9条関係の誤解



 下記は、このページの内容である。

芦部信喜 高橋和之 辻村みよ子 髙良沙哉 城涼一 篠田英朗 上念司 細谷雄一 加藤秀治郎 上島嘉郎 江崎道朗 高橋淳 橋下徹 北村晴男 岡田邦宏 三木理恵子 佐藤理 大原浩 クレイグ・マーティン 稲葉義泰 松浦一夫 百地章 杉山幸一 玉木雄一郎 教科書の記述





〇 憲法学者 芦部信喜

 

憲法 第三版 芦部信喜 2002/9/26 amazon


 書籍「憲法 第三版(芦部信喜・高橋和之補訂)」の9条に関する記述は、国際法上の概念と憲法上の概念を切り分けていないことによる理解の混乱、概念整理の曖昧さ、話を持ち出す順番の不備、説明不足などによる問題が非常に多い。この書籍の説明をどれだけ丁寧に理解しようとしても、もともと正確に読み込むことができない形となっている部分がある。そのため、読者は注意する必要がある。

 下記で、この書籍の「平和主義」と9条についての不正確な記述について詳しく解説する。


P54 (以下、下線・太字は筆者)
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   第四章 平和主義の原理


(略)
……(略)……これに対して、日本国憲法は、第一に、侵略戦争を含めた一切の戦争と武力の行使および武力による威嚇を放棄したこと、第二に、それを徹底するために戦力の不保持を宣言したこと、第三に、国の交戦権を否認したことの三点において、比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出している。
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 「侵略戦争を含めた一切の戦争と武力の行使および武力による威嚇を放棄したこと」との記載があるが、解釈の多様性を考慮しておらず、正確ではない。
 まず、1項には「国際紛争を解決する手段としては、」の文言が存在している。そのため、この文言の解釈次第では「一切の戦争と武力の行使および武力による威嚇を放棄した」とは言えない。
 2項後段で「交戦権」が禁じられることによって「侵略戦争」だけでなく、「自衛戦争」も禁じられることにより、「一切の戦争」を放棄したと考えるのかもしれないが、2項前段の「前項の目的を達するため、」の文言を2項後段も引き継いでいると考えるなど、「交戦権」の文言が1項で禁じていない「自衛戦争」まで禁じる趣旨ではないと考える解釈もあり得るのであり、それを無視して「一切の戦争」を放棄したと言い切ってしまうことは誤りである。
 「武力の行使および武力による威嚇を放棄した」との部分もあるが、1項には「国際紛争を解決する手段としては、」の文言が存在しており、この文言の解釈によってはすべての「武力の行使および武力による威嚇を放棄した」とは限らないのであり、誤りである。


 「それを徹底するために戦力の不保持を宣言したこと」との部分について、2項前段には「前項の目的を達するため、」との文言が存在しており、この解釈によってはすべての「戦力」が禁じられたとは限らないのであり、その解釈が存在しないかのように示すことは説明不足である。


 他国の憲法と比べて「比類のない徹底した戦争否定の態度を打ち出している。」との記載となっているが、1項の「国際紛争を解決する手段としては、」の文言を放棄する範囲を限定する意味であると解し、2項前段の「前項の目的を達するため、」の文言がその限定放棄の趣旨を引き継ぐ解釈によれば、特に「比類のない徹底した戦争否定の態度」とまで言い切ることは難しい。そのため、様々な解釈枠組みが存在するにもかかわらず、それを覆い隠すような主張となっていることは説明不足である。



P56
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   二 戦争の放棄
    1戦争の放棄の内容
     (一)戦争の意味


 「国権の発動たる戦争」とは、単に戦争というのと同じ意味である。……(略)……
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 との記載があるが、学者の解説としてはあまりに不足している。
 まず、「国権」とは、「国家権力」の意味であり、「統治権力(統治権)」と同義である。そのため、「国権の発動たる戦争」の意味は、国家の統治権を行使して行われる「戦争」の意味である。
 これを「単に戦争というのと同じ意味である。」と説明することは、憲法の教科書として名高いこの書籍にしてはあまりに雑であり、妥当な説明ではない。



P57
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     (二)九条一項の意味


 もっとも、以上の戦争の放棄には、「国際紛争を解決する手段としては」という留保が付されている。従来の国際法上の通常の用例(たとえば不戦条約一条参照)によると、「国際紛争を解決する手段としての戦争」とは、「国家の政策の手段としての戦争」と同じ意味であり、具体的には、侵略戦争を意味する。
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 との記載があるが、「国家の政策の手段としての戦争」の意味が「不戦条約 1条」の文言であることを明確に読み取ることができず、文章として悪文である。
 また、この文章はこれを読む読者が「不戦条約」が「侵略戦争」を禁じた条約であるとの前提認識を共有している場合にしか、意味を読み解くことができず、納得することはできない。非常に悪文である。
 他にも、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」の意味であるが、これはそのまま「国際紛争を解決する手段として」「戦争」を行うことを禁じたものと考える方が理解しやすく、「侵略戦争」を禁じたものと読み替えたところで、「侵略戦争」がいかなる意味であるのか理解することは難しい。「侵略」していなければ、「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」を行っても良いという解釈が導かれるわけでもないのであるから、言葉の意味を明らかにする法解釈という作業としては妥当な説明とは言えない。


 その後、この「侵略戦争」の文言に引きずられる形で、これと対比して「自衛戦争」という文言が持ち出されるが、これは「国際紛争を解決する手段として」ではない「戦争」の意味であるのか、確定することが難しく、用語の混乱を招きやすい。9条1項の意味を「『侵略戦争』を禁じたもの」と分類することに根拠があるのかは、解釈の枠組みを考える上で常々注意する必要がある。

 

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 国際紛争解決の手段としての戦争を禁止する不戦条約の文言を受けた憲法九条一項も、同じ趣旨の条文で、禁止の対象を武力による威嚇と武力の行使へと文言上も明確に拡大したものです。第22講2(2)7⃣で説明する砂川事件判決(最大判昭和三四・一二・一六刑集一三巻十三号三二二五頁)は、九条一項は侵略戦争を放棄したものだとしていますが、この解釈では文言にも即しておらず、意味として狭すぎます。

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憲法講話 -- 24の入門講義 長谷部恭男 2020/3/2 (P47) (下線は筆者)



P59~60

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   三 戦力の不保持
    1 自衛権の意味


 この戦力論争について述べる前に、自衛権の概念について説明しておくことが必要である自衛権およびそれを前提とする自衛力の考え方が、後述するように、政府の自衛隊合憲論の柱となっているからである。
 自衛権とは、通常、外国からの急迫または現実の違法な侵害に対して、自国を防衛するために必要な一定の実力を行使する権利、と説かれる。そして、自衛権を発動するためには、①防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ないという必要性の要件、②外国から加えられた侵害が急迫不正であるという違法性の要件、③自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、つり合いがとれていなければならないという均衡性の要件、が必要であるとされる。
 この意味での自衛権は、独立国家であれば当然有する権利である。国連憲章五一条において個別的自衛権として認められている(もっとも、これは本来、国連が必要な措置を取るまでの応急措置として認められているもので、その発動、適用範囲について秘儀に述べたような厳しい条件に服する)。日本国憲法でも、このような自衛権まで放棄したわけではない。しかし、自衛権が認められているとしても、それに伴う自衛のための防衛力・自衛力の保持が認められるかどうかは、後述するように、重大な争いのあるところである。
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 まず、「この戦力論争について述べる前に、自衛権の概念について説明しておくことが必要である。」との記載があるが、憲法解釈として9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触するか否かを議論する中において、突然、国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分の話が持ち出されることは適切ではない。国際法と憲法では法体系が異なっており、法的効力は連動する関係にない。
 次に、「自衛権およびそれを前提とする自衛力の考え方が、」との記載があるが、日本国が国際法上において国家承認を受けており、国際法上の法主体として認められていることから、主権国家として扱われており、これによって国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有することと、日本国の統治権の『権限』が9条の下で「自衛力」を保持することができるか否かは、異なる法分野の問題であり、連動していない。それにもかかわらず、「自衛権およびそれを前提とする自衛力」などと、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠として、日本国の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生するかのような認識は誤りである。
 この点、政府の答弁には誤った説明がなされている場合があるが、その誤りをそのまま継承する説明となっており、やはり誤りである。詳しくは当サイトの「9条関係の用語」のページで解説している。


 「自衛権とは、通常、外国からの……」との説明が始まるが、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由である国連憲章51条の「自衛権」という『権利』の話であり、日本国憲法上の9条解釈とは直接的な関係がない。そのため、ここで国際法上の『権利』である「自衛権」の話を持ち出すことは適切ではない。


 その後、「そして、自衛権を発動するためには、①防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ないという必要性の要件、②外国から加えられた侵害が急迫不正であるという違法性の要件、③自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、つり合いがとれていなければならないという均衡性の要件、が必要であるとされる。」との記載があるが、通常、自衛権の内容について解説される場合、ここで記載されている①の(必要性の要件)と②(違法性の要件)の順番が逆である。
 下記は、①と②の順番を逆にして箇条書きにし、通常の順番にした。

━━━━【自衛権を発動できる場合の要件】━━━━━

◇ 外国から加えられた侵害が急迫不正である(違法性

◇ 防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ない(必要性

◇ 自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、つり合いがとれていなければならない(均衡性

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    【参考】第16回国会 衆議院 外務委員会 第30号 昭和28年9月17日


 これは、日本国憲法9条の下において「武力の行使」を発動できる場合の「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準との対応関係を考えると理解しやすい。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること

〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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 「日本国憲法でも、このような自衛権まで放棄したわけではない。」との部分は、その通りである。憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄し、「陸海空軍その他の戦力」を不保持とし、「交戦権」を否認しただけであり、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を直接的に禁じるものではないからである。
 
 「しかし、自衛権が認められているとしても、それに伴う自衛のための防衛力・自衛力の保持が認められるかどうかは、」との記載があるが、国際法上において「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権限』が9条の下で「自衛のための防衛力・自衛力」を保持できるか否かは法的効力が連動しておらず、「それに伴う」などと法的効力が連動しているかのように論じることは誤りである。


 「重大な争い」との文言であるが、9条解釈において「国際紛争」や「戦争」、「武力紛争」などの文言が使われており、この「争い」という文言は混乱しやすいため避けた方が読者に分かりやすいのではないだろうか。法律上の議論が存在することを意味しているのであるから、人と人が乱闘しているかのような印象を招きやすい表現を用いることや、政治的な主張が込み入っていることを示す表現を用いることは、憲法の教科書としては避けるべきではないか。裁判所での訴訟の上で使われる争いという用語との混乱を招くような表現は避けるべきと考える。



P60
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* 集団的自衛権  自衛権には、個別的自衛権と国連憲章で新しく認められた集団的自衛権の二つがあるが、後者は、他国に対する武力攻撃を、自国の実体的権利が侵されなくても、平和と安全に関する一般的利益に基づいて援助するために防衛行動をとる権利であり、日本国憲法の下では認められない。日米安保条約の定める相互防衛の体制も、日本の個別的自衛権の範囲内のものだ、と政府は説いてきている(本章五2参照)。
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 「日本国憲法の下では認められない。」との記載があるが、正確には誤りである。「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』の区分であり、日本国も国際法上において主権国家として認められている以上は、この『権利』の適用を受ける地位を有している。
 しかし、その「集団的自衛権」を『行使』するとなると、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の概念であることから、通常は国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていることとなる。日本国の場合は憲法9条が「武力の行使」を制約しており、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて違憲である。これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が、「日本国憲法の下では認められない。」のであり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを日本国憲法(9条)が禁じているかのような説明となっていることは誤りである。



P61
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* 「武力なき自衛権」論  本文に言う結論をとれば、自衛権はあるといっても、その自衛権は、外交交渉による侵害の未然回避、警察力による侵害の排除、民衆が武器を持って対抗する群民蜂起、などによって行使されるものにとどまる、ということになる。しかし、この「武力なき自衛権」の考え方には、自衛権は当然に武力すなわち戦力を伴うものだとの立場から、戦力を放棄した日本国憲法のものでは自衛権は実質的に放棄されていると解すべきである、とする有力な異論もある(この説によれば、警察力であっても、外からの侵害排除の任務と権限を国から与えられれば、法的には軍事力すなわち戦力となる)。また、これと反対に、自衛隊は違憲状態にあるが、自衛権がある以上、「攻撃的な装備、作戦をもたず、通常の警察・消防では対処できない災害や紛争に対処するための自衛組織である最小限防衛力」の域を出ない軍事力の保有は許される、という説もある。この説は政府の解釈に限りなく近づく。
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 これらの記載には、混乱が見られる。
 まず、「武力なき自衛権」との用語であるが、現在の国際法秩序における「自衛権」の概念は国連憲章51条の「自衛権」を指すことが通常であり、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却自由の『権利』の概念である。そのため、この意味で「自衛権」が行使される場合、それは国連憲章2条4項によってかけられる「武力の行使」の違法性を阻却しようとするものであることから、必然的に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていることとなる。そのため、「自衛権」が行使されているのであれば、「武力の行使」が実施されていることを意味するのであり、国連憲章の下では「武力なき自衛権」という概念は存在しない。
 国連憲章が制定される以前や、国連憲章が廃止された場合の国際法秩序の中で、国家が自国を守る権利などという抽象的な意味で「自衛権」の文言を用いているのであれば、意味は通じる。


 「自衛権は当然に武力すなわち戦力を伴うものだとの立場から、戦力を放棄した日本国憲法のものでは自衛権は実質的に放棄されていると解すべきである、とする有力な異論」との部分であるが、「自衛権」を国際法上の『権利』の概念として位置付けて考えるのであれば、国家が国際法上において「自衛権」を主張することができるとしても、その国家の統治権の中に「武力の行使」を行う『権限』や、「戦力」を保持する『権限』が存在するか否かは、その国家の憲法上の問題である。そのため、「自衛権は当然に武力すなわち戦力を伴うものだ」との認識は、国際法と憲法の法体系の違いを切り分けることができていない誤りである。
 同様に、「戦力を放棄した日本国憲法のものでは自衛権は実質的に放棄されていると解すべきである」との部分についても、憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「戦力」の保持を禁じているとしても、国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有しているか否か、つまり、国際法上において「自衛権」を主張することができるか否かは別問題であり、それらの法的効力が連動しているかのような説明は誤りである。


 「自衛隊は違憲状態にあるが、自衛権がある以上、『攻撃的な装備、作戦をもたず、通常の警察・消防では対処できない災害や紛争に対処するための自衛組織である最小限防衛力』の域を出ない軍事力の保有は許される、という説」の部分であるが、誤りである。
 まず、国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有していることと、憲法9条が日本国の統治権の『権限』を制約していることとは関係がなく、「自衛権がある以上、」という文言を用いて国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠として日本国の統治権の『権限』が発生するかのような説明は誤りである。
 「自衛隊は違憲状態にあるが、………を出ない軍事力の保有は許される」との説明であるが、文章として意味が明確でなく、解釈枠組みを思い描くことができない悪文である。
 「この説は政府の解釈に限りなく近づく。」との説明があるが、論者の「自衛権」という国際法上の『権利』の概念を基にして日本国の統治権の『権力・権限・権能』が発生するかのような理解は、政府の説明不足による誤った答弁に基づいていると思われるが、その誤った理解が「政府の解釈に限りなく近づく」としても、もともと政府の説明も誤っている部分であることを押さえる必要がある。詳しくは当サイト「9条解釈の用語」のページで解説している。


P62
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 ところが、昭和二七年に警察予備隊が保安隊と警備隊に改組・増強されたことにともなって、政府の解釈が変更され、「戦力」とは、近代戦争遂行に役立つ程度の装備・編成を備えたものであるとされるに至った。……(略)……
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 この記載の「政府の解釈が変更され、」の部分は、正確であるのか注意する必要がある。解釈は明確化されていると思われるが、これが「解釈変更」と言えるかは疑問である。



P62
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 ……(略)……それによると、自衛権は国家固有の権利として、憲法九条の下でも否定されていない。そして、自衛権を行使するための実力を保持することは憲法上許される。つまり、自衛のための必要最小限度の実力は、憲法で保持することを禁じられている「戦力」に当たらない、というものである。ここに言う「自衛のための必要最小限度の実力」とはいかなるものかは必ずしも明確ではないが政府はそれについて、他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できないと説明してきている。
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 この説明は、政府答弁を基にした内容ではあるが、論者の理解の不足がある。
 まず、9条が「自衛権」という国際法上の『権利』の概念を否定していないことはその通りである。しかし、このことは日本国の統治権の『権限』によって「陸海空軍その他の戦力」、あるいは「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持できるか否かとは直接的な関係がない。そのため、9条2項前段の「戦力」の意味を明らかにする解釈の枠組みを描く中において「自衛権」を持ち出すことは適切ではない。

 「自衛権を行使するための実力を保持すること」との部分であるが、「自衛権を行使する」ことが、通常「武力の行使」を伴うのであり、そのための「実力(組織)」の保持のことを指している。しかし、この文面は「自衛権を行使する」ことが、実質的に国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている状態であることが理解しづらくなっているため、注意する必要がある。
 ここで、国際法上の概念である「自衛権」の文言を取り除いた形で、憲法9条の下で「実力(組織)」の保持が可能であるか否かを示すと、単に「憲法九条の下」で「実力を保持することは憲法上許される。」と言っているだけである。この文に対して、続いて「つまり、自衛のための必要最小限度の実力は、憲法で保持することを禁じられている『戦力』に当たらない」と、「つまり」という接続詞を用いて説明を重ねても、なぜ9条の下で「自衛のための必要最小限度の実力」の保持が可能であるのかを明確に説明したものとはなっていない。
 このような読者を煙に巻くような説明は、憲法の教科書として適切ではない。恐らく、論者自身も政府の説明を聞いて、よく分からなかったのだろう。


 「ここに言う『自衛のための必要最小限度の実力』とはいかなるものかは必ずしも明確ではないが、」との部分であるが、政府は「自衛のための必要最小限度」について三要件(旧)を示しており、その三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」を実施するためのものであれば、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないとしている。
 「政府はそれについて、他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器は保持できないと説明してきている。」との部分であるが、その「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を実施する範囲内に限られるとすれば、「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器」は保持できないとしているのであり、この三要件(旧)の基準を省略して、単に「自衛のための必要最小限度の実力」の中に「他国に侵略的な脅威を与えるような攻撃的武器」は含まれるのか含まれないのかを論じようとも、基準が分からないことになっている。
 ここも、論者の理解が不足している部分である。



P63
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    3 自衛力・自衛権の限界


 以上のような解釈にはいくつかの問題があり、学説上も裁判所でも争われてきた。
 (1) 第一は、自衛力の限界は具体的にはどこにあるかという問題である。政府は、保持できるのは近代戦争遂行能力をもたない防衛用の兵器のみで、他国に対して侵略的脅威を与えるようなものであるとか、性能上相手国の国土の壊滅的破壊のためにのみ用いられるものは保持できないとしているが、兵器の目的や性能によって、攻撃的兵器と防衛的兵器を区別することは非常に難しくなっている。……(略)……
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 この記載であるが、政府は「自衛力の限界は具体的にはどこにあるか」という混乱を防ぐために「自衛のための必要最小限度を超えるもの」を9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」であると説明している。この「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を意味しており、この三要件(旧)を実施するための範囲内であれば合憲、この基準を超えるものについては9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲であると説明している。論者はこの政府答弁を知らないのだろうか。



P64
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 (2) 第二に、自衛権がどこまで及ぶかが問題となる。政府は、わが国に急迫不正の侵害が行われた場合に、他にやむを得ない措置として、相手国の基地を攻撃することは、合理的な自衛の範囲に含まれるとしてきた。
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 この説明は、誤りと言っていいだろう。
 まず、「自衛権」は国際法上の概念であり、どこまで及ぶかという問題は、国際法上の基準である。9条の下で許容される「武力の行使」がどこまで及ぶかであるが、これは政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準によって限度が画されている。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 これにより、「どこまで及ぶか」という疑問の答えは、「我が国に対する急迫不正の侵害」を「排除」したならば、それ以上は「武力の行使」を行ってはならないという範囲である。

 論者の説明している「政府は、わが国に急迫不正の侵害が行われた場合に、他にやむを得ない措置として、相手国の基地を攻撃することは、合理的な自衛の範囲に含まれるとしてきた。」とは、下記の答弁に基づくものである。

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○船田国務大臣
(略)
  わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。昨年私が答弁したのは、普通の場合、つまり他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らないだろうという趣旨で申したのであります。この点防衛庁長官と答弁に食い違いはないものと思います。
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第24回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 昭和31年2月29日


 しかし、これは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を基にすれば、この事例が考えられるということを示したものであり、前提として三要件(旧)の基準を示さないままにこの説明を行うことは、読者に誤った認識を持たせることとなる。そのため、単なる論者の理解不足による誤りと言っていいだろう。

 

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三1 政府は、従来、わが国には固有の自衛権があり、その限界内で自衛行動をとることは憲法上許されるとの見解のもとに、いわゆる「海外派兵」は、自衛権の限界をこえるが故に、憲法上許されないとの立場を堅持しており、御指摘の、三月一〇日の参議院予算委員会における高※(注)内閣法制局長官の答弁は、重ねてこのような見解を明らかにしたものである。

   かりに、海外における武力行動で、自衛権発動の三要件わが国に対する急迫不正な侵害があることこの場合に他に適当な手段がないこと及び必要最少限度の実力行使にとどまるべきことに該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではないと考える。この趣旨は、昭和三一年二月二九日の衆議院内閣委員会で示された政府の統一見解によつてすでに明らかにされているところである。

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安保条約と防衛問題等に関する質問に対する答弁書 昭和44年4月8日

 

 もう一つ、「他にやむを得ない措置」という意味が分からない。「他の適当な手段がない」場合に「やむを得ない措置」をとるならば意味は分かるが、この書籍には「他にやむを得ない措置」と記載されており、意味不明である。



P64
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 (3) 第三に、自衛隊の海外出動の問題がある。政府は、自衛隊の任務が国土を防衛することに限定されていることを根拠に、海外出動は認められないという立場をとってきた。……(略)……
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 この記載も、なぜ「自衛隊の任務が国土を防衛することに限定されている」のか説明しておらず、読者の理解を導くことはできないものとなっている。

 「海外派遣」と「海外派兵」、「海外出動」を区別しているのかは詳しく検討する必要がある。


   【参考】自衛隊の海外出動を為さざることに関する決議 参議院本会議 昭和29年6月2日

 

 政府は、9条の下で行使できる日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られていることを説明している。つまり、その「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならば、それ以上は「武力の行使」を行ってはならないという制約により、一般に「海外派兵」は許されないとの基準を引いているのである。

 ただ、政府が「一般に」という文言を付けて説明している理由は、もし「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するために他の適当な手段がない(第二要件)」のであれば、「海外派兵」を行うことも「必要最小限度の実力行使にとどまる(第三要件)」形で行うことができるとしているからである。この点に注意する必要がある。



P64
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……(略)……また、憲章上の根拠はないが、国連決議に基づいて行われる平和維持活動(Peace Keeping Operation=PKO)のうち、通常武力の行使をともなう平和維持軍(PKF)はもとより、原則として武力行使をともなわない停戦監視団についても、武力行使と無縁とは言い切れないので、政府は、参加は憲法上許されないわけではないとしつつ、自衛隊法上は自衛隊にこのような任務は与えられていないとして、日本に対する自衛隊の派遣要請を拒否し、経済的援助ないし選挙監視団への文民参加など他の側面で国連に協力してきた。
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 この文章は一文であるが、これをすんなりと読み解ける読者がいるのか疑問である。憲法の教科書として、これはあまりに悪文である。

 「~~はもとより、~~についても、武力行使と無縁とは言い切れないので、~~憲法上許されないわけではないとしつつ、~~は与えられていないとして、~~を拒否し、~~国連に協力してきた。」との文面について、「もとより、」が何を意味しているのか分からず、結局、許されるのか許されないのか理解不能である。

 恐らく論者は下記の答弁の論点について述べようとているものと考えられる。

 

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3 いわゆる「国連軍」は、個々の事例によりその目的・任務が異なるので、それへの参加の可否を一律に論ずることはできないが、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないと考えている。これに対し、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴わないものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないわけではないが、現行自衛隊法上は自衛隊にそのような任務を与えていないので、これに参加することは許されないと考えている。

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自衛隊の海外派兵・日米安保条約等の問題に関する質問に対する答弁書 昭和55年10月28日


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○真田政府委員 一口に国連軍への参加とおっしゃいますけれども、それもかくして参加なら参加した場合の国連軍の目的なんですが、たとえば休戦の監視をするとかある地域における選挙の管理をするとか、そういう武力の行使とかかわりのない仕事のために出かけていくことは憲法上禁止はされておりません。ただ、現在の自衛隊法上はそういう職務は自衛隊に与えられておりませんので、自衛隊法上そういうことはできない、こういうふうに御理解願いたいと思います。

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第84回国会 衆議院 内閣委員会 第22号 昭和53年6月6日


 また、初めは「武力の行使」との文言を用いているが、その後「武力行使」「武力行使」と、「の」を抜いた表現を用いるなど、一文の中であるにもかかわらず、用語が統一されていない。あまりに悪文である。

 しかも、ここでは省略しているが、この文の次の文では「…強調され、『武力の行使』をともなわないことを条件に……」と、鍵カッコ付きで「武力の行使」を説明している。意味不明である。

 憲法の教科書として名高いにもかかわらず、あまりに質が悪い。憲法学会は誰も指摘しなかったのかとうんざりさせられる。



P66
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 二〇〇一年九月一一日に米国で起こったニューヨーク貿易センタービルに対するテロ攻撃を契機にアフガン戦争とイラク戦争が生じたが、これに対する日本政府の対応として、アフガン戦争の「後方支援」とイラクの戦後復興支援を可能とするために、いわゆる「テロ対策特別措置法」(平成一三年一一月二日法律第一一三号)と「イラク支援特別措置法」(平成一五年八月一日法律第一三七号)が制定された(ともに時限立法)。これらは、いずれも国連決議を踏まえての国際協力という形をとっているが、PKO協力法とは性格をことにするものであり、政府が従来説明してきた自衛隊海外派遣の許容限度を超えて集団的自衛権に踏み込んでいるのではないかとの批判も強い。
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 との記載があるが、「集団的自衛権」について誤った認識である。「集団的自衛権」とは、国連憲章51条に記載された国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念である。そのため、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われていないのであれば、この「自衛権」の区分に当てはまるか否かという議論が生じることはない。また、「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るためには『武力攻撃を受けた他国からの要請』が求められており、これを得ていないのであれば、「集団的自衛権」の『権利』を得ることはできない。また、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の範囲は、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲内であるか否かによって決せられるのであり、国際法上の『権利』の区分が基準となっているわけではない。そのため、憲法解釈として「自衛隊」の活動が9条に抵触するか否かを論じる際に「集団的自衛権」という国際法上の概念を持ち出すことは誤りである。
 「自衛隊海外派遣の許容限度を超えて」いるか否については、「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」の三要件(旧)の基準の範囲内であるか否か、また、他国の軍隊の「武力の行使」と一体化していないか否かによって判断される問題である。相変わらず、「集団的自衛権」は関係がない。

 政府答弁からも確認する。


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○大森政府委員 集団的自衛権に当たるから認められないとか、集団的自衛権に当たらないのだから認められるという、集団的自衛権を核にした議論がよくなされるわけでございますけれども、我が国の問題に関する限りは、やはり集団的自衛権の概念を解するのではなくて、我が国を防衛するために必要最小限度の行動に当たるかどうかということが基準になるはずでございます。
 したがいまして、冒頭にも申し上げましたとおり、憲法九条は、国際紛争を解決する手段としては武力による威嚇または武力の行使等を禁止しているけれども、我が国を防衛するために必要最小限度の実力行動は禁止していない。したがって、問題となる行為が我が国を防衛するために必要最小限度の行為であるかどうかということによって事が決せられるべきであるというふうに考える次第でございます。(岡田委員「持っているけれども行使できないというのは」と呼ぶ)国際法上は集団的自衛権を主権国家であるから保有しているのである、これは国際法上そのように解せられておりますから、従前も政府の答弁としてもそのように答弁してきているわけでございますが、やはりそれに対しまして、我が国は最高法規としての憲法によりまして、我が国の行動を縛っているわけでございます、言葉は悪いかもしれませんが。
 したがいまして、憲法九条によって、武力による威嚇または武力の行使に当たることはいたしません、やってはいけませんと。したがって、行動の面で縛っているわけでございますから、集団的自衛権の行使というのはその観点から認められない。国際法上は保有していると言えても、その行使は憲法で禁止されているんだということは、何らおかしいことでないということは従前から反論しているわけでございます。
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第142回国会 衆議院 予算委員会 第27号 平成10年3月18日


 □P66の「四 交戦権の否認」の項目であるが、「交戦権」の説明について、政府解釈の「自衛行動権」の説明が全く欠如しており、憲法学の教科書と名高い割には網羅性がなく、必要な説明が抜けている点で不備がある。


P69

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    3 駐留軍の合憲性

 安保条約には、以上のような個別的な問題点があるのみではなく、法的にみて、それが憲法に反していないかどうかという基本的な問題点がある。この点が争われた有名な事件が砂川事件であり、最高裁判所は、安保条約を違憲とした一審判決を破棄した

 

*砂川事件 一九五七年(昭和三二年)、アメリカ軍の使用する……(略)……

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 タイトルが「駐留軍の合憲性」であるにもかかわらず、本文の内容が「最高裁判所は、安保条約を違憲とした一審判決を破棄した。」との結論である。

 まず、タイトルの「駐留軍」と、「安保条約には…」と始まる文の内容が正確に一致していない。

 次に、「安保条約を違憲とした一審判決を破棄した。」とあるが、「破棄した」としても、タイトルの「駐留軍の合憲性」に関する「合憲・違憲」の判断を示しておらず、結論が示されていない。

 そのまま本文は結論を示さないまま終わっており、小さい文字で砂川事件の解説に移ってしまう。読者の法的な理解を導こうとする態度が見られず、憲法の教科書と呼ばれているにもかかわらず、非常に構成が悪い。

 

 

 

憲法 第七版 芦部信喜 高橋和之 2019/3/9 amazon


 □P60の「集団的自衛権」の説明において、


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[ところが政府は、二〇一四年の閣議決定により、これまで自衛権発動のための条件として挙げていた「わが国に対する急迫不正の侵害がある場合」を変更し、「わが国あるいはわが国と密接な関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」とし、この変更に対応して自衛隊法等の関連法律の改正・制定案を二〇一五年に国会に提出して成立させ、翌年三月に施行した。

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との記載があるが、誤りがある。

 論者は「わが国あるいはわが国と密接な関係のある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」と説明しようとしており、「わが国」と「わが国と密接な関係のある他国」に分類し、その後の文言は「わが国」の場合にも及ぶかのよう認識していることとなる。

 しかし、2014年7月1日閣議決定の文面は「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」となっており、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」と「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」の二つで分類している。

 これは、その後の政府答弁や2015年に制定された自衛隊法76条1項1号と2号を見れば明らかである。



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法案審議の過程で、この事態が個別的自衛権を行使しうる場合を超えて集団的自衛権の行使を部分的に認めることになる意味を持つのではないかが激しく議論されたが、政府はこれは集団的自衛権に部分的に踏み込んではいるが、しかし従来の専守防衛路線を根本的に修正するものではないという趣旨の答弁を行っている。その意味は必ずしも明確ではないが、もともと個別的自衛権と集団的自衛権の境界は不分明で重なる部分が存在し、存立危機事態はその重なる部分を想定したものだと理解しているのかもしれない。しかし、学説の多くは、この新法制は従来の個別的自衛権の限界を超えると批判している。]

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との記載があるが、整理する必要がある。

 まず、「集団的自衛権の行使を部分的に認めることになる意味を持つのではないかが激しく議論されたが、」の部分であるが、憲法上は9条に抵触する「武力の行使」の範囲であるか否かが論点であり、その「武力の行使」が国際法上の「集団的自衛権の行使」に該当する部分であるか否かは付随的な問題であることに注意する必要がある。

 次に、「政府はこれは集団的自衛権に部分的に踏み込んではいるが、しかし従来の専守防衛路線を根本的に修正するものではないという趣旨の答弁を行っている。」との部分であるが、政府の主張を取り上げたものとしては正しい。ただ、この政府の主張が誤りである。「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいう。「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」については、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、「専守防衛」の「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分を満たさない。また、従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは三要件(旧)の基準のことであり、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」はこの範囲を超えており、「専守防衛」の「その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限る」の部分を満たさない。これにより、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことは、「専守防衛」の範囲を超えており、「従来の専守防衛路線を根本的に修正するものではないという趣旨の答弁」は論理的整合性のない虚偽答弁である。

 「もともと個別的自衛権と集団的自衛権の境界は不分明で重なる部分が存在し、存立危機事態はその重なる部分を想定したものだと理解しているのかもしれない。」との部分であるが、政府は国際法上の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を明確に区別している。


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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。

 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


また、憲法9条に抵触するか否かは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かによって識別されていることから、これを満たさない中での「武力の行使」であれば、たとえ国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」に該当しようがしまいが違憲となることは変わらない。

 「しかし、学説の多くは、この新法制は従来の個別的自衛権の限界を超えると批判している。」との部分であるが、確かに、「存立危機事態」での「武力の行使」は「個別的自衛権」の範囲を超えるということはできる。しかし、憲法9条に抵触するか否かは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えるか否かによって識別されていることから、国際法上の「個別的自衛権」として違法性が阻却される場合であるとしても、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えて9条に抵触することがあり得ることに注意する必要がある。これを理解すれば、「個別的自衛権の限界を超える」と批判したところで、憲法9条に抵触するか否かは厳密には別問題である。

 

 

 下記の書籍も、9条解釈について基本的には芦部憲法と同様の部分で前提認識に混乱が見られる部分がある。主要な論旨はほぼ同じである。

 

立憲主義と日本国憲法 第5版  高橋和之 2020/4/15 amazon

憲法学読本 第3版 安西文雄 巻美矢紀 宍戸常寿 2018/12/1 amazon



 追記:芦部憲法よりも分かりづらい部分のある教科書を見つけた。


日本国憲法概説 佐藤功
 1996/9/1 amazon


 この書籍の9条に関わる部分は、芦部憲法よりも分かりづらい部分があった。内容には繰り返しが見られるし、用語の意味が安定していない。9条の精神的な基盤となるものを説明しようと、9条と同様の趣旨を持つ他国の憲法や国際法上の規定を紹介している部分が多いが、それによって憲法解釈としての9条の規範を描き出すことができているわけでもない。芦部憲法がこの時代の書籍の悪い部分を削ぎ落した上に成り立っていることを考えれば、芦部憲法はそれを変えようとした意味では十分な役割を果たしているといえるのかもしれない。

 ただ、この書籍の「平和主義」と9条関連についてはページ数も多く、内容も厚い。自衛隊関連の判例の解説についても芦部憲法より詳しい。





〇 憲法学者 高橋和之


立憲主義と日本国憲法 第5版 高橋和之 2020/4/15 amazon


 この書籍の9条に関する内容は、誤りというよりも説明が不十分であると感じられるため解説する。


(P69)
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(3)憲法解釈の変更

 9条解釈に関するこれまでの論争の中心論点は、自衛隊が合憲かどうかであった。学説の支配的見解は、自衛隊違憲論であったが、政府は、自衛権は「国家の自然権」として日本も保有するのであり(制憲会議においても政府はそのように答弁していた)、憲法もそれは否定していないという理解を前提に、自衛権がある以上それを行使するための「実力」(自衛力)は「戦力」に至らない限り許されるのであり、自衛隊はそのような自衛力として合憲であると説明し、自衛権の発動として自衛隊の防衛出動が憲法上許されるための要件として旧三要件を設定した(56頁参照)。これが憲法の許容する個別的自衛権の発動要件と説明され、上述のようにほぼ半世紀の間この憲法解釈にしたがって9条の運用がなされてきた。最近では、この政府解釈を認める学説も次第に有力になってきていた。ところが、この防衛体制には、警察力による対応が想定されている「平時」と自衛力行使が許される「有事」の間に、国内治安の維持を本務とする警察力では対応が困難であるが自衛力を行使するための要件は成立していないという事態(「グレイゾーン事態」と呼ばれた)が想定されるのに、それに対応する法制が欠けているのではないかという問題提起がなされた。ここで想定されている事態の中心は、外国による「領域侵犯」であり、我が国が独自で対応するより同盟国との協調行動による対応の方が実効的であるが、それは集団的自衛権の禁止に触れるのではないかという疑問があった。そこで、この問題への解決として、集団的自衛権が部分的に可能となるよう9条の解釈を変更しようという議論が生じ、2014年に政府解釈の変更の閣議決定が行われたのである。問題は、この解釈変更が解釈の限界内に止まっているのか、それとも、限界を超えるものであり、憲法改正が必要なものなのかである。解釈の限界を超えるものであれば、この政府の行為は憲法違反であり、立憲主義に反する行為ということになる。

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 「政府は、自衛権は『国家の自然権』として日本も保有するのであり(制憲会議においても政府はそのように答弁していた)、憲法もそれは否定していないという理解を前提に、自衛権がある以上それを行使するための『実力』(自衛力)は『戦力』に至らない限り許されるのであり、自衛隊はそのような自衛力として合憲であると説明し、自衛権の発動として自衛隊の防衛出動が憲法上許されるための要件として旧三要件を設定した(56頁参照)。」との部分について、説明する。

 まず、「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、国家承認を受けて国家として認められているのであれば、この『権利』の適用を受ける地位を有する。これを国際法上において法主体として認められていることにより自然と付与される『権利』と捉える観点からは、「国家の自然権」という意味は理解することができる。「日本も保有するのであり」の部分であるが、確かに日本国も国際法上の法主体である国家として認められていることにより、国際法上は「自衛権」の適用を受ける地位を有している。

 「憲法もそれは否定していない」の部分について、確かに憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国際法上の「自衛権」そのものを禁じたものではなく、日本国憲法は「自衛権」を否定していない。

 「自衛権がある以上それを行使するための『実力』(自衛力)は『戦力』に至らない限り許されるのであり、」の部分であるが、国際法上においてある国家が「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、その国家の統治権の『権力・権限・権能』の内容はその国家の憲法によって正当化されるものである。そのため、「自衛権がある以上それを行使するための『実力』(自衛力)は『戦力』に至らない限り許される」などと、国際法上において「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有することを根拠として日本国の統治権の中に「武力の行使」を行うための『権力・権限・権能』や、「実力」(自衛力)を保持するための『権力・権限・権能』が発生するわけではない。そのため、この説明はあたかも法的に連動関係があるかのように論じようとしている点で誤りである。この点は、政府答弁でも説明が不十分であり、誤った説明がなされている場合があるために注意する必要がある。


 「自衛権の発動」や「旧三要件」という文字が出てくるが、これは日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」を伴うものであることを押さえる必要がある。9条が制約しているのは「武力の行使」であり、この点を押さえなければ9条解釈の合憲・違憲の判断枠組みの基準を正確に理解することができなくなる。


 「これが憲法の許容する個別的自衛権の発動要件と説明され、」との部分についても、「旧三要件」の範囲内の「武力の行使」は憲法が許容しているとされ、それを国際法上の違法性阻却事由の区分で言えば国連憲章51条の「個別的自衛権」に該当するというだけである。憲法は国際法上の『権利』そのものを否定しているわけではないため、憲法は「個別的自衛権」そのものについて「許容する」とか、しないとかは何も述べていない。9条が制約している対象は「武力の行使」であることを常々念頭において考える必要がある。


 「ところが、この防衛体制には、警察力による対応が想定されている『平時』と自衛力行使が許される『有事』の間に、国内治安の維持を本務とする警察力では対応が困難であるが自衛力を行使するための要件は成立していないという事態(「グレイゾーン事態」と呼ばれた)が想定されるのに、それに対応する法制が欠けているのではないかという問題提起がなされた。」との部分について説明する。

 まず、「自衛力」とされている「自衛隊」は治安出動を行うことが可能であり、「自衛力」(自衛隊)の活動のすべてが「有事」となるわけではない。そのため、「自衛力行使(自衛力を行使する)」の意味が、「自衛隊」の出動を意味するのであれば、必ずしも「有事」とは限らない。

 また、「グレイゾーン事態」と、ここで議論になっている「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」が行われる事態とは異なっている。そのため、2014年7月1日閣議決定を行う以前に「グレイゾーン事態」に関する問題提起がなされていたとしても、この文脈では直接的な関係がなく、この話を持ち出すことはやや不自然である。


 「外国による『領域侵犯』であり、我が国が独自で対応するより同盟国との協調行動による対応の方が実効的であるが、それは集団的自衛権の禁止に触れるのではないかという疑問があった。」との部分を説明する。

 まず、「集団的自衛権の禁止に触れるのではないか」について、「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念である。憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』を制約する規定であり、「集団的自衛権」という『権利』そのものを「禁止」しているわけではない。そのため、「集団的自衛権の禁止に触れるのではないか」との説明には、憲法9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを禁止しているかのような説明となっており、妥当でない。

 次に、「同盟国との協調行動による対応」が憲法か9条が「禁止」する「集団的自衛権」を行使する形での「武力の行使」となるのではないかと考えるとしても、この事例の「外国による『領域侵犯』」の部分は我が国に対するものであることから、日本国が「集団的自衛権」を行使する形で「武力の行使」を行う事例ではない。

 また、「外国による『領域侵犯』」があったとしても、日本国の統治権の『権力・権限・権能』は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を含む三要件(旧)を満たさない限りは「武力の行使」を行うことはできない。

 さらに、「集団的自衛権の禁止に触れるのではないか」という疑問に対しても、「外国による『領域侵犯』」に対する「我が国が独自で対応する」場合や「同盟国との協調行動による対応」を行う場合が、「武力の行使」を伴う措置ではないのであれば、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって違法性を問われることもないため、「集団的自衛権」を行使して違法性を阻却する場面もない。


 「集団的自衛権が部分的に可能となるよう」との部分であるが、憲法9条は国際法上の「集団的自衛権」という『権利』そのものを否定しておらず、もともと「可能となる」などという性質を有していない。また、国際法上の「集団的自衛権」そのものに該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、厳密には「部分的」なものとそうでないものが存在するかのように考えることは適切でない。


(P69~70)
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 旧三要件を支えた9条解釈は、自衛隊を合憲とするために不可欠の解釈として唱えられたものであり、いくつかある解釈の中の一つをその時々の政府が政策として採用したというものではない。したがって、新三要件も旧三要件とは別の解釈を採用したものとは説明されていない。解釈変更を行った政府も「従来の政府見解における同条の解釈の基本的な論理を維持し、その枠内で、『武力の行使』が許容される場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこれに当てはまると考えてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合もこれに当てはまるとしたものである」と説明している。すなわち、旧三要件で自衛権の発動が許されるための要件とされた「我が国に対する急迫不正の侵害」がある場合という論理を変更するのではなく、この要件に該当するのはどのような場合かについての認識を改め、存立危機事態もそれに該当するという認識に至ったという説明なのである。そうだとすれば、過去になされた「現実の攻撃がなくとも、攻撃が確実という差し迫った状況が現出」した場合も含まれるという趣旨の説明と同種のものという理解も不可能ではない。もっもと、旧要件が「我が国の領域」に対する侵害という、具体的にイメージできる核(コア)をもつと理解されていたので、意味内容が明確であったのと比べると、存立危機事態は「領域」という核を捨てて「事態」という曖昧模糊とした概念に変えたので、拡張的運用の可能性が高まったというべきであろう。さらに、後方支援の可能な重要影響事態などの諸事態を重畳的に設定したので、恣意的な運用の危険が相当高まったといわざるをえない。この点で、新三要件は旧三要件の枠内に止まっているといいうるのかどうか疑問があるが、新三要件の「合憲限定解釈」により、あくまでも旧三要件の枠内の解釈であるという理解に基づき、新三要件の運用を旧三要件に照らして合憲性を判断していくという道もあるだろう。換言すれば、集団的自衛権までも認めたといっても、もともと個別的自衛権と集団的自衛権の境界は重なる部分があるのであり、集団的自衛権の行使される事態もあくまでも個別的自衛権の範囲内かどうかにより検証していくということである。

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 これを読んで、意味を十分に理解できる者はほとんどいないと思われる。間違っているわけではないのであるが、前提認識をしっかりと有している者にしか文を読み解くことができない。

