国民投票の本音と建前



 まず、憲法改正の手続きについて、憲法96条を確認しておこう。

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    第九章 改正


〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。


2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

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 この条文について、裁判所の判例に記された解説を読む。

 

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この点,憲法前文第1段は,「日本国民は,(中略)ここに主権が国民に存することを宣言し,この憲法を確定する」と述べて,主権者である国民が憲法制定権力の主体であることを示し,憲法96条は,1項において,憲法の改正は国会の発議に対して国民の承認を得なければならないとして,国民に最終決定権があることを明らかにし,2項において,「国民の名で」公布するとして,憲法改正権の主体が国民であることを明示している。

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安保法制違憲・国家賠償請求事件 東京地方裁判所  令和元年11月7日 (PDF) (P40)






 硬性憲法の意図を下記の資料から確認する。

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では、なぜ、日本だけでなく、多くの国が憲法典を制定し、かつ、憲法典を簡単には変えられない仕組みを採用しているのでしょうか。簡単に言えば、多数決の暴走を防ぐということです。ある時点での多数決に基づく決定が、実は間違っていたということが(そして単に間違っていただけならばいいのですが、その結果として人々の生命、尊厳そして自由が奪われたということが)歴史的に起きています。そこで、人々の生命、尊厳、自由に関わる重要な事柄については、「慎重な検討」ができるように、憲法の改正を難しくしています。一定の事柄(多くは人々の生命、身体の安全、自由に関わる問題で、かつ、いったん奪われると回復しにくいもの)については、単純多数決ではなく、より「慎重な検討」を確保するプロセス(各議院の総議員の三分の二以上の賛成プラス国民投票による過半数の賛成)を保障することによって、侵害されるリスクを少なくしようとする、経験的に獲得された知恵で、現在はグローバルに共有されているといっていいと思います。
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江島晶子(明治大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

 

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多数決主義者への警告

 

 多数決という原理は、人権保障を確実にすることを前提とした制度ではない。

 だからこそ、人権保障を実現することを意図して、立憲主義の仕組みが生みだされ、多数決原理の決定に一定の歯止めをかけようとするのである。

 多数決原理は、全体の効用を高める(これも一つの人権保障の側面ではあるが)ための仮の手段に過ぎず、絶対的なものではない。


 多数決原理は、憲法の条文によって採用されている制度の一つに過ぎないものである。そして、その憲法は立憲主義に基づいて生みだされている。立憲主義は、人権保障の理念に裏付けて存在しているものである。つまり、多数決原理以前に憲法があり、憲法以前に立憲主義があり、立憲主義の前提には人権保障の理念が存在するのである。


◇ 人権保障の理念
   ↑(裏付け)
◇ 立憲主義
   ↑(裏付け)
◇ 憲法の条文
   ↑(裏付け)
◇ 多数決原理


 この前提から、憲法改正の多数決の手続きにおいて、立憲主義を破壊するような結果が出た場合には、その結果は立憲主義によって否定されることとなる。これは、立憲主義はもともと多数決原理を絶対視してつくられた制度というわけではないからである。



 新しい憲法をつくるなら、憲法学以前に「法哲学」を学ぶべきである。
 法哲学を学ぶなら、それ以前に「哲学」を学ぶべきである。
 哲学を学ぶなら、それ以前に「人類史」を学ぶべきである。
 人類史を学ぶなら、それ以前に「自然科学」を学ぶべきである。
 自然科学を学ぶなら、それ以前に「宇宙物理学」を学ぶべきである。


 その努力を怠って、多数決にすべてを任せようとすることは、人権保障のための立憲主義の仕組みを破壊してしまいかねない。それは、強者の力によって弱者が「人」として扱われなくなる悲惨な世をつくり出すことに繋がる。

 憲法の人権保障の仕組みを維持するためには、この恐怖と向き合い続けていかなくてはならない。この恐怖を直視して戦い続けられないのであれば、人権概念は無理解な多数派によって奪い去られる性質のものだからである。


 いや、恐怖を直視しても駄目かもしれない。多数派は乱暴で強すぎる。


 人権概念に含まれるその残酷な性質を知ってしまった者ならば、まだ知らない者の人権をも守るため、多数派のもつ無理解な認識との壮絶な戦いが始まるのである。




多数決という暴力(作成中)


 法に正当性があると人々に見出され、法の権威が人々に認められ、法に効力があるものとして扱われ、法の効力が成り立っているのは、その前提として、人に人権(個人の尊厳)が存在するという暗黙の合意が存在することによるものである。人に「個人の尊厳」を有するという合意が成り立っていることに裏付けられているからである。

 

 憲法が人権を保障するための法であり、人権という概念の正当性に裏付けられているからこそ、法が「守るに値する正当性を有するもの」として人々に受け入れられ、人々の「権威を認めて自ずと従う」という連鎖が続き、社会の中で通用する実力として効力が生まれるのである。


 法という観念は、人権概念に裏付けられることで初めて、人々に「正当性を認めることのできるもの」として受け入れられ、憲法典という形で実定化された規定の意味に人々が自ずと従うようになり、そこに効力が生まれるのである。

 法の正当性は、人権概念の正当性に裏付けられていることによって確かなものとなるのである。

 法の正当性が生まれる仕組みを考えると、法は、その効力の基盤を人権概念に置いている。



 もし法の前提に人権が位置付けられていなかったならば、「不平等」も法となってしまう。そうなると、それは一体、何のための法なのだろうか。

 人に人権があるという前提が存在するからこそ、法に対して「一人一人を平等に扱うこと」という要求が生まれるのである。

 もし法の前提に人権が位置付けられていなかったならば、法を変えることによって人の人権を剥奪することも可能となってしまう。そうなると、それは一体、何のための法なのだろうか。それは法というよりも、多数決で決めた単なる暴力である。


 人権という概念による裏付け(根拠)を失った法は、もはや法ではないのである。

 多数決原理は、法の正当性にはもともとなりえないものである。

 法の正当性は、多数決の決定に存在するわけではない。多数決原理は、「全体の利益を高めるために有利ではないか」という程度の決定方式である。 

 

 そのため、法の正当性は人権に裏付けられることによって形成されるのである。


 このことから、もともと法とは「法が存在することを信じ、その法の言うとおりに従っていれば、必ず人権保障が実現される」という性質を持っているわけではない。法が多数決の手続きによって定められるだけでは、そこに正当性があるとは限らないということである。

 その法が、人権の正当性に裏付けられているか否か、人権保障を実現する仕組みに裏付けられたものであるか否かを見極める必要がある。


 憲法は、人権を保障することを目的とする法である。人が有しているとされる人権を保障することを目的として法をつくり、憲法典の形で実定化されるところに、その法の正当性を裏付け、実質的最高法規性を有するものとして成り立たせる根拠となるのである。


