人権という認識


● 人権の根拠


 憲法の本質を考えていく中で、「人権とは一体何なのか」、「人に人権はあるのか」ということを突き詰めて考えていく必要があります。しかし、人権思想の生まれた「歴史的経緯」は説明できても、人権が存在する根拠を説明することは非常に難しいことです。


 人権の根拠とされる考え方をいくつか例示すると、

① 「人権は神から与えられた権利である(キリスト教など宗教が力を持っていた時代や地域の考え方)」

② 「人権は人が生まれながらに持っているものである(自然法論・天賦人権論)」

③ 「人権は自然の道理である(自然法論)」

④ 「人権は法律に書いてあるから存在しているのである(法実証主義)」

などがあります。

 Wikipediaでも見てみましょう。


人権の根拠の学説 (Wikipedia「人権」を参考に記載 追記:更新されたようです。⇒人権 Wikipedia)
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① 人権の根拠を自然法(神や宗教的権威性とも)に求められていたこともある。
② 日本など世俗主義の民主主義国家において、人権そのものが、根拠・命題と自然法論で主張される(トートロジー)。現行日本国憲法13条においては「個人の尊厳」に求められている。この場合、人権の観念は憲法も含めた法律の上に位置付けられるという法学者が多い。
③ 法実証論においては、人権の根拠は単純に法律(憲法)にあるとされる。
④ 自然法および社会契約説は虚構であるとして、人権概念を否定し、公民権概念をもってこれにおきかえる主張がある。
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 このように、この人権が存在する根拠について、「法学」の分野では混沌としており、これ以上に十分な説明がなされていません。 法学は「人には人権がある」とした場合に、その「人権」が国家権力や他者によって侵害されないようにする方法や、侵害されたときの妥当な解決策を法体系の中で考えていく学問となっています。法学分野として体系立てられているのは、「人には人権がある」ということを前提としてつくられているのです。

 しかし、法体系をつくり出す基となっている憲法の本質を考えるには、法学が扱っている「法体系の内部」のメカニズムだけではなく、「法体系の外部」にある思想から考えていかなくてはなりません。この問題は、憲法の条文に関する技術的な問題を考える憲法学の分野で考えるのではなく、哲学や心理学の分野からアプローチしていく必要があります。

 



● 人権と神学の類似点


 実は、「人には人権があるのか」という問題は、哲学や宗教学における「神は存在するのか」という命題のように難しい問題です。「人に人権があるのかどうか」を考える前に、「少し神は存在するのか」という哲学的アプローチを検討したいと思います。


 キリスト教神学などにおいては、「神は存在する」ということで学問が始まっていると考えられます。古典的な価値絶対主義の考え方です。
 しかし哲学を学べば、哲学者ニーチェが主張するように、「神は死んだ」として「神は存在しない」とする実存的な価値相対主義の考え方もあります。


 哲学においては、どちらの議論もなされています。この「神は存在するのか」という問題を突き詰めて考えていくと、認識論や脳科学、生命と物質の境界線などの分野も考えていかなくてはならなくなると思います。

 

 ここで興味深い話を出すとすれば、哲学者ヤスパースは死・苦悩・争いなどに直面し「限界状況」を経験すると価値絶対主義で世界を捉え認識していた人も、世界に対して抱く認識に大きな変化が表れ、価値相対主義(実存主義的世界観)に変わっていくと主張しています。



● 人権は存在するのか


 「神は存在するのか」という問題と同じように「人権は存在するのか」という問題を哲学的に突き詰めて考えていくと、人権の根拠は大きく二つに分かれることになります。


 一つ目は、神学にいう「疑いなく『神はいる』と信じている人がいることによって神は存在している」とされる考え方と同じように、人権の根拠は「『人に人権はある』と疑いなく信じているために人権があると思っている」とされている考え方です。古典的な価値絶対主義の考え方です。


 二つ目は、「『神はいない』ので、自分の行動に十分な責任を自覚し、自らの力でこの世界により良い価値をつくり続けていく必要がある」という実存主義的な価値相対主義の考え方と同じように、「人に人権というものはもともと存在していないので、この社会の中でより良く生きられるように人権という概念をつくり出し、その人権が侵害されることがないように自らの手で維持していく必要がある」という考え方です。実存主義的な考え方です。


