集団的自衛権の合憲性の誤解 1

要点① 法認識の誤り


 国際法上の集団的自衛権にあたる国家の権限を合憲と考える論者の多くは、様々な点で誤った法認識を有している。一点だけ間違っているならば、問題点は見抜きやすい。しかし、複数個所の誤りを有している論者の論理は、その複雑に絡まった誤りを同時に解きほぐしていく必要があるため、大きな労力を要する。


 ここでは、その複雑に絡まった合憲論者の理解の混乱を、解き明かしていこう。

 



 

 上記の図は、【正しい法認識】と【誤った法認識】を示したものである。下記で、【誤った法認識】の番号に合わせて解説する。



① 国連憲章の51条の個別的自衛権や集団的自衛権は、国家の統治権に権限を付与する意味を持っていない。これは、国際法上の2条4項の武力行使原則禁止に対する違法性阻却事由としての「権利」を示したものである。それにも関わらず、国連憲章を批准することで、あたかも国家の統治権として個別的自衛権や集団的自衛権という「権限」が発生しているかのように考えている点は誤りである。


② 国家の統治権による自衛の措置は、「武力の行使」である。それにも関わらず、それを「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という国家の統治権が存在するかのように考えている点は、誤りである。


③ 9条は、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」というものを制約しているかのように考えている点は誤りである。9条は、国民主権原理により、日本国民が国家の統治権として信託(授権)しない権限を示したものである。


④ 9条は、国民の信託によって発生した統治権に対して制約を課しているわけではない。9条は、国民が統治権として信託しない部分を示したものであり、信託されなかった権限はもともと国家の統治権として発生していないのである。


⑤ 9条は、国連憲章の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由を直接制約する規定としてつくられているものではない。9条の対象は、基本的に国家の統治権であり、国際法を直接制約する意図のものではないからである。(条約は違憲審査が可能であるため、国際法が違憲性による制約を受けることはあり得る。)


⑥ 国際法を憲法の上位規定として考え、条約優位説で「個別的自衛権」や「集団的自衛権」にあたる国家の権限を正当化しようとすることも誤りである。国民主権原理の憲法の場合、国家の統治権は国民からの信託によって発生するものである。そのため、国民からの信託なしに国際法の記述を基に国家の統治権が発生するという考えは誤りである。


⑦ 国民主権原理による国家の場合、国家の統治権は国民からの信託なしには発生し得ないものである。それを、あたかも国家の自然権として、国民からの信託なしにもともと国家の統治権が存在するかのように考える点は、誤りである。もしそう考えるのであれば、国民主権原理の否定である。

⑧ 9条は、「日本国の統治機関」が放棄したものというわけではない。「日本国民」が放棄したものである。


 合憲論者の多くは、ここに示したいずれかの法認識の誤りを有している。この点の認識を修正することで、自身の誤りに気付くことができるはずである。





 9条1項は、「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を放棄したものと考える。この制約だけでは、未だ国際法上の【集団的自衛権】や【個別的自衛権】にあたる「武力の行使」は可能と思われる。

 (9条1項を『不戦条約』と同様の趣旨のものとして読み解いた場合、当時はまだ【集団的自衛権】の概念が存在しなかったようなので、ここで認められるものは【個別的自衛権】の部分だけであると考えることもできる。ただ、9条は国権〔統治権〕の『権限』に対する制約であるため、国際法上の自衛権という『権利』を許容する考え方とはやや異なる側面も考えられる。)


 しかし、2項の「陸海空軍その他の戦力」の規定が、武力の行使をさらに制限している。

【集団的自衛権】としての武力の行使 ⇒ 2項前段の「陸海空軍その他の戦力」に該当し、違憲となる。他国への攻撃に起因するもので、「戦力」と区別された必要最小限度の実力組織の範囲を超えるからである。


【個別的自衛権】としての武力の行使 ⇒ 2項前段の「陸海空軍その他の戦力」にあたる組織と、当たらない組織があると考える。国際法上の個別的自衛権の制約よりも、9条の制約の方が強いため、個別的自衛権としての武力の行使であっても、「戦力」に当たる組織の武力の行使は違憲となる。しかし、「戦力」に当たらない組織による必要最小限度の武力の行使は可能と解する。

 

要点② 「権」とは何か


 集団的自衛権の話をする際、「権」という文字が、なかなか初学者を困惑させる原因となっていると思われる。

 集団的自衛権とは、国際法上の「権利」であって、国家の「権限(権力)」を指したものではない。国連憲章51条の「集団的自衛権」という『権利』を行使し、武力行使を一般に禁ずる国連憲章2条4項の違法性を阻却することが可能なだけであり、この国連憲章51条が、各国に対して、国家の「権限(権力)」を付与したというものではない。

国連憲章

第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。


 国家の「権限」とは、統治権であり、日本国においては「立法権・行政権・司法権」の三権がそれにあたるものである。この「国家の権限」は、国民主権原理によって、国民からの厳粛な信託(前文)によって発生するものである。


 これら、「権利」にあたる『権』と、「権限」にあたる『権』は、同じ『権』の文字が使われているため、法学の初学者は混乱してしまうところである。



〇 「集団的自衛権」は、国際法上の『権利』であり、国家に『権限(権力)』を与える根拠とは性質が異なる。

〇 「国家の権限(権力)」は、憲法によって発生する統治権(三権分立の場合は立法権・行政権・司法権)のことを意味する。



 国際法上の「集団的自衛権」という文言を、国家の権限(権力)の根拠規定となるかのように説明する論者がいくらかいるが、これは、「権利」を意味する『権』と、「権限(権力)」にあたる『権』の違いを区別できていないことによるものである。


 「集団的自衛権」は、国家が武力行使の違法性阻却事由として主張できる『権利』として条約を締結した各国の間で合意されているものである。あくまで、「違法性阻却事由として主張できる権利」であって、国家の権限の根拠規定となるものではない。


 国家の権限の根拠となるものは、国民主権をとる国家であれば(つまり、国民主権原理を採用する憲法であれば)、国民からの信託によって初めて、国家の権限(統治権)が発生するのである。


 国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」の「固有の権利」の文言は、憲法によって成立した各国の統治権の権限が潜在的に行使しうるものを「固有の権利(inherent right)」と表現しているだけであり、国家の統治権の権限そのものは、憲法によって生み出されることが前提である。(国際法上、固有の権利の保有は国家承認によって認められるのかもしれない。)

 国連憲章51条は「この自衛権の行使に当たって加盟国がとった措置」の表現も見られる。これは、国際法上の自衛権にあたる、各国の憲法によって生まれた統治権の権限による措置のことを意味すると思われる。つまり、「措置」というものこそが、各国の憲法で生まれた「統治権(権力・権限)」による「武力の行使」であると思われる。「自衛権」の文言は、相変わらず国際法上の権利であり、国際法が各国に何らかの権限を付与する意味を持っていないと考えられる。



 法務省の中学生向けの法教育の資料が分かりやすい。

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Q71 「権力」や「権利」ということばを生徒に説明する工夫
Q 「権力」とか「権利」ということばを生徒に分かりやすく説明する工夫としては、どのようなものがありますか。
 ⇒ 『報告書』97ページ(第3、(1)第一時「国の政治の在り方は誰が決めるべきか」)


A  権力と権利は、似たような言葉であるにもかかわらず、まったく異なる意味を持っており、その正確な理解は必ずしも容易ではありません。他方で、憲法の意義を考える上で、これらの言葉の正確な理解は必要不可欠です。
 ひとつの説明の工夫としては、英語に置き換えることが考えられます。権力はPowerであり、「人を(その意思に反してでも)強制させる力」という意味が語感から感じられますし、権利の原語であるRightには、「正しい要求・主張」という意味を含むことが分かるのではないでしょうか。
 なお、憲法の領域では、国家がその支配のために行使する力を総体として「国家権力」あるいは「統治権」、法が各国家機関に対して行使することを認めている力を「権限」あるいは「権能」といい、国民等が国家に対して要求・主張を行うための法的な根拠を「権利」ということが多いようです。
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憲法の意義 法教育 法務省


 筆者も、憲法上の「自由権」「社会権」などの『国民の権利』の『権』と、「立法権」「行政権」「司法権」「国政調査権」「解散権」などの『国家の権限』としての意味合いが強い『権』の違いについて、当初正確に区別した認識を持っておらず、学習の際に混乱した記憶がある。

