砂川判決に論拠はあるか



 砂川判決の中に集団的自衛権にあたる「武力の行使」を正当化する論拠があるかを確認する。


 ポイントは、国際法上の『権利(right)』と、憲法上の『権限(power)』の違いを確認しながら読み解くことである。

自衛権 ⇒ 国際法上の『権利(right)』

自衛のための措置 ⇒ 憲法で国民からの信託によって正当化される『権力・権限・権能(power)』




砂川判決(抜粋)

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一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて、憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。

 

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざるを得ない。
 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約六条(a)項但書には「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である。
 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。

 

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである。

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〇 「~~権」という言葉は、『権利(right)』を意味する場合と『権限power)』を意味する場合があるため注意が必要である。

 文中に「わが国が主権国として持つ固有の自衛権
は何ら否定されたものではなく」とあるが、国際法上の『権利(right)』を有するからと言って、日本国の統治権が「武力の行使」を行う『権限(power)』を有するかどうかは別問題である。



〇 下記はアメリカ合衆国の『権利(right)』『権限(power)』である。


軍隊を配備する権利 ⇒ 権利(right)

指揮権、管理権 ⇒ 権限(power) = この意味の中に『権利(right)』の意味が含まれているかもしれないが、少なくともそれを行使する『権限(power)』はアメリカ国民の国民主権によって正当化されるものである。



〇 「措置」という言葉は、『権限power)』に基づくものである。


必要な自衛のための措置 ⇒ 日本国の統治権の行為である

軍事的安全措置 ⇒ 国際連合の機関の権限による行為である


 ここでいう「必要な自衛のための措置」の中に日本国の統治権の権限(power)を行使して行う「武力の行使」が含まれているかどうかについてであるが、文の中に「他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない」との文言や、「同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、」との文言があることから、判断していないと思われる。(後者の「自衛のための戦力の保持」とは芦田修正説であることに注意。政府解釈の「必要最小限度の実力の保持」が許容されるかどうかについても判断していない。)


   【参考】砂川判決 多数説起案の「入江メモ」発見 自衛権の範囲踏み込まず 2018年11月19日
   【参考】砂川最高裁判決と集団的自衛権 「司法が容認」は無理 2018年11月28日
 

 これについて、平成30年版 防衛白書の記載を検討する。

<解説>平和安全法制と憲法の関係について 平成30年版 防衛白書


   (下記も上記と同様の説明が見られる)
   平和安全法制と憲法の関係について 平成28年版 防衛白書 PDF (P212)

   平和安全法制と憲法の関係について 日本の防衛 (P236)

 平成30年版 防衛白書には、砂川判決について「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、我が国が、自衛権を有することに言及した上で、自国の平和と安全を維持し、その存立を全うするために必要な『自衛の措置』を取り得ることを認めたものであると考えられます。」との記載がある。しかし、この砂川判決は「自衛の措置」の中に、日本国の統治権の権限(power)を行使して行う「武力の行使」が含まれているかどうかについては判断していない。


 そのため、この場面で防衛白書が「新三要件の下で認められる「武力の行使」は、砂川事件に関する最高裁判決の範囲内です。」や「憲法の解釈を最終的に確定する機能を有する唯一の機関である最高裁判所の出した砂川判決の範囲内であり、憲法に合致したものです。」
と説明することは誤りであると考える。

 また、「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、我が国が、自衛権を有することに言及した上で、」との記載があるが、個別的自衛権や集団的自衛権とは国際法上の『権利(right)』の区分であり、憲法解釈である9条の制約がいかなる範囲であるかを決する基準とは関係がなく、9条解釈を確定するために用いることはできない。そのため、日本国が国際法上の『権利(right)』を有していることは確かであるが、「個別的自衛権、集団的自衛権の区別をつけずに、」などと記載してあたかも新三要件の「存立危機事態での武力の行使」(集団的自衛権の区分にあたる国家の『権限(power)』による「武力の行使」)を正当化するための主張として用いるかのように誤解を生ませようとする意図の感じられる文面であることには注意が必要である。

 ただ、やはり砂川判決は日本国の統治権の『権限(power)』を行使して行う「武力の行使」が含まれているかどうかについては判断していないため、「砂川判決の範囲内」との評価を下すことは誤りであると考える。


 砂川判決は「個別的自衛権」について述べたものであるとの主張を見ることがある。


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 桐山 そもそも集団的自衛権の問題のとき、政権はいわゆる砂川判決を根拠としました。しかし、この判例は個別的自衛権について述べたもので、集団的自衛権など視野にもありませんでした。憲法学の世界でもそれが常識です。政府見解でも長く「集団的自衛権は憲法上、許されない」と公式に述べています。
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「安保法制」違憲を問う声は 桐山桂一・論説委員が聞く 2018年9月22日