 まず、「解釈変更を行った政府も「「従来の政府見解における同条の解釈の基本的な論理を維持し、その枠内で、『武力の行使』が許容される場合として、……これに当てはまるとしたものである」と説明している。」の部分を検討する。

 これは、下記の答弁から引用したものと思われる。


【参考】昭和四十七年政府見解における「外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」との文言の意味に関する質問に対する答弁書 平成27年6月2日


 ただ、従来の政府見解である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているのであれば、その「基本的な論理」と称している部分に記載された「自衛の措置」の限界の規範である「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。

 このことから、これを満たさない新三要件の「存立危機事態」の要件の「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみがこれに当てはまると考えてきたこれまでの認識を改め、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」の部分は、「基本的な論理」と称している部分に当てはまらない。

 そのため、政府の行っている「これに当てはまるとしたものである」とする説明は論理的整合性が保たれておらず誤りとなる。


 「すなわち、旧三要件で自衛権の発動が許されるための要件とされた「我が国に対する急迫不正の侵害」がある場合という論理を変更するのではなく、この要件に該当するのはどのような場合かについての認識を改め、存立危機事態もそれに該当するという認識に至ったという説明なのである。」との説明があるが、前提認識を整理する必要がある。

 政府は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとされていることから、この中に記載された「自衛の措置」の限界の規範として示された「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言による制約は維持されていることになる。この「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言は、この1972年(昭和47年)政府見解の第二段落で「集団的自衛権の行使」が「自衛の措置の限界をこえる」ことを説明する流れを受けて記載された文言であることから、ここに「集団的自衛権の行使」を可能とする余地の生まれる「他国に対する武力攻撃」の意味が含まれることはなく、「我が国に対する武力攻撃」の意味に限られている。

 これにより、「基本的な論理」と称している部分を維持している以上は、「自衛の措置」を行うことができるのは「我が国に対する武力攻撃」が発生した場合に限られるという論理は変更されていないことになるはずである。

 政府は「基本的な論理」と称している部分の中に、どのような場合が当てはまるかという認識を改め、「存立危機事態」の要件もそれに当てはまるという認識に至ったとしているが、政府の説明する「存立危機事態」の要件は「我が国に対する武力攻撃」を満たさないものであるから、「基本的な論理」と称している部分の中に当てはまらない。

 そのため、2014年7月1日閣議決定以降の政府の説明は論理的整合性が保たれておらず、法解釈における手続き上の不正・違法が存在する。


 「この点で、新三要件は旧三要件の枠内に止まっているといいうるのかどうか疑問があるが、新三要件の『合憲限定解釈』により、あくまでも旧三要件の枠内の解釈であるという理解に基づき、新三要件の運用を旧三要件に照らして合憲性を判断していくという道もあるだろう。」の部分について検討する。

 まず、「新三要件は旧三要件の枠内に止まっているといいうるのかどうか疑問があるが、」との部分であるが、この場面では新三要件の「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「枠内に止まっているといいうるのかどうか」という疑問を提起することが正確である。

 この「新三要件は旧三要件の枠内に止まっているといいうるのか」という疑問が直接的に表れるのは、政府が新三要件を定めた2014年7月1日閣議決定の以後においても「海外派兵」の可否についての答弁で、一般に「自衛のための必要最小限度」の範囲に限られることは何ら変わりはない旨を述べている場面である。「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものが旧三要件の基準を意味していることから、新三要件を定めた後においても「自衛のための必要最小限度」という基準が残っており、それが何ら変わらないとしている以上は、「新三要件は旧三要件の枠内に止まっている」と説明していることになるのである。

 これらを基にした「合憲限定解釈」が可能か否かであるが、政府の他の答弁においては、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で「他国に対する武力攻撃」に起因して「武力の行使」を行うものであることが明らかにされている。そのため、「我が国に対する武力攻撃」を満たさない段階での「武力の行使」となるのであれば、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の「自衛の措置」の限界の枠内に当てはまらず、9条に抵触して違憲となる。また、旧三要件の範囲内とも言えないため、9条に抵触して違憲となる。


 「換言すれば、集団的自衛権までも認めたといっても、もともと個別的自衛権と集団的自衛権の境界は重なる部分があるのであり、集団的自衛権の行使される事態もあくまでも個別的自衛権の範囲内かどうかにより検証していくということである。」の部分について検討する。

 まず、「集団的自衛権までも認めたといっても、」の部分であるが、「集団的自衛権」そのものは国際法上の『権利』の概念であり、憲法9条はこれを否定していない。そのため、厳密には認めるとか、認めないとかいう対象になっていない。

 「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を認めたという意味で捉えるとしても、1972年(昭和47年)政府見解の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」はすべて9条に抵触して違憲となる。そのため、「集団的自衛権の行使」であれば、これを満たさない中での「武力の行使」であることは明らかであり、1972年(昭和47年)政府見解の下で許される余地はない。そのため、認められない。

 「個別的自衛権と集団的自衛権の境界は重なる部分があるのであり、」との理解であるが、学問上は日本国の領域内の米軍基地に対する武力攻撃が発生した場合などについて「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の適用範囲が重なる場合があるのではないかとの疑問が発生するとしても、実務上はそのような認識は否定されている。

 

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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。

 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 また、「日本国の領域」に対する武力攻撃であれば、それがたとえ「米軍基地」であったとしても、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合であることに変わりはない。これを満たす場合の「武力の行使」については、国際法上は「個別的自衛権」を適用して違法性を阻却することができる部分である。

 「集団的自衛権の行使される事態もあくまでも個別的自衛権の範囲内かどうかにより検証していくということである。」の部分について検討する。

 この文が、「存立危機事態」での「武力の行使」の運用が「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす場合の範囲内に収まっているかを検証しくことを説明しているのであれば、意味は通じる。

 ただ、政府答弁では「存立危機事態」での「武力の行使」は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での「武力の行使」であることが示されており、現在の政府答弁における「存立危機事態」の用法に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となることは明らかである。





〇 憲法学者 辻村みよ子

 

憲法 第6版 辻村みよ子 2018/4/26 amazon


 □P63で、「日米安保条約という日米軍事同盟化の軍事協力は、1996年の安保再定義後ますます強化され、国連平和維持活動(PKO)参加による自衛隊の海外派兵や危機管理の名目による自衛隊の拡大が定着した。(下線は筆者)」との記載があるが、「海外派遣」と「海外派兵」を間違えていると思われる。この教科書は内容も厚く、次世代の学者に対する影響力も大きいと思われるので、このような誤りは指摘させていただく。

 

【参考】派兵と派遣 2014-06-09

【参考】派兵と派遣 2014年06月12日

【参考】第84回国会 衆議院 内閣委員会 第22号 昭和53年6月6日

【参考】第116回国会 衆議院 予算委員会 第4号 平成元年10月16日


 □P63で、「2005年11月の自由民主党『新憲法草案』や2012年4月の同党『憲法改正草案』(辻村編・資料集86頁、119頁以下参照)では正規の軍隊の保持が明記され、2014年7月には、第二次安倍政権下で集団的自衛権を合憲とする政府解釈の変更が行われた。」との記載があるが、2つの点を指摘する必要がある。

 まず、「集団的自衛権を合憲とする」との点であるが、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定であり、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を直接否定する規定ではない。そのため、「集団的自衛権」という『権利』そのものについては、憲法9条の制約対象ではないことから、厳密には「違憲」とは言えないものである。ただ、9条の下では「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中においてしか「武力の行使」が許されていないとの基準により、「集団的自衛権の行使」がこれを満たさない中で「武力の行使」を実施するものであることから、「集団的自衛権の行使」は違憲とされていたのである。そのため、「集団的自衛権を合憲とする」と、あたかも「集団的自衛権」という『権利』そのものが違憲であったかのような記述は、厳密には誤りと言わざるを得ない。

 次に、「集団的自衛権を合憲とする政府解釈の変更が行われた。」の文面であるが、日本語の文面として構造的曖昧性を含んでおり、悪文である。「『集団的自衛権を合憲とする政府解釈』の変更」なのか、「集団的自衛権を合憲とする『政府解釈の変更』」なのか、意味を特定することができないのである。


◇ 「『集団的自衛権を合憲とする政府解釈』の変更」 ⇒ 合憲だった政府解釈を変更して違憲にしたような印象

◇ 「集団的自衛権を合憲とする『政府解釈の変更』」 ⇒ 違憲だった政府解釈を変更して合憲にしたような印象

 

 このような文は、読み手は頭の中で内容を正確に思い描くことができない。法学の書籍にはこのような構造的曖昧文が見られることは多いが、駆逐していく必要がある。


 □P69~70

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ここでは、まず9条1項の①の「国権の発動たる戦争」と「武力の行使」の関係についてB説(「戦力=武力」説)とるが、②の「国際紛争」を解決する手段としては」の解釈については、国際法や諸国憲法など国際社会の用法を重視することから自衛戦争は放棄しないという限定放棄説(甲説)にたつ。

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 内容の間違いではなく、『「国際紛争」を解決する手段としては」』の部分について、『紛争」を解決』の部分に不自然な鍵カッコが付いている。訂正する必要があると思われる。

 □P70~71で、「この第5⃣説の政府(内閣法制局)解釈は、2013年までは現実の政治において重要な位置を占めてきたが、2014年7月に第二次安倍政権下で集団的自衛権を認める憲法解釈変更が行われた(本書74-75頁)。」との記載がある。しかし、「集団的自衛権」そのものは国際法上の『権利』の概念であることから、もともと日本国は適用を受ける地位を有している。そのため、この文が言いたいことは2014年7月1日閣議決定によって「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとすることであることは理解できるが、法学上の厳密な解釈では「集団的自衛権を認める憲法解釈変更」との表現は正確でなく、誤解を招くため注意が必要である。初学者を混乱させることのない文面に改めた方が良いと思われる。


 □P74で、「海外派兵、防衛省への昇格、集団的自衛権の容認  1991年にPKO(Peace Keeping Operations)協力法が制定されて以来、国連のPKO活動やテロ対策の名のもとに自衛隊の海外派兵が実施されてきた(本書85頁参照)。」との記載がある。

 まず、「海外派兵、」と「自衛隊の海外派兵が実施されてきた」の部分であるが、「海外派遣」の誤りである。「海外派兵」について、政府解釈では「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ことを理由に憲法上許されないとしている。これは、未だ実施されたことはない。

 次に、「集団的自衛権の容認」について、厳密には「集団的自衛権の行使容認」とする必要がある。「集団的自衛権」という『権利』そのものは、もともと日本国も適用を受ける地位を有しているのであり、それが否定されていたかのような印象をもたらす表現は正確ではない。ただ、文のタイトルを付ける際に省略した表現となっているのであれば、仕方がないかとも思う。


 □P74で、「『自衛のため必要最小限』という不明確な基準のもとで、実質的には、あらゆる兵器も持てるような解釈が行われてきた(前記➄(ⅲ)参照)。」との記載があるが、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるものは三要件(旧)が基準である。この三要件(旧)を実施するための「兵器」に当てはまるか否かは難しい問題であるが、「自衛のための必要最小限度」という基準そのものは三要件(旧)によって具体化されていることを押さえる必要がある。


 □P74で、「⑦ さらに第二次安倍政権下では、2014年7月1日に閣議決定で集団的自衛権容認の政府解釈変更を行い、2015年9月には、法律11本からなる安全保障関連法案を委員会の強行採決等で可決させた。」との記載があるが、ここでもやはり「集団的自衛権容認」との表現について、「集団的自衛権」そのものは国際法上の『権利』の概念であるため、9条は直接的には否定していない。筆者には2014年7月1日閣議決定が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を容認しようとしていることを指していることは理解することができるが、これを読み取る学習者が頭の中で概念整理を明確に行えるようにすることを重視する必要があると考えるため、文言にやや不備があることを指摘させていただく。


 □P84で、「一方、B2説(自衛力肯定説)は、B1説と反対に、国家の固有権としての自衛権が放棄されない以上、自衛のために必要な自衛力の行使も認められるとするもので、自衛隊を合憲とする見解(政府見解)である。」との記載があるが、政府も正確な理解に基づいた答弁を行っていない場合がある部分であるため、政府答弁にも混乱が見られるが、この見解は論理的に誤っている。「自衛力」の保持や、その行使については、日本国の統治権の『権限』が必要であるが、9条はこの日本国の統治権の『権限』を制約している。そして、「自衛権」とは国際法上の『権利』であり、9条はこれを否定していない。この両者の間には法的な連動関係や因果関係がないため、「自衛権が放棄されない以上、……」という風に、国際法上の『権利』の概念を基にして、「自衛力」の保持や、その行使についての日本国の統治権の『権限』が生まれるかのような説明となっている点は誤りである。


 □P84で、「日本政府は、前述のように、個別的自衛権の存在を前提として最低限度の自衛力の行使を認めてきたが、これは個別的自衛権のみが憲法上認められるという立場をとることに由来する(1954年・1972年に明らかにされた政府見解では、憲法上集団的自衛権は認められないとされた)。」との記載があるが、不備がある。

 まず、「個別的自衛権の存在を前提として」の部分であるが、確かに日本国は国際法上主権国家として認められていることから、国連憲章51条の「個別的自衛権」の適用を受ける地位を有しているという意味では、「個別的自衛権の存在を前提として」の文言は正しい。しかし、主権国家として認められているということから、日本国も他国と同様に国際法上は「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有しているのであり、あたかも「個別的自衛権」の適用を受ける地位のみしか有していないかのような認識に基づくのであれば誤りである。

 また、「個別的自衛権の存在を前提として最低限度の自衛力の行使」との部分であるが、国際法上の『権利』の区分である「個別的自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、9条の下にある日本国の統治権の『権限』によって「自衛力」を保持し、行使することができるか否かは別問題である。そのため、あたかも「個別的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠にして日本国の統治権の中に「自衛力」を保持し、行使するための『権限』が発生するかのような認識であれば誤りである。

 さらに、「憲法上集団的自衛権は認められないとされた」の部分であるが、政府の見解は、正確には9条によって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約される結果として、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められないという意味である。あたかも憲法9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを制約し「認められない」としているかのような認識であれば誤りである。

 

 □P84~85で、「その後1999年5月に周辺事態法が成立し、第一次安倍政権下の2006年に設置された『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』報告書を踏まえて、集団的自衛権を認める閣議決定が、2014年7月1日に行われた。」との記載があるが、三点指摘する。

 まず、「2006年に設置された『安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会』報告書」との文面は、丁寧に読み取ろうとしても意味が繋がっておらず、悪文である。「報告書」が「2006年に設置された」かのような認識をもたらすため、適切ではない。「安全保障の法的基盤の再構築に関する懇談会」と「報告書」の間に「の」を入れるべきなのかもしれない。ただ、「報告書」が作成されたのは2006年ではないことから、「踏まえて」の文字に繋ぐ形で「2014年7月1日」の「閣議決定」と並列の関係で示すことも適切とは言えない。そうなると、「の」を入れるだけではなく、文の構造を整理し直す必要がある。

 次に、「集団的自衛権を認める閣議決定が、2014年7月1日に行われた。」との文であるが、「『2014年7月1日に』『集団的自衛権を認める閣議決定が』『行われた。』」という文ではダメなのだろうか。この書籍は憲法の教科書として記載されているのであるから、このような文面はより整理された普遍性の高い規則性に基づく文構造に整理するべきであると考える。

 三つ目に、「集団的自衛権を認める閣議決定」という文であるが、「集団的自衛権」そのものは国際法上の『権利』であり、9条はこれを制約していない。そのため、2014年7月1日閣議決定によって今まで否定されていた『権利』そのものが認められたかのような認識をもたらす記載の仕方は、厳密には誤りである。


 □P85で、「とくに、政府が集団的自衛権の合憲性の根拠として1959年<昭34>年12月16日の砂川事件最高裁判決を引用したことに対して、当時の判決が日本の集団的自衛権を問題とする土俵になかったこと、1972年政府見解も最高裁判決後に集団的自衛権を違憲と解釈してきたこと等から、批判論が絶えない状況にある(本書75頁)。」との記載があるが、厳密には誤りがある。1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」(としての『武力の行使』)を違憲と解釈しているが、「集団的自衛権」という『権利』そのものは日本国も適用を受ける地位を有しているとしている。この点を厳密に押さえていかないと、正確な法解釈を導くことができなくなるため注意が必要である。

 

 □P86で、「これらの法律がいずれも時限立法であったことから、海外派兵を永続的なものにするための恒久法の制定がめざされ、2008年1月11日に新テロ対策特別措置法が成立した。」との記載があるが、「海外派兵」と「海外派遣」を間違えている。


 □P86で、「憲法理論的にみれば、自衛隊の合憲性の問題を別としても、憲法9条のもとでこのような自衛隊海外派兵や集団的自衛権を認めることは困難であろう。」との記載があるが、誤りがある。

 まず、「このような自衛隊海外派兵」の文であるが、この文脈では「海外派遣」のことを指しており、「海外派兵」との記載は間違いである。

 「集団的自衛権を認めること」との部分については、9条は国際法上の「自衛権」という『権利』そのものは否定していない。日本国も「集団的自衛権」という『権利』そのものは適用を受ける地位を有しているため、国際法上は認められているとも言うことができる。そのため、法認識を思い描く上では混乱しやすいため、注意する必要がある。「集団的自衛権の行使」が9条の下で許されないことは、9条の下では「武力の行使」が制約されるため、結果として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を発動できないという論理によるものである。この違いを押さえる必要がある。



 第7版でも、上記と同様の記述となっている。

憲法 第7版 辻村みよ子 2021/3/31 amazon





〇 髙良沙哉


 「自衛権」の概念について正確に理解する必要がある。


憲法の掲げる平和主義と自衛隊の強化 -石垣市・宮古島 市の自衛隊配備問題を中心に 髙良沙哉 2016-09


P5 「しかし、これほどまでに変更された政府解釈でも、自衛権とは個別的自衛権であり、集団的自衛権の行使は憲法上認められないという解釈が定着していた。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 政府はこれまで「自衛権」という用語を用いる際、必ずしも「武力の行使」を伴う措置を指しているのか明確でない時期があった。そのため、政府の答弁における「自衛権」概念は、その実質がどのような意味を指しているのか丁寧に読み解いていく必要がある。
 現在一般に使われている「自衛権」の概念は、国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』の概念である。これは「不戦条約」の下で暗黙に認められていた『権利』の部分と、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」の下で認められる国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を挙げることができる。
 ここで、論者が「自衛権とは個別的自衛権であり、」と指摘する政府解釈についてであるが、確かに政府がこれまで日本国が行う「自衛権の行使」を説明する際、結論としては「個別的自衛権」に該当する部分を指していた。
 しかし、それは9条が「武力の行使」を制約していることから、9条に抵触しない範囲の「武力の行使」を見出すならば、三要件(旧)(武力の行使の三要件・自衛権行使の三要件)を満たす必要があり、その第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさない「武力の行使」を行うことが不可能であることから、結果として日本国が国際法上の違法性阻却事由の区分を用いて説明する場合には「自衛権の行使」の意味が「個別的自衛権」に該当する部分であったというだけである。
 これは、政府が説明していた「自衛権」が「個別的自衛権」であったという直接的な理解ではなく、9条が「武力の行使」を制約していることから9条解釈によって「武力の行使」の三要件(旧)が導き出され、その下で行使できる「武力の行使」が、国際法上の評価としては「個別的自衛権の行使」にあたるという流れによるものである。
 そのため、「集団的自衛権の行使は憲法上認められないという解釈が定着していた。」ことは、9条解釈を行った結果、「武力の行使」を行うためには「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たす必要があるとされていることによるものであり、憲法が国際法上の違法性阻却事由の区分である「集団的自衛権」という概念を直接制約しているかのような認識には誤解がある。
 このことは、1972年(昭和47年)政府見解の冒頭でも、日本国が国際法上の「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有していることが説明されていることをよく読むことで理解することができる。


1972年(昭和47年)政府見解
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 国際法上、国家は、いわゆる集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する 武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにかかわらず、実力をもつて阻止することが正当化さ れるという地位を有しているものとされており、国際連合憲章第 51 条、日本国との平和条約第5 条(c)、日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約前文並びに日本国とソヴィエ ト社会主義共和国連邦との共同宣言3第2段の規定は、この国際法の原則を宣明したものと思わ れる。そして、わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、 当然といわなければならない。
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【資 料】 衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等 参議院 立法と調査 2015.12 (P63) 



P6 「通説的見解は、「日本国憲法でも自衛権まで放棄してはいないが、それは外交交渉や警察力、郡民蜂起などによって行使されるにとどまるという、いわゆる『武力によらない自衛権』論」である13。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。
 まず、従来から憲法学が「自衛権」を語る際、それが国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』の区分であることを十分に理解していない議論が多発していた。そのため、あたかもこの『権利(right)』を有していることを根拠として、突然日本国の統治権の中に「自衛権」という名前の『権力・権限・権能(power)』が発生しているかのように説明しようとしているものがあり、混乱していた。
 そのため、「日本国憲法でも自衛権まで放棄してはいないが、」との記載であるが、まず日本国憲法には国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)」の区分を意味する「自衛権」そのものを対象とした規定は存在していないことを理解する必要がある。国際法と憲法では法分野が異なるのである。ここで論者が言いたいものは、日本国憲法9条が日本国の統治権の『権限(power)』による「自衛の措置(自衛行動権)」を放棄しているのかどうかであると思われるが、これは国際法上の概念である「自衛権」を用いて説明することは誤りである。憲法学の教科書でもこの点を整理できていないまま論じているものが多いので、注意する必要がある。
 「『武力によらない自衛権』論」との名前であるが、日本国の統治権の『権限(power)』が「武力によらない自衛に関する措置」を行おうとすることであるならば意味は通じる。しかし、「自衛権」という文言を用いると、現在では国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利(righ)』を意味することとなるため、意味が通じなくなる。なぜならば、「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由であるということは、「自衛権」を行使するということは「武力の行使」を行うということであり、「武力によらない自衛権」の実質は、「武力によらない『違法性阻却事由に該当する武力の行使』」を意味し、「武力によらない」と「武力の行使」が混ざった意味の通じない概念となってしまうからである。
 このため、「自衛権」の文言が国際法上の『権利(right)』の概念であり、日本国の統治権の『権限(power)』を意味するわけではないことを押さえる必要がある。



P6
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「武力によらない自衛権」を肯定する場合、自衛権を国家固有の「自然権のようなもの」と説明するが、「国家の前国家的自然権はそれ自体論理矛盾」であり、「国家は契約に基づき人為的に構成され、国家構成は憲法により規定される」から、「自衛権の在り方も憲法で規定される」。国際法上の自衛権じたいが、戦争違法化の流れの中で形成されてきたものであるから、「歴史以前の国家の普遍的な自然権ではない」。また、「国際法上の自衛権は武力行使と不可分」であるから、同じ文言を異なる意味で用いるのではなく、「平和保障は国家の自衛権ではなく人権保障(平和的生存権)によるべき」である。
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 この説明は、複数箇所の誤解があるため、全体として意味が通じない。
① 「武力によらない自衛権」の文言が意味が通じないことは上記で述べた。
② 「国家の前国家的自然権はそれ自体論理矛盾」との説明がある。しかし、まず「自衛権」が国家の統治権の『権限(power)』を意味する概念ではなく、国際法上の『権利(right)』の概念であることを理解する必要がある。そのことから考えると、「国家固有の自然権」とは、国際社会から国際法に基づいて国家承認を受けることによって得られる『権利(right)』であると理解することが妥当と考える。そのため、論者の「国家は契約に基づき人為的に構成され、国家構成は憲法により規定される」の部分が意味する国家権力の『権限(power)』が人為的に構成されることと何ら矛盾するところはない。『権限(power)』は憲法の話であり、『権利(right)』は国際法の話だからである。
 「自衛権の在り方も憲法で規定される」との部分であるが、国家の統治権の『権限(power)』が行う「自衛の措置」については憲法が定めることは確かであるが、「自衛権」は国際法上の『権利(right)』の区分を意味するため、憲法で規定することはできない。もし憲法上に「自衛権」という国際法上の『権利(right)』について規定したとしても、その憲法が国際社会に向かって勝手に主張しているだけということであり、国際法上は通用しないのである。
③ 「国際法上の自衛権じたいが、戦争違法化の流れの中で形成されてきたものであるから」については、正しい。ただ、「歴史以前の国家の普遍的な自然権ではない」との部分については、人権に関する「自然権」についても、近代に形成されてきた価値観であり、普遍的に存在していたわけではない。そのため、人権に関する「自然権」が普遍的価値であることに比べて、国際法上の「自衛権」が普遍的でないとする説明は根拠にならない。ただ、これは「自然権」という文言上の同一性から読み解くことによって持ち出された議論であり、「自然権」と表現せずに「国家固有の権利」と表現すれば特に意味はない。
④ 「『国際法上の自衛権は武力行使と不可分』であるから」については、その通りである。しかし、「平和保障は国家の自衛権ではなく人権保障(平和的生存権)によるべき」には意味が通じないところがある。まず、「自衛権」は国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利(right)』である。『権利(right)』を有しているからといって、国家の統治権に『権限(power)』が発生するわけではない。『権限(power)』は国民主権原理を採用していれば、国民に由来する憲法によって発生するものだからである。
 「平和保障」を「国家の自衛権」によって実現するとの認識であるが、違法性阻却事由の『権利(right)』を行使するということは、国際法上の違法性の責任を問われないという意味だけであり、『権限(power)』とは無関係である。よって、国家の『権限(power)』によって行う措置である「平和保障」を、『権利(right)』を行使することで国際法上の有責性を問われないことを意味する概念によって行うことは不可能であり、意味が通じない。

 「人権保障(平和的生存権)によるべき」の部分であるが、人権保障を実現するためには国家の統治権の『権限(power)』が必要であり、日本国の場合は「立法権」「行政権」「司法権」である。



P6
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 また、憲法学における通説は、憲法の禁止する戦力を「軍隊および有事の際にそれに転化しる程度の実力部隊」であると解している。軍隊とは、「外敵の攻撃に対して実力をもってこれに対抗し、国土を防衛することを目的として設けられた、人的・物的手段の組織体」である。組織体が軍隊であるか否かは、その名称から判別することではなく、実体として軍隊としての性質を持っているかどうかである。自衛隊は、「人員・装備・編成等の実態に即し て判断すると」軍隊であり、第9条2項の禁止する「戦力」に該当するとされている16。
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 組織体が「戦力」にあたるか否かについては、大きく『権限』と『組織の実態』に分けることができる。

 まず、『権限』についてであるが、従来政府が説明してきた「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」については、旧三要件を満たす場合にのみ「武力の行使」を行うことが可能となっていた。ただ、この旧三要件の内容は、刑法上の「正当防衛」の要件とほぼ一致する内容となっていた。そのため、9条が「武力の行使」を全面的に放棄しているとの解釈を採用したとしても、国家権力によって国民を守るために「正当防衛」に基づく実力行使までも放棄したと考えることは妥当でなく、その『権限』を直ちに9条2項の言う「戦力」に該当すると考えることは困難なものとなっていた。(2014年7月1日閣議決定以降の『存立危機事態』の要件については、「戦力」に該当すると考えられる。)

 『組織の実態』についてであるが、刑法上の「正当防衛」に該当する実力行使を行う組織については、警察力も該当するのであり、それだけでは9条2項の言う「戦力」に該当するかどうかを判別することは困難である。ただ、政府見解によれば「自衛のための必要最小限度(旧三要件の『武力の行使』を指す)」の目的を達成するための装備を超えるものであれば、「戦力」に該当すると解釈しているようである。

 

P6 「有力に主張される自衛権否定説によれば、そもそも国際法上は武力を伴うことが当然である自衛権そのものが憲法上否定されているのである。」との記載であるが、認識に誤りがある。

 9条は「自衛権」そのものを否定する記述は存在しない。「戦争」や「武力の行使」を制約する結果として、国際法上の「自衛権の行使」としての「武力の行使」ができるか否かの解釈が変わるだけである。「自衛権」そのものを憲法上で否定しているとの見解は、誤りである。

 


P8 「また、憲法9条2項の交戦権の否認との関係については、自衛権の行使としての相手国兵力の殺傷等は、『外見上は同じ殺傷と破壊であっても、それは交戦権の行使とは別の観念のもの』だと説明する22。自衛権の発動としての兵力の殺傷は、交戦権とは無関係という解釈は、果たして国際社会で通用するのであろうか。」との記載があるが、ここは政府も整合性のない解釈を行っているため、認識を整理する必要がある。
 まず、「自衛権の行使」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』を行使するという意味である。そして、その「自衛権の行使」が行われている状態とは、国家の統治権の『権限(power)』によって「武力の行使」が行われる状態である。

 日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」については、従来、旧三要件を満たす場合に限られていた。この旧三要件を満たす中で行われる「自衛権の行使」としての「武力の行使」に基づく「相手国兵力の殺傷等」は、「交戦権の行使とは別の観念のもの」としていたのである。

 政府解釈が混乱しているのは、「交戦権」を国際法上の『権利(right)』の区分を否定するものと考えている点である。「交戦権」は日本国憲法の文言であり、憲法が『国家権力(power)』を形成する法であると理解すれば、「交戦権」の文言が否定している対象は『国家権力(power)』であって、国際法上の『権利(right)』と考えることはおかしな解釈なのである。

 そのため、この場面で「交戦権」という『権限(power)』を指すと考えるべき文言と、「自衛権」という国際法上の『権利(right)』を指す文言を対比してが語られること自体がおかしな解釈というべきなのである。
 日本国の統治権の『権限(power)』によって行われる「自衛のための必要最小限度の実力(旧三要件を満たす『武力の行使』)」は、「交戦権」の意味する『権限(power)』には当たらないと解釈することが妥当であると考えられる。

 国際法上の『権利(right)』の概念である『自衛権』を持ち出し、それと対比する形で「交戦権」を持ち出し、「交戦権」の「権」の意味についても『権限(power)』ではなく『権利(right)』と読み解こうとすることは、整合的な解釈とは思われない。





〇 城涼一

 国際法と国内法の区別について誤解がある。


日本国憲法典第9条の絶対平和主義的解釈 -再考序説- 城涼一 2016


(P85~86)


 「第9条は、その1項で、国連憲章第2条4項と同様に、国際法上違法な武力行使の禁止を規定する。」との記載があるが、誤りである。
 まず、9条は憲法規定であり、「国権の発動たる」とあるように、日本国の国家権力(統治権)の『権限』に対する制約である。そのため、確かに類似性は見られるが、直接的に「国際法上違法な武力行使の禁止を規定」しているわけではなく、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」等を日本国の国内法として独自に制約しているものである。そのため、たとえ「武力の行使」が国際法上合法になったとしても、日本国の憲法上の問題としては9条の禁ずる「武力の行使」は違憲であることに変わりはなく、「国際法上違法な武力の行使の禁止を規定」しているという認識にはズレがある。
 また、9条1項は国連憲章2条4項だけでなく、「不戦条約」の規定に類似した性格を持っている。


 その後、「つまり、同条項はかかる規範内容に限定され、国際法上合法とされる自衛や国連の集団的措置としての武力行使に関する規範内容はそもそも含意 しておらずその規制の対象外である。」との記載があるが、国際法と国内法の法体系の違いを理解しないものであり、誤りである。
 国際法上合法とされる措置がすべて9条が制約していないかのような認識を有しているのであれば、日本国憲法が国際法の一部であると認識することになる。これでは、日本国の主権(最高独立性)を損なうため、独立国として成り立っていない。


 続いて、「従って、同条は自衛等の武力行使を肯定あるいは否定する法的根拠となるものではない。」との記載があるが、「自衛等」の意味するところは、国際法上の「自衛権の行使」を意味しているのか、国内法上の「自衛の措置」「自衛行動権」を意味しているのかを特定する必要がある。ただ、そもそもこの論者は国際法と国内法の違いを理解していないため、それ以前の論旨の意味が通じていない。


 「従って、わが憲法典において、国際連合憲章の肯定する武力による国際の平和・安全の維持・回復が同様に肯定され、」との記載があるが、「国連憲章」や「日本との平和条約」、「日米安全保障条約」と類似した規定が存在するからといって、必ずしも日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が肯定されるとの結論には繋がらないため、誤りである。国際法と国内法は法体系が異なるのであり、国際法上の『権利』を有していることと憲法上の『権限』を有しているかは意味が違うからである。


 「私見によれば、憲法典には自衛権の行使方法についての規定がないこととなる。」との記載があるが、「自衛権の行使」とは、『権利行使』の意味であり、その行使主体は国家の統治権である。日本国の統治権は「立法権」「行政権」「司法権」であり、一般に「自衛権」に基づく「武力の行使」は「行政権」によって行われることになる。憲法上「自衛権の行使」を行う主体である「行政権」が存在する以上、行使方法は「行政権の行使」である。よって、「自衛権の行使方法についての規定がないこととなる。」との認識は、誤りである。


 「他方、自衛権の行使方法(態様)については問題となる。」との認識があるが、やはり「行政権」によることが一般的であり、特に問題とはならない。ただ、日本国の統治権は9条によって制約を受けており、他国の行使できる「自衛権の行使」としての「武力の行使」の幅よりは狭くなる。



 実質的意味の憲法についてであるが、「サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約並びに自衛隊法」がそこに含まれるかは疑問である。考えなければならないのは、日本国憲法は統治権として「立法権」「行政権」「司法権」を規定しており、これらの権限によって「サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約並びに自衛隊法」が締結・承認、立法されていることである。そのため、「サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約並びに自衛隊法」が実質的意味の憲法に含まれるかどうかという話は、統治権を見ないまま統治権の下にある法のみを統治機構を構成している法であると考えている点で、視点がズレていると思われる。


 「わが国の実質的意味の憲法により構成される自衛権の行使方法に関する法規範は、集団安全保障体制(理念)を補完(代替)する機能をも果たすという規範構造にある。」との認識であるが、ズレている。
 まず、「自衛権の行使」の方法は、「行政権」に基づく「武力の行使」である。そのため、論者の言う「サンフランシスコ平和条約、日米安全保障条約並びに自衛隊法」が、「集団安全保障体制(理念)を補完(代替)する機能をも果たすという規範構造」などというものは存在しない。
 日本国の行使できる「武力の行使」は、9条によって制約を受けていない範囲の統治権の範囲というだけである。
 そのため、論者の「かかる理解」は、国連憲章の理念に沿うなどという話はここから出てこない。
 また、「日本との平和条約」は、条約であり、日本国憲法とは法体系が異なる。異なる法分野に類似点を見出せるからといって、同一の法体系として読み解こうとする試みそのものが誤っている。





〇 国際政治 篠田英朗

 論者の
国際法に合わせて9条を解釈するべきとの主張は、9条の規定が憲法規定であり、憲法原理から見ても採用できないと考える。歴史的な経緯としては、確かに9条の中には国際法上の「不戦条約」や「国連憲章」の文言を参考としたと考えられる部分を確認することができる。しかし、9条の規定は法規範としては憲法規定として定まっている。そのことから、9条の規定は国民主権原理の「厳粛な信託(前文)」の過程によって効力を有する法の枠組みとして確立しており、国際法とは法源のバックグラウンドが異なる。それを考慮せずに規定の類似性により国際法を中心として憲法を読み解こうとする論旨は採用できない。また、9条国際法に沿って法解釈を行うのであれば、国際司法裁判所で判断が分かれる問題などについて、日本の裁判所で独自の判断を下すことができなくなるのであって、実質的には9条が日本国の裁判所での裁判規範性を持った規定ではないということになる。すると、そもそも9条憲法上で条文化されている意義を損なうのであり、妥当でない。


あらためて木村草太教授の集団的自衛権違憲論に疑問を呈する 2018年04月12日

憲法9条は「集団的自衛権」を認めている 国際法無視の「トンデモ論」の害悪 2017.9.8


 Wikipedia内にも、『出典』の欄に「篠田」の文字が大幅に増えていることが確認できる。過去の編集履歴を遡って確認してみよう。


日本の集団的自衛権 Wikipedia

2017年11月16日 (木) 07:09
↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓ ↓
2018年3月1日 (木) 03:06



 篠田説を理解するにあたって、注意するべき点があるようなので、目を通しておきたい。

憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その2)――「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか 2017年10月18日
憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その4・完)――憲法9条をめぐって 2017年10月20日


 批判に対する反論もあるようなので見ておきたい。

戦後日本の立憲主義の理解への疑問~水島朝穂教授の私への攻撃を見て~ 2017年10月20日

 篠田説は、この批判文にもあるように、国家の「主権」の在り方についての根本的な前提認識に違いがあるため、その法源に十分な正当性が見いだせないように思われる。まず、「国民主権(最高決定権)」の主権概念によって、国家の権限や機関が創設され、そこに「主権〔統治権(立法・行政・司法〕)」や「主権(最高独立性)」が生まれるという前提認識が共有できていないように思われる。


 確かに大日本帝国憲法時代の日本の「主権(最高決定権)」は天皇にあり、「主権(統治権)」や「主権(最高独立性)」についても天皇を中心として存在していたと思われる。そして、その大日本帝国憲法では軍事に関する権能(統帥権など)を制約する規定が存在しなかったため、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」を行使するとしてもその範囲の『権限』をフルで行使することが可能であったと考えられる。また、大日本帝国憲法での統治権の中には、潜在的には他国を侵略する『権限』なども含まれていたと考えられる。しかし、他国を侵略するような『権力・権限・権能』については、他国との間で条約国際法)を結び、その行使を違法化することが一般的である。国連憲章2条4項でも「武力不行使の原則」を定めており、「武力による威嚇又は武力の行使」を「慎まなければならない。」と示されており、加盟国によって行われる「武力の行使」などの行為を違法化している。


 これと比べて、日本国憲法は国民主権原理により成り立っており、9条も同じく国民主権原理の法源をバックグラウンドとして成立している規定である。このことから、9条の規定が「不戦条約1条」や「国連憲章2条4項」との類似している文言が見られるとしても、憲法の規定が国民主権原理によって成り立っている性質上、法の効力の源は国際法とは全く異なる。


 また、9条は主権者である「日本国民」が、国家に信託しなかった部分を定めており、国民主権原理の過程によって国民から授権されていない『権限』を国家が持ちうることはない。日本国は、9条に示された範囲についてはもともと『権限』を有しておらず、行使できないのである。


 よって、日本国が国際法の言う『固有の権利(日本国が創設されて国家承認を受けることによって得られる権利・国家の自然権とも)』の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国は9条に示された『権限』を国民から信託されていないため、もともと保有しておらず、行使できないのである。日本国の行使しうる統治権の『権限』の幅は、9条のような規定を持たない他国の統治権の『権限』の幅と比べてもともと小さくなるのである。


 
国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の文言は、各国に統治権の中に新たな『権限』を発生させる意味を有していない。この規定は、国際法において違法性が阻却される場合の『権利』を行使できる範囲を示しているだけである。憲法前文にもあるように、日本国の統治権(国家権力)の由来は国民の「厳粛な信託」から導かれるのであり、国際法上の『権利』から導き出すことはできない。


 そのため、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の文言を根拠として、日本国の統治権が「集団的自衛権の行使」としての
武力の行使を実施する『権限』を有しているとの主張は、法的に論理が繋がらない。

 国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の概念は、日本国が憲法9条を改正したり、削除したとしても、国際法上の違法性阻却事由として効力を有している。

 また、憲法9条についても、国連憲章51条の個別的自衛権」や「集団的自衛権の概念が改正されたり、削除されたり、国連憲章そのものが廃止されたとしても、日本国の統治権の『権限』に対して効力を有している。

 これらはそれぞれ別の法体系で効力を有しているのであり、国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の文言を根拠として、加盟国の統治権の中に新たな『権限』を発生させることはできない。


 「集団的自衛権は保持しているが、行使できない」との議論についても、日本国は他国と同様に国際法上の主体(法主体)として認められていることから集団的自衛権
の適用を受ける地位を有しているが、憲法9条武力の行使を制約する結果として集団的自衛権に該当する形での武力の行使を行うことができないとするものである。


 ここで問題になるのが、小西説(参議院議員)である。1972年(昭和47年)政府見解の基本的な論理と称している部分が存立危機事態での武力の行使を許容していると読むことができるか否かについてである。


 2014年7月1日閣議決定は「この基本的な論理は、憲法第9条のもとでは今後とも維持されなければなりません。」と、基本的な論理と称している部分の枠組みを維持することを示している。しかし、その後続く論旨では、
存立危機事態での武力の行使について「従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至りました。」と許容されるかのように突然結論付けている。

 しかし、ここには存立危機事態での武力の行使基本的な論理と称している部分の枠組みの中にどのように(どのような理解で)当てはまるのか、論理的な理由は示されていない。この点、論理が繋がっていないため、理由がなく、道理もないため解釈手続きは不正・違法である。具体的には、法の支配、立憲主義、法治主義、憲法31条の「適正手続きの保障」の観点、「法律による行政の原理」の趣旨、「法律留保の原則」の趣旨、論理解釈、条理に反している。また、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中での「武力の行使」しか許容しておらず、存立危機事態での武力の行使はこれを満たさない中での武力の行使であることから、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)の枠を逸脱し、9条に抵触して違憲となる。


 さらに、政府見解では「いかなる事態が存立危機事態に該当するかについては、事態の個別具体的な状況に即して、政府が全ての情報を総合して客観的、合理的に判断する」と説明している。しかし、存立危機事態
の要件はもともと曖昧不明確な概念であり、これに該当するか否かを識別するための基準を示すところがない。そのため、その曖昧不明確な要件に該当するか否かを「政府が全ての情報を総合して客観的、合理的に判断する」としても、そもそも存立危機事態に当てはまる中での「武力の行使」であれば9条に抵触しないことが前提となっているのであるから、政府が「存立危機事態に当てはまる」と言えば「武力の行使」が合憲となり、「存立危機事態に当てはまらない」と言えば「武力の行使」が違憲となるということであり、9条に抵触する「武力の行使」であるか否かという基準そのものが政府の自由裁量となっているのである。しかし、前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」て「平和主義」の理念によって憲法が制定され、その「平和主義」の理念を具体化する規定として9条が設けられている意味を考えると、存立危機事態の要件は曖昧不明確であり、客観的に明白な一線となるものが設定されておらず、その時々の政府の事情や政治的な都合により武力の行使が可能かどうか(違憲か合憲か)の基準が変わり得るものとなっているため、9条が政府の行為を制約しようとする趣旨を満たしていない。9条の規定が存立している意味を無視する解釈であるから、9条の規範性を損なうものであり、法解釈として許容される範囲を超えている。


 他にも、政府は2014年7月1日閣議決定で「憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。」と述べている。しかし、国際法上の「集団的自衛権」の要件に該当するためには「他国に対する武力攻撃」の要件を満たすことが必要であり、これに該当させることを前提として作られた国内法上の存立危機事態」での「武力の行使」については、「他国に対する武力攻撃」に起因して行う武力の行使」であるにもかかわらず、それを「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度自衛の措置」と、『
自国防衛』を目的とする武力の行使」であると説明することには相当因果関係が認められないと考える。また、このような「他国に対する武力攻撃」に起因して『自国防衛』を目的とする武力の行使が可能となるとの説明は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)からは導かれない。なぜならば、1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)は「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中で武力の行使を行うことをすべて違憲としているのであり、「他国に対する武力攻撃」がこれを満たさないことは当然、「他国に対する武力攻撃」が発生したことを根拠に『自国防衛』を目的とする武力の行使を行うことができることにはならないからである。また、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が自国都合の武力の行使に踏み切ることは歴史上幾度も経験しており、9条はこのような政府の恣意的な動機によって行われる武力の行使を制約するために設けられた規定であることから、「我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するため」という『自国防衛』を目的とするからといって必ずしも武力の行使を許容しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解(その『基本的な論理』と称している部分も同様)によれば、『自国防衛』を目的とするとしても「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たさない中での武力の行使はすべて違憲としているのであり、これを満たさないのであればたとえ『自国防衛』を目的とするとしても違憲であることは変わらない。

 さらに、先ほども示したように、存立危機事態の要件は曖昧不明確な内容である。そのため、この要件に基づいて武力の行使」の可否を決しようとするということは、9条に抵触するか否かという基準そのものが、国際関係や国内の政治的な事情、政府の都合によって変更できるものとなっているのであって、武力の行使」を行うことが可能であるか否かの基準も変わることが前提となっている。

