憲法の求心力

価値相対主義の憲法


 憲法に込められた人権保障の複雑な意図を理解するためには、人が世界に対して抱いている「価値絶対主義」と「価値相対主義」の認識の違いについて整理して捉える必要があります。なぜならば、「価値絶対主義」と「価値相対主義」とでは、人権概念に対する認識や理解、考え方が異なるからです。

 また、憲法は人の心の意志によってつくられているものです。そのため、この認識の立場によって憲法観も変わってくるのです。


 〇 価値絶対主義
 「価値絶対主義」は、『誰もが賛成する絶対的な価値観というものはどこかに存在しており、議論していく中でそれを明らかにしていくことが大切である。明確にした価値観を多数決で決めたのならば必ず従わなくてはならない。』というような考え方を持ちやすいです。
 価値絶対主義は、絶対的な価値観を定義するがゆえに、議論しても理解することができず、主張が合わなかった少数派に対して、排他的で差別的な切り捨て方をする危険性をもっています。これは多数決原理を絶対視することによって、少数派の人権を強く侵害してしまう可能性が高いです。
 法実証主義的な多数決万能主義に陥りがちで、明文化された法を機械的に適用することが法の正当性のすべてであると頑なに信じがちな点も挙げられます。
 哲学において、「価値絶対主義」は古典的な考え方です。
 宗教学においては、「価値絶対主義」はキリスト教神学の世界観に近いといえるかもしれません。目的論的な真理を追究する傾向があるからです。(結局宗教はどちらの考え方も包括しようとしていますが。)
 「価値絶対主義」の人は、現代では人権概念は既に存在しており、既に保障されているものであり、人権が保障されないような恐怖政治が引き起こされることは歴史的に過去のものであると考えがちです。

<価値絶対主義のパターン>
 ・神による人権観の絶対性を信じる立場
 ・自然権の人権観の絶対性を信じる立場
 ・法実証主義の絶対性を信じる立場


〇 価値相対主義
 「価値相対主義」は、『何に良い悪いを感じるかという価値観は人それぞれであり、議論してその違いを明らかにして最善の策を考えることを大切である。人はそれぞれ価値観が違うので、自分の価値観を無理やり他人に押し付けて強制することはしたくない。社会生活をしていく上では、それぞれの人の持っている価値観を尊重し、すべての人が納得のいく結論に至るまで十分な議論を深めてすり合わせていくことを常に大切にしたい。』というような考え方を持ちやすいです。
 哲学や心理学の視点では、目的論的な真理などは存在せず、概念のすべては「私が思っているだけ」、「私の思考した考え方や意見」であり、人間は結局、自らの認識と意志のみによって世界は構成され、世界を形成していくという実存主義的な認識です。
 価値相対主義の立場は、人それぞれの価値観の相対性を前提としています。そのため、価値絶対主義的なものの見方をしている人の存在をも、価値相対主義の立場から承認しています。つまり、価値絶対主義の世界認識で物事を考えている人の考え方自体を価値相対主義の立場から相対化して捉え、それを一つの価値観として許容するという考え方です。たとえ自分とは違った価値観を持つ人に対しても、その人の意見を一つの価値観として受け入れ、自分とは意見が違っても、その人の人権の保障を確保するための努力を決意しています。価値相対主義のそのようなスタンスから、多様な価値観を持つ人の意見に対して広く寛容です。
 哲学において「価値相対主義」は実存主義的な考え方です。
 「価値相対主義」は仏教的な世界観に近いといえるかもしれません。(結局宗教はどちらの考え方も包括しようとしていますが。)
 「価値相対主義」の人は、人権侵害の恐怖は人々の認識の違いの中に常に現れるものであり、人権概念がある程度普及している現代においても、人権侵害が引き起こされてしまうことがないように不断の努力を要すると認識しています。

<価値相対主義のパターン>
 ・神をどう認識するかが人によって異なるため、神を根拠に人権観を形成することは妥当でないという立場
 ・自然権の人権観は、自然権の絶対性を信じる者とも調和的に法を運用できるが、自然権自体が建前に過ぎないという立場
 ・法実証主義は人権よりも多数決の決定が上回る結果を生むために妥当でないという立場



 現行憲法は、「価値相対主義」を基につくられています。

 前文では、「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」や、「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」などと示し、『決意する』という主観的な意志を採用しています。また、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「責務であると信じる。」「この崇高な理想と目標を達成することを誓ふ。」とあるように、『思う』『信じる』『誓う』のように主観的なものの見方をしています。

 ここには「法とはもともとそういうものだから信じなさい。」というような形で、この法を絶対的な価値観として読み手に押し付けようとする文言はありません。この憲法の『法』という考え方(価値観)を国民に強制するような内容は一切ありません。これが、この憲法が価値相対主義の認識によってつくられたことの表れであると考えられます。『法』という価値観それ自体を、価値相対主義の認識を前提に打ち出そうとするものです。

 この前文を「観念的である」と批判する改憲派がいます。しかし、まさにこのような趣旨から観念的である必要があるために敢えてそうしているものです。観念的であること自体に何か非があるわけではありません。

 憲法という実定法として具現化されている『法』というものの効力の大本は、終局的にはそのように人々に対して"訴えかけるもの"でしかないのです。


 憲法は人々の人権を保障するためにつくられた法ですが、もし人々に対して「この法を信じなさい」と強制するようなことがあったならば、それは既に「思想良心の自由」という人々の人権を侵害したことになってしまいます。法は、国民の人権保障を実現するために、この法を信じない人や尊重しない人さえも、当然に許容しているのです。つまり、法というものも本来的には絶対的なものではなく、一つの考え方、一つの価値観から生まれた合意事としての制度であり、この法という認識自体がそもそも様々な秩序の在り方の可能性に開かれた中の相対的な価値観の中の一つにすぎないものであることを前提につくられているのです。そのため、国民はこの法を信じることを憲法によって強制されることはないのです。
 
 12条には現行憲法の憲法制定権力であると考えられる価値相対主義者には、自由及び権利が保持されるように(基本的人権が確実に保障されるように)不断の努力が必要であると記しています。つまり、為政者の恣意的な権力行使による「人権侵害」や、価値絶対主義者の排他的で不寛容な価値観から生まれる「多数決原理を絶対視した数の暴力が行使されることよって少数派の人権が虐げられ犠牲となってしまうような悲惨な事態」が再び繰り返されてしまうことがないように、価値相対主義者はそれらの脅威に立ち向かい、闘い続けていくことが求められているのです。

 この12条が示すことは、人権という概念は、恣意的な為政者や価値絶対主義的な価値観の人々による差別や圧迫などの犠牲を生み出さないために、価値相対主義の少数の人の不断の努力とコントロールによって何とか保ち続けられる性質のものであるということです。価値相対主義の発想は多数者によって差別や圧迫を受ける苦悩の中に生まれることのある価値観の認識であり、その性質上どうしても少数派であることが多いと考えられます。現行憲法の価値相対主義の精神には、たとえ極めて少数派であっても、その価値相対主義者の強い意志と努力によって、意見の違う価値絶対主義者の不寛容な意見をも寛容に受け入れることを決意し、その価値絶対主義者の人権をも同じく保障しようとする強く深い思いが込められています。

 そのように先人たちの意志によってつくられ、不断の努力によって保たれている人権概念を、97条では「過去の幾多の試練に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」であると表現しています。ここはまさに価値相対主義の認識を持つ人による「人権が保障されたより良い社会をつくり上げていこう」という決意の意志が現れたものであり、哲学の実存主義的な生き方と重なる表現です。

 現行憲法は、人権という概念が、そのような認識の対立の中にしか実現することのできない極めて難しい性質であることを深く理解した上でつくられています。

 ただ、この法という考え方、この憲法の価値観、この憲法によってつくられる「国」という制度を支持する者や、この法という認識自体が絶対的なものではなく様々な秩序の可能性の中に選択された一つの方法であるという相対的なものであってもなお、人々の人権を保障しようと努める決意のある者に対しては、この憲法と共に、人権概念を守り抜き、人々の人権保障を実現していくことを呼びかけているのです。その意志こそが、憲法に含ませた憲法制定権力の意図した主観的な決意であり、宣言であり、意思表明であり、呼びかけなのです。それらの文言に現れる価値相対主義者の人権保障への意志、言い換えれば「気合い」によって法に実質的な効力が生み出されるのです。つまり憲法制定権力の人々の観念、それらの意志から、「憲法」という法の効力の実体が生みだされ、その意志に共感する者たちによって法秩序がその社会の中で継続的に成り立っていくのです。

