人権と憲法のQ&A



Q 人権は、多数決の決定で奪うことができるの?


A 人権は、多数決原理が定められた法制度ができる以前から存在していると考えられるものです。そのため、人権を多数決の決定で奪うことはできません。


 また、人権を奪うような多数決の決定がなされた場合、その憲法自身の正当性の根拠もなくなってしまいます。この影響で、改正の手続きを定めた憲法それ自体の正当性さえも失われ、改正手続きも無効となると考えられます。人権を保障する憲法の正当性は、多数決原理のみによっては担保できない性質を持っているからです。


 96条には「国民投票」を定めていますが、これは憲法が国民主権を重視していることから表れる手続き上の建前です。そのため、人の人権を奪うような改正や憲法原理を破壊するような改正は無効となると考えられています。


 人権は、多数決の決定によっても奪うことはできません。


 ただ、憲法改正は、法律のように悪法をより上位の実定法によって是正するための手続き的な手段がありません。そのため、その実質的な法の内容が妥当であるのかを十分に検討した上で行わなくてはなりません。このことから、現行憲法は改正に高いハードルを設け、法の実質について時間をかけて議論することを促すこととしています。


 これは、多数決原理のみを正当性の根拠だと信じる安易な改憲や、法的な整合性が十分に練られていない段階での「未熟な改憲」、思い違いによった投票行動をして後悔するような「勘違い改憲」、国民自身にとって思わぬ不都合に後から気づくというような「自己加害改憲」、権力者の言葉に乗せられて罠にかかってしまう「騙され改憲」、憲法自体を破壊してしまう「自殺的改憲」などを防止しようとする意図です。



Q 人権は存在するの?

A 「人権は存在する」として現代社会は運営されています。しかし、その存在根拠は様々な学説があり、何を根拠と信じているかは人によって違っています。「人権なんて存在しない。」という考え方もあります。ただ、多くの人にとっては自分自身の人権は確保されていたいと考えると思いますので、「人権はある」としておくことが一般的な考え方です。


 「自分には人権があるが、あの人には人権がない。」と、差別する考え方をする人もいると思います。このような考え方に対しては、法の条文としては「法の下の平等(平等原則)」(憲法14条)などで否定することはできます。しかし、法の条文以前にあるとされる自然法の考え方で「平等」という観念が存在するかどうかは、道徳や倫理、哲学、法哲学、心理学などによって捉えていかなくてはなりません。正義の観念や認識の観点、共生性に関する社会学の考え方も必要です。


 そのような様々な考え方を総合した結果、現在は憲法の条文に「法の下の平等(平等原則)」が公式に実定化されていますので、そのように社会は成り立っています。ただ、条文以前にある様々な学説の対立や戦いは、常に行っていく必要があるでしょう。それは、法の条文に表れるまでの水面下での努力なしには、なかなかその条文それ自体を守り通すことはできないからです。この条文が憲法改正の手続きによって奪われてしまう危険性は確かに存在しているのです。この脅威とは、常に戦い続けていかなくてはならないでしょう。

 同じように、「人権」という概念それ自体も、私たち自身が「あるもの」として広まるように努力を続けていかなくては、その存在を保つことができないものです(97条、12条)。この脅威に対しても、やはり常に戦い続けていかなくてはならないものです。



Q 法にはなぜ効力があるの?

A 法の効力は、人々が「その法に正当性がある」と考えて、その指示に従うことによって作用するものです。そのため、「人々が従うような正当性」が必要となります。人は、人それぞれ考え方が違うように、「正当性がある」と考えて従うものも違うでしょう。ただ、「自由や安全が守られるもの」に対しては、ほとんどの人が納得する価値だと思われます。その価値を「人権」という概念に集約し、人々を守り抜くための「正当性の観念」となるように新しくつくり出しました。この「人権」という正当性を人々が承認し、その正当性に従おうとするからこそ、法は人々に受け入れられ、人の行動に作用し、効力が生まれるのです。


 もし改憲を行うにしても、人々が「法」に対して正当性の承認を抱くことができる基盤を守ることが大切です。そのため、人々を守り抜くための「人権」という概念の質を確かに保っていけるように十分に注意しなくてはなりません。そうでなければ、改善しようとして改憲した憲法それ自身の効力が弱まってしまい、法秩序への信頼が失われるために、改憲した意図さえも達成されない事態が引き起こされてしまいかねないからです。



Q 前文の文言はなぜ主観的な文言が多いの?