 国の「権限」としての『権』についても、「権利」と表現する場合もあるかもしれないが、その意味合いやバックグラウンドの違いについて、丁寧に押さえておいた方がいいだろう。


〇 憲法上では、人権としての『権』は、「権利」の文言が使われていることが多い。ただ、「財産権(29条)など、「権利」ではなく、「権」と表現している部分もある。また、人権については、「権利」の意味であっても、同様な意味として「自由」と表現することもある。この場合、「自由」の文言に隠された「自由権」としての「権利」の側面を読み解いておきたい。


〇 憲法上で、国の権限としての『権』は、「国権」「権限」「権能」の文言が使われていることが多い。口語的に「国の権利」という表現が使われることもあり得るとは思うが、これは国民主権による国民からの信託によって生まれた国の権限について「行使・不行使の自由が存在すること」を指す意味で使われる場合と思われる。これは、人権概念から派生する「自由」や「権利」をバックグラウンドとした「権利」の意味とは性質が異なるものである。『権』の言葉の背景の違いを正確に捉えておきたい。



 この辺の理解は、初学者は躓きやすいところではある。筆者もどうすれば混乱を防ぐことができるのかいろいろ検討を続けている。ただ、今のところ、現在の憲法の語句よりも「明らかに良い」と思われる表現はなかなか見つからない。良い解決策が見つかるまで、初学者もここは一緒に堪えていただきたい。


 他の法令では、用語の不備や混乱防止などについて、時々マイナーチェンジが行われている。当サイトも、法学の世界が、より混乱の少ないスッキリとした形に整っていくことを願っている。混乱した初学者の方々も、「現段階ではそうなっているのだ」という程度のものとして考えていただければと思う。いつか良い解決策が見つかった時に改善できるかもしれないぐらいの心づもりで、学習を進めていくと良いのではないだろうか。


自衛権(right of self-defense)
個別的自衛権(right of individual self-defense)
集団的自衛権(right of collectivee self-defense)


国際連合憲章 Charter of the United Nations PDF


立法権(legislative power
行政権(executive power / administrative power)  ⇒  武力の行使(use of force)
司法権(judicial power

日本国憲法 The Constitution of Japan


まとめ

〇 「権利(right)」を有しているが、「権限(power)」は行使できない。

〇 国際法上の「権利」を有しているが、憲法上で「権限」を行使することはできない。

〇 国際法上の「集団的自衛権」を有しているが、憲法上の統治権では「他国への武力攻撃があったことによる他国防衛のための武力の行使(集団的自衛権にあたるもの)」や「存立危機事態での武力の行使(日本独自に限定的集団的自衛権と言っているもの)」の権限を行使することはできない。




 国際法上において、違法性阻却事由である集団的自衛権を行使することは可能となっている。日本国は、国連憲章2条1項の主権平等原則の適用を受けており、集団的自衛権にあたる国家の権限を行使することを許容されているのである。


 しかし、その「国際法上の集団的自衛権」にあたる行動を日本国が行う際には、正当性を有した国家の権限が必要となる。その正当性のある国家の権限とは、国民主権の原理によって統治権(立法権・行政権・司法権)に授権された権限(権力・権能)のことである。国民主権原理を採用している日本国憲法では、国民からの信託がなされていない権限を日本国の統治機関が行使することはできないのである。


 9条の文言から明らかのように、「日本国民」が放棄し、不保持とし、否認した部分については、日本国の統治権としてもともと発生していないのである。そして、そのもともと発生していない部分と、授権されて発生している正当性を有した権限の範囲を示したものが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。


 この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」は、2014年7月1日閣議決定においても論旨の前提として維持されている。


 しかし、この「基本的な論理」の中に、あたかも「存立危機事態での武力の行使」が含まれているかのように結論を述べた点が、十分な論理的整合性を有していないのである。結果として政府自身が2014年7月1日閣議決定においても論旨の前提として設定している「基本的な論理」という違憲審査基準によって、その範囲の逸脱となり、違憲となるのである。




合憲論拠の不備

百地章


 集団的自衛権行使の合憲性について、日本大学の百地章が解説しているようなので、内容を見てみよう。


「集団的自衛権行使の合憲性について」 日本大学教授 百地章  (←こちらを下記で解説)

 集団的自衛権の行使について、明確な合憲性の論拠を示している者はほとんどいない。そのため、ここで箇条書きのリストを公開していることは、ありがたい。

 しかし、その内容を詳しく見てみると、やはり、以前から様々な媒体で指摘されているように、論拠の不備が見られる。詳しく解説していこうと思う。


 下記は、「集団的自衛権行使の合憲性について」のリストの箇条書き番号に合わせて内容の妥当性を解説した。照らし合わせながらお読みいただければと思う。

 この合憲性の論拠とされるリストについて、論者の理解の不足部分を指摘する際に、同じような内容が何度も繰り返し出てくることを予めご了承願いたい。ただ、そこをしっかりと理解いただければ、この合憲論者の理解の不十分な部分について明らかとなるはずである。



「集団的自衛権行使の合憲性について」 
 日本大学教授 百 地  章



結論

⇒「保有は認められる」との記載があるが、これは「国際法上、集団的自衛権を有している」が、「日本国憲法上は行使できない」の議論である。「限定的に容認」とあるが、この限定的集団的自衛権(存立危機事態での武力の行使)というものは、日本が独自にそう呼んでいるだけであり、国際法上の整合性は怪しいものである。


⇒ 国連憲章51条の文言は、「個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。」との記載であり、違法性阻却事由を示したものである。この「固有の権利」の文言を根拠に、日本国の統治機関の権限として集団的自衛権にあたる武力の行使を行う権限を付与する意味を含まない。ただ、確かに国際法上、他国と同様に、日本国に対しても国連憲章2条4項の武力行使一般禁止に対する51条の違法性阻却事由としての「個別的又は集団的自衛」権を行使する幅が与えられている。


国連憲章


2条

1項 この機構は、そのすべての加盟国の主権平等の原則に基礎をおいている


4項 すべての加盟国は、その国際関係において、武力による威嚇又は武力の行使を、いかなる国の領土保全又は政治的独立に対するものも、また、国際連合の目的と両立しない他のいかなる方法によるものも慎まなければならない

第51条
この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない。この自衛権の行使に当って加盟国がとった措置は、直ちに安全保障理事会に報告しなければならない。また、この措置は、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持または回復のために必要と認める行動をいつでもとるこの憲章に基く権能及び責任に対しては、いかなる影響も及ぼすものではない。



 しかし、日本国憲法においては、9条の主語である「日本国民」が「放棄」「不保持」「否認」した部分については、国民主権原理による国家に対する「厳粛な信託(前文)」の過程で権限を与えられていない。よって、日本国の統治機関(統治権:立法権・行政権・司法権)にはもともと発生していない権限が存在するため、9条のような規定を持たない他国と比べて「固有の権利」として行使されうる潜在的な権限の幅が小さいのである。

 よって、我が国が主権国家として国際法上の集団的自衛権を違法性阻却事由として行使する幅を与えられていることは確かであるが、国家の統治権から発せられる権限として国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使できることは当然とは言えない。それは、日本国の統治権が国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使する正当性を有しているか、つまり、国民から正当な信託を受けて授権されているかによるのである。


⇒ 9条には集団的自衛権を「禁止」したり「制約」したりする明文の規定は存在していないとの主張であるが、9条の規定は「日本国民」が国民主権原理による国家に対する権限の「厳粛な信託(前文)」の過程で、授権しない権限を示したものである。よって、9条の「日本国民」が授権していない部分の権限を日本国の統治機関が行使した場合、違憲となる。

 集団的自衛権は国際法上の概念であり、国内法である憲法が集団的自衛権を直接「禁止」したり、「制約」したりしないことは当然である。集団的自衛権にあたる国家の権限は、国内法上「統治権」の行使であり、これは日本国憲法では「三権:立法権・行政権・司法権」のいずれかであり、これを9条が統制しているかどうかが問われているのである。(王権の国家では、国内法上の王権による武力の行使が、国際法上個別的自衛権や集団的自衛権となる。大日本帝国憲法では、国内法上の天皇の統帥権が、国際法上の個別的自衛権や集団的自衛権となる。)