 この決意の意図を身近な例で例えてみたいと思います。例えば、学校の部活動や文化祭などの活動をするときに、メンバーがなかなか思うように動いてくれないことがあると思います。そんなときに、リーダーがルールに従うように強制したとしても、やはりメンバーはなかなか思うように動いてくれないことが多いと思います。しかし、強い思いを持ち、「すべての人の幸せに貢献する」との深い決意をもって取り組み始めた人がいたならば、だんだんとメンバーの動きも良くなって、その企画活動が出来上がっていくことが多いと思います。

 法という制度の効力自体も、まさにそのようなものであり、「人権保障」という人々の幸せを実現しようとする「本気の気合いを持った人」の存在によって成り立つものなのです。そのため、憲法においても、人々の人権保障を実現することへの深い決意に至り、宣言し、そしてまさにこの憲法制定権力とその決意を支持する者の本気度こそが、法というものに実質的な効力を持たせる力の源泉となるのです。価値相対主義を採用する現行憲法も、その意志こそが、この憲法下での「日本国」という企画を成功させる力になるとの理解を持ってつくられています。


 そのような価値相対主義の姿勢によってつくられた現行憲法の価値観に賛同する者として国政に集まっている「(天皇又は摂政及び)国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員」に対しては、99条で憲法尊重擁護義務を課しています。(天皇は『思想良心の自由』も制限されることがありますので、憲法の価値観に賛同しない自由はありません。天皇は例外です。)


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第99条 天皇又は摂政及び国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員は、この憲法を尊重し擁護する義務を負ふ。

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(現実には、これらの者の中でも、現行憲法が価値相対主義であることを知らない者もいるようです。)

 現行憲法は、この法自体も相対的な価値観の一つであることを示し、その価値相対主義の立場であってもなお国民の人権を守り抜くことを決意して国の統治組織に集おうとする"志高き者"だけに憲法尊重擁護義務(99条)を背負わせることにしています。


 これは、そういった法認識こそが、人々の人権保障を真に確実にすることができるものになるとの深い理解によって生み出されたことによるものです。


 もしそれらの公職にある者が、憲法尊重擁護義務を負いたくなくなったならば、いつでもその地位を辞めることができます。法というものそれ自体も、絶対的な価値観ではなく、無数にある多様な価値観の一つに過ぎないことを前提としているからこそ、この法を支持したくなくなったときには、この法の制度を尊重擁護するという拘束を受けることを極力回避することができるようにしているのです。


 現行憲法が、敢えて国民に対して一律に憲法を尊重するよう求める規定を置いていないのは、価値相対主義の認識によってつくられていることによるものです。
 
 そういった価値相対主義の寛容な思想的基盤を基につくられている現行憲法は、


> 人間不信に陥ってしまい、何者かに与えられた価値観などをまったく信じなくなった者も許容しています。
> 様々な価値観や他者との認識の違いによって精神的に疲労し、抑うつ状態にある人の感じていることや考え方も許容しています。
> 法の文言をかなりの深読み、裏読みなどをしようと企む者など、「政府にとっては都合の悪い穿った読み方をする人」の考え方や心理状態も許容しています。

> 現在の国家体制に拒否感をもってしまい、国家とできるだけ関わりたくないと思いながら生活している人も許容しています。
> 国家とは無関係に生きていきたい人も許容しています。
> そもそも憲法を知らない人や理解していない人、理解できない人も許容しています。

> 憲法に込められた意図について、勘違いしている人や誤った理解をしている人も許容しています。
> この憲法を嫌い、尊重せず、支持しない人も当然に許容しています。
 
 現行憲法は、そういったあらゆる人を許容し、その者たちの人権をも等しく守ろうとする意志によって国家運営を行うことこそ、人々の自由や安全に対する侵害の極めて少ないより良い国家をつくることができるはずであるとの精神性を有しています。高い許容性を持って人々の自由や安全を保障しようとすることこそが、質の高い人権保障につながるとの哲学です。

 価値相対主義意志に賛同する人々を中核として国家運営を行おうとする姿勢こそが、そのような意志や決意を持っていない者に対して、この憲法の考え方に賛同するように強要するなど「思想良心の自由」を侵害してしまうことがなく、結果としてすべての人の人権を手厚く守ることができるはずであるとの考え方です。


 この価値相対主義の精神の寛容さは、様々な考え方を持つあらゆる立場の人々に対して許容性が非常に高く、より平和的で人権侵害の少ない魅力的な国家をつくるにあたって重要なものです。


 これが、
価値相対主義の精神によってつくられた憲法の魅力であり、人々の意識を法秩序に結び付ける求心力の中核であり、人々が自然に従おうとすることによって法に効力が与えられ、安定した社会を実現していくための実効的な作用を生み出す根源的な力となっているものなのです。


 そのため、価値相対主義
の現行憲法は、価値相対主義の認識の中においても「人々の人権を保障しよう」と決意に至った者に対して、この憲法と共に、人権の保障された平和的で争いのない国家をつくっていくことを"呼びかけていく"という方針を採用しています。憲法に込めた価値相対主義意志に共感する者にこそ「共により良い国家をつくろう」と呼びかけていくことにしているのです。

 


価値相対主義の憲法の寛容性


宗教的権威性を基にした人権観の価値絶対主義の憲法の不寛容性

 「価値絶対主義の憲法」のタイプには、宗教的権威性を基にした価値絶対主義以外にも、自然法の価値絶対主義、法実証主義の価値絶対主義や、人治主義的価値絶対主義など、様々なタイプがある。上記の図は、その一つとして取り上げた「宗教的権威性を基にした人権観の価値絶対主義の憲法」である。


 ここで取り上げた『神』についても、多様な『神』の観念の一つとして、排他的な宗教観の中の『神』として取り上げた。寛容な『神』の観念もあることを忘れないようにしたい。


弱者を救う意志(作成中)

 
 私たちは、「侵害を受けたり、悲しい思いをしたり、恐怖や絶望の恐ろしさを身をもって体験した人」の持つ強い思いによってつくられた物事や制度に、自分が知らず知らずのうちに守られて生きていたことに気づかされるときがあると思います。

 同じように、私たちの人生でも、実は今まで知らず知らずのうちに、「侵害を受け、恐怖や絶望の恐ろしさを身をもって解した人々」の思いによってつくられた「憲法」という法に、自分たちの「人権」が守られ、自分はその者たちの意志によって生かされていたことに気づかされる時期がきっとあると思います。



 現代でも人権侵害は常に起きうるものです。しかし、今まで「強者から侵害を受ける恐怖」や「強大な国家権力の横暴に対する絶望的な恐ろしさ」に直面する経験をしたことのない人たちには、なかなか実感が湧かないかもしれません。

 今現在、人権が十分に保障されているために侵害の恐怖を感じていない「多数派の中で運良く生きてこれた人たち」や「誰かによって守られて生きている人たち」には、
価値相対主義の憲法観に込められた人権概念の価値の本質を理解できないことが多いです。現行憲法に込められた人権概念が価値相対主義の観念によって存在していることに対するありがたみが分からないのです。

 なぜならば、現行憲法の人権概念(人権思想)が価値相対主義寛容性に裏付けられてつくられていることに対する価値の重みは、実際に自分の身に人権侵害が降りかかった苦難多き時にこそ、初めて体感的に感じられるものとして意味を読み取ることができる姿で記述されてるからです。特に、他者の抱く価値観によって強制や圧迫を受けるような閉塞感の漂う中で、自身の立場を保つことができないような侵害を感じる中にこそ、価値相対主義の人権観の真価を理解するに至ります。