A 法の効力は、人々の意識の中にその権威性が認められ、それに従う人が一定数存在することで初めて成立するものです。そのため、法の秩序が広く行き渡るためには、法の秩序をつくり上げ、維持しようとする立ち上げ人の意志に賛同する一定数の人々が必要となります。


 法が本来的には人の意識の中に存在する概念である以上、その概念に実効性を持たせるためには、その概念が多くの人からの賛同を呼び集めることができるようなものである必要があります。その賛同を呼び集めるためには、やはり「人々のためになるようなもの」や、「人々の幸せを願うもの」、「人々を守り続ける決意をするもの」など、魅力があったり、共感を持てる内容である必要があります。法という概念で秩序をつくり上げることで人々に役立とうとする法秩序の立ち上げ人のするそういった主観的な決意の宣言こそが、法の秩序をつくり上げ、効力を維持するための力の大本になっている部分であるということです。


 日常で目にしたり関わったりする「刑法」「民法」「税法」などの法は、機械的でメカニックな側面が多く、このような意志の観念を感じさせる部分はほとんどありません。そのため、憲法の主観的な文言には違和感を覚える人も多いです。しかし、もともと法という秩序が存在しない世界の中に、新たに権威を持った秩序の概念を立ち上げる際には、どうしても主観的な決意の宣言に頼らざるを得ないものです。これこそが、その法という新しい概念に権威を与え、人々の賛同を一定数集め続け、効力を成り立たせるための根源的な力となるものなのです。


 もしこの法の主観的な決意の宣言に誰も共感せず、その社会の中で一定数の支持を得られなかったならば、そもそも法秩序は広まらず、社会には「法の支配」が成り立つことはありません。実際に、世界の国々の中には、法の秩序が広まらず、理不尽が横行する暴力的な支配が続いている国もあります。法の秩序を広げるための意志の観念と、それに賛同する一定数の人々こそが、法の効力を成り立たせる力なのです。

 改憲派の中には、憲法それ自体が「権威のあるもの」であるとして、安易に改憲しようとする勢力もいます。しかし、当然のように見える憲法の権威とは、実は憲法典にあるわけではありません。その実質は、立ち上げ人の主観的な決意の意志や、それに共感し、支持する人々が一定数存在することによるものです。その人々の心の中にある意志を継続させ続けることのできる改憲でなければ、法の秩序への信頼は失われ、法の効力が弱まってしまうことに繋がるのです。


 逆に、質のいい改憲であり、誰もがその実質に込められた意志に賛同するものであれば、法の秩序は今以上に社会に広まり、効力は強まると言えるでしょう。


 そのため、改憲をするにも、改憲内容の「質」には十分に注意を払っていかなくてはなりません。法の効力を維持するためには、人々の意識を法秩序そのものに結び付けるような「魅力」や「共感」が最も大切なものだからです。これらは、多数決によって生まれるものではありません。憲法上の最高権力者であるとされる国民の主権によって国民投票という多数決の手続きを経ることが建前ですが、多数決の決定だけでは、法の秩序に人々の意識を結び付け、法の効力を維持する力にはなりえないのです。

 そもそも、国民の持つとされる主権でさえ、「人権」という概念から導き出したものであり、その人権の概念の本質的な性質を理解できるのは、実存主義的な価値相対主義の認知に至った少数の人々です。その者が「人権」という概念が「存在し、価値と正当性があるもの」との認識を人々に広めていなければ、人権概念が失われてしまうため、国民の持つとされる「主権(最高決定権)」さえも失われてしまうのです。すると、国民投票の権力基盤である国民主権の正当性さえも失われてしまうのです。