 日本国憲法においても、下記のように記されている。


◇ 「この憲法が国民に保障する基本的人権は、(11条)」

◇ 「この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、(97条)」


 このことは、人権概念に正当性の根拠を置く現行憲法が、多数決万能主義の立場を明確に採用していないことを意味する。

 人権保障を目的としている憲法は、多数派の決定によって引き起こされる少数派に対する人権侵害を防止するための歯止めとしての役割がある。

 このことは、憲法の正当性の根拠となっているものは、多数決原理のみにあるわけではないことを裏付けるものである。


 そのため、憲法改正において、国民投票の多数決原理の手続きを経たとしても、それは直接的にはその憲法の正当性を裏付ける理由とはならない。


 もし国民投票における「多数決」の手続きのみが憲法の正当性を裏付けるものであるという認識に基づいて、憲法改正を試みた場合、その「多数決」によって人権概念そのものを失わせる決定をしたり、憲法の人権保障を実現しようとする仕組みを損なわせることに繋がる恐れがある。

 憲法は、人権概念を「多数決」の手続きよりも上位にある正当性として位置付けているはずなのに、「多数決」によって人権を損なわせることが可能となってしまうのである。

 すると、人権保障の実現を妨げることに繋がり、立憲主義を採用して憲法を打ち出すそもそもの意味と矛盾する事態に陥ることとなる。


 そのため、たとえ憲法改正
の国民投票において「多数決原理の過程を経た」という手続き上の正当性があったとしても、その改正の内容が明らかに人権を侵害していたり、人権概念を奪うものであったり、人権保障を実現するための法の仕組みや統治機構の仕組みを破壊するものであれば、その法の正当性を裏付けている人権概念の正当性を損なったこととなるから、その改正手続の方法が書き込まれている憲法自身の正当性の基盤を失わせてしまうことになる。 


 それは結果的に、その憲法に定められた改正手続き自体の正当性さえも失わせることになるから、その手続きは「改正の限界」を超えた無効なものとなると考えられる。


 その手続きは、近代立憲主義の人権の普遍的価値の建前という大原則(前提)を壊してしまうために、正当性を持ちえず、改正の限界を超えて理論上無効となる。


 「多数決」の手続きは、
憲法の守ろうとしている「人権保障の実現」という正当性の基盤を維持できるということを前提につくられた制度ではない。

 そのため、たとえ憲法改正の国民投票による多数決原理を経たとしても、そのことだけで新たな憲法を正当化することができるわけではない。

 国民投票の多数決原理は、憲法の正当性を裏付ける万能の正当性を有しているわけではない。

 国民投票の多数決原理のみによって、憲法の正当性を支える基盤を成り立たせることはできない。



 憲法の基盤にある思想においては、憲法改正の国民投票における多数決の手続きは、法の効力が、本来的に人々が権威を認めて自ずと従うことによって初めて社会で通用する実力となる性質を持つものであることから求められる、人々の納得感を導くことで、法の効力を確実なものとするための建前に過ぎない。

  大多数の国民には、自分たちの有する主権(最高決定権)を行使し、国民主権によって憲法改正が行われたと自覚させた方が、法の効力を維持するために有利に働くということである。

 国民投票という多数決の手続きは、 国民主権という側面からの正当性を裏付けるための仮のものに過ぎないのである。


 国民投票を行うにしても、これらの前提を理解した上で行う必要がある。

 

 


 改憲派の政治家は、自らを支持しない人の人権をも守ろうとする意志があるのかを問われているはずである。

 

 もし意見の合わない者の考えを切り捨てるために改憲しようとしているのであれば、それは憲法の本質的な仕組みを理解した者からは賛同を得ることはできないと考えられる。




多数決以前の正当性(作成中)

 

 何らの秩序も存在しておらず、未だ法制度が形成されていない社会の中に、新しく法秩序を生み出そうとする段階では、もともと「多数決を行うことに正当性がある」という前提は存在していない。「多数決」という手続きそれ自体に正当性の裏付けがあるわけではない。

 

 現在の社会において「多数決」という手続きに一定の正当性が認められているのは、その社会の中で通用し、正当性が認められている法の条文の中に、「多数決」という意思決定の方法が定められていることによるものである。

 「多数決」の手続きに一定の正当性が認められているのは、法の正当性に裏付けられていることが理由ということである。

 そのため、「多数決」という手続きは、あくまで法の条文上に制度として採用されている方式に過ぎないものなのである。


◇ 法の正当性

   ↑(裏付け)

◇ 多数決の正当性


 では、その「多数決」という手続きの正当性を裏付けている「法」の正当性は、一体何から生まれているのだろうか。

 それは、「人権」という概念の正当性によって生まれている。


◇ 人権の正当性

   ↑(裏付け)

◇ 法の正当性

   ↑(裏付け)

◇ 多数決の正当性


 「多数決」の決定に絶対の正当性があるというわけではないからこそ、「多数決」の決定を覆して最低限の自由や安全を確保するための概念が必要とされ、「人権」という概念が生み出されたのである。

 人権思想は、法の制度によって「多数決」という手続きに正当性を与えるよりも以前にある正当性の観念としてつくられたものである。(成立している概念である。)




 (憲法の人権保障の精神は、)
 (この主旨を改憲によって失わせてしまうことは、国民自身や多数派に対立する立場にある人の人権が守られることはなくなってしまうのである。)




共生性を損なわせる多数決


 多数決万能主義では、多数派の決定によって自分だけがいじめられてしまうようなことになりかねない。多数派の決定によって、自分だけ生贄にされてしまうようなことになりかねない。

 そのような多数決の横暴に歯止めをかけ、悲惨な事態を回避するために、「人権」という概念が生み出されたのである。

 そのことから、法制度上の多数決という手続きの正当性よりも、人権の正当性の方が優越する。

 

 民主主義の多数決の手続きに一定の正当性が認められているのは、人が人権を有していることを前提とし、その人権という概念から導き出した権利の一つである「参政権」を人々が有しているとし、その「参政権」を行使することによってその人々の意思が反映された決定であるという仕組みによるものである。

 この流れから、そもそも「参政権」を得るためには人権が必要となり、その人権を多数決によって安易に奪うことができてしまうと、その多数決の決定の正当性を成り立たせている「参政権」そのものの存在根拠を揺るがせてしまうことから、多数決の決定そのものの正当性も損なわれてしまうのである。

 それは、多数派が少数派の参政権を奪うことも可能になってしまうと、そもそも多数決という制度さえも正当性を失うからである。

 このことは、多数決の正当性以前に、人権の正当性があるとすることを意味する。


◇ 人権
   ↑(裏付け)

◇ 参政権

   ↑(裏付け)

◇ 多数決に参加できる


 この背景から、多数決によって、多数決に参加できる権利を裏付ける「参政権」や人権などのより上位の根拠を奪うことはできない。

 人権を奪うような多数決の決定は、人権を正当性の中核として法制度を構築している原理から考えて、理論的に不可能である。



 法の正当性の裏付けを「人権を守ること」にあるとしている以上、それを損なうような形での改正(改変)を可能とすることは、法それ自体の正当性を奪うことになる。

 憲法に書かれた国民投票という改正手続きを経たとしても、憲法原理の存立の正当性を脅かすような人権の中核を侵害するような改正は、その改正手続きを含んだ憲法自体の正当性をも奪うことになる。これは、憲法原理の自殺させてしまうことになる。いくら多数決で憲法改正の手続きが行われたとしても、憲法の自殺となるような改正は、法論理が成り立たなくなるために理論上無効と考えるべきである。

