憲法のコンセプト


〇 次の世代の人たちに、「この憲法でよかったな」と思ってもらえるようなものにした方がいいのではないだろうか。それは、あまり劣等感から生まれたようなモチベーションでかっこよくしようとしすぎたりするものではなく、一人ひとりを大切に大切に扱い、その者たちを守り通そうとするような意志を感じられるようにした方がいいのではないだろうか。そのような意志を感じられる姿の憲法にすることが、後々、とても気持ちがいいものになると考えられる。


 そこに到達するまでには、いろいろ越えなくてはいけない精神的な段階があると思われる。それを一つ一つ丁寧に超えていき、すべての人が穏やかに円満に納得するところまでしっかりと調整していくべきであると思われる。その上で憲法をより良いものへとつくり上げていくことが、次の世代にも「この憲法でよかったな」と思ってもらえるような形になると思われる。

 

〇 憲法に込められた意図の深さと知性の総体に快感を覚えるほどに洗練された憲法につくり上げていくことが憲法の魅力や求心力をつくり上げていくうえで大切ではないだろうか。その域まで極めきるような改憲案を提示することが大切ではないだろうか。改憲したいという気持ちだけが先走り、誰が見ても、どこから見ても美しいと言えるような憲法を創造していく意志が十分に固まっていない段階での改憲は問題だろう。少なくとも法的な整合性が保たれていないレベルの改憲となってしまうことがないようにしていくべきであると思われる。

 
〇 憲法改正を行うにしても、法の体系化を常に心がけなくてはならないだろう。全体を見渡した上での改正でなくしては、部分部分の改正によって全体の整合性が損なわれてしまうからである。


〇 改憲を試みる者は、憲法中の全条文を解体し、再構成した場合に、憲法の体系がいかなる形になるかまで見渡しておく必要があるだろう。その視野がなければ、憲法を体系的に整備していくことができないからである。全条文、可能であるならばすべての文節を分解し、ゼロから再構成したときにどのような体系が望ましいのか、どのような文法が望ましいのか、どのような内容が望ましいのか、自らの力で生み出すことができるようになるべきだろう。そのようなゼロから構成していく力がなければ、改憲は質が低く、雑で荒いものとなる。そうなると、法自体の魅力を失わせてしまうために、法それ自体の求心力が低下し、人々に法の支配を普及させる力が失われ、法の実効性を弱めてしまうことに繋がるだろう。それはつまり、人々の人権保障の質が下がり、暴力による支配をはびこらせる原因となるのである。改憲の質の高さを確保することが大切である。


〇 憲法の源流にあるものをどこに置くかで、憲法観が変わってくる。物事の奥底に流れる哲学、源流にたどり着く一貫した精神から発せられる美しい憲法改正が求められるはずである。表面上のシンプルさに惑わされ、偽物を掴まされるようなことがあってはならないはずである。そのような、まがい物の改憲案であるならば、後々、国民にも国家にも損失を与えることとなる。


〇 一流の改憲案を提示するべきである。改憲案にも、法の本質をどれだけ見抜いているかという精神が現れる。企業のつくるブランド物でも、武道家の演武においても、音楽家のコンサートにおいても、生け花の芸術においても、建築家の建築においても、食品の味においても、その内側に流れる作り手の理解の程度や精神性が現れる。改憲案においても同じである。思いつきや不勉強な者のつくる改憲案は、質の悪さ、整合性の乱れ、運用上の不都合などが次々に現れる。その練度の程度がたちまち現れるのである。改憲案をつくるなら、まずは「違いの分かる人」になるべきである。単に自分の気持ちだけで「~とはなりません。」などと言い張って、案を押し通そうとするような鈍感な理解ではダメである。完成させてしまった法は、その文言解釈のみにより、立法者の意図を越えることはよくあることである。というより、基本的には文言解釈がベースとなるのであるから、立法者の意図がどうであったかはほとんど考慮されないのである。そのため、法の文言をつくり出す際は、立法者の意図よりも、文言一つ一つの内容に注意を向けるべきなのである。


〇 憲法の中に含まれたより高い次元にある秩序を捉えることだ。そこから導かれた法の秩序は美しい。法の内側にあるより高次の精神を解することだ。

〇 憲法価値をより高い普遍性でもって維持することが大切である。その完成度が、人権の質を保ち続ける力を支えるからである。近代立憲主義の理念を、より高い普遍性のある形で表現しようとする意志を大切にして考えていくべきだろう。


〇 法本来の美しさを、整理された形で憲法体系に表現していく必要があるだろう。



〇 憲法とは、数学で言う「公式(方程式)」に過ぎないものである。もともと、その「公式(方程式)」に行き着くまでのプロセスがあったはずである。原始的な要素を組み合わせ、その「公式(方程式)」に至るまでの、過程となっている部分があるはずなのである。


 憲法とは、その社会を構成する人々にとっての、現段階での「公式(方程式)」に過ぎない。改憲を試みるならば、その「公式(方程式)」に至るまでの過程となっている論文を読み直し、その妥当性を検証し、さらに質の良い「公式(方程式)」を創造していく姿勢が大切である。


 しかし、その過程を省略し、「公式(方程式)」の本質を読み間違え、使い方を誤っている議論が多すぎる。


 「公式(方程式)」に頼らない数学の原始的な姿を理解しなくては、数の概念が宇宙に広がる柔軟で豊かな世界を見渡し、そこからさらに高度で根本的な法則を見つけ出し、新たな「公式(方程式)」を創造していくことは不可能である。


 同じように、憲法の「条文」の文言に頼らない法の原始的な姿を理解しなくては、法の概念が宇宙に広がる柔軟で豊かな世界を見渡し、そこからさらに高度で根本的な法則を見つけ出し、新たな「条文」へと落とし込んでいくことは不可能である。


 その過程を省略すると、短絡的で陳腐、普遍性や包括性の低い、整合性や一貫性のない、汚く質の低い憲法にしかならない。


 本来的な法の美しさ、法という芸術、憲法の美学。それらを捉えた上での、「美しい憲法」を創造していく必要があるだろう。



〇 規定と規定の間にある、未だ確立されていない無秩序な世界に、予測可能性や法的安定性、論理的整合性、体系的整合性、一般化可能性、法の信頼性、理論的妥当性、倫理的妥当性などの整った、美しい規範を見つけ出していくことだ。そこに法が見出される。そこに法の支配が実現される。その美しい規則性を、確立していくことだ。


〇 <法はオーケストラ>

音楽は「楽器」にのみあるわけではない。
音楽は「演奏者」にのみあるわけではない。
音楽は「指揮者」にのみあるわけではない。
音楽は「作曲家」にのみあるわけではない。


「楽器」には、その形をつくり出し、木材や金属を加工した職人がいる。
木材や金属を森や鉱山から取ってきた労働者がいる。


「演奏者」には、音楽について学んできた過程がある。
そして、学びに使った教科書をつくった人や教師、教材の演奏者がいる。


「指揮者」には、あらゆる楽器の特性や音の調和を理解する経験がある。
表現したいものを「演奏者」から引き出す人間関係がある。


「作曲家」には、音に込めた意図や、聞き手に対する思いやり、そこに至った人生がある。


いや、音楽はそれだけではない。
会場を用意する「運営者」の配慮や、「舞台や客席を設計した者」の音響への理解がある。

「集まる聞き手」の関心や、気持ち、今まで触れてきた物事の世界観がある。
「その会場に集まる全ての人」の、同じ時代の同じ時期、同じタイミングで同じ場所で時間を共有するその時の空気感がある。

音楽は、その日の天気や湿度、それぞれの人の気分や体調にも左右される。


しかし、そもそも音とは、振動ではないのか。
「演奏者」が、楽器に振動を与えているだけではないのか。
それが、空気を震わせ、我々の耳や身体を通して、内耳の聴覚神経細胞を震わせているだけではないのか。

その神経細胞が電気信号や神経伝達物質を通り、音の刺激として脳内のいくつかの部位で捉えられ、それらの全体の響きが物質とは次元の異なるクオリアという感覚に形成されているだけではないのか。


いや、そう考えると、その音をつくり出した「演奏者」、その演奏者を指揮している「指揮者」、その曲を作った「作曲家」、演奏者や指揮者、作曲家を育てた教材をつくった「教員」や「先人たち」、その演奏者の楽器をつくり出した「職人」、その職人に材料を渡した森や鉱山の「労働者」、会場をつくる「運営者」や「建築家」。
彼らの生きる中にある意識の感覚、クオリアの感覚が、聞き手に対して美しい響きをもたらそうとする意志から発せられているのではないか。

その意志が、我々に音楽の感動を与えているのではないだろう。

人と人、生命体と生命体のクオリアが、形を生み出した楽器という物質や空気を通して、心地よい交流をしているのではないか。

そのようにして、生命体同士は、同じ地球の上、同じ生命圏で、共生的に生きているのではないか。
遡って突き詰めていくと、この太陽系、この銀河系、この宇宙、この宇宙を生み出したビッグバンから、音楽は生み出されているのではないか。


