集団的自衛権の合憲性の誤解 2


 こちらのページの内容は、下記のページを先にお読みいただくと理解しやすくなると思います。

礒崎陽輔

 

〇 自民党 礒崎陽輔


切れ目ない安保法制の整備めざす政権(上) 2015年06月10日


 「形式的に憲法違反であるのかないのかが、第1点。2番目が、憲法9条の範囲内であるとしても、その解釈変更に妥当性があるのかどうかという点。いずれも今後しっかりと議論されるべき問題ですが、今回の憲法解釈の変更が違憲という話は聞いたことがないです。」との記載がある。


 1点目の「形式的に憲法違反であるか」について、形式的に憲法違反である。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、この「外国の武力攻撃」とは、「我が国に対する」外国の武力攻撃を意味するからである。この中に「我が国に対する外国の武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとするのであれば、我が国と関係のない外国の武力攻撃もこの中に含まれると読み解くことも可能となってしまう。このように「我が国に対する外国の武力攻撃」という基準を失えば、結局「国民の権利を守る」との理由で政府が「武力の行使」を行うことを排除できなくなり、9条が存在している意味自体を損なうことになる。このような規範性を損なうことは、9条の規範性を確定するために行われた1972年(昭和47年)政府見解という解釈行為そのものの意味を失わせるものであり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解を憲法解釈として成り立たないものとしてしまうものである。形式的に憲法違反である。


 2点目の「解釈変更に妥当性があるか」について、解釈変更に妥当性はない。1972年(昭和47年)政府見解の規範性を損なっていることにより、9条の範囲内ではないからである。政府が解釈変更を行う可能性を有することは当然であるが、それは違法でない形で行わなければならない。存立危機事態の要件は、1972年(昭和47年)政府見解という自らが設定した違憲審査基準に、自ら抵触するものであるから、違憲・違法である。解釈変更として妥当性はない。


 「今回の解釈変更が違憲という話は聞いたことがないです。」とのことであるが、政府が合法的な範囲内で解釈変更を行うこと自体に違法性はないが、その内容に違憲性がある場合は、違法な解釈なのであるから、違法な解釈変更というべきものである。今回の解釈変更は、違憲である。



 「しかし、国際化が進展し、国際情勢が大きく変化する時代の中で、我が国の安全保障を確実にするためには、必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権もあるのではないかという、中身の議論をしてほしいのですね。」との記載がある。しかし、「必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権」との説明について、内容に混乱がある。


 まず、「自衛の措置」とは、我が国が自国を守るための措置である。この「自衛の措置」の中には、砂川判決が示すように「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」「他国に安全保障を求めること」も含まれる。これについては、砂川判決に見られるように、9条の下でも我が国の指揮権・管理権を行使して行われるものではないことから、9条にも抵触しないと考えられている。


 しかし、この「自衛の措置」として我が国の統治権の『権限』が指揮権・管理権などを行使して行う「武力の行使」を行うとする場合には、9条に抵触するかどうかが問題となる。具体的には、1項の「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」や、2項の「陸海空軍その他の戦力」「国の交戦権」への抵触の可能性である。


 これについて、我が国の統治権の『権限』として行われる「武力の行使」が可能な範囲を確定した解釈が、1972年(昭和47年)政府見解である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を規範性の基準とするものである。この基準について、「必要最小限度」と表現されることがあるが、「必要最小限度であれば合憲」と数量的に解釈するものではなく、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たすものは、「必要最小限度」の範囲内と解釈しているものである。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 これにより、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲となることから、集団的自衛権の行使としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たしておらず、違憲との結論が導き出されるのである。


 そのため、「必要最小限度の自衛の措置に収まる集団的自衛権」というものは、存在しておらず、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は違憲である。



 「昨年7月の閣議決定を読んでもらえれば、私たちは、なぜ憲法解釈の変更で対応できるかということは明確に書いており、合憲の理由は示しているつもりです。」との記載がある。2014年7月1日閣議決定を読むと、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を違憲審査基準としていることから、これに適合しない「存立危機事態」の要件は、政府自身の違憲審査基準によって違憲となる。合憲の理由は示されていない。



かみ合わぬ憲法論(3) 2015年12月17日


 「② 集団的自衛権」において、「今回の平和安全法制により、集団的自衛権のうち、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」との記載がある。


 しかし、9条が禁ずるものは日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」である。9条の下で日本国の統治権の『権限』としての「武力の行使」を行える範囲は何かが問われているのである。ここに国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という『権利』にあたるかなどという基準は一切関係がない。


 それにも関わらず、「集団的自衛権のうち、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」との説明は、9条の下で行われる日本国の統治権の『権限』によって行われる『自衛のための措置』の範囲を確定する作業において、「集団的自衛権」という『権利』の区分を混ぜ合わせており、混乱を招く表現となっている。


 下記に整理する。

> 『自衛のための措置』⇒ 日本国の統治権の『権限』の行為
> 「集団的自衛権」⇒ 国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分


 論者は「集団的自衛権のうち」などと、国際法上の違法性阻却事由の『権利』持ち出すが、日本国の統治権の『権限』の範囲とは関係がないので、取り除いて表現を確認する。


 すると、「『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に行使されるものについては、限定的に『自衛のための措置』として容認されるとする憲法解釈の変更を行いました。」となる。


 つまり、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に、日本国は『自衛のための措置』として「武力の行使」を行うという憲法解釈を行ったということである。


 しかし、9条は前文の平和主義の理念を具体化した規定であるとされており、前文の「政府の行為によって再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」を受けた規定である。また、憲法は我が国の独善主義を排する趣旨で、国際協調主義を採用している。そのため、9条は政府の政治的な都合や国民の権利を実現するという理由によって「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨の規定である。その趣旨から求められる9条解釈における規範性の設定は、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを禁じようとする意図を生かしたものである必要がある。その意図を活かすことのできる規範性の設定は、受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けることが妥当である。


 しかし、存立危機事態の要件は、論者の言うように、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に、日本国が『自衛のための措置』として「武力の行使」を行うことを可能とするものである。これは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにも関わらず、日本国の政府が『我が国の存立を脅かす明白な危険がある』との判断を行うことにによって「武力の行使」を行うことを可能とするものである。しかし、9条はまさにこのような自国都合による「武力の行使」が行われることを防ぐために設けられた規定であることから、「存立危機事態での武力の行使」は9条に抵触して違憲となる。


 「その解釈変更の枠組みは、既に述べたように昭和47年の政府見解を基礎としつつ、その具体的なあてはめについては国際情勢の変化に伴って変わり得るというものでした。」との記載があるが、誤りである。


 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中には、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在する。この「外国の武力攻撃によって」とは、「我が国に対する武力攻撃」を指したものである。そのため、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」がこの「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に含まれることはない。このことから、「具体的なあてはめ」を行おうにも、「我が国に対する武力攻撃」ではない時点で、存立危機事態の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」をあてはめることは不可能である。この規範は「国際情勢の変化に伴って変わ」るわけではない。


 もし「国際情勢の変化に伴って」、『我が国に対する武力攻撃』が『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃』に変化するとするならば、「国際情勢の変化に伴って」、『我が国と関係のない他国同士の武力攻撃』もここに含まれるとする可能性が生まれてしまうことになる。そうなれば、1972年(昭和47年)政府見解が、結局、日本国以外の世界のどこかの地域で『武力攻撃』が発生したのであれば、日本国は政治的な事情や国民の権利の実現などを理由として「武力の行使」を行うことができるとする解釈となってしまう。これでは、9条の規定が存在することから自国都合の「武力の行使」を排除しようとする趣旨を生かして規範性を設けている意味を損ない、1972年(昭和47年)政府見解が憲法解釈として成り立たないものとなってしまう。そのため、「国際情勢の変化に伴って」1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に含まれる規範性が変化することはなく、「具体的なあてはめ」が変わり得ると論じることは妥当な解釈とは言えない。


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『軍艦外務令解説』は、満州事変と上海事変を自衛権行使の例とするが、安倍政権による変更前の政府解釈は、①の要件を「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実がある場合のみに限定していたため、満州事変や上海事変が再び起きる余地がなかった。だが、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」を理由とする「解釈変更」により、要の安全装置である①の要件が破壊されてしまった(詳しくは、水島朝穂『ライブ講義 徹底分析!集団的自衛権』岩波書店参照)。だから、「我が国を取り巻く安全保障環境の変化」が「自衛」の範囲の「解釈変更」の理由になるのであれば、新9条の「自衛」の範囲も同じ理由で拡大解釈されないという保証はない。北朝鮮でさえ、憲法60条で「自衛的軍事路線を貫徹する」と定めているところである。無自覚に「自衛」を押し出していくことの危うさは明らかではないか。
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安倍流9条加憲は「憲法条文内クーデター」 ――明記しても自衛隊の違憲性は問われ続ける―― 2017年8月21日 (下線は筆者)


 「3 憲法解釈の変更は正当な法手続」の項目にて、「憲法の規定の範囲内で、かつ、合理的な必要性が説明できる場合において、憲法解釈の変更を行うことは、何らの問題もありません。要は、それが、憲法の規定に照らし、その許容する範囲内にあって合憲なのか、そうではなく違憲なのかという点に論点は尽きると考えます。」との記載があるが、その通りである。


 しかし、「存立危機事態での武力の行使」については、憲法規定の範囲を確定する憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲を逸脱しており、違憲である。憲法解釈の変更それ自体は、憲法規定の範囲内であれば可能である。しかし、今回の解釈変更は内容が違憲であるのであるから、憲法解釈の変更それ自体についても、違憲の行為であったということになるのである。憲法98条には、「この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。」と規定されている。違憲な内容の憲法解釈の変更についても、「国務に関するその他の行為」に該当し、「その効力を有しない」のである。



 「自衛権については、憲法に具体的な規定はなく、これまでも全て憲法解釈によらざるを得なかったのは、上記に示したとおりです。」との記載があるが、認識に混乱がある。


 「自衛権」は国際法上の概念であり、『権利』である。憲法解釈が行っているのは、9条が国家の統治権の『権限』の範囲を確定する作業である。この両者は、国際法と国内法で法分野が違うことに加え、『権利』と『権限』で性質が異なる。そのため、「自衛権にいては、憲法に具体的な規定はなく」との説明があるが、国際法上の『権利』について、憲法上に具体的な規定を設けることはできないものであり、憲法に具体的な規定がなくて当然である。「自衛権」について、「これまで全て憲法解釈によらざるを得なかった」との説明も、誤りである。



 「かみ合わぬ憲法論」が起きているのは、論者の認識に誤りがあるためである。


かみ合わぬ憲法論(2) 2015年12月1日


 「集団的自衛権は『他国防衛』を目的とするものだから憲法の容認するところではない」との主張を批判しようとしている点であるが、いくつかの誤りでがある。


 まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である。この『権利』の行使は、基本的に国家の統治権の『権限』による「武力の行使」である。この『権利』は、「他国からの要請」が存在することによって初めて発生する権利であり、「他国からの要請」が存在しないまま「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項の武力行使禁止原則に抵触して国際法上違法となる。


 これにより、「集団的自衛権」という『権利』は、「他国からの要請」がなければ発生しないのであるから、「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」が行われる場合は、すべて『他国防衛』を含むことになるのである。


 よって、「『他国防衛』ではなく、『自衛のため措置』であると考えているのです。これが限定容認論です。」との記載があるが、他国防衛の意図を含まない「集団的自衛権」という概念が存在しない以上、『自衛のため』『自国防衛のため』と称したところで、「他国防衛に付随する自国防衛」でしかないのである。


 加えて、「存立危機事態での武力の行使」とは、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行う「武力の行使」である。これが国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分に該当しようとなかろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではない。日本国の統治権の『権限』は、国民主権原理を背景に憲法によって正当化されるものだからである。ただ、9条によって「日本国民」が放棄した『権限』については、日本国の統治機関は授権されていないため、行使することができない。9条の制約は、日本国の統治権の『権限』に対して、『自衛のため』や『自国防衛のため』であるからと言って必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、『自衛のため』や『自国防衛のため』と称して政府が恣意的な判断によって「武力の行使」を行ってきた歴史は幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」が行われることを排除するために9条の規定が設けられているからである。



 「集団的自衛権の中にも『我が国の存立を全うするために必要な自衛のための措置』に該当するものが含まれるのではないか」との記載があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の区分の話であり、日本国の統治権の『権限』の範囲とは関係がない。9条の下でも行うことができる「武力の行使」については合憲であり、9条の下で行うことのできない「武力の行使」については違憲というだけである。その結果、国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」は、違憲となるために行使できないという結論が導かれているのである。それにも関わらず、国際法上の『権利』から「自衛のための措置に該当するもの」などを導き出すということは、そもそも意味の通じない言葉を並べているだけである。


 「『他国防衛』ではなく、『自衛のための措置』であると考えているのです。」との記載もあるが誤りである。「集団的自衛権」の行使として「武力の行使」を行うのであれば、国際法上「他国からの要請」が必要であるため、『他国防衛』を含むこととなる。それを『自国防衛』と称しようとも、「他国からの要請」がない段階で『自国防衛』による「武力の行使」を行えば、国際法上違法となるのであるから、「他国からの要請」を必要とする時点で『他国防衛』を含むのである。


 そもそも、「我が国に対する武力攻撃」が発生しない段階で行う『自国防衛』と称する「武力の行使」は9条に抵触して違憲である。これは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を有しようと有せずとも、関係なく違憲である。9条は日本国の統治権の『権限』の範囲を制約する規範であり、国際法上の『権利』の区分を示す基準とは関係がないからである。



 「限定容認論」との説明もあるが、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を限定的に行使すると言いたいのかもしれないが、国連憲章51条の「集団的自衛権」に「限定」などという概念は存在しない。「集団的自衛権」という区分に該当すれば「集団的自衛権」なのであり、「限定容認」などという概念は国際法上は存在しないのである。


 そもそも、「限定容認論」という言葉であるが、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の概念を主軸として説明しようとしている試みが誤りである。問題となっているのは、9条の下で行うことのできる「武力の行使」の範囲であり、9条解釈の範囲内であれば合憲であり、範囲外であれば違憲なのである。この「武力の行使」が国際法上の「集団的自衛権」にあたるか否かという論点は、9条解釈の結果として現れる副次的なものでしかない。


 9条解釈が許容した「武力の行使」の範囲を示しているものは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。ここに「存立危機事態での武力の行使」が含まれることはなく、違憲である。それにより、結果として「限定容認論」と称する部分の「武力の行使」は違憲であり、「集団的自衛権の行使」も限定的にも容認されない。


 「頭から集団的自衛権の全てを『他国防衛』だと決めつけてかかるのは、議論を拒む態度」との記載もあるが、「他国からの要請」がなければ違法性が阻却されない「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うとしているにも関わらず、『他国防衛』の意図が存在しないかのような説明は誤りである。それを『自国防衛』と称するにしても、『他国防衛に付随する自国防衛』である。『他国防衛』を含む「武力の行使」を行う組織は、2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲である。もし完全な『自国防衛』であるとしても、9条は「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行う『自国防衛』と称する「武力の行使」を禁じているために違憲である。「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を発生させるには、「他国からの要請」が必要であるにも関わらず、純粋な『自国防衛』だけの「武力の行使」がその中に含まれているかのように説明することは事実を隠ぺいする態度だと言わざるを得ない。加えて、『自国都合』であっても、9条は必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。


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・ところで、「自国と密接な関係にある外国に対する武力攻撃を、自国が直接攻撃されていないにもかかわらず実力をもって阻止する権利」という定義及び「集団的自衛権を行使するためには、武力攻撃の直接の犠牲国による、武力攻撃を受けた事実の宣言及び他国への援助の要請が必要である」とする国際司法裁判所(ICJ)の判決からは、集団的自衛権行使とは他国防衛の 「目的」と「実質」を有していなければ存在し得ないものであることが理解できる(以下の「C及びD」必須) 。他方、7.1閣議決定の記載からは、「限定的な集団的自衛権行使」とは自国防衛の「目的」と「実質」を有していなければいけないことが理解できる(以下の「A及びB」必須) 。


・そして、こうした理解のもとに、安倍内閣の7.1閣議決定・安保法制の理解を踏まえた集団的自衛権行使の組み合わせの表を作ってみると、結論として、安保国会で明らかになった「限定的な集団的自衛権行使」たる「自国防衛の目的・実質を有し、かつ、他国防衛の目的は有せず他国防衛の実質のみを有する集団的自衛権」(以下の「ABD」)なるものは、国際法違反により存在できないと解されることが理解できる。


・ようするに、他国防衛の目的と実質を有する武力行使を排除する憲法9条の規範に抵触することを回避しようとして、自国防衛を目的とする「限定的な集団的自衛権行使」なるものを捏造したものの、集団的自衛権行使の定義等からの要請である他国防衛の目的と実質の要件から逃げ切ることができず、憲法9条規範と国際法規範の挟み撃ちにより自滅をしている構図であると解される。
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第五章 集団的自衛権行使の新三要件 ──歯止め無き無限定の武力行使 (P175~176) (下線・太字は筆者)


 「個別的自衛権では、直接我が国が武力攻撃を受けたときでなければ反撃できません。それまで待っていて本当に我が国の存立を全うできるかというのが、最大の論点なのです。」との説明があるが、誤りである。最大の論点は、国際法上の違法性阻却事由の『権利』としての「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたるかどうかではなく、9条解釈における「武力の行使」が許容される範囲である。9条解釈において許容される「武力の行使」が確定する結果として、その「武力の行使」が国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の区分に該当するかという評価が下されるだけである。


 論者は、あたかも9条解釈の中に国際法上の違法性阻却事由の区分の基準を持ち込もうとしている点で誤りである。国際法上の違法性阻却事由を得たとしても、9条が日本国の統治権の『権限』の範囲を伸縮されるわけではなく、関係ないのである。


 「集団的自衛権の成立経緯から考えても、大国の侵略から小国を守るための『共同防衛』ということでしょう。」との説明がある。「集団的自衛権」という違法性阻却事由の区分は関係なく、9条は『共同防衛』のための「武力の行使」やそれを行う組織は許容していないのである。よって、論者の「集団的自衛権」に対する概念でもってしても、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。


 「限定容認論の下の集団的自衛権の中に『自衛のための措置』が含まれ得るのかどうかを冷静に議論をすべきです。」との記載があるが、誤りである。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であって、日本国の統治権の『権限』による『自衛のための措置』の範囲とは関係がないからである。9条の下で日本国の統治権の『権限』が行使できる『自衛のための措置』を検討した結果、国際法上の違法性阻却事由のどの区分に該当するかという問題なのであって、集団的自衛権から9条解釈によって生まれる『自衛のための措置』の範囲を決しようという考え方自体が誤っているのである。


 「『我が国の存立を脅かす明白な危険』という新三要件の規定は、そのことを限定的明示的に定めたものです。」との記載もあるが誤りである。三要件は、9条解釈によって確定する要件なのであって、「集団的自衛権の中に『自衛のための措置』が含まれ得るかどうか」などという話とは全く関係がないのである。



 武力攻撃の「着手」の論点であるが、そもそも9条の下では「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことは違憲なのであるから、この国際法上の区分としての「個別的自衛権」の「着手」を拡大しようとすることの危険性を説明したところで「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができるとする論理には繋がらない。


 安保理に対して「直接の武力攻撃を受けていないにもかかわらず個別的自衛権の行使であると報告すれば、大変な事件になります。」との記載があるが、それは確かであると思われる。しかし、そもそも9条の下では「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」によってしか「武力の行使」ができないのであるから、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行われる「武力の行使」は違憲である。これにより、「集団的自衛権の行使」を安保理に報告する機会がないのであるから、この議論は9条の制約の下での日本国には関係のない話である。


 「マスコミも、集団的自衛権は、相手国が第三国に対する違法な侵略を開始したときに行使し得る自衛権であることは、ほとんど報じていません。それをとらえて『先制攻撃』などという批判をすることこそおかしな話です。」との説明があるが、国際法上の話と、憲法上の話を区別していないことによるおかしな話である。


 「集団的自衛権の行使」が国際法上において違法性が阻却されようとも、9条は自国都合の「武力の行使」を禁じており、それを行った場合には憲法上は『先制攻撃先に攻撃)』にあたるのである。論者は、国際法上と国内法(憲法)上では法分野が異なるために、異なる評価が行われることを理解していない。



 「3 自衛権の行使は総合的判断によるもの」の項目にて、「では、あらゆる存立危機事態をどのように規定すれば明確になるのでしょうか。」との記載があるが、そもそも9条の下では「あらゆる存立危機事態」があったからといって、「武力の行使」を許容する趣旨ではない。9条は、まさに自国の存立が危機であるからと言って、他国に向かって「武力の行使」を行うような行為を禁じているのである。これは、我が国の独善主義を排しようとした国際協調主義や「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」ている平和主義の理念からも導くことができる。


 論者の支持する国際法上においても武力行使禁止原則が定められており、「あらゆる存立危機事態」があったからと言って、自国や他国に対する武力攻撃が発生していない段階で行われる「武力の行使」を禁じているはずである。それにも関わらず、「想定しうるあらゆる事態を法律の規定で書き尽くすというのは、もとより不可能」などといって、「あらゆる存立危機事態」に対応できる曖昧な表現を正当化できる理由にはならない。


 そもそも、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の下では、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしていない中で行われる「武力の行使」は違憲であるため、「あらゆる存立危機事態」を理由とする「武力の行使」についても違憲である。



 「事態の認定は、その時の政府の責任により正に総合的判断に基づいて行われるべきもの」との記載もあるが、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにも関わらず、政府が総合的に判断して「存立危機事態」を認定して「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を損なうものであるから、9条に抵触して違憲となる。


 「武力攻撃があったからと言って、直ちに戦争に突入するわけではありません。」との主張はその通りである。しかし、「我が国に対する武力攻撃」が発生した時点を基準として、政府が「武力の行使」をするかしないかを決定できるとすることには、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」を行う可能性を排することのできる規範性を有しているが、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにも関わらず政府が「武力の行使」をするかしないかを自由裁量で決定できるとすることは、9条の趣旨に反する。


 「その時の政府の総合的な判断によらざるを得ません。」との説明があるが、9条の制約の下での「政府の総合的な判断」については合憲であるが、9条の制約を外した形で「政府が総合的に判断」することは違憲である。論者は9条の制約をあたかも努力義務と解し、規範性を有しないかのように読み解こうとしている点で誤りである。


 「曖昧不明確ゆえに無効」となる論点であるが、これは、その規定が通常の判断能力を有する一般人の理解においてその規定を適用できるのかできないのかを識別するための基準を示すところがなく、その運用が適用する者の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど、重大な弊害を生ずることにより違憲となるものである。「人権制約の時の憲法論」との反論があるが、前文には「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」との記述があり、9条はそれら前文の平和主義の精神を具体化した規定であるとされており、9条は政府の主観的判断にゆだねられて恣意に流れるなど重大な弊害を生ずることを防止するための規定であることから、9条の規定が存在する意味から求められる解釈において、その趣旨を生かした規範性を有する明確な基準が求められることは明らかである。


 それは、論者のいう「集団的自衛権」の手続き規定があろうとも、国際法上の違法性阻却事由と、憲法上の9条解釈とは法分野が異なるのであるから、論旨が通じない。


 「存立危機事態の認定には、原則事前の国会承認が必要です。」との記載もあるが、「存立危機事態による武力の行使」そのものが違憲なのであるから、国会の承認を得ようと得まいが、違憲なのである。


 「行政に一定の裁量があるから違憲というのは、おかしな意見です。」との主張もあるが、行政権が憲法上で禁じられた制約を超えて行使されたならば、その行為は直ちに違憲である。行政権に裁量がある部分とは、違憲でない範囲に限られているのである。9条の趣旨より違憲である部分と違憲でない部分を規範性を設けなくてはならないところを、規範性を損い、行政権の裁量にゆだねることは、9条に抵触して違憲となるのである。そもそも、9条2項は軍事権限を許容しておらず、2項に抵触しないとする行政権の範囲を確定せず、曖昧不明確にして裁量判断で行う「武力の行使」に関しては、2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲である。



 その後、政府が砂川判決を用い、集団的自衛権であっても新三要件は限定的に「自衛のための措置」に該当するとしている点であるが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』が行う「武力の行使」の範囲については何も述べていない。そのため、砂川判決が持ち出されることは不適格な事例である。2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているのであるから、結局、単に1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって「存立危機事態での武力の行使」は違憲となるのである。


かみ合わぬ憲法論(1) 2015年11月5日


 「憲法には、自衛権について何も規定していません。」との記載があるが、当然である。「自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の概念であり、日本国憲法に書き込む必要がないからである。


 「吉田総理は、国家として当然自衛権は有しているが、その行使は認められないという趣旨の答弁をしています。」との記載があるが、当然である。日本国は国家承認を受けて国際社会から国家として認められているのであるから、国際法上の違法性阻却事由としての「自衛権」は当然有している。しかし、その「自衛権」という『権利』にあたる活動を行うには、国民主権によって正当化される憲法上の国家の統治権の『権限』による行為が必要である(国民主権原理を採用していない国家も存在することに注意)。しかし、日本国の場合は9条によって国民からの信託(授権)を受けていない『権限』が存在しており、「武力の行使」が制限されているのである。その中でも「武力の行使」ができる範囲を確定したものが、1972年(昭和47年)政府見解である。


 「この『必要最小限度』の内容が今問題になっているわけですが、その具体的な基準が憲法の規定から読み取れるわけではありません。」との記載がある。確かに、『必要最小限度』の内容は憲法規定から直接読み取ることができるわけではない。しかし、憲法規定の規範性を損なわない形で解釈を導くことは可能であり、その規範の設定こそが、1972年(昭和47年)政府見解である。


 また、『必要最小限度』の意味は、数量的なものではなく、質的な基準で設定しているものである。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 砂川判決が認めた自衛の措置とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。それ以外の措置については、何も語っていないのである。特に、日本国の統治権の『権限』が行う「武力の行使」については判断していない。


 「『我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置』とは何かということを虚心坦懐に考察すべきです。」との記載がある。政治的にはその通りであるが、それを行う際には合憲・合法的な範囲内で行う必要がある。それを踏み越えた場合は、直ちに違憲違法である。


 1972年(昭和47年)政府見解には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。この要件を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲となることから、「集団的自衛権の行使(つまり我が国に対する武力攻撃が発生していない中で行う『武力の行使』)」は違憲という結論が導かれているのである。


 これは、「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする集団的自衛権の行使」の文言の中に、「他国」とあるから、「自国防衛の集団的自衛権ならば行使できるではないか」というような性質のものではない。そもそも、国連憲章2条4項で「武力の行使」は禁じられており、51条の「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するためには、「他国からの要請」が必要である。この国際法上合法的な「武力の行使」を実施するために「他国からの要請」が必要となる「武力の行使」に、「他国に加えられた武力攻撃を阻止すること」つまり、「他国防衛」が含まれていないはずがないのである。


 「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を、「自国防衛」と称したところで、「他国からの要請」によって初めて国際法上の違法性が阻却される区分なのであるから、実質は「他国防衛に付随する自国防衛」でしかないのである。これを「他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容とする」という文言のみを取り上げ、あたかも反対解釈が可能であるかのように読み解こうとすることは、事実を隠ぺいする工作だと言わざるを得ない。マスコミが報じないのは論者の認識に誤りがあるからである。


 この議論とは別に、そもそも9条は「武力の行使」を禁じており、国際法上の違法性阻却事由を得ようが得まいが、9条の規範性に影響を与えることはない。そのため、「自国防衛」の「武力の行使」が必ずしも許容されるわけではない9条の下では、「我が国に対する武力攻撃」が発生していない段階で行われる「武力の行使」は違憲である。



 1972年(昭和47年)政府見解について、「要は、『他国防衛』と呼ばれるような内容を含む集団的自衛権を否定しています。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、『他国防衛』であろうと『自国防衛』であろうと、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行う「武力の行使」は違憲としているのである。その結果、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行われる「武力の行使」を行うことになる国際法上の「集団的自衛権」という『権利』の区分にあたる「武力の行使」は、違憲としているだけである。これは、9条の下で許容される「武力の行使」を確定した結果として「集団的自衛権の行使」にあたる「武力の行使」が違憲となる旨を述べたものであり、『他国防衛』か『自国防衛』かなどという基準を設けたものではない。


 そもそも、論者のように国際法上の「集団的自衛権」の概念を『他国防衛』と『自国防衛』とに区分けすることが、国際司法裁判所の管轄事項を日本国政府が独自に解釈しようとするものであり、日本国の独善主義である。これは、憲法の「国際協調主義」の理念にも反する。1972年(昭和47年)政府見解は、「いわゆる集団的自衛権」との表現をしており、この「いわゆる」は、国際法上の概念であるために日本国政府としてその定義を行ったり、明確な判定を行うことができないことを示唆するかのような躊躇した表現であることも注目すべきである。


 国際法上の『権利』の概念を『他国防衛』と『自国防衛』に区分けしたところで、9条の下での「武力の行使」が許容される範囲は揺るがないのである。


 「国際法上は他国防衛を内容とする集団的自衛権も当然認められており、このことについて、最近、国連憲章第51条で認められている集団的自衛権のことを『フルスペックの集団的自衛権』と呼んでいます。」との表現がある。しかし、国際法上は「集団的自衛権」は、「集団的自衛権」でしかなく、『他国防衛』や『自国防衛』などという区分は存在していない。それを日本の政治が勝手に『他国防衛』を「フルスペック」、『自国防衛』を「限定的」などと呼んでいるだけである。もともと「自衛権」とは違法性阻却事由であり、「武力の行使」そのものを示す言葉ではない。それにも関わらず、この違法性阻却事由の概念を用いて「フルスペック」だとか「限定的」だとかを語ること自体が誤りなのである。その行為の実質は「武力の行使」なのである。


 結局、この「武力の行使」を行うには、憲法上の統治権の『権限』が必要なわけであり、9条の制約の下では、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。そのため、「フルスペック」や「限定的」などと呼称しようとも、憲法上の違憲性を確定する基準とはならないのである。



 「今回、政府は、限定容認論を採り、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に限り、集団的自衛権を認めようとしたのです。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』であって、日本国政府が「認めようとした」ところで、国際司法裁判所の管轄事項である。2014年7月1日閣議決定は、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』に「武力の行使」を行おうとするものである。しかし、9条の規定は、このような自国の危機を理由として政府が「武力の行使」を行うことを禁じた趣旨であるから、受動的・客観的に明白な規範性を有した「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない段階で行われる「武力の行使」は違憲である。そのため、『我が国の存立を脅かす明白な危険がある場合』との理由で「武力の行使」を行うことは違憲である。


 「今回の政府の提案はその一部分である限定的な自衛のための措置としての集団的自衛権を認めようとしたもの」との記載もあるが、相変わらず「集団的自衛権」という国際法上の区分は関係がなく、9条に抵触する「武力の行使」は違憲である。「一部分」「限定的」などという言葉を付けても、9条に抵触する「武力の行使」である以上は違憲である。



 「何が『必要最小限度の範囲』であるかは国際情勢の変化に伴って変わるものであるというのが私たちの主張です。」との記載があるが、『必要最小限度』の意味に誤解がある。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 法の規範性とは「国際情勢の変化」に応じる形で簡単に変わるものではない。もし「国際情勢の変化」に伴って法の規範性を無視することができるとの論理を採用するのであれば、もはや侵略戦争でさえも「国際情勢の変化」によって正当化されるとの結論に至ってしまう。「国際情勢の変化」に応じて「武力の行使」を行う幅を広げたいのであれば、それは合法的な手段をとる必要がある。憲法改正である。


 「ただ憲法解釈の変更はけしからんという批判は、政治的主張ではあっても、法律論ではありません。」との記載があるが、「国際情勢の変化」に応じて規範性を損なわせる憲法解釈が可能とすることは「法律論」ではない。その意味で憲法改正の手段をとらずに「憲法解釈の変更」を行うことは「けしからん」ということは妥当である。ただ、違憲な「憲法解釈の変更」は、そもそも無効である。


 「いずれにしても、砂川判決における憲法解釈が重要であり、『我が国の存立を全うするため必要な自衛のための措置』を憲法は容認しています。」との記載がある。しかし、砂川判決が容認した「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」である。日本国の統治権の『権限』として行われる「武力の行使」については何も述べていないのであるから、砂川判決が持ち出されること自体が不適切である。


 「限定容認論の下の集団的自衛権が、本当にそのために必要な措置であるかどうか」との記載があるが誤りである。9条が禁じているのは「武力の行使」であり、「集団的自衛権」という『権利』ではないからである。「限定容認論」という言葉であるが、これは「集団的自衛権」の『権利』の区分を用いてその中で「限定」であるかを問おうとしている概念であり、9条の下で許容される「武力の行使」を確定するための基準とはなりえない概念である。国際法上の「集団的自衛権」の区分であろうがなかろうが、「集団的自衛権」の区分の中の「フルスペック」であろうが「限定的」であろうが、9条の制約の下でもなお許容される「武力の行使」を確定する基準には影響がなく、そもそも関係ない。