 しかし、「個別的自衛権」とは国際法上の概念であり、日本国の裁判所によってその区分にあたる措置かどうかは判断できないと思われる。また、「個別的自衛権」であろうと「集団的自衛権」であろうと、これは国際法上の『権利(right)』であって、9条が日本国の統治権の『権限(power)』を制約する趣旨とは異なる。この「個別的自衛権」の表現が示すものについて、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合の『武力の行使』」のことを述べているのかもしれないが、砂川判決は日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」が許容されるかどうかについては判断していない。

 ただ、砂川判決の裁判官の補足意見にて9条1項が「不戦条約」と同様の趣旨であることを述べていることから推察し、「不戦条約」の締結当時に国連憲章51条の「集団的自衛権」にあたる自衛権の概念が未だ存在しなかったことから、「不戦条約」の下でも許容されるとする「自衛権」の概念が国連憲章51条の「個別的自衛権」にあたる部分であると解し、9条1項が「我が国に対する武力攻撃が発生」した場合に行われる自衛の措置としての「武力の行使」のみは許容していると考える余地はある。

 この意味は、以前存在していた「国際連盟」が廃止されたように、現在の「国連憲章」が破棄されて「国際連合」の体制が廃止されることを考えれば理解しやすい。国連憲章が廃止されたならば、国連憲章2条4項が定めている「武力不行使原則」は失われ、「個別的自衛権」や「集団的自衛権」という違法性阻却事由の『権利』の区分も存在しなくなるのである。この場合に、9条1項の規定が何を意味しているのかを解すると、「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」にそれを排除するための「武力の行使」については否定していない旨であると考えることができるからである。

   【参考】砂川判決が個別的自衛権を合憲と判断した…が嘘と言える理由 2019.02.12


 「政府見解でも長く『集団的自衛権は憲法上、許されない』と公式に述べています。」との記載があるが、厳密には誤りである。政府見解で「集団的自衛権の行使は憲法上許されない」と述べてきたのは、1972年(昭和47年)政府見解であるが、これは「集団的自衛権」という国際法上の『権利(right)』を許さないとするものではない。「集団的自衛権の行使」、つまり、国際法上の違法性阻却事由である「集団的自衛権」の区分に該当する日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」が憲法上許されないと述べたものである。


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○秋山政府特別補佐人 集団的自衛権と憲法第九条の問題でございますが、お尋ねにございましたように、我が国が主権国家である以上、国際法上は集団的自衛権を有していることは当然でございますが、国家が国際法上、ある権利を有しているとしましても、憲法その他の国内法によりその権利の行使を制限することはあり得ることでございまして、国際法上の義務を国内法において履行しない場合とは異なり、国際法と国内法との間の矛盾抵触の問題が生ずるわけではございませんで、法律論としては特段問題があることではございません。
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159回国会 衆議院 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字は筆者) 

 1972年(昭和47年)政府見解は、9条の制約の意味を「我が国に対する武力攻撃が発生したこと」という要件を満たさない「武力の行使」を違憲であると解釈するものである。結果として、日本国の統治権の『権限(power)』において「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行うことには、この要件を満たさないため不可能との結論に至るのである。

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 お尋ねの集団的自衛権と申しますのは、先ほど述べましたように、我が国に対する武力攻撃が発生していないにもかかわらず外国のために実力を行使するものでありまして、ただいま申し上げました自衛権行使の第一要件、すなわち、我が国に対する武力攻撃が発生したことを満たしていないものでございます。
 したがいまして、従来、集団的自衛権について、自衛のための必要最小限度の範囲を超えるものという説明をしている局面がございますが、それはこの第一要件を満たしていないという趣旨で申し上げているものでございまして、お尋ねのような意味で、数量的な概念として申し上げているものではございません。
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第159回国会 予算委員会 第2号 平成16年1月26日 (下線・太字・色は筆者)

 9条によって日本国の統治権の『権限(power)』による「武力の行使」が制約されていることによって、結果として「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」はその制約を超えるものであるために許されず、行使できないのである。


 注意したいのは、たとえ国際法上の違法性阻却事由である「個別的自衛権」の『権利(right)』として許容される範囲であっても、日本国の統治権の『権限(power)』が9条の制約を超える「武力の行使」を行うことはできないことである。「個別的自衛権」の範囲であれば合憲となるというものではなく、9条の制約の下でも行使できるとする「武力の行使」は、国際法上の評価として「個別的自衛権」の範囲であるとの結論に至るだけである。