法も同じようなものだろう。

法は、「法の条文」のみにあるわけではない。
法は、「憲法制定権力者」のみにあるわけではない。
法は、「憲法改正権力者」のみにあるわけではない。

法は、「現在の国民」のみにあるわけではない。

法は、「将来の国民」のみにあるわけではない。

法は、「一定の価値観の者」のみにあるわけではない。


多様な認識、多様な段階、多様な経験、多様な人生があって、その意志によって法の全体は成り立っている。

歴史や地域性、その時代、その社会を構成している人々、考え方の拠り所を同じくしている者たちの層、それを指導している人などによって、法の全体は成り立っている。

そうやって、法の原理は人々の中に響き合い、その社会の中で「効力」として行き渡るのである。

できるならば、より美しく、より心地よい社会生活を実現するようなものとして生き続ける調べであってほしいと望むだろう。

人と人、生命体と生命体のクオリアが、形を生み出した法という原理を通して、心地よい社会生活を実現していきたいものであるる

そうやって、生命体同士は、同じ地球の上、同じ生命圏で、共生的に生きていけるようにしたいものである。

そのためにも、憲法改正を試みる際には、その前提として宇宙の根源的な姿や、生命体や人類の在り方、そこで生まれた法というものの本来的な姿を捉え、理解を深めていく必要があるだろう。


その全体で、その社会の人々の中に、「効力あるもの」として成り立つものをつくり出していく必要があるだろう。


時代を渡って、我々の心を掴む音楽がある。人々に広く受け入れられ、末永く、いや、普遍的ともいえるような本質を捉えた音楽は美しい。

法の効力を人々の中に広めるためには、そのような、人々の心を掴む、普遍的ともいえるような、本質を捉えた美しい憲法を創造していく必要があるだろう。



<理解の補強>

そもそも憲法とはどんなものか 憲法と民主主義 | 対談:木村草太×後藤正文 2014.12.2

【佐藤優×木村草太】“現状への不満”がファシズムを生む? 現代日本が抱える危険性 2016.4.9

憲法の生命力


 憲法の文言は分かりづらい。憲法の体系も整っていないように見えることもある。そのため、美しい文言、美しい体系に整え、アクセシビリティを高めようとする気持ちを抱くことがある。



 ただ、そこで気を付けたいことがある。


 それは、美しく整った文言、美しく整った体系にしてしまうと、いかにもそれが「もともと存在しているもの」であるかのような錯覚に陥りやすいことである。

 

 美しく整えすぎてしまうと、それそのものから、人の頭の中で生み出された経緯があることや、それをつくった人々のモチベーションが存在することを感じさせる側面が失われてしまいやすいのである。


 すると、美しく整えて完成させた途端に、それを維持していこうとする気持ちやモチベーションが退いてしまい、それを維持するためには自らが為すべき努力(役割)があることを感じなくなってしまう。


 その結果、かえってその生命力が失われてしまうことが起きるのである。



 これは、憲法についても当てはまる。


 美しく整えすぎてしまうと、「憲法」というものが、もともと普遍的に存在するかのような錯覚に陥ってしまいやすくなる。すると、それが本来的には存在しないものであり、人の意志がつくり出した概念の集合であることに気づきにくくなる。

 また、美しく整えすぎてしまうと、憲法のいう「人権」という概念も、実はもともと存在しているものではなく、人の意志によって生み出され、維持されているものであるとのモチベーションを感じさせる原始的な姿を失わせてしまいかねない。


 すると、「人権」という概念も、もともと普遍的に存在するかのように錯覚に陥ってしまい、不断の努力を続けなければ維持できないものであるとの本質的な性質に気づきにくくなる。


 これは、人権概念を自らの手で維持していこうとする意欲も失われてしまうことになる。


 こうなると、完成させたはずの人権概念が、人の手によって維持されることがなくなり、その価値を失わせてしまうという事態に陥ってしまう恐れがあるのである。

 


 憲法の議論が盛んに行われている状態は、人権を保障するための人々の意志が集まっている証拠である。それこそが、憲法という概念の生命力を維持するものである。

 アクセシビリティの高い整った美しい憲法をつくり出そうとすることは良いことである。しかし、それ以前に、憲法という概念がつくり出された原始的な意志やモチベーションに重点を置き、その生命力を今後も保ち続けるようにしていくことが何よりも大切である。


 実は、97条の「自由獲得の努力」、12条の「不断の努力」の文言は、人権がそのような性質によって成り立っていることを示唆するものである。この「努力」こそが、憲法の生命力を保つものなのである。

改憲のアイディア集


〇 【憲法総則】【人権規定】【統治規定】の三つの区分を新たに設け、章を配置し直し、憲法体系が分かりやすくなるように整備するべきではないか。

〇 憲法の三権の機関の一つである「司法」の章の裁判所の内部に、「違憲審査委員会」という抽象的違憲審査の道を開く委員会を設置してはどうだろうか。「国会」の章の64条の弾劾裁判所に関して、法律によって「裁判官訴追委員会」が置かれることと似た機能である。これによって、抽象的違憲審査の道を開くこともできるはずである。「違憲審査委員会」によって国会や内閣の作成した法令や処分に関して審査の対象となった場合は、最高裁判所で審査の対象とすることができるようにする。三権分立の統治原理を侵すことがないと思われる。


〇 「会計検査院」のように、「違憲審査院」みたいなものをつくるのはどうだろうか。会計検査院は行政に属するが、内閣からは独立した機関である。違憲審査院も、司法権にあるが、裁判所からは独立した機能として裁判所に訴えを提起することができるようにするのはどうだろうか。すると、裁判所の司法消極主義と法令や処分の違憲性についての司法積極主義との調和を目指せるのではないだろうか。


〇 会計検査院が「合規性(会計検査院法20条3項)」の観点から疑義を発見した場合、直ちに裁判所へ訴えることができ、司法権によって違憲審査がなされるような制度を憲法中に書き込んだ方がいいのではないか。この制度は、抽象的違憲審査制と具体的違憲審査制の間の程よい制度となるのではないか。会計検査院という三権から独立した観点から憲法審査の訴えができることは、非常に中立性が高くて良いのではないだろうか。また、会計検査は国のすべての会計検査を行うことから、その範囲は国政のすべてに及ぶものである。そのため、会計検査に関わるあらゆる法令や処分について検査できるため、違憲審査の訴えの適格を得られる機関としては包括性が高く、非常に妥当ではないだろうか。


憲法訴訟・憲法判断について考える 青井 未帆 信州大学リポジトリ


〇 「直接間接選択民主制」を採用することはできないだろうか。この制度の内容は、国民は各法案に対してインターネット上で直接投票を行う権利を有していることがベースとなるものである。しかし、個別の法案内容の適否を自分自身で判断するだけの専門的な知識を有していないことなどを理由として、直接投票を辞退し、政党や各国会議員に対して自身の投票権を委託できるというものである。

 このような制度を採用すれば、一応通常の選挙にて「〇〇党」や「〇〇議員」を選出し、国会での法案投票を委託しているのであるが、特別に意見を持っている法案に対しては委託した間接民主制の投票権を解除し、ネットを通じて自分自身でその法案の投票権を行使するという直接民主制を採用できるはずである。

 このような制度であれば、民意をきめ細やかに反映することができるのではないだろうか。


〇 人権規定を加憲する案があるが、どのような規定が考えられるだろうか。人権を具体的に書き込むことは、人権のインフレを引き起こし、混乱を招くとの意見もある。そのため、13条の包括的基本権でカバーすることが賢明であるとの考えである。しかし、インフレした人権規定も、きれいに分類し、整理し、分かりやすく体系的にまとめることができるのであれば、人権のインフレの弊害も乗り越えることができるかもしれない。ただ、乗り越えられない場合も含めて、人権のインフレを招く弊害を引き起こしてまで人権規定を加憲するべきかどうかについても考える必要があるだろう。人権規定の加憲案となりそうなものを考えてみよう。具体的に良いかどうかは、検討を要する。


>環境権(自然環境・文化的環境・社会環境などか)

>外国人の権利

>子供の権利

>法人の権利

>海外旅行の自由(現在は22条2項の「何人も、外国に移住し、又は国籍を離脱する自由を侵されない」から導いている)

>営業の自由の明文化(現在は職業選択の自由から導いている)

>政治活動の自由権(表現の自由か)

>知る権利(現在は表現の自由から導いている)

>取材活動の自由(現在は表現の自由から導いている)

>報道の自由(現在は表現の自由から導いている)

>プライバシー権

>適正な行政手続きの保障規定(31条の刑事手続き保障についての権利の行政手続き版を明確化)

>平和的生存権

>就職支援を受けられる権利

>結婚支援を受けられる権利(とか、こういうのは権利なのか?)