 よって、9条の規定は、国際法上の集団的自衛権を直接「禁止」「制約」していないことは当然である。しかし、9条は、1項で「国際紛争を解決する手段として」の「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使」を、2項前段で「陸海空軍その他の戦力」を、2項後段で「国の交戦権」を定め、憲法上の統治権(立法権・行政権・司法権)(9条の文言で言えば国権)を直接「禁止」「制約」しているのである。

 この制約がいかなるものかを明確に示しているのが、1972年(昭和47年)政府見解である。限定的集団的自衛権の行使を容認した2014年7月1日閣議決定は、この1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持した上で「存立危機事態での武力の行使」を導き出したとしているが、この点に看過できない論理の整合性の不備があり、手続きの適性の観点から違憲となる。その結果、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提とする以上は、日本独自に限定的集団的自衛権と言っている権限(存立危機事態での武力の行使)は9条に抵触するため違憲となるのである。もちろん、国際法上の集団的自衛権にあたる国家の権限(国内法上の他国への攻撃を理由として行う統治権による武力の行使)も9条に抵触するため違憲である。

 憲法9条が集団的自衛権の行使を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定が存在しないとの理由で、当然に国際法上の集団的自衛権を行使しうることが明らかであるとする論旨は、国民主権原理を法源とする憲法上の権限と、憲法によって成立した国家の統治権によって締結される条約(国連憲章も条約である)との法分野の切り分けが理解できておらず、整合性がないため意味が通じていない。よって、「当然」でも、「明らか」でもなく、これをもって集団的自衛権を行使できるとする根拠にはならないのである。


⇒ 砂川事件最高裁判決が、日本国の統治機関の統治権が集団的自衛権を行使することを射程に入れた判断をしたという事実はない。主権国家として国際法上の自衛権を有するとしても、その国際法上の「自衛権」に該当する国家の憲法上の権限から発せられる「必要な措置」というものは、その憲法上の制約に服することとなる。よって、9条の規定がいかなる制約を課しているのかを明らかにしており、2014年7月1日閣議決定の前提としても採用されている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」こそが、「必要な措置」の内容を示す決定打となる。よって、砂川事件判決を根拠にして日本国が国際法上の集団的自衛権に該当する国家の権限を行使できることにはならない。

⇒ 憲法9条2項が「戦力の不保持」や「交戦権の否認」を定めていることから、その限りで日本国の憲法上の統治権(立法権・行政権・司法権)が「制限」されるわけであり、国際法上の「集団的自衛権」の権限が制限されるわけではない。この点、国際法上の権利と、国内法上の権限を同一の法体系であるかのように読み解いている点で混乱が見られる。政府の新見解も「集団的自衛権」の「限定的容認」に留められているとの主張があるが、これは、憲法上の統治権を制約する9条解釈の前提である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に適合するように「存立危機事態での武力の行使」という国内法上の権限を生み出したとすることによって、結果として国際法上の枠組みの文言で言うならば「限定的集団的自衛権とでも言うものにあたる」と日本が独自に主張しているだけである。国際法上の分類に「限定的集団的自衛権」というものが存在しているわけではなく、国際法上は通常の「集団的自衛権」に分類されるのである。よって、9条2項の制約が、集団的自衛権をという国際法上の権利を直接的に縮小させているかのような論旨は意味が通じない。よって、政府の新見解が「憲法9条の枠内の変更」であるとの主張には繋がるものではなく、2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提として採用する限りは憲法に違反することとなる。これは、大きな問題である。




1、 衆院憲法審査会における参考人の見解について


① 

⇒ 参考人の説明について、「なぜ憲法違反なのか、あまり明確な説明がなく、よくわからない」「その説明にも疑問がある」とあるが、それは聞き手であるこのリストの論者者自身が、憲法と国際法の法分野の切り分けが明確に理解できていないことによると思われる。できるだけ、法学の大前提を捉え直していただきたい。


② 

⇒ 2014年7月1日の政府見解は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」をそのまま維持しているとしているのである。この「基本的な論理」から、「存立危機事態での武力の行使」が導き出されるかどうかが、この事例での違憲論点である。これは、「9条そのものが存立危機事態での武力の行使を違憲としているか」というものとは意味が違うのである。つまり、9条解釈の「芦田修正説」を採用した場合では、「存立危機事態での武力の行使」が合憲となる可能性を見出すことはできるが、現在の政府解釈の前提となっている「武力行使一般禁止説」を採用する1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」からは、「存立危機事態での武力の行使」を導き出すことができないということである。この点、このリストの論者は混乱が見られる。
 「法的安定性」については、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に合致させることができないことによって発生する問題である。
 「外国の軍隊の武力行使との一体化」については、一体化した場合、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の「必要最小限度」を超え、9条1項の禁止する武力の行使や9条2項の禁止する「戦力」に該当することによる違憲性についてである。

 

③ 

⇒ 2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提として維持していると主張している以上は、「従来の政府見解の枠を超える」だけで十分に違憲理由となる。2014年7月1日閣議決定自体が、憲法の9条解釈の枠組みとして、「武力行使一般禁止説」を採用する1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとしているのであるから、その前提を自ら超え出ていることが、9条に抵触して違憲となるのである。その説明は見当たらないのではなく、前提が理解できていないことによるものである。

 「法的安定性」について、この2014年7月1日閣議決定が1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提としているにも関わらず、論理的にはこの中に含まれるとは到底考えられない「存立危機事態での武力の行使」が含まれるとすることは、「法の解釈、適用が客観的であること」を求められる法的安全・法的確実性を損ない、「法的安定性」が損なわれるのである。


 「法的安定性」(法的安全・法的確実性)(参考:ブリタニカ国際大百科事典)

>法による社会秩序がもたらす社会生活の安定という価値

>法それ自体の安定からもたらされる法価値

  1. 法が実定法であること

  2. 法はその法の解釈、適用が客観的であること

  3. その法の実効性があること

 法的安定性は法の目的であり、法が追求すべき正義、衡平などの公示の諸目的を達成するために、まず実現すべき卑近な第一次的な目的とされる。

⇒ (武力行使の一体化について) 

⇒ 9条2項が妨げているのは、日本国憲法によって生まれる日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)であり、国際法上の集団的自衛権を妨げるというような性質を持っていない。よって、9条2項によって、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を国家の統治権(立法権・行政権・司法権)として行使することはできないという意味である。法分野の切り分けに混乱が見られる。


⇒ (特にここで述べることはない。)


⑦ 

⇒ ここで言う「従来の定義」とは、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」のことであり、それを前提としている2014年7月1日閣議決定が、その「基本的な論理」に整合しているとの主張に論理的に無理があり、「踏み越えてしまった」との説明になっているのである。これは、憲法違反の説明として意味が通じている。「憲法違反の説明になっていない」というのは、それを理解できていないことによると思われる。




2、集団的自衛権行使の合憲性について

(1) 集団的自衛権とは?

⇒ (ここで特に述べることはない。)

⇒ (ここで特に述べることはない。)

③ 

⇒ 正当防衛が刑法上の違法性阻却事由であることと同様に、国連憲章51条の「個別的自衛権」と「集団的自衛権」は違法性阻却事由である。日本国も国際法上はこの違法性阻却事由を行使する幅が与えられている。ただ、それを行使するかどうかについては、国内法である憲法上で発生した統治権がそれを行使する正当な権限を有しているかどうかの問題である。9条の日本国民が放棄した権限については、国民主権原理によって初めて発生する日本国の統治権にもともと発生しておらず、行使することはできないのである。

 刑法で言うならば、個人の正当防衛の権利について、何らかの理由で正当防衛を行わないことも当然に可能である。もし、正当防衛の権利を必ず行使しなければならないなどという刑法が立法されたならば、憲法13条の自由権、幸福追求権の侵害、19条の思想良心の自由の侵害などに該当し、違憲となる。正当防衛の権利に該当する行為をするかどうかは、個人の自由な判断として憲法上保障されているのである。(道路交通法において、運転者に事故時の救護義務が課せられているなどの場合は、自由が制限されうることもあることに注意。)

 民法で言うならば、「同時履行の抗弁権」などの権利を、行使するかしないかは、本人の自由である。同じく、国際法上の「個別的自衛権」や「集団的自衛権」を、国家の統治権が行使しても行使しなくても全く自由である。ただ、日本国の場合は、憲法9条が統治権を制約しているので、統治権の行動の範囲が本来的に限られていることから、結果として国際法で行使可能な権利を自国の行動規範によって行使できない部分が存在するということである。



