人権の正当性

立憲民主制の基礎(作成中)




    【法の効力

法は、社会の中で人々の間にある共通のルールとして認知されています。
その法の効力は、時に私たちの生活を拘束することがあります。

しかし、
法の効力が作用するということは、人知を超えた「神の力」などという人間以外の外部からのパワーによって裏付けられているものではありません。(神を何と定義するかにもよりますが
現実世界は、バーチャルな3Dゲームのように人間以外の外部からの機械的な操作が加えられることによって行動を拘束されるわけではないからです。

法の条文は、文字の羅列でしかありません。
それは、単なる文字の羅列として記載された情報で、意味の集合体でしかないものです。

そのため、法を名乗る文章が存在しているだけでは、それが自ずと効力を持ち始めるわけではありません。
同様に、誰かが「憲法」を名乗る単なる文字情報を打ち出したとしても、それが当然に社会の中で通用する実力となり、法の秩序が成立するわけではありません。

では、法の拘束力は一体どこから生まれているのでしょうか。

法は人が作り出したものです。
法は、その社会の人々によって人間が人間を縛ることが合意され、確立した共通のルールとして認知され、そしてその法に対して人々が権威を認めて自ずと従おうとして、法に記載された言葉通りに行動を起こすことによって初めて機能し、効力が生まれ、その社会の中で実効性を持ち、成り立つ性質のものです。

その文章が単なる文字の羅列でしかないものなのか、社会の中で通用する実力として効力を有した法となるのかは、人々がその法の言葉通りに行動を起こすか否かによるものです。
突き詰めれば、人々が法の言葉通りに行動を起こす動機付けとして、根本的にはその社会の人々が「その法に効力がある」と思っているかどうか、あるいは、法に対して「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を抱いているかどうかにかかっています。
法の効力は、その法を認め、承認し、支持する人々の心の中につくり上げられることで存在するものなのです。

そのため、もし法が人々に支持されるものとなっていなければ、法の概念は人々の認識の中に普及することはありません。
すると、法に効力が生まれることはなく、その法は社会の中で通用する実力として成り立たないものとなってしまいます。
このことから、法の制度が人々に普及し、それによって法に効力が生まれ、社会を成り立たせる力としてその法の秩序が機能を果たす存在となる以前には、人が法を承認する心理的なメカニズムが必要となります。

法として書かれた文字の羅列が何らかのルールとして意味を構成し、人々に認められ、効力が成り立つ状態とするためには、人々がそれを権威あるものだと認める価値が含まれていることが必要です。


その権威となる価値を一般に「正当性」と言います。

人々の中には、社会の中で「その法に効力がある」と思っている人が多いことによって、それにつられて自ずと従っている人もいるかもしれません。
しかし、根本的には、法そのものを見て、「そこに正当性がある」と感じて自ずと従おうとする権威(価値)を感じる人が一定数いることによって法に効力が生まれることになります。
その文字の羅列でしかない憲法の条文に効力を生み出すための基盤となっているものは、人々に対して「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を抱かせる正当性の観念です。
実定法として条文という形で具現化されている法制度の仕組み(憲法)に実質的な効力を生み出す力となっているものは、根本的には人々が「そこに正当性がある」や「それが妥当である」と認めて自ずと従おうとする権威(価値)があるからです。

もし法にその正当性という価値がなかったならば、人々は法を支持することはなく、その社会の中で共通のルールとして効力を持つことはなく、法の秩序が成り立たなくなってしまうものです。
もし法に正当性があると認められていなければ、そのつくり出された法体系はすべて、生活上実感の湧かない無意味な文章の束となってしまい、その社会では法秩序が成り立たなくなってしまいます。
そうなれば、乱暴な力がまかり通る恐ろしい社会に変容してしまいかねません。
とても危険な状態となってしまいます。

ここで、法の確かな効力基盤をつくり上げる力となるような正当性の根拠が求められます。

そして、その法の正当性は、限りなくすべての人の気持ちに納得感をもたらすものをベースとしていることが求められます。
それは、もし万人が納得し、同意できるようなものをベースとしていなければ、法は人々に支持を得られる正当性を持つものにはならず、人々の「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」が引き起こされず、人々は法の意図に従おうとしないことから、社会の中で作用する力も生まれず、確かな効力基盤をつくり上げることができないからです。

そのため、法の効力を成り立たせるためには、その正当性のあり方が大切です。


    【神による正当性

法の正当性の根拠は、「神」にあるのでしょうか。

古い時代には、「法には
神の力がある」などと信じ込んでいた人々(信じ込まされていた人々)によって運用されることで、効力が生まれていたことがあるようです。
しかし、「神」を理由に法の正当性を説明しようとすると、その「神」を信じていない人にとっては法の正当性を説明することはできません。
また、他の「神」を信じる人は、他の「神」に基づいた別の法に正当性があると考えることとなってしまいます。
正しい「神」をめぐって様々な法が生み出されることとなり、どの法が正当であるかをめぐって深刻な対立が起きてしまいます。
そうなると、その社会の人々に広く適用されることを意図した法の仕組みを生み出すことはできなくなってしまいます。
他にも、「神」という特定の価値観を押し付ける形で法の正当性を説明しようとすると、法は「神」を信じない人など、異なる価値観を持つ人を受け入れないものとなってしまいます。
「神」をどのように定義するかにもよりますが、絶対的な存在としての「神」を基にして法の正当性を裏付けようとすることは妥当ではありません。


現在でも、自然法思想の一面的な理解においては、人には自然権があると考えることによって法の文言に従っている人はいるかもしれません。
ただ、日本国を含む現在の地球上の一定の地域においては、法は宗教的な神の神秘性を基にして運用されているわけではありません。


    【多数決の正当性

法の正当性の根拠は、多数決原理にあるのでしょうか。

社会の中では、何かを決定したり、何らかのルールを生み出したりする際に、多数決を用いることがあります。
例えば、友達同士の間で何かを決めたり、共通のルールをつくる際にも、多数決を用いることはよくあると思います。
会社など、一般的な社会生活の中で形成する組織でも、多数決原理が採用されていることは多いです。
そして、そこで為された決定に納得していることも多いと思います。

そのような経験から、「法は多数決原理によって決定されたことを理由として効力が生まれ、拘束力を有するものに変わる」と考えている人は多いと思います。
確かに、多数決に正当性があると信じる人たちだけで、合意事が成り立つことがあります。
しかし、先ほど挙げたような友達同士のグループや会社のような組織は、もともと「同じような思いを持つ人たちが集まることでつくられた組織」です。
そのグループや組織に参加するか否かがもともと自由であり、参加することを強制されていません。
そのため、もしその方針に賛同できなくなった場合や、自分が多数派の考え方と合わなくなって少数派となってしまった場合など不利益を受ける立場に立たされた場合には、所属を辞めることが可能です。最終的には、その組織の制度の拘束から簡単に脱退することができるという前提があります。
また、社会生活の中でそれらの組織によってあまりに酷い決定がなされた場合、大抵の場合は『民法』の不法行為に該当して損害賠償を行わなければならなくなったり、『刑法』に抵触して有罪となったりするため、危機的な状況に直面することは少ないと思います。

しかし、国家という枠組みの集団は、
多数派と意見や考え方の違いが発生し、そこで為された多数決の決定によって不利益を受けることになった場合に
、それを回避するために自分だけ所属を辞めるということが基本的にできません。生きていくためにはどうしても国家の領域の土地の上に住むしかなく、簡単には抜けることができないからです。
所属を辞めることができない集団の場合、仲の良くない人たちや考え方が全く相いれない人たちを含んだ形で多数決が行われることになります。多数派を形成できない者たちは、多数決によって多数派が決定した内容に従うことを強いられることになります。
しかし、多数派の行った決定によっては、少数派は決して譲れない一線に直面させられることになっても良いのでしょうか。

たとえば、
◇ 多数決で決定したならば、多数派とは異なる意見を少数派が発信する機会を奪うことができるようになってしまいます。
 多数決で決定したならば、多数派の決定したやり方に気持ちが乗らない少数派の思いや考え方を封殺することができるようになってしまいます。
 多数決で決定したならば、少数派としての考え方を維持することを禁じることができるようになってしまいます。
 多数決で決定したならば、少数派が多数決に参加する機会を奪うことができるようになってしまいます。
 多数決で決定したならば、少数派の「思想の自由」や「言論の自由」、「生命や身体、財産の自由」や最低限の安全などを奪っても正当化されてしまいます。
 多数決で決定したならば、少数派や特定の人は社会で生活するだけで不法行為となる「民法」が成立してしまうかもしれません。
 多数決で決定したならば、少数派や特定の人は社会に存在するだけで有罪となる「刑法」が成立してしまうかもしれません。(『存在自体が罪』とされる状態)
 多数決で決定したならば、多数派の意思によっていじめや差別、集団暴行、虐殺などの残酷な決定が行われても正当化されてしまいます。
 多数決で決定したならば、どんな乱暴なことを行っても許されることになってしまいます。

このように、法の正当性の根拠が多数決原理のみにあると考えた場合、もしその多数決によって無配慮で横暴な多数派の集団の意思が反映された決定が強行されることがあれば、少数派は著しい不利益を受ける事態に直面させられる恐れがあります。
少数派や個々人の最低限の自由や安全が確保されるように配慮がなされなかった場合、自由や安全が脅かされるような不安や恐怖に駆られ、堪えがたい犠牲を引き起こしてしまうことになります。
侵害を受けても、是正するための正当な権限が存在しなかった過去の時代の悲惨な歴史を繰り返すこととなります。

多数決原理の過度な行き過ぎは、受け入れがたい結果を引き起こします。

法の正当性の根拠を多数決原理にのみに置くことは、恐ろしい事態を招くこととなり、大変危険です。


法の正当性の根拠が多数決原理にあると信じ、法の意図に従っている人も一部にはいるかもしれません。
その人が多数決原理に正当性があると考える背景には、「多数決によって『最大多数の最大幸福』を生み出すことに正当性があるはずである」との価値観があると思います。
しかし、先ほど述べたように、このような価値観は最低限の自由や安全が一定程度確保されているために選択できる考え方です。
また、そこには既に「一人一票」という平等性が十分に確保されているという前提が崩れないことによって選択できる考え方です。
このような基底的な部分が確保されていない場合や、それらを奪うような決定を含めて多数決に結論を託すことはできません。
このように、多数決原理のみに正当性を置いた法では、正義に叶った社会を創造する力とはなりえません。

そのため、多数決の仕組みだけでは、ほとんどの人が賛同できるような正当性に繋がるものにはならず、
社会を成り立たせるための法の正当性の根拠としては不足しています。


    【多数決以前の正当性

ここで、
弱肉強食の悲惨な社会を生み出してしまう「数の暴力」を抑えることのできるような正当性の観念が求められます。
そこで、多数派の行った深い道徳心に反する堪えがたい決定から弱者や少数者を最低限の安全を守る力となるような正当性の観念に裏付けられた法が必要となります。

つまり、多数決原理を使って多数派の横暴な決定がなされても、少数派や、
多数派とは異なる意見や考え方を持った人々の立場が著しく侵害されてしまうことがないように、自由や安全の保障される最低限の配慮がなされた法の仕組みをつくる必要があります。

