人権という合意




最高法規以前にあるもの

 人権という概念は、合意の産物である。しかも、それは人間だけを対象とした合意事である。

 しかし、人権という概念を適用できる対象(主体)が「人だけに限られる(人だけのもの)」と言っても、それは私たち「ホモサピエンス」を対象としているという意味だろうか。ネアンデルタール人(?)、クロマニョン人(?)、ジャワ原人(?)が現代にいたとするならば、それらは人権を享有する対象となるのだろうか。人類とは違う猿人はどうだろうか。現在世界の全域を占めている人類とは種の系統が違うが、遥か昔には適度な言語を持った霊長類も存在したようである。そうなると、そのホモサピエンス以外の言語を使い二足歩行をする動物がもし絶滅していなかったとしたら、それに対しては人権を認めないのだろうか。人類を含むサルなどの霊長類全般に人権は存在していないのだろうか。いや、哺乳類全般に人権は認められるのではないだろうか。鳥類や爬虫類、両生類はどうだろうか。虫はどうだろうか。単細胞生物や微生物、細菌やウイルスにも人権は認められるのではないだろうか。


 生命体としては、植物も含まれるのではないだろうか。DNAを持った生命体全般に人権を認めるべきではないだろうか。いや、DNAも単なる分子の配列であり、ただの物質であるから、そもそも生物と無生物の境界線も曖昧なものなのではないだろうか。そうなると、自然や宇宙にまで人権概念を拡大適用した方がいいのではないだろうか。


 いや、そうではなくて、人権は「知性を持った動物」に対して与えるべきと考えるのだろうか。人権は「知性を持った動物」に対して与えるべきとの理由によって、人権はヒトのみを対象とするものと考えるのではないだろうか。しかしそう考えると、「知性」とは何だろうか。犬やサル、イルカなどにもそれなりの知性があるのではないだろうか。ヒトでも、知性のない人もいるだろうし、赤ちゃんであればゴリラやチンパンジーよりも合理的な判断はできないのではないだろうか。


 このように、人権という概念を適用する主体の範囲は、真剣に考えれば考えるほど明確な境界線を設けることが困難であることが分かってくる。

 現在の人権概念は、現代社会を運営していく中で、おおよそ私たちである「人類という種族のつくる社会の中で、人類という種を対象としたもの」という合意事として成り立っているものである。(ただ、ジャングルの奥地に住む民族など、地球上の大半を占める国際社会と接触しておらず、人権に対する明確な合意がなされていない地域に住んでいる人類も存在していることを忘れないようにしたい。)結局人権とは、そのような、人類の中でなされている社会生活上において一定のレベルで合意された単なる一つの概念なのである。

 人権概念は、人間に対する生命の侵害や自由の剥奪、奴隷的拘束や不平等な差別的取り扱いなどを厳しく禁じ、それらが行われることを抑制する作用を生み出すためにつくり出された合意である。しかし、この概念は人間だけに適用されることを前提としており、他の生物種には一切及ばない。

 いくらかの宗教の認識においては、人間も他の生物と同様の存在であることを唱えるものが存在する。また、生物学においても、人という種は生命の系統の中に分化された生命体の一つの形でしかないことを示している。

 しかし、人権という概念は、他生物と人間を同等に扱う発想は一切含まれておらず、人間を他の生物種よりも優越的かつ排他的に扱うことを宣言しているものである。そう考えてみると、生命体全般を広く平等に扱う思想とは全く相いれない考え方をベースにつくられたものということになる。

 人権という概念の性質は、人権という概念も人だけを優越独占的に扱うものであり、差別的とも思える側面を有していることを前提認識として押さえておくべきである。


 もう一つ加えておくと、以前の時代や地域によっては、貴族のような身分の者にしか人権が認められていなかったこともある。女性や子供、奴隷などには人権がなかったこともある。

 このように、社会の中で人権という概念が認められており、「人は生まれながらに人権がある。」という合意が普及しているとしても、その「人」という概念が対象としてる区分自体が、その時代、その地域の認識によって変わってしまうこともあり得るのである。
 

 これらの事例が意味するところは、人権という概念はもともとこの宇宙のこの地球上には存在しないものであったということである。人権は、人々が社会生活をしていく中であまりに理不尽な事態を防ぐために、人によって、人を対象としてつくり出された概念なのである。そしてその概念は、普遍的なもの(絶対的なもの)というわけではなく、私たちの認識の中において認知され、この社会の中で前世代から次世代へと今のところ受け継がれているというだけのものである。


 もしその認識を合意できなかったならば、この社会は途端に強者の横暴が力を持つ残酷な姿へと変容してしまう恐れがある。

 そのため、この「人権」という認識を受け継いでいくことは、憲法という法秩序の最高法規が生まれる以前になされなければならない。

 恐ろしく理不尽な事態が横行する社会とならないように、私たちは「人権」という合意をしっかりと守り抜いていく努力が必要となるのである。

 これが、憲法という最高法規を打ち出す以前に持たなくてはならない人権という概念の前提認識である。



<理解の補強>

人類の進化 Wikipediia
人類の知能の進化 Wikipediia
意識の境界問題 Wikipediia

人権の精神と差別・貧困 (世界人権問題叢書83)  2012/11/7 amazon

内藤淳『自然主義の人権論』 2011/01/06

【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法4 「人権とは、人権の分類」 2020/03/12

【動画】2020年開講 伊藤塾長の体験講義-『基礎マスター憲法1~2』 2020/04/07



 憲法ではなく、法律においてではあるが、「人の始期」について定められている。学説も存在する。

人の始期 Wikipedia


 憲法上では、「人の始期」ではないが、10条にて「日本国民たる要件」を法律で定めることになっている。ただ、この規定は国籍法などの側面が大きい規定であり、人権の概念を確定する上で直接的な関係性は薄いと思われる。

 11条では「国民」は人権の享有を妨げられないとしている。ここでは「国民」としているが、人権の自然権思想や国際協調主義の観点から考えて、外国人も人権を享有していると考えられている。ただ、憲法上では「人」とは何か、人権享有主体をホモサピエンスに限っているのか、胎児に人権は存在するのか、などについては語っていない。「現在及び将来の国民」の文言から、将来の国民にも人権が存在することは確かであるが、「将来の国民」は実体を形成していないため、「現在の国民」として確定する瞬間が人権の享有主体となると思われる。

 97条では、「人類」の表現は存在している。「人類の多年にわたる自由獲得の努力」によって、「人類以外の動植物にも人権が与えられる」と考えることも不可能ではないが、「人権(human rights)」という用語の背景からも、人類を対象としていると思われる。古い時代は貴族以外に人権が適用されないこともあったようなので、「人(human)」の用語の概念に捉われた見方は本質を欠くと思われる。

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第10条 日本国民たる要件は、法律でこれを定める。


第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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 日本国内においては、一定の動物について、憲法の対象とする「人権」としてではないが、動物愛護法などの法律によって、人による「動物の虐待及び遺棄の防止」等が定められ、保護しようとしている。