>夫婦別姓選択権

>LGBTの権利

>同性婚の権利

>一夫多妻の権利

>一妻多夫の権利

>多重婚の権利

>障害者の支援を受けられる権利

>犯罪被害者の権利

>人格的生存の保持権

>抵抗権

>尊厳死選択権

>患者の自己決定権

>成人の契約締結権

>契約の自由権(民法で契約自由の原則がある。これを権利化するのかなど)

>学校での髪型服装自由権

>飲酒権

>喫煙権

>健康権

>銃の所持権

>憲法改正権

>投票権(15条が近い)

などが考えられるだろうか。

【動画】「憲法論議の視点」(4)新しい人権(プライバシー、AI) 山本龍彦・慶応大学教授 2018.3.15

「憲法論議の視点」(4) 新しい人権 (プライバシー、AIなど) 山本龍彦・慶應義塾大学教授 日本記者クラブ 2018年3月15日 PDF
第25回 あらためて「知る権利」を考える 浦部法穂 法学館憲法研究所 2018年6月22日

第26回 「本当のことを知る権利」 浦部法穂 法学館憲法研究所 2018年7月23日

No. 43 ~両性の本質的平等(憲法14条、24条)と多様性と個人~ 2017.11.8
第90回 改憲私案「診療の自由は、これを保障する」

【性的少数者】パートナーシップ制度 現実先行、法に遅れ 首都大学東京・木村草太教授 2018/9/3

同性婚「憲法で認められない」は間違い、憲法学の通説は「違反しない」…木村草太教授が解説 2018年09月21日

新しい人権 Wikipedia

 

 現行憲法の22条1項の、「住居、移転及び職業選択の自由」であるが、「住居、移転」と、「職業選択の自由」は、別の条文とした方が分かりやすいのではないだろうか。


 現行憲法21条1項の「集会、結社及び言論、出版その他一切の表現の自由」も、「集会、結社」と、「言論、出版その他一切の表現の自由」に区別し、二つの項に分けることができるのではないだろうか。


 21条2項の「検閲」と、「通信の秘密」も、二つの項に分けてもいいのではないだろうか。


 一つの条文にまとめられているいくつかの自由や権利も、分割してアクセシビリティの高い条文とした方が、国民にも分かりやすく、運用上も都合が良いのではないかと思われる。



〇  31条の刑事手続きの適正手続きの保障(デュー・プロセス・オブ・ロー)について、行政手続きにも保証が及ぶことを明記した方がいいのではないか。学説や判例では当然にそうなっているが、憲法上に明文の規定がないことは不安定な内容である。また、他国の憲法ではこの点については刑事手続きに限定するような書きぶりにはなっていないようである。行政手続きにも適正手続きの保障が及ぶことで、国民の権利救済の機能も高まると思われる。行政権の濫用にも歯止めをかけることができることが明確となる。

〇 憲法の第9章「改正」の手続きについて定めた96条に、「立憲主義や基本的人権を損なうような自己破壊(自殺行為)の改正は無効となる。」という文言を加えてはどうだろうか。これで、憲法保障機能は高まるのではないだろうか。また、改正の限界について綿密に議論がなされた上での改正手続きが踏まれるように促す効果も高まると思われる。


 「価値相対主義の憲法を廃止することは無効となる。」「人権の普遍的価値の建前を失わせることはできない。」というような文言はどうだろうか。近代立憲主義の否定を不可能とす趣旨である。改正手続きにその手続きの限界や無効要件を書き込む加憲は、検討の余地があるだろう。


〇 安易な多数決主義ではなく、熟議による民主主義を守るために、野党の質問時間の配分を与党よりも大幅に取ることを憲法上で明記した方がいいのではないだろうか。少数派への人権侵害を防ぐことや、熟議を行って合理的で妥当な判断を行うためにも、また、多数派が何もかも多数決で押し切れるような政治システムにしないためにも憲法第四章「国会」の規定に加えるべきではないだろうか。これは立憲主義の精神にも沿うと思われる。


野党の衆院質問時間、削減検討 政府・自民、配分で 2017年10月28日

野党の質問時間削減に枝野氏反発「とんでもない暴論」 2017/10/30


〇 現在判例や学説に頼っている「違憲審査基準」の形式的な要件を、憲法81条に加憲し、81条2項、3項、4項などへ具体的に明記するのはどうだろうか。表現の自由を奪うような立法措置に関しては積極的に違憲審査し、経済的自由の規制立法に関しては比較的緩やかに違憲審査し、統治行為論で憲法判断を回避することができる具体的な要件などもいくつか検討して明記した方がいいのではないだろうか。裁判所の裁量や心意気だけで判断される現在の違憲審査基準よりも客観的なものとなり、立憲主義と人権保障を貫徹する精度の高い憲法を生み出す上ではメリットが高いのではないだろうか。


〇 現行憲法は、「財政」の章があるが、「お金」の性質についてどのように考えているのだろうか。「勤労の義務」や「納税の義務」から見ても、通貨制度・貨幣制度を前提としていることが読み取れる。(いや、法律をつくれば、物々交換の労働や納税でもいいのだろうか。)問題提起のページがあったので紹介する。


「お金」を憲法学で考える。〜法の視点で世の中の動きのルールを探る 〜 2018年6月12日


 この疑問の解答になりそうな憲法学者「木村草太」の記事を見つけた。


木村草太氏が語る、日本国憲法で生活保護受給者の生存権は守られるか 2018.8.31


〇 ドイツの憲法などに「戦う民主主義」を定めた規定があるようである。ただ、日本国憲法は12条において「この憲法が国民に保障する自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。」という「人権保持義務」を定めていることから、戦う民主主義にも変わり得る規定を有しているといえるのではないだろうか。また、ドイツは「民主主義」を守ろうとするが、日本国憲法は「人権」を守ろうとするものである。この点、「人権」を守るために日本国憲法によって国民主権を宣言し、民主主義の統治原理を採用しているわけであり、「民主主義」が必ず「人権」を守るという性質のものではない。なぜならば、人権とは、多数決原理をもってしても奪うことのできない性質のものだからである。


 その点、ドイツなどの「戦う民主主義」よりも、日本国憲法12条の「人権保持義務」の方がより人権保障のためにつくられた立憲主義の本質を突いており、民主主義の多数決原理の横暴さえも否定することで人権保障を確実とする可能性を高めているのではないだろうか。この規定の方が、憲法理念の実質に近いのではないだろうか。それは、将来世代が人権保障を確実とする民主主義よりも優れた統治原理を開発した際に、民主主義を捨てる可能性も考えられるからである。民主主義を絶対の統治原理と見なしているドイツの憲法では、民主主義以上に優れた統治原理を開発していく意欲を奪う側面が考えられるのである。この点、日本国憲法の「人権保持義務(12条)」は将来世代が新たな統治原理を構想する上で妨げになることがない面で良好であると思われる。

 



〇 緊急事態に関する条項を新たな章として設けようとする改憲案が多くみられる。しかし、緊急事態に関して新たな章で対応しようとすることは、憲法の三権分立を中心とした統治機構の権限配分の仕組みから外れるような規定となるため、妥当でないと考える。

 例えば、国会の権限として書かれている特異な規定としては、64条の弾劾裁判を行う権限についてである。これは、「第五章 国会」の中に置かれている。

 また、内閣について、「第五章 内閣」の章の中に「国務大臣は、その在任中、内閣総理大臣の同意がなければ、訴追されない。(75条)」の規定がある。内閣の特別の権利である。

 さらに、裁判所について、「最高裁判所は、一切の法律、命令、規則又は処分が憲法に適合するかしないかを決定する権限を有する終審裁判所である。(81条)」として、違憲審査の権限を有しているかを規定している。

 

 このように、緊急事態に関する条項を新たに設けるとしても、緊急時の対応については「国会」「内閣」「裁判所」のそれぞれの章の中に特別に権限を明記するものであると考える。それが、立憲的意味の憲法の統治原理による緊急事態に対する対応であると考えるからである。
 憲法付属法ではなく、憲法中に緊急事態に関する条項を設ける必要があるかどうかの議論が前提ではあるが、もしそのような条項を設けるにしても、緊急時の国会の権限は「第四章 国会」の章に、緊急時の内閣の権限は「第五章 内閣」の章に、緊急時の司法の権限は「第六章 司法」の章に、緊急時の特別の財政措置については「第七章 財政」の章に配置することが妥当であると考える。



〇 緊急事態条項であるが、「ハリーポッターと賢者の石」の『賢者の石』を獲得する方法に似たものがあるのではないか。「必要だけど、使おうとしない者にしか手に入らないもの。」

 法律論の技術的な問題とはやや違うのであるが、法の効力の源が、人々がその仕組みを受け入れ、自ずと従おうとすることによって支えられているという、人々の法に対して抱く信頼関係から生まれていることを考えれば、こういった人々の感情に受け入れられる形でしか、緊急事態の権限は許されないものであると思われる。

 ただ、その権限はまさに、信頼関係によって成り立つものであるからこそ、憲法規定として存在させるよりも、政治的な現実のリスクとして「超法規的に」、非難を受けることを分かって、後に法的な処罰を受ける覚悟を持って行うべきものであるとも考えられる。そのリスクを取らない者に、信頼はなく、緊急時の強大な権限を与えることはできないからである。
 馬鹿にされるかもしれないが、「使おうとしない者」にしか、つまり、「使わないという信頼を人々から得られている者」にしか使えず、実際に機能しない権限である、という美学、矜持、プライド、ロマンをもって法と向き合った方が、道を踏み外すことなく人々のためになる国家運営が可能となるように思われる。


