人権の哲学

信託されたもの


 基本的人権は、97条で「信託されたもの」と表現されている。11条でも「与へられる」と表現されている。


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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。


〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

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 ここで、「された」や「られる」という受動的な文言となっているのは、法の条文それ自体は、人権概念の存在そのものを「信託」したり、「与へ」たりする性質を持っていないからである。

 

 人権という概念は、法の手続き上の多数決原理によっても奪うことのできない性質のものとして生み出された概念である。


 しかし、法の条文によって「人権は永久の権利である」と定義したり、「人権はこの憲法が与える」などの趣旨で宣言した場合、
その条文自体が人権概念の完全な根拠ということになる。すると、その条文が憲法改正の多数決原理の手続きによって改正あるいは廃止されてしまった場合、永久不可侵であるはずの人権は保障できなくなる事態に陥ってしまう。


 これでは、
人権概念の本来的な永久不可侵性は存在しないも同然の状態となってしまい、「人権概念が存在し、永久不可侵のものである」との建前が成り立たない。「永久不可侵」の人権を、「非永久可侵」である法の条文を根拠とすることは、矛盾してしまうのである。


 (他にも、人権概念を普遍性の「建前」として扱わず、そのような概念が絶対的なものであると定義したり、宣言したりすることは、人権思想それ自体を人々に強制することになる。そうなると、それ自体が人々の「思想良心の自由」という人権を侵害する原因となってしまい、人権保障を実現できないという矛盾に陥る。)


 このことから、人権概念は、法の条文それ自体が存在を定義したり、「与える」としたり、「信託する」ことにはできないのである。


 よって、憲法が人権概念の存在根拠について触れる際、条文の文言としては、「人権概念は、法の条文以前に存在するもの」「憲法という実定法が制定される以前に、人々が受け継ぎながらもともと持っていたもの」という趣旨が明らかになるような形で表現しなくてはならないのである。


 法の文言では、「法の条文自体が人権の存在を定義し、根拠となることを自ら宣言するわけではないが、人権というものがあるらしいので、法はそれを保護し、守るように役割を担われている」というような形で扱う必要があるのである。


 そのため、憲法の条文の文言としては、人権の本質的な性格について「この憲法を根拠に人権を信託する」や「憲法を根拠に人権を与える」「人権の性質は永久の権利である」という憲法を主体とした能動的な趣旨で記載することはできないことから、「侵すことのできない永久の権利として信託されたもの(97条)」「侵すことのできない永久の権利として…与へられる(11条)」などと受動態(または第三者の視点)で示唆的に表現するしかないのである。 



 11条前段の「妨げられない。」の表現は、「人類が受け継いで有しているものを、法秩序が保障していく役割を担っているため、この法によって生み出された権限(国家権力〔立法権・行政権・司法権〕)によって妨げられるものではない。」という趣旨を示したものである。


 この「妨げられない。」の表現も、法の条文それ自身が根拠となって、人権概念の存在そのものを定義したり、その存在を宣言したり、与えたりすることはできないことによるものである。
法の条文そのものが人権を与える根拠となるものではないことを前提とした表現なのである。
 



 もし法の条文で宣言することのみによって、人の持つとされる人権概念の存在が確実に守られる性質であるとするならば(法実証主義の考え方)、12条前段の「不断の努力によつて…保持しなければならない。」との文言は必要ないはずである。

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〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

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 これは、人類が受け継いで有している人権概念は、法の条文で宣言することのみによってはその存在と価値と正当性を守り通すことができないものである。だからからこそ、「不断の努力によつて、これを保持しなければならない(12条)」と人権概念の性質を示し、人々にその存在と価値と正当性そのものを維持し続けるよう促すこととしているのである。

主体性を示す意図


 「与へられる(11条)」「信託されたもの(97条)」では、『られる』『された』として、受動的な文言で記載されている。


 この表現には、私たち「現在及び将来の国民(11条、97条)」に対して人権概念を与えた主体となる『人権概念を創造した先人』や『人権概念の本質を理解して実定化した憲法制定権力』、『人権概念を不断の努力によって維持してきた者たち』は、既に亡くなってこの世にはいない場合が想定されるという側面も考えられる。その者たちが「与える」とした場合、死者が与えるかのような形となり、その根拠の証明性が乏しくなってしまうために、「与へられる」や「信託された」という受動態の表現を使っているという考え方である。


 また、憲法中で人権概念はその「先人たちが」『与える』という表現としてしまうと、「現在及び将来の国民である私たち自身が主権を持った主役である」という感覚が薄まってしまうことに繋がる。国民の抱く正当性の観念の一つである「国民主権原理」の感覚が弱まってしまうことは、人々の法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を損なわせることになり、結果として法の効力を弱めてしまい、法の意図する人権保障の機能が低下する恐れがある。それを避けるために、受動態の表現を使っていると考えられる。


 他にも、その人権概念を現在と将来において「不断の努力によつて(略)保持しなければならない(12条)」者とは、私たち国民である。私たち国民が人権概念の生命力をつくり続けなければならないとの主体性の感覚を表現するためにも、人権の由来や根拠、享有の性質について、「先人たちが『与える』、『信託する』」とする能動態で表現することは避け、私たちが受け取るかのように(または第三者の視点で国民が受け取るかのように)、「現在及び将来の国民に『与へられる(11条)』、『信託されたもの(97条)』」とする受動態の表現を使っていると考えられる。


 さらに、「先人たち」ではなく、憲法を制定した「主権者の国民(広義の憲法制定権力)」がこの憲法を通して「現在及び将来の国民」に対して「与える」としてしまうと、主権(最高決定権)は万能であり、人権概念をも憲法改正手続きの国民投票という国民主権の多数決原理によって奪うことができることになってしまう。これでは、「人権の普遍性の建前」が成り立たない。これを避け、人権概念が国民主権の多数決原理よりも以前に存在しているとする趣旨を明確にするためにも、「与へられる」という受動態で表現していると考えられる。


 また、人権概念がなければ、国民が主権(最高決定権)を持ちえることはできないことから、憲法制定という「主権者の国民(広義の憲法制定権力)」の国民主権の発動による多数決手続きが行われる以前に、国民は人権を与えられて(有して)いなければならないという事情がある。この点、憲法制定の多数決手続によって成立した法の条文が人権を「与える」ことにしてしまうと、国民の有するとする主権(最高決定権)によって憲法を制定したという過程と矛盾することになる。なぜならば、主権(最高決定権)は、国民に人権がなければ、国民に対して発生しえないからである。もし、国民に人権がないにも関わらず、国民が主権(最高決定権)を持つとするならば、その主権(最高決定権)の行使による多数決の決定によっては、どんなに非道なことをしてもいいことになる。すると、多数決によっても奪うことのできないとする「人権」という概念を掲げる意味が失われてしまうことになり、矛盾が生じる。このことからも、人権概念は主権(最高決定権)の行使という憲法制定行為によって生まれる法の条文が「与える」ことにはできないことから、法の条文としては、法が直接関与しないところで
「与へられる」という表現を行うことが適切となると考えられる。


 加えて、憲法制定権力(広義も狭義も可)は身勝手に「人権の普遍性の建前」の前提を創造したのであるが、憲法中でその憲法制定権力を主体として人権を与えたことを明確に示してしまうと、「人権の普遍性の建前」が崩れてしまう恐れがある。なぜならば、人権概念が憲法制定権力の手によって人為的につくられたものであることを明確に示してしまうと、その神秘性が失われ、「人権の普遍性」の性質が、全く存在し得ない陳腐なものに見えてしまやすいからである。


 人権という概念を普及し、法の効力を形成するにあたっては、人々に対して「侵すことのできない永久の権利」の表現にみられる「不可侵性」「普遍性」が絶対的な権威であるかのように印象付けておいた方が都合がいいのである。権力者に対しても、人権概念にはそのような性質がもともとあるものだと思わせておいた方が、人々の人権が損なわれるような慎みなき行動を抑止させることができるために都合がいいのである。その方が、人権保障にとって有利に作用するからである。この点でも、人権概念の根拠の神秘性を守り、法の効力を高めるために、受動態で表記することにはそれなりの意味があると考えられる。


 これらのことから、「与へられる(11条)」、「信託されたもの(97条)」という受動態で表現する意図は妥当と思われる。


『憲法制定権力』の意味

  広義:主権者の国民

  狭義:少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)

自民党改憲案との比較

 

 自民党改憲草案は、これらの人権の性質を理解していないものである。

自民党改憲案 (下線は筆者)
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第11条(基本的人権の享有)
 国民は、全ての基本的人権を享有する。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利である
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 自民党改憲案では、現行憲法11条の「享有を妨げられない」の文言が、「享有する」に変わっている。また、「侵すことのできない永久の権利として、(略)与へられる。」の文言も、「侵すことのできない永久の権利である。」に変わっている。

 しかし、人権の存在根拠は、憲法が定義したり、憲法を根拠に享有させたりすることのできないものである。なぜならば、「人権は憲法以前に存在する」という自然権の建前によってつくられるところに、その概念を掲げる意図を発揮する性質のものだからである。


 もし憲法によって定義したり、享有させたりするのであれば、それは「法実証主義」の人権観ということになる。これは、人権の根拠を条文の文言そのものに求める考え方であり、結果として憲法改正の多数決の手続きによっては人権の剥奪も可能となってしまうものである。憲法改正によって人権の剥奪が可能であるならば、人権概念それ自体の永久不可侵性の建前が成り立たないという矛盾をもたらす点で妥当でない。人権を喪失する結果をもたらす極めて危険な考え方である。


 このことから、自民党改憲案に見られる「享有する」や「侵すことのできない永久の権利である」のように、この憲法の文言が人権の意味を定義したり、確定したり、根拠となるような文言とすることは、人権の性質を損なうために妥当でないのである。


 また、自民党改憲草案は現行憲法97条を削除している。これにより、人権という概念の「侵すことのできない永久の権利」という自然権の性質の建前が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」によって保たれていることを示す規定が失われている。これは、「人権の存在根拠」や「人権を与えた主体」を曖昧にするものである。


 「人権の存在根拠」や「人権を与えた主体」が変わると、人権の性質を大きく変容させる問題を引き起こす。


 それは、人権の根拠や人権を与える主体となるものが、

 ①「法実証主義によって『憲法そのもの』」

 ②「国の歴史や文化、伝統という『国家』(自民党改憲草案の解説より)、あるいは『天皇』」

 ③「特定の宗教の『神』」

などとなり得るからである。


 まず、①法実証主義によって『憲法そのもの』を人権の根拠とした場合、憲法改正の多数決原理によって人権剥奪も可能となる。すると、人権の永久不可侵性の建前が成り立たず、妥当でない。

 次に、②国の歴史や文化、伝統という『国家』を人権の根拠とした場合、国家の都合によって人権を剥奪することが可能となる点で妥当でない。他にも、国家権力を制限することで人権の保障を確実にしようとする人権の性質に反する点で妥当でない。(ここでは『天皇』も『国家』に含める。)

 三つ目に、③特定の宗教の『神』を人権の根拠とした場合、それは多様な価値観を保障するために人権概念やそれを保障するための立憲主義の憲法を採用しているにも関わらず、何らかの神という特定の価値観を絶対的なものとして強要することになる。これは、「思想良心の自由」という人権を奪うために妥当でない。

 このように、人権の根拠を①「法実証主義によって『憲法そのもの』」、②「国の歴史や文化、伝統という『国家』」、③「特定の宗教の『神』」などとしてしまうことは、人権の性質を大きく後退させ、侵害可能な概念としてしまう点で大きな問題を生むのである。

 このような問題を回避するために、現行憲法は「享有を妨げられない」の文言を用い、人が自然権としてもともと持っているものを、この憲法によって成立する国家権力によっても妨げられないことを表現している。これは、自民党案のように、憲法が人権を享有させるかのようなものとは明確に異なるものである。


 また、現行憲法は人権について「侵すことのできない永久の権利として、(略)与へられる」と表現している。これは、自民党案のように、この憲法によって「侵すことのできない永久の権利である」と定義することを人権の根拠としようとするものとは異なる。非永久可侵である条文の文言を根拠とすることでは、人権という概念を永久不可侵の性質を持つものとして掲げる意図を保つことができないからである。人権概念は憲法が確定する以前に存在することを前提としなければ、その永久不可侵という建前が成り立たないのである。


 もう一つ、自民党案の11条のように、人権が「絶対的なもの」であるかのように宣言してしまうと、その憲法が国民の「思想良心の自由」という人権を奪うことに繋がってしまうのである。


