人権の正当性(作成中)

立憲民主制の基礎


<法の効力>

法はその社会の共通のルールとして、私たちの生活を拘束します。
しかし、法とは、単なる文字に書かれた情報や意味の集合体でしかないものです。
法を名乗る文章が存在しているだけで、法が効力を持ち始めるわけではありません。
そのため、誰かが「憲法」を名乗る単なる文字情報を打ち出したとしても、それが当然に社会の中で通用する実力となり、そこに法の秩序が成立するわけではありません。
法の効力は、「神の力」などの人間以外の人知を超えた外部からのパワーによって作用しているものではないのです。
確かに、古い時代の法の効力は、『神の力がある』などと信じ込まされていた人々によって法が運用されていたこともあります。
現在でも自然法思想の自然権の一面的な理解においては、そのように考えて法の文言に従っている人もいるかもしれません。
しかし、実際のところ、法の拘束力は一体どこから生まれているのでしょうか。

法は人が作り出したものです。
法の効力は、その法を認め、承認し、支持する人々の心の中につくり上げられ、存在しているものです。
人々が、その法を認め、その法に自ら従い、法の言葉の通りに作用を起こすことで、実効性のある実力としてその社会の中で通用するものとなり、効力が生まれるのです。
人間が人間を縛ることが合意され、確立した共通のルールとしてその社会の人々がその効力を認めることで初めて成り立つ性質のものです。
もし法が人々に支持されるものでなければ、法の概念は人々の認識の中に普及せず、社会の中で通用する実力とはならず、効力が成り立たなくなってしまいます。
すると、その社会では法秩序が成り立たず、乱暴な力がまかり通る恐ろしい社会に変容してしまう危うい状態となってしまいます。
法制度が人々に普及し、法秩序が社会を成り立たせる力となって機能を果たす存在となる以前には、人が法を承認する心理的なメカニズムが必要です。
法として書かれた文字の羅列が何らかのルールとして意味を構成し、人々に認められ、効力が成り立つ状態とするためには、人々がそれを権威あるものだと認める価値が必要です。
その権威となる価値を一般に「正当性」と言います。
もし法にその正当性という価値がなかったならば、人々は法を支持することはなく、その社会の中で共通のルールとして効力を持つことはなく、法の秩序が成り立たなくなってしまうものです。
もし法にその正当性があると認められていなければ、つくり出されたその法体系のすべては、生活上実感の湧かない無意味な文章の束となってしまいかねないのです。
 
法の効力を成り立たせるためには、その正当性のあり方が大切です。


<多数決の正当性>

法の正当性とは、多数決によるものなのでしょうか。
 

法の拘束力は民主主義の多数決原理によって合意に至ったために効力が生まれていると考えている人は多いと思います。
それは、民主主義の中では、「最大多数の最大幸福」に価値と正当性が存在しているはずであるとの価値観によるものと思います。

確かに、社会の中では、多数決に正当性があると信じる人たちだけで、何かが決定されたり、何らかのルールが生み出されることがあります。
友達同士の中で何かを決めたり、共通のルールを作る際にも、多数決の意思決定がなされることがあります。
会社のような、一般的な社会生活の中で形成する「同じような思いを持つ人たちが集まってつくられた組織」でも、多数決原理が採用されている場面は多いです。
それで納得していることも多いと思います。

ただ、それらのグループや組織は、もし方針に賛同できない場合や、考え方が合わなくなり意見の違いによって少数派となって不利益を受ける事態となってしまった場合、最終的には所属を辞めることができます。その組織の制度の拘束から簡単に抜けることができるという前提があります。

しかし、国家という枠組みの集団は、
多数派と意見や考え方の違いが発生し、多数決の決定による不利益を受けることになってしまった場合、それを回避するために自分だけ所属を辞めることができません。基本的に生きていくためにはどうしても国家の領域の土地の上に住むしかなく、簡単には脱退できないからです。

所属を辞めることができない集団の場合、仲の良くない人たちや考え方の全く相いれない人たちを含んだ
多数決が行われ、その決定内容に強いられることになります。そのとき、決して譲れない一線に直面する可能性があります。また、いじめや差別、集団暴行、虐殺など残酷な決定がなされてしまうことも考えられます。
もし国家の法制度の正当性の根拠が多数決原理のみにあると見なされ、少数派や個々人の最低限の自由や安全が確保されるよう配慮がなされなかった場合、

> 多数決で決すれば、どんな乱暴も許されることになってしまいます。
> 現国家体制に気持ちが乗らない人などを封殺することに繋がってしまいます。
> 少数派の考え方や思いを強く封じ込めることになってしまいます。
> 少数派は、多数派と違う意見を発信する機会さえも失われてしまいます。
> 少数派としての考え方を維持することもできなくなってしまいます。
> 憲法を支持しない人の考え方の自由を十分に保障することができなくなってしまいます。
> 多数派が「憲法で制定された制度上のものだからこのように読みなさい」というように他の国民にこの「法」という一つの思想が絶対的なものであるかのように押し付けるような形に改憲してしまうと、「人権保障のために憲法を制定して法秩序をつくる」という憲法を打ち出す本来の目的を達成することができなくなってしまいます。

J
こうなると、多数派集団の無配慮な意思が反映された横暴な多数決の決定が強行され、少数派は思想や言論の自由、生命や身体、財産の安全などを奪われてしまうような著しい不利益を受ける事態に直面させられることになりかねません。

多数決
原理の過度な行き過ぎは、恐ろしい事態を招き、堪えがたい犠牲を招いてしまいます。
これは、過去の時代の自由や安全が脅かされるような不安や恐怖に駆られ、侵害を受けても、是正するための正当な権限が存在しなかった悲惨な歴史を繰り返すこととなってしまいます。

