人権保障への意志

~価値絶対主義と価値相対主義~

憲法を読み分ける

 

 「価値絶対主義」と「価値相対主義」の対立がある。最初、人は「絶対的に正しい万能の価値観」みたいなものを捜し求めたがるのだけど、だんだん「価値観はそれぞれの主観であり相対的なものだ」と分かってくることってよくあるよね。まあ、そういうのって、一通り通る道だよね。


 それと同じように、憲法にも「価値絶対主義」と「価値相対主義」の対立があるんだ。現行憲法は価値相対主義を採用していて、それぞれの人の考え方や価値観を尊重しながら、違いの中においてもなお人権を守ろうとする立場でつくられているんだ。しかし、自民党改憲案は価値絶対主義的な考え方が色濃くつくられており、大多数の考え方を絶対的なものだとするような傾向が表れているんだ。これは絶対的なものだとして基準に沿わなかったものを切り捨てて排除しようとする差別的な視点が含まれている可能性があり、非常に窮屈な社会をつくり出してしまう恐れがあるんだ。この考え方で憲法がつくられてしまった場合には、「絶対的な基準」という多数派のつくった基準にもし自分が合わなかったら、どんな形であれ誰からも自分の価値観や自由の権利を認められることがなくなってしまうかもしれないんだ。これはもし絶対的とした基準に合わないと大多数に判断されたらあまりに厳しい人生となってしまうよね。現行憲法のような「価値相対主義」の考え方を採用し続けていれば、絶対的な価値観を定義したがる人は一部に存在しながらも、「まあ、結局価値観はそれぞれの主観でいいんじゃないか」ってことになって、わりと穏やかに治まることが多いんですけどね。


 このように、価値絶対主義者は価値相対主義者を排除しようとするが、価値相対主義者は価値絶対主義者をも寛容に受け入れているんだ。だから、価値絶対主義者の主張が強くなってきている今の社会においても、価値相対主義者はある程度の寛容さを持ちながら価値絶対主義者の意見を丁寧に聞いていくというスタンスなんだ。しかし、価値絶対主義者は価値相対主義者の意見を十分には聞こうとしないことが多いようなんだ。まあ、自分の価値観が絶対的だと思っている傲りみたいなものですよね。傲りを指摘するのは、なかなか難しいじゃないですか。それに、もし価値相対主義者が価値絶対主義者に向かって、「お前たちは完全に間違っている。価値絶対主義なんて絶対に間違っている。」なんて主張してしまったら、それはまるで排他的で不寛容な価値絶対主義者のような物の言い方になってしまうじゃないか。価値相対主義者は価値観はそれぞれのものだからそんな言い方はしないんだ。だから、価値相対主義者の戦略としては、価値絶対主義者の排他的で不寛容な意見をも寛容に受け入れながら、価値絶対主義者の主張の欠点に理解を促していくという長い長い闘いをしていくことになるんだ。大変な労力がかかってしまうけど、そうでないと、価値絶対主義者の強引な力の危険性を平和的に取りまとめられないと価値相対主義者は分かっているからね。どうせ強引な主張に対して強引な主張で戦ったとしても、傲りのある無理解な多数派である価値絶対主義が勝ってしまうと分かっているんだよ。


 実は、無理解によって引き起こされるこの価値絶対主義と価値相対主義の複雑な対立が起きるこの状態を、現行憲法はもともと予定しているんだ。だから、価値相対主義を採用している現行憲法では、簡単には憲法を変えてしまうことができないように、改憲は「総議員の3分の2以上の賛成(96条)」という高いハードルを設けているんだ。現行憲法は価値相対主義者によってつくられた「価値相対主義の憲法」であるから、この価値相対主義の寛容な価値観を守ろうとしているんだね(憲法保障)。この簡単には変えられない仕組みを「硬性憲法」というんだけど、この硬性憲法の仕組みも、やっぱり少し時間稼ぎになるぐらいの役割しかもっていないんだ。だから、実質的にはその時間稼ぎで生まれた時間のうちに、十分議論を積み重ね、思慮の浅い乱暴な多数決によって少数派の人権が著しく侵害されてしまったりしないようにしないといけないんだ。価値相対主義者は、価値絶対主義者と様々に意見を交わし、価値絶対主義者にも価値相対主義の寛容さの利点に理解を深めてもらえるように努めていかないといけないんだ。でも、排他的で聞く耳を持たない価値絶対主義的な考え方の人たちに対して、そんな考え方を持っている人をも認めながら平和的に共存を目指そうとする価値相対主義者の考え方を理解してもらうのは、非常に大変で労力を要することだよね。それが、傲りのある者に理解を促すことの難しさなんだ。