 現行憲法は、このようなことにならないように、「侵すことのできない永久の権利として(11条、97条)」の文言に表れているように、『として』という建前であることを前提としている。また、その建前は「自由獲得の努力(97条)」、「不断の努力(12条)」によって維持していこうとする姿勢によって成り立たせるものであることを示している。この相対的認識から見た普遍性の建前として扱おうとすることこそが、人権の本質的な性質を実現するために重要な要素である。


 自民党案の12条も確認する。

自民党改憲草案 (下線は筆者)
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第12条(国民の責務)
 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力により、保持されなければならない。国民は、これを濫用してはならず、自由及び権利には責任及び義務が伴うことを自覚し、常に公益及び公の秩序に反してはならない。 

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 現行憲法12条は「保持しなければならない」であるが、この自民党案12条は「保持されなければならない」となっている。

 ここは、自民党案の前文の「日本国は、」と『国』が主語になっていることの影響もあると思われる。


 現行憲法の前文は「日本国民は、」と『国民』が主語であることから、国民の持っている人権を、国が保障するという仕組みである。それを自民党改憲草案では、「日本国は、」と『国』が主語であることから、『国』が『国民』に対して人権を与えるものとなり、『国』の都合によって『国民』の人権は制限されることになると考えられる。


 自民党改憲草案12条の後段では、「自由及び権利」と「責任及び義務」が対価関係になっている。このことは、国に対して「責任と義務」を果たさない者は、国からの「自由及び権利」は保障されないとするものであると考えられる。また、「常に公益及び公の秩序に反してはならない」ことから、国の都合によって人権制約を行うことが可能と考えられる。

 このように、自民党改憲草案は、人権の存在根拠となるものが変更され、人権の性質が根本的に異なったものとなっている。また、人権の制約についても国家の都合によって際限のないものである。そうなると、そもそも近代立憲主義の言う水準での「人権」ではなくなってしまう。「人権の永久不可侵性」や「人権の普遍的価値の建前」としての性質が失れてしまっているのである。

 これらのことから、自民党案に比べて、現行憲法97条、11条、12条の方が人権の性質を正確に表現しているといえる。


人権を与えたのは誰か


 11条の「与へられる」の文言ですが、「誰から与えられたのか分からない」との批判があります。


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第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる

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 これについて、「現行憲法はアメリカの占領軍が作った英文の翻訳を原文にしているため、『神から与えられる』という意味を含んでおり、キリスト教圏の考え方を日本に押し付けられたものだ。」との主張があるようです。

 

 しかし、日本国憲法の人権の性質について書かれた他の条文をよく読むと、その主張は間違いであると分かります。

 

 97条では、人権について「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であり、「過去幾多の試錬に堪へ」て人々の間に受け継がれ「現在および将来の国民に対して」「信託されたもの」であるとしています。


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第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であって、これらの権利は、過去幾多の試練に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
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 また、12条では、人権について「国民の不断の努力によつて、(略)保持しなければならない(12条)」性質のものであるとしています。

 

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第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(以下略)

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 これは、人権という概念は、先人の「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」によってつくり出された今までこの世に存在しなかったものであり、今後もその概念を"存在するもの"として維持し続けていくためには、私たち自身も「不断の努力(12条)」をしてその存在を保ち続けなくてはならないことを示したものです。

 つまり、人権という概念の存在根拠は「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」であり、私たち国民が今後も努めなければならない「不断の努力(12条)」によって保たれる性質のものという意味です。


 この文言は、人権という概念は、本来存在しないものを"ある"と言ってのける性質のものでしかないことを暗示するものです。
人権概念は、私たち自身の努力によってしか成り立たせることのできない極めて不安定な性質のものであることを憲法上で暗に語っているのです。


 しかし、人権概念は、"ない"ものを"ある"と言ってのけている性質上どうしても「『人権なんて存在しない』と考えて他者の自由や安全を脅かす行動をする者」や、「多数決が万能の正当性であると思い込み、多数決によって少数派の自由や安全を侵害したり人権を剥奪することが可能と考える者」などによって、侵害されたり奪い去られてしまったりする危険があります。もともと人権という概念は、その概念そのものに対する考え方に違いが生じたり、そもそも人権概念を否定する者が現れた際に、その者が他者に対して行う侵害を防ぐことができない危うさを持っているのです。人権という概念に正当性を見出す認識が人々の間から失われてしまったならば、法秩序の正当性の裏付けも失われ、侵害的な行為を行う者の脅威を是正することができなくなってしまうのです。


 そのため、現行憲法はそのような危機をあらかじめ想定し、それらの者たちには人権概念が「享有を妨げられない(11条)」「侵すことのできない永久の権利(97条・11条)」であるかのように見せかけ、実定法以前の自然権であり、固有性・普遍性・永久性の性質がもともと存在するかのように(分かりやすく)印象付けることにしています。これが、現行憲法の「人権の普遍性の建前」というものです。「建前」です。「仮に、そういうことにしておくもの」ということです。


 しかし、その実質は本来"ない"ものですから、「人類の多年にわたる自由獲得の努力」や「不断の努力」などという抽象的な意志の観念を示して重々しく訴えかけ、分かる人には分かるような形で本来的な性質を暗示することにしているのです。これは、この意味を読み取り、「なんだ、そういうことか。」と
理解した人の中では共通認識として合意に至ることができるように意図するものです。逆に、分からない人には「普遍的価値」であるかのように見せかけておくのです。

 

 なぜ現行憲法がこのような回りくどい方法を採用しているのかというと、人権という概念を「絶対的なもの」と考えるように人々に強制してしまったならば、それ自体が「思想良心の自由」という人権を奪うことになってしまうからです。人々に対して質の高い人権保障を実現するためには、人権という概念でさえ「絶対的なもの」と押し付けることになってはいけないとの慎重なスタンスが込められているのです。


 この意図に表れているように、現行憲法は、価値相対主義の世界認識を前提としてつくられています。しかしこれは、「人々の意識の中にある『人権』という概念の存在と価値と正当性を守り抜くことができなければ、法秩序の正当性の裏付けは損なわれ、弱者の自由や安全に対する侵害を是正できない事態はいつでも起こりうる」という不安定な側面を含むものです。そのため、人権概念が無理解な多数派や強者によって侵害され奪いさらるような事態を想定した不安や恐怖があることを前提としているために、示唆的(暗示的)な記載としているのです。


 これは、法秩序に効力を与えるための正当性の基盤となる、人々の意識の中の「人権概念が存在し、価値と正当性がある」という前提認識を守り通すためには、人権概念に関するこの複雑な性質を理解していない無理解者と、今後も常に戦い続けていかなくてはならないという絶望的な現実認識に裏付けられています。価値相対主義である限り、価値絶対主義者による価値観の押し付けの攻撃に対しても寛容でなくてはならないという苦悩です。


 ただ、現行憲法の前文や97条、12条からは、その価値相対主義の絶望的な認識の中においてもなお、法秩序の効力が保たれることで自由や安全が保障されることを意図し、人々の意識の中に「人権が存在し、価値と正当性がある」という前提を守るために、必死で「人権」という概念に何らかの侵しがたい権威があるかのように伝え、その認識が人々に十分に広まるように努めようとする姿勢を読み取ることができます。無神論的な実存主義の立場の人権観であることによるものです。それこそが、「人権の普遍性の建前」を形成しているものあり、人権概念を掲げることで達成しようとする法秩序の効力の源泉となっているものです。



 これらの要素から導き出すと、11条の「与へられる」の「与える側の主体」になる者は下記の者です。


> 「自由獲得の努力(97条)」をしてこの世に今までなかった『人権』という概念を生み出した者

> 先人の「自由獲得の努力(97条)」を受け継ぎ、現行憲法をつくる際に、人権の性質を「国家が成立する以前から存在する人が生まれながらに持っているもの」という自然権の思想を採用し、「自然権の人権概念である」という人々の前提認識を「不断の努力(12条)」によって維持する思想を人々に訴えかける形で実定法に取り入れて具現化した者

 

 人権の性質をよく理解し、人権保障を確実にするためには「自然権としての人権観」が、他の「神による人権観」や「法実証主義の人権観」よりも有利であると確信し、「人権の正当性は、憲法の法の条文より以前に存在している」や「人権の正当性が、法の条文の正当性よりも優越する」という趣旨を実定化した者です。


 その者は、『人権という概念を創造した先人』や『人権の性質をよく理解し、人権概念を創造した先人の意志を受け継いで憲法を制定した人々(憲法制定権力)』です。また、憲法が制定された現在においては、『今なお人権の性質を理解し、その存在と価値と正当性をつくり続けている者』です。

 

 

 よって、11条の「与へられる」の文言に含む「与える側の主体」となるものは、宗教的な意味合いの『神』を指すことはないと考えることが妥当です。


 このことから、日本国憲法の人権の根拠には、キリスト教圏の宗教的な意味での『神』を信じたり頼ったりする「人権は神によって与えられるものである」というような発想ははまったく含まれていないと考えられます。


 97条の「信託された」という文言も同様です。「誰から信託されたのか」と言えば、やはり『神』ではありません。


 97条の「信託された」の文言に含む「信託する側の主体」となるものは、『人権概念を獲得した先人』や『それを受け継いで人権の性質を実定した憲法制定権力者』のことです。



 『憲法制定権力』とは、自然法の法認識の観念を実定法に結び付ける存在です。この者は、人権概念を基にした自然法の認識が憲法という実定法へと変わる過程を結びつけることのできる哲学の認識論の理解者です。自然法が実定法へと変わる過程の本質を理解している実存主義的な世界認識に目覚めた価値相対主義の認識を持った者です。


 この『憲法制定権力』である人々を『神』と呼ぶならば、それはこの日本国憲法の中核となる人権概念の本質部分をつくり出した人々ですから、確かに『日本国憲法の神』ということもできるのかもしれません。


 この者は、人々の最低限の自由と安全を守るために「法以前に人権がある」という前提を人々の意識の中に創造し続ける必要があるという法秩序に効力を生み出すための正当性の根拠となる認識のあり様を理解している者です。そのため、人格としては、ある意味においてはまさにこの憲法のいうところの『神』といっても間違いとは言い切れません。


 ただ、この場合の『神』の意味は、宗教的な意味での『神』とは違います。「経営の神」、「手術の神」、「小説家の神」というような『巨匠』という意味に近いものです。その主体となる存在は、明確に私たちと同じような人間だからです。


 仮に「与へられる(11条)」や「信託された(97条)」の文言に宗教的な『神』を指す意味が含まれていると考える人(価値絶対主義者に多い)がいたとしても、現行憲法のとる実存主義的な価値相対主義の認識においては、「宗教の『神』でさえも結局は人がつくり出したものである」と考える無神論的な立場です。(神を何と定義するかにもよるが)


 そのため、「人権を与える側の主体」として想定するものが価値絶対主義者の言う『神』であったとしても、その『神』というものは結局神秘的な存在を指すものではなく、『神』という概念をつくり出した実存主義的な価値相対主義者の考え方の観念であると考えるのが妥当です。

 

 人権概念の本質は、そのレベルの認識に到達した哲学の認識論の理解者によってつくられ、今なおそのレベルに達した理解者によって保ち続けられている概念です。

 この者は、「国民の多数派」や「議会の多数派」というわけではありません。

 

 この憲法が保障する「人権」という概念の本質的な性質は、実存的な価値相対主義の考え方を持った『憲法制定権力者(狭義:少数の法原理の理解者)』により、「人は生まれながらにもともと人権を持っているもの」という自然権思想が採用され、前国家的権利として人々に認知されるようにつくり出され、「人権概念は自然権の性質を基にしている」という前提を憲法制定行為によって実定法として確定されたものです。

妨げられないとは何か

 

 11条の前段では、人権について「享有を妨げられない。」と表現しています。


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第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。
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 『享有』の意味は、「権利や能力などを生まれながらに持っていること」です。


 『妨げられない』の文言は、人権概念の享有(人が生まれながらにもともと持っているという前提)は、この憲法によって成立する国家権力によって妨げられないことは当然、強者や多数決原理の決定によっても妨げられないことを示すものです。


 この表現は、現行憲法が人権の性質を「憲法よって国家機関が成立する以前から、人が生まれながらに持っている」と考える自然法思想の自然権(前国家的権利)として扱うことを前提としている側面が現れています。人権の普遍的理念、普遍的価値の建前です。


 ただ、現行憲法は、その「国家が生まれる前に存在するもの」という自然権(前国家的権利)の前提認識は、先人の「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」によってつくられたものであることも示しています。この人権概念それ自体も「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」という人の手によって生み出された概念であることを前提としているのです。