動物愛護法 Wikipedia

動物の愛護及び管理に関する法律  e-gov


 ただ、そもそも「人権」としての概念の適用ではないことから、法益などについて議論もあるようである。

動物愛護管理法の法目的についての考察 2005/11/22
2 動物の愛護管理の歴史的変遷に見られる主な動向等 PDF

動物の権利 2013/11/13 amazon

 

<種の境界線について>


【動画】【キメラ】ヒトの尊厳が低下?サルも苦悩する?生命科学者「感覚だけで議論すべきじゃない」キメラ研究はどこまで許される?生命倫理を考える 2021/05/30




前国家的権利という意図

 「前国家的権利」とは、「『国家』という仕組みができる以前から、人はもともと人権をを有している」という考え方をいう。これは人権概念を法制度上どのように位置づけるかに関する考え方の枠組みであり、自然法思想の自然権の考え方に裏付けられたものである。


 人権が「前国家的権利」であることを前提として憲法を制定することによって、その憲法によって国家の仕組みが生まれ、その統治機構に権力が集まったとしても、その権力は人が本来的に持っている人権を侵害することはできないことを明確にすることが可能となる。

 「人権概念は前国家的な性質である」というこの考え方を採用することによって、権力が濫用されたり、多数決の横暴によって人権が侵害されるような問題が起きた際にも、その権力の行使には正当性がないことを追求することかでき、人権侵害のリスクを減少させることができるのである。

 人権概念を「前国家的権利」という形で位置付ける考え方は、国家権力による人権侵害を防ごうとする意図が込められているのである。


   【動画】司法試験入門講座 プレ講義 「体系マスター」憲法4 「人権とは、人権の分類」 2020/03/12

 




クオリアと人権


 この世界は、脳内のクオリアが観測した世界。哲学者ニーチェの言うように、「神は死んだ」との認識に至ったとき、人と人とのクオリアは、完全に断絶されていることに気づくだろう。

 今まで、他者との間には、どこかに心的なつながりがあるのではないかと求める気持ちもあった。しかし、認識のすべては自分だけの世界であるとの考えに至ることがある。


 すると、あまりに孤独で、あまりに冷たく無表情で、すべてが無意味に思えるニヒリズムに陥りやすい。

 人間の利害の露骨さが手に取るように見えるようになり、言葉のまやかしは敏感に読み取れるようになり、力関係だけが世界を支配しているとの認識に至りやすい。


 認識しているすべての世界は自分だけのものであり、すべての他者が「哲学的ゾンビ」に見える。

 実存主義のこの認識は、世界は無制約であり自由も感じる。しかし、同時に、他者がそのような認識に至った自分と同じような認識に至り、自分(その他者にとっての他者である私)を「哲学的ゾンビ」のように扱い、無制約に振舞われてしまっては、自分(私)の安全が脅かされる。

 この恐怖の認識世界に陥っても、やはり自分の安全安心を保つための方法をなんとかつくり出しておきたい。そのような無秩序な状態になっては困るから、他者との間にはルールを定めておくことが必要なのだ。


 認識しているすべての世界は自分だけのものであり、もしすべての他者が「哲学的ゾンビ」であったしても、自分に危害を加えないようにそれらの者との間に合意を作っておく必要がある。

 もし他者が「哲学的ゾンビ」でなく、クオリアを持った自分と同じように世界を認識する者であったとしても、結局通じ合えない断絶された個々人の世界認識によって引き起こされる無秩序な力関係が、自分に著しく不利な状況にならないように、なんとか制御できるようにしておきたい。


 ルールの効力など、この世界にはもともと存在しないものなのだが、存在すると仮定して合意をつくり、あると仮定して誠実に行動しなくては自分の身に危険が及ぶのだ。

 その時に、他者との合意の根拠をいかに作っておくべきか。

 その時に編み出された概念が、自然権の発想である。「人は生まれながらに人権を持つ。」としておけば、他者との間に何らかの心的なつながりがあるとを信じている者であっても、後に、心象は個々人の脳内だけで生み出された世界認識に過ぎず、自分の抱いているクオリアは他者との間で完全に断絶しているというニヒリズムの恐怖に陥った者であっても、この前提が人々の認識の中で合意事として保たれている限り、やはり相互の人権保障を実現する上で有効に作用する。

 これは、神によって人権が与えられたとする考え方や、実定法に定められた言葉の意味そのものだけを読み解く法実証主義の考え方よりも、人権保障を実現する上で有利に働きやすい。

 自然権の発想は、認識論のあらゆる立場を越えて、人権保障の実質的な品質を確保できるはずのものである。


 人々のクオリアに映る「人権」という概念を、今後もそのように運営していくことが、人権保障を実現する上で有益に働くはずである。

 そのため、人々の中に映る人権概念の存在を、「自然権」という性質に確定させておきたいのである。 





憲法制定権力の意図
 

 法の効力の源泉は、人権思想という合意によって生み出されるものである。人権認識から、法の効力を生み出しているのである。もしその合意がなければ、法に実質的な効力を持たせることができないのである。

 
 「人権保障の実現」以前に、「人権」という概念を人々の認識の中につくり出し、維持している人たちがいるのである。それが不断の努力を要する非常に難しいことなのである。


 その人たちは、「人権」という概念それ自体、つまり、人々の意識の中にある「人権」という認識そのものを守っているのである。その認識がもし、"ない"なんてことになってしまったら、人権概念は全く失われてしまう性質のものだからである。


 この「人権」という認識の合意事を生み出している人は、まさに「人は生まれながらにして人権を持っているのだ」という自然権の人権観を普及しようと不断に努めている。この「自然権思想から生み出された人権概念である」という認識を人々の中に維持することこそ、価値相対主義者と価値絶対主義者の双方の人権を保障することに繋がるとの確信があるからである。


 それは、「人権は神の権威から導き出される」と認識する人権概念や、「法典に書いてあるから人権が存在する」と認識する法実証主義の人権概念よりも包括性が高いものであり、人権保障の質の高さを維持できるとの直感によるものである。


 この直感は、価値相対主義の立場の認識からくるものである。価値相対主義者は、価値絶対主義者の認識は何者かによってつくられた世界認識や概念をそのまま受け取って信じ込みやすい傾向があり、そのつくり出され与えられた世界認識を他者に否定され信じられる認識の拠り所が脅かされそうになった際に、頑なで独りよがりになりがちなことを知っているのである。


 その際には、価値絶対主義者は科学的基盤を持たない宗教的権威を持ち出したり、法実証主義を信じて多数決原理の絶対視から少数派の安全を侵害したり、国家を基礎として全体主義を強制したりすることが多い。そしてそれを自己防御のためであると正当化しがちである。


 これは、価値絶対主義者自身には区別のできない部分であり、価値相対主義としては何としても守り抜きたい認識基盤に関わるものである。価値絶対主義者は、この危険性を自ら自覚できないことが多い。不安と恐れが募った時には、自身の傲りを認めずに乱暴に力を行使することもある。