 超法規的措置を行う者は、一度権限濫用の罪を被り、裁判所での正当防衛や緊急避難の認定を訴えたり、情状酌量の減刑を待ったり、次期政権の決定による恩赦を期待することが正しい措置であると考えられる。


〇 自衛隊が「戦力(9条2項)」に該当して違憲なのではなく、自衛隊の装備の一部分が戦力に該当するかどうかを判断するべきではないだろうか。自衛隊の装備には、災害派遣や治安出動を目的とした装備が存在しており、それらを戦力として見ることはどうしてもできないからである。


 これを、「自衛隊は違憲か」という判断をするのは、自衛隊の性質を切り分けることができておらず、議論の前提として問題がある。自衛隊が「戦力(9条2項)」に該当すると主張する論者は、「自衛隊の装備の一部は戦力に該当して違憲か」という判断を迫るべきであると考える。


 ただ、政府見解は、我が国の保有する実力の全体が必要最小限の範囲を超えるか否かを戦力の範囲と見なすか、などとしている。これは、自衛隊に限らず、海上保安庁の装備の一部や警察組織の装備の一部が戦力に該当する可能性を排除していないと思われる。



〇 現行憲法の「~~は、これを✕✕する。」というような言い回しについて、分かりやすくすることは可能だろうか。口語体にすると、非常に分かりやすくなるとは思うが、文章の格調が損なわれると考えられる。「口語訳聖書」なども出版されているが、やはり格調が損なわれているらしい。法の効力とは、根源的には人々の法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」に頼っている性質のものである以上、格調高く記載することで、その権威性を表現することにはそれなりの意味があると思われる。もしその権威性の感覚が人々に浸透しなかった場合に、人々は法に「自ずと従おうとする気持ち」を抱かなくなり、結果として法の効力が失われる事態を招いてしまうからである。この点を敏感に考えていく必要がありそうである。


日本国憲法の文章がおかしいという議論がありますが Yahoo知恵袋


〇 天皇の元首化について

 天皇を「元首」と位置付けた方がいいとの議論があるようである。しかし、天皇を元首とした場合、明治憲法での元首の権限が復活してくる可能性がある。この点、三権分立を越える機能を有するのかどうか、明確な理解を必要とするだろう。


大日本帝国憲法
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第1章 天皇

第1条 大日本帝国ハ万世一系ノ天皇之ヲ統治ス
第2条 皇位ハ皇室典範ノ定ムル所ニ依リ皇男子孫之ヲ継承ス
第3条 天皇ハ神聖ニシテ侵スヘカラス
第4条 天皇ハ国ノ元首ニシテ統治権ヲ総攬シ此ノ憲法ノ条規ニ依リ之ヲ行フ
第5条 天皇ハ帝国議会ノ協賛ヲ以テ立法権ヲ行フ
第6条 天皇ハ法律ヲ裁可シ其ノ公布及執行ヲ命ス
第7条 天皇ハ帝国議会ヲ召集シ其ノ開会閉会停会衆議院ノ解散ヲ命ス
第8条 天皇ハ公共ノ安全ヲ保持シ又ハ其ノ災厄ヲ避クル為緊急ノ必要ニ由リ帝国議会閉会ノ場合ニ於テ法律ニ代ルヘキ勅令ヲ発ス
2 此ノ勅令ハ次ノ会期ニ於テ帝国議会ニ提出スヘシ若議会ニ於テ承諾セサルトキハ政府ハ将来ニ向テ其ノ効力ヲ失フコトヲ公布スヘシ
第9条 天皇ハ法律ヲ執行スル為ニ又ハ公共ノ安寧秩序ヲ保持シ臣民ノ幸福ヲ増進スル為ニ必要ナル命令ヲ発シ又ハ発セシム但シ命令ヲ以テ法律ヲ変更スルコトヲ得ス
第10条 天皇ハ行政各部ノ官制文武官ノ俸給ヲ定メ文武官ヲ任免ス但シ此ノ憲法又ハ他ノ法律ニ特例ヲ掲ケタルモノハ各々其ノ条項ニ依ル
第11条 天皇ハ陸海軍ヲ統帥ス
第12条 天皇ハ陸海軍ノ編制常備兵額ヲ定ム
第13条 天皇ハ戦ヲ宣シ和ヲ講シ諸般ノ条約ヲ締結ス
第14条 天皇ハ戒厳ヲ宣告ス
2 戒厳ノ要件及効力ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
第15条 天皇ハ爵位勲章及其ノ他ノ栄典ヲ授与ス
第16条 天皇ハ大赦特赦減刑及復権ヲ命ス
第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

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<理解の補強>


天皇を「元首」とする憲法改正の意図はどこにあるか 2018.09.19

憲法を改正して天皇を「元首」にするとなぜ危険なのか 2018.09.21


〇 改正手続きの改正によって、天皇制廃止の道を開くかも

 天皇制を廃止しようとする主張があるようである。しかし、日本国憲法中の96条2項を読めば、「天皇は、国民の名で、この憲法と一体をなすものとして、直ちにこれを交付する。」とあることから、天皇制を廃止することは憲法改正手続きにおいて想定されていないと考えることが妥当だろう。

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第九章 改正


〔憲法改正の発議、国民投票及び公布〕

第96条 この憲法の改正は、各議院の総議員の三分の二以上の賛成で、国会が、これを発議し、国民に提案してその承認を経なければならない。この承認には、特別の国民投票又は国会の定める選挙の際行はれる投票において、その過半数の賛成を必要とする。

2 憲法改正について前項の承認を経たときは、天皇は、国民の名で、この憲法と一体を成すものとして、直ちにこれを公布する。

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〔天皇の国事行為〕
第7条 天皇は、内閣の助言と承認により、国民のために、左の国事に関する行為を行ふ。
一 憲法改正、法律、政令及び条約を公布すること。
(以下略)
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 しかし、96条の改正手続きのハードルが高すぎるために、96条1項の「各議院の総議員の3分の2以上の賛成」の部分を「過半数」に改正しようとする主張もあるようである。憲法が少数派の人権保障を十分に守る役割を担われていることや、間接民主制によって国会に代表者を送り、専門技術的な知識を有しない国民の安易な判断による直接民主制による衆愚政治を防止する観点を持った立憲主義の精神から見ると、この憲法改正のハードルを下げるような改正は憲法そのものの役割や存在理由を狭めてしまうことなどから、不可能であるとする説が有力である。


 しかし、この「3分の2以上」のハードルを「過半数」へ改正する『96条改正』の道を開いた場合、憲法改正手続きの規定そのものを改正する道を開くことから、『天皇制廃止の改正』にも道を開くことに繋がることとなるとも考えられる。

 この点、96条を改正する論者は、想定できているのだろうか。




 96条2項では、「天皇は、国民の名で、」とある。ここで使われている「国民の名で」の意味は、5条に書かれている「天皇の名で」の文言との対比であると思われる。


日本国憲法
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〔摂政〕
第5条 皇室典範の定めるところにより摂政を置くときは、摂政は、天皇の名でその国事に関する行為を行ふ。この場合には、前条第一項の規定を準用する。

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 「天皇の名で」の文言は、96条の改正手続きによって成立する新憲法の正当性の権威は、主権を持つ国民に由来するものであるとした建前であり、天皇という権威によって改正手続きが行われるわけではないことを明確にした点で意味があると思われる。いくつかの憲法草案は、「国民の名で」の文言が削除されており、国民主権原理による憲法改正であることを明確にする文言が失われている点で問題性が感じられる。


 「天皇の名で」の文言の大本は、明治憲法がベースとなっているようである。


大日本帝国憲法
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第1章 天皇

第17条 摂政ヲ置クハ皇室典範ノ定ムル所ニ依ル
2 摂政ハ天皇ノ名ニ於テ大権ヲ行フ

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第5章 司法

第57条 司法権ハ天皇ノ名ニ於テ法律ニ依リ裁判所之ヲ行フ
2 裁判所ノ構成ハ法律ヲ以テ之ヲ定ム
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規律密度の設計思想

 

 憲法の規律密度には法哲学的なバックグラウンドが存在している。その意図を明らかにしていきたい。



  【思想・理念・法哲学について】
・長期的な課題を憲法に、短中期的な課題を法律に

・人権保障の中核を憲法に、その実現手段については法律に

・普遍性の高いものは憲法に、政策的に柔軟なものは法律に

・時代によっても変えたくないものは憲法に、時代に合わせて変えたいものは法律に


  【体系について】
・簡素化することで体系性の掴みやすさの維持
・アクセシビリティの確保

・最重要な法として国民に親しまれ、浸透しやすい分量の文章を保つこと

・他の法律や条令などの法令とは一線を画するような法分野の切り分けの明確性の確保

・人権保障のための法という中核部分を浮き立たせるように他の法との法分野を切り分けるラインの引き方


  【規定について】
・人権規定を増やしすぎることは人権のインフレ化を招き、重要な人権の質までも下げてしまうことの防止

・人権喪失の予防

・社会の変化にも幅広く対応できる枠組みの許容性の高さの確保

・社会の変化や運用上の都合によって解釈の幅を残し、規定の存在と法の効力それ自体を保ちながら現実に対応する基準の変化に対応していく柔軟性の確保

 

