国防軍を保持するならば




国防軍設置のパッケージは何か

 国防軍の設置を可能とする憲法へと改正する場合、一つの条文だけではなく、憲法体系の全体に手を加えていく必要があるだろう。また、憲法だけでなく、憲法付属法の整備も必要である。そのパッケージを検討してみる。

〇 【人権規定】に「国民の平和的生存権」の加憲
〇 【人権規定】に「徴兵制の禁止」の加憲
〇 【人権規定】に「行政手続きの適性の保障」を明確化するための加憲

(31条の刑事手続きや刑事法のみを対象としたかのような規定だけでなく、行政手続きの適性や法律の内容の適正を求める内容を加憲)


〇 【統治規定】の「内閣」の章の73条に「自衛の措置を指揮すること」の加憲
〇 【統治規定】の「司法」の章で「抽象的違憲審査制」を加憲

(憲法規定としなくても、行政事件訴訟法の改正で、抽象的違憲審査の原告適格・訴えの利益の道を開く方が適切かもしれない)

〇 【統治規定】の「司法」の章で「軍法裁判所」のようなものを加憲する必要もあるかもしれない


〇 【総則規定】の9条2項の禁止規定の緩和


〇 前文「平和主義」の削除

 

などが考えられるだろうか。これらを検討せずして、9条に自衛隊を加憲するだけで憲法改正を成し遂げたと思い込むのは憲法議論として浅いと言えるだろう。

 



井上達夫


 法哲学者「井上達夫」の考える改憲案を検討する。


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 ・制約良心的兵役拒否
 ・文民統制
 ・開戦決定への事前の国会承認
 ・徴兵制

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自分の頭で安全保障を考える。井上達夫『憲法の涙』を読んで。 2016-03-19



【動画】プライムニュース 2018年9月28日

【動画】『日本の「将来」を問う 安倍政権の向かう先は』【前編】 2018/09/28


(16:45より 井上達夫の改憲案)
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「戦力統制規範」
① 文民統制
② 国会承認(事前承認)
③ 軍事司法制度
④ 外国基地施設地域の住民投票
⑤ 徴兵制と良心的兵役拒否権保障

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① 文民統制について
現行法制下の法律規定で既に機能しており、憲法上に位置づける必要性はない。憲法付属法等で対応できる。文民統制についても、憲法72条、73条柱書や、65条の行政権の属する内閣の性質上当然であり、憲法上に規定が存在しないというわけでもない。


② 国会承認(事前承認)について
現行法制下の法律規定で定められており、憲法上に位置づける必要性はない。憲法付属法等で対応できると思われる。


③ 軍事司法制度について
現行法制下でも行政審判所として行政権下で準司法制度を運用することが可能であり、憲法規定とする必要性はないと思われる。「自衛隊刑法」という刑法典をつくることも可能ではないか。上官からの命令があったとしても、刑法上も35条の「正当行為」で違法性が阻却されると思われる。


刑法
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(正当行為)
第三十五条 法令又は正当な業務による行為は、罰しない。

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④ 外国基地施設地域の住民投票について
現行憲法95条の住民投票で対応可能と思われる。詳しくは憲法学者「木村草太」の議論を参照。


   【参考】橋下徹「政府は沖縄の民意を無視するな」 切り札は「手続き法」の制定だ 2018.10.3

⑤ 徴兵制と良心的兵役拒否権保障について
現行法制下では徴兵制は不可能である。良心的兵役拒否権の保障についても、現行法制下であれば兵役そのものがないため関係ない。


 上記①~④については、実質的に現行法制下や憲法付属法等で対応できるため、この①~⑤の「戦力統制規範」のパッケージの実質は、「徴兵制の実現」という意味しか有しないものと思われる。


 憲法典としての事項として対応しなければならないものは、徴兵制の実施だけであり、それ以外については改憲の必要性があるというものではないと考えられる。集団的自衛権にあたる国家の権限を行使したいのであれば、9条2項と連動する前文を改正する必要があると考えられる。ただ、ここには改正限界に関わる論点が含まれている。


 98条2項の「条約及び確立された国際法規」についてであるが、これは国連憲章そのものを意味しているわけではない。なぜならば、国際法の秩序が国連憲章を中心とした体制から変化する可能性があるからである。新たな国際法の枠組みが成立する可能性もあるし、現在の国際法秩序が崩壊してなくなってしまう可能性もあるのである。実際に、国際連盟は廃止され、現在の国際連合の体制に変わっている。9条は国民主権を正当性の法源とした自国の法体系としての完結した制約規範であり、国際法と同一視した議論は法源の違いを理解しないものであり、成り立たない。


緊急提言 憲法から9条を削除せよ - 井上達夫(東京大学大学院法学政治学研究科教授) 2015年08月26日

 簡単に記載する。

 まず、日本国憲法は前文にて憲法制定権力の「日本国民」が「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうに決意し」て、9条を設けているのである。これは、憲法制定権力が政府の恣意や一時期の多数派によって「戦争」や「武力による威嚇又は武力の行使」が行われることを防ぐことを意図したものである。
 よって、9条は憲法制定権力が国民主権を行使して「正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し(前文)」た結果としての憲法規定なのであるから、民意を得た規定である。

 ただ、この9条を理由として自身の「絶対平和主義」という思想を他者に押し付ける者がいるとすれば、それは憲法解釈を誤っている者であって、その者の存在を理由に9条を削除するとの話には直ちに繋がるものではないと考えられる。

 この議論は、天皇制を維持するか否かにも関わるものである。天皇制を維持しているからといって、「天皇」を崇めるという思想を他者に押し付ける者がいるとすれば、それは憲法解釈を誤っている者であって、その者の存在を理由に第一章「天皇」を削除するとの話には直ちに繋がるものではないと考えられる。

 そのため、「安全保障は憲法になじまない」と考え、「これ以上、憲法9条をめぐる欺瞞的な議論にエネルギーを浪費するのはもうやめにしませんか」と問うのであれば、同様に「天皇制は憲法になじまない」のではないかを考える必要がある。

   【参考】⑥「『象徴』,依存する日本人 法哲学者・井上達夫さんに聞く」(『朝日新聞』2019年5月3日19面「文化・文芸」)から 2019/05/04


 論者自身も、「天皇個人はリベラルな人物だった」が、「天皇個人と天皇制は区別して考えないといけない。」と考え、「日本に残った最後の『奴隷制』」と表現しているところである。


 ただ、この「天皇制」は、「主権者国民が一体化できるための結節点」として利用されている。


 同様に、「平和主義」や9条についても、この「主権者国民が一体化できるための結節点」として機能しているのではないかという点を考慮する必要がある。

 この立憲主義を支える熱源について、憲法学者「石川健治」の講義を参考にする。 


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(12:07~)
 立憲主義っていうのは、実はあの、そのまま放っておいて実現するものではなくて、放っておいたら倒れちゃうもんなんですよね。だんだん、だんだんこれ、みんなこんなもの支えなくてもいいんじゃないかなってことで、公共がが小さくなってやせ細っていくということになるのが当然で、これ立憲主義の抱えているジレンマなんです。
 逆に言うと、立憲主義が実現しているということは、この仕組みの外から何らかの意味でこの熱源がですね、別のところにあって、そこからの熱で公が支えられている。でもその熱源が「特定の価値観だ」ってことは絶対に言っちゃいけませんので、いろんな人が思い思いに支えている、という感じになるんです。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
(13:36~)
 立憲主義とか、憲法学者ってのは、それが何であるかっていうことを、この語るわけにはなかなかいかないんですけれども、それは結局、自分が特定の色でこれを染めようとしていることになっちゃうんです。ジレンマです。
 で、しかも、じゃあ何も言わないって言うと、倒れちゃうんですよね、この線が破れちゃう。そこのジレンマが実際一番問題で、ですから例えば公のためにもっとその「生活や生命を投げ打つ日本人になってもらおう」ということになった場合には、これを「愛国心」っていう言い方で、特定の色に染めていくしかないということになるわけで、ということがまあその、みんなこの、公を支えるのをサボり始めててですね、公が小さくなっていって、この線が怪しくなっているということでもあるんだろうと思うんですが、とにかくそのいざとなったら国のために命を投げ出すような状況を生むためにはですね、熱く燃える何かで充填しないといけないということがあると。
 でもこれやっちゃうとこの線が消えてしまう。というジレンマの中に現在あって、第一次安倍政権は、ここ(愛国心)に手を付けたということになってるし。
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【動画】立憲主義と9条③ 私的領域を守る立憲のシステム 石川健治 立憲デモクラシー講座⑥ 2018/03/13 (6:30~が立憲主義の説明) 

 このように、9条を削除した場合にも、「自由を守るための憲法のメカニズムを作動させることができるか否か」について十分な考察が必要である。


護憲派は国民を信じていない 井上達夫インタビュー(下)立憲的改憲こそ安倍改憲への対抗策だ 2019年09月04日


    【1ページ目】


 「政治的立場は、専守防衛、個別的自衛権に限って自衛を認めるというものです。」との記載があるが、理解を補強する必要がある。
 まず、「専守防衛」とは、「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢(平成30年版 防衛白書)」の意味である。ここには、既に「憲法の精神に則った」の文字があるため、論者が「専守防衛」の立場に立つということは、既に現在の9条を支持していることを意味する。「専守防衛」の言葉は、既に現在の9条の規定の効力に依存する意味なのである。「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、」の部分も、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の枠組みと同じものであるし、「自衛のための必要最小限にとどめ、」の部分も「武力の行使」の三要件(旧)を意味するものであり、「保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限る」というのもこの「武力の行使」の三要件を実施するものに限るというものである。これらは、既に9条の制約から生まれた概念を前提としており、9条が削除された場合、あるいは改正された場合には「専守防衛」という現在の概念の枠組みが消失することを理解する必要がある。
 次に、「個別的自衛権」であるが、これは国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する国連憲章51条の違法性阻却事由の『権利』の概念である。これは、国連加盟国が自国の統治権の『権限』によって「武力の行使」を発動した際に、「個別的自衛権」あるいは「集団的自衛権」の区分に該当した場合には2条4項の「武力不行使の原則」に抵触する違法性を阻却することが可能となり、国際法上の責任を問われないとするものである。そのため、「個別的自衛権」という概念は国際法上の『権利』の区分の概念であり、日本国の統治権の『権限』の中には存在しない。日本国の統治権の『権限』で表現するならば、「武力の行使」の発動要件が「自国に対する武力攻撃の発生」を基にしているか(個別的自衛権の区分)、「他国に対する武力攻撃の発生」とその『他国からの要請』を基にしているか(集団的自衛権の区分)で判断されるべきである。違法性阻却事由の『権利』の区分の用語を利用すると、議論を混乱させることが多いため注意が必要である。
 三つ目に、「専守防衛」とは先ほども述べたように「憲法の精神に則った」ものである必要があるから、9条の制約を受けた「武力の行使」の形となる。これは、従来より「自衛のための必要最小限度」と呼んでいた「武力の行使」の三要件(旧)を満たす中でしか「武力の行使」を発動できないというものである。この三要件の制約は、国際法上の「個別的自衛権の行使」として違法性が阻却される「武力の行使」の形よりも厳しいため、「専守防衛」に基づけばたとえ「個別的自衛権」の区分に該当する「武力の行使」であっても、行使できない場合がある。


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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第94回国会 衆議院 法務委員会 第18号 昭和56年6月3日 (下線は筆者)


 精度の高い議論をする場合には、この違いを正確に解することが必要となる。


 「国連の集団安全保障体制には参加しても、」との部分があるが、現在の憲法9条の下で「国連の集団安全保障体制」に参加できるか否かは議論があり、未だ明確になっていないと思われる。砂川判決が示した基準を参考とすれば、日本国の統治権の『権限』による指揮権・管理権を行使する「武力の行使」や「戦力」の保持でないのであれば、直接的に9条の対象とはならないとも思えるが、かといって砂川判決は「アメリカ合衆国軍隊の駐留」についてさえも前文「平和主義」の理念や9条の精神から許容されるかについて具体的に判断を下したわけではない。「国連の集団安全保障体制」については、日本国の統治権の『権限』によって組織される人員を「武力の行使」や「戦力」に参加させるものであるから、砂川判決のように「アメリカ合衆国」の統治権の『権限』によって組織される「戦力」を、日本国の統治権が日本国の領域に駐留させることを許容することとは性質が異なるとして、9条に抵触して違憲と判断される可能性もある。

 (9条1項は『国権の発動たる』の文言があるため、日本人が私人として傭兵となることは9条の規制の対象ではないと思われる。ただ、9条の規制の対象でなくとも、法律で禁じられたり、出国停止となる可能性は考えられる。刑法93条〔私戦予備及び陰謀〕

 

「義勇兵」に約70人志願 在日大使館、投稿は削除 2022/3/2

ウクライナ「義勇兵」2千人以上志願、焦るロシア「無差別攻撃」に日本の元自衛官も手を挙げ…捕虜になっても「国際人道法の保証ない」佐藤正久氏 2022.3/3

「日本に住む私たちにとっても大きなリスク」義勇兵に志願した元自衛官を、陸上自衛隊幹部OBが“称賛しない”理由とは 2022/3/21

 

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○下田政府委員 

(略)

 第二の義勇軍の問題でございますが、これは憲法が禁じておりますことは、国家としてあるいは政府として国の意思によつて行動することを第九条で問題といたしておるのでありまして、個人が外国の軍隊に義勇軍となることはちつとも憲法上さしつかえないのみならず、憲法の第二十二条は、外国に移住しまたは国籍を離脱する自由すら個人の自由として認めておるのでおりますから、個人といたしましてこの自由を行使して外国の義勇軍に入りましても、これは一向かまわないことでございます。

(略)

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第19回国会 衆議院 外務委員会 第27号 昭和29年3月27日

 

第48回国会 衆議院 予算委員会 第17号 昭和40年3月2日 (発言番号53)

第48回国会 衆議院 予算委員会 第17号 昭和40年3月2日 (発言番号55)


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 なお、世界の現状においては、日本が国家として、戦争に参加することは憲法上認められないが、日本国民が個人として、義勇兵または志願兵として外国の軍隊に参加することは、それ自身としては、憲法の禁止規定外に属するものとみなされる。

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憲法Ⅰ 清宮四郎 (法律学全集3)有斐閣 (P83)


 このような答弁書がある。


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3 いわゆる「国連軍」は、個々の事例によりその目的・任務が異なるので、それへの参加の可否を一律に論ずることはできないが、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴うものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないと考えている。これに対し、当該「国連軍」の目的・任務が武力行使を伴わないものであれば、自衛隊がこれに参加することは憲法上許されないわけではないが、現行自衛隊法上は自衛隊にそのような任務を与えていないので、これに参加することは許されないと考えている。
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自衛隊の海外派兵・日米安保条約等の問題に関する質問に対する答弁書 昭和55年10月28日

    「国連憲章第四十二条、四十三条に規定されております国連軍」について

   【参考】第142回国会 衆議院 予算委員会 第27号 平成10年3月18日

   【参考】(2)「国連軍」への「参加」と「協力」(衆・PKO 特委 平 2.10.26) PDF

   【参考】第129回国会 衆議院 予算委員会 第18号 平成6年6月8日


 論者の「政治的立場」が「集団的自衛権は認めない。」とのスタンスであったとしても、これを政策論上の立場とするか、憲法規範として枠づけるかについては性質が異なる。つまり、9条の制約をなくした上で政策論として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を採用しないとする立場であるのか、9条あるいは9条に類似する憲法上の規定によって「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を禁じるかは意味が異なるのである。政策論と憲法論を区別して論じていく必要がある。