 これは、人権概念の本質部分をつくった
実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力者(狭義)が、「『自分の受けた侵害や恐怖を、同じように繰り返してしまうことで、次の世代の者に経験させてしまうことがないようにしたい』という思いを、価値相対主義の憲法観として込めたその真意を知るときにこそ、その憲法の本質的な価値を知ることとなる」というような側面です。価値相対主義の認識によって構成される「価値相対主義の憲法」の「価値相対主義の人権観」の意図は、「失われたときに初めて体感的に気付く」というような性質を持っているのです。

 この側面は、まさに絶望的なまでに侵害の恐怖の認識を身をもって経験した者にしか、なかなか理解しづらいところです。


 法の効力の源泉となる人権概念の権威の性質の本質部分(正当性の源)は、強者から侵害を受けるという過酷な経験を胸の中に刻み込まれ、人権が保障された自由で平和な社会を強く望む意志を持つに至った「人権侵害の恐怖を知る者」によってしか十分な理解を持ちづらいという性質があるのです。

 それは、
法制度の効力を成り立たせるためには、その実質的な正当性源を、人の希求する自由や安全が守られた生存活動を維持しようとする意志に置く必要があるからです。

 (これは、絶対的な価値観と主張されるものを相対的に捉え、それを一つの価値観として許容しようとする相対主義のスタンスに人権の本質があり、その人権という概念を守ろうとすることにこそ人権という一つの価値観が成り立つという複雑な側面に正当性の源を求めることの大切さを理解し、その正当性の在り方を守り続けようとすることを意欲付けられた経験を持った者によってしか理解できない部分です。)

 
 価値相対主義の精神によってつくられた憲法は、人の人生の中で他者との認識の違いによって不利な立場に立たされたり、理不尽を受けたりする可能性を常に想定しています。また、強者から侵害を受ける恐怖の中を生きることを前提としてつくられています。

 価値相対主義の精神によってつくられている憲法は、人権侵害の恐怖を身をもって知っている少数者が、それを未だ知らない多数の人々の人権をも守ることを決意して打ち出された法です。

 そこに込められた意志は、常に侵害されやすい弱者を救おうとするものです。

 それは、何としても、すべての人々の自由や安全を等しく無条件に守ろうとするような強い思い(意志)によるものです。

 ここは、法の制度が単に条文の文言のみによって物事を機械的に割り切って処理するためだけの道具(運用されることのみを目的)としてつくられているわけではなく、もともとは侵害されやすい弱者を助けようとする人の共生性を取り持つ思想的(道徳的・倫理的)価値を持つ哲学的な意志によってつくられたものであることを感じさせるところです。人権保障を目的として生み出されたものとして成り立っていることを感じさせるところです。

 法の正当性の大本にあるものは、実存主義的な価値相対主義の人の心の奥深くにある、すべての人々と共に生きられるようにしようとする深い寛容の精神に裏付けられた優しい心によってつくられているのです。

 その道徳的・倫理的な共生性の意志によって、人権概念の性質を価値相対主義の認識によって「普遍的なもの」という建前を置こうとすることこそが、人権概念の存在根拠であり、その正当性を裏付ける根源となるものです。


 この憲法の効力基盤である人権概念の正当性の根拠となる性質は、憲法に定められた単なる「多数決原理の過程を経る」というシステマティックな手続き上の正当性だけでは生み出すことができないものです。


 そのため、現行憲法の人権概念の本質部分をつくった実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力者(狭義)は、法の原理(仕組み)をつくり出す際に、必ずしも「多数派で運よく守られて生きてきた者たち」の意思が反映されやすい多数決原理の手続きを重視していたわけではありません。

 なぜならば、
過酷な侵害を受けるような立場に立たされることなく生きることができた多くの者は、人権保障をより高い精度で実現するために必要な「人権概念の本質部分(相対的な認識の上に成り立たせるべき性質であること)」について的確な理解を有していないことが多いからです。

 「人権概念は実定法に優越する」ということを前提として法制度を構築する意図は、強者や多数派による侵害の恐怖を実感している者にしか、その真意や重みを十分に理解することができないことが多いのです。

 その者たちによる多数決原理によっては、自由や安全を守るための正確な判断を行うことができず、妥当な法運用ができないからです。

 そのことから、今後も少数の法原理の理解者(実存主義的な価値相対主義者)によってしか、人権概念を人々の自由や安全を確かに守ることのできる姿へと創造し続け、適正に運用していくことができません。


 憲法改正が行われる際、「運良く生きている多数派」や「誰かによって守られていることもに気づいていない多くの者たち」は、人権保障を実現するための法をつくるために見落としてはいけない「法認識の前提部分」や「人権概念の本質的な性質」が分からないまま多数派を形成してしまうことがあります。すると、その多数派の行った憲法改正の手続きによって、人権の性質を示唆する法の文言や意図を破壊してしまうことになりやすいです。その結果、その乱れた法それ自体が、人々の自由や安全を奪う者として作用するものへと変容し、自己加害につながってしまうことがあります。

 憲法に込められた深い意図を理解できなくては、自由や安全を保障するための正しい判断を行うことができないのです。

実存主義憲法の訴えかけ(作成中)


 前文、97条、11条、12条などには観念的な文言が見られます。

 なぜ観念的な書き方をしているかというと、憲法という価値観自体が、「絶対的な秩序観念」というわけではなく、相対的な秩序観念の一つであることを前提として具現化されたものであることを示す必要があるからです。
 
 もし、人々に対してこの「法」という秩序の認識それ自体を「絶対的な観念と信じなくてはならないもの」として扱うよう強制してしまうと、人々の考え方の自由を奪ってしまうことに繋がります。

 他者に対して、憲法の「人権保障の実現」という価値観を信じて賛同するように押し付けてしまうと、その行為が既に「思想良心の自由」という人権を奪う行為となってしまい、パラドックスを抱えることになるのです。


 これでは、多様な価値観を認めようとする「思想良心の自由」という人権を侵害することになってしまい、憲法が本来目指していた人権保障という目的を達することができなくなってしまいます。

 本来の目的である人権保障を高い品質で実現することはできず、憲法が意図する「人権保障の実現」を妨げてしまいます。


 人々の
人権を手厚く保障するためには、「人権保障の実現を目指す」という近代立憲主義の憲法の価値観でさえ、「絶対的な観念である」と人々に押し付けることになってはいけないのです。


 全ての人に人権を与え保障しようとする憲法の価値観、「法」という秩序の観念自体でさえも、「絶対的なもの」として人々に強制するものとなってはならず、相対的に考える必要があるのです。


 このことから、憲法中の文言では、この「法」という価値観についても、その社会の中で価値絶対主義の認識によって運用されてしまうことのないような形の表現で記載する必要があります。

 そこで、「法」という価値観自体が、価値相対主義の認識の基盤から導き出され、個々人の主観的、観念的な意志によって成り立つべきものであることが示される必要があるのです。

 このことから、憲法に含まれる価値観の体系は、およそすべての人の人生で起き得るあらゆる心境に対してより良く働きかけるような思想に裏付けられた姿でつくられ、それを読む人々に対して発せられ、訴えかけ、伝えられるようなものである必要があります。

 そして、その内容に感銘を受けるなどし、自らの思いや決意としてその者たちの心の中に生き続ける意志となった時に初めて、人権という一つの価値観の生命力が維持され、それに裏付けられた法の正当性の効力基盤が成り立つべきものとしている必要があります。

 人権保障実現のための憲法という法制度を構築するにあたっては、「『人々の人権を保障しよう』という決意を自ら持った者によって自主的に運営されることではじめて、人々の人権が手厚く保障される質の高い法制度として成り立つはずである」との姿勢によって打ち出されることを前提としている必要があります。

 価値相対主義の憲法は、人々の人権保障を確かに実現できる法とするためには、それ以上のことは、人々の人権を侵害しないために本来的にできない性質のものであることをよく理解してつくられています。

 (そもそも、真意でない価値観を強制しても、価値相対主義を理解した上での確かな決意には繋がることはないという事情もあります。)