 これらのことから、2014年7月1日閣議決定は多重な意味で9条の規範性を損なっている。


 よって、2014年7月1日閣議決定の内容が政府見解の「憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。」と説明している論旨は事実に反している。この文言は、理由なく結論のみを述べようとしたものであり、法解釈として意味が通じていない。存立危機事態での武力の行使は、2014年7月1日閣議決定が前提として維持しているとしている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠を超えることにより、9条に抵触して違憲となる。2014年7月1日閣議決定が存立危機事態」の要件を結論として容認しようとしている部分についても、
憲法解釈として規範性を有しない不明確なもの」と言わざるを得ず、9条に抵触して違憲となる。


 このことから、日本国憲法9条解釈として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を採用する限りは、『他国防衛』のための武力の行使を行うことは9条に抵触して違憲となることは当然、「他国に対する武力攻撃」に起因する形で『自国防衛』のための武力の行使を行うことも違憲である。そのため、「存立危機事態」での武力の行使」についても、9条に抵触して違憲となる。

 9条に抵触する部分については、9条に記されているように「日本国民」が放棄しているため、日本国の統治機関はこれらを実行する『権限』を国民から信託されていない。そのため、9条に記された部分については、もともと日本国の統治権の『権限』として発生していない。これにより、日本国は9条に抵触する部分については、日本国の統治権の『権限』として行使することはできないのである。


 その
結果として、国際法上の「集団的自衛権」に該当する武力の行使や、存立危機事態」での武力の行使については、日本国の統治権の『権限』として行使することができないのである。



 追記
砂川判決(最判昭34.12.16)は、「日米安保条約は、主権国として我が国の存立の基礎に極めて重大な関係を持つ高度の政治性を有するものであるので、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、その内容に関する判断は、司法審査権の範囲外のものである。」と述べている。そのため、裁判所は憲法81条によって条約についても違憲審査できるとの立場に立っており、憲法優位説を採用している。憲法98条2項の趣旨から条約優位説が主張されることがあるが、判決はこの立場を採用していないこととなる。(参考書籍:重要判例セレクトワークス PART1憲法 PART2行政法 PART3民法〔P49 憲法37 統治行為①〕)



 追記篠田説を考える上で、注意したいのは、自然法国際法条約」「国連憲章を分けて考えるべきことである。


 「国際法=国家間の自然法」という意味はあるかもしれないが、「国際法=国連憲章」というわけではない。「国連憲章=法形式としては条約」であっても、「条約=自然法」というわけではない。

 憲法前文の「人類普遍の原理」などの文言が「自然法」と見なされることはあるかもしれないが、「人類普遍の原理」が「国連憲章」という「条約」を意味するわけではない。

 「国際法」という文言が、国家間の約束事である「条約」を意味することはあるが、「国際法」という文言が、自然法に直接裏付けられた正当性を有するかのような憲法に優越する法形式を示したものではない。

 この観点で考えてみると、「国際法」を中心に憲法を読み解こうとする主張は、「自然法」を中心に憲法を読み解こうとするという観点からは妥当であるのだが、これが「国連憲章」を中心に、憲法を読み解こうとすることとは意味が異なるのである。なぜならば、「国連憲章」は、自然法によってつくられた各国の「憲法」の規定によって承認された「条約」であって、憲法に優越するものではないからである。

 「国際法」という、国家間に存在する法の原理が「自然法」に拘束されることはあっても、「国連憲章」が「憲法」を通さずに直接「自然法」から導き出された法というわけではないのである。この説を読むにあたって、「国際法=国連憲章」「国連憲章=自然法に直接裏付けられている」などの誤解をしないように、注意しておきたい。


 「国連憲章」も、「条約」の一つである。運営の原理が、自然法の拘束を受けることはあるが、正当性の根拠は、各国の憲法によって承認されていることによって認められたものである


◇ 法の正当性の正しい認識
 「自然法」⇒「憲法」⇒「条約(国連憲章など):これらの国際法は自然法の原理の拘束を受ける」


◇ 法の正当性の間違った認識

 「自然法」⇒「国際法(国連憲章+条約)」⇒「憲法」


 法の正当性の基盤は、人権概念を基礎とした個人の尊厳から成り立つ主権(国民主権)によって生み出されたものである。少なくとも、国民主権原理の国家においては、その正当性に裏付けられている。しかし、自民党憲法改正草案が国家色に染まり、個人を薄め、国家中心主義、国家全体主義の傾向がみられるここと同じように、篠田説は各国の憲法の主体性(主権・最高独立性)を薄め、国際法中心主義、国際法全体主義とでも言うような発想となっている。

 もともと個々人がいなければ、国民主権原理の憲法が生み出されることはなく、国家の権力が存在しないことと同じように、各国の憲法がなければ、国際法(国と国の間の法)などというものも存在しないのである。それにも関わらず、各国の憲法があたかも国際法に所属しており、その主権を譲渡しているかのような解釈は、成り立たないと考えられる。

 日本国が主権国家である以上、当然に憲法優位説を採用することが妥当である。そのため、「国際法に合わせて9条を読み解かなければならない」、「9条が禁止したのは国際法で既に違法化されたものだ」などの主張は、国際法を上位規定と見なす前提に立った解釈となるため妥当でない。憲法規定は、あくまで、自国の意味解釈で読み解くべきものであり、その自国の主体的な判断が、国際法という条約を他国との間で批准(締結・承認)するかどうかの問題である。

 自民党憲法改正草案の正当性の基盤が成り立っていないように、篠田説の国際法に合わせて日本国憲法の立ち位置(特に9条の解釈)を定めようとする発想は、成り立っていないと思われる。大日本帝国時代、主権が天皇に存在し、一般人が「臣民」であったように、篠田説は日本国がまるで国際法(特に国連憲章)の下に位置づけられた「臣民」であるかのように見えるのである。


 また、「憲法」と「国際法(条約)」との関係であるが、「一般法」と「特別法」の関係とは異なる。「憲法」に定められた機関(国会と内閣)が批准(承認・締結)したからといって、「国際法(条約)」が「憲法」に優越するわけではない。

 法学では、同格の法形式の規定について「後法優先の原則」などの順序関係もあるが、憲法以外の法が、後に成立したことを理由として憲法に優越することもない。後に批准(承認・締結)されたという理由によっても、それは揺らぐことがない。

 憲法98条2項に「日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。」との規定があるが、これは、日本の主権(最高独立性)や主権(統治権)を脅かすような、憲法上の強行規定を排除するような意味を持たないと考えることが妥当である。そうでなければ、条約によっては、そもそも日本国の存立が脅かされ、国際法(条約)を締結する主体(国家そのもの)がなくなってしまう事態を招くからである。もしそのようなことになると、98条2項の「日本国が締結した」の文言の「日本国」が存在しない事態となり、98条の趣旨である「誠実に遵守すること」もできなくなってしまうのである。国際法(条約)の批准(承認・締結)によって、日本国の主権が揺らぐ可能性を開くような国際法中心の読み方は法の整合性に矛盾を生じさせるために妥当でない。

 また、篠田説は、9条の規定は、国際法に合わせて読むべきであるとの主張が見られるが、なぜ9条についてだけ国際法に合わせて読むこととなり、憲法上の人権規定などを、国際法(人権に関する条約や宣言など)に合わせて読み解くべきであるとはならないのだろうか。「留保」などの論点に関わるのかもしれないが、留保を付する主体は政府である。しかし、国民主権原理である以上は、「政府」は憲法によって制約を受けているため、憲法上の強行規定を排除するような権限を持ちうることはない。そのため、「留保」の有無のみによって9条の趣旨を国際法に合わせて読もうとすることにも合理性がないと考える。


 さらに、国連憲章は権力分立によって権力の独占を防ぎ、切り分けられた権力の抑制均衡によって法の支配の実効性を担保する仕組みが整理されていない。そのため、各国の軍事力を統制するための十分な機能を有していない。国連憲章の仕組みを過度に信頼するような解釈は、自国の憲法上で敢えて戦争放棄について定め、国家が戦争に向かうことを防ごうとした憲法制定権力の意志から見ても、適切でないと思われる。


 国連憲章の機能不全については、下記が参考になると思われる。

   【参考】「シリア『化学兵器事件』と米英仏の攻撃」(視点・論点) 2018年04月25日



   【参考】山口大学経済学部教授・立山紘毅氏 憲法学者アンケート調査

   【参考】東京経済大学現代法学部教授・加藤一彦氏 憲法学者アンケート調査

   【参考】山梨学院大学法学部准教授・鈴木敦氏 憲法学者アンケート調査

   【参考】「憲法と国際法(特に、人権の国際的保障)」に関する基礎的資料 衆議院憲法調査会事務局 平成16年4月 PDF



右翼も左翼も盲信するな! 「憲法で戦争を放棄した世界唯一の国・日本」という大ウソ 2019年8月14日


 「日本以外の国は『交戦権』という国家主権を持っている」との記載について、「主権」の意味が統治権の意味であれば、確かに日本国以外は大抵の場合9条2項後段のような「交戦権」を否認する規定を有していないため、その統治権の中に潜在的に「交戦権」に該当する『権限』を含んでいる。ただ、次の文で「その主権国家としての当然の権利を日本はアメリカに奪われた」として『権利』の文言が持ち出されている部分が整合性がない。先ほども述べたように「主権」の意味が国家の統治権の意味であれば、それは『権力・権限・権能』の存否の問題であり、『権利』とは異なるからである。また、『権利』の文言を持ち出す際、国際法上の『権利』の話と混乱しているように見受けられるが、国際法と憲法(国内法)では法体系が異なることを理解していない誤りである。
 「アメリカにもロシアにも中国にも『交戦権』はない!」との記載があるが、アメリカもロシアも中国も、「交戦権」を否認する規定を憲法上に有していないと思われる。そのため、その統治権の中に潜在的に「交戦権」に該当する『権限』は含まれているのであり、「交戦権」は存在することになる。「『交戦権』はない!」と主張することは整合性がない。この「交戦権」に該当する『権限』を多くの国家が潜在的に有しているからこそ、不戦条約や国連憲章などによってその行使を違法化することで制約しようとしているのであり、統治権の中にもともと存在しないかのように説明することは誤りである。
 「戦争が違法化された以上、主権国家の権利としての『交戦権』なるものも存在しなくなった。」との記載があるが、9条2項後段の「交戦権」とは日本国の統治権の『権限』を制約した規定と考えることが妥当であり、国際法上の『権利』と考えることは整合性がない。また、「アメリカにもロシアにも中国にも『交戦権はない』のです。」との記載について、この説によれば条約を批准していない国家には「交戦権」が存在するし、アメリカ、ロシア、中国であっても、条約を破棄すれば「交戦権」が存在することになるものである。
 「戦後すぐに作られた憲法ではわざわざ、『国際社会では交戦権というものはもう存在していないんだよ』という確認の事項を入れた。」との記載について、「交戦権」は日本国の統治権の『権限』に対する制約であり、国際法において「交戦権」という概念が存在するか否かには影響を受けないと考えられる。
 「国連憲章では個別的と集団的の区別はありません(51条)。」との記載があるが、国連憲章51条には「個別的又は集団的自衛の固有の権利」との記載があり、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の意味は区別されている。なぜ区別はありませんと説明しようとしているのかよく分からない。どちらも国連憲章においては「自衛権」の文言には含まれてはいるが、その要件は異なるし、その性質も別物である。
 「平和安全法制の審議の際、日本では集団的自衛権の方だけ切り離して議論が紛糾していましたが、国際法の観点でいえばナンセンスです」との記載があるが、9条は「武力の行使」を制約する規定であり、9条の許容する「武力の行使」は国際法上の区分で言えば「個別的自衛権の行使」として違法性が阻却される部分に該当するが、「集団的自衛権の行使」となる部分には該当しないというものであり、「武力の行使」の範囲を基軸として考えるのではなく「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の区分を基軸として考えようとすることは正確には誤りである。
 「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」について、「日本が国連加盟国である以上、国際法上の制限はない」との主張はその通りである。国際法上は日本国も他国と同様にその『権利』の適用を受ける地位を有しているからである。ただ、憲法上で9条が「武力の行使」の範囲を制約していることは別の問題である。


自衛隊は「戦力」ではない! 国際政治学者が「不毛な神学論争」に終止符を打つ 2019年8月17日


 「日本国憲法が放棄しているのは、『国権の発動としての戦争』です。」との記載があるが、9条1項が放棄する旨を示しているのは「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」である。「武力による威嚇又は武力の行使」を忘れないようにしたい。
 「1928年の不戦条約以降、国際社会では『戦争は違法』ということになっていますから、『国権の発動としての戦争』を仕掛けるための『戦力』は、どんな国でも持ってはいけないのです。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上の違法の問題と、憲法上の違法の問題を区別しておらず、あたかも国際法と憲法が同一の法秩序として一元論で語られている点に誤りがある。また、不戦条約は憲法9条2項前段のような「陸海空軍その他の戦力」を直接制限するものではなく、「陸海空軍その他の戦力」そのものを「どんな国でも持ってはいけない」とするものではない。条約上で禁止していないものを勝手に禁じているかのように説明することは誤りである。
 「『戦力』を禁じられているのは日本だけじゃない」との記載があるが、国家間で軍縮条約を行った場合にはその範囲を超える軍の保有は禁じられることとなるが、そのような条約がないのであれば、国際法上「陸海空軍その他の戦力」に該当するものは無制限に保有することが可能である。国際法上で直接「戦力」にあたるものを禁じる規定はなく、「禁じられているのは日本だけじゃない」などとあたかも他国や日本国も国際法上で「戦力」を禁じられているかのように説明することは誤りである。また、「陸海空軍その他の戦力」を禁じているのは日本国憲法であり、国際法とは別の法体系である。
 「『戦力』を持つことは禁止されていても、自衛権を行使するための潜在能力を持つことは違法ではない。軍隊=戦力ではないんです。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上「戦力」を直接禁ずる規定はない。日本国憲法において「陸海空軍その他の戦力」と表現しているものは、「陸海空軍」は「戦力」の中に含まれる。「=(イコール)」ではないが、含まれるのである。
 「自衛隊は『戦力』ではなく、その名の通り『自衛権を行使するための潜在能力』ですから、国際法的にはまったく問題ない。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法では「戦力」を直接禁ずる規定は存在しないから、国際法上では日本国憲法9条2項前段のいう「陸海空軍その他の戦力」を保持しても全く問題はない。あたかも「陸海空軍その他の戦力」を保持することが国際法上で違法となるかのように説明することが誤りである。また、「自衛隊」は政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、三要件(旧)に拘束される範囲内の実力組織である。これは確かに国際法から見れば「自衛権」を行使する場合に用いられる組織であるが、その活動は三要件(旧)の範囲内に制約されており、国際法上で許容されている「自衛権」の範囲のすべての活動を行えるわけではない。
 「自衛隊を『戦力』と解することが、国際法の観点から見ると、そもそも誤解なんです」との記載があるが、認識に混乱がある。まず、国際法上は国家による「戦力」の保持は禁じられていない。また、9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」は憲法規定であり、「自衛隊」がこれに該当するか否かは憲法解釈上の問題である。それを「国際法の観点から見る」として国際法上禁じられているわけでもない独自の「戦力」概念を持ち出して、「国際法的にはまったく問題ない。」と説明することは、法体系の違いを理解していないものであり、法解釈として成り立たない。
 「戦力」の文言が野球選手についても使うことができるとの話について、このような認識を防ぐために9条2項前段は例示列挙として「陸海空軍」の文言が存在している。


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○政府委員(角田礼次郎君) 

(略)

 そこで、戦力ということばになるわけでございますけれども、これも、実は昨年の十一月に戦力についての統一見解を確認するような意味で申し上げたときに、その冒頭で、広く戦力と解すればあらゆる戦う力を含むであろうと、しかしながら、政府としてはそのような解釈は実はしておりませんということを申し上げたと思います。その一番最初に申し上げた、広く解釈すればあらゆる戦う力を含むであろうという意味では、いま源田委員が御指摘になったようなあらゆる力はそこに含まれるという解釈が成り立つと思います。ただ、政府としてはそういう解釈はしておりません。

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第71回国会 参議院 内閣委員会 第27号 昭和48年9月13日

 

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○政府委員(角田礼次郎君) ……(略)……ただ一般的に申し上げて、私どもは、戦力ということばは憲法九条二項にあるわけでございますから、その憲法九条二項の戦力ということばはどういう意味であるかということを憲法解釈の上から申し上げているわけで、その国語学的解釈、そういうことを言ったら言い過ぎかもしれませんけれども、国語学的解釈が、戦力とは何かという法律解釈とはちょっと別の角度ではないかと思います。……(略)……

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第71回国会 参議院 内閣委員会 第27号 昭和48年9月13日


 「英語を文字通り訳して、『戦争潜在能力』という言い方をしていたら、憲法と国際法の連動が意識されて、こうした混乱は避けられていたかもしれません」との記載があるが、「陸海空軍その他の戦力」としているのであるから、野球選手がここに含まれないことは一般に理解することができる。また、野球選手の場合は統治権(国家権力)によって保持されるものでもない。さらに、「憲法と国際法の連動が意識されて」との記載があるが、憲法と国際法は別々の法体系であり、たとえ「戦争潜在能力」と記載されていたとしても、連動しない。もう一つ、国際法上ではそもそも国家による「戦力」の保持は禁じられていないのであり、連動するものがない。
 「戦力」について「侵略目的とそうでないもの」や「攻撃的兵器と防御的兵器」を区別することが難しいとの議論であるが、国際法上では国家による「戦力」の保持が禁じられていないのであるから、この議論は存在しない。
 「陸海空軍についても、違法行為である戦争を行う潜在能力(war potential)でないことを宣言し、必要な法的措置をこうじれば、違憲存在でないことは確定するのです」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上は「戦争を行う潜在能力(war potential)」の保持は直接禁じられているわけではない。また、論者の言う国際法上の「違法行為である戦争」と、憲法上禁じられている「戦争等」は異なる。さらに、「陸海空軍についても、」と、憲法9条2項前段の「陸海空軍」の文言を出しながら、国際法上の「違法行為である戦争を行う潜在能力(war potential)」でない旨を宣言しても、国際法と憲法では法体系が異なるのであり、国際法上の違法でないものであったとしても、憲法に抵触して違憲となることはあり得るのであり、「違憲存在でないこと」は確定しない。「必要な法的措置をこうじれば、」についてであるが、この「必要な法的措置」と考える部分こそが、13条の「国民の権利」の保障に限って例外化されるという説である。政府は「自衛のための必要最小限度の実力」については9条2項前段の「戦力」には該当しないとしているが、9条2項前段の「戦力」に該当するが、13条の「国民の権利」を根拠として「必要な法的措置」を採ることで例外的に違法性が阻却されるとする考え方もある。
 憲法を国際法に則して解釈するという部分について、国際法は憲法とは別の法体系であるし、国際法を上位規定として憲法を位置づけることは、国家の主権の独立性を損なう解釈を導くため妥当でない。
 この記事のタイトルは「自衛隊は『戦力』ではない! 」であるが、下記の主張と整合性が保たれていないように思われる。
   【参考】再度言う。自衛隊は軍隊である。 2018年01月25日
   【参考】三たび言う。自衛隊は軍隊である。 2018年01月28日



日本人が知らない「日本国憲法」〜なぜ「通説」はフェイクなのか きちんと国際法を尊重してほしい 2019.12.18


   【3ページ目】


 「再びこれらの条約を遵守することを国内法の最高法規で誓うことにした。それが憲法9条である。」との記載があるが、9条は憲法規定であるし、9条は日本国の統治権に対する制約であるから、「条約を遵守すること」の意味を含んでいない。確かに9条には「不戦条約1条」や「国連憲章2条4項」に類似した文言があるが、それをもって直ちに「これらの条約を遵守すること」を求める規定であるかのように解釈することはできない。また、条約は国際法であり、憲法に基づく国内法とは法分野が異なる。

 「もちろん国際法規範の内容を、日本国憲法典に取り入れても効果は同じだ。」との記載があるが、「不戦条約1条」や「国連憲章2条4項」に類似した文言があることは確かであるが、法的な効果が全く同じということはない。国際法と憲法では法分野が異なるし、法源も異なる。また、法解釈を行う有権解釈機関も異なるし、違反した場合の裁判管轄も異なる。

 「国際法を守る、と宣言しているのが、9条1項である」との趣旨の記載もあるが、先ほども指摘したように9条には「国際法を守る」や「条約を遵守すること」を要求する意味は含まれていない。条約の遵守を求める規定は憲法98条2項である。

 論者は9条1項の文言を「国権の発動たる戦争」と「国際紛争を解決する手段としての武力行使」の二つに切り分けているが、これは英語の訳を基にした解釈方法と言われることが多いものである。日本語の9条解釈においては「国際紛争を解決する手段としては、」の文言は「国権の発動たる戦争」と「武力による威嚇または武力の行使」の両方にかかるとされている場合が多い。細かい違いであるが、細かい9条解釈を突き詰めるのであればこの違いを押さえておきたい。また、憲法上効力を有しているのは日本語であり、日本語を翻訳した英語の文ではないことも押さえる必要がある。

 「9条1項が、自衛権の行使を禁止していないことは明らかである。」との部分であるが、9条は砂川判決で「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と示されている通り、国際法上の「自衛権」という『権利』の概念を否定しているものではない。ただ、国際法上の「自衛権」に該当する方法であるか否かに関係なく、9条1項は「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を制約している。この制約範囲は「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」のすべてを制約しているとする解釈から、「国際紛争を解決する手段として」の文言を制約範囲を限定するものと考えて「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」のみを禁じ、それに該当しない「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」については禁じていないとする解釈などがある。9条は「自衛権」という『権利』の概念を直接的に制約する規定ではないため、国際法上「自衛権の行使」を行うこと自体は確かに禁止していないのであるが、現在の国連憲章の下で「自衛権」を行使する場合とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって問われる違法性を国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という『権利』の概念を用いて阻却することを意味することから、実質的に国家によって「武力の行使」が行われていることになる。そのため、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約している範囲によっては、国際法上の観点からいう「自衛権の行使」となる「武力の行使」を実施できない場合はあり得る。論者が「自衛権の行使」と表現している部分に「武力の行使」が行われていることを意味しているのかによって、「自衛権の行使を禁止していない」との表現の当否が変わることになる。

 「国際法上の自衛権とは、侵略者が現れたときの対抗措置のこと」との記載があるが、現在の国際法にいう「自衛権」とは違法性阻却事由の『権利』である。「対抗措置のこと」との表現は正確ではない。


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第五章 国家の国際責任
 C 国際的な義務違反を行っても責任が問われない場合
 ある国家による国際法上の義務違反行為であっても、特定の事情があれば、例外的に違法性が阻却される場合がある。これを違法性阻却事由といい、同意、自衛、対抗措置、不可抗力、遭難、緊急避難がある(国家責任条文1部5章。なおユス・コーゲンス(強行規範)に違反した行為については、阻却事由に該当する場合でも、違法性は阻却されない(26条)。また違法性阻却事由を援用した場合でも、違法性を阻却する事由が存在しなくなった場合には、国は義務を遵守しなければならない。

[1]同意
(略)


[2]自衛
 条約上も一般国際法上も、国家は自衛権を有している。「国際連合憲章(国連憲章)」においても、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(51条)と定める。国の行為が、適法な自衛権の行使である場合には、違法性が阻却される(国家責任条文21条)。


[3]対抗措置
(略)


[4]不可抗力
(略)


[5]遭難
(略)


[6]緊急避難
(略)
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Next 教科書シリーズ 国際法 渡部茂己・喜多義人 編 弘文堂 平成23年5月30日 初版 (下線・太字は筆者) 

( 国際法<第3版> (Next教科書シリーズ) 単行本(ソフトカバー) – 2018/1/22 amazon)


   【4ページ目】


 「1項で設定した国際法遵守の枠組みにしたがって、」との記載があるが、国際法の順守を求めているのは98条2項であり、9条1項ではない。


   【5ページ目】


 「憲法学『通説』は、……法的根拠がない命令を次々と発してきた。」との記載があるが、通説は「命令」を発するとの表現には意味が通じない点がある。

 「自衛隊違憲論がその典型である。」との記載があるが、これは基本的に9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」の文言による違憲論であり、「交戦権」を論じている中に突然「自衛隊違憲論」を持ち出すのは展開がかなり雑であり、法解釈としては意味が十分に通じていない。


   【6ページ目】


 論者が「憲法学『通説』」としている対象がどのような解釈方法であるのかはっきりしていない部分がある。また、「憲法学『通説』」というよりも政治運動をしている者の主張を批判しているものであり、論者の指摘しようとする対象が本当に「憲法学『通説』」であるのか疑問である。
 その傾向により、論者の主張は法解釈上の議論というよりは、「憲法学『通説』」と見なす対象を批判しようとする論者の政治運動であるように見受けられる。


   【7ページ目】


 「憲法9条は、要約すると、『日本は国際法を遵守する』と宣言した規定である。」との記載があるが、誤りである。国際法を遵守することを求めている規定は、98条2項であり、9条ではない。

 

 

憲法学の病 (新潮新書) 篠田英朗 2019/7/12 amazon

 下記の点を理解すると、この書籍の内容が論理的に誤っていることが分かる。


◇ 「自衛権」が国際法上の『権利』の概念であること

◇ 国際法上「自衛権」の適用を受ける地位を有していても、日本国の統治権の中に『権力・権限・権能』が発生するわけではないこと

◇ 国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」が国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であること

◇ 「個別的自衛権の行使」や「集団的自衛権の行使」が「武力の行使」を伴うこと

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国際法上の概念である「自衛権」という『権利』そのものを直接的に否定しているわけではないこと

◇ 国際法と憲法は法分野が異なり、法的効力は連動関係にないこと

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国連憲章が廃止され、国際法から「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の区分が消失したとしても、変わらず日本国の統治権の『権力・権限・権能』を制約し続けること

◇ 憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」を制約している規定であること

◇ 国際法を遵守したところで、国際法は国家の統治権に『権力・権限・権能』を付与する意味を持っておらず、国家の統治権は憲法上で正当化されている範囲に限られること

 

 その他の部分についても、当サイトで指摘していることと同様の論点で誤っている。

 

 

はじめての憲法 (ちくまプリマー新書) 篠田英朗 2019/12/6 amazon


 9条に関する部分については、当サイトで指摘している論点と同様の部分で誤っている。


現代国際法と日本国憲法の整合性の解明 ~従来の憲法学通説の 9 条解釈の問題点~ 篠田英朗 PDF


(P86)

 □「その根拠となるのは、日本国憲法の現代国際法との連動性である。」との記載があるが、日本国憲法と国際法では法的効力に連動関係はない。例えば、国際法上の条約が改正、失効、廃止された場合においても、日本国憲法は独立した効力を有するのであり、影響を受けない。そのため、「日本国憲法の現代国際法との連動性である。」との認識は誤りである。


 □「憲法学通説は、憲法起草者たちが当然視していた国際法の枠組みの中で憲法を位置付けるという姿勢を軽視している。」との記載があるが、誤りである。「憲法起草者たち」が「国際法の枠組み」を「当然視していた」としても、日本国憲法は国際法の中に位置付けるかのような認識に基づいて立法されたものではない。日本国は主権を有する独立国であり、国連の付属機関ではないし、国際法上の条約などの法的効力に優越する法形式である。そのため、「憲法起草者たち」は「国際法の枠組みの中で憲法を位置付けるという姿勢」をもともと有していない。「軽視している。」との記載もあるが、その前提が誤っている。


 □「日本国憲法が前提としている国際法の枠組みを冷静に憲法解釈に取り入れれば、9条をめぐる神学論争は不要となる。」との記載があるが、日本国憲法を制定する際に、「国際法の枠組み」が存在することは理解していたとしても、日本国は国際法の適用を受ける地位にあることが前提となっているに過ぎず、「国際法の枠組みを冷静に憲法解釈に取り入れ」なければならないということにはならない。また、たとえ「国際法の枠組み」を踏まえたとしても、憲法9条は日本国の統治権の『権限』に対する制約であり、国際法上の『権利』の適用を受ける地位に対して何ら干渉しておらず、特に矛盾する関係にあるわけでもない。そのため、論者が「9条をめぐる神学論争」と読んでいる憲法解釈の方法については、国際法とは何ら関係がないし、「国際法の枠組み」を「憲法解釈に取り入れ」ることもできない。


(P88)

 □「いわば吉田は、日本の憲法学者たちが習慣的に依拠していた前提を否定し、国際法の考え方の優越を主張したにすぎない。」との記載があるが、誤りである。吉田茂は9条は「自衛権」を否定するものではないが、「自衛戦争」を否定していると述べている。特に「国際法の考え方の優越」を主張しているわけではなく、「国際法の考え方の優越を主張したにすぎない。」との認識は誤りである。


 □マッカーサーと吉田茂の主張について、「むしろ両名は、日本の憲法学者が当然視していたが実は法的根拠を欠いていたドイツ国法学的な発想の国家の『正当防衛権』思想に依拠した『防御戦争』の考え方を否定したのであり、その結果として国際法の自衛権にそった考え方にそった憲法解釈を主張していた、と考えるのが、最も自然かつ当然である。」との記載があるが、吉田茂は「自衛戦争」を否定しているとの意味であればその通りである。ただ、「国際法の自衛権にそった考え方にそった憲法解釈を主張していた、」との部分であるが、「自衛権」と9条の「憲法解釈」の範囲は別問題であるため、「国際法の自衛権にそった考え方にそった憲法解釈を主張していた、」との認識は導かれない。また、論者は国際法上の「自衛権」の適用を受ける地位を有していることを根拠として、国家の統治権の中に「武力の行使」を行うための『権限』が生まれるかのような発想に基づいて論じようとしていると思われるが、国家の統治権の『権限』の幅はその国の憲法によって示されるものであり、国際法上の「自衛権」の適用を受ける地位を有しているか否かに左右されない。そのため、そのような前提で論じようとすることは誤りである。


(P89)

 □「実際に制定されてしまった憲法典の文言に『自衛権の放棄』や『軍隊の放棄』が明記されているのであれば、」の文に続く形で、「しかし実際には、憲法9条には、そのような文言はない。」との記載があるが、確かに、憲法9条は「自衛権」を否定する記載はないが、「軍隊の放棄」については9条2項前段で「陸海空軍その他の戦力」が禁じられているため、明記されている。そのため、「そのような文言はない。」との説明は誤りである。


 □「国際法への参照を否定する憲法学通説の解釈姿勢は、『ちゃぶ台返し』の解釈とも呼ばれる5。」との記載があるが、憲法解釈は自国の法体系の中で行われる作業であり、国際法の法的効力が自国の法体系の解釈に影響を及ぼさなければならないとする理由はない。また、論者が「『ちゃぶ台返し』の解釈」と呼ぶものは「1項限定放棄説+2項全面放棄説」であると思われるが、1項で禁じていない部分を2項が禁じているとの解釈の枠組みであるとは言えるが、特に2項の規定によって1項の意味そのものを改変しているとする事実は存在しておらず、論者の言う「ちゃぶ台返し」ともなっていない。


 □「憲法9条は1項と2項からなるが、1項では不可避と思われる解釈を、2項を読んでから修正することが求められる、という特異な主張をするために、そのように呼ばれる。法律の条文において、1項の内容を、2項を読んでから修正しなければいけなくなるという構成は、極めて異質である。1項の内容に 2項が留保や例外を加えたりする場合は、当然よくある。しかし2項が1項の解釈の変更を求めるというのは、異例である。」との記載があるが、本当にそのような解釈を行っている者がいるのか疑問がある。

 通常の学説は9条1項で禁じていない部分についても、2項がより広い範囲を禁じる結果、結局1項で禁じていない部分についても行使することができなくなるとの結論が導かれているだけであり、1項の意味そのものを修正するものではない。

 論者の言う解釈を行う立場が存在するのであれば、確かに特異な主張であるが、そのような主張を行っている者が本当にいるのかは疑問である。


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 憲法9条1項は、1928年不戦条約や1945年国連憲章を強く意識した文言になっており、1項を読む限り、憲法9条は現代国際法における武力行使の規制の枠組みを国内法でも規定したものであることは明らかである。そこで国際法上の原則である自衛権が放棄されているはずはなく、武力行使の規制と、侵略者に対抗する手段としての自衛権の保障とが一体化していることは、明らかである。

 憲法学通説は、この解釈の妥当性を認めつつ、2項を読むと持ちこたえられなくなるので、2項を読んでから1項に立ち戻ってきて、1項の解釈を変えなければならない、と主張する。

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 1項について、「そこで国際法上の原則である自衛権が放棄されているはずはなく、」との記載があるが、確かに1項は「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄しているだけであるため、「自衛権」という『権利』そのものを放棄する趣旨の規定ではない。

 しかし、「1項を読む限り、憲法9条は現代国際法における武力行使の規制の枠組みを国内法でも規定したものであることは明らか」との部分であるが、国際法と憲法では法体系が異なり、法的効力も独立したものであることから、9条1項が国際法の「武力行使の規制」そのものであるかのように考えることは誤りである。

 「武力行使の規制と、侵略者に対抗する手段としての自衛権の保障とが一体化していることは、明らか」との部分についても、憲法9条1項は日本国の統治権の『権限』に対する日本国独自の制約であり、国際法とは法体系が異なり、法的効力も独立したものであることから、国際法上の『権利』である「自衛権」と「一体化している」との理解は誤りである。


 「憲法学通説は、この解釈の妥当性を認めつつ、」との記載があるが、憲法学の通説は論者のように憲法9条1項を国際法上の規定と一体のものとしては扱っておらず、そのような理解を妥当であるとは認めてはいない。

 「2項を読むと持ちこたえられなくなるので、2項を読んでから1項に立ち戻ってきて、1項の解釈を変えなければならない、」との部分であるが、憲法学通説は1項で禁じていない部分についても、2項が禁じており、結局1項で禁じていな部分についても日本国の統治権の『権限』が行うことはできないとの述べているだけであり、「1項に立ち戻ってきて、1項の解釈を変えなければならない」などとは主張していない。そのため、論者の誤解と考えられる。


 □「憲法9条解釈をめぐる対立は、1項から自然に2項に読み進んでいく解釈と、2項を読んでから1項の内容を修正する『ちゃぶ台返し』の憲法学通説の解釈との間の対立に、ほぼ全て還元されると言ってよい。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「1項から自然に2項に読み進んでいく解釈と、」との部分であるが、「自然に」と呼んだところで、どのような解釈を自然と考えるかは解釈者によって様々であることから、これは解釈枠組みを描く説明としては不十分である。恐らく「芦田修正」に基づく議論の「1項限定放棄説+2項限定放棄説」のことを言おうとしているものと思われるが、より正確に描き出さなくては読み手は解釈枠組みを思い描くことができない。

 憲法学通説は、1項で禁じていない部分についても、2項が禁じていると述べているだけであり、「1項の内容を修正」するとは述べていないし、「ちゃぶ台返し」とも言えない。


(P90)

 □憲法9条1項について「不戦条約」と「国連憲章」の規定を参照し、「その文言は、両者への参照を強く要請するものであり、両者の国際法規範を遵守する意図を表現していると考えるのが、妥当だ。」との記載があるが、確か憲法9条1項は「不戦条約」で用いられた文言や、「国連憲章」で用いられた文言と重なる表現が見られるものの、国際法と憲法とでは法体系が異なり、法的効力も連動関係になく、憲法の効力は独立したものであることから、憲法9条1項が「国際法規範を遵守する意図を表現している」とは言えない。また、国際法を遵守することを定めているのは憲法98条2項であり、憲法9条ではない。


 □「憲法起草者は、どうしても国際法との連動性を意識せざるを得ないように配慮したのだろう。」との記載があるが、国際法の文言を取り入れたものと考えられるとしても、法的効果については憲法と国際法との間には連動関係はない。


 □「一般に『芦田修正』と呼ばれている修正は、9条と『前文』との連動性を明確にするとともに、9条と国際法との連動性も明確にするためのものであったと言える。」との記載があるが、認識を整理する。まず、9条は「前文」の「平和主義」の理念を具体化した規定であるため、その意味で「連動性」という言葉を使っているのであればその通りである。次に、「9条と国際法との連動性」と記載されている部分について、憲法と国際法に似たような文言が使われているという意味で連動性という文言を用いているのであれば理解できる場合があるとしても、憲法と国際法との間で法的効力が連動関係にあると考えているのであれば誤りである。憲法と国際法はそれぞれの法体系の問題で切り分けることができるからである。


 □「そこで国連憲章によって強化された新しい国際法秩序をも遵守するという意図をもって、9条1項は、『国権の発動としての戦争』だけでなく、『国際紛争を解決する手段として』の『武力による威嚇又は武力の行使』も放棄した、と理解するのが、妥当だ。」との記載があるが、誤りである。

 国際法を遵守する旨を定めた規定は憲法98条2項である。憲法9条1項は「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じているが、これは日本国の統治権の『権限』に対する日本国独自の規定であり、国際法とは法体系が異なり、法的効力も独立しているため、法的効力に連動関係はない。


(P91)

 □「そこで戦後の日本国憲法は、国際法を遵守し、あらためて戦争を否定する宣言をした。そしれが憲法9条1項である。つまり、国際法を遵守する、とあらためて宣言したのが、憲法9条である。」との記載があるが、国際法を遵守する旨を記載した規定は憲法98条2項であり、9条ではない。9条が国際法を遵守すると宣言しているとの認識は誤りである。


(P92)

 □「憲法9条は、19世紀ヨーロッパ国際法を否定し、現代国際法を遵守することであることを、疑いのないものにする宣言をした。」との記載があるが、9条は「戦争の放棄」「戦力の不保持」「交戦権の否認」を定めた規定であり、「国際法の否定」や「国際法の遵守」を定めた規定ではない。また、国際法の遵守を定めた規定は憲法98条2項である。


 □「『国権の発動としての戦争』に、自衛権の行使は含まれない。『自衛権の行使』とは、違法行為を除去するための合法的な公権力の行使であり、違法化された『国権の発動としての戦争』でも『国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使』でもない。」との記載があるが、憲法上の用語と国際法上の用語が混在しており、混乱が見られる。

 まず、「国権の発動としての戦争」とは憲法9条1項の文言であり、「自衛権の行使」は国際法上の用語である。そのためこれらは異なる法体系の問題であることから、同列に「含まれる」や「含まれない」などと論じることはできない。また、国連憲章51条の意味での「自衛権の行使」を指しているのであれば、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却の『権利』を行使することを意味することから、通常国家の統治権の『権限』による「武力の行使」が行われている状態である。9条がこの「武力の行使」を制約しているか否かの問題に関しては論じることができるとしても、9条が直接的に国際法上の概念としての「自衛権の行使」を制約しているか否かを論じることはできない。そのため、ここで「『国権の発動としての戦争』に、自衛権の行使は含まれない。」などと同列に論じることができると考えている部分に誤りがある。

 「『自衛権の行使』とは、違法行為を除去するための合法的な公権力の行使であり、」との部分であるが、「自衛権の行使」とは「武力の行使」を行った場合に問われる違法性を阻却するための『権利』を行使することを意味する。論者は「合法的な公権力の行使」と述べている部分について、確かに国際法上の観点から見る「自衛権の行使」が行われている場合には通常国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われている場合を指すが、「自衛権の行使」そのものが「公権力の行使」であるかのような誤解を生みやすい表現となっていることに注意する必要がある。

 「合法的な公権力の行使であり、違法化された『国権の発動としての戦争』でも『国際紛争を解決する手段としての武力による威嚇又は武力の行使』でもない。」との部分であるが、憲法9条1項によって憲法上で違法化されている部分と、国際法上の規定で違法化されている部分は異なる枠組みであり、これらを混同して論じでいる点で誤りである。


 □「これによって芦部は何を行っているか。現代世界の武力行使の全てが憲法上の『国権の発動としての戦争』と同じだ、と主張しているのである。」との記載があるが、芦部はそのように主張していないため誤りである。論者は芦部が「武力行使の全て」が「戦争」と同じであると主張しているかのように論じているが、芦部は「戦争」と「武力行使」の定義を使い分けており、同じであるとは述べていない。芦部は「武力の行使」について「宣戦布告なしで行われる事実上の戦争」と述べ、9条1項は「事実上の戦争も放棄し、」と述べている場合があるが、やはり「武力行使の全て」が「戦争」と同じであるとは述べていない。


 □「実際の憲法9条1項の文言は、国際法にしたがった解釈を求めているにもかかわらず、憲法学者による造語によって、憲法9条と国際法とのつながりが分断されていると言わざるを得ない。」との記載があるが、誤りである。

 憲法と国際法では法体系が異なっている。また、9条1項は日本国の統治権の『権限』に対する制約を示した規定であるが、「国際法にしたがった解釈を求めている」との事実はない。また、「国際法にしたがった解釈を求めている」わけではないが、国際法の遵守を規定しているのは憲法98条2項である。

 「憲法9条と国際法とのつながりが分断されている」との部分についても、憲法と国際法とでは法的効力が連動している関係になく、もともと「つながり」はなく、法的効力としては「分断」している。そのため、「つながり」があったものが「分断」されたかのような認識は誤りである。


(P93)

 □「芦部の議論は、憲法典の文言が示している国際法に依拠した憲法の平和主義の解釈を拒絶し、さらにいわば独断的な平和観を憲法典解釈の基準としている点で、大いに疑問を与える議論だ。」との記載があるが、認識を整理する。

 「憲法典の文言が示している国際法に依拠した憲法の平和主義の解釈を拒絶し、」との部分であるが、憲法と国際法は法的に連動関係にないし、「憲法の文言」が「国際法に依拠した」形で「平和主義」を解釈している事実がない。そのため、ここでいう「拒絶」しようとする対象となる事実が存在しない。


 □「芦部の二つ目の『疑問』は、『もし自衛戦争が放棄されていないとすれば、当然に自衛のための軍隊の存在が前提されなければならないので、九条二項の存在理由がなくなる』というものだという14。」との文意に続く形で「ところが二項が一項と矛盾するところがあるので、一項の解釈を変えなければならないと芦部は主張するのである。」として、論者はこれを「『ちゃぶ台返し』解釈」と批判しているが、芦部は「1項限定放棄+2項全面放棄」説を自身の解釈として採用してお、2項によって「自衛戦争」が放棄されると述べているだけであり、1項の意味を改変して1項によって「自衛戦争」が否定されるかのようには論じていない。そのため、2項によって1項の意味を改変するかのような解釈を行っておらず、論者のいう「ちゃぶ台返し」は行われていない。単に2項によって1項で未だ禁じられていない「自衛戦争」の部分が禁じられると述べているだけである。そのため、論者の「一項の解釈を変えなければならないと芦部は主張するのである。」との主張は誤りであると考える。


(P96)

 □「自衛権の行使それ自体が公権力の行使なのである。」との記載があるが、「自衛権の行使」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味する言葉であり、それそのものは国家の統治権(公権力)を行使する意味を有しているわけではない。「自衛権の行使」が為される場合に国家の「公権力の行使」として通常「武力の行使」が行われることは事実であるが、「自衛権の行使」それ自体が「公権力の行使」であるとの認識は正確な表現であるとは言えない。


 □「だから憲法九条は自衛権を否定した、などといった言説もあった。」との文言に続いて憲法学者「宮沢俊義」の話を取り上げているが、ここで「宮沢俊義」が述べているのは「新憲法」(の9条)は「自衛戦争」を放棄しているということであり、「自衛権を否定した」とは述べていない。そのため、その後論者が「自衛権」の悪用や国際法が「自衛権」を認めたことなどを説明しようとしても、国際法上の「自衛権」という『権利』の概念と、国家の統治権の『権力・権限・権能』による「自衛戦争」とでは性質が異なっている。論者はこの点でこれらを混同しており、誤りである。


(P97)

 □9条解釈について「2項の独自の解釈によって1項の解釈を変更するか、」との記載があるが、1項の解釈を変更しているのではなく、1項で禁じられていない部分についても2項が禁じていると考えるか否かの問題である。あたかも2項が1項の意味を変更するかのような解釈が存在していると考えている部分に誤解がある。


 □「したがって9条1以降が自衛権を否定せず、『国権の発動としての戦争(war)』を放棄したのに対応している以上、9条2項も「戦力(war potential)」の不保持を定めて、自衛権行使の手段の不保持を除外していると考えるのが、最も論理的である。」との記載があるが、誤りである。

 まず、9条1項は日本国の統治権の『権限』による「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を禁じているが、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を直接的に否定する趣旨の規定ではない。その意味で9条1項が「自衛権を否定せず、」というのは正しい。