 「日本国憲法が、国家の存立を全うし、国民の生命身体を保護するために否定的なものであるはずがありません。」との記載がある。しかし、日本国憲法は「国際協調主義」と「平和主義」を採用しており、その下での9条規定は、たとえ「国家の存立」や「国民の生命身体の保護」という名目であっても必ずしも「武力の行使」を肯定する趣旨ではないのである。「国家の存立」や「国民の生命身体の保護」という名目で行われる独善主義的に行われる政府判断による「武力の行使」を排するために9条の規定が存在するのであるから、この論旨は正当化事由とはならない。



 「憲法解釈の変更」についてであるが、その基準とは9条の規範性を損なわせない基準の範囲内である必要がある。その規範性を損なった2014年7月1日閣議決定は、「立憲主義」の観点からも問題であることは当然、「法的安定性」も損なわせたものである。具体的な基準とは、「1972年(昭和47年)政府見解」である。これらは「立憲主義」や「法的安定性」を考慮した上で導き出された規範である。「立憲主義」や「法的安定性」といったことを考慮すると1972年(昭和47年)政府見解の規範性を導き出すことができるのであるから、「具体的な基準が出てくる」のである。論者の認識は誤りと言える。


いそざき陽輔のホームページ 私の主張(平成27年(2015年))

【◇憲法解釈変更の4つのキーワード(7月19日) 2015年】


 「憲法が禁止しているのは、集団的自衛権ではなく、武力の行使である。」との説明があるが、正しい。しかし、「その中で、砂川判決は、『自衛のための措置』を国家固有の権能として認めたのである。」との説明は、正確には誤りである。なぜならば、砂川判決が認めた『自衛のための措置』とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけだからである。日本国の統治権の『権限』を行使して行う「武力の行使」については何も述べていないのである。よって、この場面で砂川判決が持ち出されること自体が不適切な事例であり、結局、「憲法が禁止しているのは、集団的自衛権ではなく、武力の行使である。」との説明のみが妥当なのである。それにより、論者が「目から鱗が落ちる感」を経験したのは、騙されているための錯覚であると言えるだろう。


 「我が国の存立を全うするための集団的自衛権は、必要最小限度の自衛のための措置に含まれる。」との説明であるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、「集団的自衛権」そのものは日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置」とは関係がないからである。


 上記の説明を要約すると、「我が国の存立のための『権利』は、自衛のための措置の『権限』に含まれる」という説明となり、そもそも意味が通じていないのである。


 「我が国の存立のための集団的自衛権という『権利』を行使することは、自衛のための措置の『権限』に含まれる」と説明したいのかもしれないが、「『権利』の行使は、『権限』に含まれる」という文の流れから、結局意味が通じない。


 「我が国の存立のための集団的自衛権という『権利』にあたる『武力の行使』は、自衛のための措置の『権限』に含まれる」と説明したいのかもしれないが、それは結局「武力の行使」について語っているのであるから、9条の制約する「武力の行使」の基準によって判断するだけであり、「集団的自衛権」という文言が持ち出される必要はないのである。


 なぜこのような意味の通じない説明がなされているのかというと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する作業であるにも関わらず、国際法上の『権利』の区分を持ち込もうとしているためである。国内法と国際法では法分野が異なることに加え、『権利』と『権限』で性質が異なるにも関わらず、これらを同一視しているという二重の誤りが存在することによる混乱なのである。


 「限定容認論」という文言についても、そもそも「武力の行使」を国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分から読み解こうとする発想に誤りがある。限定容認であろうともなかろうとも、国際法上の「集団的自衛権」という区分に該当すれば、「集団的自衛権」でしかなく、9条の制約を超えた「武力の行使」であれば、違憲であることには違いないのである。9条の制約は日本国憲法という国内法の問題であるにも関わらず、国際法上の区分を用いて「限定」だとか、「容認」だとか説明すること自体がそもそも誤りである。



 「私は、砂川判決の『自衛のための措置』は、我が国の自衛権を国家固有の権能として認めただけであり、それ以上でもそれ以下でもないと考えます。」との説明があるが、全くその通りである。それ以上でも以下でもないのである。それにも関わらず、小松内閣法制局長官の言葉を聞いて「目から鱗が落ちる感」を抱くのはおかしな話である。9条の制約は、1972年(昭和47年)政府見解であり、この「基本的な論理」の制約に示された範囲を超える「武力の行使」が違憲であることには変わらないのである。砂川判決は何も語っていないのであるから、結局9条の制約は1972年(昭和47年)政府見解に集約されるのである。


 「国際法の概念である個別的自衛権や集団的自衛権という用語を持ち込んで、あたかもその間に越えることができない境界があるように論じられているのは、誠に残念なことです。」との説明であるが、その通りである。しかし、なぜ論者はそう主張するにも関わらず、9条解釈において、国際法の概念である「集団的自衛権」持ち出し、その「集団的自衛権」を『他国防衛』と『自国防衛』に区分けし、『他国防衛』は違憲だが、『自国防衛』であれば合憲であると論じているのだろうか。9条解釈において、国際法上の区分が関係ないということは、論者も理解しているはずである。論者の主張は意味不明である。


 論者の言う通り、9条解釈は憲法解釈であり、国際法の概念である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という用語や基準を持ち込み、その間に超えることができない境界があるかのように論じて違憲・合憲の範囲を確定しようとすることは誤りなのである。論者自身も気づいているように、9条が制約しているのは「武力の行使」であって、「集団的自衛権」ではないのである。



 「一方で、『限定容認論』や『新三要件』も重要な概念でありますが、憲法解釈の変更を当てはめた結果こういうことになるという概念であって、憲法解釈そのものの基準となる概念ではないと考えます。」との説明であるが、『限定容認論』という言葉や、「憲法解釈の変更」において当てはめることができるかどうかは別としても、「憲法解釈そのものの基準となる概念ではない」という点では全くその通りである。


 「憲法解釈の基準となる概念は、従来も、現在も、『必要最小限度』の範囲にとどまる自衛のための措置であるかどうかということに尽きる」との説明も、全くその通りである。そこに間違いはない。ただ、その『必要最小限度』の意味については、論者の指しているものは1972年(昭和47年)政府見解である。この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に示された「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の意味は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を示すものである。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 「国際法上集団的自衛権の一部とみなされる措置が、『必要最小限度』の範囲にとどまる自衛のための措置であるかどうかということが、憲法論の焦点になるべき」との主張について、趣旨としては全くその通りである。


 しかし、「ここで、『必要最小限度』とは、我が国の存立を全うするため、すなわち、我が国を防衛するため、必要な措置であって最小限度のものであるかどうかという意味であると考えます。」との認識が誤りである。そもそも、『必要最小限度』という用語は、9条に関する憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって許容される「武力の行使」について述べているものである。そのため、『必要最小限度』という文言が憲法解釈上の規範となっているわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」が憲法解釈上の規範なのである。


 それにも関わらず、論者は9条解釈をした結果、どこからともなく『必要最小限度』という基準が現れ、『必要最小限度』であれば9条の下でも「武力の行使」が可能であると考えている点に誤りがある。


 そもそも9条の規定は、論者の言う「我が国の存立を全うするため」や「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容するわけではない。『自国防衛』を称する「武力の行使」が行われたことは、歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような政府の恣意的な判断や国民の利益のために「武力の行使」が行われることを禁じようとする趣旨で設けられた規定だからである。そのため、「我が国の存立を全うするため」や「我が国を防衛するため」であれば『必要最小限度』と見なし、その「武力の行使」が許容されると考えていること自体に誤りがある。


 9条が存在する限りはその規定から一定の規範性を見出す解釈が求められ、その基準として設けられた線が、1972年(昭和47年)政府見解に示された「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言である。この文言は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を示すものである。この規範性を損なわせる形で、どこからともなく『必要最小限度』なる概念が現れ、その『必要最小限度』と見なすかどうかが9条の制約であるかのように論じることは誤りである。


 1972年(昭和47年)政府見解の基準は、日本国の「専守防衛」の姿勢の根拠ともなっているものである。専守防衛について示した下記の資料で分かりやすく示されている通り、『必要最小限度』という概念は、「武力行使の態様」が『必要最小限度』であることを示す意味にも使われている。


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1 専守防衛
専守防衛とは、相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢をいう。
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3 基本政策 1 専守防衛 平成30年版 防衛白書 (下線・太字は筆者)


 論者の説明している『必要最小限度』とは、1972年(昭和47年)政府見解の規範性そのものを指しており、1972年(昭和47年)政府見解の中で論じられている「武力行使の態様」の『必要最小限度』とは異なる。


 論者は、1972年(昭和47年)政府見解の規範性そのものを指す『性質』としての『必要最小限度』の概念と、1972年(昭和47年)政府見解の中で論じられる「武力行使の態様」の『数量』としての『必要最小限度』の概念を混同し、あたかも1972年(昭和47年)政府見解の規範性そのものを『数量』として扱うことができるかのように論じているのである。そもそも、1972年(昭和47年)政府見解の基準を『数量』としての『必要最小限度』として扱うのであれば、9条の規範性は保たれていない。これは、9条という規定が存在することから求められる一定の規範性を確定できないものであるから、9条の規定それ自体を無視するものであり、憲法解釈として成り立たなくなるのである。


 ただ、実際には論者の説明している『必要最小限度』の概念が1972年(昭和47年)政府見解そのものである以上、その規範として設定された「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない限りは「武力の行使」を行うことはできない。


 「我が国の存立を全うするため必要な措置は、憲法が否定するものでは決してありません。」との説明があるが、誤りである。憲法9条の制約は、『自国防衛』と称する「武力の行使」を必ずしも肯定しているものではないからである。そのため、「我が国の存立を全うするため必要な措置」としての「武力の行使」についても、「憲法が否定するものでは決してありません。」との認識は導くことができない。このような、我が国の独善主義を排するために、憲法は国際協調主義を採用し、平和主義の理念を掲げているのである。論者の主張はそれらの理念に裏付けられた9条の趣旨や規範性を無視している点で正当化することはできない。


 「従来の憲法解釈との異同についての議論に終始しているのは、国家にとって有益ではありません。」との主張がある。しかし、まず国家とは憲法である。憲法に違反する行為は、「国家にとって有益」であるかないかに関わらず、国家の行為として正当化されないのである。「国家にとって有益」であれば、憲法違反を正当化されるとの議論は、そもそも憲法を掲げて国家を定義する営みそのものを否定する暴挙である。国家行為は合法的であることによって正当化されるものであり、「国家にとって有益」であるからといって、正当化され、合法化されるわけではないのである。明らかに誤った認識である。


 違憲・違法とならない方法として、「憲法改正」という手段が存在している以上、憲法改正を行わずに違憲な「解釈変更」を行うことは国家の行為として正当化することはできないのである。


 憲法が自衛権について何も規定していないことは、「自衛権」が国際法上の概念である以上当然である。「国民の幸福追求権を考えれば、」「必要な措置を否定するものではありません。」との説明があるが、これは「国民の幸福追求権のための『武力の行使』」を正当化する議論であり、明らかに9条が設けられている趣旨を踏みにじるものである。平和主義に裏付けられた9条は、政府が政治的な都合や国民の権利利益を実現することを理由として「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨であり、「国民の幸福追求権」のためだけに「武力の行使」が許されるとする規定ではないのである。


 「その基準は、『必要最小限度』の範囲に収まるものか否か」との説明があるが、論者の言う『必要最小限度』とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」そのものを指しているのであり、この基準の中に「存立危機事態」の要件は当てはまらない。結局、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにも関わらず、「我が国の存立を全うするため必要な措置」としての「武力の行使」を行うことは違憲である。


【◇限定容認論はなぜ合憲なのか(6月7日) 2015年】


 まず、「限定容認論の下の集団的自衛権の行使」との記載があるが、国際法上の区分としての「集団的自衛権」という言葉を使うのであれば、それは国際法上の「集団的自衛権」でしかない。それをあたかも国際法上の「集団的自衛権」の概念の中に、「限定」などの概念が存在するかのように語ることがそもそも誤りである。そのため、「限定容認論」などという文言が成立しないのであるから、「限定容認論の下の集団的自衛権の行使」などという言葉は、意味が成立しないのである。


 9条の制約は、日本国の統治権の『権限』に対するものである。この9条の制約に抵触すれば直ちに違憲である。この9条に抵触するかどうかという基準は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。注意したいのは、これに抵触すれば、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分に該当して国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」であったとしても違憲となることである。


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従来の政府解釈では、「憲法第九条の文言は、我が国として国際関係において実力の行使を行うことを一切禁じているように見える」(内閣法制局)が、「我が国に対する武力攻撃の発生」という外形的事実があればさすがに反撃してもいいだろうということで、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し(1981年6月3日衆法務委員会 角田礼次郎内閣法制局長官)、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていたのである。

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 上述したように、従来の政府解釈は、国際法上の個別的自衛権よりも狭い個別的自衛権の概念を採用し、極めて例外的な要件のもとに自衛隊の存在が正当化されていた。角田内閣法制局長官はいう。「個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。」(1981年6月3日 衆議院法務委員会)と。9条の文言がある限り、「我が国に対する武力攻撃の発生」がある場合に限ってその範囲内で個別的自衛権行使が認められると言わざるを得ず、国際法上の個別的自衛権行使すらそのまま認めるわけにはいかないというのが従来の政府解釈である。
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憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日 (下線・リンクは筆者)

 砂川判決について「この『自衛の措置』が集団的自衛権を射程に入れていたとは言えませんが、それを明確に否定したものでもありません。」との記載がある。ただ、「自衛の措置」が「集団的自衛権」を射程に入れていたか否かという考え方にそもそも誤りがある。日本国の統治権の『権限』によって行われる「自衛の措置」は、基本的に「武力の行使」であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分とは関係がないのである。よって、「集団的自衛権を射程に入れていたとは…」などという考え方が持ち出されること自体に誤りがあるのである。


 砂川判決は、日本国の統治権の『権限』において「武力の行使」を行うことができるのかを説明していないのであるから、結局、9条の下でも許容されるとする「武力の行使」の範囲を確定しているのは1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。


 「砂川判決により、憲法第9条は『武力の行使』を禁止しているが、『自衛の措置』は例外として認められることが明らかになったのです。」との認識に誤りがある。砂川判決の許容している『自衛の措置』とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」については何も述べていないのである。そのため、『自衛の措置』の範囲については政府の憲法解釈が行われることになるのは確かであるが、それは憲法の枠内で行われる必要がある。



 1972年(昭和47年)政府見解は、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言があり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この要件を満たさない集団的自衛権の行使としての「武力の行使」は憲法上許されないと示したものである。2014年7月1日閣議決定についても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているのであるから、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲であることは変わらない。よって、存立危機事態の要件は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を許容するものであるため、違憲である。


 「確かに国際法上の集団的自衛権は自国の危険と関係なく他国の防衛を共同で行うことを含みますが、我が国では限定容認論を採用し、上記のような我が国の存立が脅かされる事態において、必要最小限度の実力の行使しかできないこととしたところです。」との記載がある。しかし、相変わらず「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を示したものに過ぎず、日本国の統治権の『権限』において行う「武力の行使」を確定する作業とは関係がない。それにも関わらず、日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」の範囲を、国際法上の「集団的自衛権」の区分を持ち込んで説明を試み、その「集団的自衛権」の『権利』の区分を「限定容認」するなどという意味の通じないことを試みているのである。


 日本国は、国際法上「集団的自衛権」という『権利』はもともと他国と同様に完全な形で有しているのである。「集団的自衛権」自体は、完全に有するのである。その区分にあたる国家の『権限』としての「武力の行使」ができるかどうかに焦点があるわけであり、「集団的自衛権」などという国際法上の区分が「限定容認」などという話にはならないのである。


 結局論者は、「我が国の存立が脅かされる事態」において、我が国に対する武力攻撃がないにも関わらず「武力の行使」を行うことを正当化しようとするものでしかないのである。これは9条の制約から見れば、先制攻撃(先に攻撃)である。国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分に該当し、国際法上の違法性阻却事由を得ようとも、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解によって制約されているのであるから、これを超える「武力の行使」は違憲である。


 「必要最小限度の実力行使しかできないこととした」との評価であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を逸脱する「武力の行使」は違憲であり、「必要最小限度の実力行使」(武力の行使のこと)であれば合憲化されるなどという話にはならない。9条の規定が存在している以上は、その規定には規範があるわけであり、その規範性の憲法解釈を1972年(昭和47年)政府見解に示される「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たす「武力の行使」を「必要最小限度」と説明しているのであり、この基準は、論者の言う数量的な意味での「必要最小限度」という概念でもって曖昧にすることはできないのである。そのような解釈は憲法解釈として規範性を有さず、妥当でないからである。



 「こうした前提に立てば、このような限定容認論の下の集団的自衛権の行使は、昭和47年見解の『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものでは決してなく」との説明があるが、誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解とは、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲について述べたものである。その範囲を確定した結果として、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生」していない段階で行われる「武力の行使」であるために、許容されないとするものである。ここで使われている『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするとの「集団的自衛権」の説明についてであるが、1972年(昭和47年)政府見解とは、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするか否かに規範性を設定したものではなく、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしているかどうかに規範性を設定したものである。


 『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とする「集団的自衛権」は行使できないとする説明は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない「武力の行使」が許容されないことから現れる副次的なものでしかないものである。1972年(昭和47年)政府見解は、「集団的自衛権」の定義を『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』としているか否かを説明しようとするものではないのである。そもそも、「集団的自衛権」とは、国際法上の概念であり、その概念の意味内容を確定する作業は、国際司法裁判所である。1972年(昭和47年)政府見解において、日本政府が国際法上の違法性阻却事由の「集団的自衛権」の概念の中に、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものと、そうでないものが存在するかを論じることはできない。


 「『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものでは決してなく」との説明であるが、9条の下では、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とする「武力の行使」を行った場合、2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となることは当然であるが、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することを内容』とするものではなく、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」を行えば、9条1項にも抵触して違憲である。違憲・違法な先制攻撃(先に攻撃)である。


 「国連憲章で認められている集団的自衛権の一部を新たに限定的に認めたもの」との説明があるが、国際法上の「集団的自衛権」の概念に『他国防衛』や『自国防衛』などという線引きは存在せず、「集団的自衛権」は「集団的自衛権」でしかない。結局はそれは、「武力の行使」であり、9条の制約の下でその「武力の行使」が許容されるか否かが焦点なのであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれない「武力の行使」が違憲であることには変わらない。国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて説明することが誤りである。


 「従来の政府見解の枠組みを維持したものとなっています。」との説明があるが、「存立危機事態での武力の行使」は、従来の政府見解の枠組みである1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれることがないことから、違憲であり、枠組みを逸脱する以上は枠組みの意味が損なわれており、維持されていない。維持したものとなっているとの評価も誤りである。


 「自衛の措置の『必要最小限度』の内容も変わってくるべきなのです。」との説明があるが、「べき」という願望である。憲法解釈によって設定されている規範性を踏み越える「武力の行使」を行いたいのであれば、憲法改正を行う必要がある。政府が1972年(昭和47年)政府見解において設定した「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の意味する「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の規範性そのものが、国際情勢によって変わることはない。



【◇安保法制与党協議の結果(3月27日) 2015年】


 「憲法第9条の下で許容される自衛の措置については、昨年の閣議決定でほぼ決着済みの事項であり」との記載があるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているが、実際にはこの「基本的な論理」の中には当てはまるはずのない「存立危機事態」の要件を「当てはまる」などと結論のみを主張しているものであるから、解釈の過程を誤った違憲・違法なものである。よって、決着済みの事項ではない。むしろ解釈上は違憲無効として決着済みと言える。



集団的自衛権を巡る違憲論議について 2016年4月4日


 論者が藤田論文について論じる趣旨であることから、藤田論文の内容とそれを論じる論者の見解を、ここで同時に指摘することとする。


 「公理」について、

第一 「法解釈が誤ったものであれば、正しいものに改めるのは当然」
第二 「法適用に当たっては、法の内容の確定が必要」であり、「最高裁の判断がなければ自ら解釈することになる」
第三 「最高裁の最終的な判断が出るまでは、他の国家機関の解釈は暫定的なもの」

というのは、その通りである。


 このような理論枠組み自体は「立憲主義」に反するものではないということは当然である。


 しかし、「安倍政権が『何ら憲法違反はないと主張するのも、まさにこのような理論的根拠があるからである』」との内容については、安倍政権による法解釈について、上記の第一の公理を踏まえてた内容になっていないために誤りとなる。


 まず、「違憲であるとする見解が、『憲法によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を変更するのは、立憲主義に反する』と主張しているが、」との部分であるが、恐らく論者は内容を正確に読み取れていない。


 2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされている。この「基本的な論理」とは、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在し、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を規範性として設定しているものである。この規範性は、極めて受動的・客観的な要件であり、9条が国民の権利の実現などを理由として政府が自国都合の「武力の行使」を行うことを制約しようとしている趣旨を生かした安定性の高いものである。


 しかし、2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しながら、結論として「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていない「存立危機事態での武力の行使」を可能と結論付けようとしたものである。


 この点、「存立危機事態での武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠内では説明することができないのであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という政府見解という憲法解釈によって縛られる政府が、自らの手によって従来の憲法解釈を論理的整合性のない形で変更し、結論として「存立危機事態での武力の行使」を可能とし用としていることは、立憲主義に反するということなのである。


 「立憲主義に反する」との主張もその通りであるが、憲法解釈の文脈そのものに論理的整合性がないのであるから、「法の支配」にも「法治主義」にも反するのである。


 「『従来の説明を見る限り、『法的安定性』が最も重要な論拠とされて』いるが、『具体的にいかなる要請なのかが、より一層明確にされるのでなければな』らないとしています。」との説明との説明に続く、③の「『違憲の理由として『法的安定性』が主張されるとき、実はそこでは、『従来の解釈』こそが内容的に正しく、政府による『新解釈』は誤りであるという実体的判断が、既に前提とされている』という意味です。」については、まさにその通りであると考える。9条の趣旨は、日本国の統治権に対する制約であり、これは国民の利益や国内の政治的な都合によって政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨である。それにより、「従来の解釈(1972年(昭和47年)政府見解)」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に含まれる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」との要件に規範性を設定したことこそ内容的に正しく、「新解釈(2014年7月1日閣議決定)」が「存立危機事態での武力の行使」を結論として可能としたことは誤りなのである。実体的判断が既に前提とされていることも妥当である。


 「『憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない』という主張には、法理論的な根拠が見出せない」については、まあまあ正しい。しかし、問題は「従来の憲法解釈を変えること」ではなく、論理的整合性がない形で「従来の憲法解釈を変えること」である。これは、「憲法の番人」と呼ばれることもある「法制局」という法整備に関する専門家が、論理的整合性のない形で憲法解釈を変更することは、専門家としてあるまじき行為であり、非難に値するのである。法律の素人が論理的整合性のない見解を述べることはよくあることであるが、法律の専門家として活動している「法制局」たるものが、論理的整合性のない見解を述べることは、国家運営に重大な支障を生じさせるという意味で、許されないのである。解釈内容の妥当性がないことを考えれば、『憲法の番人である法制局が従来の憲法解釈を変えることは許されない』という主張は妥当である。


   【参考】「憲法の番人」をめぐる抑制と均衡の力学

 「憲法解釈の変更は、『本来よるべき憲法改正手続を回避するための便法であって、権限の濫用であり、それ故に違法・違憲であるといった主張がある』が、『権限の『濫用』は違法であるということは一般的に言えても、何がそこでいう『濫用』に当たるかは、かなり精緻な議論を必要とする問題なのであ』り、今回の閣議決定についても、その違憲性を『経緯からのみ『権限の濫用』と断ずるのは、規範論理的にはいささか粗雑に過ぎる議論であると言わざるを得』ないとしています。」との記載がある。しかし、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しており、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を踏まえると、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。それにも関わらず、2014年7月1日閣議決定は、結論において「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「存立危機事態での武力の行使」を可能とするものであり、論理的整合性の保たれていない憲法解釈を閣議決定したという意味で『権限の濫用』にあたり、違法となるのである。


 2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張していることから求められる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていないことことが、藤田論文に言う「精緻な議論」の部分である。「経緯からのみ『権限の濫用と断ずるのは、規範的論理にはいささか粗雑に過ぎる議論である」との評価についてであるが、2014年7月1日閣議決定自体が論理的整合性の保たれていない不当な内容であるのであるから、「規範論理的」にも粗雑とは言えない。


 「今回の事態を巡る憲法問題は、結局のところ、集団的自衛権の行使を容認する閣議決定及び法案の内容自体が憲法の正しい解釈と言えるか否かという、実態法上の問題を抜きにしては、論じ得ない」との説明はその通りである。


 「『旧解釈』の『基本的躯体を残した上での部分的修正に過ぎない』と言えるか否かに問題の枢要はあるとしています。」との記載がある。しかし、2014年7月1日閣議決定は、そもそも『旧解釈』の『基本的躯体』を残した(1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持している)と主張しているが、その内容に論理的整合性がないのである。「部分的修正に過ぎない』と言えるか否かの問題」との記載があるが、「論的整合性があるか否か」の問題である。


 「必要最小限度」の意味について二段階で同じ用語が用いられていることは確かである。しかし、「論者の中にも勘違いがあるのではないか」と指摘する論者の中にも勘違いがある。


> 「必要最小限度」の意味① (性質)
 1972年(昭和47年)政府見解の下で許容される自衛の措置(武力の行使)のこと

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○秋山政府特別補佐人
(略)
 それから、御質問の後段の、憲法解釈において政府が示している、必要最小限度を超えるか超えないかというのは、いわば数量的な概念なので、それを超えるものであっても、我が国の防衛のために必要な場合にはそれを行使することというのも解釈の余地があり得るのではないかという御質問でございますが、憲法九条は、戦争、武力の行使などを放棄し、戦力の不保持及び交戦権の否認を定めていますが、政府は、同条は我が国が主権国として持つ自国防衛の権利までも否定する趣旨のものではなく、自衛のための必要最小限度の実力を保有し行使することは認めていると考えておるわけでございます。
 その上で、憲法九条のもとで許される自衛のための必要最小限度の実力の行使につきまして、いわゆる三要件を申しております。我が国に対する武力攻撃が発生したこと、この場合にこれを排除するために他に適当な手段がないこと、それから、実力行使の程度が必要限度にとどまるべきことというふうに申し上げているわけでございます。

 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 


> 「必要最小限度」の意味② (数量)
 1972年(昭和47年)政府見解から導き出された自衛権発動の三要件の中の「第三要件」である「武力の行使」の『態様』のこと
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「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害がある
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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 論者が説明する「政府が憲法解釈上重要視しているのはむしろ後者の方であり」については正しい(ここで言っている『後者』とは、1972年(昭和47年)政府見解自体のことであり、三要件の第三要件のことではない)。


 その「政府が憲法解釈上重視している」1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から、論者の支持する「存立危機事態での武力の行使」を可能とする結論は導き出すことができないため、違憲なのである。


 藤田論文の「およそ理論的に『質的な連続性』を欠くものと決め付け得るか否かという問題は、なお残されている」との内容であるが、『質的な連続性』を欠くものと決め付け得るものであるため、問題は残されていない。まず、9条は国民の利益や国内の政治的事情によって政府が恣意的な判断で「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨である。憲法解釈においては、その趣旨を趣旨を生かした規範性の有する基準を設定することが必要である。1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、極めて受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性の基準を設定したのである。「存立危機事態での武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていないのであるから、『質的な連続性』を欠くものと決め付け得ることのできるものである。極めて明白であるが、これを「決め付け得る」と判断できないとでもいうのだろうか。


 「存立危機事態」の要件の後半部分の「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」というものは、「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合に起きうることは確かである。しかし、未だ「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が発生したというだけで「武力の行使」が可能とすることは、結局国民の権利を実現するために政府が政治的な事情でもって恣意的な判断で「武力の行使」を行うことを排除できないものであるから、この文言に憲法解釈の規範性を設定することは、9条の規定が存在する趣旨を損なうことになるために妥当でない。結局、「わが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」という数量的な判断に基準を置くことは、9条解釈において求められる規範性を有しているとは言うことができない。これにより、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の規範性とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この中に「存立危機事態での武力の行使」が含まれていると主張することは、『質的な連続性』を欠いているのである。


 「非常に微妙な問題となることを否定できない」との記載があるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか満たさないかの問題であり、この論点まで議論を集約できているのであれば、微妙な問題とは言えず、明白な問題である。


 憲法学者「水島朝穂」の指摘を参考にする。


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藤田氏は「非常に微妙な問題」というが、従来の政府解釈からは、「我が国に対する武力攻撃の発生」がない以上は武力行使は許されず、いわゆる「敵基地攻撃」の範囲を超えた「先に攻撃」は違憲なので、「微妙」ではなく、明瞭である。これを否定すれば、自衛隊の合憲性の論拠が崩れる。結局、藤田氏が「微妙」と考える前提には、「そうした危ない事態のときには、日本は何らかの武力行使をしてもいいのではないか」という、法の外にしか存在しない、藤田氏個人の主観的な価値判断、政治的な価値判断があるのではないか。
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憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日

 「集団的自衛権の行使を認める場合でも、その範囲は非常に狭く限定的な事態において行使が認められたにすぎない」との記載があるが、まず、9条は「武力の行使」を制約する趣旨であり、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の行使が非常に狭くとも、限定的であろうとも、「武力の行使」には違いがないのである。9条の制約を超える「武力の行使」は違憲であり、9条の制約の範囲内の「武力の行使」は合憲である。ここでいう国際法上の『権利』の区分を用いて「認められたにすぎない」などいう評価をする認識自体に、議論の本質を捉えていない誤りがある。


 「新三要件というのは、現実にほとんど制限的効果を果たさない」との指摘は、妥当である。なぜならば、存立危機事態の要件は、他国に対する武力攻撃が発生した時点で、「これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」が発生しているかを政府の総合的な判断という自由裁量にゆだねることになるからである。そもそも、通常の判断能力を有する一般人の理解において、この要件を適用できるか否かを判別することができず、適用する者の恣意的な判断に流れるような要件を設定していること自体が違憲となるべくものである。


岩谷毅

 

〇 自民党 岩屋毅


「安保法制の審議が始まります」 岩谷毅 平成27年05月15日


 「たとえ同盟国である米国に対する武力攻撃であっても、それが我が国の安全を根底から覆すようなものでない限りは、集団的自衛権を行使することはしない。」との記載があるが、「我が国の安全を根底から覆す」などという表現は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、その条文を適用できるかできないかを判別するところがなく、その条文を適用する者の恣意に流れる要件を設定したものということができる。結果として、31条の適正手続きの保障の趣旨、41条の立法権の趣旨に反し、違憲となる。

 「集団的自衛権はあくまでも、万やむを得ない場合に国民を守るためにのみ行使することを可能とする」との記載もあるが、「集団的自衛権の行使」とは、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味するのであり、結局この意味するところは「万やむを得ない場合には国民を守るため」として「武力の行使」を許容するものである。このような自国の政治的な判断によって国民の権利利益の実現を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約するために9条の規定が設けられているのであるから、受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」はすべて違憲となる。

 「国連憲章によってすべての加盟国に認められている集団的自衛権の行使に、これほどまでの限定をかけている例は他に見当たりません。」との記載があるが、そもそも徹底した平和主義を掲げて9条のような規定を有している国自体が「例は他に見当た」らないのである。自らの支持する「存立危機事態での武力の行使」について、「これほどまでの制限をかけている」などと評価しようとも、9条の下で行うことのできる「武力の行使」について合憲か違憲かを判定する基準となるわけではない。

 「『できるようになる』ということと、『実際に行使する』ということはまったく別の問題です。」との記載があるが、9条の下で『できるようになる』こと自体がそもそも違憲との評価を受けるのであるから、『実際に行使する』ということとの違いを主張したところで、「存立危機事態での武力の行使」が合憲となるわけではない。

