法の存立根拠(作成中)
そもそも憲法とは、ルールなどが何もない無秩序な世界(土地の上・領域)に集まっている人々が、新しい秩序を構築し、新しい体制をつくり上げるために革命的に打ち出す性質のものです。
そのようなもともとの何もない世界は、国家スタンスがそもそも形成されていないため、民主主義でも、社会主義でも、共産主義でも、独裁主義でもありません。政治的な立場や政策上の立場を表明するような主義や思想のまとまりがありません。
そのもともとの何もない中では、単に人々が平穏な生活を実現しようとする意志しか存在していないと思われます。
そのため、法とはもともと、「自由に、安全に、平穏に生きていきたい。そのために新たな秩序を構築したい。」という意欲によって創造され、生み出されているものです。
自由や安全を実現しようとする人々の意志が集まり、「人権」という概念を確立させていき、それを正当性の根拠として「法」という概念が生み出されるのです。
「自由や安全を確保したい。そのために人権の保障される社会をつくりたい。」という人々の意志が、「法」という決まりごとに変わるのです。
そのことから、この意志の観念が、憲法を生み出した原点です。
・憲法は、人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という意志がつくり出したものです。
・憲法の正当性の核心部分は、人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という意志がつくり出したものです。
・それは、人々の抱く、秩序が崩壊することによって起こる侵害に対する恐怖の心理的メカニズムに裏打ちされたものです。
・人々が人権という概念を新しく創造し、それを保障するために憲法という法の制度の枠組みを打ち出す(心理学的、哲学的、思想的な)モチベーションの背景には、人権が侵害されてきた人類の恐怖や犠牲の歴史が含まれています。 【K】
憲法に託した「人権保障を確実にしたい」という人々の意志は、為政者の恣意的な判断によって人権が侵害され苦しい思いをしてきた先人たちが遥か昔から「自由獲得の努力」を繋いで持ち続けてきたものです。
その人権を確実なものとして保障しようとする意志は、過去幾多の人権侵害の危機があった際にも、その試練を耐えて今日まで受け継がれてきたものです。
それは、「過去幾多」の人権概念が侵害されてしまうような危機があった際も、その「試練」を堪えて今日まで守り抜かれ、受け継がれてきたものです。
憲法の中心には人権保障実現への意志があります。
憲法の第十章「最高法規」では、その人々の意志の観念によって生まれた法であるからこそ、憲法が最高の権威として存立する正当性を有し(97条)、あらゆる他の法形式に優位する最高法規性を持つこと(98条)が示されています。
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第10章 最高法規
〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
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「実質的最高法規性(97条)」〔自由の基礎法の性質〕の正当性は、法の効力の上下関係を示す「形式的最高法規性(98条)」を裏付ける関係にあります。そして、その「実質的最高法規性(97条)」は、この人権保障への意志によって支えられているものです。
この97条がまさに、「法」とは人のもっている意志の観念が生み出したものであることを示すものです。
憲法の正当性の源泉は、「自由や安全を確保したい(人権を保障したい)」という人々の意志によって確保されているものです。
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憲法は、人間が自由や安全を求める意志が生み出すパワーをベースにした考え方によってつくられるものです。
それは、人権の保障された生活を実現しようとする意志、人権保障を実現しようとする意志が生み出すパワーです。
これは、政治的な主義や政治勢力の思想や政策上の方針の以前にあるものです。
憲法に込められた人権保障の意図の真意は、特定の政治上の立場や制度の仕組みを示したものではありません。
人権保障の本質は、何らかの政治的な主義や政策を表明し規定しているものではあません。
そのため、民主主義でも、社会主義でも、共産主義でも、独裁主義でもありません。
(自由主義と言われることがありますが、これを押し付けてしまうとその者の自由を奪うことになってしまいます。そのため、自由主義であると押し付けることもできない点で、規定できないものです。)
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法の正当性が多数決原理にあると考えている人が、その法の意図に従って行動することによって一定程度の法の効力が生み出されている側面はあるかもしれません。
しかし、それは法の効力を生み出すための法の正当性の中心的な要素ではありません。
人権という概念は、法に定められた多数決の手続きによっても奪うことができないことを前提としてつくられた概念です。
そのため、人権という概念が多数決に優越する価値として位置付けられている以上、法の正当性を裏付けるものは多数決の手続きではなく、人権概念にあることになります。
この多数決の侵害を食い止めることができる価値として生み出した「人権」という概念を正当性の源とし、法の秩序を組み立てるところに、法の効力の基盤となる仕組みを見出すことができます。
そのことから、法の効力の大本も、多数決の手続きによって生み出されているわけではなく、人権概念に裏付けられていることによって生み出されていることになります。
それは、この「法」という制度の効力それ自体の根源となる「人には人権がある」という人々の認識を運用していく背景は、実存主義的な価値相対主義の認識を持つ者にしか適切に扱うことができないからです。