 しかし、「自衛権」とは国際法上の法主体である「国家」に対して与えられる地位であり、国際法上において「自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、これは国家の統治権の中に新たな『権限』を付与する意味を持っていない。そのため、国家が「自衛権行使の手段」となるもの(実力組織)を保持できるか否かは、その国家の憲法によって規律される事柄であり、国際法上の『権利』である「自衛権」とは何ら関係がない。

 そのため、9条1項が「自衛権」を否定していないことをもって、9条2項前段の解釈において「自衛権行使の手段の不保持を除外している」などという論理は導かれない。

 論者は「最も論理的である。」と述べるが、国際法と憲法の法体系や、『権利』と『権限』の違いを押さえて理解すれば、論理的であるとは言えない。


 □「『陸海空軍』に、『戦力(war potential)』としての、という制約が加わった事情は、1項からの論理の一貫性を考えれば、明晰である。」との記載があるが、誤解である。9条2項前段は「陸海空軍その他の戦力」と記載されており、「戦力」の例示列挙として「陸海空軍」が挙げられている。そのため、あたかも「戦力」としての「陸海空軍」と「戦力」でない「陸海空軍」が区別されており、「その他の戦力」という文言が存在することによって「戦力」としての「陸海空軍」が禁じられているとの考え方は導かれない。


 □「9条1項は、国際法上の違法行為である「国権の発動としての戦争」を放棄する、という国際法遵守の宣言であった。」との記載があるが、誤りである。9条1項は日本国の統治権の『権限』に対する制約であり、国際法とは法体系が異なり、法的効力も独立している。また、国際法を遵守する旨を規定しているのは98条2項である。


 □「戦争という違法行為を行わない宣言をしたのだから、違法行為を行うための潜在能力を持たないのは、論理必然的に自明のことではある。」との部分であるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「戦争という違法行為」との部分であるが、論者はここで国際法上で違法化されている「戦争」を憲法9条1項が禁じているかのような認識に基づいて主張していると考えられるが、9条1項は憲法規定であり、国際法とは法的効果が連動関係にない。例えば、国際法上で「戦争」を違法化している条約が改正、失効、廃止されたとしても、憲法9条は日本国の統治権の『権限』に対して効力を持ち続けるのである。そのため、憲法9条1項が国際法上の「戦争」を違法化している規定と法的効力が連動しているかのように論じることは誤りである。

 次に、憲法上の問題として「戦争という違法行為」という文言を捉える場合、憲法9条1項によって憲法上において「戦争」が禁じられていない場合、憲法上では「戦争」を行うことは合法である。そのため、「戦争という違法行為を行わない宣言をした」という文言は、憲法9条1項によって憲法上で「戦争」が違法化されていない場合には「戦争」は合法であるにもかかわらず、「戦争」が法的根拠もなく性質的に違法であるかのような論じ方となってしまうため、解釈として妥当でない。

 このように、論者の主張は国際法と憲法の法的効力に連動関係があるかのように誤解しているか、法的な根拠もなく「戦争」がもともと違法であり、それを憲法9条1項が禁じたかのような主張となっており、法解釈として成り立たない。


(P98)

 □「日本国憲法9条2項には、こうした歴史的背景と国際法体系に沿った論理構成が貫かれていると考えるのが、最も自然な解釈だろう。」との記載があるが、先ほども述べたように、国際法と憲法では法的効力が連動関係にない。日本国は国連憲章に付属する機関ではないし、主権を有する国家として独立した存在だからである。そのため、論者の言う「国際法体系に沿った論理構成が貫かれている」とは言えず、誤りである。


 □「『戦力(war potential)』とは、現代国際法で違法である『国権の発動としての戦争(war)』(国家の至高性にもとづいて国家が宣戦布告をして他国を攻撃する行為)を行うための潜在能力のことである。」との記載があるが、誤りである。

 まず、「『戦力(war potential)』とは、現代国際法で違法である『国権の発動としての戦争(war)』」との部分であるが、「国権の発動たる戦争」は憲法上の文言であり、これは憲法が示す「戦争」を意味しており、国際法上で解釈される「戦争」とは異なる。

 憲法上の意味と、国際法上の意味が異なることは下記の答弁書が参考になる。


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四の1について

 憲法第九条第一項の「武力の行使」とは、基本的には国家の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為をいうと考えるが、同項の「国権の発動たる戦争」に当たるものは除かれる。


四の2及び4について

 国連憲章第二条第四項及び日米安保条約第一条の「武力の行使」とは、一般に、国家がその国際関係において行う実力の行使をいい、憲法第九条第一項の「国権の発動たる戦争」に当たるものも含まれるという点を別にすれば、四の1についてで述べたところと本質的には同一のものをいうと考える。

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「戦争」、「紛争」、「武力の行使」等の違いに関する質問に対する答弁書 平成14年2月5日


 □「国家の至高性にもとづいて国家が宣戦布告をして」との記載があるが、「国家の至高性」とは国家の統治権が他のいかなる団体の権力(教権・金権など)に対して優越することを示す言葉であり、「主権」という概念の「最高独立性」の「国内的最高性」を示す意味である。論者は「国家の至高性にもとづいて国家が宣戦布告」と論じようとしているが、統治権の「国内的最高性」に基づいてなぜ対外的な行為である「宣戦布告」の話につなげようとしているのか意味が分からない。


 □「違法行為である『戦争』を遂行するための手段を持つこともない、という宣言が、2項の『戦力不保持』の意味である。」との記載があるが、先ほども示したように、この「違法行為である『戦争』」の文言の使い方は、国際法上で「戦争」が違法化されていることに憲法9条の規定が法的効力において連動しているかのような前提で論じようとしているが、国際法と憲法では法的効力が連動していないため、このような前提で論じることは誤りである。


(P99)

 □「9条2項は、単に現代国際法で存在していないものを、あらためて否認しているだけの条項である。」との記載があるが、憲法9条2項後段の「交戦権」は憲法規定であることから、日本国の統治権の『権力・権限・権能』を対象とした規定であると考えることが妥当であると思われる。そのため、「現代国際法」を対象とした規定であるとの認識は整合的でないと思われる。


(P100)

 □「つまり『交戦権』は大日本帝国憲法時代の『天皇大権』と深く関わっていたがゆえに当時の日本人の注目を集めていたが、実はもともと国際法上の概念ではなかったのである。」との記載があるが、「交戦権」を国家の統治権の中のものと考えている点はその通りであると考える。


(P101)

 □「9条2項は、国際法遵守の規定であり、国際法上の何らかの権利を否認する規定ではない。」との記載があるが、「国際法遵守」の規定は憲法98条2項であり、9条2項ではない。9条は日本国の統治権の『権限』を制約する趣旨の規定である。「国際法上の何らかの権利を否認する規定ではない。」との部分について、9条が国際法上の「自衛権」という『権利』そのものを否定しているわけではない点ではその通りである。


(P102)

 □「まず国際法が『交戦権』を否認した。日本国憲法は、それを遵守すると宣言しているだけにすぎないと考えるのが、むしろ妥当である。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、日本国憲法は自国の法体系において9条2項後段で「交戦権」を否認している。次に、国際法を遵守する旨を示した規定は憲法98条2項である。





〇 上念司

 

【動画】『ほんとうの憲法(篠田英朗著)』の話をしよう!初心者でも10分で分かる日本国憲法の真実 上念司チャンネル ニュースの虎側 2020/06/13


4:58

 「戦後秩序というのは、戦争しないためにみんなで集団的安全保障やったんですよ、ね。これが国際法の常識なんです、ね。それを前提に書かれた日本国憲法は、集団的安全保障認めてないわけないじゃん、それ前提なんだよバカみたいな話が、この篠田先生の本に書いてあって、衝撃を受けました。」との発言があるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「集団安全保障」であるが、これは国連憲章に定められたものである。ただ、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は、憲法9条によって三要件(旧)の範囲に限られていることから、これを超えるものについては「集団安全保障」として行うことはできない。


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3 いわゆる「国連軍」は、個々の事例によりその目的・任務が異なるので、それへの参加の可否を一律に論ずることはできないが、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないと考えている。これに対し、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴わないものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないわけではないが、現行自衛隊法上は自衛隊にそのような任務を与えていないので、これに参加することは許されないと考えている。

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自衛隊の海外派兵・日米安保条約等の問題に関する質問に対する答弁書 昭和55年10月28日


5:25

 「戦争禁止の世の中で、ね、もし戦争を起こしたら、で、誰か変な奴が出てきてね、盗賊みたいなやつが戦争起こして他国を侵略したら、全員で抑えにいきます。その全員で抑えに行くっていう、これはまさに国際秩序でしょ。国際社会でしょ。その中で名誉ある地位を占めたいと、つまり、こういうね、集団的自衛権に協力しますと、全世界的な平和構築システム、ね、これに協力しますっていうのが、日本国憲法に高らかに謳われているわけですよ。だから集団的自衛権はダメだけど、個別的自衛権はOKとか、そういうスケールの小さい話は最初から無いんです。無いんです。」との発言があるが、誤りがある。

 まず、「その中で名誉ある地位を占めたいと、つまり、こういうね、集団的自衛権に協力しますと、全世界的な平和構築システム、ね、これに協力しますっていうのが、日本国憲法に高らかに謳われているわけですよ。」との部分について検討する。

 「名誉ある地位を占めたい」の部分であるが、日本国憲法の前文や98条2項の「国際協調主義」とは、必ずしも国連憲章の秩序を指しているわけではないことを押さえる必要がある。

 「集団的自衛権に協力しますと、」の部分であるが、「集団的自衛権」を行使するということは、これが国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使することを意味することから、実質的には「武力の行使」が行われることとなる。しかし、憲法9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しており、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」しか許していない。これにより日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできないため、日本国憲法は「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことを前提とするものとはなっていない。そのため、「集団的自衛権に協力しますよ」「これに協力します」という部分の意味について、日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはできないため、誤りとなる。これにより、「日本国憲法に高らかに謳われているわけですよ。」の部分についても、日本国憲法はそのように謳っていない。

 「だから集団的自衛権はダメだけど、個別的自衛権はOKとか、そういうスケールの小さい話は最初から無いんです。」との部分であるが、確かに日本国は国際法上の主権国家として認められていることから、「個別的自衛権」だけでなく、「集団的自衛権」についても適用を受ける地位を有している。その意味では、国際法上において「集団的自衛権はダメだけど、個別的自衛権はOKとか」いう区別が存在するわけではない。しかし、憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する結果として、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことはあり得る。


【参考】第13回国会 衆議院 外務委員会 第17号 昭和27年4月2日(発言番号95)

【参考】第13回国会 衆議院 外務委員会 第17号 昭和27年4月2日(発言番号105)

【参考】第63回国会 参議院 予算委員会 第11号 昭和45年3月31日


5:58

 「だから、砂川事件の判決も変な少数意見に注目してね、えー、新聞がね、あの判決の意図を捻じ曲げてますけど。あれを出したね、えー、まあ、あのー、えーっと、最高裁長官ね。彼もともと国際司法裁判所の判事をやってたんで、そういう常識頭入ってますから、ね。だから、そのまあ、国際秩序、ね。国際秩序守るための、そのまあ、戦争禁止令と、ね、それから破った奴に対する集団制裁ですよ、ね。この仕組みが頭に入ってて、ね。で、その延長線上で結ばれたのが日米安保条約なわけじゃないですか。でしょ。でしょ。その日米安保条約に基づいて地位協定があって、基地があるわけだから、それは合憲に決まってんですよ。何を言っているんだお前は、っていう話ですよね。」との発言があるが、認識を整理する必要がある。

 砂川判決は米軍の駐留について法的判断を行っていないため、米軍の駐留について合憲であるとは示していない。砂川判決については自衛隊に関する憲法適合性を判断しておらず、自衛隊が合憲であるとも述べていない。

 また、日米安保条約において国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有することが確認されたとしても、各国の統治権の『権限』の範囲は各国の憲法によって正当化されている範囲に限られている。そのため、日米安保条約を根拠として米軍や自衛隊の合憲・違憲を判断することはできない。

 「その延長線上で結ばれたのが日米安保条約なんですから。」との発言もあるが、そもそも条約が憲法に違反する場合には、憲法に基づいて設立されている内閣と国会はその条約を締結することができない。そのことから、条約を締結していることを理由として米軍や自衛隊の存在の合憲・違憲を論じることはできない。


6:36

 「逆に言うと、個別だの集団だのとかやって、集団的自衛権否定するっていうことは、日本だけがその国際秩序を否定するんですかっていう話になっちゃいます、ね。」との発言があるが、誤りである。

 国際法上日本国も「個別的自衛権」に限らず、「集団的自衛権」の適用を受ける地位も有している。また、憲法上も「自衛権」そのものを否定する趣旨の規定は存在しておらず、論者は「集団的自衛権否定するっていうこと」と述べているが、「集団的自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有することについても否定していない。そのため、論者は「日本だけがその国際秩序を否定するんですかっていう話になっちゃいます」としているが、日本国憲法は国際秩序を否定しているわけではない。

 しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が制約されることによって、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は行うことができない。この過程を押さえる必要がある。


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○政府特別補佐人(秋山收君)

(略)

 それで、憲法、確かに憲法九条は世界でも比較的類の少ない規定であろうと思いますが、我が国ももちろん国連の加盟国でございまして、国連の定めるところに従って国際平和に貢献することは当然でございますが、他方、憲法がございますので、武力の行使をもってこれに参加することは、我が国が攻撃をされている事態を除けばできないというのが国連憲章と憲法とを整合的に解したところの結論であろうと考えております。

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第156回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成15年3月14日


9:04

 「条約よりも憲法が優越するんだみたいな、危険な議論を彼らは言っているわけですよね。国際秩序があっての日本なんですよ。で、その関係がちゃんと憲法に書いてあるから、そこをしっかりリンクして読めっていうのが、この篠田先生の本で、実際にそういう風に読むとね、スラスラ分かります。はい。」との発言があるが、認識を整理する必要がある。

 「条約よりも憲法が優越するんだみたいな、危険な議論を」との部分であるが、通常は憲法優位説であり、条約が憲法に優越することはない。もし条約が優位するのであれば、他国との条約締結によって憲法改正を行うことが可能となってしまうため、法解釈として妥当でないからである。

 また、「国際秩序があっての日本なんですよ。」との部分についても、日本国は独立した主権国家であり、国際法の下部組織として位置付けられているわけではないため、このような認識は法的には誤りである。

 「で、その関係がちゃんと憲法に書いてあるから、」との部分については、憲法前文と98条2項の規定は「国際協調主義」であって、日本国憲法を国連憲章に従属させる旨を示したものではない。

 

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○政府委員(大出峻郎君)

(略)

 我が国は、憲法の平和主義、国際協調主義の理念を踏まえて国連に加盟し、国連憲章には集団的安全保障の枠組みが定められていることは御承知のとおりであります。

 したがいまして、我が国としては最高法規である憲法に反しない範囲内で憲法第九十八条第二項に従い国連憲章上の責務を果たしていくことになりますが、もとより集団的安全保障に係る措置のうち憲法第九条によって禁じられている武力の行使または武力による威嚇に当たる行為については、我が国としてこれを行うことが許されないのは当然のことであります。

(略)

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第129回国会 参議院 予算委員会 第13号 平成6年6月13日


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○津野政府特別補佐人 御質問の点は、従来から国連の行動とのいろいろな関係で御議論があったところでございますけれども、従来から我が国、これは国連軍一般にも言えることですが、我が国は憲法の平和主義、国際協調主義の理念を踏まえて国連に加盟しているわけであります。

 我が国としては、最高法規である憲法に反しない範囲内で、憲法九十八条二項に従って国連憲章上の責務を果たしていくということになるわけでありますけれども、憲法九条によって禁じられている武力の行使あるいは武力による威嚇というようなものは、そういうものに当たる行為につきましては、我が国としてこれは許されないというのは当然のことであります。

(略)

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第153回国会 衆議院 安全保障委員会 第4号 平成13年11月27日


9:49

 「国際秩序が助けに来るまでは自分で守ってね、っていうそういうルールなんですから、ね。これまさに集団的自衛権の中で認められた、まあ、その、まあ、個別的っつったらなんですけどね。日本の持つ自衛力なんです。だから自衛隊で合ってるんです、正解なんです。」との発言があるが、混乱が見られる。

 国際法上で「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の適用を受ける地位を有することと、日本国憲法の下で日本国の統治権の『権限』が「自衛力」としての「自衛隊」を保持できるか否かは別問題である。そのため、論者が国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有することを根拠として、「自衛力」としての「自衛隊」の保持の可否を論じようとしている点で誤りである。

 




〇 細谷雄一


【動画】第6回憲法調査会「ナショナリズムに基づく平和主義から  リベラルな国際秩序に準拠した9条へ」 2020/11/13


19:30からのスライド)

 「したがって、集団安全保障や集団的自衛権という、国際協調主義の精神のなかに日本国憲法第9条を埋め込む必要があった。」との記載があるが、誤りである。

 まず、憲法の言う「国際協調主義」とは、憲法の前文と98条2項に定められている。そのため、国連憲章に定められた「集団安全保障や集団的自衛権」のことを「国際協調主義」と呼んでいるわけではない。また、「国際協調主義の精神のなかに日本国憲法第9条を埋め込む必要があった。」との部分であるが、「国際協調主義」を定めている根拠が憲法なのであり、憲法規定である9条をさらに憲法の中に「埋め込む」ことはできない。


22:08

 「で、そのような国際協調主義の精神というものを基礎として日本国憲法というものができたのにもかかわらず、まあ、集団安全保障や集団的自衛権を悪と考えるのであれば、それはそもそもの20世紀の外交史っていうものを根本から読み見誤ってしまうことにもなりかねない、ということでございます。このような日本国憲法の前文には国際主義的な精神っていうものが包摂されていて、当然ながらそれをつくる指導者の人たちもそこにそういう思いを込めたわけであります。ところがその部分が見事に抜け落ちてしまった現在の憲法9条というものは、私はもう亡骸のような、本来の精神が失われたものである、という風に考えております。」との発言があるが、前提認識を整理する必要がある。


 まず、「そのような国際協調主義の精神というものを基礎として日本国憲法というものができたのにもかかわらず、まあ、集団安全保障や集団的自衛権を悪と考えるのであれば、」の部分であるが、「国際協調主義」が定められているのは憲法前文と98条2項であるが、これは国連憲章そのものを指すものではないし、国連憲章に定められた「集団安全保障や集団的自衛権」とも直接的な関係はない。


 次に、「集団安全保障や集団的自衛権を悪と考えるのであれば、」との部分であるが、法学的には「善」であるか「悪」であるかという価値判断を行うことはできないため、ここでは論じない。


 「このような日本国憲法の前文には国際主義的な精神っていうものが包摂されていて、」との部分であるが、憲法前文に記載されているのは「国際協調主義」であり、通常「国際主義」とは呼ばれていない。


 「ところがその部分が見事に抜け落ちてしまった現在の憲法9条というものは、私はもう亡骸のような、本来の精神が失われたものである、という風に考えております。」との部分であるが、9条は憲法規定であり、日本国の統治権の『権限』に対して制約を課す規定である。そのため、論者の言うような国連憲章の「集団安全保障や集団的自衛権」に関する規定とは法体系が異なるし、法的効力においても直接的な影響はない。そのため、法的効力において何も「抜け落ちて」いることはなく、「亡骸のような、本来の精神が失われた」などと表現されるような形で法的効力が損なわれていることもない。


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政府委員(角田禮次郎君) 憲法には、前文にもやはり自国のことのみに専念してはならないというような表現がございますように、決して日本だけではなくて、あくまで国際協調主義の理念というのも憲法の重要な基本原則になっていると思います。しかしながら、そのことは直ちにわが国が集団的自衛権の行使あるいは武力行使によって他国を救うということにはつながらないというのが憲法の考え方であろうと思います。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

政府委員(角田禮次郎君) 先ほども申し上げましたように、前文では平和主義及び国際協調主義という憲法の理想を高く掲げるとともに、その理想が実現されることを全国民がみんなでやろうと、そういうことで誓っているわけであります。対等の立場ではないというふうに言われましたけれども、日本国民は一つの選択として憲法を通じて、その対等の立場に立つことを、武力的な手段あるいはそれに準ずるようなものではなくて、あくまで平和的な手段によってやろうと、こういう選択を憲法を通じてやったものだと思います。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

政府委員(角田禮次郎君) あえて金ということだけではないと思いますが、要するに武力による方法以外によって世界の平和に貢献をして、そしてそれによってわが国の地位を世界において認めてもらう、そのことが各国と対等になると、こういう論理であると思います。

…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

政府委員(角田禮次郎君) 先ほど来申し上げたことを繰り返すようになりますが、要するに、憲法は平和主義あるいは国際協調主義というものを高い理想として掲げて、それを実現するための方策として、軍事的な手段以外にいろいろな方法によってそういうものを実現する、それによって国際的にも名誉ある地位を占め、また、それによって国際的に信頼をされ、対等の立場を認めてもらいたい、こういう非常にむずかしい選択だとは思いますが、そういう選択を日本国民は憲法を通じて選択をし、そしてそのむずかしい困難な方策を今日まで続けてきているということが憲法の考え方であろうと思います。

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第96回国会 参議院 予算委員会 第6号 昭和57年3月12日


28:02

 朝鮮戦争の事例を挙げて「これは、あの、サンフランシスコ講和条約ができる一年前のことですから、あの、そういった意味では主権国家になる前だったわけではございますけれども、少なくとも、日本国憲法の下で、実は日本は集団安全保障に参加し、国際社会の平和の協力のために貢献している、っていうことを我々は限定的ながらも忘れてはいけないし、また、機雷艇、まあ、掃海艇によってでですね、機雷除去をするときには、戦死者が出ているということを我々は忘れてはいけない。」との発言があるが、誤りがある。

 まず、「実は日本は集団安全保障に参加し、」との部分であるが、現在の国連憲章の下において正規の国連軍が創設されたことはない。そのため、正規の国連軍を組織する形で「集団安全保障」が行われたかのような認識であれば誤りと考える。

 また、日本国が「国際社会の平和の協力のために貢献している」としても、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を伴う形で活動を行った事実はない。

 そのため、論者は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を伴う措置が行われたかのような前提で論じようとしているのであれば、誤りである。


第19回国会 衆議院 外務委員会 第27号 昭和29年3月27日


40:46

 「つまりは、パリ不戦条約に調印し、また国連憲章に調印している国にとっては、憲法9条は必要ないんです。この場合憲法9条1項ですけれども。つまりは、憲法9条1項というものは既にパリ不戦条約や国連憲章に書かれてますから、だから他国の憲法には書かれてないんですね。」との発言があるが、パリ不戦条約が機能しなかったことは論者の述べている通りである(35:07)。また、国際法においては国際司法裁判所等で法違反が認定されたとしても、その法違反を是正するための実力手段が担保されていないことから、その法的効力の実効性が弱いものである。そのため、自国の憲法上の規定として「戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」等を制約することは意味があると考えられる。

 「だから他国の憲法には書かれてないんですね。」との発言があるが、「侵略戦争」を禁ずる旨が記載された他国の憲法は多くあり、論者がなぜ「他国の憲法には書かれてない」と述べているのかよく分からない。


44:07

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 1928年のこれはあの、チャールズ・ケーデンスっていうまあ、あの、GHQの民政局長で、この9条の起草する中心的な人物だったわけですけれども、彼はこう述べてます。「1928年不戦条約が成立したとき、私はハーバード大学・ロースクールに在籍していました。それゆえマッカーサー・ノートにあった『紛争解決手段としての戦争放棄』、(これは憲法の9条の草案ということですね、)と、『自己の安全を保持するための手段としての戦争放棄』の違いを理解していました。」

 つまりは、ケーディスがこの条文を作るときに、あくまでも自衛戦争を認めた上での戦争放棄という、まあ、パリ不戦条約の理念に則った形での、条文を作ったわけですね。

 ですから、日本国憲法9条が自衛戦争も否定しているというのは、まあ、吉田茂が、あの、首相として国会でそう答弁した、それは間違いですね。少なくともGHQの中で起草された時には、パリ不戦条約に則って、それ作ったんですから、自衛戦争は、これは認められるという考えです。

 自己の安全を保持するための戦争は、これは認めると。どの国も自己保存の権利は持っています。日本国も当然、自己保存の権利として自己の安全を保存するための手段としての戦争は認められると考えたんです。武力による威嚇又は武力の行使の放棄を加えたのは、1945年にできたばかりの国連憲章に同様の文言があったからです。

 つまり、憲法9条というものが、パリ不戦条約と国連憲章2条4項を参考にしてケーデンスが起草したっていうことが、このことからも明確に分かるわけですから。そう考えますと、憲法9条の理念っていうものを、我々はそういった国際政治の中で理解しなければいけない。

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 上記の発言の「ですから、日本国憲法9条が自衛戦争も否定しているというのは、まあ、吉田茂が、あの、首相として国会でそう答弁した、それは間違いですね。」との部分が誤りである。

 まず、ここで論者がケーディスの発言として取り上げているのは、9条1項の部分である。厳密にはマッカーサー・ノートと全く同じ内容というわけではないが9条1項に関するものである。

 一方、吉田茂や政府の憲法解釈では、9条1項は「侵略戦争」を放棄しており、未だ「自衛戦争」は可能であるが、9条2項後段の「交戦権」が禁じられる結果として、9条の下では「自衛戦争」も否定されると解釈している。

 そのため、論者が9条1項の解釈だけを取り上げて、吉田茂の9条2項を含めた9条解釈を否定することは誤りであると考えられる。また、先ほども述べたように、マッカーサー・ノートと、憲法に条文化された9条では、厳密には異なる内容であることに注意する必要がある。


 「少なくともGHQの中で起草された時には、パリ不戦条約に則って、それ作ったんですから、自衛戦争は、これは認められるという考えです。」との部分であるが、9条1項が「パリ不戦条約」に則って作られていることから「侵略戦争」を放棄しているが、未だ「自衛戦争」は放棄されていないと解することは可能である。しかし、9条2項は「パリ不戦条約」に則って作られたものとは異なっているため、9条2項を含めた解釈において「自衛戦争」が認められないとしても不思議ではない。


 「自己の安全を保持するための戦争は、これは認めると。」との部分であるが、政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内での「武力の行使」(自衛行動)は可能であると解しているが、「戦争」については認められていないとしている。


 「どの国も自己保存の権利は持っています。」との部分であるが、国際法上の『権利』としての「自衛権」を指しているのであれば、それは国家承認を受けることによって国際法上の地位を持っているだけである。そのため、国際法上の地位を理由として、国家の統治権の中に新たな『権限』が発生する性質ではないことに注意する必要がある。


 「日本国も当然、自己保存の権利として自己の安全を保存するための手段としての戦争は認められると考えたんです。」との記載があるが、論者の独自の解釈である。日本国は憲法9条を有しており、政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」(自衛行動)は可能であるが、「戦争」は認められないとしている。そのため、「認められると考えたんです。」と結論付けようとしている部分は論者の独自の解釈である。


 「そう考えますと、憲法9条の理念っていうものを、我々はそういった国際政治の中で理解しなければいけない。」との部分であるが、認識を整理する必要がある。

 まず、「憲法9条の理念」の部分であるが、憲法9条は前文の「平和主義」の理念に従って解釈する必要がある。

 次に、憲法9条は日本国憲法上の規定であり、国際法とは法体系が異なるし、法的効力も連動する関係にない。そのため、9条1項が起草される段階の「国際政治」を理解したとしても、法解釈においては日本独自の法解釈を行う必要がある。そのため、論者が9条解釈の中に国際法上の基準を持ち込もうとしていたり、9条の法的効力が国際法と連動関係にあるかのように解釈しようとするのであれば、誤った解釈である。


52:43からのスライド)

 「だとすれば、憲法9条の理念は、『国際紛争を解決する手段』としての『戦争放棄』と、自衛的措置の容認という、パリ不戦条約や国連憲章で描かれているような国際的な規範を基礎に考える必要がある。」との記載があるが、法解釈としては誤りである。

 まず、「憲法9条の理念」の部分であるが、憲法9条は前文の「平和主義」の理念に従って解釈する必要がある。

 次に、「『国際紛争を解決する手段』としての『戦争放棄』」の部分であるが、9条1項は「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を放棄している。また、9条2項前段では「陸海空軍その他の戦力」を、2項後段では「交戦権」を否定していることを忘れてはならない。

 「自衛的措置の容認」の部分であるが、砂川判決によれば「自衛のための措置」の内容として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」が許容されている。しかし、砂川判決では日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」(自衛行動)は可能であると解釈している。

 「パリ不戦条約や国連憲章で描かれているような国際的な規範」との部分であるが、「パリ不戦条約」の下では「自衛権」が認められており、国連憲章の下においては「個別的自衛権」や「集団的自衛権」、「集団安全保障」が認められている。しかし、9条1項が「パリ不戦条約」と同様の意味であると解したとしても、9条2項を有する日本国憲法の下では、それ以上の制約が存在することに注意する必要がある。


54:08

 「ところが、憲法9条に基づいて、えー、例えば集団的自衛権ないしは自衛隊が活動することを否定する方々の間で、このODA、日本のODAに3倍にしよう、4倍にしようという意見はほとんど私は聞いたことがありません。」との発言があるが、「否定する方々」の中には政策論上の不要性や不当性を主張する者と、法律論上の違憲・違法を主張する者がいると考えられる。政策論上の主張やその当否についてはここでは論じないが、法律論上は「集団的自衛権」を行使する形で「武力の行使」を行うことや、そのための実力組織については、9条に抵触して違憲となる。「ODA」については、政策論上の問題であるため、ここでは論じない。


55:34からのスライド)

 「・国際主義的な精神が埋め込まれ、幣原喜重郎、吉田茂、芦田均というような国際主義者たちによって創られた日本国憲法は、しかしながらその後国際主義的な精神を失い、利己主義的で、自国中心主義的な安全保障観によって取って代わられていった。」との記載があるが、法学的に突き詰めれば誤りである。

 まず、日本国憲法は前文において「国際協調主義」の精神が示されている。これは憲法制定時から「その後」の現在においてまで変わらない。そのため、「日本国憲法は、」「国際主義的な精神を失い」のように、日本国憲法の法的効力そのものから「国際協調主義」(論者の言う国際主義)の精神が失われたかのように考えることはできない。そのため、国内世論の中において「利己主義的で、自国中心主義的な安全保障観」が広まったとしても、日本国憲法の「国際協調主義」の精神そのものは何ら変更はなく、「取って代わられていった。」という事実はない。


(55:34からのスライド)

 「そのためには、加盟各国が個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障という手段を組み合わせて、戦争を未然に防ぎ、平和を維持することが期待されている。日本が、そのような責任を果たす意思と能力を有しているかが問われる。」との記載があるが、法学的な観点から整理する。

 まず、国連憲章の下において、国連憲章2条4項の「武力の行使」の中には、国際法上の「戦争」の意味が含まれている。そのため、論者は「戦争を未然に防ぎ、」と論じようとしているが、国連憲章においては「武力による威嚇又は武力の行使」を防ごうとしているのであり、「戦争」だけを「未然に防」ごうとしているかのような論じ方は適切ではない。


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四の2及び4について

 国連憲章第二条第四項及び日米安保条約第一条の「武力の行使」とは、一般に、国家がその国際関係において行う実力の行使をいい、憲法第九条第一項の「国権の発動たる戦争」に当たるものも含まれるという点を別にすれば、四の1についてで述べたところと本質的には同一のものをいうと考える。

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「戦争」、「紛争」、「武力の行使」等の違いに関する質問に対する答弁書 平成14年2月5日

 

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○高橋(通)政府委員 ただいまの御指摘の点でございますが、それは国連憲章の規制のもとにあるということを全然度外視したお考えではないかと考えます。すなわち、旧来の国際法と申しますか、戦争する権利、また戦争が違法とされていなかった時代の問題ではないか、このように考えております。すなわち、国連憲章のもとでは、すべての戦争そのものの観念自体は現在使用されていないわけでございますし、すべて、武力の行使ということで規制されているわけでございます。そこで、先ほどの御指摘の点でございますが、どこかの地域で米国とある国とが武力抗争が起きまして、そこで宣戦布告をして戦争状態が起きるといいますか、その瞬間におきまして、すでに違法と適法の武力行使というものがあるわけでございます。そしてその問題が、直ちに国連憲章に従いまして国際連合の処理する問題となるわけでございまして、従いまして、決してそこが通常の戦争状態が発生するとか、そこに基地があるからそこを攻撃するのが適法になるというようなことはあり得ない、このように考えております

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第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日

 

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○高橋(通)政府委員 ただいま御指摘の点でございますが、アメリカの憲法は、御承知の通り、国連憲章が成立した以前の憲法でございます。従いまして、その当時は、ただいま申し上げました戦争をする自由な権利がありましたし、バーグの諸条約もございました。従って、それにのっとりまして、宣戦布告の権利とか、そういう問題が扱われているわけでございます。しかし、新しい憲章のもとにおきましては、いわゆる法律的には、そのような戦争状態——実態的には武力闘争というものはございますが、それを戦争状態であるというふうには把握しなくなったわけでございます。これは国際連盟からも大体そういうふうになったわけでございます。これは私が申すまでもないことでございますが、国連憲章におきましては、戦争という観念は全然どこにも見当たらないわけでございます。すなわち、違法な武力行使と、これに対して自衛権を行使するか、または国連としてこれに対して強制措置をするか、こういう事態が新しい事態である、このように考えているわけでございます。ただ、今のアメリカの憲法云々、改正云々という点は、アメリカの憲法は国連憲章前の問題でございますから、そのような規定があると考えております。

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第34回国会 衆議院 日米安全保障条約等特別委員会 第21号 昭和35年4月20日


 また、「加盟各国が個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障という手段を組み合わせて、」との部分であるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使したり、「集団安全保障」が実施される際には、加盟国による「武力の行使」が行われることとなる。

 そのため、先ほども指摘したように、「加盟各国が個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障という手段」を採用しているのであれば、「武力の行使」が行われているのであり、国連憲章2条4項が「戦争」を含む意味で「武力の行使」を禁じたことに反するのであり、「戦争を未然に防ぎ、」との部分を満たさなくなる。

 そのため、「加盟各国が個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障という手段を組み合わせて、戦争を未然に防ぎ、」などと、「武力の行使」を伴う措置を採用しながら、「戦争を未然に防」ぐことができるかのように論じている部分は整合性がない。


 「平和を維持することが期待されている。」との部分であるが、国連憲章2条4項は「武力不行使の原則」を定めており、「武力の行使」を行わないことにより「平和を維持することが期待されている。」のであり、積極的に「個別的自衛権、集団的自衛権、集団安全保障という手段」を使うことを「平和」であるとはしていない。また、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、『義務』ではない。そのため、「期待されている。」という文言についても、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を行使しなければならないかのように論じることはできない点に注意する必要がある。

 

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○栗山政府委員 すべて前提を置きませんと非常に議論が混乱いたすと思いますが、いずれにいたしましても、委員よく御承知のとおりに、国連憲章のもとにおきまして、およそいかなるところであろうと武力を行使することは原則として禁止されておる、唯一武力行使が認められる場合は、自衛権の行使として認められる場合においてのみ武力の行使が適法なものとして認められる、こういうことでございますので、ただいま御議論になっております通峡阻止の問題も、あくまでも武力攻撃がありましてそれを排除するための国際法上の自衛権の行使の一環ということが大前提でございまして、そういう前提から逸脱した武力の行使、実力の行使というものは、海峡であれその他公海であれ、認められないということは当然のことでございます。

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第98回国会 衆議院 内閣委員会 第2号 昭和58年3月3日

 

【参考】第13回国会 衆議院 外務委員会 第17号 昭和27年4月2日(発言番号95)

 

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○西村(熊)政府委員 全然その御意見に同感でございます。国際連合に加盟するがためには、軍備を持たなければならぬというような結果になるということは、国際連合の理想、それ自体に反する考え方でございまして、再軍備と国連加盟問題とはまつたく別個の問題と、こう考えております。日本はなるほど軍備なくして国連加盟国になつております数箇国と比べては、非常に大国だと思います。大国であるがゆえに、われわれの考えから言いますれば、軍備はなくても、軍備以外の方法によつて、国連が国際の平和と安全の維持のためにとる措置に提供し得る協力は、はるかに大きい、日本の国力に比して相応の協力ができますと思いますから、日本といたしましては、大手を振つて国連加盟の申請ができるものであるし、またそうしなければならない、こう考えておる次第であります。

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第13回国会 衆議院 外務委員会 第17号 昭和27年4月2日


 「日本が、そのような責任を果たす意思と能力を有しているかが問われる。」との部分について、政策論上の当否についてはここでは論じないが、法律論上の「能力」とは、日本国の統治権の『権限』の範囲の問題である。これは、憲法9条の制約の下で行うことができる措置に限られることとなる。



(質問時間)


1:16:07

 「憲法9条1項というものは、基本的にその理念を受け継いでいるということですから、その意味では自衛のための武力の行使というものは、交戦権というものは、基本的に一貫して私は認めてきたと思っております。否定したことはないだろうと思います。」との記載があるが、誤りがある。

 政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」を認めており、それを行使するための『権限』を「自衛行動権」と呼んでいる。また、9条2項後段の「交戦権」は全て禁じられているとしている。そのため、「基本的に一貫して私は認めてきたと思っております。否定したことはないだろうと思います。」との認識は誤りである。

 

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○政府委員(高辻正巳君) 違います。それは、先ほどの御指摘にありましたように、交戦権はこれを認めないというのは、戦争を放棄するという、その戦争に見合う戦争を、現実、具体的に遂行するための手段と考えておりますので、そのような交戦権というものは、自衛権の行使に伴う自衛行動というものとは別のものであるというふうに考えておるわけです。どういうふうに違うかといえば、先ほど御説明申し上げたように、交戦権というものは、人道主義的見地からする制約以外には制約がないものである、元来。しかし自衛のための行動というのは、自衛権に見合う限度において当然に限界がある。限界があるものとないものとは本質が違う。したがって、ただいま御質疑がありましたように、交戦権を認めるならというお話がございましたが、そういう意味において交戦権は認められておらないと考えていいと思います。

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第61回国会 参議院 予算委員会 第3号 昭和44年2月21日


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○角田(禮)政府委員 限定的な意味というわけではございませんで、いわゆる交戦権というのは私どもは全面的に持っていない、その反面、自衛権に基づく実力行使の自衛行動権というものは別に持っている、こういうわけで、結果として、こちらは持ってないがこちらは持っているということで、両方比較しますと、直接戦闘をやって相手方を殺すとか、そういうことを中心として考えれば、そういうものは持っているということになるわけであります。

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第93回国会 衆議院 法務委員会 第7号 昭和55年11月26日


1:17:02

 国際法上の「自衛権」について、

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この均衡性の原則、つまりは proportionality が、1954年、5年、自衛隊を作った後に、必要最小限っていう言葉になってしまったんですね。で、 proportionality と必要最小限っていうのは違った言葉であると。で、必要最小限っていう意味が、これがあの、もちろんあの技術的な面と、一般的な、一般的な面と常識的な面と両方あると思うんですけれども、じゃあ、必要最小限の自衛権を認めるということで、じぁあ、アメリカと中国とロシアとイギリスとフランスが連合して日本に侵略してきたら、そんなことはないと思いますけれども、そのために必要な最小限の軍事力というのは、これ、とてつもない規模になるんですね。つまり、必要最小限というのは、伸縮自在な概念であって、どこまでも大きくなれる、概念なんです。で、これはまあ、もちろん、あの、戦後の日本の防衛策の中でより明確な、その範囲、どこまでを、あの、その、その、範囲とするかということで、まあ、あの、独力で侵略を阻止し、基本的には日米同盟によってアメリカの関与によって日本の国土を守るというのが戦後の日本の防衛政策の根幹ですから。つまり必要最小限というのは、アメリカの関与、同盟による関与というものを前提とした必要最小限なんですね。ですから、もしも、日米安保条約を否定するとなると、この必要最小限の自衛力っていうものが、とてつもなく大きなものになりかねない、っていうことは、お分かりいただけると思います。

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 「この均衡性の原則、つまりは proportionality が、1954年、5年、自衛隊を作った後に、必要最小限っていう言葉になってしまったんですね。」との発言があるが、誤りである。
 まず、「均衡性」は国際法上の「自衛権」の範囲の基準である。次に、政府が「必要最小限度」という文言を用いるとき、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を指す場合と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」を指す場合がある。

 国際法上の「均衡性」の基準と、憲法9条解釈の下での三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の基準は別の基準であり、「なってしまった」などという変更されたかのような事実はないし、今でも全く同じ基準で別々に利用されている。


国際法上の「自衛権」の基準


━━━━【自衛権を発動できる場合の要件】━━━━━

◇ 外国から加えられた侵害が急迫不正である(違法性)

◇ 防衛行動以外に手段がなく、そのような防衛行動をとることがやむを得ない(必要性)

◇ 自衛権の発動としてとられた措置が加えられた侵害を排除するのに必要な限度のもので、つり合いがとれていなければならない(均衡性

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日本国憲法9条の下において日本国の統治権の『権限』によって発動できる「武力の行使」の基準


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること

〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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 「必要最小限っていう意味が、これがあの、もちろんあの技術的な面と、一般的な、一般的な面と常識的な面と両方あると思うんですけれども、」との部分は、一体何を言っているのかよく分からない。


 「必要最小限の自衛権を認めるということで、」との部分であるが、国際法上の「自衛権」は『権利』であり、日本国の統治権の『権限』の範囲を示すために用いられている「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準とは関係がない。そのため、「必要最小限の自衛権を認めるということで、」などと、関連性があるかのように述べていることは誤りである。


 「つまり、必要最小限というのは、伸縮自在な概念であって、どこまでも大きくなれる、概念なんです。」との発言があるが、政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んでいるのは三要件(旧)の基準であり、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため」の「必要最小限度(第三要件)」の範囲のことを指す。確かにこれを達成するための実力組織の規模については論者の言う「伸縮自在な概念」となっており、政府によれば「その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。」としている。ただ、「自衛のための必要最小限度」という枠組み自体は、三要件(旧)の範囲であり、この基準そのものが「伸縮自在な概念」であるわけではないことに注意する必要がある。

 

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○高辻政府委員

(略)

 現行憲法の解釈といたしまして、わが国が国権を発現してする武力の行使は、他国からの急迫不正の侵害があり、わが国に武力攻撃が加えられ、わが国民の生存と安全が危うくされる場合における自国の防衛の正当な目的を達成する限度にとどまるものでなければ、これは憲法の許容するところではない、憲法に違反する。しかしその限度にとどまるものであれば憲法が許容しないいわれはないというのが従来の考え方であったわけでございます。そこで、それが基本になりまして、わが国が保有する兵器につきましても、それが核兵器であろうとなかろうと、通常兵器であろうと何であろうと、いま申した基準に照らして判断されるべきものであるというのが基本的な考え方でございます。純粋の法理として申し上げるわけでございますが、わが国の生存、国民の生存と安全を保持するという正当な目的を達成する限度をこえる兵器は、わが憲法がその保持を禁止するものと考えるべきであるし、これが攻撃的というようなことばで出ておったものと私は思いますが、わが国民の生存と安全を保持するという正当な目的を達成する限度をこえることがない兵器は、わが憲法がその保持を禁止するものとは考えられないというのが、純粋の理論上の問題としてあらためて申し上げれば、それがほんとうの考え方である。その場合に、一方のものを攻撃的といい、一方のものを防御的というような表現を使ったことがあるかもしれませんが、その本旨はいま申したとおりでございます。

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第61回国会 衆議院 予算委員会 第4号 昭和44年2月5日


 「つまり必要最小限というのは、アメリカの関与、同盟による関与というものを前提とした必要最小限なんですね。」との記載があるが、適切とは言えない。「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準は、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」の「必要最小限度(第三要件)」の範囲のことであり、法学的には「同盟国による関与」と直接的な関係があるわけではない。