 「専守防衛・個別的自衛権の枠内、これを専守枠内と略称することにしますが、この枠内なら自衛隊を合憲と見なす立場で、私が『修正主義的護憲派』と呼ぶ人たち。」との記載について、認識を整理する必要がある。
 確かに「専守防衛」は「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」であるから、1972年(昭和47年)政府見解によって「我が国に対する急迫不正の侵害があること(我が国に対する武力攻撃が発生したこと)」を満たす中でしか「武力の行使」を行ってはならないため、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分で言えば「個別的自衛権」に該当する。しかし、逆に国際法上の「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」であるからといって、「専守防衛」となるわけではない。これは、「憲法の精神に則った」「武力の行使」の幅は、国際法上の「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」の幅よりも狭いからである。
 「修正主義的護憲派」との文言であるが、そもそも9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じた規定と考えた上で、それを「修正」し、「武力の行使」あるいは「実力行使」、「戦力」あるいは「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)〔自衛隊〕」の保持を認めるかのような意味付けとなっている点で、いくつか存在する立場を正確に分類したものとは言えない。そのように考えている者もいれば、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」や「戦力」の保持をもともと全面的に禁じたものではないと考える者もいる。また、確かに「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じているが、正当防衛に基づく「実力行使」や「戦力」に当たらない実力組織は保持が可能とする考え方もある。それらの立場を「修正」との文言の中に含め、一つのものとして分類することは正確でないし、「修正」している考え方に基づいているものであるか否かも詳しく検討する必要がある。
 「原理主義的護憲派」との文言についても、9条の解釈には「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じた規定であると考えるものから、そうでないものまでさまざまであり、9条を「原理主義」的に読もうとしたからといって、必ずしも「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に放棄した解釈にたどり着くわけでもない。
 このように、「修正主義的護憲派」や「原理主義的護憲派」との文言は、筆者には論者が批判したい対象となる立場をある程度特定することが可能であるが、まともな9条解釈から導き出される分類とは言い難く、政治的、政策的な主張であり、法解釈に基づくものとは言えない。


 「修正主義的護憲派はこれを追認している。」との記載があるが、先ほども述べたように、9条解釈にはいくつかの立場が存在しており、論者が「修正主義的護憲派」と表現したい立場についても、それは「修正」しているとは限らないし、単なる憲法遵守であって、「護憲派」に分類されるとは限らない。論者の言う「修正主義的」な解釈をする者であったとしても、「護憲派」とは限らず、「改憲派」かもしれないのである。
 論者の主張は、「政治論」、「憲法論(解釈論)」、「改憲論」のそれぞれを切り分けて論じておらず、Aのような「解釈論」を展開するものは「政治論」としてはBであり「改憲論」ではCである、との決め付け(レッテル)が存在し、それぞれの枠組みを区別した正確な分類を行っていない点で理解に粗さが見られる。論者の主張は総じて「憲法論(解釈論)」を細分化して正確に行っていないし、それらの解釈論を護憲・改憲という「改憲論」と因果関係なく結び付けようとしているし、自己の政治的立場を正当化するためにそれらを批判する「政治論」を行おうとするものとなっている。このような粗い理解に基づけば、論者の言う「反転可能性テスト」を通過するかを検証する以前に、前提が誤っているのであって、「反転可能性テスト」の合否を正確に判定することもできない。


 「歴代保守政権と内閣法制局」の解釈を「あからさまな解釈改憲です。」と説明しているが、9条の規定はそもそも「絶対平和主義」に基づく「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じたものであるとは限られておらず、いくつかの解釈方法が存在するのであり、解釈方法の一つでしかないものを前提としているわけではない「歴代保守政権と内閣法制局」の解釈を「あからさまな解釈改憲です。」と言うことはできない。論者は9条が「絶対平和主義」に基づく「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じたものと考える立場を唯一の解釈であるとする前提から批判を展開しようとしている点で、9条のいくつかある解釈の方法に対する正確な認識を欠いている。


   【参考】日本国憲法第9条(第9条の解釈上の問題) Wikipedia


 「これを戦力でないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない。」との記載があるが、理解を整理する必要がある。政府解釈によれば「自衛のための必要最小限度の実力を超えるもの」(旧三要件のための実力を超えるもの)を9条2項のいう「戦力」としており、単なる「戦力」と見えるから「戦力」であるなどという語感に基づいた解釈を行っているわけではない。論者の主張であれば、警察組織であっても「戦力」となるのであって、警察組織を有することは「詭弁以外の何物でもない。」ということとなってしまう。正当性の認識を要件に基づいて厳格に規制をかけようとするか、語感に基づいて規制をかけようとするかの論点であり、政府は語感によって解釈を行っているわけではない。
 自衛隊について「世界5指に入る5兆円超の年間予算と最新鋭のイージス艦やファントムジェットを備え、国際的評価機関によっても、非核保有国で韓国軍と並び最強とランク付けされる武装組織です。」とすることで「戦力」に該当すると考えるようであるが、自衛隊と警察組織とを予算によって区別できるわけではないし、警察ヘリコプターに銃火器を取り付けることも考えられないわけではないし、海上保安庁の船舶に強力なレーダーを備えさせることもあり得ない話ではない。外国には軍事組織だけでなく、準軍事組織も存在するなど、軍であるか、軍でないかについて明確性のある確実な基準が存在するわけでもない。それらは任務や権限、装備などを詳しく検討する必要があるのであって、「これを戦力でないと言い張るのは、詭弁以外の何物でもない。」と主張することは法解釈としては粗すぎる。


 「憲法解釈という点では、原理主義的護憲派が正しいのは明らかです。」についても、「戦力」の文言の語感によってレッテル貼りを行おうとする主張を正しいものと主張しようとしているだけであり、9条解釈を正確に論じたものとは言えない。


 「修正主義的護憲派は、専守枠内という自分たちの政治的立場に従った解釈改憲を是認している点で」との記載があるが、認識を整理する必要がある。「修正」の文字について、9条は「武力の行使」や「戦力」の保持を全面的に禁じていると解釈する前提があるとは限らないため、適切な分類ではない。また、「専守枠内」との文言についても、「専守防衛」という「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」についての意味であれば、特に「政治的立場」ではなく、単なる9条を有する憲法を遵守しているだけであり、解釈改憲ではない。そのため、9条を遵守しているのであり、侵犯していないし、96条の憲法改正規定を侵犯しているわけでもない。また、憲法を遵守しているのであるから、立憲主義を蹂躙しているわけでもない。


 「自分たちが解釈改憲に惑溺しながら、集団的自衛権行使を解禁した安倍政権の解釈改憲だけを違憲と批判している。」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定の内容を正確に理解していない誤りがある。
 まず、9条の解釈であるが、1972年(昭和47年)政府見解によれば、9条は「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らか」であり、9条を「修正」している立場にはないし、「解釈改憲」を行っている見解でもない。ただ、この見解は9条は「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」とも述べていることを押さえる必要がある。
 次に、「安倍政権の解釈改憲」であるが、これが非難されている理由は、2014年7月1日閣議決定が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分を維持しているとしながらも、実際には論理的整合性なく「存立危機事態」の要件を正当化しようとしている不正が存在するからである。これは、1972年(昭和47年)政府見解の中に「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が存在し、これが「我が国に対する武力攻撃」を意味するにもかかわらず、2014年7月1日閣議決定では「存立危機事態」の要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張するものであり、解釈手続き上の不正である。「安倍政権の解釈改憲」が非難されているのは、この点であり、1972年(昭和47年)政府見解の当否の問題とは次元を異にする。論者はこの点の違いを理解しておらず、どちらも「解釈改憲」と考えている点で9条解釈の過程を正確に理解していない。
 「これはあからさまなダブルスタンダードで、公正な政治的競争のルールに反し、二重の意味で立憲主義を蹂躙しています。」との記載もあるが、誤りである。論者は9条解釈の過程を正確に理解しておらず、その表層のみを見ていることによる誤解がある。1972年(昭和47年)政府見解は9条を「修正」しているわけではないし、「解釈改憲」でもない。それに対して、2014年7月1日閣議決定には、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言が「我が国に対する武力攻撃」を意味するにもかかわらず、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」もここに含まれると主張する解釈手続き上の不正が存在する。言い換えると、1972年(昭和47年)政府見解は単にいくつかある9条解釈の一つを示したものであるが、2014年7月1日閣議決定は1972年(昭和47年)政府見解の文言の意味を不正に読み替える作業が行われており、これにより9条の枠を超えているのである。この両者は、次元を異にする話であり、1972年(昭和47年)政府見解を肯定して2014年7月1日閣議決定を否定したとしても、「あからさまなダブルスタンダード」には該当しない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解を妥当な解釈と考えながら、「安倍政権の解釈改憲」を非難する立場は、「公正な政治的競争のルール」に反するわけではないし、「二重の意味で立憲主義を蹂躙」することにもならない。「安倍政権の解釈改憲」が立憲主義に反する理由は、いくつかある9条解釈の一つである1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の文言の意味を不正に読み替えて、本来ならば当てはまるはずのない「存立危機事態」の要件がその「基本的な論理」と称している部分に当てはまると主張しているところにある。論者は未だにこの点を理解できていないようである。


【動画】【スクープ!】追加有_「集団的自衛権行使容認の閣議決定」が覆る決定的根拠! 「昭和47年政府見解」の知られざる真実を小西洋之議員が暴露!! 2015/05/21

【参考】解釈変更の合憲の論拠が科学ではないことの証明 PDF



    【2ページ目】


 「合憲論の憲法学者からは、自衛隊はポジティヴリストで運用される準警察組織だから軍隊ではない、つまり戦力にあたらないという説明もあります。」との記載があるが、これは9条が「武力の行使」と「戦力」を全面的に放棄しているが、警察力による刑法上の「正当防衛」に基づく「実力行使」を禁じたものではないと考える解釈である。
 この説に対して、確かに自衛隊法「88条1項は『出動を命じられた自衛隊は、わが国を防衛するため、必要な武力を行使することができる』」と定めているため、9条1項の「武力の行使」の文言と重なる部分が確認できる。しかし、この点は認識を整理する必要がある。まず、たとえ日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」がなされても、9条1項の「国際紛争を解決する手段として」の「武力の行使」でなければ、違憲とならない考え方がある。また、9条1項がいかなる「武力の行使」についても「国際紛争を解決する手段」であると考えて、すべての「武力の行使」を禁じていたとしても、日本国の領域内で行使される「武力の行使」については刑法上の「正当防衛」に基づく「実力行使」であり、9条のいう「武力の行使」に該当しないという考え方もある。また、日本国の領域内での活動については、警察権の範囲内であり、9条のいう国際関係上の「武力の行使」に当たらないとする考え方もある。さらに、自衛隊法88条1項の「必要な武力を行使すること」についても、結局は「武器の使用」によって「武力の行使」がなされることとなるものと思われる。よって、文言上自衛隊法88条1項で「必要な武力を行使すること」と表現されていたとしても、その実質を治安出動の「武器の使用」の文言と殊更に区別することはできないと思われる。他にも、自衛隊の「武力の行使」は三要件(旧)によって制約され、その要件は刑法上の正当防衛と同様のものであり、その実質が文言のみによって9条に抵触するとは直ちに考えられるわけではない。(新三要件については、これらの範囲を明らかに超えているため、違憲と考えられる。)


 論者が「13条代用論」と呼んでいる「自衛隊が専守枠内でも9条2項が禁じる戦力の保有・行使にあたることを認めながら、『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』を定めた憲法13条が、その禁止を専守枠内で例外的に解除している」との立場であるが、正確な認識ではない。まず、「専守枠内」とは「専守防衛」の意味と思われるが、「専守防衛」は「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」をいうから、憲法解釈が定まらない限りは「専守防衛」であるか否かは判定できないのであり、「専守枠内でも9条2項が禁じる……」のように、「専守防衛」の定義を基にして憲法解釈を行おうとすることはできない。そのため、ここで「専守枠内」などという文言を持ち出してはならない。


 「戦力という最も危険な国家暴力に対する9条2項の明示的な禁止を、それについて何ら言及していない人権規定に勝手に読み込んで解除するなんて、法解釈の枠を越えた暴論であり、立憲主義の公然たる破壊行為です。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、13条の趣旨を生かす解釈には、①9条が全面的に禁じている上で13条の規定が例外を枠づけているという考え方と、②9条はもともと13条の規定の趣旨まで禁じていないという考え方の、2つの読み方がある。


【参考】自衛隊は「自衛のための最低限度の実力」  2018年1月25日
【参考】もし「自衛権」を国民投票にかけたらどうなるか? 2017年7月19日 


 ①の立場については、人権規定である13条の効力が及ぶのは、一般に憲法の効力が及ぶ日本国の領域内に限られることから、「日本国の領域に対する武力攻撃」が発生した場合にはそれを排除するための「武力の行使」を日本国の行政権が及ぶ日本国の領域内に限って例外的に「武力の行使」が可能であり、そのための実力組織(それを『戦力』と呼ぼうとも)は合憲となるとする考え方と思われる。
 ②の立場については、1972年(昭和47年)政府見解の立場であり、9条はもともと「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していない」のであり、「自衛のための措置を無制限に認めているとは解されない」が、「自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。」として、「我が国に対する急迫不正の侵害」が発生した場合に、それを排除するための「武力の行使」が可能であり、そのための「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」は合憲となるとする考え方である。
 ただ、2014年7月1日閣議決定は、②の立場の1972年(昭和47年)政府見解を指しながら、「これが、憲法第9条の下で例外的に許容される『武力の行使』について、従来から政府が一貫して表明してきた見解の根幹、いわば基本的な論理であり、昭和47年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料『集団的自衛権と憲法との関係』に明確に示されているところである。」として、「例外的に」の文言を用いており、①の9条で禁じた部分の「例外」とする考え方に寄っている。政府もこの両者を明確に区別していないと思われる。
 論者は「戦力という最も危険な国家暴力に対する9条2項の明示的な禁止を、それについて何ら言及していない人権規定に勝手に読み込んで解除するなんて、法解釈の枠を越えた暴論」と主張しているが、刑法199条は「殺人」を明示的に禁止しているが、刑法36条が「正当防衛」を定めていることと同一の法哲学に基づくことを読み取れていないように思われる。「正当防衛」の要件は、「急迫不正の侵害に対して、自己又は他人の権利を防衛するため、やむを得ずにした行為」であり、「自己又は他人の権利を防衛するため」という人権規定の趣旨が含まれている。これは当然、13条の「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利」の趣旨が読み込まれているものである。また、刑法という法典が人々の「殺人する自由」を制約することが許されるのは、他者の人権との調整の上に成り立つ「公共の福祉」による制約と考えられる。

 憲法学者「石川健治」も、刑法に「人を殺していい」という規定は不要であり、「戦力」の保持についても同様に考えることができると述べている。

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この例外というのは常にあるわけですね。
たとえば人を殺したら殺人罪なんですけれども、その例外として、正当防衛の場合は違法でない。少なくとも処罰はされないということになっています。
そうやって、この例外をつくる論理というのがあって、その例外をつくる論理によって自衛隊を正当化していると。
だから逆にいうと、「正当防衛の場合には人を殺していい」という規定はいらないわけですね。
「人を殺したるものはこれこれの刑に処す」という条文だけで足りるわけで、それを、その例外の論理によって正当化すると、そういうことをやってきたと、こういう話であるわけです。
ですから、現在はあくまで例外としておかれている。例外であるということによってコントロールされているということ、これをまあ考えていただきたいわけですね。
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自衛隊を憲法に書き加えるとどうなるのか? 石川健治さんの講演 文字起こしテキスト 2018年1月7日 (下線は筆者) 


 「それについて何ら言及していない人権規定に勝手に読み込んで解除するなんて、法解釈の枠を越えた暴論」との記載についても、憲法は人権保障のための法であり(97条)、人権規定を読み込まない解釈は憲法解釈とはいえない。むしろ人権規定を無視して法体系の整合性も無視した上で、一つの条文の文言のみに捉われることは、法解釈の名に値しない暴論である。
 砂川判決においても、前文で日本国民が「国際社会において、名誉ある地位を占める」と願い、「全世界の国民」と同様に日本国民も「平和のうちに生存する権利」を有していると考えることから、日本国民が「名誉ある地位を占める」や「生存する」ことを達成することが予定されているのであって、「無防備、無抵抗」を貫くことで「名誉ある地位を占める」ことができなくなったり、「生存する」ことを達成できなくなることは、憲法解釈として妥当性を欠くことを示している。砂川判決は日本国の『権限』による「武力の行使」の可否については述べていないが、各規定の整合的な解釈を行おうしていることは確認できる。
 「立憲主義の公然たる破壊行為です。」との記載についても、これらの憲法規定を整合的に解釈する行為は「立憲主義の公然たる破壊行為」とは言えない。
 論者の主張は、9条が「武力の行使」や「戦力」の保持を一切禁じているとする解釈のみを正当なものと考えた上に、9条の規定が定められた趣旨を生かしながら他の規定と共に整合的な解釈を行おうとすることを意図的に怠り、それによって自らの「9条削除論」に読者を引き込もうとする政治的な姿勢が含まれているように思われる。この点は、9条解釈の当否を丁寧に考えるものとはなっていないため、「改憲論」あるいは「政治論」としては意味があるとしても、前提となっている9条の「解釈論(憲法論)」としては多くの誤り、あるいは欺瞞が存在する。