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○角田(禮)政府委員 ちょっと別の例で申し上げて恐縮でございますが、いわゆる個別的自衛権、こういうものをわが国が国際法上も持っている、それから憲法の上でも持っているということは、御承認願えると思います。
 ところが、個別的自衛権についても、その行使の態様については、わが国におきましては、たとえば海外派兵はできないとか、それからその行使に当たっても必要最小限度というように、一般的に世界で認められているような、ほかの国が認めているような個別的自衛権の行使の態様よりもずっと狭い範囲に限られておるわけです。そういう意味では、個別的自衛権は持っているけれども、しかし、実際にそれを行使するに当たっては、非常に幅が狭いということを御了解願えると思います。
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第094回国会 法務委員会 第18号 第18号 昭和56年6月3日 (下線は筆者)


   【参考】憲法と自衛権 防衛省・自衛隊 過去のページ (2014年7月1日閣議決定までの解釈)


 砂川判決が認めた「自衛の措置」の範囲を検討する。

(抜粋+要約)
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① わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のこと

② 日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意した

③ それは、(略)国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができる

④ 憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではない

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 ②で、「戦力は保持しない」と述べている段階で、日本国の統治権の『権限(power)』が「戦力」を用いて「武力の行使」をすることは不可能である。ただ、判決中には「二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として」の文言もあることから、「自衛のための戦力」による「武力の行使」については判断していない。


 また、砂川判決は政府見解である「戦力にあたらない自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」の概念にも触れていない。そのため、「戦力にあたらない自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)」による1972年(昭和47年)政府見解による「我が国に対する武力攻撃が発生した場合」の「武力の行使」が許されるかどうかについても述べてはいない。


 これにより、砂川判決が日本国の執る「自衛の措置」として許容した範囲は下記となると考える。

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A 国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等 ← OK
B 他国に安全保障を求めること ← OK

C 戦力にあたらない自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)による「武力の行使」 ← 触れていない

D 戦力にあたらない自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)による「個別的自衛権」にあたる「武力の行使」 ← 触れていない(政府見解は他国の行使できる「個別的自衛権」の範囲よりも狭いと述べている)

E 戦力にあたらない自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)による「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」 ← 触れていない(「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」を行う組織は自衛のための必要最小限度の実力(自衛力)の範囲を超えて「戦力」になるという論点もある。)

F 自衛のための戦力による「武力の行使」 ← 判断していない(判決文中に二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、」の文言がある)

G 侵略戦争のための戦力による「武力の行使」 ← 侵略戦争のための戦力だからダメ
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 AとBは、戦力を保持しないことによって生ずる防衛力の不足を「平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補な」う措置である思われる。砂川判決が許容した日本国の執ることのできる「自衛の措置」とは、「国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等」と「他国に安全保障を求めること」だけであり、その他については「侵略戦争のための戦力の保持」を禁じた以外は判断していないと考える。

   【参考】現在に至るまで、最高裁判所が自衛隊を合憲と判断したことはない 南野森 2014/3/7

   【参考】砂川判決が自衛隊を合憲と判断した…が明らかに嘘と言える理由 2019.02.11
   【参考】「自衛隊合憲は決着」は事実か? 「隊員募集 県の6割が拒否」は本当? 2019/2/11


 「措置」という言葉で注意したいのは下記の部分である。

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そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である

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 この文は、要約すると「安全保障条約の目的…は、…わが国の防衛のための暫定措置として、…わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにある」となる。

 しかし、わが国の防衛のための暫定措置アメリカ合衆国が(略)軍隊を配備する権利を許容する等)」が、日本国の統治権による措置なのか、条約締結国による措置なのか、その両方を含むのかはっきりしていない。ただ、これは日本国の統治権による「武力の行使」ではないことは明らかと思われる。



<理解の補強>


【動画】安保法制採決を前に あらためて「砂川判決」を問う 憲法学者・浦田一郎教授が「違憲」を訴え 2015/09/14

岸内閣が集団的自衛権を容認する答弁をしたというのは本当か? 南野森 2014/3/4

最高裁「砂川判決」と集団的自衛権 浦部法穂 2014年4月10日

第二章 解釈改憲のからくり  その2 ── 憲法前文の平和主義の切り捨て PDF(砂川判決についてはP95~)

砂川事件最高裁判決を根拠とする集団的自衛権の限定容認論を強く 批判し,憲法9条の解釈変更に断固反対する声明 2014年4月28日

砂川事件判決を集団的自衛権の根拠とすることに反対する会長声明 東京弁護士会会長 髙中正彦 2014年05月02日

砂川事件最高裁判決は集団的自衛権の行使が合憲である根拠にはならない。 2015年06月09日

砂川事件で安保法制を、考える難しさ 2015年06月23日

憲法を護るものは誰か―内閣法制局の“黄昏” 笹田栄司 2015年7月21日

[3]日本の憲法原理にとって最悪の敵は安倍政権 長谷部恭男 2015年11月19日

昭和34年12月16日「砂川事件」最高裁判所大法廷判決 ―砂川判決は集団的自衛権を肯定するか― 山岸喜久治 2016年4月28日 PDF

砂川事件再読──砂川事件最高裁判決は集団的自衛権承認と「軌を一」にするか── 中西又三 2016年07月30日 PDF
砂川事件再読──砂川事件最高裁判決は集団的自衛権承認と「軌を一」にするか── 中央大学リポジトリ)

