認識は誤りである。
 その後「自衛権」との比較であるが、日本国は「武力の行使」の発動要件についても「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす必要があることから「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」ができないなど、国際法よりも厳しい要件である。あたかも「武力の行使」の程度・態様についてのみ一般国際法よりも厳しく、「武力の行使」の発動要件において「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能であるかのような前提で話を進めている点には注意する必要がある。


      (2)自衛隊の権限
         ①自衛隊は軍隊か

 「自衛隊の設置を明記した『第9条の2』を付け加えて合憲とする意向である。」との記載があるが、正確なものではない。まず、自衛隊は旧三要件によって制約されている部分については1972年(昭和47年)政府見解から見ても合憲であるが、「存立危機事態」での「武力の行使」を含む新三要件による活動を行う部分については法解釈の論理的整合性がないため違憲である。「合憲とする意向である。」との表現は、論者自身も違憲であるとの認識を有していることになるが、論者の他の主張によれば、「存立危機事態」での「武力の行使」が可能である旨を当然のように述べている点で整合性がない。筆者がこの記事は合憲論を基に議論を進めていると考えていることが誤りなのだろうか。

         ②自衛隊の行動範囲


   【2.自衛力の限界】

 「自衛権の保有と並んで議論になってきたのは、自衛隊はどのような兵器を持ちうるかということである。」との記載があるが、「自衛権」ではなく、「自衛力」の誤りである。「自衛権」という国際法上の『権利』そのものは、主権国家として当然に有しているのであり、問題になっていないからである。


   【3.専守防衛】


   【4.非核三原則】


   【5.その他の諸問題】
      (1)自衛隊の権限規定の在り方
 「通常、国家の軍隊がとり得る行動は法律で禁じられた行為以外のすべてである。」との記載があるが、日本国は「法律による行政の原理」を採用しており、行政機関が活動するためには通常法律の根拠を必要とする。自衛隊についても、「行政機関」に該当し、この原理が適用されている。


      (2)武力行使と武器の使用
 「自衛隊が他国の領内で武力行使を行うことは自衛権の範囲を越えるとして認められていない。」との記載があるが、誤りである。海外派兵が許されないのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超えるもの」と考えられているからであり、「自衛権の範囲を越える」などという国際法上の「自衛権」という『権利』の概念が基準となっているわけではないからである。また、「自衛のための必要最小限度」とは、旧三要件のすべてを満たすことを意味しているものである。海外派兵については、一般にこの旧三要件を満たす「武力の行使」とは言えないことにより、憲法上許されないとされてきたのである。


      (3)自衛隊の統合問題
      (4)情報・時空戦力の不備
      (5)武器の開発・国産化体制の問題
      (6)自衛隊と米軍の関係

   【おわりに】


棟居快行

〇 専修大学 棟居快行

安保法制論議など~冷静と情熱~ 2016年4月16日


 「政府がそれまでの解釈を変えたこと自体が違憲になるとか、法的安定性を害する、というのはどこから出てくる理屈なのか。」との記載があるが、論者は2014年7月1日閣議決定の中に手続き上の不正があり、論理的整合性が保たれておらず、「適正手続きの保障」の観点から違法であることを理解していない。


 「法解釈の枠のなかであれば、A説からB説に解釈変更をすること自体は(遡及的効力を除けば)法的には問題なく、あとは裁量権行使の「当否」、つまり政治責任の問題にすぎません。」との記載があるが、「A説からB説に解釈変更をする」という内容が「法解釈の枠のなか」であればいいのであるが、2014年7月1日閣議決定には手続き上の不正があり、政府自身の選択する1972年政府見解という違憲審査基準によって違憲となる。論理的整合性が保たれていない法解釈は、「裁量権行使」についても違法である。これは法的責任の問題であり、「政治責任の問題」に留まらない。


 「しかし個別的自衛権は認められるから、自衛隊は合憲である」との記載があるが、誤りである。自衛隊は憲法上許容される「自衛のための必要最小限度の実力」であるから合憲と解釈されているのであり、国際法上の「個別的自衛権」が認められることとは関係がないからである。


 「要するに、『個別的自衛権に限りOK』という結論が9条の文言から論理的に出てくるわけではないのに、自衛隊を合憲とするために、わざと集団的自衛権と言うカードを捨てて(そちらに観客の目線を誘導しておいて)、自衛隊合憲を認められやすくするというパフォーマンスを行っていました。」との記載があるが、誤りである。政府は「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という国際法上の区分に応じて線引きをしているわけではないからである。1972年(昭和47年)政府見解に記載されている通り、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とするところで線引きされているのであり、これが国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」のどの区分に該当するかという問題は、この線引きから来る付随的な問題でしかないものである。そのため、「自衛隊を合憲とするために、わざと集団的自衛権と言うカードを捨てて」などということによって判断されているわけではない。
 「この政府側の9条解釈は、『自衛隊の合憲性をもっともらしく説明せよ』というお題を内閣に振られた内閣法制局が、役人仕事としてひねり出した労作です。」との記載があるが、9条を有する日本国は他国が行使できる「個別的自衛権」の範囲よりも狭い範囲の「武力の行使」に限られるのであり、「集団的自衛権」の区分の「武力の行使」だけを積極的に排除しているわけではなく、「個別的自衛権」の区分の「武力の行使」に関しても行使できない部分が存在しており、従来の内閣法制局は憲法解釈上の手続きに従って説明していただけである。