 「言論暴力ともいうべきこんな暴論で、憲法9条が禁止している戦力を解禁するのは、憲法学者による『無血限定クーデタ』の試みと言ってもいい。」との記載があるが、9条解釈のいくつかの立場を正確に押さえていない主張となっている。
 まず、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては」の文言を、2項の「前項の目的を達するため、」の文言によって引き継ぎ、「自衛のための戦力」を保持できるとする「芦田修正説」の読み方が存在する。
 次に、9条は「戦力」の一切を禁じているが、13条の趣旨より例外的に「戦力」を保持できるとする説がある。
 三つ目に、政府見解のように「戦力」を保持することは一切できないが、13条の趣旨から「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の保持が可能であることが裏付けられるとする説もある。
 ただ、先ほども、①9条の制約を13条が例外的に解除するとの読み方か、②9条はもともと13条の趣旨を制約していないとの読み方か、については政府も正確に区別していない。また、政府の三要件(旧)に基づく「武力の行使」を行う「実力組織」については、それを「芦田修正説」を採用した「自衛のための戦力」と呼ぼうと、2項の「戦力」に該当しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と呼ぼうと、結局三要件(旧)に拘束されているという実質的な限界は変わらないものである。よって、これらの解釈方法については、普通の法解釈から導き出される結論であり、「言論暴力」とは言えないし、「『無血限定クーデタ』の試み」とも言えない。


 「13条の人権規定で9条が禁止する戦力が解禁されるというなら、専守枠内どころか安倍政権の集団的自衛権行使だって容認されてしまう。」との記載であるが、誤りである。先ほども述べたように、「安倍政権の集団的自衛権行使」には、9条と前文「平和的生存権」、13条の趣旨を整合的に解釈した1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に「存立危機事態」の要件は論理的に当てはまらないにもかかわらず、当てはまると主張している解釈手続き上の不正が存在する。「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分に当てはまらないということは、その「武力の行使」は憲法の枠から外れていることを意味し、違憲となるのである。9条の制約と13条の趣旨の整合的な解釈によって、「安倍政権の集団的自衛権行使」である「存立危機事態」による「武力の行使」が「容認されてしまう」ことはない。また、新三要件の「存立危機事態」での「武力の行使」については、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であり、13条の「国民の権利」では説明できないし、13条の保障が日本国の領域内に及んでいるという趣旨によっては正当化することができない部分が存在する。よって、「存立危機事態」の要件が1972年(昭和47年)政府見解の文面上の文言に当てはまるか否かという論点を使用しなくとも、9条に直接抵触して違憲であることは明らかである。
 「自衛隊法76条は、1項2号で『国民の生命、自由、及び幸福追求の権利』という憲法13条の文言をコピーして集団的自衛権行使を解禁している。」との部分についても、誤りがある。9条に抵触して違憲となる部分とは、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」に基づく「武力の行使」が「他国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」であるところにある。たとえ「存立危機事態」の要件の中に「国民の生命、自由、及び幸福追求の権利」の文言が存在したとしても、「他国に対する武力攻撃(第一要件)」を「排除(第二要件)」するための「武力の行使」に対して、13条の趣旨である「国民の生命、自由、及び幸福追求の権利」を援用することはできないのである。
 「木村氏は、13条で戦力を解禁するという暴論を振り回しながら、専守枠内に限ると主張し、同じ暴論で集団的自衛権行使も解禁する安倍政権を批判していますが、」との記載があるが、憲法学者「木村草太」は13条が及ぶ範囲は日本国の行政権の及ぶ日本国の領域内と考えていると思われ、「集団的自衛権行使」としての「武力の行使」は「我が国に対する武力攻撃」の『着手』がない中で「武力の行使」をするものであるから、13条で正当化することはできないと述べていると思われる。そのため、「木村草太」の13条の説明によって「集団的自衛権行使も解禁する安倍政権を批判」することは論理的に可能であり、不自然ではない。論者が「木村草太」のこの主張を屁理屈と表現して批判する思考の中には、13条の「国民の権利」があたかも日本国外の外国人あるいは外国の領域にまで及ぶと考える誤りや、13条が存在すればあたかも9条そのものの趣旨を完全に無効化し、無制限の「武力の行使」が可能となるかのように考える飛躍がある。下品な比喩を行う前に、議論されている9条解釈の内容を正確に理解することから始める必要があるだろう。


   【参考】憲法改正の論点詳しく 木村草太さん(首都大学東京)講演 9条と自衛隊 解説 2019/9/6

 「この論を用いれば、専守枠内なら9条が禁止した戦力の保有・行使が解禁されますから、従来の修正主義的護憲派が最後の一線としていた『自衛隊は戦力ではない、フルスペックの軍隊になることは絶対に認められない』という封印すらも破っていることになる。」との記載があるが、論者の誤った前提により誤った理解によって論じるものとなっている。
 まず、「専守枠内なら9条が禁止した戦力の保有・行使が解禁されますから、」の部分であるが、「専守枠内」とは「専守防衛」の意味と思われるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことであり、憲法解釈が確定しなければ、「専守防衛」の範囲を確定することができない。そのため、「専守枠内なら9条が…」のように、「専守防衛」の定義から憲法解釈の範囲を確定しようとする論じ方は適切ではない。
 次に「修正主義的護憲派」であるが、9条解釈はいくつか存在し、「自衛隊は戦力ではない」の立場が9条を「修正」する解釈を行っているとは限らないし、その解釈を行う者が必ず「護憲派」であるとは限らない。そのため、9条を「修正」する解釈をしながら「護憲派」に分類され、かつ「自衛隊は戦力ではない」との主張をする者が存在したとしても、そうではない立場も存在するのであり、「13条代用論」と直接的な関係がない。
 「フルスペックの軍隊」との意味であるが、通常国家は「軍隊」そのものは一般に無制限に保持することが可能であり、「フルスペック」か否かという議論が存在していない(個別に軍縮条約を結ぶ場合はある)。「フルスペック」との文言は、国連憲章51条の「集団的自衛権」や「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」を最大限に行うことができるか否かに関する議論で、国連憲章51条の「自衛権」で許された範囲の限界まで行使する場合を「フルスペック」と呼んでいるだけである。また、「自衛隊は戦力ではない」との議論についても、政府解釈の「自衛のための必要最小限度」という「武力の行使」の三要件(旧)に拘束される実力組織であることから、憲法9条2項前段のいう「戦力」に該当しないとするものである。論者が「13条代用論」と呼んでいる解釈を採用しても、この三要件(旧)の範囲から離れる解釈とはならないため、9条2項前段の「戦力」の「封印すらも破っている」ということにはならない。
 「『13条代用論』は、安倍政権よりひどい解釈改憲をやっていることになる。」との記載があるが、論者が「13条代用論」と呼んでいる解釈方法によっても、「武力の行使」の三要件(旧)の範囲から離れる解釈となることはないし、この解釈方法は国際法上の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」の両方を他国と同様の形で行使できるとするものでもない。重ねて指摘するが、「フルスペックの軍隊」という概念は存在しないし、議論にも出ていない。「13条代用論」と呼んでいる解釈方法でも、「集団的自衛権の行使」を正当化することはできないのであるから、論者の言いたいであろう「フルスペックの軍隊」という存在にもならない。また、「解釈改憲」をやっているわけではない。


 その後、「護憲派」を批判しようとするが、9条の「解釈論」と9条の「改憲論」は性質が異なるのであり、ある特定の解釈をしている者を「護憲派」であると決めつけてかかる議論は、単なる「政治論」としての主張であり、法解釈とは言えない。


 「護憲派」について、「9条を完全に死文化させる理論でもお構いなし」との記載があるが、論者が「13条代用論」と呼んでいる解釈については「9条を完全に死文化させる理論」とは言えないし、その解釈を行うものが必ず「護憲派」であるとも言えない。この点の区別をしないままに論じることは、学問上求められる法解釈のレベルに達しておらず、政治的主張に過ぎない。

 「護憲派が実は憲法破壊勢力にすぎないことが歴然と暴露されている。」との記載についても、論者が「13条代用論」と呼んでいるものや1972年(昭和47年)政府見解は、特に憲法を破壊する解釈ではない。また、この解釈を行う者が「護憲派」であるとは限らないし、「護憲派」がこの解釈を守ろうとしても、整合的な法解釈と言えるから「憲法破壊勢力」とも言えない。よって、「歴然と暴露されている」のは論者の誤解だけである。



    【3ページ目】


 「9条がもはや自衛隊・安保の肥大化抑止機能をもっていないことはすでに触れました。」との記載があるが、9条は論者の「9条削除論」や「戦力」を認める改憲の方法よりは「自衛隊・安保の肥大化防止機能」を持っていると考えられる。確かに、他により良い方法が見いだせるのであれば、その目的を達成するために改憲することも考えられるが、論者はもともと9条解釈を正確に行うことができておらず、9条の規定の機能も正確に認識できていない部分があるため、「9条がもはや自衛隊・安保の肥大化抑止機能をもっていない」との評価は誤解に基づく主張と思われる。


 「彼らは『護憲派』を称しているけれど、実際には自衛隊に永遠に違憲の烙印を押し続けることで、違憲状態を固定化しようとしている。これは憲法の規範性に対する最大の侮辱で、立憲主義を堀り崩すものです。」との記載がある。しかし、実は砂川判決についても、これと類似した立場を採用している。砂川判決は「アメリカ合衆国軍隊の駐留」が憲法に抵触するか否かが争われたものであるが、一度9条2項の「戦力には該当しないと解すべき」としながらも、後に「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当」として法的判断を行っていないのである。


砂川判決(抜粋) (当サイトのリンクでは『砂川判決に論拠はあるか』『砂川判決を読む』へ)
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同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。
(略)
それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする
(略)
 果してしからば、かようなアメリカ合衆国軍隊の駐留は、憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に適合こそすれ、これらの条章に反して違憲無効であることが一見極めて明白であるとは、到底認められない。
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 よって、論者のいう「原理主義的護憲派」は、砂川判決が「アメリカ合衆国軍隊の駐留」について「終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当」と考え、「政治的批判」によって「永遠に違憲の烙印を押し続けること」を許容していることと同様に、恐らく「自衛隊」についても「政治的批判」を行っていく立場と思われる。
 論者は合憲・違憲について明確な法的判断を行わないことについて「これは憲法の規範性に対する最大の侮辱で、立憲主義を堀り崩すものです。」と考えているようであるが、確かに砂川判決においても、判決文のこのような姿勢を「裁判官小谷勝重の意見」の部分で「わが新憲法が指向する力よりも法の支配による民主的平和的国家の存立理念と、右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命とに甚だしく背馳するものであることは明らかである。」と厳しく批判している。
 ただ、「軍隊の駐留」という事柄の性質上、たとえ法的に「合憲」であることが明らかであったとしても、「合憲」であることを積極的に示すことは、却って前文「平和主義」の理念や9条の精神を損なわせる結果に繋がることが考えられる。「他国の軍隊の駐留」が合憲であるからといって無制限の軍拡が行われることを「平和主義」を理念とする憲法の精神が積極的に許容しているとは考えられないし、「他国の軍隊」の指揮権・管理権を利用することによって9条の制約を回避する道を開こうとするなど「平和主義」の理念を潜脱させる試みを助長することとなってもいけないのである。このような積極的に「合憲」であるとのお墨付きを与えてしまうことによって起こり得る、負の作用も考慮に入れる必要があるということである。この「アメリカ合衆国軍隊の駐留」について、裁判所が敢えて法的判断を控え、「主権を有する国民の政治的批判に委ね」ることによって前文「平和主義」の理念や9条の精神を実現しようとしたことは妥当な判断であると考えることができる。
 同様に、「自衛隊」についても、事柄の性質が「武力の行使」や実力組織に関わることであるから、たとえ三要件(旧)に基づく「武力の行使」とそのための「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」である「自衛隊」について、法的には「合憲」と解されるとしても、「主権を有する国民の政治的批判に委ね」ることによって前文「平和主義」の理念や9条の精神を実現しようとする試みは立憲主義の観点からも妥当であり、砂川判決から見ても正当化することができる。
 (ただ、『存立危機事態』での『武力の行使』については1972年〔昭和47年〕政府見解で説明できないし、9条1項に抵触すると考えられる。また、それを行使する実力組織についても2項前段の『戦力』に該当して違憲となる。これについては整合的な憲法解釈の枠組みからは『合憲』とは言えず、一応『合憲』であることを前提としながらも『主権を有する国民の政治的批判に委ね』ていくということが適切な事例ではないため、法的判断を行うべきものに当たる。)


 「一切の戦力の保有・行使を明示的に禁じる憲法9条は、首尾一貫した形で理解しようとするなら、絶対平和主義の思想に依拠していると言うしかありません。」との記載があるが、それはいくつかある9条解釈の一例でしかなく、9条が「一切の戦力の保有・行使を明示的に禁じ」ているとは限らないし、「絶対平和主義の思想に依拠していると言うしかありません。」とも言えない。ただ、9条が前文「平和主義」の理念を具体化した規定であることは確かである。9条解釈においては、この趣旨を読み込む必要がある。


 「だからといって一般の護憲派のように、9条を解釈改憲や違憲事態固定化論で空文化させるのは立憲主義に反します。」との記載があるが、9条解釈に関して論者が「13条代用論」と呼んでいるものや1972年(昭和47年)政府見解の解釈は「解釈改憲」ではない。また、「違憲事態固定化論」についても、砂川判決が「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」として、「主権を有する国民の政治的批判に委ね」られるべきものと考える趣旨からは、「空文化させる」というよりも、むしろ前文「平和主義」の理念や9条の精神を実現させる趣旨に沿うのであって、「立憲主義」に反しない。



    【4ページ目】


 「法の支配、立憲主義の統制に最も服せしめなければならない危険な戦力が野放しになっているのです。」との記載があるが、日本国は政府解釈によれば「戦力」を有していないのであり、「戦力」は野放しになっていない。「戦力」に該当しない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)〔自衛隊〕」については、法律によって定められており、やはり野放しになっているわけではない。問題となるのは、法律が違憲であったり、法律が「武装組織の編成や行使の手続きと方法を限定し」「濫用を抑えるための規定」となっていない場合である。実力組織を制約するための規定を憲法規定とすることが必須というわけでもなく、憲法上の規定であるか、法律上の規定であるかは特に関係がない。


 「9条により、『交戦』しない建前になっているがゆえに、交戦行動を律する軍事刑法と軍事司法システムを整備することができないからです。」との記載があるが、政府は9条2項後段が「交戦権」を禁じていても、「自衛行動権」に基づく「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の「武力の行使」は可能と解しており、論者がここで言おうとしている意味での「『交戦』しない建前」と解釈しているわけではない。「交戦行動を律する軍事刑法と軍事司法システムを整備することができない」との記載についても、行政権の下での「自衛行動権」を刑法によって司法権に基づく裁判所で裁くことは可能であり、これを「整備することができない」わけではない。
 「自衛隊の武力行使を統制する国内法システムがないから」についてであるが、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」での88条の「武力の行使」については違憲であり、要件も曖昧不明確であり、ここに不備があることは確かである。



    【5ページ目】


 「9条2項を改正して専守防衛に限った戦力をきちんと認知したうえで、」との記載があるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」のことであり、9条2項を改正したならば、現在の憲法の枠組みが失われることから、現在の意味の「専守防衛」の枠組みもなくなる。そのため、9条2項を改正しながら「専守防衛」に限ったとの論理は正確には意味が通じない。