 こういった議論を私たち国民がしないといけないのは、まさに今の時期なんですね。改憲の議論が盛んになっていて、その主な主張者が強引な多数決を行使する価値絶対主義的な考え方を持っている今の政治情勢こそ、私たち自身がそれらの対立に対して十分な理解を深めていくべき時なんだ。そして、理解のない人にも理解をしてもらえるように働きかけていかないといけない時期なんだ。


 まあ、本当にこの対立の本質を理解して価値絶対主義的な発想の憲法を支持する人は、それはそれでいいと思うよ。でも、もし価値絶対主義しか知らない人が無理解なまま価値絶対主義の憲法を支持して改憲してしまったら、後々自分たちも立場が変わった時に乱暴な多数派によって人権侵害を受ける側に立たされてしまうこともあるだろうから、後悔することになってしまうだろうね。そうなってしまってもいいのかどうかを、誰もが十分にシミュレーションしながら理解を深めていかないといけないと思うんだ。


 そういう、憲法観に含まれている「価値絶対主義」と「価値相対主義」の違いが分からない人に、なんとか分かってもらえるように試行錯誤して伝えていかないといけないと思うんだ。その努力をすることこそが、すべての人の人権を守るということにつながると思うんだ。その意志こそが、憲法以前にある本来的な人権保障実現の本質だと思うんだ。

価値相対主義の憲法


 憲法を議論する上で、人が世界に対して抱いている認識である「価値絶対主義」と「価値相対主義」の違いについて整理しておく必要がある。


〇 価値絶対主義

 「価値絶対主義」は、『誰もが賛成する絶対的な価値観というものはどこかに存在しており、議論していく中でそれを明らかにしていくことが大切である。明確にした価値観を多数決で決めたのならば必ず従わなくてはならない。』というような考え方をすることが多いです。価値絶対主義は、絶対的な価値観を定義するがゆえに、議論しても理解することができず、主張が合わなかった少数派に対して、排他的で差別的な切り捨て方をする危険性をもっています。これは多数決原理を絶対視し、少数派の人権が強く侵害される可能性が高いです。


〇 価値相対主義

 「価値相対主義」は、『何に良い悪いを感じるかという価値観は人それぞれであり、議論してその違いを明らかにして最善の策を考えることを大切である。人はそれぞれ価値観が違うので、自分の価値観を無理やり他人に押し付けて強制することはしたくない。社会生活をしていく上では、それぞれの人の持っている価値観を尊重し、すべての人が納得のいく結論に至るまで十分な議論を深めてすり合わせていくことを大切にしたい。』というような考え方をすることが多いです。


 哲学において、「価値絶対主義」は古典的な考え方です。それに対して「価値相対主義」は実存主義的な考え方に近いです。

 宗教学においては、「価値絶対主義」はキリスト教のつくり出した世界観の傾向があり、「価値相対主義」は仏教的な世界観に繋がっている傾向にあるといえるかもしれません。(結局宗教はどちらの考え方も包括しようとしていますが。)



 現行憲法は、前文や97条、12条の記載から、後者の「価値相対主義」を採用していると考えられます。


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 日本国民は、正当に選挙された国会における代表者を通じて行動し、われらとわれらの子孫のために、諸国民との協和による成果と、わが国全土にわたつて自由のもたらす恵沢を確保し、政府の行為によつて再び戦争の惨禍が起ることのないやうにすることを決意し、ここに主権が国民に存することを宣言し、この憲法を確定する。そもそも国政は、国民の厳粛な信託によるものであつて、その権威は国民に由来し、その権力は国民の代表者がこれを行使し、その福利は国民がこれを享受する。これは人類普遍の原理であり、この憲法は、かかる原理に基くものである。われらは、これに反する一切の憲法、法令及び詔勅を排除する。

 日本国民は、恒久の平和を念願し、人間相互の関係を支配する崇高な理想を深く自覚するのであつて、平和を愛する諸国民の公正と信義に信頼して、われらの安全と生存を保持しようと決意した。われらは、平和を維持し、専制と隷従、圧迫と偏狭を地上から永遠に除去しようと努めてゐる国際社会において、名誉ある地位を占めたいと思ふ。われらは、全世界の国民が、ひとしく恐怖と欠乏から免かれ、平和のうちに生存する権利を有することを確認する

 われらは、いづれの国家も、自国のことのみに専念して他国を無視してはならないのであつて、政治道徳の法則は、普遍的なものであり、この法則に従ふことは、自国の主権を維持し、他国と対等関係に立たうとする各国の責務であると信ずる

 日本国民は、国家の名誉にかけ、全力をあげてこの崇高な理想と目的を達成することを誓ふ

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

 前文では、「再び戦争の惨禍が起こることのないやうにすることを決意し、」や、「われらの安全と生存を保持しようと決意した。」と『決意する』という主観的な意志を採用しています。また、「名誉ある地位を占めたいと思ふ。」「責務であると信じる。」「この崇高な理想と目標を達成することを誓ふ。」と、『思う』『信じる』『誓う』のように主観的なものの見方をしています。