 「すべての自衛隊の活動は最終的に国会の承認、すなわち国民の支持と理解がなければ可能とはなりません。」との記載があるが、たとえ国会の承認があろうとも、「存立危機事態での武力の行使」自体が違憲なのであるから、国会の承認を得たところで合憲になるわけではない。国会は憲法の下に設立された機関であり、違憲な「武力の行使」を許容する議決を行おうとも、憲法の制約によって無効となるのである。
 論者の考え方は、『できるように』した違憲性を有する条項について、国会の承認があれば合憲となるかのように主張している点で、憲法より国会の多数決原理に正当性があると考えるものであるから、誤りである。
 「国民の支持と理解がなければ可能とはなりません。」との説明についても、国民は憲法に基づいて統治権(立法権・行政権・司法権)に対して権力を授権したのであり、これらの権力を持つ「国会」「内閣」「裁判所」が憲法に基づかない『権限』を行使することは、国民の信託がないために違憲となるのである。「国民の支持と理解」とは、一時期の民意によって構成される国会の多数決原理のみによって構成されているわけではない。その一時期の民意が反映された国会に『権限』を授権しているのは、長期的な視野に基づいた民意によって制定された「憲法」という法の枠組みである。憲法に定められた制約も、論者の言う「国民の支持と理解」によってつくられているものなのである。論者はあたかも一時期の民意を構成する国会こそが正当性の拠り所であると考えているようであるが、その国会そのものを構成し、『権限』を与えているのは「憲法」である。「憲法」は、長期的な視野に基づいた国民の意思が反映されて立法(立憲)されたものであり、民意によってつくられたものなのである。これにより、一時期の民意による『権限』の行使は、長期的な視野からの民意を有する「憲法」の枠内でしか正当性を有しないということである。それにも関わらず、論者が一時の民意のみを正当化根拠であると考えていることは、誤った認識である。長期的な視野からの民意によって制定された「憲法」が禁じている行為については、論者のいう「国民の支持と理解」がないということとなるのである。

 論者は、「最後の歯止めは『国権の最高機関たる国会の判断である』と申し上げる以外にはない」との説明をしているが、立憲主義の大前提を理解していないものであり、大きな誤りがある。相変わらず、国会は憲法によって定められた範囲の『権限』しか行使することはできないのであるから、憲法9条の制約を国会の判断によって超えることはできないのである。



「平和安全法制の基本をなす考え方について」 岩谷毅 平成27年05月21日


 「果たして自衛権は認められているのか」との記載があるが、砂川判決においても、国際法上の「自衛権」という『権利』それ自体は有していることが明らかとなっており、認められているのである。

 その後「本来は『集団的自衛権』を有しているに違いない。」との記載があるが、「集団的自衛権」という『権利』それ自体は有しているのである。

 「『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』としながら、『集団的自衛権と名がつけばすべて駄目だ』と言っているわけです。今にして思えば、ここにいささか論理の飛躍、あるいは想像力の不足があったと思うのです。当時の政治状況に対する配慮であったのかもしれません。」との記載があるが、認識に誤りがある。

 まず、政府は『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』としているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解にあるように、「あくまでも外国の武力攻撃によって『国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆されるいう急迫、不正の事態』に対し、国民の権利を守るためのやむをえない措置としてはじめて容認されるもの」としているのである。また、論者は正確に区別できていないようであるが、国際法上の『権利』である「自衛権の行使」とは、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味するものである。この「武力の行使」は、「あくまで外国の武力攻撃」という事態が発生したことに規範性を設定しているものである。そのため、論者が言うような、『我が国の存立を脅かす場合は自衛権を行使してよろしい』などというものではないのである。
 そのため、『集団的自衛権と名がつけば』との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権の行使」とは、実質的に「我が国に対する武力攻撃が発生」していない中で行われる「武力の行使」を意味するから、1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃」の意味する、従来の「三要件」の第一要件である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないため、「武力の行使」を行うことができず、結果として国際法上の『権利』の行使ができないとするものである。論者の言う『名がつけば』などという基準によって判定しているものではなく、1972年(昭和47年)政府見解から導かれる規範としての「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしているかどうかによって判断されているものである。
 そのため、「今にして思えば、ここにいささか論理の飛躍、あるいは想像力の不足があったと思うのです。」との記載があるが、論者は未だに1972年(昭和47年)政府見解の論理の正確さを理解しておらず、国内法と国際法の法体系の違いや、『権利』と『権限』の違いに対する理解不足があると考えられる。
 これは、「当時の政治状況に対する配慮」というものではなく、憲法解釈によって導かれる法論理によるものである。むしろ1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態での武力の行使」が含まれるなどと説明している論者の方が、「政治状況に対する配慮」を行おうとしているのではないかと言わざるを得ない。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態での武力の行使」が含まれるなどと言うことは、「論理の飛躍、あるいは想像力の不足」があると言えるのである。


 「我々の長年の問題意識は、この集団的自衛権に関する結論部分が現在の安全保障環境や軍事技術の進展に照らしてみた時に、既に適合しなくなっているのではないか、というものでした。」との記載があるが、「集団的自衛権」とは、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにも関わらず、「武力の行使」を行おうとするものであるから、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を置いている限りは、たとえ「安全保障環境や軍事技術の進展」があろうとも変化することはない。論者の主張によれば、9条という規定が存在しながらも「安全保障環境の変化や軍事技術の進展」によって、侵略戦争さえも肯定することに繋がる主張である。1972年(昭和47年)政府見解に設定された「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という規範性が「安全保障環境や軍事技術の進展」などによって変化するわけではないのである。

 米艦船に対する武力攻撃を自衛隊が防護することができないことについて、「これでは、『同盟』は成り立ちませんよね。」との記載があるが、論者の主張は、国家そのものである「憲法」よりも『同盟』を優先する考え方である。その「憲法」が制約している『権限』を『同盟』を理由として正当化しようとすることはできない。また、その「憲法」の制約を取り払いたいのであれば、憲法改正を行う必要がある。そもそも、『同盟』のために「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」をするのであれば、『他国防衛』である。この『他国防衛』を行うために「武力の行使」を行う実力組織は、明らかに9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。


 「これまでの政府の説明の基本的な論理を残した上で、」との説明があるが、これまでの政府の説明の基本的な論理とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」のことであり、この「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。これを満たさない「新たな武力行使の三要件」である、第一要件の「存立危機事態」での「武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合せず、違憲となる。

 「最後の『あてはめ』の部分だけを変更したのですね。」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしていない「存立危機事態」の要件が含まれることはなく、『あてはめ』ることはできない。そのため、この「変更」は「論理的整合性」を有しておらず、解釈の過程を誤った違法なものであり、結果として9条に抵触して違憲となるのである。

 「つまり、『我が国の存立が脅かされ、国民の生存権が危険にさらされた』場合に限って、集団的自衛権を限定的に行使できるようにしたわけです。」との記載があるが、この論拠によっても合憲化できるわけではない。なぜならば、9条の制約は、「『我が国の存立が脅かされ、国民の生存権が危険にさらされた』場合」であっても、必ずしても「武力の行使」を許容しているというものではないからである。これは、自国への攻撃がないにも関わらず「自国の存立」や「国民の権利の実現」などを理由として「武力の行使」が行われたことは、歴史上幾度も経験するところであり、9条は、このような「武力の行使」が行われることを制約するために設けられている規定だからである。
 また、「集団的自衛権」は国際法上「集団的自衛権」でしかなく、「限定的」などという文言は存在しない。「集団的自衛権の行使」の実質は「武力の行使」なのであるから、「限定的」であれば「武力の行使」が可能であると考えることは、9条の下での「武力の行使」を制約する規範ではないものを用いて「武力の行使」を行おうとするものであり、正当化根拠にはならない。「フルスペックの集団的自衛権」という言葉についても、そのような概念は国際法上存在していない。結局、「集団的自衛権の行使」の実質は「武力の行使」なのであるから、この「武力の行使」を制約する基準である9条解釈によって説明するべきものである。


【動画】<安保法制>自民党・岩屋毅議員に聞く 「戦争法案ではなく戦争回避法案だ」


 「我が国を守るための限定的な集団的自衛権であれば憲法の許す必要最小限の自衛権の中に含んでいるのではないか、という見解を出した」との発言がある。
 しかし、まず「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由としての『権利』の概念である。憲法9条が制約しているのは「武力の行使」であり、国際法上の『権利』の概念とは関係がないのである。そのため、「憲法の許す」などと、憲法が国際法上の『権利』の概念を制約しているかのように論じることは、意味が通じないのである。
 次に、「必要最小限の自衛権」などという論理も、意味が通じない。なぜならば、「必要最小限」とは9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解そのものを指して使われている言葉であり、この見解は日本国の統治権の『権限』による「自衛の措置」である「武力の行使」を制約した規範である。そのため、「自衛権」という国際法上の『権利』の概念に対して憲法9条の解釈である1972年(昭和47年)政府見解(必要最小限と称されることもある規範)が制約をかけているかのように論じることは、誤りなのである。また、国際法上の「自衛権」の制約は、「必要性・均衡性」である。「集団的自衛権」については、「他国からの要請」も必要となる。この国際法上の『権利』に対する制約の概念と、憲法9条の制約とは、法体系が違うのであるから、明確に区別して論じる必要がある。
 三つ目に、「集団的自衛権」の区分として「武力の行使」をするのであれば、「他国からの要請」が必要なる。これを得ない中で「武力の行使」を行えば、国際法上違法となるからである。よって、「他国からの要請」が必要な時点で、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は『他国防衛』を含むのである。『他国防衛』を行うために「武力の行使」を行う組織については、明らかに9条2項の禁ずる「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。論者は、「我が国を守るための限定的な集団的自衛権」などという、『自国防衛』であれば合憲であるかのように論じようとしているが、「集団的自衛権」に該当すれば、『自国防衛』と称しようとも実質は『他国防衛に付随する自国防衛』である。『自国防衛』だけで、『他国防衛』を含まない「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」などという概念は存在しえないのである。
 四つ目に、「限定的な集団的自衛権」という言葉であるが、国際法上「集団的自衛権」という『権利』に該当すれば「集団的自衛権」でしかない。『権利』が「限定的」とか、「完全」などという区分は存在しないのである。また、「限定的な集団的自衛権の行使」という言葉を使おうとも、結局その実態は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」である。この「武力の行使」は、9条が制約をかけているのであるから、「限定的」などと主張したところで、9条の制約の基準が変わるわけではないのである。
 五つ目に、「我が国を守るため…であれば憲法の許す…中に含んでいるのではないか」との全体の説明であるが、誤りである。まず、9条は「我が国を守るため」であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないからである。9条は、自国の都合によって政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定である。このことから、たとえ「我が国を守るため」であったとしても、それだけで「武力の行使」が許されるわけではないのである。その趣旨を生かした憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものである。「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにも関わらず、「我が国を守るため」などという理由で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触して違憲となるのである。
 結局、論者の主張する「存立危機事態での武力の行使」については、憲法の許す範囲に含んでおらず、違憲である。


 「政府の論理を継承した上で結論を出した」との発言であるが、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しているが、この「基本的な論理」の中に「存立危機事態での武力の行使」が含まれることはない。そのため、結論として「存立危機事態での武力の行使」を可能とした2014年7月1日閣議決定は、解釈の過程を誤ったものである。


 「我が国を守るためにやむを得ず行使しなければならない集団的自衛権、しかも必要最小限度であれば憲法の許す範囲に含まれるという結論を出して」との発言がある。しかし、「集団的自衛権の行使」であるが、実質は「武力の行使」である。結局論者は、「我が国を守るためやむを得ず行使しなければならない」「武力の行使」を行おうとしているのであり、9条の趣旨から求められる規範性を損なっている。9条は、「我が国を守るため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を認めているわけではないのである。

 「これまで政府が言ってきた論理との整合性をとって」との説明があるが、先ほどのべたように、2014年7月1日閣議決定は、解釈の過程を誤ったものである。これまでの政府見解である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」との整合性は保たれていない。


 その後の論旨も、この論者の他の記事と主張していることが重なるため、ここではこれ以上説明しない。他の記事で解説した。

   【動画】集団的自衛権について 衆議院議員 岩屋毅 2013/11/08


 この動画も、同じような理由で論旨が通じない部分がある。同じ論点なので、ここではこれ以上記載しない。「まじめに取り組んでいく必要がある」と述べているので、誤りを認めて真面目に取り組むべきである。


「切れ目のない、隙間のない、穴のない」安保法制を実現 岩屋毅・衆議院 平和安全法制特別委員会理事に聞く 2015.05.26


 「集団的自衛権を限定的に行使できる事態である『存立危機事態』も入れて、」との記載があるが、正確な概念構成ではない。国際法上の「集団的自衛権」という『権利』に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかないものである。9条は「武力の行使」を制約する規定なのであり、国際法上の『権利』それ自体に制約をかけているわけではないのである。このことから、国際法上の『権利』の区分の概念に対して、「限定的」などという言葉を加える試みが誤りであり、国際法上「集団的自衛権の限定的な行使」などという概念は存在せず、それは「集団的自衛権の行使」でしかないものである。また、日本独自に概念を創出しようとしても、日本国の統治権の『権限』によって行われる行為(活動)は「武力の行使」なのであって、その「武力の行使」を制約している規範は1972年(昭和47年)政府見解なのであるから、この制約の範囲内であれば合憲であり、逸脱すれば違憲なのである。そのため、「限定的」などという概念を国際法上の『権利』の区分の用語に加えたところで、日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」が合憲となるわけではない。結局、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は違憲となって行使できないのであるから、「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」については、「限定的」などと称したところで行使できないのである。

 「1972年の憲法解釈は、必要最小限の自衛権しか使えないという論理を残した上で、集団的自衛権は全部駄目としていた。」との説明があるが、誤りである。
 まず、ここで使われている『必要最小限』の言葉が、①1972年(昭和47年)政府見解そのものを指す意味なのか、②1972年(昭和47年)政府見解から導き出される「武力の行使の態様」を指す意味なのか、を明らかにする必要がある。恐らく「必要最小限…しか使えないという論理を残した」との説明から、①の1972年(昭和47年)政府見解そのものを指すと思われる。この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。なぜならば、9条は自国の都合によって政府の恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨で設けられている規定であり、この9条の趣旨を損なうことなく憲法解釈を行うと、政府の恣意性の入り込む余地のない受動的・客観的な事態の性質面に規範性を設けることが妥当だからである。また、平和主義を採用する日本国憲法の立場からは、平和主義を採用していない他国同士の武力を背景とした争いから生まれる他国に対して行われた武力攻撃に規範性を設定し、他国に対する武力攻撃に起因する我が国の存立や国民の権利の危険を判断して「武力の行使」を可能とすることは、結局、平和主義を採用していない武力を背景とした争いを引き起こす他国の姿勢に同調するものであり、平和主義を背景とした9条の規定の趣旨に反するからである。他国に対する武力攻撃を1972年(昭和47年)政府見解の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に読み込もうとすることは、平和主義を背景とした9条の規定の制約がいかなるものかを確定することを目的とした憲法解釈として導かれるとは到底考えられないのである。このことから、1972年(昭和47年)政府見解の規範性とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うものであるから、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲内とは言うことができず、違憲となるのである。
 次に、「必要最小限の自衛権しか使えない」との記載であるか、「自衛権」とは国際法上の『権利』である。日本国は、この『権利』を他国と同様に完全な形で有している。そのため、「自衛権」という『権利』それ自体を国際法上では完全な形で使うことができるのである。しかし、その国際法上の「自衛権」という『権利』を行使するために国家が行為を行う場合、国家の統治権の『権限』が必要となる。この国家の統治権の『権限』について、日本国は9条の規定が「武力の行使」を制約しているため、他国とは事情が異なるのである。この日本国の統治権の『権限』の範囲を確定した憲法解釈が1972年(昭和47年)政府見解なのである。この政府見解の下で可能な「武力の行使」について、『必要最小限』の「武力の行使」と表現されているだけである。


 「しかし、今日の軍事技術の進展を考えると、集団的自衛権の中でも憲法の解釈で許されるものがあるのではないかということで解釈の変更を閣議決定し、それに基づいて安保法制が作られている。」との記載があるが、誤りである。
 まず、9条は、政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを防ぐことを目的としている規定である。この趣旨を生かした解釈である1972年(昭和47年)政府見解の規範性は、「今日の軍事技術の進展」などによって揺らぐわけではない。むしろ、そのような「軍事技術の進展」などを理由として政府が軍事路線に進んだり、他国を制圧することを考えたり、政治判断によって「武力の行使」に踏み切ろうとしたりすることを制約するために9条の規定が存在するのであるから、この規範性を損なえば、9条の規定が存在する意味自体を損なうこととなる。規定が存在する限りは、そこに規範が存在するのであるから、規範性を損なわせ、1972年(昭和47年)政府見解そのものが憲法解釈として妥当性を失ってしまうこととなる形で「武力の行使」の発動要件を定めることは違憲と言わざるを得ないのである。
 次に、「集団的自衛権の中でも憲法解釈で許されるものがあるのではないか」についてであるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』である。9条は「武力の行使」を制約する規範であり、「集団的自衛権」という『権利』を制約する規範ではないのである。国際法上の「集団的自衛権」という区分に該当する「武力の行使」が憲法上許されるかについては、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われ「武力の行使」であるため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から導き出すことはできず、違憲である。「許されるもの」は存在しない。これにより、「解釈の変更を閣議決定」した2014年7月1日閣議決定については、違憲・無効である。それに基づいて成立した安保法制の「存立危機事態での武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という政府自身の違憲審査基準によって違憲となる。



北側一雄


〇 公明党 北側一雄


自衛隊海外派遣へ3原則 与党安保協が中間取りまとめ 「正当性」「民主的統制」「安全確保」が不可欠 北側一雄副代表に聞く 2015年3月21日


 「他国防衛を目的とした武力行使はできないとしてきた政府の憲法第9条の解釈との論理的な整合性を確保するという観点のもと、」との記載があるが、誤りである。まず、「政府の憲法第9条解釈」とは、1972年(昭和47年)政府見解のことであり、この見解は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは違憲となるとする規範を設定したものである。これについては、論者の言う「他国防衛を目的とした武力行使はできない」としているものではない。そのため、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で、あたかも「自国防衛を目的とした武力行使ならばかのうではないか」との考え方で、「存立危機事態での武力の行使」が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれると読みことは、論理的に不可能である。

 「この新3要件は、憲法第9条の下で許される自衛の措置の限界を示した重要な要件です。」との記載があるが、誤りである。まず、9条の下で許される自衛の措置の限界となっているものは、1972年(昭和47年)政府見解が示した規範性の設定である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものである。そのため、あたかも「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うこととなる「存立危機事態での武力の行使」を含む「新3要件」について、「9条の下で許される自衛の措置の限界を示した」などと、9条の下で許容されるかのように突然結論付けている点が誤りである。結論となる理由の不存在は、憲法解釈として正当性を有しないのである。

 「第1要件の『国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある』とはどのような事態か」についてであるが、曖昧不明確な要件であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるために、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。
 内閣法制局長官が、「国民に、わが国が武力攻撃を受けた場合と同様な、深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」と答えたところで、その内容は条文化されていない。また、結局その内容であっても、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることを防ぐために機能する規定ではないことは、9条の趣旨にも反して違憲となる。

 「首相は『他国の防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めるものではない』と明確に述べています。」との記載があるが、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」は、国際法上「集団的自衛権」でしかなく、『自国防衛』か『他国防衛』かなどの区分は存在しない。また、「集団的自衛権」は「他国からの要請」によって『権利』が発生するものであるから、「集団的自衛権」に該当する「武力の行使」については、概念上『他国防衛』を含むものとなる。よって、目的を『自国防衛』と称したところで、実質は『他国防衛を含む自国防衛』でしかないのである。このことより、そもそも『他国防衛それ自体を目的とする集団的自衛権の行使を認めるものではない』などという言葉の意味自体が論理的に成り立たないのである。


衆院憲法審査会 北側副代表の意見表明(要旨) 2015年6月12日
   【参考】衆議院インターネット中継


   【日米安保の抑止力向上で 紛争の未然防止めざす】

 「国連憲章51条に定める、フルサイズの集団的自衛権の行使を、憲法9条が許容しているとはとても考えられない。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。まず、「集団的自衛権の行使」とは、「武力の行使」である。そして、9条は「武力の行使」を制約する基準となっている。この範囲を明確に示した見解が、1972年(昭和47年)政府見解である。2017年7月1日閣議決定においてもこの「基本的な論理」は維持していると記載されており、その「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。これにより、国際法上の評価でいう「集団的自衛権の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる日本国の統治権による「武力の行使」を意味するから、この9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。
 ただ、2014年7月1日閣議決定は、他の問題も含んでいる。1972年(昭和47年)政府見解は全体で一貫した意味を示す文章であるため、この一部分を抜き出して「基本的な論理」などと呼称して憲法解釈の論理を変更できる性質のものではない。1972年(昭和47年)政府見解から「基本的な論理」と呼称する部分を抜き出し、結論の当てはめを変えたなどという手続き自体に、瑕疵がある。
 9条は、前文の「平和主義」の理念を具体化した規定であるとされている。そのため、9条を解釈する際には、前文の「平和主義」の理念を活かした解釈が求められる。前文では「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」と述べられており、その趣旨は9条に具体化されている。これにより、9条は、政権への支持率向上や景気の向上などの政治的な事情や国際関係上の政治的な圧力に影響を受けるなどによって政府が恣意的に「武力の行使」に踏み切ることを制約することを意図する規定であり、もし「武力の行使」を行う場合があるにしても、それら政府の恣意的な都合が入り込む余地のない受動的・客観的に明確な規範性を有した基準が求められることとなる。
 1972年(昭和47年)政府見解はこの趣旨が生かされた解釈であり、「武力の行使」の発動要件に受動的・客観的に明確な規範性の基準として「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合)」を設定したものである。これは、前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨が生かされているし、我が国が『先に攻撃』を行うものではないことから、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄したとの規定にも沿うと考えることができる。また、この「武力の行使」を行う実力組織が2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当するか否かの違憲性に関する規範性の問題であるが、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことによって初めて「武力の行使」が可能となると解するのであれば、「武力の行使」の発動要件が緩和されることによってその実力組織が侵略的行為を行ったり、他国を防衛するための「武力の行使」を行ったり、不必要に過大な「武力の行使」を行ったりすることはできず、「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となるか否かの基準に明確な規範性を持たせることができる。これにより、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすという制約を有する「武力の行使」を行う実力組織であれば、「陸海空軍その他の戦力」に該当しないと解する余地はある。
 しかし、「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」であり、「他国に対する武力攻撃が発生」した段階で、政府が「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」ができるとするものである。これは、9条が存在することから求められる、政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約するための規範性を有しておらず、9条解釈として成り立たない要件を設定したものである。また、このような要件を設けることは、9条解釈の指針となる前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨にも適合せず、9条解釈からは導かれないものである。
 このような「武力の行使」の発動要件を政府の恣意性の入る余地のある要件とすることは、政府が「国際紛争を解決する手段として」「武力の行使」を行う可能性を排除することはできず、9条1項の「国際紛争を解決する手段としては、」「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄した趣旨に抵触して違憲となる。
 自衛隊法76条1項では、「我が国を防衛するため必要があると認める場合」との記載があることから、『自国防衛』のための「武力の行使」であることを理由として正当化を試みる主張もあるが、9条の下では「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではないため、政府の恣意性の入る余地のある要件でもって「武力の行使」が可能となるとしたこと自体が、9条の規範性を損なうものであるため、9条に抵触して違憲となる。
 また、「武力の行使」を行う実力組織についても、政府の恣意性の入る余地のある「武力の行使」が可能となることによって、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当しないことを明確化する正当化根拠となっていた実力組織の限度を画する制約基準の規範性を損なうこととなる。これにより、その「武力の行使」を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。

 「憲法9条と自衛権の問題について触れた、唯一の最高裁判決だ。憲法9条下で、許容される自衛の措置について、その後、最高裁で判断されることはなかった。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。砂川判決は結論部分で「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて」と述べているため明確ではないが、判断の過程の部分で許容している「自衛の措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。日本国の統治権による「武力の行使」については、何も述べていない。「自衛の措置」=「武力の行使」というわけではないことを押さえておきたい。


   【9条は「自国防衛」容認 武力攻撃から人権守るため】

 「現在の安全保障環境から見れば、いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を、私どもは共有した。こうした認識の下で、新3要件を提案し、昨年7月の閣議決定に盛り込み、今般の安全保障法制の法案にも明記している。」との記載があるが、9条解釈における正当化根拠とはならないため、新3要件を設定して「存立危機事態」の下で「武力の行使」が可能となるとすることはできず、誤りである。
 1972年(昭和47年)政府見解の文面は、論者の言う「砂川判決と全く同様のこと」の部分である「自衛の措置」の部分(『基本的な論理』と呼称される部分)から、政府がその「自衛の措置」の中に「武力の行使」が含まれると述べる部分へと、段階を追って論理的に構成されている。そのため、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し」の文言は、「武力の行使」について述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られるのであつて」の文言と対応する関係にある。そのため、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃」の文言は、「わが国に対する」「外国の武力攻撃(急迫不正の侵害)」を意味するものである。
 また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解そのものは、憲法解釈の指針となる前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」の趣旨を含むのであって、政治的な都合によって政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを防ぐことのできる規範性が求められる中に導かれた解釈である。このことは、1972年(昭和47年)政府見解の文言に含まれた「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という「国民の権利」の危険を理由として「自衛の措置」が可能となるかのように読み解くことは、結局政府の恣意的な判断によって「自衛の措置」や「武力の行使」が行われることを排除することができないため、9条解釈として妥当性を失うこととなる。そのため、1972年(昭和47年)政府見解は「外国の武力攻撃によ」る「急迫、不正の侵害」が発生したことに規範性を設定したと考えることが憲法解釈の手続きとして妥当である。受動的・客観的に明確な規範であり、前文の平和主義や9条の規定が政府の行為を法の規範によって制約しようとする意図が活かされているからである。
 それにもかかわらず、論者は「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識」によって、新3要件の「存立危機事態での武力の行使」を正当化しようとしている。
 しかし、1972年(昭和47年)政府見解は、文章全体として「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」を満たさない中で行うこととなる「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を憲法上許されないものとして排除する論理構成のものである。その「基本的な論理」となる「自衛の措置」の部分だけを抜き出して、「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃」の部分に『わが国』の文言がなく、「武力の行使」について述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」の部分に『わが国』の文言があるからといって、この「自衛の措置」と「武力の行使」の発動要件が異なると解することは、1972年(昭和47年)政府見解が憲法解釈として「集団的自衛権」としての「武力の行使」が憲法上許されないとして排除されるという結論に到達するまでに行われる論理の積み重ねという解釈行為の営みそのものを否定することとなる。
 また、1972年(昭和47年)政府見解は、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態(論者の言葉では『国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態』)」に規範性を設定しているわけではなく、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」に規範性を設定したものである。これは、「自衛の措置」の部分で言えば、「外国の武力攻撃によ」る「急迫、不正の侵害」が発生したことにあたる部分である。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」である。
 しかし、論者は「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況」であるにもかかわらず、「他国に対する武力攻撃」があったならば、その影響によって「国民の基本的人権が根底から覆される」ことが9条解釈として導かれた1972年(昭和47年)政府見解の規範性であるかのように考えていることは、9条の規定が政府の行為を制約する趣旨を踏まえた基準を設けた解釈とは言うことができず、憲法解釈として妥当性を欠く。また、1972年(昭和47年)政府見解では、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処」と記載されており、「外国の武力攻撃」と「急迫、不正の事態」は繋がっている。「外国の武力攻撃」によっても「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」ことがないのであれば「急迫、不正の事態」とは言うことができず「武力の行使」を発動することができない場合も考えられるが、これは単に「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」ことが「急迫、不正の事態」であるから「武力の行使」の発動が可能となるとする意味ではない。必ず「外国の武力攻撃」が発生している必要がある。先ほども述べたが、1972年(昭和47年)政府見解は「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が憲法上認められない旨を論理的に導き出すために作成された文章であるから、この「自衛の措置」として述べられている「あくまで外国の武力攻撃によつて」の部分と「武力の行使」として述べられている「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合」は結論に至るまでの一貫した過程の中で用いられた表現であり、同じ意味である。そのため、ここでいう「外国の武力攻撃」の発生とは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味するものである。
 論者は、「いまだわが国に対する武力攻撃に至っていない状況でも、他国に対する武力攻撃があり、これによって国民の基本的人権が根底から覆される急迫不正の事態があり得るとの認識を、私どもは共有した。こうした認識の下で、新3要件を提案し、昨年7月の閣議決定に盛り込み、今般の安全保障法制の法案にも明記している。」とのことであるが、たとえ認識を共有したとしても、1972年(昭和47年)政府見解を基にする形では、「存立危機事態での武力の行使」を正当化することはできない。提案された新3要件の「存立危機事態」の要件は違憲であり、2014年7月1日閣議決定の盛り込まれても、安全保障法制に明記されても、違憲であることには変わりないのである。


   【新3要件は72年見解の枠内】

 新3要件の第1要件について、「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」であったとしても、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定した見解であり、その「基本的な論理」と称する部分についても同様であるため、これを満たさない中で「武力の行使」については、すべて違憲である。「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」からといって「武力の行使」が合憲となるということはない。また、内閣法制局長官の「国民にわが国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかな状況」との表現についても、閣議決定や法律として明記されているわけではなく、解釈が変更されることも容易に起こり得る。結局このような「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」という要件は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるため、31条の適正手続きの保障の趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となる。また、政府が「自国の存立」や「国民の権利」などを理由としたり、政治的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約した9条の趣旨から求められる政府の恣意性を排する規範性を持つこともなく、9条に抵触して違憲となる。

 第2要件について、「あくまでもわが国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除、それ自体を目的とするものではないということを明らかにしている」と語ったところで、1972年(昭和47年)政府見解の規範性である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」について、『自国防衛』であるからといって合憲化されるわけではない。論者は「自国防衛に限られる、他国防衛を目的するものではないということを明確にしている。」と述べるが、1972年(昭和47年)政府見解(『基本的な論理』と称する部分についても同様)の規範性は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けられたものであり、目的が『自国防衛』か『他国防衛』かを基準としているわけではない。『他国防衛』の目的を有する「武力の行使」を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となることは当然であるが、結局『自国防衛』と称することによっても「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことなく「武力の行使」を行うことは1972年(昭和47年)政府見解に抵触して違憲となるし、その「武力の行使」を行う実力組織についても政府の恣意的な理由によって「武力の行使」が行われる可能性を排除できない組織となるから、2項の「陸海空軍その他の戦力」抵触しない「必要最小限度の実力組織」であるとして正当化するための限度を画する基準の規範性を損なうため、結局2項の「陸海空軍その他の戦力」に抵触して違憲となる。

 第3要件についても、「わが国を防衛するための必要最小限度ということである」と述べたところで、「他国に対する武力攻撃の発生」であるにもかかわらず、『自国防衛』を理由として行う「武力の行使」なのであるから、第1要件の「国民の権利が根底から覆される明白な危険がある」状態が具体的にどのように排除されたことが認定されるのか明確でなく、「武力の行使」の程度・態様が「我が国を防衛するための必要最小限度」であるか否かという限界を定めることができない。これについて、旧三要件においては、「我が国に対する急迫不正の侵害がある」状態を排除した場合には、その時点で「武力の行使」を終了させるという限度を定めることができるが、新3要件の第1要件の「国民の権利が根底から覆される明確な危険がある」か否かを決することは、政府が相手国の態様を総合的に判断するなどという主観的な基準しか存在せず、第2要件の「これを排し、」を満たしたか否かも曖昧不明確である。そのため、結局この第3要件の「必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと」の要件についても、その具体的な限度を画することはできず、政府の主観的な感覚によっていつまでも「武力の行使」を行い続けることができることとなる。論者も述べている通り、「わが国の存立を全うし、国民を守るため」を理由とする「必要最小限度」ということである。これは、旧3要件のように「我が国に対する武力攻撃」を排したことにより、そこで「武力の行使」が留められ、終了するわけではないものである。「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず「武力の行使」に踏み切り、さらに戦争に勝つことを目的として「武力の行使」を継続することができるものとなっているのである。このような要件が設定されていることは、前文の「全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する。」にも反するものである。

 「『従来の政府見解の基本的な論理の枠内では説明がつかない』などとの批判があったが、これは全く当たらないと言わざるを得ない。先ほど述べたように、新3要件は、従来の政府見解の基本的な論理を維持し、かつそれを現在の安全保障環境に当てはめて導き出されたものだ。」との記載があるが、理由がないため誤りである。まず、憲法学者「長谷部恭男」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」と称している部分の枠内では説明できないとの批判を行っている。それに対して、論者は「基本的な論理」を維持し、当てはめて導き出したと説明している。批判は「『基本的な論理』の枠内では説明できない」であり、論者の応答は「『基本的な論理』を維持して当てはめた」である。論者のような「『基本的な論理』を維持して当てはめた」などとする主張に対して「『基本的な論理』の枠内では説明できない」と批判が行われているにもかかわらず、理由なく「これは全く当たらないといわざるを得ない」などとして結論のみを述べても、何の正当化根拠を示したことにもならないのである。正当化根拠として必要なことは、「『基本的な論理』の枠内で説明のつく理由やその解釈の過程」が求められているのであり、「『基本的な論理』を維持し、当てはめた」などという結論ではないのである。

 「また、新3要件の意味について不明確との批判があったが、新3要件それぞれの意味については、首相、内閣法制局長官が、この1年間、一貫して先のような答弁を繰り返しており、不明確だとは考えていない。」との記載があるが、存立危機事態の要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがない。そのような要件は、それを運用する際にその要件を適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れることを防ぐことができない。そのような要件では、その要件の認定によって起こされる政府の行為も「武力の行使」であることから、重大な弊害を生ずることとなり得る。たとえ首相、内閣法制局長官が答弁によって独自の基準を示したとしても、その要件の解釈が変更されることも起こり得る。政府に対して規範性を有しない広範な裁量を与えた旨が、31条の適正手続きの保障の趣旨や41条の立法権の趣旨より違憲となる。