国家でなされる様々な決定による侵害からすべての人の自由や安全が最低限保障される仕組みを加える必要が出てきます。

これは、
社会の中で確かな効力を有する法を生み出すために必要な要素です。

その仕組みは、下記のような概念を正当性の基盤とする必要があります。

 個々人が尊重されるもの
 個々人の思考や考え方が尊重されるもの
 人が人生で抱きうるすべての考え方を包括したもの
 多様な価値観が認められるような前提となるもの
 個々人の自由が尊重されるもの
◇ あらゆる事態に対応できるもの
などが含まれていること

また、歴史的な事実としてあった人の生命・身体・財産を侵害されてしまう恐怖に目を向ける必要があります。
人は「強者による乱暴が横行する社会」や「無秩序な闘争状態の社会」に置かれたときや、自分の生命や自由が侵害されてしまう恐怖を感じます。
強者の乱暴が横行するような無秩序な世界や闘争状態の社会に置かれたとき、自分の自由や生命が侵害されることがないように守ってくれる力となるものであることが必要となります。

◇ 人の生命に対する侵害を防ぐもの
 人の身体に対する侵害を防ぐもの
 人の自由に対する侵害を防ぐもの
 人の財産に対する侵害を防ぐもの

法が人々から承認を得られるような正当性を有するものとするためには、人々の「平穏に生きたい」との願いが充足されるような、自由や安全を求める意志に裏付けられたものである必要があります。
こういった様々なものを突き詰めていくと、法の正当性には、人々のより良い生活(生存活動)を目指そうとする意志(自由や安全への意志)に裏付けられていることが必要です。

このことから、法はその正当性のあり方を、「人権」という概念に集約していきました。
人権という概念は、人々の「自由や安全への意志」を集約した概念です。
「強者の乱暴な力」や「強大な権力」をコントロールできない状態となった場合に、弱者に対する強者の侵害が起きることを防ぐため、人々は新しく「人権」という概念を生み出しました。
強者の弱者に対する侵害を最低限防ぐための武器となる概念です。
この世の人間社会には、今まで存在しなかった新しい概念です。


    【人権の正当性】(作成中)

何のルールもない社会の中では、強者によって平穏な日常生活が脅かされたり、自由や安全が奪われてしまうような悲惨な事態が私たちの身に降りかかることがあります。
そのようなことが許されないようにするために、「人には人権がある」という合意をつくったのです。
そのため、人権という概念は、根源的には「強者の乱暴な力」や「強大な権力」をコントロールできないことに対する人間の抱く恐怖が生み出した概念です。

人権という概念は、文章化された概念上の法体系ができる以前のものとして、高度に積み重ねられた哲学的な合意によって生み出されたものです。
そこには、人権を保障しようとする歴史的に形成された人々の意志があります。

そして、その「人権という概念が存在する」という合意を基にして、それが損なわれることがないように「法」という制度をつくり上げました。 【K】
ここには、人の心に抱かれた人権保障への意志が「法」というルールに変わる過程が含まれています。 【K】(2)
「平穏に生きていきたい。」「自由に安全に生きていきたい。」「すべての人々の自由や安全が保障されるようにしたい。」という人々の意志が、人権という概念を正当性の中核(基盤)とする「法」という決まりごとに変わるのです。 【K】


法は、人々が「人権」という概念を有していることを前提とし、それが損なわれないように保障するための手段として「法」をつくることを人々が承認することによって生み出されたものです。【K】
そして、その生み出された「法」に、人々が自ずと従うことによって、法は社会の中で通用する実力として成り立ちはじめるものです。 【I】
法に効力が生まれるのは、この「人権概念の存在と価値と正当性」の権威やその有益性を人々が認め、それを保障するための仕組みとして生み出された法の概念に正当性があると感じ、その仕組み採用し続けようとする意識が存在することによるものです。 【K】
法に対して人々が「妥当な内容である」や「正当性がある」と認め、そこに正当性の権威(価値)を感じて自ずと従おうとするのは、人々が「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という認識を有していることによるものです。 【I】
法の効力がその社会の中で成り立つための正当性の根拠となるものは、「人権概念の存在と価値と正当性」が人々に普及していることによるものです。

法制度をつくり出す大本となっているもの、法体系の中心にあるもの、法の根本となっているものは、人の心の自由や安全を求める心理的なメカニズムです。
法制度は、それを具現化してつくり上げられたものです。
法制度をつくり出す大本となっているのは、人間の「心」や「思想」、「考え方」の部分です。
法の効力を生み出す正当性の基盤には、道徳や倫理、思想、心理学、哲学などの「人の心」と「法の観念(概念)」を結びつける(繋ぐ)背景があります。 【I・S】

法の効力は、根源的には「人権保障を実現したい」と願う人々の意志によって生み出されているということです。

この意志の観念が、憲法という法が生み出され、実定法に具現化され、それが効力を持ちはじめるものとなるための正当性の観念の原点です。 【S】

憲法97条には、下記のように記載されています。

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第97条    この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

これは、憲法という法に効力を生み出すための大本にあるものは、「人権を保障したい」という人々の意志であることを明らかにしている部分です。 【I】
また、「法」に効力を生み出すための正当性の観念(根拠)となっている「人権」という概念は、人のもっている意志の観念が生み出したものであることを示しているところです。 【S】
それにより、人々の『人権保障への意志』が集まり、『憲法』という実定法が生み出される」という過程を経て生まれたこの法こそが、あらゆる実定法に優越する最高法規性の権威の根拠となることを示すものとなっています。

私たちの生活を規律する「法」というものの効力は、もともとは人権を保障しようとする人々の意志の正当性から生み出され、今なお人々の心の意志から生み出され続けて成り立っているのです。 【I】

憲法には、人の心に抱かれた人権保障への意志が「法」というルールに変わる過程が含まれています。 【K】

憲法の正当性の根拠は、倫理学や哲学、心理学、宗教学などの深い思考や学問上の合意を基にした「道徳的・倫理的な共生性の意志」によって「人権」という概念の存在と価値と正当性をつくり出された上で、その人権を保障する仕組みとして法という観念(概念・作用)を採用し、それを文字に表し、文章としてまとめ、実定法の制度の枠組みとしているところにあります。 【K】

憲法は、効力を持った法制度を生み出すための大本となっています。
憲法の「他のあらゆる法に優越する」という実質的な最高法規性の根拠となっているものは、人の心の奥深くにある自由や安全を求める意志が実定法に変わるところにあります。 


その憲法の効力を生み出す正当性の根拠となっているものは、人々の認識の中に「人権概念の存在と価値と正当性」の意識が存在することによるものです。

これが、条文という単なる文字情報でしかないものが、社会の人々の意識の中に認知され、その意図が
現実に具体化され続けていくよう機能するための原因となっているものです。

これは、憲法が意味を構成して制度化され、文字という形式に文章化され、実定法として現実に存在する以前にあるものです。

人権を中核としていることから、憲法は人権保障を実現することを目的として構想された法の仕組みということになります。





法の存立根拠(作成中)


 そもそも憲法とは、ルールなどが何もない無秩序な世界(土地の上・領域)に集まっている人々が、新しい秩序を構築し、新しい体制をつくり上げるために革命的に打ち出す性質のものです。


 そのようなもともとの何もない世界は、国家スタンスがそもそも形成されていないため、民主主義でも、社会主義でも、共産主義でも、独裁主義でもありません。政治的な立場や政策上の立場を表明するような主義や思想のまとまりがありません。

 そのもともとの何もない中では、単に人々が平穏な生活を実現しようとする意志しか存在していないと思われます。

 

 そのため、法とはもともと、「自由に、安全に、平穏に生きていきたい。そのために新たな秩序を構築したい。」という意欲によって創造され、生み出されているものです。
 自由や安全を実現しようとする人々の意志が集まり、「人権」という概念を確立させていき、それを正当性の根拠として「法」という概念が生み出されるのです。

  「自由や安全を確保したい。そのために人権の保障される社会をつくりたい。」という人々の意志が、「法」という決まりごとに変わるのです。 

 そのことから、この意志の観念が、憲法を生み出した原点です。

 

・憲法は、もともとその憲法を打ち出した人々が持っている「人の人権を保障したい」という意志によって創造され、生み出されたものです。 【K】

・憲法は、人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という意志がつくり出したものです。

・憲法の正当性の核心部分は、人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という意志がつくり出したものです。

 


・それは、人々の抱く、
秩序が崩壊することによって起こる侵害に対する恐怖の心理的メカニズムに裏打ちされたものです。
・人々が人権という概念を新しく創造し、それを保障するために憲法という法の制度の枠組みを打ち出す(心理学的、哲学的、思想的な)モチベーションの背景には、人権が侵害されてきた人類の恐怖や犠牲の歴史が含まれています。 【K】



 憲法に託した「人権保障を確実にしたい」という人々の意志は、為政者の恣意的な判断によって人権が侵害され苦しい思いをしてきた先人たちが遥か昔から「自由獲得の努力」を繋いで持ち続けてきたものです。
 その人権を確実なものとして保障しようとする意志は、過去幾多の人権侵害の危機があった際にも、その試練を耐えて今日まで受け継がれてきたものです。

 それは、「過去幾多」の人権概念が侵害されてしまうような危機があった際も、その「試練」を堪えて今日まで守り抜かれ、受け継がれてきたものです。

 

 憲法は、人権侵害の恐怖や苦悩を経験した者たちの精神活動によって極めて慎重に生み出されたものです。


この意志とその積み重ねられた合意こそが、憲法に含まれている「人権」という概念の存在と価値と正当性の本質となっているものです。

この配慮こそが、人々の最低限の自由や安全を確保するために、すべての人に「人権」という概念が存在すると仮定して生み出された憲法という法が本質的にもっている正当性のあり方です。 【S】

 

これが、「憲法」と呼ばれる単なる文字の羅列でしかない文章が、その社会の人々の間で共通ルールとして扱われるものへと変わり、そのルールの体系の中心に位置付けられるものとして成り立つための効力の源泉となっている正当性の観念(根拠)です。 【S】
これが、憲法の効力の源泉となっている正当性の観念(根拠)です。



憲法の中心には人権保障実現への意志があります。

憲法には、人々の「人権保障を確実にしたい」という意志が託されています。

憲法は、人々の人権を保障しようとしています。


 憲法の第十章「最高法規」では、その人々の意志の観念によって生まれた法であるからこそ、憲法が最高の権威として存立する正当性を有し(97条)、あらゆる他の法形式に優位する最高法規性を持つこと(98条)が示されています。

 

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    第10章 最高法規

〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
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 「実質的最高法規性(97条)」〔自由の基礎法の性質〕の正当性は、法の効力の上下関係を示す「形式的最高法規性(98条)」を裏付ける関係にあります。そして、その「実質的最高法規性(97条)」は、この人権保障への意志によって支えられているものです。

 この97条がまさに、「法」とは人のもっている意志の観念が生み出したものであることを示すものです。

 憲法の正当性の源泉は、「自由や安全を確保したい(人権を保障したい)」という人々の意志によって確保されているものです。

 