 その趣旨は、

> 12条で、「不断の努力によつて…保持しなければならない」とする人権認識であること

> 憲法が価値相対主義の認識によってつくられており、人権概念や憲法の価値観を「絶対的なもの」として信じなくてもよいことを前提としていること

> 「前文」の無神論の実存主義的な価値相対主義の意志の観念を訴えかけることで法の効力を生み出し、人権保障を実現しようとする姿勢で記載されていること

> 「前文」の観念的な意志を発した文言で訴えかけ、この憲法の価値観に賛同する者と共により良い国家づくりを志そうとする、価値相対主義の立場をとって記述している記載が多いこと

> 国民に憲法を尊重させる義務規定を置くことはせず、国民の「思想良心の自由」を制限していないこと

からも読み取ることができます。


  このことから、11条の「享有」や「妨げられない。」の文言は、97条の人権概念の由来を引き継いだものということになります。

 

人権の根拠となるもの 人権を保障するもの

 

 「法実証主義」の人権観を持っている人は、11条の条文に書かれた文字こそが人権の存在根拠であり、人々に対して人権を与える作用を持つと考えがちである。


 その認識から、「97条を削除しても、11条があれば人権はなくならない。」と考える人がいるようである。


 しかし、恐らくこの者は、11条の後段の「この憲法国民に保障する」という文言の意味を読み間違えている。この「保障する」の文言を、あたかも「この憲法によって人権概念の存在根拠が生み出された」かのように誤った理解をしている思われる。


 『保障』の意味は、辞書にある通り「ある状態が損なわれることのないように、保護し、守ること。(大辞泉)」である。『保障』とは、「損なわれないようにしている」だけである。その対象となっているものの存在根拠とは関係ないのである。この憲法は人権を『保障(損なわれないように)』しようとしているわけであり、人権の『存在根拠』を生み出しているわけではないのである。『保障する作用』と『存在根拠を生み出す作用』とは、別のものである。


 このことから、同じく11条後段の「与へられる」の文言も、「この憲法が人権の存在根拠となって、人々に人権を与える」という風には読むことができないのである。


 この者は、「法の条文それ自体が、人権の存在根拠となっているわけではない」ということを理解する必要がある。


 現行憲法は、人権概念それ自体の存在根拠は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」として生み出されたものと記載している。つまり、人々の持つとされる人権概念の存在根拠となっているものは、人権の性質を理解している者たちの「自由獲得の努力(97条)」や「不断の努力(12条)」であるとしているのである。


 「現在及び将来の国民」の人権は、「自由獲得の努力をした者(人権概念を生み出した先人や人権概念の本質を理解している憲法制定権力、今なお不断の努力をしている者)」から『与へられる』ことを想定しているのである。


 憲法は人々が持っているとされるその概念の性質を『保障(損なわれないように)』しているだけである。


 人権概念の根拠となっている条文はあたかも11条であるかのように見えがちである。しかし、実質的に人権の根拠を形作っているものは、「自由獲得の努力(97条)」である。11条は、その「自由獲得の努力」をした「先人や憲法制定権力の人々」、「今なお不断の努力をしている者」のつくった人権概念が、現在及び将来の国民に、生まれながらに持っているものとして与えられる過程の部分を条文によって示したにすぎないものである。


 97条に記載されている「自由獲得の努力」を行って人権概念が生み出されない限り、11条の「与へられる」として与えるもの(人権概念それ自体)が存在しないのである。


参考条文
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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 

 ⇒ 人権という概念の存在根拠を示す条文(人権概念の発生過程)

〔基本的人権〕  
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる
  人権という概念を人が持つに至ることを示す条文(人権概念の保有過程)

〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕  

第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

 ⇒ 人権という概念を保つ方法を示す条文(人権概念の維持方法)
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 下記の図で、「人権の根拠となるもの」と、「人権を保障するもの」の違いを確認する。類似した例として、『健康』と、『沖ノ鳥島』について取り上げる。



 

〇 人権は「自由獲得の努力(97条)」「不断の努力(12条)」が存在根拠となっている。憲法はその人権という存在を様々な侵害から『保障』しているだけである。


〇 健康は「食生活」や「身体の恒常性」によって保たれている。医者の診断や薬の投与は、その健康を病気や怪我などから『保障』しているだけである。


〇 沖ノ鳥島は、海水面より下にある「山」によって支えられている。コンクリートやテトラポッドは、沖ノ鳥島を津波の浸食などから『保障』しているだけである。

 

「保障する」の読み違え防止


 現行憲法の条文の「保障する」の意味を読み間違えることがある。条文を少し改変し、意味を明らかにしてみよう。

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〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン1】
改97条 この憲法が日本国民に「対して損なわれることがないように保護している(保障する)」『基本的人権』は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン2】
改97条 基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。 この憲法は日本国民に対してこれが侵害されないように保障するために作用する。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン1】
改11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に「対して損なわれることがないように保護している(保障する)」『基本的人権』は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン2】
改11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。この憲法は国民に対してこれが侵害されないように保障するために作用する。
………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………

〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕
第12条 この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン1】

改12条 この憲法が国民に「対して損なわれることがないように保護している(保障する)」自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

     ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓

【パターン2】

改12条 自由及び権利の存在根拠は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(なぜならば、そもそもその概念が存在していなければ、この憲法は国民に対してそれが損なわれないように保障することもできないからである。)又、国民は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。
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根拠を示す規定


〇 人権の根拠となるものは何か

⇒ 「自由獲得の努力(97条)」「不断の努力(12条)」


〇 人権を保障するもの(者)は何か

⇒ 「憲法」、または、「憲法の意味を読み取って、それに従って作用を起こす人間」


〇 人権を信託した者は何か

⇒ 「人権概念を生み出した先人」や「人権概念の本質を理解している憲法制定権力」、「人権概念を生み出した先人や人権概念をの本質を理解している憲法制定権力の意志に賛同し、人権概念を今なお維持している者」


 〇 人権を与えた者(もの)は何か

⇒ 上記の『信託した者』と同じく、「人権概念を生み出した先人」や「人権概念の本質を理解している憲法制定権力」、「人権概念を生み出した先人や人権概念の本質を理解している憲法制定権力の意志に賛同し、人権概念を今なお維持している者」。もしくは、第三章「国民の権利及び義務」の章にこの条文が記載されていることから、他の条文と同じように、手続き上においてこの憲法を"通して"与えられることにするという意味で「憲法(現憲法秩序)」かもしれない。

 

 11条では、「基本的人権は、(略)与へられる。」としているが、その人権概念は何者から何を根拠に与えられるとしているのは記載していない。


Q 自然法から与えられた?

Q 天から与えられた?
Q 神から与えられた?

Q 天皇から与えられた?

Q 国家から与えられた?

Q 憲法の文字から与えられた?

Q 国民から与えられた?

Q 主権者から与えられた?

Q 法を制定する多数派から与えられた?

Q 憲法制定権力から与えられた?

Q 両親から与えられた?


 11条のみでは、人権がどのような根拠を持って存在するとしているのか明らかではない。根拠が定かでないことから、本当に存在するのかさえよく分からない状態なのである。そのため、人権の存在根拠を明確に示すためには11条のみでは不足しており、97条が不可欠である。


A 人権は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」によるものである。よって、自由獲得の努力をしてきた先人や、今なお「不断の努力によつて…保持(12条)」している人々から与えられたものである。

 一般に、憲法を制定することによって人権概念の存在を実定化した憲法制定権力は「自由獲得の努力」をした者である。ただ、必ずしもすべての憲法制定権力の人々が人権概念の「普遍性の建前」の意図を理解しているとは限らない。そのため、実際には、憲法制定権力の中でも、この「普遍性の建前」の意図を理解している者によって人権概念が与えられるということになる。また、この意図を理解している後世の人々の「自由獲得の努力」や今なお「不断の努力」によって保持している人権概念を、「現在及び将来の国民」に与えられるということになる。


 この点、97条について、「神」から人々に与えられているはずの人権概念は、今まで権力によって踏みにじられていたが、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」によって、奪還したものであると解釈する者もいるようである。ただ、そうなると「神」とは何か、どの宗派の「神」なのか、「神」という信仰に人権概念の拠り所を求めることは、思想良心の自由を侵害することとなり、多様な価値観を保障するためにつくられた近代立憲主義の理念と矛盾するのではないかという問題が現れる。「神」を何と定義、解釈するかにもよるが、安易に「神」を持ち出すことは妥当でないと思われる。


 人権は、「普遍的理念の建前」「普遍性の建前」によって成り立つとする理論を守り続けようとする意志、自由獲得の努力、不断の努力に存在根拠があると考えることが妥当と思われる。




 97条、11条、12条の条文に、『先人・憲法制定権力・今なお自由獲得の努力をしている人』と『現在及び将来の国民』の文言を補って読み解いて読み解くこととする。 

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〔基本的人権の由来特質〕

第97条 この憲法が日本国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、人類(先人)の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として(先人・憲法制定権力・今なお自由獲得の努力をしている人より)信託されたものである。

 

〔基本的人権〕

第11条 国民(現在及び将来の国民)は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民(先人・憲法制定権力・今なお自由獲得の努力をしている人・〔または現憲法秩序〕より)与へられる。

 

〔自由及び権利の保持義務と公共福祉性〕

第12条 この憲法が国民(現在及び将来の国民)に保障する自由及び権利は、国民(現在及び将来の国民)の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。又、国民(現在及び将来の国民)は、これを濫用してはならないのであつて、常に公共の福祉のためにこれを利用する責任を負ふ。

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信託され、与えらたもの


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地球の存在
 ↓
人類の誕生
 ↓
人権という概念のない社会(無秩序で苦しいことが多かった)
 ↓
自由を獲得するために、「『人には人権がある』ということにしよう」という人々の合意が形成され始める
 ↓
その人たちによって人権概念が確立される

 ↓

その人たちは人権概念を、「現在及び将来の国民に対して、『侵すことのできない永久の権利』として信託(97条)」した。
 ↓

「現在及び将来の国民(11条)」は、その人たちに、人権概念を「『侵すことのできない永久の権利』として与へられ(11条)」た。

 ↓
これによって、「現在及び将来の国民」は、個々人が享有することとされたその「人権」が保障されるようにする法の支配の仕組みによって生み出された「憲法」という法の制度の手続きで保障を受けることができるようになった。

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 人権概念を、「現在及び将来の国民に対して、『侵すことのできない永久の権利』として信託(97条)」した者とは

⇒ 人権概念をこの世に新しく生み出し、その概念を確立した先人のこと。


 人権概念を、「『侵すことのできない永久の権利』として、現在及び将来の国民に与へ(11条)」た者とは

⇒ 憲法制定権力者のこと。(ここでいう憲法制定権力者は、単なる憲法制定を可決した多数者を意味するわけではなく、人権の本質部分の自然権的性質を普及することの有益性を理解し、憲法の条文にその意図を表現した者のことである。なぜならば、『侵すことのできない永久の権利』とされる人権の自然権的な性質は、単なる手続き上の多数決によっては、その正当性を保障できないものだからである。)


〇 人権概念を、「不断の努力によつて、(略)保持しなければならない」者とは

⇒ 先人や憲法制定権力者によって人権を与えられた全国民(全人類)の中でも、人権の存在が人の意志によってつくり出されているものだと知っている認識論の理解者(実存主義的な価値相対主義者)のこと。

立法過程での考え方


 立法過程の資料を確認する。


日本国憲法[口語化第一次草案] 1

 97条の条文にあたる内容のメモが、前文よりも前に貼り付けられている。


メモに記載されている内容
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この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であり、過去幾多の試練に堪〇て今日に及んだものであって、これは現在及び将来の国民に対し、崇高な信託と〇て授けられ、永久に、侵すことのできない権利として維持(護持・堅持)されるべきものである。

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(〇部分は、当サイト筆者の認識においては判読不明)
 (「←前へ」を押して、こちらのページを一ページ遡ると、同じ見開きページの前文の文字がよく見えるようになります。)


 このように、立法過程においても、人権概念が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として存在しており、「過去幾多の試練に堪えて今日に及ん」でいるものであって、自由獲得の努力をしてきた先人たちから「崇高な信託と」して授けられたものであり、その授けられた「現在及び将来の国民」によって「永久に、侵すことのできない権利として維持(護持・堅持)されるべきもの」としてつくられているのである。


 立法過程においても、人権概念が「侵すことのできない権利(11条、97条)」であるとは考えられておらず、人の手によって、「永久に、侵すことのできない権利として維持されるべきもの」と考えられていたのである。

 「維持(護持・堅持)されるべきもの」という表現は、12条の「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」と同じ趣旨であると解される。つまり、97条と12条に含ませている人権概念の性質についての記載は、非常に近いものであり、立法過程においてもこれらを区別して明確に切り離せる性質のものとは考えられていないことが読み取れる。