 「憲法との適合性をどう図るのか。こうした論議をしなければならないと考える。」との記載があるが、存立危機事態の要件は憲法との適合性を有しておらず、違憲となる。法解釈においては、論理の積み重ねによる議論をしなければならないのである。


   【他国防衛の 集団的自衛権行使は認めず】

 「9条の下で許される自衛の措置について一番最初の最高裁判決が、この砂川判決である。そこでは、わが国が自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な自衛のための措置を取り得ると言っている。59年の判決なので、当然、45年の国連憲章51条に個別的自衛権または集団的自衛権という言葉があることを分かった上で、個別的自衛権とも言わず集団的自衛権とも言わず今のように表現をしている。」との記載があるが、誤りである。
 まず、砂川判決は「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」として「自衛権」という国際法上の『権利(right)』それ自体は当然に有していることを前提としているのである。しかし、9条のもとで許される「自衛の措置」については、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を示すにとどまっており、日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」が可能か否かは述べていない。そのため、「個別的自衛権または集団的自衛権という言葉があることを分かった上で、」などと、分かっていても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」ができるかどうかについては何も述べていないのであるから、砂川判決の「必要な自衛のための措置を取り得る」という文言の「自衛のための措置」という日本国の行為を、国際法上の「自衛権」という『権利(right)』と同じものを意味すると考えて、「個別的自衛権とも言わず集団的自衛権とも言わず」などとして『権利(right)』の区分を基に、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の正当化を試みても無理である。論者が砂川判決を日本国の統治権の『権限』が「自衛の措置」として「武力の行使」ができるかのように読み解くことは誤りである。

 「いわば集団的自衛権、個別的自衛権という観念ではなくて、また集団的自衛権と言われている観念を排除しているものではないと少なくとも言えるだろうと思う。」との記載であるが、9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規定であり、国際法上の違法性阻却事由の『権利(right)』の区分である「自衛権」それ自体を排除しているものではないことは確かである。しかし、だからと言って論者が「自衛権」という国際法上の『権利(right)』を有していることによって、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」が可能であるかのように考えている点は誤りである。

 9条の下でどこまで「自衛のための措置」が許されるかについて、論者が「砂川判決はそれを内閣、政府、また国会に委ねたと私は思う。」と述べているが、補足する。砂川判決では、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」については否定していない。「二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、」の文言が存在することから、芦田修正による「自衛のための戦力」の保有が禁じられているかどうかは判断していない。当然、「自衛のための戦力」による「武力の行使」が可能であるかについても判断していない。政府見解である2項の「戦力」に該当しない「必要最小限度の実力組織(自衛力)」の考え方や、その「必要最小限度の実力組織(自衛力)」による「武力の行使」が可能かどうかについても判断していない。ただ、「侵略戦争」を目的とした「武力の行使」や「侵略戦争のための戦力」を禁じられていることは確かであると思われる。内閣、政府、国会は、砂川判決が示したこの幅の中で、論理的整合性のある解釈を行うことが求められているのである。

 「まず一番最初に出てくるいわゆる集団的自衛権というのは、集団的自衛権のまさしく定義である。この定義は何かと言えば国連憲章51条の集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含むフルサイズの集団的自衛権を、いわゆる集団的自衛権と定義している。以下、あと3回の集団的自衛権も『右の』とか『いわゆる』と言っているわけで、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べていると私は考える。」との認識であるが、誤りであると考える。
 まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利(right)』の概念である。また、国連憲章51条によって初めて明文化された概念であり、その意味するところは必ずしも明らかとはなっていない生まれたばかりの概念なのである。また、「集団的自衛権」という概念は国際法上の概念であることから、日本国政府が勝手に意味を定義したり、解釈を定めたりすることのできる性質のものではない。これにより、政府が国際法の評価として「集団的自衛権の行使」という表現を使うとしても、自らの解釈行為によって意味を定義し、確定することのできるものではないことから、「いわゆる」という文言を使うことになっているものであると考える。「いわゆる」を言い換えると、「世間一般に言われる」「俗に言う」「よく言う」などを挙げることができる。国際法上の評価として「集団的自衛権の行使」となる概念は、日本国政府の視点から見ると、結局日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味するのであり、この「武力の行使」の発動の在り方を日本国政府の立場から国際法上の言葉を使うならば、「いわゆる(一般によく言う)集団的自衛権」と表現することが妥当となるのである。
 論者は、「この定義は何かと言えば国連憲章51条の集団的自衛権、他国防衛を目的とした集団的自衛権も含むフルサイズの集団的自衛権を、いわゆる集団的自衛権と定義している。」などとして、国際法上の「集団的自衛権」の中に『他国防衛』と『自国防衛』の二つがあり、『他国防衛』を目的としていれば「フルサイズの集団的自衛権」であるかのように論じているが、誤りである。国際法上「集団的自衛権」の区分に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかないのである。国際法上の概念でしかないにもかかわらず、日本政府が『他国防衛』と『自国防衛』の「集団的自衛権」が存在するなどとして、勝手に定義を変更することはできないのである。
 「以下、あと3回の集団的自衛権も『右の』とか『いわゆる』と言っているわけで、同じフルサイズの集団的自衛権についてこの政府見解は述べていると私は考える。」などと述べている点についても、同様に「集団的自衛権」に該当すれば、国際法上「集団的自衛権」でしかないのであり、「フルサイズ」がどうのこうのという認識自体に誤りがある。「右の」や「いわゆる」についても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の発動の形について、「一般によく言う」国際法上の「集団的自衛権の行使」という表現を使う場合として「いわゆる」の文言を使っているものであり、論者の「フルサイズ」か否かなどと言う認識は通常の解釈の手続きからは到底考えることができないものであり、自らの求める結論に導くために文面上の論理的な意図を曲解しようとする不正な意思を含んだものと認識することが相当と思われる。

 「第2段落にある集団的自衛権も、まさしくそういうフルサイズの集団的自衛権であり、憲法の容認する自衛の措置の限界を超えるものであって許されないとの立場に立っているというふうに私は読めるのではないかと考えている。」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことが憲法上許されないと述べているものであり、「集団的自衛権」が「フルサイズ」であるかなどは焦点となっていない。1972年(昭和47年)政府見解は、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行う際は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしていることが必要となる旨を述べているだけであり、この見解が意味する「集団的自衛権」の概念が「フルサイズ」であり、それ以外の「集団的自衛権」ならば行使できる可能性があるなどとするところに9条の制約の規範性が導き出されているわけではない。論者は「集団的自衛権」という概念が国際法上の概念であり、それを行使するということは「武力の行使」を意味し、かつ9条が「武力の行使」を制約している規定であるということを理解する必要がある。その上で1972年(昭和47年)政府見解を読み解けば、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」がすべて違憲となるのであり、「集団的自衛権」という国際法上のネーミングがどうのこうのという議論には発展しえないことが分かるはずである。


集団的自衛権の限定行使容認、「憲法第9条」に違反せず 北側一雄・公明党副代表に聞く 2015.06.19


 「国際法上は集団的自衛権と見られる可能性が高い。そういう場合も、きちんと対処できるようにしていく必要があるということで、新3要件の下で限定的な集団的自衛権の行使を容認するとした。」との記載があるが、意味を整理する必要がある。

 まず、国際法と国内法の違いを押さえる必要がある。「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である。国際法上、「集団的自衛権」と見られたとしても、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について何か変わるわけではない。そのため、論者が「集団的自衛権と見られる可能性が高い。そいう場合も、きちんと対処できるようにしていく必要がある」などと述べているが、結局これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものでしかないのである。あたかも国際法上の違法性阻却事由を得ていれば、9条が日本国の統治権の『権限』にかけている制約を逃れることができるような前提で話をし、9条の下でも「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」が可能であるかのような前提を持っていること自体に誤りがある。
 また、「限定的な集団的自衛権の行使」という意味であるが、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を示した「集団的自衛権」に該当すれば、それは国際法上「集団的自衛権」でしかない。そのため、「限定的な」などという「集団的自衛権」は存在しない。「集団的自衛権の行使」とは、実質的には「武力の行使」を意味しているにも関わらず、違法性阻却事由の『権利』の区分に対して「限定的な」などという文言を付けても、9条が「武力の行使」を制約する基準が変わるわけではないのである。論者が「新三要件の下で限定的な集団的自衛権の行使を容認する」という意味は、結局、「新三要件によって『我が国に対する武力攻撃が発生したこと』を満たさない中で『武力の行使』を容認する場合がある」とするものである。国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分を用いて、あたかも9条の制約を逃れることができるかのように考えている点で誤りである。結局、その「武力の行使」は9条が制約しており、その範囲を確定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の意味である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」は違憲である。
 論者の言う「新三要件」の「限定的な集団的自衛権の行使」にあたる「存立危機事態での武力の行使」は、9条に抵触して違憲である。


9条改憲、国民の理解が大前提 毎日新聞「デジタル毎日」インタビュー 2018年6月13日


 「そのなかで一番重要だったのは『自衛の措置の限界』は憲法上、どこにあるのかという議論だった。」との記載であるが、それは憲法解釈によって導き出されるものであり、1972年(昭和47年)政府見解が示している。

 「この議論によって、9条のもとで許される自衛の措置(武力の行使)の限界を明確にした。従来の政府見解をふまえて、論理的な整合性を持つ形で明確にした。」との記載があるが、誤りである。あたかも「存立危機事態での武力の行使」が9条の下、つまり、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれるかのような前提で話を進めているが、論者の言う「従来の政府見解」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に、「存立危機事態での武力の行使」が含まれると考えることには「論理的な整合性」が保たれていない。「論理的ない整合性を持つ形で明確にした」との認識は、理由なく結論のみを述べようとしている点で、正当化することはできない。結論のみを「論理的な整合性を持つ」や「明確にした」、「ふまえ」たかのように説明したからといって、正当化できるとするのであれば、9条の下でも侵略戦争を「論理的な整合性を持つ」や「明確である」、「ふまえて可能と判断した」などと結論のみを述べて正当化できることとなってしまうからである。結論のみを述べて正当化しようとしている論者の主張は、法解釈という営みそのものを否定するものである。


遠山清彦


〇 公明党 遠山清彦


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そこで、米軍が日本を守るために活動しているとき、たとえば北朝鮮から攻撃された場合等に限り、あくまでも自国防衛のためだけに集団的自衛権を行使できるようにしました。
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公明・遠山議員が改憲案を自民と調整しない理由を独白「国民投票否決は政治的な影響が出る」 2018.9.30


 「自国防衛のためだけに集団的自衛権を行使できるようにしました」との記載がある。しかし、9条の規定は、「自国防衛」を理由とするからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。なぜならば、「自国防衛」を理由とすることだけでは、自国民の利益や政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が発動される可能性を排除できないからである。そのため、9条解釈には、政治判断によって自国都合による「武力の行使」が行われる可能性を排除できる明確な基準が設定されることを必要とする。


 まず、他国に対する攻撃があった場合、【国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』】にあたる【自国の統治権の『権限』による「武力の行使」】を発動するためには、「他国からの要請」が必要となる。なぜならば、国連憲章2条4項では「武力行使禁止原則」が定められており、これに対して国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分によって違法性を阻却するためには、「他国からの要請」が求められているからである。もし「他国からの要請」がない状態で「武力の行使」を行った場合、国連憲章51条の「集団的自衛権」が適用されることはなく、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触して違法となるのである。そのため、「他国からの要請」がなければ、「集団的自衛権」の区分としての「武力の行使」はできない。


 しかし、この「他国からの要請」の有無を基準として、自国の統治権による「武力の行使」を発動できるか否かを決しようとすることは、本質的に9条の下で許容される「武力の行使」の範囲とは因果関係のないものである。


 なぜならば、もし「他国からの要請」がない段階で日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができるとした場合、その行為は国連憲章51条の「集団的自衛権」に該当せず、国連憲章2条4項の武力行使禁止原則に抵触して国際法上違法となることは当然であるが、9条が「自国防衛」を目的とした「先制攻撃(先に攻撃)」を許容する規範ということになってしまうからである。


 9条の規定が存在する限りは、そこに規範が存在し、統治権の『権限』の範囲を制約することになる。しかし、その9条の下でも「先制攻撃(先に攻撃)」が可能であるかのように規範性を損なった形で読み解いた上で、国際法上の違法性を阻却するための『権利』を得るために必要となる「他国からの要請」という基準に頼る形で自国の統治権の『権限』の範囲を確定する規範を設定しようとすることは、9条の規定が存在する意味から求められる9条それ自体の規範性を意図的に無視するものである。


 これは結局、9条解釈においても、「他国に対する武力攻撃」と「その他国からの要請」という基準を満たしたならば、政治判断によって自国都合の「武力の行使」を許容することとなる基準を設定しようとするものであり、9条解釈が日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する基準として存在することから求められる規範性を損なっているのである。これについて、たとえ「自国防衛」と称する「武力の行使」であったとしても、9条解釈において設定された規範性を踏み越えることが許されるわけではない。

 よって、9条解釈は「自国防衛」であるか否かによって規範性の基準を設定しているわけではないことから、論者のいう「自国防衛のためだけ」の集団的自衛権の行使(存立危機事態での「武力の行使」)であるか否かに関係なく、9条の規範性を損なっていることにより、9条に抵触して違憲となるのである。


 そもそも、「集団的自衛権」とは、「他国からの要請」があった際に、自国に国際法上の『権利』が発生することで成り立つものである。憲法9条とは、自国の統治権の『権限』を制約するものである。この両者は、『権利(right)』と『権限(power)』で性質が異なる。


 「他国からの要請」によって国際法上の違法性阻却事由としての『権利』が発生するからといって、9条に制約を受けた日本国の統治権の『権限』の範囲が伸縮するわけではない。

 9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定した基準であり、その規範性を「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」に設定したものである。ここに、存立危機事態の要件である「我が国と密接な関係にある他国」が含まれることはない。


 もし、ここに「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃が含まれるとしたならば、9条が自国民の利益や政府の都合によって「武力の行使」が行われる可能性を排除することのできない規定となってしまい、憲法解釈として妥当でないからである。

 また、記事には「米軍が日本を守るために活動しているとき」との記載もあるが、存立危機事態の要件である「我が国と密接な関係にある他国」とは米軍に限られているものではない。どの国も政治判断によってこの「他国」に入る可能性を有する要件なのである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中には「我が国に対する武力攻撃」以外の武力攻撃があてはまる余地がないため違憲となることが前提ではあるが、この「他国」という要件も9条の規範性を損なう要件であるため違憲である。


<安保法制>公明党・遠山清彦議員に聞く 集団的自衛権の行使の条件とは? 2015年05月26日


 5ページに「われわれが作った、公明党が特に強く主張して作った新3要件っていうのは、日本ではないほかの国の部隊への攻撃がきっかけなんですが、そのほかの国の部隊に対する攻撃を『きっかけ』として、ほかの国の国民じゃなく、日本国民の生命、命と自由と幸福に暮らす権利が根底から覆される明白な危険があって、ほかに適切な手段がないときは自衛隊がほかの国の部隊に対する攻撃を『きっかけ』に動いていいですよ、と。武力の行使をしてもいいですよということを言ったんです。」

 「これ、普通の集団的自衛権です。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」に該当させて「武力の行使」の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、「他国からの要請」が必要である。そのため、「集団的自衛権」に該当すれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、「普通の集団的自衛権」や「独自の集団的自衛権」などという区分けは存在しない。「他国からの要請」が必要な「武力の行使」をしている時点で、それは『他国防衛』にあたるのであり、『他国防衛』を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。

 6ページに「新3要件は、わが国と密接な関係にある他国に対する攻撃を『きっかけ』として、かつ、その攻撃によってわれわれ自身が、私自身が危ない目に遭うということが明白なときといってますから、」との記載があるが、そもそも9条の下では、たとえ「自国の存立」や「国民の権利」の危険が存在するからといって、必ずしも「武力の行使」ができるわけではない。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険などを理由として政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定だからである。結局、論者は「他国に対する武力攻撃」をきっかけとして、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」を行おうとしているものであるため、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした趣旨に抵触するため、その「武力の行使」は違憲となる。また、新三要件を持ち出した2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとされているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものである。この「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「存立危機事態」の要件にある「他国に対する武力攻撃」は含まれておらず、含ませることもできない。このことから、「存立危機事態での武力の行使」については、政府自身の設定した違憲審査基準によって違憲となる。

 8ページで、「想像の事態ですから、それは法律では新3要件に合えば行ける、合わなければ行けない、以上。終わり、なんです。」との記載がある。論者の言おうとしている「法律論」に合わせて表現するが、「存立危機事態」が存在するかは別として、日本国の統治権の『権限』が行使できる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合すれば合憲、適合しなければ違憲である。「存立危機事態での武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に論理的に適合しないため、違憲である。以上、終わり、である。

 9ページの自民党に聞けば「新3要件に合えば行けますよ」と答え、公明党に聞けば「新3要件に合わなければ行きません」と答えるとの点であるが、結局、合うか合わないかが焦点であることは確かである。しかし、この「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなる。そのため、31条の適正手続きの趣旨や、41条の立法権の趣旨より違憲となると考えられる。

 その後、「ですからそこは厳密に細かく書かせていただいたと思ってますし、」との記載があるが、「存立危機事態」の要件は一体どのような状態を指しているのか曖昧不明確であり、9条の下にあるという制約から求められる規範性を確定する要素となるものが存在しないため、9条に抵触して違憲となる。

 6ページあたりの海外派兵については、下記の記述が詳しい。

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・しかし、新三要件における第三要件「必要最小限度の実力行使」は、自衛隊の集団的自衛権行使について、①そのエリアについても、また、②武力行使 の態様についても、何ら論理的な法的制限を課すものではない。これに対 し、個別的自衛権行使の(旧)三要件の場合は、その第三要件「必要最小限度の武力行使」が、日本侵略の排除のためのものであるため、エリアも (相手国の軍隊を領域外に追い出せば足りる)、態様も(相手国の武力攻撃を排撃できるもので足りる)、その両方において、はっきりと論理的な制限が画せるものである。


・つまり、新三要件の集団的自衛権行使は、同盟国に対する他国の武力攻撃を阻止するための武力行使であって、常識で考えて、エリアは一般的に他国の領域か、同盟国の領域となり(エリアは旧三要件と原則がひっくり反る)、また、態様は日本侵略排除と違って何をどこまでやれば「日本国民の 生命等が根底から覆される明白な危険」を排除できるものであるか何の論理的基準もない。特に、態様については、旧三要件とは全く異なり、当初の見込みが外れて「泥沼の戦争となった」というベトナム戦争、イラク戦 争などの海外派兵の幾多の史実が示すとおり、相手の武力攻撃の態様に引き摺られ際限なく拡大・深化し得る、均衡的・相対的というよりは実質的にはむしろ「従属的な概念」となる。
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第五章 集団的自衛権行使の新三要件 ──歯止め無き無限定の武力行使 PDF (P170~171) (下線・太字は筆者)


平和安全法制が立憲主義に反する」という主張に反論する 遠山清彦 2016年11月25日


 「『当時考えられていた、他国防衛を目的とするような集団的自衛権』を念頭に、『いわゆるフルセットの集団的自衛権』を否定しているのです。」との記載があるが、国際法上の『権利』の区分である「集団的自衛権」は、かつても現在も「集団的自衛権」でしかない。「集団的自衛権」の区分に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、『他国防衛』や『自国防衛』などという区分は国際法上存在しないし、「限定的」や「フルセット」などという区分も国際法上存在しない。結局、論者は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」では認めることのできない「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を行おうとしているものであり、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件に規範性を設けた1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に抵触して違憲となる。

 「すなわち、『47年見解』の『基本的な論理』を維持した上で、それを現在の安全保障環境に『あてはめ』た結果、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、9条が政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われる趣旨から求められる政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的な事態の性質面に規範性を設定したものと解することが憲法解釈上の前提として妥当であり、この規範性は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。それにより、「現在の安全保障環境」を考えたとしても、9条の規定が意図する規範性が揺らぐわけではない。結果として、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとする「存立危機事態での武力の行使」については、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に『あてはめ』ることはできず、違憲となる。

 「『自国防衛を目的とする集団的自衛権』の行使を認めることは、憲法前文や13条の趣旨を踏まえた憲法9条に反するものではない、と位置付けたものなのであります。」との記載もあるが、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』は、「他国からの要請」によって発生するものであり、『他国防衛』を含むものである。それを、国際法上の区分であるにもかかわらず、『自国防衛を目的とする集団的自衛権』などと独自に解釈することは自国の独善主義を排しようとして憲法が国際協調主義を採用している趣旨からも妥当でない。また、「憲法9条に反するものではない、と位置付けたもの」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に論理的に適合しないにも関わらず、道理もなく「憲法9条に反するものではない」などと結論のみを述べて正当化することはできない。法解釈とは、論理的整合性を積み上げた結果として正当性を有するのであり、結論のみを述べることで正当性が生まれるわけではないのである。

 「国民の生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るかという観点から制定された平和安全法制は、『立憲主義違反』どころか、まさに『立憲主義』を具現化したものと評価されるべきもの、と考えます。」との記載があるが、誤りである。国家は、自国民の「生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るかという観点」から自国の独善主義に陥り、他国に向かって「武力の行使」を行うことが歴史上しばしば繰り返されてきたことは事実である。憲法上に設けられた9条は、まさにそのような政府の行為を制約するために設けられている規定である。そのため、9条の規定の下では、「国民の生命・自由・幸福追求の権利をいかに守るか」という観点で考えたからと言って、必ずしも「武力の行使」を行うことが正当化されるわけではないのである。論者は、「まさに『立憲主義』を具体化したものと評価されるべきもの」としているが、これこそ、9条が憲法規定として政府の行為を制約しようとした我が国の独善主義に陥った考え方と評価されるべきものである。「存立危機事態での武力の行使」については、「憲法違反」であると同時に、政府の行為を制約する「立憲主義」の精神にも違反するものである。


伊佐進一


〇 公明党 伊佐進一


シリーズ 平和安全法制① 「砂川事件」(専門レベル:高) 2015.06.16


 「『砂川判決』は、自分を守るために必要な措置は否定していません。『集団的自衛権』についても、自分を守るために必要なら、否定しないといっているだけで、『集団的自衛権』が必要だとは、まったく言っていないのです。」との記載があるが、正確には誤りである。砂川判決は、日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」について何も述べておらず、「『集団的自衛権』についても、自分を守るために必要なら、否定しないといっているだけ」という表現に見られる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を「自分を守るために必要なら、否定しない」などと言ってはいないからである。


 1972年(昭和47年)政府見解について、「この『根拠』に基づけば、他人を守るという、いわゆる本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』は、やっぱり認められませんでした。ただ、自分を守るために必要なことを突きつめれば、一部、『集団的自衛権』が入った。これが結論だったんです。」との記載があるが、認識に誤りがある。

 まず、国際法上の違法性阻却事由の『権利』である「集団的自衛権」を行使するためには、「他国からの要請」が必要となる。この「他国からの要請」がない中で「武力の行使」を行えば、国際法上の違法性阻却事由を得ることができず、国際法上違法となるからである。結果として、「他国からの要請」の有無を基準として違法性阻却事由に該当するかが決せられる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う場合、『他国防衛』の意味を含むこととなるのである。そのため、「いわゆる本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』は、やっぱり認められませんでした。ただ、自分を守るために必要なことを突きつめれば、一部、『集団的自衛権』が入った。」との表現に見られる、「本当の意味でのいわゆる『集団的自衛権』」と「自分を守るために必要な…『集団的自衛権』」などという区分は存在していない。国際法上、「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。論者は結局、「自分を守るために必要なことを突き詰めれば」、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を行おうとする主張をしているのである。

 しかし、1972年(昭和47年)政府見解は、政府が自国都合の恣意的な判断によって「武力の行使」を行うことを禁ずる前文平和主義を背景とした9条の趣旨を生かした憲法解釈であり、その「基本的な論理」に見られる「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、政府の恣意性の入る余地のない「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味すると考えることが妥当である。よって、論者が「自分を守るために必要なことを突けき詰めれば、一部、『集団的自衛権』が入った。」などとして「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないために違憲となる。論者の言う「この『根拠』に基づけば」違憲となるのである。

 もしこの1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」以外の武力攻撃が入ると考えるとすると、我が国と関係のない武力攻撃が世界のどこかで発生した場合であっても「我が国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」に踏み切れるとすることとなってしまい、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が「国民の権利」を実現するために必要であれば「武力の行使」を行うことを許容する憲法解釈ということとなってしまい妥当でない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言の中に、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」以外の武力攻撃が含まれると読むことは、1972年(昭和47年)政府見解それ自体が、9条の規定が存在していることから求められる一定の規範を見出すことのできない解釈となり、9条の規定を無効化(空文化)することとなり、憲法解釈として成り立たないものとしてしまうものである。このことからも、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。



シリーズ 平和安全法制③ 「ホルムズ海峡には行けるか?」(専門レベル:中) 2015.06.18


 「今回の法案では、きわめて限定的に『集団的自衛権』の一部を認めました。」との表現があるが、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分であり、日本国の統治権の『権限』とは区別して考える必要がある。「きわめて限定的に『集団的自衛権』の一部を認めました。」とあるが、憲法は『権利』を禁じているわけではないし、認めるとか認めないとかそのような話にならないため、「限定的」という言葉も意味を為さないのである。


 「今回の法案でも、こうした友達を守るための『集団的自衛権』は、認めません。どういう場合なら認めるかというと、あくまで、『自分を守る』という目的があるときだけなんです。」との記載があるが、国際法上の「集団的自衛権」という区分に、『友達を守る(他国防衛)』や『自分を守る(自国防衛)』などの区分は存在していない。そのため、「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないのである。また、国際法上「集団的自衛権」という違法性阻却事由を得るためには、「他国からの要請」が必要となるため、「他国からの要請」の有無によって違法性が阻却されるかが決させれる「集団的自衛権」としての「武力の行使」については、必ず『友達を守る(他国防衛)』の意味を含むものである。論者の言う『自分を守る(自国防衛)』という目的があるときだけ「武力の行使」をするということは、結局「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で『自分を守る(自国防衛)』という目的のために「武力の行使」をするというだけを意味しているのであり、9条の規定に抵触して違憲となる。
 論者が「日本という国の存立、国そのものが危機となるような、国民の皆さんの命や、自由や、日々の幸せな生活が、根っこから失われるようなとき。」とは、存立危機事態の要件である「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を指しているが、9条は自国の危機を理由として「武力の行使」をすることを必ずしも許容しているものではない。「こんな大変な事態なら」などと言って、政府が自国の都合で「武力の行使」に踏み切ることを制約する規定として設けられたものだからである。この9条の趣旨を解釈した結果、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことは、9条に抵触してい違憲としているのである。論者が自国の危機を理由として「武力の行使」を行おうとする論旨は、9条の規範に抵触して違憲となるのである。

 「火事」の事例に例えようとすることであるが、武力攻撃とは相手国が存在する事例であり、「火事」という災害とは性質が異なる。災害は災害派遣で対応するべきものであり、この例えは「武力の行使」という実質を覆い隠そうとするものである。憲法の「平和主義」と「火事」は関係がないのである。


佐々木さやか


〇 公明党 佐々木さやか


安全保障に関する閣議決定 ―集団的自衛権について①― 2014.7.7


 「9条は、我が国の自衛の措置としてやむを得ない場合にしか武力の行使を認めていません。」との記載があるが、正確なものではない。9条が許容している「武力の行使」の範囲を示したものは、1972年(昭和47年)政府見解である。この見解は、「この自衛の措置は、あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るためのやむを得ない措置として初めて容認されるものであり、そのための必要最小限度の『武力の行使』は許容される。」とするものである。

 この見解の中の「やむを得ない措置」だけを引き出して、「やむを得ない場合」にしか「武力の行使」を認めていないことが9条の制約であると見なし、そうであるならばと、その後「自国防衛のためにしか武力を行使できません。」との理由で9条の枠内であり合憲であるかのように論じている点は誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解で容認される「武力の行使」は、「あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆されるという急迫、不正の事態に対処し、国民を守るためのやむを得ない措置」なのであり、「あくまで外国の武力攻撃」と記載されている「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず、「自国防衛のため」に「やむを得ない場合」ならば「武力の行使」も合憲となるというわけではないのである。ここがポイントである。


 「ですから、集団的自衛権も自国防衛のためにやむを得ない限りでしか認めていません。 」との記載があるが、論旨が通じない。

 まず、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての『権利』である。そのため、この文章は「『権利』を認めない」と主張していることになるが、9条は「武力の行使」を制約する規定なのであり、国際法上の『権利』を認めていないわけではないのである。

 次に、「集団的自衛権」とは、国際法上の『権利』の概念であり、その『権利』に『自国防衛』や『他国防衛』などという区分は存在しない。

 第三に、国際法上「集団的自衛権」を行使するにあたっては、「他国からの要請」が必要である。「他国からの要請」がなければ、国連憲章の「武力行使禁止原則」に違反して国際法上違法となるからである。このことから、「他国からの要請」がない段階では「集団的自衛権」という区分によって違法性が阻却されないのであるから、「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は、必然的に「他国からの要請」の有無に頼って『権利』の発生の有無が確定するものであるから、『他国防衛』を含むことになるのである。そのため、論者の主張しようとしている『自国防衛』だけを意味する「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」などというものは存在していない。『自国防衛』と称しようとも、それは『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないのである。


   【参考】リメンバー9・19 ・・・違憲立法が強行採決された日を忘れない! 2015年9月28日

 第四に、「集団的自衛権の行使」と称しようとも、その行使は国家の統治権の『権限』による「武力の行使」である。その「武力の行使」は、9条が制約をかけている。注意して考えるべきところは、9条はたとえ『自国防衛』と称するからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないことである。なぜならば、9条は、自国の政治的な都合や国民の権利の実現などを理由として、政府が恣意的な理由でもって自国都合の「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定だからである。これは、9条が前文の平和主義の理念を具体化した規定であり、その前文で「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」と記載されていることからも裏付けることができる。このことから、9条を解釈する際には、政府の恣意的な都合による「武力の行使」を制約するだけの規範性が求められる。これにより、『自国防衛』であるからといって、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」を行うことができるとすることは、9条解釈として妥当でないのである。9条の規定が存在するにもかかわらず、論者は「自国防衛のためにやむを得ない限り」との主張でもって、「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにも関わらず、「武力の行使」を行おうとするものであるから、9条に抵触して違憲となるのである。


 「そのようなことは、自国防衛の枠を超え、」との記載があるが、9条は『自国防衛』であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容しているものではないのであるから、論者が勝手に『自国防衛』であれば9条の枠内であるかのように考えていることに誤りがある。
 「9条の専守防衛、」との記載もあるが、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解から導き出された防衛の姿勢を「専守防衛」といっているのであり、「集団的自衛権」にあたる「存立危機事態での武力の行使」は1972年(昭和47年)政府見解の枠組みから逸脱しており、「専守防衛」にも反する。論者は「存立危機事態での武力の行使」が「専守防衛」の中にあると考えているようであるが、「存立危機事態での武力の行使」は、「専守防衛」の定義である「相手から武力攻撃を受けたときにはじめて防衛力を行使し、その態様も自衛のための必要最小限にとどめ、また、保持する防衛力も自衛のための必要最小限のものに限るなど、憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」にも当てはまらない。「専守防衛」ではないのである。
 「平和主義の考え方」との記載もあるが、先ほども述べたように、「存立危機事態での武力の行使」を許容することは、9条解釈において前文の「政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し」の趣旨から求められる政府が恣意的な判断によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範性を損なうものであり、9条に抵触して違憲となる。9条の規範性を損なったことは、9条解釈において指針となる前文の平和主義の精神も同時に損なわれることとなるため、「平和主義の考え方」にも反するものである。