1:18:27

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 そうすると、交戦権の話に戻りますと、一体どこまでが交戦権かということが、実は、戦後、ずーっと流動的に変わってきているんですね。で、例えば、集団的自衛権は自衛権に入らないけれど、個別的自衛権は自衛権に入る。っていうこれも当然ながら、1946年憲法をつくったときには、そんな理念はありませんでしたから。あくまでもパリ不戦条約と国連憲章っていうのは自衛権っていう言葉しかない。で、国連憲章51条では自衛権の中には個別的自衛権と集団的自衛権があると、両方あるっていうことを言っている。ということで、したがって、あの、このパリ不戦条約から流れてきているということを考えれば、基本的には自衛のための交戦権っていうものは、個別的、集団的、共に認められる。しかしながら、それは自衛の国際法上の慣習として、えー、均衡性の原理、あるいは必要最小限というところにとどめる、っていうことで、内閣法制局の解釈で、必要最小限イコール個別的自衛権ていう風で読み変えたんですよね。これは、国際法の中で常識かというともちろんそんなことはなくて、つまりは、個別か集団っていう問題と、その規模の大きいか小さいかは別問題ですから。つまり、個別的自衛権を用いて、とてつもない軍事力をもって戦争することができますから、戦前の日本は一度たりとも集団的自衛権発動したことはないですからね。基本的には個別的自衛権でずーっと侵略戦争したわけですから。そう考えると、交戦権っていうのは私は一貫して日本国憲法っていうのは、認めてきた。交戦権の範囲っていうのものは、基本的には、あー、パリ不戦条約と国連憲章に基づいているものである以上は、自衛的な措置に限定する。まあ、もう少し詳しく言うと国連憲章の場合、自衛権措置プラス集団安全保障、国連憲章7章になるわけですが、そこまでは認めてきた。だけども、それを日本の国内でどのレベルと定義するかっていうところが、ずーっと私は戦後混乱してきたんだと思います。

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 「一体どこまでが交戦権かということが、実は、戦後、ずーっと流動的に変わってきているんですね。」との発言があるが、誤りである。

 政府は「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」を実施することは「自衛行動権」の範囲であり、9条2項後段が禁じる「交戦権」には抵触しないとしている。


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○政府委員(秋山收君) 憲法第九条のもとに認められております自衛行動と申しますのは、繰り返しになりますが、いわゆる自衛力発動の三要件具体的な武力攻撃を受けていること、それからそれを排除するためにほかの適当な手段がないこと、それから発動の態様は必要最小限に限るということでございます。
 その範囲内で、それを裏づける具体的な権能として自衛行動権という概念を説明として用いているわけでございますが、伝統的な国際法上の交戦権がいかなるものを、総体的にどんなものを含んでいるか、そのメニューの中で自衛行動権として認められるものは何かということはなかなか具体的に確定することはできないわけでございまして、やはり先ほどの三要件に照らしまして認められる範囲で自衛行動権が認められると。
 したがって、典型的に申しまして交戦権には含まれるとされております相手国領土の占領、軍政の実施というようなものが含まれないということは申し上げているわけでございますが、それ以外のものがどこに境界が引かれるかということは、やはり具体的な状況に応じて判断せざるを得ない問題ではないかと考えております。
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第145回国会 参議院 外交・防衛委員会 第5号 平成11年3月15日

 

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○吉國政府委員 先ほど来、自衛権発動の三要件について、前からの法制局の答弁が、前の時代に広がったように思うというお話でございまするが、私どものほうは、自衛権の発動の三要件については、四代前の長官以来変わってないつもりでございます。しかし、その御質疑がございますので、古い答弁も調べまして、またお目にかけるようにいたしたいと思います。

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第71回国会 衆議院 内閣委員会 第32号 昭和48年6月21日


 入江俊郎(1946年-1947年) → 佐藤達夫 → 林修三 → 高辻正己 → 吉國一郎

 【参考】内閣法制局長官 Wikipedia


そのため、論者が言うような「実は、戦後、ずーっと流動的に変わってきている」などという事実はない。


 「で、例えば、集団的自衛権は自衛権に入らないけれど、個別的自衛権は自衛権に入る。っていうこれも当然ながら、1946年憲法をつくったときには、そんな理念はありませんでしたから。」との部分があるが、認識を整理する必要がある。


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○政府委員(高辻正巳君) 先ほどもお答え申し上げましたように、自衛権というのは国際法上の観念であるということを申し上げました。したがって私は、その国際法上の観念をはずして自衛権というものをかってに議論しているつもりはございません。ただし、国際法上の観念としては、個別的自衛権のほかに、集団的自衛権というようなものが認められておる。しかし、私が言う自衛権というのは、集団的自衛権のことを申しておるつもりはさらさらございませんで、いわゆる個別的自衛権、それについて申しておるつもりでございます。

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第61回国会 参議院 予算委員会 第3号 昭和44年2月21日


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 「自衛権」については、その用いられる文脈により、個別的自衛権と集団的自衛権の両者を包括する概念として用いられる場合もあれば、専ら個別的自衛権のみを指して用いられる場合もあると承知している。

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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 「このパリ不戦条約から流れてきているということを考えれば、基本的には自衛のための交戦権っていうものは、個別的、集団的、共に認められる。」との記載があるが、誤った認識である。

 まず、日本国は主権国家として認められていることから、国際法上の『権利』である「自衛権」は「個別的自衛権」に限らず「集団的自衛権」についても適用を受ける地位を有している。しかし、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については9条の制約に服することとなる。論者はこの過程を理解できておらず、国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠として国家の統治権の中に新たな『権限』が発生すると考えている点に誤りがある。

 また、政府は「自衛のための交戦権」という表現は用いておらず、9条2項後段のいう「交戦権」はすべて禁じられているとしている。政府は9条2項後段の「交戦権」に抵触しない範囲を「自衛行動権」と呼んでおり、具体的な限度は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であるとしている。これは日本国の統治権の『権限』の中の問題であることから、国際法上の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは関係がなく、「基本的には自衛のための交戦権っていうものは、個別的、集団的、共に認められる。」などと、関係があるかのように論じることはできず、誤りである。


 「しかしながら、それは自衛の国際法上の慣習として、えー、均衡性の原理、あるいは必要最小限というところにとどめる、っていうことで、内閣法制局の解釈で、必要最小限イコール個別的自衛権ていう風で読み変えたんですよね。」との発言があるが、まったく誤りである。

 まず、国際法上の「自衛権」に関する「均衡性」の基準と、憲法解釈上の「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準や、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の基準はそれぞれ別の基準であり、関係がない。関係があるかのように論じている点で誤りである。

 次に、「内閣法制局の解釈で、必要最小限イコール個別的自衛権ていう風で読み変えたんですよね。」の部分であるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)には、第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の規範があることから、これを満たす場合の「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で言えば「個別的自衛権」に該当する部分であるというだけであり、「必要最小限イコール個別的自衛権ていう風で読み変えた」などという事実はない。論者は内閣法制局の解釈を批判しようとしているが、論者の理解が誤っている。


 戦前について、「基本的には個別的自衛権でずーっと侵略戦争したわけですから。」との部分であるが、戦前は国連憲章が存在しないことから、「個別的自衛権」という区分がなかったことに注意する必要がある。


 戦前の話をしていたのにもかかわらず、「そう考えると、交戦権っていうのは私は一貫して日本国憲法っていうのは、認めてきた。」と、日本国憲法の下での戦後の話をしており、話が飛んでいる。また、日本国憲法は9条2項後段で「交戦権」を禁じており、政府解釈も「交戦権」を禁じていると解しているのであるから、「一貫して」「認めてきた。」などという事実はなく、誤りである。


 「交戦権の範囲っていうのものは、基本的には、あー、パリ不戦条約と国連憲章に基づいているものである以上は、自衛的な措置に限定する。」との部分であるが、政府は9条2項後段の禁じる「交戦権」はすべて行使することはできないとしているため、行使できることを前提としている論旨は誤りである。

 また、論者の言う「自衛的な措置」にあたるものとして、政府は「交戦権」とは異なる「自衛行動権」の文言を用いている。

 「交戦権の範囲っていうのものは、基本的には、あー、パリ不戦条約と国連憲章に基づいているものである以上は、」の部分についても、9条1項が「パリ不戦条約」と「国連憲章」を参考とした文言が見られるとしても、9条2項後段の「交戦権」とは直接的に関係しているわけではなく、「交戦権」が「パリ不戦条約と国連憲章に基づいている」などという主張は整合性がない。


 「まあ、もう少し詳しく言うと国連憲章の場合、自衛権措置プラス集団安全保障、国連憲章7章になるわけですが、そこまでは認めてきた。だけども、それを日本の国内でどのレベルと定義するかっていうところが、ずーっと私は戦後混乱してきたんだと思います。」との記載があるが、論者の誤解である。

 まず、9条の下で「武力の行使」を行うことができるのは、常に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られている。そのため、たとえ国連憲章において「個別的自衛権」や「集団的自衛権」、「集団安全保障」を行いうる場合でも、それが「武力の行使」を伴うのであればこの三要件(旧)の範囲内に限られる。「日本の国内でどのレベルと定義するか」の問題は、三要件(旧)の範囲で決着しており、「ずーっと私は戦後混乱してきた」との認識は、単に論者が混乱しているだけである。


1:32:02

 「基本的にはその、国際法上の自衛の、あの原則っていうのは、その攻撃を受けた規模に比例した対応しかできない。っていうこれ、措置、自衛的措置の均衡性の話なんですよね。ですから、それが日本の場合は措置ではなくて、自衛力の規模、能力、大きさっていう風に転換してしまって、で、そこでまた、あの、ややねじれが、私はあの、生じてしまっていると思うんですけれども。つまり、日本としてどの程度の規模の自衛力を持つかというのは、これはあの、国際法上、規定があるわけではない。あくまでも、日本は、国民的な意思で決めればいいことである。」との発言があるが、誤った理解である。

 「国際法上の自衛の、あの原則っていうのは、その攻撃を受けた規模に比例した対応しかできない。っていうこれ、措置、自衛的措置の均衡性の話なんですよね。ですから、それが日本の場合は措置ではなくて、自衛力の規模、能力、大きさっていう風に転換してしまって、」との部分であるが、「自衛権」に関する「均衡性」の問題は国際法上の問題であり、「自衛力の規模、能力、大きさ」の問題は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲の実力組織をどのように整備・構成するかの問題である。これらは全く別々の異なる概念であり、政府も別々の問題として取り扱っており、「転換してしまって、」などという事実はない。単に論者の認識の中で混乱しているだけである。

 「ややねじれが、私はあの、生じてしまっていると思うんですけれども。」との部分は、論者の理解が不足しているだけである。

 「つまり、日本としてどの程度の規模の自衛力を持つかというのは、これはあの、国際法上、規定があるわけではない。あくまでも、日本は、国民的な意思で決めればいいことである。」との部分であるが、確かに実力の規模は国際法上に規定があるわけではない。ただ、保持できる「自衛力」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られ、その規模は、政府によれば「その具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面があり、毎年度の予算などの審議を通じて国民の代表者である国会において判断されます。」としている。





〇 政治学 加藤秀治郎


【動画】第2回憲法調査会「国を創る、憲法を創る、新憲法草案」 2020/10/16


14:44より)

18:27より)◎

 「もう一つは、安保法制の時に問題となった集団的自衛権でありますが、ベトナム戦争の頃、私は、学生時代がちょうどそれなんですが、この頃、いわゆる活動家の学生が何て言ったかというと、沖縄の基地からですね、ベトナムに向けて戦闘機が飛んでいる。お前たちは戦争に加担しているんだ。集団的自衛権を認めていいのか、ということをしている。憲法学者は当時何と言ったかというと、基地の提供もそういうわけだから、アメリカの権利に、の行使に日本も関与しているんだ、ということであります。それがいつの間にかですね、実力をもってするもののみが集団的自衛権で、基地の提供は集団的自衛権にあたらないというですね、ことであります。解釈変更が良いのか悪いのかっていうのは、憲法学者が大好きでやっているんですね。自分たちも解釈変更をやっているんですが、えー、ちょっとおかしいんじゃないか、ということです。」

 との発言があるが、認識を整理する必要がある。


 恐らく論者が言いたいであろう部分は、下記の政府答弁であると思われる。


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○政府委員(林修三君) 集団的自衛権という言葉についても、いろいろ内容について、これを含む範囲においてなお必ずしも説が一致しておらないように思います。御承知の通りに、国連憲章では、集団的自衛権を固有の権利として各独立国に認めておるわけです。あるいは平和条約におきましても、日ソ共同宣言におきましても、あるいは今度の安保条約におきましても、日本がいわゆる集団的自衛権を持つことをはっきり書いてあるわけです。そういう意味において国際法上にわが国が集団的、個別的の自衛権を持つことは明らかだと思います。ただ、日本憲法に照らしてみました場合に、いわゆる集団的自衛権という名のもとに理解されることはいろいろあるわけでございますが、その中で一番問題になりますのは、つまり他の外国、自分の国と歴史的あるいは民族的あるいは地理的に密接な関係のある他の外国が武力攻撃を受けた場合に、それを守るために、たとえば外国へまで行ってそれを防衛する、こういうことがいわゆる集団的自衛権の内容として特に強く理解されておる。この点は日本の憲法では、そういうふうに外国まで出て行って外国を守るということは、日本の憲法ではやはり認められていないのじゃないか、かように考えるわけでございます。そういう意味の集団的自衛権、これは日本の憲法上はないのではないか、さように考えるわけでございます。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

○政府委員(林修三君) これはいろいろの内容として考えられるわけでございますが、たとえば現在の安保条約におきまして、米国に対して施設区域を提供いたしております。あるいは米国と他の国、米国が他の国の侵略を受けた場合に、これに対してあるいは経済的な援助を与えるというようなこと、こういうことを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、こういうものを私は日本の憲法は否定しておるものとは考えません。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(岸信介君) 今法制局長官もお答え申し上げましたように、いわゆる集団的自衛権というものの本体として考えられておる締約国や、特別に密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその団を防衛するという意味における私は集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない、かように考えております。

……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合これを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。

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第34回国会 参議院 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日


 ただ、上記の「林修三内閣法制局長官」の答弁は、下記の平成16年の答弁で補正されている。


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○秋山政府特別補佐人 昭和三十五年の参議院予算委員会におきまして、法制局長官が、例えば日米安保条約に基づく米国に対する施設・区域の提供、あるいは侵略を受けた他国に対する経済的援助の実施といったような武力の行使に当たらない行為について、こういうものを集団的自衛権というような言葉で理解すれば、そういうものは私は日本の憲法の否定するものとは考えませんという趣旨の答弁をしたことがございます。
 この答弁は、当時の状況において、集団的自衛権という言葉の意味につきまして、これは御承知のように国連憲章において初めて登場した言葉でございまして、その言葉に多様な理解の仕方が当時は見られたことを前提といたしまして、御指摘のような行為につきまして、そういうものを集団的自衛権という言葉で理解すれば、そういうものを私は日本の憲法は否定しているとは考えませんと述べたにとどまるものと考えております。
 現在では、集団的自衛権とは実力の行使に係る概念であるという考え方が一般に定着しているものと承知しております。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 論者は、「解釈変更が良いのか悪いのかっていうのは、憲法学者が大好きでやっているんですね。自分たちも解釈変更をやっているんですが、えー、ちょっとおかしいんじゃないか、ということです。」との発言があるが、批判するべき対象は憲法学者ではなく、理解が十分でなかった時期の政府の答弁であると考えられる。


1:12:29より)

1:16:12より)◎

 「それで、混乱は、いろいろあるんですが、自衛権を『個別』と『集団』をですね、いちいち細かく分けて議論しているのは、まあ、日本の文献だけじゃないでしょうかね。他でしたら、守るのは、あの、自分であれ、正当防衛で言ったら、自分を守る、家族を守る、こんなんで分け隔てないのでですね。それを個別か、集団かというようなことを分ける必要はない。それで、そんなんで私は、例えば、あの、集団自衛の方、共同防衛だとかですね、訳語を変えるっていうのが一つだと思いますが、まあ、たぶん言っても変わらないだろうと、思っています。」

 との発言があるが、認識に誤りがある。


 まず、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の区分である。

 国家が「武力の行使」を行う場合、この違法性阻却事由の『権利』を得られない場合、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して違法となり、国際法上の責任を問われることとなる。

 また、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」とでは、必須の要件が異なっていることから、これは国際連合に加盟するどの国家であっても厳密に区別して理解されている。

 そのため、論者が「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別しているのは日本国だけであるかのような認識は誤りである。


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 国際法上、一般に、「個別的自衛権」とは、自国に対する武力攻撃を実力をもって阻止する権利をいい、他方、「集団的自衛権」とは、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する権利をいうと解されている。
 このように、両者は、自国に対し発生した武力攻撃に対処するものであるかどうかという点において、明確に区別されるものであると考えている。
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内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日


 次に、憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「武力の行使」等を制約する規定である。

 「武力の行使」が国際法上で国連憲章51条の「個別的自衛権」か「集団的自衛権」のどの区分で違法性が阻却されるかの問題は、9条の制約の下で日本国の統治権の『権力・権限・権能』が行使できる「武力の行使」の範囲が決せられた後に現れる付随的な問題でしかない。


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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日

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○大森政府委員 集団的自衛権に当たるから認められないとか、集団的自衛権に当たらないのだから認められるという、集団的自衛権を核にした議論がよくなされるわけでございますけれども、我が国の問題に関する限りは、やはり集団的自衛権の概念を解するのではなくて、我が国を防衛するために必要最小限度の行動に当たるかどうかということが基準になるはずでございます。
 したがいまして、冒頭にも申し上げましたとおり、憲法九条は、国際紛争を解決する手段としては武力による威嚇または武力の行使等を禁止しているけれども、我が国を防衛するために必要最小限度の実力行動は禁止していない。したがって、問題となる行為が我が国を防衛するために必要最小限度の行為であるかどうかということによって事が決せられるべきであるというふうに考える次第でございます。(岡田委員「持っているけれども行使できないというのは」と呼ぶ)国際法上は集団的自衛権を主権国家であるから保有しているのである、これは国際法上そのように解せられておりますから、従前も政府の答弁としてもそのように答弁してきているわけでございますが、やはりそれに対しまして、我が国は最高法規としての憲法によりまして、我が国の行動を縛っているわけでございます、言葉は悪いかもしれませんが。
 したがいまして、憲法九条によって、武力による威嚇または武力の行使に当たることはいたしません、やってはいけませんと。したがって、行動の面で縛っているわけでございますから、集団的自衛権の行使というのはその観点から認められない。国際法上は保有していると言えても、その行使は憲法で禁止されているんだということは、何らおかしいことでないということは従前から反論しているわけでございます。
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第142回国会 衆議院 予算委員会 第27号 平成10年3月18日
 (ここで説明されている『我が国を防衛するため必要最小限度』の意味については、当サイト『自衛のための必要最小限度』で解説している。)

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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 これにより、混乱しているのは論者の認識である。





〇 産経新聞「正論」元編集長 上島嘉郎


【動画】【憲法改正】9条をなくすと戦争が起きる?産経新聞「正論」元編集長 上島嘉郎がわかりやすく解説 2020/08/11


5:58

 「つまり、こういう時には我々は武力行使ができる、しなければならない。しかし、こういう状況では武力行使してはならない、とかいうことが、今まことにね、これは、曖昧なままいるわけ。憲法9条っていうのはそれ、めい、実は明確にしているかっていえば、全然明確にしているわけじゃないんですよ。」との発言があるが、認識を整理する必要がある。


 まず、「こういう時には我々は武力行使ができる、しなければならない。しかし、こういう状況では武力行使してはならない、とかいうことが、今まことにね、これは、曖昧なままいるわけ。」との部分であるが、従来より政府は三要件(旧)を満たす場合には「武力の行使」ができるが、それを満たさない場合には「武力の行使」をしてはならないとしていた。


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   【旧三要件】

〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)

〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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これは三要件(旧)の第一要件である「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かという明確な基準を有していたことから、論者がこれについて「曖昧なままいるわけ。」との考えているのであれば、誤った認識と思われる。


 次に、2014年7月1日閣議決定において定められた新三要件の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」の場合であるが、これは「存立危機事態」の要件の中に「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という曖昧不明確な文言が含まれている。


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   【新三要件】の〔存立危機事態〕

〇 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること

〇 これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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このような曖昧不明確な要件に基づいて「武力の行使」を発動できるとすることは、9条が政府の恣意的な判断による自国都合の「武力の行使」を制約しようとした趣旨を満たしていないため、9条に抵触して違憲となる。論者がこれについて「曖昧なままいるわけ。」と説明しているのであれば、まったくその通りである。曖昧な要件を定めたことは9条の趣旨を満たさないため、新三要件の「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


 「憲法9条っていうのはそれ、めい、実は明確にしているかっていえば、全然明確にしているわけじゃないんですよ。」との部分であるが、従来の政府解釈においては三要件(旧)を定めることによって明確にしている。



6:57
 「国家の、主権国家の権利として、戦うっていうことを制限されるのはおかしいんですよ。自然に自ら、自然権として、自ら守るっていうのは等しく認められているわけ。それを行使できないっていうことは、あり得ない話なんですね。自分が独立した人間であるならば、あるいは独立した国家であるならば。それを制限していることが、平和に繋がるんだっていう思わされていることが、いかにおかしなことかということにまず気が付いてほしい。で、いざとなれば戦う権利を持っているけれども、我々はこういう状況においてはその力を発動しない、っていう風になっていることが大事なわけですよね。」との発言があるが、前提認識に混乱が見られる。


 まず、「国家の、主権国家の権利として、戦うっていうことを制限されるのはおかしいんですよ。」との部分について、論者の「主権国家の権利」との発言から、国家承認を受けることによって国際法上の法主体である「国家」としての地位を認められることと、それによって得られる国際法上の『権利』の話をしていることになる。しかし、憲法9条はこの国際法上の『権利』そのものを制約する趣旨ではない。憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』を制約する趣旨の規定である。そのため、憲法9条によって、国際法上の「主権国家の権利として、戦うっていうことを制限される」ということはない。

 次に、国際法上は国連憲章2条4項では「武力不行使の原則」を定めており、論者の言う「国家の、主権国家の権利として、戦うっていうことを制限」している規定である。論者は「制限されるのはおかしいんですよ。」と発言しているが、国際法では「戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」を違法化する流れが確立しており、制限していることを押さえる必要がある。

 「自然に自ら、自然権として、自ら守るっていうのは等しく認められているわけ。」との部分であるが、日本国も国際法上の『権利』の適用を受ける地位は他国と同様に認められていることは確かである。ただ、国際法上の『権利』を有することと、憲法上で正当化される国家の統治権の中にその『権利』を行使するための『権力・権限・権能』が存在するか否かは別の問題である。

 そのため、「それを行使できないっていうことは、あり得ない話なんですね。」との部分については、国際法上は「行使」することができる地位を有しているが、憲法上で正当化される統治権の『権力・権限・権能』が存在しないために「行使」できない(行使する機会がない)という過程を理解すれば、あり得る話であり、「あり得ない話」としている論者はこれを理解できいない。


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○角田(禮)政府委員

(略)

 しからば、そういう自衛権を行使する手段としては、これまた憲法によっていろいろな定め方が可能であり、また、憲法の枠内で自衛権を行使する手段なりそれを裏づけるための実力としてどういうものを整備するかということは、それぞれの国の政策の問題であるという意味におきましては、渡部委員がおっしゃったとおりだと思います。

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第94回国会 衆議院 内閣委員会 第5号 昭和56年4月9日


 「いざとなれば戦う権利を持っているけれども、我々はこういう状況においてはその力を発動しない、っていう風になっていることが大事なわけですよね。」との部分であるが、国際法上の『権利』の話と、憲法上の統治権の『権力・権限・権能』の話が混在している。

 まず、「戦う権利」の部分であるが、『権利』の話であるから、国際法上の「自衛権」の話をしているものと考えられる。

 次に、「その力を発動しない」との部分であるが、国家の統治権の『権力・権限・権能』の話をしているものと思われる。

 この国際法上の『権利』の話と、憲法上の統治権の『権力・権限・権能』の話を、「けれども、」という言葉で関係があるかのように繋ぐことは正しくない。
 「我々はこういう状況においてはその力を発動しない、っていう風になっていることが大事なわけですよね。」との部分であるが、政府は従来より2014年7月1日閣議決定まで、三要件(旧)を設定し、これを満たすまでは「その力を発動しない」として「武力の行使」を制限していたことから、そういう風になっていた。

 しかし、2014年7月1日閣議決定によって新三要件の「存立危機事態」の要件については曖昧不明確な部分を含んでおり、「こういう状況」の内容が明確となっておらず、政府の恣意性を排除するための基準となるものを有していない。そのため、9条が政府の恣意的な動機による自国都合の「武力の行使」を制約しようとする趣旨を満たしておらず、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。





〇 評論家 江崎道朗


【国家の流儀】他国が使う「自衛権」を日本だけが行使できない謎…政府は憲法解釈の見直しを! 江崎道朗 2019.5.24


「第1」であるが、「いかなる戦力も認められない」とする解釈は、政府解釈である。政府は自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力」とし、「戦力」はすべて認められないと解釈しているからである。安倍首相が問題視しているのがこの説であると論じるならば、安倍首相は自身の答弁を問題視していることになる。


「第2」であるが、「9条は政治的宣言に過ぎない」として自衛隊は合憲と論じているが、論者は「自衛隊『違憲』論の根拠となっているのは、…主に4つの説がある」と論じ始めていたはずである。この「第2」については、論者の言う「4つの説」の中にカウントされていないのだろうか。


「第3」であるが、「自衛のための必要最小限度の実力」を持つことが禁じられているわけではないとの政府解釈は、2項前段のいう「戦力」とは区別された実力の話である。そのため、これを「芦田修正説」と考えて「自衛のための戦力」を保持できると考える説と見なすことはできない。
 確かに、「自衛のための必要最小限度の実力」を許容する政府見解は「自衛のための戦力」を許容する「芦田修正説」と接近しているのではないかとの疑いがあるが、政府解釈は「自衛のための必要最小限度の実力」と2項前段の「戦力」を区別している。


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○政府委員(大森政輔君)
(略)
 そういたしますと、憲法第九条第二項が「陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。」ということで、保持しないこととしている「戦力」というものは、ただいま申し上げましたような、我が国を防衛するために必要最小限度の実力以外の実力であるというふうに言えようかと思います。
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第136回国会 参議院 予算委員会 第12号 平成8年4月23日


 この区別により、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」に関しても、「武力の行使」の三要件によって制約され、他国の行使できる国際法上の「自衛権の行使」としての「武力の行使」の幅よりも狭い範囲となる。
 よって、論者の「この芦田修正を、林長官は採用したのだと思われる。」との認識は、政府答弁を見れば誤りと分かる。


 「日本自身の核武装も憲法解釈上は可能な場合もある」との認識であるが、これは2項の「戦力」に該当しない範囲、つまり「自衛のための必要最小限度(『武力の行使』の旧三要件に統制された範囲)」の範囲であれば核兵器を保有することも可能であるとするものであり、芦田修正説によって「自衛のための戦力」を保持できると解釈しているから核兵器の保有が許容されるとするものではない。


   【参考】日本が非核三原則を守り続けなければならない理由 2019.05.27

 「国連憲章や国際法において独立国家に認められた自衛権の行使、戦力の保持を、日本だけは認められないと言い出したのだ。」との認識であるが、誤りである。まず、日本国も主権を有する国家である以上、国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。国際法上は軍隊を保有することも、他国と同様に認められているのである。
 しかし、日本国は憲法上の制約によって統治権の『権力・権限・権能』を制約しているために、「武力の行使」や実力組織の保有が制約されているのである。国際法上の「自衛権の行使」としての「武力の行使」の幅が他国よりも狭くなることは、憲法上の制約による副次的なものであり、日本国のみが国際法によって何らかの制約を受けているわけではない。


 「第4」の説としているものであるが、これは「自衛隊合憲説」であり、論者が最初に提示した「自衛隊『違憲』論の根拠となっているのは、…主に4つの説がある」とは一体何だったのだろうか。


 「他の国が行使している自衛権を、なぜ日本だけが行使できないのか。」との疑問が記載されているが、日本国も国際法上は他国と同様に「自衛権」を行使することができる。そのため、「日本だけが行使できない」との認識には誤りがある。しかし、日本国は憲法上の制約によって「武力の行使」を制約しているため、「自衛権の行使」として実施される「武力の行使」が他国の行使できる幅よりも狭くなるというだけである。





〇 弁護士 高橋淳

自衛のための必要最小限度の実力行使は、そもそも憲法9条の例外?


 「自衛権はある」との記載があるが、日本国も国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有していることは確かであるが、これを基に日本国の統治権の『権限』が発生するわけではない。日本国の統治権の『権限』は国民主権原理の過程を経て成立するのであり、9条の「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については統治権の『権限』として発生していない。
 9条1項が「自衛権」という国際法上の概念を制約した規定ではなく、日本国の統治権の『権限』を発生させない旨の制約である。
 「自衛権を行使するための必要最小限の実力は、9条2項の『戦力』には該当しない」との記載があるが、解釈過程に誤りがある。まず、「自衛権」という国際法上の『権利』は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」や実力組織とは直接関係しない。政府は「自衛のための必要最小限度(旧三要件:旧第一要件を含む)」の「武力の行使」であれば9条に抵触しないと解しており、同様にこれを行使するための「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であれば9条(2項の『戦力』を含む)に抵触しないとしている。
 「自衛隊」が9条に反しないとされているのは、この「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」(旧三要件に拘束されている実力組織)の範囲内と解されているからである。

 論者は「そもそも、憲法9条により禁止されていないので、例外ということではありません。」と説明し、質問者出した憲法学者「木村草太」の「9条の例外として許容される」との説明を「誤っていると考えられます。 」と評価しているが、ここでは「自衛隊」と「武力の行使」の説明が同時に持ち出されている部分があるが、政府解釈においても「例外」の文言を用いている部分があることを理解していないと思われる。

   【参考】2 憲法第9条の趣旨についての政府見解(平成26年版 防衛白書)
 「2 憲法第9条のもとで許容される自衛の措置」の項目
 「これが、憲法第9条のもとで例外的に許容される「武力の行使」について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、」
 ただ、この点の概念整理は、憲法学者「木村草太」も意識しているようである。

   【参考】もし「自衛権」を国民投票にかけたらどうなるか? 2017年7月19日 

   【参考】自衛隊は「自衛のための最低限度の実力」  2018年1月25日





〇 弁護士 橋下徹


憲法問答 単行本 – 2018/10/20 amazon

 

 1972年(昭和47年)政府見解についての「必要最小限度」の説明であるが、「必要最小限度」の意味に混乱が見られる。まず、1972年(昭和47年)政府見解で使われている「その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」の文言は、「武力の行使」の三要件では第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応するものである。

 また、政府は「武力の行使」の三要件(旧)そのものを「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる。これは、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を含んでおり、この第一要件は1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言と対応するものである。そのため、1972年(昭和47年)政府見解そのものを指して「必要最小限度」と呼んだ場合、それは従来より政府が「自衛のための必要最小限度」と呼んできた「武力の行使」の三要件(旧)の第一要件を含む基準の「必要最小限度」であり、1972年(昭和47年)政府見解の文面の中の「必要最小限度」を指しているのであれば、それは第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の「必要最小限度」を意味する。

 この次元の異なる「必要最小限度」の使われ方を混乱し、あたかも1972年(昭和47年)政府見解の規範自体が数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているかのように考えてしまっている点に誤りがある。

 

 その他、サイバーテロに対応する自衛権概念を主張しているようであるが、サイバーテロは回線を物理的に切断すれば防御できるのであり、その措置を敢えて行わずに回線を開放したままにしている自国の設備の不備を検討するべきである。サイバーテロを理由として他国のテロリストに対して武力を用いた対応を検討する以前に、物理的に回線を遮断する措置を考えることが先である。

 また、「サイバー攻撃」を「武力攻撃」と見なせるか否かという論点が先にあるが、もし「武力攻撃」に該当するとしても、回線を物理的に切断する方法がある以上、「武力の行使」の三要件(旧)の第二要件の「これを排除するために他の適当な手段がないこと」に該当しない。よって、「サイバー攻撃」に対応する形で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことはできないと思われる。



日曜報道 THE PRIME 2020年10月18日 (番組情報

 

 (午前8:19頃より)

 「で、このね、学術団体の経緯なんですけれども、1950年、あの、要は、学術団体は戦争反対のためにしっかり声を上げる団体なんだ、っていう出発した1950年は、まだ吉田茂首相も含めてですね、自衛権完全放棄をまだ言っていたぐらいの時代ですよ。自衛隊も認めていない。憲法9条によって、その自衛権も当初日本は持っていないんだというところからスタートして、で、米ソ冷戦がはじまり自衛隊が必要になってきて、これ、憲法解釈変えたわけですよね。自衛権が必要だってい風になったのであればですよ、1950年時代が変わってきて、今は日本の国が自衛権を持つっていうことは誰もがこれほとんど認めていることなのでね、まあ、一部の人以外は。そしたら、自衛権のための研究は、これ、禁止すべきじゃないし、むしろやってもらいたいというような国民も多い中で、あの学術会議への声明文、1950年の絶対に従わない、戦争目的とする科学の研究には絶対に従わない、軍事目的のための科学研究を行わない、それをそのまま引き継ぐってことは、僕はおかしいと思います。」(下線は筆者)

 との発言があるが、誤りがある。下線部分を下記で解説する。


 吉田茂の答弁の内容について、下記で詳しく検討する必要がある。


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1946年(昭和21年)
 6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)


 7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
 「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)


 以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)(リンク P34)


国務大臣(吉田茂君)「戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。
第7回国会 衆議院 本会議 第11号 昭和25年1月23日


国務大臣(吉田茂君)「戰争放棄の趣旨に徹することは自衛権の放棄を意味しておるのではないのであります。
第7回国会 参議院 本会議 第9号 昭和25年1月23日
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 これにより、吉田茂の答弁の意味は、9条によって「自衛戦争」と「交戦権」は放棄されているが、国際法上の『権利』の区分である「自衛権」は否定されておらず、放棄していないとの趣旨であると考えられる。


    【参考】憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか 2018.09.21


 実際、従来より政府も9条は「自衛戦争」と「交戦権」を否定しているとする趣旨の答弁を行っており、これと重なっている。


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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


 また、砂川判決も9条は「自衛権」を否定したものでないとしているし、従来より政府答弁も日本国は「自衛権」の適用を受ける地位を有していると説明しており、吉田茂の答弁と一致している。


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○政府特別補佐人(津野修君) 集団的自衛権あるいは個別的自衛権についての政府解釈が一貫しておったかどうかというお尋ねでございますけれども、これは制憲議会当時あるいは日米安保改定当時、あるいは最近までを含めてでございますけれども、基本的に個別的自衛権については、憲法第九条第一項が国際紛争を解決する手段としての戦争、あるいは武力による威嚇、武力の行使を禁じているけれども、我が国が主権国として持つ固有の自衛権までも否定する趣旨のものではなくて、自衛のための必要最小限度の実力を行使することは認められているところであるというふうに、従来から一貫して政府としてこの見解をとってきているわけであります。
 御指摘の点は、吉田元総理がかつて制憲議会当時あるいはその後におきまして、多少表現ぶりとしていろんなことをおっしゃっておられる文がございますけれども、ただこの場合も、これは昭和二十六年の十月十八日に吉田元総理が明言されておりますのは、いろいろ私が当時言ったということを記憶しているのは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということは言ったけれども、自衛権を否定した、否認したというような非常識なことはないというふうに思いますということで、これは吉田元総理の場合も自衛権は否定していないということでございまして、そういうことから見まして個別的自衛権につきましては一貫して政府として憲法上否定されていない、認められているというふうに考えているところでございます。
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第151回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年3月22日


    【参考】第65回国会 衆議院 内閣委員会 第20号 昭和46年5月7日


 これにより、吉田茂の答弁から2014年7月1日閣議決定までの間に、政府の9条解釈では実質的な解釈変更はなされていないと考えられる。

 下記の答弁も押さえる必要がある。

 

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○吉國政府委員 先ほど来、自衛権発動の三要件について、前からの法制局の答弁が、前の時代に広がったように思うというお話でございまするが、私どものほうは、自衛権の発動の三要件については、四代前の長官以来変わってないつもりでございます。しかし、その御質疑がございますので、古い答弁も調べまして、またお目にかけるようにいたしたいと思います。

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第71回国会 衆議院 内閣委員会 第32号 昭和48年6月21日


 入江俊郎(1946年-1947年) → 佐藤達夫 → 林修三 → 高辻正己 → 吉國一郎

 【参考】内閣法制局長官 Wikipedia


 よって、論者の

◇ 「吉田茂首相も含めてですね、自衛権完全放棄をまだ言っていた」

◇ 「憲法9条によって、その自衛権も当初日本は持っていないんだというところからスタートして」

◇ 「これ、憲法解釈変えたわけですよね」

との発言は、すべて誤りであると考えられる。





〇 弁護士 北村晴男

 

【動画】日本を守るために 必要なのは自衛隊か 憲法9条か 2021/10/19


 ここでいう最高裁の判例とは、砂川判決のことであると思われる。

 まず、国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることと、日本国の統治権が「自衛の措置」を採ることができるかどうかは別の法体系の話である。

 論者はこれを区別できていないように思われる。


 その後、「当然ながら、自衛のための手段を講じることは許される、とすれば、侵略に対して自衛隊というものをもって、侵略を防ぐ、という、その行為も、当然許されるんだ、という風に最高裁判例に書いてあるわけです。」との発言があるが、誤りである。

 砂川判決は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を挙げているが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていない。

 また、砂川判決では「自衛隊」を保持することの可否についても何も述べていない。

 

 「自衛のための戦力と言ったらいろいろ批判もあるでしょうけれども、自衛のための戦力を持つことは当然許されるということなんですね。」との発言もある。

 しかし、砂川判決では「同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、」と述べており、「自衛のための戦力」の保持の可否についても判断していない。


 砂川事件最高裁判決について、当サイト「砂川判決に論拠はあるか」で解説している。





〇 日本政策研究センター所長 岡田邦宏


教科書は変わったか2015② 自衛権は政府見解なのか 岡田邦宏 2015/05/22


 「要するに、ほとんどの教科書は主権や自衛権に触れはするものの、それが世界各国同様にわが国に備わった固有の自衛権であることを記述せず、その大切さを語ることもない。」との記載があるが、論者は「自衛権」とは国際法上の『権利』の区分でしかなく、日本国の統治権の『権限』とは異なることを理解していないように見受けられる。
 「憲法では自衛権を教えることをあえて避けようとしてしていると言うべきだろう。」との記載があるが、憲法では「国民の権利」と「日本国の統治権の『権力・権限・権能』」しか書かれていないのであり、国際法上の『権利』については書かれていない。そのため、「憲法では」とするならば、国際法上の『権利』である「自衛権」を教えることはできない。
 「主権や自衛権の前提となるのは『国家』である。その『国家』を理解させようとする視点がすっぽり欠落していると指摘せざるを得ない。」との記載があるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』であり、確かに前提として「国家」の存在が認められる必要があるが、これは国際法上の「国家承認」などの過程によって成立するのであり、憲法上の統治権の『権限』の話とは異なる。論者が「国家」を理解させようとする前に、論者が国際法上の「国家」と憲法上の統治権(国家権力)の違いを理解する必要がある。国際法と憲法の違いに関する視点がすっぽり欠落していると指摘せざるを得ない。



やっぱりファクトが大事だ 2017/07/13


「『主権国家には自衛権がある』という確立された国際法理解は東京新聞にとって不都合なのかと感じてしまう。」との記載があるが、国際法上の『権利』として「主権国家には自衛権がある」ことと、憲法上で日本国の統治権の『権限』で「自衛のための必要最小限度の実力」を保持し、行使できるかは別問題であるから、「自衛のための必要最小限度の実力」の説明において東京新聞がここを削っても法学上は問題がない。




〇 日本経済新聞社 新聞記者 三木理恵子


戦争は国際法で防げるか 大国間の衝突は回避 2019/7/5 三木理恵子


   【参考】すべての立場を知り,公正に報道する!