 前者の【価値絶対主義】の考え方では、人権は歴史的に国家が立憲制に移り変わったときに生まれ、今後も人権はあり続けるものであると信じていると考えられます。そのため、権力者によって人権が侵害されてしまうことは現代においてはないと考えがちであると思います。しかし、この立場の人が「人には当然に人権があるものである」と疑いなく信じているのは、「何者か」(実存主義にいう包括者)によって人権が侵害されないように守られて生きてくることができたためであると考えられます。その人本人は「自分は守られている」という自覚をもっていないかもしれませんが、誰かによって守られているために権力者によって人権が侵害されるような深刻な恐怖感に直面したことがないため、その浅い認識から現行憲法のもっている権力から人々の人権を守るための本質的な役割について十分な認識を持てていないと考えられます。そのようなことから、この立場の人のする意思決定は、社会生活において自分の優位な立場を保とうと勝ち馬に乗りたがるメカニズムで多数派を形成し、人権保障の本質的な意図を解さないままに無理解な意思決定を強行してしまう可能性があると考えられます。これは少数派の人権が侵害されてしまう大きな危険性があります。この価値絶対主義的な考え方の良くないところは、「自分にも盲点があるのではないか」という謙虚な気持ちを持つことなく、自身の絶対的価値観によって暴走し、意見の違う人を残酷な形で排除しようとしてしまいがちなことが挙げられます。


 後者の【価値相対主義】の考え方は、もともと人に「人権」というものは存在しておらず、人権という考え方がある程度普及している現代においてもなお人権が侵害される事態は常に起きうるものであると認識していると考えられます。この立場の人は、権力者の身勝手な力によって法秩序や人権の定義を安易に変更させられてしまい、取り返しのつかない人権侵害の事態が起きてしまうことを恐れています。そのため、法秩序の整った安定した社会をつくり出すための大前提として、「人権」という存在を自分たち(国民一人ひとり)から積極的に定義していく必要があるという考え方を持っています。また人権とはその概念や定義が、権力者の横暴な力やつくり出す法律によって壊されてしまうことがないように常に監視し、自分たちの不断の努力によって維持していく必要があるものと考えています。
 またこの立場の人は、「『人には人権というものがある』とするからこそ、人と人との間・人と社会との間に『法秩序』という関係ができる」のであって、「権力者のつくり出す『法秩序』の中に『人権』という概念が生まれる」わけではないとの認識を持っていると思われます。
 この背景にはさらに、もともと人に『人権』というものはないのですが、様々な議論において、意見の違いや考え方の違いからいつでも少数派や社会的弱者になりうる自分や他者を多数派の横暴から最低限守るためには、『人には人権がある』としておいた方が都合がよいとの認識があると思われます。それはたとえ無理解な価値絶対主義者に対してであっても、その人の人権を守り通す決意を持ち、すべての人の人権は保障されるべきものであると考えているからだと考えられます。この立場の人がその考え方に至るのは、価値相対主義者だけでなく、「価値相対主義的(実存主義的)な考え方を持つようになる以前の、価値絶対主義的な考え方をしていた自分自身」と同じ状態にある人の人権をも尊重し、保障しようとする考え方を持っているからであると思われます。それは、価値絶対主義者だった以前の自分も人権を与えられ、守られるべき存在として価値相対主義者から扱ってもらいたいとの願いに裏打ちされているからであると考えられます。そのように考えるからこそ、価値相対主義的な考えの人だけでなく価値絶対主義的な考えの人まで含めた「すべての人々」の人権保障が可能となるはずであるとの考えがあると思われます。
 この立場の人の考え方の前提には、人々の認識の中にある「人には侵すことのできない人権がある」という人権に対する認識は、実は人権侵害の恐怖を知っている実存主義的な価値相対主義の考え方を持つ人が意識して定義を"つくり出しているもの"であるとの理解があると考えられます。これは、人々の『人権』という概念の認識の大前提が、そのように"つくり出して維持されている"ものであり、その性質上、「権力者や無理解な価値絶対主義者の形成する不寛容な多数派によって侵されてしまうことのないように常に気を遣っていかなくてはならないもの」であるとの理解です。そして、この「『人権』という認識」、「人類が意識的につくり上げた『人権』という概念に対する一定の合意」をより確かなものとして現在および将来にわたって維持していくために、不断の努力をし、今後もなお起きうる幾多の試練を耐えて獲得し続けていく必要があり、そうしなくては、人々の意識の中に維持できない不安定なものとの考え方を持っていると考えられます。
 この立場の人の人権に対する上記のような認識や姿勢は、「神はいないが、神がいるとしておいた方が都合が良いときがある」、「神はいないが、人々の求めることがある神の役割は自分たちでつくり出し、人々に貢献していく必要がある」、「この世界に価値があるのではなく、より良い価値を創造し続けていくことに価値がある」というような、哲学の実存主義的な考え方に裏付けられていると考えられます。