 「9条の考え方の根本はそのまま」との記載があるが、「存立危機事態での武力の行使」は、9条の考え方の根本から導かれる1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から逸脱するものであり、「そのまま」とは言えない。
 また、2014年7月1日閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していると主張しているが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に、「存立危機事態」の要件に含まれている「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃」は含まれない。そのため、2014年7月1日閣議決定が、「存立危機事態での武力の行使」を結論として容認する趣旨は、論理的整合性を欠いている。これは、法解釈の過程を誤ったものであるから、「好き勝手に変えた」わけであり、それを否定する論者も「好き勝手に」解釈しているということになる。内容が違憲なのであるから、それを容認しようとすることを「解釈改憲」と表現されることは意味の通るものである。
 「これ以上のことをやるのであれば憲法改正が必要」との主張であるが、既に9条の規範性が損なわれているのであるから、「これ以上」の「武力の行使」であるか否かというものは、政府の主観的な判断によって行使するか否かを判定するだけのものとなっており、裁量判断に任されているのである。9条の規範性が損なわれた時点で、「これ以上」という意味は、「他国に対する武力攻撃が発生」していない段階での「武力の行使」についてはさすがにできないといっているだけであり、「我が国と密接な関係ある他国に対する武力攻撃が発生」した段階では、政府の裁量判断による「武力の行使」となることを否定することにはならないのである。
 「集団的自衛権を拡大するようなことはできません。」との記載であるが、「集団的自衛権」は相変わらず国際法上の『権利』であり、拡大するとかしないとか、そういうものではない。国際法上の「集団的自衛権」の行使にあたる「存立危機事態での武力の行使」については、他国に対する武力攻撃が発生した段階で政府の総合的な判断という恣意的な理由が入り込む余地のある要件であるから、「拡大するようなこと」ができるわけであり、認識に誤りがある。もしかすると、論者が「国際法上の『集団的自衛権』という『権利』の区分が拡大する」などという意味で主張している可能性も考えられるが、「集団的自衛権」は国際法上の概念であり、日本政府が勝手に定義を変更できるものではない。


「平和の党」公明党が果たした役割 ―集団的自衛権について②― 2014.7.7


 「他国を守る目的の集団的自衛権を許さなかったことです。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」という国際法上の違法性阻却事由としての『権利』を行使するためには、「他国からの要請」が必要である。もし「他国からの要請」がない中で「武力の行使」を行えば、国際法上は先制攻撃となり、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触して違法となる。そのため、「他国からの要請」がなければ、違法性阻却事由としての『権利』が発生しないのであるから、「武力の行使」を踏みとどまらなければならないのである。このことから必然的に、「他国からの要請」が必要となる「集団的自衛権」の行使としての「武力の行使」を行うことは、「他国を守る目的」を含むこととなるのである。論者は「他国を守る目的の集団的自衛権を許さなかった」と主張し、『自国防衛』の「集団的自衛権」なるもののみを許容しているかのように説明しているが、「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」であれば、必然的に「他国を守る目的」を含むのである。論者が『自国防衛』と『他国防衛』を恣意的に切り分けているだけであるから、結局「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、違憲となるために行使できないのである。

 「公明党は、今回の閣議決定で、平和主義を守り抜きました。」との記載があるが、9条は前文の平和主義の理念を具体化した規定であり、「存立危機事態での武力の行使」を容認した2014年7月1日閣議決定は、9条の規範性を損なうものであるから、「平和主義」の理念が守られていないということである。「守り抜きました」との主張は、9条の規範性を損なっていることを理解していないものである。


   【参考】第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF


 武力行使の新三要件について「あいまいな要件では、集団的自衛権の範囲が広がってしまう恐れがあります。」との記載がある。まず、「集団的自衛権」の区分にあたれば、国際法上は「集団的自衛権」でしかないのであり、広がるとか広がらないとかいう概念ではない。
 「存立危機事態」の要件についても、あいまいな要件であるため事実に反する。
①「わが国と密接な関係にある他国」について、いかなる国が該当するのか分からずあいまいである。
②「これにより」との内容であるが、その後に続く要件との関連性は政府が主観的に判断するものであり、あいまいである。
③「わが国の存立が脅かされ、」とは、一体どのような事態を指しているのか理解することができず、あいまいである。
④「国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される」ような事態とは、いかなる状態を指しているのか理解することができず、あいまいである。
⑤「明白な危険」について、「明白」でありながらも、「危険」という害悪発生の可能性に留まる状態を指す用語を重ねているため、結局、明白な害悪発生の可能性というものは、あいまいである。これは、客観的な基準は存在せず、条文を適用する者がどのような感覚を持っているかに依存するものであるから、あいまいである。
 このようなあいまいな文言で構成される「存立危機事態」の要件は、運用する際に適用する政府機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずるものである。
 「厳格なものにした」との評価も、あいまいである以上は「厳格」になっているとはいえない。


   【参考】「明白な危険の判断基準は?」 自衛隊の武力行使 2015/05/26

   【参考】今週にも「強行採決」か?!・・・維新案の十分な審議を求める 2015年7月13日


9条は自衛の措置認める 自国防衛でない武力行使するには 「憲法改正が必要」 首相が明言 「戦争には巻き込まれず」と答弁も 佐々木さやか 
2015年8月22日


 この記事で論者が訴え、主張していることは正しい。「政府の憲法解釈と論理的整合性が維持され、法的安定性が保たれること」は重要であるし、「昭和47年(1972年)見解の根幹部分」を今後とも維持されなければならないとの主張も、9条解釈から導かれる妥当なものである。

 しかし、安倍首相の明言している「昨年7月1日の閣議決定は憲法9条が許容する自衛の措置の限界を示したものである」との答弁は事実に反している。論者も上記で指摘している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を示しており、2014年7月1日閣議決定で容認しようとした「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で行われる「存立危機事態での武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に含まれないからである。


斉藤鉄夫


〇 公明党 斉藤鉄夫


公明党幹事長、創価学会員と「ズレ大きくなっているとは感じる」 2019.1.31


 「ただ4年前の安保法制議論では、現憲法の枠内でできる自衛の措置の限界が明確になったので、今後は9条改正の必要がないということで支援者と納得した経緯がある。」との記載があるが、「存立危機事態での武力の行使」については現憲法の9条の制約の枠を超えており、違憲となるため誤りである。
 9条は「自国の存立」や「国民の権利」などを理由として「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定であり、存立危機事態の要件である「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」という事態が起きたからといって、必ずしも他国に向かって「武力の行使」を行うことを許容しているわけではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験しており、9条は、そのような政府の行為を制約するために設けられている規定だからである。そのため、9条が存在しているにもかかわらず、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が可能となるかのように読み解くことは、憲法解釈としての妥当性を欠くこととなる。9条解釈においては、9条が政府の行為を制約しようとした趣旨を生かした解釈が求められるところ、「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として「武力の行使」が可能となる要件を定めることは、結局9条が政府の行為を制約するための規範性を損なうこととなるため、憲法解釈を成り立たないものとしてしまうのである。「存立危機事態」の要件は、9条の規定が存在することから求められる規範性を損ない、9条に抵触して違憲となる。
 「自衛の措置の限界が明確になった」との記載もあるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「自衛の措置の限界」は、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に表れているように、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすことである。「存立危機事態での武力の行使」は、この「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を可能とするものであり、「自衛の措置の限界」を超えており、違憲である。「明確になった」などと結論のみを述べて正当化しようとしても、法解釈に求められる論理的な過程に誤りがあるため、正当化することはできない。法解釈は論理の積み重ねによって正当性を生み出すものである。結論のみを述べて正当化しようとしても無理である。


 「例えば安保法制では、フルスペックの集団的自衛権の行使という自民党案に対して、現行憲法の範囲内でごく限定された集団的自衛権しか行使できないよう歯止めをかけた。党員や支持者の方々と大変な議論をしながら、現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との記載があるが、誤りである。
 まず、「フルスペックの集団的自衛権の行使」との記載であるが、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である「集団的自衛権」に、「フルスペック」や「限定された」などという区分は存在していない。「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかないのである。そのため、「フルスペック」ではなく「限定された」ものであるかのように論じようとしているが、法学上、そのような概念は存在しておらず、論者が勝手にそのように主張しているだけである。
 また、その国際法上の評価として「集団的自衛権の行使」と言われる状態は、実質的には日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味する。論者は「自衛権の行使」や「自衛措置」などという言葉を使っているが、それは「武力の行使」なのである。9条はこの「武力の行使」を制約する規定であり、「集団的自衛権」という概念に「歯止めをかけた」などと論じることも正確な認識ではない。結局論者の主張は、「限定された」ものであると認識すれば、9条の規範性を無視して「武力の行使」を行うことができるとするものである。9条の規範性を無視することは法解釈として正当化することはできないし、「限定され」ていると認識することだけで「武力の行使」が可能となるわけでもない。論者の主張は正当化根拠にはならない。

 「歯止めをかけた」などと成果を強調しても、「存立危機事態での武力の行使」については、9条の制約の枠を超えているのであるから、違憲であることには変わりない。
 「現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との記載があるが、「自衛措置の限界」を示す1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味しており、この要件を満たさない「存立危機事態での武力の行使」については、「自衛措置の限界」を超えており、違憲である。
 「自衛措置の限界はどこかを明確にした。」との認識であるが、誤りである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険が発生したからといって、必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。そのため、「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」を許容する「存立危機事態での武力の行使」については、「自衛措置の限界」を画する規範性を有しておらず、「自衛措置の限界」は「明確」となっていないからである。「自国の存立」や「国民の権利」を理由として「武力の行使」が可能となる要件を設け、9条の制約を画する規範性を損なったことは、一定の規範性を見出して政府の行為を画しようとする憲法解釈という営みそのものを否定するものである。法の支配そのものを否定するものであるから、「存立危機事態での武力の行使」の要件は、9条の下での「自衛措置の限界」を超えており、違憲となるのである。
 よって、「存立危機事態での武力の行使」が、あたかも「現行の憲法9条の枠内で許される自衛措置」であるかのように論じることはできず、論者の認識は誤りである。


緒方林太郎


集団的自衛権の合憲性 2017-10-28

集団的自衛権の合憲性 2017年10月29日


 「重要なのは『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』なのであれば、それは当然、自衛権行使になるはずです。」との記載があるが、誤りである。まず、ここで述べられている「自衛権行使」とは、国際法上の『権利』の概念を行使するという言葉であり、実質的には「武力の行使」である。
 しかし、9条は「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容している趣旨の規定ではない。なぜならば、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような政府の行為を禁じるために定められている規定だからである。そのため、「我が国の存立」や「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険」があろうとも、他国に向かって「武力の行使」を行うことは、我が国の独善主義であり、憲法の国際協調主義の精神にも反するものである。
 論者は、「これを否定する人は居ないと思います。」と考えているようであるが、憲法9条はまさにこのような自国都合によって「武力の行使」を行うことを禁じるものであるため、9条はこれを否定するものである。
 論者の中には、恐らく『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』が発生したことの原因が、ある特定国の攻撃によって引き起こされている問題であるとの前提認識が存在しているように思われる。しかし、その特定国の攻撃は、我が国ではなく、「他国に対する武力攻撃」であり、未だ「我が国に対する武力攻撃」は発生していないのである。9条が日本国の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」を制約している趣旨は、政府が自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずるものであるから、ある特定国が他国に対して武力攻撃を行ったとしても、この9条が「武力の行使」を制約する規範が変化するわけではない。
 そのため、「存立危機事態」の要件である「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」したとしても、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する規範が変化するわけではない。それは、「これにより」とその影響が発生したとしても、だからといって9条が政府が自国の都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範が変化するわけではない。たとえ、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態」が発生したとしても、「他国に対する武力攻撃」があったことを理由として政府が自国の都合によって「武力の行使」を行う余地が生まれるわけではないのである。9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じている規定だからである。
 1972年(昭和47年)政府見解は、平和主義に裏付けられた政府が自国の都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約する9条の趣旨を生かした憲法解釈であり、この趣旨から「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか否かに規範性を設定したものである。
 「存立危機事態での武力の行使」については、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の規範性である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものであるから、違憲である。これは、たとえ『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』が発生したとしても、それだけで他国に向かって「武力の行使」を行うことを正当化することはできないのである。

 

 「なので、法文上は合憲です。」との記載もあるが、誤りである。前文の平和主義や9条の趣旨は、たとえ『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』であったとしても、必ずしも他国に向かって「武力の行使」を行うことを許容しているものではない。なぜならば、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危険などを理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁じる趣旨の規定だからである。よって、極めて例外的に「武力の行使」を行う場合であっても、その「武力の行使」の発動要件について定めた規定は、政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的に明確な規範を設ける必要がある。「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」については、政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的に明確な要件を設けたものであるため、9条の趣旨に抵触しないと見る余地がある。しかし、「存立危機事態」の要件については、「他国に対する武力攻撃」の影響があるかを政府の主観的な判断によって認定するものであり、さらに「自国の存立」や「国民の権利」の危険を政府が主観的に総合判断するとするものである。結局これは、「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で、自国の政治的な都合や国民の権利の実現などを勘案して政府が自国都合によって恣意的に「武力の行使」に踏み切ることが可能となるものであり、9条の趣旨に反するものである。「法文上」、9条に抵触して違憲となる。


 また、「法文上」違憲となる論点には、「存立危機事態」の規定が曖昧不明確であることも挙げることができる。

 存立危機事態の曖昧不明確な要件
① 「我が国と密接な関係にある他国」との要件であるが、どの国を指しているのか分からず、政府が裁量判断するものであるため曖昧である。
② 「これにより」との説明であるが、具体的に相当因果関係が認められるかどうかについて政府が裁量判断するものであり、曖昧である。
③ 「我が国の存立が脅かされ」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
④ 「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、一体どのような状態を指しているのか分からないため、曖昧である。
⑤ 「明白な危険がある」との言葉であるが、「危険」とは、害悪発生の可能性を意味するものであり、「明白」との文言を加えても、結局「明白な可能性」でしかないものである。可能性が明白とは、結局条文を適用する者がどう感じるかに委ねたものであり、客観的な基準となるものは存在しないために曖昧である。

 これら「存立危機事態」の曖昧不明確な要件は、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるために違憲となると考えられる。「法文上」違憲である。


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 さて上記のうち①に言う、「我が国の存立が脅かされ」と「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される」とは、 国家安全保障局が作成した「自衛権などに関する政府見解の想定問答集」によると、「国家と国民は表裏一体のものであり、我が国の存立が脅かされるということの実質を、国民に着目して記述したもの(加重要件ではない) 」とされている。そうすると結局①は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされる明白な危険がある場合」ということになり、生身の国民を離れた抽象的、観念的な概念となる。そこで思い出されたい。日米同盟は、わが国の安全保障の機軸、わが国の存立の基盤と安倍政権は説明しているではないか。そこで、米国が、戦争を開始したら、わが国もともに戦わないことは日米同盟を危殆に陥しいれ、わが国の存立を脅かすことになる。従って、当然に、わが国も「武力行使3要件」に基づき参戦を余儀なくされることにある。勿論、地理的限界はないし、他国領域(領海)を除外する理屈を見出すことはできない。


 そもそも「これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合」というのは、一義的明確性を欠き、政府の判断を限定することはできないし、また政府が特定秘密保護法施行により安全保障に関する重要な情報を独占する法体制の下で、誰からも検証・批判を受けないことになる。
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「集団的自衛権の行使を容認する閣議決定」を読み解く 深草徹 (下線は筆者)


 論者の「①『我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し』た時に、そういう事態が起きるか」についてであるが、相当因果関係が認められないため、「武力の行使」を正当化する理由とはならないと考えられる。何らかの因果関係が存在したとしても、9条は政府が恣意的な理由によって「武力の行使」に踏み切ることを制約しているのであり、「他国に対する武力攻撃」が発生したからといって、9条の制約する規範性が緩められ「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として「武力の行使」に踏み切るとすることができるようになるわけではない。平和主義を採用し、9条によって「武力の行使」を制約している日本国政府は日頃から「他国に対する武力攻撃が発生」したとしても、それによる影響を受けない形で国家を運営する義務を有するのであり、政府が不作為によってあえて「自国の存立」や「国民の権利」が危険に陥る事態となるような脆弱性のある状態をつくり出し、意図的に「存立危機事態」の要件に該当させることで、「武力の行使」に踏み切ることができるとするような要件を定めることは、9条の趣旨に反するというべきものである。


 論者の「②『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態』は何処まで広がるのか」についてであるが、この要件は、9条が政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを制約しようとした趣旨から求められる規範性を有しない要件を設定し、政府の裁量判断に任せたものである。9条の下では、政府の恣意性の入る余地のない規範を設定することが求められ、「武力の行使」の発動要件となる規範性を損ない、政府の裁量判断に委ねたこと自体が、9条の趣旨に抵触して違憲となる。
 「何処まで広がるのか」との記載であるが、「何処まで広がるのか」分からないということ自体が、政府の恣意的な「武力の行使」を制約する9条の趣旨に抵触して違憲となるのである。


 「例えば、日本海で米軍と何処かの国が海戦をやっていて、戦況が不利となり、どう見てもあと数時間したら防衛線が破られそうだ、という状況です。さすがにそういう事態であれば、自衛権発動でしょう。」との記載があるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」については、結局『他国防衛』の「武力の行使」である。『他国防衛』を行う「武力の行使」を行う実力組織は、9条2項の「陸海空軍その他の戦力」に該当して違憲となる。


 「そこが拡大していくのであれば運用上違憲となる可能性が高いです」との説明があるが、「存立危機事態での武力の行使」を定めた規定は、「法文上」違憲である。また、これにより運用上も違憲である。


 「集団的自衛権の扱いについては、法文上、これを違憲というのは相当に難しいと思います。」との記載であるが、上記の理由により、「法文上」違憲ということができる。

   【参考】第五章 集団的自衛権行使の新三要件 ──歯止め無き無限定の武力行使 PDF


その他


〇 上原広


必要最小限の集団的自衛権における「あてはめ」の法的意味 上原広(衆議院議員政策担当秘書)


   【参考】議員秘書 上原広


  『本閣議決定は、昭和47年の政府見解*4(「47政府見解」という)に基づき、その「あてはめ」から必要最小限の集団的自衛権の行使を容認しているに過ぎない。』との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に「集団的自衛権の行使」(存立危機事態での武力の行使)の要件はあてはまることはない。

 2ページ目の冒頭、国際法上の『権利』として「自衛権」を放棄していない点についてはそうであるが、これは国家の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲を確定する9条解釈とは直接関係がない。また、その後の「自衛力」の範囲が「必要最小限度のものでなければならない」との話に移っているが、「自衛の措置(武力の行使)」と「自衛力の限度」とは別の論点であり、ここで「自衛権」の「必要最小限度性」と話しを重ねようとしている点は誤りである。

 国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」という2条4項の武力行使禁止原則に対する違法性阻却事由としての『権利』を有していることと、日本国の憲法上で正当化される統治権の『権限』によって「武力の行使」ができるかどうかは別問題である。この点に留保の論点は関係なく、留意する必要はない。

 「集団的自衛権の行使はできないと主張されている。」との記載があるが、9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲を超えた場合は、たとえ国際法上の個別的自衛権にあたる区分の「武力の行使」も行うことができない。「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲を明らかに超えているために、行使できないのである。

 高度に政治的な問題として「統治行為論」に持ち込もうとしている論旨があるが、論点は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に存立危機事態の要件が「あてはまる」か「あてはまらない」かの一点である。これは高度に政治的な問題というものではなく、法論理が通じているかどうかの問題である。

 内閣法制長官が『昭和四十七年の政府見解の基本論理と整合」*8する 』と答弁していても、論理的に整合することはなく、それも誤りである。

 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合するかしないかという「適正手続き」の論点は、「極めて明白に違憲無効である」と認めることのできる論点である。これは解釈の「適正手続き」の論点であり、条文解釈において統治行為論が持ち出される論点とは別問題である。

 「必要最小限度以上の集団的自衛権の行使するためには、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う要件は入り様がなく、新三要件を修正しても無理である。「フルセット」かどうかは関係なく、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまらない「武力の行使」がすべて不可能である以上、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」はすべて無理である。

 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しない「武力の行使」はすべて違憲となるのであるから、「必要最小限度という制約を内在する」などという考え方が入る余地はない。この論者の話している「集団的自衛権」にあたる存立危機事態での「武力の行使」の要件は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」にあてはまらない。



〇 元外務事務次官 竹内行夫


集団的自衛権論議の行方について 2815 2014年7月22日


 「憲法9条の下で許される自衛の措置を強め、国の安全を守る抑止力を高めるものです。」との主張があるが、誤りである。「新聞社の報道」や「抑止力」という政策上の論点については別として、法学上は9条の下で許される自衛の措置とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に示された範囲であり、これは「『我が国に対する』武力攻撃が発生」した場合について述べたものである。よって、国際的な環境が変化したとしても、この規範が変わることはない。2014年7月1日閣議決定の「存立危機事態での武力の行使」は、「『我が国に対する』武力攻撃が発生」した場合ではないため、それによる「武力の行使」は、この「基本的な論理」に含まれることはなく、9条の下で許される範囲を超えている。


 集団的自衛権は国際法上の概念であり、国連憲章で明記されていることは正しい。これについて、「他国防衛説」と「自国防衛説」を取り上げているが、これは国際法上の『権利』の区分の学説であり、憲法上の国家の統治権の『権限』の範囲を確定する9条解釈とは関係がない。


 国際法上、国家承認を受けた国家に固有の権利として集団的自衛権の行使が許容されることは確かである。その行使の濫用を防止するため、攻撃された国による支援の「要請」が必要とされていることも確かである。


 ただ、ここで「従来の政府解釈は他国防衛説であったとみられます。」と述べている論点は誤りである。なぜならば、ここで取り上げられている政府の説明は、憲法上の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲について述べているものであり、国際法上の『権利』の区分の説明をしているものではないからである。


 政府の「集団的自衛権の行使は許されない」との説明は、単に9条解釈を行って統治権の『権限』の範囲を確定した結果、国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことができない旨を述べているだけである。ここで基準となっているのは、9条の憲法解釈であり、国際法上の『権利』の区分を基準として結論が生み出されているわけではないのである。


 また、「自衛のため、必要最小限度の武力行使」とは、1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」による制約を示したものである。ここで述べられているのは、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」があった場合に初めて発動できる「武力の行使」を必要最小限度と述べているものである。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 「他国を助けるというような意味の武力の行使」は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲を超えるため、許されないのである。これにより、結果として国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は行うことができないとなるのである。


 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の解釈は、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」が発生した場合を規範として設定したものであり、数量的な「必要最小限度」性によって枠組みを設定しようとしたものではない。そのため、「自国防衛」や「自衛のため」、「我が国を防衛するため」であるならば、「必要最小限度」と見なし、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」が発生していなくとも「武力の行使」を行うことができるとする結論を導こうとすることはできず、誤りである。


 日米安全保障条約5条は、「自国の憲法上の規定及び手続に従つて」との文言が書かれている。これは、日本国が集団的自衛権にあたる「武力の行使」を行うことができないことにより設けられた文言である。


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第五条
 各締約国は、日本国の施政の下にある領域における、いずれか一方に対する武力攻撃が、自国の平和及び安全を危うくするものであることを認め、自国の憲法上の規定及び手続に従つて共通の危険に対処するように行動することを宣言する。
 前記の武力攻撃及びその結果として執つたすべての措置は、国際連合憲章第五十一条の規定に従つて直ちに国際連合安全保障理事会に報告しなければならない。その措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全を回復し及び維持するために必要な措置を執つたときは、終止しなければならない。
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日本国とアメリカ合衆国との間の相互協力及び安全保障条約 外務省


 また、先ほども述べたように、集団的自衛権という『権利』の概念が「他国防衛説」であろうと「自国防衛説」であろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する9条解釈には影響がない。さらに、条約が憲法に反しているならば、その条約は違憲審査によって違憲となるのであり、条約を根拠に憲法解釈を確定させようとする試みも誤った解釈方法である。


 「今回は9条の理念を守り、許される範囲内で解釈の変更をしたのであって、」との説明があるが、誤りである。まず、9条の理念を守った1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」の枠内では、「存立危機事態での武力の行使」が許容されることはない。そのため、「許される範囲内で解釈の変更をした」との結論を述べようとした点が誤りである。


 「他国防衛説だけ引っ張って『米国の戦争に巻き込まれる』と主張するのは不正確で、」との主張があるが、詳しく検討する必要がある。


 まず、集団的自衛権という『権利』は、他国からの「要請」が必要である。なぜならば、他国からの「要請」がないまま「武力の行使」を行った場合、国連憲章51条の「集団的自衛権」の区分に該当しないため違法性が阻却されることはなく、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触して国際法上違法となるからである。このことから必然的に、集団的自衛権は「他国を守る」という意味を含むのであり、「他国防衛説」に該当する。他国からの要請を必要とする「集団的自衛権」という概念では、もともと「個別的自衛権」のような純粋な意味に該当する「自国防衛」というものは存在しないのである。ここで区分されている「自国防衛説」というものは、「他国防衛に付随する自国防衛」の概念であり、他国からの「要請」を必要とする「集団的自衛権」の中に純粋な「自国防衛」だけが存在するとの考え方は存在しえないのである。


 武力攻撃を受けた他国からの「要請」がない段階で「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に抵触する。違法な先制攻撃である。そのため、もともと「集団的自衛権」を「自国防衛説」と考えて「武力の行使」をしようにも、「要請」がなければ行うことができず、踏みとどまらなければならない性質である。それにも関わらず、論者の「自国防衛説」の考え方による「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」であれば、「他国防衛」の意味が含まれないかのように読み解き、あたかも9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に含まれて合憲となると解しようとすることは誤りである。


 そもそも、1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」という憲法解釈の枠組みの中に、国際法上の区分の枠組みを持ち込んで説明しようとする試みも、法体系の違いを区別していない理解によるものであり、誤りである。憲法解釈は政府や日本国の裁判所の管轄であり、国際法上の解釈は国際司法裁判所の管轄である。


 さらに、憲法解釈の中において「自国防衛」の「武力の行使」を主張しようにも、9条は「自国防衛」と称する政府の都合や恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを防ぐために存在する規範であることから、「『我が国に対する』外国の武力攻撃」という受動的・客観的に明白で、政府の政治的な都合や恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを防ぐ1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」のような規範を設定しなければ違憲となる。憲法解釈においても、「自国防衛」との考え方のみによって合憲となるわけではないのであるから、論者の主張は誤りである。


 「閣議決定で認められたのは、9条の制約を踏まえたわが国独特の抑制された集団的自衛権であると思う。」との説明があるが、誤りである。9条の制約とは、1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」であり、この中に「存立危機事態での武力の行使」が含まれることはない。また、「わが国独自の抑制された集団的自衛権」との説明もあるが、国際法上の「集団的自衛権」の概念を、「わが国が独自」に設定することはできない。これは国際司法裁判所の管轄であり、日本政府が勝手に定義することはできないからである。


 「自国防衛説に切り替えた上で、更に現実の『明白な危険』という国際法にはない強い限定を加えた。」との説明もあるが、誤りである。国際法上の集団的自衛権という『権利』の概念が「自国防衛説」であろうとなかろうと、日本国の統治権の『権限』の範囲を確定する憲法解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」の枠組みに影響を与えることはない。また、存立危機事態の要件に含まれる『明白な危険』という文言も、曖昧不明確な概念であり、政府の恣意的な判断による「武力の行使」の可能性を排除できないものである。これは、9条解釈である1972年(昭和47年)政府解釈の「基本的な論理」に適合しないことは当然、政府の都合によって恣意的な「武力の行使」が行われることを防ごうとする9条の規定が存在している意味を損なうものであり、違憲である。


 「これらの要件が満たされないのに米国からの圧力で参戦するようなことはあり得ない。」との説明もあるが、誤りである。「存立危機事態での武力の行使」の発動は、「いかなる事態が存立危機事態に該当するかについては、政府が全ての情報を総合して客観的、合理的に判断することとなる」とされている。そのため、この中には政府の政治的な事情を含みうるものであり、当然に米国からの圧力というものも、意思決定者の中で意識されようがされまいが影響を与えうるものとなっているのである。9条はこのような自国の政治的な都合などによって「武力の行使」が行われることを排除するために設けられた規定なのであるから、9条の規定が存在している意味から求められる政府の恣意性を排除するだけの規範性を有していない「存立危機事態」の要件は、9条に抵触して違憲である。論者の「米国からの圧力で参戦するようなことはあり得ない」との主張については、規範性が損なわれている時点で、意思決定者の裁量判断となるのであるから、法律論上は「あり得る」話である。論者の「あり得ない」との認識は本人のスタンスの問題であり、法律論上の見解とは言えない。



〇 慶応大教授 添谷芳秀


集団的自衛権論議の行方について 2815 2014年7月22日

 「集団的自衛権に関しては『憲法第9条の下で許容される自衛の措置』として、個別的自衛権と集団的自衛権の区別をなくしたことがポイントだ。」との説明があるが、厳密には誤りである。まず、9条解釈は憲法解釈であり、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という枠組みとは関係がない。そのため、従来から9条解釈において「個別的自衛権」や「集団的自衛権」との枠組みで線引きをしていたわけではない。9条解釈は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」であり、これに当てはまる「武力の行使」は合憲であり、当てはまらなければ違憲である。国際法上の「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」が違憲と評価されているのは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないことによって導き出されていた結論である。注意したいのは、たとえ国際法上の「個別的自衛権」の区分の「武力の行使」であったとしても、憲法の9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しなければ違憲となり、行使できないことである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の範囲は、憲法解釈によって確定されるわけであり、国際法上の線引きとは関係がないからである。ただ、2014年7月1日閣議決定は、結論として「存立危機事態での武力の行使」を許容しようとするものであり、これが国際法上の区分では「集団的自衛権」にあたり、従来の「個別的自衛権」の範囲を超えていることは確かである。この「存立危機事態での武力の行使」は、2014年7月1日閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないため、政府自身の違憲審査基準によって違憲である。



〇 大東文化大学法科大学 浅野善治


政策と立法~集団的自衛権の行使と憲法を題材として~ 浅野善治 2016年9月10日


 「これまでの政府の憲法解釈との整合性を保つため、『集団的自衛権は全面的には認めない』『武力行使ができるのは、我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合に限られる』という点を踏まえなければなりません。」との記載があるが、誤りである。これまでの政府解釈である1972年(昭和47年)政府見解には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在し、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものである。


 そのため、どこからともなく『集団的自衛権は全面的には認めない』や『武力行使ができるのは、我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合に限られる』などという基準が現れていることが、これまでの政府解釈と整合するものではなく誤りである。


 また、「集団的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、『集団的自衛権は全面的には認めない』などという、国際法上の『権利』か全面であるとかないとか、そういう論点は9条の下で行使できる国家の統治権の『権限』による「武力の行使」とは関係がないのである。9条解釈という憲法事項に、国際法上の基準を持ち込もうとした点で誤りである。


 さらに、憲法が前文の平和主義の理念を具体化した規定として9条を設けている趣旨は、政府が国民の権利や政治的な都合によって「武力の行使」に踏み切ることを制約することにある。このことから、いくら「我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合」が発生しようとも、9条は必ずしも「武力の行使」を行って他国に攻撃を与えることを許容するものではない。なぜならば、自国の存立や国民の権利利益の実現を理由とする「武力の行使」は歴史上幾度も経験するところであり、そのような政府の行為を禁ずるために9条の規定が設けられているからである。


 よって、9条解釈においては、日本国政府の恣意性を排除することのできる明確な規範性を必要とする。これは、もしその規範性を曖昧にしてしまえば、実質的に9条は政府の恣意的な判断によって「武力の行使」を行うことを制約する規定として機能しなくなり、9条の規定が存立している意味を損ない、憲法解釈として妥当なものではなくなってしまうからである。


 1972年(昭和47年)政府見解は、受動的・客観的に明確な「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に規範性を設定したものであり、これらの意図が考慮された憲法解釈として妥当であると考えることができる。


 しかし、論者の主張する『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合』などという基準は、結局、「自国の状態」を「政府が主観的な判断によって認定する」というものである。これは、政府がその事態(自国の状態)をどのように認定するかにかかっており、当然、政府が国民の権利利益や政治的な都合、他国からの圧力などによって「武力の行使」に踏み切ることを制約する規範性を有していないものである。未だ「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力の行使」に踏み切るかどうかをその法を適用する者の自由な判断に任せるものであるから、政府の主観的な判断に委ねることとなるのである。


 9条は、まさにこのような政府の自国都合による「武力の行使」を禁ずる趣旨の規定であるから、『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合』などという理由だけで「武力の行使」を行うことができるとする条項は、違憲となる。


 もちろん、「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合に、その武力攻撃によっても『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険』がない場合には「武力の行使」を行うことができないが、『我が国の存立を脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が有る場合』にだけ「武力の行使」が可能とするというものであれば合憲と解する余地がある。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした後で限定をかけるものであり、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを排除するための規範性を有し、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たす事態においても、さらに「武力の行使」を制約する趣旨だからである。



 「国際情勢の変化や科学技術の進展に伴い日本の国際情勢の危機は非常に変わってきています。」との記載があるが、国際情勢が変化したからと言って、1972年(昭和47年)政府見解の中に含まれる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」に設けられた規範性が変わるわけではない。もしこの規範性を取り除きたいのであれば、憲法改正によるしか合法的な手段はない。論者の論理によれば、「国際情勢の危機」を理由とする先制攻撃(先に攻撃)についても9条の下で許されることとなってしまう点で、憲法解釈の規範性の変化を訴える論理としては合理性がない。