  【重さの心理感覚について】

・ポピュリズムに熱した一時的な民意の多数派による少数派への侵害の防止

・人権保障枠組みの極めて高い安定性の確保

・憲法改正の国民投票の不安定さや硬性憲法の設計
・国民の憲法改正への抵抗感を確保することによる、憲法保障の実現をするために、改正の必要性を極力軽減することで、シビアな人権保障仕組みを丁寧に議論しようとする感覚を鈍化させないこと
・法は誰かの私有物ではなく、公共性を有した国民のものであり、それ自体の存在の重さや軽さは人々の意識の中に存在しているものである。そのため、その「人々の意識」を安易な改正の機運やムード、雰囲気に飲まれた中に起きる感覚の鈍化の中に置くことは、法の効力の安定性を損なうこととなり、結果として人々の感じる人権概念や法に対する権威の感覚を下げ、法の効力それ自体の信頼性や運用上の慎重さを低下させることに繋がる。このような法運用によって、人々の人権保障の質が下がることを防止すること。

 

 
<理解の補強>


 規律密度の設計思想に強く関わっている「憲法」と「憲法付属法」の関係は下記が詳しい。

「憲法論議をどう考える① 憲法の役割と機能は」(視点・論点) 2018年05月14日

「憲法論議をどう考える② 三権のバランスの再調整を」(視点・論点) 2018年05月15日

憲法の包容力よ再び 誰もが当事者の立憲的改憲論 2018年01月12日
憲法附属法 Wikipedia

<世界の中の日本国憲法>「世界最古」の未改正憲法 人権規定充実 平和主義貫く 2018年7月1日

改憲ガイドライン


 憲法改正には、その憲法の存立を損なわせないために、押さえるべきポイントがある。憲法改正を試みる者は、そのポイントを十分に抑えた上で、条文案を提案するべきである。そうでなくては、整合性の保たれていない、残念な提案となり、国民の人権の質も下がってしまうことに繋がるからである。



 「改憲のガイドライン」を少し考えてみよう。
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〇 近代立憲主義による人権保障の本質(価値相対主義憲法)の意志を軸にしているか。
〇 実質的最高法規性の意志の観念を損なっていないか。

〇 前文に示された「人類普遍の原理」を損なっていないか。
〇 「人権」の質を下げるような提案となっていないか。
〇 「人権」を侵害したり、損ねたりする可能性はないか。
〇 むやみに「国民の義務」を設けていないか。(義務を設けると法の効力が弱まる可能性が高いため。)
〇 「憲法の特質」を押さえているか。

〇 憲法の特質である「自由の基礎法」「制限規範」「最高法規」の要素に一致しているか。
〇 「人権」と「統治」の関係を押さえているか。(近代憲法の『権利章典』と『統治機構』の関係)
〇 「人権」と「統治」の体系に馴染むか。

〇 日本国の法制の体系を押さえているか。
〇 憲法と法律(憲法付属法など)の関係を押さえているか。
〇 憲法と法律(憲法付属法など)との法分野の切り分けは完結性を保つことができているか。
〇 憲法と条約(国際法)の関係は抑えられているか。
〇 法分野の切り分けが十分にできているか。
〇 法律改正で対応できる内容ではないのか。
〇 内容が「章」の分類に適合しているか。
〇 三権の権限配分のバランスは十分に計算されているか。
〇 規律密度は憲法全体の内容に馴染むものか。
〇 規律密度は人々の法に効力があると認める気持ちを保つことに繋がるものか。
〇 人権のインフレ化を招き、重要な人権の価値まで相対的に下げてしまう結果になっていないか。
〇 憲法の中心理念を浮き立たせるような全体を貫くの体系的なコンセプトを保っているか。
〇 憲法改正の限界を超えていないか。
〇 憲法改正の限界を感じさせる条文に対しては、その限界を超えるだけの革命に値するほどの改正の意味があるか。

〇 憲法保障の仕組みを損なっていないか。
〇 「改正規定の改正」など、憲法保障を踏み越えることとなっていないか。
〇 法学上の概念の枠組みが分かりやすいか。
〇 法学上の概念の枠組みに曖昧さを残し、無用に解釈の学説を増やすこととなっていないか。
〇 法学上の概念の枠組みは、実際の法運用に堪え得る内容であるか。

〇 規範力を確定するに十分なものであるか。
〇 新しく加える文字や文言は、憲法上の文言の意味と一致しているか。
〇 法律上の用語と、政治上の用語を混ぜてしまっていないか。
〇 「道徳」「倫理」「哲学」など、『法』ではない他の学問分野や、「人生の心得」、「格言」などを混ぜてしまっていないか。
〇 特定の価値観を国民に押し付けるような内容となってしまっていないか。
〇 少数派に対する犠牲を引き起こしてしまうような内容となっていないか。
〇 多数決原理に馴染まない事柄でありながらも、多数決の決定によって改正するという矛盾を十分に越えられるだけの民意を背負うことのできる内容となっているか。

〇 多数決原理に馴染まない性質の事柄を守ろうとしている憲法において、憲法事項として取り扱う改正内容が根源的な倫理観に反していないか。

〇 三大原則(原理)である「基本的人権の尊重」「国民主権」「平和主義」の精神に馴染む内容であるか。

〇 「国際協調主義」の精神に馴染む内容であるか。
〇 現段階で考え付く、永続的な国家運営を想定した内容となっているか。
〇 現世代だけでなく、次世代、将来の国民に対しても配慮の整った内容であるか。
〇 改正内容から想定される論点は、すべて出し尽くしていると言えるか。
〇 異論が出ないほどまでに洗練された内容であるか。
〇 国民の総意と言えるほどに、民意が定まっている事柄であるか。
〇 人々の認識によって初めて成り立つ性質である「法の効力」を損なわせてしまうな影響が出るものになっていないか。
〇 人々の抱く法への権威、法への信頼を損なわせるようなものとなっていないか。
〇 人権概念の存在と価値と正当性の本質的なあり様を理解できる実存主義的な価値相対主義の認識に至った者の心理を刺激し、価値相対主義の認識によって法を運用する者を引き寄せる内容が確保されているか。
〇 
〇 

など

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◇ この「改憲ガイドライン」も、体系的に整理し、内容をより細かく、様々な想定を網羅的に行っていく必要がある。すると、質の良い憲法改正案を導くことができると考えられる。
 この「改憲ガイドライン」の一つ一つの項目の背景には、法哲学の学術的なバックグラウンドがあることも示していくといいと考える。

 この「改憲ガイドライン」に沿ったすべての項目をクリアした内容の提案であるならば、誰もが認めるような憲法改正案となり、国民投票に堪え得ることが一目で分かるようなものにすると良いと思われる。
 一定の基準を設けることで、意味不明な、整合性の保たれていない、議論のステージに登り様のないほどの残念な提案をそぎ落とすことができるはずである。

◇ この「改憲ガイドライン」に適合しないものは、やはり憲法全体との体系的な整合性や理念との一貫性が保たれていないため、普遍性が低く、質も低いものであることが明らかとなるはずである。



 もともとは憲法学や法哲学そのものが「改憲ガイドライン」を成り立たせているものである。憲法学や法哲学の全領域を十分に学んでいれば、改憲で必要となる論点は自ずと絞られてくるものである。


 しかし、その学術分野の全域を十分に学んでいない者は、いつまでもその基準を掴むことができない。その影響により、無理な改憲案を提示しがちである。


 そのため、憲法改正がいかなる形で行われることがより妥当で質の良いものとなるのかを、論点を集約した形で「ガイドライン」として分かりやすく示すことは意味があると思われる。質の良い議論を導くことができるはずである。


 憲法学者や法律家は、改憲議論の質を高められるような、安定的で妥当な改憲案を導けるような情報源を生み出すことに力を注ぐ必要があると思われる。


 国会の憲法審査会においても、「憲法のコンセプト」と「改正の限界」が相互に関連する論点について、さらに深い議論を行い、一定の基準(ガイドライン)を作成する作業を行う必要があると思われる。それが、妥当な改憲案を導くことに繋がると思われる。



△ 政策の憲法化を目指す改憲案が多すぎる。憲法が人権保障の法であるという中枢を理解していない。憲法の存立を成り立たせる正当性のバックグラウンドにある実質的な法源がいかなるものなのかを捉え直すべきである。

「井上武史」のレジュメ

 

 「井上武史」のレジュメを見てみよう。
 
憲法を「国民」のものとするには 井上武史(九州大学) 2018年6月10日 PDF


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Ⅰ.日本国憲法の3つの特徴
① 分量の少ない小さい憲法:権力者に対する規律が弱い
② 一度も改正経験のない憲法:社会の変化に対応していない
③ 占領下で制定された憲法:国民の自由な意志で制定されていない