日本国憲法[口語化第一次草案] 2

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第九十四(<三)條 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として与へられたものである。
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 このページには、鉛筆書きで、「最高法 九十三条ハ形式的、第九十四条ハ実質的最高法規タル憲法トシテ一番重要ナ〇令〇〇ニ置ク」と記載されている。(〇〇の部分は、当サイト筆者の認識においては判読不明)

 そして、93条と94条はペン書きで条文番号を入れ替える修正をしているため、現在の97条が「実質的最高法規」、98条が「形式的最高法規」を示す条文となる。


 現行憲法97条の文言では、「信託されたもの」としているが、立法過程のこの資料には「与へられたもの」と表現しており、現行憲法11条の「与へられる」の文言に近いものである。



日本国憲法[口語化第一次草案] 3

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第十條 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与えられる。

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 第十條は、第三章「国民の権利及び義務」に定められた現在の11条にあたる条文である。

人権概念をつくる者(作成中)

~筆者の実力不足でなかなかまとまりません。申し訳ありません。~

 

 (この部分、本当に難しいところなんですね。恐らく筆者と同じように、憲法制定権力者もこの部分をしっかりと美しくまとめきることができず、11条と97条に似たような言葉を入れてしまうことになっているのだと思います。両方ある方が、趣旨は正確ですし、理論的な包括性も高いため、片方だけに削ってしまうよりも本質を捉えることができます。そのため、学問上の整合性も高く、見る者に対しても意図が伝わりやすくなります。ただ、一度で瞬時に理解できる文面上の美しさは実現できていないようです。恐らく、現在の筆者と同じような状況で、うまくまとめきれていないのだと思われます。)


(構成中)

 

〇 法の効力に必要な正当性の確信

 社会の中で通用する実効性のある法制度をつくるためには、法の効力の存在根拠を確立し、維持していく必要があります。


 しかし、法とは、たとえ誰かが文章を書き、その文字の羅列を「憲法」と呼んだからといって効力が生まれるわけではありません。

 何か「憲法典」と呼ぶ文章の束を掲げ、「制定した」と勝手に宣言したとしても、通常は人々に無視されて無効とされてしまうでしょう。


 法とは本来的に、文字の羅列でしかないものに対して「効力がある」と人々に信じられているという前提がなければ、その社会の中で通用する実力としては成り立たないものだからです。


 このことから、法が社会の中で実効的な力を持つ状態をつくるためには、人々に合意事として承認され、「効力が存在する」と信じられている状態を、『人々の意識の中』に保っていくことが必要となります。


 もし人々の認識の中で合意事として受け入れられ、「その法に効力が存在する」と信じられたならば、ただの文字の羅列でしかないものに対して人々は自ずと従うようになり、法の意図が作用し、社会の中で通用する実力へと変わるからです。


 そこで、法を社会の中で通用する実力として機能させるためには、「法に効力が存在する」という確信を人々の意識の中に抱かせるものが必要となります。


 それは、誰もが納得でき、人々に受け入れられ、自然とそれに従おうとする「権威」です。「正当性」などともいわれます。人々に受け入れられやすく、その人々が納得して自ずと従おうとする対象となるものです。


 しかし、人によって価値観は様々です。そのため、どんなものに「正当性」を感じるかは人によって違っていて当然です。


 ただ、この「価値観は様々であり、何に正当性や権威を感じるかはそれぞれ違っている」という前提を守ることのできる概念にこそ、多様な権威や正当性の観念を成り立たせるベースをつくる力となるものであり、他の価値観に優越した正当性を有するはずです。

 他にも、多くの人は「個々人の自由や安全が侵害されないこと」に対しては「正当性」の価値として賛同できるはずです。


 そこで、それらの要素を集約し、今まで存在しなかった正当性の根拠となる人権」という概念が生み出されました。


 人権という概念の「存在と価値と正当性」の権威それ自体が、先人の「自由獲得の努力の成果(97条)」によってつくられた概念ということです。人の手によって生み出された新しい概念です。

 法制度は、自由や安全を保障するために生み出された「人権」という概念を個々人が持つとすることに、正当性の根拠を置くことにしたということです。

 法の効力は、「人権」という概念が人々にとって有益であり、人々がそれを保障するための「法」という公共的な合意事をつくることに正当性を認め、その制度に自ずと従おうとすることで生まれるものです。そして、やがて社会に普及し、人と人を拘束する実力に変わることで法秩序が成り立つのです。


 このような、人々が正当性を認め、法を承認する心理的な過程を通ったものでないと、そもそも法に実効的な作用を引き起こす力が生まれることはありません。この「人々が正当性を認めて承認する」という前提がなければ、人権を保障しようとする法の秩序も成り立たないのです。


 

〇 正当性の確信をつくる者

 ただ、人権概念は、それまでの時代には世界中のどの地域の人々の間にも合意されていなかったものです。
もともとこの世には存在しなかったものです。


 人権という概念自体が、一つの価値観でしかないものであり、極めて不確かなものなのです。


 そのため、「人権」という概念に関する言葉の意味自体が、権力者や
強者の横暴や、多数派多数決原理の力などによってすぐさま縮小的に解釈させられたり、定義の変容を強いられたり、完全に奪われたりしてしまう危うさをもともと持っています。もしそのようなことが起きれば、弱者や少数派は「人権」という概念によって保護を受けることができなくなり、強者や多数派から著しい侵害を受けることになってしまう恐れがあります。


 これを防ぐためには、法の正当性の根拠となる「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という権威を、人々の意識の中につくり続けていくことが必要です。

 「人権」という概念は、その生命力を守り続けていなければ失われてしまう性質のものだからです。


 それは、人権という概念が人々の認識の中に合意事として存在していること自体が、実は誰かによって"つくり出されたもの"であることを哲学の認識論の前提として深く理解していなければならないからです。


 人権概念のこのような性質を十分に理解できる者にしか、本質を真に理解することができないからです。


Q
法の効力の大本を生み出すことは、実存主義的な価値相対主義者が、法の正当性の根拠となる「人権概念の存在と価値と正当性」の権威を、人々の意識の中に創造していくことによってしか実現することができないものです。
Q
法の効力が人々に認められるものとして成り立つためには、最終的にはこの者が法秩序の効力基盤をつくり上げるために、「人権概念の存在と価値と正当性の権威(普遍性、固有性、平等性、永久不可侵性など)」があたかも存在するかのように見せかけ、人々の意識の中に定着するよう意図する意志に頼るしか他に方法がないのです。

Q

 

これは、すべての人の人権(自由や安全)が等しく保障される法秩序を保とうとする願いに裏付けられた、「人権」という概念が人々の意識の中から失われてしまうことのないように普及させようとする道徳的・倫理的な共生性意志によってなされるものです。


人権概念のこれらの性質を真に理解した者(実存主義的な価値相対主義者)の、道徳的・倫理的な共生性に裏付けられた価値相対主義の寛容の精神を持って、人々の人権を保障しようと努める意志によってなされるものです。

Q
その道徳的・倫理的な共生性は、認識の相対性から生まれる堪えがたい苦悩(過去幾多の試練(97条))によって目覚めた実存主義的な価値相対主義の世界観から生まれる意志に裏付けられたものです。


Q
この者の持つこの意志こそが、法の基盤にある「人権という概念の存在と価値と正当性」の権威の根拠であり、法の効力の源泉となっているものです。


 人々の認識の中にある「人権という概念に価値と正当性が存在する」という確信(権威と見なす観念)は、実存主義的な価値相対主義者が意図して生み出したものです。
T
「人権保障の実現」という目的を達成するための法に効力を持たせるため、その大前提として必要となる「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という認識を、人々の意識の中につくり出しているのです。

D
人権という概念は、
実存主義的な価値相対主義
の認識を持った先人のすべての人々の自由や安全が守られることを意図する道徳的・倫理的な共生性意志によってつくられたものです。もともと存在しなかった新しい概念です。

 

 


━━━━━━━━━━━━━━━━

Q
法の効力を生み出すために必要な正当性の基盤となる「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という人々の意識の中の権威性の前提が守り抜かれ維持されていくことはそれらの権威の仕組みの裏側を理解できる少数の無神論の実存主義的な価値相対主義の認知に至った者が、そのような哲学的な背景への理解が十分でない多数の古典的認識を持った価値絶対主義者をも含めた「すべての人々」の人権保障を平等に実現しようとする道徳的・倫理的な共生性に裏付けられた寛容さの意志をもって、人々の意識の中に「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」と思われるように不断に努め、保っていくことによってしかできないのです。


 今後もその『人権』という概念それ自体が「
存在し、価値と正当性のある
かなもの(権威)」として人々の意識や認識の中から失われてしまうことがないように保たれていくためには、人権概念のこのような性質を理解できる実存主義的な価値相対主義者が、人権概念を「不断の努力(12条)」によって創造し続ける必要があります。


 そのため、
その今まで存在しなかった「人権」という概念を保ち続け、今後もすべての人々の自由や安全が守られるという人権保障が実現される法の秩序を維持していくためには、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者が、「人権」という概念をつくった者の道徳的・倫理的な共生性意志(実存主義的な価値相対主義の認識を持った先人の意図)を受け継ぎ、同じく今後もすべての人々の人権保障を実現しようとする道徳的・倫理的な共生性の意志をもって、「人権」という概念が存在し、価値と正当性があるかのように、人々の意識の中にその権威を継続的に創造していく必要があります。

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Q2

つまり、憲法の効力基盤である実質的最高法規性の根源にあるものは、実存主義的な価値相対主義者の本来存在しないはずの「人権という概念の存在と価値と正当性」を創造し、それを守り抜こうとする意志の観念や、その人権概念を自然法的な権威によるものと信じている人々の意志の観念(自由や平等、正義などを求める観念)を中核として、文章化された人権保障を目的とした法の体系(実定法)に変えたという過程によるものです。


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ここが、哲学や宗教学をベースとした認識論や神の観念などの学術的な認知を深く考察していないと、憲法の真意(憲法に人権の本質部分を記載した憲法制定権力の本音)を読み解くことができず、人権概念の存在根拠を正確に理解しづらいところです。


この意図が、「それらしく文章を書いただけの、単なる文字の羅列」に終わるのか、「その社会の中で通用する実力としての効力を持った法」として生き続けるものとなるかを分けるところです。

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人権の由来や根拠について触れた現行憲法の前文や97条、11条、12条などの文言は非常に観念的です。

D
それは、権力者や強者、多数派の力によってすぐさま言葉の意味解釈に変容を強いられ、概念を縮小させられたり、完全に奪われたりしやすい「人権」という概念の不安定で壊れやすい本質的な性質は、実存主義的な価値相対主義者にしかまさしく解することができないものであることを暗示しているものだからです。


現行憲法は、人権概念がこのように
人々の認識を運営していくことによってしか成り立たないものであることを暗に語っているのです。人権概念は、
こうすることによってしか守り続けていくことができないものであることを示しているのです。 

 

現行憲法の前文や97条、11条、12条などの文言は、それらを示唆することで、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者へ呼びかけ、強者や価値絶対主義者の認識を持つ多数派多数決による侵害から弱者や少数者の最低限の自由や安全を守るため、人権概念の存在と価値と正当性を人々の認識の中に定着するように運用していくことを促しているのです。

 

 (人権を奪う行為は法の平等原則によって不可能であると考える者もいます。しかし、人権が奪われてしまえば平等原則を実現するために法を適用する主体となるものもありませんから、平等原則も適用されなくなってしまいます。)



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 法の効力の大本は、多数決原理によって生まれたわけではありません。なぜならば、法が人権概念を正当性の裏付けとしている性質上、人権概念は法の手続きに定められた多数決原理によっても奪うことができないことが前提となるからです。このため、多数決に優越する価値として、人権概念が存在することになり、法の効力の大本も、人権概念に裏付けられていることによるものだからです。


 また、その「人権概念そのものが存在し、価値と正当性がある」という権威を人々の意識の中につくり出すことは、多数決によってはできないものです。


 さらに、「人権概念の存在と価値と正当性」の権威を中核として法を生み出し、効力の根拠とすることは、多数決によって確定的に合意を形成できる性質のものではありません。多数決によって初めて合意されることで人権概念が生まれるとするならば、多数決によっても奪うことのできない概念として人権を掲げる意味が失わてしまい、その性質に反することになってしまうからです。


 そのため、多数決原理は、法の効力を形成する正当性の中核とはなりません。


> 「人権の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に創造 (← 多数決では不可能)
> 人権を中核として法を生み出すという前提の創造 (← 多数決では不可能)

 

 また、「人権という概念は、法制度が生まれる以前に存在するもの」という前提を人々の意識の中に創造し、「人権という概念に裏付けられた法の制度にこそ正当性がある」という認識を普及させていくことも必要です。