それは、実存主義的な価値相対主義者にしか、人々を拘束する「法」というメカニズムの効力を維持するために必要となる、人々の意識の中にある「人権という概念が存在し、価値や正当性があり、それは実定法の制度に優越するものである」という前提認識が、実は少数の理解者によって、人々にそのように認知されるように意図して創造されているものであることを、十分に理解することができないからです。
実存主義的な価値相対主義者こそが、自然法の発想による「法に定められた多数決の手続きの正当性よりも、人権の正当性が優越する」や、「多数決の決定の正当性以前に、人権の正当性がある」とする「人権概念の存在と価値と正当性」の創造者ということです。
「人権概念の存在と価値と正当性」は、憲法が条文中で採用している多数決原理の決定手続きの正当性以前に存在するものとしてつくられた観念です。
なぜならば、多数決によって初めて合意されることで人権概念が生まれるとするならば、多数決によって否定した場合に人権は消滅することとなり、多数決によっても奪うことのできない概念として人権が掲げられている意味と矛盾してしまうからです。
多数決によって生まれる法の文言それ自体が「人権概念の存在と価値と正当性」の根拠となるものであると考えるのであれば、結局は多数決によって人の人権を奪う(剥奪する)ことも可能となってしまいます。
多数決で人権を定めようとすることは、そもそも人権の本来的な性質に反することになってしまうのです。
そのことから、その「人権概念そのものが存在し、価値と正当性がある」という権威を人々の意識の中につくり出すことは、多数決によってはできないものです。
そして、「人権概念の存在と価値と正当性」の権威を中核として法を生み出し、その法の効力の根拠とすることは、多数決によって合意を形成し、確定的なものとして定めることができる性質のものではありません。
「人権概念の存在と価値と正当性」それ自体を構築し、法制度に効力を持たせるための正当性の裏付けを「人権概念の存在と価値と正当性」に置くことは、多数決原理という形式的な手続きのみによっては生み出すことができないものです。
そのため、
> 「人権の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に創造 (← 多数決では不可能)
> 人権を中核として法を生み出すという前提の創造 (← 多数決では不可能)
憲法の正当性は、単なる形式的な多数決の手続きを絶対的な正当性の根拠と見なすことによって成り立っているわけではありません。
憲法の正当性は、「多数決原理に絶対の正当性がある」という認識によって生み出されているわけではありません。
憲法の正当性を実質的に裏付けているものは、憲法の条文の中に制度として書き込まれている単なる多数決原理によって生み出すことはできないものです。
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憲法という法に効力を生み出すための基盤となっている正当性の観念は、多数決の正当性とは異なるものです。
多数決原理という手続きは、法の効力を形成する正当性の中核とはなりません。
学校で行われる多数決投票や会社組織での役員選出、定款変更、運営の意思決定などとは異なります。
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そのため、法に効力を持たせるためには、「人権という概念は、法制度が生まれる以前に存在するもの」という前提を人々の意識の中に創造し、「人権という概念に裏付けられた法の制度にこそ正当性がある」という認識を普及させていくことが必要です。
【憲法改正の多数決の手続き】
このように、「憲法」という法制度の大本の仕組みは、もともと何もない状態から歴史的、哲学的、心理学的な思想から「人権という概念の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に創造することで、法の正当性の基盤をつくり、社会的に通用する実力としての法の効力を構築し存立させていくところにあります。【T】
たとえ憲法を制定、あるいは改正するために多数決の手続きを経たとしても、そこで生まれた「憲法」と呼んでいる文字の羅列(文章)にすぎないものの正当性の裏付けがその社会を構成する人々に当然に認められ、その文言の意図がシステマチックに機能し、社会に通用する実力となるわけではありません。
簡易版まとめ
法が効力を有するのは、人々がその効力を認めているからである。
人々が法に効力を認めるのは、自分を縛ることもあるが、本当にピンチの時に守ってくれるという確信があるからである。
この確信は、「私たちの『人権』を守ってくれるものが法である」という前提によるものである。
しかし、法実証主義によって法を見てしまうと、改正手続きの多数決原理が憲法の正当性を裏付ける絶対的な根拠となってしまう。
これは、「多数決の正当性」が「人権の正当性」を上回ると考えることに繋がる。
すると、多数決によって人々の有している「人権」をはく奪することが可能となってしまうことから、人々の有している「法は自分たちが本当にピンチの時には必ず守ってくれるだろう」という確信が失われてしまうこととなる。
そうなると、人々はそのような法を承認する意欲が失せ、法という秩序が社会の人々を結びつけておく求心力を失わせ、法の効力が成り立たなくなってしまう。
こうなると、法秩序そのものが失われ、強者の暴力や権力者の横暴に歯止めをかける術がなくなってしまう。
結果、社会は乱れ、人々は混乱に巻き込まれ、不幸な状態に陥ることとなってしまう。
これを防ぐには、「人権の正当性」が「多数決の正当性」を優越するという認識を確実なものとして普及しておく必要がある。
この合意が人々の認識から失われてしまったならば、途端に法秩序は崩れてしまうからである。
しかし、この合意を保つ際に難しいのは、「人権」という概念は、本来存在しない概念であることである。