 「安倍政権は2014年、自衛権発動の新3要件を決めた。従来の3要件を根拠に集団的自衛権の限定的な行使を認め、16年に安全保障関連法を施行した。自衛権の範囲は広がってきたが、それでも国際的にみれば武力行使をしにくい法体系といえる。」との記載があるが、「従来の3要件を根拠に集団的自衛権の限定的な行使を認め」との表現には正確でない部分が見られる。
 まず、「従来の3要件」とは、「我が国に対する急迫不正の侵害があること(第一要件)」「これを排除するために他の適当な手段がないこと(第二要件)」「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと(第三要件)」である。これを「根拠に」した場合、「集団的自衛権」に基づく「武力の行使」は第一要件を満たさないため行うことができない。そのため、論者の言う「従来の3要件を根拠に集団的自衛権の限定的な行使を認め」ることはできないのである。
 「国際的にみれば武力行使をしにくい法体系といえる。」との評価であるが、国際法と憲法では法分野が異なるのであり、「国際的にみれば武力行使をしにくい」としても、「武力の行使」が憲法上の規定に抵触すれば違憲となることには変わりない。

 このページに出てくる「篠田英朗」の論拠の不備については、「篠田英朗」の項目で解説した。





〇 日本経済新聞社 政治部次長 佐藤理


憲法と国際法の隙間 2019/9/1


 「憲法は国際法より安全保障上の権利の範囲が狭い。」との記載があるが、正確なものではない。まず、国際法上の『権利』を有することと、憲法によって正当化される統治権の『権力・権限・権能』の範囲は異なる概念であり、同一視することはできない。また、国際法と憲法では法分野が異なる。よって、「憲法は国際法より安全保障上の権利の範囲が狭い。」のように、憲法上の『権限』と国際法上の『権利』を同一視している表現は誤りである。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である。この違法性阻却事由の『権利』として許された範囲の「武力の行使」よりも、日本国憲法で許容されている「武力の行使」の範囲(幅)が狭いとの表現であれば正確な表現である。

 「そのため終戦直後、政府は9条の解釈で個別的自衛権すら認めなかった。吉田茂首相は46年、国会で『自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した』と明言した。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、「個別的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を意味するものであり、9条はこの国際法上の『権利』そのものを否定する文言はない。9条が否定しているのは、「武力の行使」等の『権限』であり、「自衛権」という国際法上の『権利』ではないのである。よって、「政府は9条の解釈で個別的自衛権すら認めなかった。」との認識は、正確なものではない。また、吉田茂首相の発言については、下記の通りであり、「自衛戦争」否定の趣旨と考えられる。


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1946年(昭和21年)
 6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります」
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)


 7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
 「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります」
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)


 以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)(リンク P34)
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 そのため、「吉田茂首相は46年、国会で『自衛権の発動としての戦争も、交戦権も放棄した』と明言した。」との答弁の意味も、「個別的自衛権」という国際法上の『権利』を放棄したものではないし、国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」あるいは「実力行使」がすべて放棄されていると考えることも適切ではない。
 「しかし50年には自ら『戦争放棄の趣意に徹することは決して自衛権を放棄することを意味するのではない』と表明し、」との記載があるが、先ほども述べたように9条は「自衛権」という国際法上の『権利』を放棄するものではないし、吉田茂首相の答弁の意味も「自衛戦争」を放棄した旨と考えられるから、特に9条解釈が変わったわけでもない。

 「9条の解釈が国際法に一歩、近づいた。」との記載があるが、先ほども述べたように吉田茂首相の答弁は最初から意味は変わっておらず一貫しており、9条の解釈も変わっていない。そのため、「9条の解釈が国際法に一歩、近づいた。」わけでもない。また、国際法に近づくか否かであるが、もともと国際法と憲法(国内法)では法分野が異なるものであり、近づくか近づかないかという対象にならない。例えば、民事事件の違法性と刑事事件の違法性は法体系が異なるため異なる評価が下されるのであり、刑事事件の違法性に民事事件の違法性の判定が近づいたとしても、もともと性質は異なるため、関係がない。同様に、国際法と憲法では法分野が異なるのであり、近づこうが遠のこうが関係がない。
 「一方、集団的自衛権は国際法との隙間が長く埋まらなかった。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国連憲章51条の概念であり、国際法上国家が武力を行使した場合に2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して国際法上の責任を問われるところを、一定の要件を満たすことで51条の『権利』を適用することで、違法性を阻却できるとする概念である。そのため、「一方、集団的自衛権は国際法との隙間が長く埋まらなかった。」との記載は、もともと9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」等を制約していることと、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の違いを理解していない誤った認識である。論者はあたかも国際法上の『権利』を有すれば、国内法上でも統治権の『権限』が生まれるかのように考えているようであるが、「権」の文字が同じであることから『権利』と『権限』の違いを理解していない誤りである。

 「変わったのは憲法ができて70年近くたった2014年、安倍内閣が閣議決定で集団的自衛権を限定的に容認してからだ。」との記載があるが、理解に混乱が見られる。「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』そのものであり、9条はこの『権利』そのものを制約する趣旨を有しない。そのため、「集団的自衛権」そのものは日本国も適用を受ける地位を有しており、「容認」するかしないかという対象になっていない。2014年7月1日閣議決定で安倍内閣が行おうとしたことは、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲の拡大であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものとは関係がないのである。単に「武力の行使」の範囲を拡大させた場合に、国際法上では「集団的自衛権」として違法性を阻却する区分に該当することとなるとしているものであり、国際法上の用語である「集団的自衛権」という名前であるから違憲か否かという議論が発生しているわけではない。論者はこの点を理解できていない。

 「国際法と9条の解釈の隙間は一気に狭まった。」との記載があるが、そもそも国際法と憲法では法分野が異なるのであり、解釈はそれぞれの法分野で行うものである。「隙間は一気に狭まった。」との記載についても、9条が「武力の行使」等を制約していることと、国連憲章の2条4項の「武力不行使の原則」の違法性阻却事由の『権利』の区分の解釈は全く別物であり、狭まるとか広がるとかそういう関係性がもともと存在しない。

 「自衛隊の活動範囲を広げるなら、国際法と9条の隙間を狭めるしかない。」との記載があるが、誤りである。国際法と憲法上の9条の解釈とは異なるものであり、そこにもともと「隙間」という概念は存在せず、「狭める」か広げるかという話の意味が通じない。





〇 国際投資アナリスト/人間経済科学研究所・執行パートナー 大原浩


日本は侵略されて初めて「憲法改正」を行うつもりなのか…? いつまでも、あると思うな日米安保条約 大原浩 2019.12.12


    【1ページ目】

 「そのような国の核施設を『防衛のための先制攻撃』で爆破・壊滅させることは独立国家として当然の権利である。」との記載があるが、国際法上「先制攻撃」の『権利』を認めた規定は存在しないため、誤りである。国連憲章においては51条に「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という国連憲章2条4項に示された「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の区分を設けているが、ここに「先制攻撃」の『権利』は含まれていない。また、集団安全保障に関しても、「先制攻撃」を認める趣旨のものではない。憲法9条の下において「自衛戦争」が許されるかであるが、政府は9条によって「交戦権」が否定されていることを理由に「自衛戦争」も否定されていると解している。ただ、政府は「自衛戦争」が否定されたとしても、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の「武力の行使(実力行使)」については「自衛行動権」の範囲として可能と解している点に注意しておきたい。


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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


 「拉致被害者問題を解決できないのは、憲法第9条のせいであると言っても良いであろう。」との記載があるが、下記を参考にすると良いと思われる。


   【参考】憲法9条があるから北朝鮮の拉致事件が解決しない…が嘘の理由 2019.01.28
   【参考】北朝鮮の拉致事件は憲法9条のせいだ…が間違っている理由 2019.01.27


 「刃物を持った男が暴れているのに『まだ誰も刺されていないから』と言って、目の前にいる警察官が傍観するなどということが考えられるであろうか?」との記載があるが、警察の有する『権限』は「警察法」や「警察官職務執行法」など国内法上で正当化されており、その作用も「刑法」や「刑事訴訟法」などを根拠とした活動であり、このような法が整備されていない国際社会と同列に論じることは妥当でない。また、犯罪に関しては憲法31条の「適正手続きの保障」の趣旨より「罪刑法定主義」が採用されており、法による定めがなければ警察官も実力行使することはできない。さらに、警察組織の活動が国家の「主権(最高独立性)」の中で行われている作用であるのに対して、国際社会における他国との関係は「主権(最高独立性)」の外側の問題である。他国の行動に関しては、我が国国内の問題ではないため31条の「適正手続きの保障」の適用範囲外である。


    【2ページ目】

 「憲法は、天から授かった三種の神器ではない。国民の総意を反映すべきものだから、まず国民投票でその内容を是認すべきなのだ。」との記載があるが、この主張に法学上の理論的な普遍性は存在しない。まず、近代立憲主義に基づく憲法は多様な価値観を共存させるために人に人権を認めようとする作用を中心としているが、この部分は価値絶対主義者の視点からは「自然権」や「天賦人権論」のように見える部分がある。この点から見ると、人権という憲法の根本的な性質は「天から授かった」かのように正当化されているように見えるようにつくられているため、「憲法は、天から授かった三種の神器ではない。」との認識には理解不足がある。詳しくは当サイトの「人権の根拠」を解説した部分をお読みいただきたい。また、「国民の総意を反映すべきもの」についても、この憲法の根本にある人権の性質こそが「総意」として示される対象であり、これは多数決原理によっても侵すことができない。論者は「総意を反映」するために「国民投票」という多数決原理を採用しようとしているようであるが、近代立憲主義の憲法が必ずしも多数決原理によって正当化できる性質を有していないことに理解が及んでいないように思われる。
 もう一つ、「日本国憲法公布記念式典の勅語(昭和21年11月3日)」には、「この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。」と記載されており、日本国憲法は「国民の総意」によって制定されたとされている。


 「占領軍が拒否権を持つ中で生まれたのだから、『独立国としての日本』が制定していないことだけは確かである。」との記載があるが、論者は「国民の総意」を重視しており、それによって憲法が正当化されることを前提としているにもかかわらず、「独立国としての日本」という別の要素が入り込もうとしている点で整合性が疑問である。また、「日本国憲法公布記念式典の勅語(昭和21年11月3日)」には「自由に表明された国民の総意によつて確定された」と記載があるし、憲法前文でも、その読み方にはいくつかの説があるが、「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、…諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、…ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と示されており、国民が「国会における代表者を通じて行動」して「わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保」した中で「憲法を確定」したこととなっている。
 憲法制定の経緯については、下記サイトが詳しい。


   【参考】憲法の制定過程


 「さらに、万が一日本政府が自主的に制定したと仮定しても、そこに国民の姿はない。国民投票を行ってはじめて、日本国憲法は『民主憲法』になるのだ。」との記載があるが、誤りである。まず、憲法は「日本国民」によって制定されるものであって「日本政府」によって制定されるものではない。「日本国民」が憲法を制定することによって「政府(統治権)」が発生するのであり、未だ憲法が制定されていないにもかかわらず、「政府(統治権)」が存在すると考えている点が誤りである。また、「そこに国民の姿はない。」との記載であるが、日本国憲法前文には「日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」と記載されており、日本国民は「国会における代表者を通じて行動」しているため、「国民の姿」はあるのである。「国民主権の憲法であるか否か」という論点は、「国民投票」とは直接的な因果関係がないことを理解する必要がある。


    【3ページ目】

 「日本国憲法第9条も同じように公序良俗に反する。」との記載があるが、誤りである。まず、「公序良俗」とは、民法90条に記載された法律規定である。


民法
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(公序良俗)
第九十条 公の秩序又は善良の風俗に反する事項を目的とする法律行為は、無効とする。
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 民法などの「法律」は憲法によって創設された統治権の中の「立法権」を有する「国会」によって制定される法形式である。つまり、「法律」は「憲法」の下位法であり、法律規定である「公序良俗」よりも憲法規定が優先して適用されることとなる。憲法9条は憲法規定であるから、下位の法令である「法律」の一つである「民法」の規定を根拠にしてその正当性を否定することはできない。むしろ、憲法規定と法律規定が矛盾抵触するのであれば、法律規定の方が違憲・無効となる。

 「もちろん軍隊は『防衛のための先制攻撃』=能力(まだ人は殺していないが、刃物を持って暴れている男を取り押さえる義務と権利)を持つのが当然だ。」との記載があるが、誤りである。まず、国際法上で「軍隊」の活動は国際法に則って行われる必要がある。現在の国連憲章の体制の下において、「先制攻撃」の『権利』は存在しない。また、各国の有する統治権の『権限』は、各国の憲法によって正当化される性質のものであり、その中に「軍隊」の活動を規定する『権限』を設けるか否か、また「軍隊」を設ける場合にその『権限』をどのような内容とするかは、各国の憲法の中において行われるものである。そのため、「軍隊」を有するからといって論者のように「当然だ。」と考えることができるわけではない。

 「北朝鮮などの敵国が、日本の主要都市に照準を合わせカウントダウンしているかもしれないのに『専守防衛だから、発射するまで迎撃しないし、ミサイル基地も攻撃しない』という議論がまかりとおっているのが現在の自衛隊である。」との記載があるが、政府は従来より「我が国に対する急迫不正の侵害(我が国に対する武力攻撃)」の『着手』が認められたならば三要件(旧)に基づく「武力の行使」を実施することが可能と解していることを押さえる必要がある。

 「すでに述べた様に、『(国家が)軍隊を持たずに、国民を守ることを放棄します』という条文は公序良俗に反するから当然無効である。」との記載があるが、先ほどすでに述べた様に、「公序良俗」は民法規定であり、これによって上位法である憲法規定を否定することはできない。よって無効とはならない。また、砂川判決では9条2項の「戦力」を保持しないとしても、9条は「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を禁じていないとしており、砂川判決においても9条が「国民を守ることを放棄」しているかのように解しているわけではない。日本国の統治権の『権限』によって「陸海空軍その他の戦力」を保持しないとしても、「国民を守ることを放棄」したと解することに直接繋がるわけではないことを理解する必要がある。

 「もし、日本政府が公序良俗に反する憲法第9条を維持するというのなら、国民は自然権を取り返し、自らの手で防衛できるはずである。」との記載があるが、誤りがある。「公序良俗」は私人間の間の紛争を規律する私法上の問題であり、憲法9条が日本国の統治権の『権限』に対する制約であることとは関係がない。そのため、9条の性質と私法上の「公序良俗」は関係がない。また、民法の「公序良俗」という法律規定は、上位法である憲法規定には及ばない。9条は憲法規定であり、「公序良俗」を定めた法律規定は及ばないため、「反する」こともない。国民はもともと「自然権」という『権利』を有しており、これを憲法が創設した国家の統治権(国家権力)の『権限』によって奪うことができないことは確かである。ただ、自然人が「自然権」を有していても、『権利』が無制約というわけではなく「公共の福祉」による制約を受ける。それでも、自然人の「自然権」は奪われていないのであり、取り返す必要はない。「自らの手で防衛できる」については、法律の範囲で刑法上の「正当防衛」を行うことは可能である。

 「日本政府が憲法第9条で国民を外敵から守ることを放棄するのであれば、富豪たちが『日本防衛隊』組織のための資金を提供し、戦闘機、戦車、潜水艦を購入することも『自然権』の一部である。」との記載があるが、誤りがある。まず、9条を有していても砂川判決によれば「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」を行うことはできる。そのため、「日本政府が憲法第9条で国民を外敵から守ることを放棄する」との認識は、正確ではない。「『日本防衛隊』組織」が「『自然権』の一部」であるか否かであるが、「自然権」であるかは別として、法律によって制限されていない場合には法人を設立することも可能と思われる。「戦闘機、戦車、潜水艦を購入すること」については、民法上の売買契約が中心となるが、装備の内容が法律に抵触しないのであれば購入そのものは売買契約として有効と考えられる。





〇 ウォッシュバーン大学法科大学院教授 クレイグ・マーティン(Craig Martin)


憲法9条を再生させるための改正論ーなぜ、どのように9条を改正するのか 17 Mar 2017 PDF

 (憲法9条を再生させるための改正論ーなぜ、どのように9条を改正するのか 17 Mar 2017)


 国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」が国際法上の『権利』の区分であり、9条の下での日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲が政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準によって決められていることを押さえると、この論文の内容は理解が十分でないことを理解することができる。
 また、9条2項後段の禁じる「交戦権」と、政府解釈の「自衛行動権」の概念を理解すると、理解が十分でないことが分かる。

 P6で、砂川判決について、「多数意見は、傍論の中で、憲法 9 条 1 項は個別的自衛のための武力の行使を禁じてはないという見解を支持した*14。」との記載があるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていないため、誤りである。





〇 軍事ライター 稲葉義泰


ここまでできる自衛隊 国際法・憲法・自衛隊法ではこうなっている 稲葉義泰 2020/10/16 amazon


(P39)

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 第一項にある「国権の発動たる戦争」とは、言いかえれば、「国家の権利の発動としての戦争」であって、つまりこの前の国際法の戦争違法化の項で確認した国際法上の戦争(形式的意味の戦争)を意味しています。

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 上記の説明であるが、誤りがある。

 まず、「国権」の文言は9条と41条に記載されており、この憲法上の「国権」の意味は、『国家権力』(統治権)の意味である。

 政府解釈では、下記のようにも説明されている。


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 一般に、「主権」及び「国権」という言葉は、必ずしも一定の意味で用いられているわけではなく、「主権」という言葉は、第一に国家の意思の源泉、言い換えれば国家の政治の在り方を最終的に決定する力、第二に国家の意思が最高、独立であること、第三に国家の意思、第四に統治権というような意味で用いられ、「国権」という言葉は、第一に国家の意思、第二に統治権というような意味で用いられているところと承知している。

 お尋ねの憲法上用いられている「主権」という言葉のうち、前文第一段落及び第一条の「主権」は、右で述べた主権の意味のうち国家の意思の源泉というような意味で、前文第三段落の「主権」は、右で述べた主権の意味のうち国家の意思が最高、独立であることというような意味で用いられていると考える。

 また、お尋ねの憲法第九条及び第四十一条の「国権」は、右で述べた国権の意味のうち国家の意思というような意味で用いられていると考える。

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日本国憲法における国権と自衛権との関係に関する質問に対する答弁書 平成14年3月8日


 そのため、「国家の権利」のように、『権利』と考えることは誤りである。また、この書籍の流れや、「この前の国際戦争違法化の項で確認した国際法上の戦争(形式的意味の戦争)を意味しています。」との記載からは、この『権利』は国際法上の『権利』を意味しており、それについて9条1項で禁じられていると考えているように見受けられる。

 しかし、国際法上の『権利』の有無と、憲法上で正当化される『権力・権限・権能』の範囲の問題は、異なる法体系に属する話であり、法的効力は連動関係にない。

 そのため「国権」を『権利』と解したり、憲法9条の文言を「国際法上の戦争」のように、国際法を拠り所とした意味として理解することは誤りである。



(P41)

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 一方で、日本政府は戦力を「憲法上認められる自衛のための必要最小限度のレベルを超える実力」と解釈しています。この解釈の根底にあるのは、国家には自国を防衛するための権利である「自衛権」があるという考えです。つまり、たとえ戦争を放棄した憲法九条といえども、この自衛権までをも否定しているわけではないため、どこかの国が攻め込んできた際に日本を防衛するための必要最小限度の実力を持つことは憲法上認められるというわけです。

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 上記であるが、誤りがある。


 まず、政府の説明は「自衛のための必要最小限度」を超えるものを「戦力」であるとしている。そして、その「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の範囲を意味する。そのため、この三要件(旧)を達成する範囲を超える実力を保持することは、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるとしているのである。

 ここで、論者はこの政府の解釈を「自衛のための必要最小限度のレベルを超える実力」と説明し、「レベル」という表現を用いて説明しようとしている。これについて、「レベル」という表現からは、規模が数値化されて何段階かに分かれるかのような感覚で説明していることになるが、半分正しいが、半分は正しくない。

 政府の「自衛のための必要最小限度」を超えるものを「戦力」であるとしている説明の中には、二つの側面がある。

① 三要件(旧)を満たさない形で「武力の行使」を行った場合、それを実施した実力組織は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

② 三要件(旧)を達成するために必要となる規模以上の実力(人的・物的組織体)を保持することは、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 ここで論者が「レベル」と表現している部分からは、②の実力の規模のことを指していることは理解することができる。しかし、①の三要件(旧)を満たさない形での「武力の行使」を行った場合に、それを実施する実力組織が9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となることについては「レベル」という表現からは読み取ることができない。

 この点で、半分正しいが、半分は正しくないということになる。


 次に、「この解釈の根底にあるのは、国家には自国を防衛するための権利である『自衛権』があるという考えです。」の部分について検討する。

 まず、「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、これは国際法上の法主体として認められている「国家」に対して与えられる概念である。

 これに対して「陸海空軍その他の戦力」や、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持できるか否かの問題は、その国家が有している憲法上の『権力・権限・権能』の話である。

 これらは、異なる法体系に属する問題であり、法的効力は連動関係にない。そのため、日本国が国際法上の法主体として認められていることから、国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受けることができる地位を有していることと、日本国が憲法上で正当化できる『権力・権限・権能』として「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を保持できるか否かの問題は別問題である。

 そのことから、論者が「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持の可否の話に続く形で、「この解釈の根底にあるのは、」として国際法上の『権利』である「自衛権」の話を持ち出していることは、誤りである。

 この部分は、政府も正確に答弁できておらず、整合性が保たれていない場合があるため、注意が必要である。


 「たとえ戦争を放棄した憲法九条といえども、この自衛権までをも否定しているわけではないため、どこかの国が攻め込んできた際に日本を防衛するための必要最小限度の実力を持つことは憲法上認められるというわけです。」の部分であるが、上記と同様の論理で誤っている。

 憲法9条は、日本国の統治権の『権力・権限・権能』を制約する規定であり、国際法上の『権利』の概念である「自衛権」を直接的に制約する規定は存在しない。

 また、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、それを基にしてその国家の内部に統治権の『権力・権限・権能』が発生するわけでもない。そのため、憲法9条が「自衛権」を否定していないとしても、それを根拠として日本国の統治権の『権力・権限・権能』が発生するわけではないため、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持に関する解釈が影響を受けるわけではない。

 論者はこれが連動関係にあるかのように説明しようしていることは誤りである。



 その後、P44~49の説明についても、上記の前提を理解できていないままに説明するものとなっており、不十分である。



(P50)

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■「必要最小限度」ってどこまでなの?

 ここで問題なるのは、一体どのような自衛力がこの必要最小限度の範囲に収まるのかという点です。

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 上記の記載であるが、政府解釈から「必要最小限度」だけを抜き出すのではなく、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と抜き出すことが正確である。

 また、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を指しており、この目的を達成するための範囲に収まるか否かが論点である。

 この三要件(旧)の基準を示すことなく、「必要最小限度」という言葉だけでその範囲を決することができるかのように説明しようとしている点で、十分ではない。


 もう一つ、「自衛力がこの必要最小限度の範囲に収まるのか」との部分であるが、「自衛力」とは「自衛のための必要最小限度の実力」の略称であり、その文言の「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を指す言葉である。

 そのため、論者の説明によれば、「自衛のための必要最小限度の実力がこの自衛のための必要最小限度に収まるのか」と説明していることになり、言い換えれば、「三要件(旧)を実施するための実力が、三要件(旧)に収まるのか」と説明していることになる。

 「自衛力」とは、既に三要件(旧)に制約された範囲の実力を指す意味として用いられている言葉なのである。

 ここで論者が言いたいであろう話は、個々の兵器の保有が、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)に制約された実力(自衛力)の範囲に収まるか否かの論点である。これを「自衛力」と呼んでしまっている点で誤りである。



(P50)

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■絶対に保有が許されない「攻撃的兵器」

 しかし、いかなる場合であっても、その性能上相手国を壊滅的に破壊するためにのみ用いられる兵器である「攻撃的兵器」を保有することは、もしかしたら日本が侵略してくるのではないかという脅威を他国に与えてしまうものであって、必要最小限度の範囲を超えてしまうものであるため、禁止されているという立場を日本政府は一貫して表明しています。

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 上記の記載であるが、誤りがある。

 「攻撃的兵器」を保有することが許されないことは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を達成する範囲を超えることが理由である。

 ここに論者の言うような「もしかしたら日本が侵略してくるのではないかという脅威を他国に与えてしまうものであって、」などという説明とは異なる。


憲法と自衛権 防衛省・自衛隊


 もう一つ、「必要最小限度の範囲を超えてしまう」の部分であるが、「必要最小限度」だけでなく、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」と抜き出すことが正確である。


(P51~52)

 ■「『必要最小限度』はあいまいではないの?」や「基準としてあまりにもあいまいかつ流動的ではないか」との疑問や批判について、「他国の軍事力のレベルや国際情勢を含めたさまざまな条件に合わせて必要最小限度の範囲も変化するという考えは、きわめて合理的といえます。」と答えている説明がある。

 この議論について押さえるべきなのは、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を指しており、個々の兵器の保有が、この三要件(旧)を達成するための範囲に収まるか否かについての論点ということである。

 そのため、「自衛のための必要最小限度」という基準そのものが「あいまい」なのではなく、個々の兵器の保有が、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を達成するための範囲に収まるか否かを決することが「あいまい」「流動的」「変化する」とされていることを正確に理解する必要がある。

 論者の説明では、この点を正確に読み取ることができない形となっているため、注意する必要がある。



(P52~53)

 論者は、2014年7月1日閣議決定以降の「武力行使の新三要件」を取り上げ、下記のように述べている。

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 これを繋げて整理してみると次のようになります。


 「『日本に対する武力攻撃が発生した場合』、もしくは『日本と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生した場合』で、これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、武力を行使する以外に適当な手段がなく、それが必要最小限度の範囲内に収まるのであれば、武力を行使できる。」

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 しかし、政府の新三要件についての説明とは異なっており、誤りである。政府の説明は、次の通りである。


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こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った

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国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について 国家安全保障会議決定  閣議決定 平成26年7月1日

 

 分かりやすくまとめると、新三要件の適用されるに形には二種類のパターンがあるということである。


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「武力の行使」の新三要件 〔武力攻撃事態〕

◯ わが国に対する武力攻撃が発生したこと
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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「武力の行使」の新三要件 〔存立危機事態〕

◯ わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 しかし、論者の説明は下記のようになっている。


① 『日本に対する武力攻撃が発生した場合』

② 『日本と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生した場合』
      +
これにより日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合に、武力を行使する以外に適当な手段がなく、それが必要最小限度の範囲内に収まる


 これは、新三要件の第一要件の中に含まれる「存立危機事態」に該当する部分である「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」を一つのまとまりとして捉えることができておらず、新三要件の第一要件を『日本に対する武力攻撃が発生した場合』と
『日本と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生した場合』の二つであるかのように区切って考えてしまった点で誤りである。


 上記とは別の論点として、新三要件の第一要件後段の「存立危機事態」に基づいて「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲である。



(P54)

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 ちなみに、この中の「日本と密接な関係にある国に対する武力攻撃が発生した場合」というのは、第二章で確認する存立危機事態において認められる集団的自衛権の行使に関する要件です。

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 上記の記載であるが、先ほども述べたように、「存立危機事態」に該当する部分は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」であり、論者が示した部分だけではないことに注意が必要である。



(P55)

 「日本政府によれば、日本は確かに交戦権を放棄したが、自衛権が放棄されていない以上、日本を防衛するための必要最小限度の範囲内で実力を行使することは当然認められ、これは交戦権の行使とは全く区別されるものとされています。」との記載がある。

 ただ、政府も正確に説明できておらず、整合性がない部分であるが、国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有していること、憲法上で正当化される日本国の統治権の『権力・権限・権能』による「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持の可否や、その組織による「武力の行使(実力行使)」の可否は別問題である。

 そのため、「自衛権が放棄されていない以上、」という国際法上の『権利』の話から、日本国の統治権の『権力・権限・権能』の行使が「当然認められ、」などと話を繋げることはできず、誤りである。



(P56)

 「ですから、たしかに自衛行動権の内容は交戦権と重なる部分が多いとは言えども、その成り立ちや理屈の面から見ると、両者は全く別物ということができます。」との記載がある。

 しかし、「交戦権」と「自衛行動権」という『権力・権限・権能』それ自体については、重なり合っているわけではない。政府も、「交戦権」は全面的に持っていないとしてる。


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○角田(禮)政府委員 限定的な意味というわけではございませんで、いわゆる交戦権というのは私どもは全面的に持っていない、その反面、自衛権に基づく実力行使の自衛行動権というものは別に持っている、こういうわけで、結果として、こちらは持ってないがこちらは持っているということで、両方比較しますと、直接戦闘をやって相手方を殺すとか、そういうことを中心として考えれば、そういうものは持っているということになるわけであります。

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第93回国会 衆議院 法務委員会 第7号 昭和55年11月26日


 重なり合う部分とは、「交戦権」の行使として行われる「相手国兵力の殺傷と破壊」と、「自衛行動権」の行使として行われる「相手国兵力の殺傷と破壊」が、外見上同一に見える場合があることについて述べたものである。
 しかし、「交戦権」と「自衛行動権」という『権力・権限・権能』そのものが、「重なる部分が多い」というわけではないことに注意する必要がある。この文章からは、そこまで正確に読み取ることができない形となっている。



(P104)

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   昔はダメだった

 それではなぜ、敵基地攻撃が専守防衛を逸脱するという意見が出てくるのでしょうか。その一つの理由として考えられるのが、じつは「敵基地攻撃は専守防衛においては認められない」という見解が存在したということです。一九七二年十月三一日、当時の田中角栄総理大臣は次のように答弁しています。

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 上記のように示し、下記の答弁を引用しているる


 「専守防衛ないし専守防御というのは、防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行なうということでございまして、これはわが国防衛の基本的な方針であり、この考え方を変えるということは全くありません。」

第70回国会 衆議院 本会議 第4号 昭和47年10月31日


 しかし、論者の「じつは『敵基地攻撃は専守防衛においては認められない』という見解が存在したということです。」との認識は誤りである。

 まず、この田中角栄の答弁の「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、」との部分とは、下記の答弁の「他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らないだろうという趣旨」の部分を引き継ぐものと考えられる。


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○船田国務大臣

(略)

  わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。昨年私が答弁したのは、普通の場合、つまり他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らないだろうという趣旨で申したのであります。この点防衛庁長官と答弁に食い違いはないものと思います。

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第24回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 昭和31年2月29日


 そのため、田中角栄の答弁は、論者の言うような「敵基地攻撃は専守防衛においては認められない」という意味で述べられたものではない。そのため、論者の「じつは『敵基地攻撃は専守防衛においては認められない』という見解が存在した」との認識は誤りである。


 「専守防衛」とは、論者もP94で示している通り、下記の意味である。


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1 専守防衛

専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。

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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版 防衛白書 (太字は筆者)


 ここで言う「自衛のための必要最小限」とは、三要件(旧)の基準のことを指す。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)

〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと

〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと

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 「専守防衛」である限り、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲の「武力の行使」に限られる。つまり、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除する(第二要件)」という目的の範囲で行われる「必要最小限度(第三要件)」の程度・態様による「武力の行使」ということである。

 そして、「海外派兵」については、一般に「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えることから許されないと導かれる。しかし、もしこの三要件(旧)を満たす範囲のものがあるとすれば、「敵基地攻撃」や「海外派兵」もあり得るとされている。

 そこで、「専守防衛」である限り、この三要件(旧)の制約を満たさなければならないとの趣旨から、「他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らない」と導かれており、田中角栄も「防衛上の必要からも相手の基地を攻撃することなく、」と述べているだけである。田中角栄の答弁の「もっぱらわが国土及びその周辺において防衛を行なうということ」の部分についても、単に三要件(旧)の「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」の「武力の行使」について述べているだけである。


 論者はこれらの関係性を正確に押さえることができていないことにより、「じつは『敵基地攻撃は専守防衛においては認められない』という見解が存在した」との認識を持っているが、誤りである。



(P108)

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 まとめると、一九七〇年代には専守防衛において敵基地攻撃は認められませんでした。しかし、少なくとも二〇〇三年以降は、両者は矛盾しない存在となった、言い換えれば専守防衛においても敵基地攻撃は否定されないものになったということです。……(略)……

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 上記であるが、先ほど示したように、もともと「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であれば「武力の行使」は認められており、ここに「敵基地攻撃」の余地は含まれている。そのため、論者の言うような「一九七〇年代には専守防衛において敵基地攻撃は認められませんでした。」などという事実はない。

 単に論者が「自衛のための必要最小限度」の意味が三要件(旧)を意味していることを捉えられていないことによって、田中角栄の答弁の意味を読み誤っているだけである。

 これにより、「少なくとも二〇〇三年以降は、両者は矛盾しない存在となった」などと、変化したかのような事実もない。

 「専守防衛においても敵基地攻撃は否定されないものになったということです。」の部分についても、もともと「専守防衛」であれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を満たすことが求められており、その範囲内の「武力の行使」の中に「敵基地攻撃」を行う余地は含まているのであり、「否定されないものになった」などと、否定されていたものが「否定されないもの」に変わったかのような認識は誤りである。



(P241)

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 しかし、何度も繰り返し攻撃がしかけられたり、あるいはその他の場所でもアメリカ軍に対する攻撃が行われたりした場合には、これは最早アメリカに対する武力攻撃と判断できますので、この場合にはアメリカ軍の艦艇の防護は集団的自衛権に移行する必要があります。

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 上記の記載であるが、日本国の法令である自衛隊法を説明する文脈であるにもかかわらず、「集団的自衛権」という国際法上の区分を持ち出している点で法体系が異なっており、妥当でない。

 また、日本国が「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことが前提となる説明が行われているが、「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は9条に抵触して違憲であり、これを行うことはできない。





〇 防衛大学校 松浦一夫

 

憲法概説 第2版 松浦一夫 奥村公輔 2020/10/20 amazon


(P406)

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 憲法9条は、国際法をも超越する非戦・非武装の理想を追求するものなのか。あるいは諸外国の平和条項と同様に、国際法上の武力不行使原則の国内法的効力を確保するための現実的法規範と理解すべきであろうか。

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 上記について、「国際法をも超越する」との部分であるが、憲法9条は日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、国際法を「超越」することを意図した規定というわけではない。ただ、憲法に反する条約(国際法)を締結することはできないし、条約に対する違憲審査も可能であることから、通常は憲法優位説である。

 「国際法上の武力不行使原則の国内法的効力を確保するための現実的法規範と理解すべきであろうか。」との部分であるが、国際法と憲法(国内法)では法体系が異なり、憲法9条は国内法として日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約を示した規定であるから、国際法上の国連憲章2条4項の「武力不行使原則」とは法的効力が連動する関係にない。そのため、「国際法上の武力不行使原則の国内法的効力を確保するため」のような形で、国際法と国内法の法的効力が連動したり、憲法9条が国際法上の規定の効力を直接的に取り込んでいるのような解釈は成り立たない。

 よって、これらの文は、「追求するものなのか。」や「理解すべきであろうか。」との問いが立てられているが、どちらも誤った問いである。



(P406)

 9条解釈について、「(3)戦争は全て禁じられるが、自衛権の発動としての武力行使(自衛措置)はこれとは別に認められ、そのための必要最小限度の実力の保有は認められるとする説。」との記載がある。

 まず、この「(3)」説は、9条の英訳を基にした解釈である。日本国憲法の法的効力は日本語から生み出されていることに注意する必要がある。そのため、日本語の解釈においては「国際紛争を解決する手段としては、」の文言は、「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」の両方に掛かってることに注意する必要がある。

 「自衛権の発動としての武力行使」との部分について、「自衛権」が国際法上の概念であることから、国内法としての憲法9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲とは直接的に関係するわけではないことに注意が必要である。

 「そのための必要最小限度の実力の保有」であるが、政府見解では通常「自衛のための必要最小限度の実力」と表現しており、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を指していることに注意する必要がある。

 この説明からは、国際法上の「自衛権」に該当すれば、「武力の行使」も、そのための「実力組織」も保持することが可能であるかのような認識を生み出しやすいが、国際法と国内法である憲法とは法体系が異なることを押さえる必要がある。



(P414~415)

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 専守防衛とは、他国から武力攻撃を受けた後にはじめて防衛力を行使し、侵攻してくる相手をその都度撃退するという受動的防衛戦略のあり方を意味する。したがって、自衛隊が防衛行動を取る地理的範囲は主に日本の領域内である。ただし、日本を防衛するために必要最小限度の実力を行使することができる場所は必ずしも日本の領域内に限定されるものではなく、公海および公空に及ぶ。また、外国領域内から発射される誘導弾等により日本が武力攻撃にさらされる場合には、これを防衛するため他に手段がないと認められる限りにおいて、敵基地を攻撃することは、法理的には自衛の範囲に含まれ、許される(昭和31年2月29日衆議院内閣委・政府答弁)。

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 上記の記載であるが、誤りがある。

 「専守防衛」について、ここでは「他国から武力攻撃を受けた後にはじめて防衛力を行使し、侵攻してくる相手をその都度撃退するという受動的防衛戦略のあり方」と説明しているが、正確には誤りである。

 政府によれば、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことをいう。

 

【参考】内閣法制局の権限と自衛権についての解釈に関する質問に対する答弁書 平成15年7月15日

【参考】令和元年版 防衛白書

【参考】防衛省の政策


 そのため、こちらの記述も誤っている。


憲法入門 松浦一夫


 「したがって、自衛隊が防衛行動を取る地理的範囲は主に日本の領域内である。」との部分であるが、「自衛隊が防衛行動を取る地理的範囲」が「主に日本の領域内」に限られていることは、9条の下では「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」しか許されていないことによるものである。つまり、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除(第二要件)」したならば、その時点で「武力の行使」を止めなければならず、それ以上に「武力の行使」を行った場合には9条に抵触して違憲となることによるものである。

 そのため、「したがって、」のように、「専守防衛」であることから「自衛隊が防衛行動を取る地理的範囲」が「主に日本の領域内」に限られると説明するよりは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」に限られることから、「自衛隊が防衛行動を取る地理的範囲」が「主に日本の領域内」に限られると説明することの方が妥当である。 それは、「専守防衛」の定義の中に「その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限る」のように、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を示す文言が含まれていることからも裏付けることができる。


 「日本を防衛するために必要最小限度の実力を行使すること」の部分は、「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するため必要最小限度)」という三要件(旧)のことを指していることを押さえる必要がある。



(P415)

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 2 集団的自衛権

 専守防衛を基本とする日本の防衛政策においては、自衛権の行使態様も狭く制限され、個別的自衛権のみが行使を許容されるものとしてきた。他方、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもって阻止する国際法上の権利」と定義される集団的自衛権について、日本政府は長い間、その行使は自衛のための必要最小限度を超えるものであり憲法の下では認められないとしてきた(昭和47年10月14日参議院決算委・提出資料)。

 しかし、近年の安全保障環境の変化を背景に2016(平成28)年3月施行指された平和安全法制整備法(平成27年9月30日法律第76号)により、自衛権行使の要件が見直され、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合にも自衛権行使が許容されるものとされた(存立危機事態)。これは、従来違憲とされた集団的自衛権の行使を一部容認するものであるが、我が国の存立と国民の自由・権利が脅かされる場合に限定されていることから、専守防衛の基本原則は堅持されているといえる。

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 「専守防衛を基本とする日本の防衛政策においては、自衛権の行使態様も狭く制限され、個別的自衛権のみが行使を許容されるものとしてきた。」との記載があるが、正確でない。

 9条の下では「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」に限られており、この範囲内のことを「専守防衛」と称しており、この範囲内の「武力の行使」については、国連憲章51条の区分で言えば「個別的自衛権」に該当するというだけである。

 そのため、たとえ国連憲章51条の「個別的自衛権」に該当する国際法上で違法性が阻却される範囲内の「武力の行使」であるしても、憲法9条の下にある日本国の統治権の『権力・権限・権能』は、三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」を行うことはできない。

 「集団的自衛権の行使」についても、これが三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」を行うものであることにより、憲法9条の下で許されないとされている。


 「集団的自衛権について、日本政府は長い間、その行使は自衛のための必要最小限度を超えるものであり憲法の下では認められないとしてきた(昭和47年10月14日参議院決算委・提出資料)。」との部分であるが、この「自衛のための必要最小限度を超えるものであり」とは、三要件(旧)の範囲を超えることを意味する。

 ただ、ここで示されている「(昭和47年10月14日参議院決算委・提出資料)」の中には、「自衛のための必要最小限度」という文言はそのままの形で登場していないことに注意が必要である。

 「(昭和47年10月14日参議院決算委・提出資料)」では、「…あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる…」(リンク)と記載されている。

 これは、結論として「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)に対応するものではあるが、ここで「自衛のための必要最小限度を超えるものであり憲法の下では認められないとしてきた(昭和47年10月14日参議院決算委・提出資料)。」のように、それを根拠資料とすることは正確な引用ではない。


 「自衛権行使の要件が見直され、」や「自衛権行使が許容されるものとされた(存立危機事態)。」との部分であるが、「自衛権」とは国際法上の概念であり、これが行使される状態とは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』が行使されたことを意味するから、実質的には「武力の行使」が行われていることになる。そのため、ここでは「自衛権行使」ではなく、「武力の行使」と表現することが妥当である。

 そして、2014年7月1日閣議決定以降に示された「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」であるが、9条に抵触して違憲である。


 「これは、従来違憲とされた集団的自衛権の行使を一部容認するものであるが、我が国の存立と国民の自由・権利が脅かされる場合に限定されていることから、専守防衛の基本原則は堅持されているといえる。」との記載がある。

 しかし、「集団的自衛権の行使を一部容認するもの」について、9条の下では「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」しか許されておらず、「集団的自衛権の行使」とは、この第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさない中で「武力の行使」を行うものであることから、9条に抵触して違憲となる。

 また、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機(自存自衛)などを理由として政府が自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約するために設けられた規定であり、「我が国の存立と国民の自由・権利が脅かされる場合」を理由として「武力の行使」を行うことは9条に抵触して違憲となる。そのため、「我が国の存立と国民の自由・権利が脅かされる場合に限定されていることから、」と述べたところで、9条に抵触しない旨を示したものではなく、やはり9条に抵触して違憲である。

 「専守防衛の基本原則は堅持されているといえる。」の部分であるが、先ほどから述べているように、「専守防衛」とは「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味し、この「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」については、「専守防衛」とは言えない。そのため、「集団的自衛権の行使を一部容認」と称する「存立危機事態」の要件に基づく「武力の行使」は、「専守防衛」の範囲を超えており、「専守防衛の基本原則は堅持されているといえる。」とは言えない。論者の認識は誤りである。





〇 日本大学 百地章

 

憲法の常識 常識の憲法 (文春新書) 百地章 2005/4/20 amazon


 砂川事件最高裁判決の文面をいくつか引用した上で、下記のように述べている。


(P111)

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 このように述べて、最高裁は、現行憲法下でも自衛のため一定限度の実力を保持することは可能であることを示唆するとともに、具体的にそれが違憲となるかどうかの判断は「統治行為」にあたり、裁判所の審判権は及ばないとする姿勢を示した。

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 また、(P115)でも、下記のように述べている。


 「また、さきに見たとおり、最高裁は直接自衛隊の合憲性には言及していないものの、暗に自衛力の保持を認めている。」


 しかし、このような認識は誤りである。まず、砂川事件最高裁判決では、9条は「自衛権」を否定するものではないことと、日本国も「自衛のための措置」をとり得ることは認めている。しかし、「自衛のための措置」として例示されているのは「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の可否については何も述べていない。そのため、日本国の統治権の『権限』による「指揮権、管理権」を行使し得る「実力」(組織)の保持の可否についても、何も述べられていない。「米軍の駐留」についてでさえ、法的判断を行っていない。

 このことから、論者の言うように「最高裁は、現行憲法下でも自衛のため一定限度の実力を保持することは可能であることを示唆するとともに」や「暗に自衛力の保持を認めている。」などと、結論を導き出すことはできない。

 そのため、論者の「具体的にそれが違憲となるかどうかの判断は『統治行為』にあたり、裁判所の審判権は及ばないとする姿勢を示した。」という説明についても誤りである。


(P111)

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 「国家」不在の自衛隊違憲論

 さて、これまで見てきた学説、政府見解、それに判例であるが、対立の背景には国家観や世界観、さらには憲法解釈のあり方についての決定的な違いがあると思われる

 すなわち政府見解や最高裁砂川判決では、憲法典以前に「国家」というものを考え、それを前提に憲法解釈を行おうとする現実的な姿勢がうかがわれる。つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるを得ない。なぜなら、「国家は死滅しても憲法典を守るべし」などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。それに前文や九条が夢想するような国際社会など、当分実現するはずがない。このような判断が暗黙のうちに働いているように思われる。

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 「すなわち政府見解や最高裁砂川判決では、憲法典以前に『国家』というものを考え、それを前提に憲法解釈を行おうとする現実的な姿勢がうかがわれる。」との部分であるが、政府見解や砂川事件最高裁判決は憲法上で正当化できる統治権の範囲について説明しているものであり、論者のような「憲法典以前に『国家』というものを考え、」などという認識に基づいて解釈されたものではない。

 「つまり国家には、当然、固有の権利としての自衛権があるから、どこの国であれ、自国の独立と安全を守るために、自衛権の発動としての武力行使ができないはずはない。」との部分であるが、これが国際法上の解釈のことを言っているのであれば、誤りはない。国家承認を受けて国際法上の法主体である「国家」としての地位を取得した場合には、国際法上において「自衛権」という『権利』が認められ、その国家が自国の憲法上で正当化される統治権の『権力・権限・権能』によって「武力の行使」を行ったとしても、その「自衛権」の要件を満たす限りにおいては、国際法上の違法性が阻却されるからである。しかし、その国家の内部において、憲法上で正当化される統治権の『権力・権限・権能』の範囲が制約されていることから、「武力の行使」を行うことができない場合はあり得るのであり、これは国際法上の問題ではなく、その国の内部の問題である。この点を区別して理解する必要がある。


 「したがって、仮に憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、不文の憲法ないし条理に基づき、自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるを得ない。なぜなら、『国家は死滅しても憲法典を守るべし』などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。」との部分であるが、整理する必要がある。

 憲法9条は国際法上の『権利』である「自衛権」そのものを否定する規定ではない。憲法9条が制約しているのは「武力の行使」である。そのため、「憲法典が自衛権の発動を禁止しているように見えたとしても、」の部分について、「自衛権」そのものを禁止しているかのような認識であれば誤りとなる。「自衛権の発動」が通常「武力の行使」を伴うことから、9条がその「武力の行使」を禁止しているか否かであるが、それは9条の制約範囲に関する解釈の問題である。

 「……自衛権の発動が可能となるような解釈を展開せざるを得ない。なぜなら、『国家は死滅しても憲法典を守るべし』などと、不文の憲法が命じているはずがないからである。」との部分であるが、「自衛権の発動」の意味を「『自衛権の発動』としての『武力の行使』」の意味として読み解いたとして、意味を整理すると次のようになる。

◇ 「『国家は死滅しても憲法典を守るべし』などと、不文の憲法が命じているはずがない」 ⇒ 「自衛権の発動」としての「武力の行使」が「可能となるような解釈を展開せざるを得ない。」

 しかし、日本国の安全は、砂川事件最高裁判決が述べるように「自衛のための措置」として「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」によって保障することも可能であり、直ちに「武力の行使」が可能となるような解釈を行わなければならないということにはならない。この点に注意する必要がある。


(P119~120)

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 たとえば交戦権と自衛権の関係であるが、政府見解によれば、交戦権とは「交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」であって、「相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこと」を意味する。そして憲法はこのような交戦権を否定している。

 ところが政府見解は他方で、「自衛権の行使」としてであれば、「相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこと」は許されるとする。なぜならば、「交戦権の行使として相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこと」と、「自衛権の行使として相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこと」とは「別の観念」であるからである、というわけである。また、他に自衛の方法がないときには、外国領土にある敵基地を攻撃することさえ許されるという。つまり「自衛権の行使」という名目さえつけば、何でもできそうに思われる。

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 「たとえば交戦権と自衛権の関係であるが、」との部分について、「交戦権」は憲法上の規定の文言であることから、日本国の統治権の『権力・権限・権能』に対する制約であり、「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であるかことから、この両者を並べて論じることは妥当でない。

 政府は、9条2項後段が「交戦権」を禁じていることによって「交戦権」は全面的に行使することができないが、国際法上の「自衛権の行使」として行われる日本国の統治権の『権限』による「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「自衛行動」としての「武力の行使」については、「自衛行動権」に基づいて行使できるとしている。つまり、「交戦権」と「自衛行動権」は「別の観念」のものであるとしている。そのため、その「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内であれば、「相手国兵力の殺傷及び破壊等を行うこと」も可能であるとしてる。

 「また、他に自衛の方法がないときには、外国領土にある敵基地を攻撃することさえ許されるという。」との部分であるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす範囲内であれば、「外国領土にある敵基地を攻撃すること」も可能であるとしている。

 「つまり『自衛権の行使』という名目さえつけば、何でもできそうに思われる。」との部分であるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を満たす範囲であれば「武力の行使」が可能であるとしている。これは「『自衛権の行使』という名目さえつけば、」というものではないことを押さえる必要がある。