 今日の人権保障の水準は、先人の人権保障を確かなものにしようと(人権という概念とその保障を確かなものにしようと)積み重ねてきた意志の成果が形づくっているものです。

 これは、自由や安全を求める「人権保障実現への意志」を持った人々が、人々の認識の中に「人権概念の
存在と価値と正当性」を創造し、普及していることによるものです。


 

 そのため、今後も法の効力の実体を生み出し続けるためには、「人権という概念の存在と価値と正当性」をつくり続けて守り抜く意志が必要となります。

 このことから、憲法の文言においても、人の自由や安全を求める(平穏な生活への)根源的な意志を刺激することを重視し、憲法典が今後も人々の持つその意志を集める役割を担うように意図したものである必要があります。 

 法の効力正当性を導き出すためには、その実質として「自由や安全(人権保障)を実現するために『人権』という概念をベースとして法秩序をつくり上げようとする人の意志」を背負っている必要があります。

 そのため、憲法改正を行う際にも、「人々の自由や安全を求める意志(心の作用)が
法秩序を形成していく」という精神を示すことのできる表現が抜け落ちるようなことがあってはいけません。


 この憲法の存在価値である「人権を保障する」という作用(役割)は、単なる多数決原理が生み出すわけではありません。


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憲法は、人間が自由や安全を求める意志が生み出すパワーをベースにした考え方によってつくられるものです。

それは、人権の保障された生活を実現しようとする意志、人権保障を実現しようとする意志が生み出すパワーです。

これは、政治的な主義や政治勢力の思想や政策上の方針の以前にあるものです。


憲法に込められた人権保障の意図の真意は、特定の政治上の立場や制度の仕組みを示したものではありません。

人権保障の本質は、何らかの政治的な主義や政策を表明し規定しているものではあません。

そのため、民主主義でも、社会主義でも、共産主義でも、独裁主義でもありません。

(自由主義と言われることがありますが、これを押し付けてしまうとその者の自由を奪うことになってしまいます。そのため、自由主義であると押し付けることもできない点で、規定できないものです。)

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法の効力の源

効力が失われる可能性>

法の効力を生み出しているのは機械やパソコンではありません。
そのため、文字情報として記載したからといって、その文字に記された命令(指令)通りに効力が生まれるわけではありません。

法は、人々がその意味を読み取り、そこに正当性の権威があると認めて自ずと従おうとすることによって初めて機能し、効力が生まれ、社会の中で通用する実力として成り立つものです。
法は、人々が「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を抱き、法の文言通りに行動しようとすることによって初めて機能し、効力が生まれる性質のものです。
法の効力は、人々が「権威を認めて自ずと従おうとすること」によってしか成り立ちえないものです。

このことから、単なる文字情報としての法が改正されたとしても、その新しい法を認知し、自ずと従うことで効力を生み出すのは、その社会にいる「人」です。
これが、法に効力を与えるための前提となるものです。

そのため、たとえ改正手続きの過程を通ったとしても、必ずしもその法に効力が生まれ、社会の中で通用する実力として成り立つものとなるとは限らないのです。


もし法が十分な正当性を認められるものとなっていなければ、人々の意識の中でその法に対して「権威(正当性)を認めて自ずと従おうとする気持ち」を抱くことはなくなります。
すると、「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」が引き起こされないことから、法に記載された文言の意図に自ずと従おうとする人々がいなくなってしまいます。
その結果、法の効力が十分に生まれなくなり、法の効力が弱まったり、失われてしまうこととなり、社会の中で通用する実力として成り立たなくなってしまいます。(恐れがあります。)
法の確かな効力基盤をつくり上げる力となる正当性の観念が必要です。

そのため、憲法改正の改正の手続きを経るとしても、法の効力が保たれるようにするためには、人々の意識の中の、法に対して抱いている「権威(正当性)を認めて自ずと従おうとする気持ち」の基盤が損なわれることがないようにする必要があります。

法の効力を保つためには、人々の抱く法への信頼を保つことが大切です。

憲法の効力を生み出すための正当性の在り方は、学術的につくり込まれた完成度の高さから生まれる信頼性が重要な要素となります。
学術的な完成度が高い法の仕組みを構築することが求められます。


    〔多数決に正当性があるのか〕

法の効力を生み出す正当性の基盤は、多数決にあるのでしょうか。

法の正当性が多数決原理にあると考えている人が、その法の意図に従って行動することによって一定程度の法の効力が生み出されている側面はあるかもしれません。

しかし、それは法の効力を生み出すための法の正当性の中心的な要素ではありません。


法の効力の大本は、多数決原理によって生まれたわけではありません。

その理由は下記を挙げることができます。

例えば、多数決の手続きのみに正当性があると考えて打ち出す法は、多数決によって「人権」を奪うことも可能となってしまいます。
もし改正手続きによってその法から人権概念が奪われてしまった場合、その法に従おうとするはずであった人々の立場が脅かされることになってしまいます。

そのような法は常に多数派による侵害の危険を有するものとなってしまうことから、人々はその法に対して抱く正当性の権威(価値)を感じにくくなります。
すると、人々はその法に対して魅力を感じなくなり、その法を受け入れられるものとしては扱わなくなることが考えられます。

そのよう法は保障される人権の質も低いことから、人々から権威(価値)を認められ、高い支持を得ることはできず、人々の認識の中にある法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を損ない、法の効力も弱まり、社会の中で通用する実力としては十分に成り立たないものとなってしまいます。


このことから、法の効力は、単に「多数決原理に正当性がある」と信じることのみによって成り立っているものではありません。


    〔多数決を上回る価値〕

ここで、多数決の侵害を止めることのできる価値に法の正当性の基盤を定める必要があります。
そこで生み出されたのが「人権」という概念です。

人権という概念は、法に定められた多数決の手続きによっても奪うことができないことを前提としてつくられた概念です。


そのため、人権という概念が多数決に優越する価値として位置付けられている以上、法の正当性を裏付けるものは多数決の手続きではなく、人権概念にあることになります。


この多数決の侵害を食い止めることができる価値として生み出した「人権」という概念を正当性の源とし、法の秩序を組み立てるところに、法の効力の基盤となる仕組みを見出すことができます。

そのことから、法の効力の大本も、多数決の手続きによって生み出されているわけではなく、人権概念に裏付けられていることによって生み出されていることになります。
 


この人権概念の正当性は、「憲法が文字情報として実定化される以前に存在するもの」という前提で宣言されることによって生み出されているものです。

この仕組みを持った法が、最高法規として位置付けられている「憲法」です。



<憲法の効力基盤>

 憲法の正当性
の根拠となっている人権概念は、憲法を生み出した人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という人権保障を実現しようとする「意志」によって成り立っているものです。

 恐怖と苦悩の歴史的経緯や思想的、精神的経緯から生まれる人権保障の実現への意志と合意に裏付けられていることが必要です。

 憲法の効力は、「人権概念の存在と価値と正当性」を宣言的に発することで、人々の意識の中に「法の正当性の裏付け(基盤)」が"あたかも存在しているかのように"つくり出すことによって生み出すものです。

 「人権概念の存在と価値と正当性の本質をつくったものは、人々の心の奥深くにある自由や安全を求める意志によるものです。


 そして、その「人権の存在と価値と正当性」の本質部分は、その人々の中でも、特に、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者の道徳的・倫理的な共生性の意志によって保たれているものです。
 

 それは、この「法」という制度の効力それ自体の根源となる「人には人権がある」という人々の認識を運用していく背景は、実存主義的な価値相対主義の認識を持つ者にしか適切に扱うことができないからです。


 それは、実存主義的な価値相対主義者にしか、人々を拘束する「法」というメカニズムの効力を維持するために必要となる、人々の意識の中にある「人権という概念が存在し、価値や正当性があり、それは実定法の制度に優越するものである」という前提認識が、実は少数の理解者によって、人々にそのように認知されるように意図して創造されているものであることを、十分に理解することができないからです。

 

 実存主義的な価値相対主義者こそが、自然法の発想による「法に定められた多数決の手続きの正当性よりも、人権の正当性が優越する」や、「多数決の決定の正当性以前に、人権の正当性がある」とする「人権概念の存在と価値と正当性」の創造者ということです。


「人権概念の存在と価値と正当性」の本質をつくった
実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力(狭義)は、根源的には多数派ではありません。

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 憲法の正当性を成り立たせている「人権概念の存在と価値と正当性」は、本来的に多数決原理の正当性によって生み出された観念ではありません。


 「人権概念の存在と価値と正当性」は、憲法が条文中で採用している多数決原理の決定手続きの正当性以前に存在するものとしてつくられた観念です。

 なぜならば、多数決によって初めて合意されることで人権概念が生まれるとするならば、多数決によって否定した場合に人権は消滅することとなり、多数決によっても奪うことのできない概念として人権が掲げられている意味と矛盾してしまうからです。

 多数決によって生まれる法の文言それ自体が「人権概念の存在と価値と正当性」の根拠となるものであると考えるのであれば、結局は多数決によって人の人権を奪う(剥奪する)ことも可能となってしまいます。

 多数決で人権を定めようとすることは、そもそも人権の本来的な性質に反することになってしまうのです。

 そのことから、その「人権概念そのものが存在し、価値と正当性がある」という権威を人々の意識の中につくり出すことは、多数決によってはできないものです。

 そして、「人権概念の存在と価値と正当性」の権威を中核として法を生み出し、その法の効力の根拠とすることは、多数決によって合意を形成し、確定的なものとして定めることができる性質のものではありません。

 「人権概念の存在と価値と正当性」それ自体を構築し、法制度に効力を持たせるための正当性の裏付けを「人権概念の存在と価値と正当性」に置くことは、多数決原理という形式的な手続きのみによっては生み出すことができないものです。

 そのため、
> 「人権の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に創造 (← 多数決では不可能)
> 人権を中核として法を生み出すという前提の創造 (← 多数決では不可能)

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 憲法の正当性は、単なる形式的な多数決の手続きを絶対的な正当性の根拠と見なすことによって成り立っているわけではありません。

 憲法の正当性は、「多数決原理に絶対の正当性がある」という認識によって生み出されているわけではありません。

 憲法の正当性を実質的に裏付けているものは、憲法の条文の中に制度として書き込まれている単なる多数決原理によって生み出すことはできないものです。

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憲法という法に効力を生み出すための盤となっている正当性の観念は、多数決の正当性とは異なるものです。

多数決原理という手続きは、法の効力を形成する正当性の中核とはなりません。

 

学校で行われる多数決投票や会社組織での役員選出、定款変更、運営の意思決定などとは異なります。

 

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 このことから、多数決原理のみによって、法の
効力基盤をつくり上げ、人々の人権(自由や安全)を保障しようとする憲法の価値を実現することができるとの考えを押し通すことは妥当ではありません。

 


憲法の正当性
を理解するためには、実定法の条文上に定められた民主主義の政治を実現するための多数決原理という手続き(ルール)以前にある、人々の人権保障を求める根源的な意志を捉える必要があります。

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憲法という法の実質的な正当性の基盤となっているものは、「人権を保障する」という作用にあります。
人権保障を確実にすることを目指す「立憲主義」の理念によって、憲法の正当性が生み出されているのです。
 