法の正当性の根拠を多数決のみに置くことは、
どう考えても受け入れがたい結果を引き起こしてしまいやすく、大変危険です。
多数決原理のみに正当性を置いた法では、正義に叶った社会を創造する力とはなりえません。
これは、近代社会を成り立たせるための法の正当性の根拠としては不足しています。

法の正当性が多数決原理にあると信じる人々も一部にはいるかもしれません。
しかし、それだけでは、ほとんどの人が賛同できるような正当性に繋がるものにはならず、法の確かな効力基盤をつくり上げる力とはなりません。

多数派のした深い道徳心に反する堪えがたい決定から弱者や少数者を最低限の安全を守る力となるような正当性の観念に裏付けられた法が必要となります。
弱肉強食の数の暴力を抑えることのできるような正当性の観念です。
 
国家という集団においては、多数派の横暴による多数決原理の決定がなされても、多数派とは違う意見や違う考え方を持った人、特に少数派の自由や安全が侵害されてしまうことがないよう最低限の配慮がなされ、自由や安全が保障される法の仕組みをつくる必要が出てきます。
確かな効力基盤をつくり上げる法とするためには、その正当性の根拠に、国家でなされる様々な意思決定やその執行による侵害から、すべての人の最低限の自由や安全が保障される仕組みを加える必要があります。

その仕組みは、
人が人生で抱きうるすべての考え方を包括し、あらゆる事態に対応できる概念を正当性の基盤とする必要があります。
個々人が尊重され、多様な価値観が認められるような前提となるものであり、各自の自由や考え方や思考が尊重されるものが含まれていることが必要です。

また、歴史的な事実としてあった人の生命・身体・財産を侵害されてしまう恐怖に目を向ける必要があります。
強者の乱暴が横行するような無秩序な世界や闘争状態の社会に置かれたとき、自分の自由や生命が侵害されることがないように守ってくれる力となるものであることが必要となります。

こういった、万人の気持ちに納得感をもたらすことができるものである必要があります。
法の正当性は、限りなくすべての人が納得して同意できるようなものをベースとしている必要があります。

限りなくすべての人が納得して同意できるようなものをベースとしていなければ、法は人々に支持を得られる正当性を持つものにはならず、人々の「自ずと従おうとする気持ち」が引き起こされず、社会に作用する力も生まれず、確かな効力基盤をつくり上げることができないからです。


法が人々から承認を得られるような正当性を有するものとするためには、人々の「平穏に生きたい」との願いが充足されるような、自由や安全を求める意志に裏付けられたものである必要があります。
こういった様々なものを突き詰めていくと、法の正当性には、人々のより良い生活(生存活動)を目指そうとする意志(自由や安全への意志)に裏付けられていることが必要です。


このことから、法はその効力正当性のあり方を、「人権」という概念に集約しているわけです。この世の人間社会には、今まで存在しなかった新しい概念です。
人権概念は、人の「自由や安全への意志」を集約した概念です。

この配慮こそが、人々の最低限の自由や安全を確保するために、すべての人に「人権」という概念が存在すると仮定して生み出された憲法という法が本質的にもっている正当性のあり方です。

これが、その社会の人々の共通ルールを成り立たせるための中核に位置付けられた
「憲法」という法の効力の源泉となる正当性の根拠です
法の効力が生まれ、社会の中で通用する実力として成り立つ力となるのは、「人権」という概念を人々が有していることを前提とし、それが損なわれないように保障するための手段として「法」をつくることを人々が承認し、その仕組み採用し続けようとする意識によるものです。



<人権の正当性
 
強者の乱暴が横行するような社会や無秩序な闘争状態の社会に置かれたとき、自分の自由や生命が侵害されてしまう恐怖を感じます。

そのような状態を最低限防ぐため、人々は新しく「人権」という概念を生み出ました。
「人権」という概念は、強者の乱暴な力や強大な権力をコントロールできないことに対する人間の恐怖が生み出した概念です。
憲法は、もともとその憲法を打ち出した人々が持っている「人の人権を保障したい」という意志によって創造され、生み出されたものです。
憲法の中心にある人権保障実現への意志は、秩序が崩壊することによって起こる、人々の侵害に対する恐怖の心理的メカニズムに裏打ちされたものです。

「自由に安全に生きていきたい。平和に生きていきたい。すべての人々の自由や安全(人権)が保障されるようにしたい。」という人々の意志が、人権という概念を正当性の中核(基盤)とする「法」という決まりごとに変わるのです。
 
社会で、自由や安全が脅かされるような悲惨な事態が私たちの身に降りかかり、平穏な日常生活を奪ってしまうことが許されないようにするために、「人には人権がある」という合意をつくり、それを基にして法という制度をつくり上げたのです。

効力を持った法制度を生み出すための大本である憲法には、人の心に抱かれた人権保障への意志が「法」というルールに変わる過程が含まれています。

法の根本となっているものは、人の心の自由や安全を求める心理的なメカニズムを具現化してつくり上げられたものです。
法体系の制度をつくり出す大本となっているのは、人間の「心」や「思想」、「考え方」の部分です。
法の効力の正当性の基盤には、道徳や倫理、思想、哲学、心理学などの「人の心」と「法の観念(概念)」を結びつける(繋ぐ)背景があります。

(L 憲法は、哲学や心理学、倫理学、宗教学などの深い思考や学問上の合意を基に道徳的・倫理的な共生性
意志によって「人権」という概念の存在と価値と正当性をつくり出し、その人権を保障しようとする観念として法の作用を採用し、それを文面に現わした実定法の制度の枠組みとして正当性の根拠を有しているのです。)