そのため、「多数決によって特定の人やすべての者の人権を奪うことができる」と主張する者や、「人権など存在しない」と主張して乱暴を行う者との間に、常々緊張を強いられることとなる。
そこで、それを知っている実存主義的な価値相対主義の認識を持った者が、「人権」という概念が存在し、価値と正当性があるかのように人々の認識の中に努めて普及し続けなければならないこととなる。
これは、自己利益のみを考えた多数決制のようなものではなく、すべての人の自由や安全を守ろうとする寛容性を根底に持った「道徳的・倫理的な共生性の意志」によるものである。
「人権の正当性」と「多数決の正当性」の優劣について考えてみます。
「人権」という概念は、法に定められた多数決原理の手続きによっても奪うことのできないもの(価値)として生み出されたものです。
それは、「人権」という概念は、多数決原理をもってしても奪えないものとして定める(扱う・位置づける)ところに、その概念が生み出された意図を発揮する性質があるからです。
「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものとするところに、「人権」という概念が生み出されている意図があります。
そのため、「人権の正当性」は「多数決の正当性」に優越します。
しかし、憲法の正当性を裏付ける基盤が多数決原理にあると考えた場合(に求める場合)、多数決を行うことによって「人権」を奪うことも可能となってしまいます。
(構成メモ)
法の効力を持たせる必要がある 〇
↓
法の実力とは、人々に効力があると信じられ、人々が自然と従うことによって初めて成り立つもの 〇
↓
人々が認める正当性が必要 〇
↓
(多数決は正当性の根拠となるのか) 〇
↓
自由や安全を守ることへの合意に正当性を置く 〇
↓
それらを人権という概念に集約 〇
↓
(人権と多数決の優劣)
↓
人権概念の存在と価値と正当性を創造することが必要 △ (意志によるもの)
↓
正当性が信じられるように人々の認識を運用することが必要 ✕
↓
自然法の人権観(自然権)として普及する都合の良さ ✕
↓
これを理解できる実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性の意志によってなされるもの ✕
↓
人権概念を維持するために不断の努力が必要 ✕
<理解の補強>
法律の根本問題を、哲学的に考察 〜進化心理学の視点を取り入れ、人間の本質に迫る 内藤淳
上図は多数決によって少数派や特定の人を侵害する法律を立法する事例である。
上図の他にも、
〇 多数派が少数派や特定の人に対してだけでなく、自分たちを含めて全員の価値観を統一しようとして個々人の思想の自由を奪う場合
〇 国家機関に所属する者が法律の根拠なく国民の人権を侵害する場合
などを考えることができる。
上図は、民法の私人間適用との関連性について考慮したものではないため、注意する必要がある。
<理解の補強>
【動画】【司法試験】2021年開講!塾長クラス体験講義~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~<体系マスター憲法1-3> 2021/02/06
【動画】北九州市立大学法学部・2021年前期・現代法曹論0「憲法」 2021/04/19
多数決の限界(作成中)
憲法は民主主義による政治を実現するために国民主権を定めています。
また、国民主権を重視する姿勢から、憲法改正においても多数決という決定方式が採用されています。
多数決という制度について
しかし、憲法に定められた多数決の手続きを経たのであれば、
・将来に渡って少数派や特定の人の多数決に参加する権利を奪うこと
・少数派や特定の人の人権を奪うこと
・憲法の内容の整合性を破壊すること
・憲法を廃止すること
などが可能となると考える場合、その憲法改正の手続きそのものが、憲法が人権保障を実現しようとする作用を中核に正当性が裏付けられて存立しているという根本的な原理に背くこととなります。
そのため、そのような内容を条文上の手続きに従う形で多数決によって決定したとしても、
〇 その手続きを定めた条文そのものが、憲法の本質的な正当性を受け継ぐ(纏う)ものとしては機能せず、条文の効力が失効し、手続き自体が無効となります。(条文が失効して手続きが無効となるという説)
あるいは、
〇 その手続きを定めた条文そのものの効力は憲法の本質的な正当性を受け継ぐ(纏う)ものとして正当性が保たれていたとしても(機能していたとしても)、そこで行おうとする手続きの内容それ自体が改正手続きを定めた条文の趣旨に反するものとして条文の効力を使うことができない(条文を適用できない)こととなり、手続きが無効となります。(手続きを行っても条文の効力を適用できないという説)
これにより、そこで行われた多数決の決定の結果それ自体の正当性が生まれず、改正を行うことはできません。
「人権保障のための立憲主義」という上位の正当性の価値を多数決によって損なわせてしまうことは、自己存立の基盤を失わせることになるからです。
憲法の正当性を損なわせる形で改正手続きが行われたとしても、そのような改正手続きは憲法の本質的な正当性が生み出されている原理を受け継ぐことができないため、無効となるのです。
(改正の手続きやそこで定められた新たな条文などがその社会の中で現実の実力として通用してしまうことが考えられるとしても、学問上は無効となると考えなければならないものです。)
その憲法の正当性の源泉を損なわせる形で憲法改正の手続きが行われる場合は、その改正手続きが定められている憲法それ自体の正当性を失わせることとなります。それは、その憲法それ自体の正当性が失われることにより、その憲法に定められた改正手続きを定めている条文そのものの正当性も同時に失わせることになります。
すると、改正手続きの条文が自らの正当性を損ねることにより改正手続きの正当性が無くなるという自己矛盾に陥り、改正手続きの正当性を生み出すことができなくなってしまいます。