 それを防ぐためには、「人は生まれながらに人権を持っている」という自然権の概念を価値絶対主義者の意識の中に最初から持たせておいた方が安全なのである。「人権は自然権であり侵してはいけないもの」との初期設定を設けることで、価値絶対主義者の無理解による乱暴な行動が起きた際、この自然権の性質を思い出させることで、その傲りを非難することができ、その乱暴な力を抑止する"一線"を本人の中につくることができるからである。


 そのため、価値相対主義者は、何としても「自然権としての人権」という認識を多くの人の意識の中に備えさせ、価値絶対主義者自身の認識やその世界観の中でつくられたルールによって自分自身の乱暴な力を抑止するようにしたいのである。


 これが、「自然権」という概念を人々の意識の中に備えさせる意図である。この仕掛けこそが、価値絶対主義者の世界認識による無理解で乱暴な力の行使に歯止めをかける「人権保障の最後の砦」としての安全装置なのである。

 







ないものをあると言う

 人権概念は壊れやすい。人権概念は失われてしまいやすい。なぜならば、人権概念とは、もともと何ら実体のないものを”あるかのように”見せているものでしかないからである。そのため、人権概念は私たち自身の手によって今後も”あるかのように”つくり続けなくてはならない性質のものである。それこそが、人権を保持するために「不断の努力(12条)」を要する理由である。


 存在しないものをあるかのように見せる。それが、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」である。そうやってないものをあるかのように見せることで、強者からの侵害から身を守るための「法」というものが存在し、効力があるかのように見せているのである。時には「そんなものは存在しない」と、それらを否定し、他者の自由や安全を侵害しようとする者も現れるだろう。それこそが、「過去幾多の試錬97条)」である。私たちは人権という概念を維持するために、この脅威に堪えなくてはならないのである。


 憲法制定権力者は、憲法を制定するときに、この「本来存在しないもの」を、「現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利(97条)」としてあたかも存在しているかのように実定化させたのである。そこに込められているものは、この憲法の人権概念の本質をつくった憲法制定権力者の意志である。その意志は、人々の自由と安全を守るためには「存在しないもの」をあるかのように見せ、その権威が決して失われないようにつくり続けることでしか他に手段がないという認識から生まれるものである。その認識は、様々な侵害によって堪えがたい苦しみや絶望的な状況を経験したことによって生まれる実存主義的な価値相対主義の世界認識である。


 この世界認識は、「実定法が存在する以前に、人には自由や安全を守ろうとする意志が存在している」という自然法の認識と共通したものがある。その自由や安全を守ろうとする意志は一人ひとりの人に存在しているものであるために、単位として『個人の尊厳』を仮定し、一人ひとりに人権概念を認めることにしたのである。この観念が、実定法が生まれる以前に「人権概念を中核とした法が存在している」という自然法の思想につながるものである。

 

 実存主義的な価値相対主義者の認識にとっては、自然法なんてものはもともと個々人の主観でしかないものであり、どこかに客観・普遍的な何らかの法が存在しているというわけではないと理解しているものである。しかし実存主義的な価値相対主義者は、「実定法以前に自然法がある」との考えを人々に普及することは、たとえ客観・普遍的な法の観念を求める認識の価値絶対主義者であっても、実定法の文言のみを法だとする法実証主義によって起きる法運用の弊害を乗り越えることができるはずであるとの思惑を持っているのである。つまり、自然法を実定法の前提とすることで、多数決原理に正当性があると信じる多数派の横暴による侵害や、実定法の文言通りに機械的に厳密な法適用を行うことによって法の運用の柔軟性を損なってしまうことによって起きる個々人の自由や安全が侵害されてしまうような事態を防ぐことができるはずであるとの認識である。これが、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者が、価値絶対主義の人々に「実定法以前に人権や法が存在している」という自然法を前提とした認識が広まるように意図する理由である。

 

 自然法の前提は、実存主義的な価値相対主義者の認識にとっても、価値絶対主義者の認識においても、人権保障をより高い品質で実現するために非常に有利なのである。実存主義的な価値相対主義者は、人権と法の自然権的な前提を創造し続け、広く普及しようと常に努めているのである。現行憲法97条と12条にも、この自然法の前提と実存主義的な価値相対主義者の認識に至った者のするべき努力、つまり人権概念を創造し保持し続けなくてはならないことが記載されている。

 




建前で抑止する

 人権概念は、無神論的な実存主義的な価値相対主義者によって"ない"ものを"ある"と言ってつくられたものである。
 しかし、それではやはりその趣旨を十分に理解できず、納得しない者が出てきてしまう。それは、すべての人が、実存主義的な価値相対主義の認識の段階に到達しているわけではないからである。


 そのため、憲法制定権力者は、人権という概念について憲法上では「侵すことのできない永久の権利(97条、11条)」と表現することにより、「法以前に人権がある」という自然権思想を象徴的に示すこととしている。

 これによって、価値絶対主義の認識を抱く者の意識の中にも「人権の正当性は実定法の正当性よりも優越している」という趣旨を強く印象付けることが可能となり、法の正当性の根拠が実定法に定められた多数決原理の手続きのみにあると考える法実証主義による法運用を明確に否定し、多数決が絶対的なものだと信じる勢力を抑止する効果を持たせていると考えられる。




人権概念の最深部

 人権というもの自体が、無いものを"ある"と言って何とか保っている単なる認識上の合意でしかないものである。それは、いるはずのない「」をあるかのように見せて人々を救おうとする宗教の活動に似ている。(神を何と定義するかにもよるが)


 人権概念に関するこの本質を理解した実存主義的な価値相対主義者は、人々の自由と安全を保障するために、もともとあるはずのない「人権」という概念をこの世に新しくつくり出し、弱者を最低限守る術を生み出したのである。


 憲法に含まれる人権の正当性の根拠が、まさにそのような認識によって生み出されているという大前提を維持する必要がある。この大前提を十分に理解できるのが、実存主義的世界観に目覚めた価値相対主義者である。

 
 そして、法の効力を生み出す前提となる人権概念の最高の権威とは、まさにこの人権概念を創造している実存主義的な価値相対主義者の意志である。つまり、終局的には、その者の「気合い」なのである。




敢えて隠している

 人権が"ない"ものを"ある"と言ってのける性質であることを知ることは、高度な倫理観を保有してからでないと早すぎる。力を持った権力者の側がその事実を悪用したならば、他者を侵害する恐れが大きく、危険すぎるからである。


 そのため、憲法には、侵害の苦しみを経験し、侵害される痛みを十分に理解し、人権が本当は存在しないものだと身をもって悟るまでは、人々がその事実を知らないままで済むように意図して隠されている側面がある。

 現行憲法の観念的で難解な文言には、それらの実存主義的な価値相対主義の人権観を示す訴えかけが含まれている


 侵害の痛みを知らない、倫理観のない強者には、「本来人権が存在しないものだ」とは知らせない方が都合がいいのである。だからこそ、実存主義的な価値相対主義の現行憲法の観念的な文言は、侵害される恐怖をリアルに感じているときにこそ胸に響き、弱い立場にある者にこそ理解できる実存的な間接伝達の暗号として記載し、「人権について深く理解しようとしていない多数派」や「安易に力を持とうとする強者」には、人権概念は"存在するもの"として見せかけ、真実が隠されているのである。




