段階的改憲論

護憲派が護憲したい法の本質とは


 護憲派が護憲したい本質的な法の精神とは何かという部分を徹底的に解明することが必要だ。その解明の上で、新しい憲法案をつくり出していくべきだろう。すると、当然に現憲法典よりも良質な憲法をつくり出すことができるはずである。護憲派であっても、そのやり方ならば積極的な姿勢を持ってもいいのではないだろうか。


 現在の政治状況を見ると、以下のような問題が感じられる。


〇 改憲派は、法の精神を十分に理解しないまま乱暴な改憲案を提案しているように見える。
〇 護憲派は、法の精神の根本を十分に説明できるほどには理解しておらず、守るべき法の本質を明らかにできていないように見える。

 

 護憲派は改憲派の法の精神に対する理解不足を感じ取っていると思うが、それを十分に説明する力がないために「漠然的護憲」とのレッテルを貼られて軽蔑されているように思う。ただ、確かに理解不足な改憲が強行されるよりも、現状維持の方が安全であるとの判断も理解はできる。今より悪くなることはないからである。しかし、それは努力不足を指摘されることにもなりうる。確かに現在の主要な改憲勢力は、人類が積み重ねてきた法の精神に対する学術的理解が十分でない面が見受けられる。これは勉強不足であると思う。ただ、護憲派も改憲派の動きに合わせて、護憲したい法の本質とは何かということについてより深い理解を会得し、それを明らかにしていく努力は当然に必要だろう。もっとも危惧されるのは、護憲派も改憲派も、勉強不足なことである。憲法を取り扱う上で、これが一番危険だ。



 保守的な改憲派は、戦後にGHQの下でつくられた押し付け憲法論であるという憲法観から改憲の意欲が始まっているように見える。しかし、だからと言って近代的な立憲主義を基にしていない憲法観になってしまうのはやはり勉強不足であると言えるのではないだろうか。日本の歴史しか知らないためにそのような狭い視野になるのだと考えられる。憲法改正を訴えるならば、日本の歴史だけでなく、人権保障を実現しようとしてつくり出された憲法全般の歴史を知るべきである。

 だが、平和主義を守ろうとして完全な戦力放棄を訴える護憲派も視野が狭いと考える。さすがに正当防衛の権利は持つべきだろう。それを自衛権と呼ぶかは分からないが、人権を侵害される脅威があるならば、それを守る権利を持っているのが人権思想である。それを完全に放棄することはそもそも人権保障を実現するためにつくられた憲法の精神に合致しない。犯罪者の脅威は正当防衛で身を守るが、それが他国になった途端に自らの身をその者に委ねるというのは、人権の放棄そのものである。現行憲法では人権の性質を、「侵すことのできない永久の権利」であるとして、人権の放棄を許していないのである。「自衛隊」という組織であるかどうかは限定されていないが、正当防衛の最小限度の実力としての組織の保有は認められると考えるのが妥当ではないだろうか。ただ、組織名を憲法中に書き込む必要はない。

 

 さらに、憲法問題について、改憲派・護憲派の対立は上記のような狭い視野の人々の対立であると捉えてしまう者もやはり視野が狭いと考えられる。憲法改正問題に含まれる論点は、そんな表面的なもので終わるようなものではないからである。「人権」という概念が実はもともと存在しておらず、ある一定のレベルの認識へと達した人の手によって、その概念そのものが維持され、運用されているという背景を知らないのである。人権とは、その社会の中で宣言的につくられた合意の産物であり、その合意さえも失われるような「人権の根拠が変更されるような改憲」が行われてしまった場合には、法秩序そのものが破壊されるような事態になりうるのである。その事態に対して危機感がないのは、人権という合意の産物が失われた際に、いかに強者に怯えた生活を強いられたり、権力の思いのままに乱暴な扱いを受けたりするなどのあまりの恐ろしい事態に想像が及んでいないのである。

 

 もし、人権という合意が失われてしまったならば、私たちも強者や権力を持った何者かによって、人間扱いされなくなってしまう恐れがあるのである。私たち人間は、鳥も食べるし、牛も豚も羊も食べる。馬も食べるし、クジラも魚も食べる。当然、殺して食べるのである。虫は殺虫剤で殺すこともあるし、カエルは生きたまま解剖の実験に使われることもあるし、マウスは様々な実験に使われて処理されている。人権がなく、人間扱いされないというのは、そのような形で人間さえも人体実験に使われたり、簡単に殺されたりしてしまうことである。歴史上では、そういったことは当然にずっと行われてきたのである。