 ここには「法とはもともとそういうものだから信じなさい。」というような絶対的な価値観を押し付ける文言はありません。この憲法の法という考え方を国民に強制するような内容はありません。ここがこの憲法が価値相対主義の認識によってつくられたことの表れであると考えられます。


 憲法は人の人権を保障するためにつくられた法であるにも関わらず、もし「この法を信じなさい」と人々に対して強制するようなことがあったならば、それは既に「思想良心の自由」という人々の人権を侵害したことになってしまいます。そのため、法は、国民の人権保障を実現するために、この法を信じない人や尊重しない人さえも、当然に許容しているのです。つまり、法というものも本来的には絶対的なものではなく、一つの考え方、一つの価値観から生まれた合意事としての制度であり、この法という認識自体がそもそも相対的なものとしているのです。そのため、国民はこの法を信じることを憲法によって強制されることはないのです。


 この前文を「観念的である」と批判する改憲派もいますが、まさにこのような趣旨から観念的である必要があるためにそうしているのです。


 ただ、この法という考え方、この憲法の価値観、この憲法によってつくられる「国」という制度を支持し、この法という認識自体が相対的なものであってもなお、人々の人権を保障しようとする決意ある者に対しては、この憲法を基に、共に人々の人権保障を実現していこうと呼びかけています。その意志こそが、前文に記された憲法制定権力の主観的な決意であり、意思表明であり、宣言であり、憲法制定権力の意図した呼びかけなのです。それらの文言に現れる価値相対主義者の人権保障への意志、言い換えれば「気合い」によって法という効力の源泉が生み出されているのです。つまり、憲法制定権力の人々の観念から、それらの意志から、「憲法」という法の実体が生みだされるのです。


 憲法に具現化されている法というものの効力の大本は、終局的にはそのように"訴えかけるもの"でしかないのです。これは法というものに対する価値相対主義の認識を示したものであり、観念的であること自体に何か非があるわけではありません。

 

 この決意を身近な例で例えてみたいと思います。例えば、学校の部活動や文化祭などの活動をするときに、メンバーがなかなか思うように動いてくれないことがあると思います。そんなときに、リーダーがルールに従うように強制してもメンバーはやっぱりなかなか動いてくれないことが多いと思います。しかし、強い思いを持って、そしてすべての人の幸せに貢献するとの深い決意をもって取り組み始めた人がいたならば、だんだんとメンバーの動きも良くなって、企画活動が出来上がっていくことが多いと思います。


 法という制度自体も、まさにそのようなものです。「人権保障」という人々の幸せを実現しようとする本気の気合いを持った人によって成り立っているのです。そのため、人々の人権保障を実現することへの深い決意に至り、宣言し、そしてまさにこの憲法制定権力の本気度こそが、この憲法下での「日本国」という企画を成功させる力になるのです。価値相対主義の現行憲法についても、その意志こそが、法というものに効力を持たせる力の源泉であるとの理解を持ってつくられているものです。



 現行憲法は、この「法」という価値観自体も「絶対的なもの」ではなく、多様な価値観の一つという「相対的なもの」であることを前提として生み出されています。そのことから、国民に憲法尊重擁護義務を課すことはありません。


 これは、「絶対的なもの」として強制しようとしない法認識で運用することこそが、人々の人権保障を真に確実にすることにつながるとの理解によるものです。


 しかし、価値相対主義の認識を前提としながらも人権保障を実現しようと試みる憲法の呼びかけ(訴えかけ)に共感し、賛同した者として国政(国の機関)に集っている「(天皇又は摂政及び)国務大臣、国会議員、裁判官その他の公務員(99条)」には、憲法尊重擁護義務を課すことにしています。価値相対主義の立場であってもなお国民の人権保障を守り抜くことを決意した志高き者だけに、憲法尊重擁護義務を背負わせるとするものです。この義務は、法が本来的に「権威を認めて従おうとする人」が一定数存在することによってしか社会で通用する実力として成り立たない性質であることから求められるものです。法を社会に普及させ、実効性を確保し、その効力の安定性を保つための最小限度の制約として許容されると考えられるものです。


 ただ、もしそれらの者が憲法尊重擁護義務を負いたくなくなったならば、いつでもその公職の地位を辞めることができます。法というものそれ自体も一つの価値観であることを前提としているからこそ、この法という価値観を支持したくなくなったときには、この法という制度による拘束を受けることを極力回避することができるようにしています。これも、質の高い人権保障を実現しようとする価値相対主義の憲法の仕組みです

 

 価値相対主義の立場は、人それぞれの価値観の相対性を前提としています。そのため、価値絶対主義でのものの見方をしている人の存在をも価値相対主義の立場から承認しています。つまり、価値絶対主義の世界認識で物事を考えている人の考え方自体を価値相対主義の立場から相対化して捉え、それを一つの価値観として許容しているのです。