 そのため改憲を行うにしても、主観的な決意や、それに共感して支持する者、多数決の原理を採用する「主権(最高決定権)」の大本となる「人権」という概念の存在と価値と正当性それ自体を維持し続けていこうとする理解者の意志を集める役割を失わせるようなことがないようにしなくてはいけないのです。


 人権の本質的な性質を理解できる者の意志を集める文言とは、人権概念自体が本来的には"ないもの"を"ある"と言ってのける性質であることを暗示し、それでもなお不断の努力によって人権概念の存在をあるかのように造り続けていこうとする実存主義の生き方を発する決意の意志が感じられる部分です。この訴えかけを憲法中に含ませ、様々な人生の苦難の中で実存主義的な価値相対主義の認知に至りつつある者を導き、人権概念をベースとする憲法秩序を共に守り抜こうと呼びかけるように意図することです。


 これを理解した者の感じる衝撃的な実感と、先人のその意志の力強さに魅力を感じ、一定数の人々がその意志を受け継ぐ覚悟を持つに至る連鎖が保たれていることこそが、人権概念を「存在するもの」として成り立たせることとなり、法に正当性という効力基盤を与える力となるのです。


 こういった意志の観念を呼び集める仕掛けを含ませているために、前文や97条、11条、12条などの人権の根本規定は観念的なものとなるのです。

 

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 人権宣言の規定の実効性を担保する方法として、いちばん単純なもの━━しかし、おそらくは、それと同時に、ときによっては、いちばん強い効果をもつことができるもの━━は、人権の尊重すべきゆえんを強調し、国民や公務員に対してこれを守り抜こうとの決意を要望する規定を設けることである。この種の規定は、必然的に、多かれ少なかれ「教育勅語」的色彩を身に着け、その意味でたぶんに「作文」的な性格をもつから、もしそれが忠実に守られるとすれば、何にもまさった実効的な━━ほかの担保制度を全て無用とするような━━担保になることができる代わりに、一歩あやまると、単なる「白い紙に書かれた黒い文字」にすぎなくなってしまう危険が大きい。

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憲法Ⅱ 宮沢俊義 (P119)



(補足)

 前文の文言は、秩序のないところに新しく秩序を生み出す「革命的意志」が含まれる必要があります。それは、法の効力とは、その革命的意志に賛同する者が社会の中に一定数存在し、その憲法に価値や権威を認めて自ずと従うことによって初めてその社会の人々の中で通用する実力となるものだからです。この革命的意志が多くの人々に賛同を得られないものとなってしまうと、法の効力それ自体がその社会の中で通用しなくなってしまう事態を招いてしまうのです。


 この革命的意志は、今なお受け継がれ、一定数の賛同を集め、人々を法秩序に従わせる効力の源泉となっています。もしそれがなされていなければ、既に現行憲法の法秩序は荒廃して社会の中で通用していないはずだからです。


 この前文に含まれた革命的意志を損なわせるような改憲をしてしまうことは、憲法破壊に等しく、新たな革命を行うことになるということを踏まえておく必要があります。もしそのような事態となった場合、その革命による新秩序は、現在の法秩序よりも人権保障の質が下がってしまう可能性があることを十分に考えておく必要があります。



Q 人はなぜ、法に従うの?


A 人によって、その原因は違うでしょう。考えられるものをいくつか取り上げてみましょう。


〇 法に権威があると信じているから。
〇 法の内容が道徳に沿っていると考えるから。

〇 みんなが従っているから自分も何となく。

〇 従わないと罰を受ける恐れがあるから。

〇 法は自分を守ってくれるものだと確信しているから。

〇 自分の人権が奪われないための方法として納得しているから。

〇 国民主権という建前に納得しているから。

〇 法の秩序が魅力的だから。

〇 人治主義よりマシだから。

〇 暴力の支配よりマシだから。

〇 今のところ生活は以前の時代よりは改善され、法の有用性が認められるから。

〇 法秩序の立ち上げ人(憲法制定権力)の意志に共感しているから。

 