憲法の「あらゆる法の上に存在する」という実質的な最高法規性の根拠となっているものは、人の心の奥深くにある自由や安全を求める意志が実定法に変わるところです。 

97条は、人々の「人権保障への意志」が集まり、「憲法」という実定法が生み出されるという過程を経て生まれたこの法こそが、あらゆる実定法に優越する最高法規性の権威の根拠となるということを示しています。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
第97条    この憲法が日本国民に保障する基本的人権は、人類の多年にわたる自由獲得の努力の成果であつて、これらの権利は、過去幾多の試錬に堪へ、現在及び将来の国民に対し、侵すことのできない永久の権利として信託されたものである。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
N
これが、「法」に効力を生み出す正当性の観念(根拠)となる『人権』という概念は、人のもっている意志の観念が生み出したものであることを示しているところです。
N
これは、憲法の人権保障を実現する法の作用の効力の大本は、本来的には憲法が形式的に文字として文章化され、意味を構成して制度化され、現実に実定法として存在する以前に、「人権を保障したい」という人々の意志によって生み出されているものであることを示しています。

この意志の観念が、憲法という法が生み出され、実定法として具現化され、効力を持ちはじめるものとなるための正当性の観念の原点です。

憲法に託した「人権保障を確実にしたい」という人々の意志は、恣意的な為政者によって人権が侵害され苦しい思いをしてきた先人たちが遥か昔から自由獲得の努力をつないで持ち続けてきたものです。
E
その人権を確実なものとして保障しようとする意志は、過去幾多の人権概念が侵害されてしまう危機があった際も、その試練を耐えて今日まで守り抜かれ、受け継がれてきたものです。
E
人権という概念は、文章化された概念上の法体系ができる以前に、人権を保障しようとする歴史的に形成された人々の意志や、高度に積み重ねられた哲学的な合意によって生み出されたものです。
E
この意志とその積み重ねられた合意こそが、近代立憲主義によって打ち出された憲法に含まれている「人権」という概念の存在と価値と正当性の本質となっているものです。
E
人権を守ろうとする憲法は、人権侵害の恐怖や苦悩を経験した者たちの精神活動によって極めて慎重に生み出されたものです。
E
人権という概念を新しく創造し、法という制度の枠組みを憲法として打ち出す心理学的、哲学的、思想的背景には、人権が侵害されてきた人類の恐怖や犠牲の歴史が含まれています。
E
今日の人権保障の水準は、人権という概念とその保障を確かなものにしようと積み重ねてきた先人の意志の成果が形作っているものです。
 


私たちの生活を規律する「法」というものの効力は、もともとは人権を保障しようとする人々の意志正当性から生み出され、今なお人々の心の意志から生み出され続けて成り立っているものです。

「人間の自由や安全を求める心の作用(意志)が法秩序を形成していく」という精神が抜け落ちてはいけません。

法の効力正当性を導き出すためには、その実質として「自由や安全(人権保障)を実現するために『人権』という概念をベースとして法秩序をつくり上げようとする人の意志」を背負っている必要があります。

文字情報でしかない条文の文言が、社会の人々の意識の中に「法」として生み出され、その意図が現実に具現化され続けていくよう機能し、効力の実体が生まれるものとするためには、「人権という概念の存在と価値と正当性」をつくり続けて守り抜く意志が必要です。
このことから、憲法の文言においても、人の自由や安全を求める(平和や平穏な生活への)根源的な意志を刺激することを重視し、憲法典が今後も人々の持つその意志を集める役割を担うように意図したものである必要があります。 


憲法は、人々が自由や安全を保障しようとする意図をもって、人権という概念の存在を認め、その合意を実行して自由や安全を実現するために、その人自身を含めたあらゆる人々や権力者の力を縛る法の秩序をつくろうとするものです。
L
そのため、結局その法の観念の本質となっているものは、人の心です。
法の効力の根源的な拠り所が、それを認識する一人ひとりの人の心ということは、やはり非常に不安定な性質を持っています。
「法」という観念の効力「人権」という概念の正当性の認識は、人の気持ちによって良くも悪くも変化してしまうからです。
人々の感情の浮き沈みによって自由や安全の質が左右されてしまう恐ろしさがあるのです。
そのため、極めて慎重な扱いが求められます。


P
このことから、法の観念を人々に分かりやすいように文章にして具現化し、実定法として確定的なものとして安定させる必要があります。また、人権については最低限の合意事として列挙して示し、多数決によっても決して奪うことのできないものとする必要があります。さらに、その内容が乱されることのないように、硬性憲法という改正のハードルを高く設定する仕組みによって硬く封印する必要があります。

人権の中核部分が決して壊してしまうことがないように、また、人々の一時の感情の浮き沈みや心の動きによって自由や安全の質(人権の質)が左右されてしまうことがないように、硬性憲法を打ち出す必要があるのです。
 
P
この封印を解くには国会の各議員の総議員の3分の2以上の賛成の発議によって国民に提案し、国民の国民投票による過半数の賛成が必要です。改正には理論上の限界がありますが、手続き上においては人々の倫理観以上の制約は存在しないため、高めのハードルを定めることで、人権保障の意図が壊れてしまうことがないように予防しようとしているのです。


<改正の限界>
しかし、憲法の正当性を裏付けている人権概念は、多数決原理によっても奪うことのできないものとしているものです。
憲法は、法律の立法をする際の多数決によっても決して奪うことができない人権概念の中核部分を定めたものとしているものです。