 この「法」という制度の効力それ自体の根源となる「人には人権がある」という人々の認識を運用していく背景は、実存主義的な価値相対主義の認識を持つ者にしか適切に扱うことができません。


 人々を拘束する「法」というメカニズムの効力を維持するために必要な『人権概念が存在し、価値や正当性があり、それは実定法の制度に優越する』という前提が、実は少数の理解者によって創造されているものであることは、実存主義的な価値相対主義者にしか理解することはできません。


 実存主義的な価値相対主義者こそが、自然法の発想による「法の多数決制の決定の正当性以前に、人権概念に正当性がある。」や、「法の多数決手続きの正当性よりも、人権の正当性が優越する」とする人権概念の存在と価値と正当性の創造者ということです。

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(構成メモ)

法の効力を持たせる必要がある
 ↓
法の実力とは、人々に効力があると信じられ、人々が自然と従うことによって初めて成り立つもの
 ↓
人々が認める正当性が必要
 ↓
自由や安全を守ることへの合意に正当性を置く
 ↓
それらを人権という概念に集約
 ↓
人権概念の存在と価値と正当性を創造することが必要
 ↓
正当性が信じられるように人々の認識を運用することが必要
 ↓
自然法の人権観(自然権)として普及する都合の良さ
 ↓
これを理解できる実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性の意志によってなされるもの
 ↓
人権概念を維持するために不断の努力が必要


日本国憲法はかく語りき(作成中)

 

 憲法という単なる文字の羅列を集めた情報が、一つの法典として意味を成し、そこに実質的な効力の基盤となる正当性が人々に認められ、人と社会を拘束する力となるものとして成り立っているのは、人々の自由や安全を実現するためにつくられた「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という大前提となる合意が人々の意識の中に存在していることによるものです


 憲法という実定法に法の効力が”存在するもの”として人々に認められ、社会の中で通用している状態は、「人権という概念に価値と正当性がある」と信じる人々の認識(合意)によって成り立っているのです。

 法に実効性のある効力を持たせるには、結局、人々の意識の中で「人権概念に存在と価値と正当性があると"思われている(確信されている、信じられている)"という前提に頼るしか他に方法がないのです

 このことから、社会で通用する実力としての法の効力を生み出し、その効力が安定的に維持され続けるためには、法の正当性の基盤となる『人権』という概念が、あたかも「存在し、価値と正当性がある」ということそれ自体が、人々の意識の中にまさしく定着しており、信じられ、維持され続けていることが必要となります

 

 「社会に通用する実力」という法の機能が損なわれてしまうことがないように守り、法の秩序を成り立たせていくためには、誰かが「法に効力が存在する」という人々の認識を維持するために、法の正当性の根拠となる「人権という概念の存在と価値と正当性」の権威を、人々の意識の中につくり続けていく必要があります


 すべての人に人権が保障される質の高い法制度が成り立つように、人々の意識の中で、「人は生まれながらに人権を持っている」という自然法思想の自然権の人権概念が認知され、それがあたかも当然のように存在しており、価値や正当性があるかのように見えるように普及させる必要があるということです

 

 法に効力を持たせるために大前提として必要となる「人権という概念それ自体が存在しており、価値があり、正当性がある」という権威性の認識を人々の意識の中に定着するように継続的に創造し、今後もその認識が維持され続けるように常に努めて普及し続けていく必要があるのです 

 



 

 この趣旨は、現行憲法を読んでも、読める人にしか読めない暗号のようなものです。それは隠された実存的な「間接伝達」を含む深い意図によるものだからです(詳しくは、哲学者ヤスパースの「限界状況」や「暗号形態」について参照してください。哲学者ニーチェの「ツァラトゥストラはかく語りき」の「だれでも読めるが、誰にも読めない書物」にも近いものがあります。)


 97条の「基本的人権は、人類の多年にわたる努力の成果であって」、「過去幾多の試練に堪え」てきた概念であることを明らかにしています。憲法制定権力の真の力の根源が実存主義的な価値相対主義者によるものであることを明らかにしたこの文言の意図は、困難な立場においてもなお人権保障を実現しようと戦い続けることを決意した者たちの、心の奥深くにある底知れぬ強い思いを集める側面があると考えられます。ここには、その決意と意志の結晶こそが、憲法として具現化された法の本質であり、今後もその理解に至った者(実存主義的な価値相対主義者や、哲学でいう超人超越者、包括者などの人)たちと共に人権を保障しようとする意志を将来にわたってつないでいこうとの訴えが隠されています。それは、人と人との中にある認識の相対性に直面し、堪えがたい困難を経験した上に到達する価値相対主義の実存的認識に至った者へ呼びかけ、その苦しみさえも越えていこうとする決意を呼び覚ます側面があります。そして、そのような相対的認識の中にも、人権保障という認識を人類の中に受け継ぎ、守り抜いていこうとする実存主義的な価値相対主義者の意志の底力を象徴的に示していると考えられます。


 つまり、この「与えられ(11条)」や「信託された(97条)」の文言にある「与える側」や「信託する側」の者とは、神ではなく、神という存在をつくり出すかのように「人権」という概念をつくり出している者のことです。その者とは、ヤスパース哲学などに見られる限界状況を通り、実存主義的世界認識に目覚め、価値相対主義であり、自然法思想による自然権の原理を採用することの有益性に気づいた者のことです。そのような考え方を持つ者によって、憲法の人権概念が実定法として具現化されたわけですので、そのような認識を持った者こそが、現行日本国憲法の人権概念の本質をつくった憲法制定権力ということです。

 この認識こそが、憲法に含められている「民主主義」という主義や、「多数決原理」という決定方式の正当性根拠、「立憲主義」という権力を縛る統治機構の考え方よりも以前にある、人権という概念の本質的な前提です。これは、憲法の人権概念の本質をつくった憲法制定権力が必ずしも多数派によるものではないことを示します。(多数派であれば、人権侵害を受けるリスクも少ないので、そもそも人権という概念をこの世に生み出す必要もないという側面もあります。)

 現行憲法をつくった憲法制定権力者は、人権の本質的な性質がこのような哲学的概念の産物であることをよく理解しています。そのため、この人権概念という人々の中にある認識を、いかに維持していくべきなのか大変注意を払っています。そのことを示す文言が、まさに人権が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて(97 条)」「過去幾多の試練に堪へ(97条)」たものであり、今後も「国民の不断の努力によ(って)保持しなければならない(12条)」ものであるとの表現に表れています。さらに、「侵すことのできない永久の(97条)」ものと条文中に表現することで、人権という概念のこのような本質的な前提を理解していない価値絶対主義者や、神を信じるかのように人権という概念が"もともと存在するもの"と信じて疑わない人々の意識の中にも、できるだけ「法制度以前に人権がある」とする自然権思想の人権概念であるという前提を普及させ、その認識を確定しようとする意図が読み取れます。


 人々の人権という概念に対する価値と正当性の認識は、結局はこのような"訴えかけ"によってしか維持していくことのできない性質のものなのです。そしてこの憲法が採用しているとする自然権思想というものも、やはり価値相対主義の認識の中に現れる一つの思想であり、絶対普遍的なものではないことを示しています。しかし同時に、「絶対的なものではない」という相対的認識の中においても、なお、「人権は神によって与えられたものである」や「人権は多数決による正当性によって生み出されているものである(法実証主義)」などの考え方を絶対的な思想であると主張する者に対して、相対主義の立場からのその主張を一つの考え方として許容する寛容性を持ち、その相対的認識という前提から現れる決して譲ることのできない絶対的な価値観として、精神的発達段階の高い実存主義的な価値相対主義の認識から、価値絶対主義者に普及する認識として「宗教的権威性を基にした神の人権観」や「法実証主義の人権観」よりも「すべての人々に対して質の高い人権保障を実現するために有利である」との確信を持てる『自然法の人権観(自然権思想)』を採用することを訴えかけているのです。

 

 ここには、「価値絶対主義と価値相対主義のパラドックス」という哲学的な対立が存在します。現行憲法の人権の本質を制定した憲法制定権力は、このパラドックスを越えるためには、パラドックスの中においてもなお、人権を保障しようとする意志を持って戦い続ける必要があることを示唆しました。それこそが、人権概念が「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」として実現されているものであり、「過去幾多の試練に堪へ(97条)」ながら戦い続けることによって維持されており、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者の中に真に受け継がれてきたことを示しています。そして、今後もやはり、人権という概念が実存主義的な価値相対主義者の「不断の努力(12条)」によって、何とか維持される性質のものであることを示しています。


 現行憲法は、これらの理解に至り、人権という概念を維持することに賛同した実存主義的な価値相対主義者に対して、この自然権思想を根拠とした人権概念を維持するために共に戦い続けていこうと訴えているのです。このような認識から生まれる人権思想を維持しようとする人々の意志こそが、憲法の下につくられた全法体系の効力を生み出す正当性の源泉となっているのです。



 このような人権概念の認識から考えると、97条の「信託された」という文言の意味は、実は実存主義的な価値相対主義の認識に至った者から実存主義的な価値相対主義の認識に至った者へと代々受け継がれて信託されているとも読むことができるのです。「現在及び将来の国民に対し(略)信託された」とありますが、価値相対主義の憲法の精神に照らすと、それは建前です。本心としては現在及び将来の国民の中でもこの人権概念の本質を解する者にこそ、人権概念が「前国家的な自然権として存在する」という人々の意識の中にある前提を守り抜くことを真に信託されているという意味となります。


 「古典的な価値絶対主義者」と「実存主義的な価値相対主義者」の認識の違いによって、文言の読み方や理解、解釈が違ってしまうため、このような憲法に隠された建前と本音を丁寧に読み分ける必要があります。

 


 <理解の補強>

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正義観念の多様性(3):実質的正義と価値の客観性・相対性

P100 ②価値絶対主義と価値相対主義 ③価値相対主義の二つの流れ ④価値客観主義と現代正義論

 





 憲法学者「石川健治」の表現を確認します。
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--憲法体制に参加する意志?
 石川 支える意志ですね。コンラート・ヘッセ=2=という戦後ドイツの憲法学者が、ニーチェの「権力への意志」=3=をもじって「憲法への意志が憲法の規範力を支える」と言った。日本の場合は、「憲法への意志」が、9条とその支持層に限られており、憲法の核心をなす立憲主義の本体が、それによってのみ支えられるという構造になっている。そこが35年たっても変わらなかった。他方で、いたずらに憲法を敵視する復古的な勢力だけが、依然として改憲への「意志」を持っている。この状況でもかまわないという立場を取ると、立憲主義そのものの否定に加担することになると思います。そうやって憲法の根幹を奪われてしまうことへの危機感が、「真ん中」には感じられません。もしそこに、立憲主義の敵を退ける強い「意志」を見いだせる状況ならば、9条の是非を視野に入れた、より広範な憲法論議が可能になりますが。
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シリーズ憲法70年 「護憲」「改憲」--9条を考える 対談 中西寛・京都大教授、石川健治・東京大教授 2017年5月3日 (下線・太字は筆者)


 憲法学者「宍戸常寿」の表現も確認します。

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 立憲主義を支える「意志」とは、どういうものか。「立憲主義は独裁国家ではない、現代民主政国家にとってのグローバルスタンダードでもあるが、その核心は『法によって国家権力を構成し、制限する』という点にある。ここで強調したいのは、国家権力を構成するという点、すなわち複雑化する現代社会で『国民』を形成する政治プロセスを生み出すという憲法の働きである」(宍戸常寿 正論6月号)。
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メルマガ♯がんばろう、日本! №224 (下線・太字は筆者)

 

 「人権」を掲げて多様な価値観が共存できるベースを保とうとする意志こそが立憲主義の本体であり、憲法という最高法規の存立を成り立たせる根拠である。

 ただ、この「人権」という概念を「絶対的なもの」として扱ってはならない。「人権」という概念を人々に押し付けてしまうと、それは人々の「思想良心の自由」という人権を奪うことになってしまうからである。


 「人権」という価値観でさえ相対的な価値観の中の一つでしかないものであるとしながらも、なお多様な価値観を共存させることのできるベースを人々の認識の中につくり出すために、建前としてその概念を掲げるところに本質があるのである。その作用が、「人類の多年にわたる自由獲得の努力(97条)」「不断の努力(12条)」というものである。


 現在及び将来の国民は、「人権」を「与へられ(11条)」、「享有(11条)」しているとしているが、同時にこの「人権」という価値観を「保持(12条)」し続けることを「信託(97条)」されているのである。そして、この「保持(12条)」している「人権」を、現在及び将来の国民に「与へ(11条)」、「享有を妨げられない(11条)」ように受け渡していかなければならないのである。この連鎖が保たれていることこそが、人権概念の存在根拠であり、法の正当性を裏付け、その法に効力を生み出すためのエネルギーの源泉である。