などがあるでしょうか。


 憲法中にある人々が従うことを意図した仕掛けとしては、


① 法秩序を立ち上げて人々の人権を守ることを勝手に決意した人たちが、その他の人を勝手に守ってくれるという善意の意志で運営されることになっていること(前文、97条)

② 「人権はすべての人に与えられる」という人権概念の魅力的な前提が存在すること(11条、人権規定)

③ 国は三権分立の統治原理によって権力の独占を防止し、常々国民の人権保障を実現しようと努めることになっているという魅力的なシステムであること

などの原理があると思われます。

 これに加えて、「天皇」という魅力的な権威とされる象徴が憲法中に存在していることも、法を広め、人々の意識を法秩序につなぎ止めるための一つの力となっていると考えられます。(天皇制廃止論を持つ人には、これによっては法秩序に魅力を感じることはないでしょう。)


 結局、法秩序を保つために大切なことは、様々な魅力で、様々な人々の意識を法に結び付けることなのです。その求心力を様々な方法で保つことなしには、法秩序そのものが人々からの支持を失い、法の効力が社会の中を行き渡らなくなってしまうのです。


 逆にこれらの魅力をしっかりと保っているならば、多くの人々に支持される法となり、人々はその法に自ずと従うため、その社会の中で法の効力は強くなります。


 もし憲法改正を行うにしても、法の秩序を維持するためには、人々がその法を権威として認め従い続けようとするような『魅力』を保つことができるような改正を行う必要があるでしょう。



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法の運用者による受容
(略)
つまり、日本国憲法が国の最高法規なのは、「日本国憲法を最高法規として扱うべし」という実質的意味の憲法が事実上存在するからであり、そのような実質的意味の憲法が存在するのは、それを法の運用者が事実上受け入れ、それに則って行動するからである。
もちろん病理的な政治体制を除くと、法の運用者によって受け入れられているルールは、社会の大多数のメンバーによっても受け入れられているであろう(ハート・法の概念第6章参照)。
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◆1.3  憲法の法源と解釈  ◇1.3.3  最高法規


<理解の補強>


第4話 「権威と権力の分離と立憲政治」

 


Q もし9条改正を強行したら、法の魅力は保たれるの?


A 9条改正がどのような内容になるのか、また、9条として改正するべきものであるのかなどは検討の余地があります。ただ、改正案が国民投票の多数決原理を通したとしても、もし多くの人々が十分に納得して支持するような憲法改正でなかったのであれば、人々の意識は憲法から遠のいてしまうことに繋がります。すると、人々は法秩序を支持することはなくなり、法への信頼も損なわれ、法を守ろうとする者が少なくなったり、法が無視されたりするなど、法の支配に荒廃をもたらす恐れがあります。改正によって国民の間に分断をもたらした場合、「愛国心」と言うかは分かりませんが、人々が自国である日本国を好きでいる気持ちが萎えてしまうことにも繋がってしまいす。すると、税金を払う気持ちが失せてしまったり、国の発展に協力しようとする気持ちが沸いてこなかったりもしてしまうでしょう。こうなると、国民や国防の任務に就く自衛官も、国や国民を守り抜く士気が落ちてしまうことにもつながってしまい、結局、法の効力そのものが低下するために改正の意図さえ達成されなくなってしまう恐れもあるでしょう。


 直接関係するものではありませんが、民意を安易に分断することは、法秩序の下にある天皇の存在としての「国民統合の象徴(1条)」という役割にも影響が及んでくる可能性が考えられるかもしれません。法の下に「統合された民意」や「総意(1条)」という憲法秩序の理想を実現していくためには、人々の意識を法秩序に結び付けるような魅力を保つ必要があるからです。法秩序への信頼を失わせるような憲法改正となってしまうことは、法の制度そのものに変容をもたらすため、こういった理想を実現することも困難になっていくことも懸念されます。9条関連の問題であったとしても、法の秩序に与える影響は9条関係の条文だけに留まらないことを理解しておく必要があると思われます。



Q やっぱり人権が分からないんだけど、一体どういうもの?