もし人権概念の中核部分を多数決で奪うことができるとしてしまったならば、人の持つ深い道徳心や倫理感、正義感に反する堪えがたい侵害による犠牲を生む恐れがあります。

そのため、
改正規定は「将来、社会の価値観が変化した事態に対応するためのもの」という建前に過ぎず、よっぽどのことがなければ改正しないことが前提のものです。

たとえ改正手続きの多数決原理を経たとしても、その改正内容が近代立憲主義の普遍的価値の建前に整合的でなければ、正当化することはできません。

たとえ憲法改正の国民投票で多数決原理の決定手続きを経たとしても、その改正内容が人権保障を目指す近代立憲主義の理念に沿うものでなければ、その法の正当性は十分ではありません。



<効力が失われる可能性>
たとえこの改正手続きの過程を通ったとしても、必ずしもその法の効力が成り立つわけではありません。
法は、たとえ改正されたとしても、その新しい法の意味を読み取り、そこに人々が正当性の権威を認めて自ずと従うことで初めて、社会の中で通用する実力として成り立ち、効力が生まれるものです。
文字情報としての法が単に改正されても、その法効力を認知して認めるのは機械やパソコンではなく、です。
もしその法から人権概念が奪われてしまったならば、人々の意識の中の法に効力を認める正当性の前提となっている基盤が損なわれてしまうため、その法それ自体の効力も弱まってしまいます。

その法の効力を認める主体の存立を脅かすような「人権概念の存在と価値と正当性の"らしさ"を損なってしまうような改正」は、人々の意識の中から人権概念を正当性の根拠として生まれる法の権威(魅力)が失われてしまい、人々に受け入れられるものとはならず、人々が自ずと従おうとしなくなることから、効力も弱まり、社会の中で通用する実力として成り立た
なくなってしまう恐れがあります。

憲法は、人権概念の存在と価値と正当性を宣言的に発することで、法の効力を人々の意識の中に生み出すための正当性の基盤としているものです。
人権概念は、憲法が文字情報に実定化される以前に存在するものとして正当性が宣言されているものです。
 



E
憲法という法は、一般的な法律のように効力が上位の法によって担保されているわけではありません。
そのため、機械的な手続きによって制定された途端にシステムとして機能することが人々に当然に認められ社会に通用するわけではありません。
法律のような後ろ盾のある法とは全く違います。
そのため、正当性の在り方は多数決原理のみにあるわけではなく、学術的につくり込まれた完成度の信頼性も重要な要素です。
E
◇ 憲法という法制度の大本の仕組みは、もともと何もない状態から歴史的、哲学的、心理学的な思想から「人権」という概念の存在と価値と正当性を人々の意識の中に創造することで、社会的に通用する実力としての法の正当性の基盤をつくり、法の効力を構築し存立させていくことです。
◇ 一方、法律の場合は、憲法中で制度として定められた多数決原理の手続きによってつくられることから、憲法の正当性を根拠としています。法律の下に生まれた会社などの組織制度の意思決定の正当性の仕組みも同様です。
E
「憲法」と「法律」は、背景にある考え方の基盤が異なっています。

「憲法」と「法律」とが同じ性質の法であると同視してしまうと大問題が起きてしまいます。

法制度の条文上のシステマチックで機械的なメカニズムの簡潔さを見ただけでつくり上げた法の解釈・適用や、多数決原理の手続きの形式的な仕組みにのみ法の正当性の根拠があると見なした法実証主義の憲法では、法の効力に関わる正当性の権威(価値)を人々から認められ、支持を得られる確からしさは不十分なものです。

そのような法からは、「人権保障を実現することを目的として機能するものが法である」という実質的な人権の存在と価値と正当性に裏付けられた法の正当性を導き出すことができません。


単なる形式的な多数決正当性の根拠としてつくった憲法では、人権保障というその法の目指している実質が失われたものとなってしまいます。

法に対するそのような考え方は不完全な理解です。

これは、
実質的に人々の人権の保障することができず、本来の憲法の姿を保つことができません。

L
憲法は、哲学や心理学、倫理学、宗教学などの深い思考や学問上の合意を基に道徳的・倫理的な共生性意志によって「人権」という概念の存在と価値と正当性をつくり出し、その人権を保障しようとする観念として法の作用を採用し、それを文面に現わした実定法の制度の枠組みとして正当性の根拠を有しているものです。
L
恐怖と苦悩の歴史的経緯や思想的、精神的経緯から生まれる人権保障の実現への意志と合意のないままに、法律を立法することと同じような感覚で単なる多数決原理の制度のみをその正当性の根拠と見なして憲法改正を行ってしまうことは、
改正後の憲法が、無理解な多数派や強者の理不尽な侵害から、少数者や弱者の自由や安全が侵害されてしまうことがないように守り抜く機能を有しないものに変わってしまう恐れがあります。
これは多数決の暴力や強者の乱暴が蔓延する人権を保障できない非常に危険な状態を招きうるものです。
 

憲法の保障しようとしている人権概念の存在や価値、正当性は、本来的には多数決によって生まれたものではありません。
人権概念の存在や価値、正当性それ自体は、法の形式的な手続きの多数決原理による決定で保障することはできないものです。
人権概念の存在と価値と正当性の本質をつくったものは、人々の心の奥深くにある自由や安全を求める意志によるものです。その人々の中でも、特に、実存主義的な価値相対主義の認識に至った者の道徳的・倫理的な共生性意志によって保たれているものです。
人権概念の存在と価値と正当性の本質をつくった実存主義的な価値相対主義の憲法制定権力(狭義)は、根源的には多数派ではありません。
人々を守る力としての法制度の効力の正当性の裏付けを「人権概念の存在と価値と正当性」とすることは、多数決原理のみによってはできません。なぜならば、多数決原理によっても奪うことのできない性質を人権という概念に含ませようとしているにも関わらず、多数決によって生まれる法によって人権の根拠が生まれるとするならば、結局多数決によって人権を奪うことも可能となり、人権の性質を保つことができないからです。
そのため、憲法の正当性の基盤を多数決原理のみにあると考え、多数決の手続きさえあれば改正の限界はないと考えることは、「人権の存在と価値と正当性」という法秩序そのものの正当性を裏付ける基盤を失わせることに繋がりやすく、人々の認識の中にある法に対して抱く「権威を認めて自ずと従おうとする気持ち」を損なわい、法の効力を十分に成り立たないものにしてしまう恐れがあります。
憲法改正を行うとしても、その内容が多数決原理の正当性よりも以前にある、人権概念(人権思想)の正当性によって生み出されるとする法の観念の大前提を壊すようなものとなってはいけません。