(P120)

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 あるいは政府見解で、先に見たように、わが国が保有できるのは自衛のため必要最小限度の実力に限られていた。しかし他方では、政府見解は、核兵器であっても自衛のための必要最小限の範囲内にとどまる限り、保持は禁止されないとしている。

 たしかに必要最小限度とはいっても相対的なものである以上、理屈のうえからいえばこのような解釈は可能であろう。しかしながら政府見解では、保持できるのはあくまで「自衛力」であって、「戦力」ではないとしているのだから、これは詭弁である。それに「戦力とは自衛力を超えるものである」というのが政府見解であるが、「自衛力とは何か」と問えば、「戦力に至らざるもの」といった回答しか返ってこないわけだから、これでは話にならない。

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 「自衛のための必要最小限」とは、三要件(旧)の基準を意味する。これを実施するための装備については、9条2項後段の「陸海空軍その他の戦力」には抵触しないとするものである。

 「たしかに必要最小限度とはいっても相対的なものである以上、理屈のうえからいえばこのような解釈は可能であろう。」との部分であるが、「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準である。これを実施する範囲内であるか否かについて、政府は「具体的な限度は、その時々の国際情勢、軍事技術の水準その他の諸条件により変わり得る相対的な面を有しています」と説明している。

 「しかしながら政府見解では、保持できるのはあくまで『自衛力』であって、「戦力」ではないとしているのだから、これは詭弁である。」との部分であるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の実力組織については「自衛力」であり、それを超えるものについて9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」であるとしている。論者は、この論理を理解していないままに「詭弁である」との評価していることを押さえる必要がある。

 「それに『戦力とは自衛力を超えるものである』というのが政府見解であるが、『自衛力とは何か』と問えば、『戦力に至らざるもの』といった回答しか返ってこないわけだから、これでは話にならない。」との部分であるが、論者は正確な理解を有していない。政府解釈は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の実力組織については「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、これを超えるものについては9条2項後段の「陸海空軍その他の戦力」に該当するとしている。そのため、具体的な限度は三要件(旧)の基準に照らし合わせて考える必要がある。


(P120~121)

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 ただし融通無碍とはいっても、解釈上の限界がなかったわけではない。そこには常に「必要最小限」という歯止めがかかっていた。たとえば、憲法上、保持可能なのは「必要最小限度の自衛力」だけであり、許される武力行使も「必要最小限度の武力行使」だけである。また、自衛権を行使できる地理的範囲は、わが国の領土、領海、領空に限られないが、海外派兵は「自衛のための必要最小限度」を超えるから許されない。このような限界があった。

 このような発想の背景には、おそらく次のような事情があったのではないかと思われる。すなわち、GHQの起草した憲法の前文は、わが国の「安全」のみならず「生存」まで「平和を愛する諸国民」に委ね、九条二項では一切の戦力の保持まで禁止した。しかしながら、わが国としては主権国家として、その独立と安全を守るために何もできないというわけにはいかない。そこで、「必要最小限度のものに限る」からと弁解しつつ、何とかその場をしのいできた、というわけである。

 つまり憲法で一度は全面的に非否定されてしまったものを、ゼロベースからの復活折衝というかたちで少しずつ認め、何とかやり繰りしてきたことになる。そして弁解のためのキー・ワードが、「必要最小限度」という言葉であった。

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 「そこには常に『必要最小限』という歯止めがかかっていた。」との記載があるが、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の歯止めがかかっていたのであり、数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となっていたわけではないことに注意する必要がある。

 「たとえば、憲法上、保持可能なのは『必要最小限度の自衛力』だけであり、許される武力行使も『必要最小限度の武力行使』だけである。」との部分であるが、正確には「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の「武力の行使」や、それを実施するための実力組織(自衛力)である。

 「また、自衛権を行使できる地理的範囲は、わが国の領土、領海、領空に限られないが、海外派兵は『自衛のための必要最小限度』を超えるから許されない。このような限界があった。」との記載があるが、この意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内の活動が許されているということである。

 「そこで、『必要最小限度のものに限る』からと弁解しつつ、」との記載があるが、その意味は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準の範囲内のことを指している。

 「そして弁解のためのキー・ワードが、『必要最小限度』という言葉であった。」との記載があるが、それは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準のことを指しており、「必要最小限度」という文言だけを9条解釈の基準としているわけではないことに注意する必要がある。


(P122~123)

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 このような、集団的自衛権を保有するが行使できないとする政府見解のもつ矛盾ないし論理的欠陥については、すでに佐瀬昌盛・拓殖大学教授が厳しく指摘されているところである。佐瀬教授によれば、政府見解が「首尾一貫」して集団的自衛権を否定してきたというのは欺瞞であるし、集団的自衛権を「国際法上保有していること」と「憲法上行使できないこと」との間には、論理的に飛躍があるとされる(『集団的自衛権』)。

 しかし、じつはそれ以前に、政府見解は集団的自衛権の定義自体からして疑問である。というのは「集団的自衛権」とは、自国と政治的・軍事的に協力関係にある他国に対して武力攻撃がなされたときは、その攻撃が直接自国に向けられたものでなくても、自国の平和と安全を害するものとみなして、これに対抗する措置をとることを認められた権利(白戸正彦『戦争と国際法』)だからである。つまりポイントは、「自国が直接攻撃されていなくても」、その攻撃が「自国に対する攻撃」であると認めて反撃するところに、集団的自衛権の特徴がある。

 ところが政府見解では、意図的にか、この最も肝心な部分がオミットされている。その結果、「自国が攻撃されていないにもかかわらず」という点のみが強調されることになり、そのような自国が直接攻撃されていない場合にまでわが国が武力行使を行うのは、「必要最小限度」を超えるものであるとの解釈が示されることになった。

 政府が集団的自衛権の行使をあくまで認めようとしない本当の理由は、平和主義を基本原則とする憲法が、自国であればともかく、他国を守るための武力行使まで認めているはずがないし、それでは「必要最小限度」の範囲を超えてしまうということにあるようである。

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 「このような、集団的自衛権を保有するが行使できないとする政府見解のもつ矛盾ないし論理的欠陥については、すでに佐瀬昌盛・拓殖大学教授が厳しく指摘されているところである。」との部分であるが、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する結果、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことは何ら矛盾せず、論理的欠陥も存在しない。「佐瀬昌盛」の理解不足については、当サイト「集団的自衛権の合憲性の誤解1」で解説している。

 「佐瀬教授によれば、政府見解が『首尾一貫』して集団的自衛権を否定してきたというのは欺瞞であるし、集団的自衛権を『国際法上保有していること』と『憲法上行使できないこと』との間には、論理的に飛躍があるとされる(『集団的自衛権』)。」との部分であるが、誤った理解がある。まず、憲法9条は国際法上の「自衛権」そのものを否定していない。これについては、政府解釈も砂川事件最高裁判決でも述べられている。そのため、論者、あるいは「佐瀬昌盛」が、憲法9条が「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものを否定しているかのような理解をしているところが誤りである。また、国際法上の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、その『権利』をその国内で政策上行使しなかったり、その『権利』を行使するための国内法上の統治権の『権限』が制限されていることはあり得る。そのため、この過程を理解していれば、憲法9条の下で「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができないことは論理的に導かれるのであり、「佐瀬昌盛」の「論理的に飛躍がある」との認識は誤りである。


 政府の解釈について「その結果、『自国が攻撃されていないにもかかわらず』という点のみが強調されることになり、そのような自国が直接攻撃されていない場合にまでわが国が武力行使を行うのは、『必要最小限度』を超えるものであるとの解釈が示されることになった。」と述べているが、論者には理解不足がある。

 まず、政府が「集団的自衛権」について述べる際に、「自国が攻撃されていないにもかかわらず」と述べているのは、「自国に対する武力攻撃」が発生しているのであれば、それは「個別的自衛権の行使」として違法性が阻却される区分となるのであり、「自国に対する武力攻撃」が発生しているか否かが重要な論点だからである。また、憲法9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲が「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲内に限られており、その第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たすか否かが「武力の行使」の可否を決める重要な論点となっている。そのため、論者は「自国の平和と安全を害するものとみなして、」や「その攻撃が『自国に対する攻撃』であると認めて」という文言を強調したいようであるが、そのような考え方は一つの学説としては存在しているとしても、9条解釈において論点とないる部分ではないため、9条解釈を行うにあたって省略されていても影響はない。

 次に、「そのような自国が直接攻撃されていない場合にまでわが国が武力行使を行うのは、『必要最小限度』を超えるものであるとの解釈」との部分については、「自国が直接攻撃されていない場合」とは、三要件(旧)の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たしていないことから、三要件(旧)の基準を示す「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えるという解釈である。


 「政府が集団的自衛権の行使をあくまで認めようとしない本当の理由は、平和主義を基本原則とする憲法が、自国であればともかく、他国を守るための武力行使まで認めているはずがないし、それでは『必要最小限度』の範囲を超えてしまうということにあるようである。」との部分について、「必要最小限度」とは「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の基準を示している。これを超える「武力の行使」を行うことができないことから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は許されないというものである。


(P123~124)

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 しかしながら集団的自衛権は、もともと自国と密接な関係にある国に対する攻撃を自国に対する攻撃と認め、共同して対処しようというものである。したがって、個別的自衛権の行使が認められる以上、これを担保するためにも、集団的自衛権の行使は不可欠である。それに国連憲章(五一条)、サンフランシスコ講和条約(五条(C))および日米安保条約前文によってわが国に正当に認められた集団的自衛権を行使することは、何ら不自然ではない。それどころか「戦力」は否定しつつ「自衛力」の保持を認めたり、「交戦権」を否定しながら「自衛権」の行使としての敵国兵力の殺傷や破壊は認めるなどといった解釈と比べれば、はるかにスジが通っている。

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 「したがって、個別的自衛権の行使が認められる以上、これを担保するためにも、集団的自衛権の行使は不可欠である。」との部分であるが、意味がよく分からない。国際法上において、主権国家として認められており、国連の加盟国であれば「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方の適用を受ける地位を認められている。そのため、なぜ「これを担保するため、」などという考え方が生まれるのか理解することができない。

 「それに国連憲章(五一条)、サンフランシスコ講和条約(五条(C))および日米安保条約前文によってわが国に正当に認められた集団的自衛権を行使することは、何ら不自然ではない。」との記載があるが、日本国も国際法上は「集団的自衛権」を行使して「武力の行使」の違法性を阻却することができる地位を有しているが、憲法9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約していることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことができない(行う機会がない)のであり、「国連憲章」や「サンフランシスコ講和条約」、「日米安保条約」に「集団的自衛権の行使」を行うことができる地位が記載されていたとしても、この論理は何ら影響を受けない。

 「……などといった解釈と比べれば、はるかにスジが通っている。」との部分であるが、論者は政府解釈を正確に理解できていないため、誤った前提による評価となっていることに注意する必要がある。





〇 日本大学 杉山幸一


憲法九条による自衛権の制約について ━━政府解釈を中心に━━ 杉山幸一 (日本法學 第八十二巻 第三号 2016年12月) PDF (P217〔1159〕より)


P221(1162)
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政府は、一項は侵略戦争のみを放棄し、二項で戦力は保持できないが、戦力に至らない自衛力であれば保持可能としている。その保持しうる自衛力の範囲については、必要最小限でなければならない。ただし、その具体的な限度については、社会情勢など考え相対的なものであるとしている。そのため、自衛戦争、すなわち自衛権発動に伴う必要最小限度の実力組織(自衛力)として自衛隊が存在する。自衛力とすれば憲法九条の下で武力行使が正当化される。自衛力は自衛権(国家固有の権利)を日本が有していることが前提で、現行憲法下では、自衛権行使要件をみたすとその武力行使が正当化される。
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との記載があるが、正確ではない。
 政府は9条1項の性質について下記のように答弁しており、「侵略戦争のみを放棄」していると限定しているわけではない。


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政府委員(佐藤達夫君)
(略)
……第九条の第一項においては、お言葉にありましたように、国際紛争解決の手段としては武力行使等を許さない、その趣旨はこれはずつと前から政府として考えておりますところは、他国との間に相互の主張の間に齟齬を生じた、意見が一致しないというような場合に、業をにやして実力を振りかざして自分の意思を貫くために武力を用いる、そういうことをここで言つておる……
(略)
……即ちいざこざが前にあろうとなかろうとこちらから手を出すのは、これは無論解決のための武力行使になります……

(略)

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第19回国会 参議院 法務委員会 第35号 昭和29年5月13日


 政府は9条2項の「戦力」にあたらない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であれば保持できると解していることは確かである。その保持できる実力の範囲は「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」のためのものでなければならないとしている。
 「そのため、自衛戦争、すなわち自衛権発動に伴う必要最小限度の実力組織(自衛力)として自衛隊が存在する。」との記載があるが、誤りである。政府は「交戦権」が禁じられていることにより「自衛戦争」はできないと解しているからである。


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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


また、「自衛戦争」と政府が9条の下でも許容されるとしている「自衛権発動」としての「自衛のための必要最小限度」の「武力の行使(実力行使)」は異なる概念である。論者はこれを同じものと考えている点で誤りである。もう一つ、「必要最小限度の実力組織(自衛力)」との記載があるが、政府解釈を正確に読み取ると、「自衛のための必要最小限度の実力組織」と「自衛のための」を付けて表現されていることを押さえる必要がある。
 「自衛力とすれば憲法九条の下で武力行使が正当化される。」との記載があるが、誤りである。9条の下で「武力の行使」が可能か否かは「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる三要件(旧)の範囲内であるか否かによって決せられているのであり、「自衛力」という実力組織であるか否かではない。また、この旧三要件の「武力の行使」を実施する範囲内であるか否かによって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の範囲であるか否かが決せられるものであり、「自衛力」の範囲であるから「武力の行使」が正当化されるというのは、根拠が逆である。

 「自衛力は自衛権(国家固有の権利)を日本が有していることが前提で、現行憲法下では、自衛権行使要件をみたすとその武力行使が正当化される。」との記載があるが、理解が十分でない。「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、「自衛力」は日本国の統治権の『権限』によって保持される組織である。国際法と憲法では法体系が異なるため、国際法上の「自衛権」の『権利』を有することと、日本国の統治権の『権限』によって「自衛力」を保持できるか否かは別問題である。また、「自衛権行使要件をみたすとその武力行使が正当化される。」との部分についても、国際法上の「自衛権行使要件」に該当して国際法上「正当化」されることと、憲法9条の下で三要件(旧)(政府は『自衛権行使の三要件』と呼んでいる場合がある)を満たすことで9条に抵触しないものとして「正当化」されることは別々の問題である。これを切り分けて考えていない混乱が見られる。


 P222(1164)
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とはいえ、憲法九条は自衛権を有していても戦力不保持は無条件でなされるべきとする、実質的に放棄したとする考え方と結論は同じである。
 このように、憲法九条二項の「前項の目的を達するため」という文言の解釈次第で自衛権を留保しているが事実上行使できないという解釈から、自衛戦力保持を認めた上での自衛権留保といったように幅広く解釈することが可能となる。
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とあるが、理解が十分ではない。まず、9条は日本国の統治権の『権限』が「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」、「陸海空軍その他の戦力」、「交戦権」を行使することを禁じているが、国際法上の『権利』である「自衛権」を否定していない。この意味で、9条は「自衛権」を禁じるものではないのであるが、論者の「憲法九条は自衛権を有していても」との表現には、9条の規定の中に「自衛権」という『権利』が含まれているかのような文面であり、正確ではない。
 「実質的に放棄したとする考え方と結論は同じである。」との記載があるが、9条は国際法上の『権利』である「自衛権」を禁じていないのであり、「放棄」しているわけでもない。そのため、「実質的に放棄したとする考え方と結論は同じてある。」とはならず、結論は同じではない。
 「自衛権を留保しているが」や「自衛権留保」との記載があるが、9条はもともと「自衛権」という国際法上の『権利』を否定していないのであるから、9条が「留保」しているか否かという論点は存在していない。9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の文言が範囲を限定するものと解する場合について、その対象となるのは日本国の統治権の『権限』による「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」であり、「自衛権」という国際法上の『権利』ではない。そのため、この文面は意味が通じていない。
 「自衛戦力保持を認めた上での」との部分についても、「自衛のための戦力(論者のいう『自衛戦力』)」の保持を認める解釈は芦田修正説を採用した場合の解釈であるが、その「自衛のための戦力」の文言には、既に1項で禁じた「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」を実施する「戦力」とは異なる概念であることを前提とした表現であり、この「自衛のための戦力」の保持を認めた上での「自衛権」の行使としての「武力の行使」が制限される(論者のいう『留保』)」との理解は、「自衛のための戦力」という既に1項の制約が及んでいる概念に新たに制約を課そうとするものであり、解釈過程に誤りがある。


 P222(1164)で、「ただ一方で、解釈の難解な条文であり、前述のように自衛戦争を一項で認めるが、二項で戦力を不保持とされ、結局何もできないということになる。つまり、現在の多数説では自衛権は事実上放棄したとも解すことができる。」との記載があるが、理解に誤りがある。9条は「自衛権」という国際法上の『権利』を否定していない。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が実施されない結果として、国際法上の「武力不行使の原則」に抵触する違法性を問われることがないため、「自衛権」を行使して違法性を阻却する機会がない場合は考えられる。しかし、9条によって「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』が放棄されるわけではないのである。


 P223(1165)
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現実問題として、「武力なき自衛権」は自衛権を持っていないに等しく、国家固有の権利である自衛権は日本も持っている以上、いざというとき危機管理の観点から当然行使できる体制を整えるのが政府の役割でもある。だからこそ、九条の下で自衛力を整備し、常に九条の制約を受けつつ、集団的自衛権の限定的行使容認まで解釈が展開されてきた。このような現状を踏まえるならば、憲法九条とは一体何を求めている条文なのか。自衛権を有する以上、九条によりその自衛権の内容も決まってくる。しかし、九条は自衛権による武力行使については何も書いていない。
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との記載があるが、理解に混乱が見られる。
 まず、国際法上の「自衛権」の概念は、現在は「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念である。そのため、通常は「自衛権」を行使する場面とは、国家が「武力の行使」を実施したことによって「武力不行使の原則」による違法性の責任を問われる段階である。このことから、現在の国際法上は通常「自衛権の行使」が為される場合には、「武力の行使」が伴っていることとなる。ただ、「武力なき自衛権」という言葉で使われている「自衛権」の意味は、単なる自衛を目的として国家が何らかの措置を採ることが正当化される国際法上の『権利』とでもいうぐらいの意味であり、「武力の行使」と直接的な関係性を持たない概念で用いていると思われる。
 論者が「『武力なき自衛権』は自衛権を持っていないに等しく、」と表現している部分であるが、国際法上の『権利』を有していることと、日本国の統治権の『権限』の存否には直接的な因果関係がない。また、「武力なき自衛権」という『権利』を持っており、同時に「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』としての「自衛権」を同時に持つことも可能である。『権利』を有することそれ自体に、矛盾抵触はないのである。
 「国家固有の権利である自衛権は日本も持っている以上、いざというとき危機管理の観点から当然行使できる体制を整えるのが政府の役割でもある。」との記載があるが、国際法上の『権利』を有していても、日本国の統治権の『権限』の行使の可否は憲法上で正当化されているかによるものであり、国際法上の『権利』を有していることを根拠として憲法上「当然行使できる」ことにはならない。論者は国際法上の『権利』を有していれば憲法上でも行使できるかのように考えているようであるが、憲法上で正当化される日本国の統治権の『権限』は国民主権原理の過程を経ることによって正当化されているのであり、国際法とは法源が異なることを理解していない。
 「だからこそ、九条の下で自衛力を整備し、常に九条の制約を受けつつ、集団的自衛権の限定的行使容認まで解釈が展開されてきた。」との記載があるが、誤りである。先ほど述べたように、論者の前提としている論理が誤っているため「だからこそ、」の接続詞を受ける形で論理を展開することはできない。また、2014年7月1日閣議決定以降の「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないため、9条に抵触して違憲である。憲法9条に違反する『権限』は政府に対して授権されていないため「政府の役割」を逸脱するものである。
 「このような現状を踏まえるならば、憲法九条とは一体何を求めている条文なのか。」との記載があるが、政府は9条の範囲内でしか『権限』を有していない。論者は2014年7月1日閣議決定が「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしている現状を踏まえた上で9条が「何を求めている条文なのか」を検討しようとする姿勢であるが、9条が「何を求めている条文なのか」を検討した上で2014年7月1日閣議決定が「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を容認しようとしている事柄の適否を考える必要があるのであって、論理が倒錯している。論者の姿勢では、必要性に合わせて法の規範を踏み越える試みなのであって、法に基づいて政府の行為を正当化する法治主義のプロセスを無視するものとなっている。
 「自衛権を有する以上、九条によりその自衛権の内容も決まってくる。」との記載があるが、誤りである。「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、この内容を決めるのは国際司法裁判所である。9条によって「自衛権の内容」が決まることはない。
 「しかし、九条は自衛権による武力行使については何も書いていない。」との記載があるが、9条は国際法上の『権利』である「自衛権」の範囲内であるか否かにかかわらず、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」などを制約している。9条解釈によって「武力の行使」の範囲を確定していく作業を行うことができる以上、「何も書いていない。」との理解は正確ではない。


 P223(1165)で、「わが国は、政府解釈によれば現在自衛権を保持し、行使できるとしている。そのために、日本は自衛隊を保持しているわけである。」との説明があるが、論理展開に誤りがある。まず、日本国が国際法上「自衛権」という『権利』を有し、国際法上それを行使することを制限されていないことは確かである。しかし、このことと日本国の統治権の『権限』が「自衛隊」を保持していることとの間には、直接的な因果関係はない。国際法上の『権利』と、憲法上の『権限』の範囲については、別問題である。論者のように、「そのために、」と文を接続して論理を展開することはできないのである。


 P224(1166)で、「この時期はまさに『武力なき自衛権』を主張している時期であり、当然武力行使は認めていない。この解釈から、さらに社会情勢の変化を受けて、解釈を変更し、組織を警察予備隊から保安隊・警備隊とし、昭和二九年に自衛隊とした。」との記載があるが、誤りである。
 「自衛権」という『権利』を有していることと、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるか否かの問題は別問題であり、因果関係がない。そのため、「武力なき自衛権」を主張している時期であっても、「当然武力行使は認めていない。」との結論に繋がるわけではない。
 「この解釈から、さらに社会情勢の変化を受けて、解釈を変更し、」との部分についても、「武力行使は認めていない」という論者の見解が不正確なものであるから、もともと「武力の行使」あるいは「実力行使」が禁じられていたとする前提がないため、「社会情勢の変化を受けて、解釈を変更し、」との認識が誤りである。解釈が変更されたわけではない。


 P224(1166)
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 自衛隊が設立されたとき、大村防衛庁長官は「憲法九条は、独立国として我が国が自衛権を持つことを認めている。従って自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、なんら憲法に違反するものではない ( 17 ) 」とし、さらに林法制局長官も「国家が自衛権を持っておる以上…、憲法が…、今の自衛隊のごとき、国土保全を任務とし、しかもそのために必要な限度において持つところの自衛力というものを禁止しておるということは当然これは考えられない ( 18 ) 」とした。
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( 17 )の大村防衛庁長官の答弁については下記のものである。

第21回国会 衆議院 予算委員会 第2号 昭和29年12月22日

 

 ただ、この答弁についても正確な表現ではない。なぜならば、日本国が独立国として国際法上「自衛権」という『権利』が認められていることと、日本国の統治権の『権限』によって「自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊」を設けることができるか否かには因果関係がないからである。

( 18 )の林法制局長官答弁については下記のものである。

第21回国会 衆議院 予算委員会 第1号 昭和29年12月21日

 

 この答弁についても、正確な表現ではない。日本国が国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していても、憲法上で正当化される日本国の統治権の『権限』の存否とは因果関係がないからである。憲法9条が「今の自衛隊のごとき、国土保全を任務とし、しかもそのために必要な限度において持つところの自衛力というもの」を禁じているか否かの論点は、国際法上の「自衛権」という『権利』を日本国が適用を受ける地位を有しているか否かとは関係ないのである。
 国際法上の法源と憲法上の法源の違いを理解すると、この答弁が十分な正確さをもって説明されているわけではないことが明らかとなる。論者はこの答弁に惑わされているようであるが、政府答弁に示された文言のみが根拠となると考えるのではなく、その裏にある法学上の理論的な整合性を丁寧に精査してことが必要である。


 P225(1167)で、「ここで必要最小限度の実力=自衛力であり、それが自衛隊ということになる。」との記載があるが、政府が答弁しているように「自衛のための必要最小限度の実力」が「=自衛力」となるものであり、「必要最小限度の実力」と「自衛のための」を省いた表現は正確ではない。


 P225(1167)で、「すべては国家固有の自衛権を保有するということから始まり、その実力組織の改編を解釈で乗り切ることで、ここまで来ている状態である。すなわち、憲法九条ができた当初の解釈から武力行使を可能にした解釈に変更されたことで、憲法九条の内容がかなり変わったとみるべきである。」との記載があるが、誤りである。
 国際法上の「国家固有の自衛権」という『権利』を有していても、日本国の統治権の『権限』は憲法によって正当化されるのであり、憲法上で禁じられた『権限』は行使することができない。論者は国際法上で『権利』が認められたならば、日本国の統治権の中に『権限』が生まれると考えている点で誤りである。
 また、もともと9条は「自衛権」という『権利』を否定していないのであり、それを根拠に「実力組織の改編を解釈で乗り切る」ことが行われていたかのような認識も誤りである。政府は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」は9条2項が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に当たらないと説明しており、「実力組織の改編」に関して解釈が変更されているわけでもない。
 「憲法九条の内容がかなり変わったとみるべきである。」との部分についても、論者の「自衛権」の概念の理解に誤りがあるために「かなり変わった」ように見えているだけであり、2014年7月1日閣議決定までは政府の9条解釈は表現が変化している場合があるにしても、法規範としての限界に関しては実質的には変わっていない。そのため、「憲法九条の内容がかなり変わったとみるべき」との認識は誤解である。


 P225(1167)で、「そこで、自衛力は自衛権行使のために必要であるが、果たして憲法九条二項の下でどこまで可能であるのか、さらに言えば平成二八年から施行された平和安全法制による集団的自衛権の限定的行使が可能かどうか。」との記載があるが、政府は従来より「自衛力」の範囲は「自衛のための必要最小限度のものでなければならない」としている。この「自衛のための必要最小限度」とは、旧三要件のことである。「平成二八年から施行された平和安全法制による集団的自衛権の限定的行使」に関してであるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は旧三要件の範囲ではないため、「自衛のための必要最小限度」の範囲内とは言えない。また、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分にも適合しないことから、9条に抵触して違憲となる。


 P226(1168)で、「これがいわゆる『武力なき自衛権』である。しかし、この武力なき自衛権は、結局自衛権は有害として九条の下では認めないとした解釈から、武力は伴わないが、国家の自衛権については否定することはなくなった ( 22 ) 。」との記載があるが、認識に混乱がある。まず、「自衛権」は国際法上の『権利』であり、9条はこれを否定していない。そのため、「自衛権は有害として九条の下では認めないとした解釈」がそもそもなされておらず、誤りである。また、「自衛権の行使」に「武力の行使」を伴うものと、伴わないものの二種類があるとしても、9条は「自衛権」を制約する規定ではないため、関係がない。9条は単に日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」等を制約しているだけである。


 P226(1168)で、「すなわち、ここに至って、自衛権の否定から武力を伴うものではないが国家固有の権利とされる自衛権について認めたことは、まず解釈が変更されたとみていいのではないだろうか。」との記載があるが、誤りである。9条は「自衛権」という国際法上の『権利』を否定していない。また、もともと日本国が主権国家である以上、国際法上では「自衛権」の適用を受ける地位を認められているのであり、これを新たに創設する形で「認めた」などという事実が存在しない。そのため、「解釈が変更されたとみていいのではないだろうか。」との認識についても、論者の概念理解が誤っているための混乱であり、解釈が変更されているわけでもない。


 P227(1169)で、「少なくとも、警察予備隊が創設される以前では、自衛権を放棄していないが、二項の『戦力不保持』により実質的に放棄しているに等しいとしていることから、自衛権の存在を認め『武力なき自衛権』という概念に変更された。」との記載があるが、誤りである。9条は「自衛権」を否定していないため、「自衛権を放棄」しているわけではない。「二項の『戦力不保持』」であるが、これは日本国の統治権の『権限』によって「陸海空軍その他の戦力」の保持が否定されているものであり、国際法上の『権利』を否定する趣旨ではない。そのため、「実質的に放棄しているに等しいとしている」との認識は、誤りである。実質的にも放棄していないのである。「自衛権の存在を認め『武力なき自衛権』という概念に変更された。」との部分についても、国際法上「自衛権」は常々認められており、「『武力なき自衛権』という概念に変更」されることもない。国際法上の『権利』と憲法上の『権限』の違いを理解する必要がある。

 P228(1170)で、「この時期は、まだ警察予備隊であり、未だに『武力なき自衛権』という見解を維持している時期のため、武力を伴う通常の自衛権を前提とした集団的自衛権については、日本は採用できないとするのは当然であるといえる。」との記載があるが、誤りである。まず、日本国も国際法上は「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の適用を受ける地位を認められている。ただ、9条によって「武力の行使」が制限される結果、「集団的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」については、実施されることがないため、結果として「集団的自衛権の行使」を行う機会がないのである。これは、「武力なき自衛権」であるか否かという問題とは関係がない。


 P228(1170)で、「自衛権行使の三原則を掲げ、自衛隊という実力組織を前提とした自衛権という解釈に変化している。」との記載があるが、誤りである。まず、「自衛権」は国際法上の『権利』であり、これは日本国の統治権の『権限』の存否や範囲には直接的な関係がない。そのため、日本国の統治権の『権限』が「自衛隊という実力組織」を保持していても、国際法上「自衛権」という『権利』が適用されるか否かには全く関係がない。そのため、「自衛隊という実力組織を前提とした自衛権という解釈に変化している。」などと、「自衛隊」の存在が「自衛権」の形に影響を及ぼしているかのような理解は誤りである。「自衛権行使の三原則」であるが、これは日本国の統治権の『権限』が行った「武力の行使(実力行使)」が行われた場合での、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を行使する側面から評価した表現である。そのため、憲法上の『権限』で表現するのであれば、「武力の行使の三要件」、あるいは「実力行使の三要件」と表現するべきものである。ここで論者が「三原則」としているが、「三要件」が正確な表現である。


 P228(1170)で、「このように自衛権の解釈変更により、その存在が認められた自衛隊であるが、」との記載があるが、誤りである。国際法上の概念である「自衛権」の解釈は国際司法裁判所の管轄事項であり、日本国の統治権の『権限』が勝手に解釈変更することはできない。また、9条解釈も従来より変更されておらず、解釈変更によって「自衛隊」が認められたかのように考えている部分も正確ではない。


 P229(1171)
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同年一二月二二日には鳩山内閣の自衛権に関する統一見解を示し、「憲法は自衛権を否定していない。 ・・・わが国が自衛権を持つていることはきわめて明白である」、「憲法九条は、独立国としてわが国が自衛権を持つことを認めている。従つて自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設けることは、何ら憲法に違反するものではない ( 30 ) 」とした。
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( 30 )は、下記の会議録である。

第21回国会 衆議院 予算委員会 第2号 昭和29年12月22日

 

 ただ、この答弁も国際法上の「自衛権」という『権利』を有していることを根拠として日本国の統治権の中に「自衛隊のような自衛のための任務を有し、かつその目的のため必要相当な範囲の実力部隊を設ける」ための『権限』が生まれるかのように表現されている部分は正確ではない。政府も十分に認識を整理できていない部分である。


 P229(1171)
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 自衛隊が創設された時点で、日本国の自衛権は憲法によって否定あるいは禁止されるものではなく、保有していることが明白になった。ここにおいても社会情勢や時代の変化に応じて、「武力なき自衛権」から一般的に認識される「武力を前提とした自衛権」へと憲法九条の解釈を変更したとみるべきである。
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 との記載があるが、誤りである。まず、日本国は国際法上の「自衛権」をもともと有しているし、9条もこれを否定していない。そのため、9条が「自衛権」を否定していることが前提であったかのように論じようとしている部分が誤りである。もともと日本国が国際法上において「自衛権」という『権利』の概念の適用を受ける地位を有していることは明白である。これは「自衛隊が創設された時点」によって明白になったわけでもないため、「自衛隊」の創設と関連させて説明しようとしている部分も誤りである。
 「社会情勢や時代の変化に応じて、『武力なき自衛権』から一般的に認識される『武力を前提とした自衛権』へと憲法九条の解釈を変更したとみるべき」との部分についても、「自衛権」が国際法上の概念であることを押さえれば、この『権利』が「武力」を伴うものであったとしても、なかったとしても、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」ができるか否かとは直接的に関係がない。「自衛権」の性質については国際司法裁判所の管轄事項であり、日本国の政府機関が勝手に解釈変更することはできない。また、9条が「武力の行使」等を制約していることとは関係がなく、「憲法九条の解釈を変更した」との事実もない。誤りである。


 P230(1172)
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これは、憲法九条、特に戦力不保持によって日本は自衛力の保持を認め、他国を守るために共同して武力攻撃に対処することまで認めていないことで、国際法上認められた国家固有の権利たる自衛権、特に集団的自衛権の制限をしているといえるであろう。
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 「憲法九条、特に戦力不保持によって日本は自衛力の保持を認め、」との部分であるが、9条2項が「陸海空軍その他の戦力」を禁じていることによって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持が認められるとの部分には論理展開に不備がある。政府は「戦力不保持」によって「自衛力の保持」が認められるわけではなく、「自衛力」が「戦力」に該当しないことを理由に保持が認められるとしているだけである。
 「他国を守るために共同して武力攻撃に対処することまで認めていないことで、」との記載があるが、「他国を守るため」の「武力の行使」を実施することは9条2項の「陸海空軍その他の戦力」とは異なるものと説明することには無理があることや、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の「武力の行使」を超えることから認められないのである。
 「国際法上認められた国家固有の権利たる自衛権、特に集団的自衛権の制限をしているといえる」との部分であるが、誤りである。9条は「自衛権」という『権利』を制限していない。「集団的自衛権」という概念そのものについても、制限していない。9条は「武力の行使」を制約しており、日本国の統治権の『権限』が行使できる範囲が「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の範囲に限られることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が認められないだけである。


 P231(1173)
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つまり、海外で他国の領土において他国を援助するために武力行使をすることは、憲法が認める自衛権には入らない、このような武力行使はまさに海外派兵であり、本来の意味での自衛権(自国を守るという意味)ではないため、憲法九条によって制限されている見るべきである。
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 「憲法が認める自衛権には入らない」との部分であるが、9条は「自衛権」を制約しておらず、憲法は「自衛権」を認めたり否定したりしていない。
 「海外で他国の領土において他国を援助するために武力行使をすること」であるが、「海外派兵」に関しては一般に「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の範囲を超えることを理由として認められていない。また、「他国を援助するために武力行使をすること」であるが、これは『他国防衛』のための「武力の行使」であり、これを実施する組織を9条2項が禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないとすることができないことから認められないものである。
 「このような武力行使はまさに海外派兵であり、本来の意味での自衛権(自国を守るという意味)ではないため、憲法九条によって制限されている見るべきである。」との記載があるが、誤りがある。9条は「自衛権」という『権利』を制約しておらず、「自衛権」が「本来の意味」か否かは関係がない。また、9条の下で「海外派兵」が禁じられているのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」からであり、「自衛のための必要最小限度」と呼んでいる旧三要件の範囲を超えることが理由である。9条が直接的に「海外派兵」という概念に該当するか否かを基準に制約を加えているかのように考えている部分が誤りである。


 P231(1173)
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 同年一一月二六日の衆議院内閣委員会において赤城防衛庁長官も海外派兵はやらない、「日本の自衛力というものはほんとうに自衛のためのものだけで、ほかは自衛のためといっても外へ出ることができるのです。ところがそういうことはできないのが日本の憲法の建前であります ( 33 ) 」と、外へ出ることを前提とする自衛権、すなわち海外に出ていて自衛権を行使することは、他国とは違い憲法によって認められないということを示しているものといえる。この解釈から、集団的自衛権のみならず、個別的自衛権も含め、憲法九条によって自衛権そのものが制限されているとみることができよう。
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( 33 )は、下記の会議録である。

第33回国会 衆議院 内閣委員会 第5号 昭和34年11月20日

 

 「外へ出ることを前提とする自衛権、すなわち海外に出ていて自衛権を行使することは、他国とは違い憲法によって認められないということを示しているものといえる。」との記載があるが、誤りである。政府は日本国の統治権の『権限』が「武力の行使(実力行使)」する場合には9条に抵触しないための基準として「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を課している。この範囲内であれば「合憲」、この範囲を超えたならば「違憲」と解している。「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ために違憲と解され、許されないとしているのである。論者は「外へ出ることを前提とする自衛権」であるか否かが「合憲」「違憲」の判定基準であるかのように考えているようであるが、政府解釈を理解できていない。また、「自衛権」は国際法上の概念であり、これが「外へ出ることを前提とする」か否かという議論自体が存在しない。「他国とは違い憲法によって認められない」との部分であるが、他国と違うことは自国の憲法によって行使が許されている「武力の行使」の範囲であり、「自衛権」という国際法上の『権利』の適用を受ける範囲が異なるわけではない。「示しているものといえる。」の部分についても、そのように「示しているもの」とは言えないため誤りてである。
 「憲法九条によって自衛権そのものが制限されているとみることができよう。」との記載があるが、9条は「自衛権」そのものを制限していない。これは、砂川判決でも「同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、」と示していることによっても確認できる。「みることができよう。」との部分であるが、見ることはできないため誤りである。


 P231(1173)
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 さらに同年一二月に下された砂川事件最高裁判決では、「主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」、日本の平和主義は決して無防備・無意識のものではないとした。つまり、国際法的に認められている自衛権、国連憲章第五一条の個別的、集団的自衛権は日本においても法的に否定されるものではない ( 34 ) 。ただ自衛権の行使は、結局憲法九条によって、制約されると解することができる。つまり国内法的には憲法が条約より優位に立つため、国際法上認められていてもそれを国内でどのようにするのかは各国の事情によって異なる。ではどの程度の制約なのかは、これは政策論である。
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 「ただ自衛権の行使は、結局憲法九条によって、制約されると解することができる。」との部分であるが、9条は「自衛権」そのものを制約していない。「自衛権の行使」が他国よりも狭い範囲となる理由は、「自衛権の行使」が国際法上の「武力不行使の原則」の違法性阻却事由の『権利』を行使する意味であることから、実質的に「武力の行使」が行われていることが前提となるが、9条が「武力の行使」を制約することによって、日本国の統治権の『権限』により発動される「武力の行使」の範囲が狭く、結果として「自衛権の行使」を行って違法性を阻却しなければならない幅が他国よりも狭い範囲となることが理由である。
 「つまり国内法的には憲法が条約より優位に立つため、国際法上認められていてもそれを国内でどのようにするのかは各国の事情によって異なる。」との記載があるが、国際法上『権利』を有するとしてもこれを行使するか否かは各国の憲法によって決められる問題であるから、矛盾抵触はない。そのため、この場面で「憲法が条約より優位に立つ」という憲法優位説とは直接的に関係はない。


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○秋山政府特別補佐人 ……(略)……国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
(略)
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第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


 「ではどの程度の制約なのかは、これは政策論である。」との記載があるが、9条の制約がどの程度の制約かは「法律論」であるため、誤りである。9条の制約が「法律論」としていくつかの選択肢がある場合にはそのどのルートを採用するかは「政策論」となる余地があるが、「政策論」として9条の規範(『法律論』として示されている規範)を超えることができたり、「政策論」として9条の規範を設定することがもともと可能であるかのように考えているのであれば誤りである。


 P232(1174)~233(1175)
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これまでの政府解釈や砂川判決から、日本は自衛権を認め、さらに武力行使を伴う自衛権へと解釈が変更され、その自衛権を行使するための実力組織を自衛隊とした。そして昭和三五年一月に新安保条約を締結した。同年三月三一日参議院予算委員会において岸首相は「いわゆる集団的自衛権というものの本体として考えられておる締約国や、特別に密接な関係にある国が武力攻撃をされた場合に、その国まで出かけて行ってその国を防衛するという意味における私は集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない、かように考えております。 ・・・集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております ( 35 ) 」と述べている。つまり、岸首相がのべているのは、前述の下田局長や林法制局長官が述べているように自衛権発動に伴う海外派兵(共同防衛協定や相互安全保障条約などを締結している密接な関係にある他国が攻撃されたときに、自国の攻撃とみなして他国の領域で攻撃を加える)は憲法上認められない。すなわちそれが典型的な集団的自衛権であり、日本国憲法は認めていないとする。ただし、集団的自衛権は典型的な場合のみとは限らず、「他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守る」という形の集団的自衛権行使の余地を残している。岸首相は「海外派兵」を含まない集団的自衛権の限定的行使を認めたと言っても過言ではない。
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 「武力行使を伴う自衛権へと解釈が変更され、」との記載があるが、「自衛権」は国際法上の概念でありその解釈は国際司法裁判所の管轄事項である。そのため、日本国の政府が「自衛権」の内容を解釈変更したような認識は誤りである。
 「という意味における私は集団的自衛権は、日本の憲法上は、日本は持っていない、かように考えております。」や「その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。」との記載があるが、この答弁の段階では「集団的自衛権」が国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』として機能する概念として整理されておらず、「集団で何らかの防衛行動を取る権利」ぐらいの意味として用いられていると思われる。ただ、その後の1972年(昭和47年)政府見解(集団的自衛権と憲法との関係 内閣法制局 昭和47年10月14日)では「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」と示していることや、政府答弁でも秋山政府特別補佐人が「集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、(第159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日)」と述べている通り、日本国も「集団的自衛権」という『権利』そのものは有している。そのため、「日本の憲法上は、日本は持っていない」や「これは持てない。」との答弁の部分に関しても、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を制約されていることにより、これを行使することができない(行使する機会がない)との意味であると捉えるのが妥当である。

 「他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、」との部分であるが、これは先ほどの「集団的自衛権」の意味を「集団で何らかの防衛行動を取る権利」ぐらいで考えた場合に、当然そのような行動を取ることが許されるとしているものであると考えることが妥当である。なぜならば、現在は「集団的自衛権」の概念は「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』として整理されており、自国(日本国)の基地が武力攻撃を受けた場合には、それを排除する日本国の「武力の行使」に対して課せられる国際法上の違法性は「個別的自衛権」によって阻却されるのであり、「集団的自衛権」を行使するのは日本国を防衛するために「武力の行使」を実施する他国だからである。この答弁も、未だ「集団的自衛権」の概念が確立していない段階で答弁されたものと考えられ、この答弁で用いられた文言をそのまま根拠とする理解は整合性を欠くために注意が必要である。

 「つまり、岸首相がのべているのは、前述の下田局長や林法制局長官が述べているように自衛権発動に伴う海外派兵(共同防衛協定や相互安全保障条約などを締結している密接な関係にある他国が攻撃されたときに、自国の攻撃とみなして他国の領域で攻撃を加える)は憲法上認められない。すなわちそれが典型的な集団的自衛権であり、日本国憲法は認めていないとする。」との部分であるが、誤りである。「集団的自衛権」の概念に「典型的」なものとそうでないものがあるかのような前提に立っているが、「集団的自衛権」にそのような区分は存在しない。また、9条は「自衛権」を否定しておらず、「日本国憲法は認めていないとする。」のように、日本国憲法が「集団的自衛権」を認めていないかのような認識は誤りである。また、「海外派兵」が憲法上許されないとされているのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」とされているからであり、「典型的な集団的自衛権」であるか否かという話とは関係がない。

 「岸首相は『海外派兵』を含まない集団的自衛権の限定的行使を認めたと言っても過言ではない。」との記載があるが、誤りである。政府が「海外派兵」が憲法上許されないとしてるのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」としているためであり、具体的には三要件(旧)の範囲を超えることが理由である。日本国の統治権の『権限』の行使は旧三要件の範囲に限られており、旧三要件によって「海外派兵」が一般に許されないとされているにもかかわらず、「海外派兵」でないならば「集団的自衛権の行使」も可能となるのではないかとの話は、前提として日本国の統治権の『権限』の行使が旧三要件の範囲に限られていることを理解していない誤りである。「言っても過言ではない。」との部分についても、単なる誤解に基づく主張であり、「集団的自衛権の行使(それを限定行使と言おうとも)」は認められない。