(または、改正が行われる瞬間までは改正手続きについて定められた条文の効力が有効であると考えて改正そのものを行うことは可能であるが、改正が行われるとする一時点の瞬間を通過すると、そこで行われた改正の内容が憲法の本質的な正当性の裏付けを得ることができないものとして失効したり、憲法の本質的な裏付けを得ることができないことによって改正手続きについて定められた条文の効力を含めて憲法全体が失効し、憲法を廃止したことと同じ状態になると考えることもできます。)
そのため、憲法の正当性を多数決原理によって裏付けることはできないのです。
多数決に正当性があるのか(作成中)
学校で行ってきた多数決の投票の慣習や、組織での役員の選出、定款変更、株式会社の運営の評決などで行われる多数決の経験から、憲法という法も同じように多数決原理がその正当性を生み出す根源となっていると考えている人は多いと思います。
しかし、これは誤った認識です。
もともと一般的な社会生活上で形成する組織では、その組織の考え方に賛同しない場合は所属を辞めることができます。意見の違いで少数派となって不利益を受けることがあれば辞めればいいのです。
また、会社など社会生活上の一般的な組織では、人権を扱った意思決定をしているわけではありません。
そのため、基本的にはその決定によって生命・身体・財産などへの著しい侵害が直接的に発生する危険はありません。
もし侵害されるようなことがあっても、より上位の国家が存在する限りは、その組織の活動は法に裏付けられた国家権力によって是正されることとなります。
しかし、国家という集団は基本的に所属を辞めることができません。多数派との間で意見の違いが発生したときに、自分だけがその共同体から脱退して抜けるという選択を簡単には採ることができません。生きていくためには、一定の領土の上に居場所を確保しなければならないからです。
また、もし国家権力の活動によって自由や安全が侵害される場合、国家権力は国内的に最高の実力を有していることから、その行為を是正する方法が他に存在していません。国家権力の活動を別の何らかの機関によって是正してもらえることは期待できません。
国家という集団のそのような性質から、多数派の意見とは異なる考え方を持つ人の人権が損なわれてしまったり、多数派の横暴な決定によって少数派の人権が侵害されてしまったりすることがないように配慮する必要が出てきます。
国家の意思決定によって、人権自体が損なわれたり、奪われたりした場合、生命・身体・財産に対して著しい侵害が発生する危険が生まれた際に、それを何とか止めるための手立てを用意しておく必要があります。
この配慮こそが、すべての人に人権を十分に確保しようとして生み出された憲法という法が本質的にもっている役割です。
憲法という法を知るには、歴史的な事実としてあった人の生命・身体・財産を侵害されてしまう恐怖に目を向ける必要があります。
歴史上、この人権保障が確実でなかったことにより、何十万、何百万という数えきれない多くの命や自由が失われるという犠牲があります。
この人権が侵害されることへの恐怖心を知らずしては、憲法に込められた人権保障を実現していく仕組みの意図の重さを理解することはできません。
それまで存在しなかった「人権」という概念を獲得するためにどれだけの思いを抱き、どれだけの試練を受け、どれほどの犠牲のもとに現在の憲法がつくられたものであるかということに対して理解が必要となります。
今日の憲法は、世界中で起きたそれらのあまりに多い犠牲の上に、人々の最低限の自由や安全(人権保障)を確実にするために極めて慎重に生み出されたものです。
法律の規定によって人々に対する著しい侵害がなされた場合や、その危険が発生した場合には、裁判所で憲法に違反するか否かを審査(法的審査・違憲審査)し、人権侵害が認められた場合には、その法律の効力を是正することができます。
しかし、憲法改正によって生まれた新たな憲法の規定の場合は、人々に対する著しい侵害が発生した場合や、その危険が発生した場合に、その正当性の当否を裁判所によって審査することができません。
なぜならば、憲法規定の場合は、法律の場合とは異なり、それ以上の上位に実定法がないからです。
すると、その新たな憲法の規定が人権侵害を引き起こすものとなっていたとしても、その効力を是正する手段がありません。
そのため、憲法の規定を変更する際は、その内容が人々に対する著しい侵害を引き起こすものとならないかについて極めて慎重に検討することが必要となります。
そのため、憲法改正を取り扱う際にも、人類が憲法を制定することで人権を保障しようとしている本質的な意図を壊してしまった時に、どのような人権侵害が起きうるか想定しておく必要があります。著しい人権侵害の危険性を理解した上で行う必要があります。
その自覚なく、憲法についても社会の一般的なコミュニティーや会社組織のような感覚で多数決制を絶対視して改正しようとすることには、過去にあった人権侵害の悲惨な歴史を繰り返すことに繋がり大きな危険があります。
多数決で奪えないはずの価値を多数決で奪う
「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものとされています。
「人権」の内容は、通常、憲法に定められています。
そのことから、法律を制定するとしても、「人権」を著しく侵害する法律となっていた場合には、憲法を適用することによってその効力を是正し、「人権」を回復することができます。
これによって、多数決の手続きを通して制定される法律の規定による侵害から「人権」を守ることができます。
しかし、憲法上の「人権」の内容が憲法改正の形で侵害された場合には、その侵害を是正するための上位の実定法が存在しません。
そうなると、多数決によっても奪えないものとされていた「人権」という概念が、憲法改正の多数決原理によって失われてしまう事態に陥ってしまいます。
このことから、多数決原理をもってしても奪えない価値として意図されている「人権」という概念の性質は、憲法改正の多数決の手続きの過程によって引き起こされる侵害から守ることができないのです。