<改正の限界>
そのため、憲法改正の多数決の決定手続きでも、法の効力正当性の根拠となる人権概念の中核部分(価値相対主義に裏付けられた自然法の人権観(自然権)の建前)を変えることはできません。

憲法改正は、その人類が憲法を制定することで人の人権を保障しようとした本質的な意図を壊してしまった時に、著しい人権侵害が引き起こされてしまう危険性を十分に理解した上で行わなくてはなりません。




法の効力人権概念の正当性の権威と多数決>

法に対して、人々が「効力がある」と認める正当性の権威(価値)とは、人々の抱く人権概念の存在と価値と正当性の認識によるものです。
法は、この人権概念の存在と価値と正当性権威やその有益性を人々が認め、それを保障するために生み出された法に正当性があると感じ、人々が自ずと従うことによって、社会の中で通用する実力として成り立ちはじめるものです。
法の効力が存立する正当性の根拠となるものは、人権概念の存在と価値と正当性が人々に普及していることによるものです。
D
憲法の効力を生み出す正当性の根拠となっているものは、自由や安全を求める「人権保障実現への意志」を持った人々が、人々の認識の中に人権概念存在と価値と正当性を創造し、普及していることによるものです。


憲法の正当性を成り立たせている人権概念の存在と価値と正当性は、多数決原理の正当性によって生み出された観念ではありません。

━━━━━━━━━━━━━━━
D
法律を立法する際に多数決原理が採用されるため、一見多数決の手続きに正当性があるかのように見えます。
 
国会の立法権の行使について書かれた、憲法の第四章「国会」の条文を確認します。

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
    第四章 国会

〔議事の定足数と過半数議決〕

第56条 (略)
2 両議院の議事は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、出席議員の過半数でこれを決し、可否同数のときは、議長の決するところによる。

〔法律の成立〕

第59条 法律案は、この憲法に特別の定のある場合を除いては、両議院で可決したとき法律となる。
2 衆議院で可決し、参議院でこれと異なつた議決をした法律案は、衆議院で出席議員の三分の二以上の多数で再び可決したときは、法律となる。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
D
法律を立法する際の「多数決」という手段に正当性が認められるのは、憲法という最高の法の正当性によって多数決原理の決定方式が採用されていることによるものです。

多くの人の意識の中には、「多数決で決することが正当である」という認識があります。多数決原理に正当性があると考えがちなのは、それが民主主義的な価値観であり正当性があると考えているからであると思います。しかし、その認識それ自体をつくっている大本は憲法です。
その民主主義という前提を定めているものが憲法です。
この国(一定の領土)の社会基盤を形成している原因が憲法にあるのですから、その認識を持つに至る前提となっているのは憲法の影響を受けたものです。
そのため、もし「少数の意見で決する」という内容の憲法が打ち出されたならば、少数決になります。「国王の意見で決する」と憲法で決めたならば、国王の独裁になります。「年長者が決める」と憲法で定めたならば、やはりそうなります。
このように、憲法が打ち出される以前に、もともと「多数決」というものに何らかの正当性があるというわけではありません。

そのため、社会基盤の前提となっている憲法をつくり上げる際には、私たちが普段「正当性がある」と考えて行っている「多数決」という意思決定の方法それ自体の正当性がどこから生まれているのかという認識を問い直す必要があります。
━━━━━━━━━━━━━━━
 
人類が憲法を生み出して法制度を構築した究極の目的は人権保障にあります。
多数決原理の制度は、必ずしも人権保障に適した制度というわけではありません。
多数決原理の制度は、『人権保障を確実にする』ということを前提につくられたものではありません。
多数決原理の制度は、それによって必ず人々の自由や安全が守られ、人権保障が実現されていくという性質のものではありません。★
D
多数決原理」という決定方式は、立憲主義の人権保障を確実にする」という理念から生み出した憲法によって、民主主義の政治制度の考え方が生まれたことによりその下採用されている制度に過ぎません。
D
多数決原理の手続きの正当性は、「人権保障実現への意志」を持った人々によって生み出された「人権」という概念の存在と価値と正当性を中核として生み出した「憲法」という法の条文に書かれた文字の意味によって成り立っているものに過ぎません。

(D
多数決原理」という手続きの決定方式正当性は、「人権保障実現への意志」を持った人々によって生み出された「人権」という概念の存在と価値と正当性を中核として生み出した立憲主義の人権保障を確実にする」という理念から生み出した憲法」という法の条文に書かれた文字の意味によって成り立っている民主主義の政治制度の考え方の下採用されている制度に過ぎません。)

D
多数決原理は憲法によって採用されている方式です。
多数決原理によって憲法が生み出されているわけではありません。
多数決原理の制度の正当性は、憲法の正当性に頼って生み出されたものです。
D
多数決原理は、人権概念の正当性によってつくられた憲法の正当性が採用している制度です。