第五章 国家の国際責任

 C 国際的な義務違反を行っても責任が問われない場合

 ある国家による国際法上の義務違反行為であっても、特定の事情があれば、例外的に違法性が阻却される場合がある。これを違法性阻却事由といい、同意、自衛、対抗措置、不可抗力、遭難、緊急避難がある(国家責任条文1部5章。なおユス・コーゲンス(強行規範)に違反した行為については、阻却事由に該当する場合でも、違法性は阻却されない(26条)。また違法性阻却事由を援用した場合でも、違法性を阻却する事由が存在しなくなった場合には、国は義務を遵守しなければならない。

 

[1]同意

(略)


[2]自衛

 条約上も一般国際法上も、国家は自衛権を有している。「国際連合憲章(国連憲章)」においても、「この憲章のいかなる規定も、国際連合加盟国に対して武力攻撃が発生した場合には、安全保障理事会が国際の平和及び安全の維持に必要な措置をとるまでの間、個別的又は集団的自衛の固有の権利を害するものではない」(51条)と定める。国の行為が、適法な自衛権の行使である場合には、違法性が阻却される(国家責任条文21条)。


[3]対抗措置

(略)


[4]不可抗力

(略)


[5]遭難

(略)


[6]緊急避難

(略)

Next 教科書シリーズ 国際法 渡部茂己・喜多義人 編 弘文堂 平成23年5月30日 初版 (下線・太字は筆者)

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⇒ 他人に発生した急迫不正の侵害について、自分自身がそれを正当防衛として攻撃者に抵抗すると、それによって自分も喧嘩に巻き込まれてしまうかもしれないことなどを理由として、正当防衛を行わないことも可能である。正当防衛にあたる行動をするか、しないかについては、憲法上13条の自由権や幸福追求権、19条の思想良心の自由などでその自由が保障されている。

 同じように、国際法上、集団的自衛権を行使する幅が与えられているからと言って、日本国の統治権が国際法上の集団的自衛権にあたる権限を必ず行使しなければならないというものではない。国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使するかどうかは、その国の統治権の範囲で判断する自由を与えられている性質のものであり、その統治権が憲法によって制約をかけられているとしても、なんら不思議ではない。


⇒ 自分が攻撃されたのか、他人が攻撃されたのかは区別されるものである。この論旨は意味が通じていないと思われる。

⇒ 法学上は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に該当するかどうかの問題であり、「アメリカに追従して地球の裏側まで行く」のかどうかなど、政策論上の問題は合憲論拠とは関係ない。

 自国に対する武力攻撃がなければ武力行使できないとするものが1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という9条解釈の枠組みである。「放置すれば日本の存立を危うくするような場合」かどうかという問題については、数量的な認識(感覚)を前提とする基準の設定方法であり、政治的な事情によって評価や判断が変わるものである。これは、9条が自国都合によって行う武力行使を禁じた趣旨に反するものであり、9条の規範性を損なうこととなる。これは、従来からの1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」として示された「必要最小限度の自衛の措置」の範囲を逸脱するものであり、違憲となる。従来の政府答弁との整合性は保たれていない。


(2)

⇒ 国連憲章51条の「個別的又は集団的自衛の固有の権利」というのは、国連憲章2条4項の武力行使一般禁止に対する違法性阻却事由を示したものである。これは、各国の憲法において成立した統治権に新たな権限を付与する意味を持たない。確かに日本国も他国と同様に国連憲章において違法性阻却事由としての集団的自衛権を行使する幅が与えられているが、これは日本国の「固有の権利(自然権とも)」として発生している国家の統治権の権限による行動を意味している。よって、日本国の統治権は、9条によって日本国民から授権されていない部分の権限を行使することはできない。この日本国の「固有の権利(国家成立によって発生した統治権)」の中に、国際法上の集団的自衛権にあたる権限が存在するならば、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使できるが、存在しないのであれば、行使できないのである。

 よって、国際法を基準にして意味を理解しようとする試みは、意味が通じない。それは、国際標準ではなく、単なる理解の混乱である。

⇒ 国際法上の「領土権」と言われるものは、主権国家の固有の権利であるというところまでの主張は正しい。しかし、それは「憲法に規定がなくても当然に認められる」というところに、理解の混乱が見られる。上記でも指摘したように、国際法上の「固有の権利」とは、憲法上で発生した国家の統治権のことを指しているのである。つまり、憲法上において、領土に関わる国家の統治権を制限する規定がない限りは、国際法で言われる「固有の権利」をフルで有しているということなのである。

 この点、なぜ国際法上の権利を行使する際、国内の憲法上に明記しなければならないはずであるとの主張が存在することを前提としているのか理解に苦しむ。誰もそのような前提には立っていないだろう。この論理は、国際法と憲法の法分野の違いと対応関係を理解できていないことによる主張としか見ることができない。論者自身の理解の不備によって、存在しない敵と戦おうとしているように見える。


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「主権には対内的と対外的の二つの側面がある。対内的には、国家権力が国内において最高絶対のものであること、あるいはそのような性質を有する国家権力そのものを意味する。つまり、国家がその領域内において原則として排他的な自由な統治を行いうる権能をもっていることを示すもので、この場合の主権は統治権とか領域権とか呼ばれるものと等しい。
*香西茂・太寿堂鼎・高林秀雄・山手治之『国際法概説〔第四版〕』(有斐閣、2001年)57頁〔山手治之〕
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憲法研究者に対する執拗な論難に答える(その2)――「国家の三要素」は「謎の和製ドイツ語概念」なのか 2017年10月18日 (下線・太字は筆者)

 この資料にあるように、「主権」の言葉に「統治権(国家権力そのもの:日本の場合は立法権・行政権・司法権)」とか「領域権」の意味あるのである。つまり、国民主権原理による憲法で立法権・行政権・司法権が授権された時点で、「統治権」が生まれており、それは国家権力そのものであり、「領域権」を持っているのである。これが主権である。その主権は、対内的に他のいかなる権力主体に対して優越しており、対外的にもその国家権力が他のいかなる権力主体からも意思形成において制限されず独立しているのである。


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『主権』

英語sovereigntyの訳語で、政治学国際法学上の概念であるが、相互に若干の差異がある


政治学的には統治権または国権と同義で、国家がその領土およびその領土内のあらゆる集団や個人を支配する最高絶対の権力で、他のいかなる法的制限にも服さないとされる。また国家の最高意思のあり方としての権力をいい、その権力が何に属するかによって国民主権、君主主権、団体主権などとも呼ばれる。


国際法学では、国家の基本権のうち最も重要なもので、最高独立にして絶対の国家権力であり、自衛権・生存権・独立権・領土権などはすべて主権の一側面と考えられる。
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「百科事典マイペディア」より (下線・太字は筆者)

 9条が統治権の発生を制約していることによって、統治権(立法権・行政権・司法権)が正当な権限を持ちえるか持ちえないかの問題である。国際法上の権利が、なぜ統治権以外の権限として国家に権限を発生させることを前提としているのか、主張の整合性が疑問である。


⇒ 「固有の権利」は、憲法によって正当性を基礎づけられたその国の統治権のことである。憲法によって成立した統治権によって各国との間に結ばれた条約や国連憲章などの国際法が、各国の統治権に対して固有の権利を付与するかのような主張は論理的な整合性がない。また、国連憲章51条の「集団的自衛権」については、違法性阻却事由について示しただけのものである。これは各国に「固有の権利」を付与あるいは発生させる意味を持っていない。憲法が行使を「禁止」「制約」しているのは、その憲法が発生させた「統治権」であり、国際法上の「集団的自衛権」ではない。憲法という法分野は、あくまで自国の法であり、国際法上の権利を逐一制約しなければならないなどというものではない。法分野の切り分けができていないことによる混乱であると思われる。


⇒ 9条は、国内の統治権(立法権・行政権・司法権)を「禁止」したり直接「制約」したりする明文の規定を持っている。その制約された統治権の行使が行われた際に、国際法上のどの権利に該当するかが問われたり、国際法上の違法性阻却事由に該当するかが決定されるわけである。そのため、国際法上の権利を憲法が直接「禁止」「制約」しなくとも、憲法が国内の統治権を制約することが、そのままその国が国際法上の集団的自衛権にあたる権限を国内法上の統治権として行使できるかどうかに繋がってくるのである。