● 人権の本質を見抜くために


 自民党の憲法草案は、前者の価値絶対主義の傾向が色濃く出ていると思われます。
 現行の日本国憲法は、後者の価値相対主義の立場をとっていると考えられます。


 哲学者ヴォルテールは、立場の違いによっても根本的な人権を保障する価値相対主義的な考え方の決意を「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と表現しています。しかし、もし自民党案のような価値絶対主義的な憲法に改憲されてしまったならば、立場や意見の違う少数派に対しても人権を保障しようとする価値相対主義の根本的な寛容さが失われてしまうように思われます。


 今後憲法改正を行うにしても、人権保障という実質的な目的を守り抜くためには、現行憲法に含まれた価値相対主義の思想背景を壊さないようにするべきであると考えます。


人権という幻想

神は死んだ、人権も死んだ


 人権侵害の不安と絶望、死に至る病、限界状況、挫折、そして暗号解読。それらを読み解く包括者の視点を持たずしては、憲法に隠された人権保障の本質的な意図を理解することはできない。


 人権概念というものが、誰かによってつくり出された幻想であったと気づいたとき、人は不安と恐怖、絶望に苛まれるだろう。
 しかし、その限界状況において、なお人権という概念で人々を守ろうとする包括者の存在に気付き始めるだろう。その者の発する暗号は、この絶望を通った者にしか読み解くことができない。

 憲法に隠された、それらの暗号を読み解くことができるか。包括者の決意と意志の深さを、感じ取ることができるか。人権保障を実現するための、常なる認識の戦いを、知ることができるか。


 人権概念という人々の意識の中につくり出された不安定な概念を維持するためには、無理解者の無秩序な認識によって引き起こされる侵害と闘い続けなくてはならないのである。その侵害に対する不安と恐怖の認識こそが、人権を維持しようと戦い続ける者たちの根底にある意志なのだ。この人権という概念を維持するためには、無理解者との常なる認識の戦いが求められる。

 我々と共に戦おうではないか。この人権保障の困難な戦いに、共に挑んでいこうではないか。


神という企画、人権という企画


 人権は、まるで神秘的につくられた神のような存在だ。

 しかし、堪えがたい絶望を通り、もはや神が死んだという認識に至ったとき、自分は今まで「神」という存在を仮定したまま、何者かによって生かされていただけであったことに気づくだろう。信じていた「神」という存在は、宗教を運営する人たちがつくった「企画」だったのだ。

 それを理解したその時、人権という概念も、神と同じように誰かによってつくられた存在であったことに気づき始めるだろう。信じていた「人に人権がある」という幻想が崩れ去った時、人権保障のために常に努めている人たちの力によって、自分が生かされて生きてきたことに気づくのだ。今まで信じていた「人権」というものも、人々の人権保障を実現しようと努める人たちのつくり出した一つの企画だったのだ。国家というものも、その人権という概念を仮定し、それを基につくり出した人権保障システムとしての企画であることに気づくのだ。


 それに気付いたとき、人権というものは自らの手でつくり出していかなくては維持できない不安定で壊れやすい性質であることに気づくだろう。その認識に直面したとき、人間社会は無理解な者による力関係が横行する極めて残酷なものであると理解し、その現実の厳しさに恐れおののくだろう。