 「すると、他国に対する武力攻撃がなされた場合であっても『我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険が生ずる事態』が想定できるのではないか。そのときに、政府が全く行動しないのか。政府として具体的にそういう事態が起こりうると判断しているにもかかわらず、何ら対策を講じなくてよいというのはあまりに無責任ではないか、とするならば、適切な対処について法定しておく必要があります。」との記載がある。しかし、結局これは「他国に対する武力攻撃」が発生した時点で、「我が国の存立」や「国民の権利」を実現するために「武力の行使」を行うとするものであるから、自国都合による「武力の行使」であり、先制攻撃(先に攻撃)である。論者は9条の規範の下で、先制攻撃(先に攻撃)を行おうとする主張を行っているものであり、平和主義を掲げる日本国憲法の下では到底容認できる論旨ではない。明らかに違憲である。これは、たとえ国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を行使する条件を満たしていても、9条の下では先制攻撃(先に攻撃)なのである。国際法上の違法性阻却事由を得ることによって国際法上の違法性が阻却されたとしても、9条はこのような「武力の行使」を禁じているので、違憲であることは変わらないのである。


 「果たして法律そのものが違憲なのか、法律は合憲だとしても運用上に問題が有るのか、それとも政策の当否の問題なのか。」との記載がある。この答えは、①「存立危機事態での武力の行使」を定めた法律は違憲である、②法律は違憲であり運用上も違憲である、③政策の当否については法律論としては判断しない、である。



<理解の補強>

大東文化大学大学院法務研究科教授・浅野善治氏 憲法学者アンケート

テレ朝「報道ステーション」で安保法制を合憲とした浅野善治大東文化大教授 ~ 意味不明な憲法論議 2015-06-18


〇 三重中京大学 浜谷英博


浜谷英博三重中京大名誉教授 「政府案は間違いなく合憲」 2015.8.25


 「しかし憲法があって国家があるわけではなく、国家と国民があってこその憲法です。」との説明があるが、厳密には誤りである。なぜならば、憲法がなければ国家は成立しておらず、そこには「一定の地域」と「一定の地域の人々」が存在するだけであり、憲法が制定されていないのであれば未だ「国家」や「国民」という概念が成立していないからである。よって、厳密な意味では、「憲法があって国家がある」ということが正しいのであり、論者がこれを否定することには誤りがある。


 「しかも、政府案は集団的自衛権の行使に関して自衛措置に限るという厳しい条件を課しています。間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており、合憲です。」との説明があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」とは国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である。それを行使するということは、日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」を意味する。論者が「集団的自衛権の行使に関して自衛措置に限る」としていることを正確に表現すれば、「集団的自衛権という『権利』の区分にあたる日本国の統治権の『権限』における『武力の行使』に関して自衛の措置に限る」という意味である。


 しかし、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得るためには、「武力攻撃を受けた他国からの要請」が必要である。「他国からの要請」がない段階で「武力の行使」を行えば、国連憲章2条4項の「武力行使禁止原則」に該当して国際法上違法となるからである。このことから、「集団的自衛権」という『権利』を行使する意味での日本国の統治権の『権限』における「武力の行使」には、「他国からの要請」が必要となる。この「他国からの要請」が必要となる「武力の行使」は、必然的に『他国防衛』の意味を含む「武力の行使」となる。よって、「政府案は…自衛措置に限るという厳しい条件を課しています。」としているが、「他国からの要請」が必要である「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うにあたって、「自衛措置に限る」などということはあり得ず、存在しない概念を主張しているのである。もともと意味が通じないのであるから、論者の主張は誤りである。


 「間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており、合憲です。」との主張があるが、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないものであるから、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しておらず違憲である。「間違いなく憲法解釈の枠内に収まっており」と主張することは、誤りである。



 「ただ、その措置が、国際法上は集団的自衛権の行使に該当する行動が含まれるため、集団的自衛権の限定容認として説明し、同時に個別的自衛権の際限ない拡大につながるとの懸念も払拭しているのです。」との説明があるが誤りである。


 先ほども述べたように、国際法上の「集団的自衛権」という『権利』を行使するにあたっては、「他国からの要請」が必要である。「他国からの要請」がないなかで、「武力の行使」を行っても国際法上の違法性阻却事由を受けられず、2条4項の「武力行使禁止原則」に該当して違法となるからである。必然的に、「集団的自衛権」という『権利』の行使にあたっては、『他国防衛』という意味を含むものであり、「集団的自衛権の限定容認」という日本の政治が独自に主張する概念は存在しない。そもそも、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「集団的自衛権」という概念に該当すれば、それは国際法上「集団的自衛権」でしかない。そのため、「限定容認」などという説明は、存在しないものを主張しようとしているものである。「集団的自衛権」という『権利』の行使とは、国家の統治権の『権限』における「武力の行使」を意味するわけであり、「集団的自衛権」の中に、「限定」か「限定でない」かなどという区分は存在しないのである。この「武力の行使」を制約する基準は、憲法解釈によって決せられるものであり、国際法上の『権利』の基準は関係がない。日本国の統治権の『権限』に制約をかけている9条の下では、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした中での「武力の行使」は合憲となり得るが、それを満たさない中で行われる「武力の行使」については違憲となるというだけである。


 9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の基準を維持する限りは、「その措置が、国際法上は集団的自衛権の行使に該当する行動が含まれる」ということはない。また、「集団的自衛権の限定容認として説明」することも誤りである。「同時に個別的自衛権の際限ない拡大につながるとの懸念も払しょくしている」との説明があるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たすか満たさないかによって日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を行うことができるか否かが決せられるのであるから、際限ない拡大につながるわけではない。むしろ、論者の主張する「集団的自衛権の限定容認」との主張であるが、この実質は1972年(昭和47年)政府見解の「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない中で「武力の行使」を許容しようとするものであるから、規範性を損ない、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分に関係なく、「武力の行使」を際限なく拡大させるものである。「懸念も払拭している」との説明は誤りであり、むしろ日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の「際限ない拡大につながるとの懸念」を増大させるものである。


識者が語る「平和安全法制」 新3要件で厳しい歯止め 「違憲」批判は当たらず 浜谷英博 2015年6月24日


 「日本の自衛隊に許される武力行使は、日本にとっての自衛措置に限られる。これが今まで政府がとってきた見解だ。」との説明があるが、誤りである。なぜならば、9条が設けられている趣旨は、「日本にとっての自衛措置」との理由のみで自国の独善主義に陥り、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを禁ずる趣旨の規定だからである。この9条の趣旨を生かして憲法解釈を行ったものが、1972年(昭和47年)政府見解である。この1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を違憲とするものである。それは、たとえ「日本にとっての自衛措置」との理由であっても、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」を違憲とするものである。「存立危機事態での武力の行使」は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であり、憲法の枠内ではなく、違憲である。

 よって、論者の「法律が定める内容も、あくまで日本にとっての自衛措置であることが新三要件で明確に示されており、憲法の枠組みを逸脱していない。」との説明も、新三要件の中に「存立危機事態」が含まれていることから、憲法の枠組みを逸脱しているため、誤りである。


 「もっぱら他国防衛を目的としたフル規格の集団的自衛権は行使できないよう歯止めをかけている」との主張があるが、認識に誤りがある。まず、「集団的自衛権の行使」とは、国際法上の「武力行使禁止原則」に対する違法性阻却事由の『権利』を行使するという意味である。この実質は、国家の統治権の『権限』によって行われる「武力の行使」である。この「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うためには、国際法上「他国からの要請」が必要である。それがなければ、「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』を得られず、違法となってしまうからである。もしこの「他国からの要請」がなければ、違法性が阻却されることはなく違法となるのであるから、「武力の行使」は踏みとどまらなければならないのである。このことから必然的に「他国からの要請」がある時点で、その「武力の行使」は『他国防衛』を含むこととなる。結局、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うのであれば、それは結局『他国防衛』を含むのであり、論者の言う「他国防衛を目的としたフル規格の集団的自衛権は行使できないよう歯止めをかけている」との主張は、論理的に成り立たないのである。


公明が一貫してリード 2015年9月19日


 「自衛の措置(武力行使)の新3要件は、従来の政府の憲法9条解釈の基本的論理を守るよう求めた公明党の主張に基づく。」との説明があるが、誤りである。新3要件の「存立危機事態」の下で行われる「武力の行使」は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠内では説明がつかないからである。よって、新3要件は「従来の政府の憲法9条解釈の基本的論理」は守られていないものである。


 これにより、1972年(昭和47年)政府見解に基づいて形成されてきた「専守防衛」の姿勢についても、1972年(昭和47年)政府見解の枠組みから逸脱する「存立危機事態での武力の行使」を許容したことで損なわれている。「専守防衛堅持された」との説明は誤りである。



 「国民の権利が『根底から覆される明白な危険がある』自国防衛の場合に限って自衛権の発動を認めるもので、他国防衛を目的とした集団的自衛権の行使を許していない。」との説明があるが、説明文としては情報が不足している。


 まず、前半「国民の権利が『根底から覆される明白な危険がある』自国防衛の場合に限って自衛権の発動を認める」との説明であるが、9条の制約の下では、『自国防衛』と称するからといって、必ずしも「武力の行使」が許容されるわけではない。そのため、1972年(昭和47年)政府見解の基準である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の規範を満たさない中で行われる「武力の行使」は、たとえ『自国防衛』と称しようとも違憲である。


 次に、後半の「他国防衛を目的とした集団的自衛権の行使を許していない。」について、この説明のみを見れば、正しい主張である。国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」という区分にあたる「武力の行使」を行うには、「他国からの要請」が必要であり、必然的にその「武力の行使」は『他国防衛』を目的とする意味が含まれる概念だからである。しかし、論者の言う、『自国防衛』に限る「集団的自衛権」の行使というものは、結局、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる、「他国に対する武力攻撃が発生したこと」を契機とする『自国防衛』と称する「武力の行使」である。これは、9条が『自国防衛』と称して政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨を損なっており、違憲となる。

 「自衛措置であることが新三要件で明確に示されており、憲法の枠組みを逸脱していない」との主張であるが、9条は『自国防衛』と称する「自衛措置」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨ではないのであるから、「存立危機事態での武力の行使」を許容する新三要件は、憲法の枠組みを逸脱している。論者の主張は論拠がないため、誤りである。


〇 拓殖大学総長・元防衛相 森本敏


安保環境の変化に適切に対応 公明がバランス良い法体系に貢献 拓殖大学総長・元防衛相 森本敏 2015年6月10日

安保環境変化に適切対応 拓殖大学特任教授元防衛相 森本敏 2015年6月10日


 「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約を強く主張し、実現させる役割を果たした。」との記載があるが、誤りである。まず、憲法9条は、『自国防衛』であるからと言って、必ずしも「武力の行使」を許容しているものではない。なぜならば、自国民の利益や政治的な都合によって政府が「武力の行使」に踏み切ることは歴史上幾度も経験するところであり、そのような「武力の行使」を制約するために9条の規定が設けられているからである。次に、国際法上「武力の行使」を行う場合に、「集団的自衛権」の区分の違法性阻却事由の『権利』を得るためには、「他国からの要請」が必要である。この「他国からの要請」の有無によって、「武力の行使」が国際法上合法となるか否かが決せられるのであるから、必然的にその「武力の行使」は『他国防衛』を意味することとなる。よって、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うのであれば、『日本の自衛のための武力行使に限る』との主張は、論理的に成り立たない。『日本の自衛のため』と称したところで、結局、『他国防衛に付随する自国防衛』でしかないのである。さらに1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在しており、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味する。よって、この要件を満たさない中で行われる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、憲法解釈の範囲に収まっていない。論者が「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』」としたところで、それは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした『自国防衛』の「武力の行使」を意味するのであり、「存立危機事態での武力の行使」という「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うのであれば、それは憲法解釈の範囲に収まっておらず、違憲なのであるから、「実現させる役割を果たした。」との認識は論理矛盾である。「「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約」が「実現」したならば、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は不可能である。逆に、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を可能としたならば、「憲法解釈の範囲に収まる『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約」は実現していないのである。
 この論者は、アメリカが攻撃を受ける場合に日本が迎撃しないと「それは同盟関係ではない」と発言しており、結局『他国防衛』を含むことは明らかである。

   【参考】「それは同盟関係でない」 Twitter

 「『日本の自衛のための武力行使に限る』という制約を強く主張し、実現させる役割を果たした。」との記載についても、矛盾した発言である。
 「公明党が与党協議などで示した制約が、平和安全法制の法体系をバランスの良いものにしたのであり、現在の法制は従来の憲法解釈の枠を超えるものではないと思う。」との記載があるが、「バランスの良い」も悪いもなく違憲である。「憲法解釈の枠を超えるものではないと思う。」との記載についても、枠を超えるものである。何か、論拠の不備を覆い隠そうとして、「バランスの良い」や「実現させる役割を果たした」「複数の制約要因を設けることができた」などと法律論でない話を持ち出していることはないだろうか。相変わらず、法律論上の正当化論拠にはならない。


森本敏 元防衛相 「沖縄から考える」④ 2015.6.17 (57:15より『武力の行使』の三要件の話)


 1:02:38より「同盟っていうものが維持できない、同盟が維持できないことの方がむしろ」と発言している。同盟を維持するための『他国防衛』であることは明らかである。このような『他国防衛』を行う組織は、9条2項前段に抵触して違憲である。また、9条の規定はこのような国際関係や政治的な事情によって政府が「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であることから、9条1項に抵触して違憲である。
 国会の事前承認があったとしても、「存立危機事態での武力の行使」そのものが9条に抵触して違憲なのであるから、国会の承認も違憲無効となるため、正当化根拠にはならない。


<理解の補強>


玉川徹 「集団的自衛権でミサイルを迎撃したら日本は自動参戦になる!」森本氏「排除するだけですが…」→ 玉川氏「…」(※動画あり) 2017-08-15


〇 政治評論家 森田実


9条の精神を生かす 公明の尽力で「専守防衛」へ歯止めかかる 政治評論家 森田実 2015年6月30日

 「平和安全法制は憲法の枠内の法整備であり、」との記載があるが、「存立危機事態での武力の行使」については、憲法の枠外であり違憲である。
 「私は公明党の平和主義を信ずる。」との主張であるが、公明党の平和主義を信じたところで、「存立危機事態での武力の行使」については憲法上の平和主義とその理念を具体化した9条の規定に抵触し、違憲である。公明党の平和主義と、憲法上の平和主義を混同して議論してはいけない。
 「公明党の努力で集団的自衛権が厳しく制約され、専守防衛が貫かれたことを評価すべきだ。」との記載があるが、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解によって枠づけられた「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中での「武力の行使」を行うものである。これにより、「集団的自衛権(としての『武力の行使』)が厳しく制約され」たところで、違憲であることには変わらないのである。これにより、憲法に違反するのであるから、憲法の精神に則った防衛戦略を意味する「専守防衛」の枠からも必然的に逸脱しており、「貫かれた」との評価は誤りである。


〇 東京財団上席研究員 渡部恒雄


憲法9条の精神 公明主張で「専守防衛」の理念堅持 東京財団上席研究員 渡部恒雄 2015年5月25日


 「全ての法律が『専守防衛以上のことはしない』という憲法9条の精神に貫かれている。」との記載があるが、誤りである。まず、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味する。「存立危機事態での武力の行使」は9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しないものであるから、違憲である。よって、「憲法の精神に則っ」ていない「武力の行使」が含まれた法律が存在することから、「すべての法律が『専守防衛以上のことはしない』という憲法9条の精神に貫かれている。」との主張は成り立たない。
 「日本と密接な関係にある他国に武力攻撃が発生したときに国民を守るために、ちょうど良いバランスを持つものになった。」との記載があるが、憲法解釈は、「バランス」などという何者かの感覚的な認識によって正当化されるわけではないので、妥当な論旨ではない。
 「今回はあくまで専守防衛を堅持したものだ。」との記載であるが、「専守防衛」とは「憲法の精神に則った受動的な防衛戦略の姿勢」を意味しており、憲法違反の法律規定が存在する以上は「堅持」されていないのである。


〇 公明党 秋田県議会議員 田口聡


「平和安全法制」について PDF


   【 72 年見解における自衛権 】
 「憲法には自衛権についての記述はなく、」とあるが、「自衛権」とは国際法上の『権利』の概念であるため、憲法上に記述はなくて当然である。憲法上で必要なのは、国家の統治権の『権限』であり、国際法上の『権利』ではないからである。


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また、仮に自衛隊ではなく、自衛権という言葉を書き込むにしたところで、9条2項を維持したうえで自衛権を書き込むところで、自衛権というのは国際法上の観念でありますから、国内法の憲法でいくら主張しても、「そう主張している」というだけの話です。国際法上、黒か白かということは、国際法的な観点から判断されるわけでありますので、非常に据わりの悪いところで議論をしているのだろうなと思います。
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「憲法論議の視点」 第9条 青井未帆・学習院大学教授 井上武史・九州大学准教授 2018年3月12日 (下線・太字は筆者) (P12)


 「72年解釈では、憲法9条と憲法前文『平和的生存権』、憲法13条の『生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利』から、憲法は自衛権を否定していないことを導き出している。」との記載があるが、誤りである。1972年(昭和47年)政府見解は、「わが国が国際法上右の集団的自衛権を有していることは、主権国家である以上、当然といわなければならない。」と述べており、9条や前文、13条は関係なく、主権国家である以上当然に有していると述べているのである。
 9条と前文、13条が関わる論点は、国権の発動としての「自衛の措置」のことである。この記載は、国際法上の『権利(right)』である「自衛権」と、統治権の『権限(power)』である「自衛の措置」を取り違えている点で間違っているのである。
 1972年(昭和47年)政府見解について、「見解の締めくくりには、『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とするいわゆる集団的自衛権の行使は、憲法上許されないといわざるを得ない』としている。 」と記載し、新3要件を示した後に「とあるように、『わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した』事態だけでは武力による自衛権行使は出来ないとなっており、歴代政府が積み重ねてきた憲法解釈は保たれている。」との記載があるが、誤りである。
 まず、1972年(昭和47年)政府見解は、集団的自衛権の行使としての「武力の行使」を禁じる論理として『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする』などという文言によって正当化しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解では、「自衛のための措置」の範囲を「あくまで外国の武力攻撃によって」を満たしていることが必要であり、「自衛のための措置」として「武力行使(武力の行使)」という手段を選択する場合にも、同様に「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことが導かれるとしているのである。このことから、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、この「我が国に対する急迫、不正の侵害」が発生していない中で行われる「武力の行使」であるから、憲法上許されないと述べているのである。論者はあたかも『他国に加えられた武力攻撃を阻止することをその内容とする』などという「集団的自衛権」の性質を補足した文言を持ち出し、それが「武力の行使」の基準となっていると読み間違え、反対解釈によって「武力の行使」を正当化できる部分を見出せると考えてしまっている点で誤りである。
 次に、「『わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生した』事態だけでは武力による自衛権行使は出来ないとなっており」との説明であるが、「存立危機事態」の要件は、「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生」した時点で、後は「これにより」とその影響があるか、「我が国の存立が脅かされ」ているかどうか、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」かどうかを政府が総合判断するとするものである。しかし、これらの要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなり得るものである。9条は政府が政治的事情や国民の権利利益の実現のために自国都合によって「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であるから、このような要件を設定したこと自体が9条の趣旨に抵触して違憲となる。また、曖昧不明確な要件を設定したことは、41条の立法権の趣旨より違憲となる。
 「歴代政府が積み重ねてきた憲法解釈は保たれている」との認識であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、「あくまで外国の武力攻撃によって」と示し、「武力の行使」を発動することは、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」ことを示したものである。「存立危機事態での武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うものであり、「歴代政府が積み上げてきた憲法解釈」では許容されず、違憲となる。よって、「憲法解釈」が保たれているるとは評価することができない。
 「明白な危険」についてであるが、これらの判断を行うとも、結局それらの要件も適用者の恣意性に流れる恐れのあるものであり、実際に恣意に流れているか否かを客観的かつ合理的な基準で判別することができないものである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となることとは別の論点ではあるが、結局「明白な危険」についてもあいまいなものであり、9条の憲法解釈において求められる規範性を損なっているために違憲である。
 「第3要件で『必要最小限度の実力を行使』となっているが、それは『わが国を防衛するための必要最小限度』ということであり、極めて個別的自衛権に近く、」との記載があるが、複数個所の誤りがある。まず、第3要件の「必要最小限度」の意味であるが、これは「武力の行使」の程度・態様の意味である。それにもかかわらず、「極めて個別的自衛権に近く」などと、「個別的自衛権」の『権利』が発生する「自国に対する武力攻撃」という三要件で表現すれば第1要件である「武力の行使」の発生要件の話に飛んでいるのである。この三要件の第3要件の「必要最小限度」の意味と、第1要件の「必要最小限度」の意味は異なるものであるため、これらを混同している点で誤りである。また、「個別的自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由の『権利』であり、9条が制約しているものは日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」である。これらは『権利』と『権限』で性質が異なることに加え、制約の基準もそれぞれ異なるものであるから、「極めて個別的自衛権に近」かろうが遠かろうが、9条が「武力の行使」を行う『権限』を制約している基準に変化はないのである。「存立危機事態での武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解という「これまで歴代政府」が「積み重ねてきた憲法解釈」に適合しないものであるため、違憲となる。結果として、「必要最小限度であれば集団的自衛権の行使も合憲となる」との見解を採る余地は存在せず、「これまで歴代政府」が「積み重ねてきた憲法解釈に反して」いることになるのである。


〇 山下輝男


平和安全法制論議に異議あり!(憲法違反問題に関連して) 山下輝男 2015年 6月29日


   【3 憲法違反との指摘に対する首相の反論】
 「安倍晋三首相は、6月26日午前の衆院平和安全法制特別委員会で、」として述べられている砂川判決のは、「自衛のための措置」として「武力の行使」が可能であるか否かについては何も述べていない。砂川判決が認めている「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけである。「裁判官河村大助の補足意見」では、「永世中立主義を採用」の方法が挙げられているが、やはり「武力の行使」については述べていない。
 政府がこの「自衛のための措置」の中に「武力の行使」が含まれると解釈しているのは、1972年(昭和47年)政府見解である。
 よって、砂川判決にいう「自衛のための措置(自衛の措置)」の中に、集団的自衛権の限定容認が合憲である根拠執り得る」などという主張は、判断されていない以上根拠とならないのであるから、誤りである。また、ここにいう「集団的自衛権」の行使の意味は、結局「武力の行使」を意味するのである。この「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと(急迫不正の侵害)」の要件を満たさない中で行わる「自衛のための措置」としての「武力の行使」を排除しているのであるから、この要件を満たさない「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」は違憲となり、行使することはできない。
 これにより、「(砂川)判決の範囲内だ」との主張に根拠はなく、判決の内容を読み誤ったものである。また、憲法解釈を最終的に確定する権能を有する機関が最高裁判所であることは確かであるが、有権解釈としては合憲性を担保せねばならず、行政権が解釈を行う際にも正確な論拠に基づく必要があり、解釈の過程を誤ってはならない。そのため、論拠を最高裁判所に丸投げするかのような主張は、行政権としての解釈を放棄する姿勢が表れていると考えられ、自説を正当化することはできない。


   【4 幾つかの論点】
(1) 「国連憲章も対日平和条約も疑いなく集団的自衛権を認めている」との記載であるが、当然である。国際法上の『権利』である「集団的自衛権」については、日本も有しているのである。「国家固有の自然権」との考え方も、国際社会から国家承認を受けて国家として成立していれば、「集団的自衛権」がその中に入るかどうかは議論のある所であるが、少なくとも「個別的自衛権」としての「自衛権」という『権利』については当然に有することとなると考えられる。
 しかし、論点はその国際法上「自衛権」を行使する際に行われる活動は「武力の行使」である。9条は、この「武力の行使」を行う日本国の統治権の『権限』を制約しているのである。
 「国家固有の自然権とも云うべきものを禁じるということが果たして現実的なのか、あり得ることなのか?」との記載があるが、9条は国際法上の『権利』を禁じているわけではなく、国内法上の統治権の『権限』を制約しているものであるから、誤った認識からくる誤解である。
 「国連加盟国のうち、国連憲章で認められた自衛権を、個別的とか集団的とか区別している国はほとんどない。」との記載であるが、「個別的自衛権」と「集団的自衛権」を区別しなければ、国際法上の違法性阻却事由を得ることができず、「武力不行使原則(国連憲章2条4項)」に抵触して違憲となる。そのため、どの国連加盟国も「個別的自衛権」や「集団的自衛権」については区別している。ただ、論者の言いたいであろう「武力の行使」を憲法上で制約している国家というのは、ほとんどないということは確かである。多くの国は、「武力の行使」を行う『権限』については制約がないため、統治権としては無制限だからである。

(2) 9条について、「集団的自衛権を禁するとの文言はない。」との記載であるが、当然である。「集団的自衛権」とは国際法上の「武力不行使原則」に対する違法性阻却事由の『権利』の概念であり、憲法上に書き込んでも、国際法上の効力は生まれないからである。憲法が制約しているのは「武力の行使」の『権限』であり、「自衛権」という『権利』ではないのである。
 憲法9条について、「自衛権を放棄したとは明言していない。」との説明であるが、その通りである。「自衛権」という『権利』については、有しているのである。しかし、その後、「従って、自衛権を行使するための組織としての自衛隊は合憲であるということにもなる。」との説明をしている点は誤りである。なぜならば、「自衛権を行使」するためには、国家の統治権の『権限』が必要であり、実質的には「武力の行使」を意味する。この「武力の行使」の『権限』を制約されているのであるから、『権利』を有していることをもって、直ちに『権限』を有することとはならず、直接敵に自衛隊が合憲であるとの結論には至らないからである。
 砂川判決は「自衛権」を持つことを示したが、それを行使する際の「自衛のための措置」としては「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」を許容しているだけである。日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないのである。

(3) 「我が国が自衛権を有することを認めた画期的な判決であり、それが個別とか集団的とか区分もしていないことから、今般の集団的自衛権の行使容認の有力な根拠足り得ると考えるべき」との主張であるが、相変わらず「自衛権」を有しても、『権限』がなければ国家行為ができないのである。よって、「集団的自衛権の行使容認の有力な根拠」とはならない。

(4) 「如何なる自衛の措置を取るかは、…政策判断であると云える。」との記載であるが、その「政策判断」は合法的な範囲内で行う必要がある。そのため、法解釈として違憲となる「自衛の措置」を執ることを政策判断として行うのであれば、それは憲法改正によるしかない。
 「いかなる措置を取るかは国家・国民が決めるべきこと」との記載もあるが、憲法は長期的な視野を持った国民の意思が定めた法である。この制約は「国民が決めるべきこと」として設けられているのであるから、一時期の民意の多数派によって、勝手に憲法の制約を超えていいわけではない。一時期の民意の多数派のみを正当化根拠とする論旨は、そもそも憲法を制定して国家を形成し、法の支配を実現しようという営みそのものを否定する暴挙である。

(5) 「必要最小限度という意味は、安全保障環境との関係で変化するものである。」との記載があるが、誤りである。まず、論者は「自衛権の行使」が一般に「武力の行使」によって行われることを理解していない。そのため、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分によって行使できるか否かを決しているかのような前提で語っているが、これは誤った認識である。9条が「武力の行使」を制約している趣旨を解釈した者が、1972年(昭和47年)政府見解なのであり、この中で許容される「武力の行使」について国際法上の区分で言えば「個別的自衛権」にあたるというだけの話である。
 政府が「必要最小限度」という言葉を使って説明する場合においても、この1972年(昭和47年)政府見解から導かれる「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たす中で行われる「武力の行使」のことを説明しているのであり、この要件は「安全保障環境の変化」によって変わるわけではない。
 「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たすか否かに線を引いたものであるから、「情勢が変化」してもそれに応じて変わるわけではない。
 「現下の情勢に対応するには集団的自衛権行使にまで踏み切らざるを得ない。」との記載があるが、政策論として「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」を行うのであれば、法律論としては憲法改正を必要とするのである。
 「本来は解釈の問題ではなく国策選択の問題である筈だ。政府も苦しいのだろう。」との説明であるが、その通りである。政策上の選択は、合法的なやり方で行わなければならないのである。


   【5 終わりに】
 「常識的な判断こそ重視されるべきである。」との記載があるが、法律論上の常識としては、違憲に行き着くからこそ、多くの憲法学者は違憲と指摘しているのである。論者の常識の基準はどこを軸にしているのかを明らかにし、それを実現する合法的な方法を探ることが「常識」としての共通項となるはずである。このプロセスを怠ると、違憲違法となるからである。


〇 東洋大学教授 西川佳秀


日本の安全保障政策を考える―基本政策の理解と論点整理・再考― 東洋大学教授・平和政策研究所上席客員研究員 西川佳秀 2019年1月23日


   【はじめに】

   【1.日本国憲法の解釈と自衛隊】

 「自衛権の発動要件」との文言が出てくるが、この中で使われている「自衛権」の文言には注意が必要である。従来政府は「自衛権発動の要件」と表現してきたが、この「自衛権」という用語は国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である。「不戦条約」や国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」によって「武力の行使」が禁じられている中で、違法性が阻却される「武力の行使」のことを「自衛権の発動」と呼んでいたのである。その「自衛権」という『権利』が行使される状態とは、実質的には、日本国の統治権の『権限』によって「武力の行使」が行われているのである。その「武力の行使」が行われている状態を、国際法の違法性阻却事由の区分で「自衛権の発動」と表現していたのである。
 しかし、憲法9条が「武力の行使」を制約する趣旨を理解する際に、憲法とは法体系が異なる国際法上の違法性阻却事由の概念が持ち出されることは、混乱を招くことがあるため、注意が必要である。
 この記事でも、この「自衛権」の概念を不明確な理解のままに用いているため、法的な正当性を描き出すことができていない点が見受けられる。詳しく確認していこう。


      (1)自衛権の容認と発動要件

 「第9条は2つの項で構成されており、それぞれ第1項が戦争放棄を、第2項が戦力の不保持を規定している。」との記載があるが、情報が不足している。2項の後段では「交戦権の否認」を規定していることを忘れないようにしたい。
 主権国家が国際法上の「自衛権」を持つことは確かであり、日本国も「自衛権」を有する。しかし、「日本国憲法はその発動に一定の制限を設けているというのが政府の立場である。」というのは、やや理解が不十分である。従来政府は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」の発動について、国際法上の「自衛権」の概念を用いて「自衛権発動」と呼んでいたため、あたかも9条が「自衛権」という国際法上の概念を制約しているかのような誤解を生んでいるが、これは誤った理解である。9条は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約しているのであり、国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の概念を制約しているわけではないのである。「日本国憲法はその発動に一定の制限を設けている」との理解は、憲法9条が「武力の行使」を制約することから付随的に現れた認識でしかないのである。この点の理解が不十分なままだと、法的な正当性を描き出すことができなくなるため、十分に注意したい。


         ①第1項の解釈

 「第1項に関する最大の争点は、放棄を定めている『戦争』に自国防衛のための武力行使が含まれるか否かということである。」との議論の設定があるが、この議論の設定は、9条1項の下で「武力の行使」ができる部分を見出した時に、「それは『自国防衛のための武力行使』であるから合憲なのだ」との認識を意図的に導き、あたかも2014年7月1日閣議決定によって設けられた「存立危機事態での武力の行使(集団的自衛権の行使に該当するもの)」の目的が『自国防衛』であるために、9条1項に抵触しないかのような結論を生み出そうとしている部分が感じられるため、注意が必要である。9条1項の解釈によって「武力の行使」が可能な部分が見いだせるとしても、それは「『自国防衛』であるか否か」がそのまま合憲・違憲の判断基準となるわけではないのである。この点に法解釈として論理の甘さが存在する。
 「政府の解釈によれば、『国権』を『発動』するとは国の権利として利益を追求すること、すなわち国益を追求することを意味する。」との記載があるが、出典を示していただきたい。『国権』を『発動』するとは、日本国の統治権の行使を意味するのであり、「国の権利として利益を追求すること」「国益を追求すること」などという認識は直接導かれないものである。政府の解釈がそのように示しているかのように記載しているが、正確なものであるのか疑わしい。
 「そのため、国際法を範とする政府としては日本も集団的自衛権を保持することに不自然さはない。また、近年中国との間に抱える尖閣諸島問題や北朝鮮のミサイル問題などに対応するため自衛隊と米軍の連携強化が不可欠となっている。そのため、第二次安倍政権により憲法解釈が変更され、憲法上集団的自衛権も一部行使可能となった。」との記載があるが、曖昧で法論理としては耐え得る内容ではない。まず、国際法上の「集団的自衛権」という概念は日本国にも適用されることが前提であり、9条においても『権利』そのものは禁じられていない。そのため、日本国も「集団的自衛権」を有するのである。「保持することに不自然さはない。」との認識は、正しいものである。しかし、法学上の論理の話で、なぜ「中国」や「北朝鮮」との間の問題が持ち出されているのか意味が分からない。政策論上の必要性と、法律上(法学上)の正当性の有無は論点が別である。政策上の必要性があるならば、それは法律上の正当性を有する合法的な形で行わなければならないのであり、政策上の必要性があるからと言って、法律上の合法・違法が変化するわけではないのである。「そのため、第二次安倍政権により憲法解釈が変更され、憲法上集団的自衛権も一部行使可能となった。」との認識があるが、今まで9条1項の法解釈の議論を持ち出すなどしていたにもかかわらず、この9条1項の下で「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能かどうかという議論が持ち出されず、「可能となった。」などと過去形で表現することで、あたかも憲法上合憲であるかのような結論に導くことは、法解釈として成り立っていない。過去形で表現したならば違憲のものが合憲化するわけではないのである。法解釈として成り立っていないのである。違憲審査にはいくつかのアプローチがあるが、2014年7月1日閣議決定は、その閣議決定でも採用されている1972年(昭和47年)政府見解によって、違憲となる。「集団的自衛権の一部行使」との表現であるが、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば「集団的自衛権」でしかなく、「一部」や「全部」などという概念は国際法上存在しない。また、国際法上の評価である「自衛権の行使」の意味は、実質的に国家の統治権による「武力の行使」であり、「一部」などと称したところで、「武力の行使」でしかないのである。この「武力の行使」は9条が制約しているのであるから、9条に抵触するものは違憲、抵触しないものは合憲との基準が存在するだけである。「集団的自衛権」の「一部」であるから合憲となり得る余地があるかのような議論に持ち込もうとするような表現には注意が必要である。
 「このように、政府の解釈によれば我が国は個別的自衛権と一部の集団的自衛権を有し、憲法上自衛のために武力を行使することが可能となっている。」との記載があるが、この内容自体は正しい。日本国も「個別的自衛権」と「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものは有しているし、憲法上の制約の中であれば、「武力を行使することが可能」であるからである。しかし、この意味するところが「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能であるかのように表現しようとしているのであれば、それは誤りである。2014年7月1日閣議決定は論理的整合性がなく、法律上の正当性を導き出すことができていないため、「存立危機事態での武力の行使」は違憲となるからである。