 これは、「この憲法の価値観(精神)に賛同しない人をも、許容する」という寛容な価値相対主義者の認識によって、より良い社会を共につくり上げていこうとする意志を感じさせる形のものです。

 現行憲法が、価値相対主義の認識を持った者によって、価値相対主義の人権観(普遍的価値の建前)を基盤としてつくられたものであることを象徴しています。

 これは、実存主義的な価値相対主義の「人権保障への意志」の象徴的な姿が現れている部分です。

 現行憲法は、このような実存主義的な価値相対主義の認識に至った人々の抱く思想を、一つの法体系として意味を構成し、条文の形で実定化したものなのです。

 現行憲法に込められたその象徴性は、
実存主義的な価値相対主義の認識に至った人々の心理に深く訴えかけるものがあります。

 これは、「価値絶対主義の認識」から心理的危機を経て「価値相対主義の認識」に至ったとしても、それでも「価値相対主義の認識」は「価値絶対主義の認識を持つ他者」を排除しようとはせず、その「価値絶対主義の認識」を「価値相対主義」の立場から一つの価値観として相対化して捉え、その考え方を許容することで「価値絶対主義者」の人権をも「価値相対主義の認識」から保障しようとするものです。

 そして、その上で、人々の人権が保障された平穏な社会と生活を維持していくために、この『人権』という建前を掲げ続けていこうと呼びかける強い意志に裏付けられたものです。

 これらの文言は、心理学や哲学、宗教学における「古典的認識から実存主義の認識へ至る過程」にある心理的危機や激動の時期を越えるために役立つ示唆的な文言に類似したものです。

 憲法に含まれたこの訴えかけは、他者との考え方や認識の違いによって著しく不利な立場に立たされた時などに起きる「人間の心理的危機」や「価値観の激動や流転の時期」(ヤスパース哲学の限界状況)を越えながらにして、なおその認識のあり様を許容するものです。

 これらの文言に含まれた価値相対主義の法認識の観念を表した象徴的な姿は、その時期にある者がこれを読み取った時に、その心理的危機や激動の過程を乗り越えることができるように導くことを意図していると考えられます。

 この文言は、私たちが社会を生きる人生の中で、人々からの侵害を受けるような過酷な立場に置かれている時期や、不安な心理に抑圧された価値観の激動の時期にこそ胸に響き、「価値相対主義の発想で世界を認識する」という"憲法をつくった価値相対主義者"の訴えかけを感じられるという(ものとして)刺激を与えてくれている機能があります。

・・・・・・・・・・・・・・・・
R
 憲法の法認識が、人々に対してこの憲法を信じて尊重するように考え方を強制するようなことはせず、その人が感じるそのままの思いや自主性を大切にする寛容の精神を持った価値相対主義の思想的背景に裏打ちされた姿であることは、他者との認識の違いによって考え方を強要されるような圧力を受けていたり、強者に非道な扱いを受けてしまったときのような絶望的な状況下でこそ胸に響き、その状況下での抑圧された心理的危機をも救い上げる作用を持っています。
R
  「憲法が価値相対主義の考え方によってつくられている」というこの前提からは、たとえ人と人との認識の違いによって直面する様々な侵害を受けるような劣悪な環境や過酷な立場に置かれた時にあっても、なお人権保障実現への高い理想を掲げて生きていこうとする強い意志を感じさせる面があります。
R
 実存主義的な価値相対主義者の寛容の精神によってつくられた憲法に表れるその姿勢は、すべての人を真に救おうとする熱い思いを感じさせるものがあると思われます。
R
 憲法という国家の最高の権威であり、強い効力を持った法という実力が、人々の抱くあらゆる考えやすべての思いを受け入れる寛容さを持っており、たとえ苦しい立場や時期にあっても、その時に感じるありのままの意識や認識を抑圧したり、否定するようなことは一切せず、たとえ考え方や意見、認識が違ったとしても、それでもその者の存在を許容し、その者の人権を他のすべての人々と同じように保障しようとする道徳的・倫理的な共生性に裏付けられた実存主義的な価値相対主義者の意志や決意が感じられるようにつくられていることは、困難な立場に置かれている時にこそ、すべてを受け入れられて守られているような救済感を感じさせるもの(面・役割・機能)があります。

R2
 また、憲法に込められたその真意を読み取った時にこそ、実は国家の最高の権威として公に効力を持っている憲法という法の人権概念の本質部分をつくった憲法制定権力が、多数派に怯えたり、侵害の恐怖を感じたりしている今の自分の置かれている状況と同じような境遇の者であったことに深い親近感を抱き、そのような侵害されやすい苦しい立場にある者にこそ強く保護を与えようとする人権保障実現への強い意志を感じさせる文言は、困難な時期にこそ大きな大きな味方を得たような心強く救われる思いを抱かせるものがあります。
C
 それは、この憲法を制定した先人が、実は苦しい経験を受けて自分と同じような心理過程を経た実存主義的な価値相対主義者であったことに対する深い感銘から来るものであり、その先人の意志に強い共感を抱くからです。
・・・・・・・・・・・・・・・

G
 憲法に含まれたこの訴えかけは、「限界状況」や「死に至る病」などの絶望的な状況を経験し、人権概念それ自体が誰かによってつくられたものに過ぎないものであることを理解した「実存主義的な価値相対主義の認識に思い至った者」の行き着く、それでもなお人々の人権保障の実現するために『人権』という概念を掲げ続けようと決意する意志を集めるために強く機能しています。

 これは、『人権』という概念が本来"存在しないもの"であるにも関わらず、先人の実存主義的な価値相対主義の者が人々の人権保障を実現するために『人権概念の存在と価値と正当性』を創造し続けてきたように、同じく実存主義的な価値相対主義の認識を得るに至った自分自身も、その認識の立場から『人権概念の存在と価値と正当性』の創造に努めていこうとする決意です。
G
 「価値相対主義の寛容性に裏付けられた憲法の精神」に共感した者が、自らも、そのような思いを現行憲法に込めた「価値相対主義の認識を持つ憲法制定権力者」や、「価値相対主義の憲法観を守り続けてきた先人」と同じように、人々の人権を保障しようと努力していく決意を導く側面です。

 これは、それを読み取り、その意志に共感するに至った者が、その実存主義的な価値相対主義の認識を持つ者としての役割を引き受ける覚悟や決意を導く作用があると思われます。

C
 その決意は、他者から強制されて形成されるような意志ではありません。

 これは、今までの価値絶対主義の認識を持っていた自分自身が、「人権の存在と価値と正当性」の本質を真に理解した価値相対主義の認識の者によって、守られて生きていたことを知った(生かされていたことに気づいた)時の衝撃的な実感からくるものです。

 そして、自らも、以前の自分と同じように「未だそのことに気づいていない他者を守っていく」という役割を引き受けようと決意するに至った時の自然な意志によるものです。
C
 この者が「自分とは考え方が異なる者の人権をも保障する」や、「価値相対主義の認識に至らない価値絶対主義の認識を持つ人の人権をも保障する」、「この憲法を尊重しない人の人権をも保障する」などの高い寛容性を持った人権保障実現への決意意志)に至る理由は、以前は自分自身でさえも価値絶対主義の認識を持っており、知らず知らずのうちに価値相対主義の認識を持つ者の人権保障実現への高い寛容性を持った意志によって守られて生きていたことを深く理解したことによるものであると思います。

 それは、「
価値相対主義の認識に至った今の自分」も、価値相対主義の先人が「価値絶対主義の認識を有していた今までの自分」を高い寛容性を持って保護してきたことと同様に、「『価値絶対主義の認識だった自分自身』の人権をも、価値相対主義の立場からやはり保護してあげたい」という願いが生まれることによるものと思います。

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 人生において、どの時期に実存主義的な価値相対主義の認識に達し、「価値相対主義の認識に達していない価値絶対主義の認識を持った人の人権をも同様に守り抜く」という決意に至るかは、人によって違います。