「立憲主義」の理念によって人々の人権保障を実現しようとする作用の正当性は、多数決正当性に優越するものとしてつくられています。
多数決原理の決定方式を採用し、多くの国民の意見を反映させることは、人権保障の理念が確保された後のことです。

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 そのため、法に効力を持たせるためには、「人権という概念は、法制度が生まれる以前に存在するもの」という前提を人々の意識の中に創造し、「人権という概念に裏付けられた法の制度にこそ正当性がある」という認識を普及させていくことが必要です。



    【憲法改正の多数決の手続き】

 このように、「憲法」という法制度の大本の仕組みは、もともと何もない状態から歴史的、哲学的、心理学的な思想から「人権という概念の
存在と価値と正当性」を人々の意識の中に創造することで、法の正当性の基盤をつくり、社会的に通用する実力としての法の効力を構築し存立させていくところにあります。【T】

 憲法の正当性の根拠は、哲学や心理学、倫理学、宗教学などの深い思考や学問上の合意を基に道徳的・倫理的な共生性の意志によって「人権という概念の存在と価値と正当性をつくり出し、その人権を保障しようとする観念として法という作用を採用し、その制度の枠組みを文面に現わし、実定法として定めたところにあります。



たとえ憲法を制定、あるいは改正するために多数決の手続きを経たとしても、そこで生まれた「憲法」と呼んでいる文字の羅列(文章)にすぎないものの正当性の裏付けがその社会を構成する人々に当然に認められ、その文言の意図がシステマチックに機能し、社会に通用する実力となるわけではありません。


 ━ また、もし多数決原理の手続きを通すことのみによって憲法の正当性を裏付けることができるとの認識の下に改正手続きが行われたならば、価値相対主義の認識に基づく人権観が壊れてしまい、質の高い人権保障を実現することのできない法の仕組みに変わってしまう恐れがあります。 ━


 憲法改正について定めた規定は「将来、社会の価値観が変化した事態に対応するためのもの」という建前に過ぎません。よほどのことがなければ改正しないことが前提です。

 「多数決の手続きさえ踏んだならば憲法改正の限界はない」と考えることは、「人権の存在と価値と正当性」という法秩序そのものの正当性を裏付ける基盤を失わせることも可能となってしまいます。

 

 この考え方からは、「人権保障を実現することを目的として機能するものが法である」とする実質的な「人権の存在と価値と正当性」に裏付けられた法の正当性を導き出すことができません。


そのため、憲法改正の多数決の決定手続きを経ても、理論上は、法の効力を生み出している正当性の根拠となっている人権概念の中核部分(価値相対主義に裏付けられた自然権の建前の人権観)を変えることはできません。
たとえ憲法改正において国民投票という多数決原理の決定手続きを経たとしても、その改正内容が近代立憲主義の「人権の普遍的価値の建前」の理念に沿うもの(整合的なもの)でなければ、その法の正当性は十分ではありません。
なぜならば、その法の正当性の裏付けとなっている人権保障の機能が失われてしまうからです。
すると、その多数決原理の改正手続きについても正当化することはできなくなります。



憲法改正を行うとしても、その内容が多数決原理の
正当性よりも以前にある、法の観念の正当性を裏付ける「人権概念の存在と価値と正当性」という大前提を壊すようなものとなってはいけません。

人々の意識の中から法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を失わせてしまうような「『人権概念の存在と価値と正当性』の"らしさ"を損なってしまうような改正」は行うべきではありません。
 

憲法改正は、その人類が憲法を制定することで人の人権を保障しようとした本質的な意図を十分に理解した上で行う必要があります。
また、その意図を壊してしまった時に、著しい人権侵害が引き起こされてしまう危険性を知っておくことが必要です。

 




簡易版まとめ

法が効力を有するのは、人々がその効力を認めているからである。
人々が法に効力を認めるのは、自分を縛ることもあるが、本当にピンチの時に守ってくれるという確信があるからである。

この確信は、「私たちの『人権』を守ってくれるものが法である」という前提によるものである。

しかし、法実証主義によって法を見てしまうと、改正手続きの多数決原理が憲法の正当性を裏付ける絶対的な根拠となってしまう。

これは、「多数決の正当性」が「人権の正当性」を上回ると考えることに繋がる。

すると、多数決によって人々の有している「人権」をはく奪することが可能となってしまうことから、人々の有している「法は自分たちが本当にピンチの時には必ず守ってくれるだろう」という確信が失われてしまうこととなる。

そうなると、人々はそのような法を承認する意欲が失せ、法という秩序が社会の人々を結びつけておく求心力を失わせ、法の効力が成り立たなくなってしまう。

こうなると、法秩序そのものが失われ、強者の暴力や権力者の横暴に歯止めをかける術がなくなってしまう。

結果、社会は乱れ、人々は混乱に巻き込まれ、不幸な状態に陥ることとなってしまう。


これを防ぐには、「人権の正当性」が「多数決の正当性」を優越するという認識を確実なものとして普及しておく必要がある。

この合意が人々の認識から失われてしまったならば、途端に法秩序は崩れてしまうからである。

しかし、この合意を保つ際に難しいのは、「人権」という概念は、本来存在しない概念であることである。

そのため、「多数決によって特定の人やすべての者の人権を奪うことができる」と主張する者や、「人権など存在しない」と主張して乱暴を行う者との間に、常々緊張を強いられることとなる。
そこで、それを知っている実存主義的な価値相対主義の認識を持った者が、「人権」という概念が存在し、価値と正当性があるかのように人々の認識の中に努めて普及し続けなければならないこととなる。
これは、自己利益のみを考えた多数決制のようなものではなく、すべての人の自由や安全を守ろうとする寛容性を根底に持った「道徳的・倫理的な共生性意志」によるものである。





人権と多数決の優劣

「人権の正当性」と「多数決の正当性」の優劣について考えてみます。


「人権」という概念は、法に定められた多数決原理の手続きによっても奪うことのできないもの(価値)として生み出されたものです。

それは、「人権」という概念は、多数決原理をもってしても奪えないものとして定める(扱う・位置づける)ところに、その概念が生み出された意図を発揮する性質があるからです。

「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものとするところに、「人権」という概念が生み出されている意図があります。

そのため、「人権の正当性」は「多数決の正当性」に優越します。



しかし、憲法の
正当性を裏付ける基盤が多数決原理にあると考えた場合(に求める場合)、多数決を行うことによって「人権」を奪うことも可能となってしまいます。

憲法の正当性の裏付けるものは多数決原理のみであると考えると、憲法改正の手続きに従って多数決を行えば人々の人権を奪うことも可能となってしまいます。
そうなると、たとえ多数決によって決定されたとしても「人にはもともと侵すことのできない権利がある」という考え方を前提として作られた、「人権」という概念の性質を保つことができません。
これでは、多数決に優越する価値として「人権」という概念を生み出していることと論理矛盾に陥ってしまいます。
多数決によって人権を奪うことができてしまうのであれば、人権保障を実現するために憲法を定めようとする意図と論理矛盾に陥るため、妥当ではありません。

すると、「多数決によっても侵害できないもの」として「人権」という概念を掲げることによって、人々の人権の保障を実現しようとする法の機能が失われてしまいます。
憲法という法が本来意図している(実質的に法が目指している)「人権」という概念によって人々の自由や安全を確保しようとする仕組みを損なってしまいます。

憲法は、人々の人権を保障することを意図して、実定法という形をとって定められたものです。
しかし、これでは憲法という法の本来の意味を失わせ、憲法の存在意義そのものを喪失させてしまいます。
本来の憲法の姿を保つことができなくなってしまいます。

 


このように、法の正当性の基盤が多数決原理のみにあると考えて、単なる形式的な多数決を正当性の根拠としてつくった憲法では、
憲法を打ち出すことですべての人に質の高い人権保障を実現しようと意図した立憲主義の理念が本来的に意図した法秩序の仕組みを壊すことに繋がってしまいます。
法に対するそのような理解は、不完全で誤った考え方です。理論的に妥当ではありません。

 


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多数決という決定方式は、憲法によって採用されている制度です。
そのため、多数決という決定方式の正当性は、憲法の正当性に頼って生み出されたものにすぎません。
そして、その憲法は「人権保障を確実にする」という近代立憲主義の理念に裏付けられた形で構成されたものです。
その「人権保障を確実にする」という近代立憲主義の理念は、人々の意識の中に「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という認識が存在することによって成り立っているものです。
そして、その「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という認識が人々の意識の中に存在する原因は、「自由や安全を実現しようとする意志」、「人権保障を実現しようとする意志」を有している者が、人々の意識の中にあたかももともと存在するものであるかのように定着するように意図的に創造し、生み出していることによるものです。

つまり、多数決という手続きの決定方式正当性は、「人権保障実現への意志」を持った人々によって生み出された「人権という概念の存在と価値と正当性を中核として生み出した「人権保障を確実にする」という近代立憲主義の理念に裏付けられた形で構成した
憲法」という法の条文に書かれた文字の意味によって成り立っている民主主義に基づく政治を実現するために採用されている制度に過ぎないということです。

「人権保障を実現しようとする意志」
   ↓
「人権という概念の存在と価値と正当性」を創造
   ↓
「人権保障を確実にする」という近代立憲主義の理念
   ↓
実定法としての「憲法」を構成
   ↓
民主主義の政治を実現するために「多数決」の手続きを採用して条文化
   ・法律の制定等
   ・憲法改正における国民投票(96条)
D
多数決原理は、人権概念の正当性に裏付けられることによって成立する憲法が採用している制度です。
これは、人権保障の理念に裏付けられているからこそ、法の正当性が成り立ち、その正当性に基づいて「民主主義の多数決原理」という決定方式が採用されているものです。



人類が憲法を生み出して法制度を構築した究極の目的は人権保障にあります。
憲法の役割(存在価値)は「人権を保障する」という作用にあります。
憲法という法の正当性の裏付けは、「人権保障のための立憲主義」の理念にあります。

そのため、憲法改正の多数決の手続きによっても、「人権保障のための立憲主義」の理念を損なうことはできません。
憲法改正の多数決の手続きは、憲法そのものの正当性を取り扱う(裏付ける)には正当性が不足しています。
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〇 法(憲法)の効力の発生原因とは何か
    ↓
 〔人々が自ずと従うこと〕
    ↓ 
〇 法(憲法)の正当性の権威の発生原因とは何か
    ↓ 
  神なのか → 〔神ではない〕(神は間違った認識)
    ↓ 
  
多数決原理なのか → 〔多数決原理ではない〕多数決原理は間違った認識)
 
    ↓ 
  神や
多数決原理の行き過ぎを防ぐ力となるもの
    ↓
 〔人権の存在と価値と正当性
    ↓ 
〇 人権概念の正当性の権威の発生原因
    ↓
 〔"ない"ものを"ある"と言う気合い〕
    ↓ 
〇 実存主義的な価値相対主義の道徳的・倫理的な共生性意志(寛容さ) ← 恐怖に裏付けられている


「人権保障実現への意志
=「人権概念の存在と価値と正当性を創造する意志
=「実存主義的な価値相対主義者の意志
=「憲法の人権概念の本質をつくった憲法制定権力者の意図」
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(構成メモ)