そこで、人権保障を実現するためにつくられた憲法制定権力の意図を越えるような改正は、憲法原理として理論的に不可能であると解されます。
もし手続き上において憲法制定権力の意図した憲法原理の枠を越えるような改正がなされてしまったならば、それは既にその憲法の延長線上にある国家体制ではなく、革命的な新国家樹立となってしまいます。
【参考】憲法はいくらでも「改正」できるの? 2020/12/20
法律は、憲法の条文に記載された国会における多数決原理の手続きを行うことによって正当性が裏付けられます。つまり、法律の正当性は、憲法の正当性に基づく形で確実なものとして裏付けられます。
しかし、憲法改正における多数決は、その憲法自身に記載された改正手続きの規定に従うものであり、より上位の実定法によって正当性が裏付けられる仕組みとは異なります。つまり、自己言及に基づく形となっています。
そのことから、憲法の枠内で定められたことによってその内容が正当化されるという法律とは異なり、憲法改正によってどのような法(憲法)に変わってしまっても、その内容の当否が問われないものとなってしまう危うさがあるということです。
そのため、このような自己言及に基づいた改正手続きを基にして正当性の裏付けようとする考え方は、確かなものとは言えません。
そのため、憲法改正の実質的な正当性の根拠は、多数決原理の手続きによって裏付けることができる性質のものではありません。
憲法の正当性は、多数決原理によっても奪うことのできない個々人の最低限の自由や安全の領域(人権)を設定しするところにあります。憲法改正の多数決の手続きを通したとしても、これを損なわせるような形で憲法を改正することは、そもそも憲法として成り立つための基盤を失うことから、正当化できないということです。
憲法改正における「国民投票」という多数決の手続きは、人権保障を目的とした国家制度の正当性が、国民の有する主権(最高決定権)から導き出されていることを印象付ける程度のものとして仮につくられたものでしかないのです。
憲法改正の手続きは、どうしても改正が必要な時のために使うものです。それは、多数派の意思を反映させることを意図して設けられたものではありません。
後世の国民が、法学的により普遍性の高い理論的な仕組みを見出した時に、それを条文の形で明らかにするか否かという視点から行うべきものということです。
多数決原理の手続きを通すこと
そのため、多数決では救えない人権が存在することを深く認識する必要があります。
(裁判所という機関が法を使って紛争を裁断することも、多数決原理のみによって法の論理が成り立つわけではないということを前提とするものです。もし多数決原理によって絶対的な正当性を有する法秩序を形成できるのであれば、裁判の結果も多数決のみによって決することができてしまうはずです。)
(たとえば、裁判所が判決を下して人権を救済する場合も、単なる多数決によって判断がなされるわけではないことが前提です。)
【動画】【司法試験】5月生本開講!塾長クラス体験講義 基礎マスター憲法1-3~伊藤塾長の最新講義をリアルタイムで体験しよう~ 2021/05/14
【動画】【司法試験】<無料体験>2023年合格プレミアムコース開講!伊藤塾長の講義を体験しよう~基礎マスター憲法1-3~ 2023/04/11
【動画】九大法学部・法学入門最終回〜まとめ・2021年度前期 2021/07/19
(この動画の再生開始時点の直前に述べられた質問者の問いは、大日本帝国憲法から日本国憲法に改正した際に『根本規範が変更されたのではないか』という論点について述べてるものだろうか。)
なぜ近代立憲主義の憲法を採用しているのか
突き詰めるところ、「近代立憲主義の憲法」それ自体の正当性を完璧に説明できる理論は存在しない。
しかし、
他の考え方に基づく法制度よりは、整合性がある。
他の考え方に基づく法制度よりは、合理的である。
他の考え方に基づく法制度よりは、人々に受け入れられやすい。
他の考え方に基づく法制度よりは、運用上の不都合性が少ない。
このように、他の考え方に基づく法制度の理論的な整合性の悪さや非合理性、不都合性を排除していった結果、残ったものが、現在の「近代立憲主義の憲法」の形ということであると考えられる。
つまり、それまでのどの法制度よりもマシだから、今のところ「近代立憲主義の憲法」が支持されるに行き着いているだけである。
「近代立憲主義の憲法」それ自体の正当性について、様々に理由を付けて説明されることがある。
しかし、結局は他の考え方に基づく法制度よりはマシだという認識に基づいて成り立っているとしか言いようがない。
今のところ比較的成功しているために、続けているだけである。
当サイトは憲法を読みやすく、認識しやすいものに改善するため、条文の文言に色付けを行うことがある。
もしこれが「白黒」の文字で表現している現在までの憲法典よりも高い有用性が認められ、人々の間で支持されることがあったとする。
すると、今後は憲法改正の際には文字に色付けされた新しい憲法典に変えていこうとする動きが生まれることがあるかもしれない。
現在の法制度と同じように、「他の法制度よりはマシである」として人々に受け入れられたならば、文字が色付けされた憲法典も普及していく可能性も否定できないのである。
そのような様々な検討と支持の広がり、そして淘汰の中に残っているものが、現在の憲法の形である。
内藤淳の考え方を検討する。
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これに関して、筆者は、憲法学で採られてきたようなやり方とは別の道筋で、立憲的憲法の正当化の可能性はあると考えている。……(略)……
(略)