 そのため、人権を守ろうとする憲法の中核的な理念は、もともとは多数決によって正当性が裏付けられるという性質を持っていない。

 「人には人権がある」という合意が存在することを前提として、科学的な認識に基づいて、論理的な整合性をが保たれた形で、合理的な理解によって導き出される法認識を体系化したところに、憲法の実質的な正当性が裏付けられるのである。

 この正当性は、単なる多数決では生み出すことのできないものである。


人権という概念が存在しない世界
  ↓
「人権が存在することにしよう」という合意
  ↓
人権保障のために法秩序をつくる(権力の独占を防ぐ立憲主義)
  ↓
実定法としての憲法の制定
  ↓

統治権が一定の領域を支配

  ↓
国家の誕生



「人権」を根拠に参政権を生み出す
  ↓
参政権の所在を基に民主主義の多数決原理が導かれる(つまり、国民に主権〔最高決定権〕が存在し、それを基にして国家権力が構成されるという政治形態となっている)
  ↓
多数決原理で国家の政治や法制度の改廃に参加することができる




多数決は建前である


 「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないとするものである。


 そのため、国民主権による「憲法制定の手続き」や「憲法改正の手続き」の際に行われる多数決原理なんていうものは、人権保障を最高価値としている憲法自身はもともと信じていない。


 法律にしても同様である。多数決原理の手続きによって制定される法律は、常に違憲審査によって是正される可能性を有している。多数派の決定は、もともと信用されていないのである。

 

 現行憲法の実質は、自然法が具現化されて実定化されたものとされている。


 ただ、その自然法という観念を前提とする建前を憲法典の形で実定化させたのは、実存主義的な価値相対主義の認識を持った憲法制定権力者(狭義の憲法制定権力者・少数の法原理の理解者)である。


 実存主義的な価値相対主義者が、自然権という認知のベースを前提とすることを採用し、人々に「憲法以前に人権がある」と認識されるように普及に努め、立憲主義の理念を発展させ、憲法を制定した。そして、現在までその考え方に基づく形で法の運用がなされている。このプロセスが、憲法の正当性の実質的な根拠である。


 このような形で法の概念が構築されることは、心理学的にも、哲学的にも非常に理にかなっており、正当で妥当である。今日の時代が、以前の時代の侵害の横行していた無秩序な世界よりも比較的改善されていることも、その正当性によるものと考えられる。


 ただ、実存主義者の立場は、周囲からの圧迫や裏切り、認識の相対性から来る絶望などから生まれる認識である。この認識を有する者は、どちらかというと少数派である。少数派の実存主義的な価値相対主義の認識によって法の正当性が基礎づけられていることを、その法秩序の中にいる全国民に納得してもらうことは極めて極めて難しい。不可能といってもいいほどである。(これを理解できたならば、既に少数派の実存主義的な価値相対主義の認識に達している者であると考えられる。)


 そのため、多数派の国民を納得させる建前として「国民投票」という手続きを設け、国民主権による多数決原理に憲法の正当性を基礎づける力があるかのように見せかることとしている。その過程を経ることが、大多数の国民が法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を維持することにつながり、法の効力が保たれる力となりやすいからである。


 憲法の正当性を裏付ける「人権」という概念の有するこのような前提から、憲法改正の「国民投票」なんてものは、正当性があると国民に納得させるための建前に過ぎない。法の正当性の根拠は、もともと多数決の手続きには存在しないということである。


 憲法改正を試みようとする際には、これを改めて認識するべきである。

 





多数決への思い込み


 憲法は侵害される弱者、その中でも特に少数派を多数派の決定から保護しようとしてつくられている。


 その仕掛けは、

① 「享有を妨げられない(11条)」とする自然権思想の人権概念を採用していること

② 人権概念を「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」とし、多数決制の中で多数派がつくる法津によって奪うことができないことにしていること

③ 安易な改正による人権の侵害を防ぐため、硬性憲法(96条)としていること

などに現れている。

 

 犯罪の被疑者を、単なる多数決の判断によって罰するか否かを決してはいけない。しっかりとした手続きで、証拠によって科学的に明らかにし、法の論理によって有罪か無罪かを判断し、罰するか否かを考えなくてはならない。


 同じように、憲法規定の改正も、国民の人権保障を扱う問題となるため、そのくらいしっかりとした証拠を揃えて科学的に話し合い、法論理に従った判断を行わなくてはならない。そうしなければ、国民の人権保障を確かなものとして実現することができないからである。


 法律の場合は、その法律や法の適用が人権保障を実現するための憲法に合致しているかを違憲審査によって改めて判断することが可能である。しかし、憲法にはそれ以上の上位規定が存在していない。そのため、多数決でできてしまった新たな憲法が、人権保障に沿った内容であるかという正当性の価値判断を、人権保障を実現しようとするより上位の実定法の基準に照らして行うことは不可能である。もし自由や安全が損なわれるような(人権侵害がなされるような)法が生み出されてしまった際に、その法を是正することができないことになるのである。


 国民投票の多数決原理の正当性を絶対視してしまうことは極めて危険である。


 国民投票の多数決原理を安易に持ち出す人に対しては、多数決が法論理の正当性を絶対的に保障しているという思い込みを修正してもらわなくてはならないだろう。




多数決では決められない


 多数決で決めていけないことがある。


例えば、 

・刑事被告人の有罪無罪の判断

・人権保障に密接にかかわる問題
・人権を侵害しうるような問題

・人権の剥奪を内容とする問題

などである。

 憲法改正の国民投票においては、これらの問題も扱おうと思えば扱うことができてしまう。なぜならば、憲法は法秩序の大本であり、立憲主義の「理論上の改正限界」は別として、「改正手続き」それ自体には人々の倫理観以上の制約が存在しないからである。


 しかし、少数の法原理の理解者(狭義の憲法制定権力者)の精神を具現化している「人権保障実現を目指す憲法」の本音としては、多数決原理を信頼していない。国民投票における多数決は、法の正当性を「国民の持つ国民主権から導く」とする建前を置き、万人を納得させることで、法の効力を保とうとする意図にすぎないものである。国民投票は憲法の正当性が国民にあるように見せる建前なのである。


 国民投票の多数決の正当性を安易に信じることは浅はかである。憲法の本音としては、多数決原理における多数派は全く信用されていないことを認知すべきである。

 






多数派も信用されていない

 

 憲法は、国会の多数派(多数派を形成している国会議員)の判断が国民から信頼されていない場合を想定している。そのため、憲法改正の手続きにおいては国民投票を実施するという歯止めをかけている。慎重な改正が行われることを重視しているのである。