 「つまり、「方程式『y=f(x)』そのものは変えていないが、当てはめる数字『x』が変わったことで、出てくる答え『y』が変わった」という、極めて高度なごまかしです。」との記載があるが、法解釈においていくつかのルートが存在する場合、そのいずれのルートを採用するかは変化することがあるものの、選択したルートの中での規範が国際情勢の変化によって変わるわけではない。そのため、論者は「方程式『y=f(x)』そのものは変えていないが、当てはめる数字『x』が変わった」と説明しようとするが、そもそも解釈のルート(論者の言おうとしている『方程式』)は変化することがあるものの、解釈のルートの中での規範は変わらないのである。論者の論理であれば、「当てはめる数字『x』が変わった」ことにより、9条の下でも侵略戦争が肯定されることになるから、たとえ話としてもあり得ず、妥当な認識とは言えない。


 芦田修正論について、「『日本の安全と関係のない国際紛争の解決手段としての力の行使はダメだ』と言っているだけで、第三国の手助けをする場合であっても、それが日本の固有の自衛の為と言うことであれば、必要最小限の実力に限定されるとしても実力行使自体は構わない、ということになりえます。との記載があるが、誤りである。芦田修正論を採用しても、「第三国の手助けをする場合」の「武力の行使」が必ず許容されるとは限らないからである。これは、「日本の固有の自衛の為と言うこと」であったとしても同じである。「『日本の安全と関係のない国際紛争の解決手段としての力の行使はダメだ』と言っているだけ」との記載もあるが、芦田修正論を採用しても9条解釈においてそのような規範が導かれるわけではない。


 「(この点が担保できないのなら、憲法上は可能でも政治判断として海外派遣すべきではありません)」との記載もあるが、憲法上不可能であり、政治判断が入る余地がない。


 「芦田修正的に9条を読めば、その時々の国際政治の情勢が日本の安全保障に直接どういう意味を持つのかが、安保法制が合憲か違憲かの判断にとって重要になります。」との記載があるが、誤りである。芦田修正論を採用しても、国際政治情勢の変化によって法規範の基準が揺らぐと考えることは法解釈として妥当でない。また、芦田修正論を採用しても憲法上の『権限』の幅は憲法解釈によって導かれるのであり、国際法上の違法性阻却事由である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」をすべて行うことができるという性質のものではない。


 「法律の文言よりも、将来のその都度の国際情勢における運用によって是々非々を論じるべきだ、ということになるのです。」との記載があるが、芦田修正論を採用しても法の規範は国際情勢の変化によって変わることが前提となるわけではない。「ということになるのです。」との記載があるが、ならない。


 ウォルター・バジョットは、国家制度のうち王室や貴族院は「尊厳的部分」であり、庶民院や内閣は「機能的部分」と言っているが、論者のように「個人の尊厳」が「尊厳的部分」と述べているかどうかは覚えがない。9条についても「尊厳的な何かを達成するための法的な手段だという考えです。」としているが、ウォルター・バジョットの話に照らして、本当にそうなるのだろうか。


 「芦田修正なら自衛隊も全否定はされませんが、他人のケンカに介入するような運用は間違ってもできません。 」との記載があるが、芦田修正論を採用しても「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」が必ずしも可能となるわけではないし、1972年(昭和47年)政府見解の解釈においても「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」が可能となるわけではないのであるから、「芦田修正なら」として芦田修正論を強調することに何かしらの意義が見出されるとは思われない。


 「学者の役割はあくまで議論の場の設定と分析であり、」との記載があるが、論者も学者であると思われるが、「分析」が誤っている。


<法学部140回連続講演 第89回講演記録>政府の憲法解釈雑考(講演,専修大学神田校舎,2018年5月15日) 棟居快行 専修大学リポジトリ


 P44~45で、「実のところ内閣が行う憲法解釈は,文理解釈の枠の中で複数の選択肢から一つのAという解釈を選んでいる(その際に政治決断を行っている)にもかかわらず,あたかもそれが唯一の正解であるかのように内閣法制局に法理論的な説明を用意させることで,Aを選択したことの政治的な説明責任(対国会・対国民)を回避し,法解釈の衣に逃げ込んできた。 」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 法解釈において、ABCとのいくつかの解釈の選択肢があり、そのどれを選ぶかは政治責任であることは確かである。
 しかし、9条解釈においては、芦田修正説を採用し、「自衛のための戦力」を保持できるとの最も限定性の低い解釈を行っても、9条1項が「不戦条約」と同様の趣旨であり、「不戦条約」の下でも行使できた「自衛権」の範囲とは、国連憲章51条でいう「個別的自衛権」の区分であることから、9条1項の制約の下にある「自衛のための戦力」は、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を実施することはできない。
 よって、2014年7月1日閣議決定の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を結論として許容しようとしている部分は、9条1項に抵触して違憲である。
 また、2014年7月1日閣議決定は、9条解釈の前提として1972年(昭和47年)政府見解の一部分を抜き出し、それを「基本的な論理」と名付けた上で、その「基本的な論理」の中に「存立危機事態」が含まれると主張して「存立危機事態」に基づく「武力の行使」を許容しようとするものである。
 しかし、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と名付けた部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」と記載されている部分は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味するものであるから、「存立危機事態」の要件の「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」が含まれることはない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と名付けた部分に「存立危機事態」の要件があてはまることはなく、「存立危機事態」に基づく「武力の行使」は政府自身の示す違憲審査基準によって違憲となる。2014年7月1日閣議決定は、解釈の手続きを誤ったものである。
 9条解釈の枠組みを考えると、論者の「あたかもそれが唯一の正解であるかのように内閣法制局に法理論的な説明を用意させることで,Aを選択したことの政治的な説明責任(対国会・対国民)を回避し,法解釈の衣に逃げ込んできた。」との見方をしたとしても、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」や「存立危機事態」での「武力の行使」を正当化する9条解釈が別に存在するわけではない。