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とある。



 ①について、現行憲法は「分量の少ない憲法」であることによって、人権保障の法としての本質部分を浮き立たせることに成功していると考えられる。その社会の中で法に対して効力を認める人々の心理感覚の中でも、人権に対する優先度の心理感覚を高めることとなり、バランス感覚も優れていることが考えられる。この点、細かい人権規定を書きこめば書き込むほど、重要な人権までもが相対的に価値が低くなってしまうという人権のインフレ化の論点に共通するものがあり、憲法の分量を増やすことは、人権の質が相対的に下がってしまったり、「人権保障の法である」という法体系の本質部分が捉えづらくなることが考えられる。その結果、人々の中で法に効力を認める心理感覚が弱まり、法の効力までもが弱まってしまう恐れが考えられる。


 さらに、②の論点にも通じるが、憲法の分量を増やすことは、社会の変化に対応しなければならない細かい事項が増えてしまうことに繋がる。こうなると、憲法は「多数派による決定が少数派の人権を侵害してしまうこと」を防ぐことを目的としてつくられているにも関わらず、細かい改正の需要が増えることから、憲法改正という「多数決原理による決定手続き」の門を開きやすくすることに繋がってしまう。


 これにより、何度も憲法改正を行うこととなると、憲法改正という関門を通ることに対する人々の心理感覚を次第に弱め、その時々の民意の振れ幅に「人権カタログ」で保障される重要な人権の範囲や「権力分立」の絶妙なバランスを左右させることに繋がることから、人権保障の質が低下することに繋がってしまう恐れがある。分量の多い憲法に変えようとすることは、近代立憲主義という価値観や、憲法秩序そのものを守ろうとする憲法保障の観点からの硬性憲法の仕組みを破壊しかねない点で、妥当でないと考えられる。憲法制定権力が、人権保障を高い水準で維持するために、よほどのことがなければ改正しないことを意図して生み出した硬性憲法の封印を解き放とうとする考え方は、人権侵害のリスクを高めてしまうことに繋がるのである。


 「権力者に対する規律が弱い」という面については、もともと憲法を守ろうとするつもりがない権力者に対して、細かい事項を書き込むことによって規律密度を高めたところで、本当に権力者に対する規律が高まるのかどうか疑問である。法の効力は、文字に書いたからといって生まれるものではなく、そこに効力があると人々に信じられている(合意されている)ことによって成り立つものであり、憲法秩序そのものの魅力(特に人権という概念の魅力)が人々に認められて受け入れられていることによるものである。規律密度を増加させることと、権力者に対する規律を強めることは、必ずしも因果関係があるとは言えない。(2014年閣議決定の集団的自衛権の行使〔存立危機事態での武力の行使〕容認については、解釈過程を誤ったものであり、憲法の規範力そのものが揺らいだわけではない。解釈の不正によるものだからである。詳しくは『集団的自衛権の合憲性の誤解2』を参照。)


 また、権力者に対する規律については、裁判所の『付随的違憲審査制』と『統治行為論』の論点であり、憲法の分量とは直接関係がないと思われる。この点、憲法裁判所の設置の議論に通じることは理解できる。ただ、「抽象的違憲審査制の訴訟法の法整備」や「行政事件訴訟法の客観訴訟(民衆訴訟や機関訴訟など)の改正」で対応できるとも考えられる。裁判所法3条の「法律上の争訟」+「その他法律において特に定める権限」の『法律において特に定める権限』の部分に、抽象的違憲審査が可能な訴訟法を加える案である。

 他にも、内閣法制局の独立性を高めたり、国会の中に憲法審査を行う有識者会議を発足させる方法も考えられるようである(参考:憲法学者・木村草太)。憲法改正と憲法裁判所の議論は、必ずしも一致しないことを押さえておきたい。

 もし憲法改正によって解決しようとするにしても、まずは「デュー・プロセス・オブ・ロー」「適正手続きの保障」を刑事手続だけでなく、行政手続においても適用されることを明確にした規定を設けることを検討するべきだろう。31条の準用という形ではなく、行政手続きを対象に明確に直接適用できる規定である。これで、ここで意図しようとする「権力者に対する規律」は十分な効果を有するはずである。規律密度や分量というものは、相変わらず直接的な関係はないと思われる。

 それでも必要であれば、憲法裁判所の設置も検討してよいと思われる。ただ、憲法裁判所の在り方も、司法権の中に置き、下級裁判所や最高裁判所の中に設置するのか、司法権の外に置くのかも議論となると思われる。違憲判断が下された際、消極的立法作用を認める場合には、国会の「国の唯一の立法機関(41条)」の趣旨との整合性も問題となりそうである。


憲法裁判所を巡る阪田vs山尾論争? 2018.8.15 


 ②について、「一度も改正経験のない憲法」であることについて、日本国憲法が細かい事項を「憲法付属法」としての法律に委任しており、①に見られる「分量の少ない小さい憲法」である以上、珍しいことではないと考えられる。憲法制定権力者の意図した憲法のコンセプトが達成されていると考えられるのである。


 もともと「分量が少ない小さい憲法」であるから、「社会の変化に対応」する必要性に迫られる場面が少なかったと言ってよいと考えられる。「社会の変化に対応していない」との批判については、多くの面で憲法付属法(国会法・内閣法・裁判所法など)の改正で対応しており、その指摘が妥当であるかは疑われる。諸外国の「憲法改正事項」と、日本国の「憲法付属法の改正事項」を比較した場合、多くの点で一致するのではないだろうか。諸外国が憲法改正を行った事項について、日本国の「憲法付属法」を除いた、日本国憲法典の事項に当てはまる部分に一致するのかどうかは疑わしい。


外国は何回も憲法改正してるから日本も改憲すべき…は正しいか? 2018.02.25

 「分量の少ない小さい憲法」について、改正前の大日本帝国憲法はさらに分量が小さいものであった。それに比べて日本国憲法は大幅に分量が増えている。諸外国との比較についても、憲法付属法を合わせた分量で計算した場合、諸外国と同等、あるいはそれ以上の分量になることが考えられる。「憲法典」という形式に惑わされず、実質的な内容の対応関係がどうかを重視して考えたい。


 ③について、「占領下で制定された憲法」であることは確かであると思われる。しかし、「国民の自由な意志で制定されていない」との点について、「日本国憲法公布記念式典の勅語(昭和21年11月3日) 」において、「この憲法は、帝国憲法を全面的に改正したものであつて、国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め、自由に表明された国民の総意によつて確定されたのである。」と示されている点とは一致していない。「自由に表明された国民の総意によって確定された」はずのものとされているのである。


 そもそも、「国家再建の基礎を人類普遍の原理に求め」ているのであれば、憲法の本質部分は「人類普遍の原理」なのであるから、それが国民の自由な意思であろうとなかろうと、「人類普遍の原理」に行き着くはずである。そこに到達しているのであれば、普遍的なのであるから、占領下であるとかないとか、そういう話は、法の正当性の原理そのものには影響を与えない。


 また、近代立憲主義の憲法の原理は、多数決原理を絶対視する「国民主権」の原理よりも、価値相対主義の認識の上に成り立つ「基本的人権の尊重」の方が上位概念であるとされている。なぜならば、「国民主権」を絶対視した多数決原理によっても奪うことのできない「侵すことのできない永久の権利(11条、97条)」という人権概念の建前こそが、近代立憲主義を成り立たせる本質であり、人類普遍の原理の基礎となっているからである。


 よって、誤解があってはいけないが、「国民の自由な意思で制定されているかどうか」という論点は、近代立憲主義の原理や「人類普遍の原理」を押さえているかどうかに優先するようなものではないのである。このことから、日本国憲法が近代立憲主義の人権観や「人類普遍の原理」を押さえている以上、「国民の自由な意思で制定されているかどうか」は、大きな問題とはならないのである。


 そもそも、近代立憲主義の人権概念の本質(価値相対主義の人権観)を捉えているのは、国民の中でも少数派であると考えられ、近代立憲主義の成り立ちそのものが、必ずしも「国民主権」という観念から導かれているという性質のものではないのである。よって、近代立憲主義においては、「国民の自由な意思」というものは、絶対視されるほどに信用されているものではないことが大前提として存在している以上、この点の不備が、憲法の正当性を揺るがせることに繋がるとの指摘は、近代立憲主義の本質的な原理を理解していないための指摘であると捉えざるを得ない。


 恐らく、この指摘は「国民主権」という建前を信じている者の疑いから生まれたものであると思われるが、国民主権原理という観念が、そもそも人権概念から生まれているのである。突然「国民主権」などという正当性の観念が現れて、根拠もなく「正当化される」という考え方をしてしまっていること自体に疑問を持った方がいいだろう。なぜ『最高決定権』が日本国憲法においては「国民」に存するとしており、「天皇」による「天皇主権」ではないのだろうか。なぜ「貴族主権」ではないのだろうのか。なぜ「女性主権」「男性主権」ではないのだろうか。なぜ「長男主権」「老人主権」ではないのだろうか。なぜ「国民主権」という観念が成り立っているのだろうか。この部分を捉え直し、「『国民主権』という原理が採用されているのはなぜか」という前提認識を押さえた方がいいと思われる。


 法哲学の自然法思想や、正義や平等性の観念、自然法と神の関係、神と実存の関係、価値絶対主義と価値相対主義の関係、心理学や哲学の関係、クオリアと脳の関係、倫理や共生性の関係などを捉えると、「人権」という概念と、そこから導かれる「国民主権」の妥当性について考察を深めることができるだろう。



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Ⅱ.国民主権のもとでの憲法とは?