 近代立憲主義の根本にあるものは「人権保障の実現」である。根本にあるものは、「国民主権」「民主主義」「多数決」というわけではない。


 しかし、理論的な正当性があるからといって、その正当性が必ずしも多数派に理解され、受け入れられるとは限らない。そこが、「民主主義」を採用していることから来る難しさである。


 多数派が「間違っている場合」を含めて、多数派の行使する権力に歯止めをかける必要があるからこそ、近代立憲主義によって憲法を打ち出そうとする法の前提認識をつくり上げたのである。

 近代立憲主義に基づいて憲法を打ち出すことは、多数派も判断を「間違える」ことを前提とした法制度なのである。

 憲法改正は、人々の人権の根本に関わる問題を扱うことになる。憲法上の規定を改正しようとすることは、そのくらい注意を払わなくてはならないとの前提がある。そのような前提を自覚せずに憲法改正を勢いで実現しようとする勢力には、法の本質部分を理解しているのか疑問を持たざるを得ない。


 民主主義の多数決原理を絶対視して暴走するような改憲の動きは、あまりに軽率である。




失礼ながら信用していない(作成中)

 

 現行憲法は、硬性憲法の形を採用し、改憲のハードルを高く設定している。

 

 この硬性憲法の仕組みは、実は憲法が「多数決原理」や「多数派による決定」を信頼していないことを意味する。なぜならば、憲法の保障しようとしている人権概念は、国民主権による多数決原理をもってしても奪えない性質とするところにその真価を発揮するものであり、多数決という法の手続き上の正当性を上回る正当性を持つことを前提としてつくられるべきものだからである。


 これは、現行憲法が、憲法改正においては国民主権という民主主義の多数決原理によって国民投票が行われるという建前をとっていながらも、暗に人権の性質や本質的な価値を理解していない心理学の心理的発達段階を踏んでいない人々の存在を認めており、その人たちによる改憲によって、人権喪失や憲法破壊の事態が起きてしまう危うさを予見していることによるものである。


 憲法もやはり人がつくり出した合意にすぎないものである。
その前提を保とうとする憲法保障の機能にも限界がある。

 憲法に込められた人権保障のシステムも、手続き上の多数決原理においては、無理解な多数派によって改悪されたり、破壊されてしまったりする恐れは常に存在しているのである。


 少数の法原理の理解者(心理的発達段階の進んだ実存主義的な価値相対主義の人たち)が価値相対主義の認識を基盤として、新しい憲法秩序の在り方の合意を形成していく時間のないまま、時の権力者がポピュリズムでもって「意志決定の前提となる理解が十分でない人々」を大衆操作し、短時間のうちに改憲を強行してしまうことも起こり得る。


 その改憲によって変わってしまった憲法秩序は、その秩序自体が、人々の人権を侵害したり、奪ってしまうことに繋がりやすい。


 例えば、価値絶対主義者の認識を持つ権力者やそれに呼応した多数派は、国家の士気を強くしようとする際に、絶対的な価値観で国の色を染めて国民の同調を強制し、意見の合わない者の人権を犠牲にすることがある。


 歴史に見られるように、国家権力が暴走し、人に対して苦役を課したり虐殺したりするなど、自由や生命に対する侵害を起こすこともある。民主主義によってもなお発生するナチスの悲惨な歴史などを繰り返す恐れがある。

 人権概念の性質や価値を十分に解さない人が陥りやすい「目先の利益を確保しようとする投票行動」によって、憲法に含まれる人権保障の仕組みの本質を壊してしまうと、将来にわたって多大な損失を被る恐れがある。


 憲法の本質を見誤った一時的な政治勢力が短絡的に改憲を行うと、後々その価値絶対主義的な改憲論者自身の人権をも侵害し、過去の自分の無理解な決断によって苦しい思いをする危険性があることを知る必要があると思われる。


 今後の日本社会が、強硬な価値絶対主義的な改憲論者の先導的な政治によって、憲法の人権保障の本質を見誤り、人々の人権保障の質が下がってしまう事態に陥ることがないように注視していく必要がある。

 人権が侵害されてつらい思いをしてきた人類の長い歴史を学ぶ必要がある。




無理解者との戦い


 現行憲法は、人権を「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」と表現している。また、憲法改正も容易に行うことができない硬性憲法の形をとっている。


 これは、実存主義的な価値相対主義の認識を持つ憲法制定権力(狭義:少数の法原理の理解者)が、人々の意識の中に「人権は自然権であり、前国家的な権利である」との概念を確定させようとする意図によるものである。

 人権という概念も、価値相対主義の認識からは一つの価値観であり、絶対的な価値観というわけではない。しかし、それでも人権を掲げようとすることが失われてしまえば、もはや多様な価値観の共存を成り立たせようとする基盤が失われ、人々の「思想良心の自由」が損なわれる事態に陥ってしまいかねない。


 そのため、価値相対主義は、「人権」という建前が価値絶対主義者の意識の中にも維持されることを意図して、「人権は自然権によるもの」との認識を抱きやすいように意図した表現を使うのである。憲法中の表現は、価値相対主義者の、「その建前を守っておきたい」、「そういうことにしておきたい」との意図である。


 この意図は、価値絶対主義者の形成するポピュリズムによる安易な改憲を防ぐための安全装置である。複雑な認識によって成り立つ人権という概念に対して無理解な者が、安易な改憲を行ってしまうことを抑止するための歯止めである。

 憲法制定権力(狭義:少数の法原理の理解者)のいう、その無理解者とは、数の力によって権力を濫用する価値絶対主義者のことである。憲法中の「人権は自然権である」という前提を人々の意識の中に確定させようとした表現は、まさに数の力によって権力を濫用する価値絶対主義者に向けられているものである。

 価値絶対主義者は、改憲を試みる際、硬性憲法の高いハードルをなかなか越えることができない。ただ、このハードルを煩わしいと思うのは、まさに、その人物が人権概念に対する理解が不足している価値絶対主義者であることを示すことになる。


 これは、勉強不足で「人権概念の本質的な性質」や「近代立憲主義の大前提」に対する理解を有しない価値絶対主義の国民による安価な改憲による憲法破壊を抑止するための安全装置が機能していることによるものである。憲法は、「国民主権として、人権を国民に託した」という前提を置きながらも、無理解者による憲法破壊を阻止しようとしているのである。


 改憲を試みる者は、すべての人々の人権を守るために、憲法がこのような役割を担っているという事実をよく理解しておかなくてはならない。

 




憲法の改憲防止機能


 憲法には、一定の改憲防止機能として「憲法保障」を取り入れている。有名なのは、憲法改正には高いハードルを設け、法の実質について時間をかけて議論することを促す「硬性憲法」の形をとっていることが挙げられる。これらの意図は、下記のような改憲を防止するためである。