 しかし同時に、人権保障を実現しようと常に努めている先人たちの意志の強さに、強い共感と深い感謝の念を感じるに至るだろう。


 (「神は死んだ」の意味については、哲学者ニーチェを参照ください。)



神や人権という概念はつくり出されたものである

 人権とは、人の最低限の安全を保障するためにつくられた、もともと存在しない権威である。

 

 <神>  ←  価値相対主義者(実存主義者)

     価値相対主義者が、神という概念をつくっている。

  ↑

    価値絶対主義者は、神を信じている。

価値絶対主義者

 

 <人権>   ←  価値相対主義者(実存主義者)

     価値相対主義者が、人権概念をつくっている。

  ↑

    価値絶対主義者は、人権を信じている。

価値絶対主義者


神を信じる人、神をつくり出す人



 価値絶対主義の認識は、権威が彼岸的な遠い世界にある完全な世界(イデアなど)に存在していると考えがちである。価値相対主義の認識を持つ者は、それを利用して人々を救ったり、経営上でサービスを提供したり、時には大衆を政治利用したりしていることが多い。

人権を信じる人、人権をつくり出す人




 人権について、現行憲法では「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」でありながらも、「不断の努力によって保持しなければならない(12条)」ものであるとしている。これは、一見矛盾しているような気もしてしまう。「侵すことのできない」ものであるとしながらも、侵されることを前提として「不断の努力」で保持しなければならないとしているからである。


 しかし、この書き方は、人権概念の複雑なメカニズムを非常に端的に示しているのである。それは、それらの言葉の宛名が違うのである。この図のように、多くの価値絶対主義者へ向けた一般向けの言葉なのか、人権という概念の本質を理解しその概念そのものを維持している価値相対主義の認識に至った者へ向けた言葉なのかで異なるのである。この人権の性質を、現行憲法では巧みに表現しているのである。人権の概念が価値相対主義者の不断の努力によってつくられているものであるとは知らない価値絶対主義者の多数の人に対しては、人権概念が「生まれながらに持っている侵すことのできない自然権として存在しているもの」であるかのように見せ、その概念を人々の意識の中に定着させようと意図した表現なのである。


 人権概念は本来存在しないものをあるかのようにつくり続けなくてはならないという極めて不安定なものである。そのため、その本質を理解した者は、人権概念を侵害しようとしてしまう無理解者に対して、憲法が制定された現在においても今なお、人権概念を獲得し続ける戦いをし続けているのである。その不断の努力によって、人権概念が維持されているのである。


 ただ、そのような自由獲得の認識の戦いが繰り広げられていることを知らない者は、現在この本質を理解している理解者によって維持されている「侵すことのできない永久の権利」という人権概念の建前に守られ、知らず知らずのうちに、その正当性を基盤とした法秩序に守られて生かされているのである。


 どうしても法秩序の正当性の効力基盤となる人権概念のこれらの本質を理解し、その認識の戦いを背負い受けることのできる者は少数派である。そのため、国民主権や民主主義でありながらも、法の効力基盤に対して十分な理解を持てていない多数派のしてしまう安易な判断によって人権保障を実現するための高度な法の仕組みが壊されてしまうことがないように、立憲主義によって改正の難しい硬性憲法を打ち出したのである。


 憲法のこのような前提を十分に理解しないまま憲法改正を行ってしまうことは、その後生まれてしまった壊れた法秩序によって、憲法改正をしようとした者自身にとっても不利益をもたらすものとなってしまう可能性が高い。このような憲法改正を試みる多数派の主権者の「自己加害」を防ぐことも、多数派を安易に信用しない硬性憲法の役割なのである。


 多数派の決定による少数派に対する加害や、多数派自身の自己加害を防ぐことも、多数派の判断を安易に信用しない人権保障のためにつくられた憲法の仕組みなのである。



法の効力の魔法

 