         ②第2項の解釈
 2項解釈の話で、「政府の解釈では、『前項の目的』とは第1項が禁じている国際問題における武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」との記載があるが、出典を示されたい。砂川判決では「戦力」を保持しない理由は1項の「侵略戦争」を放棄する趣旨から来たものである旨を述べているが、政府は「第1項が禁じている国際問題における武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」などとは述べていないと思われる。また、この説明の「武力を用いた国益追及であり、そのための戦力は保有できない。」の部分は、「1項の禁じた侵略戦争のための戦力は保持できないが、自衛戦争のための戦力は保持できる。」との芦田修正説に繋がる論理を含んでいるものである。しかし、政府は芦田修正説を採用していないのであるから、このような1項と関連付けて「戦力」説明することは政府解釈とは異なると思われる。
 その後、「一方、自衛のための必要最小限度の武力は第2項が禁止する戦力にあたらず、自衛隊は合憲と解釈されている。」との記載もあるが、何も「一方、」ではなく、政府は「自衛のための必要最小限度の実力」を保有できるとしている。注意したいのは、この「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の内容については、「自衛のための必要最小限度」である必要があり、この意味するところは、旧三要件を満たした中で「武力の行使」を行う際に利用される実力(組織)であることである。この旧三要件を満たした中での「武力の行使」を行う組織であれば、9条2項の「戦力」にも該当しないととの基準によって制約されていたのである。ただ、2014年7月1日閣議決定後において、政府は新三要件を設けたが、この説明は論理破綻していくことになる。


         ③自衛権発動の3要件

 「表1-2」の内容は誤っている。

 表の上部に「集団的自衛権なし」「集団的自衛権あり」との記載があるが、国際法上日本国は「集団的自衛権」という『権利』そのものは有しているのである。よって、日本国に主権が存在する以上、国連憲章の適用においては常に「集団的自衛権あり」である。「なし」との表記は正確ではない。
 また、「集団的自衛権にあたる武力の行使がなし」「集団的自衛権にあたる武力の行使があり」との表現ならば正しい。この点も、誤解を招かないためには省略した表現をするべきではない。


 旧三要件は、下記である。この要件はむやみに省略して表現するべできない。
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① 我が国に対する急迫不正の侵害があること
② これを排除するために他の適当な手段がないこと
③ 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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衆議院議員森清君提出憲法第九条の解釈に関する質問に対する答弁書 昭和60年9月27日


 新三要件は、下記である。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
・わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること
・これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと
・必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと
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憲法と自衛権 防衛省・自衛隊


 また、この「表1-2」において横軸「条件1」・縦軸「集団的自衛権あり」に該当する新三要件の第一要件であるが、内容が誤っている。まず、新三要件は「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」と「わが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」の二つのパーツで構成されている。そのため、この「表1-2」のように「『我が国』、または『我が国と密接な関係にある他国』」などという区分けがされているわけではない。
 この意味するところを理解するためには、「存立危機事態」の定義を押さえる必要がある。


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(定義)
第二条 この法律(第一号に掲げる用語にあっては、第四号及び第八号ハ(1)を除く。)において、次の各号に掲げる用語の意義は、それぞれ当該各号に定めるところによる。
一 武力攻撃 我が国に対する外部からの武力攻撃をいう。
二 武力攻撃事態 武力攻撃が発生した事態又は武力攻撃が発生する明白な危険が切迫していると認められるに至った事態をいう。
三 武力攻撃予測事態 武力攻撃事態には至っていないが、事態が緊迫し、武力攻撃が予測されるに至った事態をいう。
四 存立危機事態 我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある事態をいう。
(以下略)
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武力攻撃事態等及び存立危機事態における我が国の平和と独立並びに国及び国民の安全の確保に関する法律


 2014年7月1日閣議決定の中でも、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず、」との表現を用いており、新三要件の第一要件のパーツの区分けがこの記事の「表1-2」とは異なることが理解できる。


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こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、我が国に対する武力攻撃が発生した場合のみならず我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある場合において、これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないときに、必要最小限度の実力を行使することは、従来の政府見解の基本的な論理に基づく自衛のための措置として、憲法上許容されると考えるべきであると判断するに至った。
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国の存立を全うし、国民を守るための切れ目のない安全保障法制の整備について 国家安全保障会議決定  閣議決定 平成26年7月1日


 この「表1-2」では、「わが国に対する武力攻撃が発生したこと」に対しても、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明確な危険があること」が入り込んでいるが、誤りなのである。

 また、この表の横軸「条件2」・縦軸「集団的自衛権あり」については、「他に適当な手段なし」との記載があるが、誤りである。新三要件の第二要件とは「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」である。この要件は、正確に示す必要がある。省略したり、書き換えては駄目である。

 「武力行使が自衛権の行使と認められるためには3つの要件を満たす必要がある。」との記載があるが、誤りである。「自衛権の行使」とは国際法上の評価概念であり、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に対する「自衛権」という違法性阻却事由に該当することを認められるかどうかは、国際法上の「必要性・均衡性」の基準を満たす必要があるのであり、「3つの要件」という憲法上の制約からくるの三要件の基準とは関係がないからである。従来、政府自身もこの点は正確に区別して論じていなかったため、学習者を混乱させている点であるが、「自衛権の行使」という国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」の基準と、憲法9条の下で許容される「武力の行使」の基準は別物である。憲法9条の下で許容される「武力の行使」については、国際法上の違法性が阻却される「武力の行使」を「自衛権の行使」という『権利』から表現する適格な言葉が存在しないことを理解する必要がある。9条の下で許容される日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」について、以前「自衛行動権」という言葉が使われていた時期があったが、どうやらあまり浸透しなかったようである。「自衛の措置」という言葉についても、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」や「他国に安全保障を求めること」も含む概念であるため、必ずしも「武力の行使」そのものと正確に一致するわけではない。
 「第一の要件は、我が国に対して急迫不正の侵略があり、国家の存立と国民の生命・自由・幸福追求権に深刻な危険が及ぶ状況が発生していることである。」との記載があるが、正確には誤りである。まず、1972年(昭和47年)政府見解においては、「あくまで外国の武力攻撃によつて国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最少限度の範囲にとどまるべきものである。」との表現があるため、確かに「外国の武力攻撃によつて」我が国に対して「急迫、不正の事態」があり、「国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされる」という状況が発生している必要があることを示している。しかし、第一要件は旧三要件においては「我が国に対する急迫不正の侵害があること」であり、新三要件においては「わが国に対する武力攻撃が発生したこと、またはわが国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これによりわが国の存立が脅かされ、国民の生命、自由および幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」である。要件は正確に記載する必要がある。
 「第二次安倍政権によって集団的自衛権が合憲とされたことにともない、我が国と密接な関係がある他国への侵略があった場合も発動要件をみたすこととなった。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」という国際法上の『権利』そのものは、日本国はもともと有しているのであり、憲法9条も否定していない。つまり、「集団的自衛権」という『権利』そのものは、憲法上で矛盾抵触がないのであるから、合憲違憲という話にならないのであるが、敢えていうならば合憲である。もともと合憲なのである。第二次安倍政権の2014年7月1日閣議決定で示されたのは、「存立危機事態での武力の行使」を可能とすることである。これが、国際法上では「集団的自衛権の行使」に該当する「武力の行使」である旨が示されたのである。しかし、この「存立危機事態での武力の行使」については、政府自身が2014年7月1日閣議決定の中で前提として用いている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。
 「第二の要件は武力行使以外に侵略を退ける手段がないことである。」との記載があるが、旧三要件についてはおおよそ正しいが、新三要件にについては誤りである。旧三要件は、「これを排除するために他の適当な手段がないこと」であり、新三要件は「これを排除し、わが国の存立を全うし、国民を守るために他に適当な手段がないこと」である。
 「第三の要件」のそのものの意味については特に間違いはない。

 「この第三の要件は自衛隊の存在に法的根拠を与えるものであるが、同時にその権限と行動に制約を課すものでもある。」との記載があるが、誤りである。まず、従来政府は自衛隊を「自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」と分類し、その「自衛のための必要最小限度の実力の行使」とは、旧三要件を満たすことを意味していた。つまり、旧三要件の第一要件、第二要件、第三要件のすべてを満たすことによって、「武力の行使」の発動や態様が画されており、そのための「実力組織」であれば2項の「戦力」に抵触しないとしていたのである。論者は「第三の要件は自衛隊の存在に法的根拠を与えるもの」と認識しているが、「自衛隊の存在に法的根拠を与え」ていたのは、旧三要件の第一要件、第二要件、第三要件のすべてである。第三要件のみが「自衛隊の存在に法的根拠を与えるもの」との認識は誤りである。
 その後「自衛権」との比較であるが、日本国は「武力の行使」の発動要件についても「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たす必要があることから「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」ができないなど、国際法よりも厳しい要件である。あたかも「武力の行使」の程度・態様についてのみ一般国際法よりも厳しく、「武力の行使」の発動要件において「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が可能であるかのような前提で話を進めている点には注意する必要がある。


      (2)自衛隊の権限
         ①自衛隊は軍隊か

 「自衛隊の設置を明記した『第9条の2』を付け加えて合憲とする意向である。」との記載があるが、正確なものではない。まず、自衛隊は旧三要件によって制約されている部分については1972年(昭和47年)政府見解から見ても合憲であるが、「存立危機事態での武力の行使」を含む新三要件による活動を行う部分については法解釈の論理的整合性がないため違憲である。「合憲とする意向である。」との表現は、論者自身も違憲であるとの認識を有していることになるが、論者の他の主張によれば、「存立危機事態での武力の行使」が可能である旨を当然のように述べている点で整合性がない。筆者がこの記事は合憲論を基に議論を進めていると考えていることが誤りなのだろうか。

         ②自衛隊の行動範囲


   【2.自衛力の限界】

 「自衛権の保有と並んで議論になってきたのは、自衛隊はどのような兵器を持ちうるかということである。」との記載があるが、「自衛権」ではなく、「自衛力」の誤りである。「自衛権」という国際法上の『権利』そのものは、主権国家として当然に有しているのであり、問題になっていないからである。


   【3.専守防衛】


   【4.非核三原則】


   【5.その他の諸問題】
      (1)自衛隊の権限規定の在り方
 「通常、国家の軍隊がとり得る行動は法律で禁じられた行為以外のすべてである。」との記載があるが、日本国は「法律による行政の原理」を採用しており、行政機関が活動するためには通常法律の根拠を必要とする。自衛隊についても、「行政機関」に該当し、この原理が適用されている。


      (2)武力行使と武器の使用
 「自衛隊が他国の領内で武力行使を行うことは自衛権の範囲を越えるとして認められていない。」との記載があるが、誤りである。海外派兵が許されないのは、「一般に自衛のための必要最小限度を超えるもの」と考えられているからであり、「自衛権の範囲を越える」などという国際法上の「自衛権」という『権利』の概念が基準となっているわけではないからである。また、「自衛のための必要最小限度」とは、旧三要件のすべてを満たすことを意味しているものである。海外派兵については、一般にこの旧三要件を満たす「武力の行使」とは言えないことにより、憲法上許されないとされてきたのである。


      (3)自衛隊の統合問題
      (4)情報・時空戦力の不備
      (5)武器の開発・国産化体制の問題
      (6)自衛隊と米軍の関係

   【おわりに】


〇 平成30年版 防衛白書


<解説>戦争に巻き込まれるリスクについて  平成30年版 防衛白書


 「わが国が憲法第9条のもとで許容される自衛の措置として『武力の行使』を行うには、大変厳格な要件である新三要件を満たさなければなりません。」との記載があるが、誤りである。

 まず、9条の下で許容される「武力の行使」の範囲を示したものは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」であり、この中に「存立危機事態での武力の行使」が含まれることはない。そのため、「大変厳格な要件」などという文言を使っても、「存立危機事態での武力の行使」が違憲であることは変わらず、新3要件の「存立危機事態」を満たしても『武力の行使』を行うことはできない。新三要件が9条のもとで許容されるかのように説明している点が誤りである。


 「世界的にも例のない非常に厳しい要件であり」との説明があるが、まず、9条のような規定を憲法で定めている国は世界的に例がないのである。そして、その9条解釈における制約の範囲を示したものが1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」なのである。そのため、「世界的にも例のない非常に厳しい要件」であるか否かに関わらず、その要件が9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合するか否かが論点なのである。


 その後、「憲法上の明確な歯止めとなっています」との説明であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」については、政府の恣意性を排除することのできる受動的・客観的に明白な「『我が国に対する』外国の武力攻撃が発生」した場合にに基準を設け、憲法上の明確な歯止めとしたものである。しかし、「存立危機事態」の要件は、この受動的・客観的に明白な「『我が国に対する』外国の武力攻撃が発生」という基準ではなく、他国に対する武力攻撃が発生した時点で我が国に対する武力攻撃が発生していないにも関わらず、政府の裁量判断によって「武力の行使」を行うことを許容するものである。これは、「憲法上の明確な歯止めとなっています」とはいうことができず、政府の恣意的な都合によって「武力の行使」が行われることを排除するために設けられた9条の趣旨に抵触して違憲である。


 「実際に『武力の行使』を行うため、自衛隊に防衛出動を命ずるに際しては、原則事前に国会の承認を求めることとなります。」との記述もあるが、「存立危機事態」の要件が違憲であるのであるから、国会の承認があろうとなかろうと、違憲であることには変わりがないのである。


 「憲法と国会が制定した法律に従って自衛隊は活動を行うことになるので、自衛隊による『武力の行使』が際限なく広がり、わが国の意に反して他国の戦争に巻き込まれるということは決してありません。」との記載があるが、切り分けて考える必要がある。

 まず、「憲法と国会が制定した法律に従って自衛隊は活動を行うことになる」との記載であるが、憲法解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合しない「存立危機事態での武力の行使」は、「憲法に従って自衛隊は活動を行うことになる」とは言えない。

 次に、「国会が制定した法律」であるが、国会が制定した法律であろうとも、「存立危機事態」の要件が違憲であることは変わらない。

 「自衛隊による『武力の行使』が際限なく広がり、~決してありません。」との記載であるが、憲法は政府の恣意的な判断による「武力の行使」や、民主制の過程を経た国会によって行われる「武力の行使」に対する承認をも制約する規範であるのであるから、その規範を踏み越えたならば違憲である。「際限なく広が」るかどうかは関係なく、9条の規定が制約する規範を超えたならば違憲である。

 「『武力の行使』が際限なく広がり、わが国の意に反して他国の戦争に巻き込まれるということは決してありません。」との記載であるが、9条の規定があたかも政府と国会に対する努力義務を示したものと考え、規範性を有しないかのように考えている点が誤りである。また、「我が国の意に反して」に含まれる「わが国」とは、政府と国会であるかのように説明しているが、「わが国の意」とは、憲法なのであって、憲法に違反する行為はたとえ政府と国会の判断であっても、「わが国の意」ではないのである。

 これらの説明は、新三要件の「存立危機事態」が合憲であることを裏付けることはできない。

 

〇 首相官邸


「なぜ」、「いま」、平和安全法制か? (最終更新日:平成30年5月2日)


  【8.平和安全法制と憲法】
 まず、この説明は「自衛権」という国際法上の『権利』と、「自衛のための措置」という日本国の統治権の『権限』による行為との違いが区別できていない。
 砂川判決について、「憲法前文にある『国民の平和的生存権』も根拠として、憲法第9条によって日本固有の自衛権は否定されたものではない、としています。」との記載があるが、誤りである。砂川判決は、9条の下でも「自衛権」という国際法上の『権利』が否定されたわけではないことの記載と、前文にて「平和のうちに生存する権利を有すること」を確認していることから「自衛のための措置をとりうること」との記載を分けているからである。この説明は、「平和的生存権」を根拠として「自衛権は否定されたものではない」との文脈にしているが、国際法上の『権利』を有していることは、主権国家として当然なのであり、「平和的生存権」などという国民の権利を持ち出すことはおかしな議論なのである。『権利(right)』と『権限(power)』の違いを理解していないことによる誤りである。そのため、その後「その上で、~」と説明が続くが、砂川判決の内容を曲解しているものである。

 「『自衛権』には、個別的自衛権と集団的自衛権が含まれます。」との記載があるが、正確にはいくつかの学説のあるところである。まず、不戦条約において許容されている「自衛権」の場合は、国連憲章で言う「個別的自衛権」にあたるものである。そのため、国連憲章の言う「自衛権」であれば、「個別的自衛権」も「集団的自衛権」も含まれていることは確かであるが、「自衛権」とだけ表現されている場合には、国連憲章において新たな概念として創設された「集団的自衛権」という『権利』の区分が含まれているかどうかは判定できないのである。ただ、砂川判決は、「集団的自衛権」という『権利』の概念が存在することを理解した上での判決であると思われる。

 1972年(昭和47年)政府見解についてであるが、「必要最小限度の範囲」の認識に誤りがある。
 まず、安全保障の分野で「必要最小限度」の文言は、3つの異なる次元で利用されている。


「必要最小限度」の意味
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① 保持できる自衛力
 9条2項の下で保持できる自衛力のこと


② 「武力の行使」の発動要件  『性質』
 1972年(昭和47年)政府見解の下で許容される自衛の措置(武力の行使)のこと


③ 「武力の行使」の程度・態様  『数量』
 1972年(昭和47年)政府見解から導き出された自衛権発動の三要件の中の「第三要件」である「武力の行使」の『態様』のこと
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 この説明で取り上げている「必要最小限度」の文言は、1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」の内容の中で使われている「必要最小限度の範囲」の文言を持ち出したものである。

 これは、③に該当する「必要最小限度」の概念である。


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1972年(昭和47年)政府見解の「自衛のための措置」
〇 あくまで外国の武力攻撃によって国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底からくつがえされるという急迫、不正の事態に対処し、
〇 国民のこれらの権利を守るための止むを得ない措置としてはじめて容認されるものであるから、
〇 その措置は、右の事態を排除するためとられるべき必要最小限度の範囲にとどまるべきものである。
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↓  ↓  ↓  ↓  ↓ 
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「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害がある
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと   ← 【これにあたる】
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 それにもかかわらず、この③の旧三要件の第三要件の「必要最小限度」の意味でしかないものを、あたかも②の「武力の行使」の発動要件の「必要最小限度」を意味しているかのような前提で、その後の説明を続けている点に誤りがある。

 「『必要最小限度の範囲』とはどのような範囲なのか、が問題になります。」との説明については、③の第三要件の「必要最小限度の範囲」を検討する意味と捉えるならば間違ったものではない。しかし、その後「昭和47年当時、『集団的自衛権』とは、他国を防衛するためのものだ、と考えられていました。そのため、昭和47年の政府見解では、およそ集団的自衛権は、必要最小限度の範囲を超えるもの、としていました。」との記載は、③の第三要件としての「必要最小限度」の概念で話を進めていたところを、いつの間にか②の「武力の行使」の発動要件の意味の「必要最小限度」の概念にすり替わっている点で誤りである。

 また、「昭和47年当時」も、今現在も、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の概念である「集団的自衛権」を行使するためには、「他国からの要請」が必要であり、「他国を防衛するもの」である。そのため、この説明が言おうとしている「自国防衛ならば必要最小限度に含まれる」などという考え方は、「集団的自衛権」という『権利』を行使する概念の中には含まれていないのである。そもそも、「集団的自衛権」は、国際法上の『権利』の概念であり、それを行使するということは、国家の統治権の『権限』による「武力の行使」を意味する。9条はこの「武力の行使」を制約しているのであり、国際法上の『権利』である「集団的自衛権」が『他国防衛』や『自国防衛』などという論点は存在しないのである。
 「そのため、昭和47年の政府見解では、およそ集団的自衛権は、必要最小限度の範囲を超えるもの、としていました。」との記載があるが、誤った認識である。1972年(昭和47年)政府見解では、9条の下で許容される日本国の統治権の『権限』による「自衛のための措置」は、「あくまで外国の武力攻撃によ」る「急迫、不正の事態に対処」するという要件を満たす必要があるため、日本国の統治権の『権限』による「武力行使(武力の行使)」についても、「わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」とし、これを満たさない中で行われる「集団的自衛権」の区分としての「武力の行使」については、②の意味の「武力の行使」の発動要件としての「必要最小限度」を超えるために行うことができないとするものである。
 この説明は、②と③の「必要最小限度」の意味を間違えている点と、「昭和47年当時は『集団的自衛権』は他国を防衛するためのものだと考えていた」などという9条が「武力の行使」を制約する趣旨とは異なる話を持ち出している点で、論理が通じていない。

 「それから40年以上が経過した今、『当時』の情勢認識に従って、日本人・日本国の防衛政策を考えてよいものでしょうか?」などと問いかけているが、40年経過しても、法学上の概念そのものには変化はないのである。情勢認識に応じた形で法の規範性が変わるわけではない。

 「憲法の基本論理を維持することを前提とした上で、」との記載があるが、「維持することを前提」としているならば、「存立危機事態での武力の行使」については違憲となる。

 「このような状況では、『日本に対する武力攻撃の発生』と同様に、『自衛の措置』をとるべき事態として扱わなければならない可能性が生じています。」との記載があるが、9条は「自国の存立」や「国民の権利」の危機を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを制約する趣旨の規定である。そのため、「『自衛の措置』をとるべき事態として扱わなければならない」などという恣意的な理由でもって「武力の行使」が許容されるわけではないのである。9条が存在する限りは、その規定の意味を損なわない規範性が求められる。「存立危機事態」の要件は曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなるため、9条の趣旨に抵触することや、41条の立法権の趣旨に抵触して違憲となる。

 「集団的自衛権」という『権利』について、「これを全面的に認めるわけではなく」などと説明しているが、認識に誤りがある。まず、「集団的自衛権」にあたればそれは国際法上「集団的自衛権」でしかない。この「集団的自衛権」を行使する際の国際法上の制約は「必要性・均衡性」である。つまり、「集団的自衛権」としての「武力の行使」は、「必要性・均衡性」に沿って行使しなければ国際法上違法となるのである。しかし、9条は「武力の行使」を制約しており、これは先ほどの②と③の意味の「必要最小限度」によって制約される。そもそも国際法上と憲法上では制約の概念が異なるのであるし、国際法上の「必要性・均衡性」の概念も事態の状況に応じて変化する部分が存在するにも関わらず、「全面的」などという考え方が持ち出されること自体に誤りがある。「集団的自衛権」という概念に、「全面的」や「一部分」「限定的」などという区分は存在しないのである。また、たとえ「一部分」や「限定的」と称したところで、9条が「武力の行使」を制約している基準が揺らぐわけでもなく、②の意味の「武力の行使」の発動要件としての「必要最小限度」である「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」についてはすべて違憲である。よって、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないことが概念上明らかであるから、違憲となるのである。

 「あくまでも、『日本を防衛するため』のやむを得ない自衛の措置として初めて許容されるという限定的なもの」との記載があるが、誤りである。まず、9条は『日本を防衛するため』であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。『自国防衛』と称して政府が恣意的に「武力の行使」が行われたことは歴史上幾度も経験するところであり、9条はそのような「武力の行使」を禁ずるために設けられた規定だからである。結局この説明によれば、『日本を防衛するため』にやむを得ないと判断した場合に「武力の行使」を行うとするものである。9条の規範性を損なって「武力の行使」を行おうとするものであり、憲法解釈そのものを否定することとなっている点で正当化することはできない。

 「他国を守ることそのものを目的とする集団的自衛権の行使は、引き続き認められません。」との記載であるが、「集団的自衛権」という区分にあたれば、それは「集団的自衛権」でしかなく、その行使にあたっては「他国からの要請」が必要となる以上、『他国防衛』を必ず含む概念なのである。よって、「集団的自衛権」の区分に含まれるならば、『他国防衛』を含むのであるから、『自国防衛』だけなどと称する「集団的自衛権」としての「武力の行使」などというものは、論理的に存在し得ない。9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」が「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない「武力の行使」を違憲としているのであるから、「集団的自衛権」の区分にあたる「武力の行使」については、『他国防衛』であろうと『自国防衛』であろうと、引き続き認められないのである。

 「これは、昭和47年の政府見解に言う『必要最小限度』を超えないものとなります。」との説明があるが、「必要最小限度」の意味するところを上記の②と③で誤っているため、論旨が通じない。結局、1972年(昭和47年)政府見解に示された②の「武力の行使」の発動要件としての「必要最小限度」を超えていることから、違憲となる。
 従って、「存立危機事態での武力の行使」は、1972年(昭和47年)政府見解の論理の上には存在せず、違憲無効となるわけである。



〇 政府答弁書


 政府答弁は、法論理の本質部分を簡潔に示すと、違憲性が明快となってしまうためか、様々な用語を加えて内容を読み取りづらくしているように見受けられる。法論理にとって無駄な部分は、白色で塗りつぶして本質部分を明らかにしていこう。

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 一方、パワーバランスの変化や技術革新の急速な進展、大量破壊兵器などの脅威等により我が国を取り巻く安全保障環境が根本的に変容し、変化し続けている状況を踏まえれば、今後他国に対して発生する武力攻撃であったとしてもその目的、規模、態様等によっては、我が国の存立を脅かすことも現実に起こり得る。新三要件は、こうした問題意識の下に、現在の安全保障環境に照らして慎重に検討した結果、このような昭和四十七年の政府見解の(一)及び(二)の基本的な論理を維持し、この考え方を前提として、これに当てはまる例外的な場合として、我が国に対する武力攻撃が発生した場合に限られるとしてきたこれまでの認識を改め、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたものである。すなわち、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体を認めるものではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるものであるしたがって、これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。
 新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるものは、他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるものである
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衆議院議員辻元清美君提出「砂川判決」と集団的自衛権についての政府見解に関する質問に対する答弁書 平成27年6月19日 (下線・太字・色は筆者)

 上記から「存立危機事態での武力の行使」の部分だけを拾って要約する。

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〇 新三要件は、昭和四十七年の政府見解の基本的な論理を維持し、これに当てはまる例外的な場合として、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」場合もこれに当てはまるとしたもの。

〇 あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置として、一部、限定された場合において他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認めるにとどまるもの。

〇 あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの。
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 さらに要約する。

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〇 新三要件の「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」は、昭和四十七年の政府見解の基本的な論理に当てはまる。

〇 他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認める

〇 あくまでも我が国を防衛するため
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 まず、新三要件の「存立危機事態」の要件についてであるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によつて」の文言に当てはまらないため、「当てはまる」と主張することはできない。政府の言う「これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性は保たれている。」との認識は、論理的整合性が保たれていないため、誤りである。
 また、「他国に対する武力攻撃が発生した場合を契機とする武力の行使を認める」についても、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言に適合しないことは当然、「他国に対する武力攻撃」が発生したからといって、9条が日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」を制約する趣旨から求められる規範性の基準が揺らぐわけではなく、それだけで「武力の行使」が可能であるとすることは憲法解釈として成り立たない。

 「あくまでも我が国を防衛するため」についても、9条は「我が国を防衛するため」であるからといって必ずしも「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。

 これにより、

 > 1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまらないことによる違憲

 > 他国に対する武力攻撃が発生したことによって「武力の行使」を可能としていることによる違憲

 > 我が国を防衛するとの理由だけで「武力の行使」を可能としていることによる違憲

に該当する。

 「一部、限定された場合」などと表現しようとも、9条の規範性を損なって、憲法解釈の論理から逸脱していれば、「一部」であれ、「限定」であれ、違憲であることには変わりない。

 白色で潰している部分であるが、たとえ政府が「存立危機事態での武力の行使」が「他国を防衛するための武力の行使」ではないことを強調したところで、9条は自国を防衛するためという理由でさえ必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないのであるから、正当化根拠とはならない。9条は政府の恣意的な判断によって行われる「武力の行使」を制約する趣旨であるから、その規範性を設定する法解釈において、『自国防衛』であるか、『他国防衛』であるかが基準となるわけではないのである。


 文章中の「新三要件の下で認められる武力の行使のうち、国際法上は集団的自衛権として違法性が阻却されるもの」の意味が分かりづらいが、これは「存立危機事態での武力の行使」を指すものである。つまり、この文面は「存立危機事態での武力の行使」が、「他国を防衛するための武力の行使ではなく、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」であると主張していることとなる。

 この「自衛の措置」の内容である「あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」の記述を、三要件と対応する形で表現すると、①「あくまでも我が国を防衛するため」、②「やむを得ない」、③「必要最小限度にとどまる」と分割することができる。

 ここで使われている「必要最小限度」の意味は、三要件の第一要件としての「武力の行使」の発動要件ではなく、第三要件の「武力の行使」の程度・態様の意味である。「必要最小限度」と評価すれば、「武力の行使」の発動が可能であるという意味として使われているわけではないことに注意する必要がある。

 この文面から明らかなことは、政府は「あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置にとどまるもの」であれば、9条の下でも「武力の行使」が可能であると考えていることである。この「あくまで我が国を防衛するため」という三要件の第一要件に相当するものは、政府がそう判断すればよいとするものである。政府がそう判断すれば、政府は「やむを得ない」「必要最小限度」の「武力の行使」が可能であるとしているのである。

 しかし、9条の規定が存在する限りは、政府の行為を法規範によって画する解釈が求められるところ、このような「我が国を防衛するため」であれば「武力の行使」が可能であるかのように論じることは、9条が政府の行為を制約しようとしている趣旨から求められる規範性を損なうものである。このような要件を設定し、「武力の行使」の発動要件の基準とすることは、9条の存在そのものを無視するものであり、規範性を有しないことから、9条に抵触して違憲となる。

 

〇 内閣官房/内閣法制局


新三要件の従前の憲法解釈との論理的整合性等について 内閣官房 内閣法制局 平成27年6月9日


   【 (従前の解釈との論理的整合性等について) 】

 この内容は、上記の答弁書と内容が重なるので、ここでは記載しない。



   【 (明確性について)  】


(P3~4 抜粋)
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4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。 その上で、第一要件においては、「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、 他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明らかにするとともに、第二要件においては、「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に 適当な手段がないこと」とし、他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、第三要件においては、これまで通り、我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。 このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。

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(太字は筆者)


 下記に3つのパートに分けて解説する。

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4 憲法の解釈が明確でなければならないことは当然である。もっとも、新三要件においては、国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民 を守ることができるように備えておくとの要請に応えるという事柄の性質上、ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。

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 「憲法解釈が明確でなければならない」との認識は正常なものであるが、憲法解釈の過程を追っていくと、この「明確」の要請を満たしていない。詳しくは下記に解説していく。


 次の「もっとも、」から始まる文であるが、長すぎて意味を読み取りづらいため、要約してみる。


要約①

「新三要件においては、………ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。」


要約②

「新三要件においては、

【 『国際情勢の変化等によって将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている中で、憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく、いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておく』 との要請に応えるという事柄の性質上、】