〇 安易な改憲 … 多数決原理のみを正当性の根拠だと信じてしまうなど、判断に責任を持てない状態で熟考せずに行う改憲。

〇 未熟な改憲 … 法的な整合性が十分に練られていない段階での改憲。

〇 自己加害改憲(自滅改憲) … 国民自身にとって思わぬ不都合に後から気づくというような改憲。

〇 勘違い改憲 … 思い違いによる投票行動をして、後で後悔するような改憲。

〇 騙され改憲 … 権力者の言葉に乗せられて罠にかかってしまう改憲。

〇 自殺的改憲 … 憲法自体を破壊してしまう改憲


 その他にも、「憲法の正当性を失わせて法の効力を弱めてしまう改憲」や、「他の条文との競合によって一部の規定が無効化される改憲」など、様々な問題が発生する可能性がある。このような問題を予め想定し、国民の人権保障の仕組みが揺らいでしまったり、人権の質が下がってしまうことを防ぐためには、一時の気分や多数派の高揚感だけによる多数決原理の正当性だけでは不足である。そのため、改憲のハードルを高め、法の実質について時間をかけて議論することを求めているのである。

 




矛盾


〇 憲法は、少数者の人権を守るためのものである。

〇 それにもかかわらず、憲法改正の手続きには多数決原理が採用されている。


⇒ 結果として、少数者の人権を守ることができない可能性が高い。


 憲法改正の多数決原理の手続きとは、もともとこのような矛盾を内包している制度である。

 そのため、憲法改正というものは、よほどのことがなければそもそも実施するものとして予定されていないと解することが妥当である。


 憲法それ自身の正当性やその効力は、多数決原理によって成り立つ性質のものではない。国民主権と言えども、憲法の人権保障という本質的な仕組みの前では、万能の正当性とは言えないのである。

 

 単なる多数決原理に基づく決定方式は、多数派が判断を間違えることや、多数派が少数派の人権を著しく侵害してしまう恐れがある。だからからこそ、近代立憲主義に基づく憲法を打ち出し、多数決の決定に一定の歯止めを設けようとしている。

 それを、多数派が勝っているうちに憲法を改正しようとする政治的な動きが存在することは、その考え方自体が、近代立憲主義の憲法原理を破壊しようとする試みといえることとなる。これは、「改憲勢力」というよりも、「憲法破壊勢力」ということが妥当である。

 多数決によっては、法の根本的な正当性を裏付けることはできないことを改めて認識する必要がある。




多数派との闘い

国民主権に基づいて政治を行う場合、多数決の原理を採用することがより多くの人の意思を反映できるため、合理的です。


しかし、多数決によっては少数派に対する悲惨な侵害が行われる危険があります。


そこで、多数決によっても奪うことのできないものとして「人権」という概念を生み出し、ルールをつくる際のルールである憲法に書き込みました。


これにより、その時々の民主主義による多数決原理が行われる際にも、多数派の決定が少数派や弱者を侵害することを防ぐことが可能となります。


しかし、憲法改正においては、多数決が採用されています。

この多数決によって「人権」を奪うことができてしまうと、「人権」という概念を生み出した意図と矛盾してしまいます。

そのため、憲法改正の多数決の手続きにおいても、「人権」の根幹を奪うような決定を正当化することは理論的にできません。


ただ、手続き上においては多数決の決定が行われてしまう可能性があるため、「人権」の根幹を奪われてしまうような決定が為される危険性があります。


ここは、「人権」の性質に裏付けられた憲法の仕組みを理解している者が、多数決による決定では憲法の正当性を裏付けることはできないことを多数派に向かって訴え続けることによってしか「人権」の根幹を守り抜くことはできない部分です。


この少数の理解者の地獄を見るような努力によってしか、憲法の正当性を守り抜くことはできないのです。




「伊藤真」はどう表現しているか


 伊藤真の憲法審査会での発言を確認してみよう。当サイトでは振れ幅の大きい表現になってしまっている部分が、分かりやすく丁寧にまとまっている。

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○参考人(伊藤真君)

(略)

 法律が多数決によって可決されましたという場合と、憲法改正が国民の多数によって通りましたといった場合、どちらも多数決による結果ですから、少数派はそれに従わなければならない、これはもう多数決の基本的なルールなんですが、法律が国会の多数決によって可決された場合、仮にその法律によって少数派の方が余りにも不利益を受ける、時に人権の侵害を受けてしまうというようなことがあった場合には、裁判所に訴えを提起して、裁判所の違憲立法審査権という手続によってその少数派は自己の権利を回復する手段を持っています


 まさに多数派の横暴に対して裁判所が歯止めを掛けるという仕組みが憲法の中に組み込まれているわけです。ですから、もちろん、国会での御審議の過程で少数意見を尊重しながら、十分少数派への配慮を考慮した上で法律ができたとしても、仮にそこで少数派の方の人権が侵害されたときには裁判所を通じてそこを回復する手だてが残されています


 ところが、憲法改正という場面においては、まさにその少数意見を十分に反映させるような形で、また、国民の多数派が少数派に対する十分な配慮というものを仮に怠った形で憲法改正の国民投票が実施されてしまいますと、もうそこで憲法自体が変わってしまいますから、その結果、仮に少数派の方の人権が侵害されたり、大きな不利益を課せられるようなことになった場合、その少数派はもう取るべき手だてがありません。言うまでもないことですが、この憲法改正は不当だといって裁判所に訴え出ることはできないわけです。あり得る方法は唯一、自分たち少数派が多数派の側に何とか回るように努力をしてもう一度憲法改正をし直すか、若しくはこの国の国民をやめて出ていくかしか方法はないということになります。


 ですから、憲法改正という場面における少数者への配慮、また、多様な意見を尊重するということは、立法の過程におけるそれとは比べ物にならないほど格段の重要性があるということ、それを是非前提にこの改正法の議論をしていかなければいけないんだろうと思っています。

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第186回国会 参議院 憲法審査会 第7号 平成26年6月4日 (下線・太字は筆者)


 「法律の成立」と「憲法改正」は、どちらも多数決で決せられるものである。


 少数派がその決定によって人権侵害を受けた場合、法律の場合は憲法規定に定められた裁判所の違憲審査権によって回復することができるが、憲法改正の場合はそれによって引き起こされる少数派への侵害を回復する手段が存在しない。


 そうなると、少数派はその侵害を回復するためには、その少数派が何とかして多数派を形成し、もう一度憲法改正を行って修正するか、その国の国民を辞めるしか方法がない状態となる。


 このことから、少数派を多数派の決定による侵害から守るために「自由の基礎法」「制限規範」「最高法規」(憲法の特質)としての憲法があるのだが、その憲法を改正する手続きは多数決原理を必要とするという矛盾があるのである。


 このことから必然的に、多数決というものは、もともと法の正当性を担保するものとしては完全性を欠いていることが前提なのである。

 よって、少数派への配慮こそが、その改正された憲法の正当性の確からしさをより強く確保することにつながるのである。


 これが、憲法改正の手続きを行う際の大前提として求められるものなのである。

 




上位の法の有無

 「法律」の制定や改正は、憲法に定められた機関である国会の持つ『権力・権限・権能』によって行われる。

 このことから、「法律」の制定や改正については、国会の『権力・権限・権能』によって正当化され、突き詰めるところ、その上位の実定法である憲法によって正当性が裏付けられていることになる。