 P45で、「これは9条についての文理解釈の枠内で複数の解釈が成り立つことと,そのうちの一つを内閣が政治決断によって選んでいることをカモフラージュしてきた可能性があるということである。」との記載があるが、9条解釈の枠組みを考えれば、「カモフラージュ」しようがしまいが、「個別的自衛権」に基づく「武力の行使」を「自衛のための戦力」によって最大限に行うか、「個別的自衛権」に基づく「武力の行使」であっても「自衛のための必要最小限度の実力(組織)」によって「必要最小限度」の枠内で行うか、国際法上では「個別的自衛権の行使」と見なされうるが国内法上は刑法上の「正当防衛」に基づく「実力行使」を行うかの選択肢しかない。そのため、今まで「カモフラージュ」してきたからといって、解釈変更すれば「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能であるかのように考えている論旨は9条解釈の枠組みを理解していない誤りである。


 P45で、「7. 1閣議決定による解釈変更が,かりに9条の文理解釈の枠のなかでの,Aという解釈(個別的自衛権行使のみが許されるという解釈)からBという解釈(一部集団的自衛権行使も許されるという解釈)への変更なのであれば,それは内閣の政治責任の下で許された解釈変更ということになりうる。」との認識であるが、確かに9条解釈の枠内のものであれば、内閣の政治責任の下で許された解釈変更ということができる。しかし、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は、9条解釈の枠内では導き出すことができない。また、「存立危機事態」での「武力の行使」についても同様である。また、2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と名付けている部分に「存立危機事態」の要件があてはまると主張しているが、論理的にあてはまらないため手続き上の違法がある。これにより、内閣の政治責任の下で許される解釈変更ということができず、9条に抵触して違憲となる。


 P45で、1972年(昭和47年)政府見解を抜き出し、「〔③〕そうだとすれば,……いわゆる集団的自衛権の行使は,憲法上許されないといわざるを得ない。」と、記載しているが、論者が「……」でごまかしている部分に論点がある。「……」の部分は、「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする」と記載されている。
 このように、1972年(昭和47年)政府見解が「集団的自衛権の行使」を憲法上許されないと導かれるのは、9条の下で許される「武力の行使」が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことによるものである。論者は意図的に1972年(昭和47年)政府見解の論理を省略しているように見受けられる。


 P46で、「すなわち,前記の『基本的論理』という規範命題の今日の国際情勢への当てはめの結果として,集団的自衛権一部容認が正当化されるという結論を引き出した。 」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味する規範であるため、「存立危機事態」の要件である「わが国と密接な関係にある他国」をここに「当てはめ」ることができない。そのため、「当てはめの結果として」として、結果が存在するかのように主張しているが、論理的整合性がなく、手続きに瑕疵がある。論理的整合性が存在しない解釈は正当化することができないのであり、「存立危機事態」での「武力の行使」は政府自身の採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分によって違憲となる。


 P46で、「さきの昭和47年政府見解は,実際には枕詞として付されたにすぎない『基本的な論理』とされる部分(①②)と,集団的自衛権の否定という結論(③)を一体として捉え, その全体を9条の唯一の正しい文理解釈であるかのように見せかけていた。したがって,これはこれで政治決断をカモフラージュするという問題を抱えていた。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 「集団的自衛権の否定という結論(③)」が導き出される理由は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分が「自衛の措置」の限度を示したものであり、そこから導き出される「武力の行使」の限度が「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことによるものである。
 ここに「カモフラージュ」など存在しておらず、ただの「自衛の措置」の限度と「武力の行使」の限度を論理的な繋がりをもって示しただけである。この論理展開は政治決断ではない。問題も抱えていない。
 論者が混乱していると思われる点は、「集団的自衛権の行使」とは、「武力の行使」によって行われることである。この「武力の行使」を制約している規定が9条なのであり、9条は「集団的自衛権」という『権利』そのものを直接制約していないのである。


 「そして,『基本的な論理』(①②)を,時代を超えて常に成立する方程式 y=f(x)として捉え」との記載があるが、「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分は「『我が国に対する』外国の武力攻撃」を意味するから、「結論部分」として「存立危機事態」の要件がここに当てはまることはない。


 「事実認定がすべて内閣の専権事項にされることになる。」との記載については、全くその通りである。


 「その結果,『必要最小限度の実力行使』という要件(これは47年政府見解においては集団的自衛権行使の否定を意味していた)が法的な歯止めとしては機能しなくなる。」との記載があるが、誤りがある。
 1972年(昭和47年)政府見解の「必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との部分は、旧3要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものであり、発動した「武力の行使」の程度・態様を意味するものである。
 「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を否定するのは、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさないことによるものであり、1972年(昭和47年)政府見解の文言では「自衛の措置」について述べた「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分、「武力の行使」について述べた「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」の部分である。
 混乱しやすいが、従来政府答弁で「自衛のための必要最小限度の実力行使」と表現している部分は、旧三要件をすべて満たす「武力の行使」を意味していたことも押さえておく必要がある。