人権は、本質的には本来「ない」ものを、「ある」と言っているだけのものでしかない。
人に人権があると思い込んで安心して生きている者もいる。

しかし、実はその者は、「人には人権がある」という認識を守り通している者によって生かされているだけなのだ。

人権概念は、人々の意識の中にその存在と価値と正当性の認識が広まるように意図してつくり出されたものなのである。


社会に公正で安全な秩序をもたらす法制度の効力が成り立つ前提とは、「人には人権がある」と思っている人がいることによって成り立っているものである。
それは、まるで自分自身が守られて生きていることも知らず、呪(まじな)いや呪文を唱えるかのように、「人は人権がある」と思っている人が多いことによって成り立つ秩序なのである。


法の効力とは、ある種の魔法とも言えるような、人々の意思をそう仕向ける力を持っている。
もし法の文言が人々の意思を何かに仕向ける力を持っていなければ、その社会には法制度が広がらないからである。
人々をそう仕向ける法の求心力の魔法とは、「人権」という自らを守る何かが存在しているという確信からくるものである。
それはまるで、ある種のお呪(まじな)いのようなものである。


『侵すことのできない永久の権利(11条、97条)』
人々が自分たちはそれを持っていると思うことによってしか、法の制度は成り立たない。


そして今後も、人権という呪(まじな)いの魔法が解けて社会秩序が乱れてしまうことがないように、「人権」という概念の存在と価値と正当性が「侵すことのできない永久の権利」として人々にそう信じ続けられるように、「不断の努力によって、(略)保持しなければならない(12条)」ものなのである。


人権という概念の存在と価値と正当性を、守り続けていく。
この意志が、人々の意識を法の文言の通りに仕向ける魔法の力となるものの大本であり、法の文言に効力を持たせ、人々をそう仕向けるエネルギーの源泉となっているものなのだ。

 

人権概念を否定する自由はあるのか


 「人に人権がある」という人権概念の存在を前提としてつくり上げる現代の法秩序は、「人に人権なんてない」という人権概念を否定する考え方を持つ人の『思想良心の自由(19条)』と、いかに対抗するかは難しい問題である。なぜならば、「人に人権がある」という考え方をその人に押し付けてしまったならば、それは『思想良心の自由』という人権を侵害したことになるからである。


 そのため、「人に人権がある」という認識を広め、人々に支持され、この社会の法秩序が「人に人権がある」ということを前提に成り立つように訴えかけ続けていかなくてはならない。これを理解した者は、「人に人権なんてない」という考え方の人ができるだけ考えを変えて、「人に人権があるということにしておこう」という考え方に至るように訴えかけて導き続けていかなくてはならない。それも、『思想良心の自由』を侵害しないやり方で働きかけをし続けていかなくてはならない。そうでないと、この人権という概念を究極の正当性根拠とした現代法秩序を成り立たせることはできないからである。

 憲法の前文の観念的な決意の文言や97条の「自由獲得の努力」、12条の「不断の努力」の表現は、人権概念をベースとしている法秩序が、まさにそのような働きかけによってしか維持することのできない性質であることを意味するものである。


 憲法中では、国民は「憲法尊重擁護義務(99条)」は課されていないが、人権の保持義務(12条)が定められている。これはつまり、国民は「人権なんて存在しない。」などという思想と闘い続けることを義務付けられているのである。一般に「思想良心の自由(19条)」は、内心に留まる限り無制約とされているがこの点に限っては、「人権保持義務(12条)」と競合する難しさがある。


 ただ、「人権なんて存在しない。」という考え方を「思想良心の自由(19条)」という人権で保障するためにも、前提として「人権の保持」が必要である。そのため、「人権なんて存在しない」という「思想良心の自由」を保障することがつまり、間接的に「人権の保持」にもつながるという難しい論理に行き着くのである。競合なのか、一貫性なのか、よく分からない問題に行き着くが、いずれにせよ人権という概念は「人権の保持」によって初めて成り立つ性質のものである。

人権の存在を否定する者との戦い

 

 「人権概念が存在する」とするからこそ、個々人の人権として『思想良心の自由』が保障されることとなる。しかし、この『思想良心の自由』によって、「人権は存在しない」という人権を否定する考え方を持つことは許されるのだろうか。これが難しい問題である。