 P233(1175)
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 もはや、自衛権の問題はその行使の形態、特に集団的自衛権について、保有するがその行使の方法については、憲法の制限を受けるという議論が流れとなっている。そして、松本善明衆議院議員の質問趣意書に対する佐藤栄作首相の答弁書の中で自衛権を行使し得る地理的範囲に対する政府解釈がなされ、「わが国には固有の自衛権があり、その限界内で自衛行動をとることは憲法上許されるとの見解のもとに、いわゆる「海外派兵」は、自衛権の限界をこえるが故に、憲法上許されない」としながらも、「かりに、海外における武力行動で、自衛権発動の三要件(わが国に対する急迫不正な侵害があること、この場合に他に適当な手段がないこと及び必要最少限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではないと考える ( 36 ) 」と述べている。
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 「特に集団的自衛権について、保有するがその行使の方法については、憲法の制限を受けるという議論が流れとなっている。」との記載があるが、9条は「集団的自衛権」という『権利』を直接制約している規定ではない。また、「集団的自衛権の行使」が憲法上許されないする理由は、「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の範囲を超えるためである。具体的には1972年(昭和47年)政府見解でも示されているように「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たさないことにより、憲法上許されないのである。この前提を正確に理解する必要がある。
 「自衛権を行使し得る地理的範囲」についてであるが、この「海外派兵」が憲法上許されないとされているのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」としているからであり、その「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)を意味する。論者が示している根拠にあるように、三要件(旧)に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としても「海外派兵」も可能となるのである。


 P233(1175)で、「この時期より、自衛権に関する中心的な論点はその範囲の問題となっていく。」との記載があるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であり、9条はこれを制約していないため、その範囲は問題となっていない。日本国の統治権の『権限』が行使し得る「武力の行使(実力行使)」の範囲については、三要件(旧)が示されており、特に問題となっていない。


 P234(1176)
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 そして、安倍内閣以前まで憲法解釈として確固たる地位にあったのが、昭和五六年の内閣法制局による政府答弁書である。この答弁書の中では集団的自衛権の定義について「国際法上、国家は、集団的自衛権、すなわち、自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず、実力をもつて阻止する権利を有しているものとされている」とし、「我が国が、国際法上、このような集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然であるが、憲法第九条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるものであつて、憲法上許されないと考えている ( 38 ) 」とし、いわゆる集団的自衛権は保有するが行使は許されない、という憲法解釈が出された。この答弁書における集団的自衛権の解釈ポイントは、自衛権行使はわが国を防衛するためであり、他国への攻撃を阻止するために行うものではないということである。他国への攻撃阻止を目的とした自衛権による武力行使は認められないとする。
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 「この答弁書における集団的自衛権の解釈ポイントは、自衛権行使はわが国を防衛するためであり、他国への攻撃を阻止するために行うものではないということである。」との記載があるが、誤りである。ここでポイントとなっているのは、9条の下で許容される「自衛権の行使」としての「武力の行使(実力行使)」は「我が国を防衛するため必要最小限度(『自衛のための必要最小限度』と同じ意味)」という三要件(旧)の範囲に限られることから、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うことはその範囲を超えるため憲法上許されないとしていることである。これは、「自衛権行使はわが国を防衛するためであり、」としているわけではなく、「自衛権の行使」は「我が国を防衛するため必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られることを示したものである。そのため、論者のように憲法上の制約による規範が「他国への攻撃を阻止するために行うものではないということである。」という部分に引かれているかのように考えることは誤りである。
 「他国への攻撃阻止を目的とした自衛権による武力行使は認められないとする。」との記載もあるが、「我が国を防衛するため必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」が認められないとしているだけであり、「他国への攻撃阻止を目的とした」「武力行使」であるか否かを直接的に示したものではない。


 P234(1176)~235(1177)
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またこのいわゆる集団的自衛権の行使は他国への攻撃を阻止するためであるので、必然的に他国での戦闘を前提としている。その他国での戦闘に自衛隊が参加して武力行使をするということになる。ということは、憲法九条が許していない、制限している自衛権とは相変わらず他国の領域においての武力行使であり、すなわち「海外派兵」ということになる ( 39 ) 。
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 「憲法九条が許していない、制限している自衛権とは相変わらず他国の領域においての武力行使であり、すなわち『海外派兵』ということになる ( 39 ) 。」との記載があるが、誤りである。9条は「自衛権」を対象とした規定ではなく、制限していない。9条で禁じられているのは政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超える「武力の行使」であり、「他国の領域においての武力行使」であるか否かが直接的な規範となっているわけではない。また、「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ことにより憲法上許されないとしているのであり、9条が「海外派兵」を直接的に制約しているかのような認識は誤りである。


 P235(1177)~236(1178)
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平成二一年一一月四日衆議院予算委員会において鳩山首相は「同盟関係を結んでいる一方のアメリカの本土が、…攻撃を受けたときに、果たして日本がそれに対して武力行使というものを行ってよいかどうかという発想があります。そういった発想が、…憲法九条の中で日本がとるべきではないといっている集団的自衛権 ( 42 ) 」であるとした。つまり、この発言はまさに「海外派兵」を前提とした集団的自衛権の行使はできないということである。
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 との記載があるが、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に限られるというところに9条の制約の規範が存在するのであり、「集団的自衛権」という『権利』の性質がどのようなものかを説明したところで、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」の範囲は変わらない。そのため、「この発言はまさに『海外派兵』を前提とした集団的自衛権の行使はできないということである。」と結論付けようとしている部分は、誤りである。


 P236(1178)~237(1179)

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この閣議決定による政府解釈は、自衛権行使について「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」がある場合、必要最小限度の範囲で行使を認めるとした昭和四七年解釈を援用した上で、認めている。さらに自衛権行使に伴う「武力の行使」には、集団的自衛権があるとしたが、これを全て認めるのではなく日本の存立を危うくし、国民を守るためのやむを得ない場合に行使をするとした。つまり、佐藤首相の答弁書の内容(自衛権の地理的範囲について)をより詳細にしたとみることができ、さらに集団的自衛権限定的行使の内容について、岸首相が述べていた限定的行使(アメリカ軍駐留)の範囲を拡大したとみることができる。
 また、NATOのような相互安全保障条約によって、自国に向けられた攻撃ではないにも関わらず、同盟国が攻撃された場合、自分の国への攻撃と見なして、協同して侵略行為に対処するという最も典型的な集団的自衛権(海外派兵を含む)の行使は、この解釈ではできないことになっている。これは従来から答弁が繰り返されてきた内容と変わらないといえよう。
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 「『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』がある場合、必要最小限度の範囲で行使を認めるとした昭和四七年解釈を援用した上で」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解が「自衛の措置」の限界として示した規範は「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」である。単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があれば「自衛の措置」をとってもいいとしているわけではないのである。
 「自衛権行使に伴う『武力の行使』には、集団的自衛権があるとしたが、」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の文言は、「国際法上は、集団的自衛権が根拠となる場合がある。」と記載されているため正確ではない。また、論者の日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の中に「集団的自衛権」という『権利』が存在するかのような認識は論理的に意味が通じていない。
 「最も典型的な集団的自衛権(海外派兵を含む)の行使は、この解釈ではできないことになっている。」との記載があるが、「集団的自衛権」という『権利』の区分に「典型的な」ものとそうでないものがあるかのような認識は誤りである。また、「海外派兵」については、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲を超えるか否かによって決せされているのであり、「典型的な集団的自衛権」であるか否かによって決せられているかのような認識は誤りである。


 P237(1179)~238(1180)で、「ここまでの解釈の変遷を見ていると、憲法九条はまったく変わっていないのに、解釈による運用によって内容が変わっていったことがわかる。まさに『生きた憲法』、国際情勢など社会の変化に応じてその都度、妥当な運用は何であるのかを政府が考えてきた結果であるといえる。」との記載があるが、誤りがある。「ここまでの解釈の変遷を見ていると、」について、論者のいう「ここまでの解釈」は理解に誤りがあり、正確な解釈においては2014年7月1日閣議決定以前までは一貫した解釈であり、「変遷」していない。また、「解釈による運用によって内容が変わっていった」との部分についても、解釈の内容は従来より一貫しており、内容も2014年7月1日閣議決定までは変わっていない。2014年7月1日閣議決定で設けられた新三要件の「存立危機事態」についても、違憲であるため、無効である。「国際情勢など社会の変化に応じてその都度、妥当な運用は何であるのかを政府が考えてきた結果であるといえる。」との部分についても、正確な理解に基づけば9条解釈は変わっておらず、「国際情勢など社会の変化」によっても影響を受けていない。「その都度」解釈を変えてきたかのような認識は誤りである。2014年7月1日閣議決定の「存立危機事態」の要件については、2014年7月1日閣議決定自身が採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に適合しないため、違憲・無効である。


 P238(1180)
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 また、憲法制定直後、自衛権に関してその保有を否定し、さらに「武力なき自衛権」という解釈から自衛隊という実力組織を前提とした自衛権になった。これは憲法解釈の変更がなされたとみていい。この解釈変更により、日本は武力を前提とした自衛権行使が可能となった。しかし、あくまで「必要最小限度の実力」でなければならないが、問題は解釈によってわが国の自衛権行使の運用がなされる中で、政府見解や百地教授は憲法九条により制限されているとする。では、憲法九条が「必要最小限度の実力」の限界、すなわち自衛権行使において自衛隊の武力行使を具体的にどのように制限しているのか。
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 「自衛権に関してその保有を否定し、」とあるが、9条は「自衛権」を否定する規定ではない。
 「『武力なき自衛権』という解釈から自衛隊という実力組織を前提とした自衛権になった。」についても、「自衛権」は国際法上の『権利』の概念であり、日本国政府が勝手に意味を変更することはできない。そのため、「自衛権」の概念の解釈が日本国政府によって変更された事実はないし、「自衛隊という実力組織を前提とした自衛権」の部分も意味が通じていない。
 「これは憲法解釈の変更がなされたとみていい。」とあるが、憲法解釈の変更はされていない。
 「憲法九条が『必要最小限度の実力』の限界、すなわち自衛権行使において自衛隊の武力行使を具体的にどのように制限しているのか。」との記載があるが、政府は「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)によってその限界を示しており、論者の「どのように制限しているか。」という疑問は、これを知らないことによるものである。


 P239(1181)
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もし、密接な関係にある他国と共に日本の領域外あるいは相手国領域内で武力攻撃する場合は、自衛隊の「海外派兵」となり、憲法は許していない。この海外派兵こそ、歴代の内閣が憲法九条によって認められないものとしており、自衛権を制約しているとみるべきである。
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 「海外派兵」が憲法上許されないとしているのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ことによるものである。これが歴代の政府(内閣)の見解であり、9条が直接的に「海外派兵」を制約しているかのような理解は誤りである。また、9条は「自衛権」を制約していない。


 P239(1181)~240(1182)
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海外での自衛隊の武力行使について、前述のように政府は「かりに、海外における武力行動で、自衛権発動の三要件(わが国に対する急迫不正な侵害があること、この場合に他に適当な手段がないこと及び必要最少限度の実力行使にとどまるべきこと)に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではないと考える ( 47 ) 」というように、海外での自衛隊の武力行動を自衛権発動要件であれば可能であるとした。問題はここでいう「海外」という表現であるが、この場合、従来のわが国の自衛権発動三要件の「わが国に対する急迫不正の侵害がある」ということは、「我が国」が侵害されうる「海外」であり、あくまでも日本が直接侵害される可能性のある「海外」、それは近隣の公海上、あるいは空域を指すといえよう。つまり、日本は密接な関係にある他国への攻撃を自国への攻撃とみなし、他国へ出かけていってその国と共に武力行使をする集団的自衛権(典型的)は入る余地がないといえる。
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 「武力の行使」を実施できる地理的範囲についてであるが、論者も示しているように「武力の行使」の三要件(旧)(自衛権発動の三要件)によって制約されている。この三要件(旧)の範囲については、下記の政府答弁が参考になる。論者のように「それは近隣の公海上、あるいは空域を指すといえよう。」などという感覚によって確定されているわけではない。


上記の「昭和三十一年二月二十九日の衆議院内閣委員会で示された政府の統一見解」について
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○船田国務大臣
(略)
  わが国に対して急迫不正の侵害が行われ、その侵害の手段としてわが国土に対し、誘導弾等による攻撃が行われた場合、座して自滅を待つべしというのが憲法の趣旨とするところだというふうには、どうしても考えられないと思うのです。そういう場合には、そのような攻撃を防ぐのに万やむを得ない必要最小限度の措置をとること、たとえば誘導弾等による攻撃を防御するのに、他に手段がないと認められる限り、誘導弾等の基地をたたくことは、法理的には自衛の範囲に含まれ、可能であるというべきものと思います。昨年私が答弁したのは、普通の場合、つまり他に防御の手段があるにもかかわらず、侵略国の領域内の基地をたたくことが防御上便宜であるというだけの場合を予想し、そういう場合に安易にその基地を攻撃するのは、自衛の範囲には入らないだろうという趣旨で申したのであります。この点防衛庁長官と答弁に食い違いはないものと思います。
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第24回国会 衆議院 内閣委員会 第15号 昭和31年2月29日


 「日本は密接な関係にある他国への攻撃を自国への攻撃とみなし、他国へ出かけていってその国と共に武力行使をする集団的自衛権(典型的)は入る余地がないといえる。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上許されていないことは、三要件(旧)の範囲を超えることが理由である。論者のように「海外」であるか否かという範囲が決せられているものではない。


 P241(1183)
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集団的自衛権の限定的行使容認の解釈が閣議決定によりなされ、安保関連法制が整備されたことで、日本も海外で密接な関係にある他国(アメリカなど)と共に自衛のための海外で武力行使を可能とした。この場合の集団的自衛権は他国に行って、侵略された他国等とともに武力行使を行うことではなく、あくまで他国への攻撃によって日本の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が及ぶ場合に、自衛権を行使することができるとする。これは、前述の海外派兵を伴う自衛権行使(典型的な集団的自衛権)とは違い、あくまで日本に危険が及ばなければならない。端的にいえば、昭和四四年の佐藤首相の自衛権の地理的範囲に関する答弁書にある海外での自衛権行使(かりに海外における武力行動で、自衛権発動三要件に該当するものがあるとすれば、憲法上の理論としては、そのような行動をとることが許されないわけではない)に他国と共同して対処するということであり、「海外派兵」には当たらない。
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 「日本も海外で密接な関係にある他国(アメリカなど)と共に自衛のための海外で武力行使を可能とした。」との記載があるが、政府は2014年7月日閣議決定以降も、「海外派兵」が許されないとする「一般に自衛のための必要最小限度を超える」との基準は変わっていないと説明している。ただ、そうなると新三要件を制定した後においても旧三要件によって「武力の行使」を実施できる地理的範囲を決していることとなり、新三要件と旧三要件が競合する状態である。ただ、いずれにせよ新三要件の「存立危機事態」の要件は違憲であり、これを行使することはできないことから、「密接な関係にある他国(アメリカなど)と共に自衛のための海外で武力行使を可能とした。」との認識は誤りである。
 「この場合の集団的自衛権は」との記載があるが、「集団的自衛権」は違法性阻却事由の『権利』の概念であり、「この場合」などと、状況によって変化する性質を有していない。
 「『海外派兵』には当たらない。」との記載があるが、「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ために許されないが、「自衛のための必要最小限度」の範囲内であれば「海外派兵」が行い得る場合も存在することが前提である。それにもかかわらず、「『海外派兵』に当たらない。」などと、勝手に「海外派兵」ではないことにすることはできない。


 P241(1183)で、「以上みてくると『海外派兵』こそ、日本国憲法第九条が制限している武力行使の形態であり、日本ではこれが禁止され、その限りにおいて自衛権が制限されているといえる。」との記載があるが、誤りである。9条が制限しているのは「自衛のための必要最小限度」という旧三要件を超える「武力の行使」であり、これが禁止されている部分である。「海外派兵」は「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ことから憲法上許されないと考えられるが、「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲内であれば、行われることもあり得る。それにもかかわらず、「『海外派兵』こそ」などと、9条が直接的に「海外派兵」を制約しているかのような認識は誤りである。


 P242(1184)
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 結局のところ、警察予備隊が創設されて以来、政府解釈を見る限り日本では「海外派兵」が禁止されている。これは個別的自衛権だろうと集団的自衛権であろうと関係ないことである。自衛隊はあくまで自衛のための実力であり、自衛とはいうものの集団的自衛権の中には、他衛的要素が含まれる部分もある。その部分に関しては、政府は一貫して「海外派兵」と繋がるとして憲法九条が許さないとしてきている。つまり、憲法九条は「海外派兵」を許さないとしていると解することができ、これ以外は政策論の問題となる。
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 「海外派兵」が憲法上許されないとされているのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」からである。「自衛のための必要最小限度」の範囲を超えれば「違憲」、越えなければ「合憲」という意味では、「個別的自衛権」だろうと「集団的自衛権」だろうと関係ないということはその通りである。ただ、論者は「海外派兵」が憲法上許されないとされている論理がもともと誤っている。
 「自衛とはいうものの集団的自衛権の中には、他衛的要素が含まれる部分もある。その部分に関しては、政府は一貫して『海外派兵』と繋がるとして憲法九条が許さないとしてきている。」との記載があるが、誤った認識である。政府が一貫して「海外派兵」が憲法上許されないとしてきたのは「一般に自衛のための必要最小限度を超える」ことが理由であある。「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の中に「他衛的要素」が含まれようが、なかろうが、日本国の統治権の『権限』の範囲は「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲に限られているとする基準は変わらない。


 P242(1184)~243(1185)
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しかし、自衛の中でも集団的自衛権になると、「海外派兵」の要素を持った武力行使を含むことになる。すなわち、「我が国以外の第三国に別の国から武力攻撃が加えられても、これによってわが国の国民全体の生命等に危険が及ぶことはあり得ない ( 49 ) 」ことから、他衛的要素を含むものである。この部分を含んだ集団的自衛権は歴代の解釈を見てきたように日本が九条によって許されていないものとしてきているため、政府解釈によると憲法九条は「海外派兵」を許していないといえよう。それゆえ、百地教授がおっしゃっているように憲法九条によって自衛権は制約されるといった場合、制約とは「海外派兵」を意味し、これを含む自衛権行使に基づく武力行使は日本国憲法上認められないといえる。
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 「自衛の中でも集団的自衛権になると、『海外派兵』の要素を持った武力行使を含むことになる。」との記載があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」も「海外派兵」に関しても、「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲を超えるか否かによって可否が決せられている。「『海外派兵』の要素を持った」などという基準によって決せられているわけではない。
 「この部分を含んだ集団的自衛権は歴代の解釈を見てきたように日本が九条によって許されていないものとしてきているため、政府解釈によると憲法九条は「海外派兵」を許していないといえよう。」との記載があるが、日本国の統治権の『権限』は「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲に限られるとするところに限界があり、「集団的自衛権」という『権利』の中に「他衛的要素」があるかないかという議論は関係がない。また、「海外派兵」についても、「自衛のための必要最小限度」の範囲であるか否かの問題である。9条が直接的に「海外派兵」を制約しているわけではない。
 「百地教授がおっしゃっているように憲法九条によって自衛権は制約されるといった場合、制約とは『海外派兵』を意味し、これを含む自衛権行使に基づく武力行使は日本国憲法上認められないといえる。」との記載があるが、誤りである。9条は「自衛権」を制約していない。そのため「憲法九条によって自衛権は制約される」との認識が誤りである。「制約とは『海外派兵』を意味し、」との部分についても、制約の基準は「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲を超えるか否かである。9条は「海外派兵」を直接的に制約しているわけではない。「これを含む自衛権行使に基づく武力行使は日本国憲法上認められないといえる。」との部分についても、政府は「海外派兵」の可否を「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の範囲を超えるか否かによって決しているにもかかわらず、「海外派兵」を含めば9条に抵触すると考えるところに規範を設けようとしている点で誤りである。「といえる。」と結論付けようとしているが、そのようにはいえない。 





〇 玉木雄一郎

 

【動画】【憲法9条】違憲論争について(前編) 2019/09/07


 吉田茂の答弁の内容について、下記で詳しく検討する必要がある。


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1946年(昭和21年)
 6月26日 衆議院本会議 吉田総理発言
 「戦争抛棄に関する本案の規定は、直接には自衛権を否定はして居りませぬが、第九条第二項に於て一切の軍備と国の交戦権を認めない結果、自衛権の発動としての戦争も、又交戦権も抛棄したものであります
第90回帝国議会 本会議 昭和21年6月26日(第6号)


 7月4日 衆議院帝国憲法改正案委員会 吉田首相
 「此の間の私の言葉が足りなかつたのか知れませぬが、私の言はんと欲しました所は、自衛権に依る交戦権の抛棄と云ふことを強調すると云ふよりも、自衛権に依る戦争、又侵略に依る交戦権、此の二つに分ける区別其のことが有害無益なりと私は言つた積りで居ります
第90回帝国議会 委員会 昭和21年7月4日(第5号)


 以前の答弁についてこれが「いわゆる自衛戦争の否定の趣旨」と解される補足答弁を行う。(リンク P34)(リンク P34)


国務大臣(吉田茂君)「戦争放棄の趣意に徹することは、決して自衛権を放棄するということを意味するものではないのであります。
第7回国会 衆議院 本会議 第11号 昭和25年1月23日


国務大臣(吉田茂君)「戰争放棄の趣旨に徹することは自衛権の放棄を意味しておるのではないのであります。
第7回国会 参議院 本会議 第9号 昭和25年1月23日
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 これにより、吉田茂の答弁の意味は、9条によって「自衛戦争」と「交戦権」は放棄されているが、国際法上の『権利』の区分である「自衛権」は否定されておらず、放棄していないとの趣旨であると考えられる。


    【参考】憲法9条の戦争放棄を吉田茂首相はどう帝国議会に説明したのか 2018.09.21


 実際、従来より政府も9条は「自衛戦争」と「交戦権」を否定しているとする趣旨の答弁を行っており、これと重なっている。


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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 参議院 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


 また、砂川判決も9条は「自衛権」を否定したものでないとしているし、従来より政府答弁も日本国は「自衛権」の適用を受ける地位を有していると説明しており、吉田茂の答弁と一致している。


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○政府特別補佐人(津野修君) 集団的自衛権あるいは個別的自衛権についての政府解釈が一貫しておったかどうかというお尋ねでございますけれども、これは制憲議会当時あるいは日米安保改定当時、あるいは最近までを含めてでございますけれども、基本的に個別的自衛権については、憲法第九条第一項が国際紛争を解決する手段としての戦争、あるいは武力による威嚇、武力の行使を禁じているけれども、我が国が主権国として持つ固有の自衛権までも否定する趣旨のものではなくて、自衛のための必要最小限度の実力を行使することは認められているところであるというふうに、従来から一貫して政府としてこの見解をとってきているわけであります。
 御指摘の点は、吉田元総理がかつて制憲議会当時あるいはその後におきまして、多少表現ぶりとしていろんなことをおっしゃっておられる文がございますけれども、ただこの場合も、これは昭和二十六年の十月十八日に吉田元総理が明言されておりますのは、いろいろ私が当時言ったということを記憶しているのは、しばしば自衛権の名前でもって戦争が行われたということは言ったけれども、自衛権を否定した、否認したというような非常識なことはないというふうに思いますということで、これは吉田元総理の場合も自衛権は否定していないということでございまして、そういうことから見まして個別的自衛権につきましては一貫して政府として憲法上否定されていない、認められているというふうに考えているところでございます。
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第151回国会 参議院 外交防衛委員会 第4号 平成13年3月22日


    【参考】第65回国会 衆議院 内閣委員会 第20号 昭和46年5月7日


 これにより、吉田茂の答弁から2014年7月1日閣議決定までの間に、政府の9条解釈では実質的な解釈変更はなされていないと考えられる。

 下記の答弁も押さえる必要がある。

 

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○吉國政府委員 先ほど来、自衛権発動の三要件について、前からの法制局の答弁が、前の時代に広がったように思うというお話でございまするが、私どものほうは、自衛権の発動の三要件については、四代前の長官以来変わってないつもりでございます。しかし、その御質疑がございますので、古い答弁も調べまして、またお目にかけるようにいたしたいと思います。

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第71回国会 衆議院 内閣委員会 第32号 昭和48年6月21日


 入江俊郎(1946年-1947年) → 佐藤達夫 → 林修三 → 高辻正己 → 吉國一郎

 【参考】内閣法制局長官 Wikipedia


 このことから、吉田茂が「防衛のための実力組織も認められない」とは言っておらず、解釈改憲も行われていないと考えられる。

 この動画のその他の部分は、正確な内容であると思われる。

 


【動画】憲法9条の何が問題?「必要最小限」をどう考えるのか…玉木雄一郎が解説 2022/06/03


 この動画の内容は、「必要最小限度」の意味が2つの次元で使われていることを捉えられておらず、質的な面と量的な面があることついても混乱がある。

 この論点はどのように説明すれば正確な理解が伝わるのか、筆者も常々考えている。


 「武力行使の"旧"三要件」とは下記の要件である。そして、この三要件(旧)の範囲を【自衛のための必要最小限度】と呼んでいる。


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① 我が国に対する急迫不正の侵害があること      ←(質的)

② これを排除するために他の適当な手段がないこと

③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ← 第三要件の程度・態様の意味(量的)

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    ↓  ↓  ↓  ↓

  【自衛のための必要最小限度】   ← 三要件(旧)の全てを含む意味(質的な面と量的な面)


 ここで「必要最小限度」の文言が二つの異なる次元で使われていることに注意が必要である。



 まず、③の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」については、「量的な概念」である。

 この動画では、「向こうが十発撃ってきたら、こっちは十発とかね、百発撃ってきたら百発と」と表現していることは、「量的な概念」という意味では正しい説明である。(正確には、『我が国に対する急迫不正の侵害』を『排除する』という目的を達成するための『必要最小限度』なので、向こうが十発撃ってきたとしても、一発で『排除する』ことができるならば、一発でなければならない。生け捕りにできるならば生け捕りにしなければならない。)

 この動画では、その後「量的な概念」ではないと否定しているが、③の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味は「量的な概念」である。


 次の話題の政府答弁であるが、これは三要件(旧)の基準を指す意味での【自衛のための必要最小限度】の話であり、かつ、日本国が保持する実力組織の兵器の内容についての問題である。

 下記はその政府答弁である。


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○近藤政府参考人 お答えいたします。

 自衛隊が保有できる実力の限度についてどう整理されているかという御質問でございました。

 政府としては、従来から、自衛のための必要最小限度の実力を保持することは、憲法九条二項によって禁じられていないと解しておりますけれども、性能上専ら他国の国土の壊滅的破壊のためのみに用いられる兵器については、これを保持することが許されないと考えてきております。

 それ以外の個々の兵器については、これを保有することにより、我が国が保持する実力の全体が自衛のための必要最小限度を超えることとなるか否かによりその保有の可否が決せられるものであります。

 その上で、自衛のための必要最小限度の実力の具体的な限度については、本来、その時々の国際情勢や科学技術等の諸条件によって左右される相対的な面を有することは否定し得ず、結局は、毎年度の予算等の審議を通じて、国民の代表である国会において判断されるほかないと考えてきているところであります。

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第201回国会 衆議院 安全保障委員会 第7号 令和2年7月8日

 ここでいう「自衛のための必要最小限度の実力」とは、「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)を達成するための実力組織のことである。

 そして、その実力組織の保有する兵器の内容は、三要件(旧)の制約に基づいて導き出されることになる。

 具体的には、まず、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」という目的を達成するための兵器に限られる。

 このことから必然的に、大陸間弾道ミサイル(ICBM)や長距離戦略爆撃機、攻撃型空母などを保有することは、この目的を達成するという範囲を超えることから、質的に許されない。

 また、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」という目的を達成するために「武力の行使」を行う場合であっても、その程度・態様は「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと(第三要件)」という制約があることから、それを実施するために使用する範囲を超える兵器を保有することは、量的に許されない。


 動画内で「相対的な概念であることは否定できない」としている部分については、この保有する兵器の量についての問題である。

 ただ、保有する兵器の内容についても、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」の範囲を超えた場合については、質的に許されないこともあることを忘れてはならない。


 「がっちりですね、十発撃ってきたら十発みたいな話でも必ずしもない」との部分であるが、これは先ほどの三要件(旧)の第三要件である「③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味であり、【自衛のための必要最小限度】の意味とは違う話をしている。

 そのため、この点を切り分けて論じることができておらず、混同したものとなっている。

 「歯止め」の部分であるが、それは【自衛のための必要最小限度】の意味であれば、「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」という枠が、質的に「歯止め」となっている部分である。


 「相手国の領土の占領」や「そこにおける占領行政」が「自衛のための必要最小限度を超えるもの」としているのは、まさに【自衛のための必要最小限度】という三要件(旧)の「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」という枠を超えるからである。


 「海外における武力行使」が「一般に自衛のための必要最小限度を超えるもの」としている部分も、「海外」という外国の領土については、日本国の領土、領海、領空ではないことから、【自衛のための必要最小限度】という三要件(旧)の「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」を「排除するため(第二要件)」という枠を超えることが理由となって禁止されているということである。

 ここで「一般に」と付けている理由は、相手国の領土から誘導弾(ミサイル)が発射されて「我が国に対する急迫不正の侵害(第一要件)」が生じる場合などで、我が国の領域内で「排除する(第二要件)」ことが極めて困難な場合などで「他の適当な手段がない」場合には、その誘導弾(ミサイル)の発射基地を叩くために相手国の領土に派兵する場合が考えられるからである。

 この例外的な場面を除けば、「海外派兵」(海外における武力行使)は、三要件(旧)に該当しないはずであるとの意味で、「一般に」禁止されているということである。


 核兵器については、下記の答弁がある。


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○高辻政府委員

(略)

 現行憲法の解釈といたしまして、わが国が国権を発現してする武力の行使は、他国からの急迫不正の侵害があり、わが国に武力攻撃が加えられ、わが国民の生存と安全が危うくされる場合における自国の防衛の正当な目的を達成する限度にとどまるものでなければ、これは憲法の許容するところではない、憲法に違反する。しかしその限度にとどまるものであれば憲法が許容しないいわれはないというのが従来の考え方であったわけでございます。そこで、それが基本になりまして、わが国が保有する兵器につきましても、それが核兵器であろうとなかろうと、通常兵器であろうと何であろうと、いま申した基準に照らして判断されるべきものであるというのが基本的な考え方でございます。純粋の法理として申し上げるわけでございますが、わが国の生存、国民の生存と安全を保持するという正当な目的を達成する限度をこえる兵器は、わが憲法がその保持を禁止するものと考えるべきであるし、これが攻撃的というようなことばで出ておったものと私は思いますが、わが国民の生存と安全を保持するという正当な目的を達成する限度をこえることがない兵器は、わが憲法がその保持を禁止するものとは考えられないというのが、純粋の理論上の問題としてあらためて申し上げれば、それがほんとうの考え方である。その場合に、一方のものを攻撃的といい、一方のものを防御的というような表現を使ったことがあるかもしれませんが、その本旨はいま申したとおりでございます。

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第61回国会 衆議院 予算委員会 第4号 昭和44年2月5日


 「これを超えてやっちゃいけないことが一体何なのか」との部分であるが、三要件(旧)を超える「武力の行使」と、それを実施する範囲を超える兵器の保有は「これを超えてやっちゃいけないこと」である。



【動画】憲法9条改正議論を! 日本国は軍隊を持つべき 国民民主党玉木雄一郎代表に聞く 憲政史家倉山満 2023/06/04


 「究極の緊急事態って戦争じゃないですか」との発言と共に、憲法9条に結び付けて論じようとしている。

 しかし、憲法9条の下でも三要件(旧)の範囲であれば「自衛の措置」としての「武力の行使」を行うことが可能と解釈されているのであるから、その範囲で「武力の行使」が行われる事態が生じたとしても、憲法上においては超法規的なものではないため平時ということができる。

 法律上は有事法制で対応する事態であるとしても、憲法上においては超法規的な意味での「緊急事態」とはいえないのである。

 よって、「戦争」が起きたとしても、憲法上では「緊急事態」ではないため9条を遵守しなければならないのであり、「戦争」が起きたとしても「9条守らなくていいじゃないですか」ということにはならない。

 このことから、三要件(旧)を意味する「自衛のための必要最小限度」も、その範囲での受動的な防衛戦略の姿勢を意味する「専守防衛」も、その範囲から導き出される「敵基地攻撃」が基本的にダメなことも、その範囲に限られることから「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」がダメなことも、三要件(旧)の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」についても、すべて順守しなければならない。

 憲法上においては、「我が国に対する急迫不正の侵害(三要件〔旧〕の第一要件)」が生じても、未だ超法規的なことにはならないのであり、「全部吹き飛んで」ということにはならない。

 

 憲法上の「緊急事態」として想定されるものは、政府が9条に違反する形で「武力の行使」を行った場合に、それが事後的に裁判所で「国家緊急権」の行使として違法性が阻却される場合があるかどうかという論点が考えられる。(⇒当サイト「砂川判決に論拠はあるか」でも少し解説している。)

 しかし、これはこの事例とは別の議論である。




〇 教科書の記述


健全な教科書を子供たちに届けるために
 PDF

中学校の教科書採択に向けて 2011年06月24日)


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〇 東京書籍

「自衛隊が憲法に違反していない理由として、政府は、主権国家には自衛権があり、憲法は『自衛のための必要最小限度の実力』を持つことは禁止していないと説明しています。しかし、平和と安全を守るためであっても、武器を持たないというのが日本国憲法の立場ではなかったのかという意見もあります。」

「自衛隊は、日本の防衛という本来の任務に加えてさまざまな活動を行っています。(PKO等を例示)一方で、このような自衛隊の任務の拡大は、世界平和と軍縮を率先してうったえるべき日本の立場にふさわしくないという声もあります。」

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 「自衛隊が憲法に違反していない理由として、政府は、主権国家には自衛権があり、憲法は『自衛のための必要最小限度の実力』を持つことは禁止していないと説明しています。」との部分であるが、「自衛隊が憲法に違反していない理由」を説明したものとはなっていない。

 まず、国際法において国家承認を受けて主権国家として認められているのであれば、「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有している。しかし、国際法の『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、その国家の統治権の『権力・権限・権能』の範囲はその国家の憲法上で正当化される範囲に限られる。

 そのため、日本国が国際法上の「自衛権」の適用を受ける地位を有しているとしても、日本国の統治権の『権力・権限・権能』が保持できる実力組織の範囲は憲法9条の制約の範囲内に限られる。

 あたかも国際法上の「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有していることを根拠として日本国の統治権の『権限』が「自衛のための必要最小限度の実力」を保持できるかのようなに説明している部分は正しくない。

 この点は、政府も正確に答弁できていない場合があるため、その論旨の正確な意味を法学的に理解し直す必要がある。

 この前提を押さえて、「主権国家には自衛権があり、」の部分を取り除いて文章を読んでみると、「自衛隊が憲法に違反していない理由として、……(略)……憲法は『自衛のための必要最小限度の実力』を持つことは禁止していないと説明しています。」となり、何ら憲法に違反しない理由を示したものとはなっていない。

 「自衛のための必要最小限度」というものが三要件(旧)の基準を意味していることと、1972年(昭和47年)政府見解の論旨を正確に捉える必要があると考える。



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〇 日本文教出版

「政府は、自衛隊は自衛のための必要最小限の実力であって、第9条の禁止している『戦力』ではない、という立場にたっています。これに対して、第9条は武力によらない自衛権だけを認めているのだから、自衛隊は憲法に違反しているとか、自衛隊の装備は自衛のための最小限の実力をこえている、といった意見があります。」

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 まず、「政府は、自衛隊は自衛のための必要最小限の実力であって、第9条の禁止している『戦力』ではない、という立場にたっています。」との説明は正しい。

 「第9条は武力によらない自衛権だけを認めているのだから、自衛隊は憲法に違反しているとか、」との記載があるが、確かにそのような主張を目にすることはある。ただ、「武力によらない自衛権」という概念には注意を要する。ここで用いられている「自衛権」は国家が自国を守る権利というぐらいの意味であり、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由としての国連憲章51条の「自衛権」とは異なるからである。国連憲章51条の「自衛権」は「武力の行使」を伴う概念として用いられることから、「武力によらない自衛権」という概念とは両立しないのである。ただ、そのような議論は存在するため、記述そのものに間違いはない。

 「自衛隊の装備は自衛のための最小限の実力をこえている、」との点で、先ほど「自衛のための必要最小限の実力」という用語を用いたのであるから、ここでも「自衛のための必要最小限の実力」を使うべきであり、「自衛のための最小限の実力」という省略した表現は避けるべきである。これらがあたかも異なる概念であるかのような印象を与え、初学者を混乱に陥れるだけである。これらは全く同じものを指している。

 もう一つ、「自衛のための必要最小限度」とは三要件(旧)の基準を意味しており、これを行使するための「実力(組織)を「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と呼んでいる。この論点は、この三要件(旧)の「武力の行使」を実施するための範囲を超えるか否かが問題となっている部分である。



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〇 教育出版

「1992年、国際平和協力法(PKO協力法)が成立し、自衛隊がカンボジアに派遣されました。その後も、国外の戦争や紛争時に、米・英軍などの治安維持活動を後方で支援するため、政府が『非戦闘地域』とする現地に自衛隊が派遣され、さまざまな活動を行っています。ただ、国民のなかには、自衛隊の海外派遣や装備の拡張が、自衛隊の本来の目的を越えているのではないかという意見もあります。」

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 ここで特に記述することはない。



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〇 帝国書院

「自衛隊は、日本の安全を保つことを任務として発足し、冷戦の時代を通して、その人員や装備を増強してきました。しかし、戦争の放棄と戦力の不保持、交戦権の否認を定めた憲法第9条、そして平和主義に反するのではないかという議論は、冷戦終結後の今日も続いています。政府は、自衛隊は自衛のための必要最小限の実力組織にすぎないから戦力にあたらないし、戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではないので違憲ではない、としています。」

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 「政府は、自衛隊は自衛のための必要最小限の実力組織にすぎないから戦力にあたらないし、戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではないので違憲ではない、としています。」との記載があるが、「政府は、自衛隊は自衛のための必要最小限の実力組織にすぎないから戦力にあたらない」と説明していることはその通りである。できれば「自衛のための必要最小限『度』」と『度』まで記述するべきであると考えるが、意味はその通りである。

 しかし、「戦争放棄といっても自衛権を放棄したわけではないので違憲ではない、」との部分は、法学的には国際法上「自衛権」という『権利』の適用を受ける地位を有しているとしても、憲法9条の下で日本国の統治権の『権限』が「自衛のための必要最小限度の実力(組織)」を保持できるか否かや、「武力の行使」を実施できるか否かは連動関係にない。そのため、国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有していることを根拠として、あたかも憲法9条が日本国の統治権の『権限』に対して課している制約を逃れられるかのような説明となっていることは正しくない。

 この点は、政府の答弁でも正確に説明できていない部分であるため、法学的に意味を理解し直す必要がある。



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〇 清水書院

「日本国憲法は『戦力』の不保持を定めている。政府は憲法制定当初、それを『一切の軍備』の不保持を定めたものとして理解していた。しかし、自衛隊の創設によって、その理解に矛盾が生じた。そのため、政府は『自衛のための必要最小限度の実力は戦力にあたらない』という解釈を採用することにより、自衛隊は憲法第9条と矛盾しないとして、こんにちにいたっている。それに対して、いっぽうで、自衛隊は憲法に違反するという判例や学説があり、また自衛隊の縮小を唱える意見がある。他方で、憲法第9条を改正しようとする主張も根づよく、論議がつづいている。」

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 「政府は憲法制定当初、それを『一切の軍備』の不保持を定めたものとして理解していた。しかし、自衛隊の創設によって、その理解に矛盾が生じた。」との記載があるが、正確ではない。

 「軍備」の意味が何を指すかであるが、従来より政府は「自衛のための必要最小限度の実力」は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しないと説明しているのであり、日本国は憲法の言う「軍」は保持していないこととなっている。

 そのため、2014年7月1日閣議決定以降の新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を行う実力組織については「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」であり、それを「陸海空軍その他の戦力」と異なるものと説明することはできず、9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となるが、「自衛のための必要最小限度」という旧三要件の基準の範囲内の「武力の行使」を実施するための実力組織の範囲に留まる限りであれば、「『一切の軍備』の不保持」は維持されているはずということになる。

 「しかし、自衛隊の創設によって、その理解に矛盾が生じた。」との記述があるが、「自衛隊」は9条2項前段の禁じる「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない範囲の「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」であり、「『一切の軍備』の不保持」は維持されていたのであり、「その理解に矛盾が生じた。」との認識は正しくない。

 「その理解に矛盾が生じた。」のは、2014年7月1日閣議決定以降、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」を実施することとなり、「他国に対する武力攻撃」を「排除」するための「武力の行使」を行うことになった時点である。それまでの政府の説明は、一貫しており、「その理解に矛盾」は生じていない。

 その他の部分については、特に述べることはない。



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〇 自由社

「世界的にも有数な実力を備えた自衛隊を『戦力に至らない』とする政府の憲法解釈には批判も多く、憲法改正を行って自衛権の保有を宣言し、自衛隊をわが国の軍隊として位置づけるべきだという主張もあります。」

さらに、災害派遣のコーナーで、東日本大震災を受けての自衛隊の災害派遣活動を追記している。

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 「憲法改正を行って自衛権の保有を宣言し、自衛隊をわが国の軍隊として位置づけるべきだという主張もあります。」との記載があるが、この主張は法学的には正しくない。

 まず、日本国は国際法上において主権国家として認められており、国際法上の『権利』である「自衛権」の適用を受ける地位を有している。その意味では「自衛権の保有」は既に認められていることから、「憲法改正」を行う必要はない。また、「自衛権」の適用を受ける地位を有しているか否かは、国際法上で主権国家として認められているか否かの問題であることから、「憲法改正」を行って「保有」を「宣言」する必要もない。

 「自衛隊をわが国の軍隊として位置づけるべきだ」との部分について、確かに日本国憲法9条2項前段では「陸海空軍その他の戦力」を禁じており、政府は日本国はこれを保持していないとの立場であるが、先ほどのように国際法の視点から見れば、「自衛隊」は他国の軍隊と法的には同様の位置づけにある。

 このような主張は確かに存在するが、もともと主張の内容が法学的に正確な内容となっていないことから、教科書として取り上げる程の内容となっているかには注意する必要がある。



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〇 育鵬社

「日本国憲法第9条には『戦力』の不保持がうたわれています。そのためこの憲法の下で自衛のための武力がもてるのかという議論がなされてきました。政府は、ここでふれられている戦争とは『他国に侵攻する攻撃』をさすのであり、『自国を守る最低限度の戦闘』までも禁じているものではなく、自衛のための必要最小限度の防衛力をもつことまでは憲法は禁止していないと解釈し、自衛隊を憲法第9条に違反しないものと考えています。憲法の規定と自衛隊の実態との整合性については、今なお議論が続いています。」

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 「自衛のための武力」との表現は微妙な表現である。「武力」という表現は、「武力組織」の意味で用いているように思われるが、「実力」という表現で「実力組織」と呼ぶことが通常であるし、「武力の行使」という「国家の物的・人的組織体による国際的な武力紛争の一環としての戦闘行為」の意味で使われる表現との混同も避ける方がベターであると思われる。

 「政府は、ここでふれられている戦争とは『他国に侵攻する攻撃』をさすのであり、『自国を守る最低限度の戦闘』までも禁じているものではなく、」との記載があるが、先ほど9条について「『戦力』の不保持がうたわれています。」との記載があることから、既に9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」の説明を始めていることから、ここで9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「戦争」と「武力による威嚇又は武力の行使」の話に戻ることはやや読みにくい。

 また、「『他国に進行する攻撃』をさすのであり、」とは、9条1項が禁じる対象をいわゆる「侵略戦争」と呼ぶ場合の説明となるが、それは9条1項の説明であり、それと繋ぐかのように「自衛のための必要最小限度の防衛力」が9条2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に抵触するか否かという論点を持ち出している点は、意味を捉えづらくなっている。

 間違いとまで言える程ではないが、より誤解を生みにくい表現に修正することがベターである。