(略)

③国家権力の正当性を確立する必要:国家権力の淵源が国民にあることを明確にする
国民と憲法を繋ぐ回路が接続されていないために、国民の側には国家権力に授権しているという意識が、国家権力の側には憲法が国民に由来しているという意識が希薄。

⇒ フランスの裁判所では、判決に「フランス国民の名において」と記載される。

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とあるが、日本国憲法の前文では、

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そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

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との文言が存在している。

 

 これは、フランス憲法での「国の主権は国民に帰属し、国民はそれを代表者を通じて及び国民投票の方法で行使する」の文言や、ドイツ憲法での「すべて国家権力は、国民から発する。国家権力は、国民が選挙及び投票を通じて、立法権、執行権、司法権を付与された個別規範によって行使される。」の文言を十分に満たしていると考えられる。

 

 「国民の厳粛な信託によるもの」として、国民主権を示している。「権力は国民の代表者がこれを行使し」としており、フランス憲法の内容にも重なっている。日本国憲法前文の「国政」とは、「立法権・行政権・司法権」である。「権力」も、同じくその権限を指す。これらも、ドイツ憲法の内容にも重なっている。何が不足しているのか疑問である。


 他にも、日本国憲法1条には、「主権の存する日本国民の…」との文字があり、国民主権原理であることが明確である。


 さらに、戦争放棄について定めた9条においても、「日本国民は、…放棄する。(1項)」「…保持しない。…認めない。(2項)」とあるように、国民主権によって最高決定権を持つ日本国民が、統治権(国)に権限を信託しない旨を明確に述べており、国民と権力との関係は明らかである。


 国民や権力者の自覚が希薄なことを、あたかも日本国憲法に不備があるかのような指摘は妥当でないと思われる。


 「フランス国民の名において」の点について、日本国憲法では、憲法改正について定めた96条で、「国民の名で、」の文言がある。この点でも、国民が授権することとなることは明らかであると思われる。


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(2) 日本国憲法の場合
①問題点
・日本国民は……ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。」(前文)
 ⇒占領下の日本に主権はなく、国民が自由な意思で憲法を制定したとは言えない。

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とある。


 まず、「ここに主権が国民に存することを宣言し、」で使われている「主権」とは、『最高決定権』を意味する主権である。大日本帝国憲法下の『最高決定権』が天皇にあったように、ここで宣言されている「主権」とは、国民主権での『最高決定権』を意味していものである。


 それにも関わらず、「⇒」のマークで「占領下の日本に主権はなく、」の主権は、『最高独立性』についての主権概念である。これは、憲法学者を名乗っているが、法学部の大学生でもあまり間違えない論点である。大丈夫だろうか。


 まず、主権には、『最高決定権』『統治権』『最高独立性』の3つの意味があることを捉え直した方がいいように思われる。


 加えて、この「占領下の日本に主権はなく、国民が自由な意思で憲法を制定したとは言えない。」との批判であるが、そもそも日本国憲法制定前、つまり、革命前のことを持ち出して批判するのであれば、前文の「日本国民」などというものは、未だ存在しないはずなのである。大日本帝国の「臣民」はいても、「日本国民」というのは、日本国憲法が制定されると同時に確定するはずであり、この前文に示される段階では存在していないはずだからである。10条にも、「日本国民たる要件は、法律でこれを定める。」としているように、この憲法が確定し、効力を有するまでは、「日本国民」などというものも、公式には存在しないのである。


 よって、前文に記載された「日本国民」や、「主権が国民に存することを宣言し、」などの文言は、革命を宣言する意志の観念で人々を納得させ、この憲法に効力を持たせるためにつくられた建前としてのフィクションであると考えることが妥当なのである。つまり、法に効力を持たせるための、虚構の革命である。その論点を理解しないままに、「占領下の日本に主権はなく、国民が自由な意志で憲法を制定したとは言えない。」などの批判をするのは、単なる国民主権原理という建前を絶対視した者の考え方であり、近代立憲主義の憲法の原理(価値相対主義の人権観)を理解していないものによるものと考えざるを得ないのである。


 この点で、「占領下の日本に主権はなく、」などと批判したところで、憲法の実質に影響を与えているかどうかとは別の議論である。「国民が自由な意思で憲法を制定したとは言えない。」との判断は、歴史学的な評価を加えようとしたものであり、法学的な妥当性の議論とは線を引いた方がいいように思われる。混同しない方が法の正当性の原理を明確にすることができるはずである。


 「占領下の日本に主権はなく、」の文言の言う主権とは、『最高独立性』である。この『最高独立性』は、『統治権』を有する統治機関の発生に付随して成立するものである。しかし、日本国憲法制定前(革命前)であれば、『最高決定権』を有する「国民」によって国民主権原理の信託(授権)によって発生する日本国憲法に言う『統治権』は、未だ発生していないのである。よって、「占領下の日本に主権はなく」と言ったところで、そもそも革命前には国民からの信託(授権)がないのであるから、『統治権』という国家機関も成立していないことは当然、『最高独立性』という主権概念も存在しなくて当然なのである。


 むしろ、「占領下で、『人権』の性質が近代立憲主義のいう人類普遍の原理の域に達し、そこから国民主権が発生し、その国民の『最高決定権』によって信託(授権)された権力により『統治権』が生まれ、そこに『最高独立性』の主権が確立した」のである。


 もともと、占領されるまでは「国民主権」の統治体制ではなかったのであるから、占領下がどうのこうのという感覚自体が、現行憲法の正当性の在り方を議論する前提を踏まえていないと言わざるを得ないのである。


 また、この議論を突き詰めていけば、たとえ太平洋戦争が存在せず、占領されることもなく、日本国憲法が大日本帝国憲法の改正手続きに沿って自然に改正されたものであったとしても「大日本帝国憲法の改正規定には国民投票が存在しなかったから、結局改正しても国民からの直接の信託がないから正当性がない」や、「大日本帝国憲法下では、臣民の思想良心の自由がなかったのだから、その改正手続きを通しても『国民の自由な意思』によって制定されたものではない」、「天皇主権の憲法で、国民主権の憲法に改正するというのは不可能である」などと批判されることとなるだろう。つまり、「占領下」であることと、日本国憲法の正当性が十分であるかということとは、法学上の正当性の本質部分としては関係ないということである。


国民投票を経ていない現行憲法は制定手続に不備があるといえるか 2018.08.14
【憲法特集】なぜ改憲? 説得力欠く 木村首都大准教授 2015年5月2日


 もう一つ、近代立憲主義の憲法観は、一神教が支配する国の人権観に見られる価値絶対主義憲法とは前提認識が異なる。よって、一神教をベースとした外国憲法は参考にならない。この点の違いを明確に捉えた上で、憲法コンセプトを語った方がいいだろう。論者は、外国憲法に詳しいようであるが、外国憲法と日本国憲法を同一視した議論は、前提が異なることを踏まえていない部分で妥当性がないことが多いと考えられる。論者のすべてを理解しているわけではないが、もう少し解像度の高い議論が望まれると思われる。

 
 神による人権観をベースとした憲法観の国は、法の効力も宗教的権威性を纏う部分がある。しかし、日本国憲法に見られる近代立憲主義の価値相対主義の人権観によれば、憲法それ自体の効力さえも、憲法に含まれた示唆的な文言に、法の効力を生み出す求心力に関わる意図を組み込む必要があるのである。この点に、「規律密度」や「憲法の
分量」、「人権観の建前」や「成立過程の正当性」など、この論者の十分に理解できていないと思われる仕組みが詰まっているのである。簡単に理解できる部分ではないが、学者であるならば丁寧に見ていった方がいいと思われる。



~重要部分まとめ~


〇 憲法の分量を増加させた(規律密度を高めた)憲法による弊害

 ・ 社会の変化に応じて、細かい改正の需要が増加し、憲法改正手続きを行う必要性が増加する

 ⇒ 憲法改正には政治的に多大な労力を要し、経済的負担も大きい。改憲の頻度が多くなることは、それだけ負担が多くなる。


 ⇒ 憲法は少数派の人権を守るためのものであるが、憲法改正手続きには「多数決原理の決定」が必要となる。このため、憲法改正という門を開く頻度(回数)が増加することは、少数派の重要な人権が多数派の決定によって侵害されてしまう機会を増やすことに繋がる。これは、憲法が意図している人権保障という目的に沿うものではない。


 ⇒ 日本国憲法が硬性憲法であるという仕組みには、制度上、法律よりも改正が難しいことが挙げられる。 

 ただ、日本国憲法の改正頻度が他国と比べて少ない事情には、他にも、規律密度が低いことにより、細やかな変更の需要は下位の憲法付属法による柔軟な対応が可能であることも挙げることができる。