人権というブランド

 人権というブランド権威はつくられたものである。それは、もともとそんな概念が存在しないことを知っている実存主義的な価値相対主義の意志によってつくられたものである。それは、人々にとってあたかもあるかのように見えるように作り続け、その説得力を保ち続けなくてはならないものである。そうでなければ、それはたちまち「人には人権がある」という人々の認識それ自体が失われてしまうものだからである。


 現行憲法では、「基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、(97条)」として、人権概念自体が先人が獲得したもともと存在しなかったものであることを示している。そして、「過去幾多の試練に堪へ(97条)」として、人権概念それ自体が奪われたり失われてしまいやすい性質のものであることを示している。そのため、「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて」「保持しなければならない。」(12条)と示し、この人権概念のブランド価値と説得力を守り続けなければならないことを示している。


 そのブランド価値とは、まさに、「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」を謳っているものである。実際には人権は侵害されてしまったり、失われてしまったりする性質のものである。しかしこれは、人類の中に受け継がれ、不断の努力で守り続ける意志が存在する限り、その概念の本質は決して侵すことのできない永久性があることを示しているのである。つまり、人権概念それ自体は、まさに自由獲得の努力の意志、言い換えれば、「気合い」によって成り立っていることを示しているのである。

 この「気合い」で守り続けることこそが、人権概念の存在根拠であり、そのブランドの価値であり、法に効力が生まれる正当性の根源なのである。


 この人権概念を獲得し続け、作り続け、守り続け、その生命力を維持し続けることこそが、「侵すことのできない永久の権利(永久不可侵性)」の根拠である。これが全法体系の実質的最高法規性を基礎づける憲法の正当性の究極の根拠となるものである。 




法の効力の源泉

 憲法は、結局は単なる文字の羅列でしかない。その言葉に権威を与えるためには、生身の人間が不可欠である。その意味を読み取り、内容を共有する人々なしには、その権威と効力は維持できないのである。

 そして、その者たちが共有できる考え方とは、「人と人との間において自由が侵害されないこと」だろうとの前提で、その自由を保障する単位として「一人ひとりに人権という概念がある」という合意をつくり上げていったのである。

 その人権という概念を基本的な単位として法主体(権利能力)を定義し、個別の法分野に含まれる権利を導き出し、その権利を実現するために法の効力を認めるのである。

 そのことから、「人々が効力を認める」という事実それ自体が、法の効力の源泉なのである。


 そのため、人が法に対して確かに効力を認めるというその正当性が支持され、維持されるように、今後も法を運用しなくてはならないのである。

 




法の求心力


 法によって秩序をつくり上げるという「法の支配」の考え方も、一つの価値観に過ぎない。以前の時代は、王権や武力、宗教などが秩序を作る役割を担当していた。法も絶対的なものではなく、単なる一つの秩序観念に過ぎないものである。


 そのため、法という秩序を維持していくためには、その法というものが人々に支持され続けることのできる求心力を有している必要がある。法が人々の生活を実質的に豊かにする力となるような"魅力的なもの"である必要がある。


 なぜならば、もし法に魅力がなければ、その社会の人々はその「法」というものを支持しなくなってしまい、人々の間に普及せず、効力が失われ、社会の中で通用する実力として成り立たなくなってしまうからである。そうなれば、その法の条文は、たちまち古典のように生命力を失った文章の束にしか見えなくなってしまうはずである。法の効力を維持するためには、その効力を維持するための法に含ませた求心力の中核となる"魅力"を守らなくてはならないのである。


 その求心力の中核となる魅力とは、人々の自由や安全を保障するためにつくられた「人権」という概念である。「人権」という概念が存在し、すべての人にもともと備わっているものであり、その概念を中核として法の原理を生み出すとすることにより、人々は法の秩序を受け入れ、その法を支持し、その法を守ろうとするのである。そのような過程を経て人々に承認されているからこそ、法が普及し、社会の中で通用する実力として効力を持ち、法の秩序が成り立つのである。法のメカニズムの実効性が保たれるための裏付けとなっているものは、「人権」という概念の魅力なのである。


 そのため、法の効力を生み出すためには、法の機械的な仕組み以前に「人権」という概念が必要となる。ただ、この「人権」という概念は「法」によって生み出されているものではない。なぜならば、たとえ多数決に正当性があると考えて、多数決によって「法」をつくり人権を定義しようとしても、「人権」は多数決によっても奪うことのできない性質のものとして機能することを期待されている概念であり、多数決によって創設したり剥奪したりすることが正当化される概念であるとすることは理論的に不可能だからである。


 このことから、その社会に法の制度を普及させる以前に、誰かが「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という前提をつくり出していなければならないことになる。


 その前提をつくり出しているのは、「人権」という概念それ自体がどのように生み出されているものであるかを知っている者である。それは、哲学の認識論的な前提を理解した実存主義的な世界認識に目覚めた価値相対主義者である。


 「人権」という概念は、この者の「人権概念を創造し続けようとする意志」によってつくり出され、今なおつくり続けられることによって成り立っている正当性の価値である。

 この者がすべての人々に対して自由や安全が保障されるようにしようとする意志を持ち、人々の意識の中に「人権という概念が存在する」という認識が確定されるよう訴え続けていくことによって成り立っている概念である。
 この者が、人々の意識の中に「人権」という概念を普及させ、その認識を確定させようと意図する意志こそが、人権概念の存在を人々の意識の中に「存在するもの」として確立させる原因となっているのである。


 この者の意志こそが、「人権概念の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に生み出す原因であり、法が人々の生活を豊かにする力として機能することを支える前提認識をつくる源であり、人々を法秩序につなぎ止める求心力の中核であり、法の効力の本質となっているものである。



 (古い時代には、人権は、貴族身分以外の者や女性、子供には認められていなかった。それは、この者たちの『人権保障への意志』が、貴族身分の者や成人男性だけを対象としたものとなっており、"すべての人"を対象にしているわけではなかったからである。) 




法という仮定

 法は、人権があることを仮定してつくり出したルールである。それが「あると仮定してつくり出したもの」である理由は、現実世界はバーチャルな3Dゲームの世界のように、人間以外の外部からの機械的な規則性による拘束は存在しないからである。


 現実世界は、科学の物理的な限界は存在するようである。しかし、生命体の主体同士の行動を機械的に限界付けて拘束するようなものは存在していない。そのため、社会を形成するにあたっては、その無制約な行動によって人が人を侵害してしまうことがないようにルールを必要とするのである。


 そのルールこそが、人権を基礎として人と人とを結びつけ、拘束すると仮定してつくり出した「法」という合意である。バーチャルの3Dゲームのような外界からの機械的な拘束を受けることのない現実世界では、その社会の人々が「法の原理を採用する」という意志を持っていることこそが、このルールの拘束力を基礎づける力となっているのである。「人権保障を実現するための『法』を採用する」という人々の意志が、その効力の実効性を保障しているのである。