砂川事件最高裁判決によって 集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す 深草徹 PDF

砂川事件最高裁判決によって集団的自衛権の行使が認められるとの俗論を排す

3. 憲法9条は安保条約を予定していない 2019.01.27



補足


 砂川判決中の「裁判官奥野健一、同高橋潔の意見」に書かれた、「自衛権の行使」と「防衛のため武力攻撃を阻止する措置(防衛措置)」を区別すべきことについても検討する。

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 そこで、安保条約が果して憲法九条の精神又はその前文の趣旨に反しないか否かを審査するに、憲法九条一項は「国権の発動たる戦争と武力による威嚇又は武力の行使を国際紛争を解決する手段とする」ことを禁止しているのであつて、その趣旨は不戦条約にいう「国際紛争の解決のために戦争に訴えることを不法とし、国家の政策の手段としての戦争を放棄する」というのと同趣旨に解すべきものであり、かくて、また国連憲章二条四項の趣旨とも合致するものと考える。従つて、憲法九条一項は何らわが国の自衛権の制限・禁止に触れたものではなく、「国の自衛権」は国際法上何れの主権国にも認められた「固有の権利」として当然わが国もこれを保持するものと解すべく、一方、憲法前文の「……われらの安全と生存を保持しようと決意した」とか「……平和のうちに生存する権利を有することを確認する」とかとの宣言によつても明らかなように、憲法はわが国の「生存権」を確認しているのである。然るに、今若しわが国が他国からの武力攻撃を受ける危険があるとしたならば、これに対してわが国の生存権を守るため自衛権の行使として、防衛のため武力攻撃を阻止する措置を採り得ることは当然であり、憲法もこれを禁止していないものと解すべきである。けだし、わが国が武力攻撃を受けた場合でも、自衛権の行使ないし防衛措置を採ることができないとすれば、坐して自滅を待つの外なく、かくの如きは憲法が生存権を確認した趣旨に反すること明らかであるからである。
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(下線・太字は筆者)


〇 国際法の違法性阻却事由としての評価 ⇒ 「自衛権の行使」
〇 憲法によって生み出される統治権による行為 ⇒ 「防衛のため武力攻撃を阻止する措置(防衛措置)」


 国際法上の「固有の権利」として「国の自衛権」を有しているが、日本国の統治権(41条立法権のつくる法律に裏付けられた65条の行政権)による「防衛のため武力攻撃を阻止する措置(防衛措置)」は、憲法9条によって制約を受けた範囲に限られることとなる。ここでも、「防衛のため武力攻撃を阻止する措置(防衛措置)」の中に日本国の統治権の『権限』としての「武力の行使」が含まれるかどうかは述べていない。




 政府の砂川判決に対する認識も確認しておく。

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○高辻政府委員 おわかりいただけるようにお話をいたしますが、前に、御存じだと思いますけれども、毎度お引き合いに出して恐縮でございますが、砂川事件判決というのがございました。これは戦力に関する問題でございますけれども、この駐留米軍がわが国の憲法が否定しておる戦力に当たるかどうか、これが第一点。それからまた、その駐留を許すような安保条約そのものが憲法に違反することにならないかという問題がございました。ちょうどいま仰せになっておる問題として言えば、そういう条約を締結することが憲法上どうかという点で、実は理論的に非常に類似の点があるわけでございます。それにつきましては、確かに一つの争点でございましたが、最高裁判所の判決につきまして、憲法がいう戦力を保持しないという主体は、わが国がこれに管理権、支配権を持つべきものについていうのであって、その他のものについていうわけではない、したがって、駐留米軍が日本に駐留すること、それについての条約を締結すること、それは日本の憲法の九条のらち外の問題であるという判決があったことは御承知のとおりだと思います。その同じ理屈がいま御指摘の問題についても当てはまるものだと私どもは考えております。
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第061回国会 予算委員会 第4号 昭和44年2月5日

砂川判決の統治行為論のベクトル


 「存立危機事態での武力の行使」が司法審査にかけられた際に法的判断が下されるかどうかについて、この砂川判決と同様に「主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するもの」であることを理由に、裁判所は「司法審査権の範囲外」として判断を避けるはずだと考える者もいるようである。


 ただ、この考え方の妥当性を、裁判所が「統治行為論」を用いて法的判断を避けることによりもたらされる効果の「ベクトル」の違いから検討する。


   【砂川判決を審査するベクトル】

 砂川判決の論旨は、「同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。」として、「外国の軍隊」の「駐留」は合憲であるとの前提を置いている。