 P47で、「個別的自衛権だから合憲,限定的集団的自衛権だから違憲という定型的な議論にはならない。」との記載があるが、誤りである。
 まず、9条は「武力の行使」に対する制約であり、「自衛権」それ自体を制約していない。
 次に、1972年(昭和47年)政府見解が導き出している規範性は、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことによるものであり、「個別的自衛権だから合憲,限定的集団的自衛権だから違憲」という基準で合憲・違憲を判断しているわけではない。
 さらに、政府答弁でも「ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておる(昭和56年6月3日 法務委員会)」と述べているように、「個別的自衛権」の範囲であるからと言って、必ずしも「武力の行使」が合憲となるわけではない。


 芦田修正説を採用しても、9条1項の制約は「不戦条約」と同趣旨であり、許容される「武力の行使」の幅は国連憲章51条の区分で言えば「個別的自衛権」の範囲に限られる。よって、「集団的自衛権行使の歯止め」を芦田修正説によって果たさせることは、「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」ができないことは確かであるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が可能な上に歯止めをかけるような議論にはならない。また、芦田修正説よりも1972年(昭和47年)政府見解の方が「武力の行使」の程度・態様が「戦力」に抵触しない範囲であることを求めるのであって、抑制的であるということができる。論者の芦田修正説への希望は、論者の意図を達成するものであるとは言えない。



東裕


〇 日本大学 東裕


憲法の効力と解釈に関する一考察 -占領・独立・憲法事実- 東裕 PDF


 P58で、「平和条約」を出して「ここに明らかなように、日本国の領域内における『日本国民の完全な主権』が認められたことによって、国内的意味での主権である最高の統治権が占領軍から日本国民の手に戻り、国際法上の主権国として固有の個別的自衛権と集団的自衛権の保有が承認されたのである。」との記載があるが、誤りがある。まず、「国際法上の主権国として固有の個別的自衛権と集団的自衛権」とは、国連憲章51条の概念であり、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である。この『権利』の保有(適用を受ける地位を有すること)が国際法上で認められたとしても、日本国憲法の統治権の『権力・権限・権能』の幅は憲法上の範囲に限られるのであり、関係がない。よって、日本国の統治権の『権限』の中に「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という名前の『権限』が発生するかのように説明することは誤りである。論者は『権』の文字が、『権利』を意味する場合と『権力・権限・権能』を意味する場合があることを区別して理解していないため、混乱が見られる。また、国際法と憲法(国内法)の法分野の違いも押さえる必要がある。
 P59で、条約について「自衛のための武力行使については何らの言及もなかった。つまり、独立主権国家に固有の個別的・集団的自衛権が承認された結果、自衛のための限定的な武力行使は当然認められるところであったと解される。」との記載があるが、誤りである。まず、先ほども述べたように「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、国家の統治権の『権限』とは異なる。そのため、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を国際法上で認められていたとしても、国家の統治権の『権限』は憲法で定められるのであり、関係がない。「自衛のための武力行使については何らの言及もなかった。」との記載も、条約で何らの言及がなかったということは、条約上の問題であり、憲法上の統治権の『権限』の存否の問題ではない。「自衛のための限定的な武力行使は当然認められるところであったと解される。」について、「武力の行使」を行っても条約上では特に違法性を問われることはないと考えられる。しかし、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行った場合、9条で禁じられた「武力の行使」に該当して違憲となる場合は考えられる。これは法分野が異なるのであり、条約で違法性を問われないからといって、憲法違反にならないというわけでもない。
 P59で、「しかし、それと同時に、国際法的には主権独立国家として、固有の個別的・集団的自衛権の保有が承認されたことから、占領下とは異なり、個別にあるいは他国と共同して国家の安全保障を確保する手段を独自に選択する資格を回復したことに留意しなければならない。これは、日本国憲法の前提たる憲法事実の重大な変化であり、その変化は占領下における憲法解釈とは異なる新たな憲法解釈を必要かつ相当なものとする事実の変化でもあった。」との記載があるが、誤りが含まれる。前半について、国際法上は日本国も「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有していることは確かである。国際法上「国家の安全保障を確保する手段を独自に選択する資格を回復」しているのである。しかし、これが日本国憲法という国内法の解釈に直接影響を与えるものではない。国連憲章が改正されたり、廃止されたとしても、日本国の統治権の『権限』の範囲は変わらないのであり、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているか否かは、憲法解釈に影響を与えないのである。よって、「新たな憲法解釈を必要かつ相当なものとする事実の変化」が生まれるわけではない。
 P60で、「ところが、さらに理論的にみるならば、平和条約の発効によってわが国は主権独立国となり固有の個別的・集団的自衛権が承認された時点で、主権独立国としての固有の自衛権を実効的なものにする手段の保持と行使を阻害する憲法条項は無効と見なされるべきだったのではないだろうか。」との記載があるが、この見解は国際法上の『権利』と憲法上の統治権の『権限』の違いを理解しておらず、国際法上の「自衛権」という『権利』を有した時点で統治権に『権限』が発生すると考えている点で誤っている。また、「個別的・集団的自衛権が承認された」としても、日本国の統治権の『権限』の範囲は変わらない。さらに、「武力の行使」の「手段の保持と行使を阻害する憲法条項は無効と見なされるべき」との認識には、『権利』と『権限』の違いを理解しない上に、国際法優位説に基づくものであり、国家の主権(最高独立性)を損なうことから妥当でない。また、この認識が誤っていることにより、直前のP59の後半の「吉田茂首相答弁」と「第4次吉田内閣の統一見解」を取り上げて「解釈の変更とみることができる。」と考えている部分も誤っている。この部分は他にも、吉田茂首相のこの答弁の意味は、後に「自衛戦争」放棄の趣旨であると修正する答弁があるため、現在でもその趣旨は引き継がれており、後に解釈変更がなされているわけではない。また、そもそも吉田茂首相答弁は9条2項の前段の「戦力」と後段の「交戦権」の部分を同時に取り上げているにもかかわらず、「第4次吉田内閣の統一見解」は9条2項前段の「戦力」の説明しかしていないのであり、対応関係にもない。そのため、これを勝手に「解釈変更と見なすことができる。」と評価することも誤りである。
 P60で、「国家の独立・主権を維持するための戦力の保持と行使の権利は、国家固有の自存権に由来するものとして憲法典の条文をもってしても否定したり放棄したりできないものであり、それが否定され、あるいは放棄されているとされたのは、わが国のおかれた状態が、主権を失い、独立国家ではなかったという憲法事実に支えられていたからにほかならない。」との記載があるが、誤りがある。まず、「国家の独立・主権を維持するための戦力の保持と行使の権利」についてであるが、国際法上の『権利』は有していても、日本国の統治権の『権限』においては9条の制約がある。「国家固有の自存権に由来するもの」というものは、国際法上の『権利』としては意味が通るが、憲法上の統治権の『権限』の範囲は憲法の規定で定められるのであり、国際法上の『権利』があることを理由に統治権の『権限』が発生するかのように考えている部分が誤りである。「憲法典の条文をもってしても否定したり放棄したりできないものであり」との部分について、国際法上の『権利』としてはその通りであるが、統治権の『権限』の範囲は憲法の条文をもってして「否定」したり「放棄」したりすることが可能である。論者は国際法上の『権利』と憲法上の統治権の『権限』の違いを理解していない。