 現行憲法の97条では、この意志の観念こそが、人権を基につくられた法の効力の源泉であることを示している。もしこの97条の「実質的最高法規性」が失われてしまったならば、法に実質的な効力は存在しなくなってしまう。なぜならば、「この現行法を支持する人々の認識こそが法である」という、そもそもの法認識の正当性の根拠となる前提が失われてしまうからである。


 98条では「形式的最高法規性」が示している。しかし、これだけでは、法と法の上下関係を示すことはできても、その法の存立根拠を示すことができない。法の存立根拠を示すためには、97条の「実質的最高法規性」を示すことが必要である。




人権ブランドと企業ブランドの類似性

 人権というブランドの性質は、企業ブランドの性質とよく似た部分がある。


 企業ブランドには、例えば車で言うと「レクサス(トヨタ)」「ベンツ」「アウディ」など様々なものがある。腕時計で言うと「セイコー」「シチズン」「ロレックス」「オメガ」などがある。カフェで言うと「スターバックスコーヒー」「ドトールコーヒー」「タリーズコーヒー」などがある。

 それらは一体何なのか。その実態とは、一体なんだろうか。どの企業のブランドでも、形になって表れているデザインの性格や運営の精神がある。

 しかし、どの企業も、歴史を遡ればもともと存在していなかった企業である。何もないところから、少しずつつくり上げ、そのデザインの性格や運営の精神をつくり上げてきたのである。そして、それは運営主体が変わろうと、従業員が変わろうと、その企業にかかわる人々の意識の中に受け継がれて続いているものである。


 「その企業とは何か、そのデザインや運営の性格の本質とは何か。」などと聞かれても、それらしい特徴を伝えることはできるが、そのものは何かと言われても、そんなものは存在していないのである。どの企業も、人がいて、従業員としてその社会の中で働いているだけである。その中でつくられた「それらしい特徴」というものも、結局はその企業の経営者や従業員がつくり出したデザインであり、運営の仕組みなのである。


 つまり、その企業ブランドとは、その企業に関わる人々の意識の中からつくり出し、受け継いで続けてきたことによるものである。もともとそんなデザインや運営の形は存在しなかったものである。それを生み出し、つくり続けていることによって、人々に認知される企業ブランドとして君臨しているわけである。

 もしそのブランドをつくり続けることを止めてしまったならば、たちまちその企業は衰退し、人々から忘れ去られ、社会の中で価値あるブランドとして認められることはなくなってしまうだろう。企業ブランドを維持していくためには、その企業に関わる人々の不断の努力こそが、その生命力を保ち続ける力となるのである。


 人権という概念も同じようなものである。


 人権という概念は、歴史を遡れば存在しなかったものである。しかし、人々の自由や安全を守り通すためのルールを作る際に、ルールの主体となるものを定義し、ルール変更によってもその主体性を侵害しないようにするための合意をつくったのである。


 この合意は、もともと人類の中でなされていなかったものであるが、その意識を広め、その性質や枠組みを「人権」という概念に集約していったのである。

 この人権というブランドは、作り手によって新たに生み出されたものである。そして、そのブランドの確からしさが人々に認知されるよう保っていくためには、今後もそれを受け継ぎ、今の世代や将来の世代の人類がそのブランドをつくり続けていくことが必要となるのである。


 もともと存在しなかったものを、生み出し、つくり続け、その生命力を保ち続けることによってしか、そのブランド価値を人々の意識の中に君臨させ、法秩序の効力の根拠となる正当性を感じさせる権威として認められ続けることはできないのである。 


 その趣旨は、日本国憲法の条文の中では下記のように記されている。


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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。


〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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 「侵すことのできない永久の権利」という表現があるが、これは、一種のブランドプロモーションである。何の努力もなしには、「侵すことのできない永久の権利」という永久不可侵性は実現できないからである。現在、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として人権ブランドが存在するかのように社会の中で成り立ち、この日本国憲法も定められたのであるが、この人権ブランドは、「過去幾多の試錬」を受け、失われてしまう危機にも見舞われているものである。そのため、そのブランドの生命力を「不断の努力によつて」「保持しなければ」、「侵すことのできない永久の権利」の確からしさは維持できないのである。

 


 人権というブランドは、このように維持され、運営されることによって成り立つものである。


 法に書かれた条文の効力を維持し続けるためには、法の条文の正当性の裏付けとなっている「人権」という概念の確からしさをつくり続け、その生命力を保ち続けなくてはならないのである。


 その生命力こそが、その社会の中で「法」という一つの秩序を成り立たせるための根拠なのである。


 そして、その生命力を人々に受け継ぎ、その意志を世代を渡って維持し続けることによって、「侵すことのできない永久の権利」が実現され続けていくのである。



 人権のこのような性質を身近な例で例えると、下記のようなことと同じである。

 

 「わが社は不滅です。」

 「この恋は永遠です。」

 「神仏は永久不滅です。」


 人権概念も、結局はこのような人の意志の観念によってその永久性が念じられることにより、個々人の中で感得され、決意され、宣言されている概念なのである。


 現行憲法の前文の決意の文言、97条、11条、12条に見られる観念的な文言は、人権概念がこのような過程によって生まれ、維持されている性質のものであることを示したものである。

 

 法の効力の源泉となる人権概念は、手続き上の多数決原理によってその正当性が裏付けられるわけではない。


 もし、この「人権」という概念を維持しようとし続ける意志の観念を奪ってしまうような憲法改正がなされてしまった場合、結局、その憲法改正は人権概念によって生まれる国民に与えられた主権の正当性さえも損なってしまうため、その国民投票の改正手続きの正当性それ自体をも自己破壊(自殺行為)して失わせてしまうことに繋がってしまうのである。


 そのため、このような人権を維持し続ける決意の意志の観念を失わせてしまう改正は、多数決と言う改正手続き上では可能であっても、憲法が人権保障を実現するための法である以上、原理的には不可能である。

 

 人権という概念の本質を理解するに至った者に対して、「人権」という概念を維持しようとし続ける意志を刺激することを意図した、前文や97条、11条、12条などに見られる観念的な文言を奪ってしまうような憲法改正は、法に含まれている価値相対主義の寛容さの精神や、その魅力による法秩序への求心力、その求心力によって生まれる法の効力の生命力を維持し続けるためにもするべきではないのである。

 




条文で生命力は確定できない(作成中)


 人権は、人の意志の観念によって生まれた概念である。そして、その「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」という性質は、講学上「人権の永久不可侵性」と呼ばれている。


 ただ、この「永久不可侵」という性質は、条文の文言によっては確定することができないものである。


 なぜならば、条文の文言として「人権は侵すことのできない永久の権利である。」や「人権は永久不可侵の権利である。」などと定義を書き込み、その条文それ自体が人権の根拠となると考えた場合、これは同時に、その条文が憲法改正の手続きの多数決によって改正、あるいは廃止されてしまう可能性が生まれ、人権の永久不可侵の性質が失われる原因となってしまうからである。