 価値相対主義のそのようなスタンスから、多様な価値観を持つ人の意見に対して広く寛容です。たとえ自分とは違った価値観を持つ人に対しても、その人の意見を受け入れ、その人の人権の保障を確保するための努力を決意していることによるものです。


 為政者の恣意的な権力行使や価値絶対主義者の多数決原理の数の暴力によって、弱者や少数派の人権が虐げられて犠牲となることが再び繰り返されることがないように、12条では自由及び権利が保持されるように(人権が確実に保障されるように)不断の努力が必要であると記しています。これは、価値相対主義者は、為政者の恣意的な権力行使による人権侵害や価値絶対主義者の排他的で不寛容な価値観から生まれる弱者や少数派に対する人権侵害の脅威に立ち向かい、闘い続けていくことが求められていることを示すものと考えられます。


 人権という概念は、恣意的な為政者や価値絶対主義的な価値観の人々による差別や圧迫などの犠牲を生み出さないために、価値相対主義の認識を持つ少数の人々の不断の努力とコントロールによって何とか保ち続けられる性質のものです。価値相対主義の発想は、多数者によって差別や圧迫を受ける苦悩の中に生まれることのある価値観の認識であり、その性質上どうしても少数派であることが多いと考えられます。現行憲法の価値相対主義の精神には、たとえ極めて少数派であっても、その価値相対主義者の強い意志と努力によって、意見の違う価値絶対主義者の不寛容な意見をも寛容に受け入れることを決意し、その価値絶対主義者の人権をも保障しようとする強く深い思いが込められていると考えられます。現行憲法は、人権保障というものが、そのような認識の対立の中にしか実現することのできない極めて難しい性質であることを深く理解した上でつくられていると考えられます。


 先人たちの意志によってつくられ、不断の努力によって保たれている人権概念を、97条では「過去の幾多の試練に堪へ」てきた「人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果」と表現しています。ここがまさに哲学の実存主義的な生き方と重なる表現です。価値相対主義的な人による「人権が保障されたより良い社会をつくり上げていこう」という決意の意志であると思われます。


 人権保障を実現するためには、人権という概念がどのように維持されているものなのかということに深い理解を持つことが必要です。そして、その理解を持った私たち一人一人が、その人権という概念を確かなものとして今後も維持していこうとすることこそが、人々の人権が確かに保障されたより良い社会と国家をつくり上げていく力になるのです。

法の存立根拠

 

 そもそも憲法とは、民主主義や社会主義、独裁主義などの「〇〇主義」という国家スタンスの形成されていない「土地(領域)」の上に集まっている「人」が革命的に打ち出す性質のものです。そのため、法とはもともと、その憲法を打ち出した人々が持っている「人の人権を保障したい」という意志によって創造され、生み出されたものです。人権保障を実現しようとする人々の意志が集まり、「人権」という概念を確立させ、その正当性を根拠として「法」というものが生み出されるのです。「平和に安全に生きていきたい。そのために人権の保障される社会をつくりたい。」という人々の意志が、「法」という決まりごとに変わるのです。つまり、この意志の観念が、憲法を生み出した原点です。


 現行憲法の第十章「最高法規」では、その人々の意志によって生まれた法であるからこそ、憲法が最高の権威として存立するわけであり(97条)、あらゆる他の法形式に優位する最高法規性を持つこと(98条)が示されています。

 

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    第10章 最高法規

〔基本的人権の由来特質〕
第97条 この憲法が日本国民に保障する基本的人権は人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。

〔憲法の最高性と条約及び国際法規の遵守〕
第98条 この憲法は、国の最高法規であつて、その条規に反する法律、命令、詔勅及び国務に関するその他の行為の全部又は一部は、その効力を有しない。
2 日本国が締結した条約及び確立された国際法規は、これを誠実に遵守することを必要とする。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


 これがまさに、「法」とは人のもっている意志の観念が生み出したものであることを示すものです。


 「法(憲法)」というものの存在自体が、普段よく目にする「法律」を立法するときのように「多数決原理」によって生み出されていると勘違いしている人がいます。しかし、それはこの部分を決定的に誤解しています。


 確かに「法律」は、多数決原理によって立法される手続きが採用されています。しかし、その多数決原理の手続きの正当性は、憲法の正当性によって保証(裏付け)されているものです。
法律を立法する際の多数決原理という手続きに正当性が認められるのは、憲法を生み出した人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という意志がつくり出した「憲法」の正当性によって保証(裏付け)されていることによるものです。憲法の「実質的最高法規性(97条)〔自由の基礎法の性質〕」と「形式的最高法規性(98条)」に支えられている正当性です。