筆者は、人間というのは自らの生存と繁殖に向けて活動するシステムである(この理解が事実的に真である)と考えている。その各システム(各人)が生存・繁殖するためには共同体を作って他のシステム(他の人)と共生することが必要で、そのためには共同体の中で各システム(各人)への「資源獲得機会の配分」が必要である。すなわち―各人が(意識的思考の上で)何を価値と思いどういう規範が望ましいと思うかに関わらず―各システムが自身の指向(生存・繁殖)を達成するためには「資源獲得機会の配分」が必要であると筆者は考えている。人権とはこの「配分」を担うもので、立法に反映されるその時々の人びとの意志に対してそれを保障する立憲的憲法は、「自身が必要としているものを保障する」という意味でどのシステム(どの人)にとっても妥当と認められる197)。
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憲法学は立憲的憲法を正当化できるか?(2・完)― 日本の憲法理論の検討 ― 内藤淳 PDF (下線は筆者)
内藤淳の理論は、各々の人間が生存運営していこうとする中で、各々にとって立憲的憲法であることに有用性が認められるために、その法に自ずと従おうとし、法の効力が生まれているという説明であると思われる。
しかし、この内藤淳の理論は、その社会の人々がなぜ法という形式を採用し、その法に自ずと従っているのかというメカニズムを明らかにするものではあるが、その法の正しさや正当性を示したことにはならないと思われる。そのため、立憲的憲法を正当化する理論を説明しているのではなく、立憲的憲法の効力の由来を示したに過ぎないと思われる。
「長谷部恭男」は、法は理性的な判断を効率化させるために用いる道具である旨を示しているが、このように、人々が法という形式に道具的な価値を見出して選択し、自ずとその文言通りに従っていることを説明するものではあるが、近代立憲主義そのものを正当化する説明を行ったものとは言えないように思われる。
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憲法学は法学の一種で、法学は道徳に関する学問の一分野と言ってよいでしょう。人は本来、どのように行動すべきか、自分で判断し、その結論に従って行動します。実践理性の働きと言われるものです。法はこの実践理性の働きを簡易化するための道具です。自分自身でどのように行動すべきか判断する手間を省いて、法の命ずる通りに行動すればよいようにする。そのために使われる道具です。
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憲法学の虫眼鏡 (下線は筆者)
ただ、当サイト筆者も、近代立憲主義の憲法の正しさをいくら説明しようとしても、そこに絶対的な根拠を導き出すことは難しいと考えている。
例えば、50人で構成される国家であれば、現代の日本国内の法秩序が採用するような大量の法典は必要なく、数枚の紙に収めた心がけがあれば充分であると考えている。後は、各々がしっかりと話し合って、互いの利益を配分して共生を保てばよいのである。
500人程度で構成される国家であれば、小さなルールブックを作ったならば、その国の法秩序はそれでよいと思われる。法秩序が洗練されていなくとも、長老の知恵を使えば人々の共生を取り持つことができると思われる。
5万人程度の国家であれば、ルールブックを作った上で国王を配置し、必要な事務処理を担当させればそれで済むと思われる。法の水準を高めなくとも、宗教家などが人々の共生を取り持つ存在として代替機能を果たしうると思われる。
100万人程度の国家となると、すべての市民と互いの存在を認めあえるほどの文化的交流を行うことが難しくなってくるため、その者たちの意識の分断によって自由や安全を侵害する意思決定を行う者による著しい侵害が想定されるため、立憲主義的な憲法の必要性が生まれてくると思われる。未だ宗教団体が人々の共生を取り持つことによってそれなりに社会は成り立つと思われる。
1000万人規模で構成される国家となれば、多様な価値観の公平な共存を可能とするような近代立憲主義に基づく憲法が必要となると思われる。このような社会では、日本国憲法の水準の憲法典が求められると考えている。
このように、国家の規模や人々の知識水準によって社会背景が異なるため、近代立憲主義の憲法を採用するべきか否かという社会的な需要も変わってくると思われる。そのため、近代立憲主義の憲法の正当性を説明づけようとしても、その社会背景の中で近代立憲主義に基づく憲法の形式が求められる段階に至っているか否かが関係するし、その社会の中で近代立憲主義の憲法を採用することが成功するか否かについても前提条件の違いによって変わってくると思われる。
この意味で、近代立憲主義の憲法の形式を正当化できる理論があるか否かという点を分析するだけでなく、その社会が近代立憲主義の憲法を採用するべき段階にあるか、それが有用性を持つ段階にあるか否かという側面があることは否定できないと考えている。
法の本質
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以上述ぶる所を要するに、法は其の内容に於ては社會生活に於ける人類の意思の強要的規律たり、其の目的に於ては人類の利益の規律たり、其の存立の基礎に於ては社会的意識に基きて存す。約言すれば、法とは社会的意識に於て人類の利益の爲に破るべからざるものとして認識せらるる社會生活上の意思の規律なりと定義することを得べし。
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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P9) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線・太字は筆者)
〇 法の内容
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一 法の内容
法はその内容に於ては、社會生活に於ける人類の意思の強要的規律なり。