 法実証主義の考え方により、条文中に人権の永久不可侵の定義を明確に書き込み、そこに記した「永久不可侵性を定義する文言」を人権の根拠と考えたり、「人権の特徴を宣言する文言の意味それ自体」を人権の根拠と考えようとしても、条文そのものは永久不可侵の性質を持つ規定として君臨し続ける力を持っているわけではない。

 そのため、条文化した時点で、その趣旨は多数決原理によって改廃が可能なものとなってしまい、そのこと自体が人権の永久不可侵性の意図を達成できない原因となってしまうのである。


 これでは、「
人権という概念は永久不可侵性を持っている」とする論理が成り立たず、もともと実現しようとしていた「人権の永久不可侵性」が失われてしまうこととなる。



 また、法とは、法そのものが機械的に私たちを拘束する力を持っているわけではない。法は、人々がそこに正当性の権威があると認め、承認し、自ずと従うことによって初めて効力が生まれ、その社会の中で通用する実力として成り立つ性質のものである
法の効力とは結局、人々がその法に従おうとする意思を持って、法に書かれた意図を実行することによってしか作用せず、拘束力は生まれないのである。


 そのことから、法の条文に「人には人権がある。(人は人権を有する。)」や「人権は永久不可侵である。」などと書き込んだとしても、その文言自体が「人権の永久不可侵性」を維持する力として働くものとなるわけではない。

 当然、「人権」という概念を条文に書き込んだとしても、その「人権」という概念自体の権威や魅力が生まれるわけでもない。

 そこに権威や魅力が生まれなければ、人々の心理に作用するものとして機能することはなく、法の効力を生み出す原因とはならないのである。


 そのため、法の条文の正当性が人々の間で認められ、社会の中で通用する実力として成り立つものとなるためには、「法の条文の中に記載された人権について示された文言」とは別に、その法の条文の正当性の権威の根拠となる「人権」という概念そのものの『存在と価値と正当性』が人々の意識の中に保たれているという前提が存在している必要がある。


 この性質から、人権の永久不可侵性は、条文の文言によっては確定することができないのである。
 


 そのため、法の条文によって人権の根拠を示す際には、人々が法という文字の羅列や意味の集合体、条文の機械的な仕組みでしかないもの」に効力を認める以前にある、法の効力の大前提となっている原理を示唆的に明らかにする形で記載する必要がある。

 それは、

◇ 人権概念が人の意志の観念によって生み出されたものであること

◇ 自ずと生まれた「すべての者に対して人権保障を実現していく」という寛容な意志によって支えられた確かな決意こそが、他者に対して自由を確保する原因となり、その自由に裏付けられた形で人権概念を掲げるところにこそ、人権概念の「存在と価値と正当性」の魅力がつくり出され、人々の心理を法秩序に結びつける法の求心力を生み出す原因となり、人々が法の正当性を承認する基盤となるものであること

という趣旨である。

 

 そして、憲法に記載されたその文言を読み取り、その決意の意志こそが「人権の永久不可侵性」を実現するものであると理解した者たちが、その決意の意志に共感し、その決意によって生まれるとする法の仕組みに正当性があると認め、納得の上で承認し、賛同し、自ずと従おうとする過程を経ることによって、支持が広まり、その社会の中で通用する実力として効力を持つに至るとする連鎖が保たれていく必要がある。


 憲法に含まれたこの趣旨を理解していない者や、「すべての人々に対して人権保障を実現しよう」などという決意を持っていない者に対しても、憲法の価値観を受け入れるように無理に強制したりはしないという寛容さを持って法秩序を運営しようとすることこそが、真に人々の人権保障が実現されることを目指す者の深い決意である。この意志こそが人権概念を形成する作用の本質となっているのである。

 

 このように、すべての人に寛容さを持って保護を与えようとする者の意志から発せられて成り立っている「人権」という概念を使って、人々の自由や安全を確かに守り通そうとする者の深い決意の観念にある魅力が、人々の意識を法という秩序に結びつける求心力となり、法の効力を生み出し、自由や安全の守られた安定した社会を成り立たせる力となっているのである。


 そして、その寛容な決意によって生み出される人権概念こそが、人々を法という秩序に結びつけるための魅力となり、法の秩序の求心力の中核となっているのである。


 もし「人権という概念の存在と価値と正当性」の生命力を保ち続ける者たちの努力がなければ、人々は「人権」という概念に魅力を感じる心理を持つこともなく、それに裏付けられるとする法に対して「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」が湧き起こされることもなく、法の効力を形成する力も生まれないのである。




 「人権」という概念は、このような人の意志の観念によって生まれ、維持される性質のものである。 


 この意志が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」によって、「過去幾多の試錬に堪へ(97条)」ながら「保持(12条)」されている、『侵すことのできない永久の権利(11条、97条)』という究極の人権ブランドの本質である

 

 私たちすべての人々は、この本質を理解して人類の自由や安全を守り続けている「守護神」ともいうべき先人たちから既に、この究極のブランドを生まれながらに無条件に「与へられ(11条)」ている。知らず知らずのうちにそのブランドに守られ、生かされて生きてきたということである。そして、今後もそのブランドに含まれた意志の生命力が永久のものとなるよう生かし続けていくことを「信託(97)」されているのである。


 このブランドの本質に気づき、その効力基盤を理解した者は、今まで無条件に与えられてきたそのブランドは実は先人から「信託(97条)」されているものであることを自覚し、それを自分以外の「現在及び将来の国民(11条、97条)」に対しても等しく無条件に「与へ(11条)」る必要がある。その永久不可侵性の源となる意志を「保持(12条)」し続け、かつて自分を守ってきた守護神たちに成り代わって、人々を守り続けていく義務を負っているのである。


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「人類の自由獲得の努力の成果(97条)」として誕生。

    ↓
    ↓
    ↓             ☆「過去幾多の試錬に堪へ(97条)」ている。
<侵すことのできない永久の権利(11条、97条)> ← 「不断の努力(12条)」によって支えられている。

    ↓                          ↑
「与へられる(11条)」                   ↑
    ↓                          ↑
「現在及び将来の国民(11条、97条)」   →   「信託され(97条)」ている。

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 このように、「人類の自由獲得の努力の成果」によって生まれた<侵すことのできない永久の権利>というブランドの価値は、それを「与へられ」た「現在及び将来の国民」の「不断の努力」によってその実質が維持され続ける必要がある。


 しかし、それがうまく機能せず、奪われそうになったり、失われてしまいそうになるなど、「過去幾多の試錬」にも遭っている。ただ、今のところそれらの危機にも「堪へ」ており、なんとか存続しているものである。






条文の限界と人権という意志

 法という概念は、法の文字それ自体が物理的な強制力を発揮したり、実力を持って作用したりする性質のものではない。


 法という概念は、人々の認識によって支持され、その存在が"ある"と仮定して初めて効力を持ち、その社会の中で通用する実力となるものである。


 この性質上、たとえ法の条文に人権の根拠を記載したとしても、その
法の文言それ自体からは人権概念の存在を生み出すことはできない。


 また、その条文が存在するだけでは、「人権が存在する」という前提を維持し、その根拠を守り続けるだけの力を発揮することはない。


 「人権概念が存在している」という前提を、法の条文そのものによっては維持することはできないのである。

 