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 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである。
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 しかし、「安全保障条約」の段階に移ると、「高度の政治性を有するもの」として、内閣と国会の「高度の政治的ないし自由裁量的判断」と関わるとして「一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のもの」して、法的判断を避けた。


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 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、右違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とする。そして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである。
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 上記を簡単にまとめると、下記のようになる。

〇 まず、砂川判決は9条2項の「戦力」とは、我が国が「主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る」ものをいい、「外国の軍隊」はこれに当たらないと述べている。


〇 つまり、法的判断としては『合憲』との前提が一旦示されているのである。


〇 その上で、「外国の軍隊」の駐留が「安全保障条約」に基くことから、「安全保障条約」の違憲審査をしようとするのであるが、「高度の政治的ないし自由裁量的判断」として司法審査権の範囲外とした。(一般に統治行為論という)


 これは、『合憲』ではあるけれども、「外国の軍隊」という性格上、前文の平和主義の理念や9条の精神に適合するか否かについては、内閣や国会の判断、主権を有する国民の政治的批判に委ねられるべきと考えることによって採用される「統治行為論」である。

 つまり、これは司法権によって「合憲である」とのお墨付きを与えることは、かえってその正当化根拠を基にして軍拡を招きかねないことになることから、前文の平和主義の理念や9条の精神からしても慎むべきであるとの判断が働いていると考えられるのである。

 これに対し、「裁判官小谷勝重の意見」は、「違憲審査権は立法行政二権によつてなされる国の重大事項には及ばない、とするもの」は、「わが新憲法が指向する力よりも法の支配による民主的平和的国家の存立理念と、右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命とに甚だしく背馳するものであることは明らかである。」と厳しく批判し、「統治行為論」を採用することは不当であり、裁判所は積極的に違憲審査を行うべきとしている。


 ただ、この事例において裁判所が積極的に法的判断を行うことは、結局「外国の軍隊」を合憲である旨を明確化することになり、「軍隊」に対して積極的に正当性を与える結果を生むことから、前文の平和主義の理念や9条の精神からくる慎みの観点から見ても相当ではないとする判断は妥当と考えられる。 


 この趣旨は、「不戦条約」締結時の考え方とも重なるものである。「不戦条約」は、一見すべての戦争が禁じられているかのように見えるが、「自衛権(当時の認識では国連憲章51条にいう個別的自衛権)」については、暗黙に合法とする旨を理解してつくられているのである。


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●アメリカ合衆国の解釈(米国国際法学会におけるケロッグの講演)
      一九二八年四月二十八日


 「不戦条約の米国草案には、どのような形ででも自衛権を制限しまたは害する何物をも含んではいない。その権利は、すべての主権国家に固有するものであり、すべての条約に暗黙に含まれている。すべての国は、どのような時でも、また条約の規定の如何を問わず、自国領域を攻撃またはは侵入から守る自由をもち、また、事態が自衛のための戦争に訴えることを必要ならしめるか否かを決定する権限を有する。国家が正当な理由を有しているならば、世界は、その国の行動を称賛し非難はしないであろう。しかしながら、この譲り渡すことのできない権利を条約が明示的に認めると、侵略を定義する試みで遭遇するのと同じ困難を生じさせることになる。それは、同一の問題を裏面から解こうとするものである。条約の規定は自衛の自然権に制限を付加することはできないので、条約が自衛の法的概念を規定することは、平和のためにならない。なぜならば、破廉恥な人間が合意された定義に合致するような出来事を形作るのは、極めて容易だからである。」
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ベーシック条約集 2011  編集代表 松井芳郎  東信堂 amazon
ベーシック条約集〈2017年版〉 amazon)


 砂川判決についても、法的判断を行わないという事情の中には「外国の軍隊」の駐留が『合憲』であるという認識が「暗黙に含まれている」と考えられる。しかし、これを『合憲』と明確化することは、その「合意された定義に合致するよう」に「出来事を形作る」ことによって、平和主義の理念や9条の精神を回避することが「極めて容易」となってしまい、結果として「平和のためにならない」事態を生む危険が考えられるのである。そのため、敢えて法的判断を行わないのである。


 ただ、たとえ「不戦条約」において「自衛権」に該当する国家の行為が暗黙に合法であることを理解したとしても、各国が勝手に「自衛権」を名乗って侵略戦争を行うことが合法となるわけではない。条約上、国家の行為が違法と評価される部分が確かに存在していることを忘れてはならない。


 同様に、たとえ平和主義の理念や9条の精神の中においても暗黙に『合憲』と解される部分が存在することを理解しても、それをもって必ずしも司法判断が下されないということを意味するわけではない。国家(統治権)の行為が平和主義の理念や9条に抵触して違憲と評価される部分は確かに存在するのであり、法的判断が行われて違憲と判断されることもあり得るのである。