A 憲法と人権の関係に類似したものを図で表してみました。イメージは何となく掴めるのではないでしょうか。


【人権観】
 ① 自然法の人権観

 ② 法実証主義の人権観

 ③ 現行憲法の実存主義的な価値相対主義の人権観


【人権観に類似した構造にあるもの】

 ④ サンタクロースという幻想とプレゼントの関係

 ⑤ 仏壇と仏などの観念の関係

 ⑥ 鳥居やお守りと神との関係




 「① 価値絶対主義的な自然法論者」や「② 価値絶対主義的な法実証主義の論者」は、人権認識を一種のフィクションとしての閉じた世界の中で見てしまっているのである。実はそれが、そのフィクションの外側にある「③ 実存主義的な価値相対主義者」によって生み出された観念であるということを知らずにいるのである。


 このような構造は、意外と社会の中でも様々な場面に類似したものがある。「④ サンタクロースがいることにしてプレゼントを渡す保護者達」や「⑤ 仏の観念を広い学術的知見や修行なしで手にできるとする仏壇などの媒介物」、「⑥ お守りを手にすることで神の保護を受けられるなどとする神社への参拝の慣習」などがある。


 このように、人権概念自体も、本来一部の理解者によってつくられ、人々の安心した社会生活を実現するためにつくられた一つの観念なのである。


 ただ、憲法秩序の中で、法秩序を運営していく際には、「① 価値絶対主義的な自然法論」の人権観や、「② 価値絶対主義的な法実証主義」の人権観でも、問題なく社会を運営することが可能である。なぜならば、結局どちらも「人権は存在している」という建前が守られた中のことであり、人々の権利や義務をやり取りしたり、裁判所によって権利救済を行うことが可能であるからである。


 しかし、憲法改正を試み、憲法秩序そのものを変更しようとする際には、安定した社会を成り立たせるための建前である「人権という概念が存在する」という大前提の認識さえも失わせてしまうような非常に不安定な状態を招いてしまう恐れがある。


 実際に改憲派のいくつかの憲法草案を読んでみると、一部の理解者による運営によって人権概念そのものの存在が生み出されているということを知らず、一種のフィクションをそのまま信仰するかのように、①や②のような「人権はあるもの」という建前だけをそのまま信じてしまった憲法となっているのである。これを見ると、人権概念の絶対性を信じたままに憲法草案をつくっている人々がいるということなのである。


 しかし、このような人権という概念を絶対的なものであると人々に押し付ける憲法となってしまうと、それは人々の「思想良心の自由」という人権を奪うことになってしまうため妥当でないのである。「人権は存在する」という建前が守られていることは、安定した法秩序が行き渡る社会をつくるために大切であるのだが、その建前を絶対的なものと扱って法秩序をつくろうとすることは、人々の自由を保障するためにつくられた人権という概念の本来的な意図を達成できないのである。

 この点、現行憲法の示唆する実存主義的な価値相対主義の立場からの建前としての人権観を維持した方が、様々な考え方を持った人々をより広く括する視野で人権概念を運営できることから、法秩序の魅力を保つことができると考えられるのである。この高い許容性という魅力は、法秩序そのものを社会に広める求心力が大きいことから、法の実効性をより強固なものとして維持することができると考えられるのである。


 改憲に取り組む際は、このような人権観の違いをしっかりと理解した上で行う必要がある。

日本国憲法だけど、質問ある?