 人々の人権を守る(保障する)ために法の技術が存在するが、法は人権それ自体の存在根拠となっているわけではないし、人権の存在根拠を守っているわけではないのである。


 そのため、法の条文において人権の根拠を記載する際には、示唆的に表現することしかできない。実質的な人権の存在根拠は、私たちの意志と努力で守り続けなくてはならないのである。

 97条や12条は、その意志こそが人権概念の存在根拠であり、憲法という法の実質的最高法規性を成り立たせるものであることを示唆的に示したものである。私たちの意志と努力こそが、人権の存在根拠であり、人権概念の生命力の源泉なのである。




確定不能な人権観

 人権概念は、条文上で定義することによっては、その正当性を維持できない性質のものである。


 なぜならば、条文中で人権の意味や人権の正当性の根拠を定義したとしても、その「人権」という価値観自体が、世の中に数多ある多様な価値観の中の一つでしかないものに成り下がってしまい、他の価値観を排して君臨するような正当性を持ちうるものとはならなくなってしまうからである。


 また、この「人権」という価値観を定義し、その価値観を人々に強制するような法秩序としてしまったならば、それ自体が「思想良心の自由」という人々の人権を奪うことになってしまう。これでは「人権」という概念を掲げることで自由や安全を生み出そうとした意図が達成できなくなってしまう。

 これらの性質から、人権という概念は、条文上で定義することは馴染まないものである。



 そのため、条文上で人権の根拠について触れる際は、「『人権という概念の存在や価値や正当性』を保ち続ける意志をもって法を運用することこそが、人権という概念を生み出した意図を達成する方法となる」ということを示唆的に表現することしかできない。

 現行憲法の前文の観念的な決意の文言や、97条、11条、12条に書かれた人権に関する難解な表現は、その意図を示したことによるものである。




正当性の生命力

 人権概念の正当性は、条文上で定義することによっては維持できない性質のものである。なぜならば、条文中に人権の意味や正当性の根拠を定義したとしても、その定義を行った主体の正当性を問われる問題に行き着いてしまうからである。


 例えば、人権概念の定義を行った主体として下記を想定する。


〇 「憲法制定時の国民」

〇 「法学者A」

〇 「政治家B」

〇 「宗教学者C」

〇 「神」


 しかし、この場合、人権の定義を行ったこれらの主体
の正当性を証明しない限り、結局、その主体が定義した人権という概念の正当性も証明することはできなくなる。


 また、もし人権概念の定義を行った主体の正当性が一時的に人々に対して証明され、受け入れられることがあったとしても、その後、その主体の正当性が永久に持続する保証はない。
その定義を行った主体が正当性を失ったり、人々からの支持を失ってしまったならば、人権概念の正当性も同時に失われてしまうというリスクを含むものとなる。



 これについて、人権概念を条文中で定義した場合、人権の意味や正当性を定義した者は、主権者(最高決定権者)として憲法制定を行った国民(広義の憲法制定権力)であるとされることがある。

 しかし、この主権者は人権を保持しているから主権者となっているわけである。そのため、人権の根拠を「主権者が憲法制定の過程で条文中に定義したこと」に求める考え方は、人権を有するがゆえに主権者となっていることと矛盾する。


 ✕ 憲法制定権力者の主権 ⇒ 憲法制定行為 ⇒ 人権の条文で根拠発生?

 (憲法制定権力者に主権がある時点で、憲法制定権力者は既に人権を持っているはずである。条文によって人権の根拠が生まれるとするのは論理的に意味が通じない。)

 〇 人権が存在 ⇒ 憲法制定権力に主権発生 ⇒ 憲法制定行為 ⇒ 人権の存在を確認

 また、「主権者の多数派」による憲法制定行為が人権の根拠になると考えるならば、同じく「現在の主権者の多数派」が憲法改正を行った場合に人権の定義を変更したり、人権を奪ったりすることができることになってしまう。これでは
、多数決によっても侵すことのできないものとしてつくられた人権の性質が成り立たなくなる。


 これについて、憲法制定権力の主権(最高決定権)によれば、人権概念を適用しない国民をつくり出すことができるが、一度憲法制定行為が行われたならば、たとえ憲法改正権を行使しても、人権の定義を変更したり、人権を奪ったりするような、憲法制定権力の意図を越える改正を行うことができないとする考え方がある。しかし、これは歴史上の一時点でその地域を占めていた憲法制定権力の主権(最高決定権)ならば、人権概念を適用しない国民をつくり出す可能性さえも肯定することとなると、憲法制定権力を絶対的な存在と捉えることとなり、「憲法制定権力」を『神』として扱うことを強制しようとする考え方となる。


 このような「憲法制定権力」を『神』として扱うことを強制することになると、その憲法の秩序の下にいる人々の「思想良心の自由」という人権を侵害することになるため、相いれない多様な価値観を共存させるために生み出された人権という概念の性質にも反する結果を生む。そのため、妥当な考え方ではない。

 他にも、もし憲法制定権力の有する主権(最高決定権)によれば、人権概念を適用しない国民をつくり出す可能性があることを前提とすると、それは人権の固有性や永久不可侵性の性質にも反する。「人であれば当然に人権が保障されるべきである」と考える自然権の性質にも整合的な考え方ではない。

 



 これらの問題から、人権概念の正当性の根拠について、


〇 「条文上で定義すること」

〇 「憲法制定権力の持つ主権(最高決定権)によって憲法が制定されること」


にあると考えることはできない。

 人権の正当性の根拠を、何らかの「言葉の定義」や「条文の文言」、「特定の人物」、「歴史的な出来事」に求めることは妥当とは言えないのである。


 そのため人権の正当性の根拠は、人権という概念に含ませようとする意図の理論に求めるべきであると考えられる。

 この理論とは、

〇 多様な価値観を守るためには、前提として「多様な価値観を守るためのベースとなる価値観」を守らなくてはならないこと

〇 多様な価値観を共存させるためには、「多様な価値観を共存させるための基盤となる価値観」を優越的に取り扱う必要があること

〇 複数の絶対的であると主張する価値観を相対化して捉えることで、それぞれの絶対的な価値観を保障しようとする相対的な価値観

〇 「自由を否定する自由」を得るためには、前提として自由が必要となること

〇 「人権を否定する自由」を得るためには、前提として人権が必要となること

などと表現される相対的な価値観の優越性に基盤を置く考え方である。



 ただ、だからといって「人権」という価値観を絶対的なものとして押し付けてしまうと、その者の人権を侵害することになるという難しさがある。

 そのため、この理論を理解した者が、人権という概念を使って自由や安全を生み出すという考え方を人々に訴えかけ、人々の意識の中に「人権」という概念があたかも"存在するかのように"見せかけ、人々に信じられている状態をつくり出し、普及させることによって、その本来的な性質(人権という概念の機能)が保たれるというスタンスを保っておく必要がある。