 しかし、「憲法」の制定や改正については、その上位の実定法が存在しないことから、憲法を正当化するための『権力・権限・権能』が明らかではない。


 憲法の中に「憲法改正の手続き」について定められているが、本来は、より上位の法によって正当性が裏付けられることによって正当化されるべきものであり、憲法そのものの中に「憲法改正の手続き」を定めることはできないはずである。

 しかし、改正手続きを有していない憲法は破壊されるしかなくなる恐れがあるため、憲法保障の観点から、仮のものとして憲法上に「憲法改正の手続き」について定められている。


 憲法上の「憲法改正の手続き」について定めた規定は、この程度の意味しかないものである。この規定に定められた改正手続きを経たとしても、その新しい憲法の条文を正当化することができるわけではない。


 改正手続きを通すだけでは法の内容の正当性を確保することは不十分であり、その中身の理論的な妥当性を徹底的に突き詰めていく必要がある。

 




憲法制定権力と憲法改正権力


〇 「憲法制定権力」とは、人権保障を実現するために憲法を制定した者をいう。「憲法制定権力」は、広義の意味で『憲法を制定した主権者の国民』を意味するが、狭義では『少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)』のことを意味する。


〇 「憲法改正権力」とは、制定された憲法の手続きに従って憲法を改正する者をいう。一般に、『主権者である現在の国民』による力を意味する。



 憲法を制定した権力である「憲法制定権力(広義・狭義)」は、人権保障を実現するために憲法を制定した。そして、他の一切の憲法を排除し、国内で他の法秩序が生まれることを許さず、法秩序を独占した。


 もし法秩序の在り方を変更したいのであれば、憲法に定められた手続きに従うべきことを規定し、「憲法制定権力(広義)」の力を「憲法改正権力」へという形で憲法中に封じ込めた。


 以後、革命を行って新たな憲法を制定する力は奪われ、憲法秩序の変更は憲法改正によって行われることとなった。


 ただ、「憲法改正権力」は、「憲法制定権力」に匹敵する万能の力を有するわけではない。多くの人は、「憲法に定められた手続きに従えば、その改正は正当性を持つ」と考えていることが多い。しかし、「憲法改正権力」によっても、この憲法原理を破壊するような改正は不可能であると考えられている。


 なぜならば、そのような改正は「憲法制定権力(広義・狭義)」のつくり出した「人権保障のための法」という憲法を打ち出した本来的な意図を越えるからである。つまり、立憲主義(人権保障のための法)を自己破壊(自殺)するような改正は、改正の限界を超えるとされるのである。

 

 そもそも、「憲法制定権力(広義)」というものも、万能の力を有するわけではない。近代立憲主義の理念である「人権の普遍的価値の建前」というものは、「憲法制定権力(広義)」の「主権を持つとされる国民」によっても否定することのできない学術的知見の到達点だからである。この「人権の普遍的価値の建前」という正当性の観念は、少数の法原理の理解者によって理解され、維持されているものである。


 よって、「憲法に定められた多数決原理の手続き」というものの正当性を裏付けているものは、憲法が人権概念の正当性を中核としているものであることから、人権概念の正当性をつくり出した少数の法原理の理解者(法の創造者・「憲法制定権力(狭義)」)である。


 少数の法原理の理解者(「憲法制定権力(狭義)」)というのは、法秩序が生まれる以前の人権と法の理解者であり、創造者である。本来存在しなかったところに人権概念を生み出した、実定法の手続きに拘束されない、法の創造者である。


 しかし、この者は憲法を実際に制定した者でなくても、人権の本質的な性質をよく理解していることで、実定法の手続きに拘束されない法の正当性の創造者の立場として現代にも生き続けている。


 しかし、人権概念は本来的に存在しなかったものであり、人権概念が存在するという前提で法秩序が形成されている現在においてもなお、少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)の不断の努力によって維持されているものであることを知らないままに「憲法改正権力」が行使されることは非常に危険である。


 それは、「憲法制定権力(狭義)」やその意志を受け継ぐ少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)によって生み出されている『人権概念の存在と価値と正当性』という憲法の存立根拠を、手続き上においては人権概念の正当性よりも下位にある『憲法に定められた(多数決原理の)手続き』という正当性によって破壊してしまうことに繋がるからである。

 そのため、憲法が制定された後においていても、『憲法に定められた(多数決原理の)手続き』にのみ正当性を見出す安易な「憲法改正権力」が行使されてしまうことがないように、人権概念は本来的に存在しないものであるが、人々の自由や安全を確保するために、憲法(実定法)以前に憲法に定められた(多数決原理の)手続き』によっても奪うことのできない性質の人権という正当性(自然権・前国家的権利)の観念が存在するという前提を創造する意図を理解している「少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)」が、「憲法制定権力(狭義)」に成り代わって、人々の意識の中に人権概念の存在と価値と正当性を創造し続けなければならないのである。


 法の効力を裏付ける力となる人々の認識の中にある正当性の基盤を、憲法(実定法)に優越するとする自然法に求めるという大前提を守り続けなくてはならないのである。

 




「小林節」はどう表現しているか


 憲法学者「小林節」の憲法審査会での発言を読み解いていこう。


 前半は、「憲法改正と憲法保障のバランスの関係」について、後半は、「憲法改正の限界」について述べられている。

 憲法改正の限界の論点について、憲法制定権力と憲法改正権力の関係に見られる「論理的限界」、人権という概念の本質に関わる「価値的限界」に分けられている点が、明快で非常に分かりやすい。当サイトでは分散してしまっているこの2つの論点がまとめられており、美しい。


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○小林参考人

(略)
 つまり、不完全な人間が、歴史の曲がり角で、半ば一種興奮した中で、ジョージ・ワシントンに言わせると、余り時間をかけずに憲法というのはつくらないと、とっ散らかってまとまらない。ということは、今の日本国憲法の中にも誤字脱字はございますし、それから、当時予想し得ていなかった事態に直面しております。ですから、憲法改正の道を残しておかないと、憲法は破壊されるしかなくなってしまうんですね。だから、改正手続の存在も、憲法を生かしていく手段であるということはお気づきいただきたいと思います。

 ただし、だからといって、法律のごとく相対多数決でくるくる変わってしまうのであれば、権力、政権を持っているということは常に国会内相対多数決を持っているわけですから、その方たちが一番憲法に縛られる立場でありますから、それだけに一番不愉快に思っておられるでしょう。その方たちが簡単に改憲を発議できるようでは憲法ではなくなってしまうわけでありますから、先ほど長谷部教授のお話にもあったように、憲法は、憲法である以上、硬性、かたい、削りにくいようにつくられて当たり前であります。

 改正権の限界でございますが、私は簡単に、論理的限界価値的限界と分けておきます。

 論理的限界というのは、憲法というのは理論的には憲法制定権力によってつくられるものですから、改正権力は、いわば制定権力と比べると親と子の関係にありまして、子の権利で親の権利の領域に踏み込むことはできないだろうという論理展開であります。ですから、憲法改正権力ごときもので憲法制定権力を動かす、主権を動かすとか、そういうようなことはそもそもできないということであります。