 日本国憲法を擬人化してみると、分かりやすいかもしれない。チャレンジしてみよう。



Q お前のこと嫌いなんだけど。


A いいよ。みんなには「思想良心の自由」があるんだ。もちろん私を嫌う自由もあるよ。もし君に嫌われても、私は君たちの人権を守るよ。そう、決意し、誓ったんだ(前文)。


 一応、そういうことになってる。魅力がなければ法の効力も生まれないから、私を嫌う人にも寛容でなくてはいけないと思ってる。
(価値相対主義の意志の観念)


Q お前、マジで紙くずだな。

A まあ、原本は確かに紙に書かれた文字の羅列でしかないからね。そう見える人がいても無理はないよ。ただ、正確に言うと、法の効力は紙にあるわけじゃないんだ。その文字の羅列の意味が人々に理解され、その法が人々から一定数の支持を集め、その社会で通用している事実が、実質的な法の効力を実現しているんだ。紙に書かれた私は、物質世界に姿を現した私の化身であって、私自身はみんなの頭の中にある存在なんだよ。



Q お前の言っていることって、絶対に正しいの?


A いやいや、みんなには「思想良心の自由」があるからね、信じるも信じないもあなた次第だよ。私は信じなさいとか、絶対的な権威だなんて、一言も言っていないんだ。私はただ、自分の決意と誓い(前文)を述べただけなんだ。今のところ、その訴えかけに共感してくれる人が一定数いるから、この社会の中で通用する実力になっているだけなんだ。社会の中で通用する実力だから、私のことを「絶対的なもの」だと信じてしまう人もいるみたいだね。確かにルールを破ると下位の法律で処罰されたりすることもあるけれど、それは人々が法に効力を認めていることによって実力に変わっているわけであって、文字や言葉の意味の集合体でしかない私が、何か物理的な力を加えているわけじゃないことは分かるよね。単に、社会の中で通用している事実が、あたかも私が絶対的なものであるかのような誤解を生んでいるんだ。私自身は、訴えかけているものでしかないんだよ。



Q お前、本当に俺たちの人権を守ってくれるの?

A そこ、難しいところだね。さっきも言ったけど、私は文字の羅列や言葉の意味の集合でしかないんだ。そして、絶対的な権威というわけでもなくて、人々に訴えかけているだけの存在でしかないんだよ。だから、実質的には、私の訴えかけに共感し、社会の中で通用させている人々がどういう風に法を運用するかにかかっているんだ。みんなの人権を守れるかどうかは、私の訴えかけに共感してくれている人が、みんなの人権を守ることができるかどうかじゃないかな。もしみんなも私の訴えかけに共感したら、他の人の人権も守ってあげて(12条)。



Q 俺たちの人権って、自然権なの?

A あ、それね。一応「享有を妨げられない(11条)」、「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」っていうことにしているから、「生まれながらに持っている権利」、つまり自然権ってことになってるよ。ただ、自然権って言っても、自然権が何を指しているのか、人によって考えていることが違うみたいだから、なかなか輪郭が定まらない概念だよね。


 あと、押さえておきたいのが、その「生まれながらに持っている権利」っていうものは、「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果(97条)」として生まれたもので、条文化される以前に存在しているってことになっているよ。
「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」って言葉から、人間がずっと昔からもともと持っていた権利っていう考え方もあるけど、まあ、歴史を遡れば、しばらく前の時代は、人権なんて概念はなかったからね。「多年にわたる自由獲得の努力」が実るまでは、存在しなかったんだ。「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」っていうのは、今後そうやって運用しないといけないっていうことだね。この言葉に続く、「として…与えられる(11条)」、「として信託されたもの(97条)」という表現からも、人権の性質を定義したというよりも、「として」という建前であることの意味が読み取れるからね。日本国憲法を立法する際の草案段階では、「崇高な信託として授けられ、永久に、侵すことのできない権利として維持(護持・堅持)さるべきものである。」(日本国憲法[口語化第一次草案])と表現されているよ。「さるべき」っていう文言から、こちらの方が建前であることが分かりやすいね。


 それで、今後も「不断の努力によつて」「保持しなければならない(12条)」から、自然権として運用するのはみんなの努力にかかっているよ。

 


Q 義務を果たさない者には、権利は与えられないの?