 つまり、この理論的な到達点に注目し、人権という一つの価値観を「普遍性のある理念」として扱おうとする人々の意欲にこそ、人権概念の正当性の根拠を見出すことができるというわけである。

 このことから、人権概念の正当性を保っていくためには、この理論を理解した者の意志によって、その正当性の生命力をつくり続け、保持していかなければならないのである。




人権と法の優劣(作成中)


 「法の正当性」は「人権概念の正当性」に裏付けられる形で成り立つものである。
「法の正当性」は「人権概念の正当性」に頼って存在するのである。

 「法」という概念が何らかの正当性をもともと持っており、その「法」によって「人権概念」が生み出されたわけではない。なぜならば、「法」というものだけでは、その「法」自体が多様な価値観の中に含まれる一つの価値観に過ぎないものとなり、それが一定の地域の中で他の価値観を排して優越して機能することの正当性を見出すことはできないからである。


 多様な価値観の共存を実現するための基盤として「人権」を掲げ、それを保障する仕組みとして「法」を機能させるところにこそ、他の価値観より優越する正当性が生み出されるのである。「人権」に裏付けられていない「法」という価値観のみによっては、その「法」という価値観が他の価値観を排して優越的に機能することを正当化することができないのである。


 ✕ 「法の正当性」⇒「人権の正当性」

 「憲法を制定することによって、人権概念が生み出された」という考え方は、「法」を名乗る一つの価値観に過ぎないものを根拠として「人権概念」を基礎づけようとするものであり、「法」を名乗る一つの価値観でしかないものが他の価値観を排して優越して機能することを理論的に正当化することはできず、妥当でない。


 〇 「人権の正当性」⇒「法の正当性」

 「人がもともと持っているとする人権概念を、憲法という法を制定することによって確認した」という考え方は、多様な価値観を共存させるための基盤となる概念に優越性を見出し、その基盤を保障するために「法」の機能を生み出そうとするものであることから、理論的に正当性を示すことができ、妥当性がある。

 よって、「憲法」という「法」を「人権」の存在根拠であると考えることは妥当でない。「憲法」は単に、人が持つとされる「人権」が壊れないように『保障』する仕組みとしてつくられているだけであり、存在根拠となるものではないのである。


 憲法は、「人権概念を正当性の基盤とする」という憲法制定当時の「合意事」を示す以上のものではない。そのため、法の正当性を守り、その効力を生み出すためには、今後も私たち自身が、「人権が存在する」という合意自体を、「不断の努力」によって保持し、その「価値と正当性」をつくり続けなくてはならないのである。


 私たちは、今後も「自由獲得の努力(97条)」を続け、「幾多の試練に堪へ(97条)」ながら人権概念を「不断の努力によつて…保持(12条)」し、「現在及び将来の国民(11条、97条)」に対しても、「侵すことのできない永久の権利として(11条、97条)」「与へ(11条)」ていくことを「信託(97条)」されている。これが、12条の『人権保持義務』の意味である。

 法秩序によって自由や安全が保障される社会を維持していくためには、この仕組みを理解した私たち自身が、「人権概念の存在と価値と正当性」を人々の認識の中につくり続けていく必要がある。そして、人々の意識の中にある人権概念が有している「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」という「永久不可侵性」の根拠が、実は「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」という意志の観念によって維持されていることによって成り立っているものであるという本質を「現在及び将来の国民(11条、97条)」に対しても受け継いでいき、その「人権概念の存在と価値と正当性」の生命力を「不断の努力によつて…保持(12条)」し続けていくことを「信託(97条)」していく必要があるのである。
 






ブランド・プロモーション

 憲法97条と11条に記載された『侵すことのできない永久の権利』という表現は、人権ブランドを最高の権威として神格化させるように意図したブランド・プロモーションである。こういった表現方法は、案外日常にもあふれている。その意味を読み解く上で参考になるものは多い。いくつか類似した表現を取り上げ、この言葉の意味を読み解いてみよう。


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 <憲法中の表現>


〇 『侵すことのできない永久の権利』(97条、11条)



 <類似した表現>


〇 「この製品は、永久保障です。」


〇 「我が巨人軍は永久に不滅です。」(長嶋茂雄)


〇 「ディズニーランドは完成することがない。世の中に想像力がある限り、進化し続けるだろう。」(ウォルト・ディズニー)

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 これらの永久性の実体は、経営者や従業員、監督や選手などの「努力の成果」であり、「不断の努力」によって支えられているのである。


 これらは、憲法中の「努力の成果(97条)」、「不断の努力(12条)」と同じものである。人権ブランドも、先人や現在の国民の「努力の成果」として成り立っており、今後も「現在及び将来の国民」が「不断の努力」によってその永久ブランドを成り立たせていく必要があるのである。



<理解の補強>


奥平康弘さんを悼む~憲法学者・木村草太 2015-02-07




法は生き物

「経済」は生き物だ。

同じように、「法」も生き物だ。

その法の効力の源泉は、人々の意志の観念によって、人権概念の存在と価値と正当性の生命力が維持されていることによるものである。

その人権概念の確からしさを基にすることによって初めて、法がその社会の人々の中で一つの秩序として効力を持つのである。


その人権の実質は、法の条文の中には存在していない。

人権の実質は、私たちの心の中にある。

条文は死んでも、人々の人権保障への意志は死ぬことがない。

法の条文が失われても、人々の自由や安全を求める人権保障実現への意志は永久不滅である。

これが、人権を基にした法の精神の中核である。




法はそこにはない。法は私たちの心の中にある。

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長谷部 本でも引用しましたが、米国の著名な裁判官ラーニッド・ハンドがこんな言葉を残しています。

「 われわれは憲法典、法律、裁判所に期待をかけすぎてはいないだろうか。それは偽りの期待だ。自由は人々の心に生きる。人々の心の中で自由が死んだとき、憲法典も法律も裁判所も、全く助けにならない。 」

 私たちの心の中で憲法が死んでしまえば、テキストは何の役にも立ちません。憲法の大切な役割のひとつは、人々が法という補助手段に頼らず、自分自身の良識を信じ、判断しなければならないこともあることを想起させてくれるよすがとなることです。
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「打倒 芦部憲法学」弟子の長谷部恭男早大教授が語る 2020年03月15日


 

 <法の根本>


① 人の心(個人の尊厳・人権概念)
   ↓

② 理性(合理・論理・科学・啓蒙思想など)

   ↓

③ 自然法(正義の観念、価値絶対主義、価値相対主義など)
   ↓
  実定法(その社会で制定されて具現化されている法)
    憲法
     ↓
    法律


 自然法を、神、自然、理性などと分類することもある。

 ①②③をまとめて、神という場合もある。ただ、その神の意味するところは、哲学や宗教学に関する知識がないと、それを理解することができない。

 また、法哲学における価値絶対主義と価値相対主義の認識の違いから、神というものに対して抱く考え方も異なってくる。

 

 

 自然法思想を基盤としていない憲法がつくられた際、その憲法は法の効力を持ちうるかについて考察する必要がある。

〇 王権神授説とは

 


〇 天賦人権説とは