 「憲法が定めるべきものは戦力統制規範だ」との記載があるが、憲法ではなく法律によって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)統制規範」をつくっていることとどのように異なるのか正確に論じる必要がある。論者は憲法規定であることと、法律規定であることの違いを詳細に描き出していない。これにより、実力組織を「戦力」と呼びたいのか、「自衛のための必要最小限度の実力」と呼ぶかの問題に収束するものとなっており、その実質的な権限や態様にどのような違いがあるかを示すことができていない。9条が「自衛のための必要最小限度の実力」を許容しているに留まるとする現在の政府解釈の方が、制限的な意図を発揮しており、統制規範として有効に機能としていると考えられる。単に「安倍政権の解釈改憲」、つまり「安倍政権の集団的自衛権行使」が行われた2014年7月1日閣議決定で行われた解釈手続きの文面上の不正によって、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の範囲から逸脱した点が非難されるべきなのであって、憲法上に「戦力」を位置づけ「戦力統制規範」とする必要はない。
 「戦力統制規範は、絶対に憲法に明確に書き込まなければならない。」との記載があるが、論者は法律によって「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)統制規範」をつくることとどのような違いがあるのか示すことができていない。現在の9条解釈の下で「戦力」ではない「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を認めるにとどまるとする解釈の方が、統制規範として有効に機能すると考えられる。安倍政権によって「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」が定められたことは、2014年7月1日閣議決定の解釈手続き上の不正であって、単にこの点が非難されるべきであって、「戦力」を憲法規定として定めていないためにこれを統制できなかったというわけではない。また、2014年7月1日閣議決定のような文面上の解釈手続きの不正については、憲法解釈上の不正であることから、たとえ「戦力」を憲法に位置づけたところで、その「戦力」の行使に関する憲法解釈を不正に変更することも同様に可能なままなのであって、2014年7月1日閣議決定で行われた不正な法解釈を防ぐことができる機能を発揮するわけでもない。そのため、「戦力」を憲法に位置づけたところで、「集団的自衛権の行使」としての「存立危機事態」での「武力の行使」を制約する規範として機能するわけでもないのである。


 「9条があるために、戦力統制規範という戦力を閉じ込める『檻』が憲法にはない。」との記載があるが、そもそも政府解釈によれば9条によって「戦力」を保持することができないのであり、憲法上に「戦力統制規範」が存在しないことは当然である。憲法上存在するのは、国家権力を三権に分立し、相互の抑制・均衡を定めることによって、個々の権力機関が暴走しないための仕組みである。9条2項前段によって「戦力」の保持ができないからこそ、実力組織は「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の範囲にとどまる必要があり、その「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)統制規範」は法律によって定められている。論者は憲法の権力分立の構想と、実力組織に対する「統制規範」とを区別して考えることができていないように思われる。権力分立の構想は憲法規定でしか実現できないのに対して、実力組織の「統制規範」については、法律でも対応可能である。「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を閉じ込める「檻」が法律規定によって作成可能なのであれば、「憲法にはない。」ことは特に問題とはならない。


 「自衛隊は戦力ではない、つまり『我々が飼っているのはライオンではなく、人を嚙まない優しい猫なんですよ』という噓を言い続け、憲法に『檻』を設置する必要はないと言いふらしている。」との記載があるが、誤りである。9条が存在しなかった場合にも「戦力」を法律規定によって統制することは可能であり、憲法規定としなければならないわけでもない。9条が存在している場合には政府解釈によれば「戦力」の保持は不可能であるが、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」を法律規定によって統制することは同様に可能である。そのため、たとえ「ライオン」であろうと「猫」であろうと、「憲法に『檻』を設置する必要はない」のであり、「言いふらしている」としても害はない。むしろ、9条が存在しなかった場合に、「戦力」を統制する規範が憲法規定でなければならないとする論拠が示されていないにもかかわらず、「戦力統制規範」を憲法規定として位置付けなければならないとの主張を「言いふらしている」ことには問題があると考える。


 「彼らは、戦力という危険な猛獣が野放しになっている日本の現実を隠蔽する言霊を飛びめぐらせているばかりか、この現実を指摘して猛獣をしっかりと『檻』に入れることを主張する立憲的改憲案を潰そうとしている。」との記載があるが、政府解釈によれば日本国は「戦力」を有していないし、「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」が「危険な猛獣」であったとしても、法律規定が存在するため「野放しになっている」わけでもない。法律規定によって「猛獣をしっかりと『檻』に入れ」ることは可能であり、従来より政府はそれを行ってきた。しかし、2014年7月1日閣議決定については、1972年(昭和47年)政府見解が示した「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言の意味を不正に読み替える手続き上の不正があり、これは憲法規範の問題ではなく、解釈手続き上の不正の問題である。このような憲法解釈上の不正については、たとえ憲法上に「戦力」を位置づけ、統制規範を組み込んだとしても、その憲法規定を不正に解釈することで同様の問題は起こり得るのであり、2014年7月1日閣議決定で起きた問題を防ぐ提案とはなっていない。「立憲的改憲」の基本構想については立憲主義の観点から理解することができるが、「戦力統制規範」を組み込んだところで2014年7月1日閣議決定で行われた解釈手続きの不正を防ぐことはできないし、憲法規定として「戦力統制規範」を組み込まなければならないとする必然性が見いだせない点で、具体化に不備が見られる。むしろ、現行憲法の9条と、その解釈である1972年(昭和47年)政府見解を適正な手続きによって維持することこそが、現状においては「立憲的」である。「立憲的改憲」と対比すれば、「立憲的護憲」とでも言うものである。現在の「立憲的改憲」の構想が実現しようとする趣旨は、「立憲的護憲」によって達成可能であるし、むしろより本質的である。2014年7月1日閣議決定の解釈手続き上の不正を追及するためには、行政権の適正手続きを担保する規定の創設、適正手続きに関する法律、憲法訴訟法の整備などを考えることができる。詳しくは、当サイト「規範力の復元」へ。


 付け加えるが、当サイトは日本国の統治権の『権限』よる「武力の行使」を国際法上の「集団的自衛権の行使」に該当する範囲にまで広げるか、あるいはそれ以上の範囲まで広げるか、また、実力組織をどのような形とするかという政策論上の当否について述べるつもりはない。あくまで現在の9条の機能や効力を憲法論(法律論・解釈論)として示したつもりである。



 


立憲主義という企て 井上達夫 2019/5/31 amazon


 こちらの書籍の9条関係の部分は、上記で指摘した部分と内容が重なっており、同様の論拠の不備が見られる。



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井上達夫(法哲学):9条の規定を一切の「武力の行使」を禁じ、「戦力」を不保持とした規定のインパクトをそのまま読み解くことで、実力組織の存在を違憲とする説である。

 しかし、警察組織や海上保安庁、警察予備隊、保安隊、自衛隊の間に明確な線引きをすることができず、同じ行政権として活動しているのにもかかわらず、殊更に自衛隊だけを違憲と明確に判定できる論拠が十分にあるのか疑問である。

 また、この説を採るならば、民法上の自力救済が一定の範囲で認められるという例外的な場合があることも説明できないこととなる。簡潔な規定を求めたい気持ちは理解できるが、すべての法がそのように運用されているわけではないと考える。


憲法と安全保障を問う 対談 井上達夫・東京大大学院教授、木村草太・首都大学東京教授 2016年5月3日

ウーマン村本よ、国民を「愚民視」しているのは誰か

「失政を修正していく責任が自分たちにある」井上達夫教授 退職記念インタビュー【前編】 2020年3月30日



<理解の補強>

【動画】立憲政治とは何か 杉田敦  立憲デモクラシー講座➁ 2018/03/07

【動画】立憲主義と9条② 民主化と立憲化のコントラロール 石川健治 立憲デモクラシー講座⑤ 2018/03/02

(軍事に関する事柄を民主主義の多数決に任せるだけでなく立憲主義によって制限する視点について詳しい)
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伊勢崎賢治

 「伊勢崎賢治」の論旨を確認する。


【動画】プライムニュース 2018年9月28日

【動画】『日本の「将来」を問う 安倍政権の向かう先は』【前編】 2018/09/28

 

 まず、英語から憲法を読み解こうとする発想であるが、日本国憲法は日本語の憲法として効力を有する法形式である。英語からそれを読み解こうとすることは、そもそも「日本国憲法」そのものではないものを根拠として議論を展開しようとするものであり、意味が通じない。日本国憲法の原文は日本語なのである。この日本語の意味に合わせて英語をどのように訳しているかというのは、翻訳家の言語表現上の選択によるものであり、根拠にはならないのである。


 次に、「国際法上では通じない」との論旨であるが、そもそも日本国憲法の法秩序と、国際法の法秩序では法分野が異なる。それを同一の法秩序として読み解こうとする発想に、法学の基礎を理解していない誤解がある。


 国際法は、日本国憲法のような国民主権原理によって成り立つ法形式ではなく、政府と政府の間の合意によって成り立つ法形式である。法源が異なるのである。それを、国際法があたかも上位規定であり、日本国憲法が国際法に合わないとの理由で日本国憲法の法解釈を確定させようとする発想自体が、誤りである。

(動画35:10より 伊勢崎健治の改憲案)

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9条 (略)
2項 日本の領海領空領土内に限定した迎撃力を持つ

その行使は国際人道法に則った特別法で厳格に統制される

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 2項を削除すれば法律規定で軍事的な「迎撃力」を保有することは可能であり(現在の自衛隊法でも自衛のための必要最小限度の範囲で可能であるが)、この規定を憲法規定とする必要性がない。内容自体も、憲法の人権保障としての法典の形式からも逸れた内容である。

 「国際人道法」とは、国家間の条約によって成り立つ法形式であり、国際人道法そのものが改正されたり、廃止されたり、他国によって破棄されたりする可能性のあるものである。そのため、憲法に「皇室典範の定めるところにより(2条)」や「内閣は、法律の定めるところにより(66条)」と定められているものとは性質が異なる。自国の意思だけで定めることのできない法形式だからである。これを自国の憲法上に規定することは、自国の統治権の行使の範囲を確定する作業について、他国からの干渉を許すこととなり、主権(最高独立性)を損なう。また、国際人道法が破棄された際に、憲法規定が無効化されることにもなる。この発想は、そもそも国際法と国内法の法秩序の区分けを弁えていないことから生まれたものであるということができる。


 「2項は国際法と齟齬があるから変えなくてはいけない」との発言もあるが、そもそも国際法と憲法との法秩序が違うのであるから、それぞれの法体系から評価が異なることは当然であり、齟齬があっても変えなくてはならないとの論理には繋がらない。2項改正以前に、論者は「国際法・国内法の一元論」を唱えていることを自覚するべきである。その上で、国際法・国内法の一元論としての法体系を採用するならば、確かに齟齬があってはいけないのであるが、現在の法秩序の運用ではそれぞれ別の法秩序として扱っているのであるから、この論旨は通じないのである。

 分かりやすい例で言えば、罪を犯したときに、「刑事責任」と「民事責任」では違法性の評価が異なることである。国際法と国内法でも評価は異なるのであり、同一にしなければならないという発想自体が法体系を理解していない者の発想なのである。国際法と国内法を一元論で解釈する論理を確立したいのであれば、新たな学問分野を構築されることをお勧めする。


   【参考】(5)国際法と国内法 2015-05-20


   【参考】国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律について 防衛省・自衛隊
   【参考】国際人道法の重大な違反行為の処罰に関する法律 e-gov



伊勢崎賢治 Twitter


 「戦争犯罪」を裁くのは国際法による国際刑事裁判所などの国際機関であり、日本国の裁判所ではないと考える。日本国の裁判所は日本国憲法やその他の法令、批准した条約に違反するか否かによって裁くのであり、国際法に基づいて国際犯罪や戦争犯罪を裁く機関ではないからである。
 憲法9条2項後段の「交戦権」の解釈であるが、翻訳では「rights of belligerency」となっているため『権利(right)』のように思われるが、政府解釈では『権利(right)』と『権能(power)』の文字の両方が混同して用いられている。ここは政府も理解が十分でない点と思われるが、「交戦権」の文言について、筆者は国民主権原理を背景とした憲法上の統治権に対する制約であることから考えて『権力・権限・権能(power)』の意味で解釈することが妥当と考えている。

 よって、「交戦権」の文言が国際法を制約していると解することは妥当でなく、日本国に対する国際法の適用が不能になっているとは思われない。




日本人の歪んだ「人権」感覚…護憲派も法曹界もその理解で大丈夫? 2019.9.23


    【2ページ目】


 まず、関係弁護士のお一人の口から出た言葉について、説明する。

 「9条が許す自衛権の行使は、13条の幸福追求権に限定されるから、必要最小限な武力の行使であり、いわゆる戦争にはならないし、当然、自衛隊の行動もそのように制限される」

 これは、1972年(昭和47年)政府見解の論理と、政府答弁にある「自衛のための必要最小限度」の解釈、「自衛戦争」とは異なる旨を組み合わせたものであり、従来の政府解釈と整合性のある理解である。


1972年(昭和47年)政府見解 (抜粋) (下線・太字・色は筆者)
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 憲法は、第9条において、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているが、前文において「全世界の国民が・・・・平和のうちに生存する権利を有する」ことを確認し、また、第 13 条において「生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、・・・・国政の上で、最大の尊重を必要とする」旨を定めていることからも、わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。そうだとすれば、わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて、したがつて、他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない。
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○秋山政府特別補佐人
(略)
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━

「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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○政府委員(大森政輔君) そこが個別的自衛権に基づく自衛行動と、それから自衛戦争の違いでございまして、先ほど私が申し上げましたのは、個別的自衛権に基づく我が国を防衛するために必要最小限度の自衛行動というものは憲法が否定していないということを申し上げたのでございまして、いわゆる戦争の三分類による自衛戦争ができるんだということを申し上げたわけではないと。自衛戦争という場合には当然交戦権が伴うんでしょうけれども、先ほど我が国がなし得ると申し上げましたのは、自衛戦争という意味よりももう少し縮減された、あるいは次元の異なる個別的自衛権に基づく自衛行動というふうにお聞き取りいただきたいと思います。
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第145回国会 予算委員会 第11号 平成11年3月8日


 それに対する論者の指摘は「でも、それって、殺人事件を口実に自衛権が行使できちゃいますよ」との主張であるが、誤りである。まず、従来の政府解釈によれば、「我が国に対する急迫不正の侵害があること」の要件を満たさないのであれば、「武力の行使」を発動することができない。よって、国際法上の評価で言う「自衛権の行使」を「殺人事件」を口実に行うことはできない。

 1972年(昭和47年)政府見解が前文の「平和的生存権」に触れているのは、砂川判決が前文の「平和的生存権」に触れていることを考慮したものと考えられる。


1959年(昭和34年)12月16日 砂川判決
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かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、……
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 これは、単に「平和的生存権」を根拠として直接的に、「自衛のための措置(自衛の措置)」を採りうると説明しているわけではない。憲法前文から日本国民が「国際社会において、名誉ある地位を占めること」が予定されており、日本国民も「平和のうちに生存する権利を有する」趣旨を読み取ることができるから、日本国民が生存することは当然に予定されているのであって、「わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではない」ことを確認的に述べることで、日本国の統治権の『権限』が「自衛のための措置」を発動できる場合があることを明確な形で示しているものである。(ただ、砂川判決が例示している『自衛のための措置』とは『国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等』と『他国に安全保障を求めること』だけである。日本国の統治権の『権限』による『武力の行使』の可否については何も述べていない。)

 よって、政府見解についても、砂川判決の「平和的生存権」を示した記述を参考に、政府独自解釈としての13条の「国民の権利」の趣旨を加え、「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らか」とし、日本国の統治権の『権限』、具体的には、41条の立法権に基づく法律の根拠に従った、65条の行政権に基づく「自衛の措置」を正当化できる部分がある旨を示しているだけである。


 これについて、論者は13条の「国民の権利」が直接的に「武力の行使」を実施する統治権の『権限』となるかのように誤解していると思われるが、誤りである。憲法学者「長谷部恭男」は「13条の条文を援用するまでもない」と述べており、「武力の行使」と13条の規定が直接的な関係にない旨を示している。
 
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 つまり、ここでも、わざわざ憲法13条の条文を援用するまでもないということになります。常識を備えた人なら、当然、9条の下でも個別的自衛権は行使できるという結論を了解できるだろうという話です。
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その2 表現の自由と公共の福祉 2017/1/20 


 また、論者は「そんなに簡単に戦争が仕掛けられないように国際慣習法が発展を続けているのでしょう?」と主張しているが、「殺人事件を口実」として国家の統治権の『権限』によって「武力の行使」を行うことができる法律が立法されること等がないように、9条が存在しているのである。また、国際法上でも、各国が「戦争」や「武力の行使」の違法化を条約を締結することによって規制を行っている。特に、一般的な他国の場合は、憲法中に9条のような規定を有していないことが多いため、「戦争」や「武力の行使」に対する制約は国際法上の制約のみとなる。しかし、日本国の場合は、国際法に加え、憲法9条による制約を有しているため、二重の縛りがある。論者の「そんなに簡単に戦争が仕掛けられないように国際慣習法が発展を続けているのでしょう?」との主張は、憲法解釈の説明に対して国際法上の規制の話を持ち出しているのであり、意味が通じない。国際法と憲法との法分野の違いを理解していない者の主張である。