 日本国が国際法上、集団的自衛権を違法性阻却事由として行使する幅を与えられていることは、国連憲章51条から明らかであるが、この国際法は日本国の統治機関に権限を付与する意味を含んでいない。国民主権原理による日本国の統治機関は、国民からの授権によってその権限の正当性を付与されるものであり、その法源は国民にあるわけである。つまり、国際法を法源として、国内法上の統治権の行使の権限が正当付けられるわけではないのである。その国内法上の統治権を9条によって「禁止」「制約」されている日本国は、「武力行使一般禁止説」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を採用する限りは、結果として国際法上の集団的自衛権にあたる国内法上の統治権(権限)を行使することはできないのである。


⇒ 9条解釈について、「芦田修正説」などを採用した場合には、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を、憲法上でも国家の統治権として行使することができる。しかし、2014年7月1日閣議決定では、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していることが前提となっていることから、この論旨からは論理的に許容できない「存立危機事態での武力の行使(日本独自に限定的集団的自衛権と言っているもの)」を行使することは、国民から信託(授権)されていない部分を示した9条の規定に抵触するため違憲となるのである。


(3)

⇒ 砂川事件最高裁判決が、9条が日本国の固有の自衛権(国民主権原理によって発生した統治権による国内法上の武力の行使など)を否定していないことはそうかもしれないが、その日本国がとることのできる自衛の措置がどの範囲であるのか(国民から授権されている統治権の範囲)は明確に判断していないのである。これは国際法上の集団的自衛権を射程に入れた判決であるとは言えない。砂川事件最高裁判決を根拠にして憲法違反の問題はクリアできているとする主張は妥当でない。問題は、2014年7月1日閣議決定で、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持していることが前提となっていることによるものであり、憲法解釈として国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使できるか否かとは論点が異なる。何が争点となっているのか、理解していないことによる主張であると思われる。


(4)

⇒ 日本国が国連憲章51条によって、集団的自衛権を違法性阻却事由として行使する幅が与えられていることは確かである。しかし、憲法上において、国家の統治権(国際法上で言う固有の権利)によって国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使できるかどうかは、9条解釈によるものである。1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持している以上は、日本国の統治機関に発生した統治権(立法権・行政権・司法権)は、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を行使することはできない。

 最高裁は、砂川事件判決において、集団的自衛権を認めたという事実はない。そもそも、国際法上の集団的自衛権にあたる権限を、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)が行使するかどうかの問題であり、集団的自衛権を認めるとか認めないとか、直接そういう議論にはならない。

 政府の新見解(2014年7月1日閣議決定)は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとしているが、この点、「存立危機事態での武力の行使」がこの「基本的な論理」の中に含まれているとは到底考えられず、手続きの適性の観点から違憲となる。「何ら問題ない」との主張は誤りであると考えられる。

(5)

⇒ 9条2項の「戦力不保持」と「交戦権の否認」は、日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)を制限しているわけであり、国際法上の集団的自衛権を制限しているという性質のものではない。そのために、政府の新見解(2014年7月1日閣議決定)が集団的自衛権の行使を「限定的に容認」したというものではなく、政府は9条解釈の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提としていることから、この制約を受けて国際法上の集団的自衛権にあたる国家の権限をフルに使うわけではないと述べているだけである。この点、9条2項が国際法上の集団的自衛権という権利に対して直接制約をかけているかのような認識は誤りである。

 政府の新見解(2014年7月1日閣議決定)は、その閣議決定でも同じく採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまるかどうかが問われているのである。この点、「基本的な論理」の中に、「存立危機事態での武力の行使」が含まれているとは読むことができず、9条解釈として政府自身が設定した違憲審査基準の枠から逸脱しており、憲法違反となるのである。




3、政府見解の変更について


(1)

⇒ その通りである。

(2)政府見解の変更は許されないのか?

⇒ その通りである。

ⅰ)

⇒ 政府解釈を変更できることは当然であるが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとする2014年7月1日閣議決定に、論理的整合性がないことが問題とされているわけである。問題となっている論点が理解できていないと思われる。

ⅱ)
⇒ 政府解釈を変更できることは当然である。その政府解釈の論理的整合性が問題となっているわけである。

ⅲ)

⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ (ここで特に述べることはない。)

⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ 「憲法9条の枠内」であるかどうかは、「存立危機事態での武力の行使」について、2014年7月1日閣議決定の論旨の前提として採用している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」に当てはまるかどうかの問題である。この点、論理的整合性がなく、「基本的な論理」から逸脱することが明らかであるため、問題があり、違憲となるのである。



(3)

⇒ 2014年7月1日閣議決定が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提としているにも関わらず、「存立危機事態での武力の行使」を許容しているという結論を採用した点が、手続きの適性の観点から問題があるわけである。「政府見解の変更」それ自体は何ら問題がないが、手続きの適性の観点から、許容できない結論を導き出し、「存立危機事態での武力の行使」を正当化しているところに、法の支配、立憲主義、法治主義などに反しているのである。これは、論点が十分に掴めていないことによる主張と思われる。


⇒ 2014年7月1日閣議決定が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を採用しているにも関わらず、その「基本的な論理」からは導き出すことができない「存立危機事態での武力の行使」を結論として容認している点に手続きの適性の観点から問題があるわけである。解釈変更が許されないとしているものとは異なる。

⇒ 2014年7月1日閣議決定は、その論旨の前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を採用しているのである。「基本的枠組みの変更はすべきではない。」というものではなく、変更していない部分に適合しない「存立危機事態での武力の行使」を容認した旨の結論が、手続きの適性の観点から問題があるというものである。国際状況の急激な変化などを理由として政府見解を変更しようとすることはもちろん可能であるのであるが、その前提として2014年7月1日閣議決定は、その論旨の前提として1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を採用しているにも関わらず、手続きの適性の観点からその中には含まれるとは考えられない「存立危機事態での武力の行使」を許容した点に問題があるのである。


⇒ 従来の政府見解は何も不自然なものではない。国際法上の集団的自衛権を違法性阻却事由として行使することは可能であるが、国内法上の統治権による自衛の措置の権限においては行使できないということである。2014年7月1日閣議決定においても、この法分野を切り分けて考える前提は何も変わっていない。



4、砂川事件最高裁判決(昭和34年12月)について

(1)有権解釈と私的解釈

⇒ 基本的にそうである。

(2)

⇒ 砂川事件判決は、9条について最高裁が正面から判断を下したとは言えない。


⇒ 砂川事件判決は、日本国が主権国として持つ固有の、つまり、国民主権原理によって発生した統治権がどの範囲であるのか、明確に示したものではない。これが、直接国際法上の個別的自衛権や集団的自衛権に該当するというものではない。

⇒ 砂川事件判決は、やはり、国家固有の権能として存在する統治権の範囲がどの程度なのか、示したものではない。



(3)
⇒ 日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)の行使としての国際法上の集団的自衛権にあたる権限について射程に入れた判断ではない。そう見なければならないという主張に根拠はない。

・同条約は「すべての国が個別的及び集団的自衛の固有の権利を有することを承認し」たうえ、日本国が「これらの権利の行使として」米軍の国内駐留を「希望する」(前文)としている。
⇒ 

・つまり、旧安保条約(昭和26年)は、わが国が「集団的自衛権」を「行使」することを認めたものであり、このような条約を政府が締結し、国会が承認したわけである
⇒ 
 
(4)

⇒ 判決は、国際法上の「個別的自衛権と集団的自衛権」にあたる国家の権限の範囲について、明確に述べていない。


⇒ (ここで特に述べることはない。)


⇒ 日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)としての自衛の措置が、2014年7月1日閣議決定の論旨の前提となっている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の範囲内で行われるという制約がかけられていることが論点であり、国際法上の「個別的自衛権」であるか、「集団的自衛権」であるかという問題は、国際司法裁判所など国際機関の管轄であり、日本の裁判所では担当していないと思われる。日本の裁判所で担当できるものは、あくまで日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)としての自衛の措置の範囲がどこまで及ぶかの問題である。それを明確に示した判決は存在せず、現在は1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」がその制約を示した論拠として採用されているのであるから、その権限の範囲でしか行使することはできないのである。