 

 憲法の条文変更によって起きうるリスクというのは、こういった「現代ではまさかあり得ないだろう」という事態にまで影響を及ぼし得る問題なのである。今後、どんな改憲項目が議論されたとしても、この「人権という概念の質」自体を守り抜くことは絶対に必要なのである。なぜここまでして力説しなくてはならないかというと、人権の根拠を十分に理解しないままに、この「まさか」のレベルの憲法観を持った改憲勢力が存在するからである。改憲勢力の一部は、そういった大前提の基礎の基礎を通らずに、今ある「人権」というものがもともとあるものであるかのように勘違いした認識の下で改憲案をつくってしまったように見えるのである。


 今後、「失われてはじめて気づく」という『勘違い改憲』を行ってしまうことがないように、非常に鋭い眼差しで注視していく必要があるのである。

 

「段階的改憲」を提案する


 改憲派も護憲派も全く同意できる内容から段階的に改憲を進めていくことがもっとも抵抗感が少なく、かつ熟考しながら時間をかけて改憲していくことが可能となるはずだ。


 そこで、段階的な改憲を提案したい。国民投票は、衆議院・参議院選挙の時に、毎回少しずつ行っていけばいい。その初歩的で全く問題のなさそうなところから進めていけばいいのである。それらを、下記に提案する。

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① 現行憲法の『歴史的仮名遣い』を現代的仮名遣いに修正する。

 「堪へ」→「堪え」、「負ふ」→「負う」などという、文字の現代化である。これは、護憲派も改憲派も全く問題なく改憲に賛同できるはずである。ここからゆっくりやればいいのである。



② 「第11章 補則」の規定を章から「附則規定」に降格させる。

 第11章は現在使われていない条文なので、憲法を学ぶ際にも体系から見て違和感がある。そのため、「憲法の附則規定」に降格させるのが妥当であると考える。これは一般の民法や刑法などあらゆる法で採用されている基礎的な形式であり、憲法だけ附則規定が「補則」として章に配置されているのは法体系のアクセシビリティ(見やすさ、使いやすさ、分かりやすさ)を低くしている。憲法を学ぼうとする国民や学習者にこのような混乱を与えてしまうことがないようにしていくと良いと考える。

 


③ 章の配置順序を変更する。

 ◎まずは、現在第10章の「最高法規」の章を一番最初の「第1章」に配置する。

 ◎次に、天皇を三権の前に持ってくる。すなわち、「国民の権利及び義務」の後、「国会」の章の前である。

 (「天皇」の章を第1章に維持したいと主張する保守的護憲派が生まれてくるものと考えられる。ただ、天皇の章が第1章から配置が変わっても、その性質や役割はまったく変わらず、その権威が失われるものではないと考える。)

 ◎最後に、「改正」の章を第2章の「戦争の放棄」の章の後に持ってくる。

 

 すると、【憲法総則】【人権規定】【統治規定】の順に配置され、憲法典の体系が見やすく整理される。これで、現行憲法の学習を困難にしている体系的な把握のしづらさを解消することができ、国民の多くにも広く理解され受け入れられるものとなるはずである。



④ 人権保障に関係ない条文の改憲を議論していく。

 刑事訴訟関連規定群など、一つの条文にまとめることで憲法が読みやすく分かりやすくなりそうな条文を整理する。アクセシビリティを高める。この際、国民的な議論がなく、人権保障に全くと言っていいほど関連しないものを選ぶ。




⑤ 議論の多い条文の改正案を議論し、条文改憲を提案していく。

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 このように改憲は憲法を"分かりやすく"することから始めるとよいのではないかと考える。そうすることで、国民の憲法や法の本質に対する理解を徐々に促進していくことができると考える。国民の感じやすい「法」というものへの抵抗感を軽減し、理解を妨げている要因を取り除いていくのである。すると、国民にとって法の本質を解するための議論に参加するハードルが下がるはずである。無用な疲労感も軽減されるだろう。

 そこからがやっと、国民の大多数が議論へ参加できる憲法の条文の議論に移れるのではないかと考える。この分かりやすさは、各条文の改正に向けた真の国民的な議論が活発に行われるようにする効果があると考える。そうした上で、すべての国民に受け入れられるような形で新しい憲法をつくり出していくことが、良質な憲法となると考える。