 「人権は存在する」との前提を思想するが故に『思想良心の自由』があるのだが、その『思想良心の自由』が人権の存在を否定するのである。


 これは、最終的には、「それでもなお、人権は存在することにしよう。」という考え方を持った価値相対主義の人物が、「人権は存在する」という考え方が人々に広まり、人権を中心とした法秩序が壊れてしまうことがないように働きかけを続けていかなくてはならないというところに行き着く。(⇒ 99条で公務員等の憲法尊重擁護義務を課し、この価値観を守ろうとしていることにもつながる)


 「人権は存在しない」という価値絶対主義の観念を、価値相対主義の寛容な立場からそれを一つの価値観として許容し、その者の人権として「人権は存在しない」という価値観を持つ『思想良心の自由』を保障するのである。


 つまり、「人権は存在しない」という考え方を持つ者自身の『思想良心の自由』さえも、同じように人権概念の存在を仮定することによって守り通すことを決意することによってしか、人権概念は成り立ちえないものなのである。

 人権概念の存在を守り通し、安定した法秩序を成り立たせるためには、この認識の戦いを常に続けていかなくてはならないのである。これが、「人権」を正当性の根拠としてつくり上げる法秩序の背負っている宿命なのである。


 現行憲法の憲法制定権力者は、この宿命を理解しているからこそ、前文では「決意し」「宣言し」「念願し」「自覚(し)」「信頼し」さらに「決意し」「努め」「思(い)」「確認(し)」「信(じ)」「誓ふ」のような主観的な意志を表現することにしているのである。


 これは、人々の人権の一つである『思想良心の自由』を保障する目的を達成するためにも、「この憲法は信じなくてはいけないもの」、「絶対的な価値観として従わなくてはいけないもの」などとは、決して書けない性質のものとよく理解しているからである。

 また、97条では、このような認識の対立の中に、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」として"人権は存在している"という前提が形成されていることを示している。


 12条でも、国民はその前提を守り続けるために、「不断の努力によつて」「保持しなければならない。」と記載している。人権概念を定義の変更によって縮小させたり、侵害したり、剥奪したり、その存在を否定する者などによって奪われて失われてしまうことがないようにするためには、国民自身が努めてその概念の存在や性質、定義、範囲などを維持し続けなくてはならないのである。

 

 このように、人権概念は、人の抱く意志によってその存在をつくり続けていかなくてはならないものとして生み出されている概念なのである。


 法秩序に効力を生み出す最高の正当性の根拠となっている人権概念は、人権概念をつくり続けることを決意した憲法制定権力者の意図を理解し、その意志に強く共感した者たちによって、その存在と価値と正当性が維持され続けていくことによってしか成り立ちえないものなのである。


 このことから、法に効力を与える最高の権威となっているものは、突き詰めるところ、人権概念の存在と価値と正当性をつくり続ける者たちの意志なのである。

 

 人権は、「自由獲得の努力によって人権概念を獲得した先人(人権概念それ自体をつくり出した先人)」や「憲法制定権力(憲法を制定した人々)」から、私たち「国民」に対して、「侵すことのできない永久の権利として(97条・11条)」、確実に「与えられ(11条)」、「信託された(97条)」ということにしているものである。しかし、それでもなお人権という観念は、強者や権力者によってその存在を否定されたり定義を縮小させられたりして壊れてしまったり侵害されてしまったりしやすい性質を持っている。なぜならば、本来存在しないものをあるかのように見せかけているものでしかないからである。


 そのため、これを理解している実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力者は、現行憲法の中に「国民の不断の努力によつて(略)保持しなければならない(12条)」ものであることを示し、人権概念の存在と価値と正当性を守り続けることを訴えかけることにし
ているのである。

 

分からないもの


 いくら医学を学ぼうと、人間の持つクオリアの存在は分からない。

 いくら神学を学ぼうと、神が存在するのかは分からない。

 いくら法学を学ぼうと、人権の根拠が存在するのかは分からない。


 憲法に含まれる人権概念を扱う際は、そういった側面と上手く付き合えるようにならなくてはならないのである。