⇒ ここで問題となっているのは、最高裁判決の言う自衛権に含まれているかどうかではなく、2014年7月1日閣議決定の論旨の前提となっている1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」との整合性についてである。9条解釈について、政府が「芦田修正説」などを採用することは可能であるが、「武力行使一般禁止説」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を前提として採用していることによる違憲性が問題となっているのである。最高裁判決の自衛権については、どの範囲のものかを明確に説明したものではなく、合憲論拠として採用できる性質のものではない。



5、今後の課題


⇒ 必要なことは、このリストの合憲論拠の整合性のなさを理解することである。整合性のない論拠をいくら説明しても、合憲性を証明することにはならない。


⇒ 国際法上の集団的自衛権にあたる権限を日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)によって行使する必要性があるならば、それは適正な手続きに則って行うべきものである。2014年7月1日閣議決定の論旨では、適正な手続きを満たしておらず、違憲となるからである。

⇒ 国際法上の集団的自衛権にあたる権限を日本国の統治権(立法権・行政権・司法権)として行使する必要性があるならば、適正な手続きに則って行うべきである。必要性があるからと言って、適正な手続きを侵し、不正を正当化するような結論を導いてはいけない。必要性があるならば、あくまで適正な手続きに則って行うべきである。



⇒ 政府の説明がよく分かっていないのは、政府自身もよく分かっていないことによるものである。そのため、2014年7月1日閣議決定は、手続きの適性を侵し、論旨に不正があり、結論に誤りがあるのである。しっかり説明しても、手続きの適性を侵していることは変わらないのであるから、いつまでも違憲である。

⇒ 2014年7月1日閣議決定の政府解釈の変更についての「説明文」がきわめて分かりにくいことは、その通りである。ただ、従来の1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」との整合性は、存在しない。国際法および憲法、最高裁判決を踏まえた、大局的な普通の解釈を行うと、違憲となる。


⇒ (ここで特に述べることはない。)


 

 

 この合憲性について述べようとしたリストは、存立危機事態での武力の行使を容認した2014年7月1日閣議決定の論旨と同じように、論理が十分につながっていない部分が多い。法分野の切り分けができておらず、憲法と国際法の関係にも混乱が見られる。この点、法解釈として意味が通じず、論理的な理由もないことから、合憲性を裏付ける主張としては不完全なものと言えるだろう。



〇 上記と同様の論点で、正当性を見出すことができない。


【正論】集団的自衛権の行使に問題なし 日本大学教授・百地章 2015.6.16


 まず、9条解釈には、大きく分けて①「武力行使全面禁止説」、②「武力行使一般禁止説」、③「芦田修正説」が存在している。

 ①の「武力行使全面禁止説」については、自国が攻撃を受けて、国民の権利が侵害されているにも関わらず、無抵抗を強要することになることから、憲法が人権保障(特に13条)を実現する法であるという観点から妥当な解釈とは言えない。

 ③の「芦田修正説」についても、この見解は2項で「陸海空軍その他の戦力」を禁じた規定が存在している理由自体を損なうこととなるため、妥当な解釈とは言えない。

 よって、政府も②の「武力行使一般禁止説」を採用しているのである。その解釈の基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解である。この見解は、9条の規定が、自国民の利益や自国の都合を理由に政府が恣意的な判断によって「武力行使」に踏み切ることを禁じた趣旨に従って、「(我が国に対する)外国の武力攻撃」という客観的に明白な基準を設定した点で、規範性を有する極めて妥当な結論を導くものである。

 2014年7月1日の閣議決定は、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」を維持しているとしていることから、この違憲審査基準に反する「武力の行使」の要件を設定することは、政府自身の解釈によって違憲となるのである。

 このことから、2014年7月1日の閣議決定の結論として容認しようとしている「存立危機事態」の要件は、「我が国と密接な関係にある他国に対する」武力攻撃が発生したことに起因して「武力の行使」が可能としようとするものであるから、「(我が国に対する)外国の武力攻撃」を規範として設定している1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」という違憲審査基準によって、違憲となるのである。

 「法的安定性」というのは、無理な解釈によって存立危機事態の要件を許容しようとすることは、法という価値が安定的に通用することによって支えられる社会的価値が損なわれてしまうことを示したものと思われ、妥当な意見であると思われる。

 「『憲法9条の枠を超えるから憲法違反』としたわけではない。」との記載があるが、「憲法の枠」を超えるかどうかを判断する基準こそが、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」である。「氏の違憲論には疑義がある」とのことであるが、上記③「芦田修正説」は、解釈上の妥当性を欠くために採用しないことが妥当であり、行き着くところ、この審査基準を採用することが妥当であり、違憲となるとの判断なのである。


 「集団的自衛権は国際法上の権利であって」との説明は正しい。しかし、「国際法から見て『集団的自衛権は保持するが行使できない』などといった解釈の生ずる余地はない。」との見解は誤りである。

 まず、『権利』と『権力・権能・権限』の違いを理解することである。国際法上の『権利』は有しているが、憲法上の『権力・権能・権限』は、9条によって制約されているのである。

 国際法上の『権利』を有していても、憲法上の『権力・権能・権限』(統治権・国権)は発動できないということである。

 この論者は、国家の統治権が国民主権原理によって正当付けられていることを理解していないために、国際法上の違法性阻却事由の区分である『権利』を基に国家の統治権を基礎づけようとしている点が誤っている。

 「憲法9条1項2項は、どこを見ても集団的自衛権の『保持』はもちろん『行使』も禁止していない。」とあるが、当然である。なぜならば、集団的自衛権は国際法上の『権利』であって、憲法とは法分野が異なり、正当性の法源も異なるからである。

 この論者は、憲法9条が国際法上の違法性阻却事由としての『権利』に対して直接制約しているかどうかが、論点であるかのように語っているが、論点は9条は国家の統治権をどの程度制約しているかである。

 「国際法上全ての主権国家に認められた『固有の権利』(国連憲章51条)である集団的自衛権を、わが国が保有し行使しうることは当然である」とあるが、この『権利』を行使しうることは当然であるが、国家の統治権が制約されていてるかどうかについては、全く別の議論である。

 「私は、憲法に明確な禁止規定がないにもかかわらず集団的自衛権を当然に否認する議論にはくみしない」との記載があるが、憲法9条は国際法上の『権利』を制約することはなく、日本国内の統治権を制約しているわけである。

 「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であるにも関わらず、国連憲章51条に記載があれば、国家の統治権に「集団的自衛権」という名前の『権力・権能・権限』が発生すると考えている点が誤りである。

 「わが国が主権国家として集団的自衛権を行使できることは明らかだ。」との記載があるが、国際法上、我が国が「集団的自衛権」という違法性阻却事由を行使できることは明らかであるが、我が国の統治権は9条で制約されているのである。これは、論者が「集団的自衛権」を国家の統治権の一部であるかのように考えているための混乱である。その後に続く記載も、その前提を誤っているために意味が通じていない。



〇 「権利」と「権限」の違いさえ分かれば、これはまったく妥当な論旨できないことが分かる。


急がれる「安保関連法案」の成立~憲法学者の変節と無責任を問う 2015年08月13日


 「しかし、ごく常識的なことを述べただけだから、それだけ憲法学界が世間の常識とズレている証拠でもあろう。」との記載があるが、憲法学会は常識的であり、論者が常識からズレているのである。

 論者の言う通り、「自衛権」とは、国際法上の『権利』である。刑法の「正当防衛権」という『権利』で例えることも、それなりに誤った見方ではなく、整合性も一致している。
 ただ、その後、論者が国家の統治権の『権限』と、国際法上の『権利』を同一視している点に誤りがある。刑法で言うと、人が自由意思において自らの『行動』を制約していることは、刑法上の『権利』の区分とは関係ないからである。
 9条は、国家の統治権による『国家行為』を制約しており、これは国際法上の『権利』の区分とは何ら関係ないのである。