    <日本政府の解釈>

 「歴代の日本政府は、憲法13条の幸福追求権、ならびに憲法前文の平和的生存権が、9条の下で日本が行使できる自衛権の根拠としてきた。」との記載があるが、誤りである。
 従来政府が前文の「平和的生存権」や13条の「国民の権利」の趣旨を考えて、「わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らか」と解してきたことは確かであるが、日本国が国際法上の評価でいう「自衛権の行使」にあたる「武力の行使」を発動する根拠となるのは、日本国の統治権の『権限』であり、具体的には41条の立法権の成立させた法律に基づく65条の行政権である。
 また、「自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』の概念であり、日本国の統治権の『権限(power)』の中には存在しない。この違いを区別する必要がある。


 論者が政府の説明を抜き出している「だから、【外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に】、【国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として】、【必要最小限度の「武力の行使」は許容され】る。」の部分であるが、誤解のないように理解し直す必要がある。

 まず、この政府の提示している文章は、2014年7月1日閣議決定の内容の語尾を「です・ます調」に変えたものである。


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憲法第9条が、我が国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されない。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容される。
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2014年7月1日閣議決定

  ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓   ↓
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憲法第9条が、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛の措置を採ることを禁じているとは到底解されません。一方、この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の「武力の行使」は許容されます。
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憲法と自衛権 防衛省・自衛隊


 また、この文章が説明しているのは「1972(昭和47)年10月14日に参議院決算委員会に対し政府から提出された資料『集団的自衛権と憲法との関係』に明確に示されているところです。」と記載されている通り、1972年(昭和47年)政府見解の内容を踏襲する文面として示されているものである。


 しかし、実際にはこの2014年7月1日閣議決定の内容は、1972年(昭和47年)政府見解の文言を正確に抜き出したものとはなっていない。文面をいくつか切り捨てたり、改変した部分が見られるのである。

 基となる1972年(昭和47年)政府見解の内容を下記で確認する。


1972年(昭和47年)政府見解  (2014年7月1日閣議決定では下線部が切り捨てられている。)
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わが国がみずからの存立を全うし国民が平和のうちに生存することまでも放棄していないことは明らかであつて、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛の措置をとることを禁じているとはとうてい解されない。しかしながら、だからといつて、平和主義をその基本原則とする憲法が、右にいう自衛のための措置を無制限に認めているとは解されないのであつて、それは、あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである
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【資 料】 衆議院及び参議院の「我が国及び国際社会の平和安全法制に関する特別委員会」に提出された政府統一見解等 参議院 立法と調査 2015.12 (P63)


 この改変から、あたかも「必要最小限度」の意味が、本来の1972年(昭和47年)政府見解で示されている発動した「自衛の措置(武力の行使)」の程度・態様に対応する意味ではなく、数量的な意味での発動要件であるかのように誤解しやすい表現に変わっているため、注意が必要である。

 

━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━  ← これは数量的な概念ではない

「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること  ← 数量的な概念ではない理由となる要件
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと  ← 程度・態様の「必要最小限度」の意味
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 9条は政府の恣意的な自国都合の「武力の行使」を制約する趣旨の規定であり、「武力の行使」の発動要件が数量的な意味での「必要最小限度」というものが基準となる場合、その趣旨を満たさないため解釈として妥当でない。

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○秋山政府特別補佐人 
(略)
 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。
 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日



 「これが、(全ての武力の行使を禁じているように見える)9条が、唯一禁じないと解釈される日本の『9条の自衛権』である。」との記載があるが、「9条の自衛権」との文言は意味が通じていないため誤りである。理由は下記の通りである。
 ① 「自衛権」は国際法上の概念であり、日本国の統治権の『権限』の中には存在していない。「自衛権」とは、国家が自国の憲法上の『権限』に基づいて「武力の行使」を発動した場合、通常は国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって違法性を問われるところであるが、51条の「個別的自衛権」または「集団的自衛権」の要件に該当する場合には、違法性が阻却されるとする『権利』の概念である。
 ② 9条は日本国の統治権の『権限』を制約する規定であり、統治権の『権限』の根拠とはならない。よって、国際法上の評価として「自衛権の行使」となる、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」についても、65条の行政権を基にしたものであるから、9条が根拠になることはない。


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○政府委員(佐藤達夫君)
(略)
要するに今の国の作用というものを三つに分けるという、いわゆる三権分立の一般の分類を今の憲法においてとつておりますからして、こういう、即ち外敵を防ぐとかいうようなことが国の作用として許されておるという前提をとりますならば、その作用は立法にあらず、司法にあらず、それは行政の作用であろうということが言い得ると思います。
……………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
○政府委員(佐藤達夫君)
(略)
今の行政権についてのお言葉でございますが、この問題はもう少し掘下げて考えてみますというと、一応は私は国を守る作用ということは、結局今の内乱が起つた場合に、その内乱を抑える、それを防ぐというような作用というものとは、根本性質は同じものであろうと思いますからして、これをよそから眺めた場合には、要するに立法権でないことは明瞭、司法権でないことは明瞭ということで、一応行政権でございますと答えておるわけでございます。この限りにおいては、その本質をつかまえて言えば、行政作用であることはどうも誤まりないように思います。
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第019回国会 法務委員会 第35号 昭和29年5月13日


 ③ 9条は国際法上の「自衛権」の概念を否定したものではない。砂川判決でも、9条で「主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」と述べている。


1959年(昭和34年)12月16日 砂川判決
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かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、……
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 政府も、「我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然」と述べており、「自衛権」という『権利』そのものは「有している」と答弁している。また、「憲法は集団的自衛権の保有それ自体について言及しているものでもございません」としている通り、9条は「集団的自衛権」などの「自衛権」について言及していない。さらに、この「権利の行使を制限すること」についても「国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございません」と述べており、9条が「武力の行使」を制限することによって、結果として「自衛権」という『権利』を行使する範囲が制限されたとしても、国際法と国内法(憲法)の関係において矛盾抵触はないとしている。


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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
 それで、政府は、従来から、その九条の文理に照らしますと、我が国による武力の行使は一切できないようにも読める憲法九条のもとでもなお、外国からの武力攻撃によって国民の生命身体が危険にさらされるような場合に、これを排除するために武力を行使することまでは禁止されませんが、集団的自衛権は、我が国に対する急迫不正の侵害に対処するものではなく、他の外国に加えられた武力行使を実力で阻止することを内容とするものでありますから、憲法九条のもとではこれの行使は認められないと解しているところでございます。
 それで、我が国は憲法上集団的自衛権を有しているかどうかというお尋ねにつきましては、ただいま御説明しましたとおりの理由から、我が国が憲法上集団的自衛権を行使できない以上、これを持っているかどうかというのはいわば観念的な議論でございまして、また、憲法は集団的自衛権の保有それ自体について言及しているものでもございません。それで、従来から、集団的自衛権につきましては、憲法上行使できず、その意味において、保有していないと言っても結論的には同じであると説明しているところでございます。
 なお、あくまで論理の問題として申し上げれば、国際法上は、集団的自衛権を我が国が行使したといたしましても、これは国際法上違法になるということではございませんが、憲法九条のもとでそのような事態は想定できないところでございます。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日



 「つまり、『9条の自衛権』は、国民の一人一人に保障するべき幸福追求権と平和的生存権を(加えて【必要最小限】も。これについては後述する)、”唯一の口実”とする。」との記載があるが、誤りである。
 「9条の自衛権」という言葉の意味が通じていないことは先ほど述べた。
 また、「”唯一の口実”」との記載があるが、論者のいう「”唯一の口実”」に当たる日本国政府の判断基準は、「武力の行使」の三要件である。

 旧三要件の場合には、第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要があることを主な基準としており、前文の「平和的生存権」や13条の「国民の権利」を直接的な判断基準にしているわけではない。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 しかし、2014年7月1日閣議決定以後の新三要件においては、第一要件の「存立危機事態」について、「国民の生命、自由および幸福追求の権利」の文言が含まれている。


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「武力の行使」の新三要件 〔存立危機事態の場合〕
〇 わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
◯ これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
◯ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 これについては、「武力の行使」の発動要件を13条の「国民の権利」の危機そのものが直接の判断基準となっているものであり、「武力の行使」の限度を画する基準を有していないものであるから、9条に抵触して違憲となる。


 「お分かりだろうか? 個と国家という帰属先の違う2つの”権”が、協働している。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、憲法中の【権】の文字の背景には、『権利(right)』と『権力・権限・権能(power)』の二種類がある。「平和的生存権」や13条の「国民の権利」は『権利(right)』の意味であるが、日本国の統治権の「立法権(41条)」「行政権(65条)」「司法権(76条1項)」は『権限(power)』の意味である。また、9条についても、日本国の統治権の『権限(power)』を制約する規定である。これらは性質が異なるため、注意する必要がある。


 「幸福追求権と平和的生存権は個人に帰属する。それに対して、自衛権は国家に帰属する。逆に言うと、9条は、個人に帰属する権利を口実にしない限り、国家としての日本の自衛権を正当化できない。」との記載があるが、誤りがある。
 まず、前文の「平和的生存権」については「全世界の国民」の個人に帰属する。13条については、基本的には「日本国内の国民(性質上可能な限り外国人も可)」の個人に帰属する。
 「自衛権は国家に帰属する。」との内容であるが、「自衛権」は国際法上の違法性阻却事由として機能する国家の『権利(right)』の概念である。これは国際法上の評価としての国家に『権利(right)』として与えられるものであり、各国の憲法上で正当化される『権限(power)』とは異なる概念である。論者はこの点を区別できていないようである。
 「国家としての日本国の自衛権を正当化できない」との記載も誤りである。「自衛権」は国際法上の概念であり、日本国も国際法上は他国と同様の形で「自衛権」を行使して違法性を阻却することは可能である。しかし、日本国は憲法上で「武力の行使」を制約しているため、「自衛権の行使」としての「武力の行使」を発動したり、発動した場合の程度・態様が他国よりも狭いというだけである。
 「個人に帰属する権利を口実にしない限り、」との部分について、論者のいう「口実」とは「武力の行使」の発動要件であるが、三要件が根拠となっている。旧三要件の場合には、「個人に帰属する権利」を根拠としていない。そのため、「口実にしない限り」との説明は誤りである。また、「武力の行使」の『権限』そのものは、65条の行政権である。「国民の権利」について書かれた規定が直接的な『権限』の根拠となっているわけではない。新三要件の「存立危機事態」の場合については、「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」を発動できる場合を定めたものであり、「武力の行使」の限度を画することができない基準を設定したものであるから、そこで行使される「武力の行使」の『権限』は9条に抵触して違憲となる。

   <人権は自衛権行使の口実にはならない!>


    【3ページ目】


 「『自衛という名の国家の暴力』から人間を救済するのが『人権』であり、国家が自衛権の発動の口実に利用することは許されていないのだ。」との記載があるが、国際法上の「自衛権の行使」としての「武力の行使」を日本国の統治権の『権限』が実施する場合に「国民の権利」の危機を直接の判断基準(論者のいう『口実』)に利用することが許されないと考えるのであれば、2014年7月1日閣議決定以後の新三要件の「存立危機事態」の要件を非難するべきである。「武力の行使」を発動要件に「国民の権利」の文言を有していない旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を含めて批判することはできない。


   <自衛権の発動が許される時>

 「つまり、『国家』が武力攻撃を受けた時しか、その『国家』は自衛できない。」や「『個』に対する人権侵害ではない。『国家』に対する攻撃である。当たり前である。人権侵害だったら、国内、国外で、いくらでもデッチあげられる。」との記載がある。これは国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の『権利』に該当する場合の要件について述べたものであるが、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動する場合の要件は、旧三要件と新三要件がある。新三要件の「存立危機事態」の要件の中には「国民の権利」を根拠とする基準が含まれており、内容も不明確なものであるから、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の「立法権」の趣旨より違憲となると考えられる。また、曖昧不明確な要件であることは、9条の規範性を損なっているため、違憲となる。


 「『人権』は、開戦法規に、リンクさせてはいけないのだ。」との記載があるが、その主張によって、2014年7月1日閣議決定以後の新三要件の「存立危機事態」の要件に含まれた「国民の権利」の部分を批判するべきである。従来の政府の9条解釈の論理そのものは、「国民の権利」を直接的に「開戦法規に、リンク」させているわけではないので、批判は当たらない。


 「だから、もし、日本が、上記の歴代の日本政府の解釈に沿って、国連安全保障理事会の判断を待たず、”独自の判断”で、日本国民の人権侵害だけを口実に『武力の行使』を始めたら、それは明確な国際法(開戦法規)違反である。」との記載があるが、日本政府は「憲法9条の制約」と「国際法上の制約」の両方を満たした場合においてしか、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」や、その「武力の行使」の国際法上の違法性を阻却するための「自衛権の行使」の行為を行ってはならないとしているのであり、あたかも政府が国際法を無視して「武力の行使」を実施するかのような前提で話しているところに誤りがある。「歴代の日本政府」は国際法を無視することを前提とした解釈をしていないのである。


 「以上の理由で、歴代の日本政府が生み出した、幸福追求権と平和的生存権(人権)を口実にする『9条の自衛権』は、国際法(開戦法規)に著しく抵触する。」との記載があるが、誤りである。「9条の自衛権」の文言の意味が通じていないことは既に述べた。2014年7月1日閣議決定までの従来の政府解釈は前文「平和的生存権」や13条の「国民の権利」の趣旨を読み解いているが、これを直接的に「武力の行使」の発動要件に結び付けているわけではない。「武力の行使」の発動要件は主に旧三要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」であり、「幸福追求権と平和的生存権(人権)を口実」にしたものではない。それに比べて、2014年7月1日閣議決定以後の新三要件の第一要件の「存立危機事態」については「国民の生命、自由および幸福追求の権利」の文言が含まれており、「(人権)を口実」にすることができるものとなっている。これは9条に抵触して違憲となる。しかし、国際法上の違法性については、国際法上の要件を満たすか否かによって判断されるものであるから、これが「個別的自衛権」や「集団的自衛権」の要件に該当しないのであれば当然に違法となるが、該当するのであれば国際法上の評価としては合法である。


    【4ページ目】


   <必要最小限度なら許される?>

 「【必要最小限度の「武力の行使」は許容され】ると、【必要最小限度】が、9条の自衛権の行使の、もう一つの口実になっている。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。論者がここで示している「必要最小限度」の文言は、2014年7月1日閣議決定に基づく文面から抜き出した文言である。しかし、この2014年7月1日閣議決定の根拠となっているのは、1972年(昭和47年)政府解釈の文面である。1972年(昭和47年)政府見解の文面にある「必要最小限度」の意味は、旧三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」に対応する部分であり、「武力の行使」の程度・態様を示すものであるから、論者の言うような「口実」としての「武力の行使」の発動要件とは意味が異なる。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること      ← 「武力の行使」の発動要件①
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと   ← 「武力の行使」の発動要件②
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ← 「武力の行使」の程度・態様
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 2014年7月1日閣議決定以後の政府も解釈を誤っている部分であり整合性が保たれていないのであるが、論者が「必要最小限度」を用いる場合、三要件のすべてを指す「自衛のための必要最小限度」の意味と、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味を区別できていない。


 「加えて、必要最小限度という理由で『武力の行使』を”許容”する国際法は存在しない。あるのは、自衛のための『武力の行使』を開始した”後”の、その行為を必要最小限度に制限するためのルールと、それを遵守する義務である。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。2014年7月1日閣議決定以後の政府も誤っている部分であるが、9条の制約は数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としたものではない。従来の政府解釈で「自衛のための必要最小限度」と呼んでいたのは、「武力の行使」の三要件(旧)のすべてを満たすことを意味していたのであり、第一要件に「我が国に対する急迫不正の侵害があること」が存在していた。そのため、数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としていたわけではない。また、国連憲章51条の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を発動した場合、その限度は「必要性」や「均衡性」で判断されることとなる。「必要最小限度」とは異なると思われる。ただ、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を発動した場合には、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の要件で統制されることとなる。