 憲法の存在価値である「人権を保障する」という作用(役割)は、単なる多数決原理が生み出すわけではありません。憲法の正当性の源泉は、「人権を保障したい」という人々の意志によって確保されているものです。


 憲法に託した「人権保障を確実にしたい」という人々の意志は、恣意的な為政者によって人権が侵害され苦しい思いをしてきた先人たちが遥か昔から自由獲得の努力を繋いで持ち続けてきたものです。その人権を確実なものとして保障しようとする意志は、過去幾多の人権侵害の危機があった際にも、その試練を耐えて今日まで受け継がれてきたものです。今日の人権保障の水準は、先人の人権保障を確かなものにしようと積み重ねてきた意志の成果が形づくっているものです。

価値絶対主義の憲法に改憲するのか

 

 今までの時代よりも人権保障の質が悪くなってしまうことは、この国に住む誰もがあってはならないと考えるはずです。人権保障の水準を確保したいという思いは、新憲法を制定したいと考え、憲法草案を発表する者も同じであるはずです。


 しかし、今日の改憲の動きには人権の本質を見誤り、改憲論者自身の人権をも犠牲にしかねない危うさがあります。


 それは、改憲論者の提案する憲法草案の中には、価値絶対主義的な視点を多く含み、排他的で意見の合わない人への許容性が非常に低いと感じられるものがあるからです。特定の価値観を押し付けるような前文や条文が目立ち、憲法それ自体が、人々の「思想良心の自由」を制限してしまうものとなってしまう側面が見受けられます。


 その特定の価値観を絶対視している人は、その価値観で国の色を統一したいという思いがあるのだと考えられます。しかし、そこには価値絶対主義による個々人の価値観を尊重しようとしない不寛容な意志が働いていると思われます。これは人権保障を損なう極めて危険な価値観です。


 これは、価値絶対主義者が国家の士気を強くしようとする際に、絶対的な価値観で国の色を染めて国民の同調を強制し、意見の合わない者の人権を犠牲にすることにも繋がるものです。


 価値絶対主義的な改憲論者に対しても、憲法の本質を見誤った一時的な政治勢力が短絡的に改憲を行ってしまうことは、後々その価値絶対主義的な改憲論者自身の人権をも侵害する憲法となってしまいうことを知ってもらう必要があると考えます。

 人権が侵害されてつらい思いをしてきた人類の長い歴史や、民主主義によってもなお発生するナチスの悲惨な歴史などを学び、過去の自分の無理解な決断によって苦しい思いをする危険があることを知ってもらう必要があると思います。

 今後の日本社会が、強硬な価値絶対主義的な改憲論者の先導的な政治によって、憲法の人権保障の本質を見誤り、人々の人権保障の質が下がってしまうことになってはならないはずです。そのような事態に陥ることを危惧します。

 

価値絶対主義と価値相対主義のパターン α


① この考え方は、究極的には多数決原理による憲法改正によっては、少数派に対する人権剥奪をも可能とする点で、憲法の人権保障という役割を損なわせてしまうこととなる。憲法の文言に従えば、何もかもが正当化されるため、法改正によって大量虐殺なども可能となってしまう点で妥当でない。


② この考え方は、憲法の意味を、正しく読み解くことのできない者が憲法の指示に従っていることとなる。しかし、憲法改正を行う者は、価値相対主義の憲法であることを理解していないので、価値絶対主義の憲法へと改正してしまい、①と同じ状態を招いてしまう可能性が高い。


③ 価値絶対主義の憲法を価値相対主義で読み解くことは可能である。しかし、それではそもそも憲法に従って行動しようということにならないので、法の支配が成り立っていないのではないかという疑念を招く。「憲法を守ろう」というスタンスがないので、法の効力が弱まったり、失われてしまいかねない。


④ 価値相対主義の憲法を、価値相対主義で読み解くことは可能である。ただ、何もかもが相対的な価値観であるとすると、そもそも憲法を守る必要がないということにもなりかねず、法の秩序の求心力を低下させてしまう可能性がある。


⑤ 現行憲法は価値相対主義の憲法であるが、それを読み解けないものに対しては、価値絶対主義の憲法であるかのように考えてしまうことを許容している。それによって、法に効力がもたらされるならば、人権保障を実現するためにも都合が良いと考えるからである。しかし、価値絶対主義者が価値絶対主義の憲法へと改正してしまうことがないように非常に注意を要することとなる。なぜならば、価値絶対主義で憲法を守ろうとする人の存在は、法の効力を維持するためにはある程度都合がよいのであるが、価値絶対主義の憲法へと改正してしまったならば、たちまち多様な価値観を許容する寛容さが失われてしまい、人権保障に繋がらなくなってしまうからである。


 現行憲法は、これを理解した者に対して、「自由及び権利は、国民の不断の努力によつて、これを保持しなければならない。(12条)」として、この矛盾の中に保たれる人権という概念の保持を訴えかけることとしている。