 それから、価値的限界というのは、やはり人類は歴史の中で試行錯誤しながら英知を磨いて生きてきておりますから、先ほどの長谷部教授のお話の中にもありましたけれども、現時点での到達点で浮かび上がってきた譲り得ない価値というのがあると思うんですね。人権の尊重とか、それから、その意味についていろいろ争いはあると思いますけれども、平和主義の反対は軍国主義ですから、軍国主義を選ぶとは、さすがに常識があったら言えないですよね、平静な状態では。

 ですから、平和主義という価値とか人権の尊重とか、つまり人が人であることを尊重し合うということを否定する憲法は、それは手続的には可能でしょうけれども、あってはならないという意味で、価値的限界にぶつかるということを申し上げておきたいと思います。
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参考人 小林節(慶應義塾大学名誉教授)(弁護士) 第189回国会 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 (下線・太字は筆者)




改憲マナーを守れるか


 憲法改正の手続きは、安定した法秩序を一旦「国民の多数決の判断に任せる」という無秩序の過程を通ることとなる。


 これは、本来的に法の効力が「人々がそれを法だと認識して従うことで初めて効力が生まれる性質のもの」であることから考えると、人々が法秩序に対して抱く認識によって生まれる法の効力の安定性を壊しまいかねない危うさを持った過程である。今まで保たれていた法の効力の正当性や安定性が損なわれる恐れがある場面なのである。


 その多数決という判断過程を通る際、人権というものへの理解の薄い人や、そのような理解の浅い人を利用する強者や策略家が跋扈(ばっこ)し、言葉の建前と内心の本音の交錯する制御できない無秩序な荒々しいものに突きつけられることになる。それは、侵害を受けている少数者や、人権侵害の恐怖を理解している者にこそ、その危険性がよく見えるのである。無理解で安易な者たちや、他者の人権を踏みにじる強者の内心の傲りなども、敏感に感じられるのである。


 憲法改正の手続きを前にして、その無秩序な過程を開放することは、多数派によっても侵すことができないという建前である「人権」という概念の在り方を、その多数派の安易な判断に任せることになってしまうのである。


 この矛盾に含まれる危険性を越えられるような憲法改正でなくては、憲法そのものの在り方や存在意義を失わせてしまうこととなるのである。


 憲法改正は、人権を人々の倫理観に、正確に言えば人々の中でも「侵害の恐怖を少数派ほどには敏感に感じたことのない多数派」のする安易さを含んだ判断に任せることになるのである。そのため、憲法改正の規定の内容を限界付けるものは、法が本来的に「人々がそれを法だと認識して従うことで初めて効力が生まれるもの」である性質上、多数派の倫理観に任せるしかないものとなるのである。


 この多数派の倫理観という不安定なものが、「多数派の決定によっても侵害することのできない人権」という概念をよく理解し、新たに生み出す法の原理に的確に反映させることができるかどうかは、非常に難しい問題であり、大きな危険を伴うのである。


 このようなことから、改憲派の勢力が、この危険に向き合うだけの高い倫理観を持っており、マナーのある改憲を行うことができる状態であるとの信頼を得られていない段階では、どの改憲勢力に対しても、改憲させるべきではないのである。




法の効力を弱めてしまう

 

 たとえ法を改正したとしても、その改正された法の内容が人々から支持されていなければ、その法の効力が社会の中で通用するという実効性は担保されないこととなる。なぜならば、法とは本来的に「人々が権威を認めて自ずと従うこと」によって初めて社会の中で通用する実力となり、効力が生まれる性質のものだからである。


 そのため、社会で通用する実効性の高い法を生み出すためには、多数決によって改正し、多数派の考え方を条文化することよりも、すべての人々に支持されるような法をつくることが何よりも大切となる。人々から支持されることこそが、その法というルールが人々に受け入れられ、人々に守られ、社会の中に効力をもった秩序を生み出し、拘束力を成り立たせる力の源となるものだからである。よって、改正によって人々から支持を得られないような法となってしまったならば、法の秩序は失われてしまうのである。


 多数派の横暴による憲法改正の多数決原理の決定は、人々が法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を損なわせ、人々が法を支持する意識を失わせ、法を尊重する意識や順法精神を低下させ、法という秩序観念の求心力を失わせることに繋がってしまいかねないのである。ポピュリズムによって先導された安易な多数派による憲法改正の判断は、知らず知らずのうちに法秩序の観念が社会の中で通用しているという事実(法の生命力)を自殺させてしまう可能性があるのである。


 多数決で決めた「法律」への信頼は、国民の抱く「憲法」という正当性への信頼によって生まれているものである。


 しかし、国民のその「憲法」への信頼は、憲法に含まれる人権保障実現への意志の確からしさによって成り立っているものである。これは、多数決原理を信頼することによって成り立っているものではない。


 なぜならば、多数決原理では多数派が少数派の人権を損なう可能性や、安易な判断によって事後的に多数派自身の人権を損なう可能性があるからである。


 この点を読み間違えて、憲法の正当性を手続き上の多数決原理にあると見なす考え方は危険である。


 物事を安易に割り切り、多数決原理を絶対視し、人々の共生性、共同性を損なわせるような改憲をしてしまうは、社会秩序に混乱をもたらすことになる。それは、そのような改憲によって法秩序自体が不安定化することから、多数派が改善しようとした目的さえも達成することができない状態になり得るのである。


 ポピュリズムによって安易な改憲がなされてしまったならば、新しい憲法に心理的な拒否反応を起こしてしまう人が出てくると思われる。そうなると、法は「人々が権威を認めて自ずと従うこと」によって初めて社会の中で通用する実力となる性質のものであるから、人々の支持が下がってしまうことは、法の効力が弱まってしまうことに繋がるのである。

 人々を分断させ、人々の共生性、共同性を損なわせるような改憲は控えることがマナーである。




法秩序への信頼を守る


 憲法中に定められている改正手続きの上では、憲法という法秩序自身を自己破壊させることが可能である。憲法に定められている単なる改正手続きを行うことのみによっては、憲法それ自体を破壊することができるのである。


 しかし、憲法を破壊できるということになると、人権保障を実現しようとする立憲主義の理念(人権の普遍的価値の建前)に沿うものではなく、人権の永久不可侵性の建前も失われてしまう点で妥当でない。


 そのため、近代立憲主義の憲法においては、たとえ憲法中に改正手続きが定められていたとしても、その憲法の正当性は、手続き上の多数決原理のみによって当然に裏付けられるという性質のものではない。


 近代立憲主義の価値相対主義の憲法は、人々の意識の中に「人権概念の存在と価値と正当性」をつくり続け、人々がその基本的人権を尊重し、それを保障するために法を実定化するという認識基盤によって支えられていなければ成り立たない性質のものなのである。


 よって、憲法改正の正当性を基礎づけるためには、この部分を理解している「少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)」からの完全な支持を得られるようなものであることが不可欠である。