    【5ページ目】


 「繰り返すが、国際法にあるのは、『権利』ではなく、『交戦』が止むを得ず【相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領など】に至った場合の禁止行為を定め、それを遵守する『義務』である。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、政府は「伝統的な戦時国際法における交戦国が国際法上有する種々の権利の総称」との表現を用いており、必ずしも現在の「戦争」や「武力の行使」が違法化されている国連憲章の体制で認められている『権利(right)』の区分を指しているわけではない。また、政府は「相手国兵力の殺傷と破壊、相手国の領土の占領などの権能」とも表現し、『権力・権限・権能(power)』であるとも示している。政府自身も9条2項の「交戦権」の意味が国際法上の『権利(right)』を制約しているのか、日本国の統治権の『権力・権限・権能(power)』を制約しているのか明確に理解していないように思われる。当サイトは、憲法上の規定であることから、日本国の統治権の『権力・権限・権能(power)』に対する制約として考えることが妥当であると考えている。

 政府解釈の「交戦権」の解釈の問題点は当サイト「9条関係の用語」のページの「『交戦権』の『権』とは何か」の項目で詳しく解説した。


 「つまり、9条下でも、『戦いを交える』ことができる(!)が、それは『国際法の範疇外』であるという曲芸的なロジックだ。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、政府は日本国の統治権の『権限』の「自衛行動権」に基づく「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の「武力の行使」を行うことができると解している。この区分であれば、9条の下でも「戦いを交える」ことができると説明している。そして、この「自衛のための必要最小限度(我が国を防衛するための必要最小限度)」であれば、9条2項後段の「交戦権」の文言にも抵触しないと説明されている。「国際法の範疇外」との意味がよく分からないが、政府は国際法上の「自衛権の行使」として「自衛のための必要最小限度(旧三要件)」の範囲の「武力の行使」を行うことは可能であり、この範囲については9条2項後段の「交戦権」には抵触しないと説明している。


 「しかし上述のように、開戦法規は【必要最小限度】を口実に実力の行使を始めることを認めていない。【必要最小限度】が問題になるのは、開戦”後”の行動の中での禁止行為であり、交戦法規がそれを統制する。」との記載があるが、やはり「必要最小限度」が二つの次元で使われていることを理解しておらず、混乱が見られる。この部分は、2014年7月1日閣議決定以降の政府も混乱しているため、注意が必要な部分である。まず、「開戦法規は【必要最小限度】を口実に実力の行使を始めること」であるが、旧三要件を意味する「自衛のための必要最小限度」であれば、「武力の行使」の発動要件の第一要件の「我が国に対する急迫不正の侵害があること」を満たす必要がある。数量的な意味での「必要最小限度」というものを基準としているわけではない。「【必要最小限度】が問題になるのは、開戦”後”の行動の中での禁止行為であり、」の部分は、三要件の第三要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の意味である。


━━━━━【自衛のための必要最小限度】━━━━━
「武力の行使」の旧三要件
〇 我が国に対する急迫不正の侵害があること      ← 第一要件
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと   ← 第二要件
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ← 第三要件
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<理解の補強>

駒澤大学法科大学院教授・日笠完治氏 憲法学者アンケート調査

木下昌彦(神戸大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

「新しい9条」をつくろう、という意味 -伊勢崎賢治さんの提案について- 2018年4月6日

「日本の刑法を適用することができます(刑法3条)」 Twitter

国際刑事法典の制定を国会に求める会



 お読みいただきありがとうございました。

 





革命的改憲

 革命をすると、もはやそれは、「日本国」ではなくなってしまう。ただ、法の整合性から見ると、革命を企てていることとなる改憲案がいくつか見られる。彼らは、一体、どのような国家を思い描いているのだろうか。


 
哲学に言う、「思考実験」としての検討してみよう。法の本質要素を見抜くことができていない、質の低い意味不明な改憲案を少なくするための材料として考えていただければと思う。



「天皇制」と「平和主義」について


〇 9条を廃止したい論者に合わせて、前文の平和主義と第二章「戦争の放棄」を削除してみる。

〇 他国の例では、「天皇」のポジションに公選された「大統領」が、国政の権限をほとんど有さずに存在している場合もあるようである。仮に、象徴的君主制から元首的な役割を選挙で選出する「大統領制」を取り入れてみる。

〇 「国家緊急権」を導入しようとする論者に合わせて、「国家緊急権」と同時に、「抵抗権」も導入してみる。


 「革命的改憲」を実施した後の国家の姿は、下図のようになる。いろいろ、大切なものを失ってしまったような気もする。重ねて記載するが、これは革命にあたるので、「日本国」ではない。筆者は、「日本国」を辞めることをお勧めはしていない。

 (筆者は改正の限界を超えると思われる論点を含むものは『革命』と表現している。)

 

【動画】【ハイライト】憲法を変えるな!~安保法制違憲訴訟の勝利を目指して ―講演:石川健治 東京大学教授 2022.1.27

 



〇 国は「軍事立法」「軍事行動(軍の保持)」「軍事裁判」が可能となる。

〇 国民の「兵役義務」が可能となる。
〇 国政に関与しない「大統領」である。実質的には行政権は内閣が有することとなる。大統領の権限は、憲法中に記された権限が形式的に行使される。ただ、権限の源が国民の選挙によるため、内閣からの「助言と承認」は必要なくなると思われる。


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これらの国事行為は形式的・儀礼的な行為とされていますが、現行憲法が採用している象徴天皇制は天皇に政治的権能を与えておらず主権が国民にある以上、主権者である国民のコントロールが必要となります。
そのため、天皇の国事行為のすべてに内閣の「助言と承認」を要件として定め、内閣のコントロールを利かせることにしているのです。
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【自民党憲法改正案の問題点:第6条4項】助言と承認を「進言」に 2020.02.17


<理解の補強>

そろそろ天皇制が無くなった日本を考えなければならない 2017.6.16

日本国憲法は、皇位が永遠に続くことを想定しているの? 2021/03/20


 天皇制を辞めるとしても、「革命とまでは言えない」との意見もある。

身分制の飛び地として残された天皇制 2018/8/26



「地方自治」について

 ミニ国家の場合、「地方自治」などの制度が不要となるだろう。上記からさらに、「大統領制」「国家緊急権」と「抵抗権」も取り除き、
憲法原理の最小の構成要素に迫ってみよう。


大日本帝国憲法


第1章 天皇


第2章 臣民権利義務
第3章 帝国議会
第4章 国務大臣及枢密顧問
第5章 司法
第6章 会計

第7章 補則(73条 憲法改正)



 →

(新設)

 →

 →

 →

 →

 →

(新設)

(章に格上げ)

(新設)

日本国憲法(現行)


第1章 天皇
第2章 戦争の放棄
第3章 国民の権利及び義務
第4章 国会
第5章 内閣
第6章 司法

第7章 財政
第8章 地方自治
第9章 改正
第10章 最高法規
第11章 補則

憲法の最小構成要素


  ・
  ・
第3章 国民の権利及び義務
第4章 国会
第5章 内閣
第6章 司法
第7章 財政
  ・
第9章 改正
第10章 最高法規
  ・





 憲法原理の最も簡素な姿が浮き出てきたと思われる。
これに加えて、国会の「二院制」を「一院制」に、裁判所の「三審制」を「一審制」にすることも可能である。


 ただ、この最小構成要素にまでそぎ落としていく作業は、いくつかの面で「革命」に該当する。それは、「日本国」ではなくなってしまうことに注意しておきたい。(少なくとも、改正の限界に関わる論点を相当に議論して境界線を明らかにしていく必要がある。)



 改憲を訴える者は、この程度には憲法原理の本質部分をしっかりと見抜いた上で案を考えていくべきである。そうでなければ、あれやこれやと条文を追加したり、無理な改造を試みたりと、意味不明な案となってしまうからである。残念な改憲案をつくってしまうことがないように、理解を深めていいただきたい。


 軍を保持した「普通の国」へと改憲しようとする論者も存在しているようである。恐らく、上記のような「普通の国」「個性のない国」「最小構成要素としての憲法原理」を目指していると思われる。


 しかし、「平和主義」を取り除き、軍を保持することで「普通の国」を目指す論者は、「天皇制」も廃止したいと考えているのだろうか。「普通の国」は、象徴的な君主を有していないからである。「普通の国」を目指すことに、どれほどの魅力があるのかどうか、十分に検討した方がいいように思われる。

 

大日本帝国憲法


第1章 天皇


第2章 臣民権利義務
第3章 帝国議会
第4章 国務大臣及枢密顧問
第5章 司法
第6章 会計

第7章 補則(73条 憲法改正)



 →

(新設)

 →

 →

 →

 →

 →

(新設)

(章に格上げ)

(新設)

日本国憲法(現行)

前文
第1章 天皇
第2章 戦争の放棄
第3章 国民の権利及び義務
第4章 国会
第5章 内閣
第6章 司法

第7章 財政
第8章 地方自治
第9章 改正
第10章 最高法規
第11章 補則


 → 理念・意志
 → 日本特有
 → 日本特有
 → 【人権規定】
 → 【統治規定】
 → 【統治規定】
 → 【統治規定】
 → 【統治規定】
 → 【統治規定】
 →法の存立に関わること
 →法の存立に関わること
 → その他


 第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」の章は、日本国憲法独特のものである。この二つの章が存在しなくても、近代立憲主義の憲法として意味を為し、成り立つことができる。

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 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。
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参考人 長谷部恭男(早稲田大学法学学術院教授) 第189回国会 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日
衆議院 憲法審査会 第189回国会 第3号(平成27年6月4日(木曜日))会議録

 

 終局的には、法も「心」の在り方であることを考えるならば、天皇制を維持したことは、憲法制定権力の日本人の「心」の在り方である。また、平和主義に込められた祈りや、9条の規定も、憲法制定権力の日本人の「心」の在り方なのである。


 法が運用される際には、限りなく概念的にメカニックに適用されることで、その公正性や有益性の価値をもたらすことが望ましい。しかし、その法に効力を生み出すためには、その法に自ずと従おうとする人々が一定数必要となるため、人々の心を捉えるものが必要となる。人々の心を捉えなくては、法そのものが支持を失い、その本来意図した機能を発揮しないからである。そのため、人々の心を捉える「愛着」とも言うべき部分も、効力を支えるためには必要となるのである。


 この場面で愛着と表現するのがいいのか分からないが、国家を象徴するものとして、天皇ではなく選挙で選ばれた「大統領」に置き換えられた場合、人々の心を捉え、法の効力を安定的に保つことが十分にできるかどうかという問題が発生すると考えられる。権威の在り方が、法の存立、その法に裏付けられた国家という概念の生命力の確からしさを生み出す部分も存在すると考えられるからである。また、権威の在り方に選挙という多数決原理を持ち込むことは、権威それ自体が政治的なものとなってしまい、その本来の法の普遍性(の建前)を象徴する機能を発揮しない恐れがあるからである。この確からしさを損なうことは、法の機能を弱めかねず、結果として法の意図している機能である人権保障の実現もままならなくなってしまう恐れがあると考えられるのである。


 日本国憲法の第一章「天皇」、第二章「戦争の放棄」は、理念、意志、精神、祈りなど、「心」に関わる側面が非常に強いと考えられる。法とは、終局的には人々の「心」の中のものであり、その心の在り方によって成り立つものであることを考えれば、この「心」の側面をしっかりと保っておいた方が、法の効力の生命力を維持する上でも意味があると考えられる。


 法の「制度」としての側面だけでなく、「理念」や「心」の側面も、注意深く読み解いていきたい。


<理解の補強>

天皇制を守るため仕方なく押し付け憲法を受け入れた…が嘘の理由 2019.05.17





法に込められた祈り

 法は、人間以外の外界の者が、我々を拘束するために枠づけたものというわけではない。法の効力は、人々が自ずと従うことによって維持され、成り立っているものである。そのため、法の効力の源泉にあるものは、人の心である。


 そのことから、法は、技術的でメカニックな「制度」のみによっては、その効力を生み出すことはできない。人々が自ずと従うような、心に訴えかける何かが、その法が社会の中で人々に支持され、機能することを支えているのである。だからこそ、憲法の中枢には「理念」という形で心に抱かれた意志や祈りを込め、人々の心を刺激するものが必要となる。

 この側面で法を捉えるならば、条文を「制度」として読むだけでなく、「理念」として、意志として、祈りとして読み取ることにも、一定の意味や有益性を認めることができる。

 根源的な姿にまで遡って法の姿を捉えると、「平和主義」を示す憲法前文や9条、軍事権がカテゴリカルに消去されている法体系の姿は、平和への祈りが込められているとも考えられる。


 もし、そのような法の意図を損なう改憲を行ってしまったならば、法に込めたそれらの意志が人々を刺激する機能が失われるため、人々の平和への祈りを集める機能も損なわせることに繋がってしまうと考えられる。それは、現実の社会作用においても、平和への思いや意志を減少させてしまうことから、結果として戦争を招いてしまう側面も、ないとは言えないだろう。


 最終的には人がつくったものである以上、どんな制度や物事も、突き詰めればそれを形づくった者の意志や意欲が形となって現れる。法についても、同じである。

 法を技術的に制度として捉えることも必要であるが、その中に込められた意志や祈り、理念の部分を損なわせないことが、その法の生命力を保つことに繋がりうることを忘れないようにしておきたい。



 この意味で、天皇の「祈る存在」という側面は、「平和主義」ともかなり近い位置にあるようにも思われる。この「祈り」が損なわれた場合に、心の奥底にある道徳的・倫理的な共生性の意志に裏付けられた平和な世を目指す姿勢が失われ、不信や不寛容の蔓延(はびこ)る荒々しい世を招いてしまう可能性が考えられる。何も法に限らないことであるが、あまり「祈り」を軽んじない方が、より良い物事をつくり上げる力になると考えられる。


 どんな物事も、最終的には、「祈り」、「意志」に行き着くように思われるのである。


<理解の補強>


【動画】立憲主義と9条③ 私的領域を守る立憲のシステム 石川健治 立憲デモクラシー講座⑥ 2018/03/13
小林よしのり氏「新天皇の世の中、どうなるか楽しみ」 2018年08月23日


 この辺のテーマは、憲法の政教分離の精神もあって、かなり難しいテーマである。「『法』という営みそのものは宗教ではないのか」という複雑な議論もあり、その境界線を明確にすることは簡単ではない。安易に一面的に納得するのではなく、様々な見方を持ち、思考の柔軟性や許容性を高めておきたい。

「天皇制と調和する民主主義」とは、まがい物の民主主義でしかない。 2019年1月3日

記号化された天皇、一体化に利用する「われら」井上達夫 2019年5月3日





平和主義と9条の視野

 以前の時代、日本国内は各地で藩を形成し、それぞれの藩が武士を有していた。しかし、その後時代は進み、統治のあり方が変わり、武士もいなくなった。


 日本国憲法の前文の「平和主義」と9条の「戦争放棄、戦力不保持、交戦権否認」の規定は、数百年単位での国際協調主義を考え、数百年単位の時間をかけて武装解除をしていこうとする長く広い視野を有しているのではないだろうか。


 そうなると、憲法の「平和主義」や9条は、全世界の統治機関が変容し、全世界を支配する正当性を有した(日本国憲法で言う「人類普遍の原理」に根差した)統治機関が設立され、各国が国という単位の中に保持している武力組織(軍や自衛隊)が武装解除されていく世界を目指しているのではないだろうか。


 憲法改正で国防軍の設置を考える際、この数百年単位の視野で考える「平和主義」の「9条」という壮大なプロジェクトを維持するのか、廃止するのかが問われるものとなると考えられる。

 全世界を包括した統治機関を創設するような人類的な視野に軸を置くのか、それとも自国の自国民のみを主軸とした統治機関を貫こうとするのか、この価値観の対立を考えなくてはならないと思われる。



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 非武装国家/中立政策は、一つの理想を示しています。本来であれば、少しでもこの理想に近づく努力を戦後の日本人はすべきだったのでしょう。しかし、憲法規範と現実の政治は、ここまで乖離してしまいました。
 この乖離は、2つの方法で処理できます。一つは、理想への道を歩み、少しずつ憲法規範に近づくこと。もう一つは、憲法規範を現実にあわせること、すなわち憲法改正です。憲法改正権力は国民に留保されています。21世紀の日本人は、現在、その選択を迫られていると思います。

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加藤一彦(東京経済大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

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安保関連法案が成立しそうな現在、憲法9条の規範と現実の緊張関係はいま極限にまで達しているが、「憲法9条を変えない」ということによって、むしろ現実を平和の方向に変えていく力と知恵が生まれてくるだろう(拙著・前掲『ライブ講義』6限参照)。
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水島朝穂(早稲田大法学学術院)安保法案学者アンケート 2015年7月17日 


 9条を改正する必要がない理由は、「国会での理性的な審議を根気強く続けさせる根拠ともなるから。」

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9条がなかったら、今、国会で行われている議論が、より合理的で理性的なものになっていたかどうか、考えてほしい。