価値絶対主義と価値相対主義のパターン β


 ①②③は、価値絶対主義者と価値相対主義者の関係のパターンである。②に見られるように、価値相対主義者は、価値絶対主義者に向き合う際に、苦悩を強いられることとなる。


 ④⑤は、価値絶対主義者のつくった憲法の影響である。④のように、価値絶対主義者同士の価値観が完全に一致していた場合、強い連帯感を生むこととなる。しかし、⑤のように、価値絶対主義者同士の価値観が一致しなかった場合、激しい対立を生むこととなり、憲法の強制力も強いことから、双方に大きな犠牲を生むこととなる。


 ⑥は、価値絶対主義の者によってつくられた価値絶対主義の憲法観である。しかし、その憲法の適用を受ける者の中には価値相対主義者もいると考えられ、その強制力は価値相対主義者の人権を奪うこととなる。その憲法の価値観と同じ考え方を持つ者以外は、すべて被害を被ることとなる。


 ⑦は、価値相対主義の者によってつくられた価値相対主義の憲法観である。その中では、どんな価値観を持とうと、たとえ絶対的な価値観を持とうと、その憲法はその者の人権を寛容に保障する。現行日本国憲法はこのスタンスで形成されている。


 ⑧は、価値相対主義の者によってつくられた価値相対主義憲法の考え方や解釈が、価値相対主義者同士の中で違った場合の憲法観である。価値相対主義者同士は、価値観の不一致があったとしても、互いの考え方を尊重し、互いの人権を保障し合うため、被害を被ることとなる人は極めて少ない。ただ、価値相対主義の者は、人類の中でも少数派であり、この次元で法を運用できるものは多くない。


 ④+⑥+⑦であるが、これは、「価値観の一致する価値絶対主義者同士の強い連帯感」によって、少数の価値相対主義者が強い弾圧を受けることとなってしまうことを示したものである。多数派である価値絶対主義者の一致した価値観によって、憲法改正が行われ、価値相対主義憲法から価値絶対主義憲法となってしまうと、価値相対主義や少数派に対して著しい犠牲を引き起こす恐れが大きい。この脅威とは、常々付き合っていかなくては、近代立憲主義の言う価値相対主義の憲法や人権保障の本質を守り抜くことはできない。



 この場面で完全に一致するかは分からないが、上記と似ている部分として、憲法学者「木村草太」の解説を参考にする。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 そういう意味で、国民が主権を持っているとか、民主主義と言っただけでは内容は全く定まらない。民主主義とか国民と言ったときに、それを定義する何らかのルールがある。そのルールが憲法です。ですから、実は今、対立がもしあるとしても、それは憲法と民主主義が対立しているのではなくて、憲法Aを守れという立憲主義Aと、憲法Bを守れという立憲主義B、それが対立をしているということです。
…………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………………
 これは立憲主義と民主主義という対立ではなくて、今ある憲法と、他者を排除するタイプの憲法Bの対立です。今、問われているのは、日本国憲法のこの他者の視点を置きつつ統治を進めようという、民主主義でもあり立憲主義タイプの憲法Aと、技術としての法を無視するタイプのもう一つの憲法Bが対立をしている。この二つの憲法が対立しているという状況だと思って、今後の政治状況を見ていく必要があるのではないか。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
【憲法学で読み解く民主主義と立憲主義(4)】――二つの憲法の対立 2014年10月31日 (下線・太字は筆者)

価値相対主義の苦悩

 

〇 信念体系が変われば、真理も変わる。そこが価値絶対主義と価値相対主義の難しさだ。しかし、価値相対主義者は、自分が以前は価値絶対主義の認識をしていたことから、その欠点と傲り、残酷さと無理解に気づいている。だからこそ、価値相対主義者は価値絶対主義者に対して寛容な態度を取ると同時に、その無理解と闘い続ける決意を持つのだ。その決意に至ることができるのは、価値絶対主義者であった過去の自分がその時はその時で一生懸命に生きていたということを知っているからである。だから、そんな過去の自らを一段高い位置から守るかのように、その時の自分と同じような認識を持つ価値絶対主義者を排除することがどうしてもできないのだ。


〇 価値相対主義者は価値絶対主義者を理解しているが、価値絶対主義者は価値相対主義者を理解できない。そのような関係で、価値相対主義者の方が視野が広く、理解が深く、寛容性がある。しかし、価値絶対主義者はそういう事情にあることさえ理解していない。この対立が難しい問題である。価値相対主義者は、この対立を調整するために、価値絶対主義者の認識世界を様々な意図や働きかけを使って運用していく必要がある。それに堪え得る理解をもたなくしては、価値相対主義者は無理解な価値絶対主義者の行動によって困難な立場に追いやられてしまうからである。