宮家邦彦


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○宮家参考人 私は、集団的自衛権の問題は、憲法の改正によってそれを明確に確認するということはベストだと思っております。しかし、憲法の改正がなければそれが行使できないということではないと思います。憲法ではなくて、これは国家として持っている権利でございます。
 今までは、ある意味で、戦後、日本が自己規制を強めていた。行き過ぎたとは言いませんけれども、自己規制が強かった部分、その自己規制を緩めることは可能であり、それは、決して今までの過去の運用が間違っていたということではないと思っております。


【筆者】

 「集団的自衛権」について、「憲法の改正がなければそれが行使できないということではないと思います。憲法ではなくて、これは国家として持っている権利でございます。」との発言があるが、正確に理解する必要がある。

 まず、「集団的自衛権」とは国連憲章51条に記載された国際法上の主体(法主体)である国連加盟国に認められた『権利』である。これは、国家が自国の統治権の『権限』に基づいて「武力の行使」を発動した場合、国連憲章2条4項が「武力不行使の原則」を定めていることにより違法性を問われるところを、一定の要件に適合した場合にその国際法上の違法性を阻却することのできる地位である。日本国は主権国家として国家承認を得ていることから、この「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しており、国際法上は他国と同様にこの『権利』を行使することが可能である。

 しかし、「集団的自衛権の行使」が行われる事態とは、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味することから、実質的に「武力の行使」が行われている状態を意味する。

 日本国憲法9条は、「集団的自衛権」という『権利』そのものや、その『権利の行使』を直接制約するものではないが、日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」を制約している。この「武力の行使」の制約範囲は、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うことはすべて違憲とするものである。

 国際法上の評価でいう「集団的自衛権の行使」とは、自国に対する直接の武力攻撃がないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであることから、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」の要件を満たさない。これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、9条に抵触して違憲となるため、日本国の統治権の『権限』によって行うことはできない。

 論者が「これは国家として持っている権利でございます。」と表現している部分は、国際法上の主体(法主体)である国家が有している『権利』であるという意味ではその通りである。しかし、国家の統治権の中に、この国際法上の『権利』を行使するための『権力・権限・権能』が含まれているか否かは、各国の憲法上で『権力・権限・権能』が存在するか否かの問題である。国際法上の『権利』の適用を受ける地位を「持っている」か否かと、国家が統治権の『権力・権限・権能』を「持っている」か否かは意味が異なり、それぞれ国際法と憲法で別の法体系に属する問題である。

 この点を押さえると、論者が「憲法の改正がなければそれが行使できないということではないと思います。」としているところについて、日本国も国際法上では「集団的自衛権の行使」を行うことができる地位を有しているとしても、憲法上では9条が存在しており1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によって「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」がすべて違憲とされていることから、日本国の統治権の『権限』がこの要件を満たさない「集団的自衛権の行使」として「武力の行使」を行うことはできないのであり、「憲法の改正がなければそれが行使できない」こととなる。これを「行使できないということではないと思います。」としている部分については、国際法上で『権利』を行使できることと、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約していることを区別できていない混乱した主張と思われる。


 「今までは、ある意味で、戦後、日本が自己規制を強めていた。」や「その自己規制を緩めることは可能であり、」との発言があるが、9条は「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の概念を制約する規定ではない。また、「自己規制」との部分について、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する意味と考えることもできるが、これは憲法解釈によって行われている部分である。この憲法解釈の内容は論理的整合性が保たれている必要があり、論理的整合性が保たれている中においては、9条の制約を緩めることも可能であるが、論理的整合性が保たれていない中で9条の制約を「緩める」ことは法解釈として不可能である。

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第183回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号 平成25年5月28日

 