(一)法は社會生活に於て存す。社会生活とは多数の人が相互に精神的又は物質的の交渉を有する生活を謂う。一人孤立して生存し、他人と生活上の交渉なきに於ては、其の生活は絶對に自由にして、法の存すべき餘地なし。多數人が相互にして交渉ある生活を爲し一人の爲す所が精神的又は物質的に他人に影響する場合に於て、初めてその相互の間に意思の活動に關する規律の存在あることを要す。社會生活の存在は法の存立する前提にして、社會なければ法あることを得ず。一方に於ては社會ある所は必ず法あり、如何なる社会生活と雖も法なくして存立することは不可能なり。法は社會と共に存し、社會の變遷に伴ひて變遷す。
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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P1~2) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者)
〇 法の目的
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二 法の目的
法は人類の社會に於て存し、人類に依りて作らるるものにして、而して人類の總ての行爲は何等かの目的の爲にするものならざるなきを以て、法も亦必然に人類の目的の為に存在するものならざるべからず。總ての法は或る目的を以て其の存立の前提と爲す、目的は法の本質の缺くべからざる一要素たるものなり。
法の目的は人類の利益を充たすことに在り、法は人類に依りて作られたるものなるが故に、法が人類の利益の爲に存することは其の當然の性質ならざるべからず。換言すれば、法はその内容に於て人類の意思の規律たると共に、其の目的に於いては人類の利益の規律たり、意思と利益とは法の本質に於ける二の中心要素を爲すものなり。
利益とは人類の缺乏感を除き又は満足感を起こさしむべき外部的又は内部的の總ての經過又は状態を謂う。必ずしも物質的又は經済的の利益のみを意味するに非ず、又必ずしも現實に社會若くは個人の福利に適するものなることを要せず、人類の宗教的感情、美的感情、倫理的感情等單に人類の感情を満足せしむるもの亦此の意義に於ての利益なり。要するに總て各時代の時代思想に於て人間に價値あるものとして感ぜらるる總ての事物は皆利益にして、而して法は常に此の意義における利益を目的とするものならざるなし。
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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P7) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者)
〇 法の存立の基礎
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三 法の存立の基礎
法は社會心理に基きて存す。社會一般の心理に於て人類の利益の爲に破るべからざる意思の規律として認識せらるるものが即ち法なり。
法の成立する直接の淵源は甚種々にして、或は立法権者の制定に因り、或は事實上の慣習に因り、或いは裁判所の判決に因り、或は政府、議會又は行政官憲の行爲に因り、或は私人間の法律行爲に因り或は社會の正義意識に因りて生ずと雖も、その直接の發生原因の何に在るかを問わず、窮竟に於ては法は常に社會心理に於て之を破るべからざる規律なりとして認識することにその成立の根據を有す。現代の文化に於ては法は大部分は立法権者の制定する所に係ると雖も、その制定せる所が法たる力を有し得る所以は、社会が立法権者の権威を認めこれに準據せざるべからざることを意識せるが爲に外ならず。事實上の慣習が法たる力を有するに至るも亦慣習が人心を支配し遂に社會をしてその規律力を意識せしむるが爲なり。法の其の他の淵源に付いても皆結局は社会意識に帰せざるものなし。
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……(略)……法は、此の社會的の力に基きて存立するものにして、若しその社会力にして缺除し若くは薄弱ならば、假令立法権者の制定するところと雖も、或は初より法たる力を有することを得ざるか、或は久しからずして自ら法たる力を失うに至るべし。」
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憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和21 (P8~9) (カタカナをひらがなにしている。また、漢字が正確に反映できていない場合がある。) (下線は筆者) (憲法撮要 美濃部達吉 有斐閣 昭和7)
現代語訳 憲法撮要 美濃部達吉著 小川一樹 amazon (試し読み)
「国会が制定した法律が実定法なのだ」 Twitter
法の効力
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【後記】「法」とは,「ルールを用いて人々の行動を規制する社会的仕組」であるとし,「法律が人々の行動を規制するためには,人々が法律を自己の行動に自ら適用したり,警察官や裁判官が法律に基づいて一定の決定をしたりすることを通じて,法律が人々によって実際に用いられなければならない。言い換えれば,法律は社会の中で誰も何もしなくても自動的に作用するものではなく,人々が実際に法律を持ち出して,それに基づいて行動しなければ,法律は社会の中で作用できない」とされる。これは,「社会現象としての法の存在形態や作用,および法と他の社会現象との因果関係を経験科学の方法を用いて解明しようとする社会科学の一分野」たる法社会学の基本的視座であるが(村山眞維・濱野亮『法社会学〔第3版〕』(2019 年,有斐閣)2頁),立法や政治も含めた広い意味での「法の動態」の担い手に議会(国会・地方議会)の議員も含まれるとするならば,そもそも議員の政治活動とは何か(これには議員活動の自由だけではなく,その評価や世論の形成など民主主義的な過程への影響も含む。)ということについて,解釈論のレベルでも考慮,勘案すべきではないかというのが,はなはだ不十分なものではあるが,本稿の問題意識の根底にはある。……(略)……