〇 価値相対主義は、価値絶対主義の世界認識を前提に理解される立場である。よって、認識の段階としては一次元高い位置にある視点である。しかし、それを優越しているとして価値絶対主義を差別し排除しようとすることができない寛容の精神があるところが価値相対主義の視点である。そのため、価値相対主義者は常に価値絶対主義者の攻撃を受け続けるという理不尽で苦難の多い立場に立たされるのである。価値絶対主義者の不満や苛立ちなどの認識も理解でき、それによってもたらされる価値相対主義者の自分への攻撃にも耐えなければならないという、二重の苦痛を引き受けることになる。そしてその苦悩を、価値絶対主義者には決して理解してもらうことができない。それが価値相対主義という認識に至った者の苦悩なのだ。

価値相対主義者の戦術


 価値絶対主義者に対しては、他者に対する自身の主張が、反転可能性テストの立場の入れ替わりによって成り立たない点を指摘していく方法があるだろう。そして、その矛盾を突き付けられたときにそれを越えていく寛容さが求められることを徹底的に明らかにしていく必要があるだろう。価値絶対主義者は多数派であることなどの絶対性を信じがちであるから、論理による整合性がないという証明を感情的になってすぐには受け入れられないこともある。ただ、その点を示し続けることが、価値絶対主義者に対する価値相対主義者の戦術となるだろう。

 

価値相対主義の強さ


〇 警察の精神

 警察の精神は、たとえ犯罪者であっても、その人がそれ以上の罪を犯して刑期が長くならないように配慮しながら捜査や取り締まりをする決意がある。下手に刺激して事態を悪化させないように捜査することを訓練されているのである。この意志が、限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。


〇 自衛隊の精神

 自衛隊の精神は、自衛隊の存在に反対する人をも、災害や外国の脅威から守ることを決意している。この意志が、限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。


吉田茂 「若き自衛官へ 」

〇 ヴォルテールの精神

 哲学者ヴォルテールは、「私はあなたの意見には反対だ、だがあなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」と決意している。立場や意見の違う者に対しても人権を保障しようとする価値相対主義の根本的な寛容さによるものである。これがすべての人の人権保障を実現しようとする価値相対主義の真の強さである。


〇 現行憲法の精神
 現行憲法の価値相対主義の精神には、現行憲法を支持しない人や価値絶対主義の人であっても、同じく人権侵害の脅威から守ることを決意している。この意志が、すべての人の人権保障を実現しようとする限りない寛容の精神を持った価値相対主義の真の強さである。よって、国民には憲法尊重擁護義務を課すことはない。


 ただ、この憲法の思いに賛同し、この法制度を支持し、公務員等になろうとする者には、憲法尊重擁護義務が課せられ、この決意が求められる。正確には、もし現行憲法の価値観を絶対的なものと尊重しようとしても、その憲法自体が相対主義に裏付けられているため、結局、相対主義の決意に至るという側面がある。


 公務員等にこの義務を課す背景には、憲法という価値観自体が一定数の支持を持って運用されていなければ、人権を守るはずの法の効力が社会の中に普及しない事態に陥ってしまい、結果として人々の人権を保障することができなくなってしまうという事情がある。この義務を課せられることによる自由の制約は、憲法という一つの価値観でしかないものによって支配されることが前提となっている公務員という職務を自ら望んだ者であるならば、最小限のものとなるため許容されると考えることができる。


 価値相対主義の精神には、自分を嫌い、攻撃してくる者をも排除せず、その者を大切にしようとする深い寛容の精神があります。

 例えるならば、子供が自分の父親のことを嫌いであったとしても、その父親はそのことをもって子供に酷く当たったりすることはあまりないでしょう。それは、たとえ嫌われても、一段高い位置から、その子供の安全や生活を保障することを覚悟しているからであると思います。
 現行憲法には、価値相対主義のこのような一段高い位置から達観した視野こそが人権保障を確実にすることができるものなのだとの精神が含まれています。

 自分が実は価値相対主義者によって守られていたことに気づくとはこのことです。



 自衛官や警察官は憲法尊重の宣誓をしています。しかし、もし憲法からこのような一段高い位置から人の人権を保障しようとする達観した視野を持つ価値相対主義の寛容の精神が失われてしまった場合、自衛官や警察官は「憲法を尊重しない国民をも守る」という価値相対主義の憲法の考え方に裏付けられた決意をしなくなってしまうかもしれません。この価値相対主義憲法の考え方を基盤とする達観した決意という強い意志による精神的基盤が失われてしまうと、「憲法に批判的な考え方を持っている国民」や「憲法を支持しない国民」をも助けようとする気高さが失われてしまう可能性があります。すると、今まで勝ち得てきた自衛隊や警察組織への国民の信頼やその求心力を失わせてしまうことにつながってしまうと思われます。