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○参考人(宮家邦彦君) 宮家邦彦でございます。
(略1)
 冒頭申し上げたとおり、彼らは、日本国憲法の下で日本への武力行使の着手がない段階での武力行使は違憲だと、日本への武力行使の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上集団的自衛権の行使として正当化されるとしても、日本国憲法に反するのだと、こういう御説明をされるそうです。
 しかし、このような、私に言わせれば、二十世紀の戦争概念に基づく解釈が今もまかり通っていること自体、若干不思議でございます。残念ながら、良きにつけ悪きにつけ、二十一世紀の戦争概念というのは、今までの伝統的な概念を超えて、宇宙にもサイバーにも広がっております。このようなことは最低限御理解をいただきたい、知っていてほしいことだと私は思いました。
(略2)
 私は憲法学者じゃございません。どちらかというと現実主義的な元行政官にすぎません。しかし、私はこう信じています。憲法があるから国家があるのではありません。国家を守るために憲法があるのだと理解しています。
 戦争の形態が根本的に変化した二十一世紀、憲法学者はなおまだ古い憲法の解釈に固執をする。しかし、それでもし逆に国が守れなくなっているんだとすれば、それはいかがなものか。どうしてこの矛盾にお気付きにならないのか、私はどうしても理解ができません。
 さらに、ある憲法学者は、存立危機事態条項それ自体、憲法九条違反である前に、そもそも漠然として不明確で違憲であるという議論もあります。実に乱暴な議論だと思います。さきにも述べましたとおり、世界の主要国の安保法制というのはネガリストでできているんです。このような形で明確な定義をしていない場合は少なくありません。それでは、その定義がないことが違憲になるんでしょうか。私は、断じてそうではないと思っています。
(略3)

【動画】神回!!【国会】宮家邦彦参考人がなぜ安保法案が必要なのか完璧に説明!! 平成27年9月8日
【動画】宮家邦彦 国会参考人 名演説!安保法案に賛成する理由を反対意見を踏まえて説明!人集団的自衛権 自衛隊 日本国憲法 憲法9条についても熱弁!面白い国会中継

【動画】宮家邦彦が安保法案反対派を完全に論破する「国を守るために憲法があるんだ」(国会中継・参考人 宮家邦彦)【政治のお話ch 】

【筆者】

 「彼らは、日本国憲法の下で日本への武力行使の着手がない段階での武力行使は違憲だと、日本への武力行使の着手に至る前の武力行使は、たとえ国際法上集団的自衛権の行使として正当化されるとしても、日本国憲法に反するのだと、こういう御説明をされるそうです。」との発言があるが、その通りである。9条の下では日本国の統治権の『権限』によって「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を行うことや、「陸海空軍その他の戦力」の保持、「交戦権」の行使が禁じられており、これに抵触しない中で「武力の行使」を実施しようとすると、「我が国に対する武力攻撃(我が国に対する急迫不正の侵害)」の『着手』がある場合に、それを排除するための「武力の行使」が許容されるにとどまるからである。これは、もし「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「武力の行使」を行った場合、9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」や、9条2項後段の禁じる「交戦権」に抵触して違憲となるからである。また、9条1項が禁じている部分の「武力の行使」を実施する実力組織は、当然9条2項前段が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。また、「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を実施することは、9条1項、2項前段、2項後段の規定が有する規範性を通過していない中で「武力の行使」を行うことになるから、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」、2項後段の「交戦権」のすべてに抵触して違憲となる。さらに、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するために「武力の行使」を実施することは、『他国防衛』の意図・目的を有するのであり、それを実施する実力組織を「陸海空軍その他の戦力」とは区別された異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるのである。

 これにより、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』がない段階で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となる。そして、国際法上「集団的自衛権の行使」として違法性が阻却される「武力の行使」であったとしても、「集団的自衛権」が「我が国に対する武力攻撃」を満たさない中で行う『権利』の行使である以上、日本国の統治権の『権限』がこれに基づく「武力の行使」を実施することはできない。

 注意したいのは、たとえ「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められたとしても、それを「排除」するために「武力の行使」以外の他の方法をとり得る場合に、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことは9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」、9条2項後段の「交戦権」に抵触して違憲となることである。また、「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められ、それを「排除」するために他に取りうる手段がなく、「武力の行使」を発動した場合であっても、その「武力の行使」の程度・態様がその「我が国に対する武力攻撃」を「排除」するための「必要最小限度」の範囲を超えていた場合には、やはり9条1項が禁じる「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」、2項前段の「陸海空軍その他の戦力」、9条2項後段の「交戦権」に抵触して違憲となることである。「我が国に対する武力攻撃」の『着手』が認められたとしても、そこで行われる「武力の行使」が全て合憲となるわけではないことを押さえる必要がある。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件

① 我が国に対する急迫不正の侵害があること  ← (発動要件が緩和されたら9条に抵触)

② これを排除するために他の適当な手段がないこと  ← (他の手段があれば9条に抵触)

③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと   ← (とどまらなければ9条に抵触)

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 論者はこれを「二十世紀の戦争概念に基づく解釈が今もまかり通っていること自体、若干不思議でございます。」と疑問に感じ、否定しようとしていると思われるが、これは法解釈であり、政策論ではないため日本国の統治権の『権限』が行うことのできる「武力の行使」の幅が限られているとしても、その態様が「二十世紀の戦争概念」であるか否かという問題とは関係がない。そのため、「二十世紀の戦争概念に基づく解釈」であるとの話は、意味が通じない。また、論者が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の発動要件や程度・態様が「二十世紀の戦争概念」であるとして不足していると考えるのであれば、9条を改正する適正な手段を採用する必要がある。9条を改正しないにもかかわらず、論者が「二十世紀の戦争概念」であるとの認識のみによって法解釈の適正な手続きを無視することによって9条の下で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができるかのように論じようとしているのであれば、誤りである。