 このことから、法の概念は、人々の意識の中に生きる存在である。文字通り、人々の意識と共に生きているのである。法の効力を確かなものとしたいならば、人々の意識の中の「人権」という概念の生命力を保つことである。

人権概念に含まれた間接伝達の暗号


 ヤスパースの言う「暗号形態」について、Wikipediaの記載などを参考にしながら考えてみたいと思います。


 ヤスパースは超越者の存在を暗示する「暗号」は3種に区分されるとしました。

 

〇 第一言語:歴史的瞬間において、その都度1回限り直接絶対意識に映ずる暗号(超越者の直接的なことば)

 憲法中では、人権概念は「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」であり、「過去幾多の試練に堪へ(97条)」た、「不断の努力(12条)」によって維持される概念であることを示しています。これは、限界状況に直面している者にしか、この第一言語としてその言葉の示す真意と意味の重みを感じ取ることはできないと思われます。


 これは、「何者かの権力や多数決の正当性以前に人権の正当性がある」という自然権として扱われる人権概念は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果として生み出されたものではあるが、その本質的な性質は本来ないものを"ある"と言ってのける概念であることを象徴している部分です。その概念の絶対普遍的な根拠自体は本来"ない"ものですから、権力者や強者、多数派によって奪い去られる可能性を常に含んでいます。実際に歴史上では人権概念が奪いさられ、何百万人も殺されるなどしています。このような事態を「過去幾多の試練」であるとしています。そのため、この人権概念が奪い去られないように「不断の努力」を要することを示しています。


 また、97条の「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。」という文言は、古典的な価値絶対主義の認識の中で耐えられないほどの苦しみ(限界状況死に至る病とも)を通り、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者の胸の中に強く訴えかけるものがあります。それは、その実存主義の認識に至る多くの苦しみを経験した過程が、確かにそれで良かったのだと、その道(実存主義)の先人がその者の労をねぎらう言葉として大きな役割を持っているからです。97条の言葉に隠された真意を、この第一言語として理解し、その意志の深さに救われた者が多いからこそ、実存主義の認識に至った者は97条の条文に対して強く愛着を抱くことが多いです。これが、実存主義の認識に至ってこの言葉に救われた者が、これから実存主義の認識に至る者に対しても同じように、それまでその者が経験してきた苦労のすべてを「そのままそれでいいのだ」と受け入れて肯定し、その労をねぎらう言葉として効力を持ち続けることを願う理由であると考えられます。


 法という国家の最高の実力の正当性を担保する人権という概念が、このような認識によって支えられていることに対する衝撃的な実感も、この97条の真意をこの第一言語として理解した者に対して、「この人権概念を今後は自分自身が不断の努力によって保持し、創造し続けていかなくてはならないのだ」という強い意志を与えるきっかけとなります。そしてこの意志が、実存主義の人から実存主義の認識に至った者へと受け継がれ、人権概念の存在と価値と正当性が創造され、その生命力が維持され続けていく原因となります。



〇 第二言語:第一言語が伝達可能なかたちに普遍化されたものが神話や芸術など

 憲法中では、「侵すことのできない永久の権利として信託された」「侵すことのできない永久の権利として与えられる」などとして、その概念があたかも神的な存在によって託されたかのような重々しさを発するように記載している点は、この第二言語の手法を使っていると考えられます。限界状況に直面したことがない人には、人権という存在が「侵しがたい神的な何か」であると思ってもらって構いません。そうすると、一応、人権保障が保たれた安全な社会秩序は、ある程度成り立つからです。


〇 第三言語:哲学的伝達の可能な第三言語を形而上学における思弁的なことば。

 実存主義哲学を十分に学び、その本質を解し、かつ人類が人権という概念を獲得し、憲法という法の合意を生み出した歴史的な経緯をよく勉強することで、憲法の持つ人権概念の本質を会得できると思われます。

 これは憲法学者、法哲学者、哲学者、心理学者、宗教学者、社会学者、歴史学者などが研究に励んでいます。


 人権の概念の本質は、人によってつくり出された存在です。人権という概念自体が、実存主義的な価値相対主義者によって人々の意識の中に「存在するもの」として確定させようとして生み出されているものなのです。それを知るには、ヤスパース哲学の暗号解読(実存開明)に至らなくては、その概念自体をつくり出している超越者の存在に確信が持てず、その者の意図する人権概念の本質的な性質を読み取ることができないと思われます。


 この間接伝達によって無制約な実存的世界認識の中に、人権という概念を生み出し続けることで、強者の脅威に対抗する武器となる権威をつくり出したのです。そして今後も誰かが、人権の根拠に関する憲法中に隠された実存主義的な価値相対主義者の発する暗号を読み取り、人権概念を人々の意識の中に「あるもの」として認知されるようにつくり続けなくては、この人権という概念を維持していくことはできないのです。

 

 

 もし改憲をするにしても、人権概念を今後も確かなものとして維持し続けていくためには、現行憲法に含まれているこの意図を十分に理解した上で行う必要があります。それは、法制度の効力の源泉を維持するためには、このような哲学的な認識に裏付けられた人々の人権保障を実現しようとする者の意志を集める「間接的伝達(間接伝達的真理)の訴えかけ」を含ませておくことが必要だからです。憲法中に含まれた実存主義的な価値相対主義の認識の者に働きかける意図を壊さないようにすることが最も重要です。新しい憲法をつくり出していく際にも、同じようにその意図を込めておくことが必要であると考えます。

 

「芦部憲法」ではどう書かれているのか


 『憲法(芦部信喜・高橋和之補訂)』〔筆者の手元にあるものは第三版〕では、


第二部 基本的人権

 二 人権の観念

  1 人権の固有性・不可侵性・普遍性  (基本的人権の原理


の項目にて、

『与えられる』とは、天、造物主(神)、自然から信託ないし付与されたもの、ということで、人間が生まれながらに有することを言う。」

と記載されいます。


 しかし、芦部憲法ではこの「天、造物主(神)、自然」が何であるのか、その意味をそれ以上明確に記載していません。


 その後の記述では、

「このような考え方の淵源は、有名な1776年のアメリカ独立宣言、すなわち、『すべての人間は平等に造られ、造物主によって一定の譲り渡すことのできない権利を与えられており、その中には生命、自由および幸福の追求の権利が含まれている……』という宣言などに求められる(略)。」

との記載があります。


 この記載を見ると、確かに芦部憲法の書籍は憲法学のベースとなると言われていますが、心理学や哲学、宗教学、法哲学に関わる人権に対する分析が十分には記載されていないことが見受けられます。

 人権獲得の歴史的な流れとしてはそのような経緯はあると思われますが、心理学や哲学の実存主義の世界観が発達し、学術的にも確立した現代においては、このような1776年の人権観念をそのまま受け止めた人権観は古い考え方であると思われます。(その時代その社会の一定層の認識の中では、そのような人権観で運営されていたということでしょう。)

 また、これを読み解く読者も、「天、造物主(神)、自然」という文言を短絡的に宗教的な物語のフィクションと結びつけて考えるという誤読も改めるべきであると思われます。この点、哲学の認識論や存在論などの考察を深めていくことで、これら「天、造物主(神)、自然」という観念がいかなるものであるのか思考を深めることができると考えます。それらを十分に読み解いたならば、多くの宗教学が伝達しようとしている実存的な認知のあり様に哲学的に到達が可能であり、その世界認識に至った者が「天、造物主(神)、自然」という観念を象徴的に示しているだけであることに気づくことができるはずです。

 

  2 人間の尊厳性━━人権の根拠


の項目では、

「基本的人権とは、人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するものであることを前提として認め、そのように憲法以前に成立していると考えられる権利を憲法が実定的な法的権利として確認したもの、と言うことができる。したがって、人権を承認する根拠に造物主や自然法を待ちだす必要はなく、国際人権規約(社会権規約と自由権規約)前文に述べられているように、「人間の固有の尊厳に由来する」と考えれば足りる。この人間尊厳の原理は「個人主義」とも言われ、日本国憲法は、この思想を「すべて国民は、個人として尊重される」(13条)という原理によって宣明している。」

との記述もあります。

 この記述では、人権は、「人間が社会を構成する自律的な個人として自由と生存を確保し、その尊厳性を維持するため、それに必要な一定の権利が当然に人間に固有するものであることを前提として認め」たもの、という根拠も示しています。しかし、なぜ「当然に、前提として、認められるもの」なのか、明らかにしておらず、それがそもそも造物主や自然法によるものではないのかという疑問も湧いてきます。


 芦部憲法では、人権の根拠について非常にあっさりと書き流しており、ここまで十分には考察を行っていません。


 この点については、無神論的な実存主義の観念や価値絶対主義と価値相対主義の認知の違いを詳細に分析することで、「天、造物主(神)、自然」などというものが宗教的なフィクションとしての何らかの神格化された対象を示しているのではなく、存在論や認識論の哲学に言う実存を理解した上に至る共生性の原理を保とうとする人(生命体)の意志のことを示していることが分かるはずです。


 この意志を、『基本的人権の尊重』と言います。これは、憲法の三大原理の一つとして知られているものです。根源的に法秩序の効力の大本となる人権概念は、この認識に至った者の「すべての個々人を『尊重する』という態度」によってしか成り立ちえないものなのです。


 つまり、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者が価値絶対主義者の認知の盲点をカバーして、共生性を保とうとする道徳的・倫理的意志(個々人を尊重する態度)※ をもって、人権という概念それ自体の存在を創造しているものであるということです。


 つまり、人権の根拠となって人々に人権を「与える」とされるその主体となっているものとは、人々の自由や安全が保たれる安定した法秩序をつくるために、その効力の正当性の根拠として「人にはもともと人権がある」ということに"している"人がいるということです。




※ 共生性を保とうとする道徳的・倫理的意志(個々人を尊重する態度)

参考
【哲学】なぜ「役に立たない人」にも基本的人権を認めるべきなのか?−相模原の障害者施設・殺傷事件を受けて
相模原殺傷事件 「合理」的結論と向き合う~「個人の尊重」の徹底を


 この道徳的・倫理的な共生性の意志については、下記の記述が参考になる。
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 ケルゼンは、「正義についての相対主義の哲学に含まれている特殊の道徳原理は寛容の原理である」という(H.Kelsen, What is Justice?, 1957, p. 22)。この一説を引きながら、加藤新平教授は、「寛容の原理は、論理的には、相対主義とではなく、人権思想━━それは相対主義が証明不可能とする一種の客観的価値観をとる━━と結びつくものである。そして寛容の最も確実な心理的保証も、むしろここに見いだされるのではなかろうか。寛容の基本的表現形態は思想・言論の自由の承認であるが、それを保証する心理的に最も確かな道、或いは積極的にそれへ誘引する力を持つものは、「何が正しいか分からない」という主張ではなくして、人間尊重の精神を核として保持した上での人間的共感ではなかろうか」と諄々と説いて、寛容の規定に「人間的共感」を置いている(『法哲学概論』有斐閣、一九七六年、五二二頁)。


(略)


それは、ロックの『寛容についての書簡』に詳密な検討を加えた数に、種谷春洋教授が到達した「お互いに譲ることのできない何物かをもった人間がお互いをそういうものとして認めあい、何とか折り合いを付けていこうとするところにこそ、あるいはそこにおいてのみ、人権が妥当しうる基礎がある」(佐藤幸治「「幸福追求」から「近代寛容思想」へ」『法学雑誌』三五巻一号、一六頁)とする説示とも響き合っている。
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寛容と人権――憲法の「現場」からの問いなおし 単行本 – 2013/6/27 amazon P70



<理解の補強>

基本的人権の原理  二 人権の観念  1 人権の固有性・不可侵性・普遍性

憲法学は立憲的憲法を正当化できるか?(1)―日本の憲 法理論の検討― PDF

よくわかる法哲学・法思想 (やわらかアカデミズム・わかるシリーズ) 単行本 amazon

現代自然法論:「人間の尊厳」時代の自然法論
P55 J.メスナーの立場 「自然法を人間の実存充足に向けたダイナミックな秩序と考える。」

「長谷部恭男」はどう表現しているか


 憲法学者「長谷部恭男」の憲法審査会での発言を読み解いてみよう。


 下記は、「硬性憲法」「安定的な人権保障システムを保つことで人権の質を高めること」「憲法の規律密度の在り方」「立憲主義の観念の基盤」「価値絶対主義と価値相対主義」「改正の限界」「人権概念の本質」「人権という普遍性の虚構」「憲法の体系」など、当サイトの内容に重なる部分が凝縮されている。言葉が優しく分かりやすいため、スラっと流してしまいそうであるが、実は非常に内容が濃い。