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小泉良幸(関西大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

 


<理解の補強>


再び戦争の惨禍が起こることのないように 2018年7月30日
平和の時代を守らねば 平成と憲法 2019年1月4日

憲法9条は国防や安全保障を考えていない…が間違っている理由 2019.01.26





軍縮プロジェクトと規範性

 9条には、一見すべての戦争や武力の行使やあらゆる戦闘力を否定しているように見えることで行う「軍縮プロジェクト」の側面と、一定の確立された意味を見出して解釈を確定させようとする「規範性」の側面があると考えられる。


 「軍縮プロジェクト」の側面では、世界平和を実現するために軍事に関する権限を積極的に放棄していこうとする意味である。前文の平和主義と9条の対応関係からもその意味を読み取ることができる。


 「規範性」の側面では、国権(統治権・公権力)の行使に際して越えてはならない明確な一線があることを示していると考えられる。前文は法規範性はあるが、裁判規範性はないとされるが、9条の裁判規範性を解釈する際に解釈の指針となる。


 9条は、改正の限界があると考えられるが、改憲や加憲をするにしても、この二つの側面の価値を損なわせていないかどうかを敏感に見ていった方がいいだろう。



<9条の持つ二つの側面>

理念:軍縮プロジェクト → 9条と前文の平和主義の趣旨を全体として捉え、理念を見出す側面である。

制度:規範性 → 9条から一定の法規範性や裁判規範性を捉え、違憲審査基準を見出す側面である。


〇 憲法学者「石川健治」の表現を確認する。
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憲法9条については、これまで自衛隊の正統性を剥奪してきたことが、過度の軍備拡張を防いできたという側面を考える必要があります。自衛隊が正式に正統性を与えられた組織になると、予算を大幅に組まなければいけないことになり、軍拡競争への道を開いてしまうおそれがあります。これまで成功してきた9条方式ともいうべき軍事力の統制方法に対する対案が出されていない中で、自衛隊を一方的に正当化するのは危険だと考えます。
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世論調査 憲法学者は 石川健治 (下線・太字は筆者)



〇 憲法学者「青井未帆」の表現を確認する。
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実力の統制という問題は、ここ数年に生まれ たものではなく、近代日本の出発地点からの課題であることにも注意を払う必要があります。 そしてまた、この問題は単に9条の解釈にとどまるものではなく、これまでも条文およびその解釈、安全保障をめぐる諸政策、さらには平和へのコミットメント等々、後で「9 条のプロジェクト」という言葉を使いますが、総体として 機能させてきたというべきです。
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先ほど来使っている言葉でありますけれども、私はこの頃、 「9条プロジェクト」という、必ずしも法的なタームではない言葉を使って、9条について考えるようになりました。前文や9条の条文、そしてそれらの解釈、関連する諸政策、そして憲法文化全体をひっくるめて、ひとつのプロジェクトとして、日本の平和主義は見る必要があるのではないか。また、憲法秩序の中での機能のみならず、対外的な関係においても、他国からの要求を断る正当な理由として、 つまりいわば「防波堤」としての役割を働いてきています。9条は、「論理」や「戦略」、「価値」など、様々な要素が複雑に絡み合う中で働いてきたことを、改めて確認したいと思います。
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「憲法論議の視点」 第9条 青井未帆・学習院大学教授 井上武史・九州大学准教授 2018年3月12日 (下線・太字は筆者)



〇 他の表現も確認する。
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統制的理念がなければ、構成的理念は成り立たない」というカントの言葉を引いて、絶対平和という九条の統制的理念(崇高な目標)を手放してはいけない、その目標に近づくための構成的理念(暫定的な政策手段)として自衛権は個別的自衛権に限定することを憲法で宣言することには意味がある、と説いてくださいました。
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ここから、始まる。憲法議論のスタートライン 護憲vs改憲の対立を越えて 2018年8月7日 (太字は筆者)

 

 

〇 憲法学者「石川健治」の表現を見ておこう。

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この例外というのは常にあるわけですね。
たとえば人を殺したら殺人罪なんですけれども、その例外として、正当防衛の場合は違法でない。少なくとも処罰はされないということになっています。
そうやって、この例外をつくる論理というのがあって、その例外をつくる論理によって自衛隊を正当化していると。
だから逆にいうと、「正当防衛の場合には人を殺していい」という規定はいらないわけですね。
「人を殺したるものはこれこれの刑に処す」という条文だけで足りるわけで、それを、その例外の論理によって正当化すると、そういうことをやってきたと、こういう話であるわけです。
ですから、現在はあくまで例外としておかれている。例外であるということによってコントロールされているということ、これをまあ考えていただきたいわけですね。
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自衛隊を憲法に書き加えるとどうなるのか? 石川健治さんの講演 文字起こしテキスト 2018年1月7日 (下線は筆者)



〇 憲法学者「石川健治」の講演の聞き手の理解も見ておこう。
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実際の発言とは違うが、私が理解したところでざくっと意訳すると、人を殺すことは殺人罪として法律に書かれているが、「正当防衛の場合は人を殺していい」とは書かれていない。しかし実際には正当防衛はあって、書かれないことによって殺人の“例外”として大きな制限を受けている

同様に「自衛隊」は憲法に書かれていないことで実際に制限を受けていて、単に書き加えるだけだと、制限がはずれ、こと細かな規定をあわせて書き加えないかぎり、なんでもありになってしまうというわけだ。

書かれていないことにも法的拘束力はおよぶ書かないことで逆に法的に制限する方法があるというのは、私にとっては発見だった。
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【動画】自衛隊を憲法に書き加えるとどうなるのか? 石川健治映像ドキュメント 2018/01/17 に公開の解説より (下線は筆者)



〇 不戦条約に対するアメリカ合衆国の解釈も見ておこう。

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●アメリカ合衆国の解釈(米国国際法学会におけるケロッグの講演)
      一九二十八年四月二十八日


 「不戦条約の米国草案には、どのような形ででも自衛権を制限しまたは害する何物をも含んではいない。その権利は、すべての主権国家に固有するものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。すべての国は、どのような時でも、また条約の規定の如何を問わず、自国領域を攻撃またはは侵入から守る自由をもち、また、事態が自衛のための戦争に訴えることを必要ならしめるか否かを決定する権限を有する。国家が正当な理由を有しているならば、世界は、その国の行動を称賛し非難はしないであろう。しかしながら、この譲り渡すことのできない権利を条約が明示的に認めると、侵略を定義する試みで遭遇するのと同じ困難を生じさせることになる。それは、同一の問題を裏面から解こうとするものである。条約の規定は自衛の自然権に制限を付加することはできないので、条約が自衛の法的概念を規定することは、平和のためにならない。なぜならば、破廉恥な人間が合意された定義に合致するような出来事を形作るのは、極めて容易だからである。
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ベーシック条約集 2011  編集代表 松井芳郎  東信堂 amazon (下線・太字は筆者)

ベーシック条約集〈2017年版〉 amazon)


不戦条約について 「世界がさばく東京裁判」より 2013-09-01



〇 弁護士「倉持麟太郎」の解説する、憲法学者「長谷部恭男」の指摘を見てみよう。
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立憲的改憲について「自衛隊のできることを「ポジティブリスト」として、一つ一つ憲法に書き込もう、そのほうが明確になる、と主張する政治家やグループがいます。」として、「しかし、九条の規定を明確にすれば安全だ、という考えは、じつは危険をともなうと私は思います」「いったんそういう条文ができてしまうと、政府の側としては、拡大して理解しようとするものです。」と、ポジティブリストで書くことで拡大解釈の余地を与えてしまう、と指摘されます。
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長谷部東大名誉教授から立憲的改憲への矢 2018/04/21 (下線は筆者)

山尾志桜里氏の「立憲的改憲論」=新9条論に反対する。これは「敵の土俵」に乗る超危ない玉砕戦術。 2018年11月13日)



<理解の補強>


<社説>自民改憲案反対5割 9条生かす発想が大切だ 2018年8月28日

 

憲法9条を改正しなくても自衛隊の存続が許される理由 2018.02.22





9条改正と前文との整合性

 政府見解から、前文と9条の対応関係を確認する。


〇 平和主義について


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二について

 憲法の基本原則の一つである平和主義については、憲法前文第一段における「日本国民は、・・・政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意しの部分並びに憲法前文第二段における「日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。」及び「われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の部分がその立場に立つことを宣明したものであり、憲法第九条がその理念を具体化した規定であると解している。
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集団的自衛権並びにその行使に関する質問に対する答弁書 平成26年4月18日 (下線・太字は筆者)



〇 国際協調主義について


質問主意書情報 小西洋之 平成30年7月31日

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一 政府は、憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。」との規定の趣旨についてどのような意味であると考えているか、分かりやすく答弁されたい。

二 政府は、憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」との規定の趣旨についてどのような意味であると考えているか、分かりやすく答弁されたい。
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憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」の規定の趣旨等に関する質問主意書 平成30年7月31日

 ↓  ↓  ↓  ↓
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一及び二について
 お尋ねの憲法前文第三段の趣旨は、我が国が国家の独善主義を排除し、国際協調主義の立場に立つことを宣明したものと解している。
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憲法前文の「われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならない」の規定の趣旨等に関する質問に対する答弁書 PDF


〇 政府見解を参考に内容を分類する


【前文】

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 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果とわが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意しここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し専制と隷従圧迫と偏狭地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ。
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  ◇ 『国民主権』及び間接民主制

  ◇ 『基本的人権の尊重』(自由・権利)

  ◇ 『平和主義』の立場に立つことを宣明したもの

  ◇ 我が国が国家の独善主義を排除し、「国際協調主義」の立場に立つことを宣明したもの



〇 平和主義を取り除く

 9条を改正あるいは廃止する場合、それに伴って前文も改正する必要があると考えられる。そうしないと、前文と9条の関係に整合性がとれなくなってしまうからである。前文から、「平和主義」の部分を取り除いた場合を検討してみよう。


 下記は、「平和主義」の部分は基本的に白色で見えなくしたが、マウスでドラッグすると文字は出てくるようにしている。


 色の分類は、
政府見解を参考にしたものである。ただ、政府見解が「平和主義について示したもの」としている部分についても、「平和主義」についてだけ述べたものとは限らない部分が存在するように思われる。その部分は、灰色にしてうっすらと残してみた。「平和主義」を取りやめる際、これを削るかどうかは内容を吟味する必要がありそうである。

 

【前文】

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 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従圧迫と偏狭地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想目的を達成することを誓ふ。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

  ◇ 『国民主権』及び間接民主制

  ◇ 『基本的人権の尊重』(自由・権利)

  ◇ 『平和主義』の立場に立つことを宣明したもの(上記では白色で見えなくしている)
  ◇ 我が国が国家の独善主義を排除し、「国際協調主義」の立場に立つことを宣明したもの


〇 平和主義と国際協調主義を取り除く

 「国際協調主義」と「平和主義」は、密接に結びついており、分離可能なのかも考える必要がありそうである。「平和主義」と「国際協調主義」を消去した場合も考えてみる。

 

【前文】

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 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。


 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従圧迫と偏狭地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。


 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想目的を達成することを誓ふ。
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<理解の補強>

平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼…することが必要な理由 2019.05.11
志田陽子(武蔵野美術大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日





9条改正の限界 ①


〇 「日本国民」とは誰か


 9条が「日本国民は」との主語から始まる性質上、9条の「永久にこれを放棄する。」「保持しない。」「認めない。」との規定に賛同しない者は、「日本国民」ではないということになり得る。
 なぜならば、「永久に」放棄した者が「日本国民」であり、「永久に」放棄していない者は「日本国民」ではないと考えることができるからである。

 また、9条は「日本国民」が「永久に」放棄する旨を定めた規定であるから、この規定を改正しようとする場合、その「永久」性を満たさないことになるから、現行憲法が無効化され、革命が起き、新たな憲法が制定されたこととなり、新国家樹立を意味することになると考えられる。

 この規定を改正したり、廃止しり、無効化した場合、それ以後の国民はこの憲法のいう「日本国民」ではなくなり、「新国家」の国民となると考えられる。
 その「新国家」と、現在の「日本国」とは、法的な連続性は存在しないものである。


 ただ、9条の「日本国民」の中に「現在及び将来の国民」を含むとの考え方は、「日本国民」は9条に関する場面では「思想良心の自由(19条)」が保障されないと解釈するものとなる。これは、近代立憲主義の多様な価値観を保障しようとすることで成り立つ人権思想に反する解釈である。

 これを回避するために、この9条の「日本国民」は、「憲法制定権力」を意味すると解する考え方がある。

 この考え方の根拠は、9条の語尾が宣言的であることから、前文の文章の多くの語尾の宣言的な表現に類似しており、前文の憲法制定権力である「日本国民」を引き継いでいると考えることができるからである。
 また、立法過程でも、9条の文言は当初前文の中に置かれていた経緯があり、前文の「日本国民」と密接に関係していると考えることに違和感がないからである。

 このことから、9条の「日本国民」、前文と同様に「憲法制定権力」を意味すると考えられ、その後の「現在及び将来の国民」はこの中に含まれていないと考えられる。

 


 この点の整合性は検討する余地がありそうである。憲法のバックグラウンドである法哲学的な認識論の領域に入り込む問題であり、憲法は一般的な法律のような「法制度の整合性の簡潔さ」のみによっては法の効力の妥当性を導くことができない性質を有することから、この程度の整合性の不備は仕方がないのかもしれない。




9条改正の限界 ②


 1項の「日本国民は、」が2項前段、2項後段にも及ぶとする説を採ると、この「日本国民」は、国民主権原理の過程で政府に「信託」(授権)しない部分を示す意味だけでなく、日本国民の中でも、「憲法制定権力」の意思であることを意図していると思われる。なぜならば、9条は立法当初、前文に置かれていた規定であり、前文の「日本国民」、つまり「憲法制定権力」という意味を引き継いでいると考えることが妥当だからである。


 また、「現在及び将来の国民」は「思想良心の自由(19条)」を保障されているため、9条1項の「これを放棄する。」という文言が、国民の思想を強制する意味を持つものではないと考えることが妥当だからである。


 ただ、そうなると、ここで問題が発生する。


 1項の「日本国民」は、1項の語尾で、「永久に(これを)放棄する。」として、永久放棄をしたということである。つまり、「憲法制定権力(日本国民)」が永久に放棄したものは、「憲法改正権力」となる日本国民は改正することができず、もし撤回したいのであれば、日本国憲法を廃止して革命を起こす必要があると考えられる。


 それに比べて、2項には「永久に」の文字が入っていないため、日本国憲法を廃止して革命を起こさずとも、改正したり、削除したりすることができるように思われる。


 しかし、2項にも、1項の「日本国民は、」の文言がかかっていると考えるのであれば、それはつまり、2項も「憲法制定権力(日本国民)」が「保持しない。」「認めない。」としたものであるということになる。


 すると、憲法制定権力が「放棄」「不保持」「否認」したものを、憲法改正権によって現在及び将来の国民が行うことができるのかどうかという問題が発生するのである。


 これは、1項で「永久に(これを)放棄する」とした主体が「憲法制定権力」の日本国民であり、「憲法改正権力」を持つ日本国民には関係ないと考えるのであれば、「永久に」の文言が、まったく効果を持たないこととなってしまうからである。


 しかし、1項の「永久に」が改正不能なことを示す効力を有する文言であると考えるならば、その1項の「日本国民(憲法制定権力)」の主語が掛かる、2項前段、2項後段は「憲法制定権力」の意思を示したものであるから、同じように2項を改正することも不可能と考えられる。



まとめ

 「日本国民」の意味が『憲法制定権力』であり、2項にも掛かる場合


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第9条 【日本国民(憲法制定権力)は、】正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 日本国民(憲法制定権力)は、】前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを
保持しない。

  【日本国民(憲法制定権力)は、】国の交戦権は、これを認めない。
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⇒ 「日本国民」の意味が「憲法制定権力」であり、2項にも掛かるとした場合、2項も「憲法制定権力者」の意思であるから、改正できないこととなる。


⇒ もし2項には、1項の「日本国民」の意味が掛からないとした場合、「保持しない」「認めない」としているのは誰かという話となる。「日本国民」以外には考えられないと思われる。


> 「永久に」の文言を「憲法制定権力の意思」と解し、改正不能な規定であることを示す効力があると考える。
 すると、1項の「日本国民(憲法制定権力)は、」の掛かる、2項前段、2項後段も、「憲法制定権力の意思」が掛かっていることになり、改正は不能となる。