法の効力を持たせる必要がある 〇
 ↓
法の実力とは、人々に効力があると信じられ、人々が自然と従うことによって初めて成り立つもの 〇
 ↓
人々が認める正当性が必要 〇
 ↓

 (多数決は正当性の根拠となるのか) 〇
 ↓
自由や安全を守ることへの合意に正当性を置く 〇
 ↓
それらを人権という概念に集約 〇
 ↓

 (人権と多数決の優劣)
 ↓
人権概念の存在と価値と正当性を創造することが必要 △ (意志によるもの)
 ↓
正当性が信じられるように人々の認識を運用することが必要 ✕
 ↓
自然法の人権観(自然権)として普及する都合の良さ ✕
 ↓
これを理解できる実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性意志によってなされるもの ✕
 ↓
人権概念を維持するために不断の努力が必要 ✕







人の心の振れ幅を制約する

憲法は、人々が自由や安全を保障しようとする意図をもって「人権」という概念を生み出し、その存在を認め、その合意を実行することによって自由や安全を実現するために、その人自身を含めたあらゆる人々や権力者の力を縛るための法の秩序をつくろうとするものです。
そのため、結局その法という観念の本質となっているものは、人の心です。
法の効力の根源的な拠り所が、それを認識する一人ひとりの心にあるということは、やはり非常に不安定な性質を持っています。
なぜならば、根拠が人の心にあるということは、「法」という観念が生み出す効力や、「人権」という概念の正当性の認識についても、人の気持ちによって良くも悪くも変化するものとなってしまうからです。
人々の感情の浮き沈みによって自由や安全の質が左右されてしまう恐ろしさがあるということです。
そのため、極めて慎重な扱いが求められます。

このことから、法の観念を人々に分かりやすいように文章として具現化し、実定法として確定的なものとして安定させることが必要となります。
また、人権については最低限の合意事として列挙してカタログの形で示し、法律を制定する際の多数決の決定によっても奪うことのできないものとしておく必要があります。
さらに、
〇 人権の中核部分が決して壊してしまうことがないように
〇 人々の一時の感情の浮き沈みや心の動きによって自由や安全の質(人権の質)が左右されてしまうことがないように
〇 その内容が一時期の多数派の気持ちの高揚感などによって乱されることのないように
改正のハードルを高く設定する硬性憲法の仕組みによって、改悪してしまう危険を硬く封じる必要があります。硬性憲法として打ち出すのです。

もしこの封印を解く場合には、国会の各議員の総議員の3分の2以上の賛成の発議によって国民に提案し、国民投票によって過半数の賛成が必要となります(96条)。
憲法改正を行うことができるか否かは、「近代立憲主義的な改正限界説」や「法実証主義的な改正限界説」などの理論上の限界があります。
しかし、憲法改正の過程で起こり得る実際の手続き上においては、人々の倫理観以上の制約は存在しません。
そのため、憲法改正の手続きとして高めのハードルを定めることで、憲法に含ませた人権保障を実現しようとする意図が壊れてしまうことがないように予防しようとしているのです。
 


<理解の補強>


法律の根本問題を、哲学的に考察 〜進化心理学の視点を取り入れ、人間の本質に迫る 内藤淳

 




 上図は多数決によって少数派や特定の人を侵害する法律を立法する事例である。 

 上図の他にも、

〇 多数派が少数派や特定の人に対してだけでなく、自分たちを含めて全員の価値観を統一しようとして個々人の思想の自由を奪う場合

〇 国家機関に所属する者が法律の根拠なく国民の人権を侵害する場合

などを考えることができる。



 上図は、民法の私人間適用との関連性について考慮したものではないため、注意する必要がある。



<理解の補強>

 

【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法1-3> 2021/02/06

【動画】北九州市立大学法学部・2021年前期・現代法曹論0「憲法」 2021/04/19

 






多数決は正当性の根拠となるか

    【多数決の前提】

 「多数決で決することに正当性がある」と認識している人は多いです。

この者は、
◇ 「民主主義の国家では、多数決原理に正当性がある。」
◇ 「多数決で決めたことには必ず従わなくてはならない。」
と考えていると思います。
そのような認識から、その者は何らかの物事を決しようとする際に、自分が多数派を形成している場合には、数で勝っていることを理由として強引に多数決の持ち込もうとしがちです。
また、多数決によって決定された場合には、その多数決の結果を根拠として、頑なに決定の正当性を主張することがあります。
その者が「多数決で決することに正当性がある」と考えていることの背景には、それが民主主義的な価値観であり正当性があると信じているからであると思います。

確かに「法律」を立法する際には、多数決の手続きが採用されています。
そのため、一見、多数決の手続きに正当性があるかのように見えます。
それを見て多くの人は「多数決で決することに正当性がある」と考えてしまいがちです。

しかし、法律を立法する際に「多数決」で決するという制度を採用することを定めているものは『憲法』です。

 憲法の第四章「国会」に記された、
国会が立法権を行使する際の手続きを定めた条文を確認します。

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    第四章 国会

〔議事の定足数と過半数議決〕

第56条 (略)
2 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。

〔法律の成立〕

第59条 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このように、法律を立法する際の「多数決」という手段に正当性が認められているのは、憲法の規定に多数決原理の手続きによって決めることが記載されていることによるものです。

 

また、その多数決の決定によって「法律」が正当性を有することは、憲法に定められた多数決という手続きの過程を経ることによって、憲法を源とした正当性を受ける(正当性に裏付けられる)ことによるものです。

多くの人が抱いている「民主主義や多数決原理に正当性がある」という前提認識それ自体をつくっている大本となっているものが『憲法』ということです。

その者が自らが支持し、その正当性の拠り所として信じている「民主主義」という前提となる価値観を成り立たせている基盤となっているものが『憲法』なのです。
国の最高の法である憲法が、多数決原理の決定方式を採用していることが理由です。


この国(一定の領土)の社会基盤を形成している原因は憲法にあります。
そのことから、人々が物事を決する際の前提として「民主主義や多数決原理に正当性がある」という認識を持つに至っていること自体が、憲法の影響を受けた価値観であるということです。

このことから、もし
・憲法に「国王の意見で決する」と定められていたならば、国王の独裁になります。
・憲法に「年長者が決める」と定められていたならば、年長者が決めることになります。
・憲法に「少数の意見で決する」と定められていたならば、少数決になります。

このように、憲法が打ち出される以前に、もともと「多数決」というものが何らかの正当性を持っているわけではありません。


社会基盤の前提となっている憲法をつくり上げる際には、私たちが普段「
正当性がある」と考えて行っている「多数決」という意思決定の方法それ自体の正当性がどこから生まれているのかという認識を問い直す必要があります。
 

    【憲法と法律の正当性の裏付け】
 
「法律」は、国会で「多数決の手続き(多数決原理)」を通して制定されます。
その国会や「多数決の手続き」については、「憲法」の条文によって定められています。
つまり、国会で「法律」を立法する際に「多数決の手続き」が採用されているのは、「憲法」の条文によって定められた制度であるからです。

つまり、「法律」を立法する際の「多数決の手続き」に正当性が認められるのは、「憲法」の正当性に裏付けられているからです。

その法律を立法する際の多数決という手続きに対して正当性が認められているのは、「憲法」の正当性によって保証(裏付け)されていることによるものです。

その「多数決の手続き」によって制定された「法律」の正当性の裏付け(根拠)は、「憲法」の正当性に基づく形で確保されることになります。
「法律」の正当性や、「法律」に効力を生み出すための後ろ盾となっているものは、「憲法」の正当性や効力です。
(「法律」に基づく形で生み出された会社などの組織の意思決定の制度の正当性の仕組みも同様です。)


このように、「法律」には、それより上位の実定法として「憲法」があります。
「法律」を立法する際には、より上位の実定法(憲法)に定められた「多数決の手続き」を通すことによって正当性が生み出されます。

しかし、「憲法」には、それより上位の実定法となるものがありません。「憲法」の後ろ盾には目に見える実定法が存在しないのです。
そのため、「憲法」の正当性の裏付け(根拠)については、より上位の実定法が存在することによって裏付けられるものではありません。




 「憲法」は、「法律」のようにより上位にある実定法によって正当性が担保されることによって効力が生み出されるという仕組みではありません。
 では、憲法の正当性の裏付けは、一体何から生まれているのでしょうか。


    憲法の正当性の根拠は多数決にあるのか】

 「法(憲法)」というものの存在自体が、普段よく目にする「法律」を立法するときのように「多数決原理」によって生み出されていると思い込んでいる人がいます。
 しかし、それは法源となっている部分を理解できていません。


 96条では憲法改正についても多数決の手続きによって行うことを定めています。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    第9章 改正

〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕
第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。
2 (略)

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

このことから、憲法も多数決の手続きによって正当性が裏付けられているのではないかと考える人がいるかもしれません。

 その者は、
〇 「憲法についても単に多数決の過程を通ったならば改正することが可能である」
〇 「憲法改正の正当性も、多数決の手続きを経ることによって生み出すことができる。」
〇 「新しい憲法の正当性は、多数決の決定によって裏付ける(確保する)ことができる」
〇 「憲法の正当性の根拠も多数決で決することのみにある」
と考えていると思います。

この考え方は、法実証主義の考え方です。
法実証主義は、法の条文に記載された意味を機械的なメカニズムとして捉え、その簡潔でシステマチックな制度の枠組みのみを絶対視することによって法の解釈や適用を行う考え方です。
この考え方に基づけば、条文に書かれた形式的な多数決原理の手続きの仕組みにのみ、法の正当性の根拠があると見なすことになります。

そのため、このような条文に記された多数決の手続きに正当性があるとする認識の枠組みしか有していない者は、多数決の正当性を信じて投票行動を起こすことを呼びかけ、改正を試みようとしてしまいがちです。
 

確かに、憲法は国民主権を重視しているため、憲法改正においても国民投票という多数決原理の手続きが設けられています。

しかし、憲法改正の多数決原理の手続きは、その憲法自身が定めている改正手続きの規定に基づいて行われるものとなっています。
この憲法改正の多数決原理の手続きに正当性があるとする考え方は、その憲法自身の正当性を拠り所として、それに頼って成り立つ考え方です。
これは、「法律」のように自分より上位の規範(憲法)によって正当化される形ではありません。
その「憲法」自身に定められた改正手続きの規定がその「憲法」自身の正当性や効力に基づく形で多数決原理の手続きを正当化しようとするものです。
また、その憲法改正によって設けられる新たな規定の正当性は、その憲法自身が定めている多数決原理を示した規定の手続きによって正当化しようとするものとなっています。
この憲法改正の規定は、「自己言及」の形によって定められているものです。
そのため、その憲法に定められた手続きによって改正を行っても、それ以上の上位の実定法によって正当性が裏付けられる形のものではありません。
これでは、「私は正しいから、私の正しさに従え」という主張と同様であり、改正手続きの正当性やその改正手続きを定めている条文の正当性を裏付けているはずの法そのものに対して正当性があるか否かを問わないものとなっています。
つまり、法の正当性には理由がないということになります。
 