U
人権概念は多数決以前に存在するものとしてつくられています。
U
人権概念の存在と価値と正当性は、憲法が条文中で採用している多数決原理の正当性以前に存在するものとしてつくられた観念です。
U
立憲主義の人権保障の理念
正当性は、多数決原理の決定の正当性に優越するものとしてつくられています。
U
立憲主義の人権保障を確実にすることを目指す理念から生まれた憲法の正当性は、「多数決原理に絶対の正当性がある」という認識から生み出されたものではありません。★
U
憲法の役割であり存在価値である「人権を保障する」という法の作用の実質的な正当性は、憲法の条文に制度として書き込まれている単なる多数決原理によって生み出されているわけではありません。
U
憲法は、単なる形式的な多数決原理を絶対的な正当性の根拠と
見なして成り立っているわけではありません。
なぜならば、「人権」という概念は、多数決原理をもってしても奪えないものです。
 

例えば、人権概念から導き出される権利は、多数決に参加する権利も含んでいます。
現代の私たちが知らず知らずのうちに持っている民主主義という制度の多数決原理に参加できる権利の根拠は、人権概念を中核としてつくられた憲法の理念から発せられたものです。 (憲法15条)
この権利も、多数決で奪うこともしてはならないものであす。

多数決
原理の決定方式を採用し、多くの国民の意見を反映させることは、人権保障のなされた後のことです。




━━━━━━━━━━━━━━━
民主主義の「多数決原理の決定方式」を採用している)憲法の正当性は、一体何によって成り立っているのでしょうか。

「憲法」の効力正当性は、「法律」を立法するときのような「多数決原理」の手続き上の正当性によって生み出されているわけではありません。
憲法の効力基盤となる正当性の観念は、多数決原理に正当性があると考える観念によって成り立っているものではありません。
憲法の効力基盤となる正当性の観念は、学校で行われる多数決投票や会社組織での役員選出、定款変更、運営の意思決定などの多数決原理の手続き上の正当性とは異なるものです。


実定法として具現化されている憲法(法制度の仕組み)に実質的な効力
を生み出す力となっているのは、根本的に人々が「法に効力がある」と認める正当性の権威(価値)によるものです。
━━━━━━━━━━━━━━━


憲法の正当性を理解するためには、民主主義の多数決原理という法の条文上のルール以前にある人々の人権保障を求める根源的な意志を捉える必要があります。
憲法の正当性の根拠となっている人権概念は、憲法を生み出した人々の持っている「人権保障を確実にしたい」という人権保障を実現しようとする「意志」によって成り立っているものです。
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


民主主義の多数決原理しか知らず、立憲主義の人権保障の理念を理解していない者が、
「民主主義は多数決原理である。憲法も、手続き上の多数決原理によってすべて決することができる。たとえ自由が侵害されるようなどんなに酷い結果になったとしても多数決で決めたことには必ず従わなくてはならない。」と憲法改正についても単に多数決投票をすれば改正が可能であると考え、
多数決の投票原理に絶対的な正当性の根拠があると見なして憲法の精神をつくり変えてしまうことは、
憲法を打ち出すことですべての人に質の高い人権保障を実現しようと意図した本来的な立憲主義の理念が意図した法秩序の仕組みを壊してしまうことに繋がります。
これは、極めて危険なことです。

民主主義の多数決の投票原理は、人権と法の原理への理解を十分には持てていない「憲法改正も、法律を立法する際の国会会社組織、地域のコミュニティなど社会の一般的なコミュニティーでの多数決による意思決定と同じものだと思っている人」を含んでいるため、大きな危険性があります。

法に対してこのような認識枠組みしか有していない人が、よく理解しないままに多数決正当性を信じた投票行動を起こしてしまうと、その結果が、他者だけでなく、自分自身の人権をも奪ってしまうような事態になりかねないからです。

なぜならば、そのような人は、人権概念には「存在と価値と正当性がある」という前提が成り立つ原因となっている本質部分を解することができていないからです。

多数決原理だけで、人の自由や安全を保障しようとする憲法の価値を実現し、効力の基盤をつくっているとの考えを押し通すことは妥当ではありません。





<自己存立の基盤の否定>

多数決で勝っているからといって、強引に「多数決原理」を行使しようとする多数派の考えは、自らが支持し、その正当性の拠り所として信じている「民主主義の多数決原理」という価値観を成り立たせている『憲法』という法に含まれた「人権保障のための立憲主義」の理念に沿うものではなく、自己存立の基盤を失わせることから自己矛盾に陥り、正当性が生み出せないのです。


<自己存立の基盤の否定>

民主主義の多数決の決定を根拠に意思決定の正当性を頑なに主張する人がいます。

しかし、その民主主義の多数決の決定方式を採用しているものが憲法です。

そのため、多数決では憲法そのものを取り扱うには正当性が不足しています。

なぜならば、多数決によって憲法の内容の整合性を破壊してしまったり、憲法を廃止してしまったりすることができるならば、そもそもその憲法によって採用されている民主主義の多数決によってなされた決定それ自体の正当性さえも損なわせてしまうことになるからです。

そのため、憲法は民主主義の多数決原理ではその正当性を保障できないのです。

 ━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
人々の抱く法への信頼を保つこと ⇒ 法の効力を保つことに繋がる ⇒ なぜならば、法の効力は、人々が権威を認めて従うことによってしか成り立ちえないものだから

━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━
〇 法(憲法)の効力の発生原因  →  多数決原理ではない(多数決原理は間違った認識)
    ↓ 〔人々が自ずと従うこと〕
〇 法(憲法)の正当性の権威の発生原因
    ↓ 〔人権の存在と価値と正当性
〇 人権概念 の正当性の権威の発生原因
    ↓ 〔ないものをあるという気合い〕
〇 実存主義的な価値相対主義の道徳的・倫理的な共生性意志(寛容さ) ← 恐怖に裏付けられている