 また、法の効力が終局的には人々の心理によって認められ、受け入れられているという事実によって支えられている以上、法の大本である憲法の改正には高いハードルを感じるという、「躊躇する意識」、「ためらう意識」、「憚られる意識」、「タブーの意識」によって、その硬性性や安定的な効力基盤が維持されている部分も存在している。

 しかし、改正の需要が増加し、改正の頻度が多くなると、次第に人々の心の中にあるこの「ためらう意識」、「憚られる意識」などの抵抗感を減少させることに繋がってしまう。人々がこのような「抵抗感」を失ってしまったならば、国会での発議や国民投票の際に、人々の判断の熟考度を低下させることに繋がってしまうと考えられる。その結果、多数派が少数派の人権を侵害したり完全に奪ってしまったりする改憲が行われてしまうリスクを高めたり、長期的な将来までしっかりと想定されていない短期的な利益のみを重視した改憲がなされてしまったりするリスクを高めることとなる。そうなると、憲法が本来目指していた、人々の人権を安定的に保障していこうとする機能が損なわれ、人権保障の機能が低下することになると考えられる。


 ⇒ 憲法は人権保障を実現するための法典である。しかし、憲法の分量を増やす(規律密度を増加させる)場合、人権保障の実現を妨げる可能性が生まれてくる。

 【人権規定】を増加させた場合、人権カタログに示された人権がインフレ化することによって、重要な人権の価値が相対的に低下してしまい、条文の人権保障機能が低下するリスクが発生する。

 【統治規定】を増加させた場合、「憲法は人権保障のための法である」という意図が見えづらく(捉えづらく)なることが考えられる。すると、【人権規定】と【統治規定】の比重の関係から、人々にとって「人権」の価値が相対的に低く感じられるものとなってしまい、人権保障を実現しようとする憲法の意志(貫かれたコンセプト)が弱まって感じられることから、人権救済機能が低下する可能性が考えられる。

 また、人権の重要性の低下が感じられることは、人々が憲法に対して感じる正当性の魅力の印象が減少してしまうことから、法の効力それ自体を普及しづらくしてしまうことに繋がってしまうと考えられる。人々の法秩序への支持率が下がることは、結果として人権保障を実現しようとする法の効力を弱めてしまうことに繋がってしまい、「法の支配」が実現されなくなってしまう恐れがあるのである。これは、「暴力による支配」や「力による支配」を招きかねないものであり、人権保障にとって不都合な結果をもたらすこととなる。

 さらに、憲法の分量の増加により、憲法の文言に含まれた「価値相対主義の人権観」、「価値相対主義憲法」、「人権は普遍性の建前として運用するべきこと」を示唆する文言が捉えづらくなる可能性が考えられる。すると、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者に対して、価値相対主義憲法としての正当性の観念の意図を訴えかけ、その心理を刺激することが難しくなることが考えられる。これは、法の正当性の基盤の確からしさに対する実存主義と価値相対主義の確信を抱く者が少なってしまうことに繋がる。その結果、法の効力それ自体の基盤を理解して法に自ずと従おうと決意する者や近代立憲主義としての価値相対主義の憲法を維持しようとする者が減少し、法の効力それ自体を弱めてしまうと考えられる。すると、法の効力が弱まることから、人権保障にとってもマイナスの影響があると考えられる。



〇 価値相対主義の憲法が硬性憲法である必要性の高さ

 ・ 人権保障のためには、極力、正当性の基盤を損なわせてしまうような改憲が行われる機会を減らす必要がある


 ⇒ 価値相対主義憲法の人権の存在根拠や法の効力それ自体の源は、「神から与えられた人権」というような価値絶対主義的な宗教的権威性によって支えられているものではない。価値相対主義憲法は、「人権の存在根拠」や「法の効力それ自体」を宗教的権威性を背景としたつくった価値絶対主義憲法とは異なるのである。

 価値相対主義憲法の効力の源は、「人権は本来存在しないが、建前として存在するかのように見せかけているもの」という原理を示唆した憲法中の文言に集約されている。そして、その文言の意図を理解するに至った極めて少数派の「実存主義的な価値相対主義」の認識に至った者によって、正当性の確からしさが理解され、その確信によって法の効力基盤が支えられているのである。

 この「価値相対主義の人権観」、「人権の普遍性の建前」という原理そのものを示唆した文言が改正されてしまった場合、価値相対主義憲法は、その正当性の背景に「神」という上位概念がもともと存在しないために、その正当性の原理を取り戻す(改正の限界を超える改憲を是正する)手段がなくなってしまうのである。

 このような価値相対主義憲法の性質から、価値相対主義憲法は、「実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力者が正当性の基盤に含ませた意図」や、「実存主義的な価値相対主義の認識に至り、憲法に含まれた文言を読み取ってその価値相対主義の人権観の正当性の基盤の意図を深く理解した後世の国民が、自ずと法の効力の正当性の基盤を支えるという連鎖」が決して壊れてしまうことのないように極めて慎重な取り扱いを必要とするのである。「神」という上位概念によって支えられているわけではない価値相対主義憲法は、まさにこの『連鎖』が保たれていることこそが、正当性の基盤の真髄であり、法の効力の源となるものだからである。

 価値相対主義憲法に含まれた「実存主義的な価値相対主義」の認識に至った者の心理に深く訴えかけられることで保たれるこの『連鎖』は、憲法上の文言に刺激されてなされるものである以上、この連鎖を損なったり、連鎖を止めてしまうような文言へと改憲がなされてしまうことは、憲法自身の正当性が損なわれることに繋がってしまうのである。もしその正当性が損なわれてしまったならば、法の効力それ自体に対する確信が失われ、人々の間でも法が普及しなくなってしまい、社会の中で通用しないものとなってしまう恐れがあるのである。そうなれば、「法の支配」ではなく、「力による支配」を蔓延させかねず、法による人権保障の実現を不可能にしてしまうことに繋がるのである。

 この正当性の基盤となる仕組みを、多数決原理という改正手続きに託す可能性を開くことは、法の存立を揺るがしかねない極めて危険なものである。価値相対主義憲法の正当性の基盤を損なってしまう機会となる憲法改正の手続きを開くことは、法の効力を損なわせ、人権保障の質を下げてしまうリスクに繋がるのである。

 このことから、価値相対主義の人権観を採用する日本国憲法においては、安易に、社会事情の変化によって改憲の需要を高めるような規律密度の増加を意図したり、改正頻度を増加させることにより人々の改憲への抵抗感を下げてしまうことは、人々の人権保障の質を下げてしまうこととなるため、妥当でないのである。



 お読みいただきありがとうございました。


<理解の補強>


「法体系」を「紡ぐ」もの -『Collection des Juris‒classeurs』に寄せて- PDF

「憲法」の比較の意味と無意味 大阪産業大学リポジトリ

原則のタイトル

 

 人権の本質について記載した97条の意味を捉えることができず、その条文の存在を軽視する者がいくらかいるようである。ただ、それは、この条文の大切さについて、分かりやすく示した「タイトル」が存在しないことも原因の一つとなっていると考えられる。


 例えば、民法1条2項には、「信義誠実の原則(信義則)」という、かっこいいタイトルが付いている。民法は、極論この条文に行き着くのであるが、タイトルが分かりやすいために、大原則であることが人々に十分に普及している。「信義誠実の原則」を否定する論者など見たことがない。


 他にも、民法には具体的な条文がなくとも「契約自由の原則」という大前提が存在している。しかし、これを否定する論者もほぼいないように、民法は「前提がよく普及している」という意味で成功しているのである。


 この成功例を参考に、97条にも「タイトル」を付けることで、97条削除論者に対して、その意味するところの本質や重要性に気づいてもらうきっかけを作ることができるのではないかと思われる。97条のタイトルを、いくつか検討してみよう。


97条「自然権の原則」
97条「前国家的権利の原則」

97条「人権の本質の原則」

97条「実質的最高法規の原則」

97条「人権の普遍的理念の建前の原則」

 具体的な条文のないものに関しても、憲法典の大前提として貫かれている精神を早い段階で理解してもらえる機会を提供できるようなタイトルをつくり出し、普及していくといいのではないかと思われる。

憲法の大前提「価値相対主義の原則」

憲法の大前提「実存的倫理の原則」


 こういう言葉を普及させておくことで、憲法の大前提を捉えていない論者の認識を、早い段階で体系的な整合性の高い段階へと導くことに成功すると思われる。

 


<理解の補強>


法教育における法的判断原理-法の四要素説を基にした動態的構造の研究- PDF

憲法学と各法学分野の役割分担・再考 慶応義塾大学リポジトリ


 改憲案を提示したい政党の政策担当者は、一応司法試験レベルの憲法の書籍を読みこなせるぐらいの水準になった方がいいと思われる。内容に関して意見の違いのある部分もあるとは思うが、司法試験レベルの書籍ならば、論点を網羅し、法的整合性について注意深い記載が多いからである。おすすめの書籍を紹介しておく。

論文基本問題 (1) 憲法120選 第4版 単行本 – 2014/1/22