 人によっては、その決意に至ることなく人生を終えることもあります。

 価値相対主義の精神においては、この法という価値観でさえ絶対的なものとは考えていないため、そのような決意行うように他者に強制することはありません。

 現行憲法の価値相対主義の精神は、そのような価値相対主義の認識の立場から、多数派だけではなく、「すべての人の人権保障を実現する」という強い決意を経験した者たちと共に、より良い国づくりをしていこうとする思いを描いてつくられているものです。

 そのため、価値相対主義の憲法は、価値絶対主義の認識から価値相対主義の認識に至る激動の時期が到来する者が現れるのを待ち、その後、その者が自ずと実存主義的な価値相対主義の考え方に対する深い共感を抱くことによって、そのような深い決意を持つに至ることを最も重視しています。その人自身の自然な意志によってそこに至ることが重要なのです。

 このスタンスから、憲法中では「実存主義的な価値相対主義の立場から世界を認識する」という物事の捉え方を刺激する言葉(暗号)を散りばめることにしています。前文や97条、11条、12条などの文言は、価値観の激動の時期が到来し実存主義的な価値相対主義の認知へ至ろうとする者に対して刺激を与え、その憲法を打ち出した先人の生き方の意志のあり様を訴えかけるように意図しているものです。


 価値相対主義の精神によってつくられた憲法には、その法が人々の人権保障を確かに実現するものとなるように、価値相対主義ストイックで慎み深く、慎重でありながらも強い意志を持った態度(スタンス)が含まれています。
 


 政治家という立場からでは「天皇の政治利用」となってしまうため発言できないところですが、現在の「象徴天皇制」として行われている天皇陛下が国民の心を気遣われる活動の救済感の背景には、このような実存主義的な価値相対主義の憲法観から生まれるすべての人々に対して寛容な姿勢を貫く道徳的・倫理的な共生性に裏付けられた姿勢から生まれていると考えられます。


 象徴天皇制には、このような現行憲法の寛容な精神を、一つの人格として体現し、人々を現憲法秩序の下に取りまとめる役割を持っていると考えられます〔国民統合の象徴(1条)〕。そして、その生き方こそが、「日本国の象徴(1条)」となっていると考えられます。


 このような人権保障実現への強い意志や、その生き方から感じられる救済感は、単なる多数決の決定のみに正当性の基盤を置く法実証主義的な価値絶対主義によってつくられる憲法観にはないものです。

法の魅力をつくる努力(作成中)

 
 たとえ憲法を制定したとしても、そこに書かれた文字の羅列それ自体に、法の効力の実体が存在しているわけではありません。また、実定法として具現化されている法制度の概念の枠組み自体に、法秩序をつくり上げる力があるというわけでもありません。

 法は、人々がその正当性を認知し、支持し、自ずと従おうとすることによって初めて、効力が成り立ち、実効的な秩序を形成するに至り、社会の中で通用する実力となる性質のものです。

 そのため、人々に支持される憲法でなければ、その効力や実効性は人々の間に広がることはありません。

 このことから、社会で通用する実効性を持った法を生み出すためには、「いかに人々に支持される法をつくるか」という観点から、『法の求心力』を保つ仕組みが必要となります。


 『法の求心力』を保つための仕組みとなっているものは、法制度の正当性を裏付けるものとして存在する、人々の自由や安全を最低限守るための『人権』という概念の魅力が大きな要素です。(魅力としては、他にも、『国民主権』や『天皇制』、『平和主義』などの要素があります。)

 しかし、『人権』という概念自体は、本来存在しなかったものです。もともと存在しないところから、新しくつくり出した単なる一つの価値観に過ぎません。

 そのため、単なる文字の羅列としての憲法の中に、『人権』という文字を書き込んだだけでは、『人権』という概念それ自体の正当性や魅力が生まれ出るわけではありません。文字として書いたからといって、人権概念の存在の確からしさや生命力を保つことはできないのです。

 このことから、憲法が効力を持ち、その社会で通用する実力として成り立つためには、『人権』という概念の正当性や魅力をつくり続ける者が必要となります。

 そのため、憲法の文言の中には、この本来存在しないはずの『人権』という概念の価値観自体を守り、生命力を保つことのできる者を呼び集めるの仕掛けが必要です。

 『人権』という概念のより根源的な性質を理解し、その概念の魅力を守り通すことができる者を集める仕掛けです。

 その仕掛けとは、憲法の中に一般的な法の求心力の要素となっている『人権』という魅力が示される以前にある、『人権』という価値観自体を守ろうとする者を呼び集める別の『求心力』です。


 その別の『求心力』を生み出す仕組み(の要素)となっているものは、憲法の中に「人権概念の存在と価値と正当性」をつくる実存主義的な価値相対主義者の寛容の精神が含まれていることです。

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法の効力 ⇒ 法に求心力が存在 ⇒ 人権の魅力という求心力 ⇒ 実存主義的な価値相対主義の寛容性の求心力
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 これは、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者が、人権という概念が本来"存在しない"ものであることを理解してもなお、人々の自由や安全を保障するために、人権が"存在する"という前提を守り抜こうと決意し、「この法という観念で人権が保障された理想的な社会をつくろう」と人々に訴えかけるようにして、同じ考えに至った者の決意の意志を集めようとする姿勢が示された文言のことです。

 この姿勢は、本来「人権は存在しないもの」であることを知るに至った後においても、「神を根拠に人権は存在している」や「自然法を根拠に人権は存在している」、「法実証主義を根拠に人権は存在している」などと信じている価値絶対主義者の考え方自体を、価値相対主義者の立場から一つの価値観として承認し、なおその者たちの自由や安全を守るために「本来存在しない」はずの人権という概念を「存在するもの」と仮定して関わり、その者たちとも共生を保とうとする寛容な精神です。(を持っています。)

 この、すべての人々の人権保障の実現を目指す姿勢(道徳的・倫理的な共生性意志)により、法の効力の基盤となる「人権概念の存在と価値と正当性」の権威を人々の意識の中に創造する実存主義的な価値相対主義の寛容の精神は、すべての人々の人権認識のあり様を穏やかにまとめ上げるような求心力を有していると考えられます。

 これこそが、現行憲法が法秩序を成り立たせるために採用している価値相対主義による法認識を前提とした寛容さに裏付けられた人権保障の仕組みの本質となっている部分です。

 この寛容さに裏付けられた求心力は、単に「神の力」や「自然法というイデアの世界」、「機械的で完璧なシステマチックさを追求する法実証主義」などの考え方を信じることによって生み出されるものではありません。

 確かに、人権の存在と価値と正当性「神の力」や「自然法というイデア」、「機械的で完璧なシステマチックさを追求する法実証主義」などの考え方を根拠として生まれていると信じる者たちの中では、それらの考え方を抱くことによって、法に一定の
求心力が生まれる側面があるかもしれません。

 しかし、その者たちの信じている「神」「自然法」「法実証主義」などを根拠として「人権概念が存在し、価値と正当性がある」という認識を抱く感覚の確からしさをつくったり、その認識を抱くことを許容することでその者の思想良心の自由という人権を守ろうとしているのは、実存主義的な価値相対主義者道徳的・倫理的な共生性意志によるものです。価値相対主義の立場から、「神」「自然法」「法実証主義」などを人権概念の絶対的な根拠であると信じている者の価値観を承認して保障しようとするところにこそ、人権の本質があるからです。

 そのため、実存主義的な価値相対主義者のこの道徳的・倫理的な共生性意志こそが、「人権概念の存在と価値と正当性」の権威性を維持する力となるものであり、単なる文字情報に書かれたものでしかない現行憲法が、実際の社会の中で人々に認められ、効力を持った法として成り立つものとなるための求心力の中核なのです。 

 この法の効力をつくる求心力の中核部分は、人々の意識の中にある『人権』という概念の認識それ自体を創造している実存主義的な価値相対主義者道徳的・倫理的な共生性意志によって生み出されたものです。


 この人権概念の根本的な性質は、考え方の違う他者を切り捨ててしまうような思想からはつくれ得ないものです。なぜならば、「神」「自然法」「法実証主義」などが人権の根拠であるとする価値観を絶対的なものとして押し付けるような憲法をつくってしまったならば、それ自体が、思想良心の自由という人権を侵害することになってしまうからです。他の考え方を受け入れない形で憲法をつくってしまったならば、その憲法という価値観自体が、人権を侵害する原因となってしまい、矛盾に陥るのです。