A 権利と義務が対価関係になるのは、民法の双務契約の考え方だね。ここでいう権利というのは、確かに憲法が保障する人権を持つとされる主体に対して発生するものだから、人権概念から導き出した観念の一部ではあるけれども、憲法の保障しているもともとの人権とは性質が違うものだね。憲法の人権は、「享有を妨げられない(11条)」ものであって、「生まれながらに持っている権利(自然権)」だからね。直接対価関係になるようなものは存在しないんだ。だから、義務を果たさなくても、憲法上の権利は与えられることになっているよ。ただ、一応憲法中でも「人権保持義務(12条)」「教育を受けさせる義務(26条2項)」「勤労の義務(27条1項)」「納税の義務(30条)」は書いてあるから、できる範囲でやった方がいいね。そうしないと、法律で罰せられたりするものもあるから、面倒だからね。でもそれは、義務を果たさなかったときに憲法上の人権(自由や権利)がすべて奪われたりするようなことはなく、対価関係の権利・義務とは別のものだよ。



Q 人権って、存在するの?

A 正直、私に聞かれても困るなぁ。一応、人々が「人権」っていうものが「ある」ってことにして、私を制定したんだ。みんなが「ない」って考えたら、私はいないと思うよ。私が生まれて、社会の中で通用しているということは、人々の心の中に「人権」っていう概念が「ある」ってことじゃないかな。そういうことで、いいんじゃないかな。私自身が人権の根拠であるかのように考える人もいるけれど、私は結局、文字の羅列や意味の集合体でしかないんだ。それを人々に訴えかけているだけであって、それが支持されて通用しているならば、その人々の意識の中に人権は「ある」ってことなんだと思う。


 もし人権が失われそうだったら、強い意志で念じたりするのもいいんじゃない?その意志で人々の間にあたかも存在しているかのように普及すれば、人々の心の中に「人権」っていう概念が思い起こされると思うよ。私の文字の羅列や意味の集合体は、単にそういった概念を記載しただけのものでしかないからね。私が制定されてもなお、「不断の努力によつて」「保持しなければ(12条)」、人権はなくなってしまう恐れがあるよ。注意してね。



Q お前の効力って、何で存在するの?


A 一応、みんなに魅力を感じてもらえるように努力はしてるけどね。その魅力を感じて自然に従ってくれる人がいない限りは、私の効力なんて存在しないものだからね。いつも言っているけど、私は文字の羅列でしかなくて、意味の集合体でしかないんだ。その訴えかけに賛同した人がいるから、社会の中で効力が成り立っているわけね。私が物理的な強制力を行使して効力を生み出しているわけじゃないからさ。

 

 魅力づくりとしては、

・人の人権を保障することを第一目標とすること(基本的人権の尊重)

・私を嫌う人も、他の人と同じように大切にする決意をしていること(価値相対主義の人権観)

・みんなの主権が統治機関の権力の源とすること(国民主権)

が大きな柱だね。

 あと、「天皇制」を維持しているんだ。私が制定されるまではずっと権威の源だったし、ファンが多いから続けた方がいいかなと思って。ファンがいるならば、これからもずっと続けていくと思う。これも魅力の一つね。

 それと、「平和憲法」の形が好きって言ってくれる人も多いかな。

 どう?魅力を感じた?今のところ、この魅力で保っているみたいだけど、ダメだったらごめん。もっと頑張るわ。


 私を嫌う人もいるからね。まだまだ努力しないといけないと思う。

 

 

 この「日本国憲法だけど、質問ある?」の内容であるが、法が最終的には人々の頭の中の観念であることを考えると、この「日本国憲法」というのは、制定当時の意味においては「憲法制定権力」の意志の観念に等しいものである。よって、「日本国憲法だけど、質問ある?」というのは、実質的には「憲法制定権力者」に質問をしているということになる。そのため、憲法制定権力者の意図を読み解くことで、自ずと日本国憲法自身の言葉を導き出すことができると考えられる。(ここで言う憲法制定権力とは、憲法制定時の少数の法原理の理解者のことである。憲法制定時の全日本国民というわけではない。)





<理解の補強>


「安倍が敵じゃないぞ、安倍に任せても大丈夫と言っている人が敵だぞ」社会学者・宮台真司が改憲反対派に提言 2018年05月04日