   【存立危機事態での「武力の行使」を審査するベクトル】

 「砂川判決のベクトル」に対して、「存立危機事態での武力の行使」が可能であるかを司法審査する場合には、どのような「ベクトル」が考えられるか検討する。


〇 まず、「存立危機事態での武力の行使」を行う組織は、我が国が「主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る」組織であることから、必然的に9条2項の「戦力」に該当するか否かが問われることになる。

〇 つまり、法的判断としては9条に抵触する『違憲の疑い』から入らざるを得ないのである。

〇 その上で、自衛隊法76条1項2号の「存立危機事態」の要件が司法審査されることになるが、たとえ「高度の政治性ないし自由裁量的判断」を考えようにも、「違憲の疑い」がある以上、司法審査権の範囲外とすることは、「法の支配」の実現を妨げる結果を生むことに繋がる。また、司法審査権の範囲外とする判決を下すことは、結局9条の規定が法規範として存在している意義そのものを損ない、前文の平和主義の理念を無にすることとなる。


 砂川判決での「合憲」という前提から来る司法審査権の範囲外とする判決の効果と、存立危機事態での「武力の行使」での「違憲の疑い」から来る司法審査権の範囲外とする判決の効果では、「法の支配」や前文の平和主義の理念、9条の精神を実現しようとする法という営みそのものに対して与える意図のベクトルが異なるのである。


 存立危機事態での「武力の行使」の事例では、先ほど妥当性を否定した「裁判官小谷勝重の意見」の、「違憲審査権は立法行政二権によつてなされる国の重大事項には及ばない、とするもの」は、「わが新憲法が指向する力よりも法の支配による民主的平和的国家の存立理念と、右法の支配の実現を憲法より信託された裁判所の使命とに甚だしく背馳するものであることは明らかである。」との厳しい批判が効いてくることとなる。

 これは、この事例で「統治行為論」を採用して法的判断を避けることは、まさしく「法の支配」や前文の平和主義の理念、9条の精神を実現しようとする法という営みそのものを損ねる結果を生むからである。

司法判断の効果のベクトル

事例
砂川判決 安保法制
対象 外国軍隊の駐留 存立危機事態での「武力の行使 」
条文 日米安全保障条約 自衛隊法76条1項2号での88条
9条への抵触の判断

我が国が主体となって指揮権、

管理権を行使し得る戦力ではない

我が国が主体となって指揮権、

管理権を行使する組織の活動である

前提 合憲 違憲の疑い

法的判断をしなかった場

合の効果(統治行為論)

【判決】

国民の政治的批判に委ねることで

平和主義と9条の精神の実現を目指す

「武力の行使」に法的判断が及ば

ないことになり「法の支配」や

平和主義、9条の精神が損なわれる

法的判断をした場合の

効果

外国軍隊を正当化することになり

平和主義と9条の精神が損なわれる

「法の支配」が実現されると同時に

平和主義と9条の精神が実現される

 

〇 砂川判決は、「統治行為論」を採用して法的判断をしなかったが、この事例では前提が『合憲』であるから、「平和主義」と9条の精神の実現を目指す観点からは妥当である。


〇 存立危機事態での「武力の行使」について、もし砂川判決と同様に「統治行為論」を採用して法的判断をしなかった場合、日本国の統治権の行為であっても、「武力の行使」については法的判断が及ばないことが明らかとなってしまう。これは、「法の支配」だけでなく、憲法の「平和主義」の理念と9条の精神が同時に損なわれる結果を生む。この事例を法的判断をするか否かは、砂川判決の効果とは異なるベクトルを持つものであるから、法的判断を行うことが憲法の理念、精神、法という営みを実現していくことにより近いものとなると考えられる。


   【憲法改正と改正限界説を考慮するべきかの論点】

 もし日本国の統治権の『権限』が「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」や「存立危機事態での武力の行使」を行いたい場合には、9条の改正によって成し遂げるべきものであって、憲法に違反する「法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部(98条)」が行われているにも関わらず、裁判所が統治行為論などを採用して憲法判断を回避し、違憲・違法を黙認することが許容されると考えることは妥当でない。


 9条には改正限界説も存在しているが、改正が困難、あるいは不可能であることを理由として立法府と行政府による違憲・違法な国家行為が許されると考えることは、国家行為を適正な手続きに則らせることで国民主権に基づく正当な権力を生み出すプロセスそのものを否定することとなる。

 

 たとえ9条が改正限界説により改正の不可能な規定であり、効力が存在し続けるとしても、現実の権力行使の中においては正当性を有しない違憲・違法な国家行為としての「武力の行使」が行われる可能性そのものが排除されるわけではない。