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 こうした近代立憲主義に立脚する憲法、これは、通常の法律に比べますと変更することが難しくなっていること、つまり硬性憲法であることがこれまた通常でございます。今述べました基本的人権を保障する諸条項、民主政治の根幹にかかわる規定、これは、政治の世界におきまして、選挙のたびに起こり得る多数派、少数派の変転や、たまたま政府のトップである政治家の方がどのような考え方をするか、そういったものとは切り離されるべきだから、つまり、その社会の全てのメンバーが中長期的に守っていくべき基本原則だからというのがその理由であります。

 また、憲法の改正が難しくなっている背景には、人間の判断力に関するある種悲観的な見方があると言ってもよろしいでありましょう。人間というのは、とかく感情や短期的な利害にとらわれがちで、そのために、中長期的に見たときには合理的とは言いがたい、自分たちの利益に反する判断を下すことが間々あります。ですから、国の根本原理を変えようというときは、本当にそれが、将来生まれてくる世代も含めまして、我々の利益に本当につながるのか、国民全体を巻き込んで改めて議論し、考えるべきだということになります。それを可能とするために、憲法の改正は難しくなっております。さらに、改正を難しくするだけではなく、国政の実際においても憲法の内容が遵守され具体化されていくよう、多くの国々では違憲審査制度が定められております。

 近代立憲主義の内容とされる基本的人権の保障、そして民主的な政治運営は、時に普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります

 ここで、普遍的というのが、世界の全ての国が大昔から現在に至るまで、全てこの近代立憲主義の理念に沿って運営されてきた、そういう意味であれば、これは正しい言い方ではございません。実際には、現在でさえ、こうした理念にのっとって国政が運営されているとは言いがたい国は少なからずございます。また、日本も、第二次世界大戦の終結に至るまでは、この近代立憲主義に基づく国家とは言いがたい国でありました。

 さらに、民主主義について申しますと、十九世紀に至るまでは、民主主義はマイナスのシンボルではあっても、プラスのイメージで捉えられることはまずなかったと言ってよろしいでありましょう。それでも、現在では、基本的人権の保障や民主的な政治運営は普遍的に受け入れられるべきものとされております。

 ただ、問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりません。これらの条項の前提となる認識、つまり、この世には、人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるかそれこそが、実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言うことができます。

 そして、近代立憲主義の理念に忠実であろうとする限り、たとえ憲法改正の手続を経たとしても、この理念に反する憲法の改正を行うことは許されない、つまり改正には限界があるということになります。

 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。

 もっとも、これら国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押しつけるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。

 憲法を保障するという言葉もいろいろな意味で使われることがございますが、現在の日本で申しますと、価値観や世界観、これは人によってさまざまである、しかし、そうした違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な、人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする、そうした近代立憲主義の理念を守るということ、そして憲法に書き込まれた日本固有の理念や制度を守り続ける、それが憲法を保障することのまずは出発点だということになるでありましょう。

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参考人 長谷部恭男(早稲田大学法学学術院教授) 第189回国会 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日

衆議院 憲法審査会 第189回国会 第3号(平成27年6月4日(木曜日))会議録


 長谷部恭男が、「基本的人権の保障…は、時に普遍的な理念、普遍的な価値だと言われることがあります」「基本的人権の保障…は普遍的に受け入れられるべきものとされております」と表現しているとおり、基本的人権とは、「言われることがあるもの」「べきとされるもの」なのである。つまり、価値絶対主義的な意味での「普遍的なもの」というわけではないことが前提なのである。

 これは、「特定の人生観や宇宙観を押し付けるようなこと」になってはならないため、価値絶対主義的に『基本的人権は普遍的な理念、普遍的な価値である』とは言い切ることはできないが、「違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な」姿勢を持って、すべての人が「人間らしい暮らしのできる公平な社会生活を営もうとする」価値相対主義の立場から「近代立憲主義の理念を守」り続けようとする道徳的・倫理的な共生性の意志を持つことが、「憲法を保障すること」の「出発点だということになる」という意味である。


 これは、「特定の人生観や宇宙観を押し付けるようなこと」になってはならないのだが、「違いにもかかわらず、お互いの立場に寛容な」姿勢を持たなくては、近代立憲主義の理念を実現する憲法を保障することには繋がらないという難しさを示したものである。

 つまり、「価値絶対主義」ではいけないのだが、「『価値相対主義』でなければ憲法理念を実現できないという自己の中での絶対的な立場」を持たなくては、基本的人権やそれを保障する憲法という価値観自体が成り立たないということである。人権概念や憲法という価値観は、もともと「価値相対主義が価値絶対主義に変わるパラドクス」を含んだ観念なのである。これは、近代立憲主義が存立するための大前提となっているものなのである。

 この大前提は、法の条文に文言として書き込んだからと言って、その意味を確定し、効力を生み出せるという性質のものではない。

 

 長谷部恭男はそれを下記のように表現している。


 「現在では、基本的人権の保障や民主的な政治運営は普遍的に受け入れられるべきものとされております。 ただ、問題は、憲法典の中に基本的人権を保障する条項、民主的な政治制度を定める条項が含まれているか否か、それには限られておりませんこれらの条項の前提となる認識、つまり、この世には、人としての正しい生き方、あるいは世界の意味や宇宙の意味について、
相互に両立し得ない多様な立場があるということを認め異なる立場に立つ人々を公平に扱う用意があるかそれこそが、実は普遍的な理念に忠実であるか否かを決していると言うことができます。」


 補足してまとめると、基本的人権を保障する条項の「前提となる認識」としての、「相互に両立し得ない多様な立場があることを認め、異なる立場に立つ人々を公平に扱う」という価値相対主義の認識で法を運用する「用意があるか」(意志を持っているか)が、「普遍的な理念に忠実であるか否かを決している」という意味と考えられる。

 これは、この「人権」という概念や、「憲法」という秩序観(価値観)自体を維持するためには、価値相対主義の者が自らの決意の中に、「違いにも関わらず、お互いの立場に寛容な」姿勢を貫き続ける意志を持って法を運用しなければならないということである。


 そうでなければ、条文の文言に「基本的人権を保障する条項」を書き表したところで、「人権」という概念や「憲法」という価値観それ自体が、価値観の自由や多様さが保障される中においてもなお存立することを意図してつくられた近代立憲主義の本質に適合する性質のものとして成り立たないからである。


 つまり、結局は、憲法という一つの価値観、秩序観自体が支持され、求心力を生み出し、社会の中で効力を持った実力として成り立つものとなるかどうかは、この価値相対主義の意志の観念に至った者が存在することによるものなのである。


 この者の意志の観念こそが、実質的最高法規として憲法という法の秩序が人々の意識の中に存立することを支えるエネルギーの源泉なのである。




 「伊藤真」の表現も確認しておく。
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 言わずもがなのことではあるのですが、そもそも憲法というのは一人一人を個人として尊重する、そのために日本の社会で多様な価値観が公平に共存し合えるような、そのための方策を定めております

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参考人(伊藤真君) 参 - 憲法審査会 - 7号 平成26年06月04日 (下線・太字は筆者)



 憲法学者「木村草太」の表現も確認する。
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「憲法は、まったく違う価値観の人と共存しながら政治社会を作っていく試みです。全然違う価値観の人と生きていくというのは、非常に無理をしているわけですね。しかし、それをやっていかなければ、すべての個人が尊重される社会はできません。」「憲法が目指しているのは、すべての人が平等である社会、多様な価値が尊重される社会、言ってみれば、私たちにとって当たり前の社会ですよね。」「そういう社会を実現するために、憲法はあります。」

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書籍『憲法という希望』 法学館憲法研究所 (下線・太字は筆者)



 弁護士「倉持麟太郎」の表現も確認する。
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憲法という法規範自身は、本来、まったく相いれない価値観を大切にしている個人がそれぞれ「自分らしく生き」ながら「共生」を図るというある種の矛盾を克服するための極めて包容力の高い寛容な法規範のはずである。

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憲法の包容力よ再び 誰もが当事者の立憲的改憲論 倉持麟太郎 弁護士 2018年01月12日 (下線・太字は筆者)


 あらためて、憲法学者「長谷部恭男」の表現を確認する。
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立憲主義は、ありのままの人間が、自然に受け入れられる考え方ではない少々無理をしなければ理解できないし、身につくはずのない考え方である
(略)
立憲主義は自然な考え方ではないそれは人間の本性にもとづいていないいつも、それを維持する不自然で人為的な努力をつづけなければ、もろくも崩れる。世界の国々のなかで、立憲主義を実践する政治体制は、いまも少数派である。立憲主義の社会に生きる経験は僥倖である。

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◆2.リベラル左派の見解(長谷部恭男) 長谷部恭男『憲法と平和を問いなおす』(2004年刊) p.178~ 終章 憲法は何を教えてくれないか (下線・太字は筆者)


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 善き生き方に関する考え方は多様であることを認め、自分の考えを他人に押しつけようとするのはやめて、無理をしてでも、立憲主義を受け入れてくださいというのが、本書のメッセージです。この無理を多くの方々が受け入れていただけるかどうかに、立憲主義の諸原則が改正の限界となるかがかかっています。
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憲法入門 長谷部恭男 羽鳥書店 P136 amazon

 上記は、「自分の考えを他人に押しつけようとするのはやめて」と言っているが、「無理をしてでも、立憲主義を受け入れてください」と『自分の考えを他人に押しつけ』ている矛盾があるようにも見える。実際には、メッセージという形なのであるが、この訴えかけを続けていかなくては、立憲主義を成り立たせることはできないのである。突き詰めるところ、この訴えかけの意志こそが、立憲主義そのものであり、憲法原理の本質なのである。



<理解の補強>


【動画】「憲法改正論議について」長谷部恭男教授 2017.11.19

自民党の「改憲案」はどうしてダメなのか 橋下徹と憲法学者・木村草太が激論 2018.11.5

道徳性発達理論


 人間の道徳的判断について、コールバーグが提起した「道徳性発達理論」を見てみよう。この道徳的判断の発達段階に応じて、各々が感じる「法」というものに対する認識は異なる。その影響で、憲法改正を志向する際に法に求めるものとして表れる傾向も変わってくる。


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   1.慣習以前のレベル

第一段階 = 罰と服従への志向
罰の回避と力への絶対的服従がそれだけで価値あるものとなり、罰せられるか褒められるかという行為の結果のみが、その行為の善悪を決定する。

第二段階 = 道具主義的相対主義への志向
正しい行為は、自分自身の、また場合によっては自己と他者相互の欲求や利益を満たすものとして捉えられる。具体的な物・行為の交換に際して、「公正」であることが問題とされはするが、それは単に物理的な相互の有用性という点から考えられてのことである。


   2.慣習的レベル

第三段階 = 対人的同調あるいは「よい子」への志向
善い行為とは、他者を喜ばせたり助けたりするものであって、他者に善いと認められる行為である。多数意見や「自然なふつうの」行為について紋切り型のイメージに従うことが多い。行為はしばしばその動機によって判断され、初めて「善意」が重要となる。

第四段階 = 「法と秩序」の維持への志向
正しい行為とは、社会的権威や定められた規則を尊重しそれに従うこと、すでにある社会秩序を秩序そのもののために維持することである。


   3.脱慣習的レベル

第五段階 = 社会契約的遵法への志向
ここでは、規則は、固定的なものでも権威によって押し付けられるものでもなく、そもそも自分たちのためにある、変更可能なものとして理解される。正しいことは、社会にはさまざまな価値観や見解が存在することを認めたうえで、社会契約的合意にしたがって行為するということである。

第六段階 = 普遍的な倫理的原理への志向
正しい行為とは、「良心」にのっとった行為である。良心は、論理的包括性、普遍性ある立場の互換性といった視点から構成される「倫理的原理」にしたがって、何が正しいかを判断する。ここでは、この原理にのっとって、法を超えて行為することができる。

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ローレンス・コールバーグ Wikipedia

 

 

 人類は幼少期、「第一段階」を経験し、次第に「第二段階」へとステップアップしていく。


 憲法という権威を信じて行動している古典的認識の価値絶対主義者は、この道徳性発達理論の「第四段階」の者であることが多い。しばしば、その「第四段階」の者の周囲に、「第三段階」の者が協調して集団を形成している。現代社会の中を生きる人類の成人の多くは、この段階である。これが多数派であるといっても間違いではないだろう。

 日本国憲法の実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力者は、この道徳性発達理論の「第五段階」~「第六段階」の者である。著名な憲法学者や哲学者、心理学者、宗教学者なども、この段階の認識を有している。どちらかというと少数派である。