 このような思想良心の自由という人権が十分に保障されない憲法であっては、人々からの自然な意思による賛同を得るものとはならず、法の効力も弱まってしまいかねないのです。

 よって、長い目で見た場合には、「人権の普遍性を建前として掲げる」という価値相対主義の寛容な精神に裏付けられた憲法を維持しようとする実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性の意志は、人々に支持され続ける法秩序をつくる上で大きな求心力を持っていると考えられます。
 

法の魅力の仕組み(作成中)


 人は、法がなくとも地球上に存在しています。そのため、本来的には文字に書かれた法がなくとも、人は集団を形成し、社会を形づくることができます。人は、実定法が生み出される以前からもともと存在しているからです。

 ただ、人が他者と共存し、円滑な社会生活を営むことができるように、法(ルール)を形成することが多いです。しかし、その法とは、誰かが定めたと宣言したからといって、必ずしもその社会の中で受け入れられ、実効性を持つとは限りません。その法を受け入れない者や、賛同しない者が出てくるからです。

 法とは、結局は文字の羅列や意味の集合体でしかないものです。それを人々の意識が自ずと従おうとすることによってしか、効力は生まれず、社会に通用する実力とはならないのです。法の概念自体に、人々が自ずと従おうとする権威が備わっているわけでも、人々の行動を物理的に強制する性質があるわけでもないのです。

 また、法と名乗る一つの価値観が存在するだけでは、その法がそれ以外の価値観よりも優越して実行されることに対する正当性の根拠を見出すことはできません。法という価値観のみによっては、法を名乗る複数の秩序が現れた際、その優劣を決して他を排除することができないからです。

 これでは法を名乗る一つの価値観でしかないものが、人々に広く適用される確かな秩序として通用するものとはなりません。そのような「法と名乗るもの」は、個人の内心の趣味の世界だけで通用するものです。すべての人々に作用させる公共的な性質を持たせるだけの正当性を有していません。
法という一つの価値観のみによっては、その正当性を確固たるものとして正当付けることはできないのです。

 また、誰かが定めたと宣言した「法を名乗るもの」は、一定の価値観を人々に強制するものであったり、しばしばそのルール自体が人々に対して侵害的に作用することがあります。法という一つの価値観でしかないものが、人々に対してある価値観を抱くように強制したり、他の価値観を圧迫したり、少数者を侵害したりすることが起きてしまうのです。


 この問題は多くの場合、深刻な対立を引き起こし、力を持った強者によって虐殺が起きたり、戦争を引き起こしたりすることになります。


 これらの問題を回避するためには、多様な価値観を共存させながらも、なおかつ法の効力が優越的な性質をもって社会で通用する実力となるような仕組みに正当性を見出す必要があります。

 それは、多様な価値観を共存させるためには、その前提として「思想良心の自由」が必要となり、この観念を認めることに優越的な価値を見出そうとする仕組みです。価値相対主義の価値観に裏付けられた仕組みです。


 ここに、「人権」という新たな概念が生み出されます。これは、
絶対的な価値観として強制するわけではないが、建前として「人権」という概念を「普遍的な価値」「普遍的な理念」として扱おうとすることにこそ、唯一性や普遍性の正当性を見ることができるはずだとの観念によるものです。

 
人々は高度な社会を形成するにあたって、自由や安全をより確かなものとして形づくることを求める心(意志)を持ち、「人権」という概念を掲げることに正当性を見出すという手段を生み出したということです。

 そして法制度をつくる際にも、前提として「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という建前を掲げることにこそ、その法制度を正当付けるための権威を基盤とすることにしたということです。(近代立憲主義)この「人権」という概念に裏付けられた法にこそ、他の価値観を排して実効性を有させるだけの正当性を見ることができるはずだとの価値観によるものです。



 法とは、文字の羅列や意味の集合体でしかないものです。そこには、本来的に何の権威も存在せず、人々に作用する実力とはなりえないものです。

 しかし、その文字の羅列や意味の集合体でしかないものが、人々に権威を認められ、自ずと従おうとさせる力を持ち、社会で通用する実力として効力を持つに至るのは、この「人権」という概念を建前として掲げようとすることによって、人々の自由や安全を守り抜くことが可能となりやすいという魅力によるものです。

 人々の意識の中に自ずと従おうとする気持ちが生まれ、法が効力を持ちはじめることは、法が「人権」という概念を保障するためにつくられた仕組みであることに基づくものです。
 

 人々が自ずと従おうとする法は、その正当性が「人権」という権威に裏付けられていることによって成り立っているのです。

 つまり、この「人権」という権威の仕組みが、人々に認められ、社会の中に広まっていることにより、法の効力は成り立っているのです。

 法の効力は、人権概念を保障するためにつくられた仕組みであることにより、人々が自ずと従おうとする意識が生まれ、社会に通用する実力として成り立つものです。
 

法の求心力の源泉(作成中)


 法に効力が生まれるためには、前提として「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という人々の認識が必要です。これは、法とは本来的に文字の羅列や意味の集合でしかないものであり、その正当性を決定づける価値や権威がなければ、人々はその法に対して自ずと従おうとする気持ちを抱くことはなく、社会で通用する実力とはならないからです。

 しかし、人権概念それ自体は
、様々な考え方を持った人との間で、哲学的な認識論の対立の中に不断の努力で維持し続けていくことによってしか成り立たせることのできない性質のものです。
なぜならば、人権という概念は本来的に存在せず、それでもなお、人々の自由や安全を守り通すために必要とされる観念として、"存在する"という建前を置くことによって生み出されているものに過ぎないからです。

 ただ、この人権という考え方を他者に押し付けてしまうと、その者の「思想良心の自由」という人権を侵害することになってしまいます。これでは、人権という概念を生み出したにも関わらず、人権を保障しようとする意図が達成されないという矛盾に陥ってしまいます。

 そのため、
人々の意識の中に強制しない形で人権という認識を広め、その確からしさを獲得し続けていこうとする認識の戦いの決意や意志こそが、人権の存在根拠であり、その意図を発揮する価値となり、正当性と認めることができるはずのものとなります。

 人権保障を実現するために生み出された『法』という秩序観念の効力の源は、この意志こそが本質なのです。(
この意志こそが、法の効力の源泉となっているものです。)

 よって、法の効力が保たれていることで人権の保障される社会をつくるためには、不断の努力によって「人権という概念の存在と価値と正当性」の建前を守り続けようとする意志が必要となります。

 『人権』という概念に正当性の基盤を置いている法制度の効力は、すべての人の幸せな生活をつくり上げようと決意して、どんな状況下でも、どんなに憎い他者であっても、その者の人権を自分や他の者と同じように尊重しようとする『愛』ともいうべく道徳的・倫理的な共生性の寛容な意志に裏付けられた優しい心を根底として持っている者が、不断の努力によって「人権という概念の存在と価値と正当性」の確からしさを維持し続けることによってしか成り立たないものなのです。


 人権という概念の本質的な特性や、憲法に込められた人権保障実現への深い意図をまさしく理解し、その認識を基に法の効力基盤を運用していくことができるのは、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者です。この世界の自然法則や社会の有り様を達観した者が合意に至る精神的発達段階(構造主義的発達段階)の高い次元にある認識です。

 この者は、侵害を受けるような堪えがたい苦悩を通り、価値相対主義の認知に至った心理的発達段階が比較的進んだ者です。また、この経験から、すべての人々に支持されるような価値相対主義の寛容さを有した法秩序をつくることの大切さをよく理解しています。

 人権保障の大切さに思い至っているこの実存主義的な価値相対主義者の「すべての人の人権保障を実現しようとする道徳的・倫理的な共生性の意志」によって、「人権という概念の存在と価値と正当性」がこの社会の人々の認識の中に創造されており(生み出され続けており)、その概念の正当性に裏付けられる形で、法の観念が生み出され、実定法として法制度がつくられ、そこに人々が権威を認めて自ずと従おうとすることによって法の効力の基盤が形成されるのです。(法制度の効力成り立っているのです)。