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統治機構の機能維持と司法審査 : 憲法53条違憲国賠訴訟など近時の事件を中心に 神橋一彦 2022-03-31 (P95)
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普段、社会生活を送る中で形成している会社組織などは、「同じような思いを持つ人たち」が集まることによってつくられています。
ここでは、直接的に人権の存否を扱うような重大な意思決定を行うことはありません。
また、国会が法律を立法するときにも、人権の存否を扱うような重大な決定は含まれていません。
国家という共同体は、基本的に所属を辞めることができません。
国家という集団においては、
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憲法を改正する際に、多数派の国民が、他の国民に対して「憲法に定められたものだから、このように読みなさい」というような形で、「法」という一つの思想をあたかも絶対的な価値観であるかのように押し付けるような形に憲法をつくり変えてしまうと、その憲法の価値観を支持しない人の考え方や思想の自由を十分に保障することができなくなってしまいます。
すると、「人権保障のために憲法を制定して法秩序をつくる」という憲法を打ち出す本来の目的を達成することができなくなってしまいます。
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しかし、多数決によって憲法の精神をつくり変えることができてしまうとすると、
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人権概念の存在や価値や正当性の源は、人権保障を実現しようとする人々の意志である。
近代立憲主義によって打ち出された憲法
憲法が保障しようとしている「人権」という概念(人権概念)
の観念を具現化したことによるものです。
人々を守る力としての法制度の大本となる憲法に効力を持たせるための正当性の裏付け
国家が人を管理するにあたって、
その制度枠組みが法学として扱われている部分です。
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国政(政治)は憲法の下で行うものです。
国会による立法権を行使、内閣以下の行政機関による行政権、裁判所による司法権の行使は、すべて憲法の下で行うものです。
なぜならば、国政(政治)の実現は人権保障を目的とする活動であり、人権保障実現の意志は政治以前のものだからです。
国政を担う統治機関に権力が集中し、人権が侵害されることがないように憲法で三権を分立し、歯止めをかけるのです。
しかし、現在の政治情勢は、多数派を形成している政治勢力が多数決によって憲法の枠組みを越えようとしています。
人権概念に裏付けられた立憲主義の思想と、政治思想を混同してはいけません。
政治が憲法を乗り越えようとしたり、改正しようとすることは権力の独占を招く非常に危うい兆候であることが多いです。
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しかし、そこで「どのような憲法をつくり出していくべきか」というそれぞれの人が持っている憲法観は、それぞれの人が「人権」というものについてどのような認識を持っているかによって変わってきます。
そのため、良質な憲法をつくり上げるためには、「人権とは何か」という根源的な視点を十分に捉え、深い理解を形成し、より妥当な人権認識を持った上で取り組むことが求められます。
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<理解の補強>
第33回 「憲法とは何か」をもう一度確認しよう 浦部法穂 2019年5月22日
(第1回 憲法はなぜ憲法なのか?)
(第4回 日本国憲法のもとで「新憲法の制定」は、どうやったらできる?)
【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立
野党「安保法案をあらゆる手段をもって成立を阻止する」-「民主主義の本質と価値」 2015年09月15日
「自由と特権の距離ーカール・シュミット制度体保障論・再考」石川健治 を読んで 2012-11-21
「民主主義=多数決」じゃないよという話 2013-11-27
わたしたちの自由はどうやって守られているのだろう ―― 繊細な憲法を壊さないために 木村草太氏 2013.06.24
【動画】立憲主義と9条② 民主化と立憲化のコントラロール 石川健治 立憲デモクラシー講座⑤ 2018/03/02
多数決なら何でも「正当」なの? 2019年1月29日
なぜ民主主義か、
どこまで民主主義的であるべきか 長谷部恭男 2021年01月25日
上記の記事は、多数決で決めることが妥当であるかに関する考察が非常に説得的である。書籍「憲法講話 -- 24の入門講義」のP273~276の「5 なぜ多数決か」の項目にも同様の記述がある。
【秀逸】憲法を民意でどこまでも改正できると考えると、自己矛盾で破綻する件 2021/05/09
上記の記事は、当ページで表現したかったことが詰め込まれている。分かりやすくて素晴らしい。
尾高・宮沢論争 Wikipedia
佐々木・和辻論争 Wikipedia
ノモス主権への法哲学 ―― 法の窮極に在るもの/法の窮極にあるものについての再論/数の政治と理の政治 単行本 尾高朝雄 2017/5/30 amazon
天皇制の国民主権とノモス主権論――政治の究極は力か理念か 単行本 尾高朝雄 2014/4/7 amazon