    【多数決で奪えないもの】

憲法より上位には文字として表現されている実定法は存在しないが、文字として表現することのできない形で「多数決」という法の観念が存在しており、それを基にして憲法の正当性が裏付けられるために、憲法改正の手続きには多数決原理が定められているのではないか、との考える人がいるかもしれません。

しかし、この考え方を突き詰めると、多数決を行って多数派の意思によって物事を決めたのであれば、たとえ少数派の最低限の自由や安全までも侵害することになるとしても、その決定には正当性があると考えることになってしまいます。
憲法改正の多数決の過程を経たならば、そこで生まれた新たな憲法が、どんなに残虐で酷い結果を引き起こすものに変わっていたとしても、それで構わないと考えることに行き着きます。
もし憲法の正当性を裏付ける絶対的な根拠が多数決原理であると見なすのであれば、人の持つ深い道徳心や倫理観、正義感に反する堪えがたい侵害が発生しても、その悲惨な事態を正当化することとなってしまいます。

法の正当性の根拠が、多数決原理のみにあると考えることは、多数派による残虐な行為を是正することができなくなってしまうのです。


そのため、憲法の正当性を裏付けるより上位の正当性の根拠として「多数決原理」が存在すると考えることは妥当ではありません。
憲法改正について、法律を立法することと同じような感覚で単なる多数決原理の制度のみをその正当性の根拠と見なして行動しようとすることは大変危険な考え方です。それは、大きな犠牲を生む恐れがあります。





    【多数決に勝る正当性】

そこで、人の持つ深い道徳心や倫理観、正義感に反する堪えがたい侵害や、多数派による残虐な行為を是正することができる概念に、その正当性を見出す必要があります。

ここで生み出されたものが、「人権」という概念です。


人権という概念は、多数決原理によっても奪うことのできない性質のものとして機能するところに、その概念が生み出された(生み出そうとした)意図(存在価値)が発揮されるものです。

そのため、人権という概念を中心とした実定法、人権という概念を多数決原理によっても奪うことのできない性質のものとして位置づけた実定法を定めるところに、より確かな正当性に裏付けられた法が生まれます。

この過程によって生み出された法こそが、全法体系の効力を裏付けることのできる正当性を有すると考えるに相応しい法となります。
それが最高の法規として位置付けられる「憲法」です。


そして、その憲法の中には、人権として保障されるべき中核的な部分が具体的に列挙される形で定められます。
この憲法に定められた人権概念の中核部分についても、多数決によって立法される法律によっても決して奪うことができないものとして機能するところに、最高法規としての憲法を打ち出す本質的な意図(人権概念の設計思想)があります。







多数決の限界(作成中)


憲法は民主主義による政治を実現するために国民主権を定めています。

また、国民主権を重視する姿勢から、憲法改正においても多数決という決定方式が採用されています。


多数決という制度について

・多数決は、必ずしも人々の自由や安全が守られるような決定を導く性質のものではありません。
・多数決は、「人権保障を確実にする」ということを前提につくられた制度ではありません。
・多数決は、人権保障を実現する性質を有していません。
・多数決は、必ずしも人権保障に適した制度というわけではありません。
・多数決は、憲法の正当性を裏付けるものできません。

例えば、人権概念から導き出される権利の中には、多数決に参加する権利が含まれています。
現代の私たちが知らず知らずのうちに所属し、前提となっている民主主義の多数決の制度に参加できる権利を持つ根拠は、人権概念を中核としてつくられた憲法の理念から発せられたものです。 (憲法15条)
この権利も、多数決によって奪ってはならないものです。

 

しかし、憲法に定められた多数決の手続きを経たのであれば、


・将来に渡って少数派や特定の人の
多数決に参加する権利を奪うこと

・少数派や特定の人の人権を奪うこと
・憲法の内容の整合性を破壊すること
・憲法を廃止すること

などが可能となると考える場合、その憲法改正の手続きそのものが、憲法が人権保障を実現しようとする作用を中核に正当性が裏付けられて存立しているという根本的な原理に背くこととなります。


そのため、そのような内容を条文上の手続きに従う形で多数決によって決定したとしても、

〇 その手続きを定めた条文そのものが、憲法の本質的な正当性を受け継ぐ(纏う)ものとしては機能せず、条文の効力が失効し、手続き自体が無効となります。(条文が失効して手続きが無効となるという説)

 あるいは、

〇 その手続きを定めた条文そのものの効力は憲法の本質的な正当性を受け継ぐ(纏う)ものとして正当性が保たれていたとしても(機能していたとしても)、そこで行おうとする手続きの内容それ自体が改正手続きを定めた条文の趣旨に反するものとして条文の効力を使うことができない(条文を適用できない)こととなり、手続きが無効となります。(手続きを行っても条文の効力を適用できないという説)

 

これにより、そこで行われた多数決の決定の結果それ自体の正当性が生まれず、改正を行うことはできません。

「人権保障のための立憲主義」という上位の正当性の価値を多数決によって損なわせてしまうことは、自己存立の基盤を失わせることになるからです。

憲法の正当性を損なわせる形で改正手続きが行われたとしても、そのような改正手続きは憲法の本質的な正当性が生み出されている原理を受け継ぐことができないため、無効となるのです。

(改正の手続きやそこで定められた新たな条文などがその社会の中で現実の実力として通用してしまうことが考えられるとしても、学問上は無効となると考えなければならないものです。)

 

 

その憲法の正当性の源泉を損なわせる形で憲法改正の手続きが行われる場合は、その改正手続きが定められている憲法それ自体の正当性を失わせることとなります。それは、その憲法それ自体の正当性が失われることにより、その憲法に定められた改正手続きを定めている条文そのものの正当性も同時に失わせることになります。

 すると、改正手続きの条文が自らの正当性を損ねることにより改正手続きの正当性が無くなるという自己矛盾に陥り、改正手続きの正当性を生み出すことができなくなってしまいます。

(または、改正が行われる瞬間までは改正手続きについて定められた条文の効力が有効であると考えて改正そのものを行うことは可能であるが、改正が行われるとする一時点の瞬間を通過すると、そこで行われた改正の内容が憲法の本質的な正当性の裏付けを得ることができないものとして失効したり、憲法の本質的な裏付けを得ることができないことによって改正手続きについて定められた条文の効力を含めて憲法全体が失効し、憲法を廃止したことと同じ状態になると考えることもできます。)


そのため、憲法の正当性を多数決原理によって裏付けることはできないのです。


このように、「憲法」と「法律」とでは、背景にある考え方の基盤が異なります。これらを同じ性質のものと同一視することは大問題を招きます。




多数決に正当性があるのか(作成中)


 学校で行ってきた多数決の投票の慣習や、組織での役員の選出、定款変更、株式会社の運営の評決などで行われる多数決の経験から、憲法という法も同じように多数決原理がその正当性を生み出す根源となっていると考えている人は多いと思います。

 しかし、これは誤った認識です。


 もともと一般的な社会生活上で形成する組織では、その組織の考え方に賛同しない場合は所属を辞めることができます。意見の違いで少数派となって不利益を受けることがあれば辞めればいいのです。

 また、会社など社会生活上の一般的な組織では、人権を扱った意思決定をしているわけではありません。

 そのため、基本的にはその決定によって生命・身体・財産などへの著しい侵害が直接的に発生する危険はありません。

 もし侵害されるようなことがあっても、より上位の国家が存在する限りは、その組織の活動は法に裏付けられた国家権力によって是正されることとなります。


 しかし、国家という集団は基本的に所属を辞めることができません。多数派との間で意見の違いが発生したときに、自分だけがその共同体から脱退して抜けるという選択を簡単には採ることができません。生きていくためには、一定の領土の上に居場所を確保しなければならないからです。

 また、もし国家権力の活動によって自由や安全が侵害される場合、国家権力は国内的に最高の実力を有していることから、その行為を是正する方法が他に存在していません。国家権力の活動を別の何らかの機関によって是正してもらえることは期待できません。

 国家という集団のそのような性質から、多数派の意見とは異なる考え方を持つ人の人権が損なわれてしまったり、多数派の横暴な決定によって少数派の人権が侵害されてしまったりすることがないように配慮する必要が出てきます。

 国家の意思決定によって、人権自体が損なわれたり、奪われたりした場合、生命・身体・財産に対して著しい侵害が発生する危険が生まれた際に、それを何とか止めるための手立てを用意しておく必要があります。

 この配慮こそが、すべての人に人権を十分に確保しようとして生み出された憲法という法が本質的にもっている役割です。




 憲法という法を知るには、歴史的な事実としてあった人の生命・身体・財産を侵害されてしまう恐怖に目を向ける必要があります。

 歴史上、この人権保障が確実でなかったことにより、何十万、何百万という数えきれない多くの命や自由が失われるという犠牲があります。

 この人権が侵害されることへの恐怖心を知らずしては、憲法に込められた人権保障を実現していく仕組みの意図の重さを理解することはできません。

 それまで存在しなかった「人権」という概念を獲得するためにどれだけの思いを抱き、どれだけの試練を受け、どれほどの犠牲のもとに現在の憲法がつくられたものであるかということに対して理解が必要となります。

 今日の憲法は、世界中で起きたそれらのあまりに多い犠牲の上に、人々の最低限の自由や安全(人権保障)を確実にするために極めて慎重に生み出されたものです。




法律の規定によって人々に対する著しい侵害がなされた場合や、その危険が発生した場合には、裁判所で憲法に違反するか否かを審査(法的審査・違憲審査)し、人権侵害が認められた場合には、その法律の効力を是正することができます。

しかし、憲法改正によって生まれた新たな憲法の規定の場合は、人々に対する著しい侵害が発生した場合や、その危険が発生した場合に、その正当性の当否を裁判所によって審査することができません。

なぜならば、憲法規定の場合は、法律の場合とは異なり、それ以上の上位に実定法がないからです。

すると、その新たな憲法の規定が人権侵害を引き起こすものとなっていたとしても、その効力を是正する手段がありません。


そのため、憲法の規定を変更する際は、その内容が人々に対する著しい侵害を引き起こすものとならないかについて極めて慎重に検討することが必要となります。

そのため、憲法改正を取り扱う際にも、人類が憲法を制定することで人権を保障しようとしている本質的な意図を壊してしまった時に、どのような人権侵害が起きうるか想定しておく必要があります。著しい人権侵害の危険性を理解した上で行う必要があります。


 その自覚なく、憲法についても社会の一般的なコミュニティーや会社組織のような感覚で多数決制を絶対視して改正しようとすることには、過去にあった人権侵害の悲惨な歴史を繰り返すことに繋がり大きな危険があります。





多数決で奪えないはずの価値を多数決で奪う


「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものとされています。


「人権」の内容は、通常、憲法に定められています。

そのことから、法律を制定するとしても、「人権」を著しく侵害する法律となっていた場合には、憲法を適用することによってその効力を是正し、「人権」を回復することができます。