「人権保障実現への意志
=「人権概念の存在と価値と正当性を創造する意志
=「実存主義的な価値相対主義者の意志
=「憲法の人権概念の本質をつくった憲法制定権力者の意図」
━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━━


(構成メモ)

法の効力を持たせる必要がある 〇
 ↓
法の実力とは、人々に効力があると信じられ、人々が自然と従うことによって初めて成り立つもの 〇
 ↓
人々が認める正当性が必要 〇
 ↓

 (多数決は正当性の根拠となるのか)
 ↓
自由や安全を守ることへの合意に正当性を置く 〇
 ↓
それらを人権という概念に集約 〇
 ↓

 (人権と多数決の優劣)
 ↓
人権概念の存在と価値と正当性を創造することが必要 △ (意志によるもの)
 ↓
正当性が信じられるように人々の認識を運用することが必要 ✕
 ↓
自然法の人権観(自然権)として普及する都合の良さ ✕
 ↓
これを理解できる実存主義的な価値相対主義者の道徳的・倫理的な共生性意志によってなされるもの ✕
 ↓
人権概念を維持するために不断の努力が必要 ✕



多数決に正当性があるのか(作成中)

 

 学校で行ってきた多数決投票や組織での役員選出、定款変更、株式会社の運営などの習慣から、憲法という法も同じように多数決原理がその正当性を生み出す根源であると勘違いをしている人がいます。


 もともと社会生活上で形成する組織は、その組織の考え方に賛同しない場合は所属を辞めることができます。意見の違いで少数派となって不利益を受けることがあれば辞めればいいのです。また、会社など社会生活上の一般的な組織では基本的に人権を扱った意思決定をしているわけではありません。ここには生命・身体・財産などの著しい侵害の危険もありません。もし侵害されても、より上位の国家が存在する限りは、その組織は法に裏付けられた国家権力によって是正されるからです。


 しかし国家という集団は基本的に所属を辞めることができません。そのため、意見の違いが発生したときに自分だけその組織から簡単に脱退して抜けることができません。また、国家の意思決定によって、人権自体が損なわれたり、奪われたりした場合、生命・身体・財産に著しい侵害の危険があります。国家権力という国内最高の実力によって自由や安全が損なわれることとなった場合には、その行為を是正する方法が他に存在しないのです。


 国家という集団のそのような性質から、多数派の横暴によって少数派や意見の違う人の人権が侵害されてしまうことのないように配慮する必要が出てきます。この配慮こそがすべての人に人権を十分に確保しようとして生み出された憲法という法が本質的にもっている役割です。


 憲法という法を知るには、歴史的な事実としてあった人の生命・身体・財産を侵害されてしまう恐怖に目を向ける必要があります。歴史的にこの人権保障が確実でなかったことにより、何十万、何百万という数えきれない多くの命や自由が失われた犠牲がありました。今日の憲法は、世界中で起きたそれらのあまりに多い犠牲の上に、人権保障を確実にするために極めて慎重に生み出されたものです。


 そのため、憲法改正を取り扱う際は、その人類が憲法を制定することで人権を保障しようとした本質的な意図を壊してしまった時の著しい人権侵害の危険性を理解した上で行う必要があります。その自覚なく社会の一般的なコミュニティーや会社組織のような感覚で多数決制を絶対視して憲法を改正しようとすることには、過去にあった人権侵害の悲惨な歴史を繰り返すこととなり大きな危険があるからです。

 


 また、多数決を民主主義だと思っている人の誤解を解く必要があります。さらに、多数決で救えない人権が存在することを深く認識する必要があると思います。

 (裁判所という機関が法を使って紛争を裁断することも、多数決原理のみによって法の論理が成り立つわけではないということを前提として存在しているものであると考えられます。なぜならば、もし多数決原理が絶対的な法秩序を形成できるのであれば、裁判判決も多数決原理で決めることができるはずです。かつて三権分立ではなく、立法と行政だけで国家運営がなされており、司法(裁判所)のなかった国家も存在していたようです。しかし、裁判の迅速さを確保したり、多数決による判断では法秩序の安定性を維持できないなどの理由で廃止されてきた歴史があるようです。)

 



<構成メモ>

良質な憲法をつくり上げるためには、より妥当な人権認識や憲法観が求められます。
そのため、「人権とは何か。」という根源的な視点を十分に捉えて理解を形成していくことが必要です。
なぜならば、「どのような憲法をつくり出していくべきか」という憲法観は、それぞれの人が「人権」というものについてどのような認識を持っているかによって変わってくるものだからです。
━━━━━━━━
憲法と法律の正当性の根拠の違いや、憲法が守ろうとしている人権についての認識をさらに深めていくことが必要です。
━━━━━━━━
ここでは、「人権の正当性」と「多数決の正当性」の優劣について考えてみたいと思います。 

 

観念を具現化したことによるものです。)

憲法は、そもそも民主主義や社会主義、共産主義、独裁主義などの○○主義という国家スタンスの全く形成されていないルールなどが何もない無秩序な世界・土地(領域)の上に集まる「人」が、新しく体制をつくり上げるために革命的に打ち出す性質のものです。

そのようなもともとの何もない世界には、政策上の政治的な立場を表明するような思想や主義のまとまりはもともとありません。

憲法に込められた人権保障の意図の真意は、民主主義でもなく、社会主義でもなく、共産主義でもなく、独裁主義というような政治上の立場や制度の仕組みを示したものでもありません。憲法は、何らかの政策や政治的な主義を表明し規定するよなうものではないからです。


憲法は、○○主義とされる政策勢力や政治勢力の考え方以前にある人間の自由や安全を求め人権保障を実現しようとする意志が生み出すパワーをベースにした考え方によってつくられたものです。