⇒ 1項の「日本国民」の文言が、必ずしも「憲法制定権力」の意味でないと考えるのであれば、「現在及び将来の国民」は「放棄する(1項)」「保持しない(2項前段)」「認めない(2項後段)」の文言によって、思想を強制されることとなり、「思想良心の自由(19条)」を侵害されることとなり、妥当でない。(矛盾する。)

 これは、「平和主義」を打ち出す日本独特に設けられた憲法上の規定が、近代立憲主義の目的である「人権保障」が実現されない憲法となってしまうため、妥当でない。
 普遍的な価値とされる「基本的人権の尊重」という近代立憲主義の理念を損なうこととなるのである。

 (いや、思想良心の自由は、「侵してはならない。」の表現であり、「国は侵してはならない。」のように「国は」などの文言が省略されていると考えれば、日本国民自身が放棄したものは、この「侵してはならない」に適合する事例とは読めないとの解釈も可能かもしれない。)
 (それとも、「思想良心の自由」に対する憲法上の例外と読むべきなのか。)


⇒ もし「憲法制定権力の意思」であっても、「現在及び将来の国民」である「憲法改正権力」が制限なく改正できると考えるのであれば、1項の「永久に」の文言に意味はなく、改正不能な規定であることを示す効力がないと考えることとなる。
 すると、11条と97条の「侵すことのできない永久の権利」の文言に含まれる「永久に」の文言も同様に、改正不能な規定であることを示す効力がないと考えることとなる。

 11条と97条の「永久に」の文言が、人権の永久性の建前を示す効力がないことに繋がってしまい、普遍的な価値とされる「基本的人権の尊重」という近代立憲主義の理念を損なう改正が可能となることを意味することに繋がり、憲法の存立を脅かす改正に道を開くこととなり、もはや改正も革命も違いがないこととなり、憲法改正の規定が設けられている趣旨を損なうこととなり、妥当でない。

 (「永久の権利として」という、建前の文言であるから、この場面では関係ないという主張もあるかもしれない。しかし、もしそうであっても1項の「永久に」が何のための文言なのかという疑問は残る。)


⇒ 「憲法制定権力の意思」であっても、「現在及び将来の国民」である「憲法改正権力」が制限なく改正したり、加憲によって否定することができると考えるのであれば、それは憲法改正の限界を考えない立場である。
 そうなると、そもそも憲法原理そのものを破壊したり、革命に道を開く考え方となる。すると、憲法保障の意図から「憲法改正権」が憲法上に定められている意味を損なうことに繋がるため、妥当でない。
 改正と革命を区別して考えない点で、改正規定が設けられている趣旨を損なうこととなり、妥当でない。

 この論点をまとめると、2項についても、改正が不能であると考えることが妥当であるように思われる。




日本国憲法の参考となる前文と条文
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 日本国民(憲法制定権力)は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすること決意し、ここに主権が国民に存すること宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われら(憲法制定権力)は、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する

 日本国民(憲法制定権力)
は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しよう決意した。われら(憲法制定権力)は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたい思ふ。われら(憲法制定権力)は、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する


 われら(憲法制定権力)は、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる。

 日本国民(憲法制定権力)
は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成すること誓ふ



    第1章 天皇

〔天皇の地位と主権在民〕
第1条 天皇は、日本国の象徴であり日本国民(現在及び将来の国民)統合の象徴であつて、この地位は、主権の存する日本国民(憲法制定権力)の総意に基く。


    第2章 戦争の放棄

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条 日本国民(憲法制定権力)は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。


    第3章 国民の権利及び義務

〔国民たる要件〕
第10条 日本国民(現在及び将来の国民)たる要件は、法律でこれを定める。


〔基本的人権〕
第11条 国民は、すべての基本的人権の享有を妨げられない。この憲法が国民に保障する基本的人権は、侵すことのできない永久の権利として、現在及び将来の国民に与へられる。


〔思想及び良心の自由〕
第19条 思想及び良心の自由は、これを侵してはならない。


    第10章 最高法規


〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民(現在及び将来の国民)に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

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 1条の「この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」の「日本国民の総意」という表現であるが、これも19条の「思想良心の自由」を侵害するような意味を持たないと考えることが妥当であると思われる。すると、
「憲法制定権力の総意」と考えることが妥当であるようにも思われる。


 かといって、「現在及び将来の国民」
は「憲法制定権力」の生み出したこの憲法秩序に組み込まれているため、現憲法体制を維持する以上は、この規定の法の効力を否定することはできないだろう。




 憲法学者「長谷部恭男」の表現を見ておこう。(作成中)

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 ただ、近代立憲主義の理念に立脚する国々も、各国固有の理念や制度を憲法によって保障していることがあります。日本の場合でいえば、天皇制や徹底した平和主義がこれに当たるでありましょう。こうしたそれぞれの国の固有の理念や制度も、その時々の政治的多数派、少数派の移り変わりによっては動かすべきではないからこそ、憲法に書き込まれているということになります。
 もっとも、これら国によって異なる理念や制度は、普遍的な近代立憲主義の理念と両立し得る範囲内にとどまっている必要があります。つまり、特定の人生観や宇宙観を押しつけるようなことは、近代立憲主義のもとでは、憲法に基づいても認められないということになります。
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参考人 長谷部恭男(早稲田大学法学学術院教授) 第189回国会 憲法審査会 第3号 平成27年6月4日 (下線・太字は筆者)

 「天皇制」を押し付けたり、「天皇」を崇めるという特定の価値観を押し付けることは、人権侵害となる。これでは近代立憲主義と整合性がない。

 同様に、「絶対平和主義」に基づく「武力行使全面放棄説」という特定の思想を押し付けることは、武力攻撃を受けても無防備、無抵抗のまま生命権などが保障されないことを意味し、人権侵害となる。(ここでは『国権』による刑法上の『正当防衛』に基づく『実力行使』も禁じられているとする考え方を指す。)これでは近代立憲主義と整合性がない。


 「天皇制」を押し付けようとする勢力も一定数存在する。ただ、それが法の効力を支えている側面も一定程度認められるように思われる。

 同様に、「絶対平和主義」を押し付けようとする勢力も一定数存在する。ただ、それが法の効力を支えている側面や、軍拡を抑制している側面も一定程度認められるように思われる。

 どちらの勢力も、ある面では立憲主義を支えるが、ある面では思想を押し付けようとすることで近代立憲主義に沿わない行動をしていることになる。

 従来は一体となっていた「権力」と「権威」を分離し、「権威」として「天皇」が法の普遍性の建前を担っている。しかし、近代立憲主義の精神から「天皇」を崇めるように強制してはならないという仕組みによって「思想良心の自由」が保たれる。
 同様に、従来は採用していなかった「平和主義」の理念を定め、「絶対平和主義」の建前を掲げておくけれども、近代立憲主義の精神から「絶対平和主義」を押し付けてはならないという仕組みによって「思想良心の自由」を確保するべきと読み取ることが妥当ではないだろうか。

 この両者には、かなり近いものがあるのではないだろうか。

 「天皇」も「絶対平和主義」についても、ある面では宗教的な特定の思想の押し付けを発生させる力になりうるが、近代立憲主義の精神から読み解くことで、妥当な解釈を導き出すことができるはずである。
 この観点から、9条を解釈することが妥当と考えられる。

   【参考】芦部信喜と憲法第九条 2019-04-13


<理解の補強>

憲法公布の日に ワイマールの教訓とは 2018年11月3日
憲法9条2項の改定は「憲法改正の限界」を超える!! 2018年11月28日

【問】憲法から定理を導け 【解】9条は改正不可 前広島市長・数学者 秋葉忠利さん「証明」 2019年11月4日

清田雄治(愛知教育大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


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・憲法改正と憲法制定とは本質的に異なる。憲法改正は既存の憲法の同一性を維持した上でしか許されないので、憲法改正には理論的な限界があるから、この限界を超える改憲は、改正手続きを経ても許されない。
・再軍備を認めて日本国憲法の平和主義を変更することは、平和憲法の同一性を失わせるものであるから、憲法改正の限界を超えるので、憲法改正の手続きを経ても許されない。かりに専守防衛の枠内であれば許されるとの立場が妥当だとしても、専守防衛の枠を超える他衛戦争に参戦することになる集団的自衛権行使を許容する改憲は、憲法改正の限界を超えるので、許されない。
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上脇博之(神戸学院大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


 「9条2項を削除すると、日本は平和憲法の国でなくなる。」
佐々木弘通(東北大学大学院) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日


 「憲法9条を改正することはできない。日本国憲法の改正の限界を超える。」
後藤光男(早稲田大学) 安保法案学者アンケート 2015年7月17日

 

【動画】憲法を変えるな! ~安保法制違憲訴訟の勝利を目指して 2022年1月27日





集団的自衛権の行使のみを禁止できるのか

 「集団的自衛権」は、国際法上の概念である。

 そのため、憲法上で「集団的自衛権の行使」にあたる日本国の統治権の『権限』を行使しないことを明確にする場合には、「集団的自衛権」という文言を用いずに、国内法上の言葉を用いることが必要である。


 また、9条は禁止規定であることから、その9条の中に統治権の『権限』の根拠となる規定(根拠規定)にあたる文言を設けることは、自衛を目的とする「戦争」や「武力の行使」を誘発する危険があると考えられ、妥当でない。


 そのことを考えると、9条の下で「個別的自衛権の行使」のみを許容して「集団的自衛権の行使」を禁止することを明確にするためには、「他国が武力攻撃を受けたことに起因する形での(を理由とする)武力の行使」について『禁止』する規定を設けることが妥当ではないかと考えられる。これを検討する。


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    第2章 戦争の放棄

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第9条日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
2 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

3 他国が武力攻撃を受けたことに起因する形での武力の行使は、これを認めない。
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 このように国内法上の言葉を使って定義することにより、国際法の定義変更、解釈変更によって、憲法上の意味が変わってしまうことを防ぐことができると思われる。


 まだまだ詳しく検討する必要があるが、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」にあたる『権限』を、9条の内容に沿った形で禁止することができたのではないだろうか。





平和的生存権を条文化できるか

 国防軍を保持するのであれば、9条2項を削除するべきである。

 また、9条2項を削除したことに伴って、法体系全体の整合性を持たせるためには、前文の「平和主義」について記された文言も削除する必要がありそうである。


 国防軍を保持する場合には、憲法第五章の「内閣」の章の中に、国防軍の活動に関わる「自衛の措置」に関する規定を書き込むことは可能であると思われる。

 

 この際、国防軍に関する規定の設置(法律規定でもいいが)と同時に、前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」の文言をその規定に併記する形で条文化するというのはどうだろうか。


 たとえ敵国の国民であれ、日本国の統治権に対する主権者としての地位(最高決定権)を行使することはできないが、「平和的生存権」を有していることを明確にする方法である。

 すると、「我が国に対する急迫不正の侵害」が発生した場合に、日本国の国防軍がそれを防ぐための措置を行うことになるが、その活動を行う場合においても、相手国の国民の「平和的生存権」を侵してはならないことが明確になるように思われる。


 これにより、任務遂行に関して、相手国の国民の「平和的生存権」を侵すような立法を行ったり、法律を執行した場合には、その国家行為を違法化することが可能となり、裁判所で統制することができるのではないかと思われる。

 他国の国民の人権に配慮した形で活動することを明記できる点はよいのではないだろうか。

 どうしても国防軍を保持したいのであれば、どういう方法がいいのか検討する必要がある。

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    第二章 戦争の放棄

〔戦争の放棄と戦力及び交戦権の否認〕
第九条 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。

2 (削除)


    第五章 内閣


〔内閣総理大臣の職務権限〕

第七十二条 内閣総理大臣は、内閣を代表して議案を国会に提出し、一般国務及び外交関係について国会に報告し、並びに行政各部を指揮監督する。

2 (新設) 内閣総理大臣は、国民の生命を守るために外国からの急迫不正の侵害に対して必要最小限度の武力を行使するため、国防軍を指揮監督する。


3 (新設) われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。


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 今回は、かなり適当なことを記載したと思う。

 この案の意図は、相手国の国民の「平和的生存権」を確認することで、全面戦争や総力戦となることを防止し、国民自身が「武力の行使」を実施することに対して責任を負うという意識が必要ではないかということである。

 (ただ、『平和的生存権』は、人権規定であるため、【統治規定】の中に組み込むことは体系的におかしな選択かもしれない。)


 しかし、実はこれは現在の「自衛隊」の運用とほぼ変わらないと思われる。そうなると、やはり国防軍を保持する必要はなく、「陸海空軍その他の戦力」に抵触しない範囲の「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の範囲に留まる形となっている「自衛隊」のままでいいのではないだろうか。

 9条2項の「戦力不保持」の規定によって、「軍を持たない国家」という形の運営によって「自衛のための必要最小限度」という三要件(旧)の範囲に留まる形での「自衛の措置」としての「武力の行使」のみを行う方法は、最先端の考え方ということもできるのではないだろうか。

 この「武力の行使」の限度や、実力組織の保持に対して抑制作用を有し、軍縮を目指す在り方は、国際社会との調和的な在り方に非常に適合的ということもできるのではないだろうか。

 軍縮を継続していく姿勢を保つためには、9条2項の「戦力不保持」の規定やそれに関する解釈の議論は背負い続けた方がいいのではないだろうか。


 筆者もまだまだ勉強します。こちらの記事も、お読みいただきありがとうございました。

武力行使の要件の比較

「存立危機事態」と「それ以外の事例」と「元内閣法制局長官 阪田雅裕 私案 加憲案5項」「維新の党 対案」の要件

他国からの

要請

武力の行使

他国に対する武力攻撃 なし

✕ 不可

【先制攻撃】

あり

✕ 不可

【集団的自衛権】

我が国と密接な関係にない他国 に対する武力攻撃が発生 これにより 我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態

 

 

なし

✕ 不可

先制攻撃

あり ※1

✕ 不可

我が国と密接な関係にある他国

なし

✕ 不可

【先制攻撃】

あり

〇 可能としているが…

【集団的自衛権】 違憲

(武力攻撃は不発生)

✕ 不可

先制攻撃

我が国と密接な関係にある他国

に対する武力攻撃が発生 これにより 我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合

(問わない)

〇 可能?

【先制攻撃】

条約に基づきわが国周辺の地域においてわが国の防衛のために活動している外国の軍隊

に対する武力攻撃が発生 これにより わが国に対する外部からの武力攻撃が発生する明白な危険があると認められるに至った事態

〇 可能?
【集団的自衛権】?

【個別的自衛権】

✕ 不可
先制攻撃
△ 可? 『着手』?
【個別的自衛権】?

我が国に対する武力攻撃

〇 可能

【個別的自衛権】

存立危機事態の要件の分析    

 「密接な関係」にあかないかの要件が不存在。その他国からの要請があった時に(1)、「密接な関係にある他国」かどうかを認定することが内閣の政治判断となる。実質的な限定性はない。

  「他国に対する武力攻撃」はその「他国」が認定するものであり、我が国が主体的に判断することができない。主体的に判断することができたとしても、「他国に対する武力攻撃」が発生したとしても、未だ9条の規範性を通過しない。

 要件の前半と後半に必然的な因果関係や切り離すことのできない結合関係がない。因果関係の認定は内閣の政治的な判断となる。侵害的な行政活動(既に違憲な軍事権ともいえる)であるにもかかわらず、行政権に広範な裁量権を与えた旨が違憲。

 具体的にどのような状態を指しているのか曖昧不明確である。政府の恣意性を排除することができず、31条の「適正手続きの保障」の趣旨や41条の「立法権」の趣旨より違憲となる。  要請の有無に従って判断が分かれるということは、要請があった時の武力の行使は「他国や他国民を防衛する」という意味を含むこととなる。この行動は13条を根拠とすることのできる範囲を超えるため、9条に抵触して違憲。  


憲法に自衛隊書くだけでは白紙委任 阪田・元法制局長官 2018年2月7日

(余談)維新の「対案」は違憲の疑いが濃厚だと考えます 2015年07月04日

維新の対案、与党「あいまいだ」と追及 2015.9.2

維新の党の「武力攻撃危機事態」の記事、メモまとめ 2015-07-02

維新案が浮き彫りにする「存立危機事態」の実相 2015年07月11日

[6]「急迫、不正の事態」でなくとも、自衛権を行使できるのか 2014年06月25日