 (略2)の省略している部分であるが、「集団的自衛権」と「集団安全保障」に対する否定的イメージがあるのではないかとの話は、法律論ではないためここでは論じない。

 「憲法があるから国家があるのではありません。国家を守るために憲法があるのだと理解しています。」との発言があるが、法学的には誤りと考える。まず、国家は一定の地域の主権を持つ人々が憲法を制定することによって初めて成立する。そのため、憲法がなければ国家は存在しない。「憲法があるから国家があるのではありません。」との発言は誤りと考えられる。また、「国家を守るために憲法がある」との部分であるが、近代立憲主義に基づく憲法は「権利章典」と「統治機構」を定めており、この統治機構によって「国家を守る」という政策を採用する場合にも、憲法の範囲内で行う必要がある。憲法に基づいて政策を実行しなければならないにもかかわらず、政策の一つである「国家を守るため」を実現するために「憲法がある」との認識は、誤りである。「国家を守るため」の方法は、憲法の範囲内で法律を定めることによって実現する問題である。また、もし憲法の範囲内では政策の目的を達成することができないと考えるのであれば、それは憲法改正を行うことによって対応するべき問題である。これを行わずに憲法に違反する形で法律を定めたり、政策を実行することはできない。


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憲法が定める、この枠組と道筋が満足できないのであれば憲法を改正するのが正当であり、改正の余地が認められている以上、日本国憲法は「不磨の大典」ではないし、憲法が国家を危うくする、といった議論は憲法の初歩を知らない。
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山口大学経済学部教授・立山紘毅氏  憲法学者アンケート調査


 「戦争の形態が根本的に変化した二十一世紀、憲法学者はなおまだ古い憲法の解釈に固執をする。」との発言があるが、憲法の解釈は法規範の問題であり、「戦争の形態が根本的に変化」したとしても法規範の有する趣旨は変わらない。もし規範を変更したいのであれば、憲法改正の手段がある。また、「古い憲法解釈」との部分であるが、もともと「二十世紀の戦争概念」に基づいて法解釈をしていたという事実が認められず、「古い憲法解釈」とは言えないし、固執もしていない。

 「しかし、それでもし逆に国が守れなくなっているんだとすれば、それはいかがなものか。どうしてこの矛盾にお気付きにならないのか、私はどうしても理解ができません。」との発言があるが、憲法の規定の範囲では「国が守れなくなっている」と考え、「国を守る」という目的を達成するために現在の憲法の範囲を超える政策を実行したいのであれば、それは憲法改正によって対応するべき問題である。それをしないのであれば、結果として論者の主張は、自己の支持する政策目的を実現するために法を無視することを提案していることになると思われる。日本国が法の支配を採用する国家である以上は、このような主張を採用することはできないと考える。

 「存立危機事態条項それ自体、憲法九条違反である前に、そもそも漠然として不明確で違憲であるという議論もあります。実に乱暴な議論だと思います。」との発言がある。しかし、漠然とした曖昧不明確な規定に基づいて「武力の行使」が発動できる場合、9条の規定が有している政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約しようとした趣旨を満たさない。そのため、「武力の行使」の発動に関する規定を曖昧不明確な形で定めることは、9条の規範性を損なうのであり、9条に抵触して違憲となる。もしそう考えないのであれば、9条という規定が存在する事実を無視したことになるから、論理的整合性や体系的整合性を保つことが求められる法解釈として成り立たなくなる。そのため、「漠然として不明確で違憲であるという議論」は、まったく「乱暴な議論」ではない。これを「乱暴な議論」と評価しようとしている部分については、法解釈の適正な手続きによって導かれる結論を受け入れることができないことによる不満の意思を示したものと思われる。

 「世界の主要国の安保法制というのはネガリストでできているんです。このような形で明確な定義をしていない場合は少なくありません。」との発言があるが、9条は日本国の統治権の『権限』が「やってはいけないこと」を記載したネガティブリストである。憲法上のその他の条項に反しないのであれば、それ以外のことは憲法上では基本的にやってよいのである。今回の事例は、この9条が禁じる内容であるか否かに関する問題であるから、「明確な定義をしていない場合」には9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を満たさないため、9条に抵触して違憲となるのである。

 「その定義がないことが違憲になるんでしょうか。」との発言があるが、その通りである。「武力の行使」を発動する要件が曖昧不明確な内容であったならば、政府の自国都合による恣意的な動機によって「武力の行使」が発動されることを排除できないのであり、9条1項が「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」を制約しようとした趣旨や、2項後段が「交戦権」を禁じようとした趣旨を満たさず、これらの規定に抵触して違憲となる。また、そのような自国都合の恣意的な動機によって「武力の行使」が行われることを制約するために9条2項では「陸海空軍その他の戦力」の保持を禁じようとしているのであり、この趣旨を満たさないことから、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。論者は、9条を法解釈に基づいて読み解こうとしない主張となっている思われる。


   【参考】気鋭の憲法学者・木村草太が説く「安保法制にこれから歯止めをかける方法」 2016.1.14

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○参考人(宮家邦彦君) 非常に鋭い御質問であります。
 私は、憲法の問題とそれから国際法の問題、このバランスをどのように取るかというのは非常に難しい問題だと思っております。恐らく、ほかの方は意見が違うでしょう。国際法を重視する人もいれば、憲法至上主義の方もおられます。これは私は少なくとも同等であろうと思っていて、どっちが上だ、どっちが下だという議論は私はないと思っています。それをやれば憲法優先になってしまうからであります。
 しかし、そのことは憲法を無視していいということでは全くありません。むしろ、国際法の世界で国連憲章によって主権国家に対して与えられている全ての自衛権、これをどのように使うかというときには、当然のことながら、憲法との関係でそこでいろいろな配慮があってしかるべきだと思っています。要は、そのバランスをどう取るかであって、憲法がこうあるから全てが否定されるとか、そういうようなものでは私はないと考えております。