(人々の最低限の自由や安全の枠組みを守り通すための法の観念)
 
 この「人権概念の存在と価値と正当性」を創造する(生み出す)意志は、道徳的・倫理的な共生性の意志によるものです。

 法の効力の実質は、人権保障が大切であるとよく理解している価値相対主義の認識を持った人が、不断の努力によって「人権概念の存在と価値と正当性」を人々の意識の中に維持することによって成り立っているものなのです。

多数決による価値相対主義憲法の破壊(作成中)

 
<問題提起>

 法とは、単に「何者かによって与えられた『法』という概念の正当性を信じ、適用し、従っていれば、
あらゆる社会秩序が保たれ、より良い社会が成り立つ」という性質のものではありません。

 なぜならば、「すべての人の人権保障を実現する」という究極目的は、単なるシステマチックな制度としての多数決原理のみによっては達成することができないものだからです。
多数決原理は、もともと「人々の人権救済を確実とする」という性質を持っているわけではないのです。

 また、法の効力の源泉は、条文の文言通りに機械的で完璧なシステマティックさを追求する法実証主義の考え方によって生み出されているものではありません。

 法とは、人々が権威を認めて自ずと従うことによって、初めて実効性を持ち、効力が生まれる性質ものです。その人々が自ずと従おうとする権威の源泉(根拠)は、「人権概念の存在を建前として掲げる」という価値相対主義に裏付けられた人権観に基づいて法を構築しようとする意志によるものです。


 しかし、もし多数派の価値絶対主義者が、憲法の本質が単なるシステマチックな制度であるとみなして多数決原理という手続き上の正当性を法の正当性の根拠であると絶対視し、勘違いした認識のまま改憲に踏み切ってしまうと、多様な価値観を保障しようとする寛容な『価値相対主義の憲法』から、『価値絶対主義の憲法』に変わってしまう恐れがあります。

 これは、人々の自由や安全が脅かされてしまうような大変危険な事態を招いてしまいます。

 『価値絶対主義の憲法』は、非常に許容性の低い認識によってつくられるもので、あらゆる立場や考え方を持つ
人々の心理を十分に受け止めて包括しようとする寛容さを有しておらず、その憲法の価値観しか認めようとしない不寛容なものだからです。

<効力がある場合、侵害の恐れ>

 もし、価値絶対主義憲法に変わってしまった場合、それは近代立憲主義のいう憲法ではなくなってしまいます。たとえ
その法の効力が社会の中で成り立っていたとしても、その憲法の価値観に正当性を感じない者や、その法の内容に従おうとしない者を許容しない法であるため、「思想良心の自由」という多様な価値観を保障するための人権を奪うものです。

 また、その内容は、絶対主義的な価値観を強制したり、人々に多くの義務を課したりするような価値観によってつくられることが多いです。こうなると、多数派に絶対的な正当性があると見なし、他の考え方を抱くことを許さない「全体主義の力による支配」が生み出される恐れもあります。

 これは個々人の利益のために勝ち馬に乗りたがる心理によって勢力争いの闘争を繰り返す乱暴な多数派勢力の拡大をさらに招いてしまうものです。多数派とは違う考え方を持つ者に対して、悲惨な人権侵害が起きやすい危険な状態となってしまいます。

 他にも、手続き上の多数決原理によって、憲法中の「自然権(あるいは実定法以前に道徳的・倫理的な共生性意志から生み出された人権概念)の存在を想定している実定法上の人権の根拠となる条文を文言」を失わせてしまうと、多数決によっては人権をも奪うことができるかのような条文となってしまいます。

 また、手続き上の多数決原理によって、憲法中の「自然権(あるいは実定法以前に道徳的・倫理的な共生性の意志から生み出された人権観)」の性質を変更してしまうと、人権という一つの価値観を絶対的なものとして信じるように強制するような条文としてしまい、それが思想良心の自由という人権を損なってしまうものとなってしまう恐れがあります。

 これでは、本来的な人権の在り方に矛盾が生じてしまいます。


<効力が失われる恐れ>
 
 憲法から、「価値相対主義の認識に基づいた質の高い人権保障が実現される世界をつくろう」として価値相対主義の憲法や人権観を守り通そうとする人々の決意の意志を集めようとする姿勢(機能)を持った文言が失われてしまったならば、その社会の中では、すべての人々に対する道徳的・倫理的な共生性意志によってなされる「法の手続き以前に、人権の正当性が勝る」という前提認識を人々の意識の中につくり上げることで、人権の保障される価値を守り通そうとする寛容の精神が失われてしまうことに繋がります。

 そうなると、
実存主義的な価値相対主義の認識に至りつつある者に対して、憲法が価値相対主義の人権観に裏付けられていることを刺激する機能が失われることから、価値相対主義の認識によって法の効力基盤を守ろうとする者を継続的に確保することができなくなってしまう恐れがあります。

 このような『法の求心力』の中核となっている「人権概念の存在と価値と正当性を創造しようと努める者を集める訴えかけの機」を損なってしまう改正は、現行憲法の持っている「許容性の高さを確保することによってすべての人々に質の高い人権を保障しようとする価値相対主義の寛容さ」から生まれる求心力を失わせしまうことに繋がります。

 価値絶対主義の排他的で許容性の低い憲法は、長い目で見た時にその社会の人々に十分に共感を得るものとはならず、結果として、人々から支持を得ることができない「求心力のない法」になってしまい、法の効力それ自体を失わせてしまう恐れがあります。

 
その憲法の下での法秩序そのものが人々から支持を失ってしまうことは、その社会の中で法の効力が成り立たなくなってしまうのです。

 その結果、人権保障のための「法の支配」が衰退し、強引な力に正義があるとみなされる「暴力による支配」を生み出し、無法で乱暴な社会が広がる恐れを生むことになってしまいます。

 価値相対主義者の寛容さの姿勢の含まれた憲法によって生まれるこの求心力は、法という価値観が絶対的である人々に対して押し付けたり、信じるように強制してしまう価値絶対主義の発想(世界観)によってつくられる『価値絶対主義憲法』にはないものです。


<まとめ>

 憲法は法律改正とは異なり、その正当性の不備を是正する後ろ盾となる実定法がありません。そのため、憲法改正において、法律と同じような感覚で多数決が行われることは大変危険です。

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 道徳的・倫理的な共生性に基づいた自由や安全を求める意志の下に、人々の意識の中に「自然権(前国家的権利)」の観念が確定(定着)するように働きかけられ、法制度上の多数決という正当性よりも、すべての人に対する人権概念の存在と価値と正当性が優越して存在している」という前提がつくられているのです。

 そして、その前提を踏まえて、その人権を保障するためにつくられた法の観念が、法の支配を生み出し、立憲主義によってつくられた憲法(という最高の実定法)によって、民主主義の多数決という政治制度の決定方式が採用されているのです。

 つまり、価値相対主義
の人権観でつくられた憲法によって、民主主義が採用されているのです。

 もし憲法改正という多数決原理の過程を通る中で、この意図を失わせてしまうと、「民主主義を採用している」という現代日本人の一般的な意識の合意以前にある、「人権」という概念に対して人々が価値を感じる心理的メカニズムを解した上で導き出されている法の正当性を失わせることとなってしまいます。
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 もし改憲をするにしても、価値絶対主義の憲法による悲惨な事態を防ぎ、今後も質の高い人権保障を維持していくためには、現行憲法に込められている価値相対主義の寛容な精神に裏付けられた哲学的基盤(思想的価値)を壊すべきではありません。
 質の高い人権が保障される平和的な国家をつくるにあたっては、価値相対主義の人権認識による憲法観を維持していく必要があるということをよく理解することが必要です。

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 憲法を制定しても、その法によってより良い国家を運営できるかどうかは、国民の人権に対する認識や理解、意識の高さにかかっています。

 そのため、この意図を知った私たちは憲法が実定法として制定されていてもなお、人権保障を確実にするための法の効力を維持するために、「多数決の手続きの前に、人権の正当性が存在する」という前提を守り抜くために不断の努力をしなくてはなりません。