 法の精神からは望ましい形とは言えないが、事後に法によって処罰を受け、損害賠償の責任を負うこととなる中において「武力の行使」が行われることは起こり得る。

 このことは、「集団的自衛権」にあたる「武力の行使」や「存立危機事態での武力の行使」を実施する規定が定められている場合においても同様である。

 9条が存在する限りにおいては、閣議決定や法律によって「存立危機事態での武力の行使」の規定を定めたとしても、それを理由として9条の効力が否定され、違憲・違法な国家行為が合憲・合法に変わるわけではないのである。


 9条によって違憲・違法となる国家行為を行えば、責任者は法によって処罰され、損害賠償の責任を負うこととなる。

 9条の規定を有する限りは、国家行為を適正な手続きに則らせることで国民主権に基づく正当な権力を生み出すプロセスに拘束されるのであり、それを逸脱する国家行為に対する情状酌量の余地は、法による処罰や損害賠償の算定の段階で行われるべきものである。


 これにより、9条に改正限界説が存在するからといって、直ちに9条の規定の実現可能性や不当性などが問われる問題であることを理由として、裁判所が9条への抵触の有無に対して法的判断を行わないとの結論を採用することは相当とは思われない。


   【刑罰と国家賠償との関係】

 さらに、「我が国が主体となって指揮権、管理権を行使する」「武力の行使」や「実力組織」であるにも関わらず、統治行為論によって法的判断を行わないということになれば、国会によって「侵略戦争開始の議決」が行われたり、「侵略戦争のための戦力の保有に関する法律」、「戦争遂行と占領地での統治権の行使に関する法律」などを立法した際に、裁判所によって違憲判断を行うことができなくなる。

 また、この影響により立法した国会議員やそれらの権限を行使した内閣以下の行政府職員に対して刑罰や国家賠償の責任を負わせることができないこととなってしまう。


 そうなれば、9条が定められているにもかかわらず、それらの行為を法によって防ぐことができないこととなるのであって、無制限の侵略戦争をも可能としてしまうことに繋がる。


 これらのことより、裁判所が統治行為論を採用して憲法判断を回避することは妥当とは思われない。

 

砂川判決の要約


 判決文は一文が長すぎる。その影響で意味を読み取れなくなってしまうため、白色で潰して要約する。かなり読みやすくなったのではないだろうか。

 
(抜粋)

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一、先ず憲法九条二項前段の規定の意義につき判断する。そもそも憲法九条は、わが国が敗戦の結果、ポツダム宣言を受諾したことに伴い、日本国民が過去におけるわが国の誤つて犯すに至つた軍国主義的行動を反省し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないようにすることを決意し、深く恒久の平和を念願して制定したものであつて、前文および九八条二項の国際協調の精神と相まつて、わが憲法の特色である平和主義を具体化した規定である。すなわち、九条一項においては「日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求」することを宣言し、また「国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する」と規定し、さらに同条二項においては、「前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力はこれを保持しない。国の交戦権は、これを認めない」と規定した。かくのごとく、同条は、同条にいわゆる戦争を放棄し、いわゆる戦力の保持を禁止しているのであるが、しかしもちろんこれによりわが国が主権国として持つ固有の自衛権は何ら否定されたものではなく、わが憲法の平和主義は決して無防備、無抵抗を定めたものではないのである。憲法前文にも明らかなように、われら日本国民は、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようとつとめている国際社会において、名誉ある地位を占めることを願い、全世界の国民と共にひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認するのである。しからば、わが国が、自国の平和と安全を維持しその存立を全うするために必要な自衛のための措置をとりうることは、国家固有の権能の行使として当然のことといわなければならない。すなわち、われら日本国民は、憲法九条二項により、同条項にいわゆる戦力は保持しないけれども、これによつて生ずるわが国の防衛力の不足は、これを憲法前文にいわゆる平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼することによつて補ない、もつてわれらの安全と生存を保持しようと決意したのである。そしてそれは、必ずしも原判決のいうように、国際連合の機関である安全保障理事会等の執る軍事的安全措置等に限定されたものではなく、わが国の平和と安全を維持するための安全保障であれば、その目的を達するにふさわしい方式又は手段である限り、国際情勢の実情に即応して適当と認められるものを選ぶことができることはもとよりであつて憲法九条は、わが国がその平和と安全を維持するために他国に安全保障を求めることを、何ら禁ずるものではないのである。
 そこで、右のような憲法九条の趣旨に即して同条二項の法意を考えてみるに、同条項において戦力の不保持を規定したのは、わが国がいわゆる戦力を保持し、自らその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使することにより、同条一項において永久に放棄することを定めたいわゆる侵略戦争を引き起こすがごときことのないようにするためであると解するを相当とする。従つて同条二項がいわゆる自衛のための戦力の保持をも禁じたものであるか否かは別として、同条項がその保持を禁止した戦力とは、わが国がその主体となつてこれに指揮権、管理権を行使し得る戦力をいうものであり、結局わが国自体の戦力を指し、外国の軍隊は、たとえそれがわが国に駐留するとしても、ここにいう戦力には該当しないと解すべきである