これによって、多数決の手続きを通して制定される法律の規定による侵害から「人権」を守ることができます。


しかし、憲法上の「人権」の内容が憲法改正の形で侵害された場合には、その侵害を是正するための上位の実定法が存在しません。

そうなると、多数決によっても奪えないものとされていた「人権」という概念が、憲法改正の多数決原理によって失われてしまう事態に陥ってしまいます。

このことから、多数決原理をもってしても奪えない価値として意図されている「人権」という概念の性質は、憲法改正の多数決の手続きの過程によって引き起こされる侵害から守ることができないのです。

 

そこで、人権保障を実現するためにつくられた憲法制定権力の意図を越えるような改正は、憲法原理として理論的に不可能であると解されます。
もし手続き上において憲法制定権力の意図した憲法原理の枠を越えるような改正がなされてしまったならば、それは既にその憲法の延長線上にある国家体制ではなく、革命的な新国家樹立となってしまいます。

 
    【参考】憲法はいくらでも「改正」できるの? 2020/12/20



 法律は、憲法の条文に記載された国会における多数決原理の手続きを行うことによって正当性が裏付けられます。つまり、法律の正当性は、憲法の正当性に基づく形で確実なものとして裏付けられます。

 しかし、憲法改正における多数決は、その憲法自身に記載された改正手続きの規定に従うものであり、より上位の実定法によって正当性が裏付けられる仕組みとは異なります。つまり、自己言及に基づく形となっています。

 そのことから、憲法の枠内で定められたことによってその内容が正当化されるという法律とは異なり、憲法改正によってどのような法(憲法)に変わってしまっても、その内容の当否が問われないものとなってしまう危うさがあるということです。

 そのため、このような自己言及に基づいた改正手続きを基にして正当性の裏付けようとする考え方は、確かなものとは言えません。

 そのため、憲法改正の実質的な正当性の根拠は、多数決原理の手続きによって裏付けることができる性質のものではありません。

 憲法の正当性は、多数決原理によっても奪うことのできない個々人の最低限の自由や安全の領域(人権)を設定しするところにあります。憲法改正の多数決の手続きを通したとしても、これを損なわせるような形で憲法を改正することは、そもそも憲法として成り立つための基盤を失うことから、正当化できないということです。

 憲法改正における「国民投票」という多数決の手続きは、人権保障を目的とした国家制度の正当性が、国民の有する主権(最高決定権)から導き出されていることを印象付ける程度のものとして仮につくられたものでしかないのです。


 憲法改正の手続きは、どうしても改正が必要な時のために使うものです。それは、多数派の意思を反映させることを意図して設けられたものではありません。

 後世の国民が、法学的により普遍性の高い理論的な仕組みを見出した時に、それを条文の形で明らかにするか否かという視点から行うべきものということです。





多数決原理の手続きを通すこと

 憲法改正の手続き上では、多数決原理の過程を通すことになっています。
 すると、下記のような人を含んだ形で多数決原理の過程を経ることになります。

・民主主義における多数決原理しか知らず、その前提となっている人権保障の理念に裏付けられた立憲主義の仕組みを理解していない人
・人権概念と法の原理に対する十分な理解を持つことができていない人
・「人権概念には存在と価値と正当性がある」という前提が成り立つ原因となっている本質部分を解することができていない人
・憲法改正についても、国会での法律の立法や会社組織での意思決定、地域コミュニティなど一般社会の決定方式と同じものだと思い、多数決原理に正当性があると思い込んでいる人

 すると、この者たちの行う多数決の判断によって、憲法それ自体が、無理解な多数派や横暴な強者の理不尽な侵害によって、少数者や弱者の自由や安全が侵害されることがことがないように守り抜く機能を有しないものに変わってしまう恐れがあります。
  憲法改正の手続きを多数決によって正当化できると考えることは、憲法を極めて危険な事態を招きうるものに変えてしまう可能性があります。
 その後の社会は、多数決の暴力や強者の乱暴が蔓延する人権を保障できないような、非常に危険な事態に陥ってしまいます。

 「多数決に正当性がある」と信じる者による多数決の決定を理由として憲法が改変された場合、その新たな憲法は少数派となった者の最低限の自由や安全(改変される前までは『人権』と呼ばれていたもの)を奪ってしまう危険性があります。
 さらに、その後は、「多数決に正当性がある」と信じているその者自身の最低限の自由や安全(改変される前までは『人権』と呼ばれていたもの)をも奪ってしまうことに繋がってしまう危険があります。

 そのため、多数決では救えない人権が存在することを深く認識する必要があります。


 多数決を民主主義だと思っている人の誤解を解く必要があります。


 (裁判所という機関が法を使って紛争を裁断することも、多数決原理のみによって法の論理が成り立つわけではないということを前提とするものです。もし多数決原理によって絶対的な正当性を有する法秩序を形成できるのであれば、裁判の結果も多数決のみによって決することができてしまうはずです。)

 (たとえば、裁判所が判決を下して人権を救済する場合も、単なる多数決によって判断がなされるわけではないことが前提です。)





 
【動画】【司法試験】5月生本開講!塾長クラス体験講義 基礎マスター憲法1-3~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~ 2021/05/14 

【動画】【司法試験】<無料体験>2023年合格プレミアムコース開講!伊藤塾長の講義を体験しよう~基礎マスター憲法1-3~ 2023/04/11

【動画】九大法学部・法学入門最終回〜まとめ・2021年度前期 2021/07/19

 (この動画の再生開始時点の直前に述べられた質問者の問いは、大日本帝国憲法から日本国憲法に改正した際に『根本規範が変更されたのではないか』という論点について述べてるものだろうか。)





なぜ近代立憲主義の憲法を採用しているのか


突き詰めるところ、「近代立憲主義の憲法」それ自体の正当性を完璧に説明できる理論は存在しない。

しかし、

他の考え方に基づく法制度よりは、整合性がある。
他の考え方に基づく法制度よりは、合理的である。
他の考え方に基づく法制度よりは、人々に受け入れられやすい。
他の考え方に基づく法制度よりは、運用上の不都合性が少ない。


このように、他の考え方に基づく法制度の理論的な整合性の悪さや非合理性、不都合性を排除していった結果、残ったものが、現在の「近代立憲主義の憲法」の形ということであると考えられる。

つまり、それまでのどの法制度よりもマシだから、今のところ「近代立憲主義の憲法」が支持されるに行き着いているだけである。


「近代立憲主義の憲法」それ自体の正当性について、様々に理由を付けて説明されることがある。

しかし、結局は他の考え方に基づく法制度よりはマシだという認識に基づいて成り立っているとしか言いようがない。

今のところ比較的成功しているために、続けているだけである。


当サイトは憲法を読みやすく、認識しやすいものに改善するため、条文の文言に色付けを行うことがある。

もしこれが「白黒」の文字で表現している現在までの憲法典よりも高い有用性が認められ、人々の間で支持されることがあったとする。

すると、今後は憲法改正の際には文字に色付けされた新しい憲法典に変えていこうとする動きが生まれることがあるかもしれない。

現在の法制度と同じように、「他の法制度よりはマシである」として人々に受け入れられたならば、文字が色付けされた憲法典も普及していく可能性も否定できないのである。


そのような様々な検討と支持の広がり、そして淘汰の中に残っているものが、現在の憲法の形である。



 内藤淳の考え方を検討する。

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 これに関して、筆者は、憲法学で採られてきたようなやり方とは別の道筋で、立憲的憲法の正当化の可能性はあると考えている。……(略)……

(略)
 筆者は、人間というのは自らの生存と繁殖に向けて活動するシステムである(この理解が事実的に真である)と考えている。その各システム(各人)が生存・繁殖するためには共同体を作って他のシステム(他の人)と共生することが必要で、そのためには共同体の中で各システム(各人)への「資源獲得機会の配分」が必要である。すなわち―各人が(意識的思考の上で)何を価値と思いどういう規範が望ましいと思うかに関わらず―各システムが自身の指向(生存・繁殖)を達成するためには「資源獲得機会の配分」が必要であると筆者は考えている。人権とはこの「配分」を担うもので、立法に反映されるその時々の人びとの意志に対してそれを保障する立憲的憲法は、「自身が必要としているものを保障する」という意味でどのシステム(どの人)にとっても妥当と認められる197)。
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憲法学は立憲的憲法を正当化できるか?(2・完)― 日本の憲法理論の検討 ― 内藤淳 PDF (下線は筆者)


 内藤淳の理論は、各々の人間が生存運営していこうとする中で、各々にとって立憲的憲法であることに有用性が認められるために、その法に自ずと従おうとし、法の効力が生まれているという説明であると思われる。

 しかし、この内藤淳の理論は、その社会の人々がなぜ法という形式を採用し、その法に自ずと従っているのかというメカニズムを明らかにするものではあるが、その法の正しさや正当性を示したことにはならないと思われる。そのため、立憲的憲法を正当化する理論を説明しているのではなく、立憲的憲法の効力の由来を示したに過ぎないと思われる。

 「長谷部恭男」は、法は理性的な判断を効率化させるために用いる道具である旨を示しているが、このように、人々が法という形式に道具的な価値を見出して選択し、自ずとその文言通りに従っていることを説明するものではあるが、近代立憲主義そのものを正当化する説明を行ったものとは言えないように思われる。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 憲法学は法学の一種で、法学は道徳に関する学問の一分野と言ってよいでしょう。人は本来、どのように行動すべきか、自分で判断し、その結論に従って行動します。実践理性の働きと言われるものです。法はこの実践理性の働きを簡易化するための道具です。自分自身でどのように行動すべきか判断する手間を省いて、法の命ずる通りに行動すればよいようにする。そのために使われる道具です。
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憲法学の虫眼鏡 (下線は筆者)

 ただ、当サイト筆者も、近代立憲主義の憲法の正しさをいくら説明しようとしても、そこに絶対的な根拠を導き出すことは難しいと考えている。


 例えば、50人で構成される国家であれば、現代の日本国内の法秩序が採用するような大量の法典は必要なく、数枚の紙に収めた心がけがあれば充分であると考えている。後は、各々がしっかりと話し合って、互いの利益を配分して共生を保てばよいのである。

 500人程度で構成される国家であれば、小さなルールブックを作ったならば、その国の法秩序はそれでよいと思われる。法秩序が洗練されていなくとも、長老の知恵を使えば人々の共生を取り持つことができると思われる。

 5万人程度の国家であれば、ルールブックを作った上で国王を配置し、必要な事務処理を担当させればそれで済むと思われる。法の水準を高めなくとも、宗教家などが人々の共生を取り持つ存在として代替機能を果たしうると思われる。

 100万人程度の国家となると、すべての市民と互いの存在を認めあえるほどの文化的交流を行うことが難しくなってくるため、その者たちの意識の分断によって自由や安全を侵害する意思決定を行う者による著しい侵害が想定されるため、立憲主義的な憲法の必要性が生まれてくると思われる。未だ宗教団体が人々の共生を取り持つことによってそれなりに社会は成り立つと思われる。

 1000万人規模で構成される国家となれば、多様な価値観の公平な共存を可能とするような近代立憲主義に基づく憲法が必要となると思われる。このような社会では、日本国憲法の水準の憲法典が求められると考えている。