 「それゆえ、たとえ憲法に明記されていなくても、わが国が国際法上、集団的自衛権を保有し行使できるのは当然である。」との主張は、当然である。『権利』は、国家承認を受け、国連憲章を締結していれば当然に認められるからである。
 しかし、「ところが、集団的自衛権が国際法上の権利であり、米英各国をはじめ世界中の国々が国連憲章に従ってこの権利を行使していることに気付かない憲法学者がいる。」との主張には、勘違いがある。他国が『権利』の行使をしていることに気づいていない憲法学者など存在しない。むしろ、論者が国際法上の『権利』と、各国の憲法によって正当付けられる統治権の『権限』の違いに気づいていないのである。

 「彼らは、必死になって日本国憲法を眺め、どこにも集団的自衛権の規定が見つけられないため、わが国では集団的自衛権の行使など認められない、と憲法解釈の変更に反対する。」との主張があるが、論者が『権利』と『権限』の違いを認識できていないために、憲法学者の論理を正確につかめていないのである。
 まず、国家の統治権は立法権(41条)・行政権(65条)・司法権(76条1項)が根拠である。しかし、9条で制約を受けている範囲については、行使することができない。この制約を解除する例外的な規定が存在すれば、その国家の統治権の行使は正当化されるが、存在しなければ9条の制約に抵触して違憲である。
 この枠組みの中で、国際法上の「個別的自衛権」にあたる部分については、13条の「国民の権利」の趣旨より正当化できるとの論理が成り立つが、「集団的自衛権」にあたる国家の権限については「国民の権利」とは言えず、行政権の範囲として見ることも不可能であり、明らかに9条に抵触する権限となり違憲ということである。
 この理解ができていない論者は、無知をさらけ出していることになる。
 「わざわざ憲法に集団的自衛権を明記している国など、寡聞にして知らない。」とあるが、当然である。「集団的自衛権」は国際法上の『権利』であり、憲法上の『権限』ではないからである。「集団的自衛権」という名前の国家の統治権は存在しないのである。
 
 「領土権も国際法によって認められた主権国家に固有の権利であるから、憲法に規定があろうがなかろうが、当然認められる。」との記載があるが、当然である。これも、国際法上の『権利』であって、国家の『権限』それ自体ではないのである。論者は「権」の意味に含まれる『権利』と『権限』の違いを区別できていないのである。
 「この点、憲法には明文規定がないから、わが国には領土権は認められず、したがってわが国は領空や領海を侵犯する外国機・外国船を排除することなどできない、と主張する憲法学者はいないであろう。」との主張があるが、当然にいないであろう。しかし、論者は国際法上の『権利』を憲法上の『権限』と同一視している点で誤った前提による主張を繰り返しているのである。

 「しかしながら、日本国憲法の憲法9条1、2項をみても、集団的自衛権の行使を『禁止』したり直接『制約』したりする明文の規定は見当たらない。」との記載があるが、当然である。憲法は国際法とは法分野が違うのであるから、国際法上の『権利』に関して、憲法が「禁止」したり「制約」することはないのである。憲法は、国家の統治権の『権限』を制約しているだけである。

 我が国が国際法上、国連憲章に従って集団的自衛権の『権利』を行使できることは当然であるが、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約を受けているため、その部分の「武力の行使」を行うことができないのである。論者が誤解しているのは、やはり『権利』と『権限』を同一視してしまっている点である。

 「奇妙な昭和47(1972)年の政府見解は、国際法および憲法からの論理的な帰結ではなく、あくまで当時の内閣法制局が考え出した制約にすぎない。」との記載があるが、誤りである。憲法と国際法の法分野の違いを押さえ、憲法上の論理的な帰結として解釈された妥当な制約である。

 「『憲法の枠を超える』ことの説明が必要である。」との記載があるが、憲法解釈として「武力行使全面禁止説」や「芦田修正説」よりも妥当な基準である「武力行使一般禁止説」である1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」の枠を超えたならば、「憲法の枠を超える」ことになるのである。この説明が存在しており、「説明はどこにも見当たらない。」との主張は論者が認識できなかったことによるものと思われる。

 「『国家に固有の自衛権があるという議論はさほど説得力があるものではない』などといっている」と批判している点について、国家の統治権の範囲は、その国の構成員が約束事として決めることができるものであり、その権限の範囲は、憲法で定義することができる以上、「個別的自衛権」に当たる権限や「集団的自衛権」にあたる権限でさえ、憲法によって約束事として存在させることも、否定することもできるという意味である。その範囲を決している9条解釈において、「集団的自衛権」にあたる国家の権限が存在せずとも、まったく不自然ではない。


西修

 

〇 国際法上の「権利」と、憲法によって裏付けられる統治権の「権限」の違いを理解していない。

iza【正論】集団的自衛権は違憲といえるか 駒沢大学名誉教授・西修 2015.6.12

【正論】集団的自衛権は違憲といえるか 駒沢大学名誉教授・西修 2015.6.12

 「自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由としての概念であり、国家の統治権による物理的な実力を意味するわけではない。そのため、国際法上、国家の「固有の権利」として『権利』が認められたとしても、国家の統治権が自国の憲法上で制約を受け、「武力の行使」ができない場合が存在しても全く矛盾するものではない。

 「人が生まれながらにしてもっている権利が自然権であるように、国家がその存立のために当然に保有している権利が個別的自衛権であり、集団的自衛権なのである。」とあるが、その人が自身の行動規範によって「人を殴ることはしない」と決めて「非暴力」を貫くことができることは当然、自国の憲法で国家の統治権に制約をかけることは当然に可能である。

 国際法上の『権利』のことを、国家の統治権の『権限』と混同しているのである。

 砂川事件判決についても、自衛権という『権利』が否定されていないことは当然である。しかし、だからと言って、国家の統治権が行使できるかどうかは、まったく別の問題である。

 『権』の意味の読み間違えによって、すべての論旨に混乱が見られる。

 「国際法上、主権国家として当然に認められている集団的自衛権の行使を認めないというのは、日本は主権国家ではないというのか。」との記載があるが、日本国が主権国家として集団的自衛権という『権利』を行使することができることは当然であるが、9条は、この『権利』を制約してるわけではなく、日本国の『統治権』を制約しているのである。よって、日本国は国際法上の主権国家であるし、日本国の統治権の発生に伴う主権(最高独立性)も保持されている。「主権国家ではないのか」との指摘は論者の誤解によるものである。

 「集団的自衛権の行使は、なぜ憲法上、許される必要最小限度を超えるのか。」との記載があるが、集団的自衛権にあたる国家の権限による「武力の行使」については、憲法解釈の1972年(昭和47年)政府見解に示されている通りである。何も、9条が集団的自衛権という『権利』を制約しているわけでも、この1972年(昭和47年)政府見解が集団的自衛権という『権利』を制約しているわけではない。1972年(昭和47年)政府見解は、「いわゆる集団的自衛権」と述べている通り、憲法上の用語ではなく、国際法上の用語であることを確認し、この区分にあたる「武力の行使」は、憲法上容認されない旨を述べているだけである。

 「憲法上、許される必要最小限度の集団的自衛権の行使はありうるのではないか』。そんな根本的疑問に十分に答えないまま、何十年も過ぎてきたのが現状だ。」との記載があるが、その根本的な疑問は、国際法上の『権利』と、憲法上の国家の統治権による『権限』の違いを理解することで、解消することができる。それを理解せずに何十年も疑問を持ち続けているのは、この違いを理解できていない者だけである。

 「政策上の問題である。」との記載もあるが、これは、憲法解釈上の問題であり、法律論である。

 集団的自衛権を合憲、あるいは少なくとも違憲とはいえないという立場をとる憲法学者が、少なからず存在するとの記載もあるが、その者の論旨は上記の点で誤りである。



西修・駒沢大名誉教授「安保関連法案、明白に憲法の許容範囲」 2015.6.20


 「9条で自衛権の行使は認められている。」との主張があるが、誤りである。9条は、自国の統治権を制約している規定であることは確認できるが、国際法上の「自衛権」という違法性阻却事由については何も述べていないからである。

 ただ、「集団的自衛権は個別的自衛権とともに主権国家の持つ固有の権利だ。」との主張は正しい。しかし、これは国際法上認められた『権利』であり、相変わらず9条の下で制約を受けている国家の統治権の『権限』の範囲とは別の問題である。