 

二、次に、アメリカ合衆国軍隊の駐留が憲法九条、九八条二項および前文の趣旨に反するかどうかであるが、その判断には、右駐留が本件日米安全保障条約に基くものである関係上、結局右条約の内容が憲法の前記条章に反するかどうかの判断が前提とならざを得ない
 しかるに、右安全保障条約は、日本国との平和条約(昭和二七年四月二八日条約五号)と同日に締結せられた、これと密接不可分の関係にある条約である。すなわち、平和条約六条(a)項但書に「この規定は、一又は二以上の連合国を一方とし、日本国を他方として双方の間に締結された若しくは締結される二国間若しくは多数国間の協定に基く、又はその結果としての外国軍隊の日本国の領域における駐とん又は駐留を妨げるものではない。」とあつて、日本国の領域における外国軍隊の駐留を認めており、本件安全保障条約は、右規定によつて認められた外国軍隊であるアメリカ合衆国軍隊の駐留に関して、日米間に締結せられた条約であり、平和条約の右条項は、当時の国際連合加盟国六〇箇国中四〇数箇国の多数国家がこれに賛成調印している。そして、右安全保障条約の目的とするところは、その前文によれば、平和条約の発効時において、わが国固有の自衛権を行使する有効な手段を持たない実状に鑑み、無責任な軍国主義の危険に対処する必要上、平和条約がわが国に主権国として集団的安全保障取極を締結する権利を有することを承認し、さらに、国際連合憲章がすべての国が個別的および集団的自衛の固有の権利を有することを承認しているのに基き、わが国の防衛のための暫定措置として、武力攻撃を阻止するため、わが国はアメリカ合衆国がわが国内およびその附近にその軍隊を配備する権利を許容する等、わが国の安全と防衛を確保するに必要な事項を定めるにあることは明瞭である。それ故、右安全保障条約は、その内容において、主権国としてのわが国の平和と安全、ひいてはわが国存立の基礎に極めて重大な関係を有するものというべきであるが、また、その成立に当つては、時の内閣は憲法の条章に基き、米国と数次に亘る交渉の末、わが国の重大政策として適式に締結し、その後、それが憲法に適合するか否かの討議をも含めて衆参両院において慎重に審議せられた上、適法妥当なものとして国会の承認を経たものであることも公知の事実である
 ところで、本件安全保障条約は、前述のごとく、主権国としてのわが国の存立の基礎に極めて重大な関係をもつ高度の政治性を有するものというべきであつて、その内容が違憲なりや否やの法的判断は、その条約を締結した内閣およびこれを承認した国会の高度の政治的ないし自由裁量的判断と表裏をなす点がすくなくない。それ故、違憲なりや否やの法的判断は、純司法的機能をその使命とする司法裁判所の審査には、原則としてなじまない性質のものであり、従つて、一見極めて明白に違憲無効であると認められない限りは、裁判所の司法審査権の範囲外のものであつて、それは第一次的には、右条約の締結権を有する内閣およびこれに対して承認権を有する国会の判断に従うべく、終局的には、主権を有する国民の政治的批判に委ねらるべきものであると解するを相当とするそして、このことは、本件安全保障条約またはこれに基く政府の行為の違憲なりや否やが、本件のように前提問題となつている場合であると否とにかかわらないのである

 

三、よつて、進んで本件アメリカ合衆国軍隊の駐留に関する安全保障条約およびその三条に基く行政協定の規定の示すところをみると、右駐留軍隊は外国軍隊であつて、わが国自体の戦力でないことはもちろん、これに対する指揮権、管理権は、すべてアメリカ合衆国に存し、わが国がその主体となつてあだかも自国の軍隊に対すると同様の指揮権、管理権を有するものでないことが明らかである。またこの軍隊は、前述のような同条約の前文に示された趣旨において駐留するものであり、同条約一条の示すように極東における国際の平和と安全の維持に寄与し、ならびに一または二以上の外部の国による教唆または干渉によつて引き起されたわが国における大規模の内乱および騒じようを鎮圧するため、わが国政府の明示の要請に応じて与えられる援助を含めて、外部からの武力攻撃に対する日本国の安全に寄与するために使用することとなつており、その目的は、専らわが国およびわが国を含めた極東の平和と安全を維持し、再び戦争の惨禍が起らないようにすることに存し、わが国がその駐留を許容したのは、わが国の防衛力の不足を、平和を愛好する諸国民の公正と信義に信頼して補なおうとしたものに外ならないことが窺えるのである

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