 このように、国家の規模や人々の知識水準によって社会背景が異なるため、近代立憲主義の憲法を採用するべきか否かという社会的な需要も変わってくると思われる。そのため、近代立憲主義の憲法の正当性を説明づけようとしても、その社会背景の中で近代立憲主義に基づく憲法の形式が求められる段階に至っているか否かが関係するし、その社会の中で近代立憲主義の憲法を採用することが成功するか否かについても前提条件の違いによって変わってくると思われる。

 この意味で、近代立憲主義の憲法の形式を正当化できる理論があるか否かという点を分析するだけでなく、その社会が近代立憲主義の憲法を採用するべき段階にあるか、それが有用性を持つ段階にあるか否かという側面があることは否定できないと考えている。





法の本質


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 以上述ぶる所を要するに、法は其の内容に於ては社會生活に於ける人類の意思の強要的規律たり、其の目的に於ては人類の利益の規律たり、其の存立の基礎に於ては社会的意識に基きて存す。約言すれば、法とは社会的意識に於て人類の利益の爲に破るべからざるものとして認識せらるる社會生活上の意思の規律なりと定義することを得べし。

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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P9) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線・太字は筆者)



〇 法の内容

 

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 一 法の内容

 法はその内容に於ては、社會生活に於ける人類の意思の強要的規律なり。

(一)法は社會生活に於て存す。社会生活とは多数の人が相互に精神的又は物質的の交渉を有する生活を謂う。一人孤立して生存し、他人と生活上の交渉なきに於ては、其の生活は絶對に自由にして、法の存すべき餘地なし多數人が相互にして交渉ある生活を爲し一人の爲す所が精神的又は物質的に他人に影響する場合に於て、初めてその相互の間に意思の活動に關する規律の存在あることを要す。社會生活の存在は法の存立する前提にして、社會なければ法あることを得ず。一方に於ては社會ある所は必ず法あり、如何なる社会生活と雖も法なくして存立することは不可能なり。法は社會と共に存し、社會の變遷に伴ひて變遷す。

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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P1~2) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者) 



〇 法の目的

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 二 法の目的

 法は人類の社會に於て存し、人類に依りて作らるるものにして、而して人類の總ての行爲は何等かの目的の爲にするものならざるなきを以て、法も亦必然に人類の目的の為に存在するものならざるべからず。總ての法は或る目的を以て其の存立の前提と爲す、目的は法の本質の缺くべからざる一要素たるものなり。

 法の目的は人類の利益を充たすことに在り法は人類に依りて作られたるものなるが故に、法が人類の利益の爲に存することは其の當然の性質ならざるべからず。換言すれば、法はその内容に於て人類の意思の規律たると共に、其の目的に於いては人類の利益の規律たり、意思と利益とは法の本質に於ける二の中心要素を爲すものなり。

 利益とは人類の缺乏感を除き又は満足感を起こさしむべき外部的又は内部的の總ての經過又は状態を謂う。必ずしも物質的又は經済的の利益のみを意味するに非ず、又必ずしも現實に社會若くは個人の福利に適するものなることを要せず、人類の宗教的感情、美的感情、倫理的感情等單に人類の感情を満足せしむるもの亦此の意義に於ての利益なり。要するに總て各時代の時代思想に於て人間に價値あるものとして感ぜらるる總ての事物は皆利益にして、而して法は常に此の意義における利益を目的とするものならざるなし。

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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P7) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者) 



〇 法の存立の基礎


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 三 法の存立の基礎


 法は社會心理に基きて存す。社會一般の心理に於て人類の利益の爲に破るべからざる意思の規律として認識せらるるものが即ち法なり。

 法の成立する直接の淵源は甚種々にして、或は立法権者の制定に因り、或は事實上の慣習に因り、或いは裁判所の判決に因り、或は政府、議會又は行政官憲の行爲に因り、或は私人間の法律行爲に因り或は社會の正義意識に因りて生ずと雖も、その直接の發生原因の何に在るかを問わず、窮竟に於ては法は常に社會心理に於て之を破るべからざる規律なりとして認識することにその成立の根據を有す。現代の文化に於ては法は大部分は立法権者の制定する所に係ると雖も、その制定せる所が法たる力を有し得る所以は、社会が立法権者の権威を認めこれに準據せざるべからざることを意識せるが爲に外ならず。事實上の慣習が法たる力を有するに至るも亦慣習が人心を支配し遂に社會をしてその規律力を意識せしむるが爲なり。法の其の他の淵源に付いても皆結局は社会意識に帰せざるものなし。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

 ……(略)……法は、此の社會的の力に基きて存立するものにして、若しその社会力にして缺除し若くは薄弱ならば、假令立法権者の制定するところと雖も、或は初より法たる力を有することを得ざるか、或は久しからずして自ら法たる力を失うに至るべし。」

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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P8~9) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者)  (憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和7)

 

現代語訳 憲法撮要 美濃部達吉著 小川一樹 amazon (試し読み)

「国会が制定した法律が実定法なのだ」 Twitter




法の効力

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【後記】「法」とは,「ルールを用いて人々の行動を規制する社会的仕組」であるとし,「法律が人々の行動を規制するためには,人々が法律を自己の行動に自ら適用したり,警察官や裁判官が法律に基づいて一定の決定をしたりすることを通じて,法律が人々によって実際に用いられなければならない。言い換えれば,法律は社会の中で誰も何もしなくても自動的に作用するものではなく,人々が実際に法律を持ち出して,それに基づいて行動しなければ,法律は社会の中で作用できない」とされる。これは,「社会現象としての法の存在形態や作用,および法と他の社会現象との因果関係を経験科学の方法を用いて解明しようとする社会科学の一分野」たる法社会学の基本的視座であるが(村山眞維・濱野亮『法社会学〔第3版〕』(2019 年,有斐閣)2頁),立法や政治も含めた広い意味での「法の動態」の担い手に議会(国会・地方議会)の議員も含まれるとするならば,そもそも議員の政治活動とは何か(これには議員活動の自由だけではなく,その評価や世論の形成など民主主義的な過程への影響も含む。)ということについて,解釈論のレベルでも考慮,勘案すべきではないかというのが,はなはだ不十分なものではあるが,本稿の問題意識の根底にはある。……(略)……

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統治機構の機能維持と司法審査 : 憲法53条違憲国賠訴訟など近時の事件を中心に 神橋一彦 2022-03-31 (P95)






<構成メモ>

「憲法」と「法律」の正当性の根拠は異なっています。
憲法は人権を保障しよう(守ろう)としています。

 
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普段、社会生活を送る中で形成している会社組織などは、「同じような思いを持つ人たち」が集まることによってつくられています。
ここでは、直接的に人権の存否を扱うような重大な意思決定を行うことはありません。

また、国会が法律を立法するときにも、人権の存否を扱うような重大な決定は含まれていません。


国家という共同体は、基本的に所属を辞めることができません。

国家という集団においては、
━━━━━


━━━━━
 憲法を改正する際に、多数派の国民が、他の国民に対して「憲法に定められたものだから、このように読みなさい」というような形で、「法」という一つの思想をあたかも絶対的な価値観であるかのように押し付けるような形に憲法をつくり変えてしまうと、その憲法の価値観を支持しない人の考え方や思想の自由を十分に保障することができなくなってしまいます。

 すると、「人権保障のために憲法を制定して法秩序をつくる」という憲法を打ち出す本来の目的を達成することができなくなってしまいます。

━━━━━


━━━━━
「人権」という概念は、人類が自由や安全を保障するための単位となっています。


しかし、多数決によって憲法の精神をつくり変えることができてしまうとすると、

━━━━━

 

━━━━━

人権概念の存在や価値や正当性の源は、人権保障を実現しようとする人々の意志である。

 
近代立憲主義によって打ち出された憲法
憲法が保障しようとしている「人権」という概念(人権概念)
の観念を具現化したことによるものです。
人々を守る力としての法制度の大本となる憲法に効力を持たせるための正当性の裏付け
国家が人を管理するにあたって、

その制度枠組みが法学として扱われている部分です。
━━━━━


━━━━━

国政(政治)は憲法の下で行うものです。

国会による立法権を行使、内閣以下の行政機関による行政権、裁判所による司法権の行使は、すべて憲法の下で行うものです。

 

なぜならば、国政(政治)の実現は人権保障を目的とする活動であり、人権保障実現の意志は政治以前のものだからです。

国政を担う統治機関に権力が集中し、人権が侵害されることがないように憲法で三権を分立し、歯止めをかけるのです。


しかし、現在の政治情勢は、多数派を形成している政治勢力が多数決によって憲法の枠組みを越えようとしています。
人権概念に裏付けられた立憲主義の思想と、政治思想を混同してはいけません。

政治が憲法を乗り越えようとしたり、改正しようとすることは権力の独占を招く非常に危うい兆候であることが多いです。

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しかし、そこで「どのような憲法をつくり出していくべきか」というそれぞれの人が持っている憲法観は、それぞれの人が「人権」というものについてどのような認識を持っているかによって変わってきます。

そのため、良質な憲法をつくり上げるためには、「人権とは何か」という根源的な視点を十分に捉え、深い理解を形成し、より妥当な人権認識を持った上で取り組むことが求められます。


この人権について
・認識を深めていくことが必要となります。
・理解を深めていく必要があります。

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<理解の補強>


第33回 「憲法とは何か」をもう一度確認しよう 浦部法穂 2019年5月22日
第1回 憲法はなぜ憲法なのか?

第2回「約束事」がぐらついたら、おしまい

第3回 「憲法の改正」と「新憲法の制定」の違い

第4回 日本国憲法のもとで「新憲法の制定」は、どうやったらできる?


民主主義と立憲主義のはなし
第三回 立憲主義って何だろう?

【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立

野党「安保法案をあらゆる手段をもって成立を阻止する」-「民主主義の本質と価値」  2015年09月15日

「自由と特権の距離ーカール・シュミット制度体保障論・再考」石川健治 を読んで 2012-11-21

「民主主義=多数決」じゃないよという話 2013-11-27

わたしたちの自由はどうやって守られているのだろう ―― 繊細な憲法を壊さないために 木村草太氏 2013.06.24

【動画】立憲主義と9条② 民主化と立憲化のコントラロール 石川健治 立憲デモクラシー講座⑤ 2018/03/02

多数決なら何でも「正当」なの? 2019年1月29日



なぜ民主主義か、 どこまで民主主義的であるべきか 長谷部恭男 2021年01月25日

 上記の記事は、多数決で決めることが妥当であるかに関する考察が非常に説得的である。書籍「憲法講話 -- 24の入門講義」のP273~276の「5 なぜ多数決か」の項目にも同様の記述がある。

 

【秀逸】憲法を民意でどこまでも改正できると考えると、自己矛盾で破綻する件 2021/05/09

 上記の記事は、当ページで表現したかったことが詰め込まれている。分かりやすくて素晴らしい。

 



尾高・宮沢論争 Wikipedia
佐々木・和辻論争 Wikipedia
ノモス主権への法哲学 ―― 法の窮極に在るもの/法の窮極にあるものについての再論/数の政治と理の政治 単行本 尾高朝雄 2017/5/30 amazon

天皇制の国民主権とノモス主権論――政治の究極は力か理念か 単行本 尾高朝雄 2014/4/7  amazon

 

III 法の自己言及性