 法の効力
の基盤となる正当性法の妥当性の精度は、法に関わるすべての人々の様々な考え方の違いや認識のあり様を許容しながら、そのすべての人々の人権保障が確かに実現されるように、「人権という概念が存在し、価値と正当性がある」という前提を守り抜いていこうとする私たち自身の努力にかかっています。


 これを理解した私たち一人一人が、人権という概念がどのように維持されているものなのかということに深い理解を持ち、今後も人権概念の存在と価値と正当性を確かなものとして維持し続けていこうとすることこそが、人々の人権が法によって確かに保障される、より良い社会や国家をつくり上げていく力となるのです。
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 この点について議論が熟された上での改憲ならば、多くの人に支持され、法の効力が確かなものとなり、人権保障が手厚く守られ、誰もが高い納得感を得られる良質な憲法となると思われます。



 
求心力のポイント
〇 憲法という秩序への価値観の相対性(憲法は唯一絶対の価値観というわけではない)
〇 人権という概念への価値観の相対性(人権概念自体が人によってつくられている概念)

価値相対主義 
実存主義的な価値相対主義者 道徳的・倫理的な共生性 意志 効力 存在と価値と正当性 正当性


(構成メモ)

法の効力を持たせる必要がある 〇
 ↓
法の実力とは、人々に効力があると信じられ、人々が自然と従うことによって初めて成り立つもの 〇
 ↓
人々が認める正当性が必要 △ (法の求心力の必要性)
 ↓

 (多数決は正当性の根拠となるのか) ✕
 ↓
自由や安全を守ることへの合意に正当性を置く ✕
 ↓
それらを人権という概念に集約 ✕
 ↓

 (人権と多数決の優劣) ✕
 ↓
人権概念の存在と価値と正当性を創造することが必要 〇 (意志によるもの) 〇
 ↓
正当性が信じられるように人々の認識を運用することが必要 ✕

 ↓

 〔人権と多数決の優劣〕 〇
 ↓
自然法の人権観(自然権)として普及する都合の良さ ✕
 ↓
これを理解できる実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性の意志によってなされるもの 〇

 ↓

 〔実存主義的な価値相対者を集める訴えかけ〕 〇
 ↓
人権概念を維持するために不断の努力が必要 〇


<法の求心力>(法の効力はなぜ存在するのかにも近い)


人権の存在と価値と正当性
 ⇒人権の存在と価値と正当性をつくる者の倫理的・道徳的な共生性の意志
 ⇒価値相対主義の寛容性(無関係に生きていこうとしても、それを保障される許容性なども含まれる)
 ⇒憲法中の実存主義的な価値相対主義の訴えかけ

義務の少なさへの魅力


国民の抱く国民主権の正当性の感覚

天皇制の権威性の魅力

学術的整合性の高さ、つくり込まれている完成度、信頼性

 

憲法への愛着

平和主義の理想世界を夢見るような魅力

前文の意志への共感

歴史的経緯への納得感

皆が従っていることによって起きる効力のインフレ化(人気であることが人気を呼ぶ作用のこと)

 


 これらの要素が、法の求心力を生み出し、人々が自ずと従おうとすることによって、社会で通用する実力となることを支えていると思われる。

法の秩序に引き寄せる


 法も多様な秩序観念の一つに過ぎないものである。「多様な秩序観念」とは、例えば、暴力による秩序、人治主義による秩序、美による秩序、かわいいは正義という秩序、科学主義の秩序、宗教的秩序、ファンタジーの世界観の秩序、和の精神の秩序、KY(空気読めない)を排除する秩序、お祭り型の盛り上がり第一主義の秩序、伝統文化の秩序、法の下の平等は採用せずに年上を無条件に尊重させようとする秩序、社内規定の秩序、時間に厳格な組織の秩序、安全第一を理念にする建設業界の秩序、応援するアイドルを頂点としたファンクラブの共同体の秩序など、様々なものがある。法というものも、そういった様々な秩序観念の一つに過ぎないものなのである。


 よって、この法という秩序が維持されるために、この法秩序が人々に支持され、求心力を有した魅力的な秩序である必要があるのである。そうでなくては、人々はこの法秩序に従った行動をしなくなってしまうからである。法の文言に記載したからといって、その法の条文の効力が人々に受け入れられ、認められ、簡単に人を拘束する力となるわけではない。人々に支持される魅力ある秩序であるからこそ、法に効力が生まれるのである。この法の魅力、求心力を損なうような憲法改正は、法秩序の実効性を保つためにもするべきではないのである。法秩序の魅力と求心力を失わせるような憲法改正とは、人々の人権を損なうような改正である。ここを間違えた法は、その効力の実効性を担保できないのである。法秩序の整った平穏な社会を保つためにも、その効力を支える魅力や求心力の中核である「人権保障の質」については注意深く見ていく必要があるだろう。

思い込みで成り立つもの


 「法に効力がある」という前提は、「人々がそう思っている」ことによって実効性が確保されているものである。これは、お金が社会に流通し、価値を認められるものとして成り立っているかどうかにもよく似ているものである。


 ただの紙切れや金属片が、単位を測る「ドル・ポンド・ユーロ・円」などという尺度を持ち、交換価値として認められているのは、人々がその有効性を認めているからこそ成り立つものである。

 現在機能している通貨制度の発達は、当然のように成り立つものであると思ってしまいがちである。しかし、歴史上では日本においても通貨制度がなかなか広まらず、貨幣が発行されてもなお、物々交換が主流だった時代もある。

 同じように、「法」というものも、人々に支持され有効性が認められているものでなくしては、その社会に普及せず、法秩序が成り立ちえないものなのである。そのため、法秩序を普及するためには、誰もが承認して納得し、自然と受け入れるような、自由や安全が保障され、公平で合理的な機能を有している必要がある。


 しかし、憲法中に国民の義務を設けてしまったならば、国民がその義務規定に従う以前に、法という秩序を国民が支持し、従おうとする求心力を奪ってしまうことに繋がる。すると、秩序をつくろうとして義務規定を設けようとしたにも変わらず、法秩序全体の効力が弱まってしまうため、その意図も実現できなくなってしまうのである。


 法を実効性のあるものとするためには、人々の人権が手厚く保障され、人々が自由に幸せに生きられることを最優先に考えた方が良いのである。義務規定を極力減らすことこそが、法秩序を成り立たせる力となるのである。

共感の広がりやすい意志


 「人権保障を実現する」という憲法の考え方を、人々に強制して押し付けてしまったならば、それはすでに人権を侵害しており、人権保障を真に実現したことにはならない。


 そのため、「人々の人権保障を実現しよう」という決意を持った人が集い、集まることで、人権保障の実現された社会をつくり上げる基盤として働くことが必要となる。


 憲法には、そのような決意の共感の和を広げていくための役割が必要であり、その共感の広がりこそが、法の効力に実効性を持たせる力となるのである。


 憲法改正においても、この「人々の人権保障を実現しよう」という決意に共感した人が寄り集まってくるような意志の中核部分を守り通していくことが最も大切なことである。


 ここを見誤って安易に憲法改正をしてしまい、「人権保障実現」への決意を持った人が集まらないような求心力のない憲法となってしまうと、法の秩序が成り立たなくなってしまうのである。

 法の効力に含まれる魅力とは、本質的には「人権保障実現を決意した者」の存在なのである。


 憲法改正を行うにしても、この者たちの存在の大きさを知っておく必要がある。

心の中の法


法とは、本来的には人の意志の観念でしかない。

そのため、その意志の観念が多くの人の共感を呼び、社会に広がる魅力を持っている必要がある。

それは、人々の心を救い、人々のためになり、人々の意志を人権保障実現のために奮い立たせてるような内容である必要がある。

その決意の深さを感じられる内容でなければ、単なる人の意志の観念は、法秩序を形成するまでには至らないからである。

法は、条文の文字の羅列の中には存在していない。


法は、人々の心の中にある。


法の秩序を保つには、この法の観念の魅力を、人々の心の中に確かに守り続けていくことが必要なのである。