ある程度抽象的な表現が用いられることは避けられないところである。」

 ↓  ↓  ↓  ↓  ↓  ↓


国際情勢の変化等によって

将来実際に何が起こるかを具体的に予測することが一層困難となっている 中

  > 憲法の平和主義や第9条の規範性を損なうことなく

  > いかなる事態においても、我が国と国民を守ることができるように備えておく
との要請に応える


 この部分であるが、9条の規範性を損なうことのない要件であることが要請されていることは、この論旨からも明らかである。押さえておきたいのは、たとえ「抽象的な表現」であったとしても、9条の規範性を損なっている要件であれば、憲法解釈として明確性を持っておらず、違憲となりうることである。ここの部分は、「どうしても『抽象的な表現』となってしまうため、9条の規範性を損なっても仕方がない」との意味ではない。


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その上で、


第一要件
においては、

「我が国と密接な関係にある他国に対する武力攻撃が発生し、これにより我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険があること」とし、

他国に対する武力攻撃が発生したということだけではなく、そのままでは、すなわち、その状況の下、武力を用いた対処をしなければ、国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかであるということが必要であることを明らかにするとともに、


第二要件
においては、

「これを排除し、我が国の存立を全うし、国民を守るために他に 適当な手段がないこと」とし、

他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 「武力の行使」についても、あくまでも我が国を防衛するためのやむを得ない自衛の措置に限られ、当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、


第三要件
においては、

これまで通り、

我が国を防衛するための「必要最小限度の実力の行使にとどまるべきこと」としている。

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 第一要件であるが、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分を読んでも、文言上「国民に我が国が武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らかである」を意味するかどうかを読み取ることはできない。また、9条は「我が国に対する武力攻撃が発生」していないにもかかわらず、「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば、「武力の行使」を許容しているかどうかは、未だ明らかになっていない。それにもかかわらず、あたかも「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であることを理由として「武力の行使」ができるかのように論じることはできない。そのため、その意味が「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」から読み取ることができるかのように論じた上で、正当化根拠を有しているかのように語ることも、根拠のない話から導いた証明であり、妥当な解釈とは言えない。これにより、「明らかにするとともに」などと、「明らか」性を強調したところで、9条の下で「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば「武力の行使」が可能であるかのように論じている時点で、解釈として妥当性を欠いている。
 存立危機事態の要件の「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」についも、結局、「自国の存立」や「国民の権利」の危険を理由として政府が「武力の行使」に踏み切ることを可能としているものである。9条解釈においては、政府の恣意的な判断によって「武力の行使」が行われることを制約する趣旨を生かした規範性が求められるにもかかわらず、その規範性を損なっているため、9条に抵触して違憲となる。

 また、「我が国の存立が脅かされ、国民の生命、 自由及び幸福追求の権利が根底から覆される明白な危険がある」の部分は、曖昧不明確であり、通常の判断能力を有する一般人の理解において、具体的場合にその条文を適用できるか否かを識別するための基準を示すところがなく、その運用がこれを適用する機関の主観的判断にゆだねられて恣意に流れる等、重大な弊害を生ずることとなる。これは、41条の立法権の趣旨や、31条の適正手続きの保障の趣旨に反して違憲となる。これにより、結局9条にも抵触して違憲となる。

 これについて、この部分の表現を「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」に改めれば良いと考える者がいるかもしれないが、先ほども述べたが、9条の下で「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」であれば「武力の行使」が可能であるのかどうかは未だ正確な根拠を持って明らかにされていないため、これを正当化根拠として用いることはできない。この「武力攻撃を受けた場合と同様な深刻、重大な被害が及ぶことが明らか」の表現であるが、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たす事例の「武力攻撃の着手」を意味するのかという議論も考えられるが、「武力攻撃を受けた場合と同様な」との表現から、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件に該当する「武力攻撃」を受けているわけではないため、これとは区別する必要があると考えられる。そうなると、これは結局9条の下でも、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものである。ここに規範性を見出すことができないことから、9条に抵触して違憲となると考えられる。


 第二要件について、「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 『武力の行使』」との表現があるが、これは結局、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行おうとするものである。1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で「武力の行使」を行うことを禁ずる趣旨であり、「他国に対する武力攻撃の発生」があったからといって、「武力の行使」を行うことができるとの結論は導き出すことができない。1972年(昭和47年)政府見解は全体として一つの意味を有しており、本来であれば内容を分割することは妥当とは言えないが、2014年7月1日閣議決定で行われたように、「基本的な論理」を抜き出して解釈しようとしても、この「基本的な論理」の中には、「あくまで外国の武力攻撃によって」の文言が存在する。これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を意味している。「自衛のための措置」の発動要件として、この点に規範性を設けた解釈と考えなければ、1972年政府見解そのものが、憲法解釈として妥当性を失うこととなるからである。これにより、1972年政府見解の「基本的な論理」の部分によっても、9条の下では「他国に対する武力攻撃の発生」が生じたからといって「武力の行使」が可能となるわけではない。「他国に対する武力攻撃の発生を契機とする 『武力の行使』」は違憲である。この規範性は、「我が国を防衛するため」であるとの理由を述べても揺らぐことはないのである。

 「当該他国に対する武力攻撃の排除それ自体を目的とするものでないことを明らかにし、」との記載があるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、目的が『自国防衛』であれば合憲で『他国防衛』であれば違憲となるとの考え方によって基準を設けているわけではない。そのため、この主張も、合憲性を主張する論拠にはならないのである。

 第三要件について、特に述べることはない。



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このように、新三要件は、憲法第9条の下で許される「武力の行使」について、国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体ではなく、あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られることを明らかにしており、憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なものである。
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 「国際法上集団的自衛権の行使として認められる他国を防衛するための武力の行使それ自体でなく」との表現があるが、認識に誤りがある。

 まず、「それ自体ではなく」の表現から、国際法上の「集団的自衛権」に該当しないものであるかのように論じているが、そうなると、国際法上の違法性阻却事由の『権利』を得ることなく「武力の行使」を行うことを宣言していることとなる。これは、国連憲章2条4項の「武力不行使の原則」に抵触して国際法上違法となる。

 次に、国際法上「集団的自衛権」に該当すれば、「集団的自衛権」でしかないのであり、国際法上の「集団的自衛権の行使」が、「他国を防衛するための武力の行使」とそれ以外の「武力の行使」があるかのように論じている認識に誤りがある。そのような区分は国際法上存在していない。「集団的自衛権」の概念は国際法上の概念であるから、日本政府や日本の裁判所が勝手に解釈できるわけではない。


 「あくまでも我が国の存立を全うし、国民を守るため、すなわち我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られる」との記載があるが、正当化事由にならない。
 まず、9条の下では政府の行為が制約を受けているのであり、「我が国の存立を全うし、国民を守るため、」であるからといって、必ずしも「武力の行使」が可能となるわけではない。

 次に「我が国を防衛するためのやむを得ない必要最小限度の自衛の措置に限られる」の部分であるが、この意味を三要件の第一要件、第二要件、第三要件に合わせて分割して整理する。

「自衛の措置 『①我が国を防衛するため ②やむを得ない ③必要最小限度』 に限られる」

 これによれば、結局『①我が国を防衛するため』であれば、「武力の行使」が可能であると考えていることとなる。しかし、9条は自国の危機を理由として政府が恣意的に「武力の行使」を行うことを制約する趣旨の規定であり、「我が国を防衛するため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではない。それにもかかわらず、ここで『我が国を防衛するため』であれば「武力の行使」が許容されるかのように論じることは、9条解釈として妥当性を有しておらず、9条に抵触して違憲である。
 「明らかにしており、」との記載もあるが、この誤った解釈を「明らかに」したところで、正当化することはできず、違憲である。
 「憲法の解釈として規範性を有する十分に明確なもの」との記載もあるが、9条は「我が国を防衛するため」であるからといって、必ずしも「武力の行使」を許容しているわけではないことに加え、「我が国を防衛するため」との理由に規範性は存在しない。「規範性を有する」との主張は論理的に誤りである。また、「十分に明確なもの」との記載もあるが、上記の理由で十分に明確なものとは言うことができず、事実に反している。

 この記事の冒頭の「憲法の解釈が明確でなければならない」についても、これを満たしておらず、結局正当化することはできない。「存立危機事態」による「武力の行使」は違憲である。

 

 

藤田宙靖の論文


 元最高裁判事「藤田宙靖」の論文について、情報を収集する。

藤田論文を読む 2016年05月30日 



集団的自衛権を巡る違憲論議について 2016年4月4日


 こちらの記事は、上記の「自民党 礒崎陽輔」の項目で論じている。



憲法研究者と安保関連法――元最高裁判事・藤田宙靖氏の議論に寄せて 2016年3月7日


 この記事の最後に、「藤田宙靖」について「裁量処分の司法審査に関連して『判断過程統制』という手法を開拓したことなど、学者としても最高裁判事としても、きわめて重要な足跡を残された」との記載がある。


 2014年7月1日閣議決定の内容の中の、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から「存立危機事態での武力の行使」を導き出すという点も、まさにこの『判断過程統制』という手法を使って適正手続きの保障の論点から、行政権の裁量を逸脱した違法な閣議決定であることを導き出せるのではないか。なぜ自身の専門分野を活用してその論点を論じないのだろうか。


 2014年7月1日閣議決定という「内閣の公権力行使」に関して、9条解釈の論理的整合性や体系的整合性に「裁量統制」を行い、違憲審査を行うことができるはずである。


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裁判所がそれを問題にできるのは、裁量権の逸脱(踰越)濫用があった場合である。法が許容する裁量の範囲を逸脱した場合、また許容の範囲内であったとしても、法の趣旨に反して行使されるなどした場合(濫用)には、処分が取り消されることがある。
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最高裁は変わったか――「君が代訴訟」判決と裁量統制  2012年1月23日


憲法記念日に「安保法制」論議を問う(無論長文!) 2016年5月5日
憲法論戦は甦るか――藤田「ガリレオ論文」を読む・・・調査研究本部主任研究員 舟槻格致

「集団的自衛権 違憲」に対抗、憲法より行政重視の元最高裁判事・藤田が “安倍支持論”

集団的自衛権を論じる。裕 2016年03月15日

憲法を巡る重鎮たちの「殴り合い」 その激しく熱い内幕

「『覚え書き:集団的自衛権の行使容認を巡る違憲論議について』に失望。」 Twitter



『藤田宙靖 集団的自衛権に関する第二論文』(自治研究93-6)を読んで、確かに役所の法律担当官の発想の視点を明らかにしていることは確か。 2017/6/2

その7 有権解釈とは何なのか 長谷部恭男 2017/7/3

その他


〇 Wikipedia


日本の集団的自衛権 Wikipedia 2018年11月5日版


    【概要】
    『日米安保と集団的自衛権』


 この項目で、「— 1955年6月16日、衆議院内閣委員会」と引用されている記事の内容は、国会議事録の下記のものである。

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○鳩山国務大臣 私が先ほど申し上げましたことで、憲法を改めなくても自衛力が持てると申しましたのは、言葉が足りなくて誤解を招きましたが、その真意は、自衛のため必要最小限度の防衛力を持てると申したのでありまして、決して近代的な兵力を無制限に持ち得ると申したのではありません。また自衛のためというのは、他国からの侵略を受けた場合に、これを排除するため必要な限度という意味で申したのであります。吉田内閣当時、戦力という言葉を解しまして、近代的戦争遂行能力というふうに言っておられましたのは、もちろん傾聴すべき見解と思うのでありますが、私は戦力という言葉を、日本の場合はむしろ素朴に、侵略を防ぐために戦い得る力という意味に使っていまして、こういう戦力ならば自衛のため必要最小限度で持ち得ると言ったのであります。その意味において、自由党の見解と根本的に差はないものと考えております。独立国家としては主権あり、主権には自衛権は当然ついているものとの解釈に立って、政府は内外の情勢を勘案し、国力に相応した最小限の防衛力を整えたいと考えているのであり、従ってその限界は、国力の現状においてはきわめて限られたものになるのでありまして、他国を脅威するような原水爆等の攻撃的武器を持つ考えもなく、また憲法を改めない限り持てないものであると考えております。江崎君が本会議で六カ年計画を示せとおっしゃいましたが、防衛庁で検討の最中であり、さらに慎重に各方面から検討するため国防会議に付する必要を認めますので、ここに国防会議法案を提出した次第であります。私が野党時代に表明した見解は、その後変えたことは先ほど申し述べた通りであります。また先ほど述べました答弁のうちで言葉の足りなかった点は、何とぞこの際御了承をいただきまして、本会議の審議に御協力を賜わるようお願いをいたす次第でございます。
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第022回国会 内閣委員会 第23号 昭和30年6月16日 (太字は筆者)


 (Wikipediaの記事中の引用部分は、文章の最後に「。」が付いている。しかし、この引用部分は文章の途中で内容を切っているため、文末を示す「。」を打ってあることは不正確である。)


 この答弁から分かるように、この内容は実力組織(自衛力・防衛力)が9条2項の「戦力」に該当して違憲となるかどうかが問題となっているものである。それにもかかわらず、このWikipediaでは「憲法上許される自衛の範囲としては、この『必要最小限度』という抽象的なラインが以降永らく維持されるようになる[6]。」として、「自衛の範囲」について『必要最小限度』であるかどうかという話となっており、誤っている。


 安全保障に関わる論点で、「必要最小限度」の意味は、3つの異なる次元で用いられている。


「必要最小限度」の意味
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〇 保持できる自衛力
 9条2項の下で保持できる自衛力のこと


〇 「武力の行使」の発動要件  『性質』  (ユス・アド・ベルム / jus ad bellum に相当)
 1972年(昭和47年)政府見解の下で許容される自衛の措置(武力の行使)の発動要件のこと


〇 「武力の行使」の程度・態様  『数量』  (ユス・イン・ベロ / jus in bello に相当)
 1972年(昭和47年)政府見解で許容される自衛の措置(武力の行使)を発動したときの「自衛の措置(武力の行使)の程度・態様のこと
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 ここで使われているのは、「保持できる自衛力」の意味である。それにもかかわらず、「自衛の範囲」としての「武力の行使」の発動要件や程度・態様の意味で論じることは、認識に誤りがある。



 その後の「— 1960年3月31日、参議院予算委員会」の引用部分については、国会議事録の下記の部分である。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○国務大臣(岸信介君) 日本の自衛、いわゆる他から侵略された場合にこれを排除する、憲法において持っている自衛権ということ、及びその自衛の裏づけに必要な実力を持つという憲法九条の関係は、これは日本の個別的自衛権について言うていると思います。しかし、集団的自衛権という内容が最も典型的なものは、他国に行ってこれを守るということでございますけれども、それに尽きるものではないとわれわれは考えておるのであります。そういう意味において一切の集団的自衛権を持たない、こう憲法上持たないということは私は言い過ぎだと、かように考えております。しかしながら、その問題になる他国に行って日本が防衛するということは、これは持てない。しかし、他国に基地を貸して、そして自国のそれと協同して自国を守るというようなことは、当然従来集団的自衛権として解釈されている点でございまして、そういうものはもちろん日本として持っている、こう思っております。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第034回国会 予算委員会 第23号 昭和35年3月31日


 この引用の後のWikipediaの説明では、「と答弁するなど、新条約によって集団的自衛権が名実ともに行使されるようになったことを強調することに務めていた[12]。 」との記載があるが、誤りである。
 まず、日本国は主権国家である以上、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』は有しているのである。これは、国際法上で日本だけ『権利』を剥奪されているなどということはなく、他国と同様に有しているという意味である。その『権利』を行使するということは、通常「武力の行使」が行われることを意味する。しかし、この「武力の行使」を行うにためには、憲法の国民主権原理によって正当化される国家の統治権の『権限』が必要となるが、日本国の場合はこの「武力の行使」の『権限』が9条によって制約されているのである。これにより、「武力の行使」の発動要件が限られることから、「集団的自衛権」としての「武力の行使」については、9条の下では発動する機会がなく、行使できないとの結論に至っているのである。
 このWikiediaには、「新条約によって集団的自衛権が名実ともに行使されるようになったことを強調することに務めていた」などと記載されているが、日本国の統治権の『権限』によって「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」が行われる余地については常に否定されており、このような認識が出てくることはないため、誤りである。



    『ベトナム戦争と集団的自衛権の概念の変化』


 「— 1969年2月19日、衆議院予算委員会」の引用部分については、国会議事録の下記の部分である。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
○高辻政府委員 これも実は初めて申すことではございませんことをお断わりして申し上げたいと思いますが、先ほども自衛権との関連でちょっと申し上げましたように、集団的自衛権というものは、国連憲章五十一条によって各国に認められておるわけでございますけれども、日本の憲法九条のもとではたしてそういうものが許されるかどうか、これはかなり重大な問題だと思っております。われわれがいままで考えておりますことから申しますと、やはり憲法九条のもとで軍事力を発揮できるというのは、まさに、先ほど来申し上げておりますような、一国の安全が害される、国民の生存と安全が危うくされるという場合に、国民あっての憲法である、この憲法がそういうものを否定しているというふうに解する余地はない、個別的自衛権というものは、これは憲法が否認しているものとは考えられない、これは終始一貫した考え方でございます。しかし、他国の安全のために、たとえその他国がわが国と連帯関係にあるというようなことがいわれるにいたしましても、他国の安全のためにわが国が兵力を用いるということは、これはとうてい憲法九条の許すところではあるまいというのが、われわれの考え方でございます。
 したがって、そういう見地から申しますと、いま御指摘のような関係に立つような集団的安全保障機構というのは、憲法上重大な疑義がある、こういうふうに私どもは考えております。はっきり申し上げます。(「疑義じゃだめだよ」と呼ぶ者あり)
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第061回国会 予算委員会 第14号 昭和44年2月19日


 このWikipediaの記事では、「と答弁、集団的自衛権の合憲性に初めて否定的な見解を示した。以降も日本政府は、集団的自衛権は違憲である、という趣旨の答弁を一貫して行うようになる[15]。」との記載があるが、日本政府が否定しているのは「集団的自衛権」ではなく、「集団的自衛権の行使」である。『権利』は有しているのであり、否定されていないのである。ただ、「行使」にあたっては、統治権の『権限』による「武力の行使」を意味するのであり、この「武力の行使」が制約されている結果、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」が違憲となる旨解釈しているため(1972年(昭和47年)政府見解)、「集団的自衛権の行使」は違憲となるのである。政府答弁でも正確な表現が使われていない部分があるが、憲法上の『権限』がいかなる過程によって正当化されているのかというバックグラウンドを理解した上で読み取れば、意味は明らかとなるはずである。


 「— 1972年10月14日、参議院決算委員会提出資料」は、当サイトでも何度も取り上げている1972年(昭和47年)政府見解のことである。
 この資料の引用後、「この見解文書によって、『必要な自衛の措置』は『必要最小限度の範囲にとどまるべき』なので、集団的自衛権は違憲である、という論理構成が定まった[17]。」との記載があるが、誤りである。
 ここで使われている『必要最小限度』の意味は、「自衛の措置」の程度・態様の意味である。これは、この「自衛の措置」の中に「武力の行使」が含まれると解することから導かれる「武力の行使の三要件」の第三要件に該当するものである。
 また、「集団的自衛権の行使」としての「武力の行使」が違憲となる理由については、この1972年(昭和47年)政府見解の最後の文に「わが憲法の下で武力行使を行なうことが許されるのは、わが国に対する急迫、不正の侵害に対処する場合に限られる」と書かれている通り、「我が国に対する急迫、不正の侵害」が存在しない中で「武力の行使」を行うことができないことによるものである。これは、「武力の行使の三要件(旧三要件)」で表現すれば、第一要件を満たしていない中で「武力の行使」を行うことができないという意味である。このWikipediaの「『必要最小限度の範囲にとどまるべき』なので集団的自衛権は違憲である」との認識は誤りである。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
「武力の行使」の旧三要件

〇 我が国に対する急迫不正の侵害がある        ← 第一要件
〇 これを排除するために他の適当な手段がないこと   ← 第二要件
〇 必要最小限度の実力行使にとどまるべきこと     ← 第三要件
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━  



 「1981年、政府は稲葉誠一衆議院議員(日本社会党)への答弁書」で用いられている「憲法9条の下において許容されている自衛権の行使は、我が国を防衛するため必要最小限度の範囲にとどまるべきものであると解しており、集団的自衛権を行使することは、その範囲を超えるもの」との表現については、下記の意味である。


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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者)


 つまり、「1981年、政府は稲葉誠一衆議院議員(日本社会党)への答弁書」で用いられた「必要最小限度」の意味は、1972年(昭和47年)政府見解で示されている「武力の行使の三要件」の第三要件にあたる意味での「必要最小限度」とは異なるものである。


 その後、このWikipediaでは、「この時点で政府解釈では、 ・個別的自衛権=必要最小限度の範囲内の自衛措置=合憲 ・集団的自衛権=必要最小限度の範囲を超える自衛措置=違憲 というラインが自明のものとして採用されており、」などと記載しているが、9条の下で行使できる「武力の行使」の範囲については、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」を満たしているか否かで判断しているものであり、国際法上の「武力不行使の原則」に対する違法性阻却事由の『権利』である「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分を用いて判断しているわけではないため、誤りである。「ラインが自明のものとして採用されており」との認識は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たしているか否かから現れる付随的な結果によるものでしかないのである。そのため、国際法上の『権利』の区分によってラインが引かれているかのように論じることは誤りである。

 「さらにそれにあわせて個別的・集団的自衛権が日本国憲法の独自の基準で再定義されていた。」との記載もあるが、誤りである。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」とは、国際法上の概念であり、その内容を決するのは国際司法裁判所などの国際機関である。「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を日本の政府や裁判所が独自に定義することはできないのである。これにより、日本国憲法中に9条が存在することから、日本政府は「武力の行使」の発動要件について他国には見られない独自の基準に制約されることになることは確かであるが、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』の区分を「日本国憲法の独自の基準で再定義」したなどということは誤りである。

 「『現在の日本政府の解釈上の集団的自衛権を、日本は行使できない』という自家撞着的結論が定められた[18]。 」との記載もあるが、日本政府の『権限』による「武力の行使」が制約される結果、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については行うことができないというものであり、「日本政府の解釈上の集団的自衛権」などというものを行使できるか否かなどは論じられていない。このWikipediaを記載した論者が、「集団的自衛権の行使」とは基本的に「武力の行使」であり、その「武力の行使」が9条によって制約されているという論理を理解していないだけである。


 この記事の『出典』の 2.~20. は、【篠田英朗 『集団的自衛権の思想史 憲法九条と日米安保』】から引用しているようである。しかし、篠田英明の集団的自衛権行使の合憲論については、当サイトの「篠田英明」の項目で詳しく論じているが、論理的整合性なく、論拠の不備がかなり見られる。このWikipediaの記事についても、「篠田英明」の書籍を参考としている点で、同じような誤りが見られる。



  このWikipediaの記事からは、他の不審な点も見ることができる。記事中に存在していた「自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念」の項目が削除されているのである。


日本の集団的自衛権 従来の政府見解 2018年3月8日 (木) 06:11 Wikipedia
 「自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念」

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日本の集団的自衛権 従来の政府見解 2018年3月8日 (木) 06:15 Wikipedia
 ⇒(削除されている)

 

 編集履歴を確認すると、「Susuka」という利用者が行ったようである。

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(最新 | 前) 2018年3月8日 (木) 06:15‎ Susuka (会話 | 投稿記録)‎ . . (43,270バイト) -7,334‎ . . (→‎自衛権の必要最小限度の範囲と質的・量的概念: 重複する部分を削除。) (取り消し)
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「日本の集団的自衛権」の変更履歴

 この「Susuka」という利用者は、においても「参考文献」として「篠田英朗 『集団的自衛権の思想史 憲法九条と日米安保』 風行社〈選書 風のビブリオ〉、2016年7月15日。ISBN 978-4-86258-104-4。」を加えている。

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(最新 | 前) 2018年3月1日 (木) 03:06‎ Susuka (会話 | 投稿記録)‎ . . (53,258バイト) +18,441‎ . . (取り消し) タグ: サイズの大幅な増減
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 しかし、当サイトで指摘しているように、「篠田英明」の論旨は整合性がない。そもそも、「必要最小限度」の言葉の意味を誤っているからである。この「Susuka」という利用者は、自らの望む合憲という結論に持ち込むために、事実を意図的に消去しているように見受けられる。

 Wikipediaの情報を読み取る際は、情報そのものだけでなく、どのような意図を持って編集されているのかについても確認しておきたい。




〇 概念構成が誤っているため、全体として意味を理解しづらい。

「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」 ―違憲/合憲解釈の物議を眺めて― 2015/08/14


 「政府が提示する『集団的自衛権』は、政府が示した見解のとおり合憲だと筆者も認めます。」との記載があるが、まず、「集団的自衛権」とは国連憲章2条4項の武力行使禁止原則に対して51条で認められた違法性阻却事由としての『権利』の区分である。よって、「政府の提示する『集団的自衛権』」との言葉であるが、政府は「存立危機事態での武力の行使」を提示しており、それが国際法上「集団的自衛権」に該当することがあるとしているものであり、政府が「集団的自衛権」という『権利』を提示しているわけではない。また、「存立危機事態での武力の行使」については、2014年7月1日閣議決定の中で示されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という政府自身が設定した違憲審査基準によって違憲となる。よって、合憲とは認められない。

 「それは、政府が提示する『集団的自衛権』は、実のところ『集団的自衛権』という衣を身にまとった『個別的自衛権』なので、合憲だということです。」との記載があるが、誤りである。まず、政府は「存立危機事態での武力の行使」を提示しているだけであり、その「武力の行使」が国際法上「集団的自衛権」に該当する場合があるとしているだけである。また、「集団的自衛権」と「個別的自衛権」とは、国際法上別の概念であるため、実際に「武力の行使」が行われた場合、国際法上「集団的自衛権」にあたるか「個別的自衛権」にあたるかは明確に区別されることとなる。そのため、「『集団的自衛権』という衣をまとった『個別的自衛権』」などと概念は成立しない。「存立危機事態での武力の行使」については、「我が国(自国)に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるため、国際法上も「個別的自衛権」に該当しない。また、「存立危機事態での武力の行使」については「他国からの要請」を得て行使することが前提となっており、国際法上も「集団的自衛権」に該当すると思われる。さらに、9条が制約しているものは「武力の行使」であり、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国際法上の『権利』を制約しているわけではない。よって、「『個別的自衛権』なので、合憲だということ」との記載があるが、9条の下では、たとえ国際法上の「個別的自衛権」という『権利』に該当して国際法上の違法性阻却事由を得られたとしても、その「武力の行使」が必ずしも許容されるわけではない。9条の下では「個別的自衛権」に該当する「武力の行使」であっても、9条に抵触して違憲となる場合があるのである。


  【2.1. 「武力の行使」に関するもの】
 「一言で言うと、『武力の行使』は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されているので、憲法違反には該当しないというのが政府の見解の主旨でしょう。」との記載があるが、意味がよく分からない。まず、9条は「武力の行使」を制約しているが、これは1972年(昭和47年)政府見解が制約しているものであり、国際法上の違法性阻却事由の『権利』の区分である「個別的自衛権」によって制約しているわけではない。よって、論者の「個別的自衛権の範疇内に制限されている」との記載は誤りである。「政府見解の趣旨でしょう」という記載についても、政府はそのようには述べておらず、誤りである。
 また、論者は「武力の行使」と「武器の使用」について、区別した理解を持っていないように思われる。そのため、この項目のその後の論旨も意味が通じないように思われる。

 「つまり、『武力の行使』は広い意味で個別的自衛権の範疇内に制限されています。 」との記載もあるが、誤りである。国際法上は「武力の行使」について、「自衛権」としての制約の範囲である必要があるが、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については、1972年(昭和47年)政府見解によって制限されているのである。この違いを理解していないと思われる。


  【3. 筆者の見解: 合憲だけど「クラゲの骨」】

 「当該文書が砂川事件の判示に触れているのは、日本国には個別的自衛権があることを確認する文脈の中です。」との記載があるが、誤りである。砂川判決が認めた「自衛のための措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないのである。よって、日本国は国際法上の「自衛権」を有していることは確かであるが、論者の主張しようとしている「個別的自衛権があることを確認する文脈」の意味であるが、恐らく「『我が国に対する武力攻撃が発生したこと』の要件を満たす『武力の行使』ができることを確認する文脈」と言いたいのかもしれないが、砂川判決は日本国の統治権の『権限』による「武力の行使」については何も述べていないので、そのような文脈は存在しておらず、誤りである。

 「私の見立てによると、政府のいう『集団的自衛権』は、政府が示したロジックのとおり、概念的には合憲です。」との記載であるが、「集団的自衛権」とは国際法上の『権利』の概念なので、9条が日本国の統治権の『権限』に対して制約をかけている趣旨とは異なるものであるから、違憲や合憲の対象とならない。政府が示したのは、「存立危機事態での武力の行使」についてであり、これは「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」であるから、政府自身が2014年7月1日閣議決定の中で違憲審査基準として採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」によって違憲となる。概念的に違憲である。


  【3.1. 政府のいう「集団的自衛権」は、実のところ「集団的自衛権」という衣を身にまとった「個別的自衛権」】

 「この意味の通らないアクロバティックな概念上の結合関係は、ある意味、政府が『これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性』を保つことに最大限注意を払ってきたことを黙示していると、私は理解しています。 」との記載であるが、全体として「意味の通らない」概念であるとの認識は正しい。なぜならば、政府は「集団的自衛権」という「他国からの要請」が必要となる違法性阻却事由の『権利』の行使としての「武力の行使(存立危機事態での武力の行使)」を行おうとするが、それを『自国防衛』と称している点で、論理的に矛盾しているからである。また、それとは別に、9条は『他国防衛』の「武力の行使」はもちろんであるが、『自国防衛』の「武力の行使」であるからといって必ずしもその「武力の行使」を許容する趣旨の規定ではない。なぜならば、9条は政府が自国都合によって恣意的な判断で「武力の行使」に踏み切ることを禁ずる趣旨の規定であり、『自国防衛』であるからといって「武力の行使」が合憲となると考えた場合、9条の規定が存在している意味を無視するものとなるからである。このような理由で「武力の行使」が合憲となると考えることは、9条解釈において一定の規範性を確定する憲法解釈という営みそのものを否定することとなるため、憲法解釈として妥当でないのである。このことから、9条の趣旨を生かして解釈された1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に、「存立危機事態での武力の行使」の要件が適合しないのであるから、「政府が『これまでの政府の憲法解釈との論理的整合性及び法的安定性』」を保っているなどと主張している点は解釈の過程を誤っており、31条の適正手続きの保障の趣旨を逸脱した違法なものというべきである。「最大限注意を払った」などとの評価もあるが、論理的整合性は保たれておらず、注意を払おうとも違憲であることには変わりがないのである。

 「そして、政府は、多くの憲法学者と同様、憲法解釈上正当化できるのは、『個別的自衛権』に限られると考えています。」との記載があるが、認識を整理する必要がある。「個別的自衛権」とは、国際法上の『権利』である。憲法上正当化できる日本国の統治権の『権限』とは、1972年(昭和47年)政府見解に示された範囲内での「武力の行使」である。政府は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の中に「存立危機事態での武力の行使」が入ると主張しているが、多くの憲法学者は論理的整合性がないと主張しているのである。

 「実際のところは、『集団的自衛権』という衣を身にまとった『個別的自衛権』です。 それが、『個別的自衛権』のパラフレーズの1つであるかぎり、概念的には合憲ということになります。」との記載があるが、誤りである。実際のところは、「存立危機事態での武力の行使」は「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない中で行われる「武力の行使」である。これは、国際法上も自国に対する武力攻撃が発生していない中で行われる「武力の行使」であるため、「個別的自衛権」の区分に該当しない。また、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解は、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさない限りは「武力の行使」は違憲としているのであるから、「我が国に対する武力攻撃」が発生していないにもかかわらず「武力の行使」を行うこととなる「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」については、すべて違憲である。「存立危機事態での武力の行使」についても、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たさないために違憲である。


  【(筆者の見解のまとめ)】
 (1)と(2)については、どちらも上記に示した通り、概念設定が誤っているために意味が通じない。

 「それゆえ、『個別的自衛とはそもそも何か?どのような条件なら個別的自衛権を行使できるのか?』について、政府と国民が一体となって、様々な想定を継続的に検討してみることが、大切です。」との記載があるが、「個別的自衛権」とは国際法上の権利であり、「そもそも何か?」とは、国際司法裁判所の見解を精査するべきである。また、日本国の統治権の『権限』が「武力の行使」を行うことができる場合とは、1972年(昭和47年)政府見解に示された通りである。これは、「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」の要件を満たした場合にのみ「武力の行使」ができるとするものである。「個別的自衛権を行使」できる場合については、国際司法裁判所の見解を精査するべきである。



<理解の補強>

【動画】集団的自衛権“砂川判決根拠論”崩れる 2015/06/10

【動画】「武力行使の新3要件なんて集団的自衛権行使の歯止めにはならないってこと」 Twitter

    (第189回国会 予算委員会 第15号 平成27年3月6日)





 お読みいただきありがとうございました。