【筆者】

 「国際法を重視する人もいれば、憲法至上主義の方もおられます。これは私は少なくとも同等であろうと思っていて、どっちが上だ、どっちが下だという議論は私はないと思っています。」との発言がある。しかし、「自衛権」の問題に関しては、「自衛権」が国際法上の法主体に対して与えられる『権利』であることから、9条が日本国の統治権の『権限』を対象として制約していることと直接的な関係はない。そのため、日本国が国際法上の主体として「自衛権」という『権利』を有していることと、日本国の統治権の『権限』が9条によって「武力の行使」を制約されていることとの間には、矛盾抵触がなく、「国際法を重視」することや「憲法至上主義」を採用することは両立可能である。論者は「少なくとも同等」としているようであるが、この議論においてはそもそも矛盾抵触がないため、「どっちが上だ、どっちが下だという議論」にはなく、その意味では論者の発言はその通りである。また、論者は「それをやれば憲法優先になってしまうからであります。」としているが、そのとおり、国際法と憲法との間に矛盾抵触が発生した場合には、国際法である条約を結ぶ主体となるものが憲法によって成立した国家であり、その国家は憲法の制約の範囲でしか行為することができないこと等から、論者の言う「憲法優先」という憲法優位説が採用されることが通常である。

 「憲法を無視していいということでは全くありません。」との発言であるが、まったくその通りである。

 「要は、そのバランスをどう取るかであって、憲法がこうあるから全てが否定されるとか、そういうようなものでは私はないと考えております。」との部分であるが、認識を整理する必要がある。まず、今回の「自衛権」の問題に関しては、国際法上の主体に対して与えられる『権利』であり、9条もこの国際法上の『権利』そのものを制約する趣旨ではないことから、矛盾抵触はない。そのため、「バランスをどう取るか」という議論そのものが存在しない。ただ、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲としており、これを満たさない中での「武力の行使」はすべて否定されている。「集団的自衛権」に関しては、これを満たさない中で「武力の行使」を発動した場合に行使される違法性阻却事由の『権利』の区分であるから、日本国の統治権の『権限』によって行うことはできない(行う機会がない)。

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第189回国会 参議院 我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会 第17号 平成27年9月8日

 



長谷川幸洋


日米安保と集団的自衛権 延長国会で本質論戦を 2015/06/28


 「安保条約はとっくに集団的自衛権を認めていて、それを前提に日本の安全保障が成り立っている。私はそう考えるし、実は政府もそうだ。」との記載があるが、その通りである。ただ、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』であり、この適用を受ける地位を認められているとしても、国家の統治権の『権力・権限・権能』の存否とは関係がない。そのため、日本国の統治権の『権限』によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が可能であるか否かは別問題である。


 「そもそも条約の前文には集団的自衛権が前提と書いてある。」との記載があるが、その通りである。しかし、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していたとしても、国家の統治権の『権力・権限・権能』の存否については別問題である。条約上の『権利』を根拠にして国家の統治権の『権力・権限・権能』が発生するわけではない。


 「だが、条約は集団的自衛権を認めているのだから、条約に賛成しながら集団的自衛権に反対するのは根本的に矛盾する。」との記載があるが、認識に誤りがある。条約で国際法上の『権利』の適用を受ける地位を確認したとしても、9条の下にある日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるか否かは別問題である。政治的な「賛成」「反対」については法律論ではないためここでは論じないが、条約を批准して国際法上において法主体に対して与えられる『権利』を得たとしても、国家の統治権の『権力・権限・権能』が憲法上制約されていることはあり得るのであり、ここに矛盾・抵触はない。


 「加えて『後方支援は武力行使でないから、米軍基地は違憲でない』というなら、半島有事で米軍出撃を認めるのか。そうなら日本の集団的自衛権行使になる。」との記載があるが、認識に誤りがある。
 「米軍基地は違憲でない」の部分であるが、砂川判決の論旨の中で一度「同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」と示している部分の論理を採れば、「米軍基地」は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触せず、違憲でないこととなる。ただ、砂川判決は最終的に「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」との線を引き、「かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。」として法的判断を行わなかったことには注意する必要がある。砂川判決は、「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。」と解しているのである。
 「そうなら日本の集団的自衛権行使になる。」との部分であるが、国連憲章51条のいう「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』であり、この『権利』が行使される場合には通常国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態である。しかし、日本国の統治権の『権限』は9条によって「武力の行使」等を制約されており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」は全て違憲である。そのため、これを満たさない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができない。「米軍の出撃」については、砂川判決の示している基準によれば「わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力」でないため、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して「一見極めて明白に違憲無効であると認められ」るわけではないが、「主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきもの」であると考えられる。「米軍出撃」が「日本の集団的自衛権行使」になるか否かであるが、武力攻撃を受けた他国からの日本国に対する『援助要請』がなく、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われているわけではないことから、日本国の「集団的自衛権の行使」には該当しないと思われる。(集団的自衛権〔権利の性質〕 Wikipedia)



<理解の補強>


長谷川幸洋氏と天木直人氏の「日米安保条約は集団的自衛権の行使を認めている」論は誤り 2015年06月23日

日米安保条約は集団的自衛権を容認している”と主張する論者は条約5条の「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」の記載には触れない 2015.6.26





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