 「安保関連法案は限定的な集団的自衛権の行使容認であり、明白に憲法の許容範囲だ。」との記載があるが、誤りである。まず、「集団的自衛権」は国際法上の違法性阻却事由であり、その範囲については国際司法裁判所の管轄である。憲法の許容範囲であるかどうかは、自国の統治権に対して9条がどの程度の制約をしているかの問題であるから、「限定的な集団的自衛権の行使容認」などという違法性阻却事由とは関係ない。また、「限定的」であるかどうかは、国際司法裁判所の管轄である。さらに、他国に対する武力攻撃に起因しており、自国が攻撃されていないのであれば、国際法上も「集団的自衛権」であり、「限定的」という区分は国際法上存在しない。

 安保関連法案が、1972年(昭和47年)政府見解の「基本的な論理」から逸脱すれば、直ちに違憲となるわけであり、国際法上の違法性阻却事由の区分を持ち出して論じようというのは、主権国家としての独立性を損なう危険な解釈である。自国の憲法解釈に、他国や国際法の基準によって判断しようというのであるから、自国に対する他国の干渉を許すものだからである。自国の主権を守り通すのであれば、国際法の基準に捉われずに、自国の憲法上で完結する解釈を行うべきものである。


<理解の補強>

西修氏の無敵の憲法論 これだけいえば足りる! 今日から君も立派な右寄り憲法学者 2015/06/30
西修参考人意見「強弁」の無力 2015年6月24日


長尾一紘

 

〇 「権利」と「権力」を区別できておらず、混乱が見られる。


安保法制とこれからの日本 合憲説の立場から考える 長尾一紘/中央大学名誉教授


 【日本の常識は世界の非常識】の項目にて、「個別的自衛権と集団的自衛権は一体のものとされており、これを区別して、集団的自衛権についてその行使を違憲とする議論は、日本だけにみられる特殊な現象だ。」との記載がある。しかし、この議論は二つの点で誤りがある。

 まず、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という区分は、国際法上の違法性阻却事由としての区分である。これは、日本国の統治権の権限として行使される「武力の行使」そのものを意味ししていない。

 次に、日本国の統治権は9条によって制約を受けており、その範囲は1972年(昭和47年)政府見解で定められた範囲である。よって、「集団的自衛権」であるか、「個別的自衛権」であるかという国際法上の区分によって合憲・違憲が判定されるわけではなく、1972年(昭和47年)政府見解で定められた範囲に適合するかどうかが合憲・違憲の判定基準なのである。


 【平和主義は集団的自衛権を必要とする】の項目にて、「集団的自衛権の否定、制限などありうるはずもないのだ。」や「そして、独立国が集団的自衛権をもつことは、国際社会においては常識(国際慣習法)とされている。」との記載がある。この主張についても、国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由を日本国が有していることと、国際法上の「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を国家の権限(統治権)として行使できるかどうかは、別の議論である。

 国際法上の「集団的自衛権」という違法性阻却事由としての『権利』が否定、制限されているわけではないし、独立国が「集団的自衛権」の『権利』を持つことは、国際社会において常識である。しかし、やはり日本国の統治権として、国際法上の「集団的自衛権」にあたる区分の「武力の行使」は、9条解釈である1972年(昭和47年)政府見解によって否定、制限されているわけである。

 この論者は、国際法上の『権利』と、憲法上の国家の『権力・権能・権限』(国権・統治権)を区別できていない点で、誤った認識による主張である。

 
「ある憲法学者のおつむの変遷」  驚愕の長尾一紘教授の集団的自衛権合憲説 2015年6月10日



〇 「権利」と「権限」の違いを学び直すべきである。


安保関連法案は、結局のところ違憲?合憲? 小林節氏(違憲)、長尾一紘氏(合憲)に聞く 2015/06/27


 「判決では『わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく』とある。ここでは自衛権を個別的か集団的かで切り分けて考えてはいない。自衛権を認めるということは、集団的自衛権をも認めることを意味する。この判決は日本国憲法が集団的自衛権を否定するものではないことを示している。」との記載があるが、誤りである。


 まず、「わが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく」との判決文の意味を正しく読み取れていない。「自衛権」とは、国際法上の違法性阻却事由である。これは、国家の統治権に権限を付与する意味を持っていない。そのため、ここで「個別的か集団的かで切り分けて考えてはいない。」との主張は、国際法上の『権利』を有することと、国家の統治権の『権限』の幅が制約されることとを混同した主張であり、意味が通じていない。そのため、「自衛権を認めるということは、集団的自衛権をも認めることを意味する。」との主張も、相変わらず、日本国は国際法上の『権利』を有しているが、集団的自衛権にあたる国家の『権限』が行使できるかどうかは別の問題である。憲法9条は、国連憲章51条の「自衛権」という違法性阻却事由を否定する趣旨のものではなく、国家の統治権を制約するものなのである。


 「また現行の日米安全保障条約には、『両国が国際連合憲章に定める個別的又は集団的自衛の固有の権利を有していることを確認し』とある。」とあるが、相変わらず、『権利』は有しているが、国家の統治権に権限を付与する意味は持っていない。


 さらに、仮に条約によって国家に対して権限が付与される意味を持っていたとしても、論者の砂川判決は条約についても司法審査しうる可能性を認めており、「日米安全保障条約」が憲法に適合しない場合には、違憲となるのである。よって、この条約を根拠に論じようとすることも、無理である。


 

百地章・西修・その他

 

 下記は、上記の論拠と重なるサイトである。

【全文】集団的自衛権「合憲派」の西・百地両教授が会見〜①冒頭発言 2015年06月22日
【全文】集団的自衛権「合憲派」の西・百地両教授が会見〜②質疑応答 2015年06月22日



〇 「権利」と「権限」の違いと「国際法」と「憲法」の優劣とで、二重の誤りが存在する。

「国際法は憲法に勝るが世界の常識 集団的自衛権は憲法違反の大間違い」 2015.07.11


 「国際間の権利で、国際法上の権利です。」との主張は正しい。「国連加盟諸国は全て国際法上、集団的自衛権を有し、行使することができるのです。」の主張も正しい。しかし、国際法上の『権利』を有することと、その『権利』に該当する部分を国家の統治権の『権限』として行使できるかどうかは全く別問題である。よって、日本国は「集団的自衛権」という『権利』を有していても、日本国の統治権の『権限』は9条によって制約されているために、行使できないのである。

 ここで憲法学者「木村草太」の発言について、「若手の憲法学者が日本国憲法のどこにも集団的自衛権があるとは書いていない」と取り上げられているが、「木村草太」の発言は、日本国の統治権として行使できる国際法上の「集団的自衛権」にあたる国家の権限を見つけることができないことを述べているものである。

 ここで、この論者が混乱しているのは、国際法上の「自衛権」という『権利』が、あたかも国家の統治権の『権限』であるかのように勘違いしていることである。また、国際法上の「自衛権」の概念は、国家に統治権の『権限』を付与する意味を持っていない。仮に、「自衛権」が『権利』でなく『権限』であり、国家に統治権を付与する意味を持っていてたとしても、国際法(条約)が憲法に優位することはなく、結局統治権を制約する憲法9条の規定によって制約を受ける。そのため、二重の意味で間違っている。国際法と憲法の関係を知らないからこそ、このような間違った認識を抱いているということになる。憲法学者「木村草太」の発言に誤りはない。

 「国家の領土主権は国際法上の権利であり、わざわざ各国が領土主権を憲法に書かなくても、当然認められる権利だというのだ。」との発言があるが、全くその通りである。憲法に書かれていなくとも、国際法上の領土主権が日本国にあることは当然である。集団的自衛権についても同様である。しかし、ここでもやはり、国際法上の『権利』は当然に有しているのであるが、憲法上で自国の統治権の『権限』を制約していることとは別の問題である。これを混同してしまっている点に、理解の混乱がある。国際法上の領土主権という『権利』を日本国が主張できるのは確かであるが、日本国が自国の憲法で『統治権』を制約しているかどうかは別問題である。

 「ただし、国家は主権を持っていますから、主権を一部制限したり放棄したりすることは、可能です。」との記載があるが、ここで使われている「主権」の意味が『統治権』を意味するのであれば、その通りである。憲法9条は、日本国民の国民主権原理の厳粛な信託によって発生する『統治権』の一部を放棄しているため、行使できない『権限』が存在するのである。その行使できない『権限』の「武力の行使」とは、まさに国際法上の「集団的自衛権」という区分に該当するものであり、憲法上で制約を受けているのである。日本国憲法にその規定は存在するのである。