 また、「国民投票」という多数決手続きを経たとしても、多くの人々から強い反発を招くものや、少数派を著しく侵害する恐れのある道徳的・倫理的な共生性の観点から十分な支持を得られない憲法へと改正してしまった場合、人々が法に対して抱く「権威を認めて自ずと従う気持ち」を損なわせてしまうことに繋がる。


 この場合、人々の抱く法秩序への信頼は壊れ、人々は法に自ずと従おうとしなくなることから、社会の中の法の効力も弱まってしまう事態を招いてしまう。すると、無法で乱暴な行為がまかり通る暴力による秩序が強まってしまう恐れがある。「法の支配」が失われ、「力による支配」を跋扈(ばっこ)させかねないのである。


 そのため、法の効力を保ち、社会の中の乱暴な力を抑止するためには、法秩序への信頼を十分に確保することも必要となる。その信頼とは、単なる「憲法に定められた多数決原理の手続き」を通しただけでは構築することができないものである。単なる多数決原理をはるかに超えた形での、少数派を含めた全国民からの圧倒的な支持という強固な合意によってなされなければならないのである。

 

法への信頼を守る方法(法の効力を保つことに繋がる)

・法の理念の一貫性が保たれていること

・法の体系的整合性を保つこと

・法の論理的整合性を保つこと

・国民からの圧倒的な支持を得られる内容であること

・近代立憲主義の理念が保たれていること

・価値相対主義の憲法観であること

・人権概念の普遍的価値の建前が成り立っていること

・道徳的・倫理的な共生性の意志を思い起こさせること

・多数決以前の人権概念の正当性に裏付けられていること

・学術的な整合性や基盤がしっかりとしていること

・アクセシビリティが高いこと

・改正前よりも明らかに法としてのクオリティが高いこと

 法としてのクオリティ

 >理念的魅力の高さ

 >法的安定性の高さ

 >

・少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)による完全な承認

・実存主義的な価値相対主義の認識に至りつつある者に確信を抱かせる訴えかけが込められていること

・人々の心を捉えるものが保たれ、効力の源となり得る状態にあること

・法の権威性が保たれていること(文体の格調も適度に影響しているのかもしれない)

 

など




法秩序の効力基盤を守る


 法とは、もともとは人々の意志の観念でしかないものである。それを、法の条文上の技術的な整合性だけで効力が現れると考えるのは不完全な理解である。

 な
ぜならば、法が社会の中で効力を有するためには、人々がそれを法だと認める認知と支持を必要とするからである。法は、根源的に人々の共感によって初めて成り立つものなのである。その共感を呼ぶ意志の観念こそが、法の効力の実質的な根拠となっているものである。


 なぜそれが共感を呼びうるものになるかというと、人々は「『人権』という個々人の自由や安全を最低限守ってくれる概念が存在する」という「人権概念の正当性に裏付けられた法の原理」に対して有益性を感じることが非常に多く、その合意事を受け入れやすいからである。


 もし人権概念が多数決によって簡単に奪えるものとの考えを前提として法を生み出したならば、いつでも弱者になり得る可能性を有した者は、そのような法に共感を抱かず、支持することはなく、納得できる合意事として承認することはないはずである。すると、その社会の中で効力を持った法として十分に成り立たず、法の実効性も存在しなくなってしまうはずである。


 法の効力とは、人々の十分な共感や納得感によってはじめて成り立つものである。そのため、この法への信頼感を維持することを第一に考えなくては、その社会の中の法秩序の効力を弱めてしまい、法秩序が成り立たなくなってしまう恐れがあるのである。


 そうなると、社会の秩序も無法なものへと変容し、自由や安全の質が下がってしまい、人権侵害を是正するための法の実効性も失われてしまうのである。


 改憲をするにしても、法の正当性の根拠や法の効力が成り立つ前提となるものを十分に理解した上で行い、この法への信頼感を十分に保つ必要があるのである。


 この点について十分な理解を持たず、無知なまま憲法改正の手続きを進めてしまうことは、その改憲に賛成した者自身に対しても危険や不利益をもたらすものとなり、自己加害を生じさせてしまうことになり得るのである。




憲法改正は国民の総意によることが望ましい


 憲法改正は多数決主義ではなく、その根幹を人類普遍の原理に求め、常に基本的人権を尊重し、国民の総意によって確定されるべきであると考える。

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日本国憲法公布記念式典の勅語(昭和21年11月3日)


 本日、日本国憲法を公布せしめた。
 この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。即ち、日本国民は、みずから進んで戦争を放棄し、全世界に、正義と秩序とを基調とする永遠の平和が実現することを念願し、常に基本的人権を尊重し、民主主義に基いて国政を運営することを、ここに、明らかに定めたのである。
 朕は、国民と共に、全力をあげ、相携へて、この憲法を正しく運用し、節度と責任とを重んじ、自由と平和とを愛する文化国家を建設するやうに努めたいと思ふ。

 朕は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる。
 御名 御璽
    昭和21年11月3日
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日本国憲法 参議院 (下線・太字は筆者)





<理解の補強>


事実の哲学と規範の法律学

立憲主義と平和主義 東京大学法学部教授 長谷部恭男 2006年3月13日 PDF (立憲主義と民主主義)

「法律は重要な社会インフラの一つである」―憲法学者・木村草太氏インタビュー 2013年01月18日

憲法96条改正はなぜ問題外なのか?(上)――三つの疑問 2013年05月25日

憲法96条--改正条項--の改正は立憲主義に反する「法学的意味の革命」か(5) 2013.7.14

全面改憲への陶酔は危険だ 長い時間軸をふまえ、徹底した議論を 2013年10月16日

気鋭の若手憲法学者が斬る自民党改憲案 96条の発議要件緩和は、国民にプラスとなるのか? 2013/11/08

【動画】第13回 憲法9条および96条をめぐる諸問題 長谷部恭男 2013年

[1] 「憲法9条の削除・改定は必要か」 立憲主義、民主主義から考える 2016年04月27日

96条改正を考える Voters 2013.8.30
(教えて 憲法)71年間、なぜ改正されなかったの? 2018年2月17日

【動画】シリーズ研究会「憲法論議の視点」(1)  「総論」宍戸常寿 東京大学教授: 2018.2.13

(教えて 憲法)憲法改正、どうして国民投票で決めるの 2018年4月14日

(教えて 憲法)承認か否かどう決める 過半数の分母は 2018年4月26日

勢いだけの国民投票ではサイコロを振るのと同じ 求められるのは「理の政治」 石川健治 2023年5月4日

【動画】2023年度前期・九大法学部「憲法1(統治機構論・後半)」第13回〜憲法保障 2023/07/26



 ◆Ⅱ 憲法の改正

 ◇1.4.2  改正の限界

憲法改正権の限界 甲斐素直

「多数決で憲法改正をするのが当然』という人がいますが、」 Twitter

 


【動画】ダースレイダーx木村草太 "コロナ考~憲法をじっくり考えよう" 2020/08/10 (2:13:19)

【動画】参議院憲法審査会(国会中継) 2021/06/02

 

 

 

 

(社説)憲法70年 筋道立たない首相発言 2017年12月21日