 特定の価値観を色濃く反映し、他を受け付けないような価値絶対主義的な価値観の憲法にしてしまうと、「憲法を理解せず、尊重しない国民もいるだろう。しかし、我々はその国民をも守ることを決意する。」というような、価値相対主義の寛容さを含んだ強い決意に至ることができないのではないかと思われます。憲法の精神が価値絶対主義で染められてしまうと、「憲法を尊重しない国民は非国民。」として、自衛官や警察官が国民に対して強権的な行動に出る可能性も否定できなくなってしまうのです。そのため、価値相対主義の寛容の精神をもった憲法の形を維持することが賢明であると思われます。


服務の宣誓 Wikipedia


自衛隊法

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(服務の宣誓)
第53条 隊員は、防衛省令で定めるところにより、服務の宣誓をしなければならない。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


警察法
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
(服務の宣誓の内容)
第三条 この法律により警察の職務を行うすべての職員は、日本国憲法及び法律を擁護し、不偏不党且つ公平中正にその職務を遂行する旨の服務の宣誓を行うものとする。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━

権利と義務は対価関係なのか

 

 人権保障は、取引のような「Give and Takeで成り立つ」という性質のものではありません。価値相対主義の精神によって、「人権の大切さを知っている者が、それをまだ知らない人をも守る」ということで成り立つ性質のものです。


 しかし、いくらかの政党の改憲草案は、「権利には義務が伴うことを自覚し、…」などと、権利と義務を対価のように扱う考え方によってつくられているものがあります。これは人権の本質に対する理解が十分ではありません。


 人に権利が与えられることと同時に義務が課せられる性質のものは、民法の債権関係の双務契約の考え方です。この考え方は、対価関係にあるもの(売買や交換、労働契約など)をやり取りするときにしか通用しないものです。


 これは人権保障のためにつくられた憲法の人権観とは考え方のベースがまったく異なります。人が生まれながらに持つとする建前の人権概念は、取引するような性質のものではないからです。


 民法の「権利・義務」が発生する主体となる『自然人』や『法人』は、もともと憲法の「人権」という概念を根拠として導き出したものです。そのため、「民法」は「憲法」が存在しないと成り立たないものです。それを、「民法」の双務契約に関する取引の考え方によって、「憲法」の人権をつくろうというのは不可能であり、やはり間違っているのです。


「権利行使には義務が伴う」というフレーズに対するよくある誤解


価値相対主義の憲法の寛容性


宗教的権威性を基にした人権観の価値絶対主義の憲法の不寛容性


 「価値絶対主義の憲法」のタイプには、宗教的権威性を基にした価値絶対主義以外にも、自然法の価値絶対主義、法実証主義の価値絶対主義や、人治主義的価値絶対主義など、様々なタイプがある。上記の図は、その一つとして取り上げた「宗教的権威性を基にした人権観の価値絶対主義の憲法」である。



<理解の補強> 

価値絶対主義と価値相対主義がある。そしてそれぞれの末路
ラートブルフの法哲学

価値相対主義における寛容の問題 PDF

寛容は不寛容に対して寛容か?という命題がある。 憲法を踏めるか 2017/09/29

相対主義 Wikipedia

パラドックス Wikipedia

寛容のパラドックス Wikipedia


━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
 ケルゼンは、「正義についての相対主義の哲学に含まれている特殊の道徳原理は寛容の原理である」という(H.Kelsen, What is Justice?, 1957, p. 22)。この一説を引きながら、加藤新平教授は、「寛容の原理は、論理的には、相対主義とではなく、人権思想━━それは相対主義が証明不可能とする一種の客観的価値観をとる━━と結びつくものである。そして寛容の最も確実な心理的保証も、むしろここに見いだされるのではなかろうか。寛容の基本的表現形態は思想・言論の自由の承認であるが、それを保証する心理的に最も確かな道、或いは積極的にそれへ誘引する力を持つものは、「何が正しいか分からない」という主張ではなくして、人間尊重の精神を核として保持した上での人間的共感ではなかろうか」と諄々と説いて、寛容の規定に「人間的共感」を置いている(『法哲学概論』有斐閣、一九七六年、五二二頁)。

(略)

それは、ロックの『寛容についての書簡』に詳密な検討を加えた数に、種谷春洋教授が到達した「お互いに譲ることのできない何物かをもった人間がお互いをそういうものとして認めあい、何とか折り合いを付けていこうとするところにこそ、あるいはそこにおいてのみ、人権が妥当しうる基礎がある」(佐藤幸治「「幸福追求」から「近代寛容思想」へ」『法学雑誌』三五巻一号、一六頁)とする説示とも響き合っている。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
寛容と人権――憲法の「現場」からの問いなおし 単行本 – 2013/6/27 amazon P70

(寛容のパラドクスについてP65~70が詳しい)