 政治家や政党についても、この道徳性発達理論のどの段階の人であるのか、また、どの段階の人々が集まった集団なのかをある程度推察することができる。


 ただ、日本国憲法はこの道徳性発達理論の最上の段階である「第六段階」を包括した法認識によって生み出されており、それ以前の段階の認識をすべてカバーしているのである。もし憲法改正が行われ、
この道徳性発達理論の段階を下げるような憲法へと変わってしまったならば、多様な人々の持つ法秩序そのものに対する認識の在り方の幅を狭めることとなるため、法秩序の許容性を損なうことに繋がってしまうのである。それは、道徳心の発達段階や認知の多様性を広くカバーすることができないことから、法秩序の共生性の基盤を壊してしまうこととなるのである。これでは、近代立憲主義のいう人権概念の在り方に適合するものとはならず、本来的な自由や権利の性質を縮小させてしまうのである。


 確かに、外国には「第四段階」に留まっていると見られる憲法も存在しているようである。しかし、その段階を包括したより高い段階の法認識を有している日本国憲法のあり様を正確に捉えておくことが大切だろう。



 下記は
、道徳性発達理論の「第四段階」から「第六段階」の者の位置を示した。




 

 下記は、宗教的権威性を基にした、古典的な価値絶対主義の道徳性発達理論でいう「第四段階」の認識を持つ者の憲法観である。外国の憲法の中には、この水準でつくられたものもあるようである。これは、認識の相対性に対して、許容性の低い内容となっており、人権の一つである思想良心の自由が損なわれている意味で人権が制限されていることとなるのである。




 憲法学者「木村草太」は、この道徳性発達理論の「第四段階」に依拠した多数派の者がつくり出した、学問体系のない道徳教育の危うさについて指摘している。


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 学習指導要領には、「主として生命や自然、崇高なものとの関わりに関すること」との項目まである。第1、第2学年「美しいものに触れ、すがすがしい心をもつこと」、第3、第4学年「美しいものや気高いものに感動する心をもつこと」までは、何とか理解もできる。しかし、第5、第6学年「美しいものや気高いものに感動する心や人間の力を超えたものに対する畏敬の念をもつこと」に至っては、もはや、憲法が禁じる宗教教育ではないか、との疑念を持たざるを得ない
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木村草太の憲法の新手(78)学問体系がない道徳教育 曖昧な概念、権利を損ねる 2018年4月15日  (下線・太字は筆者)
⇒参考 学習指導要領「生きる力」 第3章 道徳 文部科学省


 道徳性発達理論の「第四段階」の者は、権威がなぜ権威なのかを理解していないため、このような道徳教育観となってしまうのである。「第四段階」以下の者は、何者かによって与えられた権威を信じ込みやすい傾向があり、その権威に従うことで社会は成り立っていると思い込んでいるのである。実はそれが、「第五段階」「第六段階」の者に、そのような考え方を持つ自由を許容され、社会秩序の中に組み込まれて生かされているだけであることを、本人たちは知らないのである。


 ただ、「第四段階」の者は人類の中でも多数派である。そのため、選挙でも多数派を形成し、国の政策としてその「第四段階」の道徳観を国民に押し付けてしまうこととなりやすいのである。

 

 この点が、そのような事態によってもたらされる弊害を理解している「第五段階」「第六段階」の認識によって生み出された日本国憲法の精神に照らすと、憲法が禁じる宗教教育に該当する疑念が出てくるのである。

 このような「第四段階の道徳観」を押し付けるような道徳教育の在り方は、少数派や様々な考え方を持った者が共存するためにつくられる近代立憲主義の憲法に適合的でないのである。





 キリスト教は、第四段階の者に普及しやすいような閉じた世界観によってつくられている部分が多い。上記の道徳教育のやり方には、このような考え方を持つ者の影響が伺われる。

 

「石破氏は、自身のクリスチャンとしての信念にも触れた。」

「『人間の知恵とか力を超えたことがこの世界にあるということを疑ったことは一度もない。』」


それでも私が内閣総理大臣を目指す理由 2018年07月22日

 

 キリスト教の普及している国家では、憲法も神から与えられた人権観で生まれていることがあるようである。しかし、それが価値絶対主義的な観念によるものであれば、もはやそれは「思想良心の自由」を侵害することとなり、人権侵害となりうるのである。


 だからこそ、日本国憲法は価値相対主義の人権観によってつくられており、キリスト教のような価値絶対主義的な世界観による人権観を採用していないのである。(キリスト教に限らないが)


 価値相対主義の人権観は、日本の多神教の精神や、一定レベル以上の仏教の世界観にも適合的であり、日本の精神としては比較的受け入れやすかったとも思われる。


 ただ、だからと言って、多神教や仏教を絶対的なものとして信じるような姿勢で見てしまう認識の段階にある者は、それも違うということを付け加えておく。信じ切ってもらうことを前提とした世界観なのか、そうではなくて、各々の感じ方の中に成り立たせることを前提としているかという部分である。


 信じ切ることを意図したり、信じるように強制したりする人権観とすることは、やはり人権侵害にあたることとなりやすいため、人権保障のための憲法を打ち出す意味が損なわれてしまう点で、採用するべきではないと考えられるのである。

脳外科医は何と表現しているか


 脳外科医「浅野孝雄」の資料では何と表現しているか見てみよう。


 下記の資料は脳外科医の「脳」についての話であるが、見方を変えると、法学における「人権概念」の議論に通じる記載があることに気がつく。筆者は神経学については体系的な理解がないため、その意味を十分に読み解けているかどうか自信がない。しかし、この資料からは意識にヒットする部分が非常に多く、興味深い情報が満載である。


 この資料の「大域的アトラクター」という言葉の意味であるが、筆者の理解では、「脳内の神経が意識を生み出すサイクル」といったところである。


 「大域的アトラクター」について、詳しくは、「心はいかにして生まれるのか―脳外科と仏教の共鳴」を参照


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 「著者の見地において、「慈悲」とは、最高次のメタ大域的アトラクターにほかならないのであるが、それは「心」を生み出す一般的な脳のメカニズムについて言っているだけで、心において「慈悲心」が芽生える理由を示すものではない。ここで我々は、神経生物学的言説(科学言語)と哲学的・宗教的言説(日常言語)とを隔てる壁に突き当たるのである。しかし、「慈悲・愛」が大域的アトラクターであるということは、それが神仏から与えられたものではなく脳という基体から自然的なメカニズムによって生み出されることを意味している。このことを足がかりとすれば、慈悲・愛が有する意味とその由来を、科学的に解明することができるかもしれない。」

 ここで「自然的なメカニズム」というと自然主義的に響くのですがどうでしょうか?方法論的自然主義(科学言語)ではあっても存在論的自然主義(唯物論哲学)を意味しているのではないと思いますが。私は存在論的「創発」と方法論的創発を区別しています(拙著『宗教と公共哲学』34頁)。実際に、浅野先生も316頁5行目に「ブッダの慈悲やキリストの愛などの超越的理念へと転換するしかない」と述べているのですからこの区別は暗々裏にしておられるのではないでしょうか?

 「一方、〈無縁の慈悲〉である心理的利他心は、脳の言語機能と、それを用いた抽象的思考能力が現生人類のレベルにまで発達した枢軸時代において、ようやくブッダの慈悲や、キリストの愛として創発したものである。それは進化的利他心よりも高い次元の、全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクターであるが、それを生み出した脳のモジュールは、未だすべての人間の脳に遺伝的に定着するには至っていない。つまりそれは、人類の心と社会の将来あるべき姿を先取りするものとして、我々に示されているのである。」

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心と脳の関係について 埼玉医大名誉教 浅野孝雄 PDF 2016/5/20 (P15) (下線・太字は筆者)


 この資料の「慈悲・愛」の部分を「人権」に置き換えて考えてみる。

 すると、たちまち、「神仏から与えられたものではなく」の部分が、法学における憲法11条の「与へられる」の文言が「神によって与えられる」と考える『宗教的権威性の神による人権観』を否定する議論に通じるものであると理解できる。


 そして、「脳という基体から自然的なメカニズムによって生み出されることを意味している」の部分が、法学における『自然法思想の自然権の人権観』が妥当であるとする議論に通じることを読み解くことができる。


 しかも、その「自然的なメカニズム(自然法)」としての「(仏陀の慈悲やキリストの愛などの)超越的理念」は、「意味だ全ての人間の脳に遺伝的に定着するには至っていない」と記載されている。これは、すべての人類がローレンス・コールバーグの道徳性発達理論の「第五段階」や「第六段階」に至るわけではないという部分と一致している。


 さらに、「ブッダの慈悲やキリストの愛」として創発した脳機能としての「全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクター」こそが、自然的なメカニズム、つまり、法学に言う自然法に該当することを導き出すことができるように思われる。


 これは、実存主義的な価値相対主義者(道徳性発達理論の「第五段階」「第六段階」)の者の道徳的・倫理的な共生性の意志、つまり、脳機能として「全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクター」こそが、「自然的なメカニズム」として到達した自然法であり、そこから導き出した自然権こそが、現行憲法のいう「人権」であるという意味である。



 この資料の言葉を、法学の言語に変換してみよう。

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全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクター

 ⇒ ブッダの慈悲・キリストの愛などの超越的理念 ⇒ (宗教的権威性による人権観)

 ⇒ 自然的なメカニズム」 ⇒ 自然法 → 自然権(自然法の人権観

 ⇒ 慈悲・愛」 ⇒ 道徳性発達理論の「第五段階」「第六段階」の者の道徳的・倫理的な共生性の意志(人権概念の創造)

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 このことから、法学に言う、


① 「宗教的権威性の神による人権観」
も、

② 「自然法思想による自然権としての人権観」も、

③ 「実存主義的な価値相対主義者(道徳性発達理論の『第五段階』『第六段階』の者)の道徳的倫理的な共生性の意志による人権概念の創造」の人権観も、


脳外科医の神経学においては、人類の脳内の活動としての「全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクター」の作用に集約できるものであり、同じものを指しているということである。



 この資料の後半にも、非常に興味深い言葉が詰め込まれている。

 「全人類的な普遍性を有するメタ大域的アトラクターであるが、それを生み出した脳のモジュールは、未だすべての人間の脳に遺伝的に定着するには至っていない。つまりそれは、人類の心と社会の将来あるべき姿を先取りするものとして、我々に示されているのである。」


 この、「人類の心と社会の将来あるべき姿を先取りするもの」こそが、『人権』という概念であり、「我々に示されている」ものであると言えるのではないだろうか。


 完全に整理できたか自信がないが、脳外科医の脳の機能の話と、人権概念の性質が、こんなにも高い精度で一致していることは筆者も非常に驚いている。



 追記


 「竹田恒泰」の表現で、非常に興味深いものがあったので紹介する。


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「大御心」といえば保守的、「人権」といえば革新的、ということになりますが、結局、目指すところは一緒でしょう。

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憲法の真髄 小林節・竹田恒泰 P51 amazon


 ここで使われている「大御心(おおみごころ)」とは、「天皇の心・天皇の考え」といった意味である。


 現行憲法では、天皇は「日本国の象徴(1条)」である。この「日本国」という概念は、「日本国憲法」によって生まれた概念である。そのため、「日本国の象徴」とは「日本国憲法の象徴」という意味も含まれていると解することができる。


 (あるいは、「日本国」を「日本国民」に対する概念と見て日本国憲法上の「統治権」として考えるならば、統治権は憲法上、国民の人権に奉仕するための存在であるから、その人権に奉仕する「統治権」を象徴していると解することができる。)

 そうなると、「天皇」という象徴を見た時に、その後ろに存在するものは、まさに「日本国憲法」である。
この考え方によれば、天皇の「大御心(天皇の心・天皇の考え)」とは、人権保障を実現するためにつくられた「憲法」の精神に裏付けられたものということである。


 これにより、「天皇の大御心によって、人々に人権が与えられる」と考える者がいたとしても、その実質は、「日本国憲法によって、人々に人権が与えられる」という意味となるのである。


 (憲法は人権の存在を実定法上明らかにしただけであり、もともと自然権として与えられている〔享有している〕ものを憲法で確認しただけと考える側面もあるため、『与えられる』の表現が適切かは検討する必要があるが。


 そう見ると、「大御心」という表現を使っても、確かに「目指すところは一緒」ということなのかもしれない。

 竹田恒泰(憲法学者?皇室評論家?)は、「富士山を見れば、人々は日本を思い浮かべる」などの象徴に関する知識について非常に詳しい。この辺の整合性を突き詰めて考えていくことはかなり面白そうである。