そのもともと何もないような、人間の平和的で平穏な人権の保障された生活を実現しようとする意志しか存在していないと思われます。

 

 (国家という共同体は基本的に所属を辞めることができません。)

 

 一般的な会社のような、普段社会生活の中で形成する「同じような思いを持つ人たちが集まってつくられた組織」でも、基本的に直接的に人権の存否を扱うような重大な意思決定をしているわけではありません。
(国会が法律を立法するときには、人権の存否を扱うような重大な決定は含まれていません。)

 




この人権が侵害されることへの恐怖心を知らずしては、憲法に込められた人権保障を実現していく仕組みの意図の重さを理解することはできません。
人類が自由や安全を保障する単位となるそれまで存在しなかった「人権」という概念を獲得するためにどれだけの思いを抱き、どれだけの試練を受け、どれほどの犠牲のもとに現在の憲法がつくられたものであるかということに対して基本的な理解が必要となります。

歴史的にこの人権保障が確実でなかったことにより、何十万、何百万という数えきれない多くの命や自由が失われた犠牲があります。
今日の憲法はそのあまりに多い犠牲の上に、人々の最低限の自由や安全(人権保障)を確実にするために生み出されたものです。  


国家が人を管理するにあたって、


その制度枠組みが法学として扱われている部分です。

人権の正当性は多数決の正当性に優越します。

裁判所の人権救済機能もそうです。

立法・国会で行う政治は憲法の下で行うものです。行政・内閣も司法・裁判所も憲法の下で行うものです。

しかし、今は政治の多数決が憲法を越えようとしている。

人権思想と政治思想を混同してはいけない。

 

政治は憲法の下で行うものです。

なぜならば、人権保障のために政治を行うのであり、人権保障実現の意志は政治以前のものだからです。

政治に権力が集中し、人権が侵害されることがないように憲法で三権を分立し、歯止めをかけるのです。

政治が憲法を乗り越えようとしたり、改正しようとすることは権力の独占を招く非常に危うい兆候であることが多いということです。

多数決では救うことのできない権が存在することを深く認識する必要があります。

なぜならば、「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものだからです。

(裁判所という機関が法を使って紛争を裁断することも、多数決原理のみによって法の論理が成り立つわけではないということを前提として存在しているものであると考えられます。なぜならば、もし多数決原理が絶対的な法秩序を形成できるのであれば、裁判判決も多数決原理で決めることができるはずです。かつて三権分立ではなく、立法と行政だけで国家運営がなされており、司法(裁判所)のなかった国家も存在していたようです。しかし、裁判の迅速さを確保したり、多数決による判断では法秩序の安定性を維持できないなどの理由で廃止されてきた歴史があるようです。)

 

憲法改正の国民投票の多数決原理は、どうしても改正が必要な時のためのものです。しかも、それは人権保障を目的とした国家制度の正当性が国民の人権から導き出されていることを印象付けるかのように仮につくられたものでしかなく、その実質的な正当性の根拠は法律のように多数決原理では確実に保障することができないものなのです。なぜならば、「人権」とは、民主主義の多数決原理をもってしても奪えないものだからです。 それは、憲法改正によって生まれた法には法律のように人権侵害がなされる危険性に対して違憲審査を実施してその効力を是正する手段がないからです。そのため、憲法の規定の変更は極めて慎重な扱いを要します。よって、人権保障を実現するためにつくられた憲法制定権力の意図を越えるような改正は憲法原理として不可能であると解されています。もし憲法制定権力の意図した憲法原理の枠を越えるような改正が手続き上においてなされてしまったならば、それは既にその憲法の延長線上にある国家体制ではなく、革命的な新国家樹立となってしまうからです。




<簡易版まとめ>

法が効力を有するのは、人々がその効力を認めているからである。
人々が法に効力を認めるのは、自分を縛ることもあるが、本当にピンチの時に守ってくれるという確信があるからである。

この確信は、「私たちの『人権』を守ってくれるものが法である」という前提があるからである。

しかし、法実証主義的な法認識で法を見てしまうと、そもそも多数決原理が絶対の正当性となってしまう。

これは、「多数決の正当性」が「人権の正当性」を上回ることになってしまう。

すると、法は自分たちのピンチを必ず守ってくれるという人々の確信が失われてしまう。

そうなると、人々はそのような法に対して効力を認めたがらず、承認しなくなってしまう。

この事態は、法という秩序が社会の人々を結びつけておく求心力を失わせることとなってしまい、法の効力が成り立たなくなってしまう。

こうなると、法秩序そのものが失われ、強者の暴力や権力者の横暴に歯止めをかける術がなくなってしまうのである。

結果、社会は乱れ、人々は混乱に巻き込まれ、不幸な状態に陥ってしまうのである。

これを防ぐには、「人権の正当性」が「多数決の正当性」を確実に優越するという認識を普及しておく必要がある。

この合意が人々の認識から失われてしまったならば、途端に法秩序は崩れてしまうのである。

しかし、この合意を保つ際に難しいのは、「人権」という概念は、本来存在しない概念であることである。

「多数決によって一部の者やすべての者の人権を奪うことができる」と主張する者や、「人権など存在しない」と主張して乱暴を行う者との間に、常々緊張を強いられるのである。
そこで、それを知っている実存主義的な価値相対主義の認識を持った者が、「人権」という概念が存在し、価値と正当性があるかのように人々の認識の中に努めて普及し続けなければならないのである。
これは、自己利益のみを考えた多数決制のようなものではなく、すべての人の自由や安全を守ろうとする寛容性を根底に持った道徳的・倫理的な共生性意志によるものなのである。